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「開国と攘夷」下田の街レポート⑨ハリスとヒュースケンが見た富士山

2023年05月12日 | 歴史探訪<江戸と明治の歴史>

日米修好通商条約締結まで総領事ハリスの任務は、大統領の親書を直接将軍に手渡すことであった。ハリスは、下田奉行を通じて江戸幕府と粘りづよい交渉の結果、安政4年10月7日(1857年11月23日)に江戸へ出立した。

オリヴァー・スタットラー著「下田物語下」より

ハリス江戸登城の図

ハリスが通った江戸への道

 1857年11月23日(安政4年10月7日)玉泉寺を出て、中村の下田奉行所で行列を整え、大名行列さながらの江戸行きであった。ヒユースケンは勿論、中国人の召使い、下田で雇った2名の少年召使(村山滝蔵、西山助蔵)駕篭かき(ハリスは12人、ヒュースケンは8人)、護衛、旗持、下田奉行所の役人等々人数は250名とも350名とも言われている。 
 ハリスは特別注文の大型の駕篭を用意したが騎馬の時が多かった。ハリスの周りを固める助蔵、滝蔵や駕篭かきの羽織、法被には合衆国の紋章・バルドイーグルが染められていた。出発の23日は梨本の慈眼院泊まり、24日湯ケ島弘導寺泊まり、25日三島本陣泊まり、26日箱根の関所通過、小田原本陣泊まり、27日藤沢泊まり、28日川崎着、29日は日曜日で行列は動かず2日間とも川崎泊まり、30日江戸着、午後4 時ころ宿舎である九段坂下の蕃書調所へ入った。8日間の行程であった。

ハリスとヒュースケンの安政四年十月八日の日記から、富士山を見て感動した記述を抜粋したい。

「ハリス 日本滞在記 下」より 

一八五七年十一月二十四日 火曜日

 天城の頂上で休息した。そこから我々は下田、大島とその火山、並びに駿河簿、江戸灘などの美しい景色を眺めた。 
 下り道は、登りの時ほど験しくはなかった。 その約三分の二を、再び馬にのって下った。山か下ると、谷地がひらけて、眺めもよかった。天城山の南側で、私はたいへん綺麗な小爆布が懸っているのを見た。 
 一つの村を通りながら、私は既に満開になっている椿を見たが、花は白と赤の両方で、いず新も一重咲であった。 
 湯が島の村を通って、宿所の寺院へ向う途中、その道路から私は右へそれた。そして、その晦間、私は始めて富士山を見た。 
 それは名状することの出来ない偉大な景観であった。ここから眺めると、この山は全く孤立していて、約一萬フイートの高さで、見たところ完全且つ荘麗な園錐體をなして、聳えたっている。しかも、これと高さをくらべる附近の小山がないために、その實際の高さ以上になって見える。雪で蔽われていた。輝いた太陽の中で(午後四時ごろ)、凍った銀のように見えた。 
 その荘巌な孤高の姿は、私が一八五五年一月に見たヒマラヤ山脈の有名なドヴァルギリより又目ざましいとさえ思われた。 

「ヒュースケン 日本日記」より

一八五七年十一月二十四日(安政四年十月八日)
 谷間におりて、天城の山頂に去来する雲から外に出ると、田畑がひらけてくる。やわらかな陽ざしをうけて、うっとりするような美しい渓谷が目の前に横たわっている。とある山裾をひと巡りすると、立ち並ぶ松の枝間に、太陽に輝く白い峰が見えた。それは一目で富士ヤマであることがわかった。今日はじめて見る山の姿であるが、一生忘れることはあるまい。この美しさに匹敵するものが世の中にあろうとは思えない。 
 富士より三倍も高い山はある。スイスの氷河はたしかに印象的で、壮大である。ヒマラヤの最高峰、崇高なダウラギリ(2)は、神々しい額をはかり知れぬ高さに掲げている。しかしそれは周囲に立ちはだかる他の山々に登らなければ見ることができない。氷と氷河しかない世界で、どちらを向いても雪ばかりである。ところがここでは、ゆたかな作物におおわれた、はれやかな田園の只なかに、大地と齢を競うかのような松の林や、楠の老樹がミヤ、すなわちこの帝国の古い神々の洞堂に深い影をさしかけており、ゆったりと静まりかえったこの場景を背後から包みこむように、なにに警えょうもない富士ヤマのすっきりとした稜線が左右の均斉を保って空高くそびえたち、薄墨いろにかげる青い山肌の上方には清浄な白雪がまるでコイヌール(3)のようにタ陽にきらめいている。 
 私は感動のあまり思わず馬の手綱を引いた。脱帽して、「すばらしい富士ヤマ」と叫んだ。山頂に悠久の白雪をいただき、緑なす日本の国原に、勢威四隣を払ってそびえたつ、この東海の王者に久遠の栄光あれ! 並ぶものなきその秀容はねたましいほどだ。その雪の王冠は日本のもっとも高い山々の上にひとりぬきんでてそびえ、あれほど苦しんで越えてきた天城山も、いまはとるにたりない低山としか思えないのである。 
 ああ! 昔の友達が二十人もこの場にいたら! ヒップ、ヒップ、フレーを三回繰りかえして、けだかい富士ヤマをたたえる歓声が、周囲の山々にこだまするだろうに。 
 ほかのどこで見たのよりも、ここから見たこの山の姿がもっとも美しい。そこからほんのちょっとでその夜の泊りの寺、湯ケ島テンプル〔天城山弘道寺〕がある。部屋の窓から、この山のすばらしい姿をほしいままに眺めることができる。それをスケッチしてみたが、なんともお粗末で、富士ヤマには似ても似つかぬしろものだ。 
 今日は六里の旅。 
(2) 世界最高峰はェヴェレストであるが、かつてはダウラギリ山がそれとされていた。 
(3) 一〇九カラットの有名なダイヤモンド。

「30日江戸着、午後4 時ころ宿舎である九段坂下の蕃書調所へ入った。」となっているが、「蕃所調所」について、千代田区文化財係学芸員からの解説は後程記述する。

goo古地図の()には雉子橋御門の北側に「蕃所調所」がある。

木下栄三著「江戸城三十六御門重ね絵図」より

雉子橋御門の北側に蕃書調所がつくられたが、安政の地震による火災によって焼失したので、牛が淵に再建されたようである。木下栄三氏は「ハリス江戸滞在」と書いてある。

九段下交差点にある「蕃所調所跡」説明板

⑩に続く

 

 

 

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