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熊田このはちゃんの月光

ひさしぶりのkarastaUPです。

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熊田このはさんの月光 カラオケ動画【KARASTA(カラスタ)】

熊田このはさんの月光 カラオケ動画【KARASTA(カラスタ)】

 


熊田このは 月光 (鬼束ちひろ)


つややかで伸びのあるハイトーン。
切なさを秘めてるけど、聴く人を元気づける声色。
やっぱりこの声だ!

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このはちゃんのヒゲダン、個人的にはまってるので(笑) こちらも・・・ ↓

● Pretender / Official髭男dism(熊田このは cover)
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熊田このはさんのPretender カラオケ動画【KARASTA(カラスタ)】

熊田このはさんのPretender カラオケ動画【KARASTA(カラスタ)】

 


☆☆☆☆☆☆☆☆

The Days I Spent with You

↑ 難曲だけど、いつかは歌ってほしい。
きっと別の曲に仕上がると思う。
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■ 甲州道中桃太郎伝説御朱印巡り



山梨県東部の郡内地域は、東京から近いですが意外と御朱印がいただきにくいエリアでした。
昨年(令和元年10月7日)に、大月・上野原エリアの6箇寺からなる巡拝コースが開創され、御朱印がいただきやすくなっているのでご紹介します。
大月~上野原周辺には桃太郎の伝説が伝わっており、それにちなむ巡拝です。

御朱印対応時間は9:00~16:00。
パンフには「盆暮れ正月は対応不可」とあり、書置きをご用意されているお寺さんも多いので、お彼岸でも授与いただけるかもしれません。(ただし、授与を保証するものではありません。念のため。)
なお、先月8月に全て拝受しているので、コロナ禍のもとでも御朱印は授与されていると思います。(一時中断、6/1から再開しているようです。)

お寺間の距離はけっこうあるので、徒歩ではきびしいかもしれません。
車であれば、半日あれば結願できるかと思います。
禅宗寺院がメインで、趣きのあるお寺さんが多いです。

また、いくつかのお寺さんでは他の霊場の札所も兼務されており、そちらの御朱印も拝受できるので併せてご紹介します。
なお、郡内三十三番観音霊場は廃寺となった札所もありますが、御朱印を拝受できる札所がかなりあります。

とりあえずは基本情報と、御朱印のみです。
「甲州道中桃太郎伝説御朱印巡り」の御朱印は原則主印が桃の絵で、これに尊格の揮毫が加わるというめずらしいものです。
桃は、古来「邪気を払う」果物といわれています。
桃太郎が鬼退治をするというのも、そういう背景があったのかもしれません。

第1番
飯盛山 青苔寺
山梨県上野原市鶴島611
臨済宗南禅寺派 御本尊:薬師如来
札所:


第2番
熊埜山 西光寺
山梨県上野原市野田尻849
臨済宗建長寺派 御本尊:虚空蔵菩薩
札所:甲斐国三十三番観音札所第31番(旧長福寺)、甲斐八十八ヶ所霊場第7番


〔甲斐国三十三番観音札所の御朱印〕


第3番
龍澤山 宝勝寺
山梨県上野原市犬目930
曹洞宗 御本尊:釈迦如来・(犬目観音)
札所:甲斐八十八ヶ所霊場第6番、郡内三十三番観音霊場第23番(旧無量寺)


〔甲斐八十八ヶ所霊場の御朱印〕

・葛飾北斎「富嶽三十六景」、歌川広重「不二三十六景」は、この辺りから描いたといわれています。

〔郡内三十三番観音霊場の御朱印〕
・本堂前、「犬目観音」の御朱印よこに「郡内三十三番観音霊場第23番」の説明があったので、札所印はないですが、「犬目観音」の御朱印が霊場御朱印かと思われます。

第4番
石森山 円福寺
山梨県大月市富浜町鳥沢2117
臨済宗建長寺派 御本尊:薬師如来
札所:郡内三十三番観音霊場第22番


〔郡内三十三番観音霊場の御朱印〕


第5番
徳蔵山 妙楽寺
山梨県大月市猿橋町藤崎619
曹洞宗 御本尊:釈迦如来
札所:


第6番
中樹山 浄照寺
山梨県大月市賑岡町奥山1047
浄土真宗本願寺派 御本尊:阿弥陀如来
札所:


〔 関連サイト 〕
公式Web
大月市観光協会
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■ Vol.5 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印

2020/09/18 UP
寺院をいくつか追加しましたので、リニューアル再UPします。

2020/09/14 UP
未参拝の寺社を参拝してきましたので追記リニューアルします。

※新型コロナ感染拡大防止のため、拝観&御朱印授与停止中の寺社があります。参拝および御朱印拝受は、各々のご判断にてお願いします。

※文中、”資料A”は、「武田史跡めぐり」/山梨日日新聞社刊をさします。

2020/05/04 UP
つづきです。

■【 信玄公の戦勝祈願依頼文 】

笛吹市一宮町の慈眼寺には「信玄公の戦勝祈願依頼文」が残されています。
これは永禄十一年(1568年)信玄公が越後侵攻にあたって、信州・穂保の長沼城で、甲斐国内の真言宗・天台宗の11の諸大寺に先勝祈願を依頼されたものといわれています。
祈願先としてつぎの11箇寺が伝わっています。
〔 〕は現在の御本尊ないしは現況。

法善寺(法善護国寺)(南アルプス市) 〔阿弥陀如来、Vol.4にてご案内〕
普賢院(山梨市) 〔大井俣窪八幡神社別当・普賢菩薩〕
大野寺(御坂町の現・福光園寺) 〔不動明王〕
薬王寺(市川三郷町) 〔毘沙門天〕
大蔵寺(石和町の現・大蔵経寺) 〔不動明王〕
法光寺(甲州市)・・・現・放光寺とみられる 〔大日如来〕
明王寺(増穂町) 〔不動明王〕
天台宗の喜見寺 〔現況不詳〕
満蔵院(甲府市武田) 〔毘沙門天 or 千手観世音菩薩〕
安楽院 〔現況不詳〕
慈眼寺(一宮町) 〔千手観世音菩薩〕

この祈願ののち、信玄公は北信・飯山城の攻略に成功したため、慈眼寺には赤地金襴の七条袈裟、毘沙門天像、地蔵菩薩像と水晶の数珠が寄進されたとの記録があるようです。

↑の先勝祈願11箇寺の御本尊は、不動明王と毘沙門天が多くなっています。
そこで不動明王と毘沙門天を御本尊とする寺院を先にご紹介し、その後、Vol.6で不動明王と毘沙門天以外を御本尊とする寺院をご紹介します。

■【 不動明王 】

信玄公は不動明王を信仰されていたとされます。
菩提寺恵林寺の明王殿には、信玄公が大僧正位を受けた記念に京の仏師・宮内卿法(斉藤)康清を招き、自らの姿を模刻させて髪毛を像の胸に塗りこめたという「武田不動尊」が御座します。
信玄公の肖像や武田二十四将図には、信玄公を不動明王に模して描かれている例があります。
信玄公生誕の地である要害山城にも「武田不動尊」が祀られています。

不動明王の梵名の「アチャラ」は「動かないもの」、「ナータ」は「守護者」または「尊者」を意味し、「揺るぎなき守護者・尊者」の性格をもたれます。
右手に剣、左手に羂索を握られ、忿怒の形相をとられる力感あふれるお姿で、護摩の御本尊とされる例も多い尊格です。

身延の大聖明王寺の公式Webに、「武田信玄が護摩の本尊、弓箭(きゅうせん)の守護としてこの不動明王を深く尊崇しましたが、信玄の中にそうした勇ましい甲斐源氏の血が脈々として流れていることをよく知っていたからだと思います。」とありますが、まさにそのような流れからの不動尊信仰だったのではないでしょうか。

また、有名な信玄公の旗指物(軍旗)/孫子の旗(風林火山)に、「不動如山」(動かざること山の如し)とあるので、この「不動」の文字が不動明王と重なって、不動明王と信玄公のイメージ的なつながりが、後世さらに強まっていった可能性もあります。

以下、不動明王と信玄公とのつながりが伝わる寺院についてご紹介します。

■ 乾徳山 恵林寺



公式Web
甲州市小屋敷2280
臨済宗妙心寺派 御本尊:釈迦牟尼佛
札所:甲斐百八霊場第9番、甲斐八十八ヶ所霊場第73番
〔甲斐百八霊場の御朱印〕
朱印尊格:武田不動尊 直書(筆書)
札番:甲斐百八霊場第9番
・中央に札所本尊不動明王の種子「カーン/カン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「武田不動尊」の揮毫。
右に「甲斐百八霊場第九番」の札所印。左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
甲斐百八霊場の札所本尊は御本尊の例が多いですが、当寺では「武田不動尊」となっています。

〔令和改元記念の御朱印〕
朱印尊格:武田不動尊 書置(筆書)
札番:なし
・中央に不動明王の種子「カーン/カン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「武田不動尊」の揮毫。左上に「武田菱」の紋、中央上におそらく青龍、右上に武田家の控え紋「花菱」の紋
右下におそらく朱雀。左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
青龍と朱雀は四神の内ですが、改元にちなんでの配置と思われます。
この御朱印には「甲斐百八霊場第九番」の札所印は捺されておらず、「武田不動尊」単独の御朱印となっています。

(恵林寺の詳細については、別編でご紹介します。)
信玄公の菩提寺で「武田不動尊」が御座する、信玄公とすこぶるゆかりの深い名刹です。
「武田不動尊」は「明王殿」の奥深く御座し、拝観ができます。

当寺の資料には、「この不動明王は、信玄公が京から仏師康清を招聘し、信玄と対面して彫刻させ、信玄自らの頭髪を焼いて彩色させたもので、伝承によると、信玄は剃髪した毛髪を漆に混ぜ、自ら坐像の胸部に刷毛で塗りこめたといわれている。」とあります。
また、『甲陽軍鑑』『甲斐国志』には、信玄公の姿を写した像であるとする伝承が記されています。

『甲斐国志』巻第75原文(国会図書館DC、コマ番号70/75)
「洛ノ佛工康清ヲ召シ対面ニ彫刻セシム其與不動明王相ヒ肖タルヲ以テ螺髪結跏シテ羂索ヲ執ラシメ焼頭髪著色トス 宛然タル忿怒明王ナリ 遂ニ造 金迦羅(矜羯羅)誓多迦(制吒迦二童左右ニ侍立セシム 但し肉法ト與明王同カラス胸臂ニ長毫アルヲ為殊ノミ」

武田不動尊は左手に羂索、右手に剣、背に迦樓羅炎を背負われ、、矜羯羅、制吒迦の二童子を両脇に従えた儀軌どおりの端正なお姿ながら、力感にあふれています。

■ 大滝山 上求寺
山梨市Web資料
山梨市牧丘町倉科5919
真言宗醍醐派 御本尊:不動明王
未参拝です。参拝次第、追記します。御朱印は授与されているようです。

山梨市のWeb資料には、「本尊の不動明王は寄木造、童子像は一木造で、頭部は耳前で前後に二材を矧ぎ、童子像はほぼ全身を一材から彫出し、面部を矧いで玉眼を篏入したと思われます。面部は欠失しています。火災の光背を背負って立つ、通形の不動明王像です。上半身を強く左にひねる姿は、信玄の願主とする恵林寺武田不動尊像にみられる姿です。」
とあり、信玄公とのゆかりを示唆しています。

また、(財)歴史博物館 信玄公宝物館のWebに「倉科の上求寺の不動尊像も信玄が参拝したという。」という記述があります。

『甲陽軍鑑』品第四(国会図書館DC、コマ番号18/265)に「或時八卦の本尊不動なりとて恵林寺の奥上求寺の不動へ御まいり候由申さるゝ」とあります。
出陣前の卦の守護が不動明王とでたので、信玄公自らわざわざ牧丘・倉科の上求寺まで戦勝祈願の参拝に出向かれるということは、こちらのお不動様への帰依が篤かったとみられます。

『甲陽軍鑑』には、この後段で信玄公と恵林寺の快川和尚の交流を示す一節があります。
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大通智勝國師より使僧をたて恵林寺へ御立寄被成べく候由申さるゝ信玄公御返事に近日出陣にて候間歸陣の時分は是非共見舞致すべきとのことにて候重て快川和尚仰こされけるは両袖の櫻やうヽにて此花のもとに一所かまへ待つ奉る間御立より候へかしとかさねヽ使僧なり信玄公きこしめし花と承るにまいらぬは野なりとて恵林寺へ立よりさて國師と一禮なされそれにれうしすずり御座候土屋平八郎をめしてすずりをよせすみをすり候へと被御付其御筆と料紙をとつて則あそばしける

 さそはずはくやしからましさくら花 さねこんころはゆきのふるてら
 (誘引ずは くやしからまし さくら花 実こんころは 雪のふるてら)
 源 信玄

智勝國師此歌をとりて御覧じありてほめ給ひいただき其御短寮衆御覧しありほめて各僧達拝見ありことごとく則座にて和韻なさるゝ(中略)國師の御和韻ばかりかくの分かと承はり及候なり

 太守愛櫻蘇玉堂 恵林亦是鶴林寺
(太守櫻を愛す蘇玉堂 恵林もまた是れ鶴林寺)
 快川大通智勝國師 
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信玄公が恵林寺の奥の上求寺に参拝されると聞き、大通智勝國師(快川和尚)は使僧を遣わして「恵林寺へ立ち寄られるように」と誘われたが、信玄公は「近日出陣にて、(出陣から)帰ってのちにお訪ねいたしましょう。」と応えられました。
快川和尚は、「両袖の櫻がようやく咲きかかっているので、この花のもとに一席設けてお待ちいたします。」と重ねて誘われました。
信玄公は「櫻の花のお誘いとお聞きしてお訪ねしないのは野暮(無風流)なり。」と申され、恵林寺に立ち寄られ上の歌のやりとりとなりました。
なお、「鶴林寺」とは、お釈迦様が入滅されたお寺です。

信玄公の風流心と、和歌のたしなみを示す逸話として知られている一節です。
このときの信玄公の和歌はなかなか奥のふかいものとされ、論文(→ 武田信玄の和歌をめぐって - 恵林寺の花の歌 -)が書かれているほどです。

この論文の筆者は、「『伊勢物語』を愛し、その世界を自家薬籠中のものとした信玄は、(略)『和漢朗詠集』の漢詩、(略)『源氏物語』の(略)催馬楽の言葉まで織り込んで、巧みに当座の和歌を詠み上げた。その和歌は、信玄が『真実の国守』になるにふさわしい器量を、師である快川和尚に対して見せつけるものだった。」とまとめられています。

■ 三守皇山 長光王院 大聖明王寺


公式Web
身延町八日市場539
真言宗醍醐派 御本尊:不動明王
札所:甲斐百八霊場第100番、甲斐八十八ヶ所霊場第35番
朱印尊格:不動明王 書置(筆書)
札番:甲斐百八霊場第100番
・中央に札所本尊不動明王の種子「カーン/カン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「不動明王」の揮毫。
右上に「甲斐百八霊場第百番」の札所印。左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

長治二年(1105年)、新羅三郎義光公開基。曾孫に当たる加賀美遠光公が京で甲斐源氏秘伝の「鳴弦の術」をもって魔物を退散させた功により、高倉天皇から宮中清涼殿に御座し、弘法大師御作とも伝わる不動明王像と勅額を賜わり収めたと伝わる名刹。

皇室の繁栄や国家安泰の祈願寺として重用され、宮中からは祈祷のための勅使派遣が行われたと伝わります。
義光公の位牌や木造が祀られ、廟所もこの寺であるとされています。

寺伝には「信玄公は護摩の本尊、弓箭の守護としてこの不動明王を深く尊崇され、祈願寺の一つとして当寺に帰依された」とあります。
源氏正統系図、当時の寺領印書、朱印状、制札など数多くの文化財を擁し、義光公・加賀美遠光公・信玄公の木造および画像などが寺宝として残されています。

弘法大師御作とも伝わる不動明王像の霊験は広く知られていたらしく、江戸時代には三回にわたって当寺御本尊不動明王の江戸「出開帳」が行われたとも伝わります。
成田山新勝寺のお不動様の初回出開帳はこちらの資料によると元禄十六年(1703年)、当山の出開帳は山内掲示資料によると「元禄、宝永、安永そして昭和と過去四度、江戸(東京)に出開帳を行っている」とあるので、当山の出開帳は成田不動尊に匹敵する古さをもつことがわかります。

名刹を物語る広大な山内。寺号標には「高倉天皇 恩賜勅號 三守皇山 長光王院 大聖明王寺」とあります。
慶長三年(1598年)の大火で多くの堂宇を焼失し、現在は、本堂(護摩堂)、客殿(遍照殿)、庫裡などが残ります。
本堂、本堂外陣、庫裡は下山大工の石川杢左衛門によるものとされ(→身延町資料)、さすがに存在感を放っています。

■ 大聖金剛山 息障院 明王寺


公式Web
富士川町舂米2
真言宗智山派 御本尊:不動明王
札所:甲斐百八霊場第83番、甲斐八十八ヶ所霊場第37番
朱印尊格:大聖不動明王 書置(筆書)
札番:甲斐百八霊場第83番
・中央に札所本尊不動明王の種子「カーン/カン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「カーン/カン」の種子と「大聖不動明王」の揮毫。
右に「甲斐百八霊場第八三番」の札所印と「国指定重要文化財 薬師如来立像安置」の揮毫。左下には山号と寺号の印判が捺されています。

甲府盆地に半月形の大きな山容を見せる櫛形山は、古くは鷹座巣(たかざす)と呼ばれました。
奈良時代の天平神護年間(765年~767年)に伊豆国甲斐国に入られた儀丹行圓上人(藤原不比等ゆかりの人物と伝わる)は、鷹座巣山中の利根川上流にある大滝(儀丹の滝)で日夜苦行を重ね、不動明王の霊像を感得されました。
この御像を御本尊として宝亀元年(770年)開山されたのが明王寺と伝わります。

「平安後期から室町の頃は広大な寺域を誇り、本堂、金堂、五重塔など多くの伽藍が立ち並んでいたそうです。歴代の皇室の勅願を賜り、菊花紋の使用が許され、のちには武田・徳川の祈願寺となり、甲斐の真言七談林の一つです。」(『甲斐百八霊場』より)

永禄十一年の「信玄公祈願先11箇寺」に「明王寺(増穂町)」としてその名がみられ、信玄公の祈願寺の役割を担っていたものとみられます。

甲斐有数の名刹を裏づけるように、「薬師如来立像」(平安初期)「鰐口」(鎌倉時代前期)の寺宝は国重要文化財に指定されています。

■ 大野山 福光園寺



まちのお寺の学校Web
笛吹市御坂町大野2027
真言宗智山派 御本尊:不動明王
札所:甲斐百八霊場第40番
朱印尊格:不動明王尊 印判
札番:甲斐百八霊場第40番印判
・中央に札所本尊不動明王の種子「カーン/カン」の御寶印(火焔宝珠)と「カーン/カン」の種子と「不動明王尊」の印判。
左上に「甲斐百八霊場第四十番」の札所印。左下には山号と寺号の印判と寺院印が捺されています。

古代から栄えた八代郡にある古刹。
創建時期は不明ですが、かつては駒岳山 大野寺と号しました。
山内の観音堂に御座す「香王観音立像」は行基(668年~749年)の作と伝わるので、創建は奈良時代に遡るのかもしれません。

〔山内由緒書より〕
「当寺は推古天皇、御代聖徳太子の創立で行基菩薩が当山に錫を留められ香王観音を彫刻し、仏法結縁の霊場とされた。其の後、弘法大師が留錫され、佛像・教典の名寶を遺された希有の古刹であった。」

平安時代後期の保元二年(1157年)にこの地の領主であった大野対馬守重包により再興とされ、重包を中興開基、賢安上人を中興開山としています。

この地は爾来、甲斐の在庁官人・三枝氏の支配地で、国重要文化財指定の「木造吉祥天及び二天像」は、鎌倉時代の寛喜三年(1231年)に中興三世の良賢を勧進、三枝氏を檀越とし、仏師・蓮慶(運慶の弟子)の作とされています。
坐像の吉祥天は、全国的にもすこぶるめずらしいものです。

永禄十一年の「信玄公祈願先11箇寺」に「大野寺」としてその名がみられ、信玄公の祈願寺の役割を担っていたものとみられます。

御坂の地は、『聖徳太子伝暦』にも「甲斐の黒駒伝承」が記され、当寺にも「甲斐の黒駒」に関する伝承が伝わっているようです。
中世も「御坂牧」「黒駒牧」として軍馬の補給地になっていたとみられ、その点からも戦勝祈願の地として選ばれたのかも知れません。

樹齢900年といわれる杉や樹齢200年の枝垂桜やソメイヨシノが枝を広げて、趣きのある境内。
甲斐百八霊場第40番の札所でもあり、御朱印は庫裡にて快く授与いただけました。

■ 松本山 大蔵経寺



公式Web
笛吹市石和町松本610
真言宗智山派 御本尊:不動明王
札所:甲斐百八霊場第3番、石和温泉郷七福神(寿老人)
朱印尊格:不動明王 直書(筆書)
札番:甲斐百八霊場第3番印判
・中央に札所本尊不動明王の種子「カーン/カン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「不動明王」の揮毫。右上に「甲斐百八霊場第三番」の札所印。左には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

奈良時代の養老六年(722年)、法相宗の行基菩薩を開祖として創建と伝わる甲斐有数の古刹。
かつては松本寺と呼ばれた大寺院で、山内に物部神社を鎮守として勧請したといい、弘法大師が不動明王を彫られ納められたという伝承もあるようです。

応安三年(1370年)、足利三代将軍義満公の庶子、観道上人が中興開山として入山の際、義満公が甲斐の守護武田信成公に命じて七堂伽藍を建立。この中興開山の折から武田家祈願寺になりました。
五層の宝塔を建て、大蔵経を奉納したのが寺号の由縁とされます。

永正十三年(1516年)9月、信虎公と駿河勢との「万力の合戦」にて焼亡、その後復興されました。
永禄十一年(1568年)の信玄公の「先勝祈願11箇寺」のひとつで、「大蔵寺」の寺名で記録されています。

当寺には、川中島合戦にあたり信玄公が戦勝祈願をされたという将軍地蔵菩薩像が祀られています。
御本尊の不動明王座像は伝智証大師作とされ、矜羯羅・制多迦両童子を脇侍に力感あふれるお姿です。

庭園・現代仏画の拝観には拝観料が必要ですが、札所の参拝には必要ありません。
背後に大蔵経寺山を背負って落ち着きのよい山内。
甲斐百八霊場、石和温泉郷七福神の札所であり、御朱印は快く授与いただけました。

■ 法性山 玄法院



甲府山の手七福神巡礼Web
甲府市天神町2-18
真言宗醍醐派 御本尊:不動明王
札所:山の手七福神めぐり(福禄寿)
〔御本尊の御朱印〕
朱印尊格:不動明王 直書(筆書)
・中央に札所本尊不動明王の種子「カーン/カン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と揮毫と「不動明王」の揮毫。
左上に「法性不動尊」の印判。
左下には「甲斐古府中」と山号・院号の揮毫と寺院印が捺されています。

建久三年(1192年)創立の真言宗醍醐派の修験寺。
寺伝によると、大永年間(1521年~)、信虎公が巨摩郡下黒沢村(高根町)から府中峰本(甲府市相川地区)に移され、信玄公の法名「法性山機山信玄」から山院号を賜り法性山玄法院と称し、武田家三代領主が本尊不動明王に戦勝祈願をした寺とのことです。

「武田家滅亡後は、徳川幕府より現在地の御領を賜り寺を移築し、真言宗醍醐派京都三宝院の末として当山派修験の法流を現在につなげています。」(寺伝)とあり、保守本流?の当山派修験寺であることがわかります。

みずからの法名を賜るというのは、よほど崇敬が篤かった証とも思われ、信玄公の不動明王への信仰の篤さが伺われます。

甲州夢小路の「時の鐘」は、当寺の鐘楼を模し、残されていた写真・鳥瞰図・礎石を基に再現されています。
の外壁といった仕様で、忠実に再現されています。

天神町の住宅街の路地に面しますが、山内は意外に広さがあり、車も停められます。
門柱の寺号標には武田菱と「法性山 玄法院」の刻字。
右手に銘木「玄法院のイチョウ」と稲荷大明神、左手に金毘羅大権現と福禄寿尊が合祀されたお堂と修行大師像。
山梨県立図書館の情報によると、「1533(天文2)年、玄法院の第八代住職が四国讃岐の金毘羅宮にお参りして、その分岐したものを湯村山城の守護神としたと言われる。」とあるので、そちらの金毘羅宮さまとゆかりがあるかもしれません。

狛犬一対、灯籠一対、本堂右手にお前立ちとみられる石造立像の不動明王。
正面扁額は「不動明王」で、開け放たれた堂内には御本尊のお不動さまと護摩壇。いかにも修験寺らしいイメージがあります。

御朱印は本堂向かって右手の授与所にて拝受しました。
修験寺は総じて猛々しいイメージがあるのですが、意外と御朱印対応がフレンドリーなお寺さんが多く、こちらでもご親切なご対応をいただきました。

このほか、甲斐市竜地の武田社にも信玄公ゆかりの「武田不動尊」が祀られています。
甲府市元紺屋町の行蔵院の御本尊も「武田不動尊」と称され、御朱印も授与されていますが、こちらは山本勘助とのゆかりが伝えられているので、山本勘助編でご紹介します。

■ 龍本山 松井田院 不動寺



群馬県安中市松井田町松井田987
真言宗豊山派 御本尊:千手観世音菩薩
札所:北関東三十六不動霊場第4番、関東八十八箇所第2番、上州三十三観音霊場第21番、上野之國三十四カ所観音霊場第13番


〔北関東三十六不動霊場の御朱印〕
朱印尊格:不動明王 直書(筆書)
札番:北関東三十六不動霊場第4番
・中央に札所本尊不動明王の種子「カーン/カン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「不動明王」の揮毫。
右上に「北関東三十六不動霊場第四番」の札所印。左下には院号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


〔関東八十八箇所の御朱印〕
朱印尊格:千手観音 直書(筆書)
札番:関東八十八箇所第2番
・中央に千手観世音菩薩の種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+宝珠)と「千手観音」の揮毫。右上に「関東第二番」の札所印。左上に霊場開創二十周年の記念印。
右下に院号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


〔上州三十三観音霊場の御朱印(御朱印書入/専用納経帳)〕
朱印尊格:千手大悲閣 直書(筆書)
札番:上州三十三観音霊場第21番
・中央に千手観世音菩薩の種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+宝珠)と「千手大悲閣」の揮毫。
右上に「上州第二十一番」の札所印。
右下に院号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
専用納経帳は、片面に御詠歌が印刷されています。

西毛の名山、妙義山を望む高台に位置し、複数の霊場札所をつとめられる上州の名刹。
複数の霊場ガイドブックに「元亀天正年間に武田信玄公により寺領を賜り」とあり、山内の縁起碑には「元亀・天正年中、武田信玄公不動尊ノ帰依篤く、寺領ヲ賜リ租税ヲ免状シ武田家祈願所ト為ス」と記されています。
また、寺宝として「武田家書状」が所蔵されています。

御本尊は千手観世音菩薩ですが、安中市のWeb情報に「慈猛上人が立ち寄った雷雨の夜、松に大龍が登り、その下に井戸の形の清水が湧いた。そこで不動尊を安置、松井田院と名付けた。松井田の里のいわれという。」とあり、寛元元年(1243年)の慈猛上人による開山時に、すでに地名のいわれとなるような著名な不動明王が祀られていたことがわかります。

慈猛上人は後深草天皇より「留興長老」の号を賜わった高僧で、下野の薬師寺の上座(長老)、下野国司も務められたと伝わります。

当地の城、松井田城は永禄七年(1564年)武田氏の攻勢で開城し、武田氏滅亡までその支配下にありました。
『上野志』(国会図書館DC、コマ番号20/226)に「安中左近将監忠成、騎馬高百十八騎、武田信玄公へ降参。安中の城本領共に甘利左右衛門妹壻に仰せ付けられ候。信州・美濃信玄軍場に詰むるなり。」とあります。

松井田・安中一帯は安中市の領地で、武田氏進出ののちは安中左近将監忠成(景繁)が
信玄公の家臣、甘利左衛門尉(信忠)の妹を娶って武田勢の麾下に入り、信州、美濃方面へ出陣しています。

同寺に伝わる「武田家書状」、あるいは「祈願所」とした日付は定かではありませんが、永禄七年(1564年)以降、松井田・安中周辺は信玄公の支配下にあり、その頃の事柄と考えられます。

江戸時代、十五世秀算僧正は徳川家康公の命により、総本山長谷寺の第四世能化となられ、家光公からも朱印地八十九石余の寺領を拝領したという高い寺格の寺院です。

三門右手の年季入った看板には「北関東三十六不動霊場第四番、上野国観音霊場第十三番」の札所案内。
参道左手の覆堂内に異形の板碑、正面の仁王門(三間一戸切妻造柿葺単層八脚、阿吽二体の仁王像安置)ともに県指定重要文化財です。
仁王門の大棟に三つ置かれた菱紋は武田菱にも見えますが、どうでしょうか。

右手六地蔵の先、参道両側に不動明王三十六童子。階段を昇ると正面が不動堂、左手が本堂です。

本堂は入母屋造銅板葺向拝付で、欄間の龍の彫刻、木鼻の獅子の彫刻ともなかなかの迫力です。
御本尊千手観世音菩薩が御座し、右手の向拝柱に「関東八十八ヵ所霊場第二番」、左手に「上野国順禮札所第十三番」の札所板が掲出されています。

不動堂は入母屋造桟瓦葺向拝付で、大棟、降棟の意匠が見事。向拝欄間の彫刻も手が込んだもの。右手の向拝柱に「北関東三十六不動尊霊場第四番札所」の札所板。

不動堂に御座す不動明王は、鎌倉時代初期、中央仏師の作と推定される精巧なお像で、県重要文化財に指定されています。

御朱印は、北関東三十六不動霊場、関東八十八箇所、上州三十三観音霊場の3種を拝受しています。(上野之國三十四カ所観音については授与不明です。)
メジャー霊場の札所につき、御朱印授与は手慣れたご対応です。

【 毘沙門天 】
毘沙門天は、仏教では天部の仏神で、持国天、増長天、広目天とともに四天王の一尊に数えられます。

四天王は帝釈天に仕え、須弥山の中腹で仏法を守護する役割を担われています。
東方を持国天、南方を増長天、西方を広目天、北方を多聞天(毘沙門天)が守護しています。
単独で祀られることも多く、その場合は毘沙門天と呼ばれ、四天王の一尊や二天門で持国天とともに祀られる場合は多聞天と呼ばれます。
七福神の一尊でもあり、この場合は毘沙門天と呼ばれます。

梵名はヴァイシュラヴァナ。
これは「よく聞く」を意味し、「お釈迦様の説法をもっともよく聞かれた(尊格)」からきているようです。(”多聞天”はここからきているとされる。)
また、クベーラ(インド神話の富と財宝の神)と同体とされ、もともと財宝神の性格をもたれています。

「軍神」という性格は、「多聞天は四天王のリーダー格」「四天王のなかでもっとも強い」という説があり、ここから来ているのかもしれませんが、これは「軍神」の性格が確立されてから後に付会されたものかもしれません。

むしろ、毘沙門天が仕える帝釈天は、戦いの神インドラと同一であり、毘沙門天は夜叉や羅刹といった鬼神を眷属として従えるという立場から、「軍神」のイメージが定着していったのではないでしょうか。

わが国では、信貴山(朝護孫子寺)において聖徳太子が戦勝祈願をされ、毘沙門天王から必勝の秘法を授かり勝利されたという逸話が有名で、以来、毘沙門天=軍神信仰が広まったとされる説があります。
いずれにしても、軍神と財宝神の両面をもたれるすこぶる強力な尊格といえましょう。

戦国武将で毘沙門天信仰の例は少なくないですが、なかでも上杉謙信公が有名で、軍旗にも「毘」の文字をつかわれていました。

信玄公も毘沙門天をふかく信仰されたと伝わります。
「川中島の戦い」は軍神・毘沙門天を信仰する両雄の戦いともいえ、両者譲らぬ激しい戦さとなったこともうなづける感じがします。

信玄公は軍陣の守り本尊として刀八毘沙門天像を信仰されていましたが、この尊像は、現在円光院に所蔵されています。(Vol.3を参照願います。)
また、武田神社内に掲出されている「(躑躅ヶ崎館)東・中曲輪平面想像図」には、館の東北に不動堂と毘沙門堂が掲載され、躑躅ヶ崎館で日頃から両尊の供養がおこなわれていたことがわかります。

信玄公ゆかりの毘沙門天は、ほかにもいくつか伝わります。

■ 徳和山 吉祥寺



公式Web
山梨市三富徳和2
真言宗智山派 御本尊:毘沙門天
札所:甲斐百八霊場第7番、甲州東郡七福神(毘沙門天)
朱印尊格:毘沙門天 直書(筆書)
札番:甲斐百八霊場第7番印判
・中央に札所本尊毘沙門天の御紋印と種子「ベイ」と「毘沙門天」の揮毫。
右上に「大百足」の印。右下に「甲斐百八霊場第七番」の札所印。左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

もともと武田氏と毘沙門天のゆかりはあったらしく、武田信光公は承元年間(1207年~1210年)、甲斐源氏守護のため乾徳山のふもとに吉祥寺を建立し、御本尊として毘沙門天を安置されました。
この堂宇は永禄八年(1564年)に信玄公によって再興され、これを示す当時の棟札がいまも寺に保存されていることからも、信玄公の毘沙門天信仰が伺われます。

〔山内掲示/本堂永禄八年再興棟札〕
「大檀越源朝臣晴信奉為武運長久再興之 伏願 家門繁栄武門長久至祝至檮 敬白」

吉祥寺周辺は武田軍の伝令隊としてその名を馳せた「武田百足(むかで)衆」の本拠地で、吉祥寺内陣の欄間には2m以上もある大百足の彫刻があります。
「武田百足衆」を率いた真田兵部丞昌輝は武田二十四将の真田信綱の弟で、武田二十四将に数えられる例もあります。

■ 河浦山 薬王寺





(公社)やまなし観光推進機構Web
市川三郷町上野199
高野山真言宗 御本尊:毘沙門天
札所:甲斐百八霊場第95番、甲斐国三十三番観音札所第1番、甲斐八十八ヶ所霊場第28番、甲斐西八代七福神(恵比寿)
〔甲斐百八霊場の御朱印〕
朱印尊格:毘沙門天王 書置(筆書)
札番:甲斐百八霊場第95番
・中央に毘沙門天の種子「ベイ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「毘沙門天王」の揮毫。
右上に「甲斐百八霊場第九五番」の札所印。左には山号の揮毫と寺院印が捺されています。

〔甲斐国三十三番観音札所の御朱印〕
朱印尊格:十一面観世音菩薩 書置(筆書)
札番:甲斐百八霊場第62番
・中央に種子「サ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。こちらの札所本尊は十一面観世音菩薩とみられますが、十一面観世音菩薩の種子「キャ」ではありません。
観音霊場発願寺につき、聖観世音菩薩の種子「サ」の御寶印をつかわれているのかもしれません。
中央に「十一面観世音」の揮毫。
右上に「甲斐観音第一番」の札所印。左には山号の揮毫と寺院印が捺されています。

〔甲斐西八代七福神(恵比寿)の御朱印〕
朱印尊格:恵比寿大神 書置(筆書)
札番:甲斐西八代七福神第5番(恵比寿)
・中央に恵比寿神ゆかりの持物「鯛」の印と「恵比寿大神」の揮毫。
右上に「甲斐西八代七福神第五番」の札所印。左には山号の揮毫と寺院印が捺されています。

天平十八年(746年)、聖武天皇の命により行基菩薩が自ら多聞天像を彫刻し安置したのが始まりとされる古刹。観全僧都の開山とも伝わります。
天長九年(832年)に淳和天皇から、天治元年(1124年)には源義清公からの寺領の寄進の記録が残ります。
中世は武田家から信仰され、とくに信玄公は毘沙門天への帰依篤く、当寺で度々戦勝祈願が行われ、十二天画像や川中島合戦の図などが寄進されています。

御坂山塊が芦川に向けて山裾を落とす複雑な地形に位置し、Pは山内中腹にあるので、表参道から入山するには一旦降りるかたちになります。

複数の札所を兼ねられ、入口に札所を示す石碑があります。
急な階段の上に構える山門は入母屋瓦葺三間一戸の八脚門で風格があります。
めずらしいオハツキイチョウは、国指定の天然記念物に指定されています。
山内左手に甲斐西八代七福神(恵比寿)の御座。

正面の桟瓦葺の建物は、向かって右手が本堂、中央が客殿(八之宮良純親王御座所)、左が庫裡で、入母屋造だと思いますが、客殿は唐破風向拝、庫裡玄関は千鳥破風で棟が連続しており、正確な様式・規模はよくわかりません。

本堂右手のお大師様の前を進むと、観音堂があり、こちらは甲斐国三十三番観音札所第1番の発願所となっています。こちらの札所本尊の十一面観世音菩薩は、もともと町屋にあった大眞寺の御本尊で、明治初期の大眞寺火災ののち、本寺である薬王寺に観音堂を建立し安置された(戦後に再建安置)とのこと。


客殿の上段の間には、八之宮良純親王御座所(御座の間)の一部が保存されています。
親王は、後陽成天皇の第八皇子で京都知恩院の門跡となりましたが、寛永二十年(1643年)故あって甲斐に流され、明歴元年(1655年)から5年間当寺に居住されて後、京に戻られました。
親王が起居されたことからも、寺格の高さが伺われます。

現在、3つの現役札所を兼ねておられ、御朱印は手慣れたご対応にて拝受できます。

南側に隣接して東照宮が鎮座します。
甲斐国の要所、市川郷への東照宮鎮座はいささか不思議な感じもしますが、市川の表門神社は、天正十年(1582年)、家康公甲斐入国の折に本陣が置かれて武運長久を祈願され(御陣場御宮)、慶長十四年(1609年)、徳川幕府により社殿が寄進されているので、そちらとの関連があるのかもしれません。(市川三郷町資料より)

■ 宝塔山 吉祥寺 多聞院





埼玉県所沢市中冨1501
真言宗豊山派 御本尊:金剛界大日如来
札所:奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第36番
〔御本尊の御朱印〕
朱印尊格:大日如来 直書(筆書)
・中央に三つの宝珠と火焔を合わせた印。御本尊金剛界大日如来の種子「バン」の種子と「大日如来」の揮毫。
右下に「毘沙門天多門院」の印。左には「三富総鎮守 毘沙門天」の揮毫と寺院印が捺されています。

〔毘沙門天の御朱印〕
朱印尊格:毘沙門天 直書(筆書)
・中央に三つの宝珠と火焔を合わせた印。毘沙門天の種子「ベイ」と「毘沙門天」の揮毫。
右に「武田信玄公守本尊」の印。左には山号・印号の揮毫と寺院印が捺されています。

〔奥多摩新四国霊場の御朱印〕
朱印尊格:不詳(不動明王) 専用納経帳に捺印
札番:奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第36番
・中央に種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。こちらの札所本尊は不動明王とみられますが、不動明王の種子「カーン/カン」ではありません。五大明王の種子が「キリーク」なので、そちらの御寶印をつかわれているのかもしれません。揮毫(印刷)は不明ですが、「本尊」と「不動」の文字は読み取れます。
左上に御椅子御坐された真如親王様のお大師様の御影。右上に土佐國獨鈷山青龍寺にちなむ御影。右に「奥多摩新四国第三十六番」の札所印。左に多門院の山号印と青龍寺の寺院印が捺されています。
※こちらの札所は当初瑞穂町長岡の開山所内に安置されていましたが、「2013年に多聞院に移管され開眼法要が行なわれた。」との情報があります。(→情報元

埼玉県所沢市にある多門院には、信玄公ゆかりとされる毘沙門天が祀られています。
この地は江戸時代、川越藩主の柳沢吉保が新田開拓をおこなったところで、吉保は開拓農民の菩提寺多福寺を祈願所として、毘沙門社を建立しました。

寺伝では、毘沙門堂(社)後本尊の毘沙門天は信玄公の守り本尊で、信玄公が戦陣に臨まれるときはいつも兜の中にこの像を納めていたと伝わります。
「信玄公の戦陣守り本尊である毘沙門天像は、甲斐源氏の末裔を称した柳沢吉保の手に渡った」という伝承があり、その伝承ゆかりの御像とみられます。

はじめて参拝したときはこの由来を知らなかったので、境内で武田菱と「信玄公守り本尊」ののぼりを目にしたときは正直おどろきました。(武田軍は吉見の松山城を落としていますが、所沢までは侵攻していないはず。だからこの地に信玄公ゆかりの寺院があるのはナゾでした。)
境内で↑の寺伝を確認、川越藩主の柳沢吉保ゆかりということで納得がいきました。

このほか、塩山(甲州市)の熊野神社には、信玄公の寄進とされる「紙本著色刀八毘沙門天像図」が伝わり、これは信玄公が躑躅ヶ崎館で崇拝されていたものとされています。

~ つづきます ~

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目次
〔導入編〕武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.1 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2A 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2B 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.3 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.4 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.5 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.6 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.7~9(分離前) 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
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秋向きのBCM(Black Contemporary Music)

2020/09/14 UP

情報&コメントを追加しました。

2020/09/11 UP

古い記事ですが、このところ、秋向きの洋楽10曲!のアクセスをけっこういただいているので、BCM(Black Contemporary Music)版もつくってみました。

例によって、思いつくままのリストです。
夏-UP曲、冬-バラードのイメージがあるので、安直にMid系でグルーヴ感のあるものを集めてみました。
BCMが打ち込みやサンプリングに染まる前(1983年以前)、そしてグループ(Selfcontained Group)に限定しました。
マニアックですみません(笑)


01.The B. B. & Q. Band - (I Could Never Say) It's Over
〔 From 『All Night Long』(1982)

正式名はThe Brooklyn, Bronx & Queens Band。
10.のChangeと同様、Jacques Fred Petrus & Mauro Malavasiのイタリア人プロデュースによるディスコ・ユニット。
この並はずれた洗練感は、ユーロ系ならではかも。
'80年代初頭のディスコでブレークしたOn the Beatが代表曲とされるが、ALBUM曲も粒ぞろい。これは2ndALBUMからのミディアムチューン。
UP曲だけでなく、MidもSlowもいけるのが、このあたりのディスコ・ユニットの凄いところ。

02.The Manhattans - You Stand Out
〔 From 『Black Tie』(1981)

「Kiss and Say Goodbye」「Shining Star」のヒットで知られるコーラス・グループ。
これは、『Black Tie』(1981)A-2収録のミディアムチューン。Manhattansのコーラスはどれも哀愁ただようが、これも例外ではない。この時代らしい音の隙間感が絶妙。
しかし、「Shining Star」(1980)、”夢のシャイニング・スター”の邦題タイトルで日本でもシングルカットされてたって、いまからするととても考えられず。
こんなナイステイクもあるよ。→ The Way We Were / Memories

03.Tavares - Us And Love (We Go Together)
〔 From 『Words And Music』(1983)

5人全員がリードをとれる兄弟グループ。「A Penny for Your Thoughts」「Words And Music」などKenny Nolanの華麗な楽曲が、彼らのたたみかける甘いファルセット・コーラスと調和して珠玉。
これは1983年の名盤『Words And Music』のラストを飾る曲。しかし、こんな素晴らしい名盤を最後に活動(ALBUMリリース)休止って、あまりに惜しすぎる。

04.Switch - Love Over And Over Again
〔 From 『This Is My Dream』(1980)

1974年Ohioで結成されたSelfcontained Group。
DeBarge兄弟にPhillip Ingramがメンバー参画って、悪かろうはずなし・・・(笑)。
これは『This Is My Dream』(1980)のA-2曲で、後半のリードのファルセットがエモすぎ。
ハンド・クラッピング的な軽めのリズム、チョッパーベースにフェンダーローズっぽい鍵盤リフは、あまりにこの時代すぎる。
この名グループも1984年の『Am I Still Your Boyfriend?』がいまのところ最後のALBUMとなっている。ど-して??

05.T-Connection - Heaven In Your Eyes
〔 From 『Everything Is Cool』(1981)

個人的にかなり気に入っているバハマ出身のファンク・グループ。
聴いたことあるのは1978年の『T-Connection』から1984年の『Take It To The Limit』までの6枚だが、どれも名盤揃いで、リード、コーラスとキレのあるインストのバランスが絶妙。
これは、『Everything Is Cool』(1981)からのミディアム・チューン。
Drums、Yogi Horton!
ややエフェクト過剰な気もするが、彼らならではの洒落っ気あるサウンドが堪能できる。
この名グループも1984年の『Take It To The Limit』がいまのところ最後のALBUMとなっている。いったい何が起こったの??

06.L.T.D. - Shine On
〔 From 『Shine On』(1980)

New Yorkを本拠に活動したSoul/Funk/Disco Band。
なんといってもLeslie Wilsonのリード・ヴォーカルが聴きどころで、↑もLeslie Wilsonだと思う。(Jeffrey Osborneかも・・・。)
1983年の名盤『For You』のタイトル曲「For You」のLeslie Wilsonの気合いの入り方はハンパじゃない。
しかし、このグループもこの名盤を残して、1999年の『Marry You』までALBUMリリースがない。
でもって『Marry You』がいまのところ最後のALBUM。(こんなのばっかし(笑))

07.The Chi-Lites - Making Love
〔 From 『Bottom's Up』(1983)

結成は1959年に遡るChicagoのSoul/Funk Group、シャイ・ライツ。
この頃は彼らもソフィスティケートされたサウンドをつくりだしていた。
ファルセットというより地声が勝ち気味のハイトーンで、リードの色気のあるビブラートがよく効いている。
ながい活動歴をもつ彼らも、1984年『Steppin' Out』を最後に年1枚ペースのALBUMリリースに終止符を打っている。
(1990年の『Just Say You Love Me』、Ichiban Records(勢いを失ったAORやBCMが最後の拠り所としたマイナーレーベル)からのリリースは涙をそそる。)

08.Brick - Babe
〔 From 『Summer Heat』(1981)

Brickも個人的には好きなグループ。'70年代中盤にAtlantaで結成。
当時、DanceとJazzが入りまじったフォーマットを”Dazz”と呼んだが、その代表的なグループだと思う。
なんといっても抜群のグルーヴ感が魅力。甘くハスキーなヴォーカルも聴きどころかと。
この名盤のあと、さらに名盤『After 5』(1982)をリリース、1988年にもう1枚リリースして以降はALBUMリリースが確認されていない。

09.Lakeside - Real Love
〔 From 『Untouchables』(1983)

オハイオ州Daytonで結成されたSelfcontained Groupの代表格で、'80年代前半はけっこうビルボードにチャートインしていた。
メロディのあとをリズムが追っかけていくような独特な曲調は、個人的にはツボ。シンフォニックなOtis Stokesのキーボードとあいまって、ブラコン界のプログレバンドだと思っている(笑)
洗練感はさほどないけど、ヴォーカルとインストが一丸となってたたみかけてくるエモーショナル感はただごとじゃない。

10.Change - Angel
〔 From 『This Is Your Time』(1983)

個人的にはもっとも好みのBCMユニットのひとつ。
01.のThe B. B. & Q. Bandと同様、Jacques Fred Petrus & Mauro Malavasiのイタリア人プロデュースによるディスコ・ユニット。
洗練感だけみれば、おそらくThe B. B. & QBandやHigh Fashionを凌駕している。
これは、名盤『This Is Your Time』(1983)からのミディアム曲で、2:39~のsaxソロ、3:40~のピアノのフレーズどりなど、いま聴き返してもはっとさせられる。
1980年から1985年まで年1枚ペースでリリースされた6枚のALBUMは駄作なしで、UPもミディアムもバラードも非の打ちどころがない。(たとえばUPだと → こういうの(The Very Best In You)。)
2010年、イタリアのみでリリースされた7枚目の『Change Your Mind』を最後にALBUMリリースは確認されていない。

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〔関連記事〕
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■ 1983年洋楽ピーク説(名曲編)
■ グルーヴ&ハイトーン (グルーヴってなに・・・?)
■ 1980年代中盤の夏ソング
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台風

2019-09-12 01:11 UP
気がついたら凄い雨音。
雨粒の大きさがハンパじゃない。

雨雲レーダー → こちら
うひょ~、東京から埼玉にかけてまっ赤(時間雨量80mm以上)じゃん。

東海沖の熱帯低気圧、これ、もうほとんど台風でしょ。
まだ若いし、雲形締まってるし、それに日本の上に秋雨前線いるし・・・。
局地的だとは思うけど、豪雨&突風に要警戒だと思います。

2019-10-13 09:48UP

今回被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。
また、一日も早い復旧をお祈り申し上げます。
救援・救護に当たられている方々には頭が下がります。
くれぐれも安全に気をつけて作業にお当たりください。

おそらく955hPa程度で西伊豆に上陸し、町田、埼玉西南部、つくば市付近を通過、首都圏の人口密集地が台風の進路右側(東側)に入る最悪のコース。(→進路データ
上陸時945hPa以下の勢力だったら、首都圏が壊滅していた可能性さえある。

台風は、雨雲を列状に伸ばすレインバンドという雨域をもつが、今回はそれとは違って巨大で活発な雲域を北側(進行方向サイド)に伴っていた。
まるで、前面にひとつ前衛の台風を伴っているかのようだった。
南アルプス、箱根、丹沢、奥多摩、秩父、西上州、安蘇、茨城などの南東斜面に台風からの南東風がぶつかり、総雨量500mm~1,000mm超にも及ぶ広範囲の豪雨となった。

山間豪雨型の台風でもあったので、支流を集める大河川の氾濫、堤防決壊が相次いだ。
千曲川の源流は奥秩父や西上州。台風の進路から外れていたエリアでも、上流が豪雨に見舞われればこういう事態になってしまう。
被災エリアがあまりに広すぎて全容がつかめていないが、被害はさらに広がる可能性がある。

メディアは台風が来てから「数十年に一度」を連発してたが、やっぱり遅すぎでしょ。(↓に書いたとおり。)
だって、ふつうに数日前から予想できたから・・・。

都市開発が進み、以前は人が住んでいなかった低地や海沿いも住宅地になっているのだから、人的な被災リスクはむしろ高まっている。
国土強靱化(ナショナル・レジリエンス)を早急に進めなければならないと思うし、その財源としてMMT(現代貨幣理論)議論も活発化するかもしれぬ。


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2019-10-12 08:30UP

えらいことになりました。
進路予想図によると、本日18時には石廊崎の西南西 約30kmで945hPa(最大瞬間風速60m/s)、0時には上陸して960hPa(最大瞬間風速55m/s)だから(予想データ)、
945hPaか若干弱まった程度(最大瞬間風速55~60m/s)での上陸を示している。
だから先日の台風15号より強い勢力での上陸が予想されているということ。

問題は進路。
↑によると、1.駿河湾コース、2.相模湾コース、3.東京湾コース、4.房総半島上陸コース の4パターンが考えられるが、どれをとるかによって被害(と被災エリア)が大きく異なると思う。
前回15号は3.東京湾コースだったが、西側の伊豆半島・三浦半島より、東側の房総半島のほうがはるかに被害が多かった。
↓に書いたとおり、台風の東側(右側)は風が強くなる傾向があるため。(「危険半円」という言葉もある。)
1~4で、それぞれ台風の東側(右側)に入るエリアがちがうので、これにより被害(と被災エリア)が大きく異なるということです。

被害については、仮に945hPaで上陸した場合、関東では空前絶後なので想像がつきません。
逐一メディアでご確認をお願いします。

メディアでは、「昭和33年の狩野川台風に類似」と報じられているが、神奈川県東部に上陸したときの中心気圧は960hPa。
945hPaでの上陸となると、勢力はそれよりかなり強い。
だから、暴風や高潮の被害は狩野川台風より深刻化する可能性もあるのでは?
(雨台風ということもある(大雨への警戒喚起)が、関東にこれほどの強い台風は来たことがないので、関東上陸の強い台風として引き合いに出されているのかも。大雨・暴風・高潮の3点セットということでは、むしろ伊勢湾台風(930mbで上陸、昭和34年)に状況が近いのでは・・・?)

なお、雨雲の降雨の状況はこちら(雨雲レーダー)で確認できます。

被害が最小限で留まるよう、ただただ祈るのみです。


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2019-10-11 09:28UP

台風19号、西寄り進路を保ったまま。このままいくと首都圏直撃の最悪コースか?
台風もそうだが、今回、北東の高気圧の罪が重い。

今朝のワイドショー関係、「史上最強クラス」とか、「10mの高潮」とか、「高層ビルでは風速100m」とか、一気にヒートアップ。なにこれ・・・。

仮に940hPaで上陸したとすると、1951年からで史上10位(ランキング)、ただし、それ以前に911.6hPaの室戸台風、916.1hPaの枕崎台風などがある。
ただし、これらはすべて西日本、東日本では統計上からも「史上最強クラス」となるので表現がむずかしいところだが、昨日から940hPaは予想されてたし統計データだって調べればすぐわかるので、専門知識はなくとも「(東日本では)史上最強クラス」という予想は打てたはず。

今回、どういう被害が出て、どういう初動がとられるかはわからないが、事前のマスコミ報道の内容は問われるかもしれない。

現時点で、東寄り・房総沖に逃げるコースは紙一重で残っている。
なんとか、このコースとなることを祈るのみです。


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2019-10-11 02:32UP

台風19号、こいつはやばい。
おととい(10/9)、一旦東向きに転向しかかったかに見えたが、その後進路を西寄りに戻しやがった。
おそらく、北東にいる高気圧が頭をおさえているためだと思うが(天気図)、こうなると、東寄り・房総沖に逃げるコースはもはや望み薄か?
しかも現時点の中心気圧920hPaって、本当にやめてほしい。

さきほど(10/10夜)のいくつかのニュース、「今年最強クラス」ってなんぼなんでも表現よわすぎでしょ。
すくなくとも「ここ数十年来で最大級」くらいの表現でもいいくらいのブツでは?
それに「台風15号と同程度の暴風」って、進路や勢力の変化にもよるけど、予想データからすると「台風15号以上の暴風となるおそれ」では?
TV局には気象予報士もたくさんいるだろうに、もっと表現に気をつかってほしい。
(今回、気象庁や日本気象協会は早い段階から、「めったにない大雨や暴風」というかなり強い表現を使っていた。このニュアンスがどれだけ世間に伝わっているか・・・。)

衛星画像の雲がみたこともない異様な立体感をもっている。
これって、もの凄く発達した積乱雲では?
これがかかったらおそらくハンパじゃない豪雨になると思うし、雲域の広さからしてこれが長くつづく。
大潮と重なるし、直撃されたら高潮あぶないと思う。

どこかで2度目の転向を図り、高気圧を押し込んで(考えにくいけど)、房総沖に逃げるコースとなることをただただ祈るのみです。

絢香 - 手をつなごう


薬師丸ひろ子 時代 (2013年10月)



【台風15号 2019-09-08~09】
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2019-09-22UP

今回被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。
また、一日も早い復旧をお祈り申し上げます。

いまさらながら初動の判断や対応が問題になっている。
千葉市の風速データは、Web上で確認できる限り1966年からだが↓
過去の風速データ
今回の最大瞬間風速57.5メートルがいかに並外れた数値であったかが、統計からもみてとれる。
1966年からのダントツ最大値なので、少なくとも53年に一度の大暴風(おそらくもっと稀だと思う)であることが確定している。
かつて経験したことのない、あるいは想定していないレベルの暴風だったので「被害の予想がつかない」ということはたしかにあったのだと思う。
風速は地形の影響を受けやすいし、台風の風は「息をする」(瞬間的にもの凄く強くなる)ので、局地的な最大瞬間風速は60メートルを超えていたのでは?
また、これまでの最大瞬間風速はだいたい西寄りの風で記録しているが、今回は不意打ちともいえる南東風で、これも被害を大きくした可能性がある。
夏~秋にかけての最大瞬間風速はたいてい台風接近時に記録されるから、今回の台風が滅多にないコースを辿ったことがこの点からもわかる。

大地震は定期的にはこないけど、台風は毎年何個も来る。
だから、地震災害にくらべて軽くみられがち、ということはあるのかもしれない。
前例となってしまうので、激甚災害指定についても慎重にならざるを得ないのかも。
でも、今回のは少なくとも53年に1度の災害。この認識がもっと必要だったかも・・・。

当初、高圧送電線鉄塔の倒壊がメディアで大きくとりあげられた。
これが停電の主要因であれば、迂回ルートの活用によりもっと早くに復旧していたと思う。
東電の当初復旧予想もこの視点からだったような感じがする。

でも、かなり早いタイミングで、多数の電柱の倒壊と、まだら模様の停電地域も報じられていた。
だから、専門家であれば「やっかいなのは高圧線鉄塔の倒壊ではなく、多数の倒木や電柱の倒壊。そして個別対応が必要なこの復旧には相当な時間が必要。」という予想は容易についた筈。
ただ、現地に行ってみないと具体的な対応策が立てられないので、「いつまでに復旧」という見通し立てはすごく難しかったのだと思う。

だから、やっぱり誰が悪いとか、責任はどこにあるとか、そういうはなしではないのでは・・・。想定外だったから。
知事あたりが即時緊急対応要請をする、という手はたしかにあったと思うが、発生当初はこの状況が把握できていなかったのでは。メディアだって初動の報道は遅れていたような・・・。
市町村から情報が上がって来ないなら、とりあえず県から人員を派遣すべきだった、という意見もあるがこれは結果論かと。後からならなんとでも言える。
地元を知悉しているのは市町村だし、個別対応だらけの今回の様なケースは、県職員が入っても動きようがなかったのでは?
実際、早くから各地の電力会社から支援部隊が駆けつけていたが、個別の現場情報が入らないので木更津でウェイティングしていた。
いまさら犯人さがしをしてもしょうがないし、それよりは、”50年に一度”レベルの激甚災害が起きた場合の今後の対応指針をきっちり定める方が前向きだと思う。

日本近海の海水温は年々上がっているという見方があるのだから、今後台風の破壊力はますます激甚化するおそれがある。
高気圧のあいだを割って北上、なんていう反則ルートも今後は増えていくのでは?(ふつう、台風は高気圧の縁を回り込んで進むとされている。)

60メートル近い暴風によって、実際にどういうことが起こり、どういう被害がもたらされたのか・・・。
そして本当に必要だったのは何か?
多くの被害と犠牲を伴って得られたファクターを教訓に、速やかに国土強靱化を図っていくのが現実的な手立てなのだろうと思う。

ps.
雨雲レーダーを見ると、現時点で台風17号は熊本の西の沖合にいることがわかる。
すでに目は崩れているけど、それでもはっきりとみてとれる。
やっぱり現況把握には有効なツールだと思う。

Web上の気象情報(とくに台風情報)が官民入り乱れて、どれが最新情報かわかりにくくなっている。
運営者サイドの様々な思惑もあるのだろうけど、わかりやすく一元化(ポータル情報化)した方がいいような気も・・・。


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2019-09-09 23:24:32UP

中心気圧が965hPaから955hPaに再発達って、これはえらいことになると思った。
そして、中心は相模湾から東京湾へ・・・。
台風は陸地が嫌いなので、相模湾から三浦半島を乗っ越して東京湾に入ったのだと思う。

なんで「相模湾上陸は首都圏にとって最悪コース」かというと、横浜・川崎や東京都区部などの人口密集地が台風の東側(進路右側)に入ってしまうから。
(北半球では台風の東側は、台風そのものの風と台風を押し進める力が合わさって、とくに風が強くなります。)

これが東京湾コースを進むと、もっとも危険なエリアは東京湾の東に位置する千葉、ということになる。
そして午前4時28分。千葉市中央区の最大瞬間風速57.5メートル・・・。
最初、この情報をきいたとき、なにかの間違いだと思った。それほどのもの凄い風速。

建物の耐風性能は風荷重、あるいは風圧力であらわされるが、このベースとなるのが基準風速
関東周辺では基準風速(最大風速=10分間の平均風速ベース)は、概ね30メートル台に設定されている。
最大瞬間風速は最大風速の1.5~3倍ほどになるともいわれているので、今回の57.5メートルとの単純比較はできないが、
それでも「想定外の暴風」であった可能性がきわめて高い。
報道でみる限り、千葉市中央区より市原市や君津市の被害が大きそうなので、この両市では局所的に60メートルちかい最大瞬間風速となっていたのかもしれぬ。

今回、外の状況と雨雲レーダーを夜通し見比べていた。
台風の目(中心)が三浦半島を通って東京湾に入っていく様が、10分遅れで克明にあらわされていた。
リアルタイムな状況把握という点では、これがベストツールでは? (ゲリラ豪雨のときなど、よく使います。)

そして二次災害。

交通パニック。週はじめの月曜だから「どうしても出なくてはいけないイベント」が多かったはずだし、これも混乱に拍車をかけたと思う。
JRは始発から8時までの計画運休を発表していたが、こんな規格外の暴風を喰らった以上、8時復旧はとうてい無理筋だと思う。
でも、利用者としてはそれを信じるしかないし・・・、という・・・。
それに「状況により自己判断で」とかいわれたら、石にかじりついてもとにかく出社、つうのがふつうの日本人だから・・・。
誰が悪いとか、責任はどこにあるとか、そういうはなしではないと思う。

大規模停電。
これも、誰が悪いとかどうとかではないと思う。すべてが想定外だから・・・。
一刻もはやい復旧を祈るしかないです。

それと、この気温で無空調だと、すぐさま過酷な状況となるので、停電地域の方はくれぐれも熱中症にご注意を。

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20年ほども昔だけど、気象予報士の学科試験合格したことあるので(実技は力尽きたけど)、
ついつい思いつくままに書いてしまいました。


2019-09-08 19:07:14UP

台風15号(FAXAI)、大騒ぎになってますが、
本日朝の段階で、すでに予報円全域が陸地にかかっていた。
それでもニュースや天気予報では、「関東に接近する見込み」とかぬるい表現を使っていた。
朝の進路予想図からすると「関東付近に上陸する可能性が極めて高い」あるいは「首都圏直撃の可能性大」の表現が妥当だったのでは??

相模湾上陸は首都圏にとって最悪コースの筈。(滅多にない)
中心気圧965hPa、最大瞬間風速60m予想ならば、もっと激しく警告してもよかった感じも・・・。

いずれにしても、大きな被害がでないことを祈ります。

小さなてのひら
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場をつくりだす音楽

気温は高いけど、空気が乾いて秋の風。
そんな風に合わせて聴いてみました。

■ 角松敏生 - SEA LINE

いや~、なにこれ。凄すぎ。
ボーカルなしでここまで聴かせるとは。メンバーの力量ありすぎだよ ポンタさん!
それにこのアダルト感と余裕かまし感っていったい何事??

でも、こういうのって、1980年代にはふつうにあった(聴いていた)ような気がする。
ハイテクなこと演ってるのに、聴き手を巻き込むことなく、構えさせることもなく、自然に「場」をつくりだしている音楽。
だから、BGMにも最適だった・・・。

■ 角松敏生・杏里 - I CAN'T EVER CHANGE YOUR LOVE FOR ME

これだけのボーカルの力量あるのにインスト曲をつくってしまう演ってしまう。
これが ”余裕” か・・・。

本日はこれからお仕事OFFです(嬉)
気合い入れてブログ書きますわ・・・。
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