6月23日は、沖縄県では「慰霊の日」である。1945年6月25日、大本営は沖縄作戦の終馬を公表した。
亡父は、第九師団第九輜重連隊の輜重兵だったが、関特演(関東軍特種演習)による第九師団満州移駐によって昭和16年(1941)に応召し、昭和18年(1943)に復員した。
しかし、満州に駐屯していた第九師団及び輜重兵第九聯隊は、沖縄進出ならびに台湾への抽出転用された。
満州牡丹江時代の亡父
陸軍大佐だった叔父から譲られた「追悼 金澤輜重兵聯隊」
「第九師団及び輜重兵第九聯隊の沖縄進出ならびに台湾への抽出転用」を読んでみた。(内容は「防衛研修所戦史室 編纂 戦史叢書」からの引用だと思われる。)
昭和19年(1944)6月15日、米軍はサイパン島に上陸を開始した。6月20日、大本営は関東軍司令部に対し、第九師団等を釜山付近に集結し、転用を準備すべきことを命令した。6月26日、関東軍第三軍の編成を除かれ、沖縄の第三十二軍の戦闘序列に入ることになり、8月10日、沖縄本島那覇港に入港した。長期の持久にも耐え得るように断面を大きくし、また爆風による被害を考慮して屈折を多くする構造とした「陣地構築」を開始した。12月に入ると転進のため集結を命ぜられた。12月28日、那覇港にて乗船。30日、台湾基隆港に上陸した。
昭和20年(1945)3月26日、米軍は沖縄県慶良間列島に上陸した。
第三十二軍は、六月三日ごろ概ね順調に新陣地の新配備につき、六月十一日からその陣地における最後の死闘に入った。十七日ごろ戦況は絶望的段階に入り、最早組織ある戦闘も行われなくなった。十九日、軍司令官は各方面に訣別を打電した。喜屋武半島複郭陣地における第三十二軍の抵抗も六月二十二日、遂に終馬となった。
軍司令官牛島満中将は参謀長 長勇中将と共に六月二十三日午前四時三十分、海岸に面する坑道陣地の入ロにおいて次の辞世の歌を詠じつつ日本古武士の礼式に則って切腹して果てた。
秋をまたで 枯れゆく島の青草は
皇国の春に 蘇へらなむ
矢弾つき 天地染めて散るとても
魂かへりつつ 皇国まもらむ
小禄地区における太田少将の指揮する海軍地上部隊もまた、六月十二、十四日全部隊突撃を敢行し、太田実少将およびその幕僚は十三日午前一時従容自決を遂げた。
敵が沖縄本島上陸以来、正に八十三日にわたる死闘の連続であった。
かくて沖縄は完全に敵の手中に帰し、該基地の米空軍は西日本一帯を制圧することとなり、また敵本土進攻軍の大基地と化した。
六月二十五日、大本営は沖縄作戦の終馬を公表した。
本作戦の特色と彼我の損害 この作戦の特色は、史上空前の大航空特攻作戦の遂行と国民の戦闘参加であった。数千の若人が祖国の難に赴き、 「機克く一艦を屠るべく装備不十分なる改修練習機を駈って、防空砲火の火ぶすまと敵機の遂撃網を衝いて、敢然として敵艦船に突入していった。また十七歳より四十五歳までの男子を始め、可憐なる男女中学生に至るまで義勇隊を組織し、戦闘、通信、衛生、後方等の各種勤務に参加し、文字通リ軍民一丸となって闘った。数万の老幼婦女子もまたこの死闘の渦中に巻き込まれて、将兵と運命を借にしたのであった。
本作戦における日本軍は島民義勇兵を含めて約九万名が玉砕し、さくらに島民非戦闘員の犠牲は実に一〇万に上った。軍の生存者は七千八百余名を数えたがその一半は負傷者であり、他の一半の多くは沖縄作戦終馬後、なお坑道陣地に立能もって抗戦を継続し、その中にはこの年の秋に及んだものがあった。 一方米軍の損害もまた四万九千名(内戦死一万一千四百名)に達し、米軍司令官バックナー中将も六月十八日午後、陣頭指揮に斃れた。米艦船攻撃のため使用された日本軍飛行機の延機数は、特攻機二、三九三(内陸軍機九五四)機を含め七、八五二(内陸軍機二、一一〇)機を数えた。敵艦船の撃沈破は約四〇四隻と報ぜられた。因みに戦後の資料により米軍艦船の実損害は沈没三六隻、損傷三六八隻なることが明らかになった。但し米航空母艦、戦艦、巡洋艦の撃沈は一隻もなかった。台風期直前にわたる沖縄作戦三カ月の敢闘は以上の如き数的戦果を超える重要なる作戦目的を達成した。すなわちこの敢闘により獲得せる貴重なる時により、後述する如く本土決戦作戦準備を概成し、敵の本土攻撃を遅延せしめた。その上敵を震憾せしめた本島軍民の敢闘は、敵をして本土攻撃を一段と慎重ならしめた。(傍線は管理人)
「本土決戦(決号)作戦」準備のために4月5日、第一、第二総軍司令部、航空総軍司令部が新設された。
米軍オリンピック作戦図
米軍コロネット作戦図
参考blog記事「敵艦船群ノ果敢ナル體當リ攻撃」陸軍特攻隊50名への“感状”受電綴。防研「市ヶ谷台史料」から
(了)