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■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-5

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-4からのつづきです。

※札所および記事リストは→ こちら

『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。


■ 第12番 西方山 安養院 九品寺
(くほんじ)
葛飾区堀切6-22-16
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:
司元別当:
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第58番、荒綾八十八ヶ所霊場第78番

第12番は葛飾区堀切の九品寺(安養院)です。

下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

九品寺は、建久四年(1193年)宥真法印が創建と伝わる真言宗の古刹です。
しかし享和二年(1802年)および明治元年の火災と幾たびかの水害で記録類を散失して縁起由緒は定かではありません。

山内には九品仏が安置され、こちらが寺号の由来となっているとの由。
現在の本堂は、昭和35年造営されたものです。

古刹の九品寺ですが、史料・資料類が少なく、この程度しか辿れませんでした。

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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻三』(国立国会図書館)
(下千葉村)九品寺
同末(青戸村宝持院末) 西方山安養院ト号ス 開山宥真 建久八年(1197年)六月二日寂ス 本尊彌陀

『葛飾区寺院調査報告 上』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
九品寺
真言宗豊山派。西方山安養院と号し、もと青戸宝持院の末。
当寺は付近の普賢寺とともに区内有数の古刹。
寺伝によると、建久四年(1192年)2月、宥真法印によって創立されて以来、八百年に近い法灯を伝えているが、一時荒廃し、また享和二年(1802年)および明治元年の火災と幾たびかの水害により、寺宝・記録散失して由緒不明。
ただし当寺の過去帳の奥書に、歴代住持とその没年が記録されている。
開山 法印宥真 建久八年(1197年)六月二日寂
(中略)
本堂以下建物も幾たびか再建されたが、現在の本堂は昭和35年5月の改築である。
寺宝
 阿彌陀如来像 江戸時代の作
 釈迦牟尼仏・十一面観世音地蔵二菩薩像 三軆とも同一岩座
 弘法興教両大師坐像 江戸時代の作


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最寄りは京成本線「堀切菖蒲園」駅で徒歩約10分。


【写真 上(左)】 地蔵堂
【写真 下(右)】 駐車場横の石佛群

区立東綾瀬小学校のすぐ南に、名刹らしい奥行きある山内を構えています。
寺域左手が広めの駐車場。
その隣に地蔵堂と石佛群(舟形光背の如意輪観世音菩薩と地蔵菩薩)が御座します。



【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標-1

山内入口に寺号標。
門柱の向こう正面に本堂がみえます。
すっきりと整備されたいい山内です。


【写真 上(左)】 参道-1
【写真 下(右)】 寺号標-2

石畳の参道。右手は墓域で、少しく進むと左手にもう一基の寺号標があります。
その先には釈迦如来の誕生佛が立っています。
その対面にはめずらしい金剛歌菩薩の坐像が御座します。


【写真 上(左)】 釈迦如来の誕生佛
【写真 下(右)】 金剛歌菩薩

令和5年に開創された「四国阿波 八供養菩薩霊場」公式Webによると、金剛歌菩薩(こんごうかぼさつ)は八供養菩薩の一尊で「箜篌(くご=ハープのような楽器)を持ち、歌をもってマンダラの世界を彩る仏さま、ご真言は『オン バザラ ギテイ ギク』」とのこと。

箸蔵寺(徳島県三好市)の公式Webには「密教の修法を行う僧侶にとっては、実際のお花や灯りをお供えする(事供養)に併せて、八供養菩薩のご真言をお唱えする心の供養(理供養)は必ずといっていいほど用いられており、密教では欠かせない仏様」「八供養菩薩は大きく分けて、金剛嬉菩薩、金剛鬘菩薩、金剛歌菩薩、金剛舞菩薩という、曼荼羅の中心におられる大日如来さまが自分の周りの四如来様を供養するために生み出された「内の四供養菩薩(ないのしくようぼさつ)」と、金剛香菩薩、金剛華菩薩、金剛燈菩薩、金剛塗菩薩という、今度は四如来さまの方から先ほどのお返しに大日如来様を供養するために生み出された「外の四供養菩薩(げのしくようぼさつ)」という二つのグループから成り立っています。」とあります。

「四如来」とは胎蔵曼荼羅の中心・中台八葉院の四方に御座す(東)宝幢如来、(南)開敷華王如来、(西)無量寿如来、(北)天鼓雷音如来と思われます。
大日如来と中台八葉院の四如来の「相互供養」にかかわる尊格と思われます。

八供養菩薩や金剛歌菩薩は仏像として拝することは希で、少なくとも筆者は初めてです。
ご真言がわかりませんので、光明真言をお唱えしました。

こちらは、『有楽町で逢いましょう』、『潮来笠』、『いつでも夢を』などを生み出した作詞家の佐伯孝夫(明治35年-昭和56年)の菩提寺なので、そのゆかりで奉安されているのかも。

■ いつでも夢を - 橋幸夫・吉永小百合 / 1962年(昭和37年)

高度成長期のこの頃のヒット曲ってほんとうに明るく、夢にあふれている感じがします。



【写真 上(左)】 参道-2
【写真 下(右)】 三尊


【写真 上(左)】 延命地蔵菩薩
【写真 下(右)】 修行大師像

さらに進むと左手に延命地蔵菩薩倚像、阿弥陀如来坐像、修行大師像の三尊が並んで御座します。
参道右手には六地蔵尊に金佛の聖観世音菩薩立像。


【写真 上(左)】 六地蔵尊
【写真 下(右)】 観世音菩薩


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

昭和35年改築の本堂は入母屋造本瓦葺流れ向拝。
堂前に金灯籠一対、十三重石塔一対を配した堂々たる本堂です。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 横からの向拝

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に本蟇股を置き、真言宗豊山派の宗紋「輪違紋」を染め抜いた紫の向拝幕を巡らせています。
見上げには寺号扁額。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 九品仏

本堂向かって右手奥は墓域で、その前に石佛坐像の九品佛が安されています。
そのさらに奥の墓域入口には、佐伯孝夫の『いつでも夢を』の歌碑がありました。

御朱印は本堂向かって左奥の庫裏にて拝受しました。


〔 九品寺の御朱印 〕



中央に「阿弥陀如来」の揮毫と阿弥陀如来のお種子「キリーク」の御寶印(火焔宝珠)。
左上には「荒綾第七十八番」の札所印。
右下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

御朱印は荒綾霊場第78番の一種類で、隅田川霊場の御朱印は出されていないとのことでした。


■ 第13番 牛頭山 弘福寺
(こうふくじ)
公式Web

墨田区向島5-3-2
黄檗宗
御本尊:釈迦如来(釈迦牟尼佛)
札所本尊:
司元別当:
他札所:大東京百観音霊場第31番、弁財天百社参り第84番、隅田川七福神(布袋尊)、墨田区お寺めぐり第16番

第13番は墨田区向島の弘福寺で、黄檗宗の名刹です。
弘法大師霊場で黄檗宗の寺院が札所となっている例はきわめて希で、この点からも隅田川二十一ヶ所霊場と隅田川七福神の関連がうかがわれます。

公式Webをメインに、適宜下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などで補足して縁起・沿革を追ってみます。

延宝元年(1673年)、黄檗宗(派)第2代木庵性瑫禅師の弟子・鐵牛道機禅師は、葛飾郡須田村香盛島にあった香積山弘福寺を黄檗禅の寺(宇治萬福寺の末寺)として葛西一族(江戸氏一族の牛島氏とも)の城址に遷し、牛頭山弘福寺と号したといいます。

山号の「牛頭」とは、当時隣接していた牛嶋神社の御祭神、須佐之男命の別称が牛頭天王で、古くから地主神として祀られていたことによると伝わります。

開山は鉄牛道機禅師、開基は小田原城主稲葉正則。
鉄牛禅師(1628-1700年)は石見國(島根県)(長門とも)出身の黄檗宗の名僧で号は自牧子。諡号は大慈普応国師。

因幡龍峯寺(鳥取市)で修行後、隠元隆琦禅師に参禅し宇治黄檗山萬福寺創建にかかわりました。
隠元禅師の高弟・木庵禅師に師事して、その法統を嗣ぎました。

教禅一致の教化につとめ、洛西の葉室山浄住寺を中興、小田原藩主稲葉正則の招きで関東に入られ紹太寺、江戸弘福寺などを開山されています。

仏道だけでなく、印旛沼や手賀沼干拓などの社会事業にも注力し、稲葉正則に働きかけて町人請け負いの新田開発を進めるなど、行動力に富んだ禅僧と伝わります。

開基の稲葉正則(1623-1696年)は、江戸時代前~中期の譜代大名で小田原藩2代藩主です。

稲葉氏は伊予の豪族・河野氏(伊予橘氏)の一族(異説あり)とされ、戦国期の当主良通(一鉄)は安藤守就・氏家卜全とともに「西美濃三人衆」と称され西美濃で勢力を振るいました。
斎藤道三から織田信長麾下に転じ、本能寺の変ののちは豊臣秀吉に仕えました。

良通の嫡子・貞通は関ヶ原の戦いで東軍に転じて武功をあげ、美濃郡上藩4万石から豊後臼杵5万余国の大名となりました。
良通の庶長子・重通も美濃清水1万2千石の大名となり、その家督は稲葉氏の一族尾張林氏より婿養子に入った正成が継ぎ、これより正成の系譜は正成系稲葉家と呼ばれます。

正成の継室の春日局が徳川3代将軍家光公の乳母となったため、正成の子正勝が下野真岡藩4万石から相模小田原藩8万5千石へと栄転し、老中も務めました。

稲葉正則は正勝の次男で相模小田原藩2代藩主となりました。
家督相続時は幼少のため大伯父(春日局の兄)・斎藤利宗の補佐を受け、後に父方の従兄で幕政の有力者・堀田正盛が後見人を務めたこともあり、幕閣内で重きをなし、老中、大政参与まで進み「元老」と称されて、4代将軍家綱公の文治政治を担ったといいます。

伊達家、毛利家の支援・後見も務めるなど、外様系大名にも大きな影響力をもったといいます。

明暦三年(1657年)の明暦の大火を契機に、万治元年(1658年)幕府直轄の消防組織・定火消が制度化され、万治二年(1659年)1月、稲葉正則率いる定火消4組が上野東照宮に集結して気勢をあげました。

これは「出初」(でぞめ)と呼ばれて後に制度化され、その伝統はいまも各地の消防の「出初式」として受け継がれています。

稲葉正則は仏道、ことに黄檗宗の信仰篤く、鐡牛禅師を招いて小田原紹太寺を開基、江戸では弘福寺の開基となっています。

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黄檗宗(おうばくしゅう)は、明末清初の禅宗の仏教僧隠元隆琦(いんげんりゅうき、1592-1673年)禅師が来日して開いた禅宗の一派です。
黄檗宗大本山萬福寺の公式Webなどから沿革を追っています。

明国の福建省に生まれた隠元は若くして仏道に発心、29歳で福建省福州府の黄檗山萬福寺の鑑源興寿の下で得度し、35歳で黄檗山の費隠通容から印可を受けて萬福寺住持となりました。

当時、長崎には明朝の動乱から逃れて多くの中国人が渡来し、福州出身者を中心に興福寺、福済寺、崇福寺(いわゆる長崎三福寺)が建てられました。
うち崇福寺の住持に空席が生じ、渡日していた興福寺住持の逸然性融によって、承応三年(1654年)63歳の隠元禅師は日本に招請されました。

来日した隠元禅師のもとには、明禅の新風と隠元の人柄を慕う僧や学者たちが集まり活況を呈したといいます。
隠元禅師は当代一流の文化人・知識人として知られ、隠元豆、西瓜、蓮根、孟宗竹、木魚なども禅師が請来されたと伝わります。

来日は当初三年間の約束でしたが、妙心寺住持の龍渓禅師や後水尾法皇の崇敬を受け、龍渓禅師が4代将軍家綱公との会見の場を設け、万治三年(1660年)山城国宇治郡に寺地を賜り、翌年、禅刹を開創して中国の自坊と同じ黄檗山萬福寺を号しました。

翌順治十二年(1655年)隠元禅師は中国黄檗山から名僧・木庵性瑫禅師を招いて長崎・福済寺の住持とし、寛文元年(1661年)木庵禅師は宇治の黄檗山萬福寺に入りました。

寛文四年(1664年)、隠元禅師は後席を木庵禅師に譲り松隠堂に退きました。
寛文十三年(1673年)、隠元禅師は後水尾法皇から「大光普照国師」の特諡を認められたのちに示寂。世寿82歳といいます。

黄檗禅の法統を嗣いだ木庵禅師は寛文五年(1665年)、江戸にくだり4代将軍家綱公に謁見して優遇され、紫雲山瑞聖寺を初め十余寺を開創し、将軍より紫衣を賜っています。
以降も、黄檗禅と徳川将軍家との関係は良好だったといいます。

隠元隆琦禅師の禅(黄檗禅)は、鎌倉時代中期の臨済宗(混淆禅)の僧・円爾(えんに/聖一国師)の師である無準師範や、明禅の費隠通容禅師の法系を嗣ぐ臨済禅とされ、臨済正宗や臨済禅宗黄檗派を名乗ったともいいます。

江戸時代もこの状態がつづいたとみられますが、明治7年明治政府が禅宗を臨済・曹洞の二宗と定めたため、明治9年禅宗の一宗、黄檗宗として独立しました。

しかし、臨済禅と黄檗派の関係は密接で、いまでも臨済宗・黄檗宗共同の公式Web(臨黄(りんのう)ネット)が運営されています。

宗風は、明禅の特色である華厳、天台、浄土等の諸宗を反映した混淆禅とされています。(Wikipediaより)

黄檗派は当初から茶道や料理との関係が深く、中国風の普茶料理はよく知られています。
また、黄檗派は大本山・黄檗山萬福寺の当初の住職の多くが中国から渡来ということもあり、中国風の様式を色濃く残しています。

文化面でも独特な新味があり、幕府の外護もあって複数の大名家や文化人の支援を得、鉄眼道光(1630-1682年)らに代表される社会事業などを通じて民間の教化にも努めました。
延享二年(1745年)の『(萬福寺)末寺帳』には、1043もの末寺が記載といいます。

黄檗派(宗)の伽藍の多くは明朝様式を取り入れたもので、正面一間を吹放しとした主伽藍を中心軸に置き、同じ大きさの諸堂をシンメトリに配します。
「卍字くずし」の勾欄、「黄檗天井」(アーチ形の天井)、円窓、「桃符」(桃の実形のデザイン)などがその代表例とされます。

黄檗宗の寺院を訪れたとき、ある種独特の印象を受けるのはこのような意匠によるものと思われます。
また、「梵唄」(太鼓や銅鑼など様々な鳴り物を使い独特の節で読まれるお経)も黄檗宗独自のものとして知られています。

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牛頭山弘福寺は、江戸における黄檗禅の名刹です。
開山の鉄牛禅師は隠元禅師の直弟子ですから、まさに黄檗禅本流の寺院かと。

御本尊は松雲作の釈迦如来(釈迦牟尼佛)坐像。
七堂伽藍を整えた大寺でしたが、江戸時代の幾度の大火や関東大震災で焼失し、現存の本堂等は昭和8年再建のものです。

当山は文化文政の頃より隅田川七福神詣りの札所として知られ、布袋尊が祀られています。
また、名入り根付や咳や口中の病に霊験あらたかな「咳の爺婆尊」などもよく知られ、咳止めの飴を買い求める参拝者が多くいたそうです。

また、弁財天百社参り第84番の札所ですから、弁財天霊場としても知られていたとみられます。

山内には鳥取池田藩藩主・松平冠山公、徂徠学の嚆矢、儒家南宮大湫、星学家桃東園、
林東溟などの墓があり、俳人建部寒葉齋綾足の碑があるなど見どころの多い寺院です。

森鴎外は少年時代この地で過ごしており、没後一時は弘福寺に葬られましたが、のちに三鷹の禅林寺に改葬されました。

幕末の元勲勝海舟(1823-1899年)が江戸島田道場で剣道に励んでいた若いころ、師のすすめで当山に通い、雲水とともに参禅していたといいますが、これを示す記録は残念ながら関東大震災の折に焼失したそうです。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾群巻二』(国立国会図書館)
(須崎村)弘福寺
黄檗宗山城國宇治萬福寺ノ末 牛頭山ト号ス
当寺元善左衛門村内香積山トイヘル小庵ナリシカ 黄檗二代木庵ノ弟子鉄牛延寶二年(1674年)爰ニ移シテ山号寺号ヲモ今ノ如ク改メ 堂舎寮坊善美ヲ盡シテ落成シケレハ 大家の帰依日々ニ増加シ繁栄セリ
開基ハ稲葉美濃守正則ナリ 元禄九年(1696年)歿シ潮信院泰應元如ト法贈ス
本尊釈迦 恵心ノ作長三尺坐像ナリ
脇士迦葉阿難モ同作ニテ 立像長三尺五寸
延寶五年(1677年)十一月二十一日厳有院殿御遊猟ノ時当寺ニ渡御アリテ 堂舎ノ落成ヲ上覧マシ々々白銀許多ヲ賜ヒ 夫ヨリ後タヒ御膳所トナレリ

総門 今ハ廃セリ
天王閣 弘福寺ノ三字ヲ扁ス 木庵ノ筆ナリ(略)正面ニ布袋後面ノ中央ニ韋駄天文殊四隅ニ四天王ヲ置リ 共ニ運慶ノ作 楼上天王閣ノ三字ヲ掲ク 是モ鉄牛ノ筆也
佛殿 大雄殿ノ扁額アリ 隠元筆 又本尊ノ上ニ大威徳ノ三字ヲ扁ス(略)
禅堂 選佛場ノ扁額ヲ掛ク 内ニ観音地蔵ヲ安ス(略)
斎堂 今ハ蹟ノミナリ
開山堂 コレモ今ハ廃セリ
大神宮八幡春日合社 八僧稲荷社 箱根権現浅間熊野合社

『江戸名所図会 第4』(国立国会図書館)
牛頭山弘福禅寺
牛御前宮の東に隣る。此邊を須崎といふ。黄檗派の禅室にして、洛陽萬福寺を模す。
本尊は唐佛の釋迦如来、左右は迦葉、阿難なり。
開山鉄牛和尚、延寶紀元癸丑創造す。

『すみだの史跡文化財散歩』(墨田区資料/PDF P.40)
弘福寺(向島5-3-2)<大雄宝殿は区登録文化財>
かつて隅田村香森島(高森島)にあった小庵を、延宝6年(1673年)黄檗宗の寺として、江戸氏一族の牛島殿の城趾に寺地を受け、ここに移し、現在に至っていると伝えています。
開山は鉄牛道機禅師で、開基は小田原城主稲葉正則です。
鉄牛は石見(島根県)の出身で、京都宇治万福寺の創建にも尽力し、大変行動力のあった禅僧と伝えられています。
現在の本尊釈迦如来像は、後世の松雲禅師の作といわれています。
伽藍は関東大震災で焼失し、昭和8年に再建されました。
森鴎外は少年時代、この地域で過ごし、没後ここに葬られました。しかし、震災後に三鷹禅林寺へ改葬されました。
黄檗宗の関係から鳥取藩池田家、津和野藩亀井家ゆかりの寺院として、多くの関係者の菩提寺となっています。

咳の爺婆(じじばば)尊
風外和尚の名と徳から、人呼んで「咳の爺婆尊」。
口中に病のある人は爺に、侯を病む人は婆に祈り、咳・風邪の病が全快したら、煎豆や番茶をそなえて供養する習わしが伝わっています。



原典:斎藤幸雄 [等著] ほか『江戸名所図会』第4,有朋堂書店,昭2. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』隅田川向島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


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最寄りは京成本線・都営浅草線・東武スカイツリーライン「押上」駅で徒歩約15分。

徒歩ならば今戸方面から桜橋経由でもアプローチできます。
吾妻橋から牛嶋神社、三囲神社と隅田川沿いに巡るのも、風情ある道行きです。

都道461号見番通り沿いにあり、すぐお隣は第18番札所の長命寺です。


【写真 上(左)】 前面道路から
【写真 下(右)】 寺号標

周囲に築地塀を巡らし、少し引きこんでインパクトのある山門を構えています。
山門手前には亀の上に寺号標。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 正月の山門と山内

山門は切妻屋根を二重におき、本瓦葺でいずれも鴟尾(しび)を置いています。
どういう様式かよくわからないのですが、Webでは「黄檗様式」「明様式」としている記事が目立ちます。


【写真 上(左)】 寺号入りの軒丸瓦
【写真 下(右)】 山門扁額

軒には寺号入りの軒丸瓦が巡らされるなど、芸が細かいです。
見上げに独特の書体の山号扁額。
門柱には禅刹らしく「偈」が掲げられています。

参道右手の鐘楼は、切妻屋根本瓦葺で鴟尾を置いたすこぶる端正な意匠。


【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 咳の爺婆尊のお堂

その先には「咳の爺婆尊」の堂宇。
風外和尚禅師(寛永年中(1624-1644年)の僧)自刻の父母の石像が御座します。

風外禅師は相州真鶴山中の洞穴で求道し父母の石像を朝に夕に孝養していたところ、小田原城主で当山開基の稲葉正則が和尚の温情に感じ入り江戸下屋敷にて供養をつづけ、のちに菩提所である弘福寺に祀らしめたものとの由。


【写真 上(左)】 咳の爺婆尊
【写真 下(右)】 咳の爺婆尊の扁額

人呼んで「咳の爺婆尊(せきのじじばばそん)」と称し、口内を病む者は爺に、咳を病む者は婆に快癒祈願し、全快ののちには煎り豆に番茶を添えて供養する習わしです。

とくに咳止めの飴を買い求める参拝者が多く、この飴はいまも頒布されています。
祈願すれば”風邪をひかない”ともいわれ、受験シーズンはことに賑わうそうです。


【写真 上(左)】 客殿?
【写真 下(右)】 庭園

参道左手は寺務所と客殿?。
かつては山門と主伽藍を中心軸に、同じ大きさの諸堂をシンメトリに配していたようですが、幾度の大火や関東大震災で焼失し、いまはこのような伽藍配置となっています。
客殿の裏手は庭園になっています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂(大雄宝殿)はさすがに風格があります。
「文化遺産オンライン」には、「(昭和8年竣工で)二重仏堂である礼堂の後方に一重の後堂が接続した複合仏殿である。」「月台・聯額・棟飾りなどを備える点は黄檗宗大雄宝殿の一般形式に準じる。」とあります。


【写真 上(左)】 「祝國」の扁額
【写真 下(右)】 「大雄寳殿」の扁額

1層向拝に「祝國」、2層に「大雄寳殿」の扁額を掲げています。
まぁ、建築的にいろいろと見どころはあるのでしょうが、独自の意匠を旨とする「黄檗様式」に生兵法のコメントは無謀なので、このくらいにしておきます。(と、逃げる・・・(笑))


【写真 上(左)】 横からの向拝
【写真 下(右)】 向拝上


【写真 上(左)】 葵紋が刻まれた天水鉢
【写真 下(右)】 年始の山内

豪壮な唐破風を押し立てた客殿?も見事な建築です。


【写真 上(左)】 客殿?の二重蟇股
【写真 下(右)】 客殿?の木鼻彫刻(見返り獅子)


【写真 上(左)】 布袋尊の向拝
【写真 下(右)】 布袋尊の碑

隅田川七福神の一尊、布袋尊は本堂向かって右手の扉の奥深くに御座します。
布袋尊(布袋和尚)は中国の実在の禅僧で、その名を釈契此(しゃくかいし)といいます。
中国とゆかりの深い弘福寺に布袋尊が祀られているのは。なるほどうなづけるものがあります。

本堂向かって右手墓域には池田冠山(池田定常、因幡国若桜藩5代藩主)の墓があります。
他にも句碑や文化財多数ですが、きりがないのでこのあたりで引き上げます。


【写真 上(左)】 池田冠山墓
【写真 下(右)】 御朱印見本

御朱印は本堂向かって左手前の授与所にて拝受できます。
複数の御朱印が見本で案内されています。

〔 弘福寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 大雄宝殿の御朱印
【写真 下(右)】 御本尊・釈迦牟尼佛の御朱印

 
【写真 上(左)】 達磨大師の御朱印
【写真 下(右)】 布袋尊の御朱印


寶船の御朱印



■ 墨田区お寺めぐり第16番のスタンプ

なお、「大雄宝殿」の意味については→ こちら(御朱印の読み方)を覧ください。


■ 第14番 八幡山(渋江山) 清重院 西光寺
(さいこうじ)
葛飾区宝町2-1-1
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:
司元別当:(寶木塚村)八幡社(現・(宝町)八幡神社(葛飾区宝町))
他札所:南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第36番

第14番は葛飾区宝町の西光寺です。

下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
なお、この記事は■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2の「19.超越山 来迎院 西光寺」をベースに作成しました。


西光寺は、親鸞聖人に帰依した西光房善慶(葛西清重)の草庵として元仁元年(1224年)に創建され、慶長十八年(1613年)浄土真宗より新義真言宗に宗旨を改めたといいます。
寺宝の阿弥陀如来画像は親鸞聖人の御作といわれ、戦前までは浄土真宗の門徒が当山を訪れ、報恩講が行われていた(→ wikipediaより)ともいい、真宗の名残りを残す寺院です。

渋江山としている資料もありますが、『新編武蔵風土記稿』には「八幡山無量院」とあり、山内掲示にも「八幡山西光寺」とあるので現山号は八幡山と思われます。

約1㎞南の四つ木にある天台宗の超越山 来迎院 西光寺も葛西清重と親鸞聖人にゆかりがあり、しかも南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第33番の札所でもあるため間違いやすくなっています。

なお、超越山 来迎院 西光寺については→ こちらの「19.超越山 来迎院 西光寺」をご覧ください。

少しく当山開基の葛西壱岐守清重(西光房善慶)について辿ってみます。

葛西氏は桓武平氏良文流の秩父氏(坂東八平氏の一)の一族豊島氏の庶流。
鎌倉幕府草創期の豊島氏の当主、豊島清元(清光)の三男、三郎清重は葛西御厨を継いで葛西氏を称しました。

治承四年(1180年)、源頼朝公の旗揚げには父・清元とともに隅田川で参陣。
この時点での秩父氏一族の動静は複雑で、江戸重長は頼朝公の参陣要求になかなか応じず、公は江戸重長の所領を召し上げて同族の葛西清重に与えようとしました。

これに対して清重は「一族(江戸氏)の所領を賜うのは本望ではなく、他者に賜るように」と頼朝公に言上したといいます。
これを聞いた頼朝公は怒りをあらわし清重の所領も没収すると脅しましたが、清重は「受けるべきものでないものを受けるのは義にあらず」ときっぱり拒絶しました。
頼朝公は清重の毅然たる態度に感じ入り、これに免じて江戸重長を赦したといいます。(以上『沙石集』より)

この逸話の背景については諸説ありますが、おおむね頼朝公の葛西清重に対する信頼をあらわすもの、また、葛西清重が頼朝公と秩父一族の融和に奔走したことを示すものとみられています。

常陸国の佐竹氏討伐の帰途、頼朝公は清重の館に立ち寄り、清重は丁重にもてなして頼朝公とのきずなを強め、清重は頼朝公寝所警護役に選ばれています。

元暦元年(1184年)夏の平氏討伐には源範頼公に従軍。
九州で活躍し頼朝公から御書を賜り、文治五年(1189年)には奥州藤原氏討伐に従軍し、阿津賀志山の戦いで抜け駆けの先陣を果たし、さらに武名を高めました。

奥州討伐後、清重は勲功抜群として胆沢郡、磐井郡、牡鹿郡など奥州の地に所領を賜り、奥州総奉行に任じられ、陸奥国の御家人統率を任されています。
のちに奥州で勢力を伸ばした葛西氏は清重の流れと伝わります。

以後は鎌倉に戻り幕府の重臣として職責を果たしましたが、奥州総奉行も兼務。頼朝公からの厚い信任は以後もかわらず、幕府内の立場を確かなものにしています。
頼朝公没後は北条氏と歩調を合わせ、北条方からも信任を得て壱岐守にも任じられています。

有力御家人の粛清、失脚あいつぐなかで一貫して時の権力者から信任を得、存在感を保ったことは、清重のただならぬ政治力を示すものかと思われます。

晩年、清重は関東教化で訪れた親鸞聖人に帰依して出家しました。
嘉禄元年(1225年)、親鸞聖人が渋江郷の清重の館(現・西光寺とされるが当山か、四つ木の西光寺かは不明)に立ち寄られた際に雨が降り止まず、聖人は五十三日間も足止めされ、その間に清重は存分に聖人の教えを受けて発心し、聖人に帰依して西光房善慶(西光坊定蓮とも)と改め、居館を雨降山 西光寺と号したとされます。


なお、葛飾区四つ木にある天台宗 超越山 来迎院 西光寺、墨田区東向島にある曹洞宗 晴河山 法泉寺も葛西清重ゆかりの寺院で、後者は清重が両親供養のために建立したとされています。(戦国時代に真言宗から曹洞宗に改宗)

また、江戸期には(寶木塚村)八幡社(現・(宝町)八幡神社)の別当を務めていました。


【写真 上(左)】 寶木塚(宝町)八幡神社
【写真 下(右)】 寶木塚(宝町)八幡神社の御朱印


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻四』(国立国会図書館)
(寶木塚村)西光寺
新義真言宗 青戸村寶持院末 八幡山無量院ト号ス 本尊彌陀

(寶木塚村)八幡社
村ノ鎮守ナリ 西光寺持 下持同シ
稲荷社

『葛飾区寺院調査報告 下』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
西光寺
寺伝によると、元仁元年(1224年)西光房善慶(葛西清重)の草庵にはじまり、のち浄土真宗の一寺となって西光寺と名づけた。
慶長十八年(1613年)再興のとき真言宗に転じたが、東金町光増寺とともに親鸞聖人ゆかりの地として、さまざまな伝説がある。
境内にあった周囲四メートルの親鸞聖人袈裟かけの松は、聖人がわが弘法とともに千有余年の間繁茂せよといわれたと伝え、根元にその由来を記した碑がある。天明六年(1786年)の大風雨のために倒れ、天保年間(1830-1844年)に植え継いだ樹も枯れ、現在の樹は三代目にあたるという。また境内に天保十二年(1842年)地元の人々の建てた<丹頂塚>がある。将軍放鷹のとき死んだツルの供養のためにできたものである。

本堂 客殿・庫裏 大師堂 六地蔵堂
寺宝
 阿彌陀如来立像(本尊) 室町時代作か
 金剛界大日如来像
 地蔵菩薩立像
 不動明王・両童子立像
 聖徳太子立像
 弘法大師坐像
 麻布淡彩親鸞聖人像
 
【十方庵遊歴雑記】(文政九年(1826年、釈敬順著より)(要旨抜粋)
本堂五間、内陣を囲みて彌陀の尊形を掛たり。
御尊形もおぼろに、いとゞ殊勝に拝れ賜ふは、親鸞聖人の御自画とぞ。
これはその往古、聖人常総の間より武州及び相州へ通行し賜ふ途中、渋江村の草庵に仮初にゆすらひ賜ひしが、霖雨降りしきり止ざる事五十三日、清重が茅屋に留錫し賜ふ折から、当寺の住僧も参上して願ひしまゝ、御序に御自画ありい与え賜ひし御真向とかや。
文政九年の三月、一村の人々同信一列して、件の御真向の本尊を内陣左に懸まいらせ、渋江村の参詣の人々我もゝと群参して低頭礼拝するは、今日を結縁のはじめ、開扉弘法の時節到来といふべし。

■ 寶辨財天勧請由来之記(山内掲示/抜粋)
かつて当寺境内に親鸞聖人袈裟懸之松と称する老松があり、住民らはこれを宝の木と称して大切にしていました。
当地の宝木塚村という旧名はこの老松に由来すると伝えられております。
今日老松はなくなり、宝木塚の地名はわずかに宝町という町名に名残りをとどめるのみとなりました。
当山ではこの宝の地名にちなんで、かねて境内地に辨財天を勧請し、これに祈祷の熱誠をこらし、もって当山檀信徒をはじめ、当地近在の人々に有形無形の福徳をめぐみ、財宝と技芸の豊満をもたらしたいと発願して参りました。
時あたかも平成大不況のさ中、仏師苦心の斧鑿ようやく成就して、ここに宿願の等身八臂の大辨財天を勧請し得ましたこと老衲の最も慶びとするところであります。
平成十年五月五日
八幡山西光寺 昭全 敬白


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最寄りは京成本線「お花茶屋」駅で徒歩約8分。

荒川と旧・曳舟川の間、住宅密集地にあります。
このあたりの路地は複雑で交通規制も多いので、電車利用をおすすめします。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 門柱の寺号標

築地塀に囲まれた山内。
門柱に寺号扁額
村内はさほど広くはありませんが、緑濃く落ち着いた雰囲気があります。


【写真 上(左)】 宝辨財天のお堂
【写真 下(右)】 宝辨財天の扁額

参道右手に宝辨財天を奉安する辨天堂(六角堂)。
山内掲示によると、等身八臂の宝辨財天は平成十年五月の勧請・奉安とのことで、当山ご住職肝入りの勧請らしく、御朱印も授与されています。


【写真 上(左)】 六地蔵尊
【写真 下(右)】 修行大師像

参道に沿って、六地蔵尊、修行大師像も奉安されています。



【写真 上(左)】 緑濃い山内
【写真 下(右)】 本堂

本堂は堂前に仏舎利宝珠を配し、入母屋造銅板葺流れ向拝。
水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に見事な龍の彫刻を置いています。


【写真 上(左)】 向拝-1
【写真 下(右)】 向拝-2

桟唐戸の上に寺号扁額。
コンパクトながら落ち着きのあるいい向拝です。


【写真 上(左)】 見返り獅子の木鼻と斗栱
【写真 下(右)】 中備の龍の彫刻



【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 親鸞聖人御𦾔跡の碑

めずらしいのは「親鸞聖人御𦾔跡の碑」で、当山と親鸞聖人のゆかりを物語っています。


御朱印は庫裏にて拝受しました。
御本尊・阿弥陀如来と辨財天の2種の御朱印を授与されています。
隅田川霊場と南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)、ふたつの霊場の札所ですが、札所印は捺されていないとのことでした。


〔 西光寺の御朱印 〕

  
【写真 上(左)】 御本尊・阿弥陀如来の御朱印
【写真 下(右)】 宝辨財天の御朱印


■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-6へつづきます。

※札所および記事リストは→ こちら



【 BGM 】
■ Forever You ~永遠に君と~ - 愛内里菜


■ Hands ~Our Love~ - 中村舞子


■ 梶浦由記「Yuki Kajiura LIVE vol.#16 ~Sing a Song Tour~『overtune〜Beginning』」
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■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-4

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-3からのつづきです。

※札所および記事リストは→ こちら

『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。


■ 第9番 千葉山 薬師寺 西光院
(さいこういん)
足立区千住曙町27-1
新義真言宗
御本尊:薬師如来
札所本尊:
司元別当:(千住本)氷川神社(足立区千住)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第63番、荒綾八十八ヶ所霊場第82番、江戸薬師如来霊場三十二ヶ所

第9番は足立区千住曙町の西光院です。

下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

西光院は徳治二年(1307年)に下総国千葉氏の創建、覺音法印の開山と伝わりますが、千葉氏庶流石出帯刀吉深の創建という説もあります。
千住本氷川神社 公式Webによると徳治二年(1307年)、牛田に(千住本)氷川神社とともに創建と伝わるとの由。

『江戸名所図会』には、千葉介常胤の末裔の千葉(石出)五郎日向守胤朝は下総國香取郡石出郷の領主で、別に牛田村も領し、永和二年(1376年)入道し宏明と号して牛田村に隠栖。その末裔の(石出帯刀)吉深も牛田村に隠栖して梵宇(密寺か?)をなして西光院と号したとあります。

整理すると、徳治二年(1307年)に下総国の千葉氏が覺音法印を開山に創建。(同時期に(千住本)氷川神社も創建。)
御本尊に千葉介常胤(1118-1201年)の守護佛で弘法大師の御作とも伝わる薬師如来(牛田薬師)を安しました。

永和二年(1376年)千葉介常胤の末裔の千葉(石出)五郎日向守胤朝(入道して宏明)が牛田村(の牛田薬師堂)に隠栖。
石出帯刀吉深(1615-1689年)も先祖の胤朝にならい牛田村(の牛田薬師堂)に隠栖、真言密寺として伽藍を整え西光院を号したとみられます。

千葉常胤(1118-1201年)は千葉氏第3代当主で、保元の乱(保元元年(1156年))に出陣し源義朝公麾下で戦いました。

治承四年(1180年)、伊豆国で挙兵した源頼朝公が石橋山の戦いに敗れ安房国へ渡ると安達盛長を使者として常胤に加勢を求め、常胤はこれに応じました。
頼朝公に鎌倉入りを勧めたのも常胤といいます。

頼朝公に従って武蔵国に入り、武蔵の豪族豊島清元・葛西清重父子とも良好な関係を結んだとされます。
富士川の戦いなどに参戦、頼朝軍主力として働き、寿永二年(1183年)、又従兄弟の上総介広常が頼朝公に誅殺された後も頼朝公の信任厚く、房総平氏の惣領の地位を得たといいます。

一ノ谷の戦いに参戦、豊後国で軍功を上げ、文治三年(1187年)洛中警護のため上洛。
文治五年(1190年)の奥州合戦では東海道方面の大将に任じられたとも。

諸戦の戦功で常胤は相馬御厨と橘庄を取り戻し、下総国・上総国の2ヶ国をはじめ、東北から九州にまで及ぶ全国20数ヶ所の広大な所領を得、屈指の有力御家人となりました。

建仁元年(1201年)3月逝去。
子孫は房総平氏として各地に拠り、千葉六党(ちばりくとう)とも呼ばれて大いに栄えました。
(以上「千葉氏の歴史」(千葉氏Web資料)などより)

つぎに石出帯刀吉深です。
中央区観光協会特派員ブログなどを参考に辿ってみます。

石出帯刀(いしでたてわき)とは個人名ではなく、江戸幕府伝馬町牢屋敷の長官である囚獄(牢屋奉行)の世襲名です。
家禄は三百俵。格式は譜代の旗本といいます。

初代の石出帯刀(本田図書常政)は千葉介常胤の曾孫で、下総国香取郡石出(現・東庄町石出)を領した石出次郎胤朝の子孫と伝わります。
台東区元浅草の法慶山善慶寺は、初代帯刀の開基といいます。

当山の開基?ともされる石出帯刀吉深(1615-1689年)は、歴代でもっとも有名な石出帯刀として知られています。

明暦三年(1657年)1月、明暦の大火(振袖火事)の火勢は伝馬町牢屋敷にも迫りました。
牢屋敷を統括する石出帯刀吉深は、この大火から120人余(数百人とも)の囚人を救うために、必ず戻ることを条件に独断で「切り放ち」(期間を設けた囚人の解放)を行いました。

緊急時とはいえ、当時、幕府上層部に無断で囚人を解き放つことが、牢屋敷の長官である石出吉深にどういう咎をもたらすか、囚人たちにも容易に想像できたはずで、囚人たちは見送る吉深に合掌をしてから牢屋敷を出たといいます。

鎮火ののち、囚人たちはこの恩情に応えて、一人も欠くことなく牢屋敷に戻ってきたといいます。
吉深は「罪人といえどその義理堅さは誠に天晴れ」と称え、老中に囚人たちの罪一等の減刑を嘆願しました。
そしてみずからの越権行為を幕閣につぶさに報告し、覚悟して断罪を待ったといいます。

当時は幼い家綱公の治世。補佐役を務め、名宰領の誉れ高い保科正之の計らいにより、囚人全員の減刑を行い、吉深の罪も問われることはなかったといいます。
吉深の「切り放ち」はこれ以降制度として定められ、現行の刑事収容施設法にも影響を与えたとされます。

吉深は晩年関屋の里に隠棲して常軒と号しました。
歌人・連歌師としても知られ、当時の江戸の四大連歌師の一人に数えられます。

著作『所歴日記』は江戸初期の代表的紀行文とされ、隠棲後には源氏物語全巻の注釈全書『窺原抄』六十二巻を完成させるなど、当世一流の文化人でした。
国学に傾倒し、廣田坦斎・山鹿素行から伝授された忌部神道を、のちに垂加神道の創始者となる山崎闇斎に伝えたのも吉深といいます。

元禄二年(1689年)3月没。
当初は石出帯刀ゆかりの元浅草善慶寺に埋葬されましたが、のちに西光院に改葬されています。

西光院には吉深以下三代の墓碑と、吉深の実子でのちに囚獄を世襲した師深が建立した吉深の彰徳碑「日念碑」が残されています。

しかし、すみませぬ。
筆者参拝時にはこれほどの偉人との認識がうすく、碑は墓域にあることもあって「石出常軒の碑」の説明板の写真しか撮っておりません。

西光院は江戸期には(千住本)氷川神社の別当でした。
千住本氷川神社 公式Webには「明治43年隅田川の洪水を防ぐ為、千住町北側に荒川放水路構築(中略)別当寺の西光院は放水路南、隅田川添いに移築、現在に至る。」とありますが、この移築の経緯はよくわかりません。

御本尊は「牛田薬師」と称され、諸人の信仰を集めているようです。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 足立郡巻二』(国立国会図書館)
(千住町三町目)西光院
新義真言宗 本木村吉祥院門徒 千葉山ト号ス 本尊薬師ハ千葉介常胤ノ守護佛ナリト云 コノ寺域ハ常胤カ庶流石出帯刀吉深カ別業ヲ捨テ 開闢スル所ナリ 故ニ祖宗ノ守護佛ヲ安シ 又碑ヲタテ当寺草創ノ事跡及吉深カ世系行實ノ大概ヲ記ス

『江戸名所図会 7巻』(国立国会図書館)
牛田薬師堂
牛田村にあり真言宗にて千葉山西光院と号く
徳治二年(1307年)当国の領主千葉氏の草創 開山を覺音法印といふ
本尊瑠璃光如来ハ弘法大師の作にて千葉介常胤崇尊の霊像なりと云
●●へて霊験著しく 石出氏吉深をよひ其子常英等殊に尊信し●●霊験を得たりといふ
相伝ふ千葉介常胤の末裔に同五郎胤朝といへる者あり 下総國香取郡石出といへる地に居住し石出日向守と唱ふ 此牛田村ハ胤朝別業の地なり
永和二年(1376年)入道して宏明と号し●に隠栖す 其末流●雪入道吉深に至りて此牛田村に遁れ住竟荘園の地を転して梵宇とし西光院と号くといふ(以下略)

千住本氷川神社 公式Web
(徳治2年1307)に下総国千葉氏が、牛田に千葉山西光院と共に氷川社として創建されたと伝えられている。
江戸初期に現在地に千葉氏の一族であった。権の兵衛(小林氏)等、地主が土地奉納によって分社を建立した。明治43年隅田川の洪水を防ぐ為、千住町北側に荒川放水路構築、この用地に鎮座の氷川柱を分社に合祀す、別当寺の西光院は放水路南、隅田川添いに移築、共に現在に至る。


原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[19],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836]. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


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最寄りは東武スカイツリーライン「堀切」駅で徒歩約5分。
住所に「千住」がついているので北千住周辺かと思いきや、墨田区にも近い牛田~堀切辺です。

荒川と隅田川をつなぐ隅田水門にもほど近く、このあたりも治水上の要衝です。

民家と町工場が密集する下町らしい路地に面しています。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 院号標


【写真 上(左)】 稲荷社
【写真 下(右)】 参道

山内入口は門柱でその左手前に院号標。正面に本堂が見えます。
参道左側の朱塗りの一間社はおそらく稲荷社で、当山鎮守かもしれません。

その左横の石碑は石出帯刀吉深関連かもしれませんが撮影し忘れました。


【写真 上(左)】 「石出常軒の碑」の説明板
【写真 下(右)】 天水鉢

本堂前の天水鉢には千葉氏の家紋である九曜紋。
山号が「千葉山」ということもあり、千葉氏との関連を色濃くのこします。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂は入母屋造銅板葺流れ向拝。
おそらく近代建築ですが、向拝の二本の朱塗りの丸柱が意匠的に効いています。

スケール感のある向拝で見上げに山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 荒綾八十八ヶ所霊場の札所標

山内には荒綾八十八ヶ所霊場の札所標、庚申様の石佛や石碑があります。


庫裏にはご住職がいらっしゃいましたが、御朱印は不授与とのことでした。

もと別当を奉任した(千住本)氷川神社(足立区千住)の御朱印を掲載します。


〔 (千住本)氷川神社の御朱印 〕

 


■ 第10番 梅柳山 墨田院 木母寺
(もくぼじ)
公式Web

墨田区堤通2-16-1
天台宗
御本尊:慈恵大師(元三大師)
札所本尊:
司元別当:
他札所:閻魔三拾遺第27番、墨田区お寺めぐり第2番

第10番は墨田区堤通の木母寺です。

木母寺は江戸時代の隅田河畔の名所で、とりあげている史料は多数ありますが、公式Webをメインに適宜下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などで補足して縁起・沿革を追ってみます。

木母寺は天台僧・忠圓阿闍梨が平安中期の貞元元年(976年)に梅若丸の供養のために開山、当初は梅若寺(ばいにゃじ)隅田院を号したといいます。
文治五年(1189年)源頼朝公が奥州遠征の折に参拝し、長禄三年(1459年)には太田道灌が梅若塚を改修したと伝わります。

天正十八年(1590年)徳川家康公より梅柳山の山号を得、梅柳山梅若寺隅田院と号したとみられます。

慶長十二年(1607年)、前関白・近衛信尹卿参詣の折、柳の枝を折って筆代わりに「梅」の異字体「栂」を「木」と「母」に分けて以来、現在の木母寺を号しました。
信尹卿は自筆の額を与え、この額は寺宝となっています。

江戸時代の当山は大いに栄え、山内には隅田川御殿が建てられ、徳川3代将軍家光公から8代吉宗公の治世まではの将軍鷹狩りや隅田川遊覧の際の御座所とされ、将軍に献上する御前栽畑もあるなど、徳川将軍家と深い関係にありました。

明治維新の廃仏毀釈によって廃寺となり、梅若山王権現を改めて祀り梅若神社となり明治7年には村社に列しました。
明治21年、光円僧正が尽力されて仏寺として再興し、木母寺の号を復しました。

昭和20年戦災で諸伽藍を焼失したものの、戦後に復興をとげています。
昭和51年、東京防災拠点建設事業により南東に160mほど移転して現在に至ります。

『江戸切絵図』には、旧綾瀬川と隅田川の合流点、関屋あたりに「木母寺・梅若塚」がみえ、ずいぶんと北寄りにあったように思えますが、実際は東寄りの現・梅若公園(堤通2-6-10、都指定旧跡の「梅若塚」がある)あたりにあったとされています。

『江戸切絵図』の隅田川寄りに「水神」がみえますが、こちらは現・隅田川神社とみられます。
隅田川神社も旧地から南に100mの地に移転しており、隅田川神社の100m北あたりは、ちょうど梅若公園の隅田川寄りに当たりますから、やはり現在の梅若公園あたりが木母寺・梅若塚の旧地とみられます。

『すみだの史跡文化財散歩』(墨田区/PDF)のP.7-8にも「梅若公園はかつて、梅若神社々頭の地を児童公園にしたことに始まり」「(梅若)公園の中に『旧跡梅若塚』の標石が建っています。梅若伝説の発祥地がこの場所です。昭和51年に木母寺が移転した時に塚も移動しましたが、塚のあったこの場所は今でも《都指定旧跡》であり」と明記されています。




原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』隅田川向島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

伽藍は近代建築ですが、山内は句碑・歌碑の碑林をなし、墨東有数の文化財の地としても知られています。

【 梅若伝説 】
木母寺公式Webの『梅若権現縁起』墨田区Web史料『梅若伝説』(PDF)などから追ってみます。

平安時代の中頃、京都北白川に吉田少将惟房卿とその妻で美濃国野上長者の一人娘・花御前の夫妻がおりました。
夫妻には子がなく、子の誕生を近江国坂本の日吉山王権現に祈願したところ、神託により梅若丸を授かりました。

梅若丸五歳のとき父・吉田少将はこの世を去り、梅若丸はわずか七歳で比叡山にのぼり月林寺で学問修行に励みました。

梅若丸はすこぶる才知に優れ、これほどの稚児はいないと賞賛されました。
東門院にも松若丸という評判の稚児がいましたが、彼を取り巻く山法師たちは梅若丸を妬んで排斥しました。

梅若丸は追われるように比叡山を下り、琵琶湖のほとり大津の浜で人買い商人の信夫藤太と出合います。
信夫藤太は梅若丸を売り払おうと考え、梅若丸をかどわかして奥州へと旅立ちます。


原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[19],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836].国立国会図書館DC(保護期間満了)

その途中、梅若丸は隅田川のほとりで病に倒れ、信夫藤太は梅若丸を置き去りにして姿を消しました。
里人たちの介抱のかいもなく、自分の身の上を語ったのち、辞世の句をのこして梅若丸はその生涯を閉じました。

 尋ね来て 問はば応へよ 都鳥 隅田川原の 露と消へぬと 

ときに貞元元年(976年)3月15日、梅若丸はわずか十二歳であったといいます。

その折、居あわせていた天台宗の高僧忠圓阿闍梨が里人と墓(梅若塚とも)をつくって柳を植えました。


山内掲示(梅若権現御縁起)より

花御前は、わが子が行方知れずとなった哀しみのあまり、狂女に身をやつし、わが子の行方を東国までも探し求めました。
当地に至り、隅田川の渡し守から梅若丸の死を知らされたのはちょうど一周忌の日だったといいます。
花御前が梅若塚の前で念仏を唱えると、亡きわが子の姿が現れるや、はかなくもその姿は消え去っていったとも。

忠圓阿闍梨はこの悲話を聞いて、梅若丸を弔う堂を築き、母の花御前(妙亀尼)はそこに住みつきましたが、ある日、対岸の鏡が池に身を投げてわが子の後を追いました。

すると不思議なことに霊亀が妙亀尼の遺体を乗せて浮かびあがってきました。
忠圓阿闍梨は妙亀尼の墓を建て、妙亀大明神として祀り、梅若丸も山王権現として祀られたということです。

この悲話は謡曲「隅田川」、浄瑠璃「隅田川」、長唄「八重霞賤機帯」などにうたわれ、戯作や小説にもなって多くの人に知られることとなります。

梅若伝説をモチーフとした浄瑠璃や歌舞伎の演目は「隅田川物(すみだがわもの)」と呼ばれて人気を博し、一ジャンルを築きました。
「隅田川物」の人気は、その舞台となった隅田川の岸辺に文人墨客が集まるきっかけになったともみられています。

「隅田川物」上演の際には、役者は梅若丸の供養と興行の成功、そして自身の芸道上達を祈念するため木母寺を詣でたとのことです。

また、日本古典芸能では狂女が繰り広げる演目を「狂女物」といいますが、「隅田川物」は代表的な「狂女物」としても知られています。

維新後も「隅田川物」の人気は高く、木母寺は参詣客で賑わっていたようです。
また、『ガイド』には比叡山延暦寺直末とあり、高い寺格を有することがわかります。


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【史料・資料】

『江戸名所図会 7巻』(国立国会図書館)
梅柳山木母寺
隅田村堤のもとにあり隅田院と号す 天台宗にして東叡山に属す 本尊ハ五智如来なり
中にも阿彌陀如来の像ハ聖徳太子の作なりと云伝ふ
貞元年間(976-978年)忠圓阿闍梨当寺を草創す 天正十八年(1590年)台命あり依て梅柳山と号す
昔ハ梅若寺と呼びたりしを慶長十二年(1607年)近衛関白信尹公武蔵國に下りたまひし時 隅田河逍遙のゆくてに 当寺へ立ちよらせられ寺号を改むへにハいかにとありしに 寺僧応諾す 依木母寺の号を賜ひぬ(中略)
寛文の始 大樹此地に御遊猟の砌当寺を御建立ありて 新殿なと造らせたまひぬ
按に木母ハ梅の分字ならんされと(中略)

梅若丸塚
木母寺の境内にあり 塚上に小祠あり 梅若丸の霊を祠りて山王権現とす
縁起に梅若丸ハ山王権現の化現なのと云
後に柳を植て是を印の柳と号く



原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[19],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836]. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


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最寄りは東武スカイツリーライン「鐘ヶ淵」駅で徒歩約7分。
西側は隅田川、首都高と堤通り、東側は東白髭公園で人通りの少ないところです。
東白髭公園の向こうには、都営白髭東アパートが堤防のごとく建ち並びます。


【写真 上(左)】 東門
【写真 下(右)】 西門

徒歩だと東白髭公園側(東側)からのアプローチですが、車は一方通行の堤通り側からのみなので要注意です。
駐車場はありますが、夕刻には堤通り側(西側)の門扉が閉まるので閉門後は駐車できません。
本堂が東向きなので、表参道は東側の東白髭公園側かと思います。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂は近代建築で、階段をのぼった2階が向拝、見上げに寺号扁額を掲げています。
御本尊は慈恵大師(元三大師)です。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 身がわり地蔵尊


【写真 上(左)】 梅若念仏堂と梅若塚
【写真 下(右)】 梅若念仏堂

本堂向かって右手のガラス貼りの覆屋のなかにある(おそらく)宝形造桟瓦葺の堂宇は「梅若念仏堂」です。
このお堂は、梅若丸の母・妙亀大明神が梅若丸の死を悼んで墓の傍らに建立したお堂が基とされています。

毎年4月15日の梅若丸御命日には、梅若丸大念仏法要・謡曲「隅田川」・「梅若山王権現芸道上達護摩供」が勤行されます。


【写真 上(左)】 堂内のお像
【写真 下(右)】 梅若塚

「梅若念仏堂」の向かって左隣には梅若塚があります。
貞元元年(976年)梅若丸が亡くなった場所に、忠圓阿闍梨が墓石(塚)を築き、柳の木を植えて供養したという塚です。
江戸時代には、梅若山王権現の霊地として信仰されていたといいます。



境内には浄瑠璃塚や歌曲「隅田川」の碑、高橋泥舟の筆になる落語家三遊亭円朝の建碑「三遊塚」、伊藤博文の揮毫による巨碑「天下之糸平の碑」、山岡鉄舟揮毫の石碑などが点在し、文化の香り高い山内です。


御朱印は本堂1階に書置が用意されています。

〔 木母寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御本尊・元三大師の御朱印
【写真 下(右)】 梅若塚の御朱印



■ 墨田区お寺めぐり第2番のスタンプ


■ 第11番 宝珠山 理性院 如意輪寺
(にょいりんじ)
天台宗東京教区公式Web

墨田区吾妻橋1-22-14
天台宗
御本尊:如意輪観世音菩薩
札所本尊:
司元別当:牛島太子堂(中之郷太子堂)
他札所:新葛西三十三観音霊場第2番、西三十三観音霊場第2番、墨田区お寺めぐり第20番

第11番は墨田区吾妻橋の如意輪寺です。

天台宗東京教区公式Web、下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

如意輪寺は、嘉祥二年(849年)、比叡山四祖慈覚大師円仁(794-864年)が唐から帰国され、郷里の下野国大慈寺へ向かわれる途中、この地に聖徳太子自作(慈覚大師が感得されて彫刻とも)とされる太子像を堂宇(牛島太子堂・中之郷太子堂)に安置したのが草創といいます。

如意輪寺の位置づけは牛島太子堂の別当で、如意輪寺の御本尊は如意輪観世音菩薩でした。
『葛西志』には「本尊大師の本地如意輪観世音を安置す」とあります。

慈恵大師良源(元三大師)(912年-)は如意輪観世音菩薩の化身とされますから、「本尊大師」は元三大師をさしているのかもしれません。
ただし、当山が慈覚大師円仁の草創だとすると元三大師の御生誕前ですから、年代的に符合せずナゾが残ります。

『葛西志』によると当初は小梅村水戸家御蔵屋敷の辺(現・隅田公園)にあり、中の郷への移転時期は定かではないものの、寛文二年(1662年)刊行の『江戸名所記』に「中の郷太子堂」とあるので、寛文二年より前に小梅村から中の郷元町に移っていると解しています。

1849-1869年刊行の『江戸切絵図』にも、「中の郷」にその名がみえます。

原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本所絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

『江戸名所記』には文禄年中(1592-1595年)太子堂近くに光りが発し、弥陀三尊の種子を記した板碑が出土、これを供養するとその怪異は消えたとありますが、この板碑は現存していません。

池波正太郎の『鬼平犯科帳』(時代設定:天明七年(1787年)-寛政七年(1795年))では、「敵(かたき)」に如意輪寺の南の門前にある花屋が登場します。

「大滝の五郎蔵は、まっすぐに大川(隅田川)をわたって、本所、中ノ郷元町にある如意輪寺門前の花屋に入った。」とあり、このあたりの道行きはいまも変わりません。

なお、江戸時代は現・吾妻橋、東駒形辺を「中之郷(村)」といい、如意輪寺は「中之郷元町」にあったといいます。

明治維新までは上野寛永寺末、その後、成就寺(江戸川区逆井)末となりました。

大正12年の関東大震災で灰尽に帰し、区画整理によって現在地に移転したといいますが、中の郷元町は吾妻橋の東側で、現在地にほど近く近距離の移転とみられます。

おそらく関東大震災で牛島太子堂・太子像と如意輪観音像が失われています。
現在は如意輪寺の本堂(昭和32年建立)に、新たに勧請された如意輪観世音菩薩と中興のご住職が刻まれた孝養太子像が合祀されています。


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【史料・資料】

『寺社書上 [121] 中ノ郷寺社書上 二止』(国立国会図書館)
本寺東叡山末
武州葛飾郡中之郷
天台宗 嘉桂山南光院成就寺末
同宗 宝珠山理性院如意輪寺
開闢起立 相知不●候
開山開基 相知不●候
中興開山開基 相知不●候
 
太子堂
 聖徳太子立像 太子御自作●●候
 聖徳太子前立 木立像
 四天 木立像
 不動明王 木立像
 二童子 木立像
 庚申 木立像  
客殿
 本尊 如意輪観世音 木佛

『江戸名所図会 7巻 [18]』(国立国会図書館)
太子堂
同所(中郷)元町にあり天台宗如意輪寺に安置す本尊聖徳太子の像ハ十六歳にならせたまふ時自親造りたまふとなり 当寺ハ淳和天皇の嘉祥年間(848-851年)慈覚大師東國遊化の頃の創建にして帝百畝の水田を寄附したまふ 天文の頃(1532-1555年)此地祝融氏の災にかく●と雖も太子の霊像ハ自火焔を●●て出たまひて恙なりしより江戸名所(以下不詳)

『葛西志 : 東京地誌史料 第1巻』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
太子堂
一道寺の南に隣れり、四間に二間半の塗屋の堂なり(中略)起立の年歴その詳なる事は伝へされとも、往古は今の小梅村水戸家御蔵屋敷の辺に有て、村開闢よりの堂なりといえば、古くよりのものなるは論なし。当所へ移りしその年歴は伝へざれども、寛文二年(1662年)梓行の江戸名所記に、中ノ郷太子堂をのせたれば、是よりさき移りしはしらる、同書に云、太子堂は、これ慈覚大師の建給ひしなり、その比太子の像を安置し給へり、此像は太子みづから作り給ふ所なり、数年を経て文禄年中(1592-1595年)此堂のほとりに、夜なゝ光りありければ、その地を堀たりければ、一ツの石塔を堀出す、石のおもてに彌陀三尊の種子あり、その下に文字ありとみえしきがきへて知がたし、文明二年(1470年)庚寅とあり、さのみ久しき石塔にはあらすと覺へ侍り。是を堀出して立置けるよりして、光物二度出ることなしと、これは太子にあづからさる事績なれど、𦾔地の一證となすへし。
別当如意輪寺
門を入て右の方に住居す、天台宗同所成就寺末、寶珠山理性院と号す、本尊大師の本地如意輪観世音を安置す。

『墨田区史 本編』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
如意輪寺
伝えられる創建年代はきわめて古く仁明天皇の代、嘉承二年(849年)八月に慈覚大師の創建とされる。天台宗で中之郷成就寺末であるが、神仏分離以前には牛島太子堂の別当寺となっていて太子堂の名称の方が広く知られていた。
牛島太子堂は中之郷太子堂ともいわれ慈覚大師の作になる聖徳太子の像を安置していたが、これは大師が関東修行中に作ってこの地に安置したものと伝えられ、一説には『江戸名所図会』が「本尊尊聖徳太子の像は十六歳にならせ給う時自親造り給うとなり」と延べているように、聖徳太子自身の作ともいわれている。
本尊は如意輪観世音の木像で、また水戸徳川家の臣雪斉の書になる「牛島聖徳太子」の石額および延宝六年(1678年)の六地蔵などが寺内にある。





原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[18],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836]. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


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最寄りは都営地下鉄浅草線「本所吾妻橋」駅で徒歩約5分。
メトロ鉄銀座線・東武スカイツリーライン「浅草」駅からも徒歩10分程度で歩けます。

「浅草」駅から隅田川を吾妻橋で渡ってのアプローチの方が風情があるかもしれません。
「リバーピア吾妻橋」の東側の路地に面してあります。
対岸の浅草の殺到がうそのように、人通りが少なく落ち着いた一角です。


【写真 上(左)】 吾妻橋
【写真 下(右)】 山内入口

かつては門前町をなし、寺域560坪にも及ぶ大寺と伝わりますが、いまはこぢんまりとした山内です。


【写真 上(左)】 堂号標
【写真 下(右)】 寺号標

向かって右の門柱に「牛島太子堂」の堂号標、左には「如意輪寺」の寺号標。
すぐ正面が本堂です。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

昭和32年建立の本堂は入母屋造産瓦葺流れ向拝で、屋根に大ぶりな千鳥破風を押し立てて風格があります。


【写真 上(左)】 向拝-1
【写真 下(右)】 向拝-2

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に縦長の変わった形状の蟇股を置いています。

向拝向かって右手に「牛島太子堂 南無聖徳太子」、左手に「本尊 如意輪観音菩薩」の幟をたて、太子堂と別当・如意輪寺双方を継承していることがわかります。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 二重扁額

向拝見上げに「牛嶋聖徳太子」の扁額、堂内に「寶珠山」の山号扁額を掲げて、二重扁額となっています。


【写真 上(左)】 六面六地蔵石幢
【写真 下(右)】 扁額

本堂向かって右手にある六面六地蔵石幢は墨田区の登録文化財に指定されています。

石幢とは、主に六角の角柱と笠、宝珠などから構成される石塔の一種です。
『すみだ文化財・データベース』Webでは「総高160 ㎝径40 ㎝(笠石及び蓮座の径)。如意輪寺の石幢は、周囲をくぼめた水盤の中央に蓮華座を置き、その上に六角の塔身が乗り、各面にはそれぞれ地蔵菩薩の名が刻まれ、像身が半肉彫されています。六地蔵の上には蓮弁状の笠石が乗りますが、宝珠は失われたものと考えられます。刻まれた銘文から、父母の菩提を弔うために造立されたと考えられます。」と解説されています。


御朱印は本堂向かって左側の庫裏にて拝受しました。


〔 如意輪寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 平成28年拝受の御朱印
【写真 下(右)】 令和6年拝受の御朱印

中央に如意輪観世音菩薩のお種子「キリーク」と「如意輪観音」の揮毫。
主印は三昧耶形(仏の印相や持物をもって、それぞれの仏を象徴的に表現するもの)を蓮華状に配置したものと思われますが、よくわかりません。
右上の印判は不明。
左下には「牛島太子堂」「如意輪寺」の揮毫と寺院印が捺されています。

令和6年拝受の御朱印には、なんと「葛西三十三所観音霊場 第二番」の札所印が捺されていました。
「葛西三十三ヶ所観音霊場」は元禄年間(1688-1704年)、浄清和尚が開創されたという葛西エリアの観音霊場で、のちに「新葛西三十三ヶ所観音霊場」として再興されていますが、情報がすくなくナゾの観音霊場です。
「新葛西三十三ヶ所観音霊場」の発願は(現)江戸川区平井の成就寺、結願は江東区亀戸の浄心寺で、如意輪寺は新旧いずれも第2番の札所となっています。

「葛西三十三ヶ所観音霊場」の札所リスト(「ニッポンの霊場」様)
「新葛西三十三ヶ所観音霊場」の札所リスト(「ニッポンの霊場」様)

下町エリアを代表する、如意輪観世音菩薩の御朱印です。
■ 東京都区内の如意輪観音の御朱印



■ 墨田区お寺めぐり第20番のスタンプ


■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-5へつづきます。

※札所および記事リストは→ こちら



【 BGM 】
■ ずっと二人で - BENI


■ ヒカリヘ - miwa


■ Let Go - 中村舞子
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■ 10曲の「輝く未来」(塔の上のラプンツェル)

6/6にTDS新エリア「ファンタジースプリングス」がオープンした影響か、このところTVで「輝く未来」(塔の上のラプンツェル)のカバーをときどき聴くが、これは難曲で上位互換テイクがほとんどない。

■ 公開 「塔の上のラプンツェル」を追体験(毎日新聞)



なので、Webで探してみました。
やっぱり難曲ゆえか、「歌ってみた」動画が少ない。
それでも10曲ほど好テイクがみつかったので、リンクUPしてみます。


☆ Mari Okonogi, Hiroshi Hatanaka - 輝く未来 (From『塔の上のラプンツェル』)

オリジナルテイクです。女性Vo:小此木麻里さん。

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■ 【文化祭】塔の上のラプンツェル/輝く未来 歌ってみた

視聴回数300万回超えの文化祭テイク。

■ 【宝塚が本気で歌ってみた】輝く未来 - ディズニー映画「塔の上のラプンツェル」より (Japanese cover) #Tangled

宝塚の星乃さん。

■ 【父娘で歌ってみた】「輝く未来」〜塔の上のラプンツェルより〜

女性Voの声質がいいです。

■ 【輝く未来】塔の上のラプンツェル/ディズニーより歌詞付き 上野ようこ

シンガーソングライターの上野ようこさん。

■ 【塔の上のラプンツェル】「輝く未来」 covered by maina × Yamasow

シンガーソングライターのmainaさん。

■ 輝く未来 ケビン&清水美依紗

シンガーの清水美依紗さん

■ 【ディズニー】塔の上のラプンツェル「輝く未来」(feat.弱酸性) Covered by 吉岡眞子

クラウドナイン所属の吉岡眞子さん。

■ 中川翔子 LIVE

マルチタレントの中川翔子さん。

■ 塔の上のラプンツェル 「輝く未来」 小此木麻里

オリジナルバージョンのヴォーカル、小此木麻里さんのLIVE。

■ 熊田このは・西岡龍生「輝く未来 (小比木麻里・畠中洋)」2018/11/03 熊田このは バースデーLIVE 溝ノ口劇場
"kagayaku Mirai -Tangled-"(輝く未来)by Konoha Kumada(with Tatsuki Nishioka).11/3/2018 at The Mizonokuchi Theater in Kawasaki/JAPAN.

熊田このはちゃん。
ひょっとしてオリジナルより音程上げてるかも・・・。
艶&透明感を備えたハイトーンがぴったりはまってる。


■ 熊田このはちゃんのディズニー曲
■ 熊田このはちゃんのセトリ(&出演記録)-Vol.2
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■ 初期サザンのバラード

何年経とうが、やっぱり真夏はサザンのバラード。
それにしても、1980年代前半の短期間にこれだけの名バラード固め打ちしてたとは、今から考えると信じられぬ。

■ シャ・ラ・ラ(サザンオールスターズ) - 桑田 佳祐 & 原 由子 -(1982年)

歌詞
曲全体からあふれる「幸せ感」が1980年代。

「横浜じゃトラディショナルな彼のが」
↑ ”横浜” ”トラディショナル”というワードイメージが聴き手のあいだで共有されていて、そこから広がる音の風景。
いまの説明チックなJ-POPの歌詞とはあきらかに一線を画している。

そういえば、この頃「ハマトラ」ってトレンドだったな。
サウンドイメージとしては ↓ こんな感じか?

■ とみたゆう子☆海のキャトル・セゾン☆


サザンととみたゆう子なんて、ふつうに同じテープに入れて聴いてたもんな・・・。

■ 海 (『人気者で行こう』1984年)

↑ ほら、つづけて聴いてもぜんぜん違和感ないでしょ。
初期サザンならではのメジャー・セブンス曲。
個人的にはサザンのベストテイクかも。

■ 夏をあきらめて (『NUDE MAN』(1982年))

桑田さんの歌詞がキレッキレの夏の雨歌。
こういう刹那的なナンバーも初期サザンの魅力だった。

■ 涙のアベニュー (『タイニイ・バブルス』1980年)

思いっきり「抽象」な歌詞。
「心に刺さる」感はなかったけど、雰囲気で伝えきる名曲。

■ 夕陽に別れを告げて〜メリーゴーランド (『KAMAKURA』(1985年))

「初期サザン」のLASTを飾るサザン屈指の名曲。
原さんのキーボードのカウンターメロディの綺麗さが尋常じゃない。

■ 素顔で踊らせて (『ステレオ太陽族』(1981年))

歌詞には「2月26日」とあるけど、夏の海辺の夕暮れにハマりまくってた。

■ 栞のテーマ (『ステレオ太陽族』(1981年))

キャッチーなメロのロッカバラード。
これまた、原さんのキーボードリフが効きまくってる。

■ Oh! クラウディア (『NUDE MAN』(1982年))

コード
いつまでも この胸に(Bm F#aug Bm/A)
オーギュメント→オンコード
メロディが際立つサザン屈指の名バラッド。

■ 旅姿六人衆 (『綺麗』(1983年))

コード
ベースはF G Em Am(4536)の王道進行ながら、
ステキな今宵を分け合えりゃ Dm A# C (261)の切り返し(斬新)感がハンパじゃない。
伝説の1998 スーパーライブ in 渚園

神テイクすぎるにもほどがある!

小手先の演出も、思わせぶりなMCも、ギミックも衒いもなにもなく・・・。
ただただサウンドのみで勝負していた初期サザン。
いい音楽を生み出すのに、これ以上なにが要るというのか?

■ 初期サザンの音像
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■ 都内の閻魔大王の御朱印

本日7月16日は閻魔大王のご縁日「薮入り」です。
閻魔様を祀る寺院では、御開扉されたり、限定御朱印が授与されるところがあります。

【最新情報】
7月16日の授与については不明ですが、
下記リストのうち、
第16番 長徳寺様、第18番 嶺雲寺様については、タイミングにより閻魔様の御朱印を授与されています。


【説法をされる閻魔さま】法乗院(深川えんま堂) 2021年5月8日(土)


こんな時代だからこそ、閻魔様詣でをしつつ、勧善懲悪、因果応報の教えを噛みしめてみるのもいいかもしれせん。

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2024-01-15 UP

明日1月16日は閻魔大王のご縁日「初閻魔」です。
閻魔様を祀る寺院では、御開扉されたり、限定御朱印が授与されるところがありますのでアゲてみました。

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2023/07/15 UP

明日7月16日は閻魔大王のご縁日「薮入り」です。
閻魔様を祀る寺院では、御開扉されたり、限定御朱印が授与されるところがあります。

そこで、江戸の閻魔様関連のふたつの霊場(江戸・東京四十四閻魔参り、閻魔三拾遺)の札所をベースに、江戸時代の著名な閻魔様(『江戸歳時記』)のデータを加えて、閻魔様の御朱印をいただける寺院を整理してみました。
なお、ふたつの霊場はいずれも現役霊場ではなく、諸般のご事情で現在御朱印授与を休廃止されている可能性もあります。


※表中、オレンジの寺院は、閻魔様参りにとくにおすすめのお寺さまです。

閻魔様の御朱印はかなりレアですが、都内では比較的授与例が多くなっています。
ただし、毎月16日のご縁日や、閻魔賽日(初閻魔(1/16)、藪入り(7/16))のみの限定授与のケースも多くみられます。

閻魔大王については、こちらの記事(「古今御朱印研究所」様)がわかりやすいので、ご覧くださいませ。

こんな時代だからこそ、閻魔様詣でをしつつ、勧善懲悪、因果応報の教えを噛みしめてみるのもいいかもしれせん。

 
【写真 上(左)】 上品寺(葛飾区東新小岩)の閻魔様
【写真 下(右)】 寶珠院(港区芝公園)の閻魔様

 
【写真 上(左)】 太宗寺(新宿区新宿)の閻魔様
【写真 下(右)】 法乗院(江東区深川)の閻魔様


 
【写真 上(左)】 源覚寺(文京区小石川)の御朱印
【写真 下(右)】 同 閻魔様の御朱印帳

 
【写真 上(左)】 華徳院(杉並区松ノ木)の御朱印
【写真 下(右)】 上品寺(葛飾区東新小岩)の御朱印

 
【写真 上(左)】 安養寺(江戸川区東瑞江)の御朱印
【写真 下(右)】 正受院(新宿区新宿)のめずらしい奪衣婆の御朱印



【 BGM 】
■ 孤独な生きもの - KOKIA


■ One Reason - milet


■ answer - 遥海
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■ 西野カナ復帰 & 西野カナの名テイク

西野カナの復帰第1作、聴いてみました。

■ 西野カナ『EYES ON YOU』MV Full


イントロからしばらくの曲調は、それほど変わってないと思った。
変わったとしたらおそらく0:48~サビの4つ打ちが、これまでになく強烈なこと。
でも、西野カナならではの落ちサビもしっかりあるし(2:20~)、楽曲的に往年の名曲を凌駕してるかは疑問だが、それなりにまとまった王道曲だと思う。
(個人的には、西野カナの歌いまわしはすこぶる繊細なので4つ打ちベースにはあまり合わないと思うが、時代の趨勢だからいたしかたないところか・・・。)

どんな反応なのかな?
Web記事(7/11配信)

まぁ、ビジュアルも歌詞のニュアンスもたしかに変わっているから、評価はいろいろと分かれるのかもしれない。
5年たってるし、自身の環境(心境)の変化もあっただろうし、この5年間のJ-POPの変容も悲しいくらいに大きかったから、当然変わる部分はあると思う。

でも、「西野カナ 復帰」でググるとこの記事(西野カナの復帰作にガッカリ。かつて“カリスマ”でい続けることができた理由)や、この記事の切り取りが上位にくるのには辟易した。

筆者(わたし)の ”西野カナ” の捉え方とはあまりにも違うので、ちと書いてみます。
青字は記事より)

「歌姫と呼ぶほど孤高の存在でもないし」
歌姫でしょう、文句なく。
とくに復帰後は「歌姫感」が増していると思う。
それに歌姫って「孤高の存在」じゃないといけないのかな?

「特徴的だったのは、このようなフレーズを洋楽、とりわけブラックミュージックっぽく歌わなかった点」
「“洋楽っぽさ”のクッションがないので、構えずに聞ける。それが過小評価される理由」

西野カナに限らず、”セツナ系”の歌姫の多くは根っこに洋楽入ってる。
とくに初期の西野カナの曲には独特のR&B感があった。
後のヒット曲ではこの「独特のR&B感」はやや薄まったけど、それでもところどころにみせる洋楽のエッセンスが曲に変化を与えていた。

この筆者氏、↓こういう曲をどう聴いてたんだろう。

■ 西野カナ Kana Nishino 『遠くても feat.WISE』 (Love Collection Tour ~pink & mint~)

最初この曲聴いたときは唖然とした。
どう聴いても邦楽のつくりじゃない。
とびきり上質なR&Bのような、ソウル・マナー&DIVA感を感じた。

■ 西野カナ『もっと…』 FULL-サブスク全曲解禁記念

この曲も凄い。
1980年代~1990年代では、こういう曲はつくり出せなかったと思う。

上記の評価が仮に歌詞に重きをおいているとしても、
↑ これらの歌詞は、「半径5メートル内に人生のすべてをかけるJ-POP的恋愛ソング」(この表現はさすがにプロだけに巧い(笑))の3部作とは違う趣がある。

あと、↓とか・・・。どう評価するんかな?

■ 西野カナ Shape Of You



まぁ、注目度高いだけにネガティブな評価はインパクトがあるし、実際検索でも上位にきている。

でも、この記事の標題だけで(曲も聴かずに)×と判断してしまう人もぜったいいるから、もうすこしワードに気を遣ってあげる優しさがあってもバチは当たらないかと思う。


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2024/06/26 UP

個人的にしばらくは活動再開はきびしいと思っていた西野カナ。
なんと活動再開決定だそうです。
Web記事(YAHOO! JAPAN ニュース 6/25(火) 20:15配信)

神の国、伊勢が産んだ歌姫。
その希有の歌声で、ふたたびこの国をあかるく照らしてほしい。


■ 西野カナ『Always』 Live Performance-Kana Nishino “Always”

まだ「セツナ系」に勢いがあった2013年リリース。
こういう好メロ曲が、あたりまえにリリースされていた贅沢な時代。

ギミックも衒いも、思わせぶりなコンセプトメイクもなく、曲そのもので勝負できる実力が西野カナにはある。


■ 西野カナ『トリセツ』 Live on Just LOVE Tour-Kana Nishino “Torisetsu”

オリジナルな歌詞の世界観。


西野カナの歌は聴く人を元気づけるけど、” 応援ソング ”は1曲もないと思う。
■ 前に向かう唄30曲 ~ 音楽がもつ力 ~

第89回「ずっと80年代でいいのに」|ザ・カセットテープ・ミュージック|BS12



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2023-11-05 UP

西野カナ

2019年1月8日に無期限活動休止をする旨を自身の公式ウェブサイトおよび公式ファンクラブ内にて発表し、2月3日に開催された「Kana Nishino Love Collection Live 2019」の横浜アリーナ公演をもって、活動休止した。(Wikipediaより)

■ By your side/西野カナ

こういうスケール感あふれる曲も・・・。
「なんでミュージックアプリに配信されてないのか不思議、、こんな歌今は作れない、西野カナにしか作れない、、」(コメント)
↑ ホントそう思う。

■ 西野カナ『涙色』 Live Performance-Kana Nishino “Namidairo”


■ 君って 西野カナ

西野カナの曲は本当にメロディがいい。
これに親しみやすくてシンプルが自作詞がのる。
2000年代後半~2010年代中盤の多くの好メロ曲を西野カナが担ったと思う。

■ 私たち 西野カナ

そしてなんといっても声質が抜群。
ソロで真価を発揮する声。
しなやかで、つややかで、きらきらしてて、そしてハイトーンのこなしが抜群。
サブスク解禁でWeb-UPされている多くのLIVE動画で、その確かな実力を実感できる。

これから折を見て追加していきます。

ps.
2008年頃から全盛を迎えた、西野カナを含む”セツナ系”を支持した層は、相当に音楽センスが高かったと思う。
この層はいま、どういう音楽を聴いているんだろう・・・。
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熊田このはちゃんのセトリ(&出演記録)-Vol.2

2022/07/06 UP(20220907 UP)

どんなに優れたハイトーン女性ボーカル聴いても(というか、聴けば聴くほど)、どうしてもここに戻ってきてしまう。
自分にとっては、やっぱり唯一無二の歌声。
これだけの声の艶と透明感、同時に出せる歌い手はほかにいないと思う。


 


■ Can You Celebrate?
2018/02/11 第23回メディカルスポーツフェスティバル
※ 期間限定リンクです。

カラオケ採点100点の名テイク。
41秒54回、ボックス形B-1の”このはビブ”炸裂。
歌い切ることさえむずかしいこの難曲で、
後半にいくにつれ、発声のキレ&声の艶が増している。

■ 見えないスタート
2017/08/27 小岩Johnny Angel
※ 期間限定リンクです。

なかなか見つからないレアテイクなので限定リンクしてみます。
圧倒的な美声。
響き渡るハイトーンで”音の壁”を創り出している好演。

■ "Precious" by 熊田このは(Konoha Kumada).11/3/2018 at The Mizonokuchi Theater in Kawasaki/JAPAN.
※ 期間限定リンクです。

このはちゃんにしてはめずらしく、中盤の落ちサビでファルセット使ってる。
でも、そのあとの大サビでそれより高い地声(or ミドル(ミックス)ボイス)を平然とかましている。
だからおそらく、”逃げのファルセット”じゃなくて、”ニュアンス出しのファルセット”。
スーパーソプラノの本領発揮か。

単なる”綺麗なハイトーン”じゃない、倍音含みのつやっつやの美声が堪能できる名唱。

↓ このはちゃん12歳(小学6年生)の歌唱に対して、「倍音」をもっていると断言した小室哲哉氏の発言シーン。
【2014歌唱王】準決勝㉑熊田このはちゃん(12) 小学6年生



「みんな空の下」(絢香のカバー)。
2017/01/08 Beautiful Girls Vol.7/Flamingo the Arushaか?
ちょっと信じられないほどの歌唱力。
こういうパワー全開的なこのはちゃん、神ってることがある。

■ アイノカタチ(feat.HIDE(GReeeeN) / MISIA) 2020/02/23 郡山湯処まねきの湯(福島県郡山市)
※ 期間限定リンクです。

MISIAの曲をこういうかたちでオリジナル化できる才能、これまでほかに聴いたことがない。


※お蔵入り中の以前書いたブログからコメント引っ張ってきました ↓

どうしたらこんな声色が出せるのか? 
この子のこういった歌聴くと、他の「歌が巧い」といわれている歌手の歌がギミックに思えてくる。
信じがたい(正直、信じたくない)ことだけど、この子の歌声で自分の音楽観が変わった。
(もともと1人のアーティストにのめり込むタイプじゃないので、これだけ思い入れのあるブログ書いてる自分が信じられぬ(笑))

この子の歌への聴き手のコメントみてると、「癒される」と並んで「やる気になった」というのが目立つ。
アップテンポの曲をノリノリで歌うワケでもないのに、そして声に切なさを帯びているのに、なぜか根っこのほうから元気づけられる。

この子の歌い方はよく「素直」だといわれるが、じつはかなり個性的で、既成の枠にはどうにも収まり切らないところがある。
だから、往々にして聴き手の予想を裏切る振る舞いをするのだが、それがたまらん魅力だった。
そんな天衣無縫な歌声とそれを浴びた驚きが、聴き手をやる気モードに導いていたのでは?


■ 手と手(オリジナル) - 熊田このは 


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2017/01/08
Beautiful Girls Vol.7/Flamingo the Arusha(大阪市浪速区)
3.You Raise Me Up(Celtic Woman)

このはちゃんの数ある名テイクのなかでも、屈指の名唱かと。
高音の美しさと空に舞い上がるような透明感&高揚感。
ここまで共鳴を効かせて艶やかなハイトーンを創り出せる歌い手は、ほんとうに希だと思う。

Celtic Woman - You Raise Me Up 【HD】

Celtic Womanと聴き比べてみても、このはちゃんの声質の素晴らしさがわかる。


   


2021/05/26 更新UP
『ツキミソウ /Novelbright』 covered by 熊田このは

↑ なんと、4/25に最新のテイクがUPされていました。
遅延UPですみません。

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2020/11/17 更新UP
↓の基準にかかわらず、埋め込みリンクしている動画があります。
また、現在、リンク解除している動画があります。

2020/08/31 UP
直近の動画を追加してみます。
また、過去のテイクもすばらしいものがたくさんあるので、できる限り動画をリンクしていきます。

字数制限に引っかかってしまうので、2つに分割しました。(Vol.1、Vol.2)
熊田このはちゃんのセトリ(&出演記録)-Vol.1
熊田このはちゃんのセトリ(&出演記録)-Vol.2(この記事)

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2020/02/02 UP~
自分のなかでこのはちゃんのセトリが錯綜してきてるので、一念発起して(笑)整理してみました。
あわせて「このはちゃんねる」の動画&カラバト公式動画もリンクしました。

「曲目不明」がけっこうあるし、自分の行ったLIVEでさえ記憶があいまいで(笑)、まだだいぶ抜けている曲があると思いますがとりあえずUPしてみます。(間違いもあるかもしれません。)

現在Webに上がっている動画のなかで、個人的にとくに「名唱」だと感じているテイクを20曲(カラバト1曲を含む)+α選んで、YouTubeを埋め込みリンクしています。(表中、赤文字+☆ マーク)

さらに、現在WebUPされていない「名唱」と、それに迫るような出来と感じているテイクについて、YouTube動画に直リンクを貼りました。(表中、青文字+★マーク、カラバト除く)
(注:↑の基準はあくまでも筆者の個人的な好みによるものです。)

その他のテイクについても、可能な限り直リンクを貼っていきます。

このはちゃんの歌声は世界に通用する(というか、ハイトーン好きなら国籍問わず素通りできないはず)と思っているので、BillBoard風にインフォメーションを入れてみました(笑)
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Konoha Kumada "熊田このは" is Japanese female singer(and amazing highest-singing voice) , and 1 / f fluctuation-healing voices.awesome!
born on November 2002 in Soma-city, and raised in Koriyama-city,Fukushima-pref./JAPAN

a List of Appearance record,Setlist and Biography.
→ ■Konoha Kumada's twitter
※現在休止中。
→ ■Konoha Kumada's blog
→ ■Konoha Kumada's YouTube-Site(このはちゃんねる)
→ ■Konoha Kumada's KARASTA Page
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2019/01/20
あおいとこのはのスペシャルステージ / 溝ノ口劇場(川崎市高津区)
<二木蒼生/熊田このは>
・瑠璃色の地球(松田聖子)☆

【 現在、非公開中 】
"Ruri iro-no Chikyu"(瑠璃色の地球) by Konoha Kumada.1/20/2019 at The Mizonokuchi Theater in Kawasaki/JAPAN.

・青いベンチ(サスケ) 〔with/二木蒼生〕


・プロローグ(Uru) → YouTube(このはちゃんねる) 【 現在、非公開中 】

・君の名は希望(乃木坂46) 〔with/二木蒼生〕★


・YELL(いきものがかり) → YouTube【 現在、非公開中 】
・手と手(オリジナル)
・マル秘曲

2019/02/17
konoha & yui 天使のハーモニー / 溝ノ口劇場(川崎市高津区)
<熊田このは/原藤由衣>
・さよなら大好きな人(花*花) 〔with/原藤由衣〕☆

"Sayonara Daisuki-na Hito"(さよなら大好きな人) by Konoha Kumada(with Yui Harafuji).2/17/2019 at The Mizonokuchi Theater in Kawasaki/JAPAN.

・I believe(絢香) → YouTube 【 現在、リンク解除中 】
・Squall(松本英子/福山雅治)★ → Youtube 【 現在、非公開中 】
・明日への手紙(手嶌葵)☆

【 現在、非公開中 】
"Asu-e-no Tegami"(明日への手紙) by Konoha Kumada.2/17/2019 at The Mizonokuchi Theater in Kawasaki/JAPAN.

・思い出せない花(フレンチ・キス) 〔with/原藤由衣〕


・GO FOR IT!! (西野カナ) 〔with/原藤由衣〕★


・素直(槇原敬之) → YouTube 【 現在、非公開中 】
・Break Free(Ariana Grande)★
・手と手(オリジナル)
・マル秘曲

2019/03/11
「福魂祭」(東日本大震災復興イベント)オープニング/ビックパレットふくしま(福島県郡山市)
・月光(鬼束ちひろ)

2019/03/30
Melody Line 〜はじまりのうた〜 / 池袋オペラハウス(東京都豊島区)
<玉木聖愛/富金原佑菜/三阪咲/熊田このは/and more?>
1.プロローグ(Uru)
2.なごり雪(イルカ) → YouTube(このはちゃんねる) 【 現在、非公開中 】
3.桜坂(福山雅治)★
4.時代(中島みゆき)★ → YouTube(このはちゃんねる) 【 現在、非公開中 】
5.素顔(槇原敬之) → YouTube(このはちゃんねる) 【 現在、非公開中 】
6.明日への手紙(手嶌 葵) → YouTube(このはちゃんねる) 【 現在、非公開中 】
7.奏(スキマスイッチ)★

2019/04/29
花の彩りコンサート / 溝ノ口劇場(川崎市高津区)
<熊田このは/富金原佑菜>
・打上花火(DAOKO X 米津玄師) 〔with/富金原佑菜〕☆

"Uchiage-Hanabi"(打上花火) by Konoha Kumada(with Yuuna Fukinbara).4/29/2019 at The Mizonokuchi Theater in Kawasaki/JAPAN.

・泣き出しそうだよ(あいみょん) 〔with/富金原佑菜〕


・もののけ姫(米良美一)★ → YouTube(このはちゃんねる) 【 現在、非公開中 】
・月光(鬼束ちひろ)★ → YouTube(このはちゃんねる) 【 現在、非公開中 】
・アイノカタチ(feat.HIDE (GReeeeN) / MISIA)☆

【 現在、非公開中 】
"Aino-Katachi"(アイノカタチ) by Konoha Kumada.4/29/2019 at The Mizonokuchi Theater in Kawasaki/JAPAN.

2019/06/30
JOYSOUND全国カラオケ大会(決勝) / 品川ステラボール(東京都港区)
・サクラ色(アンジェラ・アキ)☆

"Sakura Iro"(サクラ色) by Konoha Kumada.6/30/2019 at The Shinagawa-stellarball,Tokyo/JAPAN.
関連Web

2019/07/21
『Music Font vol.2』 / Yokohama O-SITE(横浜市西区)
<熊田このは/浦西ひかる/所谷彩未/砂月凜々香/北條 響>
・曲目不明

2019/07/27
第28回野木町ひまわりフェスティバル / 野木第二中学校南側 屋外ステージ(栃木県野木町)
「歌うまバトル」〔鈴木杏奈と熊田このはのコラボステージ〕 13:00~14:00
・いのちの歌(竹内まりや)
〔熊田このはソロステージ〕 15:00~15:30
1.Precious(伊藤由奈)★ → twitter
2.マリーゴールド(あいみょん)
3.月のしずく(RUI)
4.時代(中島みゆき)★
5.365日の紙飛行機(AKB48)★ → twitter
名演! 高温&強風の悪条件をものともせず、素晴らしいパフォーマンスを繰り広げた熊田このはちゃん&鈴木杏奈ちゃん。

2019/10/27
日産しらさぎ祭り / 日産自動車㈱栃木工場内 屋外ステージ(栃木県上三川町)
〔第1部〕 12:05〜12:25
1.アイノカタチ(MISIA)
2.糸(中島みゆき)
3.花(中 孝介)
4.やさしさで溢れるように(JUJU)
〔第2部〕 13:10〜13:30
5.もののけ姫(米良美一)
6.三日月(絢香)
7.秋桜(山口百恵)★
8.優しいあの子(スピッツ)

2019/11/03 Release!
□ オリジナルCD「Konoha」リリース
熊田このは 1stオリジナルCDアルバム「Konoha」PROMOTION


M1.手と手
M2.ひとり
M3.笑顔の向こうで
information
Label & Promotion:Perform art of music
Produced by Naoki Daichi







2019/11/04  → 関連メディア
熊田このは & 西岡龍生 バースデー 2MAN LIVE / 溝ノ口劇場(川崎市高津区)
<熊田このは/西岡龍生>
OP.美女と野獣-Beauty and Beast- 〔with/西岡龍生〕 → YouTube


1.海のおかあさん/崖の上のポニョ
2.友達の唄(中村 中)★ → YouTube(このはちゃんねる) 【 現在、非公開中 】  
3.サクラ ~卒業できなかった君へ~(半崎美子)★  ※ファンのリプ曲
4.手と手(オリジナル) → YouTube 【 現在、リンク解除中 】
5.果てしなく続くストーリー(MISIA)
<休憩>
6.優しいあの子(スピッツ) → YouTube(このはちゃんねる) 【 現在、非公開中 】
7.今、風の中で(平原綾香)☆

【 現在、非公開中 】
"Ima kaze-no naka de"(今、風の中で) by Konoha Kumada.11/4/2019 at The Mizonokuchi Theater in Kawasaki/JAPAN.

8.笑顔の向こうで(オリジナル)
9.ひとり(オリジナル)★
ED.世界中の誰よりきっと(中山美穂&WANDS) 〔with/西岡龍生〕


2019/11/17 On Air
■ カラオケバトル U-18歌うま甲子園 2019年間チャンピオン決定戦
予選 / さよなら大好きな人(花*花) ※Ai機種採点
決勝 / 今、風の中で(平原綾香) ※Ai機種採点

2019/12/08
ひたマルシェ 洋野菜フェスタ2019・冬 / 道の駅常陸大宮~かわプラザ~ 屋外ステージ(茨城県常陸大宮市)
〔第1部〕(11:00~)
1.優しいあの子 (スピッツ) → YouTube 【 現在、非公開中 】
2.糸(中島みゆき) → YouTube 【 現在、非公開中 】
3.時代(中島みゆき/薬師丸ひろ子)☆

【 現在、非公開中 】
"Jidai"(時代) by Konoha Kumada.12/8/2019 at The Kawaplaza-Stage,Hitachiomiya, Ibaraki-pref./JAPAN.

4.涙そうそう(夏川りみ)
5.手と手(オリジナル)
6.今、風の中で(平原綾香)
〔第2部〕(13:00~)
7.未来へ(Kiroro)
8.サイレント・イヴ(辛島美登里)★
9.愛のうた(倖田來未)
10.手と手(オリジナル)
11.明日への手紙(手嶌 葵)
12.メリクリ(BoA)★

2019/12/15 On Air
■ カラオケバトル U-18歌うま甲子園 2019年間チャンピオン決定戦
予選 / あなたがここにいて抱きしめることができるなら (miwa) ※Ai機種採点
決勝 / 愛のうた(倖田來未) → 2位 ※Ai機種採点

2019/12/30
"The Band Night" vol.3 / ESAKA MUSE(大阪府吹田市)
<下北姫菜/北村來嶺彩/大知直樹/富金原佑菜/岩内幸乃/熊田このは>
・to U(Bank Band/Salyu)☆
【 現在、リンク解除中 】
"to U" by Konoha Kumada.12/30/2019 at The ESAKA MUSE in Suita,Osaka-Fu/JAPAN.

・フリージア(Uru)☆ 

【 現在、非公開中 】
"Freesia"(フリージア) by Konoha Kumada.12/30/2019 at The ESAKA MUSE in Suita,Osaka-Fu/JAPAN.

・笑顔の向こうで(オリジナル)
・ひとり(オリジナル)
・手と手(オリジナル)☆

"te to te"(手と手) by Konoha Kumada.12/30/2019 at The ESAKA MUSE in Osaka/JAPAN.
on 11/3/2019,Konoha released her first original album(Japanese-language)「Konoha」.
"te to te"(手と手) is representative song from the Album「Konoha」.
information

2020/01/12
あおいとこのは SPECIAL 2MAN STAGE / 溝ノ口劇場(川崎市高津区)  → 関連メディア




昨年と同様、ほのぼのとしたLIVEで癒されました。
このふたりの相性、ほんとにいいと思う。
それと、今回蒼生ちゃんの声のよさと巧さを実感した。
なまじの相手だったらあっさり喰ってしまう実力だと思うけど、なにせ今日の相手はこのはちゃんだからね・・・(笑) 

<二木蒼生/熊田このは>
1.SAKURA(いきものがかり)
2.愛のカタチ(海蔵亮太)★ → YouTube(このはちゃんねる) 【 現在、非公開中 】
3.手と手(オリジナル)
4.あなたがここにいて抱きしめることができるなら(miwa)★
5.笑顔の向こうで(オリジナル)
〔コラボ〕
6.美女と野獣-Beauty and Beast- 〔with/二木蒼生〕★

この曲のできもよかった。
2019/11/04のバースデー2MAN LIVEで出さなかったラストのハイトーン(スキャット)、今日は超絶美声が出てた。
3:18~の美声。この声域歌ったらほとんど無敵では?
蒼生ちゃん、リードとれる綺麗なハイトーンもっているのに、徹底して裏メロで支えてくれている。
2アングルからの編集入ったすばらしい動画。

7.A Whole New World 〔with/二木蒼生〕☆

"A Whole New World" by Konoha Kumada(with Aoi Niki).1/12/2020 at The Mizonokuchi Theater in Kawasaki/JAPAN.
このはちゃんの声の艶が凄かった。蒼生ちゃんも深みのある中低音を繰り出して大健闘。
このはちゃんのハイトーンの透明感と艶、オリジナルのRegina Belleを凌いでいると思う。
2:06~、ぜったい1/fゆらぎ出てるし・・・。

〔リクエスト〕  

■このはちゃんの候補曲リスト(→ こちら
しかしま~、いつも思うけどこのはちゃんの選曲ってほんとにいいとこ突いてるわ・・・。
この30曲、3枚組のカバーCD出してくれたら10セットは買う(笑)

個人的にとくに聴きたかった3曲は、
1.You Raise Me Up (Celtic woman)
2.Endless Story (伊藤由奈)
3.CAN YOU CELEBRATE? (安室奈美恵)

このはちゃんが歌った曲は、未来へ、瑠璃色の地球、Goodbye Yesterday、Time goes by、愛を込めて花束を、そしてラストにYou Raise Me Up。
Goodbye Yesterdayについては、MCで「家に今井美樹の30曲くらい入っているベストアルバムがあって、そのなかでお気に入り」とのお話し。(同世代ではPRIDEの方が人気(というか知名度)があるらしい。)
これかな?

わたしは今井美樹のデビュー時からのフォロワーなので、このはちゃんがこのアルバムを聴いていて、そのなかから「Goodbye Yesterday」を選んで歌ってくれることはとっても嬉しい。
この曲はカラバトでも歌っているけど、今日のテイクがこれまででベストだったと思う。
ラストにくるまで3曲ともかすりもしなかったので、「これはだめかな~?」とあきらめかけていたところ、最後の方に「You Raise Me Up」を見事指名していただきました。感謝!

(順不同、動画ないので落としや間違いあるかも・・・)
・未来へ(Kiroro)
・瑠璃色の地球(松田聖子)
・Goodbye Yesterday(今井美樹)
・Time goes by(Every Little Thing)
・愛を込めて花束を(Superfly)
・You Raise Me Up(Celtic Woman)★
↑ 凄い! の一言。
個人的にはこのはちゃんのベストテイクのひとつと思っている、大阪Flamingo the Arusha(2017/01/08)の内容を優に上回っていたと思う。
2017の動画、いまは視れないけど、以前、あまりの素晴らしさにワールドワイドレベルで比較した記事(7曲の「You Raise Me Up」)書いた。
今回のできはこれを上回っていたと思うので、それこそ世界屈指の歌唱では?

(↓ の動画、オフィシャルビデオより出来がいい名演だけど、本家アイルランドの歌姫たち(Celtic woman)、誰一人として今日のこのはちゃんの歌声を上回っていないと思う。)
■ You Raise Me Up - Celtic woman(原曲)


ここ数年でハイトーンの発声が少しずつ変わってきている感じはしていたので、こんな天空にぶつけていくようなハイトーン、正直、いまでも出せるとは思っていなかった。
それが、さらにレベルアップしたかたちで聴けるとは・・・。 絶句。 
この曲は、フルで聴きたかった。

比類なき才能!
誰にも似ていない。誰のまねでもない。「熊田このは」というオリジナルのフォーマット。
ゆっくり、あせらず、思うがままに進んでいってほしい。
この才能、音楽の神様はきっと見守っているから・・・。

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■ このはちゃんが2020/02/09から「KARASTA(カラスタ)」(カラオケ歌い放題動画コミュニティ)に投稿しています。

奇跡 (Uru) (2020/02/09UP)
アイ (秦 基博) (2020/02/09UP)
あなたがここにいて抱きしめることができるなら (miwa) (2020/02/09UP)
片想い (miwa) (2020/02/10UP)
奇跡 (シェネル) (2020/02/10UP)
空も飛べるはず (スピッツ) (2020/02/10UP)
なごり雪 (イルカ) (2020/02/11UP)
inside a dream (梶浦由記) (2020/02/15UP)
3月9日 (レミオロメン) (2020/02/29UP)
以降はこちらをご覧ください。

たまにフルやセミフルバージョンがUPされます。
2020/03/31 あなたがいることで(Uru)
OGPイメージ

熊田このはさんのあなたがいることで カラオケ動画【KARASTA(カラスタ)】

熊田このはさんのあなたがいることで カラオケ動画【KARASTA(カラスタ)】

 


2020/05/03 麦の唄(中島みゆき)
OGPイメージ

熊田このはさんの麦の唄 カラオケ動画【KARASTA(カラスタ)】

熊田このはさんの麦の唄 カラオケ動画【KARASTA(カラスタ)】

 


2020/02/23
まねきの湯館内イベント/ 郡山湯処まねきの湯(福島県郡山市)
14時ごろ~ セトリのネタ元(UPありがとうございます。)
1.サクラ ~卒業できなかった君へ~(半崎美子)
2.アイノカタチ(MISIA)★ → YouTube(このはちゃんねる) 【 現在、非公開中 】
3.時代(中島みゆき)
4.手と手(オリジナル)
5.奇跡(Uru)
6.心の瞳(坂本 九)☆

【 現在、非公開中 】
"Kokoro-no Hitomi"(心の瞳) by Konoha Kumada.2/23/2020 at The Manekino-Yu in Koriyama,Fukushima-pref./JAPAN.

7.ひとり(オリジナル)
8.YELL(いきものがかり)

2020/03/02・2020/03/21
「このはちゃんねる」で3曲新規UPされています。
あまりにできがいいので、3曲とも動画埋め込みでご紹介します。

1.あなたがここにいて抱きしめることができるなら(miwa)☆

【 現在、非公開中 】
"Anata-ga Koko-ni-ite Dakishimeru Koto-ga Dekirunara"(あなたがここにいて抱きしめることができるなら) by Konoha Kumada."KARAOKE" Performance 3/2/2020Web-up.

2.あなたがいることで(Uru)☆

【 現在、非公開中 】
"Anata-ga Iru-koto-de"(あなたがいることで) by Konoha Kumada."KARAOKE" Performance 3/2/2020Web-up.

3.I LOVE…(Official髭男dism)☆
※ 動画は、削除されています。
"I LOVE…" by Konoha Kumada."KARAOKE" Performance 3/2/2020Web-up.

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【 DEEMO THE MOVIE 歌姫オーディション ~令和歌姫プロジェクト~ 】
このはちゃんが応募しました。

〔 1次予選 〕
〔 1次予選D 〕 2020年2月15日(土) 00:00 〜 2020年2月29日(土) 23:59
KARASTAの獲得ポイント及び審査員審査
・課題曲 :「inside a dream」 (梶浦由記)
 → このはちゃんのパフォーマンス(KARASTA)
〔 対面式オーディション 〕
5月2日(土)/5月3日(日)
WEB会議サービス「ZOOM」を用いた審査
自己PRおよび課題曲「inside a dream」歌唱

世界中から1,000名以上の応募があり、67名が 1次予選を通過しました。

〔 2次予選 〕
1次予選通過者67名から14名が選ばれました。
2020/05/04(月)/05/05(火)に開催され、2020/05/12(火)に結果発表されました。
WEB会議サービス「ZOOM」を使用した、自宅からの参加(対面式オーディション)だったようです。
・このはちゃんの2次予選応募曲(選曲自由)
「おひさま~大切なあなたへ」 (平原綾香)
【DEEMO THE MOVIE】「熊田このは」歌姫オーディション2次予選時歌唱映像


・自己PRも選考の対象となりました。
【DEEMO THE MOVIE】「熊田このは」歌姫オーディション自己PR映像


〔 3次予選 〕
2次予選通過者14名から6名が選ばれました。
・審査員審査 6月6日(土)
課題曲:「暁の車」および自由曲・・・二次予選曲イントロから1コーラス
審査員審査の模様

・投票による一般審査 6月15日(月) 0時 ~ 6月16日(火) 16時59分
・課題曲:「暁の車」 (梶浦由記)
【DEEMO THE MOVIE】「熊田このは」歌姫オーディション3次予選時歌唱映像


〔 決勝/ファイナル 〕
・課題曲:「Fluquor」(Deemo 2.0收錄曲)
スタジオレコーディングによる審査員審査

【Youtube公開】DEEMO THE MOVIE 歌姫オーディション〜 令和歌姫プロジェクト 〜 #12[6月28日放送分]


結果は→こちら
このはちゃんは惜しくもグランプリは逃したものの、ファイナリストとなっています。


前編「熊田このはちゃんのセトリ(&出演記録)-Vol.1」は →こちら


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〔 関連記事 〕 ※一部非公開としているものがあります。

■ 1/fゆらぎ?(熊田このは)-5
■ 1/fゆらぎ?(熊田このは)-6
■ 1/fゆらぎ?(熊田このは)-7
■ 1/fゆらぎ?(熊田このは)-8
■ 1/fゆらぎ?(熊田このは)-9

■ 熊田このはちゃんの癒し曲10曲
■ 奇跡のハイトーン10曲(熊田このは)
■ 7曲の「You Raise Me Up」(熊田このは)
■ 12曲の「CAN YOU CELEBRATE?」(熊田このは)

■ 黄金の世代?(カラバトU-18が強い件)

■ utsuboの音楽遍歴-5 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)
■ 1983年洋楽ピーク説
■ 東京五輪のセレモニーソング ~ 日本の歌うま女子の底力 ~
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■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-3

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-2からのつづきです。

※札所および記事リストは→ こちら

『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。


■ 第6番 鶴田山 真念寺 遍照院
(へんじょういん)
墨田区吾妻橋1-3-7
真言宗智山派
御本尊:弘法大師
札所本尊:
司元別当:
他札所:

第6番は墨田区吾妻橋の遍照院です。

下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

文政四年(1821年)の頃、当山初代住職坂下(松下)諦念(俗称内畑蔵)は、三河国西尾から一念発起して高野山に登り難行苦行の末に信心堅固の僧侶となりました。
その後、布教と困窮の民を救うため諸国行脚の途中、一夜の夢に弘法大師が現れ、この家に重病の者あり、裏山の滝で水行し快癒を祈るべし、と告げられたためそのとおりに水行を為すと、その重病人は救われたといいます。

文久二年(1862年)当地(本所竹町)に来られ大師堂を建立し、かつて弘法大師より夢想に授ったというお灸を施すと病人はたちまち快癒するので、「吾妻橋の弘法様のお灸」と呼ばれて名声は高まりました。

明治三年(1870年)の火災後、同六年に堂宇を再建、同十六年九月に総本山京都教王護國寺(東寺)末に加えられ山号寺称を許されたといいます。

明治二十年の諦念の寂後は松下啓念が住職となりました。
灸点に来る患者は胃病、喘息、神経痛、痰、肩の凝など多彩で、毎年4~5月の頃は最も繁昌して、一日平均千人を下らず平日も七百人は来院したといいます。

寺院というより鍼灸院としての名声が高いような感じもありますが、お大師さまとのゆかり、そして御本尊に弘法大師を奉じていることから隅田川二十一ヶ所霊場の札所となったものと思われます。

当山については資料類が少なく、この程度しか辿れませんでした。


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【史料・資料】

『本所区史〕(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
遍照院
遍照院は中之郷竹町十二番地に在り真言宗にして鶴田山と号し眞念寺と称す。
当寺に於て「弘法様の御灸」と称し僧侶が灸點をなし甚だ繁昌して居る。
今其の由来を聞くに、先代の住職坂下諦念(俗稱内畑蔵)は青年時代品行修まらなかったが、中年に至り一念発起して高野山に登り難行苦行の結果信心堅固の僧侶と為り、文久二年(1862年)現地に来て大師堂を建立し嘗て弘法大師より夢想に授ったと云ふ灸を施したのが始めで、漸次其の名高くなり明治三年の火災後同六年に堂宇を再建し同十六年九月に總本山京都教王護國寺末に加へられて山号寺称を許されたが、此の諦念は同二十年に寂し松下啓念が代って住職となった。
灸點に来る患者は胃病、喘息、神経痛、痰、肩の凝など大部分にて毎年四五月の頃は最も繁昌し一日平均一千人を下らず平日も七百人は来るといふ。


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最寄りは都営浅草線「本所吾妻橋」駅で徒歩約4分。「浅草」駅から吾妻橋経由でも徒歩圏内です。

マンション、オフィスビル、商店などが混在する下町らしい街並みのなか、都道453号浅草通り(吾妻橋一丁目交差点)に面してあります。


【写真 上(左)】 スカイツリーも間近です
【写真 下(右)】 外観

マンションと一体となった?寺院らしからぬ白亜の建物。
白い門扉越しに見える「遍照院」のサインと「弘法大師 遍照院」の院号標で、寺院であることがわかります。


【写真 上(左)】 入口
【写真 下(右)】 受付

たしか受付からインターフォンで来意を告げ、左横の階段を上った本堂でお唱えをしたかと思いますが、本堂(向拝)の写真はのこっておらず、記憶も定かでありません。


【写真 上(左)】 院号標
【写真 下(右)】 伏見稲荷大明神

山内に御鎮座の伏見稲荷大明神は当山鎮守かもしれません。


霊場巡拝としてはいささか面くらうロケーションですが、御朱印は快く授与いただけた記憶があります。
東京下町エリアでは希少な弘法大師の御朱印です。


〔 遍照院の御朱印 〕



中央に「弘法大師」の揮毫と弘法大師のお種子「ユ」の揮毫、主印は「ユ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第7番 牛宝山 明王院 最勝寺
(さいしょうじ)
天台宗東京教区公式Web

江戸川区平井1-25-32(墨田区東駒形から移転)
天台宗
御本尊:釈迦如来・不動明王(目黄不動尊)
札所本尊:
司元別当:牛御前社(現・牛嶋神社)(墨田区向島)
他札所:江戸五色不動(目黄不動尊)、関東三十六不動霊場第19番、新葛西三十三観音霊場第23番

※この記事は「■ 江戸五色不動の御朱印 ~ 江戸の不動尊霊場 ~ 4.目黄不動尊(最勝寺)」をベースに再構成したものです。

第7番は江戸川区平井の最勝寺(目黄不動尊)です。

天台宗東京教区Web江戸川区史(第三巻)江戸川区の文化財1集同5集、『関東三十六不動霊場ガイドブック』、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。


「中郷 最勝寺 神明宮 太子堂 / 江戸名所図会7巻[18]」
国立国会図書館DCより利用規約にもとづき転載。)


〔最勝寺の縁起と変遷〕
最勝寺の縁起変遷は牛島の牛御前社や本所表町の東栄寺ともかかわる複雑なもので、長くなりますが適宜、寄り道をしてみます。

貞観二年(860年)、慈覚大師円仁が東国巡錫のみぎり隅田河畔の向島で釈迦如来と大日如来を手ずから刻まれ、これを本尊として一寺を建立したのが草創とされます。
慈覚大師は草創時に、郷土の守護として須佐之男命を勧請して牛御前社(現・牛嶋神社)に祀り、御本尊の大日如来を牛御前社の本地仏とされたといいます。

慈覚大師の高弟・良本阿闍梨は、元慶元年(877年)に寺構を整えて開山となり、「牛宝山」と号しました。
江戸時代になってから本所表町(現・墨田区東駒形)に移転。
維新にいたるまで牛御前社(現・牛嶋神社)の別当をつとめたとされます。

本所表町(東駒形)の本寺には浅草寺参詣の人々が多く立ち寄ったほか、将軍家の鷹狩りの際にはしばしば立ち寄られて「仮の御殿」が置かれ「御殿山」と称されたといいます。

明治初年の神仏分離地に廃寺となった末寺の明王山 東栄寺から御本尊の目黄不動尊と二童子が遷られました。

大正2年(1913年)、隅田川の駒形橋架橋にともなう区画整理により現在地に移転、以降も江戸五色不動の「目黄不動尊」として信仰を集めます。

〔目黄不動尊の縁起と変遷〕
天台宗東京教区Webには以下のとおりあります。
「この不動明王像(目黄不動尊像)は、天平年間(729-766年)に良弁僧都(東大寺初代別当)が東国巡錫の折りに隅田川のほとりで不動明王を感得され、自らその御姿をきざまれたものであり、同時に一宇の堂舎を建立された。」

この由緒ある不動尊像は、最勝寺の末寺で本所表町にあった東栄寺の御本尊として奉られ、ことに将軍家光公の崇拝篤かったとされます。
家光公の治世、江戸府内に五色不動の霊場が設けられましたが、この時に「目黄不動」と称され、江戸の町を守護する不動尊として広く信仰されました。

明治の神仏分離により東栄寺は廃寺となり、本尊の不動明王像は本寺である駒形の最勝寺に遷座され、これより当寺は「明王院」と号します。
大正2年(1913年)、最勝寺の移転とともに「目黄不動尊」は駒形から現在地に移転し今日に至ります。

『関東三十六不動霊場ガイドブック』には「徳川氏の入府により、この良弁僧正御作の不動尊は、将軍家の信仰するところとなった。殊に三代将軍家光公の崇拝は篤く、仏教の大意に基づいて府内に五色不動(江戸五色不動)の霊場をもうけ、方位によって配置し、江戸城と江戸に入る街道の守護を祈願した。この時に本像が『目黄不動』と名付けられ、家光によって江戸の鬼門除けを祈願された。また『目黄』とは五色不動の中の中心的な意を持つ由緒あるものである。」とあります。

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〔日本最古の不動明王について〕
ここで気になったのは、「目黄不動」が天平年間(729-766年)、良弁僧都による謹刻という点です。

こちら(京都じっくり観光)のサイトによると、木造五大明王像(教王護国寺(東寺)講堂安置)は承和六年(839年)完成で日本最古の不動明王像とされています。

しかし『不動明王』(渡辺照宏著/朝日選書)には「高野山南院の不動尊の木彫立像(浪切不動尊)は、寺伝によると、弘法大師が長安にあるとき、恵果阿闍梨から木材を与えられて自分で彫刻して、阿闍梨に開眼加持をしてもらった。」とあります。

弘法大師の長安入りは804年の12月、806年3月に長安を立たれているので、この浪切不動尊の造立は、遅くとも806年ということになり、東寺講堂の不動尊(839年)よりも早いことになります。( → 高野山南院の資料

Wikipediaによると、不動明王が説かれている大毘盧遮那成仏神変加持経(大日経)の成立は7世紀、漢訳は724年とされています。

『不動明王』(渡辺照宏著/朝日選書)によると、『不空羂索神変真言経』第九巻に「北面、西より第一は不動使者なり。左手に羂索を執り、右手に剣を持ち結跏趺坐す。」と記されているそうです。
『不空羂索神変真言経』は菩提流志の漢訳経が伝わっており、菩提流支(ぼだいるし)は、北インド出身の訳経僧で没年は527年とされます。

良弁僧都の生年は689-774年なので、上記より晩年にはすでに不動明王に関連する不空羂索神変真言経や大日経の漢訳は成されていることになります。

良弁僧都は天平勝宝4年(751年)、華厳宗大本山東大寺の初代別当となられていますが、その時点での華厳宗と不動明王を結びつける史料がみつかりません。

弘法大師空海は、弘仁元年(810年)に東大寺の別当に就任され、山内に真言院を建立されたと伝わります。
また、毘盧遮那仏(大仏)の前で毎朝あげられるお経は「理趣経」で、弘法大師空海の影響を伝えるものとして広く知られています。

ただし、良弁僧都の没年は774年、弘法大師空海の生年も774年なので、良弁僧都が弘法大師将来の純密系の不動明王を感得されたということは考えにくいです。
ただし、日本にはそれ以前に雑密が入ってきており、その流れのなかで不動明王が将来されていた可能性はあるのかもしれません。(参考 → 『純密と雑密』(三崎良周氏))

『関東三十六不動霊場ガイドブック』によると、天平年間(729-766年)、良弁僧都が東国を巡錫した折、隅田川のほとりの大樹のもとで休んでいると、夢に不動明王があらわれ「わが姿を三体刻み、一体をここに安置せよ」との霊告を得たためみずから御影を刻まれ御本尊とされました。

また、相模国の大山不動はこの内の一体であり、当寺の不動尊像と同木同作とあります。
もう一体は大山不動とゆかりが深く、良弁作の不動尊を御本尊とする埼玉・越谷の真大山 大聖寺の大相模不動尊なのかもしれません。

■ 大山不動尊(雨降山 大山寺)/神奈川県伊勢原市 真言宗大覚寺派
「晩年に大山に登られ、石像の不動明王を感得、謹刻。大山寺第三世は弘法大師が入られる。」(『関東三十六不動霊場ガイドブック』)

■ 大相模不動尊(真大山 大聖寺)/埼玉県越谷市 真言宗豊山派
「(西方村)不動堂 縁起ノ畧ニ往古良辨僧正相州大山開闢ノ時面ノアタリ 不動ノ霊容ヲ拝シ 其尊像ヲ刻マントテ 先其木ノ根本ヲモテ一刀三禮シ一像を彫刻シ 是ヲ大山根本不動ト名付ク」(『新編武蔵風土記稿 巻之205 埼玉群郡之7』(国会図書館DC)


【写真 上(左)】 大山不動尊(雨降山 大山寺)の御朱印
【写真 下(右)】 大相模不動尊(真大山 大聖寺)の御朱印(酉年御開帳)

上記のほか、関東三十六不動霊場の札所に限っても、良弁僧都御作と伝わる不動明王は第15番の中野不動尊(明王山 聖無動院 寶仙寺)、第22番浅草寿不動尊(阿遮山 円満寺 不動院)、第23番橋場不動尊(砂尾山 橋場寺)にみられます。

第17番等々力不動尊(瀧轟山 明王院 満願寺別院)は役小角(634-701年伝)御作、第10番の田無山 総持寺の不動尊は行基菩薩(668-749年)御作と伝わるので、最古の不動尊を辿るのは容易いことではないと思います。

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廃寺となった本所表町の東栄寺について、『寺社書上(御府内備考). [92] 本所寺社書上 五』(国会図書館DC)に以下の記載があります。
「本尊不動尊 丈四尺岩座四尺 作人不知 火焔八尺●寸」「二童子 作不知 丈●尺九寸」「御腹●●不動尊 丈二寸五● 座火焔●六寸 良辨僧正之作 但シ厨子入」
御本尊の不動尊は”作人不知”ですが、別尊の不動尊は”良辨僧正之作”となっています。

今となっては詳細は不明ですが、”良辨僧正之作”の「別尊の不動尊」が目黄不動尊なのかもしれません。


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本所絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

『江戸切絵図』で本所表町辺を当たると平井への移転前の最勝寺はみつかりますが、東栄寺は見当たりません。
最勝寺の東側に「(表丁)不動堂」が見えるので、あるいはこちらが東栄寺なのかもしれません。

明治23年(1890年)刊の東京名所図会(国会図書館DC)には以下の記載があります。
「同所表町に在り天台宗にして東叡山に属す 本尊不動明王は良弁僧都の作なり 当寺往古は牛御前の別当寺にして貞観年間慈覚大師の草創良本阿闍梨開山たり 寛永年間将軍家屡々此邊に遊猟せられしを以て当寺に仮殿●を営構せしと云へり 今尚ほ御殿跡と称する所ありとぞ」
明治23年時点において、良弁僧都作の不動明王(目黄不動尊)が御本尊として御座されていたことがわかります。

ただし、天保五-七年(1834-1836年)版の『江戸名所図会 7巻18』(国会図書館DC)に以下の記載があります。
「牛寶山 最勝寺 明王院と号す 同●表町にあり天台宗にして東叡山に属す 本尊不動明王の像ハ良辨僧都の作なり 当寺ハ牛御前の別当寺にして貞観二年庚辰慈覚大師草創良本阿闍梨開山なり 寛永年間 大樹 此辺御遊猟の頃屢(しばしば)当寺へ入御あらせられしより其頃ハ假の御殿抔(など)営構なり●れたりとせり 今も御殿あとと称する地に山王権現を勧清す」

天保五-七年の時点ですでに「明王院」を号し、「良辨僧都作の不動明王」を御本尊としていたという記述は、他の資料と符合せずナゾが残ります。(ただし「明王院」は本所移転時に号したという説もあり。)

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最勝寺がかつて牛島の牛御前社(現在の牛嶋神社)の別当であったことは、複数の史料から裏付けられます。

天保五-七年(1834-1836年)版の『江戸名所図会 7巻18』(国会図書館DC)に以下の記載があります。
「牛島神明宮 同●に並ぶ相伝ふ貞観年間の鎮座なりと別当を神宮寺と称して最勝寺より兼帯す 江戸名所記云 安徳帝の壽永年間本所の郷民夢をえて 伊勢大神宮虚空よりけり大光明の内に微妙の御声にて●●土安穏天人常充満と云 法義経壽量品の文を唱へ●いられ伊勢の大神宮なりとの●●ふところ夢覚なり●中の人民●に僧(中略)伊勢の御神を勧清し」


【写真 上(左)】 牛嶋神社
【写真 下(右)】 牛嶋神社の御朱印

新編武蔵風土記稿 巻之21 葛飾郡之2(国会図書館DC)には以下の記述があります。

「牛御前社 本所及牛嶋ノ鎮守ナリ 北本所表町最勝寺持 祭神素盞嗚尊ハ束帯坐像ノ画幅ナリ 王子権現ヲ相殿トス 本地大日ハ慈覚大師ノ作縁起アリ信シカタキ●多シ 其畧ニ、貞観二年慈覚大師当國弘通ノ時行暮テ傍ノ草庵ニ入シニ位冠セシ老翁アリ 云國土惱乱アラハワレ首ニ牛頭ヲ戴キ悪魔降伏ノ形相ヲ現シ國家を守護セントス 故ニ我形を写シテ汝ニ与ヘン我タメニ一宇ヲ造立セヨトテ去レリ コレ当社ノ神体ニテ老翁ハ神素盞嗚尊ノ権化ナリ 牛頭ヲ戴テ守護シ賜ハントノ誓ニマカセテ牛御前ト号シ 弟子良本ヲ留メテコノ像ヲ守ラシメ 本地大日ノ像ヲ作リ釋迦ノ石佛ヲ彫刻シテコレヲ留メ 大師ハ登山セリ 良本コレヨリ明王院ト号シ 牛御前ヲ渇仰シ 法華千部ヲ読誦シテ大師ノ残セル石佛ノ釋迦ヲ供養佛トス 其後人皇五十七代陽成院ノ御宇 清和天皇第七ノ皇子故有テ当國ニ遷され、元慶元年九月十五日当所ニ於テ薨セラレシヲ、良本崇ヒ社傍ニ葬シ参ラセ其霊ヲ相殿ニ祀レリ 今ノ王子権現是ナリ 治承四年源頼朝諸軍ヲ引率シ下総國ニ至ル時ニ 隅田川洪水陸地ニ漲リ渡ルヘキ便ナカリシニ 千葉介常胤当社ニ祈誓シ船筏ヲ設ケ大軍恙ナク渡リシカバ 頼朝感シテ明ル養和元年再ヒ社領ヲ寄附セシヨリ、代々國主領主ヨリモ神領ヲ附セラル 天文七年六月廿八日後奈良院牛御前ト勅号ヲ賜ヒ次第ニ氏子繁栄セリ 北條家ヨリモ神領免除ノ文書及神寶ヲ寄ス其目後ニ出ス 又建長年中浅草川ヨリ牛鬼ノ如キ異形ノモノ飛出シ 嶼中ヲ走セメクリ当社ニ飛入忽然トシテ行方ヲ知ラス 時ニ社壇ニ一ツノ玉ヲ落セリ 今社寶牛玉是ナリナト記シタレド 奮キコトナレハ慥(タシカ)ナラサルコト多シ」

内容がやや錯綜していますが、牛御前社と最勝寺は、慈覚大師ゆかりの寺社として草創時からふかいつながりをもっていたことが伺われます。


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最寄りはJR総武線「平井」駅。南口から徒歩約16分(1.3㎞)です。
地図上では近くみえますが、意外に距離があります。
住所は江戸川区平井1丁目、荒川の流れにもほど近いところです。

すぐそばにある嘉桂山 成就寺も本所からの移転で、こちらも天台宗で慈覚大師ゆかりの寺院です。新葛西三十三観音霊場初番、大東京百観音霊場第96番の札所で、御本尊、阿弥陀如来の御朱印を拝受できました。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 寺号標-1

三間一戸の八脚門から屋根をとり、門柱を加えたような変わった山門(仁王門)で、両脇間には仁王尊が御座します。
本所にあった頃は三重建築の仁王門があり、朱塗りの色が美しく「赤門寺」と称されたそうです。

山門左手の寺号標には「南無妙法蓮華経 南無釋迦牟尼仏 南無阿弥陀仏」が併記されていますが、この様式の石碑はあまりみたことがありません。


【写真 上(左)】 寺号標-2
【写真 下(右)】 山内

広がりのある山内。正面に本堂、その右手に客殿と庫裡、その手前右手に不動堂、さらにその手前右に地蔵観音堂と最勝稲荷社。わかりやすく整った伽藍配置です。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

本堂は入母屋像本瓦葺流れ向拝の堂々たるつくり。さすがに名刹です。
水引虹梁に木鼻、斗栱、蟇股、海老虹梁を備え、正面桟唐戸の上に「牛寶山」の扁額を掲げています。
本堂にはおそらく御本尊の慈覚大師作の釈迦如来が御座します。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 客殿

本堂右手の客殿も破風屋根を構える風格あるつくり。


【写真 上(左)】 客殿と不動堂
【写真 下(右)】 不動堂


【写真 上(左)】 斜めからの不動堂
【写真 下(右)】 側面からの不動堂

不動堂は楼閣様式ですが、不勉強につき正確なつくりはわかりません。
向拝には水引虹梁に木鼻、斗栱、蟇股、海老虹梁を備え、正面桟唐戸の上に「不動尊」の扁額を掲げています。
全体に本堂よりも複雑な意匠です。


【写真 上(左)】 不動堂向拝
【写真 下(右)】 不動堂向拝上部


【写真 上(左)】 不動堂扁額
【写真 下(右)】 不動堂賽銭箱の意匠

不動堂には良弁僧都作とされる不動明王(目黄不動尊)が御座され、こちらも御本尊の位置づけにあるようです。
この目黄不動尊像は、都内では高幡不動尊に次ぐほどの大きな像(像高127㎝)で、「木造不動明王坐像」として江戸川区の登録有形文化財(彫刻)に指定されています。

迦楼羅炎の勢いすさまじく、右手に剣、左手に羂索を掲げられ盤石のうえに御座され、二童子を従えています。



【写真 上(左)】 目黄不動明王の石標
【写真 下(右)】 関東三十六不動霊場札所標と本堂

慈覚大師作とされ、牛御前社の本地仏であった大日如来像は、不動堂に安置されているようです。


【写真 上(左)】 地蔵観音堂
【写真 下(右)】 最勝稲荷社

最勝稲荷社は牛御前社より御遷座と伝わり、家屋守護に霊験あらたかとのことです。
墓地には鳥亭焉馬(戯作者)、富田木歩(俳人)、柔道家徳三宝夫妻の墓があります。

御朱印は庫裡にて拝受できます。
関東三十六不動霊場の札所でもあり、手慣れたご対応です。
なお、隅田川二十一ヵ所霊場第7番、新葛西三十三観音霊場第23番の御朱印は授与されていない模様です。

〔江戸五色不動尊の御朱印〕

・御朱印尊格:目黄不動尊 江戸五色不動の印判 直書(筆書)

〔関東三十六不動霊場第19番の御朱印〕

【写真 上(左)】 専用納経帳(直書)
【写真 下(右)】 御朱印帳(直書)
・御朱印尊格:目黄不動尊 関東三十六不動霊場第19番印判 法挟護童子の印判


■ 第8番 明王山 不動院 寳性寺
(ほうしょうじ)
公式Web

葛飾区堀切4-54-2
真言宗智山派
御本尊:不動明王
札所本尊:
司元別当:小谷野神社(葛飾区堀切)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第62番、荒綾八十八ヶ所霊場第12番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第60番、(京成)東三十三観音霊場第4番

第8番は葛飾区堀切の寳性寺です。

公式Web、下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

寶性寺は元亀元年(1570年)僧亮歓の創立、天正十四年(1586年)8月、亮歓の法弟歓空(-1607年)が再興して開山と伝わります。
一説には、慶長十八年(1612年)道盤の開基ともいいます。

もともとは約600m離れた地にありましたが、大正4年の荒川放水路開削により現在地に移転しました。

天明六年(1786年)および弘化三年(1864年)の洪水で多くの記録を失いましたが、大正14年に当山檀家で発見された寛政六年(1794年)記の『小谷野寶性寺不動尊縁起』があります。

『小谷野寶性寺不動尊縁起』から概略を記します。
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当山は天正十四年(1586年)、弘法大師御作の不動明王を歓空阿闍梨が御本尊に安置して開基と云う。
その後、慶長年中(1596-1615年)結縁のため開帳したところ何処へかとお隠れになった。
ときの住持は行方をさがすもみつからず、詮方なく一尊を彫り上げて山内に安した。
こちらは現在の後前立である。

宝暦年中(1751-1764年)、法印恵範の夢中に天童があらわれて告ぐには、当山の御本尊は足立郡淵江領栗原村水野弥三郎持、内御堂に御座す。しかし元来、当山が有縁で守るべき地なので帰りたき旨、不動明王の勅ありという。
じつに不思議の夢ゆえ、法印はすぐさま彼の地に出向き水野氏を尋ねると、水野氏の夢中にも童子があらわれて、その方の内御堂の不動尊は葛西領小谷野村寶性寺の本尊なり。はやく彼の地へ移し奉るべしとのお告げがあったという。

この話は諸人に広まり、多くの送り迎えの信者を集めて不動尊は寶性寺に戻られた。
こちらの不動尊は、十方信檀、願望成就せずと云うことなしといわれ、村人の篤い尊崇を集めたという。

安永年間(1772-1781年)諸国に疫病がはやり死者が多くでたときも、当村では死者はおろか一人の患者も出ず、これもひとえにお不動様の御守護のたまものと村人は一層信仰をふかめたという。
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【写真 上(左)】 小谷野神社
【写真 下(右)】 小谷野神社の御朱印

小谷野村の守護佛ともいえる不動尊を安する寶性寺はまた、小谷野村鎮守の稲荷社(源・小谷野神社)の別当を務めました。

弘法大師ゆかりの不動尊を安し、山内に大師堂を擁する当山はおそらく保守本流の真言密寺と目されたとみられ、荒川辺、荒綾、南葛(いろは大師)の3つの弘法大師霊場の札所にもなっています。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻三』(国立国会図書館)
(小谷野村)寶性寺
新義真言宗寺嶋村蓮花寺門徒 明王山不動院ト号ス 当寺ハ元亀元年(1570年)僧亮歓ノ草創ナリ 中興歓空 慶長十一年(1606年)寂ス
本尊不動 七寸許 弘法大師ノ作
弁天社

『葛飾区寺院調査報告 上』P.24(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
宝性寺
真言宗智山派。もと寺島町(墨田区東向島三丁目)蓮華寺の末。
元亀元年(1570年)僧亮歓の創立、天正十四年(1586年)八月、亮歓の法弟歓空(-1607年)が再興して開山となったといい、あるいは慶長十八年(1612年)道盤の開基ともいう。天明六年(1786年)および弘化三年(1864年)の洪水で多くの記録を失ったが、現在、古過去帳(表紙欠)や大正十四年に付近の檀家で発見された寛政六年(1794年)六月に記した『宝性寺不動尊縁起』とがある。(中略)
『小谷野宝性寺不動尊縁起』(略)
大正四年、当寺は荒川放水路開削工事のため、約六00メートル移動して、境内を現在地に変更した。本堂には絵額その他が多数掲げられている。

本堂 間口五間 奥行五間 屋根寄棟造 桟瓦葺
庫裏 
表門 薬医門 桟瓦葺
その他、大師堂、六面地蔵尊堂がある。

不動明王坐像(本尊) 中世の作か。宮殿入り。
阿彌陀如来坐像
弘法興教両大師像 二軆

『葛飾区神社調査報告』P.40(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
小谷野神社
祭神 宇迦御魂命
境内社 三峰神社 水天宮 
『葛西志』小谷野村の条に「稲荷社 除地壱畝 勧請の年暦詳ならず。宝性寺持」とあるが、『新編武蔵風土記稿』小谷野村の条には「稲荷社 村ノ鎮守ナリ。宝性寺持」といい、かつ村の総説に「小谷野村ハ正保(1644-1648年)ノ改ニ小谷野柳原村ト記シテ一村ナリ。元禄(1688-1704年)ノ改ヨリ今ノ如クニ村ニ記シタレハ、分村セシハ元禄十年(1697年)検地頃ヨリノ事ナルヘシ」とあり、柳原村の条にも、稲荷社を村の鎮守と記するによれば、小谷野村と柳原村が分村した際にそれぞれ稲荷社を建てて村の鎮守としたのであろう。
ただし「元禄十年(1697年)年武蔵国西葛西領小谷野村検地水帳」に稲荷社が載っているから、当社が元禄十年(1697年)にすでに存していたことは明白である。
旧本殿は明治十五年、拝殿は大正十五年の造営であったが、昭和47年9月、現在の社殿が新たに造営された。神楽殿は昭和14年の改築である。
社名は明治以来、稲荷神社と称していたが、昭和43年5月、住居表示の実施に伴い、小谷野の地名が焼失するので、小谷野神社と改称した。
当社には古くから<桃祭り>という特殊な神事が毎年7月20日に行われた。桃の実を開いて厄を免れる病気平癒災厄解除の神事で、明治・大正の頃には、かなり盛大であったという。
また境内社の三峰・水天宮の両社は、もと当社の南方三五0メートル、隅田川と綾瀬川の合流地点にあったが、荒川放水路の開削により、三峰社は現堀切橋際に、水天宮は隅田川水門際に移され、後さらに当社境内に遷座したものである。


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最寄りは京成本線「堀切菖蒲園」駅で徒歩約3分。
民家が密集する下町らしい街並みにとけ込むようにあります。

西に数百メートル行くと綾瀬川。
ここは綾瀬川、荒川、隅田川の流れがもっとも近寄ったところで、治水的に重要な場所と思われます。
江戸期に別当を奉任した小谷野神社は少し南西の綾瀬川沿い、綾瀬川と荒川をつなぐ綾瀬水門のすぐそばですから、さらに治水上の要地かと。

『葛飾区神社調査報告』によると、小谷野神社の境内社の水天宮は、もと当社の南方350m、隅田川と綾瀬川の合流地点にありましたが、荒川放水路の開削により隅田川水門際に移され、後に当社境内に遷座されたとのこと。
水天宮は水難除けの神としても知られますから、こちらの水天宮も川除けの性格をもたれるのではないでしょうか。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 山門

山内は築地塀に囲まれ、西側に山門があります。
山門は切妻屋根桟瓦葺の薬医門ないし四脚門で、門前に寺号標。


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 山内

山門をくぐった左手に大師堂と本堂で、比較的こじんまりとした山内です。

本堂向かって左手前にある切妻造妻入一間の堂宇は大師堂で、おそらく南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第60番のお大師さまが御座すと思われます。


【写真 上(左)】 向かって左斜めからの本堂
【写真 下(右)】 大師堂


【写真 上(左)】 大師堂扁額
【写真 下(右)】 本堂

本堂は寄棟造桟瓦葺流れ向拝で、向拝左右各二連の花頭窓が印象的です。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に蟇股を置いています。
向拝まわりの柱梁は直線的で、きっちり端正な印象です。
硝子格子戸の向拝上に山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額


御朱印は庫裏にて拝受しました。


〔 寳性寺の御朱印 〕



中央に「本尊 不動明王」の揮毫と不動明王のお種子「カン/カーンユ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「東第四番」、右下に「南葛八十八ヶ所 いろは大師 第六十番」の札所印。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

 

南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師/大心講)も比較的古く、御朱印拝受がむずかしい霊場です。
こちらではこの南葛霊場札所印のみならず、希少な東三十三観音霊場(昭和十年京成電車が企画した霊場)の印判もいただけました。

御本尊の不動明王で、「南葛八十八ヶ所いろは大師第六十番」と「東第四番」の印判が別個に捺されています。
こちらは他に荒綾八十八ヶ所霊場第12番、荒川辺八十八ヶ所霊場第62番、隅田川二十一ヵ所霊場第8番の札所も兼ねていますが、霊場を申告せずにお願いしたところ、この御朱印を拝受できました。

なお「南葛八十八ヶ所霊場」は2系統あります。
 1.「いろは大師」(大心講)と呼ばれ、発願は葛飾区奥戸の善紹寺、結願は葛飾区奥戸の妙厳寺
 2.通称名は不明(「南回り」か?)。発願は江戸川区東小松川の善照寺、結願は江戸川区東小松川の宝積院
(2については、「南葛新四国霊場」と呼ばれることもあるようです。)
一部の札所は重複し、このふたつの南葛霊場の識別をよりむずかしいものにしています。

たとえば、「いろは大師」の葛飾区鎌倉の札所は「南葛八十八ヶ所まんだら六ヶ所参り」として、毎年11月下旬の1日のみ御開帳(というか巡拝)されます。
この6札所のうち、浄光院(1.では第14番、2.では第55番)、輪福寺(1.では第17番、2.では第56番)は札所が重複していますが、「六ヶ所参り」では、1.の「いろは大師」の御朱印が授与されます。


■「南葛八十八ヶ所まんだら六ヶ所参り」の御朱印

どちらも御朱印拝受がむずかしいですが、「1.いろは大師」の方が授与札所は多そうです。(調査中)


■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-4へつづきます。

※札所および記事リストは→ こちら



【 BGM 】
■ 夏空の下 - やなわらばー


■ I'm proud - 華原朋美


■ Magic - 愛内里菜
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■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-2

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-1からのつづきです。

※札所および記事リストは→ こちら

『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。


■ 第3番 医王山 薬王院 極楽寺
(ごくらくじ)
葛飾区堀切2-25-21
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:
司元別当:(堀切村)天祖社・八幡社(葛飾区堀切)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第64番、荒綾八十八ヶ所霊場第67番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第61番、(京成)東三十三観音霊場第5番

第3番は葛飾区堀切の極楽寺です。

下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

極楽寺は、宝徳元年(1449年)紀伊根来寺の普済阿闍梨による創立と伝わります。
普済阿闍梨は弘法大師御作と伝わる薬師如来を笈に納めて東国巡化の途、当地の地頭・窪寺内蔵頭平胤夫の帰依を得て当地に一宇を建立し、医晃山薬王院と号したといいます。

当山縁起には数名の千葉氏流の武将が登場します。
千葉一族は分家がすこぶる多く辿りにくい家系ですが、武蔵千葉氏第2代当主千葉実胤が年代的に符合するので、この武将を手ががりに探ってみました。

宝治元年(1247年)の宝治合戦で千葉氏嫡流の秀胤は縁戚の三浦氏に連座して滅び、以降同族内の嫡流争いが激化します。

享徳三年(1454年)、鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことから享徳の乱がおこりました。
千葉氏第16代当主・千葉胤直と弟の胤賢は成氏討伐に功をあげ、8代将軍足利義政公から御内書をもって賞されました。

しかし康正元年(1455年)これに不満の叔父の馬加(まくわり)康胤と千葉氏庶流で重臣の原胤房に千葉城を急襲され、胤直・胤賢兄弟と胤直の子・胤宣は千田荘(現在の多古町)に逃れました。

同年8月、千田荘の多古城に拠った胤宣は馬加康胤・原胤房に攻められ自刃。
志摩城に拠った胤直・胤賢兄弟も馬加・原勢の猛攻を受けて胤直は自刃しました。

胤賢は2人の息子実胤・自胤を伴って志摩城を脱出し、小堤城(現在の横芝光町)に入ったもののこちらも攻められて胤賢も自刃し、2人の息子は八幡荘(現在の市川市)に逃れました。

実胤と自胤は市河城(現在の市川市市川)に入り足利義政が派遣した同族の奉公衆・東常縁の支援を得て再起をうかがうも、康正二年(1456年)1月足利成氏方の簗田持助らに攻められ市河城も陥落し、ついに武蔵国まで落ちのびました。
武蔵国入りしたこの千葉氏の系統を武蔵千葉氏と呼び、初代が千葉胤賢、第二代が千葉実胤(1442年-)とされます。

東常縁は歌人として著名ですが、武将としての才にも優れ、下総匝瑳郡で体勢を立て直すと馬加康胤の拠る馬加城(現在の幕張周辺)を攻め落とし、康胤と子の胤持を討ち取り原胤房を追放しました。

しかし、分家の岩橋輔胤らの勢力は強く、武蔵へ逃れた実胤らの下総への帰還は叶わず、実胤は寛正三年(1462年)に隠遁したとも伝わります。
千葉氏当主の座は実胤の子・千葉胤将が嗣いだとされますが事績はあまり残っておらず、弟の胤宣が当主を嗣いだといいます。

千葉氏当主は第14代満胤、第15代兼胤、第16代胤直、第17代胤将、第18代胤宣とつづきましたが、胤直、胤宣は上記のとおり馬加康胤に攻められ自刃しています。

遡って、千葉氏第14代当主満胤の長男は第15代当主の兼胤で、その弟は馬加康胤。
兼胤の長男は第16代当主の胤直なので、馬加康胤は胤直の叔父にあたります。
諸説はありますが、岩橋輔胤は馬加康胤の庶子とされています。

千葉氏の実権は馬加康胤から嫡子の馬加胤持、さらに康胤の庶子とされる岩橋輔胤、その子の千葉孝胤、孫の勝胤、曾孫の昌胤と遷ったため、第19代は(馬加)康胤、第20代は(馬加)胤持、第21代は(岩橋)輔胤、第22代は孝胤、第23代は勝胤、第24代は昌胤と数えられます。

しかし(岩橋)輔胤=(馬加)康胤の庶子説はかなり微妙で、諸説が建てられています。

このように、千葉氏嫡流の流れは第15代当主兼胤から次男の胤賢、その子の実胤・自胤へとつながりますが、この名流は武蔵国に流れて武蔵千葉氏となりました。
兄の実胤は石浜城(現在の台東区橋場)主、弟の自胤は赤塚城(現在の板橋区赤塚)主となりました。
なお、千葉自胤は曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』に「千葉介自胤」として登場します。

武蔵千葉氏は扇谷上杉家の保護を受けたもののついに上総への復帰はならず、子孫は武蔵国の国人となりました。

『極楽寺寅薬師瑠璃如来縁起』には、当山開基にかかわった窪寺内蔵頭平胤夫は「千葉支流木内宮内少補胤信ノ舎弟ニテ、武州石浜ノ城主千葉介実胤ノ旗下ナリ」とあります。

武蔵千葉氏第2代当主千葉実胤の家臣・木内宮内少補胤信の舎弟が、窪寺内蔵頭平胤夫ということになり、ここでようやく話がつながりました。
それにしても千葉氏関連の家督は複雑で、しかもほとんどが通字の「胤」がついているので、わけがわからなくなります。

ここまで辿ればあとは楽です。
『極楽寺寅薬師瑠璃如来縁起』には、「千葉東西両流ノ間ニ戦争シバゝ起リテ所領ヲ挑メリ。遂ニ康正二年(1456年)六月、千葉馬加陸奥守孝胤トノ合戦ニ、窪寺内蔵頭胤夫、行年四十二歳、嫡男富千代胤茂、行年十五歳ニテ討死ス。遺骸ハ父子トモニ八幡宮ノ傍ニ埋葬シ、塚ヲ建立シ窪寺塚ト呼ブ。(今ハ塚上ニ稲荷ノ社ヲ祭ル)因テ窪寺家コヽニ滅亡セリ。」とあります。

実胤・自胤兄弟が市河城を追われ武蔵国に落ちたのが康正二年(1456年)1月。
宿敵・馬加康胤は同年11月に東常縁に討たれたとされるので、窪寺内蔵頭胤夫と嫡男富千代胤茂が討死した同年6月は微妙な時期です。

あるいは東常縁の反撃の前に、実胤・自胤兄弟が馬加康胤に対して反撃を仕掛け、その際の戦で討死したのかもしれません。
(『極楽寺寅薬師瑠璃如来縁起』にある千葉馬加陸奥守孝胤(第22代千葉家当主?)は年代が合いません。やはり馬加康胤かその与力との戦かと思われます。)

おそらく満身創痍で落ちてきた実胤・自胤兄弟が、地盤のない武蔵国で石浜、赤塚の二城を得られたのは不思議な感じもしますが、背景として享徳三年(1455年)の享徳の乱などで武蔵の有力武家、江戸氏、豊島氏、葛西氏などが没落していたこと、千葉氏宗家の家柄である実胤・自胤兄弟を扇谷上杉氏や足利氏一門の渋川氏が援助したことなどが考えられます。

史料には「地頭窪寺内蔵頭平胤夫」とあるので、窪寺氏は従前からこの地で勢力を張っていたとみられます。
千葉氏と窪寺氏の関係は不詳ですが、「平胤夫」という標記からみて千葉氏系統の感じがします。(千葉氏は「平」姓、「胤」は千葉氏の通字)
あるいは、千葉氏の庶子がこの地に進出していたのかもしれず、だからこそ大きな戦なく石浜、赤塚の二城を得られたのかもしれません。

石浜城は現在の石浜神社(荒川区南千住三丁目)あたりとされ、極楽寺とは荒川・隅田川を挟んですぐ対岸です。

足立区資料によると、武蔵千葉氏は「中曽根城/渕江城」(足立区本木2丁目/現・中曽根神社付近)も築いたとされます。

資料には「天正18(1590)年に後北条氏が滅ぶと武蔵千葉氏もこの地を去りました。」とあります。

こちらの記事(歴史散歩(武蔵千葉氏の史跡を訪ねる 赤塚))には、第6代千葉直胤までの武蔵千葉氏の系譜が載っています。
Wikipediaで「千葉直胤」をひくと武蔵千葉氏第7代当主で石浜城を本拠とし、北条氏繁(1536-1578年)の四男とあり、後北条氏との関係を深め、戦国時代まで城主の座を保ったことがわかります。

『ガイド』には永禄三年(1560年)8月、大洪水のため本堂以下ことごとく流出したので、同五年(1562年)5月、正済法印が再興とあります。
一方、■ 『新編武蔵風土記稿 』には「(堀切村)神明社 村の鎮守ナリ 極楽寺持 下同シ 八幡社 以上二社ハ永禄三年(1560年)ノ鎮座ト云」とあるので、大洪水の年に堀切村の神明社と八幡社が勧請され、極楽寺がその別当となったことになります。


【写真 上(左)】 堀切天祖神社
【写真 下(右)】 堀切天祖神社の御朱印

八幡社といえば、当山の八幡宮にまつわる奇妙な伝承があります。
『極楽寺寅薬師瑠璃如来縁起』には「(窪寺内蔵頭平胤夫は)別社ヲ設ケ、武運長久ノ為トテ当山開基普済阿闍梨ヲ導師トシテ、八幡宮ヲ勧請ス。(後チ移転シテ今ノ深川富ヶ岡八幡神社ト称スル之ナリ。其旧跡ハ当寺境内ナル森ノ内ニ現存セリ)」とあります。

また、Wikipediaには「開山当初の境内には、八幡宮が祀ってあったが、洪水で流出し、流れ着いた先に設けられたのが富岡八幡宮だという伝説がある。」とあります。

『江戸名所記』の永代橋八幡宮(富岡八幡宮)の項には「御神体は千葉介乃家●あり」とあり、千葉一族との関連をにおわせています。

「猫の足あと」様では、富岡八幡宮を勧請した長盛法印には先祖伝来の弘法大師作の八幡大菩薩像があり、八幡宮勧請の地を夢告されたという伝承が紹介されています。
また、富岡八幡宮の別当・永代寺は高野山真言宗で弘法大師ゆかりの寺院です。
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極楽寺の開山・普済阿闍梨は紀伊根来寺(新義真言宗)の出で、弘法大師御作の薬師如来を背負われて東国巡化とありますから弘法大師とのゆかりがふかく、極楽寺と富岡八幡宮ないし別当・永代寺はなんらかの関係があったのかもしれません。

富岡八幡宮の創祀沿革には諸説ありますが、寛永五年(1628年)には深川の地に御鎮座とされています。
極楽寺山内の八幡宮が大洪水で流出?したのは永禄三年(1560年)ですから、富岡八幡宮の深川御鎮座より前で、年代的には符合します。

葛飾区は水害が多い土地で、永禄三年(1560年)の大洪水のほかにも幾多の水害に見舞われたといいます。
昭和22年9月のカスリーン台風で葛飾区を襲った洪水は、東京湾付近まで流れ下りました。(→ カスリーン台風の洪水流路

中世のこのあたりは利根川本流が乱流していたともみられ、現在よりもはるかに水害は深刻だったと思われます。

堀切から隅田川を南下すると深川に至ります。
Wikipediaにある「(極楽寺)開山当初の境内には八幡宮が祀ってあったが、洪水で流出し、流れ着いた先に設けられたのが富岡八幡宮」という伝説は、このような洪水の歴史を物語るものかもしれません。

門前のいぼとり地蔵尊は、地蔵尊に振りかけた塩を持ち帰りイボに塗り込むと治るとされ、広く参詣者を集めたといいます。

また、明治に愛猫家のご住職がおられたため、「猫寺」という通称があります。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻二』(国立国会図書館)
(堀切村)極楽寺
新義真言宗 青戸村寶持院末 醫晃山薬王院ト号ス 本尊彌陀 当寺ハ永禄三年(1560年)ノ起立ト云 中興榮應 元文元年(1736年)寂ス 薬師堂

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻二』(国立国会図書館)
(堀切村)神明社
村の鎮守ナリ 極楽寺持 下同シ
八幡社 以上二社ハ永禄三年(1560年)ノ鎮座ト云
稲荷社

『葛飾区寺院調査報告 下』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
極楽寺
真言宗豊山派 医晃山薬王院と号し、もと青戸村宝持院の末。
宝徳元年(1449年)紀伊根来寺の普済阿闍梨の創立。永禄三年(1560年)八月、大洪水のため本堂以下ことごとく流失したので、同五年(1562年)五月、正済法印が再興した。
過去数回にわたる水害のため、多くの記録を失ったが鎌倉-室町時代の板碑を保存(略)
薬師堂の本尊は<寅薬師>または<砦内(とりでのうち)の薬師>ともいい、室町時代に領主窪寺氏の城内にあったものという。

〔医晃山薬王院極楽寺寅薬師瑠璃如来縁起〕(極楽寺第三十一世実照房了諦)
抑々コノ尊像ハ弘法大師ノ直作ニシテ(略)宝徳元年(1449年)、学匠普済阿闍梨、一笈ノ中ニ尊像ヲ納メ東国巡化ノ砌リ、当初ノ地頭窪寺内蔵頭平胤夫(千葉支流木内宮内少補胤信ノ舎弟ニテ、武州石浜ノ城主千葉介実胤ノ旗下ナリ)師ヲ尊敬シテ当所ニ止メ、一宇ヲ創立シテ医晃山薬王院ト号ス。
砦ノ内薬師(城内ノ薬師)コレナリ。
傍ニ別社ヲ設ケ、武運長久ノ為トテ当山開基普済阿闍梨ヲ導師トシテ、八幡宮ヲ勧請ス。
(後チ移転シテ今ノ深川富ヶ岡八幡神社ト称スル之ナリ。其旧跡ハ当寺境内ナル森ノ内ニ現存セリ)
其頃、千葉東西両流ノ間ニ戦争シバゝ起リテ所領ヲ挑メリ。遂ニ康正二年六月、千葉馬加陸奥守孝胤トノ合戦ニ、窪寺内蔵頭胤夫、行年四十二歳、嫡男富千代胤茂、行年十五歳ニテ討死ス。
遺骸ハ父子トモニ八幡宮ノ傍ニ埋葬シ、塚ヲ建立シ窪寺塚ト呼ブ。(今ハ塚上ニ稲荷ノ社ヲ祭ル)因テ窪寺家コヽニ滅亡セリ。
当寺第二世栄宥法印(内蔵頭胤夫ノ二男、普済阿闍梨ノ嗣法ナリ)徳行ノ聞ヘ世ニ高ク(略)永禄三年(1560年)八月、大洪水ノ為ニ堂宇悉ク流失ス。同五年(1562年)仏閣僧坊ヲ再興シテ旧ニ復セリ。
因テ正済法印護持ナス所ノ興教大師直作ノ阿彌陀如来ヲ本尊トナシ、当寺ヲ中興シ極楽寺ト称ス(旧本尊薬師如来ヲ別座ニ安置ス)云々。

阿彌陀如来坐像(本尊) 厨子入 江戸時代作
不動明王立像 室町時代の作か
弘法・興教両大師坐像
薬師如来像 宮殿中に安じ、古来秘仏として開扉されない。
宮殿前に日光・月光二菩薩像、左右に十二神将。
不動明王立像岩座付 佳作
紅頬梨色阿彌陀如来像
聖徳太子立像 

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最寄りは京成本線「堀切菖蒲園」駅で徒歩約10分。
堀切菖蒲園東側の住宅と工場の混在地にあります。

前面道路から石畳の参道が伸び、その先に石の門柱と堅く閉じられた鉄扉。
門柱には「極楽寺」の寺号札。

門まわりは雑草が生い茂り、ちょっと荒れた印象もあります。

鉄扉の横のくぐり戸は開くのでここから参内できますが、札所めぐりという目的がなければ、檀家さん以外はまず山内には入らないのでは。


【写真 上(左)】 門柱の寺号標
【写真 下(右)】 いぼとり地蔵尊-1


【写真 上(左)】 いぼとり地蔵尊-2
【写真 下(右)】 いぼとり地蔵尊の札

ただし、門前の参道右手に有名な「いぼとり地蔵尊」が覆屋のなかに御座されるので、こちらをお参りする人はいると思います。
覆屋のなかには三躰の石佛。
中央は舟形光背のおそらく地蔵尊で、こちらが「いぼとり地蔵尊」と思われます。
向かって左手も舟形光背像ですが、観音様のような感じもします。
向かって左の像は塩で溶けてしまったのか、像容はよくわかりません。
像の前に塩の入った容器が置かれ、いまでもいぼとりの願をかける人がいるのでは。

門前には地蔵尊立像が門を守るかのように御座しています。


【写真 上(左)】 地蔵尊立像
【写真 下(右)】 山内

おそるおそるくぐり戸を抜けて山内に入ります。
山内はかなり広く、中央は芝生というか草地で開放感はあります。
中央に本堂、向かって右手に薬師堂、左手に庫裏をコの字状に配置しています。

薬師堂の裏手は下町には希なかなり深い森で、この森のなかに八幡宮跡地や、塚上に稲荷社を祀るという窪寺塚があるのかもしれませんが、参拝時には確認していません。

山内各所に石佛が点在し、元文二年(1737年)に「女人講中」の手で架設されたという「女人橋」の遺構は区の登録有形文化財に指定されています。


【写真 上(左)】 本堂と薬師堂
【写真 下(右)】 本堂

本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝。
堂前の天水鉢には真言宗豊山派の宗門「輪違紋」が輝きます。


【写真 上(左)】 天水鉢
【写真 下(右)】 本堂向拝

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備には蟇股を置いています。

向拝見上げには山号扁額と、その横にはなんと隅田川二十一ヶ所霊場第三番の札所板が掲げられていました。
札所板に「本尊(阿)彌陀如来」とあるので、札所本尊はおそらく御本尊・阿弥陀如来。
「昭和七年七月」の銘があり、すくなくともその頃までは盛んに巡拝されていたと思われます。

【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 隅田川二十一ヶ所霊場の札所板

向拝柱には「東三十三所観音霊場五番」の札所札が掲げられています。
東三十三ヶ所観音霊場は昭和10年、京成電鉄と安養院(九品寺・東立石)の住職を中心とした札所住職により開創されたという観音霊場です。(→ 札所リスト(「ニッポンの霊場)様)

この時期、電鉄会社による霊場開設がブームとなり、京王三十三ヶ所観音霊場、小田急武相三十三ヶ所観音霊場、武蔵野三十三観音霊場(西武鉄道)などが開設されましたが、いまでも現役の霊場として活動しているのは武蔵野三十三観音霊場のみで、この東三十三ヶ所観音霊場の札所板は貴重なものです。


【写真 上(左)】 東観音霊場札所板
【写真 下(右)】 薬師堂

本堂向かって左手の薬師堂は寄棟造桟瓦葺流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に蟇股を置いています。
見上げに「薬師堂」の扁額と五色の帯が掛けられた鈴。
こちらには開山・普済阿闍梨が奉安された弘法大師御作という薬師如来(砦ノ内薬師・城内ノ薬師・寅薬師)が安ぜられている可能性があります。


【写真 上(左)】 薬師堂扁額
【写真 下(右)】 大師堂

山内には大師堂もあります。
切妻造妻入り一間の堂宇で、向拝上には扁額が掛かっていますが読み取れません。
こちらのWebによると、堂内に奉安の弘法大師坐像の台座に「第六十一番」とある由。
「第六十一番」の札番から、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第61番の札所本尊であることがわかります。

さすがに下町の歴史ある真言宗寺院。見どころがたくさんあります


御朱印は庫裏にて拝受しました。
「堀切 極楽寺 御朱印」でWeb検索しても極楽寺の御朱印はほとんどヒットしないので、現在の授与状況は不明です。


〔 極楽寺の御朱印 〕



中央に「阿弥陀如来」の印判と阿弥陀如来のお種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右下には羯磨金剛の中央に金剛界大日如来のお種子「バン」が置かれた御寶印。
右上には「東観音第五番」とある東三十三ヶ所観音霊場の貴重な札所印。
左下には寺号の印判と寺院印が捺されています。


■ 第4番 延命山 榮壽院
(えいじゅいん)
足立区東伊興4-1-1
曹洞宗
御本尊:延命地蔵菩薩
札所本尊:
司元別当:
他札所:

第4番は足立区東伊興の榮壽院です。

下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

榮壽院の創建は、『本所区史』には明暦元年(1655年)、『寺社書上』には明應元壬子年(1492年)とあります。
『寺社書上』の「明應元年」は「明暦元年」の誤記かとも思いましたが、明暦元年は乙未、明應元年は壬子なので明らかに明應元年をさしています。

しかし、『寺社書上』には「当所開山 丹●周鶴大和尚 延宝九年(1681年)示寂」とあり、明暦元年(1655年)の創建と符合します。

気になるのは「当所開山」で、あるいは室町時代の明應元年(1492年)に他の土地に起立され、徳川第4代将軍家綱公治世の明暦元年(1655年)に本所表町に(移転)開山したのかもしれません。

本寺は東駒形(中之郷原庭町)の曹洞宗牛島山 福厳寺なので、「当所開山」の明暦元年(1655年)から曹洞宗寺院であったとみられます。

開山は周鶴和尚、開基は太田左衛門太夫と伝わります。

御本尊は将軍(勝軍)延命地蔵菩薩で、惠心僧都一刀三禮の尊像といいます。
新田義貞(1301-1338年)の家臣篠塚五郎の守り本尊で、”篠塚地蔵”と称します。
産婦がこの尊像に祈れば霊験あらたかで、安産祈願の地蔵尊として信仰を集めたようです。

しかし『すみだの歴史散歩/P.86』(PDF)、『ガイド』、こちらのWeb(「東京都墨田区の歴史」様)などは、篠塚地蔵尊にまつわるさらに古い縁起を伝えています。

榮壽院の御本尊・篠塚地蔵尊は、一條天皇の御代(993-996年)に恵心僧都(寛仁元年(1017年)寂)によって刻されたと伝わります。
元弘三年(1333年)、北条氏打倒の兵を挙げた新田義貞は当時姉ヶ崎に安置されていたこの地蔵尊の霊験を聞き、家臣の篠塚五郎政景に命じて地蔵尊を上州・世良田に迎えました。
義貞の家臣一同はこの地蔵尊の尊像をうつして護符として肌身につけ、地蔵尊のご加護をもって北条氏を滅ぼしたといいます。

戦勝後、政景は地蔵尊の霊夢を受けて本所の地に地蔵尊を遷座し堂宇を建立しました。
以来、世良田(世来田)地蔵尊、篠塚地蔵尊と呼ばれて人々の尊崇を集めました。

この地蔵尊に掛けられた布を妊婦の腹に巻くと、難産はたちまち安産にかわるとして多くの祈願者を集めたともいいます。

太田道灌(1432-1486年)はこの地蔵尊を尊崇し、その御座の地を延命山榮壽院と号したという説もみられます。
『本所区史』に「(当山の)開基は太田左衛門太夫」とあり、Wikipediaの「太田道灌」の記事には「享徳2年(1453年)1月、従五位上に昇叙し(従五位下叙位の時期は不明)左衛門少尉は如元(左衛門大夫を称する)。」とあるので、あるいは太田道灌は当山にとって(中興)開基的な貢献をしたのかも。

徳川第3代将軍家光公もこの地蔵尊に帰依し、「安産の地蔵尊」としてとくに毎月四の日の縁日は多くの参詣者でにぎわったといいます。

この地蔵尊にゆかりの上州・世良田の地は徳川家発祥の地とされ世良田東照宮がご鎮座します。
徳川氏は新田氏流徳川(得川)氏の末裔を公称(→ 太田市観光協会Web)していたため、世良田と新田氏ゆかりのこの地蔵尊はことに尊崇されたのかもしれません。

『ガイド』によると、大正天皇御病気平癒の祈願もこの地蔵尊になされたとのことです。

大正12年の関東大震災の震災復興計画に基づき、榮壽院の地蔵堂以外の堂宇は昭和4年府下の足立郡伊興村字狭間耕地(現・足立区東伊興)に移転しました。

昭和20年の東京大空襲で地蔵堂は焼失しましたが地蔵尊は東伊興に運ばれて無事でした。昭和43年、旧地の地蔵堂を建て替え、榮壽院御本尊の勝軍地蔵尊の御分体を造立して安置しました。
これが現在の篠塚地蔵堂(東駒形2-8-1)です。

榮壽院は曹洞宗寺院ですが、篠塚地蔵尊の尊崇すこぶる厚いため隅田川二十一ヶ所霊場の札所に選ばれた可能性があります。


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【史料・資料】

『寺社書上 [92] 本所寺社書上 五』(国立国会図書館)
●本所表町 榮壽院
本所中ノ郷福厳寺末
曹洞宗 延命山 榮壽院
開闢起立 明應元壬子年(1492年)
当所開山 丹●周鶴大和尚 延宝九年(1681年)示寂
中興開基 ●●●
本尊 勝軍延命地蔵尊 立像 惠心僧都一刀三禮作 但し秘佛也
御前立 延命地蔵尊 立像
両立 阿●迦葉木像(摩訶迦葉?) 二躰
達磨大師木像
ビンズル尊者木像
十一面観音木像 立像
正一位●●壽稲荷社
地蔵菩薩畧縁起

『本所区史』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
榮壽院
榮壽院は表町五十三番地に在り延命山と号し曹洞宗にして原庭町福厳寺の末である。明暦元年(1655年)の創建にて開山は周鶴和尚、開基は太田左衛門太夫である。
本尊は将軍延命地蔵で惠心僧都一刀三禮の尊像である。新田左中将義貞公の家臣篠塚五郎の守り本尊で、一名之を篠塚地蔵と称した。産婦之に祈れば靈験新たかなりとて安産を祈るものが多い。同寺も昭和四年二月十九日付をもつて府下足立郡伊興村字狭間耕地に移転する事になった。

あだち観光ネット(一社足立区観光協会)
伊興寺町散策路(足立区東伊興四丁目)
関東大震災後、都心及び各地より、14の寺院が伊興に移転してきました。
13の寺院(長安寺・善久寺・浄光寺・法受寺・栄寿院・正楽寺・専念寺・正安寺・東陽寺・本行寺・常福寺・易行院・蓮念寺)は、東伊興四丁目(古くは伊興狭間)の一地域に移転し寺町を形成しています。
少し離れた伊興本町一丁目に歌川広重で有名な東岳寺もあります。
伊興本町二丁目にある伊興最古のお寺・応現寺を含めてお参りできます。


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足立区東伊興四丁目は「伊興寺町」とも呼ばれ、13の寺院が集中しています。
いずれも関東大震災の震災復興計画に基づき、都心および各地より移転してきた寺院です。
なかには旧地で担った札所を承継している寺院もあり、榮壽院もそのひとつです。

最寄りは東武スカイツリーライン「竹の塚」駅で徒歩約12分。
東伊興あたりは寺院が移転してきただけあって、いまでも比較的ゆったりとした町並みです。

榮壽院は寺院が集中する寺町の東寄り、埼玉県道・都道103号吉場安行東京線(尾竹橋通り)に面してあります。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 本堂

街路沿いの門柱に院号標。
そこからすぐ正面に本堂がみえます。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

木々は少なく、開けてシンプルな山内です。
本堂は切妻造妻入りの近代建築で、向拝サッシュ戸の上に山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 院号標
【写真 下(右)】 六地蔵尊

本堂前右手に石灯籠と院号標。
左手には六地蔵尊が御座します。


御朱印は寺務所にお伺いしたところご不在だったので、郵送をお願いしたところご対応いただけました。

〔 榮壽院の御朱印 〕



中央に「本尊 篠塚子育延命地蔵尊」の揮毫と三寶印。左に山号院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第5番 隅田山 吉祥院 多聞寺
(たもんじ)
公式Web

墨田区墨田5-31-13
真言宗智山派
御本尊:毘沙門天
札所本尊:毘沙門天
司元別当:隅田川神社(墨田区堤通)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第65番、荒綾八十八ヶ所霊場旧第5番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第79番、新葛西三十三観音霊場第16番、大東京百観音霊場第91番、御府内二十八不動霊場第12番、隅田川七福神(毘沙門天)、墨田区お寺めぐり第3番

第5番は墨田区墨田の多聞寺です。

公式Web『すみだの歴史散歩/P.7』(PDF)、下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

多聞寺は天徳年間(957-960年)に隅田千軒宿(墨田堤の外側、水神森近く、現在の隅田川神社付近)に草創され、当初は大鏡山明王院隅田寺を号しました。
縁起開山は不明ですが、御本尊として不動明王を奉安といいます。

『天正日記』には天正十八年(1590年)に隅田川が大氾濫を起こし、家康公が堤防修復を命じたとあり、多聞寺はこのときに堤防そばの隅田千軒宿から現在地に移転という説があります。
(『ガイド』には慶長十一年(1606年)、実圓による開山とあります。)

現在地に移転後は御本尊に毘沙門天を奉じ、隅田山吉祥院多聞寺と改めました。
天正年間(1573-1591年)、41代鑁海上人が霊夢に毘沙門天尊像を感得し、毘沙門天を御本尊として奉戴したといいます。
こちらの毘沙門天は、弘法大師の御作とも伝わります。

しかし、明治42年開創とされる御府内二十八不動霊場第12番の札所となっているので、旧御本尊の不動明王も著名な尊像であったとみられます。

多聞寺の毘沙門天は、隅田川七福神の一尊です。

隅田川七福神は文化年間(1804-1818)に開創といいます。
文化元年(1804年)に向島の百花園が開かれ、園主佐原鞠塢(きくう)のもとに多くの文人墨客が集まりました。

鞠塢は福禄寿の陶像を愛蔵していましたが、百花園に集った文人たちで福禄寿にちなむ風流ごとはないものかという話になりました。

隅田村多聞寺の御本尊は毘沙門天、須崎村長命寺には著名な弁財天が祀られていることから、この地で七福神を揃えたいという話に発展し詮索していくうちに、小梅村の三囲稲荷には恵比寿・大國神の小祠があり、須崎村の弘福寺には黄檗禅ゆかりの布袋和尚の木像が安されていることがわかりました。

残る寿老人が難題でしたが、思案のあげく百花園のある寺島村の鎮守白鬚明神は「白鬚」と申し上げる以上、白鬚をたくわえたご老体のお姿のはずということで寿老人をお受けいただき、ここに七福神が揃いました。(以上、隅田川七福神公式Webより)


【写真 上(左)】 隅田川七福神の幟
【写真 下(右)】 隅田川七福神の案内図

以来、隅田川七福神は正月を中心にたいへんな賑わいをみせ、当山山門の門前右手には「隅田川七福神之内毘沙門天正二位子爵榎本武場(明治四十一年七月)」と刻まれた「毘沙門天案内碑」があります。

多聞寺は現在地に移転後も、明治維新に至るまで隅田川神社の別当を務めました。


【写真 上(左)】 隅田川神社
【写真 下(右)】 隅田川神社の御朱印

多門寺は区内最北端にあって関東大震災、戦災ともに大きな被害に遭わなかったので、往年の面影を残す寺院として知られています。

また、永信講による「地蔵尊密言流念仏」が知られ、毎月ご縁日の24日に催されています。

多聞寺は御本尊・毘沙門天とたぬきにまつわる伝承があり、「たぬき寺」とも呼ばれています。

江戸開府以前のこの地は、葦が生い茂る寂しい河原でした。
そこには大きな池があり、見るだけで気を失い寝込んでしまうというおそろしい毒蛇が棲みついていました。
また、「牛松」と呼ばれる松の大木の根元の大穴には妖怪狸が宿り、人々をたぶらかすので村人はみなおそれをなしていました。

多聞寺のはんかい和尚と村人たちは、この地にありがたいお堂を建てて祈りを捧げ、毒蛇や妖怪たちを追い払うことにしました。
まず、「牛松」を切り倒し、毒蛇の棲む池を埋めてしまいました。
しかし、妖怪狸のいたずらはひどくなるばかりで、また和尚さんの夢の中にも大入道があらわれて脅すのでした。

和尚さんはおどろきおそれて、一心に御本尊の毘沙門天に祈りを捧げました。
すると毘沙門天のお使いが現れて、妖怪狸に「おまえたちの悪さは、いつか自身をほろぼすことになるぞ。」と告げました。
翌朝、二匹の狸がお堂の前で死んでいました。

和尚さんと村人たちはこの狸がかわいそうになり、また、切り倒してしまった「牛松」や埋めてしまった池への供養のためにもと、塚を築いて尊崇しました。
これがいまも山内に遺る「狸塚」です。


【写真 上(左)】 山内の狸像-1
【写真 下(右)】 山内の狸像-2


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾群巻二』(国立国会図書館)
多聞寺
新義真言宗 寺嶋村蓮花寺末 隅田山吉祥院ト号ス
慶長十一年(1606年)起立ス
法流開山円実寶暦五年(1755年)正月二日寂ス
本尊毘沙門ハ弘法大師ノ作ニテ長一尺二寸 脇士十一面観音及不動ヲ置
五智堂
鐘楼 香取社 稲荷社

すみだ観光サイト((一社)墨田区観光協会)
多聞寺
天徳年間には今の隅田川神社付近にあって、大鏡山明王院隅田寺と称え、本尊は不動明王でした。狸(たぬき)にまつわる伝承もあることから、多聞寺を一名「たぬき寺」とも呼びました。
多聞寺は区内の最北端にあり、関東大震災、戦災ともに遭わなかったので、昔日の面影を残す数少ない寺院となっています。寺前の道は古代から続く街道の名残です。特に山門は木造茅葺(かやぶき)切妻造四脚門の様式をとるもので、多聞寺に残る唯一の江戸期木造建築であり、区内最古の建造物と考えられます。享保3年(1718)に焼失し、現在のものはその後に再建されたものです。
また、多聞寺は毘沙門天を祀ることから、文化年間(1804〜1818)に隅田川七福神のひとつに組み込まれました。以来、現在に至るまで正月は七福神巡りで賑わいます。
他にも狸塚や映画人の碑があります。

■ 元宿神社大師堂の説明板
荒綾八十八ヶ所霊場 五番札所
開創年 明治四十四年(一九一一年)
葛飾区史によると、明治四十四年「荒川二十一ヶ所霊場」と「綾瀬二十一ヶ所霊場」をもとに開創されたようだ。開創者は不明。同じ時期に行われた荒川放水路開削工事の影響で霊場参拝は根付かなかった。
開創当時の五番札所は、隅田村多聞寺であったが、大正十一年、掃部宿西裏不動堂に移り、元宿の人々がそれを引き継ぐかたちで、大正十四年太子像(ママ)を造立し、すでに神仏分離が行われていたので、鳥居の外に祀ったものと思われる。
現在は、堂宇のみ、廃寺、札所の異動などが多く霊場としての活動は行っていない。

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最寄りは東武スカイツリーライン「堀切」駅で徒歩約10分。「鐘ヶ淵」駅からも歩けます。
東側を荒川、西側を隅田川、そして北側を隅田水門から流れる旧綾瀬川と、三方を川に囲まれた治水上重要な場所です。
隅田川一帯の守り神で「水神さま」と崇められた隅田川神社の別当を務めた意味がわかるような気がします。


【写真 上(左)】 鐘ヶ淵駅
【写真 下(右)】 香取神社

本所の街はずれのような立地ですが、寺前の道は古代から続く奥州街道の名残ということなので、水運も含めて交通の要衝であったのかもしれません。

門前は狭い路地ですが山内はかなり広く、さすがに古刹の趣があります。
お隣に香取神社が御鎮座ですが、多聞寺との関係は定かではありません。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 寺号標

参道入口に立派な寺号標。左手は広めの駐車場。
ここから石畳の参道が真っ直ぐに伸びています。


【写真 上(左)】 参道右手の石佛群
【写真 下(右)】 石佛覆屋


【写真 上(左)】 地蔵尊立像
【写真 下(右)】 弘法大師坐像

参道右手に石佛群が並びます。
手前の切妻屋根妻入りの覆屋はふたつに区切られ、手前に地蔵尊立像二躰。
奥側には台座の上に弘法大師坐像が御座され、奥側の台座にはおそらく「第七十九番」とあります。


【写真 上(左)】 第七十九番の刻字
【写真 下(右)】 石像三躰

当山は荒川辺八十八ヶ所霊場第65番、荒綾八十八ヶ所霊場第5番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第79番の札所でしたが、うち荒綾八十八ヶ所霊場第5番は千手元町の元町神社門前の大師堂に遷っています。


【写真 上(左)】 元町神社参道
【写真 下(右)】 元町神社拝殿


【写真 上(左)】 元宿神社大師堂
【写真 下(右)】 同 説明板

こちらのお大師さまは「第七十九番」ですので、南葛霊場(いろは大師)の大師堂と思われます。


【写真 上(左)】 庚申様
【写真 下(右)】 参道

その横から山門にかけて丸四つ目菱紋付きの手水鉢、尊格不明の立像、地蔵尊立像、観世音(?)立像、数躰の庚申様が整然と並びます。
山門は木造茅葺切妻造の四脚門、当山に残る唯一の江戸期木造建築で山号扁額が掲げられています。

寺伝によると山門は慶安二年(1649年)建立、享保三年(1716年)に焼失し、再建年代は明和二年(1765年)頃とされ、区内最古の建造物と考えられ墨田区の指定文化財です。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額

門前左手には「南無阿弥陀佛」の石碑、右手には「隅田川七福神之内毘沙門天正二位子爵榎本武場(明治四十一年七月)」と刻まれた「毘沙門天案内碑」があります。


【写真 上(左)】 毘沙門天案内碑
【写真 下(右)】 山内

山門をくぐるとすぐ右手に東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨が置かれています。
風雅な山内に突然の鉄塊の出現はインパクトがありますが、十善戒の一、「不殺生行」の教えから、戦争の惨禍を忘れてはならないという戒めでしょうか。

左手には「狸塚」。
「狸」の字が刻まれた石碑とあたりにはたくさんの信楽焼の狸が置かれています。
参道右手には坐像の六地蔵尊。
正徳二年(1712年)~享保元年(1716年)の造立で、墨田村地蔵講中との関係が認められ、区の登録文化財に指定されています。


【写真 上(左)】 狸塚
【写真 下(右)】 六地蔵尊

左手には像容の整った聖観世音菩薩立像。
新葛西三十三観音霊場第16番、大東京百観音霊場第91番という、当山のふたつの観音霊場札所と関連をもつお像かもしれません。


【写真 上(左)】 観世音菩薩立像
【写真 下(右)】 天水鉢と光悦垣

本堂向かって左前の石句碑には、福井県小浜の人で、文政二年(1819)没と伝わる下村義楽の歌が刻まれています。

 たることをしれば浮世も面白や 長く短し夢のうきはし


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝


【写真 上(左)】 正月の向拝
【写真 下(右)】 横からの向拝

本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝、軒唐破風を押し立てて堂々たる伽藍です。
水引虹梁両端に獅子・象?の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に見事な龍の彫刻とその上に大瓶束を置いています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 ご真言

向拝格子戸の上に「毘沙門天」の扁額、向拝柱には毘沙門天のご真言を掲げています。

御本尊は弘法大師の御作とも伝わる毘沙門天で、隅田川七福神の札所本尊でもあります。

〔山内掲示より〕
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毘沙門天は佛法の守護神のひとりで、世界の中心に聳える須弥山の北方を厳然として守っていたとされる。またの名を多聞天とも申し上げる。しかし、その反面、三界に余るほどの財宝を保有していて、善行を施した人びとには、それを分け与えたといわれる。強い威力を持つ一方で富裕でもあるという神格が、福徳の理想として、七福神に含められ、信仰された理由である。
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当山の縁起やたたずまいからして、本堂にはほかにも由緒ある仏像が安されている感じもしますが詳細は不明です。


【写真 上(左)】 石佛群
【写真 下(右)】 映画人ノ墓碑

山内には「映画人ノ墓碑」やその横には立派な宝篋印塔もあり、見どころの多い名刹です。


御朱印は本堂向かって右手の庫裏にて拝受しました。
以前は正月七日までの限定授与だった模様ですが、いまは通年授与されています。
御朱印は毘沙門天の1種類で、とくに札所印は捺されていないとのことです。


〔 多聞寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 平成30年正月の御朱印
【写真 下(右)】 令和6年の御朱印

中央に「毘沙門天」の揮毫(印判)と毘沙門天のお種子「ベイ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と三寶印。
平成30年正月の御朱印には隅田川七福神の札所印が捺されています。
左には山号の揮毫と寺院印が捺されています。



■ 墨田区お寺めぐり第1番のスタンプ


■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-3へつづきます。



【 BGM 】
■ 夏雪 ~summer_snow~ - 西沢はぐみ


■ ふたりでスプラッシュ - 今井美樹


■ LANI ~HEAVENLY GARDEN~ - ANRI/杏里
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■ コカコーラのCM ~ 1980年代のサントラ&CM ~

■ 乃木坂46・五百城茉央出演!“I feel Coke”楽曲を使用したビッグマック新TVCM「あしたも、笑おう。」篇

ひょっとして1987年の佐藤竹善さんのオリジナル音源?

ボーカルにしても、アレンジにしても文句のつけようなし。
このテイクの素晴らしさは、やはり時代を超えている。

■ コカ・コーラ 1987コカコーラ CM ~ I feel Coke 87 佐藤竹善.flv

37年前の映像です。

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20240614 UP


なぜか、この記事急にアクセス増えたと思ったらこういうことだったですね ↓

「コカ・コーラ」とコラボした某人気音楽ユニットのキャンペーンソングで12日にリリースされ、同日に公開されたYouTube動画が物議を醸し、現在非公開となっている件。

数々の名作CMで知られる「コカ・コーラ」が、キャンペーンソングとはいえ、物議の対象となってしまうとは・・・。
くだんのユニットだって、それなりにいい曲リリースしてたのに・・・。

どうしてこんなことになってしまったのか・・・。

国立の新築マンション取り壊し問題もそうだけど、最近「ふつうに考えて、こうなる前にもっとやりようはあっただろうに・・・」という案件が多すぎる気がする。
いろいろな分野で、チェック機能というか、仕事がどんどん雑になっている感じがする。

かつて、日本の底力は「仕事の緻密さ、正確さ」で支えられていた気がするが・・・。


名誉挽回を狙って、歴史的名作と評される佐藤竹善さんVers.、リバイバル放映してほしい(笑) ↓

■ コカ・コーラ 1987コカコーラ CM ~ I feel Coke 87 佐藤竹善.flv



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2023-04-01 UP

まさかまさかの、コカコーラのCMで「I Feel Coke」ヘビロテ。
ずっと前から復活希望の声は高かったものの、まさか本当にやるとは思わなんだ・・・。

以前UPした「~ 1980年代のサントラ&CM ~」に追記するかたちでUPしてみます。

【コカ・コーラ】 コカ・コーラ ゼロシュガー 綾瀬はるか TVCM「どっちの美味しさが好き?」篇 30秒 Coca-Cola TVCF
Coca-Cola ZERO SUGAR CM 「どっちの美味しさが好き?」篇 30秒


音楽は「エジソン」のブレークで知られる水曜日のカンパネラ。
■ 水曜日のカンパネラ - エジソン

アイロニーに富んだ歌詞。
「いや~、ぜったいくると思うんだけどな~」

このタイミングでこのCMって、ほんとにくるかもよ・・・(笑)

■ PIZZICATO FIVE - 東京は夜の七時

PIZZICATO FIVEに近い質感を感じた。

1993年までフラッシュバックしてきた?
1980年代まであとすこし(笑)


水カンもいいけど、「I Feel Coke」の爽快感出すなら綾瀬はるか本人が歌ってもよかったかも・・・。
さりげにいい声してるんだよね。

■ 綾瀬はるか - 飛行機雲(3rdシングル/2007年12月リリース)


このCMたぶん話題呼ぶから、往年の佐藤竹善さんのバージョンも流してほしい。

テイク-A
さすがコカコーラのCM!(1980年代当時)


テイク-A'
コカ・コーラ 1987コカコーラ CM ~ I feel Coke 87 佐藤竹善.flv

出色のできの佐藤竹善Vers.。コメント数じつに1,198件!


もう1回、ひつこく聴き比べてみましょう(笑)

テイク-B
【コカ・コーラ】 コカ・コーラ ゼロシュガー 綾瀬はるか TVCM「どっちの美味しさが好き?」篇 30秒 Coca-Cola TVCF



テイク-A、A'は、1980年代(中盤まで)の音。
いまでいう「シティ・ポップ」のサウンドですね。
音にスキマがあるけどリバーヴがきいててグルーヴしてる。
そしてインストのリフやカウンターメロが際立っている。

テイク-Bは、だいぶん1980年代に寄せた感あるけど、しっかりビートが支配してるし、音圧が高い。

どちらがいいか、好みは分かれるところかも知らんけど・・・。

〔関連記事〕
■ 4つ打ちとグルーヴ (音のスキマ論-0)


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以前の記事 ↓ からもってきました。

'90年代以降現在に至るまで、こういう文化で育ってきたいまの50~60歳代の世代は現役(第一線)としてもっともっとたくさんの名作を生み出せるチャンスがあったはず。
でも、時代に流されてか、勝ちパターンに安住してか、キンタロー飴的な安直な内容が時代を追うごとに増えていった。
それを棚に上げて過去の名作にすがるのはなんだか情けない気も。(自分も含めてですが・・・)

1990年までに前の世代が素晴らしい作品をたくさん残してくれて、その恵まれた環境で育ちながら、結局このていたらく??
つくづくいまの50~60歳代の罪(不作為だとしても)は重いと思う今日このごろ。


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2021/01/20 UP

サントラとCMがらみの記事をまとめてみました。
併せて、すこし追加しました。
(リンク切れもそのまま残してあります。)

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2020/06/20 UP

王様のブランチの「親子で楽しめる子供が主役の映画?」ランキングで、「スタンド・バイ・ミー」(1986年)が1位になってた。
また1980年代か・・・。
この映画、曲がよかったもんね。

スタンド・バイ・ミー (Stand by Me / Ben E. King)



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バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2、昨晩地上波放映していましたね。
やっぱり面白かった。ザ・エンタメ! という感じ。
筋書きとしては、 PART1よりよくできているかもしれない。

ちとびっくりしたのは、マーティが日本企業と思われる「イトー・フジツー」にクビになるシーン。
(忘れてた、というか当時は気にもならなかった)
いまだったら、こういうシーンはまず考えられないと思う。

この映画の公開は1989年(平成元年)の日本経済バブル絶頂期。
この平成元年と30年後の平成30年の企業時価総額世界ランキングをまとめた記事があります。
DIAMOND online
平成元年ではトップ50のうち日本企業はなんと32社(64.0%)。
これが平成30年ではわずかに1社(2.0%)でしかも35位。

プラザ合意(円高誘導)が1985年だからその影響もあると思うし、日本企業もそれなりには成長しているかもしれないが、とくに米国企業にくらべて伸びの勢いが全然違う感じがする。
それにAI系の新興企業がたくさん入ってるけど、日本は0。
妙なところが気になってしまった、令和2年に視る「バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2」。

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2020/06/12UP

「バック・トゥ・ザ・フューチャー」ブーム再来 サントラ再生急増
バック・トゥ・ザ・フューチャー』地上波放送をうけ音楽もストリーミングでヒット中
反響あり!
どんな年代層が聴きにいったのかな?

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2020/06/12UP

さっきTVでやってましたねバック・トゥ・ザ・フューチャーの再放送
(カットだらけだったけど)
なんというか、屈託なく明るい。そしてテンポがいい。
やっぱり ↓ のシーン最高だわ。

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2020/05/16UP

さきほどの「王様のブランチ」で20代~50代が選ぶベストSF映画(だっけ?)やってた。
すべての世代で1位獲得したのが、 "Back to the Future(バック・トゥ・ザ・フューチャー)" (1985年)
この時代、やっぱり映像と音楽のバランスが絶妙だった。↓

Johnny B. Goode / ジョニー B. グッド (Back to the Future / バック・トゥ・ザ・フューチャー)


「君らには まだ早い 君らの子供は分かる」(笑)
でも、ここからもう35年か・・・。

Van Halen - Jump (Official Music Video/1983)


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2020/04/27UP

GWの時期ですが、新型コロナ禍でどの観光地も「来ないで!」。
まさかこんな状況になるとは・・・。
観光業は経営基盤のよわい企業が多いので、この先どうなるんだろう。
春休みとGWと2回のピーク壊滅。
一刻もはやく赤字国債発行で真水の補助入れないと、日本の観光地はたいへんなことになると思う。

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このところ、TVもネタが尽きてきたのか、むかしのコンテンツを流すパターンが増えてきた感じがします。映画もそんな感じ。
ということで、1980年代の洋画のサントラ(O.S.T.)からサクっと1ダース選んであげてみます。

1980年代は「洋画全盛期」ともいわれ、たしかに圧倒的に邦画よりも洋画を視ていた。
当時は皆、”ぴあ”、とか”シティロード”とかふつうに読んでいて、こまめに応募するとけっこう試写会が当たったので、さりげに洋画は本数をこなしていた。
「名画座」といわれる3本立てで旧作が安く視られるシネマも都内にたくさんあって、けっこう入り浸っていた。

バイト、サークル、マリンスポーツ、中古レコード屋、LIVE、名画座、ゼミと時間がいくらあっても足りず、大学の授業にはほとんど行っていない(笑)。
でも、この当時の大学は出欠なぞとってなかったので、いい授業ノートコピーをゲットできて要領がよければそれなりに単位はとれた(爆)
真面目に授業出てノートとって、しかもテスト前に貸してくれる救世主のような女の子がこの頃はいた・・・。

いま発売されているベスト盤はこんな感じでけっこうベタな曲で占められているけど、実際はもっとAOR(AC)あるいはWest Coast寄りで、こ洒落た曲が多かった。

個人的に洋楽のピークは1983年(1983年洋楽ピーク説)だと思っているけど、洋画サントラのピークはおそらく1983~1990年ごろで、若干ズレがあるような感じがします。

01.The Power Of Love - Huey Lewis And The News (From "Back to the Future(バック・トゥ・ザ・フューチャー)" O.S.T./1985)

映画の概要(Wikipedia)
1985年に大ヒットしたSF映画。メインテーマのこの曲は全米1位を記録し、Huey Lewis And The Newsの代表曲となった。ホンダ・インテグラのCMでもよく流れていた。

02. Best That You Can Do ”Authur's Theme” - Christopher Cross (From "Authur(ミスター・アーサー)" O.S.T./1981)

映画の概要(Wikipedia)
曲調はもろにAORのサントラ。「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」という邦題がついていて日本でもヒットした。
Christopher Crossが新型コロナ感染とはびっくり。一日も早い快癒をお祈りします。
5月上旬時点で「リハビリ中」 とのことです。

03. Take My Breathe Away - Berlin (From "Top Gun(トップガン)" O.S.T./1986)

映画の概要(Wikipedia)
映画、サントラともに大ヒットした名作。サントラはメジャー系アーティストが勢揃いしてオムニバス・アルバムのよう。
いま振り返るとこの頃が洋楽サントラのピークだったような気がする。
↓ こんな名曲(Can't Fight This Feeling:涙のフィーリング - REO Speedwagon)も。


04.And When She Danced (Love Theme from Stealing Home) - David Foster & Marilyn Martin (From "Stealing Home (君がいた夏)" O.S.T./1988)

映画の概要(Wikipedia)
映画じたいはさほどヒットしていた記憶がないが、サントラはDavid Fosterが複数の曲に参画して高いレベルに仕上がっている。

05. Only the Young - Journey (From "Vision Quest (青春の賭け)" O.S.T./1985)

Steve Perryのハイトーンが伸びまくってJourneyのなかでも名曲に入ると思う。
映画の概要
Madonnaの大ヒット曲「CRAZY FOR YOU」も収録。

06.Neutron Dance - The Pointer Sisters (From "Beverly Hills Cop(ビバリーヒルズ・コップ)" O.S.T./1984)

映画の概要(Wikipedia)
ラフでアップテンポな曲調が、エディ・マーフィ演じるアクセル・フォーリーのキャラにはまりまくってた。
この映画めちゃくちゃ面白かった。

07.Kokomo - The Beach Boys (From "Cocktail(カクテル)" O.S.T./1988)
The Beach Boys - Kokomo (1988)

映画の概要(Wikipedia)
イントロ一聴で”ザ・ビーチボーイズ”! やっぱり凄い存在感だと思う。

08.Almost Paradise - Mike Reno & Ann Wilson (From " Footloose(フットルース)" O.S.T./1984)

映画の概要(Wikipedia)
1984年に大ヒットした洋画、フットルースのサントラから。
LoverboyとHeartというふたつのメジャーグループのリードヴォーカルがコラボした大ヒット曲。この曲以外にもFootloose - Kenny Logginsなど名曲揃いで、サントラも大ヒットとなった。

09.Part Of Me, Part Of You - Glenn Frey (From "Thelma & Louise" O.S.T./1991)

90年代に入ってからだけど、曲調が'80年代なので入れてみました。
映画の概要(Wikipedia)
Glenn Freyは、 "Beverly Hills Cop" でもThe Heat Is Onという好サントラナンバーを残している。

10.Against All Odds (Take A Look At Me Now) - Phil Collins (From "Against All Odds(カリブの熱い夜)" O.S.T./1984)

映画の概要(Wikipedia)
GENESISのヴォーカル&ドラマー、Phil Collins最大のヒット曲。
洋楽と洋画が密接にリンクしていた'80年代前半らしい動きだった。

11.Step by Step - J.D Souther & Karla Bonoff (From "About Last Night... (きのうの夜は)" O.S.T./1986)

映画の概要(Wikipedia)
ロブ・ロウとデミ・ムーアの話題のシーンで流れていた曲。話題性だけじゃなく、楽曲じたいがすばらしいでき。
話題性にコンテンツの質がともなっていた時代。

12. St. Elmo's Fire (Man In Motion) - John Parr (From "St. Elmo's Fire(セント・エルモス・ファイアー)" O.S.T./1985)

映画の概要(Wikipedia)
David Fosterプロデュースのメロディアスな名作O.S.T.。音楽作品としても抜群のでき。
↓ こんな名曲(Love Theme from St. Elmo's Fire - David Foster)も・・・。


ほかにも、これとか、これとか、これとか、いくらも思いつくけど、とりあえずこんなところで・・・。

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映画だけじゃない、CMも音楽にあふれていた時代。

HONDA INTEGRA - ♪ 山下達郎( 30sec×6)


松任谷由実-シンデレラ・エクスプレス(from「日本の恋と、ユーミンと。」)


コカ コーラCM - Yes My Love - by 矢沢永吉 - 1982


さすがコカコーラのCM!


1983-1993 パーラメント CM集


もう少し集めてみました。
本当に音楽も映像もキラキラしてる。
日本中リゾート状態(笑)。でも、しっかりストーリー性も。


資生堂アクエアビューティケイク 1980年前後?

サントリービール『純生』CM 1981(LOVELAND,ISLAND/山下達郎)

この時代ならではのブライトなサウンド&映像。
「ピールは透明な音楽だ。」
↑ 強引すぎるコピーも時代じゃな(笑)

1984-1991 角松敏生CM集


カネボウ CM 1981年 「レディ80 ミニ口紅」 曲 矢野顕子 春咲小紅


CANADA DRY Ginger Ale サンドバギー編 1988


昭和シェル石油 Xカード - ♪ 杏里 「CIRCUIT of RAINBOW」


キリンビール CM (1986年) シーズン・イン・ザ・サン - TUBE


DyDo イオンバランス飲料 SPO-ENE 1989 杉山清貴


サントリー ビール CM 松田聖子 - Sweet Memories カサブランカ&ボクシング編


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昨年の夏、けっこうかかっていたCHOYA「夏梅」のCMソング。
沖縄・石垣島出身の女性デュオユニットやなわらばーの書き下ろし曲「夏空の下」です。

夏梅「夏空の下篇」


涼やかな曲調に透明感ある女性ボーカルが乗るこの曲は、最初聴いたとき、上野洋子が歌った協和発酵 焼酎「かのか」のCMに近いものを感じた。

「かのか」 CM


でも、このユニット、昨年(2020年)の12月31日をもって解散したんだよね。(→ 告知
このところの世の中の新曲って、タテノリかパワー感で押し切ってくる感じの曲がますます増えている感じがする。
そんななかで、おだやかでほっとする、なつかしい感じのこの曲は新鮮に響いた。

いま、こういう曲を作り出せる才能は減ってきている感じがするので、解散は残念な感じがします。

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同じ使用曲で1980年代と2015年のクリスマスモチーフのCM。約25年の年月。

【山下達郎】JR東海 VS ソフトバンク☆X'mas CM対決!【クリスマス・イブ】


●JR東海 0:06~6:29 
とくに0:06~ の深津絵里(1988年)と1:06~ の牧瀬里穂(1989年)の2本。 
・余計な小道具(いぬとかキャラとか花火とか)をつかっていない。
・余計なセリフがない。言葉がなくてもストーリーや機微がつたわる。
・コピーとナレーションがびしっと決まってる。
・とにかく雰囲気がある。

●ソフトバンク 6:30~Last 2015年
・セリフ多すぎ。語らないとダメ?
・名曲に効果音かぶせるってど~なの?

'80年代は予算も時間も潤沢だったからって、そういう単純な問題でもないと思う。

'80年代はダンスと音楽の距離感もこんなだった気がする ↓
懐かしのCMサントリービール編vol 2
サンバが先にあってこのBPMに合わせてつくられたといわれる「サントリービール純生」の名CMソング。1981年にオンエア、ALBUM『FOR YOU』(1982)収録。
集団で踊るだけが能じゃないわ・・・(笑)

↑のX'mas CM対決!や↓のコカコーラのCM動画、「あの時代はよかった」的なコメントばかり目立つけど、いまの若い世代ってこういうのみてどう思うんだろう?

■コカコーラのCM特集



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【昭和CM】 今では放送不可な昭和の頑張っているCM

これはいまなら完璧アウトか。
とくに2:00~、かましすぎ(笑)

コメントにある「差別や人権を声高に叫ぶ人達の意見を聞いたら、表現の自由がなくなったという現実」
これはたしかにあるのかも・・・。

いろいろな価値感や表現が寛容さをもって認められるから「ダイバーシティ」なんじゃないの?

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あらあら、大問題になっちゃったよ。元D通の有力プロデューサーさん。
ルッキズムはまずいでしょ。個人攻撃にひとしいから。

ブラックユーモアはどんどん規制されて、ルッキズムとかが裏ではびこる世界。
とてもいびつな感じがする。

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でもって、こういう味のあるCMもあった。↓
これも、いまじゃジェンダーでアウト?

「サントリー・オールド」CM(90秒)



'90年代以降現在に至るまで、こういう文化で育ってきたいまの50~60歳代の世代は現役(第一線)としてもっともっとたくさんの名作を生み出せるチャンスがあったはず。
でも、時代に流されてか、勝ちパターンに安住してか、キンタロー飴的な安直な内容が時代を追うごとに増えていった。
それを棚に上げて過去の名作にすがるのはなんだか情けない気も。(自分も含めてですが・・・)

1990年までに前の世代が素晴らしい作品をたくさん残してくれて、その恵まれた環境で育ちながら、結局このていたらく??
つくづくいまの50~60歳代の罪(不作為だとしても)は重いと思う今日このごろ。

〔関連記事〕
東京五輪のセレモニーソング ~ 日本の歌うま女子の底力 ~
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■ 四万六千日の御朱印

明日7月9日、明後日7月10日は四万六千日です。
酷暑なので、十分な暑さ対策のうえお出かけくださいませ。

四万六千日(しまんろくせんにち)とは、観世音菩薩の功徳日のひとつです。
功徳日とは、その日に参拝すると100日、1,000日分などの功徳が得られるという特別な日をいいます。

尊格や寺社によって異なりますが、浅草浅草寺の四万六千日(毎年7月9日、10日)にはほおずき市も催され、多くの参拝客で賑わいます。
当初は7月10日が四万六千日とされていましたが、参拝客が殺到するため現在では7月9日、10日の両日が四万六千日とされています。

大正13年刊の『全国縁日案内 第1編(関東之巻)』には「七月九、十日(四萬六千日)」とあるので、すでに大正時代には7月9日、10日が四万六千日とされていたようです。

四万六千日に浅草寺の観音さまを参拝すると、その功徳はじつに46,000日分。
なんと126年分の功徳を積めるといわれています。
四万六千日の縁日は浅草寺が創始といわれ、次第に各地の寺院にも広まったとされます。
(エリアや寺院によっては8月9日、10日のところもあるようです。)

浅草寺の四万六千日の御朱印には「四万六千日」の印判が捺されます。
音羽の護国寺でも7月10日に「四万六千日」の印判つきの御朱印を拝受していますが、今年も授与されるかは不明です。

  
【写真 上(左)】 浅草寺の四万六千日の御朱印
【写真 下(右)】 音羽・護国寺の四万六千日の御朱印

〔関連記事〕
■ ご縁日と御朱印
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■ ハイトーン女性ヴォーカルの夏歌25曲

狂ったように暑いので、透明感&清涼感のあるハイトーン女性ボーカルをいくつかまとめてみました。

主に■ 透明感のある女性ヴォーカル50曲から引っ張ってきていますが、より夏歌っぽい曲に変えたりしています。

とりあえず25曲。
本当は夏歌の名テイクはニコニコ動画に多いのですが、現在視聴不可なのでYou-Tube限定です。

思いついたら追加していきます。


01.P・R・E・S・E・N・T - 松田聖子

聖子ちゃんは夏歌がほんとうによく似合う。
あふれるブライト感。どうしようもなく1980年代初頭の夏歌。

02.MORNING HARBOUR - とみたゆう子

名古屋市出身のシンガーソングライター。
「ミルキー・ヴォイス」といわれた甘いながらも透明感にあふれた美声。
曲のできも抜群。
これは1982年リリースの名盤『DEUX』収録曲。

03.好き - 西野カナ Live on “with LOVE tour”-Kana Nishino “Suki”

祝・復活!
夏の恋の切なさを感じる佳曲。
しかし西野カナって、ほんとにいい曲が多い。
■ 西野カナの名テイク

04.For Our Days - 川田まみ(I'VE)

札幌の音楽創作集団「I'VE」でヴォーカルをとっていた。
『そして明日の世界より』OPで、これもかなりのナイスメロ。
独特のビブラートとヒーカップの連打のパフォーマンスで聴き応えあり。

05.夏雪 ~summer_snow~(夏の日のリフレイン) - 西沢はぐみ

神奈川県出身のArtistでPCゲーム関連の作品が多い。声質にすぐれとくに高音の伸びが出色。
ふつうの人はハイトーンに引っぱり上げる感じがあるが、この人は高い地声から降りてくるイメージがある。
才人、松本慎一郎作曲の名曲で、バックのフレーズどりも非の打ち所なし。

06.月のかほり - 夏川りみ

個人的には、2001年に「涙そうそう」をブレークさせた夏川りみの存在も大きかった。
夏川りみの声をはじめて聴いたのはたしか、水戸黄門の合間に流れていた松下グループのCM Song「この星を感じて」だったと思う。
ハイトーンが綺麗に伸びるそのボーカルは強烈なインパクトがあり、画面の下に出ていた”夏川りみ”というクレジットを頼りにCDをさがしたが、その当時はまったくのマイナーで、ごく一部の大手CDショップでシングルが見つけられただけだった。
メジャーデビューからの「南風」(2002/3)、「てぃだ~太陽・風ぬ想い~」(2002/9)、「空の風景」(2003/3)、初期3枚のALBUMのできは抜群だった。
沖縄独特の音階や歌いまわしはそれほど強く出ておらず、さらりと明るい曲調に彼女の伸びやかなハイトーンが乗る内容は、まさに「ヒーリング・ミュージック」そのものだった。

07.空気力学少女と少年の詩 - はな

同人系やゲーム系で活動するシンガー。「歌い手」の”うさ”と同一人物という説がある。
すこぶる声質にすぐれ、アップテンポ曲でも透明感を感じさせる希有の歌い手。
これはPCゲーム 『素晴らしき日々 〜不連続存在〜』のOP・EDで、アップテンポな変拍子のこなしがやたらに巧い。

08.~you / Vocal ~【ひぐらしのなく頃に】 - 癒月

ゲーム・アニメ系のストーリー性高い曲の例。
同人系のArtistで声優としても活動。メリハリがありながらヒーリング感の高いすぐれた声質をもつ。
「雪月」名義でユニット活動も。
これはゲーム『ひぐらしのなく頃に』の名曲とされるBGM。

09.Dreaming Sheep - 中恵光城

『大図書館の羊飼い』のOP。
繊細なメロディラインの難曲だが、透明感あふれるハイトーンで歌いこなしている。
アニソン系ではかなりの実力派で、プログレ系サウンドプロジェクト「少女病」にMitsuki名義でヴォーカル参画している。

10.I'm proud - 華原朋美

いま聴き返すと、類い希な美声と透明感を兼ね備えていたことがわかる。
流麗なハイトーンを求める小室サウンドには、やはり欠かせない才能だった。

11.消せない気持ち - kicco

主にパソコンゲームの主題歌などを担当する女性アーティストで佳曲多数。
これは2015年リリースで好メロディにあふれている。

12.記憶の海 - 遥海

フィリピン生まれの日本人とフィリピン人のハーフのシンガー。
以前は”草ケ谷遥海”名義で路上LIVEなどで活動し、その並はずれた歌唱力には定評があった。
2020年5月メジャーデビュー。
ゆらぎを湛えたパワフルでエモーショナルな唱法だが、ときにみせるハイトーンの透明感が絶妙なアクセント。
スケール感があってエモーショナルでしかもフェミニン。
そして”音のスキマ”を大切にする楽曲構成。
こういう実力派アーティストが正当に評価される時代がやってきているのかもしれぬ。
公式Web

13.Squall - 松本英子

1999年リリースのじつはさりげに人気曲。
福山雅治主演のドラマ『パーフェクトラブ!』の挿入歌として使用された、福山雅治作曲の名曲。

14.キズナミュージック♪ - Poppin'Party

個人的には、日本のガールズバンドの最高峰はプリンセス・プリンセスだと思っているが、Poppin'Partyはプリプリ以来の実力派ユニットでは?

メンバーはすべて声優。
愛美(戸山 香澄) ボーカル/ギター
大塚紗英(花園 たえ) ギター
西本りみ(牛込 りみ) ベース
大橋彩香(山吹 沙綾) ドラムス
伊藤彩沙(市ヶ谷 有咲) キーボード

楽曲の多くは、音楽制作集団「Elements Garden」が担当。

プロのクリエイターの楽曲なので曲のレベルが高い。
そしてメンバーの技倆も相当なもの。

それぞれの楽器が濁らずに、クリアに響いてくるのがいい。
たとえば大橋彩香さんの手数の多い変拍子混じりのドラムス、ひたすらカウンターメロやリフを奏でつづける大塚紗英さんの存在感あふれるギターとか・・・。

とくに大橋彩香さんのドラムス、個人的に大好物なんですけど(笑)
最初聴いたとき、プログレ(プログレッシブ・ロック)かと思った。
にこやかに微笑みながらこのドラミングとは、にわかに信じられん。

15.この青空に約束を- Allegretto~そらときみ~ - KOTOKO

北海道札幌市出身。2000年から2010年まで札幌の音楽制作集団「I've」のボーカリストとして活動していた。
独特のブレスは多くのフォロワーを産んだ(と筆者は思っている)。

16.こなたよりかなたまで OP Imaginary Affair - KOTOKO

じつは夏歌の名曲はアニソンやゲーム系に多いと思っている。
これはその代表曲。

17.少年時代 - 熊田このは(Covered)

透明感&清涼感といったらやっぱり熊田このはちゃん。
陽水の難曲を超絶ハイトーンでオリジナル化してしまった名テイク。
■ 熊田このはちゃんのセトリ(&出演記録)-Vol.2

18.片恋日記 - 中村舞子

”セツナ系”の代表格のハイトーン・シンガー。
声質はやたらにフェミニンかつエモーショナル。
■ 中村舞子の名バラード20曲

19.夏空の下 - やなわらばー

2020年夏に流されていたCHOYA「夏梅」のCMソング。
沖縄・石垣島出身の女性デュオユニットやなわらばーの書き下ろし曲。
この実力で解散は惜しい・・・。(2020年12月31日解散)

20.ふたりでスプラッシュ - 今井美樹
〔 From 『elfin』(1987)/ 作詞:戸沢暢美、作曲・編曲:武部聡志 〕

キレのいいリズムが際立つSlow~Mid曲。武部聡志のメロディも冴え渡っている。
今井美樹の名バラード25曲!

21.Cludyな午後 - 中原めいこ(1984)

けっこうやんちゃな曲も得意な人だが、これはフェミニンな名曲。
1984年の名盤『ロートスの果実 -LOTOS-』収録。

22.Magic - 愛内里菜

2000年3月GIZA studioよりデビュー、以降ほぼ年1枚ペースで順調にALBUMをリリースしてきたが、2010年9月26日、兵庫・尼崎アルカイックホールでの公演を最後に音楽活動を終了。12月31日、すべてのアーティスト活動より引退(出典:wikipedia)は惜しまれた。
2015年「垣内りか」名義で歌手活動復帰。以降「R(アール)」名義でも楽曲配信。
どちらかというとアニソン系の唱法だが、抜群の声の艶とひびきがあって聴き飽きしない。

23.m-flo Tour 2007 Cosmicolor One Day 加藤ミリヤ

2004年9月、高一でメジャーデビューした、いわゆる ”セツナ系” の一人。
”セツナ系”には歌唱力に優れたシンガーが多いが、なかでも加藤ミリヤはトップクラスだと思う。
洋楽に影響を受けたというだけあってリズムの掴みが抜群に巧いが、バラードにも名テイク多数。
歌への感情の込め方の巧さは、↑ のライブテイクからも存分に感じられる。

24.Endless Story - Yuna Ito(伊藤由奈)

これ、個人的には歴史的名テイクだと思っている。
声もバックのサウンドもそしてビジュアルも清涼感にあふれている。

25.Heaven Beach - Anri/杏里
〔 From 『Heaven Beach』(1982)〕

夏歌といえば杏里。
タイトル曲の「Heaven Beach」、やっぱりこれは神曲だと思う。杏里の作曲能力の高さを物語る曲。

~ Love Make Me Strong
  あの素晴らしい日々が遠く 空を舞いおりて来る ~

角松敏生、小林武史などが参画して、一気にシティポップ化した名盤『Heaven Beach』は、個人的には杏里の最高傑作だと思っている。
とくに角松敏生が触媒となって、一気に才能が開花した感じがする。

『Heaven Beach』
30:16~ ラスト3曲(Memorial Story~夏に背を向けて~Heaven Beach)の流れが絶妙すぎる。

杏里の名バラード20曲!
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■ 夏向きの洋楽50曲!

■ 第2次British Invasion ~ 英国のElectro Pop/New Wave系15曲 ~にひさびさに手を入れて・・・。

でも、やっはり筆者のなかでの本流本流的メインストリームは、やっぱりこの記事にあげたようなウエストコースト系なんだと思う。

↓ この英国のユニットの曲がひさびさに響いたのは、どこかにウエストコースト系的な質感を帯びていたからだと思う。(とくにリズム)

■ Pale Waves - Perfume



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2023/06/16

ムシムシと暑いので、アゲてみます。
1980年代の洋楽の醍醐味をお楽しみくださいませ。

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2023/04/22

あまりにも暑かったので、フライングですがリンクつなぎなおしてリニューアルUPします。



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2022/04/13・06/23 UP

こいつもあげてみます。

暑い日がつづいておりますので、一部リンクつなぎなおしてUPしました。

若い世代への「気に入りの曲が好きな理由」のアンケートで圧倒的1位が「歌詞がいい」だった。
でも、↓こういう曲ばっかり聴いてた世代は、歌詞よりもやっぱりサウンドそのものだったんだと思う。

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2021/04/04 UP

夏向きの洋楽30曲!

ちと、夏には早いですが・・・。
夏バージョンだけ20曲だったので、こちら→「1980年代中盤の夏ソング」「1983年の夏歌12曲」から5曲引っ張り、新規に5曲加えて30曲にしました。
新規の10曲はとりあえず曲のみです。既存のコメントもいまいちなやつがあるので、おいおいリニューアルしていきます。

↓ こちらもきいてね。
初夏のグルーヴ曲20曲

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2016/06/29 UP
2009年にUPしてますが、リンク切れ多数なので、ちと補強して再UPしてみました。

01.Boy Meets Girl - Waiting For A Star To Fall

■ TRFのヒット曲じゃないよ(^^)
Whitney Houstonのヒット曲「恋は手さぐり」「すてきなSomebody」などを生み出したデュオの名前。
これは1988年に突如としてスマッシュヒットした、個人的には'80年代後半屈指の名曲。
爽快感あふれる曲調によくマッチしたビデオクリップも秀逸。

02.Journey - Don't Stop Believin' (1981/LIVE)

■ Journeyも近年復権気味。
これは、1981年、絶頂期の貴重なLIVEでSteve Perryのハイトーンヴォイスが際立っている。(Steve PerryなくしてJourneyなし!)
年間200日以上LIVEをこなしていたという実力は半端じゃない。
1981年発表の傑作「ESCAPE」からのヒット曲。
産業ロックだ、なんじゃかじゃいわれても、いいものはやっぱりいい(笑)

03.Van Halen - Jump (Official Music Video)

■ 6th ALBUM「1984」からの伝説的大ヒット曲。
ちなみに同時期にヒットしていたのが故Michael Jacksonの「thriller」。
この時期のUSミュージック・シーンがいかに盛り上がっていたかがわかる。

Michael Jacksonもじつは夏歌多数 ↓
■ Michael Jackson - Rock With You (Official Video)


04.Sneaker - Before You
〔 From 『 Loose In The World』(1982)

■ 1981年に1stALBUMから「More Than Just The Two Of Us」(想い出のスニーカー)のスマッシュ・ヒットを飛ばしたAOR系ユニットの2ndALBUM収録曲。
Steely Danのフォロワーと捉えられがちだが、本質はwest coastサウンドだと思う。
この曲は"Surf Rock"的なイメージをまとった夏全開の好テイク。
所属レーベル”Handshake Records”倒産のあおりを喰ってこのALBUMリリース直後に惜しくも解散。実力あるユニットだったので、あと数枚はALBUMをリリースしてほしかった。

05.High Fashion - Feelin'Lucky Lately

■ 軽やかなリズムにイタリアのお洒落感が乗った1980年代ならではのアップ・チューン。ChangeやB.B. & Q. Bandとともに、真夏のDiscoには欠かせない1曲だった。
Produced by Jacques Fred Petrus & Mauro Malavasi、ツインの女性Vo. by Meli'sa Morgan & Alyson Williamsときては、悪くなる道理がないか・・・。

06.Rick Springfield - Love Somebody

■ ミュージシャンというよりドラマ「ジェネラル・ホスピタル」の俳優として知られていた人だが実力十分。
West CoastっぽいLightで弾んだ曲調が個性。
1982年の「Success Hasn't Spoiled Me Yet」は全曲ハズレなしの名盤。
1984年リリースのサントラ『Hard to Hold』からのシングルカット曲で全米でヒットした。
この前にリリースされた『Working Class Dog』(1981年)、『Success Hasn't Spoiled Me Yet』(1982年)の2枚も清涼感あふれる好アルバム。

07.Ambrosia - Biggest Part Of Me

■ 当初はブログレバンドとしてスタートしたが、AORにシーンをかえて1980年に放ったヒット曲。
西海岸の名うてのスタジオミュージシャンと比べると、やや音のキレに欠ける感なきにしもあらずだが、なんといってもDavid Packのハイトーン・ヴォーカルが抜群でAORの名曲としての評価を獲得している。
のちにコーラスグループTake 6がカバーして、さらに知名度を高めた。

08.Kalapana - Dilemma
〔 From 『Kalapana III』(1977)

■ 1977年リリースの『Kalapana III』から。
Kalapanaは1975年の1stアルバムからリアルタイムで聴いていたので、”Surf Rock”には中学のころからなじみがあった。
学生の頃よく聴いていたテープリストには、Kalapanaの他にもPablo Cruse、Island Band、Cecilio & Kaponoなど、”Surf Rock”系がかなり入っている。

09.Dan Siegel - Reflections
〔 From 『Reflections』(1983)

■ 1980年初頭~1990年にかけて、シーサイドイメージの好メロ曲を量産したFusion系キーボードプレイヤー。
これは爽快感あふれる1983年のALBUM『Reflections』のタイトル曲。

10.Pablo Cruise - Cool Love

■ Kalapanaとともに"Surf Rock"シーンのトップを走ったwest coastの名Band。80年代初頭がピークで、本当によく聴いた。

11.Nielsen Pearson - Hasty Heart
〔 From 『Blind Luck』(1983)

■ これはちとマイナーだが、当時、好き者(笑)のあいだでみょ~に人気の高かったデュオ。
これは代表作として知られる1983年の『Blind Luck』収録曲。
もろwest coastのすこ~んと抜けたリズム。メロも適度に辛口で聴いてて爽快。
ベタつかずきりりと引き締まった仕上がりは、Bill Schneeのプロデュースが効いているのかも・・・。

12.Bobby Caldwell - To Know What You've Got /1980年

ミスターAOR。
ご冥福をお祈りいたします。

13.Bryan Adams - Summer Of 69

■ カナダのロックシンガー。
'84年発表の6th ALBUM『Reckless』収録の名曲。
このALBUMは同じような曲調の「One Night Love Affair」やBalladaのヒット・チューン「Heaven」など佳曲ぞろい。
このころは艶のあるハスキーヴォイスが冴え渡っていた。

14.Tony Sciuto - Hold Back The Night


15.Lonnie Liston Smith - A Lonely Way To Be


16.Shakatak - Night Birds (Live)

■ 1981年の1st ALBUM『Drivin' Hard』も充分楽しめたが、日本で本格的にブレークしたのは2nd ALBUM『Night Birds』収録のこの曲。
ツインキーボードの織りなすきらびやかなサウンドと、うなるチョッパーベース、スキャット絡みの軽やかな女性ヴォーカルは、米国のフュージョンとは明らかにことなる質感を醸し出していた。
夏歌の代表格、米国のwest coastやAORに対抗できる、英国唯一と思われるフォーマット"funkalatina"(ファンカラティーナ)の一翼を担った好ユニット。
たぶん日本でのLIVEだと思う。だとしたらわたくしこれ行きましたわ。

17.Starship - We Built This City

■ Jefferson Airplane~Jefferson StarshipというAmerican Rockの王道の流れを汲むStarshipが乾坤一擲、叩き出した大ヒット作で邦題は「シスコはロックシティ」。
ごたごたつづきのなかで制作・発売されたといわれる本作だが、そんなことはみじんも感じさせない明るく抜けまくった曲調が最高!

18.Giuffria - Call To The Heart (1984)
〔 From 『Giuffria』(1984)

■ 1970年代、いまでいう”ビジュアル系バンド”として知られていたAngelの後継バンドの1stALBUMからのヒット曲。
当時のプログレハード系バラードとして屈指の出来映え。
Angelは音楽好きからは”キワものバンド”扱いされ、Giuffriaは”Journeyのものまねバンド”と揶揄されてサウンド的に評価を得られることは少なかったが、この曲を聴くとあなどりがたい実力をもっていたことがわかる。

19.The Rippingtons featuring Russ Freeman - True Companion

■ いわゆる”Smooth Jazz”の代表的なグループ。AORがジャンル崩壊したのちの1990年代中盤、かつてのAOR好きの一部はこのジャンルに向かっていた。
ブライトでテクニカルな曲調は、たしかに1980年代初盤の雰囲気に通じるものがある。

20.Michael McDonald - Our Love
〔 From 『No Lookin' Back』(1985)

■ David Packとの共作によるバラード。
個人的にAORの終焉を実感した思い入れのふかい曲。

コード
とくにむずかしいコード展開してるわけじゃないのに、このメロディやアレンジのキレはいったいどういうこと??
やっぱりこの人天才だと思う。

21.Luther Vandross - Never Too Much (Live)  

■ 初期のChangeに参画するなど、当時のDiscoシーンを盛り上げた一人でその実力は筋金入り。このLiveのグルーヴ感は凄い。

22.Robbie Patton with Stevie Nicks - Smiling Islands (1982)


23.Hall & Oates - Wait For Me (Live)
〔 From 『X-Static』(1979)

■ いま聴いてもやっぱりいいですわ。
1979年リリースの『X-Static』収録曲でシングルカットされてスマッシュヒット。LIVEでもよく演奏された彼らの代表曲。
こんな洒落っ気のある曲がシングルで切られてヒットするとは、やっぱり時代だと思う。

24.Tom Scott - Keep This Love Alive

■ 1991年リリースの『Keep This Love Alive』からのヴォーカル曲。
David Pack(Lead Vo.)、Randy Kerber(key)、Michael Thompson(g)、Neil Stubenhaus(b)、Michael Fisher(per)、John Robinson(ds)って、オールスターメンバーじゃん。

25.Natalie Cole - Miss You Like Crazy


26.Kazu Matsui Project Feat. Robben Ford - Sunset Memory (1983)

■ はずむリズムセクション、スキャットまじりの女性コーラス、リフ&単音フレーズのギター、軽やかなサックスのフレーズ、隙間だらけだけどあふれるグルーヴ感。
これが1983年のリアルな音。

27.Jeff Lorber & Kenny G - Tierra Verde (1982)

■ リゾート感炸裂のインスト曲。1982年の Kenny Gはまだこんな洒落た音をつくりだしていた。

28.Christopher Cross - Sailing

■ 超メジャー曲だけど、やっぱり外せず。
1980年代はスノーゲレンデでもよく流れていたけど、意外に合うんだよね、これが・・・(笑)

コード
「これでもか・・・!」というほどの分数(オン)コードの嵐。
分数(オン)コードがつくり出す深みのあるコード遷移がAORのひとつの聴きどころ。
メジャー・セブンスがベースになって、これにテンション、分数(オン)コードやサスフォーなんぞをどう絡めるかがこの頃のアーティストのセンス(オリジナル感)だったのだと思う。

29.B.B. & Q. Band - The Things We Do In Love

■ 一般にはディスコ・ユニットと思われてるけど、こういうこ洒落たMid~Slowアイテムも・・・。
Changeもそうだけど、ヴォーカルのレベルが高いからできるワザだと思う。

30.Bill Champlin - The Fool Is All Alone
〔 From 『Runaway』(1981)

■ 個人的にはAOR系ではもっとも歌が巧いと思っているシンガーのひとりで、とくにバラードを唱わせたら天下一品。
これは1980年リリースの名盤「RUNAWAY」のラストを飾る名曲でDavid Fosterとの共作。
David Foster(key)、James Newton Howard(Strings Arr.)、Jay Graydon(g)、John Pierce(b)、John Robinson(ds)、Richard Page(Back Vo.)と、バック陣の面子も申し分がない。
やはり『Runaway』はAORを代表する名アルバムだと思う。

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ここからは思いつくままに拾ってきたので、とりあえずコメントなしです。
後日入れていきます。

31.Steel Breeze - You Don't Want Me Anymore (1982)


32.Haircut 100 - Love Plus One (1982)


33.Ned Doheny - Funky Love (1978)


34.Vapour Trails - Don't Worry Baby  (1979)


35.ABC - The Look Of Love (1982)


36.The Limit - Could This Be Love (1985)


37.Cecilio and Kapono - Climb The Line  (1977)


38.Earth, Wind & Fire - Let's Groove  (1981)


39.Thom Rotella - Paradise Island  (1989)


40.Prince - Purple Rain (Official Video)  (1984)


41.INXS - Original Sin (1983)


42. J.D. Souther (w/Linda Ronstadt) - Say You Will (1984)


43.King Of Hearts - My Desire  (1994)


44.Jim Photoglo - Angelina  (1981)


45.Kalapana - Water Song  (1995)


46.Maria Christensen - I've Got To Find A Way  (1993)


47.Lee Ritenour - Cross My Heart  (1982)


48.Island Band - What Love Can Do  (1982)


49.Change - The Very Best In You  (1982)


50.The Eagles - The Last Resort  (1976)



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せっかくなので、邦楽からも数曲。
当時の邦楽(シティ・ポップ)が洋楽とくらべて遜色なかったことがわかる。

01.悲しみのJODY(She Was Crying) - 山下達郎 /1983年


■ 最近では「SPARKLE」や「クリスマス・イブ」にくらべると知名度は低いような感じがするけど。当時は達郎の代表曲のポジショニング。
1983年の名盤『MELODIES』のトップを飾る夏曲で、これは英語バージョン。

02.P・R・E・S・E・N・T - 松田聖子

■ 1982年の名盤『Pineapple』収録のアップ・チューン。
こういう曲がシングルカットされないとは、いまからみるとかなり不思議感。
でも、この頃音楽好きは聖子ちゃんはアルバムで聴いていたから、あまり違和感はなかった。
作詞:松本隆、作曲:来生たかお、編曲:大村雅朗で、さすがにスキのない仕上がり。

03.世界でいちばん熱い夏 - プリンセス・プリンセス

■ 各パート(楽器)ごとのオーディションで選ばれただけあって、さすがに高い演奏力。
奥居香のヴォーカルやっぱり凄い。
それと、きょんちゃん(富田京子)の必死感あふれるドラミング、けっこう好きだったりする(笑)
これを超えるガールズバンドは、おそらく日本では出ていない。

コード
CルートでF→G(7)→Em→Am(王道進行/未練進行)乱れ打ち状態になっていて、これが聴きやすさにつながっていると思うが、この曲のはじける広がり感はAadd9(アドナインス)によるところが大きいと思う。

04.Icebox & Movie - 二名敦子 (ATSUKO NINA)

米国ウェスト・コーストの腕利きミュージシャンとの競演多数。
1980年代、もっとも洋楽に接近したアーティストだと思う。

05.ふたりでスプラッシュ - 今井美樹

■ 引き締まったリズムと透明感あふれる声色。
今井美樹の曲のなかでも、もっとも夏を感じさせる1曲だと思う。

コード
サビのコード進行、Am Dm G C って、小室進行(マイナー版)の変形で、けっこうよく聴く。
どちらかというとしっとり落ち着いたイメージなのに、ここではとびっきりの高揚感。
やっぱりその前のメジャーセブンス+オンコードからのなだれ込みが聴いていると思う。

今井美樹の名バラード25曲!

06.Crescent Aventure - 角松敏生

■ なんというか、「どうしようもなく角松サウンド」としか表現のしようがない。
他の人間が再現しようとしてもぜったいに不可能。

07.Memorial Story~夏に背を向けて~Heaven Beach - 杏里

名盤『Heaven Beach』(1982)からの好テイク。
■ 30:16~ ラスト3曲(Memorial Story~夏に背を向けて~Heaven Beach)の流れが絶妙すぎ。
タイトル曲の「Heaven Beach」は名曲揃いの杏里のなかでも屈指の出来映えの神曲。

杏里の名バラード20曲!

08.海 ~ 栞のテーマ(LIVE) - サザンオールスターズ

イントロのフレーズ。リバーブの効いたドラムス。複雑なカウンター・メロディ。
むせぶSaxophone、そして桑田さんの色気ただようスキャット。
文句なしの名曲!
1984年の時点で、こんなものすごいメジャー・セブンス曲かましてくるとは、やっぱりハンパな才能じゃないわ。
■ 初期サザンとメガサザン(サザンオールスターズ、名曲の変遷)
コード

09.YES MY LOVE - 矢沢永吉

■ 1982年ならではの曲調。あふれるオトナの色気と余裕感。
いいねぇ、39年後のいま聴いても文句なしの逸品。
大人のカルチャーとお子ちゃまカルチャーが、はっきりと分かれていた時代。

■ コカ・コーラ 1987コカコーラ CM ~ I feel Coke 87 佐藤竹善.flv

最近、リメイクバージョンが流れてて嬉しいけど、やはりベストテイクは竹善さんの↑これだと思う。

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春向きの洋楽
夏向きの洋楽
秋向きの洋楽
冬向きの洋楽

↓こっちも聴いてね
1983年洋楽ピーク説

〔関連記事〕
■ 洋楽1983年ピーク説
■ 1983年洋楽ピーク説(名曲編)
■ グルーヴ&ハイトーン (グルーヴってなに・・・?)
■ 1980年代中盤の夏ソング
■ 1980年代のサントラ(&CM)
■ 初夏のグルーヴ曲20曲
■ AOR系名曲を100曲!
■ 1983年の洋楽ヒット曲 (Billboardデータから)
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■ 第2次British Invasion ~ 英国のElectro Pop/New Wave系15曲 ~

昨日の夕暮れ、首都高走ってるときにJ-Waveから流れてきたこの曲。
隅田川越しに東京スカイツリーを臨む車窓の景色にはまりまくってた。



最初、女性ヴォーカルの声の質からCocteau Twinsかと思った。
でも質感がちょっと違う。

■ Cocteau Twins - Carolyn's Fingers(1988年)


初期のNew Orderに近い音の広がりやスケール感も感じた。

■ New Order - Your Silent Face(1983年)


んなことで、米国のアーティストの音とはどうしても思えず・・・。
どうにも気になったので先ほど、Web検索してみたらヒットした。

Pale Waves(ペール・ウェーブス)の「Perfume」
情報-1
情報-2

英国マンチェスター出身のインディーロックバンドで、2017年にデビュー・シングル「There's a Honey」をリリースとな。
でもって、この曲は「PALE WAVESが、ニュー・アルバム『Smitten』を9月20日にリリースすることが決定(日本盤の詳細は後日発表予定)。あわせて、アルバムからの1stシングル「Perfume」をリリースし、ミュージック・ビデオも公開した。」とのこと。→ 情報源(激ロック_2024.6.13配信)

うーむ、やっぱり英国か・・・。
しかも本年9月リリース予定のアルバムの先行シングルカット。
このところ洋楽の新譜なんてほとんど聴いてないし、英国のユニットを意識して聴いたのなんて何年ぶりだろう。

ふ-ん、「2019年にはジャパンツアーを慣行(ママ)し東京2公演をソールドアウト」か・・・。
やっぱり聴いてる人は聴いてるんだな。

こういう独特のスケール感をもつ、英国ならではの音がもっと出てくるといいな。

このユニットを「オルタナティヴ」とカテゴライズしてるWeb記事があったけど、かつての「メインストリーム」の音だと思う。
「インディーズ・リリース」=「オルタナティヴ」という安直な発想なのか、はたまた、こういう音はもはや「オルタナティヴ」なのか、そこんとこはよくわからんが、J-Wave聴いてなかったら絶対にたどりついていないユニット。

やっぱりFM聴く時間、増やそうと思います。

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1980年代には、日本盤リリース前に渋谷のCISCOとかで英国盤(けっこう高い)買って聴きあさっていた時期もあったりしたけど、いまや遠い過去のハナシになりました。

■ CISCO本店最後の日


そういえばCocteau Twinsだって、当初は4AD (英国のインディー・レーベル)からのリリースだった。


■ JUNIOR - Mama Used To Say(1981年)

↑ 1980年代前半、英国とは思えないブライトな曲を量産していた「ファンカ・ラティーナ ”funka latina”」ムーヴメント。

ひさびさの政権交代で英国の復活なるか・・・。
↑ んなこともあるので、1980年代前半の「第2次British Invasion」関連記事を引っ張ってきました。
まぁ、聴いてみておくんなまし ↓

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2022/08/27 UP

この記事、けっこうアクセスをいただくので・・・。
すこし追加してみました。

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2021/09/05 UP

久しぶりにエレクトロ・ポップを聴いたので・・・

1980年代前半は英国のElectro Pop/New Wave系グループ(ユニット)、The Human League、Culture Club、Eurythmics、Duran Duran、Soft Cell、Spandau Balletなどが米国のチャートを席捲し、「第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン(British Invasion)」とも呼ばれていました。
これまであまりUPしたことなかったですが、ちょっとメジャー系外し気味に思いつくまま10曲UPしてみます。
(後日コメント入れます。)

しかし、米国の洋楽絶頂期の1980年代前半に、こういうのが英国から飛び込んでくるんだから、やっぱり当時のチャートは面白かったんだと思う。


01.Simple Minds - Alive And Kicking (1985年)


02.The Human League - Open Your Heart(1981年) (2012 Remaster)


03.Visage - Visage (1980年)


04.Soft Cell - Say Hello Wave Goodbye (1981年)


05.Thompson Twins - Lies(1982年)


06.I LEVEL - "give me"(1983年)


07.New Order - Your Silent Face(1983年)


08.Howard Jones - New Song (1984年)


09.A Flock Of Seagulls - Space Age Love Song(1982年)


10.Blancmange - Waves(1982年)


11.China Crisis - Wishful Thinking(1983年)


12.Ultravox - Hymn(1982年)


13.Culture Club - Time (Clock Of The Heart)(1982年)


14.OMD - Souvenir(1981年)


15.ABC - All Of My Heart(1982年)


いまの全米チャートは「Korean Invasion」ともいえる状況かもしれないので、ビジュアル系の全米No.1曲を37年の時を隔てて聴きくらべてみました。

■ Duran Duran - The Reflex (1984年)

往年のファンのコメント

■ BTS - Butter(2021年)


う~む、37年かぁ・・・。
1984年、集団で踊ってないし、しっかり楽器弾いてるし・・・(笑)

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↑ とはべつに(というか重なって)、1980年代前半の英国ではファンカ・ラティーナ ”funka latina” というムーヴメントもありました。
個人的には↑ よりこっちの方がぜんぜん好きなので、後日特集してみます。 

01.Modern Romance - Ay Ay Ay Ay Moosey(1980年)
1980

02.UK Players - So Good To Be Alive(1982年)


03.Central Line -- Walking Into Sunshine(1981年)


04.Level 42 -43-(1981年)(1983年のLIVE)


05.Shakatak - Night Birds(1982年)



1980年代前半は、米国のdisco-funkと英国のポップシーンがもっとも接近した時代でもありました。
それにしても、1980~1985年の5年間に、英国だけでこれだけのバリエーションあったとは、やっぱり黄金の時代だったのでは?

↓ こういう名曲もあったし。

■ Genesis - No Reply At All(1981年)


■ Elaine Paige, Barbara Dickson - I Know Him So Well "From CHESS"(1984年)


■ Roxy Music - More Than This(1982年)


■ Phil Collins - Against All Odds(1984年)


■ Princes Diana Elton John Goodbye Englands Rose

↑ 英国におけるPOPSの存在の大きさを実感した名テイク。
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■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-1

先日完結した「御府内二十一ヶ所霊場の御朱印」にひきつづいてUPしていきます。


お大師さまゆかりの寺院を巡る弘法大師霊場には、主に八十八ヶ所と二十一ヶ所があります。
ご参考(「ニッポンの霊場」様)

八十八ヶ所はかなりの時間と根気を要し、結願までの道のりはなかなか困難です。
そこで生まれたのが簡易(ミニ)版である二十一ヶ所という説がみられます。

簡易(ミニ)版であれば八十八ヶ所の札所からダイジェスト的に選定すればいい筈ですが、そうはなっていないケースもみられます。

「隅田川二十一ヶ所霊場」もそのひとつです。
東京・下町エリアには荒綾八十八ヶ所霊場、荒川辺八十八ヶ所霊場、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)などの弘法大師霊場があります。

隅田川二十一ヶ所霊場はそのうち荒川辺八十八ヶ所霊場のミニ版という説がありますが、重複していない札所もあります。
また、札所宗派も真言宗、天台宗、曹洞宗、黄檗宗、浄土宗と多彩で、ほとんどが真言宗寺院で構成される荒川辺霊場とは様相を異にしています。

「東大和と寺院散策」様Webには「一説によると、この当時盛んであった七福神巡りを、もっと広げたものらしく」とあります。
たしかに「隅田川七福神」の3寺院はすべて札所となっています。

この霊場の貴重なガイドブックである『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)にも「七福神参りの延長気分で、気軽にお参りできるのがよい。木母寺や長命寺など名高い霊場もある。」とあります。



「古今御朱印研究所」様Webによると「隅田川七福神」の開創は文政七年(1818年)頃です。

「隅田川二十一ヶ所霊場」は、「猫の足あと」様Webに「明治三十八年から四十一年頃と推定する 弘法大師二十一カ所は大師忌日の三月二十一日の行事である。摂陽奇観巻ノ三〇宝暦三年(一七五三)癸酉大阪弘法大師廿一カ所巡り始まる。毎月二十一日道法凡そ三里三年三月の間参詣すれば諸願成就すると云い伝ふ、とある。(「江戸・東京札所事典」より)」とあり、『葛飾区史』にも「隅田川二十一箇所霊場は明治38(1905)年頃始まったとされ」とあります。

「隅田川二十一ヶ所霊場」よりも「隅田川七福神」の方が先の開創で、「隅田川七福神」前身説は年代的に符合します。


【写真 上(左)】 隅田川
【写真 下(右)】 隅田川から向島方向


【写真 上(左)】 第11番如意輪寺
【写真 下(右)】 第21番蓮花寺

「ニッポンの霊場」様に札所リストが掲載されているので、こちらにもとづき巡拝しました。

番外、掛所はなく札所総数は21となります。

隅田川から東のエリア、墨田区、葛飾区、足立区、江戸川区の下町の弘法大師霊場で、浅草から隅田川を挟んで対岸の如意輪寺、木母寺、長命寺などが札所となっており、台東区メインの「弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場」とはエリア的に連続しています。


〔 札所および記事リスト 〕

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-1
1番 月光山 薬王院 正福寺 /荒・綾・南
 真言宗智山派 墨田区墨田2-6-20
2番 日照山 源光院 普賢寺 /荒・綾・南
 真言宗豊山派 葛飾区東堀切3-9-3

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-2
3番 医王山 薬王院 極楽寺 /荒・綾・南
 真言宗豊山派 葛飾区堀切2-25-21
4番 延命山 榮壽院
 曹洞宗 足立区東伊興4-1-1
5番 隅田山 吉祥院 多聞寺 /荒・綾・南
 真言宗智山派 墨田区墨田5-31-13

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-3
6番 鶴田山 真念寺 遍照院
 真言宗智山派 墨田区吾妻橋1-3-7
7番 牛宝山 明王院 最勝寺(目黄不動尊)
 天台宗 江戸川区平井1-25-32
8番 明王山 不動院 寳性寺 /荒・綾・南
 真言宗智山派 葛飾区堀切4-54-2

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-4
9番 千葉山 薬師寺 西光院(牛田薬師) /荒・綾
 新義真言宗 足立区千住曙町27-1
10番 梅柳山 墨田院 木母寺
 天台宗 墨田区堤通2-16-1
11番 宝珠山 理性院 如意輪寺(牛島太子堂)
 天台宗 墨田区吾妻橋1-22-14

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-5
12番 西方山 安養院 九品寺 /荒・綾
 真言宗豊山派 葛飾区堀切6-22-16
13番 牛頭山 弘福寺
 黄檗宗 墨田区向島5-3-2
14番 渋江山 清重院 西光寺 /南
 真言宗豊山派 葛飾区宝町2-1-1

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-6
15番 常在山 宝蔵寺 /荒・南
 真言宗智山派 墨田区八広6-9-17
16番 孤竹山 正覚寺 /荒・南
 真言宗智山派 墨田区八広3-5-2
17番 瑞松山 栄隆院 霊光寺
 浄土宗 墨田区吾妻橋1-9-11

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-7
18番 宝寿山 遍照院 長命寺
 天台宗 墨田区向島5-4-4
19番 清滝山 金長院 正王寺 /荒・綾・南
 真言宗豊山派 葛飾区堀切5-29-14
20番 榎木山 善福院 /荒・綾・南
 真言宗智山派 葛飾区四つ木3-4-29

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-8
21番 清瀧山 観音院 蓮花寺(寺島大師) /荒・綾・南
 真言宗智山派 墨田区東向島3-23-17

〔八十八ヶ所霊場の略記凡例〕
 荒:荒川辺八十八ヶ所霊場
 綾:荒綾八十八ヶ所霊場
 南:南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)


「弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場」「御府内八十八ヶ所霊場」よりも東(下町)寄りの霊場ですが、「隅田川二十一ヶ所霊場」はさらに東(下町)寄りとなっているため、御府内八十八ヶ所霊場、豊島八十八ヶ所霊場との重複札所はありません。

真言宗系の札所は荒川辺八十八ヶ所霊場、荒綾八十八ヶ所霊場、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)の3つの弘法大師霊場との兼務が多いのに対し、他宗の札所では弘法大師霊場との重複はみられず、鮮やかな対比をみせています。

ここからみても、弘法大師霊場(八十八ヶ所)のミニ版とは言い切れない感じがします。

札番はエリア的に飛んでいるので、順打ち、逆打ちともにきびしいです。
また、駅から離れている札所が多いので、下町の風情を味わいながらじっくり回るのがベターかと思います。
隅田川二十一ヶ所霊場は現況ほとんど知られていませんが、下町ならではの雰囲気のある寺院が多く、回り応えがあるいい霊場です。


21箇寺のうち2箇寺は御朱印不授与なので、いただける御朱印は19となります。
(かなり以前に拝受した札所もあるので、現在は不授与の札所があるかもしれません。)
多くの寺院は5以上の霊場札所を兼務されていますが、ほとんどの寺院は1~2種類のみの御朱印授与なので、隅田川二十一ヶ所霊場の札所印はまずいただくことができません。


 
【写真 上(左)】 第1番正福寺の御朱印
【写真 下(右)】 第5番多聞寺の御朱印

 
【写真 上(左)】 第10番木母寺の御朱印
【写真 下(右)】 第21番蓮花寺の御朱印


弘福寺、木母寺、長命寺、最勝寺などは書置があるか、ほぼ常駐されているので拝受は容易ですが、その他の札所についてはご不在もあり拝受難易度はかなり高めです。


それでは第1番から順にご紹介していきます。
なお、『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。


■ 第1番 月光山 薬王院 正福寺
(しょうふくじ)
公式Web

墨田区墨田2-6-20
真言宗智山派
御本尊:薬師如来
札所本尊:
司元別当:
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第66番、荒綾八十八ヶ所霊場第66番?、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第86番、御府内二十八不動霊場第26番、新葛西三十三観音霊場第18番、墨田区お寺めぐり第4番

発願の第1番は墨田区墨田の正福寺です。

公式Web、下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

正福寺は、慶長七年(1602年)、宥盛法印を開山に創建されました。
新義真言宗で寺島蓮花寺の末寺、御本尊は薬師如来。
別尊として両大師と文覚上人守護の不動明王立像を奉安しました。

安政の大地震(安政二年(1855年))で壊滅しましたが、名主坂田三七郎が邸宅を寄進して再建されました。

隅田川の川浚で川底からあらわれた南北朝時代からの戦死者の頭骨を葬った「首塚地蔵尊」は、首から上の病の快癒に霊験あらたかとされ、多くの参詣者を集めます。
毎月4日には法要が勤修され、釈迦堂(寺務所)で首塚地蔵尊朝粥がふるまわれます。

また、明治に愛猫家のご住職がおられたため、「猫寺」という通称があります。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻二』(国立国会図書館)
(隅田村)正福寺
同(新義真言宗、寺嶋村蓮花寺)末 月光山薬王院ト号ス 慶長七年(1602年)起立シ 本尊薬師別ニ両大師ヲ安ス

『墨田区史』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
正福寺(月光山 隅田町一丁目一、二0七番地)
新義真言宗で寺島蓮花寺の末寺である。慶長七年(1602年)の創建で開山を宥盛法印とし、本尊薬師如来を安置する。
正福寺は通称の猫寺と門前の首塚とによって名を知られていた。
古碑としては宝治二年(1248年)の板碑が所蔵されている。

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小江戸・川越を抜けた新河岸川は富士見市あたりから荒川に寄り添うように流れ下り、北区志茂の岩淵水門で荒川の水を取り込んでからは隅田川と名を変えます。

江戸時代の寛永六年(1629年)、荒川を入間川に付け替える瀬替えで、隅田川の河道は荒川の本流となりました。
明治末期~昭和初期の河川改修で岩淵水門から河口までの荒川放水路が開削され、荒川放水路が荒川の本流となり、岩淵水門から下流の従前の河道は「隅田川」と改称されました。(→ 「荒川放水路の変遷」(荒川下流河川事務所)

東武スカイツリーライン「堀切」駅南側の墨田水門から旧綾瀬川の水を取り込んだ隅田川はここで向きを変え、以降一貫して南下します。
ここから南の隅田川両岸には多くの寺社が点在しますが、正福寺は第9番西光院(千住曙町)、第5番多聞寺(墨田)、第10番木母寺(堤通)とともに、その北端の要衝の地に立地します。

正福寺の最寄りは東武スカイツリーライン「鐘ヶ淵」駅で徒歩約3分。
下町らしいビルと住居の混在エリアで、正福寺すぐ北の道は「古代東海道」です。

かつての東海道は畿内から常陸国国府へ至る道をさし、大河川の乱流地帯である東京湾沿岸は屈指の難所で、律令時代は相模国から東京湾を船で渡って上総国へ向かったといいます。
時代を追って陸路も整備されていきますが、なお東京湾沿いに道をとることはできず、現在の白鬚橋付近にあった「白鬚の渡し」(「橋場の渡し」)ないし、隅田川神社そばの「水神の渡し」で隅田川を渡っていたとされています。

『伊勢物語』の「第九段 東下り」で主人公(在原業平ともいわれる)が渡ったのは、「白鬚の渡し」(「橋場の渡し」)とされ、『古今和歌集』(巻九 羇旅歌411)の在原業平の歌は、隅田川の「都鳥」を嘆じて詠んだものとされています。(→ 解説

 名にし負はばいざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと

対岸の橋場は大名・豪商の別荘や料亭が隅田川河岸に並び、文人たちで賑わったといい、三条実美公の別荘「對鴎荘」も橋場の渡しの西岸にありました。


■ 「名所江戸百景/墨田河橋場の渡かわら竈」(絵師:広重出版者:魚栄刊行年:安政4、国立国会図書館DCより規定にもとづき転載)

『江戸名所図会』(国立国会図書館)でも「隅田川」にページが割かれ、多くの挿絵が載せられて、隅田川沿岸が江戸屈指の名所であったことがわかります。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標

路地に面して山内入口。
門塀に山号・寺号の標、門扉には真言宗智山派の宗紋、桔梗紋。


【写真 上(左)】 桔梗紋
【写真 下(右)】 説明板

その左手の説明板には、下記のとおりあります。
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月光山 正福寺
開基 慶長七年(一六0二年) 宥盛法印
本尊 薬師如来 ご縁日 毎月八日
ご真言 オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ
当山は真言宗智山派に属し 宗祖弘法大師の法灯を継承する
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【写真 上(左)】 山内-1
【写真 下(右)】 山内-2

門前右には附属正福幼稚園創立三十周年記念に建立された「和みの像」。


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 大師堂札所板

参道右手にある大師堂は、切妻造銅板葺妻入り一間の堂宇です。
説明板には「昭和二十八年六月、篤信の中馬兄弟会、平野材木店より寄進」とあり、堂内に御座す弘法大師坐像の台座には「第八十六番 奉納中馬兄弟会」とあるので、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第86番の札所本尊・弘法大師像を寄進とみられます。

堂内には、白衣の観音立像と数軆の修行大師像も奉安されています。
見上げには南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第86番の真新しい札所板が掲げられています。

隅田川霊場の発願寺だけあって、さすがにお大師さまの存在感がみなぎります。

こちらは、荒川辺八十八ヶ所霊場第66番、荒綾八十八ヶ所霊場第66番?の札所でもありますが、山内に他の大師堂は見当たらなかったので、こちらの大師堂が弘法大師霊場の拝所とみられます。


【写真 上(左)】 お大師さま
【写真 下(右)】 手洗水鉢

大師堂の本堂寄りには水鉢としては区内最古の銘(寛文七年(1667年))を有する手洗水鉢。
庚申供養をあらわす水鉢として貴重との由。

さらにその先には数基の板碑。
説明板には、宝治二年(1248年)銘の板碑は在銘の板碑としては都内最古で、高さ116㎝、幅46㎝は区内随一の大きさとあります。
阿弥陀如来のお種子「キリーク」が刻まれています。

宝治二年(1248年)銘は当山創建の慶長七年(1602年)よりずいぶんと古いですが、これらの板碑は江戸時代に付近の御膳栽畑から発掘されたものとあります。


【写真 上(左)】 板碑
【写真 下(右)】 阿弥陀如来立像

板碑の並びには、萬治四年(1661年)銘の阿弥陀如来石仏立像も御座します。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝


【写真 上(左)】 薬師如来と扁額
【写真 下(右)】 御本尊の幟

参道正面の本堂は頂部に相輪をいただいた二層の宝形造。
二階が御内陣と思われ、向拝正面には背後に光輪を負われた立像の薬師如来が御座し、上方には山号扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 首塚地蔵尊
【写真 下(右)】 寺務所(釈迦堂)

首塚地蔵尊はいったん門外に出て、右手に進んだところにあります。
入母屋屋根妻入りの覆堂で、数軆の地蔵尊石像を奉安。
赤い奉納幟と覆堂にかかる御詠歌の板が、信仰の篤さを物語ります。


御朱印は本堂下の寺務所にて快く授与いただけました。
御朱印は薬師如来の1種類で、とくに札所印は捺されていないとのこと。

写経会、阿字観会、寺ヨガなどが催され、開かれたお寺を志向されているようです。


〔 正福寺の御朱印 〕

  
【写真 上(左)】 平成29年の御朱印
【写真 下(右)】 令和6年の御朱印

中央に「薬師如来」の揮毫(印判)と薬師如来のお種子「バイ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
令和6年版は、右下に聖観世音菩薩のお種子「サ」、左下に金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印も捺され、新葛西三十三観音霊場第18番の御朱印も兼ねているのかもしれません。



■ 墨田区お寺めぐり第4番のスタンプ


■ 第2番 日照山 源光院 普賢寺
(ふげんじ)
葛飾区Web資料

葛飾区東堀切3-9-3
真言宗豊山派
御本尊:薬師如来
札所本尊:
司元別当:(上千葉村)香取社、稲荷社、神明社
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第57番、荒綾八十八ヶ所霊場第87番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第55番

第2番は葛飾区東堀切の普賢寺です。

葛飾区Web資料、下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

普賢寺は、当地の領主葛西兵衛尉入道寂昌の開基といいます。
壽永の頃(1182-1184年)当所に朽ちた大木があり根元から清水が湧出したため、葛西入道がその樹根を掘ってみると薬師如来の霊像を得たため堂宇を建立し、普賢寺を号したといいます。
この薬師如来像は”鼓薬師”といい、弘法大師の御作とも伝わります。

改修で発見された天井板銘より、当山の開創は治承四年(1180年)とされています。

建暦三年(1213年)の和田合戦で領主葛西民部少輔は討死、当山の堂宇も焼亡して、三歳の遺児六郎常則は薬師像を懐に母とともに一旦この地を退去しました。
14年ののち常則は北條家に出仕し本領葛西の地を賜ってここに住し、弘安六年(1283年)薬師堂を再造、法空阿闍梨を請待し導師となしたといいます。
これにより、法空阿闍梨は中興(開山)とされています。

葛西氏は、桓武平氏良文流の秩父氏(坂東八平氏の一)の一族豊島氏の庶流です。
初代・葛西清重は豊島氏嫡流豊島清元(清光)の三男で、下総国葛西御厨(葛飾区の葛西城)を本拠に、現在の江戸川区・墨田区一円に勢力を張りました。

豊島清元・葛西清重父子は源頼朝公の挙兵に応じて御家人となり、清重は奥州合戦で武功を立て、奥州藤原氏が滅んだ後に奥州総奉行に任じられて陸奥国に所領を得ました。
後に奥州の大族として発展しますが、葛西清重の代には鎌倉御家人として葛西の地を本拠としていたようです。

清重は頼朝公の寝所警護11名の内に選ばれ、建久元年(1190年)頼朝公上洛の際にも右近衛大将拝賀の布衣侍7人を勤めるなど、頼朝公の信任ことに厚かったといいます。

葛西氏は系図が錯綜している氏族で、二代目以降は諸説があります。
『新編武蔵風土記稿』には、和田合戦で「葛西民部少輔討死シ」とありますが、葛西清重は和田合戦で討死しておらず、葛西氏の別人とみられます。

また、『江戸名所図会』には、「境内に葛西六郎といへる人の墳墓あり 按に葛西三郎清重の氏族なるへし 吾鑑に建暦三年(1213年)五月三日和田左衛門尉義盛兵を起して将軍家及び執権義時の亭をかこむといへる 条下に葛西六郎といへる名を●●● 武蔵國の住人と注せり おそらくは此人ならん歟」とあります。

葛西清重の子として清親、朝清、時清、清宗などの名が伝わりますが、いずれも事績がはっきりとしません。(諸説は伝わりますが、錯綜している模様。)

葛西清重の生涯は1161-1238年と伝わるので、年代的には当山開基(葛西兵衛尉入道寂昌)=葛西清重ともみられ、当山開基を葛西清重とする資料もみられます。
『新編武蔵風土記稿』には「建治元年(1275年)和田北條合戦」とありますが、和田合戦は建暦三年(1213年)で、年代的に和田合戦で討死した「葛西民部少輔」(葛西六郎?)は葛西清重の子、本領に復した葛西六郎常則は葛西清重の孫ではないでしょうか。

しかし、『江戸名所図会』には「当寺過去帳に建久元年(1190年)三月廿日葛西六郎常則卒」とあり、これを信じると↑の推測は時系列的にすべて崩れてしまいます。
(『江戸名所図会』もこのくだりについては「尤も不審少からす」と付記しています。)

葛西清重は、親鸞聖人の関東遊行布教の際に聖人に帰依して出家。
名を西光坊定蓮と改め、自らの居館を西光寺(葛飾区四つ木)としたといいます。
(→ 西光寺公式Web

真宗に帰依した葛西清重が真言宗寺院の普賢寺を開基とは、いささか不思議な感じもしますが、あるいは真宗帰依前のことかもしれません。

じっさい東向島の晴河山 法泉寺は、葛西清重が両親供養のために真言宗寺院として建立、戦国時代に曹洞宗に改めたといいます。

■ 関連記事→ ■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2

「猫の足あと」様Web掲載の『葛飾区寺院調査報告』には「天文7年(1538)10月、国府台の合戦で、兵火に罹り、多くの寺宝・記録を失い、北条氏綱の再興を経て、天正18年(1590)再び兵火のために焼失し、慶長年間(1596-1615年)、宥海法印がその荒廃を惜しみ、衆縁を募って再建」とあります。

国府台合戦(天文七年(1538年))は、第2代古河公方・足利政氏の子足利義明&房総土着の諸将連合軍vs戦国大名・北条氏綱との戦いです。
この時点ですでに葛西氏は勢力を弱めていたとみられ、古河公方の拠点のひとつとなっていた葛西城(葛飾区青戸)は激戦の地となり、そのときの兵火で当山は伽藍を失ったとみられます。

戦後、北条氏綱が再興したものの、『新編武蔵風土記稿』には「天正十八年(1590年)又兵火ノタメニ焼失」とあります。
この年、奥州で「葛西大崎一揆」(豊臣秀吉の奥州仕置により改易された葛西氏・大崎氏らの旧臣による新領主・木村吉清・清久父子に対する反乱)が勃発し、これが葛西氏とゆかりのふかい当山にも波及したのかもしれません。

慶長二年(1597年)斎海により中興。
新義真言宗の古刹として名声を保ち、荒川辺、荒綾、南葛(いろは大師)の3つの弘法大師霊場(八十八ヶ所)の札所となっています。

なお、『新編武蔵風土記稿』には「又此寺始ハ隣村足立郡普賢寺持ニアリシユヘ 今モ地名ニ残リシト云 或ハ寺領ナリシトモ云」とあります。
足立郡普賢寺村は現在の足立区綾瀬二丁目あたりですが、普賢寺のあった(上千葉村)のむ一部がのちに足立区綾瀬に編入されているので、東堀切(上千葉村)の普賢寺の寺領が
足立郡普賢寺村にあったとみるのが妥当かもしれません。

なお、『新編武蔵風土記稿』には「香取社 村ノ鎮守ナリ 普賢寺持 下ノ二社持同シ 末社天神 辨天 稲荷社 神明社」とあるので、(上千葉)香取社、稲荷社、神明社の別当は普賢寺が務めていたことになります。

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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻三』(国立国会図書館)
(上千葉村)普賢寺
新義真言宗青戸村寶持院末 日照山源光院ト号ス 開山法空 弘安六年(1283年)三月朔日寂ス 本尊ハ鼓薬師ト号シ長二寸 弘法大師ノ作ナレト 今ハ別ニ木佛ヲ造リテ其腹籠ニ安スト云縁起ニヨルニ壽永ノ頃(1182-1184年)当所ニ朽タル大木アリ 其根ヨリ清水湧出セシカハ領主葛西兵衛尉入道寂昌 其樹根ヲ堀ラシメテ薬師ノ像をヲ得タリ ヨリテ堂宇ヲ創シ普賢寺ト名付 寺領等ヲ寄附セシニ 建治元年(1275年)和田北條合戦ノ時 領主葛西民部少輔討死シ 堂宇モ焼亡セラレシユヘ 其子六郎常則ハヤウヤク三歳ナリシカハ 母ナル人此薬師ノ像ヲ懐ニシテ母子共ニ此地ヲ退ケリ 其後十四年ヲ経テ常則再ヒ北條家ニ属シ 本領葛西ノ地ヲ賜リテコヽニ住セシカハ 弘安六年(1283年)薬師ノ堂ヲ再造シ 法空阿闍梨ヲ請待シテ導師トナセリ 其後北條氏綱中興セシカ 天正十八年(1590年)又兵火ノタメニ焼失シテ僅カニ昔ノ蹟ノミ存スル事トナレリ 又此寺始ハ隣村足立郡普賢寺持ニアリシユヘ 今モ地名ニ残リシト云 或ハ寺領ナリシトモ云(中略) 稲荷社

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻三』(国立国会図書館)
(上千葉村)香取社
村ノ鎮守ナリ 普賢寺持 下ノ二社持同シ 末社天神 辨天 稲荷社 神明社

『江戸名所図会』(国立国会図書館)
日照山 普賢寺
上千葉村普賢寺にあり 新義真言宗にして本尊薬師如来ハ佛工春日の作なり 弘安年間(1278-1288年)法空阿闍梨開基 境内に葛西六郎といへる人の墳墓あり
按に葛西三郎清重の氏族なるへし 吾鑑に建暦三年(1213年)五月三日和田左衛門尉義盛兵を起して将軍家及び執権義時の亭をかこむといへる 条下に葛西六郎といへる名を●●● 武蔵國の住人と注せり おそらくは此人ならん歟 当寺過去帳に建久元年(1190年)三月廿日葛西六郎常則卒 栄照院常山大居士とあり 当世の法号の如し 尤も不審少からす


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JR常磐線・メトロ千代田線「綾瀬」駅、京成本線「お花茶屋」駅からいずれも1㎞ほどで、鉄道利用ではやや行きにくいところ。
落ち着いた住宅地の一角に、古刹らしいゆったりとした山内を構えています。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 寺号標

前面道路から参道がまっすぐに伸びています。
参道手前に風格のある寺号標を置きで、参道の先に山門。
松樹に囲まれ、古刹ならではの雰囲気があります。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門の寺号板

山門前左手には「願掛け水掛け不動尊」の石標。
山門は脇塀付切妻屋根桟瓦葺のおそらく薬医門で、柱に寺号板、見上げに山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 山内


【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 石佛群

山門をくくった山内。右手に石佛群、左手には石佛群と大師堂。

大師堂は切妻造桟瓦葺妻入一間の堂宇で、見上げに「弘法」の扁額。
お堂向かって左には「荒綾八十八ヶ所第八十七番」とある荒綾霊場の札所標、右には弘法大師一千年塔。
堂前の灯籠は区の指定有形文化財、庚申灯籠と思われます。


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 大師堂扁額


【写真 上(左)】 荒綾霊場札所碑
【写真 下(右)】 弘法大師一千年塔

堂内にはお大師さまの坐像が奉安され、台座の「第五十五番」は南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)の札番です。


【写真 上(左)】 大師堂堂内
【写真 下(右)】 願掛け水掛け不動尊


墓域にある三基の宝篋印塔は都の指定文化財で葛西氏の墓であるといわれますが、墓域にあるので撮影は控えました。

本堂右手奥の覆屋に御座す不動明王坐像が、おそらく「願掛け水掛け不動尊」と思われます。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

本堂は近代建築で、唐破風様の大がかりな屋根と棒瓦の直静的な向拝屋根の対比が個性的な意匠。

『新編武蔵風土記稿』によると、当山御本尊の薬師如来は弘法大師の御作で、のちに木佛の薬師如来の胎内に籠安されたとのことです。


本堂向かって左手奥の庫裏にご住職?はいらっしゃいましたが、御朱印は授与されていないとのことでした。

ゆかりのあるところで、普賢寺が別当を務めていた(上千葉)香取神社の御朱印を掲載します。


〔 (上千葉)香取神社の御朱印 〕



■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-2へつづきます。



【 BGM 】
■ e x - MARINA feat. Hisho (from Bling Journal)


■ ナツノカゼ御来光 - 花たん


■ The Days I Spent With You - 今井美樹
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