goo

■ 鎌倉市の御朱印-14 (B.名越口-9)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)から。


43.南向山 帰命院 補陀落寺(ふだらくじ)
鎌倉市観光協会Web

鎌倉市材木座6-7-31
真言宗大覚寺派
御本尊:十一面観世音菩薩
司元別当:(材木座)諏訪神社(鎌倉市材木座)
札所:鎌倉三十三観音霊場第17番、相州二十一ヶ所霊場第10番、新四国東国八十八ヶ所霊場第81番

補陀落寺は源頼朝公開基、文覚上人開山とも伝わる古義真言宗の古刹です。

鎌倉市観光協会Web、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。

補陀落寺は養和元年(1181年)源頼朝公が文覚上人を開山として建立、源頼朝公の御祈願所であったとも伝わる名刹です。

中興は、鶴岡八幡宮の供僧佛乗房浄國院賴基大夫法印(文和四年(1355年)寂)と伝わります。

もと京都仁和寺の直末で、その後鎌倉手広の青蓮寺の末寺となりましたが、後に京都大覚寺の直末となったようです。

補陀洛寺は別名を「竜巻寺」ともいい、幾度も竜巻や火災に遭っているようで寺伝類の多くは失われたといいますが、それでもいくつかの寺宝が伝わります。

「平家の赤旗」は、平家の総大将平宗盛が最後まで持っていたものとされ、頼朝公による奉納と伝わります。
平家の赤旗は春の「鎌倉まつり」期間中、公開されている模様です。

御本尊の十一面観世音菩薩立像は伝・平安時代作、薬師如来および両脇侍像(中尊は行基、脇侍は運慶作との伝あり)、伝・文覚上人裸形像などの尊像が伝わり、明治元年の火災でも仏像類がすべて無事であったといいます。

御本尊の十一面観世音菩薩は鎌倉三十三観音霊場第17番札所本尊、木造弘法大師坐像(秘鍵大師)は南北朝時代の作と伝わり相州二十一ヶ所霊場第10番の札所本尊です。
また、奉安の千手観世音菩薩は新四国東国八十八ヶ所霊場第81番の札所本尊です。

鎌倉三十三観音霊場の巡拝者はそれなりにいると思いますが、相州二十一ヶ所霊場、新四国東国八十八ヶ所霊場はどちらかというと「知る人ぞ知る」霊場で巡拝者は多くないと思います。

新四国東国八十八ヶ所霊場は川崎から横浜、そして逗子、鎌倉、藤沢と巡拝する神奈川県の弘法大師霊場(八十八ヶ所)です。

初番・発願は川崎大師(平間寺)、第88番の結願は鎌倉・手広の青蓮寺。
番外や掛所はなく、八十八の札所はすべて真言宗寺院です。
札所一覧は→こちら(「ニッポンの霊場」様)

新四国東国霊場はすこぶる情報が少なく、ガイドブックはおろかリーフレットさえみたことがありません。
そのわりにしっかりとした札所標が設置されていたりして、どうもナゾの多い霊場です。

新四国東国霊場で面白いのは、ふつう弘法大師霊場では御本尊ないし弘法大師が札所本尊となりますが、新四国東国霊場では別尊や境内仏が札所本尊となる例がみられることです。
当山でも新四国東国霊場の札所本尊は、寺院御本尊(十一面観世音菩薩)ではなく千手観世音菩薩となっています。

新四国東国霊場の鎌倉市内の札所はつぎの7箇寺で、宗派は真言宗大覚寺派、真言宗泉涌寺派、高野山真言宗と古義真言宗系です。
観光寺院はほとんどなく、この点からも新四国東国霊場が「知られざる霊場」であることがわかります。

第81番 南向山 帰命院 補陀洛寺 鎌倉市材木座6
第82番 泉谷山 浄光明寺 鎌倉市扇ヶ谷2
第83番 普明山 法立寺 成就院 鎌倉市極楽寺1
第84番 龍護山 満福寺 鎌倉市腰越2
第85番 小動山 松岩院 浄泉寺 鎌倉市腰越2
第86番 加持山 宝善院 鎌倉市腰越5
第88番 飯盛山 仁王院 青蓮寺 鎌倉市手広

詳細は■ 新四国東国八十八ヶ所霊場の御朱印-1をご覧くださいませ。


---------------------------------
「希代の怪僧」ともいわれる文覚上人の開山とあっては、触れないわけにはいきません。
長くなりますが文覚上人の事績を追ってみます

【神護寺】
文覚上人を語るとき、神護寺は外すことができません。まずはここから始めます。

和気清麻呂は、天応元年(781年)頃、国家安泰を祈願して河内に神願寺、山城に和気氏の私寺として高雄山寺を建立しました。
和気氏は仏教への帰依篤く、伝教大師最澄、弘法大師空海を相次いで自らの高雄山寺に招きました。

その縁もあってか弘法大師は唐から帰国の三年後、大同四年(809年)に京入りを果たされ、高雄山寺に入られました。
弘仁三年(812年)、弘法大師は高雄山寺で有名な金剛界結縁灌頂、胎蔵灌頂を開壇されるなど、弘法大師と高雄山寺は深い所縁があります。

天長元年(824年)和気氏は神願寺と高雄山寺を合併し、寺号を神護国祚真言寺(略して神護寺)と改め、弘法大師の保護もあって真言宗の名刹として寺勢を強めました。
しかし正暦五年(994年)と久安五年(1149年)の二度の火災で寺勢衰微し、文覚上人の頃には、わずかに御本尊の薬師如来を風雨に晒しながら残すのみであったといいます。

【文覚上人】 (以下「文覚」と記します。)
文覚の生没年は不詳ですが、源頼朝公(1147-1199年)と同時代の人です。
父は左近将監(遠藤)茂遠、俗名を遠藤盛遠といい、出自は摂津源氏傘下の渡辺党とみられています。

北面の武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていましたが、19歳で出家したといいます。
出家の理由として、同僚の源渡の妻・袈裟御前に恋慕し、誤って彼女を殺したのが動機といいますが、史実として疑う説もあるようです。

文覚は弘法大師を深く崇敬したといい、出家ののち諸国の霊場を遍歴・修行しました。
その修行は苛烈をきわめ「文覚の荒行」「荒法師文覚」として世に知られていたようです。
安達太良山や那智滝などに文覚荒行伝説が残ります。

仁安三年(1168年)、文覚は30歳のころ弘法大師所縁の神護寺の荒廃を嘆き、再興を決意して神護寺に入り、草庵を結び、薬師堂を建てて御本尊を安置し、弘法大師住坊跡である納凉殿、不動堂等を再建したといいます。

しかし、復興が意のままに進まなかったため、承安三年(1173年)文覚は意を決して後白河法皇の法住寺殿におもむき、荘園の寄進を強訴しました。
この強訴は法皇の逆鱗にふれ、文覚は伊豆に流されました。

ところで、どうして文覚の配所が伊豆だったのでしょうか。
この件についてはこちらの記事で興味ある説を展開されていますので、こちらも参考にしつつ考えてみます。

文覚が後白河法皇の逆鱗にふれて捕縛され、預けられたのは源仲綱ともいいます。
源仲綱は源三位源頼政を父とする摂津源氏で、文覚が出たという渡辺党の主家筋です。

源三位頼政は後白河天皇の皇子・以仁王と結んで平家打倒の兵を挙げたものの戦いに敗れ、宇治平等院で自害しました。
しかし、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えたのは頼政で、平家打倒・源氏挙兵に大きな道筋を拓きました。

【文覚と源頼朝公】
折しも伊豆には平治の乱で清盛の義母池禅尼の助命により辛うじて斬罪を免れた源頼朝公が隠栖され、源仲綱はその頃伊豆守となっていました。
文覚はこの様な背景から伊豆に配流されたという見方があります。

つまり、後白河法皇-以仁王-源三位頼政-源仲綱という平家打倒・源氏挙兵をもくろむラインがあって、このラインの総意により文覚は伊豆の源頼朝公のもとに送り込まれたという説です。

そうでもなければ、河内(清和)源氏とさほど近しくもない文覚が、頼朝公に熱心に源家再興を説いた動機がわかりません。

文覚は近藤四郎国高に預かりとなって、韮山東部の「奈古屋寺」に籠居しました。
ここは現在の天長山 国清寺の山手で、いまでも「文覚上人流寓之跡」として石碑が残されています。

このそばには頼朝公が文覚に建てさせたという毘沙門堂(安養浄土院/瑞龍寺授福寺)があり、いまは「国清寺の毘沙門堂」といわれています。
また、国清寺の御本尊・聖観世音菩薩は、奈古屋寺の御本尊であったとも伝わります。


【写真 上(左)】 国清寺
【写真 下(右)】 国清寺の御朱印

奈古屋寺と頼朝公の配所・蛭ヶ小島はほど近く、文覚が足繁く頼朝公を訪れたという逸話もうなづけます。

ともかくも頼朝公と文覚は親交を深め、文覚は頼朝公に源家再興を強く促したといいます。また、頼朝公は源家再興の暁には神護寺復興を約したとも。

治承二年(1178年)、中宮徳子の皇子出産による恩赦で文覚は赦免されました。
その後の数年間の消息が明らかでなく、いくつかの逸話が遺る由縁となっています。

すぐさま帰京し、後白河法皇の許しを得て治承四年(1180年)平氏追討の院宣を介して頼朝公に挙兵を促したという説もあります。

この類似パターンとして、『愚管抄』は治承四年(1180年)当時福原京にいた藤原光能を文覚が訪れ、頼朝公の上奏を後白河法皇に取りつぎ清盛公追討の院宣を出させるように迫ったとの伝聞を記していますが、『愚管抄』の筆者(慈圓僧正)はこれを否定しています。

一度は逆鱗にふれ伊豆に流された文覚ですが、後白河法皇に敬愛の念をいだいていた節があり、治承二年(1179年)平清盛公が法皇を幽閉したのを憤り、(院宣の有無はさておき)頼朝公に平家打倒を督促したという見方もあるようです。

寿永元年(1182年)後白河法皇の蓮華王院御幸の折、文覚は推参して直訴し、ついに正式に法皇の御裁許を得ました。
法皇は翌年、荘園を寄進せられ、寿永三年(1184年)には頼朝公も丹波国宇都荘ほかを寄進、文覚の神護寺再興はここに成ったともいいます。

『吾妻鏡』には、寿永元年(1182年)頼朝公の命により文覚が江ノ島の岩屋に弁財天を勧請とあるので、頼朝公の支援を得て東国でもいくつかの寺院を開創している可能性があります。

元暦二年(1185年)、今後の神護寺のあり方を定めた『(文覚)四十五箇條起請文』を起草して法王に上奏しました。
その内容は強訴を是認する内容を含むものでしたが、法王はこれを咎めることはなかったともいわれ、文治六年(1190年)には高雄山寺に法皇の御幸がありました。

文覚は神護寺復興と並行して東寺の復興、高野山大塔の復興にも関わったとされています。

建久三年(1192年)後白河法皇が崩御され、正治元年(1199年)に頼朝公が没すると文覚はその後ろ盾を失いました。

建久九年(1198年)、権大納言源(土御門)通親は文覚が東寺講堂の諸仏を勝手に動かしたとして咎め、佐渡に流しました。
この流罪はいわゆる「三左衛門事件」に絡むものとみられています。

この事件は正治元年(1199年)頼朝公逝去の直後、遺臣・一条能保・高能父子が源通親の襲撃を企てたとして逮捕された事件です。

外孫・土御門天皇を擁立して権勢を手にした源通親は、頼朝公の嫡子・頼家公の左中将昇進の手続きを強引に進めたところ騒動となり、後藤基清・中原政経・小野義成が頼家公の雑色に捕らえられ、文覚も検非違使に身柄を引き渡され、佐渡へ配流となりました。

しかし、「三左衛門事件」の連座で佐渡配流はいささか罪科が重すぎる感じがあります。
それに文覚佐渡配流は建久九年(1198年)、「三左衛門事件」は正治元年(1199年)とされるので、文覚の佐渡配流は「三左衛門事件」より前で、別の理由も考えられます。

Wikipediaには「『延慶本平家物語』には文覚が守貞親王擁立を企て、頼朝に働きかけたが実現しなかったという記述がある。(中略)通親に対する守貞親王派の不満が噴出したもので、頼朝死後の幕府首脳部は後鳥羽上皇との関係改善のために、守貞親王派の持明院家、一条家、文覚を切り捨てたのではないかと推測」「文覚の勧進事業で寄進されていた神護寺領が事件後に後鳥羽上皇に没収され、承久の乱で後鳥羽上皇が配流されると、今度は鎌倉幕府を介してその所領を与えられた後高倉院(守貞親王)が直ちに上覚(文覚の弟子で師の没後に神護寺再建の中心人物となった)へ返還されていることから、文覚を首謀者とする守貞擁立構想は実際に存在したとする見解も」などの記述があります。

文覚が守貞親王擁立を企て失敗して佐渡へ配流という説もあるようで、この説の方が遠流という重罪に見合っている感もありますが、真相は闇のなかです。

頼朝公は建久六年(1195年)あたりから息女・大姫の入内(後鳥羽天皇への輿入れ)を源通親と丹後局(後白河帝の側室)に画策しましたが、 建久八年(1197年)夏の大姫逝去によりその企ては潰えました。
このあたりの機微にも文覚が絡んでいたのかもしれません。

また、源通親は後白河天皇の第六皇女・宣陽門院の領する広大な長講堂領を実質的に管理していたとみられ、長講堂領を巡るさまざまな駆け引きに文覚が一枚噛んでいたのかも。

佐渡配流3年後の建仁元年(1202年)源通親が没すると、文覚は許されて京に帰りましたが、その間に文覚が保護していた平高清公(六代御前)が処刑されたため、文覚佐渡配流と六代御前処刑の因果関係を示唆する説もあります。

【文覚と平高清公(六代御前)】
寿永二年(1183年)、源義仲の攻勢を受けて平氏が都落ちをしたとき、平維盛公は妻子を都に残して西走しました。
維盛公の嫡子・高清公(六代御前、平正盛公から直系六代目で清盛公の曾孫)は母(藤原成親の息女、新大納言局)とともに京の大覚寺北に潜伏していましたが、平氏滅亡後の文治元年(1185年)に北条時政の捜索で捕らえられました。

平家の嫡流ゆえ、鎌倉に送られて斬首となるところ、文覚の助命嘆願が功を奏して処刑を免れ、身柄は文覚に預けられたといいます。
文治五年(1189年)六代御前は剃髪して妙覚と号し、建久五年(1194年)には文覚の使者として鎌倉を訪れ、大江広元を通じて鎌倉府に対して異心ないことを伝えました。

頼朝公は平治の乱後、六代御前の祖父・平重盛公が自身の助命に尽力してくれた恩として、六代御前をしかるべき寺の別当に任命しようと申し出たと伝わります。
(文覚は、六代御前を神護寺に保護したという説あり。)

六代御前は頼朝公-文覚上人の保護下にありましたが、正治元年(1199年)頼朝公逝去からほどなく処刑されたことになります。

なお、逗子市桜山8丁目に六代御前の墓と伝えられる塚があり、逗子市史跡指定地となっています。

【文覚と頼朝公の関係】
頼朝公は大江広元・中原親能はもとより、九条兼実、源通親ら有力公卿との関係も築き、朝廷ないし後白河法皇とのとりもち役として文覚を頼ったとは考えにくいです。

頼朝公は尊大な人物やアクの強い武将をしばしば粛清しており、この流れからすると個性が強すぎる文覚はすぐにも逆鱗にふれそうです。

また、文覚が保護した六代御前は平家嫡流の遺児ですから、猜疑心の強い頼朝公であれば平家再興の芽を摘むために真っ先に抹殺しているはずです。

ところが文覚も六代御前も頼朝公存命中は咎を受けず、むしろ頼朝公が保護していた感があります。

となると、頼朝公が損得勘定を度外視して文覚に惹かれるなにか、たとえば人間的な魅力とか、卓越した験力とか、そういうものが文覚には備わっていたのかもしれません。

【文覚と後鳥羽上皇】
建仁二年(1202年)「三左衛門事件」に連座して佐渡に配流されたという文覚を赦免し、召還したのは後鳥羽上皇とも目されます。
文覚は後鳥羽院政下で一時はポジションを得たともみられますが、建仁三年(1203年)後鳥羽上皇によって対馬国へ流され、途中、鎮西で客死したとも伝わります。

文覚対馬配流の理由については「文覚が上皇に暴言を吐き怒りを買った」「上皇より謀叛の疑いをかけられた」「文覚が後鳥羽上皇の政を批判した」などいろいろな説が見られますが定説はないようです。

後鳥羽天皇はすこぶる多才で果断な人物と伝わり、同様の個性をもつ文覚とはどうしても感情的に相容れなかったのかもしれません。

文覚の墓所とされる場所は神護寺裏山山頂のほか、隠岐や信州高遠など全国各地にあり、怪僧文覚の神出鬼没ぶりがうかがわれます。


晩年の文覚の活動はさながら「政僧」の趣で、その活動と人脈はあまりに複雑で整理がつかなくなるのですが、後ろ盾だった後白河法皇が没し、正治元年(1199年)に頼朝公が没するとその立場はきわどいものとなったことは容易に想像がつきます。
そして後鳥羽院政下で、その力を失ったことになります。

後白河法皇、後鳥羽上皇、源頼朝公、そして平家嫡流六代御前・・・。
動乱の時代をきらびやかな人脈のなかで生きた文覚は、『平家物語』の数々の名場面でも描かれ、その強烈な個性もあいまっていまも歴史のなかで光芒を放っています。


ながながと辿ってきましたが、源頼朝公開基、文覚上人開山とも伝わる補陀落寺は源平騒乱の歴史に彩られています。

『吾妻鏡』には、寿永元年(1182年)頼朝公の命により文覚が江ノ島の岩屋に辨財天を勧請とあるので、養和元年(1181年)創建の補陀落寺は江ノ島に先立つ開山とみられます。

養和元年(1181年)は、前年の富士川の戦いで平家軍と干戈を交え、これから平家軍との本格的な戦いがはじまるというタイミングです。

この時点での頼朝公の「祈願」が平家調伏、源氏戦捷であったことは容易に想像できるところで、これは『新編相模国風土記稿』の補陀落寺の項に「本尊不動(長三尺智證作、平家調伏の像と云ふ)」「卓圍(祭壇布)一張 頼朝の寄附にて、平家調伏の打敷(仏壇の荘厳具)と云ふ」とあることからも裏付けられます。

江の島岩屋の辨財天も、養和二年(1182年)頼朝公の奥州藤原氏征伐祈願のために文覚が勧請という縁起が伝わり、文覚による祈祷はいずれも験を顕したことになります。

このような文覚の験力も、頼朝公の信任を高めたとみられます。

補陀落寺の梵鐘(観応元年(1350年)鋳造)は、いまは松岡(北鎌倉)の東慶寺にあり、これは農民が当地の土中から掘り出したものといいます。
また、東慶寺の旧梵鐘は、韮山の日蓮宗本立寺にあるといいます。

材木座の補陀落寺の梵鐘が、かなり離れた松岡(北鎌倉)の土中から掘り出されるとは不思議なはなしですが、とにかくそういうことになっています。


東慶寺の梵鐘

また、当山の鎮守・寶満菩薩像(見目明神)は、五社神社と所縁をもつともいわれています。

いまは住宅地のなかにひっそりと佇む補陀落寺ですが、文覚を巡る物語や鎌倉幕府草創の歴史に思いを馳せ、巡ってみるのもまた一興ではないでしょうか。


-------------------------
【史料・資料】

『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
補陀落寺は南向山帰命院と号す 材木座の東、民家の間にあり。
古義の真言宗にて、仁和寺の末寺なり。開山は、文覺上人なり。
勧進帳の切たるあり。首尾破れて、作者も年号も不知。其中に文覺、鎌倉へ下向の時、頼朝卿、比来の恩を報ぜんとて、此寺を立られしとあり。
其後頽廃せしを、鶴岡の供僧頼基中略せしとなり。(中略)

本尊薬師・十二神、運慶作也。文覺上人の位牌あり。開山権僧正法眼文覺尊儀とあり。頼朝の木像あり。鏡の御影と云ふ。白旗明神と同じ體なり。同位牌あり。征夷大将軍二品幕下頼朝神儀とあり。

寺寶
八幡画像壱幅 束帯にて袈裟をかけ、数珠を持つしむ。冠より一寸ばかり上に日輪をゑかく。
寶満菩薩像一軀 八幡の姨なり。鶴岡にもあり。社家にては見目明神(ミルメ)と云ふ。
平家調伏の打敷壱張
平家赤旗壱流 幅二布、長三尺五分あり。九萬八千軍神と、書付てあり。(中略)

鐘楼跡
今跡のみ有て鐘もなし。当寺の鐘は、松岡東慶寺にあり。農民、松岡の地にて掘出したりと云ふ。銘を見れば、当寺の鐘なり。兵乱の時、紛散したるなるべし。

東慶寺(松岡)
鐘楼
山門外、右にあり。此寺の鐘は、小田原陣の時失して、今有鐘は、松岡の領地にて、農民ほり出したりと云う。銘を見るに補陀落寺の鐘なり。故に此鐘の銘は補陀落寺の條下に記す。

『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(材木座村)補陀落寺
南向山帰命院と号す 古義真言宗 往昔京都仁和寺に属せしが、今は手廣村青蓮寺末たり 開山は文覺にて養和元年(1181年)頼朝祈願所として創建あり
按ずるに、当寺に勧進帳の切あり、首尾破れて詳ならず、其中に文覺鎌倉へ下向の時、頼朝比来の恩を報ぜんとて、此寺を建られしとあり、思ふに此勧進帳の文は、中興の僧、頼基の作なるべし
其後頽廃せしを鶴岡の供僧頼基(鶴岡供僧次第に、佛乗房浄國院頼基大夫法印、文和四年(1355年)二月二日寂す、千田大僧都と号すとあり)中興せり(中略)

本尊不動(長三尺智證作、平家調伏の像と云ふ、按ずるに、【鎌倉志】には、本尊薬師とあり)及び薬師(長三尺七寸行基作)日光・月光・十二神(長各二尺八寸、共に運慶作)十一面観音(長三尺八寸許行基作、往昔の本尊なりと云ふ)地蔵二軀(一は鐡佛、長一尺許、門前の井中より出現せしと云ふ、一は弘法作、長一尺七寸)大黒(長尺許傳作)大日(長八寸許)賓頭盧(長三尺已上弘法作)等の像を置く、又頼朝の木像あり(長八寸許四十二歳の自作と云ふ)鏡の御影と称せり、同位牌あり 征夷将軍二品幕下神儀とあり文覺の書と云ふ)開山文覺の牌もあり(開山権僧正法眼文覺尊儀とあり)

【寺寶】
八幡画像一幅 束帶にて袈裟をかけ、數珠を持しむ、冠より一寸ばかり上に、日輪を畫
寶満菩薩像一幅 應神帝の姨にて、見目明神と称すとなり
卓圍(祭壇布)一張 頼朝の寄附にて、平家調伏の打敷(仏壇の荘厳具)と云ふ、孔雀鳳凰の繍文あり
旗一流 平家赤旗と称し、文字は相國清盛の筆と傳ふ(中略)
牛頭天王見目明神合社 大道寺源六周勝社領二貫三百文及び寺内修補の料を寄附せし事所蔵文書に見えたり
住吉社

鐘楼蹟
𦾔観應年間の古鐘あり。兵乱の為に亡失せしを後松岡ヶの農民地中より掘出し同所東慶寺に収むと云ふ。今尚あり。

■ 『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市)(抜粋)
南向山帰命院補陀落寺と号する。古義真言宗。もと京都仁和寺末。のち青蓮寺末。現在京都大覚寺末。開山は文覚上人、開基は源頼朝と伝える。後、鶴岡八幡宮供僧頼基が中興した。
本尊、十一面観音。もとの本尊は薬師如来。日光・月光、ほかに不動明王あり。
境内地163坪。本堂・門・庫裏あり。(中略)

開基は仏乗坊の八代及び十代で、建武三年六月に還補されているから、この寺の鐘ができた観応元年(1350年)には供僧であったこととなる。(中略)
『新編鎌倉志』は鐘銘及び寺号によって、本尊は観音であったはずであるといっている。
従うべきであろう。(中略)
当寺が頼朝と関係があることは前述の勧進帳に見えるのを初見とするが(中略)頼朝の供養をここですることになっていたらしい。(中略)
明治初年の火災で殆ど烏有に帰したが、その時誰も出した覚えがないのに、仏像類は全部無事であったという。大正十二年震災で全壊し、現在の本堂は大正十三年の建立である。


-------------------------



材木座の巨刹、光明寺にもほど近い住宅街にあります。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 石碑

山内入口に門柱で、その手前に「源頼朝公御祈願所●●補陀落寺」と彫られた石碑があります。


【写真 上(左)】 門柱
【写真 下(右)】 山内

山内は広くはないですが閑雅な落ち着きがあり、「荒法師開山」のイメージはあまりありません。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 寺号板

本堂はおそらく切妻造桟瓦葺平入りで、右手に寄せて流れ向拝を置いています。
向拝の柱や虹梁はシンプルですが、向拝柱に寺号標を掲げています。


【写真 上(左)】 庫裏への道
【写真 下(右)】 同 紫陽花


御朱印は庫裏にて拝受しました。
鎌倉三十三観音霊場、相州二十一ヶ所霊場、新四国東国八十八ヶ所霊場いずれの御朱印も拝受していますが、現況の授与状況は不明です。


〔 補陀落寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 弘法大師の御朱印(ご縁日)
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印

 
【写真 上(左)】 相州二十一ヶ所霊場の御朱印
【写真 下(右)】 新四国東国八十八ヶ所霊場の御朱印


44.円龍山 向福寺(こうふくじ)
公式Web

鎌倉市材木座3-15-13
時宗
御本尊:阿弥陀三尊
司元別当:
札所:鎌倉三十三観音霊場第15番

向福寺は一向俊聖上人開山と伝わる時宗寺院です。

公式Web、下記史料・資料、現地掲示から縁起沿革を追ってみます。

向福寺は弘安五年(1282年)、開山を一向俊聖上人として創建されました。
一向俊聖上人(1239年?-1287年?)は、鎌倉時代の名僧で時宗一向派の祖です。
儀空菩薩とも呼ばれます。
「新纂 浄土宗大辞典」および「Wikipedia」を参考にその足跡を追ってみます。


伝承によれば、筑後国竹野荘西好田(福岡県久留米市)の御家人草野永泰の次男として生まれたといいます。
永泰の兄草野永平は浄土宗鎮西派の聖光上人(弁長)に帰依し、建久三年(1192年)に久留米善導寺を建立した大檀越でした。

寛元三年(1245年)、播磨国書写山圓教寺に入寺して天台教学を志し、建長五年(1253年)に剃髪受戒して名を俊聖としました。

翌年夏に書写山を下り、奈良興福寺などで修行されるも悟りを得られず、鎌倉蓮華寺(光明寺)の然阿良忠上人の門弟となりました。

一向専念の文より号を一向と改め、文永十年(1273年)から各地を念仏聖として遊行回国し、踊り念仏(踊躍念佛)、天道念仏(天童念佛)を修して道場を設けました。
後年は遊行と踊り念仏で民衆を教化し、弘安一〇年(1287年)11月、近江国番場蓮華寺(滋賀県米原市)で立ち往生したと伝わります。

俊聖上人の教えは時宗一向派(天童派)として各地に広く伝わったため伝承も多く、ナゾの多い僧ともいわれます。
実在していないという説さえありましたが、近年山形県天童市の高野坊遺跡より出土した墨書の礫石経により、その実在が立証されています。

ただし、法統については諸説あり、浄土宗鎮西義の然阿良忠上人のほか、浄土宗西山深草派西山三派の祖・証空門下の顕性に師事したという説もあります。

一向俊聖上人を祖とする(時宗)一向派は時宗十二派の一つで、番場時衆、時宗番場派とも呼ばれ、本山は番場蓮華寺(滋賀県米原市)です。

「一向派」の呼称は、元禄一〇年(1697年)成立の時宗触頭・浅草日輪寺吞上人著の『時宗要略譜』が初見とされます。
『一向上人血脈譜』によると、上人には「十五戒弟」と称する弟子があり、東北、関東、甲信越を中心に布教をすすめて全盛期には末寺一七四箇寺を数えたといいます。

とくに山形県天童市の仏向寺は一向俊聖上人開山で、番場蓮華寺とならぶ中心寺院となっています。

江戸幕府の宗教政策により時宗遊行派の傘下に編入され、派内の本末論争などもあって衰勢となりました。
当初「一向宗」とし、江戸時代に「時宗」に吸収されたとする資料もみられます。

「新纂 浄土宗大辞典」には、明治36年時宗内で一向派の立場を認める『時宗宗憲宗規』が制定されましたが、昭和16年の一宗一管長制により、翌17年には一向派97箇寺中57箇寺が時宗より浄土宗に転宗、残る41箇寺は時宗にとどまったとあります。

向福寺は、おそらく時宗一向派(あるいは一向宗)から時宗となった寺院のひとつとみられます。

公益財団法人住友財団の公式Webによると、御本尊の阿弥陀三尊木像は中世(現地掲示資料では南北朝時代)作。檜材、割矧ぎ造ないし寄木造りで玉眼を嵌入しています。
脇侍の観世音菩薩、勢至菩薩とともに鎌倉市指定文化財に指定されています。

また、『鎌倉札所巡り』(メイツ出版)・現地掲示によると、当山本堂南側の部屋は、『丹下左膳』で知られる作家・林不忘(長谷川海太郎、1900年-1935年)が関東大震災前に新婚生活を送ったところです。


-------------------------
【史料・資料】

『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(乱橋村)向福寺
圓龍山と号す 本寺前に同じ(藤澤清浄光寺末) 本尊三尊彌陀を安ず 各立像、安阿彌作

■ 山内掲示(鎌倉市)
公式Webと重複するため略。

■ 『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市)(抜粋)
円龍山向福寺と号する。時宗。藤沢清浄光寺末。
開山、一向。
本尊、阿弥陀如来。
境内地229.7坪。本堂兼庫裏あり
『大正三年明細書』によれば文政九年に再建した本堂・表門があったが、大正大震災で全潰した。今の本堂は昭和五年の再建である。


-------------------------



小町大路「水道路」交差点から少し南下した右手の路地沿いにあり、あまり目立ちません。
門柱に「時宗 向福寺」となければ、ほとんど民家にしか見えません。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 門柱の寺号標

山内は緑が多く、植木鉢もきれいに並べられています。
参道正面の本堂は入母屋造銅板で身舎右手に向拝を附設しています。
本堂は庫裏とつながり、一見寺院建築のイメージはあまりありません。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂

向拝は水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、中備に板本蟇股を置いています。
ここまでくるとさすがに寺院本堂の存在感があります。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 観音霊場の札所板


ガラス格子の扉のうえに鎌倉三十三観音霊場の札所板を掲げています。

文政九年(1826年)再建の本堂は大正の関東大震災で全潰し、いまの本堂は昭和五年の再建とのことですが、そこまで古びた感じはないので手を入れられているかもしれません。

観音堂はなく、本堂向拝に札所板が掲げられているので、鎌倉三十三観音霊場第15番の札所本尊・聖観世音菩薩立像は、御本尊の阿弥陀三尊とともに本堂内に奉安とみられます。


御朱印は庫裏にて拝受しました。
御本尊と鎌倉三十三観音霊場の御朱印を授与されています。


〔 向福寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御本尊・阿弥陀如来の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印


■ 鎌倉市の御朱印-15 (B.名越口-10)へつづく。



【 BGM 】
■ Hearts - Marty Balin


■ If I Belive - Patti Austin


■ Late At Night - George Benson Ft. Vickie Randle
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« ■ 鎌倉市の御... ■ 鎌倉市の御... »