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江戸城サロン「会津初代藩主 副将軍 保科正之と明暦の大火」

2019年04月13日 | 歴史探訪<江戸と明治の歴史>

NPO法人江戸城を再建する会主催の江戸城サロン 講演会「会津初代藩主 副将軍 保科正之と明暦の大火」を受講しました。
講師は歴史クラブ(北大宮)代表平川敏彦氏です。



休憩を挟んで前半は保科正之の人物像、後半は明暦の大火に於ける業績でした。
勉強になったことが幾つもありました。
一つ目は、老中が「水路は敵軍の進入路となる」と反対したが、保科正之は「民生の安定こそ大事」と玉川上水の実施を決断したことです。
二つ目は、明暦の大火で江戸城天守閣も焼け落ちたとき「江戸の人々の救済を優先するため天守閣の再建をしなかった」と聞いていましたが、「天守閣の再建を先延ばしをした」と言うことでした。後年天守閣の再建計画もあったが幕府の財政難で再建できなかったそうです。
三つ目は、「江島生島事件」の江島が門限に遅れたのは、平川門(通用門・不浄門)ではなく、商人が小間物商いのための木戸「七つ口」の門限に遅れたことでした。当時の申(さる)の時刻「七つ」(午後4時)が門限なので「七つ口」と呼ばれていた。
四つ目は、殉死を禁止したのが保科正之だったことでした。
保科正之の「三大美事」
①主人が死ぬと家臣も共に自殺する「殉死」を禁止し、②大名が裏切らないように妻子を「人質にとる制度」も廃止しました。③急死した大名の「末期養子の縁組」も認めて大名家取り潰しに歯止めをかけました。
昨年「明治150年シリーズ」最終回「西郷どんの幕末維新」で、「現龍院 殉死之墓」もガイドしましたが、「殉死の禁止」を始めて知りました。

長野県伊那市観光協会が編集発行したパンフレット「名君保科正之公」を講師が配ってくれましたので、その一部をアップします。
伊那市新宿区は、髙遠藩内藤家の屋敷跡「新宿御苑」が縁で友好提携都市となっています。
名君保科正之公の大河ドラマをつくる会」が発足しているようですが、福島県、山形県、長野県、埼玉県、東京都と、京都所司代の京都府と幅広く関係し、波瀾万丈の主人公保科正之なので、NHK大河ドラマになる要素は充分だと考えています。























(了)








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