goo

■ ウクライナ難民支援御朱印  ~ 西上州の御朱印めぐり ~

2022/06/23 UP

いよいよ終盤。6/30までの授与(予定)です。
気合い入れれば2日で結願できると思います。

時間と興味のある方はぜひぜひどうぞ。

----------------------
2022/06/10 UP

群馬県の西部(西毛エリア・西上州)の安中市・高崎市・富岡市・甘楽町・下仁田町の曹洞宗18箇寺で現在ウクライナ難民支援御朱印が授与されています。

御朱印デザインはウクライナ国旗の青と黄を基調としたもの。
御朱印揮毫は各寺院とも「消災妙吉祥陀羅尼」の一節で、18箇寺巡拝の結願で「消災妙吉祥陀羅尼」が完成することになります。

御朱印代は、すべてウクライナ難民支援の浄財となります。
結願でお納めする金額(=ウクライナ難民支援に使われる金額)は、合計5,400円以上となります。

公式Web


↑ 当プロジェクト発足の経緯

1.期間:2022年4月8日~6月30日(予定)
2.御朱印代:300円以上
3.御朱印:原則書置にて授与
4.専用納経帳や台紙はとくにありません。

【記事】
上毛新聞Web
東京新聞Web

 
【写真 上(左)】 チラシ表面
【写真 下(右)】 チラシ裏面


地図


西上州(安中市・高崎市・富岡市・甘楽町・下仁田町・藤岡市)には、上野国一宮の一之宮貫前神社、運気上昇のパワスポとして知られる中之嶽神社、数多くの兼務社の御朱印を授与されている鷺宮 咲前神社(さきさきじんじゃ)などの神社があり、北関東有数のメジャー霊場、新上州・観音霊場三十三ヵ所の札所を8箇所数えるという、北関東屈指の御朱印エリアです。

西上州観光連盟は、域内の寺社や御朱印を紹介するリーフレット「西上州ご朱印めぐり にしじょたび」を作成・配布するなど、西上州は寺社や御朱印めぐりによる観光振興に積極的なエリアとして知られています。



このような素地もあって、「御朱印」を契機とする人道支援策が企画・発案されたのかもしれません。
西上州ご朱印めぐりのリスト(「ニッポンの霊場」様)


先日、結願しました。
雰囲気のある禅刹が多く、まわっていて心なごみます。
天気がよければ、新緑の妙義山や浅間山を間近に望みながらの巡拝ができます。

すべての寺院に駐車スペースがありますので、車での巡拝に問題なしです。
というか、山中のお寺さまもいくつかあるので、車じゃないと巡拝結願はむずかしいかと思います。



まわり始めると札番?は自然にわかるのですが、発願前には札番はわからない、という面白い霊場?でもあります。
また、非札所でこれまで御朱印情報がなかったお寺さまの御朱印を拝受できるチャンスでもあります。

ウクライナ支援御朱印の主印は三寶印ないし御寶印で、揮毫は経文なので完璧な御朱印ですが、こちらとは別に御本尊・別尊の尊格御朱印を授与されている寺院もあります。


【写真 上(左)】 幟
【写真 下(右)】 御朱印揃え


ご参考までに18寺院すべての写真と御朱印をUPします。
順番は「消災妙吉祥陀羅尼」の経文に沿いました。


1.正寿山 永隣寺


公式Web
富岡市下丹生1568-1
御本尊:十一面観世音菩薩

 
・尊格御朱印を書置でご用意されていました。


2.熊峯山 桂昌寺


安中市Web資料(PDF)
安中市下秋間112
御本尊:釈迦牟尼仏

 
・尊格御朱印を書置でご用意されていました。
・不動明王の御朱印も授与されています。


3.中法山 海源寺


公式Web
富岡市富岡150
御本尊:釈迦如来

 
・尊格御朱印は直書いただきました。ご不在時は拝受できないかもしれません。


4.月桂山 久昌寺


公式Web
安中市原市2989
御本尊:薬師如来

 
・尊格御朱印は常時授与されていないかもしれません。


5.友月山 向陽寺


甘楽町Web資料
甘楽町天引1401
御本尊:釈迦牟尼仏?

 
・尊格御朱印を書置でご用意されていました。


6.大泉山 補陀寺


群馬県Web資料
安中市松井田町新堀1186
御本尊:釈迦如来

 
・尊格御朱印を書置でご用意されていました。
・松井田城の御城印も授与されています。


7.白龍山 慈雲寺


安中市松井田町二軒在家876
御本尊:釈迦牟尼仏

 
・尊格御朱印は以前拝受したものです。現時点の授与状況は不明です。


8.鳳来山 光厳寺
 
公式Web
富岡市下高瀬731
御本尊:釈迦牟尼仏
札所:上野之國三十四カ所観音霊場第3番

 
・尊格御朱印は以前拝受したものです。現時点では尊格御朱印は原則不授与となっている模様です。


9.薬王山 宗泉寺


公式Web
安中市野殿867
御本尊:釈迦牟尼仏

 
・尊格御朱印は書置のものを拝受できましたが、常時ご用意されているかは不明です。


10.金鶏山 陽雲寺


富岡市妙義商工会Web
富岡市妙義町菅原29
御本尊:釈迦牟尼仏

 
・尊格御朱印は直書いただきました。ご不在時は拝受できないかもしれません。


11.祝融山 神泉院 長学寺


公式Web
富岡市上高尾700
御本尊:釈迦牟尼仏

 
・尊格御朱印は以前拝受したものです。現時点の授与状況は不明です。


12.八幡山 月光院 常安寺


公式Web
高崎市下豊岡町甲1405
御本尊:釈迦牟尼仏

 
・尊格御朱印は常時授与されていないかもしれません。


13.礒明山 松岸寺


安中市Web資料
安中市磯部4-4-27
御本尊:釈迦牟尼仏

 
・尊格御朱印は直書いただきました。ご不在時は拝受できないかもしれません。


14.弘誓山 長楽寺


下仁田町Web資料
下仁田町本宿3788
御本尊:釈迦如来
札所:東国花の寺百ヶ寺霊場第31番

 
・尊格(札所)御朱印を書置でご用意されていました。


15.青木山 護国院 長源寺


安中市上後閑2913
御本尊:釈迦如来

 
・尊格御朱印は以前拝受したものです。現時点の授与状況は不明です。


16.金谷山 天徳寺


甘楽町秋畑3596
御本尊:釈迦如来・阿弥陀如来
札所:小幡七福神(弁財天)

 
・尊格御朱印は以前拝受したものです。現時点の授与状況は不明です。
・御本尊御朱印は不授与の模様です。


17.洞谷山 角峯院 龍昌寺


公式Web
安中市安中2-7-19
御本尊:釈迦牟尼仏

 
・尊格御朱印は直書いただきました。ご不在時は拝受できないかもしれません。


18.泉谷山 福厳寺


公式Web
甘楽町善慶寺421-1
御本尊:釈迦牟尼仏
札所:小幡七福神(毘沙門天)

 
・尊格(札所)御朱印を書置でご用意されていました。複数の御朱印を書置にて授与されています。


まだまだ期間はありますので、興味のある方はトライされてみてはいかがでしょうか。


【 BGM 】 ~ 日本の歌姫特集 ~

■ Over and Over - Every Little Thing


■ Hello,my friend - 松任谷由実


■ ヒカリヘ - miwa


■ おもかげ - milet×Aimer×幾田りら (produced by Vaundy)


■ I Will Be There With You - 杏里/Anri(JAL 企業PV)


■ Fly High - milet


■ 潮見表 - 遊佐未森


■ 未来/mirai - Kalafina


■ 孤独な生きもの - KOKIA


■ Pray - 今井美樹


■ 歌の女神が舞い降りた国 / 美メロ&ハイトーン&透明感の癒し曲50曲
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

■ 箱根の御朱印

2022/06/21 UP
御朱印を数点、追加しました。

---------------------
2021/11/13 UP

先日、超ひさびさに箱根に行ってきました。
元箱根あたりは例年の秋の行楽シーズンに比べ、まだ人出はすくないと思います。
また、新型コロナ禍による御朱印授与制限はおおむね解除されている模様です。



箱根は関東有数の観光地で、箱根神社や箱根七福神があるためか、”御朱印のメッカ”のイメージもありますが、授与される寺社はさほど多くはありません。
(そもそも寺社の数が多くない。)
現況、Web上の御朱印情報は箱根神社など、一部のメジャー神社に集中しています。

御朱印を授与されている寺院もそれなりにあるのですが、拝受難易度はけっこう高く、Web検索でもなかなかヒットしません。
そこで、箱根周辺の御朱印情報を網羅的にまとめてみることにしました。

拝受数を稼ぐ向きは、寺社が集中する小田原市や南足柄市と併せて回るのも面白いかもしれません。
(今回のご紹介範囲は小田原市の一部と箱根町全域、そして小山町の一部とします。)

〔 関連記事 〕
■ 熱海温泉&湯河原温泉周辺の御朱印
↑ 早川方面はこちらでご紹介しています。

なお、こちらでご紹介する御朱印が現在も授与されているかは定かではありません。
(授与状況は寺社様のご都合により都度変動します。)
札所でない寺院も多く含むので、ご不在のケースも予想されます。
また、アプローチは概ね込み入って細く、Pも狭いところが多いので、車での参拝は細心の注意が必要です。
以上、ご留意をお願いします。

〔 温泉の関連記事 〕
■ 箱根二十湯制覇!


それでは、小田原市からいきます。


〔 小田原市の御朱印(一部) 〕



小田原市は関東でも有数の御朱印エリアで、すべてご紹介するとこの記事の主旨を外れるので、下記エリアのみとします。
・小田原城大手前から南西側(本町・南町)の東海道沿い、および城山4丁目、板橋、風祭、入生田あたりの箱根に向かう箱根登山鉄道沿線の寺社
※小田原城では、摩利支天の御朱印を拝受できます。(筆者未拝受)


■ 報徳二宮神社
公式Web 
小田原市城内8-10
御祭神:二宮尊徳翁
旧社格:県社、別表神社
元別当:
授与所:境内社務所

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:報徳二宮神社 直書(筆書)



■ 松原神社
神奈川県神社庁公式Web 
小田原市本町2-10-16
御祭神:日本武命、素戔嗚命、宇迦之魂命
旧社格:県社、小田原宿総鎮守
元別当:玉瀧坊・西光坊?
授与所:境内社務所

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:松原神社 書置(筆書)



■ 不老山 壽松院 無量寺
公式Web
小田原市本町3-13-53
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:足柄三十三観音霊場第33番(十一面観世音菩薩)、小田急武相三十三観音霊場第26番


〔拝受御朱印〕
1.足柄三十三観音霊場の御朱印 十一面観世音菩薩
※御本尊の御朱印の授与は不明。



■ 大恩山 知見院 妙泉寺
小田原市本町3-13-35
日蓮宗
御本尊:
札所:

〔拝受御朱印〕 ※御首題は筆者参拝時ご住職ご不在につき未拝受
1.「大恩山知見院妙泉寺」の御朱印


2.毘沙門天の御朱印



■ 青陽山 妙経寺(御幸ヶ浜)
公式Web
小田原市本町4-6-5
日蓮宗
御本尊:
札所:

〔拝受御朱印〕
1.御首題



■ 蓋子山 福田寺
公式Web
小田原市本町4-6-12
時宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 六字御名号



■ 醫王山 薬師院 圓福寺
公式Web
小田原市本町4-6-24
東寺真言宗
御本尊:不動明王
札所:小田原七福神(布袋尊)

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 不動明王

2.小田原七福神の御朱印 布袋尊



■ 妙珍山 蓮昌寺
小田原市本町4-5-19
日蓮宗
御本尊:
札所:

〔拝受御朱印〕
1.御首題



■ 稲荷山 一花院 大蓮寺
小田原市南町2-4-9
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:足柄三十三観音霊場第32番、小田原七福神(福禄寿)

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 阿弥陀如来
※足柄三十三観音霊場の御朱印不授与



■ 永刧山 最勝院 報身寺
小田原市南町3-11-3
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:足柄三十三観音霊場第31番、小田原七福神(恵比寿神)

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 阿弥陀如来
※足柄三十三観音霊場の御朱印不授与



■ 居神神社
公式Web 
小田原市城山4-23-29
御祭神:三浦荒次郎義意、木花咲耶姫命、火之加具土命
旧社格:旧山角町、旧板橋村の鎮守
元別当:庭松寺
授与所:境内社務所

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:居神神社 直書(筆書)



■ 水神社
公式Web 
小田原市城山4-23-29
御祭神:國之水分神
旧社格:-、居神神社境内社
元別当:
授与所:居神神社境内社務所

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:水神社 直書(筆書)



■ 宝聚山 随心院 大久寺
日蓮宗ポータルWeb
小田原市城山4-24-7
日蓮宗
御本尊:
札所:

〔拝受御朱印〕
1.御首題



■ 惺雄山 蓮船寺
日蓮宗ポータルWeb
小田原市城山3-31-15
日蓮宗
御本尊:
札所:小田原七福神(大黒尊天)

〔拝受御朱印〕
1.御首題


2.小田原七福神 大黒尊天



■ 大久保神社
神奈川県神社庁公式Web
小田原市城山3-27-7
御祭神:大久保忠世候、大久保忠眞候
旧社格:
元別当:
※参拝しましたが、境内に御朱印不授与の掲示がありました。



■ 象鼻山 御塔生福寺
日蓮宗ポータルWeb
小田原市板橋771
日蓮宗
御本尊:
札所:

〔拝受御朱印〕
1.御首題



■ 秋葉山 量覚院
小田原市板橋544
本山修験宗
御本尊:秋葉大権現
札所:

〔拝受御朱印〕
1.御本尊 種子(ボロン)


※御朱印の揮毫は種子(ボロン)とみられます。
ボロンは一字金輪仏頂の種子で、密教系でもことに特別な種子とされます。
秋葉大権現とボロン、ないし一字金輪仏頂との関係は不明ですが、種子ボロンがあらわされた貴重な御朱印と思われます。
思い出せる範囲では、ボロンの御朱印はこちらのほか、王子の金輪寺(豊島八十八ヶ所霊場第55番、御本尊一字金輪仏頂尊)でしか拝受したことがありません。 


■ 南谷山 香林寺
小田原市板橋908
曹洞宗
御本尊:薬師如来
札所:小田急沿線花の寺四季めぐり第27番

〔拝受御朱印〕
1.御本尊 薬師如来



■ 金龍山 宗福院(板橋地蔵尊)
小田原市板橋566
曹洞宗
御本尊:延命子育地蔵菩薩
札所:

〔拝受御朱印〕 ※香林寺にて拝受
1.御本尊 地蔵大菩薩



■ 玉正山 妙覚寺
小田原市風祭482-1
日蓮宗
御本尊:
札所:

〔拝受御朱印〕



■ 永禄山 寶泉寺
小田原市風祭918
臨済宗大徳寺派
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 釈迦牟尼佛



■ 長興山 紹太寺
小田原市入生田303
黄檗宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:小田急沿線花の寺四季めぐり第12番

〔拝受御朱印〕 ※現在、御朱印は原則不授与の模様(不授与の貼り紙あり)。
1.御本尊の御朱印 釈迦如来



〔 箱根町の御朱印 〕

■ 金湯山 早雲寺
箱根湯本観光協会Web
箱根町湯本405
臨済宗大徳寺派
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:

〔拝受御朱印〕 ※現在、御朱印は11月初旬の特別公開時のみ授与の模様。
今秋(2021年)は公開中止で御朱印も不授与とのこと。筆者御朱印未拝受。



■ 霊泉山 鎖雲寺(初花寺)
箱根湯本観光協会Web
箱根町須雲川147
臨済宗大覚寺派
御本尊:薬師如来
札所:

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 薬師如来



※須雲川にある箱根大天狗山神社およびその分院では御朱印が授与されている模様ですが、筆者は未拝受です。


■ 高榮山 守源寺
箱根ナビ
箱根町畑宿167
日蓮宗
御本尊:
札所:箱根七福神(大黒天神)

〔拝受御朱印〕
1.御首題


2.箱根七福神 大黒天神



■ 玉簾神社
天成園公式Web
箱根町湯本682
御祭神:御祭神:箱根大神(瓊瓊杵尊、木花咲耶姫命、彦火火出見尊)箱根大神、相殿に九頭龍大神・水波能売神・稲荷大神・恵比寿神
旧社格:
元別当:
授与所:天成園内自販機および授与所(orフロント?)


【写真 上(左)】 以前の授与所
【写真 下(右)】 多彩な御朱印が授与されていました


【写真 上(左)】 現在の授与所
【写真 下(右)】 御朱印の自動販売機

※以前は境内授与所で書家さんの揮毫による複数のカラフルな御朱印が授与されていましたが、現在は墨朱の書置御朱印のみ授与の模様。
授与所(orフロント?)と自動販売機での授与があり、揮毫はいずれも「玉簾神社」ですが若干内容が異なります。日付の書入れがほしい場合は授与所(orフロント?)で拝受します。
駐車場は天成園の立体駐車場を利用。30分以内の参拝ならば無料となります。(超過すると500円。)

〔拝受御朱印〕
1.御朱印揮毫:九頭龍神 直書(筆書)


2.御朱印揮毫:玉簾神社 直書(筆書)


3.御朱印揮毫:玉簾神社(授与所で授与) 書置(印刷?)


4.御朱印揮毫:玉簾神社(自販機で授与) 書置(印刷?)



■ 箱根出世地蔵尊
箱根町湯本682
宗派不明
御本尊:地蔵菩薩
札所:

※天成園庭園内に奉安されているお地蔵さまです。
玉簾神社の授与所(orフロント?)で拝受できます。

〔拝受御朱印〕
1.箱根出世地蔵尊の御朱印



■ 大慈悲山 福寿院(箱根観音)
箱根湯本観光協会Web
箱根町湯本茶屋182
曹洞宗
御本尊:開運出世慈母観世音菩薩
札所:

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 箱根観音



■ 阿育王山 阿弥陀寺(あじさい寺)
箱根湯本観光協会Web
箱根町塔ノ沢24
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:足柄三十三観音霊場第28番、小田急沿線花の寺四季めぐり第19番
※車でのアプローチ可(お寺下にPあり)ですが、急坂で道幅の狭い山道経由でおすすめしません。

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 黒本尊


2.御本尊の御朱印 黒本尊



■ 大光山 林泉寺
曹洞禅ナビ
箱根町大平台337
曹洞宗
御本尊:
札所:
※交通量の多い国道1号に面し、見通しの悪いカーブの途中に車両出入口があるので要注意です。

〔拝受御朱印〕
1.大平十一面観世音菩薩の御朱印



■ 養食山 常泉寺
公式Web
箱根町宮ノ下289
曹洞宗
御本尊:釈迦如来
札所:
※一方通行のアプローチ道は入口がわかりにくく、道幅も狭いので要注意です。

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 釈迦如来



■ 山王神社(福禄寿社)
箱根ナビ
箱根町二ノ平1297 箱根小涌園内
御祭神:
旧社格:
元別当:
札所:箱根七福神(福禄寿)
授与所:境内授与所
※Web上では「山王神社」の御朱印もみつかりますが、参拝時は「福禄寿」の御朱印のみとのことでした。

〔拝受御朱印〕
1.御朱印揮毫:福禄寿 書置(筆書) ※山王神社の印判あり




■ 大雄山 最乗寺 箱根別院
箱根町強羅1300-319-1
曹洞宗
御本尊:
札所:
※現在、こちらは寺務休止中とのことで、御朱印は授与されていない模様です。

〔拝受御朱印〕 
1.道了尊の御朱印
 

●詳細情報
■ (早雲山)温泉 「最乗寺箱根別院」 〔 Pick Up温泉 & 御朱印 〕


■ 阿字ヶ池弁財天
箱根ナビ
箱根町芦之湯
御祭神:弁財天
旧社格:
元別当:
札所:箱根七福神(弁財天)
授与所:旅館「きのくにや」フロント

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:阿字ヶ池弁財天 印判・書置 (平成28年9月)


2.御朱印尊格:阿字ヶ池弁財天 印判・書置 (令和元年9月)



■ 駒形神社
公式Web
箱根町箱根290
御祭神:駒形大神(天御中主大神、素戔鳴尊、大山衹神)
旧社格:
元別当:
札所:箱根七福神(毘沙門天)/境内社の毘沙門天社
授与所:境内社務所

〔拝受御朱印〕
1.御朱印揮毫:駒形神社 直書(筆書)



■ 毘沙門天社
公式Web
箱根町箱根290
御祭神:毘沙門天
旧社格:-、 駒形神社境内社
元別当:
札所:箱根七福神(毘沙門天)
授与所:駒形神社社務所

〔拝受御朱印〕
1.御朱印揮毫:毘沙門天 直書(筆書)



■ 到国山 無量壽院 本還寺
箱根ナビ
箱根町箱根223
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:足柄三十三観音霊場第34番、箱根七福神(寿老人)、小田急沿線花の寺四季めぐり第26番
※足柄三十三観音霊場第34番の御朱印は不授与とのこと。箱根七福神(寿老人)の御朱印は授与されています。

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 阿弥陀如来 (平成28年9月)


2.御本尊の御朱印 阿弥陀如来 (令和元年9月)



■ 箱根山 萬福寺
親鸞聖人を訪ねて
箱根町箱根228
真宗大谷派
御本尊:
札所:

〔拝受御朱印〕 
1.「箱根御舊地」の御朱印(記念印)



■ 興禅院
箱根ナビ
箱根町箱根125
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:

〔拝受御朱印〕 
1.関所庚申堂
※御本尊の御朱印は不授与とのこと。



■ 瑞龍山 興福院
箱根ナビ
箱根町元箱根26
曹洞宗
御本尊:釈迦如来
札所:箱根七福神(布袋尊)

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 釈迦如来


2.箱根七福神の御朱印 布袋尊


(3.白龍神社の御朱印)


※九頭龍神社本宮、箱根元宮、箱根神社の巡拝を「箱根三社参り」といいます。
このところ、「最強の神社巡り」として人気を集めている模様。




■ 箱根神社


公式Web
箱根町元箱根80-1
御祭神:箱根大神(瓊瓊杵尊、木花咲耶姫命、彦火火出見尊)
旧社格:国幣小社、別表神社
元別当:
札所:箱根七福神(恵比寿神)/境内恵比寿社
授与所:境内社務所

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:箱根神社 印判 (平成28年9月)


2.御朱印尊格:箱根神社 印判 (令和3年11月)



■ 箱根元宮


公式Web
箱根町元箱根 駒ヶ岳山頂
御祭神:箱根大神
旧社格:
元別当:
授与所:拝殿内授与所
※こちらの御朱印は、駒ヶ岳頂上の箱根元宮拝殿内でしか拝受できません。
原則毎月1日、24日の例祭および土日祝のみの授与で、荒天時は箱根駒ヶ岳ロープウェイが運休となるのでそのときも授与されません。参拝当日に箱根神社社務所(0460-83-7123)に問合せするのが確実と思われます。
また、御神職の在殿時間は原則10:00~15:00で、遅くとも14:20箱根園発に乗車する必要があります。


〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:箱根元宮 印判



■ 九頭龍神社新宮
公式Web
箱根町元箱根80-1
御祭神:九頭龍大神
旧社格:-、箱根神社境内社
元別当:
授与所:箱根神社社務所

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:九頭龍神社 印判



■ 恵比寿社
公式Web
箱根町元箱根80-1
御祭神:事代主神
旧社格:-、箱根神社境内社
元別当:
札所:箱根七福神(恵比寿神)
授与所:箱根神社社務所

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:恵比寿神 印判



■ 九頭龍神社本宮


公式Web
箱根町元箱根防ケ沢(箱根樹木園内)
御祭神:九頭龍大神
旧社格:
元別当:
授与所:箱根神社社務所

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:九頭龍神社 印判



■ 白龍神社
公式Web
箱根町元箱根和田ノ角(箱根樹木園内)
御祭神:白龍大神
旧社格:
元別当:
授与所:興福院(箱根町元箱根26)
※※白龍神社例大祭(6月13日)時のみ授与というWeb情報がありますが、興福院で常時授与されている模様。

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:白龍大明神 直書(筆書)



■ 龍虎山 長安寺
箱根ナビ
箱根町仙石原82
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:東国花の寺百ヶ寺霊場第91番、小田急沿線花の寺四季めぐり第30番

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 釈迦牟尼佛


2.東国花の寺百ヶ寺霊場の御朱印 釈迦牟尼佛


3.五百羅漢の御朱印



■ (仙石原)諏訪神社
公式Web
箱根町仙石原88
御祭神:建御名方命
旧社格:村社、旧仙石原村鎮守
元別当:
授与所:公時神社社務所

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:諏訪神社 印判



■ 公時神社
公式Web
箱根町仙石原1181
御祭神:坂田公時命
旧社格:村社、旧仙石原村鎮守
元別当:
授与所:公時神社社務所

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:公時神社 印判



〔 静岡県小山町の御朱印(一部) 〕

■ 足柄山聖天堂
小山町Web
小山町竹之下3649(足柄峠)
曹洞宗
御本尊:大聖歓喜双身天王
札所:
※隣の茶店にて書置御朱印を拝受
・かつて、東海道の箱根(足柄)越えは、足柄路(矢倉沢往還)、湯坂道(湯本~浅間山~鷹巣山~芦之湯~芦ノ湖箱根権現)、箱根八里(三枚橋~畑宿~芦ノ湖)の3つのルートがありました。
もっとも険しい湯坂道は、二所詣(鎌倉将軍の箱根権現と伊豆山権現の参拝)に使われ、かつての鎌倉古道とも伝わります。
時代が下ると距離の短い箱根八里が主街道となり、足柄路は脇街道の位置づけとなりました。
・足柄越えはもっとも古く、昌泰二年(899年)にはすでに足柄之関(関所)が設けられていたとされます。
また、寛治元年(1087年)頃、新羅三郎源義光公が兄八幡太郎源義家公の応援のため奥州に向かう際、笙の秘曲を笙の師匠の息子・豊原時秋に伝授した「新羅三郎義光吹笙之石」がこの地に残り、義光公も足柄越えを使ったことがわかります。
・こちらは足柄路の足柄峠に祀られる堂宇で、弘法大師が奉納されたと伝わる大聖歓喜双身天王が御座され、日本三大聖天(浅草聖天・生駒聖天・足柄聖天)のひとつともされる由緒ある聖天様です。

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 大聖歓喜双身天王



今回、令和3年4月28日に開通したての「県道731号/愛称:はこね金太郎ライン・南箱道路」を走ってみました。
この開通により、足柄峠~箱根仙石原という新たな周遊ルートができたことになります。(以前は、矢倉沢林道とも呼ばれ、箱根の道路大渋滞時に箱根から大井松田方面に抜けるエスケープルートとして一部で知られ、筆者も何回か使ったことがありますが、かなり手厳しい道路でした。)
今回、かなり補修はかけられているものの、線形はほぼ旧林道を踏襲しており、細かいカーブが連続します。初心者にはきびしいかもしれません。
(→道路の概要(県Web資料)

■ はこね金太郎ライン入口(松田側)


■ 和泉山 圓通寺
公式Web
小山町新柴292
曹洞宗
御本尊:馬頭観世音菩薩
札所:御厨観音横道札所第20番
・こちらの御本尊は足利将軍義教公の家臣、小栗判官助重公ゆかりの由緒ある「鬼鹿毛馬頭観世音菩薩」で、牛馬あるいは陸運の守護神として篤い信仰をあつめました。
・堂内には小田原・早川港で水揚げされた鮮魚を(おそらく箱根ないし足柄越えをして)甲州方面へ運ぶ奉納絵が掲げられています。
箱根山の陸運とも関係があると思われる古刹なので、こちらでご紹介します。

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 大悲殿(馬頭観世音菩薩)




■ (中島)金時神社
小山町観光協会Web
小山町中島 金時公園内
御祭神:坂田公時命
旧社格:
元別当:
授与所:駿河小山駅前観光案内所(「道の駅足柄」でも授与されているようです。)
・御祭神の坂田金時命は、金時山(足柄山地の最高峰、箱根外輪山の一峰)の麓で育ち、長じて源頼光公の家来として取りたてられ、渡辺綱・碓井貞光・卜部季武らとともに「源頼光四天王」の一人として大江山の酒呑童子退治をするなど、名声を高めました。(その実在については諸説あります)
・当社は坂田金時の生家の跡地といわれ、金太郎ゆかりの数々の名跡が残ります。
・箱根仙石原の「公時神社」に対してこちらの社号は「金時神社」。ともに御祭神として坂田公時命をお祀りしています。

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:金時神社 書置(筆書)




■ 鷹巣山 勝福寺
公式Web
小山町観光協会Web
小山町中島123-1
臨済宗円覚寺派
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:
・金太郎(坂田金時)の生家「坂田家」の菩提寺といわれます。

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 釈迦牟尼佛



【 BGM 】
■ 孤独な生きもの - KOKIA


■ 雪の華 - 中島美嘉 Cover.花たん(hanatan)


■ Mirai 未来 - Kalafina

数十人でユニゾンがあたりまえの時代に、わずか3人でこのテクニカルなハーモニー。


それにしても、日本の歌姫のレベルおそるべし!
いまの芸能界は優れた才能を粗末にしすぎ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2

文字数オーバーしたので、Vol.2をつくりました。

■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-1から


今回、この記事を書いていて感じたのは、史料・物語の扱いのむずかしさです。
鎌倉幕府草創期関連のメジャー史料として『吾妻鏡』があり、メジャーな軍記物語として『平家物語』(源平盛衰記)、『義経記』などがあります。
多くの人はこの時代について、これらの書物が合体した内容でイメージされているのではないでしょうか。(「鎌倉殿の13人」も『吾妻鏡』をベースに構成されているらしい。)

筆者は歴史を専攻したわけでも、歴史家でもないので、「史学」の外からなんのしがらみもなく眺めることができるのですが、「歴史」がわかりにくく、堅苦しくなっている理由のひとつに、”史料批判”あるいは”一次資料原理主義”があるのでは? と感じています。

”史料批判”の定義からして何説かありそうですが(笑)、まぁ、史料の正統性(信頼性)や妥当性について吟味評価すること、あるいは歴史にかかわる論述がこのような「正統な史料」にもとづいてなされているかを評価(批評)すること、というほどの意味ではないでしょうか。
なので、”一次資料”にもとづかない説は、それが卓越した内容を含んでいても、学問の世界では「根拠の正統性に欠ける」として顧みられない、あるいは”(学説ではなく)単なる歴史小説”として揶揄される傾向があるように感じています。

ふつう”一次史料”とは、当事者がリアルタイムで遺した手紙、文書、日記、あるいは公文書などで、後日や後世の編纂が入っていないものをいいます。(この時期でいうと『玉葉』(九条兼実)や『明月記』(藤原定家))
(”一次史料”は史料的価値が定まっているので使いやすいのだと思う。でも、手紙や日記には筆者の個人的主観が入っているので、かならずしも100%史実ではないような気もするが・・・。)
※ ご参考→「図書館司書のための歴史史料探索ガイド」(土屋直之氏/PDF)

『吾妻鏡』は二次史料(後世の編纂書物)とされ、異本もあるので「研究・解釈」する余地が多くあり「『吾妻鏡』の解釈・研究」についての研究があるほどです。
なので、ひとつの記述について、複数の解釈があることはめずらしくありません。
江戸期くらいになると一次資料はふんだんにありますが、鎌倉時代あたりではどうしても『吾妻鏡』などの二次(編纂)史料を使わざるを得ない(一次史料だけでは論理構成できない)、という背景もあるようです。

『吾妻鏡』は”史料”で、『平家物語』『義経記』は”物語”ですから、”史料批判”の立場からするとこれらの物語の記述などはとるに足らないものかもしれませんが、これらが人々に植え付けてきた”源平合戦”のイメージは否定できないものがあるかと。

じっさい、現地掲示板などでは、”史料”と”物語”混在の内容がけっこうみられたりします。(現地案内板は、それを読む民間人にとってはある意味「史実」。)
これらを整合して書こうとすると膨大な労力と時間がかかり、さらに対象となる御家人が150人近くもいるとなるとキリがないので、あくまでもWebや現地案内板などでメインとなっている内容(事実上の通説?)をかいつまんで、概要的にさらっとまとめていきたいと思います。

と、愚にもつかない言い訳をしつつ(笑)、さらにつづけます。


14.稲荷山 東林寺 〔工藤氏・伊東氏・曾我氏〕
伊豆88遍路の紹介ページ
伊豆・伊東観光ガイド
静岡県伊東市馬場町2-2-19
曹洞宗
御本尊:地蔵菩薩(阿弥陀三尊とも)
札所本尊:地蔵菩薩
司元別当:葛見神社(伊東市馬場町)
他札所:伊豆八十八ヶ所霊場第27番、伊豆二十一ヶ所霊場第17番、伊豆伊東六阿弥陀霊場第2番、伊東温泉七福神(布袋尊)
授与所:庫裡

藤原南家の流れとされる工藤氏は、平安時代から鎌倉時代にかけて東伊豆で勢力を張り、当初は久須見氏(大見・宇佐見・伊東などからなる久須見荘の領主)を称したともいいますが、のちに伊東氏、河津氏、狩野氏など地名を苗字とするようになりました。

東伊豆における工藤(久須見)氏の流れは諸説あるようですが、これがはっきりしないと菩提寺である東林寺の縁起や『曽我物語』の経緯がわかりません。
いささか長くなりますが整理してみます。

工藤(久須見)祐隆は、嫡子の祐家が早世したため、実子(義理の外孫とも)の祐継を後継とし伊東氏を名乗らせました。(伊東祐継)
他方、摘孫の祐親も養子とし、河津氏を名乗らせました。(河津祐親)

伊東祐継は、嫡男・金石(のちの工藤祐経)の後見を河津祐親に託し、祐親は河津荘から伊東荘に移って伊東祐親と改め、河津荘を嫡男・祐泰に譲って河津祐泰と名乗らせました。
(河津祐親→伊東祐親)

一方、工藤祐経は伊東祐親の娘・万劫御前を妻とした後に上洛し、平重盛に仕えました。

工藤(久須見)氏は東国の親平家方として平清盛からの信頼厚く、伊東祐親は伊豆に配流された源頼朝公の監視役を任されました。

娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸をもうけたことを知った祐親は激怒し千鶴丸を殺害、さらに頼朝公の殺害をも図ったとされます。
このとき、頼朝公の乳母・比企尼と、その三女を妻としていた次男の祐清が危機を頼朝公に知らせ、頼朝公は伊豆山神社に逃げ込んで事なきを得たといいます。

なお、北条時政の正室は伊東祐親の娘で、鎌倉幕府第二代執権・北条義時は祐親の孫にあたるので、鎌倉幕府における伊東祐親の存在はすこぶる大きなものがあったとみられます。

工藤祐経の上洛後、伊東祐親は伊東荘の所領を独占し、伊東荘を奪われた工藤祐経は都で訴訟を繰り返すものの効せず、さらに伊東祐親は娘の万劫を壻・工藤祐経から取り戻して土肥遠平へ嫁がせたため、所領も妻も奪われた祐経はこれをふかく恨みました。

安元二年(1176年)、奥野の狩りが催された折、河津祐泰(祐親の嫡子)と俣野五郎の相撲で祐泰が勝ちましたが、その帰途、赤沢山の椎の木三本というところで工藤祐経の郎党、大見小藤太、八幡三郎の遠矢にかかり河津祐泰は落馬して息絶えました。
祐親もこのとき襲われたものの離脱して難をのがれました。

伊東祐親は、嫡子河津祐泰の菩提を弔うため当寺に入って出家、自らの法名(東林院殿寂心入道)から東林寺に寺号を改めたといいます。
なお、当寺は久安年間(1145-1150年)、真言宗寺院として開かれ、当初は久遠寺と号しました。
天文七年(1538年)に長源寺三世圓芝春徳大和尚が曹洞宗に改宗しています。

治承四年(1180年)頼朝公が挙兵すると、伊東祐親は大庭景親らと協力して石橋山の戦いでこれを撃破しました。
しかし頼朝公が坂東を制圧したのちは追われる身となり、富士川の戦いの後に捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられ、義澄の助命嘆願により命を赦されたものの、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」といい、養和二年(1182年)2月、自害して果てたとされます。
以後、東林寺は伊東家累代の菩提寺となりました。
また、伊東氏の尊崇篤い葛見神社の別当もつとめていました。

河津祐泰の妻は、5歳の十郎(祐成)、3歳の五郎(時致)を連れて曾我祐信と再婚。
建久四年(1193年)5月、祐成・時致の曾我兄弟は、富士の巻狩りで父(河津祐泰)の仇である工藤祐経を討った後に討死し、この仇討ちは『曽我物語』として広く世に知られることとなりました。

祐泰の末子は祐泰の弟祐清の妻(比企尼の三女)に引き取られ、妻が再婚した平賀義信の養子となり、出家して律師と号していましたが曾我兄弟の仇討ちの後、これに連座して鎌倉・甘縄で自害しています。
(なお、平賀氏は清和(河内)源氏義光流の信濃源氏の名族で、源氏御門葉、御家人筆頭として鎌倉幕府草創期に隆盛を誇りました。
この時期の当主は平賀義信とその子惟義で、惟義は一時期近畿6ヶ国の守護を任されましたが、以降は執権北条氏に圧され、惟義の後を継いだ惟信は、承久三年(1221年)の承久の乱で京方に付き平賀氏は没落しました。)

工藤祐経の子・祐時は伊東氏を称し、日向国の伊東氏はその子孫とされています。

-------------------

【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山内

伊東市街の山寄りに鎮まる旧郷社・葛見神社のさらに奥側にあります。
伊豆半島の温泉地の寺院は路地奥にあるものが多いですが、こちらは比較的開けたところにあり、車でのアクセスも楽です。
伊東氏の菩提寺で、伊東温泉七福神の札所でもあるので観光スポットにもなっている模様。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂扁額

山門は切妻屋根桟瓦葺、三間一戸の八脚門で、「東林寺」の寺号板と「稲荷山」の扁額。
山内向かって左手に鐘楼、正面に入母屋造桟瓦葺唐破風向拝付きの本堂。
大がかりな唐破風で、鬼板に経の巻獅子口。刻まれた紋は伊東氏の紋としてしられる「庵に木瓜」紋です。
兎の毛通しの拝み懸魚には立体感あふれる天女の彫刻。

水引向拝両端には正面獅子の木鼻、側面に貘ないし像の木鼻。
中備には迫力ある龍の彫刻を置き、向拝上部に「東林禅寺」の寺号扁額が掛かります。
本堂には御本尊のほか、伊東祐親・河津祐泰・曽我兄弟の位牌や伊東祐親の木像、頼朝公と祐親の三女八重姫との間に生まれた千鶴丸の木像を安置しているそうです。

本堂向かって右の一間社流造の祠は伊東七福神の「布袋尊」です。
堂前に樹木は少なく、すっきり開けたイメージのある山内です。

河津三郎の墓、曽我兄弟の供養塔は鐘楼左の参道上にあり、東林寺の向かいの丘の上には伊東祐親の墓所と伝わる五輪塔(伊東市指定文化財)があるそうです。

御朱印は右手の庫裡にて拝受しました。

 
【写真 上(左)】 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印
【写真 下(右)】 伊東七福神(布袋尊)の御朱印


■ 伊東温泉 「いな葉」の入湯レポ
■ 伊東温泉 「湯川第一浴場・子持湯」の入湯レポ


15.葛見神社 〔伊東氏〕
伊豆・伊東観光ガイド
静岡県伊東市馬場町1-16-40
御祭神:葛見神、倉稲魂命、大山祇命
旧社格:延喜式内社(小)論社、旧郷社
元別当:稲荷山 東林寺(伊東市馬場町、曹洞宗)

葛見神社は伊東市馬場町に御鎮座の古社で、東林寺にもほど近いところにご鎮座です。
創建は不詳ですが延長五年(927年)編纂の延喜式神名帳に記された式内社「久豆弥神社」とされているので、社暦はそうとうに古そうです。

境内由緒書には「伊東家守護神、往古、伊豆の東北部を葛見の荘と称し、当神社はこの荘名を負い、凡そ九百年の昔、葛見の荘の初代地頭工藤祐高公(伊東家次・・・伊東家の祖)が社殿を造営し、守護神として京都伏見稲荷を勧請合祀してから、伊東家の厚い保護と崇敬を受けて神威を高めてきました。」とあります。


【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 拝殿

平安時代から当地に拠った工藤氏、伊東氏の崇敬篤く、伊東氏の菩提寺・東林寺はその別当でした。

主祭神は葛見神。伏見稲荷大社の分霊を勧請合祀しています。
伊豆屈指の名社で、明治初頭に郷社に列格しています。


【写真 上(左)】 大樟
【写真 下(右)】 御朱印

延喜式内社だけあり、境内はさすがに神さびた空気が感じられます。
境内の大樟は樹齢千数百年ともいわれ、治承四年(1180年)、石橋山の戦いで破れ窮地におちいった頼朝公が根本の空洞で身を隠したとも伝わり国指定天然記念物に指定されています。

御朱印は社務所にて拝受しましたが、常時授与されているかは不明です。


16.飯室山 大福寺
〔浅利冠者義遠(義成)〕
浅利与一没後800年 特設ページ(山梨県中央市)
山梨県中央市大鳥居1621
真言宗智山派
御本尊:聖観世音菩薩(創立御本尊は不動明王)
札所:甲斐国三十三番観音札所第11番、甲斐百八霊場武州八十八霊場第49番

浅利与一は、『平家物語』の源平合戦最後のハイライト、壇ノ浦の戦いで「遠矢」を放った弓の名手として知られています。

源平合戦で与一を名乗り「三与一」と賞された3人の武将は、佐奈田(真田)与一、那須与一、そして浅利与一(余一)で、いずれも単なる「弓の名手」ではなく、れっきとした武家の統領とみられます。

浅利与一の正式な名は浅利(冠者)義遠(義成とも)。
清和源氏義光流の逸見清光の子とされ、兄弟には逸見光長、武田信義、加賀美遠光、安田義定など、錚々たる顔ぶれの甲斐源氏が揃います。

源平合戦では富士川の戦いから壇ノ浦の戦いまで転戦し、奥州出兵にも参加、↓で板額御前が捕えられた建仁元年(1201年)の城氏の乱にも出兵しています。
有名な「遠矢」の場面については→こちら(中央市Web史料)をご覧ください。

また、義遠は越後の豪族城氏の女傑、板額御前を娶ったことでも知られています。
板額御前については→こちら(中央市Web史料)でくわしく紹介されています。

二代将軍源頼家公治世の建仁元年(1201年)、城小太郎資盛の反乱で弓の名手として活躍した資盛の叔母、板額御前は敗戦後捕らえられ鎌倉に送られました。
剛勇だけでなく美貌も謳われた板額御前は、頼家公以下御家人居並ぶなかに引き出されましたが、いささかも臆することなく毅然たる態度を崩さなかったそうです。

その翌日、義遠はこの板額を嫁に貰い受けたい旨を頼家公に願い出て許され、板額は義遠の室となって甲斐に居住し、浅利氏の跡継ぎを設けたと伝わります。
木曽義仲の側妾・巴御前と並ぶ女傑として賞され、「巴板額」(ともえはんがく)ということばが伝わります。

鎌倉幕府草創期、安田義定、一条忠頼、逸見有義、板垣兼信、秋山光朝など甲斐源氏の主要メンバーがつぎつぎと排斥されていくなかで、御家人中枢の立場を守り抜き、しかも敵将の息女の貰い受けを将軍に直訴するとは、甲斐源氏の一員としての微妙な立場を考えると、ある意味際立った立ち回りともいえます。
義遠は壇ノ浦の勲功もあってか奥羽比内郡地頭職を拝領しており、浅利氏は比内地方(秋田県北部)にも定着しました。

また、子孫の浅利信種は戦国期に活躍、奉行、箕輪城の城代、西上州への侵攻と勤め、後北条氏との三増峠の戦いで討死。
家督は嫡男の昌種が引き継ぎ、のちに浅利同心衆は土屋昌続に仕えて、昌続が天目山の「片手千人切り」で奮戦戦死したのち、嫡男の土屋忠直は大名に取り立てられ土屋家は明治まで大名家として存続しました。

浅利氏の本拠は甲斐国八代郡浅利郷(いまの山梨県中央市(旧増富村))で、義遠の墓所は浅利山 法久寺および飯室山 大福寺とされ、大福寺は御朱印を拝受しているのでこちらをご紹介します。


【写真 上(左)】 大福寺の本堂
【写真 下(右)】 大福寺本堂の扁額

大福寺は天平十一年(739年)行基の開創とされる古刹。
あたりは浅利義遠の舘で、建暦元年(1211年)、浅利家の菩提寺として伽藍を再建、寺領を寄進したとも伝わります。
甲州武田家の祖・武田信義の孫(義遠の甥)、飯室禅師光厳の再興ともいいます。
シルクの里公園に隣接し、本堂と観音堂は点在気味に離れてややとりとめのない印象ですが、かつては七堂伽藍を整えたという名刹です。

平安期作とされる「木造聖観音及び諸尊像」および「木造薬師如来坐像」は県指定有形文化財。
義遠の墓所とされる「浅利与一層塔」も県指定有形文化財に指定されています。


【写真 上(左)】 大福寺の観音堂
【写真 下(右)】 大福寺の薬師堂

本堂は朱塗り柱が印象的な近代建築で扁額は山号寺号。
観音堂は入母屋造銅板葺妻入りとみられ、妻方向に桟瓦葺の向拝を付設するいささか変わった形状ながら、観音霊場札所らしい華やいだ雰囲気をまとっています。

御朱印は本堂よこの庫裡にて拝受できますが、ご不在の場合もあるようです。

  
【写真 上(左)】 甲斐国三十三番観音札所の御朱印
【写真 下(右)】 甲斐百八霊場武州八十八霊場の御朱印


17.金色山 吉祥院 大悲願寺
〔平山左衛門尉季重〕
東京都あきる野市横沢134
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所:多摩新四国八十八ヶ所霊場第59番、東国花の寺百ヶ寺霊場第10番、武玉八十八ヶ所霊場第1番、秋川三十四所霊場第21番、武蔵五日市七福神(大黒天)

源平合戦での活躍で知られる鎌倉武士をもう一人。平山左衛門尉季重です。

鎌倉殿の御家人には、「武蔵七党」と呼ばれる武蔵国を中心とした同族的武士団の面々も多くみられます。
諸説ありますが「武蔵七党」とは、おおむね横山党、猪俣党、野与党、村山党、西党(西野党)、児玉党、丹党(丹治党)、私市党、綴党などをさすようです。

平山季重は西党(日奉氏)に属した武将で、多西郡舟木田荘平山郷(現東京都日野市平山周辺)を領したといいます。

保元元年(1156年)の保元の乱で源義朝公、平治元年(1159年)の平治の乱では義朝公の長男義平公に従い平重盛軍と対峙しました。
義朝公敗死後は平家方となりましたが頼朝公挙兵に呼応し、富士川の戦い、佐竹氏征伐にも従軍し戦功を挙げています。

源平合戦では宇治川の戦い、一ノ谷の戦いでは義経公配下として奇襲に加わり、勝利のきっかけを作ったとされます。
屋島の戦い、壇ノ浦の戦いでも奮闘して武名を高めましたが、戦後、後白河法皇の右衛門尉任官に応じたため頼朝公の怒りを買い、公から罵られたという記述が残っています。

しかし、大事には至らず筑前国原田荘の地頭職を拝領、奥州合戦でもふたたび戦功を挙げて鎌倉幕府の中枢に入りました。
建久三年(1192年)の源実朝公誕生の際には、”鳴弦”の大役を務めています。


【写真 上(左)】 日野宮神社
【写真 下(右)】 日野宮神社の御朱印

西党の党祖、日奉宗頼は高皇産霊尊の子孫といわれ、日野市の日野宮神社に御祭神として祀られています。
このような家柄、そして源平合戦での華々しい戦歴から「弓の弦を強く引き鳴らして魔を祓う儀式」、鳴弦(めいげん)の役を命じられたのかもしれません。


【写真 上(左)】 宗印寺の山門
【写真 下(右)】 宗印寺の本堂

 
【写真 上(左)】 宗印寺の御本尊(武相卯歳四十八観音霊場)の御朱印
【写真 下(右)】 宗印寺の日野七福神(布袋尊)の御朱印

季重の墓所は日野市平山の大沢山 宗印寺とされますが、ここでは開基に頼朝公も絡んだとされる、あきる野市の金色山 大悲願寺をご紹介します。


【写真 上(左)】 大悲願寺の本堂
【写真 下(右)】 大悲願寺の仁王門天井絵

大悲願寺は聖徳太子が全国行脚の際、この地に一宇の草堂を建てたのが草創という伝承もありますが、建久二年(1191年)源頼朝公が檀越(施主)となり、僧澄秀を開山として平山季重が創建とされます。
関東管領足利基氏・氏満父子から寺領二十石の寄進、徳川家康公からも二十石の御朱印を受け、近隣に末寺32ヶ寺を擁したという寺歴をみても、源頼朝公の関与があった可能性があります。

『新編武蔵風土記稿』の多磨郡小宮領横澤村の項には「開基ハ右大将賴朝ナリトイヘド タシカナル證迹ハナシ サレド貞治ノ頃平氏重(平山季重?)カ書寫シテヲサメシ大般若アルヲモテ フルキ寺ナルコトシルヘシ」

山林を背に伽藍が壮麗な並びます。
本堂は元禄年間の築で、入母屋茅葺型銅板葺。説明板には「書院造り風の方丈系講堂様式」で「内部は六間取形式」とあります。
名刹の本堂にふさわしい堂々たる構えで都の指定有形文化財。

 
【写真 上(左)】 大悲願寺の観音堂
【写真 下(右)】 大悲願寺観音堂の向拝上部

向かって左奥の観音堂は寛政年間の築で、寄棟造茅葺型銅板葺に復原され、彫刻類も新たに彩色が施されて見事です。
とくに正面欄間の地獄極楽彫刻が見どころとされます。
堂内の「伝阿弥陀如来三尊像」は平安末期~鎌倉の作とみられ、国指定重要文化財に指定されています。

他にも仁王門格天井の天井絵、中門(朱雀門)、五輪地蔵、梵鐘など多くの見どころがあります。

 
【写真 上(左)】 大悲願寺の多摩新四国霊場の御朱印
【写真 下(右)】 大悲願寺の東国花の寺百ヶ寺霊場の御朱印

御朱印は雰囲気ある庫裡で拝受できます。
複数の霊場の札所ですが、現在は多摩新四国八十八ヶ所と東国花の寺百ヶ寺の2種類が授与されている模様です。


18.古尾谷八幡神社/寳聚山 東漸寺 灌頂院
〔源頼朝公・古尾谷氏〕

別記事、■ 源頼朝公ゆかりの寺社をみると、源頼朝公ゆかりの寺社は鎌倉・三浦半島を中心に相当数みられます。
ところが神奈川県外となると、その数はぐっと少なくなります。

埼玉県に至っては、ほとんどWebではヒットしません。
埼玉県内には、比企氏、畠山氏、熊谷氏、河越氏、武蔵七党など有力御家人が多く、寺社の創再建はこれらの武家たちが担っていたからかもしれません。

---------------------------
ところが、再建ながら頼朝公が直々に関与したと伝わる寺社が、埼玉県川越市にあります。
古尾谷八幡神社と、その別当、寳聚山 灌頂院です。


古尾谷八幡神社
埼玉県川越市古谷本郷1408
御祭神:品陀和気命、息長帯姫命、比売神
旧社格:県社、旧古尾谷庄総鎮守
元別当:寳聚山 東漸寺 灌頂院(川越市古谷本郷、天台宗)

寳聚山 東漸寺 灌頂院
埼玉県川越市古谷本郷1428
天台宗
御本尊:阿弥陀如来
司元別当:古尾谷八幡神社(川越市古谷本郷)
札所:小江戸川越古寺巡礼第4番

ともに川越市古谷本郷の地に隣接してあります。

〔 古尾谷八幡神社 〕


【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 拝殿

拝殿前配布の由来書には下記のとおりあります。
「創建 貞観四年(863年)比叡山延暦寺第三代坐主円仁来り法を修するの時、神霊を感じ神社を建て、これを天皇陛下に申し上げ石清水八幡宮の分霊を奉じ来たりてお祀りした。(略)当時、古尾谷庄は石清水八幡宮の荘園であった。」
「再建 元暦元年(1184年)源頼朝公古尾谷八幡神社に来り霊場を見、旧記を聞き、祭田を復し祭典を興した。文治五年(1190年)奥羽征伐の際陣中守護を当社に祈り鎮定の後社殿を再建した。」

『新編武蔵風土記稿』の入間郡古谷本郷の項には、「当社ハ元暦元年源頼朝勧請シ玉ヘルヨシ」とあります。

『埼玉の神社』(埼玉県神社庁)には「古尾谷荘は鎌倉期に京都の石清水八幡宮の荘園とされたが、これは源氏の八幡信仰と深くかかわり、開発は在地領主である古尾谷氏であると思われる。古尾谷氏については、鎌倉幕府の御家人として登場し、吾妻鏡には承久の乱の折宇治川の合戦で活躍している。また、この後も古尾谷氏は当地の領主を務め、中世当社の盛衰はこの古尾谷氏とともにあった。社記によれば、天長年間慈覚大師が当地に巡錫し灌頂院を興し、貞観年中再び訪れて神霊を感じ、石清水八幡宮の分霊を祀ったのに始まると伝え、祭神は、品陀和気命・息長帯姫命・比売神である。元暦元年に源頼朝は天慶の乱により荒廃した社域を見て、当社の旧記を尋ね、由緒ある社であるので崇敬すべしとして、祭田を復旧して絶えた祭祀の復興を計り、また、文治五年には奥羽征討のため陣中祈願を行い、鎮定後、社殿を造営する。次いで弘安元年、藤原時景は社殿を再営、梵鐘を鋳造して社頭に掛けた。」とあります。

『入間郡誌』にも「元暦元年源頼朝祭田を復し、祭典を起し、文治二年奥羽征討の際来て祈願する所あり。凱旋後大に宮殿を造立せり。それより弘安元年、藤原時景と云ふ者、暫く此地を領し、社殿の頽廃を復し、梵鐘を鋳て社頭に掲げたり」

さらに、古尾谷八幡神社旧本殿(川越市Web)には、「古尾谷八幡神社は、貞観年間(859から877)に、石清水八幡宮の分霊を祀ったのがはじまりと伝えられ、古尾谷庄13か村の総鎮守として古くから崇敬されてきた。文治5年(1189)源頼朝が社殿を新たに造営し、弘安元年(1278)に藤原時景が復旧」とあり、ここでも頼朝公の関与が明記されています。


〔 寳聚山 東漸寺 灌頂院 〕


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 本堂

『新編武蔵風土記稿』の入間郡古谷本郷の項には、「(八幡社)別当灌頂院 天台宗 上野國世良田長楽寺ノ末 寳聚山東漸寺ト号ス、開山ハ聾義法印トノミ記シアリ(略)本尊彌陀ヲ安ス」とあります。

『入間郡誌』にも「慈覚大師、東国に来り、此地に於て灌頂修行し、此寺を立て其開山となり傍に八幡祠を立つ。(略)元暦四年頼朝堂宇坊舎を再興し」とあります。

また、『平成小江戸川越 古寺巡礼』(百瀬千又氏編)には「天長年間(824-833年)慈覚大師円仁の開創といわれ(略)源頼朝の手によって再建されたという。文治五年(1189年)の頃である。正応年間には古谷の地頭といわれた藤原時景によって再建となった。」とあります。

藤原時景と古尾谷氏の関係がどうもはっきりしないのですが、世の中には奇特な方がおられて、古尾谷荘について現地調査をふまえた詳細な記事をまとめられているので一部引用させていただきます。(出典はこちら(何となく古谷?それぞれの古尾谷氏…⑤)
「藤原時景が古尾谷左衛門尉時景だと分かったのは埼玉県名字辞典の古尾谷氏の項です。〔辞典からの引用:古尾谷 内藤氏流古尾谷氏 入間郡古尾谷荘より起る 内藤系図に『関白道長-(略-左衛門尉時景(弘安八年卒))』〕
上記から、藤原時景=古尾谷左衛門尉時景(御家人として、『吾妻鑑』に記載あり)であることがわかります。

『平成小江戸川越 古寺巡礼』(百瀬千又氏編)には「古尾谷八幡神社、灌頂院、そしてその塔頭などは地理的条件も含め古谷の豪族であった古尾谷氏の領地で、また、それをつかさどっていた別当寺の長官職は、藤原時景だったのではないかと推定され、広大な土地を所有し、頼朝の信任が厚かった古尾谷荘の地頭藤原氏と思われてくる。」とあります。

---------------------------
頼朝公が武蔵の一地方の社寺の再建にかかわった(とされる)理由について、
1.古尾谷荘は鎌倉期に京都の石清水八幡宮の荘園であったこと。
2.古尾谷八幡神社は、石清水八幡宮からの勧請であること。
3.領主の藤原時景(古尾谷氏)が頼朝公から信任を得ていた可能性があること。
などが想定されますが、この時期、頼朝公の関心が大きく川越に向いていたことも背景にあるのかもしれません。
有力御家人、河越重頼の動静です。

河越氏は桓武平氏良文流で坂東八平氏のひとつに数えられる名族。
秩父平氏の宗家筋とされ、「武蔵国留守所総検校職」として武蔵国内の武士を統率・動員する権限を有していたとされます。

鎌倉幕府草創期の当主は河越重頼で「武蔵国留守所総検校職」に任じられ、妻は頼朝公の乳母・比企尼の次女(河越尼)で頼家公の乳母。
しかも義経公に娘(郷御前)を嫁がせていたという、きわめてデリケートな立場でした。
血筋からも、立場的にも武蔵国の武将たちに大きな影響力をもっていたと考えられ、頼朝公にとって目をはなせない存在であったことは容易に想像できます。

〔 河越重頼関連年表 〕
永暦元年(1160年)
・河越氏、所領を後白河上皇に寄進し荘官となる。上皇は京の新日吉山王社へ寄進し新日吉社領河越荘と称される。
治承四年(1180年)8月
・頼朝公挙兵。重頼は畠山重忠、江戸重長ら武蔵国武士団とともに衣笠城を攻め、頼朝公方の三浦義明を討ち取る。
治承四年(1180年)10月
・頼朝公武蔵国入国を受け、畠山重忠・江戸重長らとともに頼朝公配下となる。
寿永三年(1184年)8月
・義経公とともに後白河法皇から任官を受け、重頼と弟・重経も頼朝公の怒りを買う。
寿永三年(1184年)9月
・頼朝公の命により、娘(郷御前)が京に上って義経公に嫁ぎ舅となる。
文治元年(1185年)
・義経公が後白河法皇から頼朝公追討の院宣を受け、舅の重頼も頼朝公から敵対視される。
文治元年(1185年)
・義経公の縁戚であることを理由に伊勢国香取五カ郷を没収。その後、重頼は嫡男重房と共に誅殺され、武蔵国留守所惣検校職は畠山重忠に移る。
文治三年(1187年)10月
・頼朝公は重頼誅殺を悼み、河越氏本領の河越荘を後家の河越尼に安堵。

頼朝公の古尾谷八幡神社・灌頂院への関与は元暦元年(1184年)~文治五年(1190年)とみられるので、上の年表からもみてきわめてデリケートなタイミングといえます。

古尾谷氏の舘は川越市古谷上の現・善仲寺にあったとされ、河越氏の館(川越市上戸、現・常楽寺附近とされる)とはさほど離れていません。

これはまったくの憶測ですが、頼朝公、河越氏、古尾谷氏を巡ってなんらかの交渉があり、それが古尾谷八幡神社・灌頂院の再興となってあらわれたのかもしれません。

記事が長くなったので、両寺社のご紹介は控えますが、いずれも長い歴史と格式が感じられるたたずまいです。

御朱印については、灌頂院は不授与。古尾谷八幡神社については通常無人で、タイミングに恵まれれば拝受できるかと思います。

 
【写真 上(左)】 灌頂院の御朱印不授与掲示
【写真 下(右)】 古尾谷八幡神社の御朱印


19.超越山 来迎院 西光寺
〔葛西三郎清重〕
東京都葛飾区四つ木1-25-8
天台宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第33番、荒綾八十八ヶ所霊場第34番、(京成)東三十三観音霊場第31番、新葛西三十三観音霊場第14番

葛西氏は桓武平氏良文流の秩父氏(坂東八平氏の一)の一族豊島氏の庶流。
鎌倉幕府草創期の豊島氏の当主、豊島清元(清光)の三男、三郎清重は葛西御厨を継いで葛西氏を称しました。

治承四年(1180年)、源頼朝公の旗揚げには父・清元とともに隅田川で参陣。
この時点での秩父氏一族の動静は複雑で、江戸重長は頼朝公の参陣要求になかなか応じず、公は江戸重長の所領を召し上げて同族の葛西清重に与えようとしました。

これに対して清重は「一族(江戸氏)の所領を賜うのは本望ではなく、他者に賜るように」と頼朝公に言上したといいます。
これを聞いた頼朝公は怒りをあらわし清重の所領も没収すると脅しましたが、清重は「受けるべきものでないものを受けるのは義にあらず」ときっぱり拒絶しました。
頼朝公は清重の毅然たる態度に感じ入り、これに免じて江戸重長を赦したといいます。(以上『沙石集』より)

この逸話の背景については諸説ありますが、おおむね頼朝公の葛西清重に対する信頼をあらわすもの、また、葛西清重が頼朝公と秩父一族の融和に奔走したことを示すものとみられています。

常陸国の佐竹氏討伐の帰途、頼朝公は清重の館に立ち寄り、清重は丁重にもてなして頼朝公とのきずなを強め、清重は頼朝公寝所警護役に選ばれています。

元暦元年(1184年)夏の平氏討伐には源範頼公に従軍。
九州で活躍し頼朝公から御書を賜り、文治五年(1189年)には奥州藤原氏討伐に従軍し、阿津賀志山の戦いで抜け駆けの先陣を果たし、さらに武名を高めました。

奥州討伐後、清重は勲功抜群として胆沢郡、磐井郡、牡鹿郡など奥州の地に所領を賜り、奥州総奉行に任じられ、陸奥国の御家人統率を任されています。
のちに奥州で勢力を伸ばした葛西氏は清重の流れと伝わります。

以後は鎌倉に戻り幕府の重臣として職責を果たしましたが、奥州総奉行も兼務。頼朝公からの厚い信任は以後もかわらず、幕府内の立場を確かなものにしています。
頼朝公没後は北条氏と歩調を合わせ、北条方からも信任を得て壱岐守にも任じられています。

有力御家人の粛清、失脚あいつぐなかで一貫して時の権力者から信任を得、存在感を保ったことは、清重のただならぬ政治力を示すものかと思われます。

晩年、清重は関東教化で訪れた親鸞聖人に帰依して出家しました。
嘉禄元年(1225年)、親鸞聖人が渋江郷の清重の館(現・西光寺とされる)に立ち寄られた際に雨が降り止まず、聖人は五十三日間も足止めされ、その間に清重は存分に聖人の教えを受けて発心し、聖人に帰依して西光坊定蓮と改め、居館を雨降山 西光寺と号したとされます。

親鸞聖人は清重に阿弥陀如来の絵像を与え、清重(西光坊)自刻の聖徳太子像の像内には親鸞聖人御作といわれる阿弥陀如来像が入っているそうです。

西光寺は草創時は真宗でしたが、のちに戦火や水害で寺運衰退し、寛永年間(1634-1643年)に天台宗の僧が再興、山号を超越山と改めたとされますが、天台宗改宗後も親鸞聖人ゆかりの報恩講式という法要が毎春催されているそうです。

なお、墨田区東向島にある曹洞宗 晴河山 法泉寺も葛西清重ゆかりの寺院で、清重が両親供養のために建立したとされています。(戦国時代に真言宗から曹洞宗に改宗)


【写真 上(左)】 法泉寺本堂
【写真 下(右)】 法泉寺の御朱印

---------------------------
荒川の流れにもほど近い葛飾区四つ木。
下町らしい入り組んだ路地のなかに、それでもかなりの寺域を保ってあります。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 本堂

山門は本瓦葺きの重厚な四脚門。門の横には「葛西三郎清重の遺跡(居館跡)」の説明書がありました。

正面の本堂も入母屋造本瓦葺流れ向拝の堂々たる構えで、向拝には「超越山」の山号扁額が掲げられています。
本堂向かって右手奥には南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第33番の大師堂があり、お大師さまが大切に供養されていました。


【写真 上(左)】 清重稲荷社
【写真 下(右)】 清重稲荷社の扁額

山門をくぐって右手の地主神とみられる稲荷社の扁額には「清重稲荷」とありました。
また、西光寺から少しはなれた住宅地のなかに「清重塚」があり、こちらは清重夫妻の墓所という言い伝えがあります。

葛飾区の古刹は複数の霊場札所となっている例が多いですが、こちらも4つの霊場の札所となっています。
霊場の御朱印は不授与のようですが、庫裡にて御本尊の御朱印が授与されています。


【写真 上(左)】 本堂の扁額
【写真 下(右)】 西光寺の御朱印


20.龍ヶ崎鎮守 八坂神社
〔下河辺氏・下河辺四郎政義〕
公式Web
茨城県龍ヶ崎市上町4279
御祭神:建速須佐鳴神、奇稲田姫神
旧社格:龍ヶ崎鎮守
元別当:

下河辺氏(しもこうべ し)は、藤原北家秀郷流で下野国の有力豪族、小山政光の弟行義が下総国葛飾郡下河辺荘を本貫地として独立し、下河辺を名乗ったのがはじまりとされます。
鎌倉幕府草創期の下河辺氏は「下河辺庄司」とも呼ばれ、現在の茨城県古河市・境町・五霞町・坂東市、埼玉県加須市まで広がる下河辺荘の庄司として勢力を張りました。

下河辺荘は鳥羽院から美福門院、そして鳥羽帝の皇女、八条院暲子内親王と引き継がれ、のちに大覚寺統の主要な経済基盤になったとされる「八条院領」の一画をなし、上方との関係がふかいところでした。
下河辺荘が「八条院領」となった経緯については、在地領主の下河辺氏が美福門院ないし八条院に寄進したともいわれ、諸説あるようです。

清和源氏の嫡流、摂津(多田)源氏の源(馬場)仲政は下総守に任ぜられ、その子(源三位)頼政も一時期任地の下総に下向したとされ、そのときに頼政と下河辺氏が主従関係を結んだともみられています。
以降、頼政と行義の主従関係はつづき、治承四年(1180年)、行義は上方で頼政とともに以仁王挙兵に呼応したとされます。

『平家物語』巻四には頼政が敗死したのち、頼政の首を「下河辺藤三郎清親」が隠したとあり、この「下河辺藤三郎清親」は下河辺行義(行吉)とみられています。
茨城県古河市の頼政神社には、頼政の郎党、あるいは下河辺行義が頼政の首をこの地に葬ったとする伝承があります。

また、茨城県龍ヶ崎市にも頼政神社があり、龍ヶ崎市の資料には「頼政は自害する際に家臣・下河辺行吉に自分の首を東国へ運んで葬るように命じました。鎌倉時代になって下河辺が一族の守護神として、頼政神社を建てたと伝えられています。」と記されています。

源頼朝公は行義の子・行平をはじめ、下河辺一族を優遇しましたが、下河辺氏が源三位頼政や八条院領とふかいつながりをもつことも、その背景にあったかもしれません。
また、下河辺荘は利根川、隅田川、荒川に挟まれた関東有数の低湿の地にあり、低湿地や河辺の戦いに長けた下河辺衆は鎌倉軍にとって貴重な存在だったのかもしれません。

下河辺行平は源平合戦で華々しい戦功をあげ、頼朝公から「日本無双の弓取」と称賛されて、准門葉(源氏一門に準ずる扱い)ともされたという有力御家人でしたが、行平ゆかりの寺社がどうにも判然としません。

行平の弟、下河辺四郎政義は龍ヶ崎の八坂神社を草創と伝わるので、まずは龍ヶ崎八坂神社をご紹介とします。

下河辺政義は寿永二年(1183年)、小山氏一門、兄・行平とともに野木宮合戦(頼朝公と志田義広党の戦い)に参加して凱旋。
その後、頼朝公の近臣として仕え、合戦の功と頼朝公への忠勤により常陸国南部を与えられたともいわれます。(諸説あり)

源平合戦では行平とともに範頼軍に属し、九州で活躍しました。
よく知られているのが、吾妻鑑にある鹿島神社神主中臣親広との御前対決です。

『吾妻鑑. 上』の文治元年(1185年)八月大廿一日辛未の項には以下のとおりあります。
「鹿島社神主中臣親廣與下河邊四郎政義、被召御前遂一决、是常陸國橘郷者、被奉寄彼社領訖、而政義以當國南郡惣地頭職、稱在郡内、押領件郷、令譴責神主妻子等、剩可從所勘之由取祭文之旨、親廣訴申之、政義雌伏、頗失陳詞、爲眼代等所爲歟之由稱之、仍停止向後濫妨、任先例可令勤行神事之趣、神主蒙恩裁、退出之後、政義猶候御前之間、仰云、政義向戰塲殊施武勇對、親廣失度歟、尤●之云々、政義申云、鹿島者守勇士之神也、爭無怖畏之思哉、仍雖有所存、故不能陳謝云々」

常陸国橘郷(現在の小美玉市付近)は鹿島神宮社領でしたが、下河辺政義は常陸国南郡の総地頭職なので、この地は郡内にあるとして年貢を取り立て郷民に労働を強要しました。

鹿島神宮神主の中臣親広はこれを頼朝公に訴え、公の御前で中臣神主と下河辺政義の対決となりました。
政義に弁明の言葉はなく、これを受けた頼朝公は今後は(政義に)横領を止めさせるので、神事に励むよう裁決を下しました。
中臣神主が退出した後も政義は御前に留まっていたので、頼朝公が「政義は戦場では並みはずれた武勇を奮うのに、神主に対しては神妙であったな。」と笑うと、政義は「鹿島神宮は武勇の士を守られる神様なので、武士の私がこの神と争うとは畏れ多いこと。私にも言い分はありますが、あえて申し述べませんでした。」と応えました。

ここから、頼朝公が政義を「並みはずれた勇士」と認めていたことがわかります。
また、武勇の士、政義といえども、鹿島神の神威の前ではなすすべがなかったことを物語っています。

文治元年(1185年)秋、源義経公謀反の際、義経公に娘を嫁がせた河越重頼は誅殺されましたが、政義は河越重頼の娘を妻としていた関係から連座して領地を没収されています。
その後も史料に御家人としての活動がみられることから、赦免され復帰したものとされますが、往時の勢力は保てず、下河辺荘は北条氏の支配下に入ったとみられています。

『寛政重修諸家譜』などによると、下河辺政義の子・小川政平の末裔は大和国長谷川に住んで長谷川氏を名乗り、今川義元に仕えたのちに高田藩家臣、徳川家の旗本として存続。
『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」として知られる火付盗賊改の長谷川宣以(平蔵)は、この流れと伝わります。


【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 境内

龍ヶ崎の鎮守、八坂神社は下河辺政義の草創と伝えられます。
社伝(公式Web)には「当神社は源頼朝の家臣下河辺政義公が、文治2年(1186年)に領地龍ヶ崎市貝原塚の領民を引き連れ、沼沢の地であった根町を干拓した際に、貝原塚の鎮守神社である八坂大神の分御霊を祀ったのが草創と伝えられます。」と明記されています。


【写真 上(左)】 鳥居と拝殿
【写真 下(右)】 社号提灯

龍ヶ崎の中心部に御鎮座。地域の中核社らしく、どことなく華やいだ境内です。
本殿の華麗な彫刻は元禄文化の粋をあらわすものとされ、市の文化財に指定されています。


【写真 上(左)】 拝殿の彫刻
【写真 下(右)】 八坂神社の御朱印

祇園祭で有名な神社で、月替わり御朱印やオリジナル御朱印帳を頒布されるなど、御朱印授与にも積極的です。


■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-3へ。


〔 関連記事 〕

■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-3
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-4
■ 鎌倉殿の御家人

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1


【 BGM 】
■ True Companion - The Rippingtons


■ Somethin' - Lalah Hathaway


■ "Stay Awhile" & "Still They Ride" Steve Perry- Journey
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

■ フェンダー・ローズとAOR

先ほどのNHK『うたコン』で、今回も尾崎亜美が「フェンダー・ローズ」を弾いていた。

■ マイ・ピュア・レディ - 尾崎亜美

やっぱりこの音色、たまらん。

1980年代後半にいともあっさりとAORがジャンル崩壊したひとつの理由に、この「フェンダー・ローズ」の動向はぜったい絡んでいると思う。


Fender Rhodes(Piano)とは、1940年代にHarold Rhodes氏によって前線の兵士たちを慰安する目的で発明された楽器です。

1959年、Harold Rhodes氏は楽器メーカーのFender社と合弁事業を開始し、1974年頃までは"Fender Rhodes"(フェンダー・ローズ)の商号で製品が販売されていました。
1975年頃、商号から"Fender"の文字が消え"Rhodes"に変更されたものの、以降も「フェンダー・ローズ」と総称され、主にクロスオーバー(フュージョン)、ソウル(BCM)、AORなどのジャンルで広く使われました。

1980年代中盤にヤマハからデジタルシンセサイザー「DX7」が発売され「フェンダー・ローズ」に近い音色が出せるようになると、1台ごとの音色のぶれが大きい「フェンダー・ローズ」はまたたく間に駆逐されていきました。

しかし、聴き手の情感に訴えかけるような「フェンダー・ローズ」の音色の人気は根強く、日本では2009年9月からMark 7の輸入販売を開始、輸入一号機のオーナーは山下達郎氏であったことは音楽通のあいだではよく知られているようです。

「フェンダー・ローズ」の原理は金属製の音叉をハンマーで叩き、電磁ピックアップして電気信号に変換するというもので、音色はある意味オルゴールに近いかもしれません。

■ 栄冠は君に輝く NHK学校紹介 ふるさと紹介 オルゴールバージョン カバー 

↑ これって、オルゴールじゃなくてRhodes Pianoだったと思うけどね・・・。

バックミュージシャンのクレジットのなかでも、Rhodes PianoはKeyboardに括られるので、ほとんど音色で聴き分けるしかありません。
しかも、この時代(1980年前後)のピアノやエレピは、やわらかい音色のものが多く、Rhodes Pianoとの聴き分けはなかなかやっかいです。
(ピアノとRhodes Pianoが混在しているテイクも多い。)

なので、「フェンダー・ローズの名曲」でググっても、評価の定まった同じような顔ぶれが並びます。

たとえば、こういうの ↓
■ Just The Two Of Us - Grover Washington Jr. (feat. Bill Withers)


■ Just The Way You Are(素顔のままで) - Billy Joel


邦楽だとこういうの ↓
■ 中央フリーウェイ - 荒井由実


そこで、これからじっくりと「フェンダー・ローズ識別プロジェクト」を立ち上げようかとも思いますが、まずは、明らかにフェンダーローズ使用と思われるAOR系の名バラードを3曲ご紹介します。
AORにとって、フェンダーローズの音色がいかに重要であったか、これを聴いていただければわかるかと思います。

1.Whatever We Imagine - David Foster 〔 From 『The Best Of Me』(1983)〕

おそらく主メロがピアノとシンセ、裏メロがフェンダー・ローズ。
イントロは間違いなくフェンダー・ローズだと思う。

2.It's Only Love - Marc Jordan 〔 From 『A Hole In The Wall』(1983)〕

AOR屈指の名バラード。
フェンダー・ローズの音色はサックスとも相性ばっちりだった。

3.The Fool Is All Alone - Bill Champlin 〔 From 『Runaway』(1981)〕

名手Bill ChamplinによるこちらもAOR全盛期の名バラード。
フェンダー・ローズ&ストリングスによる怒濤のサポート。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

■ 伊香保温泉周辺の御朱印-6(後編B)

新型コロナ禍で、寺社様によっては御朱印授与を休止されている場合があります。
ご留意をお願いします。

-----------------------------------------
2019/01/25 補足UP
2021/01/31 補足UP
2022/01/15 補足UP
2022/06/03 補足UP

■ 伊香保温泉周辺の御朱印-6(後編B)

43.如意山 宝蔵院 大乗寺(高崎市棟高町)
44.烏子稲荷神社 (高崎市上小塙町)
45.新比叡山 本実成院 天竜護国寺(高崎市上並榎町)
46.我峰八幡神社 (高崎市我峰町)
47.上野國一社八幡宮 (高崎市八幡町)
48.神通山 遍照王院 大聖護国寺 (高崎市八幡町)
49.慈雲山 養寿院 福泉寺 (高崎市鼻高町)
50.少林山 達磨寺 (高崎市鼻高町)
51.八幡山 月光院 常安寺 (高崎市下豊岡甲)


43.如意山 宝蔵院 大乗寺
高崎市棟高町2234
真言宗豊山派
御本尊:

開山、沿革などは不詳ですが、高崎市の指定重要文化財である「農耕図屏風」を所蔵する寺院として知られています。

「農耕図屏風」は、源信寿(みなもとののぶひさ)の筆による「農事一式の図」六曲一双の屏風です。
江戸前期の農作業を描写したもので、脱穀に「くるり棒」(回転式の稲打ち棒)を使わず、二股の自然木を利用している様子が時代を反映するものとされます。
女が頭上に舟・えび・うさぎ等の型を乗せて、五穀豊穣を祝う踊りの姿などが見どころとされます。

大乗寺のそばにある高崎市立堤ヶ岡小学校は大乗寺山内の発育小学校が発祥、堤ヶ岡幼稚園、堤ヶ岡保育園ともに大乗寺を母体としているそうで、児童教育とゆかりの深いお寺さんと思われます。



【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山内

堤ヶ岡幼稚園横が参道入口で、山号標と寺号標が建っています。
その先の山門は桟瓦葺で、薬医門形式と思われます。
本堂と左手に宝形造桟瓦葺向拝付きのお堂があります。



【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂は寄棟造桟瓦葺で、正面に軒唐破風の立派な向拝を起こしています。
大棟の棟飾りは経の巻獅子口。
水引虹梁両端、正面と側面に雲形の木鼻。中備に花紋様の板蟇股。頭貫上の斗栱は斗が5つです。

唐破風下に大瓶束笈形を置き、兎毛通に蕪懸魚、破風上の鬼板に経の巻獅子口を置いているので、下から水引虹梁、板蟇股、虹梁、大瓶束笈形、蕪懸魚、経の巻獅子口という見どころの多い構成となっています。
向拝見上げの扁額は「如意山」の山号です。

霊場札所ではないですが御朱印を授与いただけました。
ただし、ご不在や法事によりいただけない場合もあり、3度目の参拝で授与いただけました。

〔 不動明王の御朱印 〕

中央に不動明王の種子「カン/カーン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「不動明王」の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


44.烏子稲荷神社
高崎市上小塙町564
御祭神:宇迦之御魂命、大日霊命、素戔嗚命、菅原道真公
神饌幣帛料供進社

「すないご」という難読の社号をもつ稲荷神社です。
境内由緒書きなどを参考に、創祀・沿革をまとめてみます。

延暦二年(783年)に公卿の藤原金善という人が、山城国(現 京都府)の藤ノ森稲荷神社の御分霊をこの地に勧請したのが創祀とされます。
この地は古くは須苗郷(須苗子・烏子)と呼ばれ、当社は須苗郷(すないご・ごう)の総鎮守として崇敬されてきました。

戦国時代、甲斐の武田信玄公が箕輪城攻略の際に戦勝祈願をし、大願成就の後、武田家臣の浦野家、新井家とゆかりをもち、後世まで関係を保っているようです。
江戸時代には徳川家より代々御朱印を頂いています。
明治三十九年(1906年)、神饌幣帛料を共進しうべき神社に指定。

社殿は六世紀前半の上小塙稲荷山古墳の上に祀られ、本殿裏には巨大な石で築かれた石室があります。
「上小塙稲荷山古墳」は高崎市の指定史跡に指定され、石室の穴は都に通じているとか、白狐が住んでいるなどともいわれて稲荷信仰の対象となっていました。
そのために、古墳が状態よく保存されていたものと評価されています。
社宝として所蔵されている須恵器類も附指定されています。

平地のなかにこんもり丸く盛り上がった社叢は、いかにも古墳を思わせるもの。
かなり離れたところ(北部環状線沿い)に朱塗りの大鳥居を構えています。


【写真 上(左)】 社頭から境内
【写真 下(右)】 境内案内図

参道階段下に駐車場。右手に社務所。参道手前に石灯籠一対。すでにこのあたりから神さびた雰囲気をまとっています。


【写真 上(左)】 身代り達磨
【写真 下(右)】 弁天様

社務所のそばには、身体の痛いところをさすると痛みがなおるという「身代り達磨」。
左手の池に御座す弁天様は、もともと古墳外堀に祀られて霊験確かな弁天様として信仰を集めていたところ、外堀改修工事に際しご神像の奉納がなされて現在の位置に御遷座されたとのこと。


【写真 上(左)】 鳥居
【写真 下(右)】 産泰様

参道階段手前に狛犬一対。その先左手に手水舎と朱塗りの台輪鳥居で鳥居扁額は「稲荷大神」。
鳥居左手には朱の鳥居が連なる参道?があり、稲荷神社らしい空気感。

階段途中にも石造の台輪鳥居があり、その先左手には子授り、子育て、安産の神様、産泰様のお社が鎮座しています。
産泰様の手前には、高崎城主・安藤対馬守が参詣のおりにお手植えされたという「逆さもみじ」があります。この木は逆さに挿したのに根付いた生命の強い木とされ、諸願成就の所以となっています。


【写真 上(左)】 神楽殿
【写真 下(右)】 拝殿

階段の左手奥には朱塗りで均整のとれた神楽殿。
階段正面が拝殿で、位置的に屋根構造がうまく確認できないのですが、おそらく入母屋造瓦葺唐破風向拝付きで、妻入りかもしれません。
朱塗りの柱が意匠的に効いた、華やかな印象の社殿です。


【写真 上(左)】 頭貫の彫刻
【写真 下(右)】 中備の彫刻

朱塗りの向拝柱の上に古色を帯びた水引虹梁を置き、両端に精緻な彫刻木鼻(正面獅子、側面象鼻)を備えています。
中備にはボリューム感のある龍の彫刻。唐破風軒の懸魚部にも彫刻を置いています。
唐破風の鬼板は、綾筋付きの経の巻獅子口のようにも見えました。

十八世紀末の築と推定される本殿は、「烏子稲荷神社本殿」として高崎市の指定文化財に指定されています。


【写真 上(左)】 本殿
【写真 下(右)】 烏子天神

正面はよく見えないのですが、境内説明板によると一間社入母屋造で現在は銅板葺。
組物は三手先詰組、蛇腹支輪。
向拝に虹梁形頭貫で連三斗積上、木鼻は正面を獅子、側面を象鼻。頭貫おくに力感あふれる海老虹梁。
中備に蟇股。向拝正面打越二軒繁垂木。
妻飾りは虹梁大瓶束式笈形付。屋根に千木と堅魚木を置いています。
脇障子の透かし彫りも見事なもので、すこぶる存在感のある本殿です。

本殿右手に鎮座する天神様のお社は、一間の切妻造銅版葺正面桟唐戸で「烏子天神」の扁額を掲げています。

御朱印は社務所にて揮毫のものをいただけました。

〔 御朱印 〕

揮毫は「烏子稲荷神社」で、神社印が捺されています。


45.新比叡山 本実成院 天龍護国寺
高崎市上並榎町922
天台宗
御本尊:釈迦如来
札所:群馬郡三十三観音霊場第31番

山内掲示板などから開山・沿革をまとめてみます。
貞観六年(864年)、比叡山延暦寺に模して建立され、延暦寺第三代座主の円仁(慈覚大師)が開山された天台宗の名刹です。
往時は境内に僧坊三百余を擁し、関東を代表する大伽藍であったと伝わります。

寺格は高く、歴代髙﨑藩主の祈願所として安藤家や松平家などから崇敬され、本堂の軒瓦には葵の御紋が刻まれています。

寺宝に延長六年(928年)の勅命による小野道風真筆「天龍護国寺」の勅額があり、これは醍醐天皇が下賜されたものと伝わります。
「天竜護国寺の寺号勅額」として市指定重要文化財に指定されているこの額の裏面には、次のように書かれています。

醍醐天皇依勅定
延長六戌子歳従四位上小野道風書
其後額之縁再興元和六庚申年
高崎城主安藤対馬守重信

また、文化元年(1804年)著名な絵師、神宮寺守満による「並榎八景絵巻」も残されており、その絵巻には当寺の住職一元上人を中心に高崎の風流人が詠んだ漢詩と和歌が添えられています。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 本堂

参道入口に山号標と寺号標。参道両側な広大な墓地で、正面、階段上に山門、くぐると正面が本堂です。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 向拝

入母屋造桟瓦葺で正面に唐破風の向拝をおく、整った伽藍です。
唐破風鬼板には、金剛界大日如来の種子「バン」とみられる梵字をおいています。
水引虹梁まわりはシンプルで、向拝見上げに寺号の扁額。これは小野道風真筆の勅額かと思われます。


【写真 上(左)】 唐破風まわり
【写真 下(右)】 扁額

山内のすぐ西側には日枝神社が鎮座します。
貞観年間(859-877年)に当寺の鎮守として近江国坂本の日吉大社から勧請と伝えられています。


【写真 上(左)】 日枝神社拝殿
【写真 下(右)】 日枝神社扁額

御朱印は趣きのある庫裡にて、揮毫のものを授与いただけました。

〔 厄除 元三大師の御朱印 〕

中央に御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「厄除 元三大師」の揮毫。
右上には菊花紋の印。左下に山号、院号、寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
御寶印の種子は、金剛界大日如来の種子「バン」のように思われます。

元三大師は如意輪観音の化身とされ、元三大師の御朱印では如意輪観音の種子「キリーク」が用いられることがありますが(例.深大寺)、他の例もあるようです。
天台宗の宗旨本尊として、釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来などが挙げられますが(資料によってことなる模様)、こちらでは宗旨本尊として金剛界大日如来の種子を使われているのかもしれません。(筆者の根拠のない憶測です)


46.我峰八幡神社
高崎市我峰町263
御祭神:品陀和気命(応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)、建御名方命、八坂売命(素戔嗚尊)、大日孁命(天照大御神)、宇迦之御魂命、豊宇気毘売命(豊受大神)
旧社格:村社、神饌幣帛料供進社

境内掲示の由緒書などより。
創祀は明らかでないようですが、「口碑によれば、現社殿の前の神殿の奥に天平元年(729年)と記したる木札ありと言われ、また鎌倉時代の設立とも言伝える。」とのこと。

社殿横を流れる烏川の水流は当社付近で一大深淵をなし、無数の鮭がここに集まりこれより上流には遡らないことから「鮭の森」と呼ばれ、参拝者が多く訪れました。
古来より勝利の神として尊崇され、雛供養、人形供養の神社としてもよく知られています。

境内にある經塚は、永禄四年(1562年)の武田勢による箕輪城攻略の折に、住吉城(箕輪城の支城のひとつ)の城主・清水小内記藤原正智が宝物・経典を埋蔵した場所と云われています。
現在、この場所には息長足姫命(神功皇后)のお社が鎮座され、雛供養がおこなわれているようです。


【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 鳥居

境内はかなり広く、社頭に「八幡神社」の社号標と、すこし離れて茅の輪が設えられた朱塗りの明神鳥居。
鳥居から先は社叢におおわれ、朱塗りの灯籠が並んで神域ならではの厳粛な気がただよいます。
境内は清々しく整い、地元の方々の尊崇の篤さがうかがわれます。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 拝殿

拝殿はおそらく入母屋造桟瓦の妻入りで、妻部の鬼板と懸魚部の彩色彫刻が見事。
水引虹梁両端木鼻と中備に彫刻を備え、正面桟唐戸の小ぶりながら端正に整った社殿で、本殿は拝殿内部に鎮座されているようです。
向拝見上げの扁額は「八幡神社」。


【写真 上(左)】 息長足姫命(神功皇后)のお社
【写真 下(右)】 鮭の森大神

参道向かって左には上記の息長足姫命(神功皇后)のお社と「鮭の森大神」が鎮座しています。

こちらは通常非常駐のようで、御朱印はすこし離れた社務所(ご神職宅/高崎市我峰町72)で授与いただけます。

〔 御朱印 〕

「鮭乃森大神」「我峰八幡神社」のふたつの揮毫と3つの印判(神璽印、神社印、宝珠印)が捺された華々しい印象の御朱印です。


47.上野國一社八幡宮
公式Web
高崎市八幡町655
主祭神:品陀和気命、息長足姫命、玉依姫命
旧社格:郷社
御朱印揮毫:上野國一社八幡宮

ふるくから「一国一社の八幡宮」として、広く尊崇を集めてきた八幡様です。

公式Web、境内掲示などから由緒・略歴などをまとめてみます。
平安時代の天徳元年(957年)に京都の石清水八幡宮を勧請して創祀。

尚武の神として代々源氏の崇敬が深く、源頼義・源義家(八幡太郎)は奥州征伐の折に当社に必勝祈願し、戦勝の結果、社殿を改築したと伝わります。
「永承年間の改築」という説があるので、永承年間(1046-1053年)の改築は源頼義の前九年の役(1051-1062年)、源義家は後三年の役(1083-1087年)の際のもので、おのおの別の改築かもしれません。
また、永承年間(1046-1053年)は未だ前九年の役が真っ盛りですから、永承年間に源頼義が必勝祈願し、その勝利ののちに頼義の子義家(八幡太郎)が改築したのかもしれません。

源頼朝は鎌倉に幕府を開くと、当社に神田百町を寄進し社殿の改築などを行いました。
新田氏、足利氏、武田氏(信玄公)、豊臣秀吉、徳川家康などの武家・武将からも厚く尊崇を受けたと伝わります。

江戸時代に入っても徳川家光以来、社領百石の朱印地を受けて興隆。
江戸期は神仏混淆の色合いが強まり、別当神徳寺をはじめ社僧・神主・社家合わせて28家(24家とも)を数え、毎年75回の神事を営んだといいます。

明治初期の神仏分離ののち、明治5年7月に郷社に列せられ、「八幡の八幡様」(やわたのはちまんさま)とも呼ばれて広く尊崇を集めて今日に至っています。

「一国一社の八幡宮」とは、ふつう国府八幡宮をさします。
国府(こくぶ)八幡宮(府中八幡宮/国分八幡宮)とは、令制国の国府の近くに創建された八幡宮で、国衙(国司の役所)の鎮守や国分寺の鎮守として伝わるものがあります。

関東周辺の国府八幡宮(論社を含む)は、
 武蔵国:武蔵国府八幡宮 (東京都府中市)
 相模国:平塚八幡宮 (神奈川県平塚市)
 伊豆国:八幡宮来宮神社 (静岡県伊東市)
 安房国:鶴谷八幡宮 (千葉県館山市)
 上総国:飯香岡八幡宮 (千葉県市原市)
 下総国:葛飾八幡宮 (千葉県市川市)
 甲斐国:大井俣窪八幡神社 (山梨県山梨市)/八幡神社 (山梨県甲府市)
 下野国:下野國一社八幡宮 (栃木県足利市)
とされています。

上野国については、上野國一社八幡宮(当社)とする説と、当社が国府(現・前橋市元総社町)から離れていることから、国府に近い前橋八幡宮を比定する説もあるようです。


境内案内図


【写真 上(左)】 社号標
【写真 下(右)】 神門(旧仁王門)

境内は南に碓井川を見下ろす高台に広がり、川寄りの神門(旧仁王門)からの登り参道です。
なお、大鳥居は国道18号(旧中山道)の八幡大門交差点そばにあるそうです。

神門(旧仁王門)は切妻造銅板葺三間一戸の八脚単層門で、脇間には真新しい仁王像が鎮座しています。扁額は読解不能。
神門手前には「上野國一社八幡宮」の社号標。


【写真 上(左)】 参道階段
【写真 下(右)】 一の鳥居

階段の上に一の鳥居。石造の両部鳥居で「八幡大御神」の扁額。
そのすぐ先に江戸時代中期の造営とされる随神門。切妻造銅板葺木部朱塗り、三間一戸の八脚単層門で、脇間には随身像(神像)が安置されています。
あざやかな朱塗り、むくり気味の屋根で勢いを感じるつくり。


【写真 上(左)】 随神門
【写真 下(右)】 鐘楼と随神門

随神門の右手に神楽殿、左手に唐破風屋根の手水舎と鐘楼。
いずれも朱塗りで意匠を凝らしたもので、華やいだ雰囲気の境内。


【写真 上(左)】 神楽殿と鐘楼
【写真 下(右)】 拝殿

随神門正面が拝殿。
拝殿前の唐銅燈籠は高崎出身の豪商野澤屋(茂木)惣兵衛(惣兵衛)が大旦那となり、主に糸繭商人に浄財を募って慶応三年(1867年)に奉納されたもので、高崎市の指定重要文化財に指定されています。


【写真 上(左)】 唐銅燈籠と拝殿
【写真 下(右)】 斜めからの向拝

入母屋造銅瓦葺で正面に千鳥破風、その前面に唐破風付きの流れ向拝を置いています。
後背の幣殿、本殿が一体となる権現造の様式で、宝暦七年(1757年)、御鎮座八百年を記念して新築されたものです。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 天井絵と奉納額

向拝は4本の向拝柱を擁し、水引虹梁には立体感あふれる彫刻が施されています。
見上げれば、二連の破風(唐破風と千鳥破風)の変化に富んだ構成も見応えがあります。
ふところが深く内陣寄りには拝殿幕が張られています。
彩色天井絵や奉納額も見事なものです。



【写真 上(左)】 拝殿~本殿の見事な意匠
【写真 下(右)】 本殿身舎の斗栱

側面の仕上げが豪華です。
彩色の桟唐戸、花頭窓、幣殿~本殿の木鼻や斗栱、脇障子の精緻な彫刻、二色塗りの二軒繁垂木など、寺社建築の合わせワザが展開されています。
なんとなく、神社の建築としては異色な感じがしたのですが、この拝殿内部は旧護摩堂とのこと。
神仏混淆式の建物として、高崎市の指定重要文化財に指定されています。


【写真 上(左)】 天満宮
【写真 下(右)】 向拝の彫刻と斗栱

拝殿向かって右には天満宮が鎮座します。
入母屋造妻入り金属板葺で正面唐破風向拝付。
入母屋の屋根勾配が急で、妻入りの棟飾りと向拝の唐破風がコントラストをなす華麗な社殿で、これはかつての本地堂とのこと。
向拝や身舎まわりの木鼻や斗栱の構成も見事です。

なお、「本地垂迹資料便覧」様によると、当社の本地仏は阿弥陀如来・観世音菩薩・大勢至菩薩の阿弥陀三尊で、本地堂には阿弥陀三尊が安置されていたようです。

境内には参拝順路が設定され、これに従うと拝殿、本殿、本殿背後の摂社二十二社、東照宮(疫斎神)、御輿庫、地主稲荷社、日枝社(山王宮)と巡拝することができます。
地主稲荷社は当社の元宮で、例祭に頒布される餅は「子授け餅」(はらみもち)として、子宝に恵まれる奇瑞のあるものとして知られています。

さすがに「一国一社の八幡宮」だけあって、境内は見どころにあふれています。
とくに神仏混淆の遺構を辿るには、最適な神社ではないでしょうか。

〔 御朱印 〕

授与所にて御朱印に書き入れいただきました。
社号の揮毫、社号印、鎮座地の印で構成されています。


48.神通山 遍照王院 大聖護国寺
公式Web
高崎市八幡町675-1
真言宗豊山派
御本尊:愛染明王・不動明王
札所:


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 愛染明王の御朱印

開山は健保四年(1216年)、地方本寺として五十三ヶ寺を有していたという名刹です。
公式Webによると、定弘和尚が高野山清浄心院より御本尊愛染明王及び不動明王を奉じられて開山。
上野国和田城主和田八郎信業、北条氏政、徳川家康公等の尊崇を受け御朱印を授かっているとのことです。
五代将軍綱吉公の母君桂昌院は当山二十四世亮賢和尚への信頼篤く、延宝二年(1674)、当寺に多くの仏像を寄進し伽藍を建立、仏具などを奉納しました。
また、天和元年(1681年)亮賢和尚を護持僧として幕府所属の高田薬園の地に招き、堂宇を建立し、桂昌院の念持仏、天然琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊として神齢山 悉地院 護国寺が創建されました。

この由緒は護国寺の公式Webにも明記され、そのなかで当寺は「上野国碓井八幡宮の別当、大聖護国寺」と記載されています。
また、山内由緒書にも「寛永年間までは隣接する上野国一社八幡宮の別当寺でした。」とあります。
当寺は、上野國一社八幡宮のすぐとなりにあり、上野國一社八幡宮は「碓井八幡宮」とも称されたことから、すくなくとも寛永年間までは隣上野國一社八幡宮の別当であったものとみられます。
(なお、上野國一社八幡宮の境内由緒書には「明治維新まで別当神徳寺ほか社僧・社家合わせて二十四家による神仏混淆の神事を執行す)とあるので、寛永年間までの別当は大聖護国寺、それ以降は神徳寺となった可能性があります。)


【写真 上(左)】 不動明王の御朱印
【写真 下(右)】 阿弥陀如来の御朱印

境内は名刹らしくよく整っています。
堂宇のほとんどは開放され、仏像を間近で拝めます。
音羽の護国寺も本堂内にあげていただけますから、このあたりは護国寺の伝統なのかもしれません。

御朱印は庫裡にて拝受できますが、筆者参拝時は「拝観・御朱印受付は、金・土・日・月10時から4時までです」との掲示がありました。


49.慈雲山 養寿院 福泉寺
公式Web
高崎市鼻高町707
天台宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所:

絵御朱印で有名な天台宗寺院です。
筆者は「武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印」という記事をとりまとめ中で、こちらにはこれまで未参拝で気になっていましたが、ようやく参拝が叶いました。

いただいた由緒書と山内の供養塔建立の説明板には以下のとおりあります。
・福泉寺東側は、箕輪城の出城(内出)があった所とされ、永禄年間、武田軍の六回に及ぶ箕輪城攻撃の際、武田信玄公がその本陣に使用し、激闘がおこなわれたとも言われています。
・福泉寺には、この合戦の戦死者を供養する供養塔が建立されています。
・説明板の日付は昭和56年(1981年)秋、そこから450年前の開創ということなので、1531年、室町時代の享禄年間ということになります。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 御本尊 聖観世音菩薩の御朱印

山内には多くの供養佛(露仏)が並びます。
本堂はいささか無機質な建物ですが、花手水などが山内各所に配されて手入れが行き届いた印象です。


人気の「風林火山」の絵御朱印

当寺では、上記の所縁から武田信玄公の「風林火山」の絵御朱印を授与されています。
絵御朱印にはさほど興味がない筆者ですが、この「風林火山」の御朱印はすばらしいもので、御本尊、聖観世音菩薩の御朱印とともに拝受しました。

さすがに絵御朱印で人気のお寺さんらしく、私が参拝したときも先客が2組ほどいました。
御朱印授与日・時間は公式Web(インスタ)で随時案内されているようです。


50.少林山 達磨寺
公式Web
高崎市鼻高町296
黄檗宗
御本尊:北辰鎮宅霊符尊
札所:



高崎の縁起だるま発祥の寺として知られる名刹てす。
公式Webなどから由緒をとりまとめてみます。
室町時代末期より、鼻高村の高台には行基菩薩の彫刻とされる観音様を祀る観音堂がありました。

延宝年間(1673-1681年)に大雨で碓氷川が氾濫したとき、香りを放つ古木が流れつき観音堂に納められました。
一了居士という行者の夢枕に達磨大師が立たれ、この霊木で達磨大師の像を彫るようお告げがあり、一了居士は、沐浴斎戒、一刀三礼で達磨大師の坐禅像を彫りあげました。
この観音堂のあたりはいつしか“達磨出現の霊地”として「少林山」と崇められ、時の領主・酒井雅楽頭忠挙公は厩橋城(前橋城)の裏鬼門を護る寺として、水戸光圀公の帰依された僧・東皐心越禅師を開山と仰ぎ、弟子の天湫和尚を水戸から請じて、元禄十年(1697年)少林山 達磨寺を開創しました。

以降、衆生の尊崇篤く、享保十一年(1726年)には水戸徳川家から三葉葵の紋と丸に水の徽章を賜い、永世の祈願所とされました。

山上に、達磨堂、霊符堂、観音堂と並びます。
御本尊は、北斗星を神格化した北辰鎮宅霊符尊です。
達磨寺は前橋城から見て南西に鎮座し、前橋城の裏鬼門を守護する寺として創建されたこともあり、現在も関東隋一の方位除・八方除の祈願所として参拝客を集めています。

御朱印は、原則として写経納経者にのみ授与されますが、山内の瑞雲閣に十文字写経の用紙が用意されており、こちらを写経して納めることでも授与いただけます。
オリジナルの御朱印帳も頒布されています。


51.八幡山 月光院 常安寺
公式Web
高崎市下豊岡甲1405
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛

信濃国の名族滋野氏は小県郡、佐久郡を中心に勢力を張り、分流した海野氏・根津氏・望月氏は「滋野三家」と呼ばれ、滋野氏嫡流の家柄とされました。
禰津(根津)氏は滋野重道の二男道直が禰津を称したのが始まりとされ、以降、信濃の名族として諏訪氏と姻戚関係にあったとされます。

また、真田氏の出自はナゾが多いですが、滋野氏の流れで、禰津氏の支流という見方が有力のようです。

禰津氏の本拠は禰津古御館ないし禰津(祢津)城(現・長野県東御市)で、古くから武勇の家柄として名を馳せ、保元・平治の乱や源平合戦での活躍が伝わります。

南北朝期には南朝方にくみしたとされ、ここでも数々の戦功が伝わります。
「滋野三家」の結束は堅く、室町期にも小県郡、佐久郡、更級郡、上野国吾妻郡にまで及ぶ勢力を有していたとみられます。

天文十年(1541年)春、甲斐の武田信虎公が村上義清、諏訪頼重と謀り小県郡へ侵攻(海野平の戦い)。
滋野一族は手痛い敗北を被りましたが、禰津元直は諏訪神氏の姻戚であったことから本領を安堵されています。

禰津元直は天文十一年(1543年)正式に武田氏に臣従、同年末には元直の娘・禰津御寮人が晴信(信玄)公に嫁ぎ、武田信清をもうけています。(『高白斎記』)

元直ののち禰津氏家督は紆余曲折を経て、次男の政直(松鴎軒常安)が継ぎ、常安は武田氏の先方衆として真田氏など滋野一族と連携して上野国方面に進出しました。
常安は北信濃の飯山城の城代も任されていたため、天正十年(1582年)春の織田・徳川連合軍の甲州征伐でも命を落とさず、徳川家康公に臣従。

常安は徳川家家臣となった際に「禰津」から「根津」に名字をかえたとされます。
家康公の関東移封後、上野国豊岡に5千石の所領を得、これを継いだ常安の甥、信政は慶長七年(1602年)5千石の加増を受け、一万石の大名として上野豊岡藩を立藩しました。
しかし寛永三年(1626年)、三代藩主・吉直が若くして死去すると無嗣断絶となり、上野豊岡藩は惜しくも廃藩となりました。

禰津(根津)氏はふるくから鷹匠の家柄として知られていたため、廃藩後根津一族は幕臣となり、鷹匠元締めをつとめたと伝わります。

上野豊岡陣屋跡は、現在の常安寺付近と伝わります。

常安寺の公式Webによると、当寺は祢津(根津)常安が生前に自らの供養のため元亀元年(1570年)に豊岡陣屋内に箕郷の金龍寺二世大雲吟撮大和尚を開山として開基。
みずからの名から常安寺と号したといいます。

常安(禰津公)の墓所は長野県東御市の定律院とされますが、常安寺にも墓石が残ります。


【写真 上(左)】 公道まで延びる参道
【写真 下(右)】 山門

倉渕方面からの烏川と、碓井から流れ下る碓井川が合流し、中山道と三国街道が分岐する地勢的な要衝で、そんなこともあって豊岡陣屋が置かれたものと思われます。


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 本堂
山門は明治中期の火災を免れた唯一の遺構で、切妻屋根桟瓦葺の四脚門。
妻側にかかる唐破風風のやわらかな曲線が個性的で見上げに山号の扁額。


【写真 上(左)】 庭園からの本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

本堂は入母屋造桟葺流れ向拝で、大がかりな軒唐破風を構えています。
水引虹梁両端に禅宗様の木鼻、中備に板蟇股。水引虹梁斗栱は左右各二連で複雑な意匠。
身舎側に海老虹梁、向拝見上げに院号扁額を掲げています。

大棟や唐破風まわりに掲げられた紋は、おそらく禰津氏の家紋「丸に月の字」と思われます。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 本堂向拝唐破風

本堂向かって右に地蔵菩薩坐像、左には阿弥陀如来坐像が御座し、おのおの献花がそえられて華やぎのある堂前です。

閻魔様とゆかりのふかい寺院で、本堂内には閻魔大王像、山内には奪衣婆像も奉安されています。

こちらは札所ではなく、これまでノーマーク。ウクライナ難民支援御朱印関連で参拝しましたが、ウクライナ支援御朱印のほかに御本尊の御朱印も拝受できました。
ただし、書置のご用意はない模様で、ご住職ご不在時には拝受できないかもしれません。


【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 ウクライナ難民支援御朱印(期間限定)
※尊格御朱印は常時授与されていないかもしれません。


これで「伊香保温泉周辺の御朱印」はひとまず完結ですが、エリア内で御朱印を拝受した場合は適宜追加していきます。


■ 伊香保温泉周辺の御朱印-1(前編A)


■ 伊香保温泉周辺の御朱印-1(前編A)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-2(前編B)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-3(中編A)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-4(中編B)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-5(後編A)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-6(後編B)

■ 御朱印情報の関連記事


【 BGM 】
■ 茜色の約束 - 森恵


■ Mirai 未来 - Kalafina


■ This Love - Angela Aki


■ 日本代表史上最高のゴール

↑ これは凄い!
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )