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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-29

Vol.-28からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第88番 遍照山 高野寺 文殊院
(もんじゅいん)
杉並区の紹介Web

杉並区和泉4-18-17
高野山真言宗
御本尊:弘法大師
札所本尊:弘法大師
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第88番

ついに札所第88番、結願です。
結願所の第88番は杉並の文殊院です。

第88番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに高野寺文殊院で、第88番札所は開創当初から白金臺町の高野寺文殊院であったとみられます。

杉並区の紹介Web、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

文殊院は開山を高野山興山寺の木食応其上人ともいいますが、『寺社書上』には慶長五年(1600年)文殊院勢誉師が徳川家康公の帰依を受けて駿府に寺地を拝領して開創とあるようです。
開創当時は興山寺を号していました。

寛永四年(1627年)、文殊院応昌師が江戸浅草に寺地を賜り、駿府城北の丸の建物を拝領して移築といいます。

元禄九年(1696年)麻布白金台町(現・白金二丁目)に移り「白金高野寺」と呼ばれました。
江戸期の当山は、高野山在番所行人方触頭として真言宗では重要ポジションの寺院でした。

高野山行人方については第50番の大徳院でもふれています。

江戸時代、高野山内の組織は学侶方・行人方・聖方の「高野三方(三派)」から成り立っていました。
wikipediaの「高野三方」(こうやさんかた)には以下のとおりあります
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高野三方は、平安時代から江戸時代まで高野山を構成した、学侶方・行人方・聖方による三派の総称。

・学侶方
密教に関する学問の研究・祈祷を行った集団。代表寺院は青巌寺であった。

・行人方
寺院の管理・法会といった実務を行った集団。また、僧兵としての役割も担った。代表寺院は興山寺であった。

・聖方
全国を行脚して高野山に対する信仰・勧進を行った集団。全国各地に伝わる空海による開湯・開山の伝説を生む要因となった。代表寺院は大徳院であった。
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江戸における高野三方の拠点(在番所等)は、学侶方が高野山学侶方江戸在番所(現・高野山東京別院/第1番札所)、行人方が高野寺文殊院(第88番札所)、聖方が大徳院(第50番札所)。
いずれも御府内霊場札所で、しかも学侶方が第1番発願所、行人方が第88番結願所、聖方が第50番を押さえていたことになります。

御府内霊場は新義真言宗寺院が多いですが、こうしてみると高野山の江戸写し的な性格を帯びていることがわかります。
文殊院が結願所をつとめられている理由は、ここにあるのかとも思います。

『江戸切絵図』には芝三田日本榎高輪辺絵図に「高野寺」がふたつみえます。

ひとつは東禅寺の北側、もうひとつは清正公覚林寺の東側です。
前者が学侶方高野寺(現・高野山東京別院)、後者が行人方高野寺(現・文殊院、杉並に移転)とみられます。

行人方高野寺(文殊院の旧地)は、法華宗立行寺(港区白金2-2-6)の南側辺だったとみられます。
白金高野山(文殊院)と二本榎高野寺(高野山東京別院)は至近に位置し、御府内霊場は白金で発願し、白金で結願する霊場だったことがわかります。

また、■ 『江戸名所図会 7巻 [7]』の挿絵をみると、かなり広壮な敷地をもっていたことがわかります。

大正9年、文殊院は区画整理により現在地(杉並区和泉)に移転しました。
周辺は住宅地ですが、山内には弘法大師信仰を示す八十八ヶ寺大師石像や「お砂踏の石」があり、往年の御府内霊場結願所の趣きをいまに伝えています。

御本尊の弘法大師坐像は室町末期の作といわれ、「安産守護のご本尊」として広く信仰を集めたといいます。

弘法大師座像、弁財天像・付近出土の板碑・百度石・文殊院文書などが区の文化財に指定されている模様ですが、弘法大師座像をのぞいて詳細は不明です。
→ 弘法大師坐像についての杉並区史料(PDF)


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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
八十八番
●●●●町
高野寺
高野山●人●直番所
本尊:弘法大師 不動明王 愛染明王

『寺社書上 [16] 白銀寺社書上 弐』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.30』
麻布白金臺町壱町目
高野山行人方在番所
古義真言宗触頭 東西二箇寺

慶長五年(1600年)大権現様於駿府文殊院(当時興山寺ト申候)勢誉寺地拝領仕
其御御当地浅草から砌 寛永四年(1627年)於浅草●-● 文殊院應昌拝領仕
●-● 元禄九年(1696年)於白金臺町替地拝領仕候

本堂
 本尊 弘法大師木座像
 二脇士 不動明王木坐像 愛染明王木坐像
 二天幷八祖画像
本堂内護摩所
 不動明王木立像
本堂内大師前
 大聖歓喜天
 賓頭盧木座像
東在番所
西在番所
東在番交替所
西在番交替所
鎮守社
 丹生大明神 高野大明神 神體幣
八幡宮 神體幣
摩利支天小社 神體幣
入船稲荷社
金毘羅小社
 
『江戸名所図会 7巻 [7]』(国立国会図書館)
白金高野寺
高野山在ばん所行人方触所なり
本尊に弘法大師 幷 不動愛染観音歓喜天を安す
八十八ヶ所の札の打とめなり 



「白金高野寺」/原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[7],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836].国立国会図書館DC(保護期間満了)


「高野寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』目黒白金辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはJR・メトロ丸ノ内線「方南町」駅で徒歩約15分。
駅から南下して神田川を渡り、住宅街の路地をたどる道行きです。
駅からそれなりに歩きますが、御府内霊場結願に向かうにはこの程度のアプローチがあってもいいかもしれません。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 門前

住宅地のなかに突然に寺院があらわれます。
門前から背後を振り返ると、参道らしいまっすぐの道が延びているので歩いていくと院号標&札所標がありました。
正式にはここからが参道なのだと想います。


【写真 上(左)】 院号標
【写真 下(右)】 山内

門は門柱で、その手前に院号標。
山内は住宅地の寺院にしてはかなりの広さで、格式の高さが感じられます。

参道左手に文殊堂、正面が本堂、本堂向かって右手が庫裡です。


【写真 上(左)】 文殊堂
【写真 下(右)】 文殊堂扁額

文殊堂は宝形造銅板葺で頂に宝珠を置き、向拝に「文殊堂」の扁額と文殊菩薩の御真言が掲げられています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 修行大師像

本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝、屋根の勾配が急で迫力があります。
本堂向かって右手に修行大師像。本堂前には御宝号の石碑?があります。


【写真 上(左)】 修行大師像と本堂
【写真 下(右)】 弘法大師御寶前の石碑?

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股。
向拝見上げに院号扁額を掲げています。
向拝柱には札所板と御寶号の板とが掲げられています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額


【写真 上(左)】 札所板
【写真 下(右)】 御寶号の板

シンプルながら随所にお大師さまゆかりの事物が配され、さすがに御府内霊場結願寺らしい趣きがあります。

御本尊は弘法大師。
初番・高野山東京別院の御本尊は弘法大師ですから、弘法大師で発願し、弘法大師で結願する、まことに弘法大師霊場らしい霊場といえましょう。

本堂向かって右のおくには五輪塔があり、そのまわりにはたくさんのお大師さまが御座されています。
そして、その回りがお砂踏場となっていて、これまでの巡拝をしのびながら巡拝することができます。


【写真 上(左)】 本堂向かって左手
【写真 下(右)】 お大師さま

御朱印は庫裡にて拝受しました。
結願証は授与されておられませんが、御朱印には「御府内霊場第八十八番 結願寺」の札所印を捺していただけます。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に弘法大師のお種子「ユ」「弘法大師」の揮毫と「ユ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「御府内霊場第八十八番 結願寺」の札所印。
左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


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これにて江戸・東京の弘法大師霊場・御府内八十八ヶ所霊場は結願となります。
結願に至るまでは長い道程ですが、それだけに達成したときの満足感はひとしおです。

興味をもたれた方は、トライされてみてはいかがでしょうか。


【註記】
この連載記事は、書いている途中で『御府内八十八ケ所道しるべ』の存在に気づいたため、
途中から構成が変わっております。
ひとまずはこれで完結としますが、後日前半の構成を整えていきたいと思います。


■ 札所リスト・目次など
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1



【 BGM 】
■ Goodbye Yesterday - 今井美樹


■ Mirai 未来 - Kalafina


■ 時代 - 薬師丸ひろ子
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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-28

Vol.-27からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第87番 神齢山 悉地院 護国寺
(ごこくじ)
公式Web

文京区大塚5-40-1
真言宗豊山派
御本尊:如意輪観世音菩薩
札所本尊:如意輪観世音菩薩
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第87番、江戸三十三観音札所第13番、近世江戸三十三観音霊場第13番、東京三十三所観世音霊場第24番、山の手三十三観音霊場第7番、東都七観音霊場第7番、弁財天百社参り第46番、東国花の寺百ヶ寺霊場東京第3番

御府内霊場は、結願直前の第87番に御府内きっての名刹を配しています。
音羽の護国寺です。

第87番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに護国寺で、第87番札所は開創当初から音羽の護国寺であったとみられます。

護国寺は御府内有数の名刹につき記録類はふんだんにあり、逐一追っていくときりがないので、公式Web、『江戸名所図会』、『小石川区史』をメインに縁起・沿革を追ってみます。

護国寺は天和元年(1681年)、徳川5代将軍綱吉公(大猷公)が生母・桂昌院の発願を受け、上野国碓氷八幡宮(上野國一社八幡宮)の別当・大聖護国寺の亮賢僧正を招き開山として創建されました。

幕府の高田薬園の地を賜い堂宇を建立、桂昌院の念持仏である天然琥珀如意輪観世音菩薩像を御本尊とし、神齢山悉地院護国寺と号しました。

なお、碓氷八幡宮(上野國一社八幡宮)の元別当・大聖護国寺(高崎市)は現存し、多彩な御朱印を授与されています。
公式Webには、御本尊の不動明王を含む五大明王、および三十六童子が桂昌院寄進であることが記されています。


【写真 上(左)】 大聖護国寺
【写真 下(右)】 同

 
【写真 上(左)】 大聖護国寺の御朱印
【写真 下(右)】 同

寺領三百石の寄進を受けて当山は大伽藍を整え、御府内屈指の巨刹となりました。
幕府の祈願所にもなり綱吉公、桂昌院も度々参詣したといいます。

音羽は江戸城の北方、武蔵野台地のほぼ南端にあり、その台地の高みは武州の山々や、遠く上信の霊山までつながっています。
風水では北の丘陵には玄武が備わり守護するという考えがあります。

幕府の祈願所を音羽に置いたのは、あるいは音羽の丘陵の玄武の守護を期待したものかもしれません。

護国寺は大和長谷寺末ながらすこぶる高い寺格を有し、御府内に多くの末寺を抱えていきます。

享保二年(1717年)正月、神田の護持院が焼失したのち、享保五年(1720年)幕命により護持院を当山内に併置。
観音堂を護国寺、本坊を護持院と称して、護持院の住持が当山を兼攝しました。


〔護持院〕
護持院は、筑波山知足院を号した御府内有数の名刹です。
護持院の開祖権僧正光誉は和州初瀬の西蔵院の住職でしたが(おそらく家康公の)篤い帰依を受けて江戸に招聘され、常州筑波山の宿寺の住持となり知足院と号しました。

筑波山・中善(禅)寺(知足院)との関係については史料により錯綜していますので、簡潔にまとまっている筑波山大御堂の公式Webから抜粋引用させていただきます。

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・筑波・知足院中興の祖・宥俊(第1世)は家康公の帰依篤く慶長七年(1602年)朱印五百石を賜る
・慶長十五年(1610年)筑波山中禅寺知足院の江戸別院として江戸に護摩堂を建立
・第2世・光誉は護摩堂の経営に当たるため江戸在府となり、以降筑波山には院代を置いて寺務執行が通例となる
・元禄元年(1688年)綱吉公の後押しで護摩堂を護持院と改称して開山
・江戸将軍家代々の加持祈祷を行う寺院へ発展、上野寛永寺と並び称されるほどの巨刹となる
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上記と史料類をまとめてみると、

筑波山知足院の宥俊は家康公の帰依篤く慶長七年(1602年)朱印五百石を賜りました。
慶長十五年(1610年)、大神君(家康公)の命を受けて寺地を賜り、筑波山中禅寺知足院の江戸別院として江戸銀町(神田九軒町ないし日本橋?)に護摩堂を建立。
江戸城の護持所と定めました。

和州初瀬・西蔵院の住職・光誉は(おそらく家康公の)篤い帰依を受けて江戸に招聘され、筑波山中禅寺知足院第2世になるとともに、江戸別院の護摩堂(のちの護持院)を護持しました。
以降、筑波山知足院の住持は江戸(護持院)在所となり、筑波山には院代を置きました。

光誉上人は大阪冬の陣の際に陣中で祈祷をおこなったとありますから、家康公の帰依まことに篤かったとみられます。

常陸の名山・筑波山は古来から人々の信仰を集め、建久二年(1191年)源頼朝公は安西景益、上総介広常、千葉介常胤等を伴って筑波山当神社に参詣、神領を寄進しています。
頼朝公への尊敬の念が篤かったという徳川家康公が、関東鎮護に当たり筑波山を重視したのは故あることかもしれません。

実際、筑波山神社の公式Webには、これをうかがわせる記述がありますので抜粋引用させていただきます。
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・天正十八年(1590年)八月、徳川家康は江戸城に入城、東北に聳える筑波山を仰いで江戸城鎮護の霊山と崇め(た)
・慶長五年(1600年)九月、関ヶ原の合戦に大勝の後(略)家康が厚く帰依していた大和国長谷寺の別当梅心院宥俊を筑波別当に補し、知足院を再興せしめて将軍家の御祈願所と為し、筑波山神社御座替祭を以て江戸城鎮護の神事と定めた
・宥俊の弟子二世光誉も家康の信任厚く、慶長十五年(1610年)江戸白銀町に護摩堂を建てて常府を仰付けられ、慶長・元和の大阪夏冬の陣には陣中に在って戦勝を祈願
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結城の総鎮守・健田須賀神社の公式Webには「霊峰筑波山を拝するのに素晴らしい地にあり、古代人はここで祭りを行い、日の出から暦を察した」とあり、筑波山信仰との関係を示唆しています。

健田須賀神社はまた、結城家第一の氏神として知られています。
家康公の次男・秀康公は羽柴家(豊臣家)の養子となったのち結城家に入り結城秀康を名乗りました。

秀康公の結城家入りは秀吉公と結城晴朝とで進められたとされますが、秀康公は関ヶ原の戦いの際に宇都宮に留まり、北方・上杉勢の南下を能く抑えました。

筑波山は江戸からみて鬼門の方角に当たり、江戸鎮護という観点からも重要な霊地だったとみられます。

このように、筑波山信仰や鬼門鎮護、そして北方を抑えた結城秀康公の事績などが重なり、筑波別当・知足院が将軍家代々の祈祷寺院となっていったのでは。

上野寛永寺が江戸城の鬼門にあることはよく知られていますが、こちらは天台宗。
さらに北東の筑波山に真言宗系の知足院を置き、二重の江戸鎮護結界を張ったという想像も許されるかもしれません。

知足院江戸護摩堂は、元和八年(1622年)夏以前に成立とされる「新義真言宗触頭江戸四箇寺」の一寺となり寺格を高めました。

御本尊は不動明王で、古くは御本尊に釈迦如来を安したとも伝わります。

寛永三年(1626年)大猷公(徳川家光公)により諸伽藍を建立、延宝二年(1674年)再修するも火災に罹り、貞享元年(1684年)湯島切通(かつての根生院の在地)に一旦移転しました。

元禄元年(1688年)綱吉公の後押しで(知足院江戸)護摩堂を護持院と改号して開山。
江戸将軍家代々の加持祈祷を行う寺院へと発展し、上野寛永寺と並び称されるほどの巨刹となりました。

元禄(1688-1704年)任元の年に神田橋に移転。
移転後も徳川将軍家の帰依浅からず、松平若狭守・仙石越前守により護摩堂、祖師堂、観音堂、経堂、灌頂堂、鐘楼堂、二天門などの伽藍が整備されました。

このとき、隆光を開山とし権僧正に任せられ、元禄四年(1691年)寺領千五百石を拝領して院家に列し、関東新義(真言宗)惣録と定められました。

おそらくこの神田橋移転の前後に、護持院は「新義真言宗触頭江戸四箇寺」を外れたとみられます。

「新義真言宗触頭江戸四箇寺」については第35番の根生院でふれていますが、再掲します。
Wikipediaに「触頭(ふれがしら)とは、「江戸時代に江戸幕府や藩の寺社奉行の下で各宗派ごとに任命された特定の寺院のこと。本山及びその他寺院との上申下達などの連絡を行い、地域内の寺院の統制を行った。」とあります。

『新義真言宗触頭江戸四箇寺成立年次考』(宇高良哲氏、PDF)では、新義真言宗触頭江戸四箇寺は知足院(湯島~一ツ橋→大塚護持院)、真福寺(愛宕)、円福寺(愛宕)、彌勒寺(本所)で、元和八年(1622年)夏以前に成立の可能性が高いとしています。

「港区Web資料」には「新義真言宗の江戸触頭は江戸四箇寺と呼ばれ、本所弥勒寺・湯島知足院(後に湯島根生院)・円福寺・真福寺からなる。」とあり、『寺社書上』にも「根生院儀● 新義真言宗之触頭江戸四ヶ寺之内ニ御座候」とあるので、貞享四年(1687年)に根生院は触頭の地位を湯島知足院から承継したとみられます。

これは護持院が降格になったわけではなく、むしろその逆で「護持院は江戸城守護の役割に専らにするため触頭江戸四ヶ寺」を外れたとする史料が複数みられます。
じっさい、護持院は元禄四年(1691年)寺領千五百石を拝領して院家に列し、関東新義(真言宗)惣録に定められています。

職掌範囲が江戸から関東に広がっているわけで、これはどうみても格上げかと。
松平若狭守・仙石越前守という幕府重鎮肝入りの普請も、これを裏付けています。

元禄五年(1692年)隆光上人は大僧正に昇進し、元禄九年(1696年)元禄山護持院の号を賜わりました。

濃州大野郡實相院から弘法大師御自作の真像をお迎えして、祖師堂に奉安。
観音堂の御本尊も霊験あらたかな御守護として信仰を集めていたようです。

しかし、享保二年(1717年)正月、火災によりすべての堂宇を焼失しました。

享保五年(1720年)、幕命により護持院の住持僧侶は音羽の護国寺内に移り、江戸城祈祷所も音羽の地に遷りました。
観音堂を護国寺、本坊を護持院と称して護持院の住持が当山を兼攝したといいます。

なお、音羽移転時に御本尊についての記載がないので、従前どおり不動明王を御本尊に安していたとみられます。
護持院域内には、この地の蟹ヶ池から出現された薬師如来、歓喜天尊、東照大権現御正真の御尊像を奉安と記されています。

護国寺と同様、護持院も御府内に多くの末寺を抱えていたので、護国寺山内は御府内屈指の新義真言宗の宗務センターとなりました。
なお、本末記載ではそれぞれ「音羽護国寺」「大塚護持院」とされる例が多くみられますが、これは護国寺本坊(=護持院)が大塚寄りだったからかもしれません。

護国寺・護持院両寺併せてじつに二千七百石を賜わり、壮大な山内は『江戸名所図会』所載の絵図からもうかがえます。
高台にある景勝の地で、御府内霊場、江戸三十三観音の札所でもあったことから多くの参拝者を集めたといいます。

明治維新後、護持院は復職(復飾?)して寺号を廃しましたが護国寺は法派を堅持し、これまで護持院と称した部分も護国寺に復しました。

しかし、公式Webに筑波山大御堂のリンクが張られていることからも、旧護持院(筑波山知足院(大御堂))の法統はいまも護国寺のなかに息づいていると思われます。


【写真 上(左)】 筑波山大御堂
【写真 下(右)】 筑波山大御堂の御朱印

明治16年旧本坊を焼失、大正15年にも天和草創の大師堂を失いましたが、本坊はすぐに再建、元禄時代建立の薬師堂を大師堂跡に移して大師堂としています。

現在の本堂は元禄十年(1697年)建立の観音堂で、壮大な結構は元禄時代の代表的建築物として国の重要文化財に指定されています。

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護国寺本堂 江戸中期/1697
桁行七間、梁間七間、一重、入母屋造、向拝三間、瓦棒銅板葺
重要文化財
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昭和3年、原氏寄進の月光殿は三井園城寺の中院にあった日光院の客殿で、桃山時代の書院作りの形式を備えた代表的建築物として、こちらも国の重要文化財となっています。

その他にも薬師堂、大師堂、多宝塔、忠霊堂や創建当時のものと伝えられる仁王門、惣門、中門など、山内には多くの見どころが点在し、いまも多くの参拝客を迎えています。


〔吹上稲荷大明神〕
『御府内八十八ケ所道しるべ』に「本尊:如意輪観世音菩薩 本社 正一位吹上稲荷大明神 弘法大師」という記載があります。
この史料で「本社」とある場合、ほとんどは札所寺院が別当をつとめる神社です。

しかし、 『江戸名所図会 7巻 [12]』(国立国会図書館)には「今宮五社 当所鎮守と云 天照太神宮 八幡大神 春日大明神 今宮大明神 三部大権現五社を祭る 音羽町青柳町桜木町古の鎮守なりと云伝ふ」とあり、当山鎮守で当地の鎮守でもあったのは山内の今宮五社でした。

それではどうして御府内霊場拝所として吹上稲荷大明神が記されているのでしょうか。

境内掲示、『小石川区史』および東京都神社庁Webによると吹上稲荷神社(吹上稲荷大明神)の創祀沿革は以下のとおりです。

元和八年(1622年)、徳川秀忠公が日光山より稲荷大神の御神体を奉戴し江戸城吹上御殿内に「東稲荷宮」号して勧請斎祀。
のちに水戸徳川家の分家松平大学頭家が徳川家より拝領し、宝暦年間(1751-1764年)前に大塚村の総鎮守として松平家より拝受し小石川四丁目に奉斎とあります。
また、このときに江戸城内吹上御殿に鎮座せられるを以て吹上稲荷神社を号したといいます。

その後、護国寺月光殿から大塚上町、大塚仲町と御遷座され、明治45年に大塚坂下町(現在地)に御鎮座といいます。
一時期小日向の善仁寺山内に御遷座という史料もあり、御遷座地について諸説あります。

『小石川区史』に「後護國寺境内に移され、明治五年更に今の地に移った。」とあり、『御府内八十八ケ所道しるべ』が編纂された明治初頭時点では護国寺月光殿に御鎮座とみられます。

護国寺は徳川将軍家とゆかりのふかい寺院、吹上稲荷大明神ももともとは徳川将軍家とのゆかりをもたれるので、護国寺月光殿に御鎮座の吹上稲荷大明神が御府内霊場の拝所とされたのかもしれません。


【写真 上(左)】 吹上稲荷神社
【写真 下(右)】 吹上稲荷神社の御朱印

なお、護国寺鎮守の今宮五社については、第76番金剛院でふれていますが、すこしく複雑なので再掲整理します。

御府内霊場第76番札所は、もともとは小日向の田中八幡宮の別当・西蔵院でした。
田中八幡宮(別当:西蔵院)は現在の今宮神社の場所(音羽裏)にありましたが、明治の神佛分離で西蔵院が廃寺となり、田中八幡宮は氷川社(別当:日輪寺)と合祀されて、現在の小日向神社の地に御遷座、小日向神社と号されました。

一方、田中八幡宮の跡地には護国寺の鎮守であった今宮五社が明治6年に御遷座され、今宮神社を号していまに至るようです。


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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
八十七番
音羽壱丁目
神齢山 悉地院 護國寺
本山長谷寺 新義
本尊:如意輪観世音菩薩 本社 正一位吹上稲荷大明神 弘法大師

『江戸名所図会 7巻 [12]』(国立国会図書館)
神齢山護國寺
悉地院と号し音羽町の北にあり新義の真言宗なり
和州長谷小池坊に属す
開山を亮賢僧正と号し公より寺領二千百石を附せられ盛大の地なり
古鹿子に云 寺領三百石大猷公(徳川家光公)守御本尊瑪瑙石観音像開基

本堂
 本尊 如意輪観世音菩薩
 瑪瑙石にして天然のものなり 元禄半の頃 前川三左衛門入道道寿といへる人 異邦に渡り持ち来りしを黄檗隠元老師の弟子黒滝の潮音 前川氏と子弟の縁ある●-● 潮音に授与す 其御故ありて桂昌一位尼公崇敬したまひし由

薬師堂
 本堂左にあり本尊薬師如来ハ昔当寺草創の時 此地蟹ヶ池より出現ありし霊像なりといへり 今の本尊薬師仏の胎中に収む 左右に十二神将の像を置り
西國三十三番巡礼所写
 本堂より西の方の山間にあり天明年間(1781-1789年)深林を伐開き各其地勢によって●を模す
歓喜天
 境内寿●院に安す 桂昌一位尼公尊信の本尊なりとそ永代不退ぢんす 天下安全の浴油の法を修せしめられ寺産を●ふ
仁王門
 仁王の裏に置所の廣目増長の二天の像ハ古への火災に残りしといふ
今宮五社
 当所鎮守と云 天照太神宮 八幡大神 春日大明神 今宮大明神 三部大権現五社を祭る 音羽町青柳町桜木町古の鎮守なりと云伝ふ

当寺ハ延宝九年上野國八幡別当大聖護國寺の住持 法印亮賢に高田御菜園の地を賜ひて寺とす 依って大聖護國寺と号亮賢初
御在胎の時より御祈祷を●りし故 天和元年(1681年)に 憲廟将軍の宣下蒙りて同年都下新建の大聖護國寺を仁和寺に録し●て院家と●依って寺領三百石を附したまふ
貞享二年(1685年)大聖護國寺の住持法印賢廣 黄衣を許る
其後元禄年中(1688-1704年)桂昌院殿一位尼公の御志願によろしく御菜園の地をちんし其頃御建立ありし 
江戸密乗最大の梵宇にして結構奉り 春時ハ櫻花爛漫として頗る地勢洛の御室を彷彿せり

『江戸名所図会 7巻 [12]』(国立国会図書館)
筑波山護持院
音羽町の北にあり真言宗にして和州長谷の一派なり
寺領千有五百石を附せらる

本堂
 本尊 不動明王 古ハ本尊に釈迦佛を安せしと云
歓喜天
蟹ヶ池 昔此所より薬師如来の像出現ありしとそ
権現山 東照大神君御正真の御尊像を安置し奉る

当寺開祖権僧正光譽ハ和州初瀬寺の西蔵院に住職ありしに 御帰依浅●●に江府に召され 常州筑波山の宿寺を下したまふ 即知足院と号す
其始知足院宥俊ハ下野國筑波山中善寺を兼帯し 真言宗新義四箇寺の支配●り 慶長(1596-1615年)の始 大神君の厳命を蒙り江城の護持所と定させられ 同庚戌の年(慶長十五年(1610年))江戸銀町に寺院をたまふ 其地末考九軒町の●

依光譽知足院をうつし営建を 同癸亥年大阪御陣の頃も光譽命を受けて御陣中に於て祈祷其御寛永三年(1626年)大猷公(徳川家光公)諸伽藍御建立あり

延宝二年(1674年)有廟御再修ありし● 天和五年(1685年?)火災に罹るよりて貞享元年(1684年)湯島切通に移したまふ 今の根生院の地なり
憲廟御帰依浅●●に元禄(1688-1704年)任元の年神田橋外武士屋敷の地に移され松平若狭守仙石越前守に命せられ 護摩堂 祖師堂 観音堂 経堂 灌頂堂 鐘楼堂 二天門 坊舎に至迄 金銀をちりばめたまひ 隆光を開山とし権僧正に任せらる 又護持堂後建立ありて釋迦佛を安せらる
同四年(1691年)寺領千五百石を附したまひ院家に列し 関東新義惣録とせしたまひ 色衣免許の●り当院より沙汰せしと命したまふ

同五年(1692年)覚鑁上人贈官の時に及び隆光改任し大僧正に昇進を 同九年(1696年)元禄山護持院の号を賜ハり(略)弘法大師自作の真像ハ濃州大野郡實相院と云 真言寺にありしを取寄られ祖師堂に安置せり 観音堂の本尊ハ有廟御信敬の御守護佛なり
享保二年(1717年)正月火災ありて 堂塔一宇も不残焼失すれハ 其頃住持とも護國寺に●ひ 大塚護國寺の内にうつし江府城護持の祈祷●所となさしめられ 筑波山兼帯●坊舎日輪院月輪院と云あり

『小石川区史/第七章P.822』(文京区立図書館)
神齢山悉地院護國寺。
新義真言宗豊山派大和長谷寺末。本尊は琥珀如意輪観世音菩薩、開山は亮賢僧正である。当寺の草創については『江戸名所図会』に『求凉亭云く、当寺は京の清水寺を模さるゝ故に、前の町を音羽と名付け、又青柳町、櫻木町など名付けられ、又音羽町九丁あるも、京に一條より九條までの名あるにもとづくとぞ』とあり、天和元年(1681年)将軍綱吉が母公桂昌院の請に依り、元の高田御薬園の地へ一寺を建立し、桂昌院の念持佛であつた天然琥珀観音像を本尊とし、寺領三百石を寄進したのに始まる。
その後桂昌院及び綱吉も度々参詣し(略)本寺は善美を尽せる大伽藍を擁し、将軍の祈願所として、府内屈指の巨刹として、誰れ一人知らぬものがないほど著名になつた。

享保五年(1720年)神田護持院が焼失した時、幕命に依って護持院を当寺に併置し、観音堂の方を護國寺、本坊の方を護持院と称し、護持院の住持が当寺を兼攝した。
兩寺領凡て二千七百石を賜わり、其規模の壮大であった事は、『江戸名所図会』所載の護持院、及び護國寺の圖を見ても知られる。又府内八十八ヶ所の八十七番札所としても多くの参詣者を集めた。

明治維新後、護持院は復職して寺号を廃したが、護國寺は開山以来の法派を保持し、従来護持院と称した部分の堂宇も護國寺分に復した。
然るに明治十六年失火して舊本坊を焼失し、更に大正十五年には天和草創当時の本堂たりし大師堂を失ったが、本坊は直に再建し、元禄時代に建築した薬師堂を大師堂跡に移して大師堂とした。

現在の本堂は元禄十年(1697年)建立の観音堂で、その結構は雄大であり、元禄時代の代表的建築物として寛永時代に建立された浅草寺本堂と併称せられ、都下の江戸時代代表的大建築として特別保護建造物に指定されて居る。
また昭和三年、原氏の寄進になる月光殿が有る。これは元滋賀縣大津市の三井園城寺の中院にあった日光院の客殿で、桃山時代の書院作りの形式を備えた代表的建築物の一つとして、特別保護建造物に指定されて居り、桃山時代の建築としては東都随一の物である。

尚ほ本堂の側に、畿内各地の名物を模造して高橋箒庵居士の寄進した石燈籠二十基があり、東都の一名物として好古家の推賞する所となっている。
又大師堂前には同じく箒庵居士の尽力に依って成った茶亭、仲麿堂及び圓成庵がある。
当寺の墓地は明治二十四年三條實美公の墓地に選ばれて以来、山田顯義伯、大隈侯、山縣公、二荒伯、田中伯、酒井伯、島津公、南部伯、平田伯、河野盤州、梅謙次郎、竹添進一郎氏等維新の元勲を始め、多くの近代名士の墓域となり、俗に『公園墓地』の称がある。
是等の諸建築物や墓地を有する当寺は概ね丘陵の上に有り、境内頗る廣濶、林樹風致に富み、築山、池水等もあって公園の趣を呈し、又音羽通り十数町を其門前町とし、現に市内屈指の佛刹である。
当寺は現在新義真言宗豊山派別格本山で、寺内には豊山派宗務所(がある。)

■ 『小石川区史』(国立国会図書館)
今宮神社
音羽町九丁目に在る。祭神は天照大神、素戔嗚尊、伊弉册尊、譽田別尊、天兒屋根命、大國主命、少彦名命、大宮乃賣命である。
その創建は社伝に依れば、元禄年中(1688-1704年)五代将軍綱吉の生母桂昌院が、護國寺建立と共にその境内に奉祀したと言ふ。
明治初年、神佛混淆禁止に依り、同六年元田中八幡宮の跡なる現地へ遷座した。明治五年村社に列せられ、現在境内は三百餘坪、祭日は九月七日で、東・西青柳町、音羽一丁目乃至九丁目、櫻木町を氏子としてゐる。

■ 『小石川区史』(国立国会図書館)
稲荷神社(吹上)
大塚坂下町に在る。保食命を祭神とする。
俗に吹上稲荷と言はれ、其創建年代も由緒も不明であるが、江戸末期の切絵図に今の大塚窪町邊を吹上と記してあり、又『小石川志料』には、智香寺境内に吹上稲荷大明神のあった事が見えて居るから、それが此の神社の起りであらうと思はれる。後護國寺境内に移され、明治五年更に今の地に移つた。社格は無格社であるが、境内は約二百坪あり、祭典は九月二十二日。竹早町、窪町、大塚町、大塚上町、同仲町、同坂下町を氏子としてゐる。



「護國寺」/原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[12],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836].国立国会図書館DC(保護期間満了)


「大塚護持院」/原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[12],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836].国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』音羽絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはメトロ有楽町線「護国寺」駅で駅出口が山門前です。
振り返ると音羽通りは江戸川橋に向けてまっすぐに伸び、かつてはこのあたり門前町だったのかもしれません。
(『江戸名所図会』には、当山が京の清水寺を模したため門前の町を”音羽”と名付けたとあります。)

護国寺については見どころ満載すぎるので、さらっといきます。
素晴らしい山内なので、ぜひいちどお運びくださいませ。(と逃げる・・・(笑))

山内の伽藍配置については、↓の案内図をご覧くださいませ。



【写真 上(左)】 護国寺駅と仁王門
【写真 下(右)】 仁王門

仁王門前に交番を守衛所のように置くさまは、まさに名刹の風格。

仁王門は、切妻屋根桟本瓦葺の単層丹塗り三間一戸の八脚門です。
建立は元禄十年(1697年)造営の観音堂(本堂)よりやや時代が下るとみられていますが、徳川将軍家祈願寺の表門の役割を果たしただけあって、単層とはいえ軒高が高くかなりのスケール感。
本瓦葺、丸柱、丹塗りと、山門からしてすでに寺格の高さを見せつけています。

- 護国寺の 山門の朱の丸柱 強きものこそ 美しくあれ -
窪田空穂


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 札所碑


仁王門扁額

向かって右手に「大本山護國寺」の寺号標、左手には御府内霊場の札所標。
左右に「大本山護國寺」の提灯を掲げ、見上げには山号扁額を掲げています。

正面南側の両脇間に阿吽の金剛力士像、背面北側両脇間には二天像(右側増長天、左側広目天)が安置されています。


【写真 上(左)】 ご縁日の仁王門
【写真 下(右)】 ご縁日の掲示

山門をくぐると右手に宗務所。こちらは真言宗豊山派の大本山です。

 
【写真 上(左)】 惣門
【写真 下(右)】 惣門の扁額

仁王門の西側に惣門があり、こちらは本坊(旧護持院)の門かと思われます。
綱吉公と桂昌院の御成のために建築されたといい、冠木門をとりこんだ住宅門の造りです。
案内板によると、五万石以上の大名クラスの格式に相当する形式だそうです。
見上げに独特な字体の寺号扁額。

惣門の先に本坊(寺務所)、書院、桂昌殿(葬祭場)、内仏殿を置いています。

山内は北の大塚方面から伸びる武蔵野台地が音羽谷に降るところで、山門と本堂(観音堂)にかなりの高低差があります。


【写真 上(左)】 音羽富士
【写真 下(右)】 音羽富士山頂

本坊裏手の高みには富士浅間神社(音羽富士)が御遷座、一合目から合標が置かれ頂には石祠があります。


【写真 上(左)】 仁王門前から山内
【写真 下(右)】 縁日の参道

仁王門からはしばらく平坦な参道がつづき、ご縁日などこちらに屋台が並びます。


【写真 上(左)】 手水舎と階段
【写真 下(右)】 水盤

左右に手水舎を置いたところから、いよいよ急な参道階段がはじまります。
この手水舎の唐銅蓮葉手洗水盤は桂昌院の寄進で、元禄十年(1697年)江戸の鋳物師権名伊豫良寛の作と記されています。


【写真 上(左)】 階段
【写真 下(右)】 不老門


不老門扁額

ここで身心を清めてから登りはじめます。
すぐ上に不老門が聳え段数もさほどではないですが、なぜかかなりの登りでがあります。
浅草の辨天堂から観音堂に登る階段もそうですが、低平地から台地に登る参道階段は、段数以上に登りでがあるように感じます。

不老門は昭和13年月建立。京都の鞍馬寺の門を基本に設計されたといいます。
懸造り、入母屋造桟瓦葺身舎朱塗りで正面上部に唐破風を興し、扁額「不老」の二字は徳川家達公の筆によるもの。
懸造りなので構造は複雑ですが、桁行三間で中央一戸かと思います。


【写真 上(左)】 不老門からの本堂
【写真 下(右)】 地蔵尊と仁王尊

参道階段の傾斜が急なので、不老門を抜けるまでは本堂(観音堂)エリアは見えません。
不老門を抜けた左手に地蔵尊立像と仁王尊像、右手が大師堂参道です。


多宝塔

さらに数段登ると本堂(観音堂)エリアです。
参道左手の多宝塔は昭和13年の建立。石山寺の多宝塔(国宝)の模写で周囲に桜を配して春先は花見客で賑わいます。


【写真 上(左)】 円成庵
【写真 下(右)】 拝観謝絶の庵(茶席)

多宝塔手前には蘿装庵、円成庵、不昧軒、宗澄庵などの風情ある庵が点在しますが、参詣者は立ち入りできません。
不老門右手の三笠亭、仲麿堂、簑庵も同様のようです。

その上手の鐘楼は近くまで寄ることができます。

格高の袴腰付重層入母屋造で、江戸時代中期の建立とされます。
梵鐘は天和二年(1682年)寄進、銘文には桂昌院による観音堂建立の経緯が刻まれています。


【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 釈迦如来坐像

鐘楼前、参道横には結跏趺坐される釈迦如来の青銅坐像。


【写真 上(左)】 月光殿
【写真 下(右)】 葵の御紋

本堂(観音堂)手前で参道を左に折れると正面が月光殿。
大津三井寺の塔頭・日光院の客殿を昭和3年に現在の場所に移築したもの。
桃山時代の建造で書院様式を伝える貴重な建物として国の重要文化財に指定されています。
附設の建物として草蕾庵、月窓軒、化生庵があるようです。

なお、山内の庵(茶席)は明治から昭和初期にかけて高橋箒庵翁が再興されたとの由。


【写真 上(左)】 多宝塔と月光殿
【写真 下(右)】 山内からビル群

月光殿前から多宝塔方面をのぞむと背景は折り重なるビル群で、護国寺が都心のビル街にオアシス的にあることがわかります。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 ご縁日の本堂

さて、いよいよ本堂(観音堂)です。
元禄十年(1697年)正月、観音堂新営の幕命があり、約半年余りで大造営を完成、同年八月落慶供養と伝わります。
元禄時代の建築工芸の粋を結集した大伽藍とされ、震災・戦災をしのいで江戸期の面影をいまに伝えています。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

桁行七間梁間七間の入母屋造瓦棒銅板葺でこちらも国の重要文化財です。
向拝は三間で、三間に渡って水引虹梁を置き、両端に獅子貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に板蟇股。
軒裏は朱塗りで手前二軒の垂木が目立ちます。

向拝柱には「本尊 如意輪観世音菩薩」の札が掛かっています。
扁額はないですが、羯磨金剛が刻まれた賽銭箱が存在感を放っています。


【写真 上(左)】 御本尊の札
【写真 下(右)】 賽銭箱

こちらの素晴らしいのは、本堂内にあげていただけるところです。
本堂向かって右手の扉が開くのでこちらから参内します。
入ると右手に授与所があるので御朱印帳をお預けします。

堂内はほどよい加減でうす暗く、厳粛な空気がただよっています。
正面が現・御本尊の六臂如意輪観世音菩薩像。
桂昌院の念持仏である唐物天然琥珀如意輪観世音菩薩像は以前に秘仏となり、現在御本尊として安置されているのがこちらの菩薩像のようです。

江戸三十三観音札所、東国花の寺霊場の札所本尊はこちらの観音様になります。
授与所の上には観音霊場札所板が掲げられていました。


【写真 上(左)】 観音霊場札所板
【写真 下(右)】 観音霊場札所標

堀田正虎の母栄隆院を願主とし、元禄十三年(1700年)寄進され、御頭は恵心僧都の作で身体はこの折に新たに作られたといいます。

もろもろの くのうをすくう 観世音
 大悲の恵み 尊うとかりける

なお、如意輪観世音菩薩については、→こちら(東京都区内の如意輪観音の御朱印)をご覧ください。

本堂内は撮影禁止で記憶も定かではありません。
向かって左手には地蔵尊など諸仏、右手には不動明王が御座と記憶しています。

本堂裏手左右が墓域で、本堂正面裏の霊廟は平成8年落慶、聖観世音菩薩像が奉安されています。


【写真 上(左)】 本堂裏手
【写真 下(右)】 閼伽水の井戸

本堂向かって斜め左手おくに傳法灌頂用閼伽水の井戸。
そちらのさらに左おくが薬師堂。
元禄四年(1691年)の建立で、かつての一切経堂を現在の位置に移築し、薬師堂として使用するもの。


【写真 上(左)】 薬師堂
【写真 下(右)】 薬師堂向拝

宝形造桟瓦葺、頂に宝珠を置いて流れ向拝のバランス感に優れた堂宇。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、中備に蟇股で、身舎側への繋ぎ虹梁は置いていません。

向拝正面桟唐戸、両脇に花頭窓を据えるなど禅宗様の手法をとりいれ、元禄期の遺構として価値ある建造物とされます。

こちらの堂宇本尊はこの地にあった蟹ヶ池より出現した薬師如来の霊像を胎内に収められるお薬師さまで、左右に十二神将の像を安置します。
こららの霊像は「江戸名所図会」で護持院の項に記載されているので、旧護持院系の御像とみられます。

 
【写真 上(左)】 忠霊堂
【写真 下(右)】 山内の梅

薬師堂のさらに左手おくには忠霊堂。
明治35年建立。日清戦争で戦死された軍人の遺骨を埋葬する堂宇で、唐金の多宝塔を建立し、その前に拝殿として建てられたのがこの忠霊堂とのことです。
入母屋造瓦葺平入りで、軒唐破風の大がかりな向拝とスクエアな虹梁を備える特徴ある建物です。

さて、御府内霊場巡拝のハイライト、大師堂です。
上で延べたとおり、大師堂への参道は不老門をくぐって右に折れたところから始まります。
参道入口に整った面立ちの六地蔵。
石敷の参道の正面が大師堂です。


【写真 上(左)】 大師堂参道
【写真 下(右)】 大師堂

元禄十四年(1701年)に再営された旧薬師堂を大正15年に大修理し現在の位置に移築して大師堂としたものです。


【写真 上(左)】 大師堂向拝
【写真 下(右)】 大師堂扁額

寄棟造桟瓦葺流れ向拝で身舎・柱ともに朱塗りです。
がっしりとした水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、中備に蟇股。
真言宗伽藍における大師堂の格式の高さと、中世的な伝統を重んじた貴重な建造物として区の指定建造物に指定されています。


【写真 上(左)】 大師堂札所板
【写真 下(右)】 斜めからの大師堂向拝


【写真 上(左)】 磐座に御座すお大師さま
【写真 下(右)】 大師堂天水鉢

繋ぎ虹梁を置かずすっきりとした向拝。
正面桟唐戸のうえに「遍照金剛」の扁額とそのよこに御府内霊場の札所板、奉納額。
大師堂向かって左の磐座に御座すお大師さまと天水鉢の羯磨金剛が、御府内霊場札所感をひとしお盛り上げています。

堂前説明板には「高祖弘法大師、宗祖興教大師、派祖本覚大師の三尊が安置されている。」とあります。

こちらは本堂(観音堂)に比べて参拝者が少ないので、落ち着いて勤行をあげることができます。


【写真 上(左)】 一言地蔵尊
【写真 下(右)】 身代地蔵尊

大師堂向かって右手には一言地蔵尊のお堂。
願いを一言だけ成就いただけるという霊験あらたかなお地蔵さまです。
その左隣には身代地蔵尊が御座されています。


「さらっといきます。」といいながらやはりこれだけのボリュームになってしまいました(笑)
それだけ見どころの多い名刹ということでしょう。

御朱印は本堂(観音堂)内授与所にて拝受できます。
本堂内の拝観および御朱印授与は、昼の休憩時間を除いた9:00(10:00)〜12:00、13:00~15:00(16:00)で昼はお休みなので要注意です。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に如意輪観世音菩薩のお種子「キリク」「本尊 阿彌陀如来」「弘法大師」の揮毫と三寶印。
右に「弘法大師霊場 御府内第八十七番」の札所印。
左に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
主印は「キリク」の御寶印の場合もあるようです。

 
【写真 上(左)】 四万六千日の観音霊場の御朱印
【写真 下(右)】 東国花の寺霊場の御朱印

以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-29


■ 札所リスト・目次など
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1



【 BGM 】
■ 桜 - 中村舞子


■ キミトセカイ - 佳仙(歌ってみた)


■ Boogie-Woogie Lonesome High-Heel - 今井美樹
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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-27

Vol.-26からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第83番 放光山 千眼寺 蓮乗院
(れんじょういん)
新宿区若葉2-8-6
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第83番

第83番は四ッ谷・若葉の蓮乗院です。

第83番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに蓮乗院で、第83番札所は開創当初から四ッ谷南寺町の蓮乗院であったとみられます。

下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

蓮乗院の開闢起立の年代は不明ですが、開山鏡現は天正十八年(1590年)に遷化されているので、徳川家康公江戸入府以前の創立とみられています。
当初の在所は麹町七丁目でしたが慶長十六年(1611年)当地(四ッ谷南寺町)に移転と伝わります。

湯島根生院末の新義真言宗。
本堂に弘法大師御作と伝わる阿弥陀如来銅立像、不動尊木坐像、聖天尊を奉安し、地蔵堂には地蔵尊六躰と弘法大師唐銅座像を奉安と伝わります。

畧縁起によると、こちらの阿弥陀如来像は弘智法印が高野山に参籠の際、善光寺ノ如来を模して鋳された霊像があるとの弘法大師の夢告を受け、大和國橘寺の地中から得られた弘法大師御作の霊像といいます。

弘智法印はこの霊像を持佛とされましたが諸国巡行の際、霞ヶ関に至ったところでこの霊像が俄に重くなりました。
弘智法印はこの地が霊像を奉安する場と悟られ、堂宇を建てて霊像を安置しました。
この霊像は不思議にも眉間から白光を放たれたため、群衆は参詣群集し、霊像を「放光千眼佛」と呼んで崇めたといいます。

これよりこの堂宇を放光山と号し、千眼寺とも号したといいます。
また、弘智法印はもとは下総國の蓮花寺に住されたことから、蓮乗院と号したとも。

「善光寺生身ノ如来ニ異ナラス雖有大師御作ナリトテ貴賎弥々信心之袖ヲ●カヘシケリ」(『寺社書上』/蓮乗院中興沙門記)

弘智法印とは、江戸時代初期に演じられた古浄瑠璃『弘知法印御伝記』の主役で即身仏となられた弘知法印との所縁があるかもしれませんが、よくわかりません。
(この浄瑠璃のなかで、弘知法印は弘法大師(空海)の弟子となり「弘知」の名を授かったとされます。)

蓮乗院の当初の在所は麹町七丁目。
畧縁起で阿弥陀如来の堂宇が建てられたという霞ヶ関は、千代田区Webによると、「(霞ヶ関の由来は)古代までさかのぼり、日本武尊が蝦夷の襲撃に備えて、武蔵国に置いた関所『霞ヶ関』から名付けられたといいます。」とあるので、相当に古い地名のようです。
霞ヶ関と麹町はさほど離れていないので、阿弥陀如来畧縁起と当山在所はほぼ符合するといえましょうか。


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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
八十三番
四ッ谷南寺町
放光山 千眼寺 蓮乗院
湯島根生院末 新義
本尊:阿弥陀如来 不動明王 弘法大師

『寺社書上 [44] 四谷寺社書上 参』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.116』
四ッ谷南寺町
湯島根生院末 新義真言宗
放光山千眼寺蓮乗院
起立年代不相知候
元寺地麹町七丁目●-●御用地に召上 慶長十六年(1611年)右替地として当所拝領仕候

開山 鏡現 天正十八年(1590年)遷化
   但し開闢起立之年代相不知申候
中興開山 海● 延享五年(1748年)寂

本堂
 本尊 阿弥陀如来銅立像 弘法大師御作(畧縁起あり)
 不動尊木坐像
 聖天
地蔵堂
 地蔵尊六躰
 弘法大師唐銅座像
 
『四谷区史 [本編]』(国立国会図書館)
放光山千眼寺蓮乗院は湯島根生院末の新義真言宗、四谷南寺町今の寺町にある。境内拝領地三百七十二坪、起立の時代は明ならず。慶長十六年(1611年)麹町七丁目から此地に移転したと伝へられる。但し開山鏡現は天正十八年(1590年)に遷化したから、徳川氏入國前の創立であるのは略推察することか出来る。府内八十八箇所中八十三番の札所として知られた。



「蓮乗院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』四ツ谷絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはJR・メトロ丸ノ内線「四ッ谷」駅から徒歩約7分。
南隣は第39番の真成院、西隣は第18番の愛染院という御府内霊場札所の密集エリアです。
現在の地図と『江戸切絵図』をくらべてみると、多くの寺院の位置関係がそのままで、このエリアが江戸期の寺町のたたずまいを色濃く残していることがわかります。


観音坂

「鮫ヶ橋谷丁」と呼ばれた土地の高低差の大きいところで、蓮乗院も「観音坂」の途中に位置します。
第39番真成院の並びに、こぢんまりとした参道入口。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 御寶号碑

門前に御寶院碑で、側面が御府内霊場札所碑になっています。
門柱に院号標。


【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 院号標


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 観音菩薩像

山内もコンパクトですが、緑が多くしっとりとした風情が感じられます。
参道脇に御座す観音様もどこかやさしげな面差しです。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝


【写真 上(左)】 向拝上部
【写真 下(右)】 扁額

正面の本堂は、おそらく入母屋造で瓦葺流れ向拝、ゆったりとした曲線を描く軒唐破風と大がかりな兎毛通が個性的な堂宇です。

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に本蟇股。
水引虹梁に山号扁額を掲げています。

御朱印は本堂向かって右の庫裡にて拝受しました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊 阿彌陀如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫と阿弥陀如来のお種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「御府内八十八所第八十三番」の札所印。
左に山号院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第84番 五大山 不動寺 明王院
(みょうおういん)
港区三田4-3-9
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第84番

第84番はふたたび三田に戻って明王院です。

第84番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに明王院となっており、第84番札所は御府内霊場開創当初から三田寺町の明王院であったとみられます。

下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

明王院の創建年代は不明ですが、長禄年間(1457-1460年)武蔵国長江(今の八丁堀)に移転、寛永十二年(1635年)に当地(三田寺町)に移ったといいます。
開山開基は不詳ですが、中興開山は賢榮法印(元禄十六年(1703年)寂)と伝わります。

当山は「厄除大師」と称する坐像を奉安し、人々の尊崇を集めたといいます。
こちらの弘法大師像は、嵯峨天皇が四二歳の厄年を迎えたとき、弘法大師が厄除けを祈願されみずから天皇等身大の像を刻まれたという伝承があります。
源頼朝公により相模国に迎えられ、縁あって当山に奉安と伝わります。

御本尊の五大明王は智證大師・弘法大師の御相作といい、寺寶として弘法大師御筆の日出愛染明王画像、鎮守稲荷社の御神躰翁は弘法大師御作と伝わり、弘法大師御筆の「鼠心経」を蔵するなど、ことに弘法大師とのご縁のふかい寺院です。

もと三田臺裏町にあった泉福寺は、本寺へ合併されたといいます。


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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
八十四番
芝三田中寺町
五大山 不動寺 明王院
音羽護国寺末 新義
本尊:勅賜 厄除弘法大師 一刀三礼御真作 嵯峨天皇御当身

『寺社書上 [12] 三田寺社書上 弐』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.49』
芝三田中寺町
大塚護國寺末
五大山不動寺明王院
起立年代相不知申候
寛永十二年(1635年)八町堀から当地に替地
中興開山 法印賢榮 寛永二年(1625年)卒
元禄九年常憲院様御代金子拝領仕護國寺末

本堂
 本尊 五大明王 中尊坐像左右立像 智證大師 弘法大師御相作
内棟
 厄除弘法大師木坐像 御自作(縁起書あり)
 弘法大師厨子入坐像
寺寶
 不動幷二童子画像 役行者筆
 日出愛染明王画像 弘法大師筆 右ハ頼朝公御寄附
鎮守稲荷社 神躰翁 弘法大師作ト云

『芝區誌』(デジタル版 港区のあゆみ)
明王院 三田豊岡町二十三番地
新義派真言宗護國寺末、五大山不動寺。もと今の八丁堀にあつたが、寛永十二年(1635年)此地に移つた。開山不詳。中興の開山は賢榮である。厄除大師と称する坐像があつて、八十八所札所の第八十四番である。もと三田臺裏町にあつた泉福寺は本寺へ合併された。



「明王院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』芝高輪辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りは都営三田線「三田」駅で徒歩約15分。
三田寺町の御府内霊場札所は国道1号に面したビルタイプの寺院が多いですが、こちらは一本裏手に引き込み、昔ながらの寺院のたたずまいをみせています。

位置的には国道1号沿いの林泉寺の南側にあたります。
三田は面白い地形で国道1号が谷筋を走り、海寄りの南側に聖坂の尾根筋が走ります。
なので、このエリアは北傾の坂道で、明王院も南向きながらどことなくしっとり落ち着いた風情があります。

山門は切妻屋根桟瓦葺、脇門付きの薬医門で院号扁額を掲げています。
門の手前には古色を帯びた「厄除弘法大師」の石碑。


【写真 上(左)】 門前
【写真 下(右)】 「厄除弘法大師」の石碑


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 山内

参道左手のお像は修行大師像とも思われますが、確信がもてません。
参道のたしか左手に堂宇があり、弘法大師像、不動明王像と、どこかはかなげな地蔵尊像が御座します。


【写真 上(左)】 参道左手のお像
【写真 下(右)】 堂宇

御府内霊場札所碑も確認できました。


【写真 上(左)】 弘法大師像
【写真 下(右)】 札所碑

本堂前には弘法大師御遠忌の供養塔、佛塔などが並び、「弘法大師のお寺」の叙情ゆたかです。


【写真 上(左)】 佛塔
【写真 下(右)】 本堂

本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝、水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に本蟇股。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額


【写真 上(左)】 札所板
【写真 下(右)】 不動明王御真言

正面格子扉の向拝の見上げには「厄除弘法大師」の扁額と御府内霊場の札所板を掲げています。
向拝には不動明王御真言(小咒)も掲げられていて、まことに至れり尽くせりです。

都心の真ん中にこのように心やすまるお寺さまが残っていることも、東京の大きな魅力だと思います。

御朱印は本堂向かって右手の、これまた風情あふれる庫裡にて拝受しました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊不動明王」「厄除大師」の揮毫、不動明王のお種子「カン/カーン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。右に「第八十四番」の札所印。
左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第85番 大悲山 観音寺
(かんのんじ)
公式Web

新宿区高田馬場3-37-26
真言宗(単立)
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
司元別当:(戸塚村)神明社
他札所:豊島八十八ヶ所霊場第85番、近世江戸三十三観音霊場第15番

第85番は高田馬場の観音寺です。
第52番は早稲田の観音寺です。
御府内霊場には「観音寺」を号する札所寺院が3つ(第42番蓮葉山 観音寺(谷中)、第52番慈雲山 観音寺(早稲田)、第85番大悲山 観音寺(高田馬場))あり、前2者をそれぞれ谷中観音寺、早稲田観音寺と呼んで区別されます。

第85番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに泉福院で、第85番札所は御府内霊場開創当初から江戸末期まで三田の泉福院で、『御府内八十八ケ所道しるべ』の札所変更資料には泉福院から観音寺への変更が記されていないので、第85番札所は明治初期以降にかけて高田馬場の観音寺に変更とみられます。

公式Web、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから両山の縁起・沿革を追ってみます。

【観音寺】

観音寺は、江戸時代のはじめにかんこう坊という僧により開山されました。
かんこう坊は中村氏の出自で、子孫はこの地の名主でした。
『ルートガイド』には「寛永年間(1624-1645年)頃の創建」とあります。
大悲山蓮花院観音寺を号し、大塚護国寺末の新義真言宗でした。

御本尊に聖観世音菩薩を奉安し、山内には薬師堂もあったといいます。

幾度の火災で寺伝類の多くを失っているようですが、寺勢は保ち、御府内八十八ヵ所霊場第85番、豊島八十八ヵ所霊場第85番の札所となっています。

現在の本堂は昭和60年に建立された現代建築です。

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【泉福院】

泉福院は三田臺裏町にあった新義真言宗寺院。
愛宕前真福寺末で醫王山泉福院を号しました。

起立の年代、開山開基などは伝わっておりませんが、『寺社書上』『御府内寺社備考』に掲載されています。

「江戸町巡り」様Webには「三田台裏町」は「現町名:港区三田四丁目8番20~36号、9番10~13号、高輪一丁目5番18号の辺り」とあり、「三田台裏町」には曹洞宗正山寺、日蓮宗薬王寺もあったようです。
『江戸切絵図』には薬王寺の隣に「泉福寺」という寺院がみえるので、こちらが泉福院かと思われます。

本堂に奉安の御本尊、薬師如来木座像は弘法大師の御作と伝わり、十二神将木立像を従えていたようです。
本堂に釈迦如来、阿弥陀如来、千手観音、不動明王、弘法大師厨子入木座像、興教大師厨子入木座像を奉安し、御府内霊場札所の要件を満たしていました。

鎮守社として淡島大明神が御鎮座され、こちらの社殿には弘法大師座像石佛が安していたと記されています。

泉福院が御府内霊場の札所を外れた理由は不明ですが、『芝區誌』の明王院の項に「もと三田臺裏町にあつた泉福寺は本寺(明王院、御府内霊場第84番)へ合併された。」とあるので、泉福院は明王院に合併されたとみられます。

泉福院は愛宕真福寺末、観音寺は大塚護国寺末(現在は単立)で本寺が異なり、三田から高田馬場は距離もあるので、札所承継の経緯はよくわかりません。

ただし、観音寺は豊島八十八ヶ所霊場(明治40年開創)札所となっており、その所縁で御府内霊場札所も承継されたのかもしれません。

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【史料】

【観音寺】
『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
(戸塚村)観音寺
新義真言宗、大塚護国寺末 大悲山蓮花院ト号ス 本尊正観音 開基ハカンコウ坊ト云人ニテ 俗姓中村氏 故アリテ当所ニ来リ 草庵ヲ営ミ 遂ニ一寺トナセシト云 子孫外記ハ寛永ノ頃断絶ス 其屋敷跡ハ今 高木伊勢守抱地ノ内ニテ 東大久保村名主理右衛門モ其一族ナリト云
薬師堂
(戸塚村)神明社 観音寺持


【泉福院】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
八十五番
三田臺裏町
醫王山 泉福院
愛宕山真福寺末 新義真言宗
本尊:薬師如来 不動明王 弘法大師

『寺社書上 [11] 三田寺社書上 壱』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.92』
三田臺裏町
愛宕前真福寺末
醫王山泉福院
起立之年代開山開基相不知申候

本堂
 本尊 薬師如来木座像 弘法大師作
 十二神将木立像
 釈迦如来 阿弥陀如来 千手観音 不動明王
 弘法大師 厨子入木座像
 興教大師 厨子入木座像
鎮守社 
 淡島大明神 神躰幣
 弘法大師座像石佛



「泉福院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』芝高輪辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りは「高田馬場」駅で徒歩約15分。あるいはメトロ東西線「落合」駅の方が近いかもしれません。

神田川沿いの低地であたりは民家が密集していますが、そのなかにかなり広い山内を構えています。
早稲田通り沿いに寺号標が置かれ、そこからまっすぐに参道が伸びているので、かつてはもっと広大な敷地をもっていたのかも。


【写真 上(左)】 早稲田通り沿いの寺号標
【写真 下(右)】 参道

門前から山門と本堂がみえます。
特徴のある緑色が目立つモダンでシャープな外観。


【写真 上(左)】 門前
【写真 下(右)】 観音像


【写真 上(左)】 地蔵尊像
【写真 下(右)】 札所碑

門前には観世音菩薩像、地蔵尊像、弘法大師霊場札所碑が並びます。
山門は二脚門で、門柱に山号標と寺号標を掲げています。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 寺号標

手水舎のつくりもなかなかモダンです。


【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 本堂

すぐ正面が本堂で、御内陣は2階です。
本堂内に入っていいのかわからなかったので、先に本堂向かって右手の寺務所にお伺いすると、館内での参拝可能とのことでした。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

本堂は陸屋根の近代建築で、各所に格子が使われているのでどこか厳めしい雰囲気です。
2階の見上げに「慈光」の扁額を掲げています。

本堂内はどこか公共施設か学校のような感じで、講堂のような御内陣に数躰の聖観世音菩薩像と弘法大師像が奉安されています。

御府内霊場札所のなかではなかなか異色の本堂ですが、すぐまぢかで御尊像を拝せるのはありがたいことです。

なお、山内には吉川英治先生の文筆仲間であった呼潮に聞いた四国遍路の体験談にもとづき執筆した「呼潮へんろ」にちなむ塚があります。

御朱印は本堂向かって右手の寺務所で拝受しました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊 聖観世音菩薩」「弘法大師」の揮毫と御寶印(蓮華座+火焔宝珠)のお種子は「キリク」にみえます。
右に「御府内八十八ヶ所第八十五番」の札所印。
左に山号寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 豊島霊場の御朱印


■ 第86番 金剛山 弥勒寺 常泉院
(じょうせんいん)
文京区春日1-9-3
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第86番

第86番は春日の常泉院です。

第86番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに常泉院で、第86番札所は開創当初から小石川七軒町の常泉院であったとみられます。

下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

常泉院は、寛永四年(1627年)以前に卓意によって開山という彌勒寺末の新義真言宗寺院です。
水戸家の帰依を受けての創建とも伝わります。

本堂内に御本尊として両部大日如来二躰を奉安。
本堂には、中尊・弥勒菩薩木座像、弘法大師木座像、興教大師木座像、不動明王、愛染明王、地蔵菩薩、子安観世音菩薩、閻魔王木座像(運慶作)、石地蔵尊など多彩な尊格を安置されていたことが記されています。

本堂内の弘法大師像は、御府内霊場の拝所となっていたことも記されています。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
八十六番
小石川七軒町
金剛山 弥勒寺 常泉院
本所彌勒寺末 新義
本尊:両部大日如来 不動明王 弘法大師

『寺社書上 [64] 小石川寺社書上 一』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.106』
小石川不唱小名
本所彌勒寺末 新義真言宗
金剛山弥勒寺常泉院
起立年代不詳

本堂
 本尊 両部大日如来二躰
 中尊 弥勒菩薩木座像
 弘法大師木座像 御府内八十八ヶ所之内 第八十六番之札所
 興教大師木座像
 不動明王木座像
 愛染明王木座像
 地蔵菩薩木座像
 子安観世音木座像
 閻魔王木座像 運慶作
 石地蔵尊

『小石川区史/第七章P.822』(文京区立図書館)
金剛山彌勒寺常泉院。真言宗豊山派、彌勒寺(本所林町)末。本尊両部大日如来。当寺の創立年代は明らかでないが、『御府内沿革図書』によれば、延寶(1673-1681年)の頃既に存在した事が明らかであり、又寺伝によれば現本堂は寛永四年(1627年)の建立といふから、それよりも以前に建立されたものと思はれる。『文政書上』に依れば、当寺境内は拝領地六百余坪であった。現に府内八十八ヶ所大師の内、第八十六番の札所に当り、日々の参詣者が多い。



「常泉院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:戸松昌訓著『〔尾張屋板切絵図 18〕』東都小石川絵図,尾張屋清七,嘉永7[1854]/安政[4][1857]改.東京都立中央図書館TOKYOアーカイブ(保護期間満了)

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最寄りはメトロ丸ノ内線・南北線「後楽園」駅で徒歩約3分と至便。
御朱印ファンには牛天神北野神社のすぐ北側といった方がわかりやすいでしょうか。

春日の高台にあるこの辺りは、交通至便な立地とは思えないしっとりとした落ち着きが感じられます。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 御府内霊場札所標

山門はないですが、緑が多く雰囲気のある山内です。
山内入口に御府内霊場の札所標。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 聖天堂


【写真 上(左)】 弘法大師像
【写真 下(右)】 弘法大師碑

参道右手手前に奥まって聖天堂。
左手には高野山開創一千年を記念して建立された弘法大師像、弘法大師碑、御寶号碑、御府内霊場札所碑、石佛群がところ狭しとならびます。


【写真 上(左)】 御寶号碑
【写真 下(右)】 御府内霊場札所碑


【写真 上(左)】 石佛群
【写真 下(右)】 小島烏水の碑

登山家・随筆家で、日本山岳会初代会長でもあった小島烏水(こじま うすい、1873-1948年)永住之地の碑もあります。


【写真 上(左)】 本堂?
【写真 下(右)】 向拝?


こちらの堂宇構成はえらく複雑で、どちらが本堂かよくわかりません。
参道右手の建物の2階に向拝らしきものがあり、正面の渡り廊下をくぐった先にも向拝を備えた建物があります。
どちらも勤行をあげさせていただきました。


【写真 上(左)】 庫裡
【写真 下(右)】 昭和初めの山門(山内掲示)

御朱印は参道左手の庫裡にて拝受しました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊 大日如来」「弘法大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「弘法大師霊場札所御府内第八十六番」の札所印。
左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。

以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-28


■ 札所リスト・目次など
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1


【 BGM 】
■ 桜 - 中村舞子


■ キミトセカイ - 佳仙(歌ってみた)


■ Boogie-Woogie Lonesome High-Heel - 今井美樹
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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-26

Vol.-25からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第78番 摩尼山 寶光寺 成就院
(じょうじゅいん)
公式Web

台東区東上野3-32-15
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第78番、奥の細道関東路三十三所霊場第5番

第78番は東上野の成就院です。
御府内霊場には「成就院」を号する札所寺院がふたつ(第43番(元浅草)、第78番(東上野))あり、前者を百観音成就院、後者を田中成就院と呼んで区別しているようです。

第78番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに成就院で、第78番札所は開創当初から下谷田中の成就院であったとみられます。

公式Web、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

成就院は、慶長十六年(1611年)、開山・鏡傳法印が神田北寺町に寺地を与えられ開創しました。
『ルートガイド』には、鏡傳法印は徳川家康公に従い江戸に入ったとあります。

慶安元年(1648年)、下谷の現在地を拝領し移転しています。
中興開山と伝わる法印鏡伝は寛文二年(1662年)卒なので、おそらく下谷への移転で功をなされたのかと思います。

当時の下谷は江戸の町外れで、まわりは田んぼだったので「田中(の)成就院」と呼ばれ、いまでも通称として残っています。
浅草の成就院(百観音成就院)との識別のためにも、この通称は必須だったのでは。

『寺社書上』、『御府内寺社備考』には、本所彌勒寺末の新義真言宗とあります。

御本尊には大日如来木坐像、本堂内に弘法大師木坐像、輿教大師木坐像を安し、御府内霊場札所の要件を満たしていました。
「不動尊木立像 弘法大師作」という見逃せない記述もあります。

本堂とは別に地蔵堂があり、地蔵尊の石仏を安していました。
「稲荷社」とあるのは鎮守だったのかもしれません。

公式Webによると、地蔵堂・稲荷社は、いまは伝えられていないとのこと。
また、安政の大地震や関東大震災などの火災で堂宇を消失し、明治の廃仏毀釈の波を受けて衰微してしまったことなどが記されています。

『江戸切絵図』をみるとかなりの敷地をもつ大寺院だったようですが、関東大震災後、境内地が大きく削られてしまったとのことです。

それでも公式Webには寺伝等が詳細に記載され、名刹の矜持が伝わってきます。


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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
七十八番
下谷田中
摩尼山 宝光院 成就院
本所二ツ目彌勒寺末 新義
本尊:大日如来 浪切不動明王 弘法大師

『寺社書上 [116] 下谷寺社書上 弐』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.96』
下谷田中
本所彌勒寺末 新義真言宗
摩尼山宝光寺成就院
拙寺起立之儀ハ相知不申候ヘ共 往古慶長十六年(1611年)神田北寺町三十七年往居 慶安元年(1648年)中只今之地面拝領仕引移申候
中興開山 法印鏡伝 寛文二年(1662年)卒

当寺往昔田の中にありし故 田中成就院と唱ヘならはしたるよし 惣ての書上に下谷中成就院と書せり されは田中の唱ハ当寺に限たる事なり 浅草に同宗にて同名の寺あり 是をハ百観音成就院と俗に呼へり

本尊 大日如来木坐像
弘法大師木坐像 輿教大師木坐像
不動尊木立像 弘法大師作
地蔵堂 地蔵尊石像
稲荷社



「成就院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』下谷絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはメトロ銀座線「稲荷町」駅で徒歩約1分と至近、元浅草~寿とつづく、御府内霊場札所密集エリアの入口にあります。

「稲荷町」駅から南に伸びる清洲橋通り沿いにあります。
山門は門柱で、間口はさほど広くはないですが、敷地はそれなりの広さがあります。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 山内入口

門柱に院号標、門柱前に御府内霊場札所碑。


【写真 上(左)】 御府内霊場札所碑
【写真 下(右)】 緑濃い山内


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

下町とは思えない緑濃い山内。
参道正面が庫裡で、屋根に千鳥破風を配してこ洒落たつくり。
その右よこが本堂で、入母屋造瓦葺流れ向拝、向拝に大がかりな唐破風を起こし、庫裡の千鳥破風と意匠的に呼応しています。


【写真 上(左)】 見事な彫刻
【写真 下(右)】 本堂扁額

水引虹梁は上下二連。両端に見返り(阿吽の)獅子と雲形の木鼻、頭貫上に連三ッ斗以上を端正に連ねるテクニカルな斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に玉持龍の彫刻。
木鼻の見返り獅子、手挟の波紋、中備の玉持龍ともに見事な仕上がりで、こちらは「昭和の名工」といわれた金子光清師の作とのこと。

すこぶる雰囲気のある向拝で、上部には山号扁額を掲げています。

本堂の須弥壇には御本尊大日如来、左手に観世音菩薩、右手に阿弥陀如来の大日三尊を奉安。
左端に吉祥天、右端には多聞天、不動明王を安置しているそうです。


【写真 上(左)】 修行大師像
【写真 下(右)】 修行大師像と大師堂

本堂前には修行大師像、その裏手には大師堂があります。
御府内霊場で大師堂が残っている札所は意外に少ないのですが、こちらはしっかりとした大師堂を護持されています。


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 大師堂向拝


【写真 上(左)】 大師堂扁額
【写真 下(右)】 御府内霊場札所板

公式Webによると、『鬼平犯科帳』の一幕に成就院が登場するため、たまに鬼平ファンが寺を訪れるそうで、池波正太郎先生はごく近所に住んでいたことがあるとの由。

そのほか、観音さまをお祀りする「与楽」とご遺骨をお納めする「抜苦」の二つのお堂で成り立つ「称観堂」。
東日本大震災の大津波でなぎ倒された岩手県陸前高田市の高田松原の被災松を材として造立された「やすらぎ聖観音像」も御座されます。

御朱印は庫裡にて拝受しました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕


 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊 大日如来」「弘法大師」の揮毫と弘法大師のお種子「ユ」の御寶印(蓮華座+宝珠)、右に「第七十八番」の札所印。
左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
御府内霊場の御朱印で、本尊大日如来で「ユ」の御寶印が捺されている例はめずらしいです。


■ 第79番 清水山 専教院
(せんきょういん)
文京区小日向3-6-10
真言宗豊山派
御本尊:地蔵菩薩
札所本尊:地蔵菩薩
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第79番

第79番は小日向の専教院です。

第79番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに専教院で、第79番札所は開創当初から小日向の専教院であったとみられます。

下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

専教院は寛文五年(1665年)ないし延宝九年(1681)の創建で、開山は良法法印。
中興は法印尊椄(文化十年(1813年)寂)と伝わります。

天明(1781-1789年)の頃、四國八十八ヶ所第七十九番、讃岐國西ノ庄崇徳山天王寺の札所を写し、御府内八十八ヶ所の内七十九番札所となり、以降参詣人を集めています。

本堂内に御本尊として地蔵菩薩木立像を奉安。
両脇士に如意輪観世音菩薩、聖観世音菩薩を安するといういささか変わった尊格配置です。

厨子入の弘法大師木像は、御本尊とともに御府内霊場の拝所となっていました。
さらに十二童子を従えた辨財天も霊場札所の拝所とされていたようです。 

文政(1818-1830年)の頃には境内は三百三十八坪ほどもあったといいますが、いまは住宅?の1室に収まっています。
それでも御府内霊場第79番の札所を堅持しておられるのはありがたいことです。

灌頂寺の寺号については記されている資料が少ないですが、正式な号では入るのかもしれません。(清水山 灌頂寺 専教院)

専教院については史料類がすくなく、これ以上掘り下げられませんでした。


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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
七十九番
小日向臺町
清水山 専教院
中野村宝仙寺末 新義
本尊:地蔵菩薩 弁才天 弘法大師

『寺社書上 [26] 小日向寺社書上 弐』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.126』
小日向臺町
中野村宝仙寺末 新義真言宗
清水山専教院
起立年月日相知不申候
開山 相知不申候
開基 相知不申候
中興 法印尊椄 文化十年(1813年)寂
本堂
 本尊 地蔵菩薩木佛立像 両脇士 如意輪木佛立像 聖観音木佛立像
 弘法大師木像厨子入 八十八ヶ所内七十九番之札所
 辨財天 十二童子
 江府八十八観音の内第七拾九番 号ハ讃州崇徳天皇



「専教院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:戸松昌訓著『〔尾張屋板切絵図 18〕』東都小石川絵図,尾張屋清七,嘉永7[1854]/安政[4][1857]改.東京都立中央図書館TOKYOアーカイブ(保護期間満了)

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最寄りはメトロ丸ノ内線「茗荷谷」駅ないし有楽町線「江戸川橋」駅でいずれも徒歩約10分。
小日向あたりは狭くて入り組んだ路地が多く、アプローチはなかなかやっかいです。

「茗荷谷」駅からだと拓殖大学を回り込むかたちとなりわかりにくいです。
駅から大日坂を登って突き当たりを右折して到達する「江戸川橋」駅ルートの方が、登り坂となりますがおそらくわかりやすいかと。


【写真 上(左)】 外観(2016.5)
【写真 下(右)】 石仏群(2016.5)


【写真 上(左)】 百万遍の碑(2016.5)
【写真 下(右)】 扁額(2016.5)

2016年に参拝したときは3階建の集合住宅のような外観で、本堂は2階でしたが、2019年参拝時には建て替えられていて、シックな2階建の建物の1階が本堂となっていました。


【写真 上(左)】 外観(2019.10)
【写真 下(右)】 エントランス(2019.10)

ご在院の場合は、室内の本堂にあげていただける可能性があります。
こういうシチュエーションでは、御真言だけでなく読経のひとつもあげないとどうにも手持ち無沙汰になるので、やはり御府内霊場巡拝には数珠と勤行式は携帯した方がベターかと思います。


【写真 上(左)】 向拝(2019.10)
【写真 下(右)】 扁額(2019.10)


【写真 上(左)】 札所碑(2019.10)
【写真 下(右)】 百万遍の碑と石仏群(2019.10)

本堂前には御府内霊場札所碑、石仏群が並び、御府内霊場札所寺院であることを示しています。
ひときわ目立つ梵字碑は、明治維新に廃仏毀釈に対し仏教復興を主張し、戒律運動の普及に努められた名僧・雲照律師の百万遍の碑とのことです。(『ルートガイド』)

御朱印は堂内(室内)にて拝受しました。
なお、ご不在時は専用集印帳用紙との差し替え授与となる模様なので、通常の書置御朱印はいただけないかもしれません。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊 地蔵菩薩」「弘法大師」の揮毫と地蔵菩薩のお種子「カ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「第七十九番」の札所印。
左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第80番 太元山 宇賀院 長延寺
(ちょうえんじ)
港区三田4-1-29
真言宗豊山派
御本尊:地蔵菩薩
札所本尊:地蔵菩薩
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第80番

第80番は再度三田に戻って長延寺です。

第80番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに長延寺となっており、第80番札所は御府内霊場開創当初から三田寺町の長延寺であったとみられます。

下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

長延寺の開山は不明ですが、往古は数寄屋町あたりにあり、慶長六年(1601年)八丁堀に移り、寛永十二年(1635年)現在地(三田下寺町)に転じたといいます。
中興開山は覺順法印(元禄十六年(1703年)寂)と伝わります。

大塚護持院末の新義真言宗。
御本尊の地蔵菩薩木座像は菅原道真公の御作と伝わります。
本堂に弘法大師木座像、興教大師木座像、胎蔵界大日如来木座像、不動明王木立像、十一面観音木立像、大黒天木立像などを安していました。

御本尊は大日如来。
本堂内に弘法大師木座像、興教大師木座像、三尊阿弥陀如来木佛立像を奉安と伝わります。

『ルートガイド』によると、本堂には漆喰の鏝絵『不動明王霊夢』と『俵藤太』があり、作者である伊豆長八の高弟、今泉善吉の墓も当山にあるようです。

長延寺も史料類が少なく、この程度しか掘り下げられませんでした。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
八十番
芝三田寺町
太元山 宇賀院 長延寺
大塚護持院末 新義
本尊:地蔵菩薩 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [13] 三田寺社書上 参』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.69』
三田下寺町
大塚護持院末 新義真言宗
太元山宇賀院長延寺
開闢起立之年暦 開山開基等之儀相知不申候
開山大僧都者 寛永三年(1626年)遷化(『御府内寺社備考』)
古に数寄屋町に寺地●るゝ処 慶長十六年(1611年)右寺地より八町堀に代地拝領仕
寛永十二年(1635年)当地より当所(三田下寺町)に替地拝領仕候
中興開山 法印覚順 元禄十六年(1703年)寂

本堂
 本尊 地蔵菩薩木座像 菅原道真卿作ト云
 弘法大師木座像
 興教大師同前(木座像)
 胎蔵界大日如来木座像
 不動明王木立像
 十一面観音木立像
 大黒天木立像
地蔵尊石佛

『芝區誌』(デジタル版 港区のあゆみ)
長延寺 三田北寺町十三番地
新義真言宗の末寺で、太元山宇賀院と号する。創建年月不詳。往古数寄屋町邊にあり、慶長六年(1601年)八丁堀に移り、寛永十二年(1635年)此地に転じた。中興開山覺順は元禄十六年(1703年)十二月入寂した。府内八十八ヶ所札所の八十番である。



「長延寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』芝高輪辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りは都営三田線「三田」駅で徒歩約10分。
国道1号に面したマンション内の寺院です。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 寺号標


【写真 上(左)】 参道入口の案内板
【写真 下(右)】 門扉

国道1号沿いから参道入口で、塀に寺号標と寺院・札所案内板が掲げられています。
その先が鉄の門扉でここにも寺号標が掲げられています。


【写真 上(左)】 門扉の寺号標
【写真 下(右)】 手前からの本堂

正面右手が本堂、左手が寺務所です。
本堂手前には御府内霊場札所碑。


【写真 上(左)】 札所碑
【写真 下(右)】 御寶号碑


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝上部

本堂は半地下的なつくりで、向拝見上げに山号扁額、弘法大師の扁額、御府内霊場札所板が掲げられています。
古色を帯びた御寶号碑も建ち、マンション内寺院ながら御府内霊場札所を示す事物が豊富な札所です。


【写真 上(左)】 山号扁額
【写真 下(右)】 弘法大師の扁額


【写真 上(左)】 札所板
【写真 下(右)】 御真言

本堂内には地蔵菩薩立像が御座され、地蔵菩薩の御真言と光明真言が掲げられていました。

御朱印は寺務所にて拝受しました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「地蔵菩薩」「弘法大師」の揮毫、地蔵菩薩のお種子「カ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と三寶印。右に「御府内第八十番」の札所印。
左に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第81番 医王山 光蔵院
(こうぞういん)
港区赤坂7-6-68
真言宗智山派
御本尊:弘法大師
札所本尊:弘法大師
司元別当:
他札所:

第81番は赤坂の光蔵院です。

第81番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに真藏院となっており、第81番札所は御府内霊場開創当初から江戸期を通じて三田寺町の真藏院であったとみられます。

光蔵院、真藏院について、光蔵院掲出の由来書、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

【光蔵院】

光蔵院は、寛永年代(1624-1644年)に西久保飯倉町一丁目(現・港区麻布台一丁目)に創立といい、芝愛宕前真福寺末寺の新義真言宗寺院です。

御本尊は薬師如来。
毘沙門天、弘法大師木座像、不動明王、愛染明王、歓喜天尊、稲荷小社一宇と石佛地蔵を安していました。

享保年間(1716-1736年)の頃から、川崎大師河原平間寺(金剛山平原寺金乗密院)が江戸の御旅所とし、弘法大師を御本尊として安置され(飯倉)厄除け大師として庶民の参詣が多かったといいます。

第23番札所の薬研堀不動院が川崎大師東京別院となったのは明治25年ですから、江戸期の光蔵院は御旅所ながら江戸別院的な役割を果たしていたのかもしれません。

その後御府内霊場第81番の札所となり、大正10年本堂を改築したものの、昭和20年5月戦災に遭って焼失しました。
昭和37年5月、御本尊に弘法大師を安置し飯倉の地で再建を果たしています。
その後飯倉は繁華地に変貌したため、現在地の赤坂に遷られ昭和63年3月に落成慶讃式法要を挙行、以降、赤坂の地で御府内霊場巡拝者を迎えています。

なお、現時点で光蔵院は『江戸切絵図』で発見できておりません。

【真藏院】

真藏院は、当初数寄屋橋に寺地を拝領して開創といい、寺地が御用地となったため慶長十六年(1611年)八丁堀に移転、こちらも御用地となったため寛永十二年(1635年)当所(三田寺町)に寺地を得て移転といいます。
開基の泉尊法印は寛永三年(1626年)卒と伝わります。

御本尊は胎蔵界大日如来。
弘法大師木座像、興教大師同前を安して御府内霊場の要件を満たしていました。
興教大師の御筆と伝わる不動尊、細川越中守家から寄附の不動尊(辨慶筆)も奉安していたようです。

山内に稲荷社を擁し、不動明王、愛染明王、十一面観世音菩薩を堂内に奉安と記されています。

明治初頭編纂の『御府内八十八ケ所道しるべ』の札所異動資料に真藏院から光蔵院への異動の記載がないので、光蔵院への札所承継はそれ以降とみられます。

別当寺の性格が強くない真藏院が廃寺となった経緯は不明ですが、真藏院、光蔵院ともに愛宕前真福寺末寺の新義真言宗寺院。
光蔵院は(飯倉)厄除け大師として庶民の参詣が多かったといいますから、もとより弘法大師霊場札所の資格は有していたともみられ、この札所承継は自然な流れだったのかもしれません。


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【史料】

【光蔵院】

『寺社書上 [62] 飯倉寺社書上』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.90』
西久保飯倉町一丁目
醫王山光蔵院
愛宕前真福寺末 新義真言宗 
起立開山開基相知不申候

本堂
 本尊 薬師如来木座像
 毘沙門天木立像
 弘法大師木座像
 不動明王木座像
 愛染明王木座像
 歓喜天
稲荷小社一宇
石佛地蔵

【真藏院】

『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
八十一番
芝三田三軒寺町
朝光山 南峯寺 真藏院
愛宕山真福寺末 新義
本尊:金剛界大日如来 不動明王 弘法大師

■ 『御府内寺社備考P.93』
三田寺町
愛宕前真福寺末 新義真言宗
朝光山南峯寺真藏院
開闢之年代相知不申候
●●数寄屋橋に寺地拝領仕候 ●御用地と相成 慶長十六年(1611年)八丁堀に替地 是又●御用地と相成 寛永十二年(1635年)当所を替地ニ
開基 泉尊 寛永三年(1626年)卒
中興開山 宥●

本堂
 本尊 胎蔵界大日如来木座像 通途作
 弘法大師木座像 通途作
 興教大師同前(木座像)
 胎蔵界大日如来木座像
 地蔵尊唐銅立像 通途作
 不動尊 興教大師筆ト云
 不動尊 辨慶筆 右ハ細川越中守殿●寄附
 不動尊 妙沢筆
稲荷社
 神躰不知
 不動木坐像 通途作
 愛染 同
 十一面観音金佛
 


「真藏院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』芝高輪辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはメトロ千代田線「赤坂」駅で徒歩約6分。
「赤坂」駅からTBSを回り込み三分坂を登ります。
この三分坂はかなりの急坂で、光蔵院が赤坂の高台にあることがわかります。


【写真 上(左)】 三分坂
【写真 下(右)】 三分坂方向から

三分坂を登ってひとつめの路地を左に入り、クランクを抜けたところが入口です。
あたりは都心屈指の閑静な高級住宅地で、とくにランドマークもないので、東京で生まれ育った人でもなかなか訪れないところです。


【写真 上(左)】 光蔵院_側面(クランク前)
【写真 下(右)】 外観

邸宅風の寺院で、門脇の院号標がなれればおそらく寺院とは気づきません。
周囲に塀をまわし、金属の門扉はピシャリと閉められています。

超高級住宅地然としたあたりの雰囲気といい、この拒絶的な門扉といい、なかなか緊張を強いられる門前です。

意を決して門前のインターホンを推しても、反応があることは少ないともいいます。(Web情報)
こちらは、ご不在が多いらしく『ルートガイド』にも「事前連絡の上の訪問が望ましい」とあります。

なので、筆者は電話予約のうえお伺いしました。


【写真 上(左)】 院号標
【写真 下(右)】 本堂

インターフォンを推し来意を告げると、門扉を開けていただけ、手入れの行き届いた本堂にご案内いただきました。
本堂は寄棟造。二重の金属葺屋根で右寄りが向拝。
向拝見上げには院号扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 奉納額

山内、塀の側面には年季の入った奉納額も掲げられていました。

本堂内正面に、お厨子内に御座される弘法大師像。
向かって右の壁面には胎蔵曼荼羅、左には金剛界曼荼羅が掲げられています。

御朱印は堂前で勤行をあげている間にお書きいただけます。
都心とは思えない閑静な空間。
高級住宅地に読経の声が流れていく様は、どこか不思議な感じがします。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に弘法大師のお種子「ユ」「弘法大師」の揮毫と三寶印と「災厄消除」の印判。右に「第八十一番」の札番揮毫。
左に印号の揮毫と寺院印が捺されています。

御府内霊場で弘法大師を御本尊とする寺院は意外に少なく、第1番高野山東京別院、第12番宝仙寺、第13番龍生院、第81番光蔵院、第88番文殊院の5箇寺を数えるのみです。


■ 第82番 青林山 最勝寺 龍福院
(りゅうふくいん)
台東区元浅草3-17-2
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第82番、弘法大師二十一ヶ寺第9番

第82番は元浅草の龍福院です。

第82番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに龍福院で、第82番札所は開創当初から浅草新寺町の龍福院であったとみられます。

下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

龍福院の創建年代は不明ですが、正保元年(1644年)日本橋・谷町から当地へ移転したといいます。

開山・開基は伝わっていないようですが、法流開山として法印如桂(宝永三年(1706年))の名が伝わります。

本堂に御本尊として弘法大師の御作と伝わる大日如来木座像、祈祷仏として薬師如来木座像を奉安といいます。

寺号については、『御府内八十八ケ所道しるべ』に「薬師寺」とあり、一時期「最勝寺」ではなく「薬師寺」を号していたのかもしれません。

弘法大師の御作と伝わる大日如来奉安の1点でも、弘法大師霊場札所の資格は充分有していたのでは。

当山は史料類が少なく、これ以上は掘り下げられませんでした。

なお、山内には「最後の木版浮世絵師」と呼ばれた小林清親画伯の墓と記念碑があります。


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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
八十二番
浅草新寺町
青林山 薬師寺 龍福院
大塚護持末 新義
本尊:大日如来 薬師如来 弘法大師

『寺社書上 [80] 浅草寺社書上 甲五』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.96』
浅草新寺町
大塚護持末 新義真言宗
青林山最勝寺龍福院
起立年代相知不申
往古谷町ニ●● 大猷院様御代御用ニ付 正保元年(1644年)当寺町ヘ●●仰付候
開山・開基 知不申
法流開山 法印如桂 宝永三年(1706年)卒

本堂
 本尊 大日如来木座像 弘法大師作
 祈祷仏 薬師如来木座像
稲荷社
庚申塚



「龍福院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはメトロ銀座線「稲荷町」駅で徒歩約5分。
都道463号浅草通り「松が谷一丁目」交差点から左衛門橋通りを南下して4つめ角を東に入ったところです。

元浅草~寿とつづく、御府内霊場札所密集エリアでは南寄りに位置し、むしろ「新御徒町」駅(都営大江戸線・つくばエクスプレス)の方が近いと思います。


【写真 上(左)】 門前
【写真 下(右)】 院号標

門柱と主門・脇門の構成で2度の参拝時はいずれもすべての門扉は閉ざされていましたが、脇門の施錠はされていなかったので、こちらから参内しました。
この門扉は「鉄御納戸色」とでもいうのでしょうか、くすんだ青灰色でかなりの威圧感があります。
御府内霊場札所でなかったら、ふつうは山内に入らないかと思います。

『ルートガイド』には「門が閉まっている日もあるようなので、事前に訪問させていただきたい旨を連絡しておくほうがベター。」とあります。
たしかに、こちらは事前確認がベターかもしれません。


【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 天水鉢

門柱に院号標と御府内霊場札所標。
参道正面の本堂は宝形造ないし寄棟造桟瓦葺で頂に宝珠を置いています。
流れ向拝でコンクリ造のがっしりとした水引虹梁。
左右に花頭窓を置いて近代建築ながら雰囲気のある仏堂です。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

無断で勤行をあげるのも憚られるので、まずは庫裡で御府内霊場巡拝の旨と御朱印をお願いし、勤行のあいだに御朱印のご準備をいただきました。

本堂内はよく見えませんでしたが、『ルートガイド』によると御本尊は金剛界大日如来、左右に弘法大師と興教大師の御像が奉安されているようです。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊 大日如来」「弘法大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+宝珠)、右に「御府内八十八ヶ所第八十二番」の札所印。
左に山号院号の揮毫と寺院印が捺されています。

以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-27


■ 札所リスト・目次など
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1



【 BGM 】
■ 黄昏に風る feat.Osakana / Music&Arrangement:Koa


■ 春空-ハルソラ- - 石野田奈津代


■ Far On The Water - kalafina Live FOTW Special Final
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■ スーパーハイトーンの名テイク

さきほど放送してたザ・カセットテープ・ミュージックの「THE BLUE HEARTS特集」

なんでこの番組でTHE BLUE HEARTS???と思いきや・・・。
ラストの「BLUE TULIP」熱演。

そして今日のまとめ。
「C Am F Gで充分。」

まー、王道循環進行のC Am F G(1645)引き合いに出すなら、↓ くらいにしてあげてもよかったのに、

■ STAND BY ME - Ben E. King


あえてコードアレンジして、↓ をもってくるあたり、手口がエグいわな・・・。

■ 【子どもと歌う】童謡・チューリップ【ギターコード・歌詞付き】


でもって、充分じゃないって、全然・・・(笑)

**********
たしかに、むりくり難しくすればいいってもんじゃないけどね。
どこかのエリートユニットさんのように・・・。
難しい曲を、難しそうに聴かせるのは案外簡単(笑)

ほんとうに凄いと思うのはこういう曲 ↓

■ 旅姿六人衆 - サザンオールスターズ


コード
「Oh! No! Oh! No」
「ステキな今宵を分け合えりゃ」

大半は平易なコード進行なのに、フンフレーズのモーションでキレッキレのエモーション。
初期サザンの桑田マジック。
それと、原さんや大森さんのカウンターメロ絶妙。

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このところ、女声ハイトーン関係の記事にたくさんアクセスをいただくので、個人的にインパクトのあったハイトーンテイクを10曲あげてみます。

01.Sachi Tainaka(タイナカ彩智) - Saikou no Kataomoi(最高の片想い)

兵庫県出身のシンガソングライター。2006年「タイナカサチ」名義でメジャーデビュー。
2010年から「タイナカ彩智」表記。
姉は東京芸大学声楽科卒・同大学院オペラ科修了の声楽家、田井中悠美でコラボコンサートも開催。
3オクターブ半ともいわれる広い声域と透明感&伸びのある優れた声質をもつ。
ライブハウスでの実績豊富な実力派で、LIVEパフォーマンスに定評がある模様。
フラジオレットに始まり、フラジオレットに終わる名テイク。

02.Choucho - Last Night, Good Night(歌ってみた)

2007年、アニソンバンド「ロータス★ロータス」のボーカルとして活動開始。
2008年6月、「ちょうちょ」名義で「ニコニコ動画」に歌ってみた動画を初投稿。
2011年7月、1stシングル「カワルミライ」をリリースし、ランティスよりメジャーデビュー。
透明感と力感を兼ね備えたハイトーン。

03.桜ほたる/桜菜 - ここにあること(歌ってみた)

歌い手のなかではもっとも透明感のある声質をもつひとりで絶妙なブレスどりに個性。
難音階、難符割り&転調・変拍子の嵐。しかもオーラスにかけての超絶ハイトーン。
歌いこなせる人はごくごく限られると思う。

04.misha - StarCrew (歌ってみた)

透明感あふれるハイトーンの歌い手。声に独特な艶があり繊細なビブラートも。
ブレスのとり方も巧く、個人的には「もっと評価されるべき」歌い手の一人だと思う。

05.佳仙 - キミトセカイ (歌ってみた)

人気歌い手の一人。
透明感の高い繊細なエンジェル系ハイトーンが特徴ながらさりげに艶と力感も備え、このハイトーンつづきの難曲を余裕を残して歌い切っている。

06.西沢はぐみ - 夏雪 ~summer_snow~(夏の日のリフレイン)

神奈川県出身のArtistでPCゲーム関連の作品が多い。声質にすぐれとくに高音の伸びが出色。
ふつうの人はハイトーンに引っぱり上げる感じがあるが、この人は高い地声から降りてくるイメージがある。
才人、松本慎一郎作曲の名曲で、バックのフレーズどりも非の打ち所なし。

07.ルシュカ - sign (歌ってみた)

2008年7月初投稿の歌い手で、neko・ゆよゆっぺ等とユニット「Lunetia」を結成しアルバムもリリース。
自身もアルバムををリリースしている。
これは人気曲「sign」の”歌ってみた”で歌に情感こもってる。
ファルセット気味に抜けるハイトーンと強いハイトーンが交錯する独特の個性。

08.みにゅ - 1/6 (歌ってみた)

2009年9月初投稿の歌い手。
投稿数が少なく、ガラス細工のように繊細な声質&唱法でちょっと曲を選ぶような気もするけど、はまったときのヒーリング感&感情の入り方はハンパじゃない。
個人的には歌い手のなかでも屈指の才能をもっていると思う。

■ 逸材!(みにゅさん特集)

09.熊田このは - You Raise Me Up(Celtic Woman) (Covered)  ※期間限定リンクです。

透明感といったらやっぱりこのはちゃん。
これは数ある名テイクのなかでも、屈指の名唱かと。
高音の美しさと空に舞い上がるような透明感&高揚感。
ここまで共鳴を効かせて艶やかなハイトーンを創り出せる歌い手は、ほんとうに希だと思う。

■ 熊田このはちゃんのセトリ(&出演記録)-Vol.2

10.花たん - palette(歌ってみた)
この人のハイトーン、バイオリンのように艶があるのに透明感もばっちり。逸材。

ニコニコ動画の歌い手で、花たん/YURiCa名義でALBUMをすでに数枚出している。
声の艶、ハイトーン、ビブラートと女神系歌姫の三種の神器を完璧に兼ね備えている。
縦横無尽なビブラートと歌への情感の載せ方はただごとじゃないハイレベル。
圧倒的に巧いのでプログレ的難曲も楽々こなす。というか、難曲ほど真価が発揮されるような気が・・・。
ラストのハイトーンビブ、超絶すぎ。

■ 花たんの名テイク
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■ 日本仏教13宗派と御朱印(首都圏版)

御朱印を加えました。

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2022/11/06 UP

■ 日本仏教13宗派を完全解説! 仏教 | 宗教 | 日本史


■ 【仏教】仏教の宗派を知る 前編



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「宗派 御朱印」でぐぐると、この記事→「御朱印帳の使い分け」がけっこう上位にくるので、日本仏教13宗派毎に代表的な御朱印をまとめてみます。
今回は首都圏に限定してのご紹介です。

(公財)全日本仏教会公式Webの「宗派一覧」には13どころか、50を超える宗派が掲載されています。
こちらのデータをベースにいくつか追加をした下記リストに沿って、ご紹介していきます。
(記載順は年代順とし、同年代の宗派については原則として上記資料を踏襲しました。)

なお、日本仏教13宗派は、現代でも大きな宗派として存在する法相宗、華厳宗、律宗、天台宗、真言宗、融通念仏宗、浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗、日蓮宗をさすようです。


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■ 中国からの系譜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)「中国十三宗」』

01.成実宗 → 三論宗の付宗(寓宗)に
02.三論宗 → 南都六宗
03.毘曇宗(倶舎宗) → 法相宗(南都六宗)の付宗(寓宗)に
04.地論宗 → 華厳宗(南道派)
05.摂論宗 → 法相宗(南都六宗)に吸収
06.法相宗 → 南都六宗
07.律宗  → 南都六宗
08.華厳宗 → 南都六宗
09.涅槃宗 → 天台宗に吸収
10.天台宗 → 天台宗
11.密宗  → 真言宗・天台宗
12.禅宗  → 禅宗
13.浄土宗 → 浄土教(浄土宗、(浄土)真宗、時宗、融通念仏宗など)
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※法統、宗祖派祖、立宗立派の時期、所依教典などは、『日本仏教思想のあゆみ』(竹村牧男氏著、講談社学術文庫)およびWikipediaに拠りました。


【奈良仏教】

〔南都六宗系〕
※南都六宗:三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗
※付宗(寓宗):独立せずに他宗に付属している宗

■(三論宗)
法統:インド中観派・龍樹→嘉祥大師吉蔵
宗祖派祖:嘉祥大師吉蔵
伝来:625年 慧漑(第一伝)
所依教典:『中論』『十二門論』『百論』
教義の特徴:四種釈義、破邪顕正など


飯盛山 修福寺(静岡県南伊豆町)
※ 曹洞宗ですが、三論宗の流れと伝わります。

■(成実宗) 三論宗の付宗(寓宗)

■法相宗
法統:インド瑜伽行派→玄奘三蔵→慈恩大師基
宗祖派祖:慈恩大師基
伝来:道招(629-700年)(第一伝)
所依教典:『成唯識論』
教義の特徴:唯識思想など
大本山:薬師寺(奈良市西ノ京町)
大本山:興福寺(奈良市登大路町)

  
薬師寺東京別院(品川区東五反田)


水雲山 潮音寺(奈良薬師寺 東関東別院)(茨城県潮来市)

■(倶舎宗) 法相宗の付宗(寓宗)

■ 聖徳宗
宗祖:聖徳太子
立宗:昭和25年法相宗から独立
所依教典:『三経義疏』
大本山:法隆寺(奈良県斑鳩町)

■華厳宗 
法統:インドor西域→(地論宗)→智儼
宗祖派祖:法蔵
伝来:736年 審祥・良弁
所依教典:『華厳経』
教義の特徴:重々無尽の縁起、円教・別教一乗など
大本山:東大寺(奈良市雑司町)

■律宗
法統:四分律宗・南山律宗→(戒律学)→文綱
宗祖派祖:
伝来:753年 鑑真
所依教典:『四分律』
教義の特徴:戒律
総本山:唐招提寺(奈良市五条町)

■(北京律)
■(南都律)

※下記は律宗の流れを汲んでいるため、【奈良仏教】に記載しました。

■真言律宗
法統:四分律宗・南山律宗→(戒律学)→文綱
宗祖派祖:高祖弘法大師、叡尊(興正菩薩)
所依教典:『十誦律』
教義の特徴:戒律、具足戒、三昧耶戒など
総本山:西大寺(奈良市西大寺芝町)

 
【写真 上(左)】 金沢山 彌勒院 称名寺(横浜市金沢区)
【写真 下(右)】 霊鷲山 感応院 極楽律寺(鎌倉市極楽寺)

■真言宗霊雲寺派
法統:真言律宗→
宗祖派祖:高祖弘法大師、叡尊(興正菩薩)
立派:昭和22年真言律宗から独立
所依教典:『十誦律』?
教義の特徴:戒律、具足戒、三昧耶戒など
総本山:霊雲寺(文京区湯島)

 
【写真 上(左)】 宝林山 大悲心院 霊雲寺(文京区湯島)
【写真 下(右)】 和光山 興源院 大龍寺(北区田端)


【平安仏教】

〔天台宗系〕
■天台宗
法統:智顗(天台大師)・天台教学
宗祖派祖:(智顗)
伝来:806年 伝教大師最澄
天台密教将来:最澄・円仁
所依教典:『妙法蓮華経』『涅槃経』など
教義の特徴:四宗兼学、止観行など
総本山:延暦寺(滋賀県大津市)
●天台宗の御朱印尊格は多彩です。
特徴的な尊格に「元三大師」があります。
主印は御寶印(種子)が多くなっています。

  
【写真 上(左)】 東叡山 寛永寺(台東区上野公園)
【写真 下(右)】 日光山 輪王寺(栃木県日光市)

 
【写真 上(左)】 星野山 無量寿寺 中院(川越市小仙波町)
【写真 下(右)】 浮岳山 昌楽院 深大寺(調布市深大寺元町)

 
【写真 上(左)】 泰叡山 護國院 瀧泉寺(目黒不動尊)(目黒区下目黒)
【写真 下(右)】 小野寺山 転法輪院 大慈寺(栃木県栃木市)

■天台真盛宗
法統:天台教学→真盛
宗祖派祖:真盛
(立宗):1486年 真盛
所依教典:
教義の特徴:天台念仏、戒律など
総本山:西教寺(滋賀県大津市)

 
【写真 上(左)】 天羅山 養善院 真盛寺(杉並区梅里)
【写真 下(右)】 率渓山 新善光寺(横浜市南区)
  
■天台寺門宗
法統:智顗(天台大師)・天台教学→円珍
宗祖派祖:智証大師円珍
立宗:智証大師円珍(814-891年)
所依教典:『妙法蓮華経』など
教義の特徴:円・密・禅・戒・修験五法門など
総本山:三井寺(滋賀県大津市)

 
熊野山 福蔵寺(群馬県高山村)
明光山 大善院(さいたま市浦和区) 

■聖観音宗
立宗:昭和25年天台宗より独立
本山:浅草寺(台東区浅草)


金龍山 浅草寺(台東区浅草)

■金峯山修験本宗
立宗:昭和23年、天台宗から分派独立し大峯修験宗
昭和27年、金峯山修験本宗と改称
総本山:金峯山寺(奈良県吉野町)

  
【写真 上(左)】 白岩山 長谷寺(群馬県高崎市)
【写真 下(右)】 大照山 相慈寺(品川区二葉)

■本山修験宗
法統等:智証大師円珍→増誉
寺格等:聖護院門跡、天台宗寺門派三門跡、修験道本山派
総本山:聖護院(京都市左京区)

 
【写真 上(左)】 長生山 瑠璃光寺 三重院(群馬県みなかみ町)
【写真 下(右)】 秋葉山 量覚院(小田原市板橋)

■和宗
総本山:四天王寺(大阪市天王寺区)

■孝道教団
開宗:昭和11年岡野正道始祖(天台宗大僧正)
孝道山 本仏殿(横浜市神奈川区)



■妙見宗
立宗:昭和21年天台宗から独立
総本山:本瀧寺(大阪府能勢町)

■念法眞教
総本山:金剛寺(大阪市鶴見区)

■天台宗弾誓派


【写真 上(左)】 無常山 一之澤院 浄発願寺(神奈川県伊勢原市)


〔真言宗系〕
法統:インド密教→竜猛→竜智→金剛智→不空→恵果→空海
宗祖派祖:付法の八祖
立教開宗:弘法大師空海(774-835年)
所依教典:『大日経』『金剛頂経』『理趣経』など
教義の特徴:事相と教相、身口意三密など
総本山:教王護国寺(東寺)(京都市南区)
●真言宗の御朱印尊格は多彩です。
特徴的な尊格に「弘法大師」「遍照金剛」があります。
大日如来、不動明王の御朱印も多くみられます。
主印は御寶印(種子)が多くなっています。

〔古義真言宗系〕
教義の特徴:事相と教相、身口意三密、本地身説法など

■高野山真言宗
法統等:古義真言宗総本山・金剛峯寺
総本山:金剛峯寺(和歌山県高野町)

 
【写真 上(左)】 高野山 東京別院(港区高輪)
【写真 下(右)】 同

 
【写真 上(左)】 飯盛山 仁王院 青蓮寺(鎌倉市手広)
【写真 下(右)】 走湯山 般若院(静岡県熱海市)

■真言宗大覚寺派
法統等:宇多帝、後嵯峨帝、亀山帝、御宇多帝、保寿院流
大本山:大覚寺(京都市右京区)

 
【写真 上(左)】 雨降山 大山寺(神奈川県伊勢原市)
【写真 下(右)】 天衛山 多聞院 福寿寺(鎌倉市大船)

 
【写真 上(左)】 南向山 帰命院 補陀洛寺(鎌倉市材木座)
【写真 下(右)】 小動山 浄泉寺(鎌倉市腰越)

■真言宗善通寺派
法統等:増俊僧正、成尊、随心院(仁海)流、小野流、旧・小野派
総本山:善通寺(香川県善通寺市)


朝日山 平等院(埼玉県飯能市)

■真言宗御室派
法統等:寛平法皇(宇多天皇)、紫金台寺御室、広沢流
総本山:仁和寺(京都市右京区)

 
【写真 上(左)】 萬昌山 金剛幢院 圓満寺(文京区湯島)
【写真 下(右)】 密教山 如音院 顕徳寺(群馬県東吾妻町)

■真言宗山階派
法統等:承俊、済高、寛信、勧修寺流
大本山:勧修寺(京都市山科区)

■真言宗泉涌寺派
法統等:月輪大師俊芿、四宗兼学、皇室御陵所
総本山:泉涌寺(京都市東山区)

 
【写真 上(左)】 泉谷山 浄光明寺(鎌倉市扇ガ谷)
【写真 下(右)】 鷲峰山 覚園寺(鎌倉市二階堂)

■真言宗醍醐派 
法統等:理源大師聖宝、義演准后、小野流、恵印法流、修験道当山派
総本山:醍醐寺(京都市伏見区)

 
【写真 上(左)】 大悲山 塩船観音寺(東京都青梅市)
【写真 下(右)】 同

 
【写真 上(左)】 海照山 普門院 品川寺(品川区南品川)
【写真 下(右)】 神谷山 成就院(埼玉県三郷市)

■真言宗国分寺派
法統等:日本法相宗の祖・道昭、勅願道場
大本山:国分寺(大阪市北区)


應雲山 感応院(さいたま市見沼区)

■真言宗須磨寺派
法統等:淳和帝、光孝帝
大本山:須磨寺(神戸市須磨区)

■真言宗中山寺派
法統等:聖徳太子、源氏祈願所
大本山:中山寺(兵庫県宝塚市)

■真言三宝宗
法統等:宇多天皇勅願、三宝荒神社、神仏習合、三宝三福
大本山:清荒神清澄寺(兵庫県宝塚市)


瑠璃山 南谷寺 東光院(神奈川県小田原市)

■信貴山真言宗
法統等:聖徳太子、毘沙門天(多聞天)
大本山:朝護孫子寺(奈良県平群町)

 
【写真 上(左)】 慈眼山 圓通寺(埼玉県川島町)
【写真 下(右)】 頂寳山 弘福院(千葉県袖ケ浦市)

■真言宗犬鳴派
法統等:役小角、葛城二十八宿修験道
大本山:七宝瀧寺(大阪府泉佐野市)

■東寺真言宗
法統等:教王護国寺(東寺)、真言密教の根本道場
総本山:教王護国寺(京都市南区)

 
【写真 上(左)】 丹澤山 東光院(神奈川県山北町)
【写真 下(右)】 醫王山 薬師院 圓福寺(小田原市本町)

■真言宗東寺派
法統等:教王護国寺(東寺)、真言密教の根本道場
別格本山:正法寺(京都市西京区)

 
【写真 上(左)】 飯泉山 勝福寺(小田原市飯泉)
【写真 下(右)】 新浮侘落山 世尊院 明治寺(中野区沼袋)

〔新義真言宗系〕
法統等:弘法大師空海→興教大師覚鑁→頼瑜
教義の特徴:事相と教相、身口意三密、加持身説法など

■真言宗智山派
法統等:弘法大師空海→興教大師覚鑁→玄宥
総本山:智積院(京都市東山区)

 
【写真 上(左)】 成田山 新勝寺(千葉県成田市)
【写真 下(右)】 金剛山 平間寺(川崎大師)(川崎市川崎区)

 
【写真 上(左)】 高尾山 薬王院(八王子市高尾町)
【写真 下(右)】 高幡山 明王院 金剛寺(高幡不動尊)(日野市高幡)

■真言宗豊山派
法統等:弘法大師空海→興教大師覚鑁→専誉僧正
総本山:長谷寺(奈良県桜井市)

 
【写真 上(左)】 神齢山 悉地院 護国寺(文京区大塚)
【写真 下(右)】 五智山 遍照院 總持寺(西新井大師)(足立区西新井)

 
【写真 上(左)】 雨引山 楽法寺(茨城県桜川市)
【写真 下(右)】 紅龍山 布施弁天 東海寺(千葉県柏市)

■真言宗大日派
法統等:弘法大師空海→興教大師覚鑁→専誉僧正
(真言宗豊山派から独立)
根本道場:鑁阿寺(栃木県足利市)

 
【写真 上(左)】 金剛山 仁王院 法華坊 鑁阿寺(栃木県足利市)
【写真 下(右)】 同

■真言宗室生寺派
法統等:弘法大師空海→興教大師覚鑁→専誉僧正
(真言宗豊山派から独立)
大本山:室生寺(奈良県宇陀市)

 
【写真 上(左)】 天沼山 蓮華寺(杉並区本天沼)
【写真 下(右)】 光明山 真言院 荘厳寺(渋谷区本町)

■新義真言宗
法統等:弘法大師空海→興教大師覚鑁→頼瑜
総本山:根來寺(和歌山県岩出市)

 
【写真 上(左)】 三栄山 大正寺(調布市調布ケ丘)
【写真 下(右)】 新照山 蓮華寺(横浜市港北区)

 
【写真 上(左)】 長谷山 元興寺 加納院(台東区谷中)
【写真 下(右)】 法然山 伝灯寺 釋藏院(千葉県市原市)


【鎌倉仏教】

〔浄土宗系〕
■浄土宗
法統:法然上人→弁長・良忠(鎮西義)→良暁(白旗派)
宗祖派祖:法然上人
立教開宗:1175年 法然上人
所依教典:『浄土三部経』『観無量寿経疏』『選択本願念仏集』など
教義の特徴:念仏・御名号「南無阿弥陀仏」、他力本願
総本山:知恩院(京都市東山区)
●浄土宗の御朱印尊格は阿弥陀如来が多くなっています。
特徴的な尊格に「南無阿弥陀佛」(六字御名号)があります。
主印は三寶印(佛法僧寶)がメインです。

 
三縁山 広度院 増上寺(港区芝公園)


天照山 蓮華院 光明寺(鎌倉市材木座)

 
【写真 上(左)】 無量山 寿経寺 伝通院(文京区小石川)
【写真 下(右)】 寿亀山 天樹院 (飯沼)弘経寺(鎮西義白旗派流/茨城県常総市)

 
【写真 上(左)】 祇園山 田代寺(長楽寺) 安養院(鎮西義名越派(善導寺義)流/鎌倉市大町)
【写真 下(右)】 証誠山 等持院 (大野)正定寺(鎮西義藤田派流/茨城県古河市)

 
【写真 上(左)】 明顯山 善久院 祐天寺(目黒区中目黒)
【写真 下(右)】 孤峰山 宝池院 蓮馨寺(川越市蓮雀町)

 
【写真 上(左)】 大金山 宝幢院 光明寺(大田区鵜の木)
【写真 下(右)】 三縁山 増上寺 妙定院(港区芝公園)

■浄土宗西山禅林寺派
法統:法然上人→証空(西山義)→浄音(西谷義)
総本山:永観堂 禅林寺(京都市左京区)

■浄土宗西山深草派
法統:法然上人→証空(西山義)→立信(深草義)
総本山:誓願寺(京都市中京区)

■西山浄土宗
法統:法然上人→証空(西山義)→浄音(西谷義)
総本山:光明寺(京都府長岡京市)


〔(浄土)真宗系〕
法統:法然上人→親鸞上人
宗祖派祖:親鸞上人
立教開宗:1224年 親鸞上人
所依教典:『浄土三部経』『教行信証』『選択本願念仏集』など
教義の特徴:念仏・御名号「南無阿弥陀仏」、絶対他力(本願)
●(浄土)真宗は教義上、御朱印を授与されない寺院が多くみられます。
授与される場合の尊格や主印は多彩です。

 
【写真 上(左)】 稲田山 西念寺(稲田御坊)(茨城県笠間市)
【写真 下(右)】 箱根山 萬福寺(箱根御舊地)(神奈川県箱根町)

■浄土真宗本願寺派 (「お西」「本派」)
本山:本願寺(京都市下京区)

 
【写真 上(左)】 築地本願寺(中央区築地)
【写真 下(右)】 麻布山 善福寺(港区元麻布)

■真宗大谷派 (「お東」「大派」)
本山:東本願寺(京都市下京区)

 
【写真 上(左)】 高龍山 謝徳院 坂東報恩寺(台東区東上野)
【写真 下(右)】 塩田山 超願寺(山梨県笛吹市)

■浄土真宗東本願寺派
本山:浄土真宗東本願寺派本山東本願寺(台東区西浅草)

 

【写真 上(左)】 東本願寺(台東区西浅草)
【写真 下(右)】 牛久大佛(茨城県牛久市)

■真宗高田派
法統:親鸞上人→顕智(高田門徒)
本山:専修寺(三重県津市)


高田山 専修寺(栃木県真岡市)

■真宗佛光寺派
本山:佛光寺(京都市下京区)


光照山 西徳寺(台東区竜泉)

■真宗興正派
本山:興正寺(京都市下京区)

■真宗木辺派
本山:錦織寺(滋賀県野州市)


〔時宗系〕
■時宗
法統:浄土宗西山義→一遍上人→他阿(遊行上人)
開祖:一遍上人(1239-1289年)
所依教典:『観経疏』など
教義の特徴:念仏・御名号「南無阿弥陀仏」、他力本願、融通念仏、踊念仏
総本山:清浄光寺(遊行寺)(神奈川県藤沢市)
●時宗の御朱印尊格は阿弥陀如来が多くなっています。
特徴的な尊格に「南無阿弥陀佛」(六字御名号)があります。
主印は三寶印(佛法僧寶)がメインです。

 
【写真 上(左)】 藤沢山 無量光院 清浄光寺(遊行寺)(神奈川県藤沢市)
【写真 下(右)】 同

 
【写真 上(左)】 河越山 三芳野院 常楽寺(川越市上戸)
【写真 下(右)】 岩蔵山 長春院 光觸寺(鎌倉市十二所)

〔融通念佛宗系〕
■融通念佛宗
法統:天台宗→良忍(大念仏宗)→大通
開宗:1127年 聖応大師良忍
所依教典:『華厳経』『法華経』など
教義の特徴:念仏「南無阿弥陀仏」、他力本願、融通念仏
総本山:大念佛寺(大阪市平野区)


〔禅宗系〕
□臨済宗
法統:達磨大師→臨済義玄→明菴栄西
宗祖:臨済義玄(唐)
開祖:明菴栄西(日本)(1141-1215年)
所依教典:
教義の特徴:悟り、座禅、公案、法嗣
●禅宗の御朱印尊格は釋迦牟尼佛(南無釋迦牟尼佛)が多くなっています。
密教系からかわった寺院では以前の御本尊を踏襲し、そちらの御朱印となるケースが多くみられます。
主印は三寶印(佛法僧寶)がメインです。

■臨済宗妙心寺派
大本山:妙心寺(京都市右京区)

 
【写真 上(左)】 金鳳山 平林寺(埼玉県新座市)
【写真 下(右)】 定林山 能成寺(山梨県甲府市)

 
【写真 上(左)】 圓通山 龍澤寺(静岡県三島市)
【写真 下(右)】 金剛山 寶泰寺(静岡市葵区)

■臨済宗南禅寺派
大本山:南禅寺(京都市左京区)

 
【写真 上(左)】 勝林山 金地院(港区芝公園)
【写真 上(左)】 金湯山 梅洞寺(八王子市打越町)

 
【写真 上(左)】 龍王山 宝円寺(埼玉県小鹿野町)
【写真 下(右)】 飯盛山 青苔寺(山梨県上野原市)

■臨済宗円覚寺派
大本山:円覚寺(神奈川県鎌倉市)

 
【写真 上(左)】 瑞鹿山 円覚興聖禅寺(鎌倉市山ノ内)
【写真 下(右)】 錦屏山 瑞泉寺(鎌倉市二階堂)

 
【写真 上(左)】 天長山 国清寺(静岡県伊豆の国市)
【写真 下(右)】 月海山 法身寺(新宿区原町)

■臨済宗建長寺派
大本山:建長寺(神奈川県鎌倉市)

 
【写真 上(左)】 巨福山 建長寺(鎌倉市山ノ内)
【写真 下(右)】 義明山 満昌寺(神奈川県横須賀市)

 
【写真 上(左)】 青龍山 吉祥寺(群馬県川場村)
【写真 下(右)】 天目山 栖雲寺(山梨県甲州市)

■臨済宗天龍寺派
大本山:天龍寺(京都市右京区)

■臨済宗相国寺派
大本山:相国寺(京都市上京区)

■臨済宗東福寺派
大本山:東福寺(京都市東山区)


天澤山 龍光寺(文京区本駒込)

■臨済宗建仁寺派
大本山:建仁寺(京都市東山区)

■臨済宗国泰寺派
本山:国泰寺(富山県高岡市)


普門山 全生庵(台東区谷中)

■臨済宗大徳寺派
大本山:大徳寺(京都市北区)

 
【写真 上(左)】 瑞泉山 祥雲寺(渋谷区広尾)
【写真 下(右)】 瑞泉山 高源院(世田谷区北烏山)

 
【写真 上(左)】 多聞山 天現寺(港区南麻布)
【写真 下(右)】 霊泉山 鎖雲寺(神奈川県箱根町)

■臨済宗永源寺派
大本山:永源寺(滋賀県東近江市)

■臨済宗向嶽寺派
大本山:向嶽寺(山梨県甲州市)

 
【写真 上(左)】 塩山 向嶽寺(山梨県甲州市)
【写真 下(右)】 水上山 花井寺(山梨県大月市)

■臨済宗相国寺派
大本山:相国寺(京都市上京区)

■臨済宗方広寺派
大本山:方広寺(静岡県浜松市北区)

■臨済宗佛通寺派
大本山:佛通寺(広島県三原市)

■臨済宗興聖寺派
本山:興聖寺(京都市上京区)

■臨済宗白隠派
大本山:松蔭寺(静岡県沼津市)


鵠林山 松蔭寺(静岡県沼津市)


■曹洞宗
法統:達磨大師→洞山良价→天童如浄→ 道元禅師
開祖:洞山良价(唐)
開祖:道元禅師(高祖承陽大師)(日本)(1200-1253年)
所依教典:
教義の特徴:悟り、座禅、只管打坐、正伝の仏法
大本山:永平寺(福井県永平寺町)
大本山:總持寺(横浜市鶴見区)

 
【写真 上(左)】 諸嶽山 總持寺(横浜市鶴見区)
【写真 下(右)】 大雄山 金剛壽院 最乗寺(神奈川県南足柄市)

 
【写真 上(左)】 福地山 修禅萬安禅寺(修禅寺)(静岡県伊豆市)
【写真 下(右)】 長昌山 龍穏寺(埼玉県越生町)

 
【写真 上(左)】 大平山 大中寺(栃木県栃木市)
【写真 下(右)】 安国山 總寧寺(千葉県市川市)

■黄檗宗
法統:(黄檗希運)→隠元隆琦
開祖:隠元隆琦(明→日本)(1592-1673年)
所依教典:
教義の特徴:臨済宗に近い、混淆禅、普茶料理、煎茶道
大本山:萬福寺(京都府宇治市)

 
【写真 上(左)】 少林山 達磨寺(群馬県高崎市)
【写真 下(右)】 牛頭山 弘福寺(墨田区向島)

 
【写真 上(左)】 鳳陽山 国瑞寺(群馬県みどり市)
【写真 下(右)】 紫雲山 瑞聖寺(黄檗宗系単立)(港区白金台)


〔日蓮宗系〕
■日蓮宗
法統:天台の教観二門(教相門・止観門)→日蓮聖人
宗祖:日蓮聖人(1222-1282年)
立教開宗:1253年 日蓮聖人
所依教典:『妙法蓮華経』
教義の特徴:題目「南無妙法蓮華経」、二乗作仏、久遠実成など
大本山:久遠寺(山梨県身延町)
●日蓮宗は御首題(南無妙法蓮華経)がメインですが、専用の御首題帳がない場合、御朱印の「妙法」となったり不授与の場合もあります。
鬼子母神や帝釈天など、日蓮宗ゆかりの尊格の御朱印授与も多くみられます。
主印は多彩です。


身延山 久遠寺(山梨県身延町)

 
【写真 上(左)】 長栄山 大国院 池上本門寺(大田区池上)
【写真 下(右)】 正中山 法華経寺(千葉県市川市)

 
【写真 上(左)】 小湊山 誕生寺(千葉県鴨川市)
【写真 下(右)】 千光山 清澄寺(千葉県鴨川市)

 
【写真 上(左)】 妙法華経山 安国論寺の御朱印(鎌倉市大町)
【写真 下(右)】 慈雲山 瑞輪寺の御朱印(台東区谷中)

  
【写真 上(左)】 経栄山 題経寺(柴又帝釈天)(葛飾区柴又)
【写真 下(右)】 威光山 法明寺 鬼子母神堂(豊島区雑司ヶ谷)

〔法華宗系〕
●法華宗の御首題、御朱印は日蓮宗とほぼ同様です。

■法華宗本門流
法統:日蓮上人→日隆聖人
宗祖:日蓮聖人(1222-1282年)
門祖:日隆聖人(1385-1464年)
大本山:光長寺(静岡県沼津市)
大本山:鷲山寺(千葉県茂原市)
大本山:本能寺(京都市中京区)
大本山:本興寺(兵庫県尼崎市)

 
【写真 上(左)】 鷲在山 長國寺(台東区千束)
【写真 下(右)】 春陽山 永隆寺(世田谷区北烏山)

■法華宗陣門流
法統:日蓮聖人→日朗上人→日陣上人
宗祖:日蓮聖人(1222-1282年)
門祖:日陣上人(1339-1419年)
総本山:本成寺(新潟県三条市)

 
【写真 上(左)】 徳栄山 総持院 本妙寺(豊島区巣鴨)
【写真 下(右)】 俎岩山 蓮着寺(静岡県伊東市)

■顕本法華宗
法統:日蓮聖人→日什上人
宗祖:日蓮聖人(1222-1282年)
開祖:日什上人(1314-1392年)
総本山:妙満寺(京都市左京区)

  
【写真 上(左)】 鳳凰山 天妙国寺(品川区南品川)
【写真 下(右)】 長遠山 常楽寺(新宿区原町)

■本門佛立宗
法統:日蓮聖人→長松清風(日扇)
宗祖:日蓮聖人(1222-1282年)
開祖:長松清風(日扇)(1817-1890年)
大本山:宥清寺(京都市上京区)

■本門法華宗
法統:日蓮聖人→日隆上人
宗祖:日蓮聖人(1222-1282年)
門祖:日隆上人(1385-1464年)
大本山:妙蓮寺(京都市上京区)


〔富士門流・日興門流/興門八本山〕
・富士(上条)大石寺(日蓮正宗/富士五山)(静岡県富士宮市)
・下条妙蓮寺(日蓮正宗/富士五山)(静岡県富士宮市)
・北山本門寺(日蓮宗/富士五山)(静岡県富士宮市)


【写真 上(左)】 北山本門寺(静岡県富士宮市)

・小泉久遠寺(日蓮宗/富士五山)(静岡県富士宮市)


小泉久遠寺(静岡県富士宮市)

・西山本門寺(単立、法華宗興門派/富士五山)(静岡県富士宮市)
・伊豆實成寺(日蓮宗)(静岡県伊豆市)


 東光山 實成寺(静岡県伊豆市)

・保田妙本寺(単立)(千葉県鋸南町)
・京都要法寺(日蓮本宗)(京都市左京区)
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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-25

Vol.-24からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第75番 智劔山 遮那院 威徳寺(赤坂不動尊)
(いとくじ)
公式Web

港区赤坂4-1-10
真言宗智山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第75番、御府内二十八不動霊場第23番、大東京百観音霊場第12番

第75番は「赤坂不動尊」として知られる威徳寺です。

第75番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに威徳寺で、第75番札所は開創当初から赤坂の威徳寺であったとみられます。

公式Web、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』、『赤坂不動尊栞』などから縁起・沿革を追ってみます。

延暦二十四年(805年)伝教大師最澄が唐より帰国の途上、嵐に遭い船が沈みそうになったとき、御自作の不動明王を海に沈めて祈願され難破をのがれたといいます。

天安二年(858年)、越後國三島郡出雲崎の漁師が毎夜海辺に不思議な光を見るので探索したところ、海中から大師がお沈めになった不動明王が現れたため茅屋を結んで尊像を安置、お祀りしたのが創始と伝わります。

永承六年(1063年)、源頼義公が当山に戦勝祈願したところ、霊験を感じて下総國香取郡米澤村(現・千葉県香取郡神崎町)にお遷ししたといいます。

寶冶年中(1247-1249年)、鎌倉幕府5代執権・北條時頼公が米澤村の不動堂へ願書を奉ったと伝わるのは、こちらの不動尊とみられています。
文永十一年(1274年)には8代執権北條時宗公が文永の役で戦勝祈願・成就して北條執権家の尊崇を高め、寺勢いよいよ興隆したといいます。

慶長五年(1600年)、住僧良臺が当尊より夢告をうけて赤坂人継(一ツ木)の地へ移転し、赤坂の威徳寺として開山。
眼下に溜池、遠くに愛宕の高塔を望む風光絶佳の地であったため池見山遮那院と号しました。

霊験あらたかな不動尊にあやかってか、当山は紀州徳川家の祈願寺となりました。
五大明王をはじめ多彩な祈祷佛を安したのは、紀州徳川家の祈願寺という背景があったためとみられます。

江戸期には御府内霊場の札所にもなって人々の尊崇を集めました。
不動明王の利生の劔に因んで智劔山、また不動尊の威徳を尊んで威徳寺と号したといいます。

赤坂不動尊威徳寺の法統は現在に至るまで赤坂の地で受け継がれ、平成29年には大規模なビルに改築、都心・赤坂のお不動様として人々の信仰を集めています。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
七十五番
赤坂一ツ木町
愛宕山真福寺末 新義真言宗
智劔山 遮那院 威徳寺
本尊:大日如来 海中出現不動明王 勝軍十一面観世音 弘法大師

『寺社書上 [39] 赤坂寺社書上 壱』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.88』
深川七軒寺町
愛宕下真福寺末 新義真言宗
智劔山遮那院威徳寺
起立年代相不知申候
開山 良臺 元和三年(1617年)卒(元和八年(1622年)遷化とも)
本堂
 本尊 不動明王木立像 伝教大師作海中出現 秘仏(略縁起)
 前立 不動明王座像 願行上人作
 両童子 
本堂中安置
 大威徳明王木立像
 降三世明王木立像
 軍荼利明王木立像
 金剛夜叉明王木立像
 愛染明王木座像
 辨財天 弘法大師作灰佛
 薬師如来木座像 脇士 日光菩薩木立像 月光菩薩木立像
 金剛界大日如来木座像 胎蔵界大日如来銅座像
 妙見尊木立像
 賓頭盧尊者木座像
位牌安置土蔵内
 大日如来木座像 阿弥陀如来木座像
 地蔵菩薩木座像 弘法大師木座像 興教大師木座像
焔魔堂聖天相殿
 聖天尊 秘佛 本地十一面観音木立像
 焔魔大王木座像
 大黒天木立像
 大黒天木立像
 毘沙門天王木座像
子安地蔵尊石座像 上屋有り

『赤坂区史』/東京市赤坂区 昭和17年(国立国会図書館/保護期間満了)
眞言宗威徳寺 山号及別号智劔山阿遮院 愛宕下真福寺末
一ツ木町十三番地
寺門は市廛の間にあつて、本堂は一ツ木町十三番地の丘上に位置してゐる。門前に建てた大石柱には、「智劔山威徳寺、現在茲海代」「八十八ヶ所七十五番弘法大師」「傳教大師御眞作海中出現不動明王」「将軍十一面観世音」-天保八丁酉五月-の文字が刻まれてゐる。
当寺の起立された年代は詳かでないが、開山は良臺是年(元和八年(1622年)寂)である。
本堂の傍にある大師堂は寶形造で讃岐善通寺の写しである。此處は昔は星が岡の鬱陵に対し、溜池の池塘を下瞰し、又遠く愛宕の高塔を望むことが出来て、風光絶佳の地であつた。山號の智劔山は、續江戸砂子に「池見山威徳寺」と記されてゐるやうに、以前は溜池に臨むといふ意味から池見山と書いたのだが、後に至つて不動明王の利生の劔に因んで智劔と改めたのであらう。
境内に弘法大師千五百回忌塔がある。また不動尊に就いては、寺傳によれば、文徳天皇の天安二年(858年)越後國出雲崎の海濵に毎夜光明赫々たるものを認め海底を探つて此像を得たので、茅屋を結んで之を安置し、後に下総國米澤村に移した。寶冶年中(1247-1249年)に北條時頼が米澤村の不動堂へ願書を奉つたと傳へられるのは、即ちこの不動に祈願したもので、其後米澤村から武蔵國貝塚領人繼村へ遷座したのがこの像であると云ふ。



「威徳寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』赤坂絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
※一ツ木丁に「寍徳寺」という寺院がみえます。位置関係からするとこちらが「威徳寺」のようにも思われますが、どうでしょうか。

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メトロ「赤坂見附」駅は「永田町」駅と接続し、銀座線・丸ノ内線(赤坂見附)、半蔵門線・有楽町線・南北線(永田町)の5路線が利用できる交通の要衝です。
「赤坂見附」駅から徒歩約5分の一ツ木通りに面しています。

もともと一ツ木通りにはTBS本館ビルがあり、メディア、芸能関係など時代の先端を行く人々の街でした。
TBSが赤坂に移転したあともその遺伝子は遺り、いまでも界隈は華やいだ雰囲気です。

不動尊は繁華街に祀られる例も多く、赤坂不動尊も違和感なく人々の尊崇を集めていると思われます。


【写真 上(左)】 工事中の山内
【写真 下(右)】 工事中の参拝所

はじめて参拝したときは工事中でプレハブの参拝所での奉拝でしたが、古色を帯びた不動尊を間近で拝せてかなりの迫力でした。
平成29年の新ビル竣工後は、立派なビル内の本堂で参拝できます。


【写真 上(左)】 工事中の参拝案内
【写真 下(右)】 一ツ木通りからの参道


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 山内入口

一ツ木通りに接して参道。
「南無不動明王」の幟がはためき、附設の「赤坂浄苑」のサイン、その奥には山門も見えて寺院めぐりに不慣れな人にはかなりのインパクトがあるかも。

参道入口に寺号標。その先に「赤坂不動尊」の石標と御府内霊場の札所碑。
その先のアーチ状の山門には「赤坂不動尊」の扁額が掲げられ、門柱にはさらに寺号標。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門の寺号標


【写真 上(左)】 不動尊碑と札所碑
【写真 下(右)】 参道


【写真 上(左)】 寺号標とエントランス
【写真 下(右)】 紀州徳川家御祈願所

重厚なブラックフェースのエントランスと、たたみかけるように寺号標。
その前庭には石像の不動尊像と修行大師像。
どちらも古色を帯びているので、改修前から御座される濡佛では。


【写真 上(左)】 不動尊像
【写真 下(右)】 修行大師像修行大師像

エントランス手前には「紀州徳川家御祈祷所」の石碑と子授子育地蔵尊。

山号扁額が掲げられたエントランスを入ると受付で、こちらで拝観と御朱印のお願いをします。
ご対応はたいへんにご親切で、たしかエレベーターで上層階の本堂に昇ったと思います。
(あるいは1階奥かもしれぬ。記憶があいまいですみません。)


【写真 上(左)】 エントランスの扁額
【写真 下(右)】 本堂向拝


【写真 上(左)】 「赤坂不動尊」の提灯
【写真 下(右)】 本堂扁額

本堂前には「赤坂不動尊」の提灯とそのおくに真言宗智山派の宗紋「桔梗紋」が染められた紫の向拝幕。
上部左右に欄間彫刻、中央に山号扁額で、ビル内ながら仏堂の趣きゆたかです。

都内有数の繁華街立地、瀟洒なビル内本堂と、まさに都会の霊場・御府内霊場ならではの札所といえましょう。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳


【写真 上(左)】■ 専用集印帳(平成28年拝受)

中央に不動明王のお種子「カン/カーン」「不動明王」の揮毫と「カン/カーン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内札所第七十五番」の札所印。
左下に山号寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
なお、平成28年に拝受した御朱印の寺院印は「赤坂不動尊印」でした。


■ 第76番 蓮華山 佛性寺 金剛院
(こんごういん)
公式Web
豊島区長崎1-9-2
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
司元別当:長崎神社(豊島区長崎)
他札所:豊島八十八ヶ所霊場第76番

第76番は豊島区長崎の金剛院です。

第76番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに西蔵院で、第76番札所は御府内霊場開創当初から江戸末期まで音羽の西蔵院で、『御府内八十八ケ所道しるべ』の札所変更資料には西蔵院から金剛院への変更が記され、第76番札所は幕末から明治初頭にかけて長崎の金剛院に変更とみられます。

公式Web豊島区資料、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから両山の縁起・沿革を追ってみます。

【金剛院】

金剛院は、大永二年(1522年)聖弁和尚が新義真言宗寺院として”観音堂”の地(現・長崎3-28-1)に開創といいます。
当初の御本尊は阿弥陀三尊ないし五智如来(『新編武蔵風土記稿』)。
開創の地(長崎3-28-1)は現在当山の境外仏堂となっています。

元和七年(1621年)幕府の「諸宗諸本山諸法度」を受けて中野村宝仙寺の末寺となりました。
延宝年中(1673-1681年)ないし元禄年中(1688-1704年)、火災により仏像や古文書を焼失し宝永六年(1709年)頃に現在地へ移転しました。

正徳五年(1715年)聖誉和尚が再建。この頃、長崎神社の別当になったといいます。


【写真 上(左)】 長崎神社
【写真 下(右)】 長崎神社の御朱印

天明年中(1781-1788年)の大火の折、19世・宥憲和尚は多くの罹災者を金剛院に収容して命を助け、その功績により10代将軍家治公から山門(安永九年(1780年)建立)を朱塗りとする許可を受けました。
朱塗りの門の許可は名誉あることで、金剛院は以降「赤門寺」とも尊称されました。
この赤門は、豊島区の有形文化財に指定されています。

安政年中(1845-1849年)、本寺の中野宝仙寺から智観比丘尼が入山。
比丘尼は金剛院へ村の子供たちを集めて寺子屋をはじめ、礼儀作法や読み書きを教えました。

当地の庶民教育の創始者とも云える智観比丘尼の功績を称える碑が山内に建立されています。
明治34年には山内に長崎村役場がおかれ、長崎村の中心的な存在であったことがわかります。

明治初頭の神仏分離の波を乗り越え、御府内霊場第76番札所を承継、明治40年開創とされる豊島八十八ヶ所霊場の札所にもなっています。

小日向の西蔵院からの御府内霊場札所承継については、いずれも中野村宝仙寺末であった所縁によるものと思われます。

江戸期以降の御府内の寺院や札所はおおむね西遷傾向。
廃寺等を受けた札所承継で、同宗派の西側の郊外寺院に遷る例は他にもいくつかみられます。

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【西蔵院】

西蔵院は小日向にあった新義真言宗寺院。
『寺社書上 (小日向寺社書上)』に「小日向別当 小日向村田地●●●出現ニ付田中八幡●神宮●唱」とあり、小日向の田中八幡宮の別当であったことがわかります。

『小石川区史』の小日向神社の項にも「田中八幡社は、社伝に依ればその神體を小日向村の田地より感得したので田中八幡宮と唱へ、始めは八幡坂町に奉祀したが、明暦元年其地が久世大和守の抱屋敷となつた為め、音羽裏の地に引移り、明治に至つて氷川社と合し、今日の地に移つたのである。」とあります。

同書によると、氷川社の別当は慈照山日輪寺で小日向の總鎮守。
また、音羽町九丁目の今宮神社の項には「創建は社伝に依れば、元禄年中(1688-1704年)五代将軍綱吉の生母桂昌院が、護國寺建立と共にその境内に奉祀したと言ふ。明治初年、神佛混淆禁止に依り、同六年元田中八幡宮の跡なる現地へ遷座した。」とあります。

整理すると、現在の今宮神社の場所に御鎮座の田中八幡宮(別当:西蔵院)は明治の神佛分離の際に西蔵院が廃寺となり、田中八幡宮は氷川社(別当:日輪寺)と合祀されて、現在の小日向神社の地に御遷座、小日向神社と号されました。


【写真 上(左)】 小日向神社
【写真 下(右)】 小日向神社の御朱印

一方、音羽裏の田中八幡宮の跡地には元禄年中(1688-1704年)徳川5代将軍綱吉公の生母桂昌院が、護國寺建立とともに境内に奉祀したという今宮神社が明治6年に御遷座されいまに至るようです。

以上から、田中八幡宮の別当・西蔵院は、現在の今宮神社の地にあったとみられます。
『江戸切絵図』をみても『田中八幡 別当西蔵院』は還国寺の北西、大泉寺の北東にあって、ちょうどいまの今宮神社辺に当たっています。


【写真 上(左)】 今宮神社
【写真 下(右)】 今宮神社の掲示(御朱印不授与)

また、 『江戸名所図会 7巻 [12]』の神齢山護国寺の項には「今宮五社 当所鎮守と云 天照太神宮 八幡大神 春日大明神 今宮大明神 三部大権現五社を祭る 音羽町青柳町桜木町の鎮守なりと云伝ふ」とあり、今宮五社が護国寺鎮守であったことがわかります。

田中八幡宮別当の性格が強かった西蔵院は明治初頭の神仏分離で廃され、御府内霊場札所は上記のとおり同宗派の長崎・金剛院に承継されました。

なので、田中八幡宮の系譜は小日向神社、別当・西蔵院の系譜は金剛院で、それぞれいまも辿ることができます。

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【史料】

【金剛院】
『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
(長崎村)金剛院
新義真言宗 多磨郡中野村寶仙寺末 蓮華山佛性寺ト号ス 本尊五智如来中興僧ハ貞享五年(1688年)寂ス

『北豊島郡誌』(国立国会図書館)
(長崎村)金剛院
千四百三十六番地に在り、新義真言宗豊山派、中野寶泉寺末、蓮華山佛性寺と号す。本尊五智如来を安置す。当寺往年火災に罹り寺伝を失ふて開創詳ならざるも、約四百年前の剏建にして開山を聖辨和尚と云ふよし、新編武蔵風土記稿に『中興の僧は貞享五年(1688年)寂す』とあるに見ても其の古き寺なることを知るべし。境内は長崎神社の東に続き小丘の上にあり、本堂は萱葺にして堂前東に大師堂あり、豊島八十八ヶ所の札所にあり、鐘樓ありて寛文年中(1661-1673年)の梵鐘を吊れり。

『北豊島郡誌』(国立国会図書館)
長崎神社
祭神素盒嗚尊、舊来長崎村の鎮守なり。当社舊別当は金剛院なり、現今神域は寺地と相続けり。

【西蔵院】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
七十六番
●●町八丁目
田中山 西蔵院
中野村宝仙寺末 新義
本尊:阿弥陀如来 本社田中八幡宮 弘法大師

『寺社書上 [27] 小日向寺社書上 参止』(国立国会図書館)
小日向別当
新義真言宗中野村宝仙寺末
田中山西蔵院
八幡宮●●
但本像馬上にあり御丈八寸
右●像之儀ハ当代ふ知 小日向村田地●●●出現ニ付田中八幡●神宮●唱 八幡坂町(不詳)明暦元年(1655年)久世大和守殿御抱屋敷(不詳)当地之場所に引移候
相殿
 弘法大師
  但御府内八拾八ヶ所第七十六番札所
相殿
 八幡宮本地佛●阿弥陀如来木佛立像
末社
 庚申堂 稲荷社 三峯山 地蔵堂

八幡宮拝殿 本社
別当 内佛不動木座像
別当起立之年月不相知
開山●年月世代の儀相知不申候
開基無●●候

『小石川区史』(国立国会図書館)
小日向神社
小日向水道町服部坂の中腹に鎮座し、素戔嗚尊、譽田別尊、櫛稲田姫命、大巳貴命を祀る。其創建は明治二年で、水道町日輪寺境内の氷川社と音羽裏の田中八幡とを今の場所に移し、合祀して地名を取り社号としたものである。

氷川社は『新編江戸志』に依れば、『小日向の總鎮守にして、勸請の年歴詳かならず、四五百年の鎮座と言へり』。といひ、又『太田道灌再興す』と記してゐる。『江戸名所図會』には其図が載つてゐる。

田中八幡社は、社伝に依ればその神體を小日向村の田地より感得したので田中八幡宮と唱へ、始めは八幡坂町に奉祀したが、明暦元年(1655年)其地が久世大和守の抱屋敷となつた為め、音羽裏の地に引移り、明治に至つて氷川社と合し、今日の地に移つたのである。

明治五年村社に列し、祭日は九月十五日である。
現在の氏子町は小日向臺町一・二・三丁目、同三軒町、清水谷町、茗荷谷町、第六天町、水道端一・二丁目、武島町、小日向水道町、東・西古川町、松ヶ枝町、小日向町、西江戸川町等、小日向の全部である。

『小石川区史』(国立国会図書館)
今宮神社
音羽町九丁目に在る。祭神は天照大神、素戔嗚尊、伊弉册尊、譽田別尊、天兒屋根命、大國主命、少彦名命、大宮乃賣命である。
その創建は社伝に依れば、元禄年中(1688-1704年)五代将軍綱吉の生母桂昌院が、護國寺建立と共にその境内に奉祀したと言ふ。
明治初年、神佛混淆禁止に依り、同六年元田中八幡宮の跡なる現地へ遷座した。明治五年村社に列せられ、現在境内は三百餘坪、祭日は九月七日で、東・西青柳町、音羽一丁目乃至九丁目、櫻木町を氏子としてゐる。

『江戸名所図会 7巻 [12]』(国立国会図書館)
神齢山護国寺
 今宮五社
 当所鎮守と云 天照太神宮 八幡大神 春日大明神 今宮大明神 三部大権現五社を祭る 音羽町青柳町桜木町の鎮守なりと云伝ふ

『小石川区史』(国立国会図書館)
日輪寺
慈照山日輪寺。曹洞宗大本山総持寺、本山駒込吉祥寺末。本尊釋迦如来。
当地は元小日向の鎮守と伝へられる氷川明神の社地で、慶長十三年(1608年)吉祥寺第八世松栖用鶴大和尚が、明神別当として一寺を開いたのが当寺の基となつた。尤も氷川明神の縁起については、『新編江戸志』に『氷川神社、上水の上、別当慈照山日輪寺、神主宮崎伊勢守。社伝に小日向總鎮守にして、勧請の年歴詳かならず、四五百年の鎮座といへり。社伝に太田道灌再興すといふなり』とあり、『江戸名所図會』にも『氷川明神祠上水堀の端慈照山日蓮寺といへる禅林にあり。祭神は当國一宮に同じ。勧請の始久しうして知るべからずといへり。中古太田道灌の再興にして、小日向の鎮守なり。祭禮は正五九月の十七日なり。當社に元亀の年號ある庚申待供養の古碑あり』とあり(略)明治に至り神佛分離の際、氷川社の神體は小日向神社に奉遷し、社殿は観音堂となり、爾後寺院として今日に伝へた。



「西蔵院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』音羽絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りは西武新宿線「椎名町」駅で徒歩1分と至近。
元別当をつとめた長崎神社ととなりあっています。

都内には駅前に寺社がある駅はけっこうありますが、神社・元別当ともに並んでいる例はなかなか貴重です。


【写真 上(左)】 院号標と長崎不動尊
【写真 下(右)】 長崎不動尊の扁額

山門手前、駅側にせり出すように堂宇を構えられる「長崎不動尊」は、昭和24年に地域の守護仏として造立奉安された比較的あたらしい尊像ながら、不動尊ならではの力づよいオーラを放たれています。
堂内には平成8年造立の聖観世音菩薩像も奉安されています。


【写真 上(左)】 舟型道標地蔵尊
【写真 下(右)】 地蔵尊の御真言

「長崎不動尊」のさらに手前には「舟型道標地蔵尊」。
寛政八年(1796年)造立、中山道板橋仲宿、厄除け祖師・妙法寺方面への道標となっていて、御仏体は江戸城築城時につかわれた石の一部と云われています。


【写真 上(左)】 寺カフェ『なゆた』
【写真 下(右)】 山門

右手には寺カフェ・赤門テラス『なゆた』

正面の参道を進むと山門(赤門)です。
由来は上記のとおりで、切妻屋根銅板葺の薬医門で左右の袖塀を脇塀に当て付けています。
屋根の銅板はえんじ色ながら門柱・門扉は鮮やかな朱で、「赤門」のイメージを伝えています。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 修行大師像

山門をくぐると左手に修行大師像と四国八十八ヶ所お砂踏み霊場。
修行大師像の本堂寄りには「弘法大師・興教大師碑」、御朱印霊場札所標、マンガ地蔵尊などが並びます。

椎名町五丁目にあった「トキワ荘」は、手塚治虫、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫ら著名な漫画家が居住していた「漫画の聖地」です。
豊島区立トキワ荘マンガミュージアム公式Web


【写真 上(左)】 マンガ地蔵尊
【写真 下(右)】 マンガ地蔵尊の台座銘

金剛院山内にはこれを記念して平成27年に「マンガ地蔵尊」が造立奉安されています。
錫杖の代わりにペンを持たれ、法衣の柄は漫画のコマ、光背がGペンという特徴あるおすがたです。
マンガ地蔵尊の御朱印も授与されています。



【写真 上(左)】 御府内霊場札所碑
【写真 下(右)】 修行大師像、大師堂と本堂

その先の大師堂は宝形造桟瓦葺で頂部に宝珠を置いています。
向かって左の柱に御寶号、右には御府内霊場札所板。


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 御寶号板


【写真 上(左)】 御府内霊場札所板
【写真 下(右)】 霊場札所板

向拝上部には御府内・豊島両霊場の札所板と和讃(御詠歌)板が掲げられ、弘法大師霊場札所の趣きゆたか。

当山公式Webの御府内霊場の手引きページは懇切丁寧にまとめられ、Web検索でも上位ヒットします。
御府内霊場の巡拝者迎え入れに積極的なお寺さまかと思われます。

参道右手に建つ二基の板碑と庚申塔は区登録文化財。


【写真 上(左)】 板碑と仏塔
【写真 下(右)】 本堂

本堂は入母屋造本瓦葺流れ向拝の伽藍(外陣)とその後ろに宝形造二重屋根の伽藍(内陣)を隣接し、入母屋造平入りの後ろに相輪をみせる面白い意匠となっています。

昭和29年落慶の本堂は、コンクリ造ながら古典建築の造形を単純化してまとめた寺院建築として国の登録有形文化財に指定。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 客殿と庫裡

本堂向かって右手前の客殿は千鳥破風と起り屋根が印象的な瀟洒な建物で、こちらも国の登録有形文化財に指定されています。

御朱印は客殿よこの庫裡にて拝受しました。
こちらでは豊島八十八ヶ所霊場とマンガ地蔵尊の御朱印も授与されています。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に阿弥陀如来のお種子「キリーク」「無量壽」「弘法大師」の揮毫と宝珠の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「御府内八十八所第七十六番」の札所印。
左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
※「無量壽」は、阿弥陀如来の別号です。

 
【写真 上(左)】 豊島霊場の御朱印
【写真 下(右)】 マンガ地蔵尊の御朱印


■ 第77番 高嶋山 歓喜寺 佛乗院
(ぶつじょういん)
神奈川県秦野市蓑毛957-13
真言宗智山派
御本尊:千手観世音菩薩
札所本尊:千手観世音菩薩
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第77番、御府内二十八不動霊場第17番、弁財天百社参り第17番

第77番は神奈川県秦野市の佛乗院です。
御府内霊場唯一の東京都外の札所です。
神奈川県といっても川崎や横浜ではありません。遠く丹沢山中の札所で、参拝は1日がかりとなります。

第77番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに佛乗院で、第77番札所は開創当初から芝三田の佛乗院であったとみられます。

下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

佛乗院の開山開基は不明ですが、当所は八丁堀にあり、寛永十二年(1635年)三田ないし日本橋に引移り、延宝年間(1763-1780年)に芝三田寺町に移転といいます。
中興開基は法印宥補(宝)と伝わります。

芝三田寺町の在所は大聖院と幸福寺の間、蛇坂の登り口付近でしたから、現在のケーヨーデイツー三田店あたりとみられます。

昭和62年、三田寺町から神奈川県秦野市の丹沢山中へ移転し、同時に御府内霊場第77番札所も移転して、最も遠方の札所となりました。

当初の御本尊は弘法大師の御作と伝わる旭辨財天木立像。
弘法大師御作とされる大聖歓喜天尊も奉安されていました。

『御府内八十八ケ所道しるべ 』には「本尊:弁財天 歓喜天 弘法大師」とあり、すくなくとも幕末までは弁財天、大聖歓喜天尊、弘法大師の三尊が御府内霊場の拝尊であったことがわかります。

弁財天百社参り第17番の札所であり、御府内でも著名な辨財天霊場であったとみられます。

また、御府内二十八不動霊場第17番の札所本尊は、おそらく智證大師御作と伝わる不動明王とみられます。

現在の御本尊・札所本尊は千手観世音菩薩。
御本尊・札所本尊が替わられた経緯は不明です。


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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
七十七番
芝三田寺町
愛宕山真福寺末 新義真言宗
高嶋山 歓喜寺 佛乗院
本尊:弁財天 歓喜天 弘法大師

『寺社書上 [13] 三田寺社書上 参』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.94』
三田寺町
愛宕前真福寺末 新義真言宗
高嶋山佛乗院歓喜寺
開闢起立之年代不分明
開山中興開山共ニ不分明
八丁(町)堀から当地に替地拝領仕 寛永十二年(1635年)当所(三田寺町)ニ引移●●
中興開基 法印宥補(宝)寛文六年(1666年)遷化
本堂
 本尊 旭辨財天木立像 弘法大師作ト云 十五童子
 大黒天 四天王 前立辨財天木座像
 大聖歓喜天木立像 弘法大師作
 大聖歓喜天真鍮立像
 十一面観音木立像
 不動明王木立像 智證大師作ト云
 弘法大師
 千躰地蔵尊木座像
 阿弥陀如来木座像
鎮守八幡稲荷合社 但し御幣勧請

旭弁天社●-● 弘法大師近江國竹生島に三七日来●あり ●-● 手つから彫刻の尊像なり 元禄の頃吉水●●といふ医師弁天を伝●る事あり 当寺の住良運法印に●し弁天の●●



「佛乗院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』芝高輪辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2.国立国会図書館DC(保護期間満了)

■ 現在の三田寺町(蛇坂登り口付近)周辺の地図 ↓


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小田急線「秦野」駅から神奈中バス蓑毛行きに乗り終点で下車。
バス停からさらに500mほど歩いたところです。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 御府内霊場札所標-1


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 千元院の院号標

林道的なロケーションに突然参道入口があらわれます。
右手おくの切妻屋根の建物には「相生山 千元院」とあり??マークがつきますが、参道入口には「札所七拾七番 佛乗院」とあります。
その先の山門には「相生山 千元院」とあり、どうやらふたつの号を号されているようです。

参道沿いに「南無相生大権現」の登りが並び、神仏習合の趣きがあります。
丹沢周辺には山気横溢するパワスポ的な寺院が多いですが、こちらもそのようなイメージがあります。

山門は簡素な二脚門で、門柱に札所板を掲げています。


【写真 上(左)】 御寶号碑
【写真 下(右)】 山内


【写真 上(左)】 御府内霊場札所標-2
【写真 下(右)】 相生大明神と本堂

石段を登ると右手に相生大明神。
『寺社書上』にある「鎮守八幡稲荷合社」と系譜がつながるかは不明です。

その先右奥の木立の下には水垢離場や小祠、お不動様の石像などが建ち並び、修験道場的なオーラを発しています。


【写真 上(左)】 御府内霊場札所碑
【写真 下(右)】 本堂

本堂はその先階段の上で、手前に観世音菩薩立像(平和観音)が御座します。
本堂は入母屋造妻入りかと思いますが、全貌がつかめないので断言できません。

手前に大きく張り出した向拝屋根。
雨の多い丹沢では、しっかり雨粒を防げるこのくらいの屋根が必要なのでしょう。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、中備に本蟇股を置き、向拝見上げには山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 御朱印案内
【写真 下(右)】 簑庵

御朱印は本堂向かって左手奥の庫裡にて拝受しました。
なお、山内掲示の 御朱印案内によると、ご不在の場合御朱印は郵送可能なようですが、やはり事前にTEL問いしてからお伺いするのがベターかと思います。

なお、以前は山内に割烹料理「蓑庵」がありましたが、現況の営業状況は不明です。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に千手観世音菩薩のお種子「キリク」「千住観音」「弘法大師」の揮毫と札番付の「キリク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「七十七番」の札所印。
左下に山号院号の揮毫と寺院印が捺されています。


以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-26


■ 札所リスト・目次など
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1



【 BGM 】
■ Airport - 今井優子


■ 泣きたかった - 今井美樹


■Just Be Yourself - 杏里
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■ 薬師丸ひろ子のSONGS

先ほど放送の「SONGS」(ゲスト、薬師丸ひろ子)視てみました。

ホストの大泉 洋のトークや進行はさすがに巧いけど、音楽的な踏み込みがちと甘いような気がする。
これがマキタスポーツあたりだったら、おそらく違った展開になると思う。

それと、音楽のディレクション。
NHKって、すぐフルオーケストラ使ってアレンジ替えたりするけど、これってどうなん?

薬師丸ひろ子はバックにドラムス入った方がぜったいいいと思う。個人的には・・・。
あるいは、フルオケで歌うなら、むしろアカペラで歌った方が彼女の声質のよさが活きると思う。

不思議なのは、薬師丸ひろ子の歌声ってビブラートやゆらぎばりばりに入ってるのに、話すときはかなりストレート。
たとえば、福山雅治とかGACKTとか、個性的なビブもってる人は話すときもビブかかってるでしょ。自然に。

でも、彼女はちがう。
いったいどうやって、あの複雑なビブ&ゆらぎを生み出しているのかまったくわからず。
たとえばこういうところを、きいてほしかった。

声の質が圧倒的によい。
こんな小気味のよい、鈴を転がすような歌声は小鳩くるみ以来では?
■ 鈴を転がすような声  ~ 究極のハイトーンボイス ~

それにしてもこの年齢で、こんな素晴らしいパフォーマンス繰り出せるとは驚きのひとこと。
女性ボーカルの全盛期は、音楽との向き合い方によってはかなり長い。
そんなことを感じさせてくれる貴重なシンガーだと思う。

■ Woman“Wの悲劇”より


■ 愛しい人 (Live at GLORIA CHAPEL 2021)


■ 時代 (2013年10月)

2013年復帰時のコメントと名テイク。
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『【暴露します】歌が上手い人と下手な人の違い5選』を視て・・・

【暴露します】歌が上手い人と下手な人の違い5選


たしかに・・・。
歌声が響くにはそれなりの理由がある。↓

■ アイノカタチ - 熊田このは


■ 茜色の約束 - 森恵


■ 島唄 - 夏川りみ


■ m-flo Tour 2007 Cosmicolor ONE DAY 加藤ミリヤ


■ Pride - 遥海


■ 旅姿六人衆 - サザンオールスターズ


■ 時代 - 薬師丸ひろ子
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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-24

Vol.-23からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第72番 阿遮山 圓満寺 不動院
(ふどういん)
台東区寿2-5-2
真言宗智山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第72番、弘法大師二十一ヶ寺第6番、御府内二十八不動霊場第18番、坂東写東都三十三観音霊場第14番、関東三十六不動尊霊場第22番

第72番は寿の不動院です。
御府内霊場には「不動院」を号する札所寺院がふたつ(第6番(六本木)、第72番(浅草寿))あり、後者を寿不動院と呼んで区別しているようです。

第72番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに不動院で、第72番札所は開創当初から浅草寿の不動院であったとみられます。

下記史料、山内掲示、『ルートガイド』、『関東三十六不動霊場ガイドブック』などから縁起・沿革を追ってみます。

不動院は慶長十六年(1611年)、賢鏡法印が八丁堀に寺地を拝領して開山と伝わります。
御本尊は金剛界大日如来で、護摩堂に大日如来の教令輪身である不動明王を安置し祈祷を修したといいます。
不動院は往時から護摩堂の不動尊の験力の強さで知られていたようです。

寛永十二年(1635年)寺地を御用地として収公。
不動尊のあらたかな験力から、浅草の観音様の裏鬼門にあたる旧浅草(新寺町?)の地に遷ったともいいます。
(新寺町から明暦年間(1655-1658年)に現在地に移転という史料もあり。)

元禄期(1688-1704年)の不動院の住職は第6世覚意法印。
壱岐国領主日高覚左衛門の子で、松浦家家老の子息ともいいます。

元禄十年(1697年)、肥前国平戸藩主松浦鎮信は不動院の住職が家老の子息で、不動院が浅草鳥越の松浦家上屋敷の鬼門にあたることから当山を松浦家の祈願所とし、平戸に祀っていた松浦家守護仏の不動尊を、平戸の安満嶽に祀っていた金銅聖天尊像とともに当山に安置して一族の守護を祈念しました。

このときより、松浦家守護仏の不動尊を当山御本尊とし、従前より奉安の不動尊を御前立として安置と伝わります。

このときの住職・第6世覚意法印は、松浦家守護所となした功績もあってか中興開基とされています。

御本尊の不動明王は、奈良時代の華厳宗の高僧で東大寺の開山・良弁僧都(689-774年)の御作といいます。

良弁僧都には母親が仕事の最中、目を離した隙に鷲にさらわれ奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを師・義淵に助けられたという逸話があります。
良弁の母親は良弁を探し求めて全国を歩きつづけ、30年後ついに再会を果たしたといいます。
良弁は自身のような母親とのつらい別離が世の中からなくなるよう一心に念じつつ、不動明王の御像を謹刻されました。

この不動尊像は数多の変遷を経て肥前国平戸の松浦家の守護仏となり、島原の乱(1637-1638年)では数々の霊験をあらわされて、人々の尊崇いよいよ高まったといいます。

この尊像が不動院の御本尊で、わが子のことを一心に願えば無病息災に育ち、良縁にも恵まれ、たとえ悪病に罹ったとしても平癒するというので「子守り不動尊」と呼ばれて江戸庶民の信仰を集めました。

なお、『御府内八十八ケ所道しるべ』では「本尊:金剛界大日如来 弘法大師 興教大師」となっていますが、「本尊方除不動明王 良弁僧都之御作」ともあり、御府内霊場巡拝では不動尊も参拝されていたのでは。

明治初頭の神仏分離の波を乗り越え、御府内霊場札所も堅持されています。
昭和20年の空襲により諸伽藍を焼失しましたが、昭和40年現本堂を落慶。

昭和62年開創の関東三十六不動尊霊場第22番札所でもあり、浅草を代表する不動尊霊場として参拝者を迎えています。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
七十二番
浅草●下八軒寺町
阿遮山 圓満寺 不動院
大塚護持院末 新義
本尊:金剛界大日如来 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [75] 浅草寺社書上 甲三』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.52』
浅草八軒寺町
大塚護持院末 新義真言宗
阿遮山圓満寺不動院
江戸大塚護持院末、浅草八軒寺町
慶長十六年(1611年)寺地拝領仕 八丁堀二廿五ヶ年罷在候之処 御用地ニ付浅草新寺町ニ而替地拝領仕候

開山 賢鏡法印 年代不相知寂
中興開基 覚意儀 肥前平戸之産ニ● 壱岐国領主日高覚左衛門倅 只今●松浦家ニ覚左衛門子孫家老を勤罷在候
中興 栄実法印

旧浅草にあり明暦(1655-1658年)中此地に移る(江戸図説)
起立来暦詳ならす 慶長十六年(1611年)江戸八丁堀に寺地を賜り 夫より廿五年を経て寛永十二年(1635年)其地を収公せられ 今の所を賜り小坊を建 不動を安す
爰ニ肥前國平戸の城主松浦家の領内に良弁僧都の作の不動又歓喜天の像往古より安置せる所、嶋原退治の時、霊験掲焉に依て信●浅からす 今の浅草鳥越の屋敷に安せし●又奇瑞度々あるにより、汚穢の地に置障あらん事を恐● 元禄年中(1688-1704年)一宇を建立し是に移さんの発願にて彼是沙汰せしか 今の不動院破壊せる小宇にて名のみなるにより其上この屋敷より鬼門に当り殊に密宗なれハとて こゝに国家安鎮の為堂塔を建立弐百石寄附 両尊を安置しもとの像を前立とし第五世覚意といへるを住持とし 祈念怠慢なかりき 此覚意ハ松浦外記(今の家老)の子たれハ 幸に護持なさしむとそ 其後寄附の石高も多く減しけるとなり 去れとも今に松浦家の祈願所なりと

本堂
 本尊 金剛界大日如来木座像
 弘法大師木座像 興教大師木座像 理現(源)大師木座像 地蔵尊木像立像
護摩堂
 不動尊木座像 良弁僧都作 両童子木立像 同作
 縁起左之通(略)
霊府神木像 二童子木像
聖天鋼像 本地十一両観音木立像
 肥前国安満嶽に安置御座候処 霊験有て備相●不自由ニ付 鳥越松浦肥前守屋敷江安置ニ而御座候 其後元禄中(1688-1704年)松浦鎮信公思召を以て 当院江祈祷処引移され覚意江住職被申付

大神宮木立像 大黒天木像 辨財天木座像 毘沙門天木像 摩利支天木像
大黒天木像(一体三身大黒天) 謁摩作
大黒天木像 弘法大師作 千手観音木像長
愛染明王 弘法大師作
鎮守社
 金毘羅 保呂輪権現 稲荷大明神



「不動院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはメトロ銀座線「田原町」駅で徒歩約3分。
都道463号浅草通り「西浅草一丁目」交差点から「ことぶきこども園通り」を南下して、ふたつ目の角を西(右手)に入って少し行った右側です。


【写真 上(左)】 外観-1
【写真 下(右)】 外観-2


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 院号標

道沿いに築地塀を巡らし、山内入口に山門。
山門は切妻屋根桟瓦葺の薬医門で、門柱に院号標と御府内霊場・関東不動尊霊場併記の札所標を掲げています。


【写真 上(左)】 札所板
【写真 下(右)】 山門より山内

すぐ奥が本堂で、均整のとれた山門と鶯色の近代建築陸屋根2層の本堂が意匠的に面白い対比をみせています。

エントランスのベルを鳴らすとお寺の方が出てこられ、2階本堂のご案内をいただきました。
この際に御朱印帳をお預けし、参拝後に受けとります。


【写真 上(左)】 エントランス
【写真 下(右)】 2階の本堂

左手階段を登ると本堂。
1階はなんとなく学校を思わせる雰囲気でしたが、2階にあがると欄間彫刻、護摩壇の上に天蓋、そのおくの御内陣に御本尊が御座と、厳粛な仏堂の空気感。

御府内霊場は堂外向拝からの参拝が多いですが、このように堂内に上げていただけるのはありがたいことです。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央にお種子「カン/カーン」? 「不動明王」「弘法大師」の揮毫と不動明王のお種子「カン/カーン」の御寶印(火焔宝珠)。
右に「御府内七十二番」の札所印。
左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 関東三十六不動尊霊場の御朱印


■ 第73番 法号山 明王院 東覚寺
(とうがくじ)
江東区亀戸4-24-1
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第75番、亀戸七福神(弁財天)

第73番札所は下町・亀戸の東覚寺です。
御府内霊場には「東覚寺」を号する札所寺院がふたつ(第66番(田端)、第73番(亀戸))あり、前者を田端東覚寺、後者を亀戸東覚寺と呼んで区別しているようです。

第73番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに本所猿江町の法号山 花蔵院 覺王寺なので、江戸期の御府内霊場第73番は本所猿江の覺王寺であったとみられます。

明治34年、亀戸の東覚寺が本所猿江の法号山覺王寺を合併して明王山から法号山に号を改めるとともに、御府内霊場第73番札所を承継しています。

下記史料、寺伝・縁起書、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

東覚寺は、享禄四年(1531年)玄學法印の開山起立、明王山と号し御本尊に阿弥陀三尊を安したと伝わります。
不動堂に奉安の不動尊(亀戸不動尊)は良弁の御作で相州大山寺の御本尊と同木同作といい、霊験ことにあらたかとして正五九の月の廿八日に御開扉され、近郷の参詣人で賑わったといいます。

明治34年、本所猿江の法号山覺王寺を合併して明王山から法号山に号を改めました。
覺王寺は御府内八十八ヶ所霊場第73番札所で、それを示す碑が東覚寺に残されているそうです。

東覚寺は天保九年(1838年)以前の開創とみられる荒川辺八十八ヶ所霊場第75番の札所でしたから、この時点で御府内霊場、荒川辺霊場のふたつの弘法大師霊場の札所を兼ねることとなりました。
亀戸七福神の辨財天霊場としても親しまれています。

「猫の足あと」様には亀戸不動尊に関する『江東区の民俗城東編』の興味深い記事が紹介されているので、抜粋孫引きさせていただきます。

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享禄四年(1531年)、玄學法印の草庵に笈を背負った優婆塞が宿を請うた。
翌朝、仏間に一人の男が呆然と立ちすくんでいたので法印が誰何するも何も答えなかった。
件の優婆塞が云うには、自分が背負ってきた不動尊の下した罰であろうと。
優婆塞が笈の前に脆き祈ると、その男は話せ、身体も動くようになったが、その男は自分は盗賊だがもうこれ以上の悪事はしないと誓って去った。
法印は仔細を優婆塞に尋ねると、良弁僧正が相州大山寺を開かれたとき、優婆塞の先祖が大山の麓で手助けした。良弁僧正はこの労に謝してこの不動尊を与え、この霊像により盗難や剣難から遁れられると告げた。
霊像は優婆塞の家に伝わって二五代。優婆塞もこの霊像の霊験により難を遁れること多かったという。
法印はこの霊像をこの地に安することを願い、優婆塞もその意に応じて法印に与えた。
以降、人々はこの霊像を「盗難除け不動尊」と呼び慣わしたという。
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現在の御本尊は大日如来ですが、霊験あらたかな亀戸不動尊(盗難除け不動尊)も篤い信仰を集めていることがわかります。

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覺王寺は慶長十九年(1614年)宗順法印が深川六間堀に開山し、当初は幸蔵寺を号したといいます。
元禄六年(1693年)に寺地が御用地となったため隣寺の慈眼寺とともに本所猿江町に移され、宝永六年(1709年)に覺王寺と改めたとされます。

亀戸普門院末の新義真言宗で御本尊に大日如来を安し、本堂内に弘法大師座像、興教大師座像、如意輪観世音菩薩、地蔵菩薩を奉安し、御府内霊場第73番の札所でした。
境内の石弘法大師の(傍らの?)石碑にも「御府内八拾八ヶ所」とあったようです。

『御府内八十八ケ所道しるべ 地』では御府内霊場の拝所は「本尊:金剛界大日如来 不動明王 弘法大師」とみえます。
仔細は不明ですが、上記のとおり明治34年に亀戸の東覚寺に合併され、御府内霊場第73番の札所も東覚寺に承継されています。


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【史料】

【東覚寺関連】
『新編武蔵風土記稿 巻之24 葛飾郡之5』(国立国会図書館)
(亀戸村)東覺寺
明王山ト号ス 本尊三尊弥陀ヲ安ス 開山玄學 享禄四年(1531年)ノ起立ナリト云傳フ
不動堂 不動ハ良弁ノ作 霊験アリシトテ正五九の月廿八日開扉シ近郷ノモノ参詣多シ

『江戸名所図会 第4 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)
明王山東覺寺
真言宗にして、寺嶋の蓮華寺に属す。本尊は、彌陀、観音、勢至の三尊なり。当寺は、享禄四年(1531年)草創する所の寺院にして、開山を玄學法印と号す。

不動堂
当寺に安置す。良辨僧都の彫像にして、相州大山寺の本尊と同体なりといへり。
(以下縁起あり)

【覺王寺関連】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
七十三番
本所猿江町
法号山 花蔵院 覺王寺
亀戸普門院末 新義
本尊:金剛界大日如来 不動明王 弘法大師

『寺社書上 [107] 深川猿江寺社書上 十一』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.118』
本所猿江
亀戸普門院末 新義真言宗
法号山花蔵院覺王寺
当寺●元六間堀ニ有 御用地と●付 元禄六年(1693年)当地ニ替地

開山 宗順 慶長十九年(1614年)寂
中興開山 秀山 正徳五年(1715年)寂
開基 不分明
慶長十九年(1614年)の起立なり もとハ幸蔵寺と称して深川六間堀の邉にあり
元禄六年(1693年)隣寺慈眼寺と共ニここへ移され その後宝永六年(1709年)●●今の寺号に改しと云

本堂
 本尊 大日如来座像
 弘法大師座像 興教大師座像 如意輪観世音座像 地蔵尊立像
境内
 石地蔵尊
 石弘法大師 但御府内八拾八ヶ所石碑表ニ南無大師遍照金剛有り



「覺王寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』深川絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはJR・東武亀戸線「亀戸」駅で徒歩約10分。
亀戸香取神社の南東にあります。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 門柱の寺号標

入口は門柱で、手前に「不動明王」の石標。
山内は石敷きで広々とあかるいイメージ。


【写真 上(左)】 不動明王の石
【写真 下(右)】 山内

山内のたしか右手に辨天堂があり、亀戸七福神の札所となっています。


【写真 上(左)】 辨天堂
【写真 下(右)】 辨天堂の扁額

本堂は入母屋造銅板葺流れ向拝、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股を備えています。
向拝見上げには山号扁額。
真新しいですが、端正で落ち着きのある伽藍です。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

史料にある覚王寺の御府内八十八ヶ所霊場第73番札所を示す碑は、筆者にはみつけられませんでした。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 納経所案内

御朱印は本堂向かって右の庫裡にて拝受しました。
亀戸七福神の辨財天と亀戸不動尊の御朱印も授与されています。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊大日如来」「弘法大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内第七十三番」の札所印。左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

 
【写真 上(左)】 亀戸不動尊の御朱印
【写真 下(右)】 亀戸七福神(辨財天)の御朱印


■ 第74番 賢臺山 賢法寺 法乗院(深川ゑんま堂)
(ほうじょういん)
公式Web

江東区深川2-16-3
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第74番、御府内二十八不動霊場第14番、坂東写東都三十三観音霊場第28番、江戸・東京四十四閻魔参り第15番

第74番は「深川ゑんま堂」で有名な法乗院です。

第74番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに法乗院で、第74番札所は開創当初から深川の法乗院であったとみられます。

公式Web、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

法乗院は寛永六年(1629年)、深川猟師町相川町富吉町(現・江東区佐賀)に覚譽法印(『寺社書上』では覚春法印)の開山で創建といいます。
寛永十八年(1641年)、寺地が御用地となったため現在地(深川七軒寺町)に替地を得て移転。

『御府内寺社備考』によると当初の御本尊は閻魔大王でしたが、宝暦十年(1760年)類焼したため行基菩薩の御作という金剛界大日如来が御本尊になったといいます。

類焼ののち閻魔大王の代仏?を奉安とみられ、以降も「深川のおゑんまさま」として親しまれ、「江戸三閻魔」に数えられたとも。
なお、「江戸三閻魔」は下谷坂本の善養寺、蔵前の華徳院、内藤新宿の太宗寺をさすという説もありますが、『江戸歳時記』の閻魔霊場をまとめた記事に、しっかり「深川寺町 法乗院」とあるのでやはり著名な閻魔さまであったことは間違いないかと。
(■ 参考記事 都内の閻魔大王の御朱印

当山正面に通じる道の十五間川(油堀)には「ゑんま堂橋」が架けられ、いまの清澄通りがなかった時代は深川のメイン通りでした。
「ゑんま堂橋」跡は史跡(富岡橋跡)に指定されています。

法乗院の公式Webには「里俗に為永春水『春暁八幡佳年』、河竹黙阿弥『梅雨小袖昔八丈』などの江戸町人気質を盛り込んだ代表的江戸文芸や芝居の作品中にも当山は描かれており、当時の様子を伺い知ることが出来ます。なかでも『髪結い新三』の「ゑんま堂の場」は、当山が描かれた名場面の一つです。」とあり、深川ゑんま堂が江戸っ子に広く知られていた様子がうかがえます。

本堂には御本尊大日如来、弘法大師像、興教大師像を奉安。
護摩堂に奉安の不動尊像は良辨僧都の御作で、海中出現の縁起をもたれます。
当山は御府内二十八不動霊場第14番の札所で、不動尊霊場の役割も果たしていました。

平成元年像立の閻魔大王像は全高3.5m、全幅4.5m、重さ1.5tの日本最大級の巨大な座像で、左手には金色の地蔵菩薩を載せられるというインパクトあるお姿です。

インパクトはそのお姿だけではありません。
この閻魔さまは19の御祈願に対してお賽銭を投入すると、おもむろに説教を始められるのです。

↓ こんな感じです。(動画のラストに音が大きくなるので要注意)


あまりにすばらしいのでもう一本!


どうです、日々の煩悩でざらついた心に閻魔さまの一言一言が染み渡りませんか(笑)
筆者は深川あたりに行くと法乗院に参拝し、閻魔様のお説教をいくつも聞いてしまいます。

本堂一階には天明四年(1784年)に江戸の宋庵という絵師によって描かれた全16枚の地獄・極楽図が展示されています。

「御仏の教えの根本理念は、因果応報にあります。悪行を積めば悪い結果に、善行はよい結果になるように、人間は生きている時の行いが全ての原因になるということなのです。」公式Webより引用)

こんな時代だからこそ、閻魔さま詣でをしつつ、勧善懲悪、因果応報の教えを噛みしめてみるのもいいかもしれせん。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
七十四番
深川七軒寺町
葛飾小岩村善養寺末 新義
賢臺山 賢法寺 法乗院
本尊:大日如来 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [101] 深川寺社書上 五』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.120』
深川七軒寺町
葛飾西領小岩村善養寺末 新義真言宗
賢臺山賢法寺法乗院
起立之儀寛永六年(1629年)、深川猟師町相川町富吉町(現・江東区佐賀)に有 寺地●●寛永十八年(1641年)御用地に相成只今の場所に替地  

開山 覚春法印 寛永二十年(1643年)卒
開基 不分明
中興開山 覚譽法印 万治二年(1659年)卒

本堂
 本尊 金剛界大日如来木座像 行基菩薩作
 元々本尊閻魔王に候●候 宝暦十年(1760年)類焼 只今之本尊これ也
 弘法大師木座像 興教大師
護摩堂
 不動明王木座像 良辨僧都作 二童子木座像
 右不動尊ハ寛永年中(1624-1644年)深川今の相川町遠海にて毎夜光を放ち●● 猟師是所を尋るに木像の不動尊有 海中より上らせぬ●ハ覚譽法印猟師より申請当寺に安置
閻魔堂
 閻魔王木座像六尺五寸 運慶作
 十王
 三途川老婆木座像
子育地蔵尊石立像 右は築地之海●上らせぬ尊像

地中 不動院
 開山 賢覚法印 延宝元年(1673年)卒
 本尊 胎蔵界大日如来木座像



「法乗院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』深川絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはメトロ東西線・都営大江戸線「門前仲町」駅。
大江戸線両国寄りの6番出口が至近です。

門前仲町から清澄・白河にかけての一帯は谷中ほどの知名度はないものの都内有数の寺町で、多くの寺院が御朱印・御首題を授与されています。
宗派は浄土宗、日蓮宗が多く真言宗寺院は比較的少ないので、御府内霊場札所は第37番萬徳院、第68番永代寺、第74番法乗院を数えるのみです。


【写真 上(左)】 提灯と院号標
【写真 下(右)】 門前にお出ましの閻魔さま

清澄通り沿いに「深川ゑんま堂」の提灯をならべ、山門脇には写真の閻魔さまがお出ましになって、すでに門前から閻魔霊場の趣きを色濃くただよわせています。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 院号標

朱塗りの山門は変わった様式で、これをどう呼ぶのか筆者にはわかりません。
山門をくぐると正面が本堂、向かって左手が閻魔堂です。


【写真 上(左)】 山門から山内
【写真 下(右)】 本堂と閻魔堂


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

本堂は二層で、二階が本堂、一階が墓苑と思われます。
本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝、身舎の朱と欄干の緑青色のコントラストが絶妙。

一階中央は預骨仏(墓苑内本尊釈迦如来像胎内)。向かって右手に延命普賢菩薩、左手に大孔雀明王という、あまりみられない尊格配置。
とくに孔雀明王は間近で拝する機会が少ないので貴重です。

二階の本堂は閉扉されて薄暗いですが、中央に智拳印を結ばれる金剛界大日如来が御座されていました。
不動尊霊場の札所本尊もこちらに御座されているのかもしれません。

本堂前向かって右手には4体の地蔵尊立像。
それぞれ本堂寄りから「十日地蔵尊」「光岳地蔵尊」「子育地蔵尊」「水子地蔵尊」とありました。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 深川のお閻魔さま


【写真 上(左)】 閻魔堂
【写真 下(右)】 閉扉時の閻魔堂向拝

閻魔堂は二層の楼閣で桟瓦葺。二層頂部に宝珠、一層向拝上に唐破風を興しています。
朱塗りメインで華々しい印象の堂宇です。
毎月一日と十六日はアクリル扉が御開扉され、より閻魔様が拝みやすくなります。


【写真 上(左)】 御開扉時の閻魔堂向拝
【写真 下(右)】 閻魔さま

「これぞ閻魔さま」ともいえる迫力のお姿で、左手の掌上には金色の地蔵尊立像が輝いています。
上記の「お賽銭お説教」は、一聴の価値ありなのでぜひぜひどうぞ。


【写真 上(左)】 豊田鳳憬尺八塚
【写真 下(右)】 鳥塚

山内には尺八琴古流宗家・初代豊田鳳憬の「豊田鳳憬尺八塚」、鳥類殺生供養の「鳥塚」と曾我五郎の足跡石があります。
曾我五郎は歌舞伎「曾我物語」の主人公で、足跡石は歌舞伎に縁深い当山に移されたそうです。

御朱印は本堂向かって右手の寺務所にて拝受しました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「大日如来」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」と御影印。
左上に「御府内八十八ヶ所七十四番南無大師遍照金剛」の札所印。
左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
こちらは揮毫御朱印と印判御朱印を授与されますが、現在は御府内霊場専用集印帳のみ揮毫御朱印かもしれません。


■ 閻魔大王の御朱印

以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-25


■ 札所リスト・目次など
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1



【 BGM 】
■ 夏空の下 - やなわらばー


■ Erato - 志方あきこ


■Saikou no Kataomoi (最高の片想い) - Sachi Tainaka
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