goo

■ 鎌倉市の御朱印-15 (B.名越口-10)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)から。


※字数制限の関係上、44.円龍山 向福寺の記事は後ほどUPします。


45.内裏山 霊獄院 九品寺(くほんじ)
鎌倉市観光協会Web

鎌倉市材木座5-13-14
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
司元別当:(乱橋材木座)三島明神
札所:鎌倉三十三観音霊場第16番、相州二十一ヶ所霊場第9番、小田急沿線花の寺四季めぐり第18番

九品寺は、新田義貞公開基と伝わる浄土宗の古刹です。

鎌倉市観光協会Web、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。

元弘三年(1333年)新田義貞公の鎌倉攻めの際、本陣をかまえたという場所で、義貞公が京から招いた風航順西和尚を開山に、北条方の戦死者の霊を弔うため創建と伝わります。

創建年は建武三年/延元元年(1336年)と建武四年/延元二年(1337年)の2説あります。
こちら(「鎌倉史跡・寺社データベース」様)には、「もともとは別の場所にあり、かつて乱橋材木座にあった三島明神の別当であったが、荒廃し、後に現在地に移ったという。」とあり、草創が1336年、当地での開山が1337年かもしれません。
(ただし、わずか1年で「荒廃」は解せませんが。)

当山は鎌倉では数少ない新田義貞公ゆかりの寺院です。
義貞公は『太平記』前半の主役といってもいいほど登場回数が多いですが、『太平記』のみ記載の事跡も多く、史実が辿りにくい人物です。

Wikipediaなどから義貞公の略歴を追ってみます。

新田氏の開祖は、八幡太郎源義家公の三男(諸説あり)源義国公です。
義国公は下野国足利荘(栃木県足利市)を本拠とし、足利荘は次子・義康公が継いで足利氏を名乗り、異母兄の義重公は上野国八幡荘を継承し、新田荘を立荘して新田氏を称しました。

新田義貞公(1301-1338年)は、新田朝氏公(新田氏宗家7代当主)の嫡男として 正安三年(1301年)頃に生まれました。(里見氏からの養子説あり)

新田荘がある大間々扇状地は、ふるくは「笠懸野」(かさかけの)と呼ばれたとおり、広大な平地が広がり馬掛けに適した土地柄で、義貞公とその郎党はこの「笠懸野」で弓馬の術を磨きました。

新田氏は河内源氏の名族で鎌倉御家人でしたが、頼朝公の親族として優遇され北条氏とも婚姻関係にあった足利氏にくらべ、幕府内の地位や家格は高いものではありませんでした。

新田宗家4代当主政義公の妻は足利宗家3代当主義氏公の息女で、その子政氏公が新田家嫡流を継ぎ、以降足利氏は新田氏の代々の烏帽子親であったという説があります。
実際、義貞公の烏帽子親は足利氏嫡流で早世した足利高義公で、義貞の「義」は高義の「義」の偏諱とするとされ、鎌倉末期の両氏は対立関係にはなかったとみられています。

文保二年(1318年)、義貞公は新田氏宗家の家督を継承、8代当主となりました。
しかし、その頃の義貞公は無位無官だったとみられ、とくに北条得宗家との関係が悪く鎌倉幕府から冷遇されていたとも。

世良田氏や大舘氏など新田一門も、幕府内で高い地位を得たという記録はありません。
義貞公は得宗被官の安東聖秀の姪を妻として迎えたとされ、北条得宗家への接近もみられますが、鎌倉幕府内で重きをなすことはありませんでした。

一方、足利尊氏公は得宗・北条高時公の偏諱を受けて「高氏」を名乗り、わずか15歳にして官位は従五位下治部大輔でした。
Wikipediaには「15歳での叙爵は北条氏であれば得宗家・赤橋家に次ぎ、大仏家・金沢家と同格の待遇であり、北条氏以外の御家人に比べれば圧倒的に優遇されていた」とあり、幕府内で格別の地位にあったことがわかります。

元弘元年(1331年)8月、倒幕をめざす後醍醐帝と幕府・北条得宗家の間で、いわゆる「元弘の乱」が起こりました。
後醍醐帝は笠置山の戦いで幕府方の大軍に破れ逃亡しました。

幕府は帝が京から逃れるとただちに廃位し、光厳帝を即位させ、捕虜とした後醍醐帝を隠岐に流しました。

元弘二年(1332年)大番役として在京していた義貞公は、幕府の動員令に応じて他の御家人らと後醍醐帝方の楠木正成討伐に向かい 千早城の戦いに参加しています。

元弘三年(1333年)3月、義貞公は病気を理由に河内を退去し新田荘に帰参しました。
『太平記』には元弘の乱の出兵中、義貞公が護良親王と接触して北条氏打倒の綸旨を受けたとありますが、真偽について諸説あるようです。

義貞公の新田荘帰還後、幕府は軍資金として新田氏に膨大な額の納税(有徳銭)を命じ、徴税人(金沢出雲介親連と黒沼彦四郎)を差し向けました。
法外な金額と強引な徴税に憤激した義貞公は、金沢を幽閉し黒沼を斬殺しました。

これを咎めた幕府が新田討伐の軍勢を差し向けるという情報が入り、同年5月、ついに義貞公は倒幕の兵を挙げました。

生品明神社(生品神社)での義貞公決起の名場面は、『太平記』でよく知られています。
この時点の新田軍主力は、義貞公に弟の脇屋義助、大舘宗氏とその一族、堀口貞満、江田行義、岩松経家、里見義胤、桃井尚義などとみられています。


【写真 上(左)】 生品明神社(生品神社)
【写真 下(右)】 生品明神社(生品神社)の御朱印

新田勢は新田を発して上野国八幡荘に入り、越後勢、甲斐源氏、信濃源氏の一派と合流して9,000余の軍勢に膨れ上がったといいます。

5月9日、新田勢は武蔵国に向けて出撃、足利尊氏公(1305-1358年、当初は「高氏」ですが「尊氏」で統一します)の嫡男・千寿王(後の足利義詮公)と久米川付近で合流しました。
これを受けてさらに兵士が集まり、『太平記』では20万7,000騎と記しています。

千寿王の参陣は政治的に大きく、鎌倉攻めの軍勢には義貞公と千寿王の二人の大将がいたとする説があり、千寿王挙兵に義貞公が参陣という説さえあります。

義貞公挙兵の報を受けた幕府方は、桜田貞国を総大将、長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門を副将とする幕府軍約5万で入間川へと向かい、別働隊として金沢貞将を大将とする上総・下総勢2万が下総の下河辺郷に集結しました。

新田勢は鎌倉街道を南下し、5月11日に小手指原(所沢市小手指)で幕府軍と衝突しました。(小手指原の戦い)
翌12日、義貞公の奇襲により幕府方の長崎・加治軍は撃破され、南方の分倍河原まで退却しました。(久米川の戦い)

分倍河原の幕府軍に北条泰家(得宗北条高時公の弟)を大将とする援軍が加わり15万にもなったといい、幕府方の士気は上がりました。
5月15日、義貞公はこの援軍を知らずに1万の軍で急襲したところ、反撃を受けかろうじて北方の堀兼(所沢市堀兼)まで退却したといいます。(分倍河原の戦い)

しかし、三浦氏一族の大多和義勝、河村・土肥・渋谷・本間らの相模の軍勢8000騎が駆けつけ義貞公に加勢。
勢いをとりもどした義貞勢は5月16日分倍河原に押し出し、北条泰家以下幕府軍は敗走しました。

新田勢の勢いはとまらず、多摩川を渡り霞ノ関(多摩市関戸)で幕府軍に総攻撃をかけ、幕府方は新田勢の猛攻に耐えきれず総崩れとなって鎌倉に潰走しました。(関戸の戦い)

ここに常陸、下野、上総の豪族たちが続々と新田勢に合流、その勢いを駆って一気に鎌倉まで攻め上がりました。

対する幕府方は各切通しと市街要所に軍勢をおき、鎌倉の防備を固めました。

義貞公は軍勢を三手に分け、義貞本隊が金沢貞将守る化粧坂、大舘宗氏・江田行義が大仏貞直守る極楽寺坂、堀口貞満・大島守之が北条守時守る巨福呂坂を攻撃することとしました。

5月18日、新田勢は三方から鎌倉に攻め入りましたが、守りに強い鎌倉ゆえ三方とも攻略はならず、極楽寺坂口の大舘宗氏は討ち死にしました。

義貞公は化粧坂攻撃の指揮を脇屋義助に託し、大舘宗氏を失った極楽寺坂の援軍に向かいました。

5月20日夜半、義貞公は極楽寺坂の海側にあたる稲村ヶ崎へ駆け付けました。
稲村ヶ崎は海が迫る難所ですが、ここを突破されると一気に鎌倉市街まで侵入されます。
稲村ヶ崎進撃を予想していた幕府方は、稲村ヶ崎の断崖下に逆茂木をたて、海には軍船を浮かべて義貞勢の来襲に備えていました。

5月21未明、義貞公率いる軍勢は潮が沖に引いた隙を狙って、稲村ヶ崎の突破に見事成功しました。
この稲村ヶ崎の突破は『太平記』をはじめとする物語や絵画などによって広く知られています。

稲村ヶ崎突破については、干潮を利用したという説が有力ですが、『太平記』では義貞公が黄金作りの太刀を海に投じたところ、龍神が呼応して潮を引かせたというドラマティックな展開が描かれています。

ともあれ難所・稲村ヶ崎を突破した新田勢は由比ヶ浜で幕府軍を撃破し、一気に鎌倉市内に攻め入りました。
このとき新田勢が本陣をおいたのが、現在の九品寺の場所ともいいます。

5月22日、小町葛西谷の北条一族菩提寺・東勝寺で、長崎思元、大仏貞直、金沢貞将らの奮戦むなしく、北条得宗家当主・北条高時公らは自害し鎌倉幕府はここに滅亡しました。(東勝寺合戦)
義貞公の生品明神挙兵からわずか半月という怒濤の進撃でした。

鎌倉を陥落させた義貞公は雪ノ下の勝長寿院に本陣を敷き、足利千寿王は二階堂永福寺に布陣しました。

元弘三年/正慶二年(1333年)、後醍醐帝は隠岐から脱出、伯耆船上山で挙兵されました。帝追討のため幕府から派遣された尊氏公は上洛の途中幕府謀反を決意、船上山の後醍醐帝より討幕の密勅を受け取り、すぐさま六波羅探題を攻めて京を制圧しました。

尊氏公はこの密勅を根拠に、諸国の武将に向けて軍勢催促状を発しました。
新田勢に実子の千寿王を加勢させたことといい、将来への布石を着々と置いていることがわかります。

幕府滅亡後、後醍醐帝は建武の新政を開始
尊氏公は後醍醐帝から「勲功第一」と賞され鎮守府将軍となり、8月5日には従三位に昇叙、武蔵守を兼ねて尊氏と改名しています。

この時点で、後醍醐帝が鎌倉陥落の功労者、義貞公よりも尊氏公を優遇していたことがわかります。

義貞公に付き従っていた武将達は論功行賞のためつぎつぎと上洛し、鎌倉に残った武将たちも尊氏公の子千寿王のもとに集ったといいます。

そのなかで義貞公は千寿王補佐役の細川三兄弟(和氏、頼春、師氏)と諍いを起こし、6月に鎌倉を去って上洛したといい、以降の鎌倉は足利氏が統治したともいいます。

8月5日、義貞公は従四位上に叙され、左馬助に任ぜらて上野守、越後守となり、武者所の長である頭人となりました。
弟の脇屋義助は駿河守、長男の義顕も越後守に任ぜられ、尊氏公には及ばないものの恩賞を手にしました。

後醍醐帝の建武政権では尊氏公と護良親王の争いが起こり、護良親王は失脚しました。
この頃新田一族の昇進が目立ちますが、これは尊氏公の台頭を牽制するために、後醍醐帝が義貞公を対抗馬として取り立てたという見方があります。

建武二年(1335年)7月、信濃国で北条高時公の遺児・時行公を擁立し鎌倉を占領する事件(中先代の乱)が起こりました。

尊氏公は勅許を得ずに鎌倉に下り乱を鎮圧すると、新田一族の所領を他氏に分与し「義貞と公家達が自分を讒訴している」と主張して鎌倉に居座り、10月には細川和氏を使者に立てて後醍醐帝に義貞誅伐の奏状を提出しました。

おそらく、後醍醐帝が自身の対抗馬として義貞公を取り立てた時点で、義貞公と袂を分かったものとみられます。
これに対して義貞公はすぐさま反論の奏状を提出し、尊氏・直義兄弟の誅伐許可を求めたといいます。

義貞奏状で訴えられた足利直義による護良親王殺害が改めて問題となり、11月8日帝は義貞公に尊氏・直義追討の宣旨を発しました。
義貞公は政争に拙いという見方がありますが、このあたりの迅速な対応と要所を衝いた指摘は優れた政治力を感じさせます。

---------------------------------
ここからの義貞公の事跡戦歴は変転をきわめるので、略しつついきます。

官軍(足利討伐軍)の大将となった義貞公は尊良親王を奉じ、大軍を率いて東海道・東山道の二手から鎌倉に進軍、奥州の北畠顕家公も鎌倉へと進軍を開始しました。

官軍は三河国矢作、箱根・竹下で足利勢と戦い軍を進めましたが、鎌倉の手前で尊氏公指揮する足利勢に敗れて西へと逃れ京に戻りました。

尊氏公は躁鬱の気があったとされ、鬱のときはまったく弱気になるものの、躁に転じたときは俄然覇気にあふれて、これに従わない武将はなかったといいます。
今回の鎌倉防衛でも尊氏公が躁をあらわし、一気に劣勢を覆したと伝えます。

その後京に攻め上った足利勢は淀川で官軍を破り、後醍醐帝は西に遷幸、義貞公もこれに供奉しました。
京は尊氏勢に一旦占拠されたものの、奥州から北畠顕家軍、鎌倉から尊良親王軍が京に迫ると形勢は逆転。

義貞公は北畠軍、楠木正成、名和長年、千種忠顕らとともに京に総攻撃を仕掛け、尊氏公を九州へと追い落としました。

建武三年(1336年)2月、義貞公は足利勢を破った功績により正四位下に昇叙。左近衛中将に遷任し播磨守を兼任しました。

しかし義貞勢が尊氏方の播磨の赤松則村(円心)を攻めあぐねているうちに、尊氏勢は九州で勢力を盛り返し、再び東に攻め上ってきました。
尊氏公は、光厳院から得た義貞討伐の院宣をかざしていたともいいます。

5月25日、楠木正成と合流した義貞勢は摂津国湊川で尊氏勢と激突しました。(湊川の戦い)
尊氏勢の猛攻に新田、楠木両軍は分断され、楠木正成は奮戦むなしく湊川で自害しました。
義貞公も奮闘しましたが次第に劣勢となり、近江東坂本まで引きました。

6月14日尊氏公は光厳院を奉じて京に入り、光厳院の院宣を仰いで光明帝を即位させました。
比叡山から吉野に入られた後醍醐帝は自らの退位を否認され、光明帝の即位も認めなかったため、京(北朝)と吉野(南朝)に二帝並立する南北朝体制となりました。

諸戦で多くの配下を失い、楠木正成はすでに亡く、名和長年、千種忠顕らの友将も戦死して、もはや義貞公に以前の勢いはありませんでした。
加えて後醍醐帝と尊氏公で和平交渉が進み、義貞公は後醍醐帝の後ろ盾も失うこととなりました。

和平交渉を知り比叡山に駆け上がった義貞公が、涙ながらに後醍醐帝の変心を責める場面は、多くの物語で語られています。
義貞公は妥協策として恒良親王、尊良親王を推戴のうえ北国への下向を望むと、後醍醐帝はこれを許したといいます。

10月13日、義貞公は両親王を奉戴して越前敦賀の金ヶ崎城に入りました。
両親王は各地の武士へ尊氏討伐の綸旨を送り兵を募ったものの応じる武将は少なく、まもなく足利軍の攻撃を受けました。

義貞勢は奮戦し一度は足利軍を迎撃したものの、建武四年(1337年)1月足利軍の総攻撃を受けて籠城戦となり、兵糧尽きて3月6日ついに金ヶ崎城は陥落しました。

落城にあたり義貞公は越前・杣山城に遁れたとされますが、この時点で義貞公はすでに杣山城に移っていたという説もあります。

8月になると奥州の北畠顕家公が義良親王を奉じて鎌倉攻略の途につき、義貞公の次男新田義興公と、南朝に帰参した北条時行公が合流して12月には鎌倉を落としました。

---------------------------------
九品寺は、建武四年(1337年)に義貞公が北条方の戦死者の霊を慰めるため京より招いた風航順西和尚を開山として創建と伝わります。

しかし、この年義貞公は越前の金ヶ崎城ないし杣山城で足利勢を相手に戦闘・雌伏中で、とても「北条方の戦死者の霊を慰めるため鎌倉に寺院を建立」できる状況ではなかったように思われます。

もし北条氏菩提の目的で寺院を建立するとしたら、元弘三年(1333年)5月22日の北条氏滅亡後が考えられますが、義貞公は同年6月に上洛して以降、戦つづきでそのような余裕はないようにも思えます。

そもそも義貞公はほとんど鎌倉に腰を落ち着けたことはなく、「京より風航順西を招いて開山とし、寺院を創建する」という時間的余裕はないように思われます。
それに元弘三年(1333年)時点では義貞公はまだ上洛も果たしておらず、京・東山の風航順西和尚に知己を得て帰依とは考えにくいです。

などと考えつつ開山の風航順西(暦応四年(1341年)寂)をWeb検索したら、思いがけない記事がヒットしました。(→ 「鎌倉シニア通信」様「九品寺の縁起」

無断転載不可につき、要旨のみ引用させていただきます。

-------------------(引用はじめ)
建武三年(1337年)に至り新田家戦死の霊魂を吊らはしか為、京都東山に「風航順西和尚」という浄家の僧、義貞公帰依により命じて共に下向し霊魂の得脱回向を懇望し則ちこの地に一宇を創建あり、内裏山霊嶽院九品寺と号す。

千時延文三丙申歳三月 為後代記置之
当寺三世 順妙

-------------------(引用おわり)

ここには当山創建は、(北条一族ではなく)新田家戦死者菩提の為とあります。
そうなると、義貞公が京・東山で浄土宗の風航順西和尚に帰依し、戦で失った新田一族の武将の菩提を懇請したということになるのかもしれません。

『太平記』は、京を舞台に義貞公と勾当内侍(こうとうのないし)との恋物語を伝えます。
であれば、東山の僧に帰依して一族の菩提を依頼するくらいの余裕はあったやもしれません。

ただし上記の「(建武三年(1337年))共に(鎌倉に?)下向し この地に一宇を創建」という記述は、同年の義貞公の事跡と符合しません。

もしも金ヶ崎城の戦いに破れ、落魄の義貞公がいっとき越前杣山城を離れ、鎌倉に入って寺院(九品寺)を建立したとしたら、歴史の一大スクープになるかと思いますが、これを伝える史料類は他に見当たりません。

---------------------------------
建武五年(1338年)1月北畠軍は上洛の途につき、後醍醐帝も各地の南朝勢力に対し顕家公への加勢を促しました。

越前鯖江(もしくは美濃大垣)まできた北畠勢は、しかし杣山城の義貞勢と合流することなく伊勢から奈良へと向かいました。

このとき北畠勢と義貞勢が合流しなかった理由については諸説ありますが、以前から北畠勢と義貞勢の連携はうまくいっていたとはいえず、顕家公と義貞公の間になんらかの確執があったのかもしれません。

その後の北畠勢は苦戦つづきで、5月22日和泉堺浦・石津で足利軍に敗北し顕家公は戦死しました。

建武五年(1338年)閏7月、義貞公は越前国藤島(福井市)の灯明寺畏畷で斯波高経が送った細川出羽守、鹿草公相の軍勢と交戦中に戦死しました。
享年38と伝わります。

義貞公は南朝復権のため再度の上洛を企図して藤島の戦いに臨んだといい、『太平記』には義貞公の凄絶な戦いぶりが描かれています。

義貞公の死は南朝方に大きな痛手となりましたが、年月日不明ながら義貞公は南朝側から正二位を贈位され、大納言の贈官を受けたという記録が残ります。

義貞公の墓所は「牛久沼ドットコム」様によると、当初称念寺(福井県坂井市)にあり、文明年間(1469-1486年)、義貞公の三男・新田義宗の子とされる横瀬貞氏(上州太田金山城主・岩松家純の重臣)が、義貞公の遺骨を称念寺から城内に移して墓を建てました。
この「城内の墓」は金山山麓の金龍寺(金山城主横瀬氏の菩提寺)ともみられ、金龍寺には義貞公の供養塔があります。

戦国中期、横瀬氏6代目の横瀬泰繁の代に横瀬氏は由良氏と名乗り、泰繁の子由良成繁は小田原北条軍に金山城を攻められ降服、嫡男国繁は小田原城に人質となり、由良一族は金山城を明け渡して桐生城へ移り、金龍寺も桐生へと移りました。

天正十八年(1590年)秀吉軍が小田原城を攻撃したとき、由良成繁の未亡人・赤井氏(妙尼印)は城主のごとく活躍したといいます。
北条氏滅亡後、秀吉は妙尼印の器量を称えて赤井氏に常陸国牛久の地と牛久城を与え、妙尼印は領地を子の国繁に相伝、前城主の菩提寺・東林寺に桐生の金龍寺を移して号を改めたといいます。

国繁没後、理由は不明ですが領地は没収となりますが、牛久の金龍寺と義貞公の墓は、幕府の庇護を受けて、寛文六年(1666年)牛久沼の対岸、龍ケ崎若柴の古寺を改修してここに移されたといい、以降、義貞公の墓所は龍ケ崎若柴の金龍寺とされているようです。

 
【写真 上(左)】 太田金山金龍寺の御朱印
【写真 下(右)】 龍ケ崎若柴金龍寺の御朱印

↑に「幕府の庇護を受けて」とありますが、この根拠とみられるのは神君・徳川家康公の出自です。
家康公は、新田氏の祖・新田義重公の四男得川義季(世良田義季)の末裔を称しました。
(→ 太田市観光物産協会Web

足利氏の室町幕府で、草創時に敵対した新田一族は冷遇されました。
しかし、家康公が新田一門を公称したことからも、源氏名流たる新田氏の譽れは戦国末期に至ってなお健在だったとみられます。

征夷大将軍の座は源氏の統領のみに許されるという慣例に則り、源姓新田氏流の統領・家康公は征夷大将軍の座につき徳川幕府を開きました。
征夷大将軍の座は、公的には足利氏から新田氏(徳川氏)に移ったことになります。

徳川将軍家は新田氏(得川氏/世良田氏)ゆかりの上州世良田の地に東照宮を勧請して別格扱いとし、租税を軽くするなど住民までも優遇したと伝わります。

---------------------------------
義貞公の死から500年以上のちの明治の世に、義貞公は朝廷に尽しつづけた「忠臣」として顕彰され、明治15年には正一位を贈位されています。
数々の書物で義貞公の義勇忠節ぶりが描かれ、義貞公の「忠臣」としての評価は定まりました。

明治6年発行の国立銀行紙幣二円券の表面には、稲村ヶ崎で太刀を海中に投じる義貞公の姿が描かれています。

九品寺の義貞公ゆかりの事物として、山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の扁額の文字は、義貞公の揮毫を写したものと伝わります。

当山の御本尊は阿弥陀三尊。
寺号の「九品」とは九パターンの極楽往生のあり様をいい、上品、中品、下品それぞれに上生、中生、下生があり、合わせて九品(九軆)の阿弥陀仏がおわし、救われないものはないといいます。

義貞公が人々の菩提を祈り創ったとされる九品寺。
衆生を極楽往生に導く九品(阿弥陀仏)の寺号は、ふさわしいものといえましょうか。


-------------------------
【史料・資料】

『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(亂橋村)九品寺
内裏山靈嶽院と号す、浄土宗 材木座村、光明寺末、三尊の彌陀を本尊とす、中興を卓辨と云へり

■ 山内掲示(鎌倉市)
九品(くほん)とは、九種類の往生のありさまのことをいいます。極楽往生を願う人々の生前の行いによって定められます。上品、中品、下品のそれぞれに、上生、中生、下生があり、合わせて九品とされます。
鎌倉攻めの総大将であった新田義貞が、鎌倉幕府滅亡後に敵方であった北条氏の戦死者を供養するために、材木座に建立しました。
山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の文字は、新田義貞の筆を写したものといわれます。
本尊は阿弥陀三尊です。

■ 『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市)(抜粋)
内裏山靈嶽院九品寺と号する。浄土宗、もと光明寺末、新田義貞の草創で、風航順西を開山と伝える。中興開山は二十一世鏡誉岌故、二十五世台誉卓弁、三十二世楽誉浄阿良澄の三人。
本尊、阿弥陀三尊。
境内地311.95坪。本堂・庫裏・山門あり。
神奈川県重要文化財、石造薬師如来坐像。
寺の『過去帳』によれば、風航順西は暦応四年(1341年)十月十八日に寂している。
岌故は慶安二年(1649年)二月十五日、本尊の御身を再興した。願主は戸塚の吉田四良兵衛とみえている。良澄は弘化二年(1846年)二月、本堂及び三尊像を再興した。(略)
関東大震災にて全潰した。


-------------------------



小町大路に面してあり、光明寺とならんで材木座海岸にもっとも近い寺院です。
鎌倉のメイン通り、若宮大路の材木座口にもほど近く、稲村ヶ崎から侵入し由比ヶ浜で北条勢を破った義貞公が一旦軍勢を落ち着かせ、本陣をおいたという縁起にふさわしい立地です。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 お地蔵さまと寺号標

小町大路に面して参道入口。
手前に地蔵尊立像をおいた寺号標。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額

正面は脇塀付き切妻屋根桟瓦葺四脚の山門。
向拝見上げに掲げられている山号扁額は、義貞公の揮毫を移したものと伝わります。


【写真 上(左)】 鎌倉三十三観音霊場札所標
【写真 下(右)】 相州二十一ヶ所霊場札所標

山門手前に鎌倉三十三観音霊場と相州二十一ヶ所霊場の札所標が置かれています。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 六地蔵と不動尊

緑ゆたかな山内で、参道沿いには古色を帯びた一体型の六地蔵と不動尊立像が御座します。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝


【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 扁額と龍の彫刻

参道正面が本堂。
本堂は入母屋造銅本棒葺流れ向拝。
水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻を置いています。

御本尊の阿弥陀如来立像は、玉眼を填め込んだ宗元風彫刻として鎌倉市の文化財に指定されています。

本堂のほかに堂宇は見当たらないので、鎌倉三十三観音霊場札所本尊・聖観世音菩薩像、相州二十一ヶ所霊場札所本尊・弘法大師尊像、鎌倉時代作とされ県指定重要文化財の石造薬師如来像はいずれも本堂内に奉安とみられます。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 天水鉢

向拝見上げに掲げられている寺号扁額は、義貞公の揮毫を移したものと伝わります。
堂前の天水鉢にはしっかり新田氏の家紋、「新田一つ引き紋」が描かれていました。


御朱印は庫裏にて拝受しました。
御本尊、鎌倉三十三観音霊場、相州二十一ヶ所霊場の御朱印を授与されています。


〔 九品寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御本尊・阿弥陀如来の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印


相州二十一ヶ所霊場の御朱印


46.海潮山 妙長寺(みょうちょうじ)
鎌倉公式観光ガイドWeb

鎌倉市材木座2-7-41
日蓮宗
御本尊:三宝祖師(『鎌倉市史 社寺編』)
司元別当:
札所:

本覺寺は、材木座にある日蓮聖人・伊豆法難ゆかりの日蓮宗寺院です。

鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料、山内縁起碑等から縁起沿革を追ってみます。

妙長寺は、正安元年(1299年)に、伊豆で日蓮聖人の命を救った漁師の子、日実(日實)上人が開山したのがはじまりといわれています。
もともとは由比ヶ浜の字沼ヶ浦というところにあり、延享(1744-1748年)以後に現在地に移転とみられています。

日蓮宗神奈川県第二部布教センターのWebには「妙長寺 日蓮聖人伊豆流罪の際(伊豆法難)、日蓮聖人の命を救った漁師「舟守弥三郎」の子「日実」が開山。伊豆流罪の霊跡の一。」とあります。

「Wikipedia」伊豆法難(いずほうなん)とは、弘長元年(1261年)5月12日に日蓮聖人が捕らえられ、伊豆へ流罪となった事件で「日蓮聖人四大法難」の一つです。

日蓮宗Web久城寺(秋田県秋田市)の公式Web、および伊豆蓮慶寺の現地掲示等によると、日蓮聖人は文応元年(1260年)に世の中の乱れを嘆き『立正安国論』を執筆されましたが、幕府の反感を買って弘長元年(1261年)5月に伊豆流罪となりました。

日蓮聖人は由比ヶ浜の沼ヶ浦というところから伊豆に向けて船出したといいますが、当山の旧地は「由比ヶ濱沼ヶ浦」なので、船出の地のそばに開創とみられます。


【写真 上(左)】 日蓮崎と俎岩
【写真 下(右)】 俎岩

幕府の役人は船を伊東の湊に着けず、なんと烏崎(日蓮崎)の沖にある「俎岩(まないたいわ)」の上に置き去りにしました。

波浪に晒される岩上に置き去りにされた日蓮聖人は、しかしいささかも動じることなくお題目を唱えられていました。

そばで漁をしていた地元の漁師・舩守弥三郎はお題目をきくと、俎岩に船を漕ぎ寄せて日蓮聖人を救出、川奈港奥の御岩屋祖師堂にかくまったといいます。


【写真 上(左)】 連着寺・奥の院の奉納額
【写真 下(右)】 日蓮聖人「袈裟掛の松」

弥三郎夫妻の住居跡に伊東庄の代官今村若狭守が祖師堂(のちの蓮慶寺)を建て、蓮慶寺本堂には日蓮聖人とともに夫妻の像が祀られています。


【写真 上(左)】 連着寺の寺号標
【写真 下(右)】 連着寺


【写真 上(左)】 連着寺の本堂扁額
【写真 下(右)】 連着寺・奥の院


連着寺の御首題

日蓮聖人は伊豆で3年を過ごされ、伊東の佛現寺、佛光寺などゆかりの寺院を残された後、弘長三年(1263年)に赦免され、鎌倉に帰って伝道活動を再開されました。

弥三郎夫妻の子はのちに日蓮聖人の弟子(ないし孫弟子)となり、日実(日實)と号して日蓮聖人船出の地に妙長寺を開創したと伝わります。

天和元年(1681年)の大津波で堂宇が流されたため、第二十一世常徳院日慶上人が廃寺となっていた乱橋村畠中の天目山圓成寺の旧地に妙長寺を移したといいます。

山内縁起碑では移転の年を「同年(天和元年)」とし、『鎌倉市史 社寺編』では「延享三年(1746年)八月の『小鐘銘』には、相州鎌倉沼浦、海潮山妙長寺とあるから、延享(1744-1748年)以後の移転であろう。」としています。

山内縁起碑には天目山圓成寺は「寛文(1661-1673年)ノ頃 不受不施義ヲ唱ヘタルニヨリ廃絶セルカ」とあります。

徳川幕府が不受不施派を禁じ、他派への転派を命じたのは元禄四年(1691年)とされるので、山内縁起碑の圓成寺廃絶はそれより早く、禁令より早く廃されたのかもしれません。
(寛文九年(1669年)、幕府は不受不施派に対して寺請を禁じたという記録があるようです。)

『鎌倉市史 社寺編』の説をとれば、
天和元年(1681年) 大津波で堂宇流失
元禄四年(1691年)以降 天目山圓成寺廃絶
延享三年(1746年)以後 妙長寺、圓成寺跡地に移転
となり時系列は整います。

しかし、この説だと天和元年(1681年)の堂宇流失から延享三年(1746年)以後の移転まで、短くとも65年の空白が開きます。
ただ、山内縁起碑には「祖師堂ノミ難ヲ免レタリ」とあるので、その期間は祖師堂のみで寺を存続したのかもしれず、詳細はわかりません。

山内には「伊豆法難」ゆかりの伊豆法難記念相輪塔があります。

明治時代には小説家の泉鏡花が明治24年の夏に滞在し、このときの経験を題材にした「星あかり」という作品が残されています。


-------------------------
【史料・資料】

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(乱橋村)妙長寺
海潮山と号す 日蓮宗 比企谷妙本寺末
開山は日實と云ふ 元弘元年十月廿三日寂 
本尊釋迦を安ず、小名沼浦に当寺の舊地あり、今も除地なりと云ふ、何の頃此に移りしにや

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
海潮山妙長寺と号する。日蓮宗。もと妙本寺末。
開山は日実と云える。
本尊、三宝祖師。
境内地308.7坪 本堂・庫裏・上行堂・門あり。
材木座小字沼浦から移ったという(『風土記稿』)。
延享三年(1746年)八月の『小鐘銘』には、相州鎌倉沼浦、海潮山妙長寺とあるから、延享(1744-1748年)以後の移転であろう。

■ 山内掲示(縁起、不明瞭箇所あり抜粋転記)
海潮山妙長寺縁起
当山ハモト由比ヶ濱沼ヶ浦ニ在リ 弘長元年(1261年)五月十二日宗祖日蓮大聖人伊豆ニ配流セラルヤ沼ヶ浦ヨリ乗船シ給フ ●子大國阿闍梨日朗上●ニ縋リテ随行ヲモヒシニ 幕吏櫂ヲ揮ツテ日朗上人ノ右臂ヲ打(?)ク 宗祖船上ヨリ●●護持ノ文ヲ唱ヘ給フ ●音海浪ニ遮ラレテ 長短●シカラス所 ●●●●●ココニ起ル 川奈ノ漁師舟守彌三郎 宗祖ヲ俎岩ニ救ヒ奉リ ●●奥に供養ノ●ヲ画シ 一子ヲ宗祖ニ●ス(不明)日實上人是レナリ 弘長三年(1263年)二月二十八日宗祖赦サレテ海路鎌倉ニ●リ●●沼ヶ浦ニ着船ス
宗祖入滅後第十八年正安元年(1299年)日實上人沼ヶ浦二一宇ヲ建立シ海潮山妙長寺ト号シ 父母(不明)発祥ノ地ニ拠リテ 梵音海潮音ノ妙●ヲ長ヘニ使ヘンカタ●ナリ 然ルニ天和元年(1681年)●●ニヨリ堂宇悉ク流失セシカ 但タ祖師堂ノミ難ヲ免レタリ ●ノ中棄マテ(不明)堂實成庵ト称セリ
堂宇流失ノ年第二十一世常徳院日慶上人(不明)ヒテ寺●ヲ亂橋村畠中天目山圓成寺ノ𦾔址ニ移ス 是レ現在ノ地ナリ
圓成寺ハ美濃阿闍梨天目上人ノ開創ニ係ル 寛文(1661-1673年)ノ頃 不受不施義ヲ唱ヘタルニヨリ廃絶セルカ 創建巳来星霜茲ニ六百七十年史實ノ漸ク(不明)トスルヲ●ヘ 本年開●六百五十年遠忌ニ際シ碑ヲ建テ 實ノ●シテ後ニ傳フト云爾
昭和四十四年五月十二日
海潮山四十二世慈徳(?)院日秀謹●

■ 山内掲示(鎌倉市、抜粋)
泉鏡花は明治24年に鎌倉に来て、この妙長寺に七・八月の二か月滞在した。
その後、十月に思い切って(尾崎)紅葉を訪ね、入門を許された。以後創作に励み、小説家として認められ、数々の名作を残した。
この妙長寺滞在の経験をもとにして、明治31年に小説「みだれ橋」を発表し、後に「星あかり」と改題した。

星あかり(山内説明板より)

もとより何故といふ理はないので、墓石の倒れたのを引摺寄せて、二ツばかり重ねて臺にした。其の上に乗って、雨戸の引合せの上の方を、ガタゝ動かして見たが、開きさうにもない。雨戸の中は、相州西鎌倉亂橋の妙長寺といふ、法華宗の寺の、本堂に隣つた八畳の、横に長い置床の附いた座敷で、向つて左手(ゆんで)に、葛籠、革鞄などを置いた際に、山科といふ醫學生が、四六の借蚊帳を釣つて寝て居るのである。



-------------------------



小町大路「水道橋」交差点から南に少し行った道沿いにあります。
小町大路から間口と奥行きのある参道を置き、入口には日蓮聖人の尊像が奉安されています。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 日蓮上人像


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

山門は脇塀付きの切妻屋根銅板葺の四脚門で、正面に本堂が見えます。
石敷きで開けたイメージの山内です。

浄行菩薩堂には丁寧な浄行菩薩の説明書があり、堂上部奥には大曼荼羅も掛けられていました。


【写真 上(左)】 浄行菩薩堂
【写真 下(右)】 本堂

本堂は寄棟造銅板で向拝柱はなく、向拝見上げに寺号扁額を掲げています。
明るくすっきりとしたきもちのよい向拝です。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

山内には「日蓮上人伊豆法難記念」と刻まれた高さ約十メートルの相輪塔があります。
この相輪塔は昭和8年5月に建てられました。
中央の石柱は関東大震災のときくずれた鶴岡八幡宮の二の鳥居の一部を用い、寛文八年(1668年)8月の銘があるそうです。


【写真 上(左)】 縁起碑
【写真 下(右)】 相輪塔と鱗供養塔

他にも立派な寺号標(お題目碑)があり「鱗供養塔」もあります。
「鱗供養塔」は当山で執り行なわれる、材木座海岸沖の放生会にちなむものです。


御首題・御朱印は山内庫裏にて拝受しました。
御首題・御朱印とも、伊豆法難船出の地にかかる揮毫があります。


〔 妙長寺の御首題・御朱印 〕


【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 日蓮大菩薩の御朱印


以下、つづきます。



【 BGM 】
■ Angel - Change


■ Hero - David Crosby & Phil Collins


■ Don't Call My Name - King of Hearts -
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

■ 鎌倉市の御朱印-14 (B.名越口-9)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)から。


43.南向山 帰命院 補陀落寺(ふだらくじ)
鎌倉市観光協会Web

鎌倉市材木座6-7-31
真言宗大覚寺派
御本尊:十一面観世音菩薩
司元別当:(材木座)諏訪神社(鎌倉市材木座)
札所:鎌倉三十三観音霊場第17番、相州二十一ヶ所霊場第10番、新四国東国八十八ヶ所霊場第81番

補陀落寺は源頼朝公開基、文覚上人開山とも伝わる古義真言宗の古刹です。

鎌倉市観光協会Web、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。

補陀落寺は養和元年(1181年)源頼朝公が文覚上人を開山として建立、源頼朝公の御祈願所であったとも伝わる名刹です。

中興は、鶴岡八幡宮の供僧佛乗房浄國院賴基大夫法印(文和四年(1355年)寂)と伝わります。

もと京都仁和寺の直末で、その後鎌倉手広の青蓮寺の末寺となりましたが、後に京都大覚寺の直末となったようです。

補陀洛寺は別名を「竜巻寺」ともいい、幾度も竜巻や火災に遭っているようで寺伝類の多くは失われたといいますが、それでもいくつかの寺宝が伝わります。

「平家の赤旗」は、平家の総大将平宗盛が最後まで持っていたものとされ、頼朝公による奉納と伝わります。
平家の赤旗は春の「鎌倉まつり」期間中、公開されている模様です。

御本尊の十一面観世音菩薩立像は伝・平安時代作、薬師如来および両脇侍像(中尊は行基、脇侍は運慶作との伝あり)、伝・文覚上人裸形像などの尊像が伝わり、明治元年の火災でも仏像類がすべて無事であったといいます。

御本尊の十一面観世音菩薩は鎌倉三十三観音霊場第17番札所本尊、木造弘法大師坐像(秘鍵大師)は南北朝時代の作と伝わり相州二十一ヶ所霊場第10番の札所本尊です。
また、奉安の千手観世音菩薩は新四国東国八十八ヶ所霊場第81番の札所本尊です。

鎌倉三十三観音霊場の巡拝者はそれなりにいると思いますが、相州二十一ヶ所霊場、新四国東国八十八ヶ所霊場はどちらかというと「知る人ぞ知る」霊場で巡拝者は多くないと思います。

新四国東国八十八ヶ所霊場は川崎から横浜、そして逗子、鎌倉、藤沢と巡拝する神奈川県の弘法大師霊場(八十八ヶ所)です。

初番・発願は川崎大師(平間寺)、第88番の結願は鎌倉・手広の青蓮寺。
番外や掛所はなく、八十八の札所はすべて真言宗寺院です。
札所一覧は→こちら(「ニッポンの霊場」様)

新四国東国霊場はすこぶる情報が少なく、ガイドブックはおろかリーフレットさえみたことがありません。
そのわりにしっかりとした札所標が設置されていたりして、どうもナゾの多い霊場です。

新四国東国霊場で面白いのは、ふつう弘法大師霊場では御本尊ないし弘法大師が札所本尊となりますが、新四国東国霊場では別尊や境内仏が札所本尊となる例がみられることです。
当山でも新四国東国霊場の札所本尊は、寺院御本尊(十一面観世音菩薩)ではなく千手観世音菩薩となっています。

新四国東国霊場の鎌倉市内の札所はつぎの7箇寺で、宗派は真言宗大覚寺派、真言宗泉涌寺派、高野山真言宗と古義真言宗系です。
観光寺院はほとんどなく、この点からも新四国東国霊場が「知られざる霊場」であることがわかります。

第81番 南向山 帰命院 補陀洛寺 鎌倉市材木座6
第82番 泉谷山 浄光明寺 鎌倉市扇ヶ谷2
第83番 普明山 法立寺 成就院 鎌倉市極楽寺1
第84番 龍護山 満福寺 鎌倉市腰越2
第85番 小動山 松岩院 浄泉寺 鎌倉市腰越2
第86番 加持山 宝善院 鎌倉市腰越5
第88番 飯盛山 仁王院 青蓮寺 鎌倉市手広

詳細は■ 新四国東国八十八ヶ所霊場の御朱印-1をご覧くださいませ。


---------------------------------
「希代の怪僧」ともいわれる文覚上人の開山とあっては、触れないわけにはいきません。
長くなりますが文覚上人の事績を追ってみます

【神護寺】
文覚上人を語るとき、神護寺は外すことができません。まずはここから始めます。

和気清麻呂は、天応元年(781年)頃、国家安泰を祈願して河内に神願寺、山城に和気氏の私寺として高雄山寺を建立しました。
和気氏は仏教への帰依篤く、伝教大師最澄、弘法大師空海を相次いで自らの高雄山寺に招きました。

その縁もあってか弘法大師は唐から帰国の三年後、大同四年(809年)に京入りを果たされ、高雄山寺に入られました。
弘仁三年(812年)、弘法大師は高雄山寺で有名な金剛界結縁灌頂、胎蔵灌頂を開壇されるなど、弘法大師と高雄山寺は深い所縁があります。

天長元年(824年)和気氏は神願寺と高雄山寺を合併し、寺号を神護国祚真言寺(略して神護寺)と改め、弘法大師の保護もあって真言宗の名刹として寺勢を強めました。
しかし正暦五年(994年)と久安五年(1149年)の二度の火災で寺勢衰微し、文覚上人の頃には、わずかに御本尊の薬師如来を風雨に晒しながら残すのみであったといいます。

【文覚上人】 (以下「文覚」と記します。)
文覚の生没年は不詳ですが、源頼朝公(1147-1199年)と同時代の人です。
父は左近将監(遠藤)茂遠、俗名を遠藤盛遠といい、出自は摂津源氏傘下の渡辺党とみられています。

北面の武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていましたが、19歳で出家したといいます。
出家の理由として、同僚の源渡の妻・袈裟御前に恋慕し、誤って彼女を殺したのが動機といいますが、史実として疑う説もあるようです。

文覚は弘法大師を深く崇敬したといい、出家ののち諸国の霊場を遍歴・修行しました。
その修行は苛烈をきわめ「文覚の荒行」「荒法師文覚」として世に知られていたようです。
安達太良山や那智滝などに文覚荒行伝説が残ります。

仁安三年(1168年)、文覚は30歳のころ弘法大師所縁の神護寺の荒廃を嘆き、再興を決意して神護寺に入り、草庵を結び、薬師堂を建てて御本尊を安置し、弘法大師住坊跡である納凉殿、不動堂等を再建したといいます。

しかし、復興が意のままに進まなかったため、承安三年(1173年)文覚は意を決して後白河法皇の法住寺殿におもむき、荘園の寄進を強訴しました。
この強訴は法皇の逆鱗にふれ、文覚は伊豆に流されました。

ところで、どうして文覚の配所が伊豆だったのでしょうか。
この件についてはこちらの記事で興味ある説を展開されていますので、こちらも参考にしつつ考えてみます。

文覚が後白河法皇の逆鱗にふれて捕縛され、預けられたのは源仲綱ともいいます。
源仲綱は源三位源頼政を父とする摂津源氏で、文覚が出たという渡辺党の主家筋です。

源三位頼政は後白河天皇の皇子・以仁王と結んで平家打倒の兵を挙げたものの戦いに敗れ、宇治平等院で自害しました。
しかし、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えたのは頼政で、平家打倒・源氏挙兵に大きな道筋を拓きました。

【文覚と源頼朝公】
折しも伊豆には平治の乱で清盛の義母池禅尼の助命により辛うじて斬罪を免れた源頼朝公が隠栖され、源仲綱はその頃伊豆守となっていました。
文覚はこの様な背景から伊豆に配流されたという見方があります。

つまり、後白河法皇-以仁王-源三位頼政-源仲綱という平家打倒・源氏挙兵をもくろむラインがあって、このラインの総意により文覚は伊豆の源頼朝公のもとに送り込まれたという説です。

そうでもなければ、河内(清和)源氏とさほど近しくもない文覚が、頼朝公に熱心に源家再興を説いた動機がわかりません。

文覚は近藤四郎国高に預かりとなって、韮山東部の「奈古屋寺」に籠居しました。
ここは現在の天長山 国清寺の山手で、いまでも「文覚上人流寓之跡」として石碑が残されています。

このそばには頼朝公が文覚に建てさせたという毘沙門堂(安養浄土院/瑞龍寺授福寺)があり、いまは「国清寺の毘沙門堂」といわれています。
また、国清寺の御本尊・聖観世音菩薩は、奈古屋寺の御本尊であったとも伝わります。


【写真 上(左)】 国清寺
【写真 下(右)】 国清寺の御朱印

奈古屋寺と頼朝公の配所・蛭ヶ小島はほど近く、文覚が足繁く頼朝公を訪れたという逸話もうなづけます。

ともかくも頼朝公と文覚は親交を深め、文覚は頼朝公に源家再興を強く促したといいます。また、頼朝公は源家再興の暁には神護寺復興を約したとも。

治承二年(1178年)、中宮徳子の皇子出産による恩赦で文覚は赦免されました。
その後の数年間の消息が明らかでなく、いくつかの逸話が遺る由縁となっています。

すぐさま帰京し、後白河法皇の許しを得て治承四年(1180年)平氏追討の院宣を介して頼朝公に挙兵を促したという説もあります。

この類似パターンとして、『愚管抄』は治承四年(1180年)当時福原京にいた藤原光能を文覚が訪れ、頼朝公の上奏を後白河法皇に取りつぎ清盛公追討の院宣を出させるように迫ったとの伝聞を記していますが、『愚管抄』の筆者(慈圓僧正)はこれを否定しています。

一度は逆鱗にふれ伊豆に流された文覚ですが、後白河法皇に敬愛の念をいだいていた節があり、治承二年(1179年)平清盛公が法皇を幽閉したのを憤り、(院宣の有無はさておき)頼朝公に平家打倒を督促したという見方もあるようです。

寿永元年(1182年)後白河法皇の蓮華王院御幸の折、文覚は推参して直訴し、ついに正式に法皇の御裁許を得ました。
法皇は翌年、荘園を寄進せられ、寿永三年(1184年)には頼朝公も丹波国宇都荘ほかを寄進、文覚の神護寺再興はここに成ったともいいます。

『吾妻鏡』には、寿永元年(1182年)頼朝公の命により文覚が江ノ島の岩屋に弁財天を勧請とあるので、頼朝公の支援を得て東国でもいくつかの寺院を開創している可能性があります。

元暦二年(1185年)、今後の神護寺のあり方を定めた『(文覚)四十五箇條起請文』を起草して法王に上奏しました。
その内容は強訴を是認する内容を含むものでしたが、法王はこれを咎めることはなかったともいわれ、文治六年(1190年)には高雄山寺に法皇の御幸がありました。

文覚は神護寺復興と並行して東寺の復興、高野山大塔の復興にも関わったとされています。

建久三年(1192年)後白河法皇が崩御され、正治元年(1199年)に頼朝公が没すると文覚はその後ろ盾を失いました。

建久九年(1198年)、権大納言源(土御門)通親は文覚が東寺講堂の諸仏を勝手に動かしたとして咎め、佐渡に流しました。
この流罪はいわゆる「三左衛門事件」に絡むものとみられています。

この事件は正治元年(1199年)頼朝公逝去の直後、遺臣・一条能保・高能父子が源通親の襲撃を企てたとして逮捕された事件です。

外孫・土御門天皇を擁立して権勢を手にした源通親は、頼朝公の嫡子・頼家公の左中将昇進の手続きを強引に進めたところ騒動となり、後藤基清・中原政経・小野義成が頼家公の雑色に捕らえられ、文覚も検非違使に身柄を引き渡され、佐渡へ配流となりました。

しかし、「三左衛門事件」の連座で佐渡配流はいささか罪科が重すぎる感じがあります。
それに文覚佐渡配流は建久九年(1198年)、「三左衛門事件」は正治元年(1199年)とされるので、文覚の佐渡配流は「三左衛門事件」より前で、別の理由も考えられます。

Wikipediaには「『延慶本平家物語』には文覚が守貞親王擁立を企て、頼朝に働きかけたが実現しなかったという記述がある。(中略)通親に対する守貞親王派の不満が噴出したもので、頼朝死後の幕府首脳部は後鳥羽上皇との関係改善のために、守貞親王派の持明院家、一条家、文覚を切り捨てたのではないかと推測」「文覚の勧進事業で寄進されていた神護寺領が事件後に後鳥羽上皇に没収され、承久の乱で後鳥羽上皇が配流されると、今度は鎌倉幕府を介してその所領を与えられた後高倉院(守貞親王)が直ちに上覚(文覚の弟子で師の没後に神護寺再建の中心人物となった)へ返還されていることから、文覚を首謀者とする守貞擁立構想は実際に存在したとする見解も」などの記述があります。

文覚が守貞親王擁立を企て失敗して佐渡へ配流という説もあるようで、この説の方が遠流という重罪に見合っている感もありますが、真相は闇のなかです。

頼朝公は建久六年(1195年)あたりから息女・大姫の入内(後鳥羽天皇への輿入れ)を源通親と丹後局(後白河帝の側室)に画策しましたが、 建久八年(1197年)夏の大姫逝去によりその企ては潰えました。
このあたりの機微にも文覚が絡んでいたのかもしれません。

また、源通親は後白河天皇の第六皇女・宣陽門院の領する広大な長講堂領を実質的に管理していたとみられ、長講堂領を巡るさまざまな駆け引きに文覚が一枚噛んでいたのかも。

佐渡配流3年後の建仁元年(1202年)源通親が没すると、文覚は許されて京に帰りましたが、その間に文覚が保護していた平高清公(六代御前)が処刑されたため、文覚佐渡配流と六代御前処刑の因果関係を示唆する説もあります。

【文覚と平高清公(六代御前)】
寿永二年(1183年)、源義仲の攻勢を受けて平氏が都落ちをしたとき、平維盛公は妻子を都に残して西走しました。
維盛公の嫡子・高清公(六代御前、平正盛公から直系六代目で清盛公の曾孫)は母(藤原成親の息女、新大納言局)とともに京の大覚寺北に潜伏していましたが、平氏滅亡後の文治元年(1185年)に北条時政の捜索で捕らえられました。

平家の嫡流ゆえ、鎌倉に送られて斬首となるところ、文覚の助命嘆願が功を奏して処刑を免れ、身柄は文覚に預けられたといいます。
文治五年(1189年)六代御前は剃髪して妙覚と号し、建久五年(1194年)には文覚の使者として鎌倉を訪れ、大江広元を通じて鎌倉府に対して異心ないことを伝えました。

頼朝公は平治の乱後、六代御前の祖父・平重盛公が自身の助命に尽力してくれた恩として、六代御前をしかるべき寺の別当に任命しようと申し出たと伝わります。
(文覚は、六代御前を神護寺に保護したという説あり。)

六代御前は頼朝公-文覚上人の保護下にありましたが、正治元年(1199年)頼朝公逝去からほどなく処刑されたことになります。

なお、逗子市桜山8丁目に六代御前の墓と伝えられる塚があり、逗子市史跡指定地となっています。

【文覚と頼朝公の関係】
頼朝公は大江広元・中原親能はもとより、九条兼実、源通親ら有力公卿との関係も築き、朝廷ないし後白河法皇とのとりもち役として文覚を頼ったとは考えにくいです。

頼朝公は尊大な人物やアクの強い武将をしばしば粛清しており、この流れからすると個性が強すぎる文覚はすぐにも逆鱗にふれそうです。

また、文覚が保護した六代御前は平家嫡流の遺児ですから、猜疑心の強い頼朝公であれば平家再興の芽を摘むために真っ先に抹殺しているはずです。

ところが文覚も六代御前も頼朝公存命中は咎を受けず、むしろ頼朝公が保護していた感があります。

となると、頼朝公が損得勘定を度外視して文覚に惹かれるなにか、たとえば人間的な魅力とか、卓越した験力とか、そういうものが文覚には備わっていたのかもしれません。

【文覚と後鳥羽上皇】
建仁二年(1202年)「三左衛門事件」に連座して佐渡に配流されたという文覚を赦免し、召還したのは後鳥羽上皇とも目されます。
文覚は後鳥羽院政下で一時はポジションを得たともみられますが、建仁三年(1203年)後鳥羽上皇によって対馬国へ流され、途中、鎮西で客死したとも伝わります。

文覚対馬配流の理由については「文覚が上皇に暴言を吐き怒りを買った」「上皇より謀叛の疑いをかけられた」「文覚が後鳥羽上皇の政を批判した」などいろいろな説が見られますが定説はないようです。

後鳥羽天皇はすこぶる多才で果断な人物と伝わり、同様の個性をもつ文覚とはどうしても感情的に相容れなかったのかもしれません。

文覚の墓所とされる場所は神護寺裏山山頂のほか、隠岐や信州高遠など全国各地にあり、怪僧文覚の神出鬼没ぶりがうかがわれます。


晩年の文覚の活動はさながら「政僧」の趣で、その活動と人脈はあまりに複雑で整理がつかなくなるのですが、後ろ盾だった後白河法皇が没し、正治元年(1199年)に頼朝公が没するとその立場はきわどいものとなったことは容易に想像がつきます。
そして後鳥羽院政下で、その力を失ったことになります。

後白河法皇、後鳥羽上皇、源頼朝公、そして平家嫡流六代御前・・・。
動乱の時代をきらびやかな人脈のなかで生きた文覚は、『平家物語』の数々の名場面でも描かれ、その強烈な個性もあいまっていまも歴史のなかで光芒を放っています。


ながながと辿ってきましたが、源頼朝公開基、文覚上人開山とも伝わる補陀落寺は源平騒乱の歴史に彩られています。

『吾妻鏡』には、寿永元年(1182年)頼朝公の命により文覚が江ノ島の岩屋に辨財天を勧請とあるので、養和元年(1181年)創建の補陀落寺は江ノ島に先立つ開山とみられます。

養和元年(1181年)は、前年の富士川の戦いで平家軍と干戈を交え、これから平家軍との本格的な戦いがはじまるというタイミングです。

この時点での頼朝公の「祈願」が平家調伏、源氏戦捷であったことは容易に想像できるところで、これは『新編相模国風土記稿』の補陀落寺の項に「本尊不動(長三尺智證作、平家調伏の像と云ふ)」「卓圍(祭壇布)一張 頼朝の寄附にて、平家調伏の打敷(仏壇の荘厳具)と云ふ」とあることからも裏付けられます。

江の島岩屋の辨財天も、養和二年(1182年)頼朝公の奥州藤原氏征伐祈願のために文覚が勧請という縁起が伝わり、文覚による祈祷はいずれも験を顕したことになります。

このような文覚の験力も、頼朝公の信任を高めたとみられます。

補陀落寺の梵鐘(観応元年(1350年)鋳造)は、いまは松岡(北鎌倉)の東慶寺にあり、これは農民が当地の土中から掘り出したものといいます。
また、東慶寺の旧梵鐘は、韮山の日蓮宗本立寺にあるといいます。

材木座の補陀落寺の梵鐘が、かなり離れた松岡(北鎌倉)の土中から掘り出されるとは不思議なはなしですが、とにかくそういうことになっています。


東慶寺の梵鐘

また、当山の鎮守・寶満菩薩像(見目明神)は、五社神社と所縁をもつともいわれています。

いまは住宅地のなかにひっそりと佇む補陀落寺ですが、文覚を巡る物語や鎌倉幕府草創の歴史に思いを馳せ、巡ってみるのもまた一興ではないでしょうか。


-------------------------
【史料・資料】

『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
補陀落寺は南向山帰命院と号す 材木座の東、民家の間にあり。
古義の真言宗にて、仁和寺の末寺なり。開山は、文覺上人なり。
勧進帳の切たるあり。首尾破れて、作者も年号も不知。其中に文覺、鎌倉へ下向の時、頼朝卿、比来の恩を報ぜんとて、此寺を立られしとあり。
其後頽廃せしを、鶴岡の供僧頼基中略せしとなり。(中略)

本尊薬師・十二神、運慶作也。文覺上人の位牌あり。開山権僧正法眼文覺尊儀とあり。頼朝の木像あり。鏡の御影と云ふ。白旗明神と同じ體なり。同位牌あり。征夷大将軍二品幕下頼朝神儀とあり。

寺寶
八幡画像壱幅 束帯にて袈裟をかけ、数珠を持つしむ。冠より一寸ばかり上に日輪をゑかく。
寶満菩薩像一軀 八幡の姨なり。鶴岡にもあり。社家にては見目明神(ミルメ)と云ふ。
平家調伏の打敷壱張
平家赤旗壱流 幅二布、長三尺五分あり。九萬八千軍神と、書付てあり。(中略)

鐘楼跡
今跡のみ有て鐘もなし。当寺の鐘は、松岡東慶寺にあり。農民、松岡の地にて掘出したりと云ふ。銘を見れば、当寺の鐘なり。兵乱の時、紛散したるなるべし。

東慶寺(松岡)
鐘楼
山門外、右にあり。此寺の鐘は、小田原陣の時失して、今有鐘は、松岡の領地にて、農民ほり出したりと云う。銘を見るに補陀落寺の鐘なり。故に此鐘の銘は補陀落寺の條下に記す。

『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(材木座村)補陀落寺
南向山帰命院と号す 古義真言宗 往昔京都仁和寺に属せしが、今は手廣村青蓮寺末たり 開山は文覺にて養和元年(1181年)頼朝祈願所として創建あり
按ずるに、当寺に勧進帳の切あり、首尾破れて詳ならず、其中に文覺鎌倉へ下向の時、頼朝比来の恩を報ぜんとて、此寺を建られしとあり、思ふに此勧進帳の文は、中興の僧、頼基の作なるべし
其後頽廃せしを鶴岡の供僧頼基(鶴岡供僧次第に、佛乗房浄國院頼基大夫法印、文和四年(1355年)二月二日寂す、千田大僧都と号すとあり)中興せり(中略)

本尊不動(長三尺智證作、平家調伏の像と云ふ、按ずるに、【鎌倉志】には、本尊薬師とあり)及び薬師(長三尺七寸行基作)日光・月光・十二神(長各二尺八寸、共に運慶作)十一面観音(長三尺八寸許行基作、往昔の本尊なりと云ふ)地蔵二軀(一は鐡佛、長一尺許、門前の井中より出現せしと云ふ、一は弘法作、長一尺七寸)大黒(長尺許傳作)大日(長八寸許)賓頭盧(長三尺已上弘法作)等の像を置く、又頼朝の木像あり(長八寸許四十二歳の自作と云ふ)鏡の御影と称せり、同位牌あり 征夷将軍二品幕下神儀とあり文覺の書と云ふ)開山文覺の牌もあり(開山権僧正法眼文覺尊儀とあり)

【寺寶】
八幡画像一幅 束帶にて袈裟をかけ、數珠を持しむ、冠より一寸ばかり上に、日輪を畫
寶満菩薩像一幅 應神帝の姨にて、見目明神と称すとなり
卓圍(祭壇布)一張 頼朝の寄附にて、平家調伏の打敷(仏壇の荘厳具)と云ふ、孔雀鳳凰の繍文あり
旗一流 平家赤旗と称し、文字は相國清盛の筆と傳ふ(中略)
牛頭天王見目明神合社 大道寺源六周勝社領二貫三百文及び寺内修補の料を寄附せし事所蔵文書に見えたり
住吉社

鐘楼蹟
𦾔観應年間の古鐘あり。兵乱の為に亡失せしを後松岡ヶの農民地中より掘出し同所東慶寺に収むと云ふ。今尚あり。

■ 『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市)(抜粋)
南向山帰命院補陀落寺と号する。古義真言宗。もと京都仁和寺末。のち青蓮寺末。現在京都大覚寺末。開山は文覚上人、開基は源頼朝と伝える。後、鶴岡八幡宮供僧頼基が中興した。
本尊、十一面観音。もとの本尊は薬師如来。日光・月光、ほかに不動明王あり。
境内地163坪。本堂・門・庫裏あり。(中略)

開基は仏乗坊の八代及び十代で、建武三年六月に還補されているから、この寺の鐘ができた観応元年(1350年)には供僧であったこととなる。(中略)
『新編鎌倉志』は鐘銘及び寺号によって、本尊は観音であったはずであるといっている。
従うべきであろう。(中略)
当寺が頼朝と関係があることは前述の勧進帳に見えるのを初見とするが(中略)頼朝の供養をここですることになっていたらしい。(中略)
明治初年の火災で殆ど烏有に帰したが、その時誰も出した覚えがないのに、仏像類は全部無事であったという。大正十二年震災で全壊し、現在の本堂は大正十三年の建立である。


-------------------------



材木座の巨刹、光明寺にもほど近い住宅街にあります。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 石碑

山内入口に門柱で、その手前に「源頼朝公御祈願所●●補陀落寺」と彫られた石碑があります。


【写真 上(左)】 門柱
【写真 下(右)】 山内

山内は広くはないですが閑雅な落ち着きがあり、「荒法師開山」のイメージはあまりありません。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 寺号板

本堂はおそらく切妻造桟瓦葺平入りで、右手に寄せて流れ向拝を置いています。
向拝の柱や虹梁はシンプルですが、向拝柱に寺号標を掲げています。


【写真 上(左)】 庫裏への道
【写真 下(右)】 同 紫陽花


御朱印は庫裏にて拝受しました。
鎌倉三十三観音霊場、相州二十一ヶ所霊場、新四国東国八十八ヶ所霊場いずれの御朱印も拝受していますが、現況の授与状況は不明です。


〔 補陀落寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 弘法大師の御朱印(ご縁日)
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印

 
【写真 上(左)】 相州二十一ヶ所霊場の御朱印
【写真 下(右)】 新四国東国八十八ヶ所霊場の御朱印


44.円龍山 向福寺(こうふくじ)
公式Web

鎌倉市材木座3-15-13
時宗
御本尊:阿弥陀三尊
司元別当:
札所:鎌倉三十三観音霊場第15番

向福寺は一向俊聖上人開山と伝わる時宗寺院です。

公式Web、下記史料・資料、現地掲示から縁起沿革を追ってみます。

向福寺は弘安五年(1282年)、開山を一向俊聖上人として創建されました。
一向俊聖上人(1239年?-1287年?)は、鎌倉時代の名僧で時宗一向派の祖です。
儀空菩薩とも呼ばれます。
「新纂 浄土宗大辞典」および「Wikipedia」を参考にその足跡を追ってみます。


伝承によれば、筑後国竹野荘西好田(福岡県久留米市)の御家人草野永泰の次男として生まれたといいます。
永泰の兄草野永平は浄土宗鎮西派の聖光上人(弁長)に帰依し、建久三年(1192年)に久留米善導寺を建立した大檀越でした。

寛元三年(1245年)、播磨国書写山圓教寺に入寺して天台教学を志し、建長五年(1253年)に剃髪受戒して名を俊聖としました。

翌年夏に書写山を下り、奈良興福寺などで修行されるも悟りを得られず、鎌倉蓮華寺(光明寺)の然阿良忠上人の門弟となりました。

一向専念の文より号を一向と改め、文永十年(1273年)から各地を念仏聖として遊行回国し、踊り念仏(踊躍念佛)、天道念仏(天童念佛)を修して道場を設けました。
後年は遊行と踊り念仏で民衆を教化し、弘安一〇年(1287年)11月、近江国番場蓮華寺(滋賀県米原市)で立ち往生したと伝わります。

俊聖上人の教えは時宗一向派(天童派)として各地に広く伝わったため伝承も多く、ナゾの多い僧ともいわれます。
実在していないという説さえありましたが、近年山形県天童市の高野坊遺跡より出土した墨書の礫石経により、その実在が立証されています。

ただし、法統については諸説あり、浄土宗鎮西義の然阿良忠上人のほか、浄土宗西山深草派西山三派の祖・証空門下の顕性に師事したという説もあります。

一向俊聖上人を祖とする(時宗)一向派は時宗十二派の一つで、番場時衆、時宗番場派とも呼ばれ、本山は番場蓮華寺(滋賀県米原市)です。

「一向派」の呼称は、元禄一〇年(1697年)成立の時宗触頭・浅草日輪寺吞上人著の『時宗要略譜』が初見とされます。
『一向上人血脈譜』によると、上人には「十五戒弟」と称する弟子があり、東北、関東、甲信越を中心に布教をすすめて全盛期には末寺一七四箇寺を数えたといいます。

とくに山形県天童市の仏向寺は一向俊聖上人開山で、番場蓮華寺とならぶ中心寺院となっています。

江戸幕府の宗教政策により時宗遊行派の傘下に編入され、派内の本末論争などもあって衰勢となりました。
当初「一向宗」とし、江戸時代に「時宗」に吸収されたとする資料もみられます。

「新纂 浄土宗大辞典」には、明治36年時宗内で一向派の立場を認める『時宗宗憲宗規』が制定されましたが、昭和16年の一宗一管長制により、翌17年には一向派97箇寺中57箇寺が時宗より浄土宗に転宗、残る41箇寺は時宗にとどまったとあります。

向福寺は、おそらく時宗一向派(あるいは一向宗)から時宗となった寺院のひとつとみられます。

公益財団法人住友財団の公式Webによると、御本尊の阿弥陀三尊木像は中世(現地掲示資料では南北朝時代)作。檜材、割矧ぎ造ないし寄木造りで玉眼を嵌入しています。
脇侍の観世音菩薩、勢至菩薩とともに鎌倉市指定文化財に指定されています。

また、『鎌倉札所巡り』(メイツ出版)・現地掲示によると、当山本堂南側の部屋は、『丹下左膳』で知られる作家・林不忘(長谷川海太郎、1900年-1935年)が関東大震災前に新婚生活を送ったところです。


-------------------------
【史料・資料】

『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(乱橋村)向福寺
圓龍山と号す 本寺前に同じ(藤澤清浄光寺末) 本尊三尊彌陀を安ず 各立像、安阿彌作

■ 山内掲示(鎌倉市)
公式Webと重複するため略。

■ 『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市)(抜粋)
円龍山向福寺と号する。時宗。藤沢清浄光寺末。
開山、一向。
本尊、阿弥陀如来。
境内地229.7坪。本堂兼庫裏あり
『大正三年明細書』によれば文政九年に再建した本堂・表門があったが、大正大震災で全潰した。今の本堂は昭和五年の再建である。


-------------------------



小町大路「水道路」交差点から少し南下した右手の路地沿いにあり、あまり目立ちません。
門柱に「時宗 向福寺」となければ、ほとんど民家にしか見えません。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 門柱の寺号標

山内は緑が多く、植木鉢もきれいに並べられています。
参道正面の本堂は入母屋造銅板で身舎右手に向拝を附設しています。
本堂は庫裏とつながり、一見寺院建築のイメージはあまりありません。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂

向拝は水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、中備に板本蟇股を置いています。
ここまでくるとさすがに寺院本堂の存在感があります。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 観音霊場の札所板


ガラス格子の扉のうえに鎌倉三十三観音霊場の札所板を掲げています。

文政九年(1826年)再建の本堂は大正の関東大震災で全潰し、いまの本堂は昭和五年の再建とのことですが、そこまで古びた感じはないので手を入れられているかもしれません。

観音堂はなく、本堂向拝に札所板が掲げられているので、鎌倉三十三観音霊場第15番の札所本尊・聖観世音菩薩立像は、御本尊の阿弥陀三尊とともに本堂内に奉安とみられます。


御朱印は庫裏にて拝受しました。
御本尊と鎌倉三十三観音霊場の御朱印を授与されています。


〔 向福寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御本尊・阿弥陀如来の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印


■ 鎌倉市の御朱印-15 (B.名越口-10)へつづく。



【 BGM 】
■ Hearts - Marty Balin


■ If I Belive - Patti Austin


■ Late At Night - George Benson Ft. Vickie Randle
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

■ 倍音と1/fゆらぎ ~ カラバトU-18黄金の世代の歌声 ~

あまりに目からウロコ状態だったので、忘れないうちに入れてみます。
あとでじっくり整理します。


【倍音深掘り】スーパーボーカリストは2つの倍音を駆使して心を掴む。演奏に負けない歌声と人を感動させる響きの正体について説明します。

なるほど、「整数次倍音」と「非整数次倍音」か。
4:00~ (非整数次倍音は)自然の音、波の音とかにも含まれるような、不規則なんだけどすごく脳に心地よく響いてくる。

↑ これって、「1/fゆらぎ」のことだよね。

個人的には非整数次倍音系の楽器はドラムスでいうとスネアとハイハット、リード系だとテナーサックスやフェンダー・ローズだと思う。
だからこれらの楽器が多用されていた1980年代洋楽や「シティ・ポップ」は聴いてて心地いいのだと思う。

「(整数次倍音と非整数次倍音)二刀流の人もいる」ってあるけど、非整数次倍音出せる人はそもそも整数次倍音をベースで(通奏的に)出してると思う。だからほぼ二刀流。
響いている声のうえに、さらにゆらぎやニュアンスを加えられるということですね。

↓ まぁ、こういうことかな。

井上陽水&安全地帯(玉置 浩二) - 夏の終わりのハーモニー


---------------------------------
でもって、思い当たることがあった。
どうして、U-18黄金の世代時代のカラバトがあれだけ面白かったかという・・・。

そうですね。
U-18黄金の世代のトップクラスはほぼ、「整数次倍音と非整数次倍音の二刀流」だったんですね。

■ 【抜粋編】黄金の世代?(カラバトU-18が強い件)
■ 声質のオリジナリティ(数年前のカラバトU-18)
■ カラバトU-18黄金の世代の原点?

↑の記事から「非整数次倍音」シーンを引っ張ってみました。(違うかもしらんが(笑))

◎ 熊田このはちゃん

このはちゃんが「倍音」をもっていると断言した小室哲哉氏の発言シーン。↓

■【2014歌唱王】準決勝㉑熊田このはちゃん(12)小学6年生[3-3]


■ 20180211第23回メディカルスポーツフェスティバル 熊田このは カラオケ 100.00 安室奈美恵 Can you CELEBRATE?

音節末はほとんど「非整数次倍音」。とくに6:10からの流しめのビブラート。

以前書いた熊田このはちゃんの記事から ↓

声の質が綺麗な歌い手はいくらもいるけど、綺麗な声は平板でうすっぺらになりやすい。
このはちゃんは抜群に綺麗な声質をもっていながら、声に奥行きと艶と響きがある。
そして聴き手のこころに響く情感も・・・。
これは、1/fゆらぎと倍音によるところ大だと思う。

【 1/fゆらぎ 】
バズワードのひとつともされ、はっきりと定義づけされていないが、音楽でいうと「聴く人に心地よさやヒーリング感を抱かせる音や声」ということになるらしい。

規則的な音と無秩序な音の中間的な音とされ、「ここちよくゆらぐ音(声)」のイメージがある。
1/fゆらぎをもつとされる歌い手をみると、しっかりとした声質に特徴的なビブラートをもつ人が多い気がする。
ビブラート=ゆらぎに通ずるところがあるのかもしれない。

1/fゆらぎをもつものは接していて疲れない、また飽きないとされる。
たとえば小川のせせらぎ、そよかぜのそよぎ、木の葉のざわめき、木漏れ日、炎のゆらぎなど・・・。
希有のヒーリング感をもつ、このはちゃんの声もまた、1/fゆらぎをもっているのではないか。

◎ 佐久間彩加ちゃん

■ 【カラオケバトル公式】佐久間彩加:Crystal Kay「君がいたから」/2020.12.13 OA(テレビ未公開部分含むフルバージョン動画)

佐久間彩加ちゃんも「非整数次倍音」の使い手。
とくに4:21~「抱きしめてほしい」が「非整数次倍音」。

◎ 堀優衣ちゃん

■ 堀優衣『This Love』アンジェラ・アキ 天才美少女歌姫女子高生16歳「THE カラオケ★バトル」U-18最強高校生四天王 6冠 TOP7

たくさんあるけど、2:36~「この恋は」はとくに「非整数次倍音」。

◎ 鈴木杏奈ちゃん

■【カラオケバトル公式】鈴木杏奈:LiSA「炎」(森アナイチオシ動画)

これもたくさんあるけど、4:50~「遠い未来まで」はとくに「非整数次倍音」。

◎ 富金原佑菜ちゃん

■ 富金原佑菜「流星群 (鬼束ちひろ)」2018/09/17 あべのAステージ

1:15~「いつだって」がおそらく「非整数次倍音」。
すこぶる複雑な声質で、この子は3つめの倍音持ってるかも。

---------------------------------
■ SARI(柴山サリー)

坂井泉水さんも「非整数次倍音」もっていた。
SARI(柴山サリー)がここまで泉水さんに迫れるのは、「非整数次倍音」もっているからだと思う。


■ LiSA x Wakana (Kalafina) Lisani! 2017 M03 THIS ILLUSION

LiSAは「整数次倍音」系、Wakanaは「非整数次倍音」系(二刀流)だと思う。

■ Kalafina - Mirai 未来

Hikaruは「整数次倍音」系、KeikoとWakanaは「非整数次倍音」系(二刀流)だと思う。
3人の倍音シンガーが紡ぎ出す、圧倒的なハーモニー。
梶浦由記さんと倍音シンガーが組んだら敵なし。


---------------------------------
このボイトレさん(ひろこクラブ)さん、鋭い!

9:45~
最近の若い子は知らず知らずに倍音を身につけてて、歌がうまくなってるとの指摘があるけど、本当にそう思う。

■ 風向きが変わった? ~ 女神系歌姫の逆襲 22曲 ~
■ 女神系歌姫 (ハイトーンJ-POPの担い手たち)【リニューアル】

---------------------------------
■ 私にはできない/ Eiーvy【MV】

Suno AI使用ですばらしい仕上がり。
楽曲はともかく、ヴォーカルはAIじゃムリだと思っていたが、これ聴くかぎりヤバイ。

↑ おそらくAIに倍音歌わせてる。
でも、こういうAIパフォーマンスもとり込んで、令和の歌姫たちは進化していくのだと思う。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

■ 鎌倉市の御朱印-13 (B.名越口-8)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)から。


40.隨我山 来迎寺(らいこうじ)
公式Web
鎌倉市観光協会Web

鎌倉市材木座2-9-5
時宗
御本尊:阿弥陀如来(弥陀三尊)
司元別当:
札所:鎌倉三十三観音霊場第14番

鎌倉には来迎寺を号する時宗の寺院がふたつあります。
ふつう満光山 来迎寺を「西御門来迎寺」、隨我山 来迎寺を「材木座来迎寺」と呼んで区別しているようです。

来迎寺は材木座の氏神とされる五所神社の並びにある時宗寺院です。

公式Web、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。

来迎寺は建久五年(1194年)、源頼朝公が鎌倉幕府開創の礎石となった三浦大介義明の冥福を祈るため、真言宗能蔵寺を建立したのが創始とされますが、草創時の開山は不明です。
頼朝公亡きあと、音阿上人が開山となり時宗に改宗して来迎寺と号を改めました。

境内には三浦義明の木造と、義明および多々良重春(一説には義明夫婦)の二基一組の五輪塔墓があり、本堂裏手には三浦一族の墓とされる百基あまりの五輪塔や寶篋印塔が並びます。
多々良重春は石橋山の戦いで戦死した武将で、三浦義明の孫ともいいます。

御本尊は阿弥陀如来(弥陀三尊)で、三浦義明の守護佛と伝わります。

鎌倉三十三所観音霊場第14番札所としても知られ、札所本尊は「子育て観音」。
この観音様に念ずれば、必ず智恵福徳円満な子供を授かるとして、古来から尊崇を集めました。
以前は当山本堂裏側の山頂に観音堂がありましたが、昭和十一年、軍事的な理由から国の指令により取り壊されたといいます。
従前の観音堂は鎌倉市街を隔て、長谷観音と相対していたといいます。

当山は明治五年十二月の材木座発火の類焼に遭い寺宝はことごとく消失したといいます。
よって『新編相模国風土記稿』にある「宗祖一遍上人像、三浦義明の像」は現存しません。

三浦氏については「鎌倉殿の13人」と御朱印-6/37.岩浦山 福寿寺にまとめているので転記します。

三浦氏は桓武平氏良文流(ないし良兼流)で、神奈川県資料『三浦一族関連略系図』によると、高望王の子孫・為通が村岡姓を三浦姓に改め、為継、義継、義明と嗣いでいます。

三浦大介義明は三浦郡衣笠城に拠った武将で三浦荘の在庁官人。
”三浦介”を称して三浦半島一円に勢力を張りました。
三浦氏は、千葉氏・上総氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏とともに「坂東八平氏」に数えられる名族です。

義明の娘は源義朝公の側室に入ったとされ、義朝の子・義平が叔父の義賢と戦った「大蔵合戦」でも義朝・義平側に与しました。
(義平公の母が義明の娘という説もあり)

このような背景もあってか、治承四年(1180年)の頼朝公旗揚げ時には当初から一貫して頼朝公側につき、次男の義澄率いる三浦一族は加勢のため伊豆に向けて出撃するも、大雨で酒匂川を渡れず石橋山の戦いには参戦していません。
衣笠城への帰途、三浦軍は由比ヶ浜~小坪辺で畠山軍と遭遇し、畠山を撃退しました。

しかし、衣笠城に帰参してほどない治承四年(1180年)8月26日、畠山重忠・河越重頼・江戸重長らの秩父一族に攻められ、子の義澄以下一族を安房に逃した後、義明は奮戦むなしく討ち死にしました。(衣笠城合戦)

『吾妻鏡』によると、義明は「我は源氏累代の家人として、老齢にしてその貴種再興に巡りあうことができた。今は老いた命を武衛(頼朝公)に捧げ、子孫の手柄としたい。」と言い遺し、従容として世を去ったといいます。ときに齢89歳。

三浦義明の娘は畠山重能の正室といいますが、子に恵まれず江戸重継の娘を側室として重忠ら兄弟を生み、嫡男の重忠は義明の娘の養子となったという説があります。
(論拠は『源平盛衰記』が三浦義明が重忠を「継子孫」と呼んでいること。)
一方、三浦義明は実孫の畠山重忠に討たれたという説もあり、このあたりははっきりしません。

頼朝公は、老躯をおして秩父一族に対抗し討ち死にした三浦義明の功績を高く評価し、義明を称えたといいます。
頼朝公が衣笠の満昌寺で義明の十七回忌法要を催した際、「義明はまだ存命し加護してくれているのだ」と宣ったといい、戦死したときの89歳に回忌17年を加えた106から、義明は後に「三浦大介百六ツ」と呼ばれることとなります。

義明の犠牲により落ち延びた三浦一族は安房国で頼朝勢に合流、千葉常胤・上総介広常などの加勢を得て頼朝公は再挙し、10月に武蔵国へ入ると、畠山重忠・河越重頼・江戸重長ら秩父一族は隅田川の長井の渡で頼朝公に帰伏しました。

『吾妻鏡』には、三浦氏総領・義明のかたきである秩父一族の帰順に強く抵抗する三浦一族を、頼朝公みずからが説得したという記述があります。

三浦義明の長男・杉本義宗の子は和田義盛で侍所別当。
次男・三浦義澄は三浦氏を嗣ぎ、他の子息も大多和氏、佐原氏、長井氏、森戸氏などを興し、また重鎮・岡崎義実は義明の弟で、三浦党は一大勢力となりました。

三浦義澄は源平合戦でも武功を重ね、建久元年(1190年)頼朝公上洛の右近衛大将拝賀の際に布衣侍7人に選ばれて参院供奉、頼朝公逝去後には「十三人の合議制」の一人となり幕政でも重きをなしました。

義澄の子の義村は希代の策士ともいわれ、鎌倉幕府内で重要なポジションを占めましたが、このあたりの経緯については、「鎌倉殿の13人」と御朱印-6/37.岩浦山 福寿寺をご覧くださいませ。

しかし北条氏の専制強化には地位も実力もある三浦氏の存在は邪魔だったとみられるわけで、じっさい義村亡きあとの宝治元年(1247年)6月5日の「宝治合戦」で、三浦一族は北条氏と外戚安達氏らによって滅ぼされています。

三浦一族の流れとしては、三浦義明の七男・佐原義連から蘆名(芦名)氏が出て会津で勢力を張り、戦国期に伊達氏と奥州の覇を競いました。

来迎寺は、鎌倉幕府創建の大功労者ともいえる三浦大介義明の偉業を伝える貴重な寺院といえましょう。


-------------------------
【史料・資料】

『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(亂橋村)来迎寺
随我山と號す、時宗 藤澤清浄光寺末、開山一向 建治元年寂すと云ふ
本尊三尊彌陀を安ず 中尊、長二尺左右各長一尺五寸、共に運慶作、三浦大介義明の守護佛と云ふ、宗祖一遍の像あり、又三浦義明の木像を置く
三浦義明墓 五輪塔なり、義明は庄司義繼が長子なり、治承四年八月衣笠に於て自盡す、今三浦郡大矢部村(衣笠庄に属す)即義明自盡の所と伝ふ
建久年中義明が追福の為頼朝其地に一寺を創立して満昌寺と号せり、其域内に義明が廟あり尚彼寺の條に詳なり、此に義明の墳墓ある其縁故を知らざれど思ふに冥福を修せんが為寺僧の造立せしならん

■ 山内掲示(当山)
時宗来迎寺縁起
時宗来迎寺の開基は、建久五年(一一九四年)源頼朝が己の鎌倉幕府の基礎となった三浦大介義明の霊を弔う為、真言宗能蔵寺を建立したときに始まる。(能蔵寺の名は、この付近の地名として使われていた) 尚、開山上人は明らかでない。

おそらく頼朝が亡くなった後、現在の「時宗」に改宗したと思われるが改宗年代は不詳である。山院寺号を随我山来迎寺と号し、音阿上人(当時過去帳記載)が入山以降法燈を継承している。能蔵寺から起算すると実に八百余年の歴史がある。

時宗の総本山は神奈川県藤沢市西富、藤沢山清浄光寺、通称遊行寺と呼ばれている。開祖は一遍上人、今から七百年余り前文久十一年(一二七四年)熊野権現澄誠殿に参籠、熊野権現から夢想の口伝を感得し、「信不信浄不浄を選ばず、その札を配るべし」の口伝を拠り處に、神勅の札を携え西は薩摩から東は奥羽に至るまで、日本全国津々浦々へ、念仏賦算の旅を続けられること凡そ十六年。その間寺に住されることなく亡くなるまで遊行聖に徹した。
教法の要旨は『今日の行生座臥擧足下足平生の上を即ち臨終とこれを心得称名念仏する宗門の肝要となすなり』とある「念仏によって心の苦しみや悩みは、南無阿弥陀仏の力で救ってくださる」という教えである。

当寺の本尊阿弥陀如来(弥陀三尊)は三浦義明の守護佛と伝えられる。(中略)
鎌倉三十三観音札所十四番で子育て観音をおまつりしてある。
この観音様に念ずれば、必ず智恵福徳円満な子供を授かるとして、昔から多くの信者に信仰されている。以前、当寺の山頂(本堂裏側の山頂)にこの観音堂があったが昭和十一年、国の指令により「敵機の目標になるから」という理由で、取り壊された。鎌倉旧市街および海が一望でき、長谷観音と相対していた。

当山は明治五年十二月二十一日夜、材木座発火の類焼に遭い寺寶はことごとく消失してしまった。「相模風土記」によると「宗祖一遍上人像、三浦義明の像有り」とあるが現存しない。(中略)
当山四十五代照雄和尚の徳により三浦義明の像並びにこれ御安置する御堂を建立、昭和三十五年五月、義明七百八十年忌にあたり一族と共に供養した。(この義明像は三浦一族に由縁のある彫刻家鈴木国策氏の献身的な奉仕によって見事制作されたものである)
しかし、この御堂も諸般の事情により取り壊した。将来境内整備が終わりしだい再建する予定である。

境内には義明公および多々良三郎重春公の五輪塔(高さ二米)一説には義明公夫婦ともいわれている。また応永、正長年銘などの寶篋印塔(数基鎌倉国宝館に貸し出し展示中)ありこの数七百余基を数える。
「相模風土記」によれば、「三浦義明の墓は五輪塔なり、ここに義明の墳墓あるはその縁故知らざれど、思うに冥福を修せんがために寺僧が造立せしならん」とある。

義明は庄司義継の長男で平家の出で、平家の横暴腐敗した政治を正すため、源氏に仕え、時の世人挙げて平家に従ったが、ただ一人敢然として頼朝に尽力した。

治承四年(一一八〇年)頼朝の召に応じて子義澄を遣わしたが、石橋山の敗戦で帰郷の途次、畠山重忠の軍を破った為、重忠らに三浦の居城衣笠城を包囲された。
防守の望みを失ったので、義澄らの一族を脱出させて頼朝のもとに赴かせひとり城に留まって善戦したが、ついに陥落して悲壮な最期を遂げ、源氏のために忠を尽くした。
一方石橋山の戦いで平家に敗れた頼朝は、海路安房に渡って再挙を図り、関東各地の源氏家人の加勢を得、義澄と共に鎌倉に拠って策源地と定めた。
後、征夷大将軍となり鎌倉幕府を創建したのである。

この国家大業の成就の陰には義明の先見の叡智と偉大な人徳によるところただい(多大?)である。義明あって鎌倉幕府の成否は義明によって決したと断ずるも過言でない。
後に頼朝が義明あるいは一族に対する報謝の意が実に数々の温情の行業に伺われる。
義明が後に「三浦大介百六ツ」と呼ばれる由来は頼朝が衣笠の満昌寺において、義明の十七回忌法要を供養したとき、義明がまだ存命して加護していてくれるのだ。という心からの事で自刃したときの八拾九歳と十七年を加えた数と思われる。
私たちは、このような幾多の先祖の偉業、遺徳を懇ろに偲び、人生の心の糧として、何時までもこの行跡をたたえ続けて行きたいものである。

■ 『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市)(抜粋)
隨我山来迎寺と号する。時宗。藤沢清浄光寺末。
開山、音阿 本尊、阿弥陀三尊
境内地258.55坪。
本堂兼庫裏、来迎寺幼稚園あり
ここはもと真言宗能蔵寺の旧蹟と伝える。
本尊は三浦大介義明の守本尊であるといい、境内に義明及び多々良三郎重春の分骨を葬ってあるという。


-------------------------



鎌倉駅構内の観光客の動線をみると、多くの客は東口に出て小町通りを北上し、鶴岡八幡宮方面か、扇ヶ谷 or 源氏山方面へ向かいます。
東口から南方向の本覚寺、妙本寺、八雲神社、安養院、妙法寺、安国論寺方面へ向かう人はどちらかというと中~上級者(?)で数は多くなく、さらに横須賀線を渡って材木座方面まで足を伸ばす人はかなり少なくなります。

しかし、材木座界隈には寺社が多くほとんどが御朱印、御首題を授与されているので、隠れた御朱印エリアとなっています。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 札所標と墓碑

来迎寺もそんな材木座の一画にあります。
周囲は真新しい住宅街ですが、山内に足を踏み入れると俄然しっとりとした鎌倉寺院の趣が出てくるという、面白いロケーションです。

参道入口に観音霊場札所標と三浦義明の墓碑。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 寺号標

参道途中から石畳となり、寺号標が建っています。
参道正面が本堂、左手が庫裏、右手に回り込むと三浦義明の墓所(五輪塔墓)です。


【写真 上(左)】 墓所への案内
【写真 下(右)】 五輪塔墓


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂と庫裏

本堂はおそらく宝形造で桟瓦葺流れ向拝です。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に板蟇股を置き、身舎左右には大ぶりの花頭窓。
水引虹梁は朱を散りばめた、変化のある意匠です。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝


【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 札所板

向拝見上には鎌倉観音霊場の札所板が掲げられています。


【写真 上(左)】 観音像
【写真 下(右)】 札所案内

堂前向かって右手前にある胸像は、すみませんよくわかりません。
山内には白衣でおだやかな面差しの観音立像も安置されていました。


御朱印は庫裏にて拝受しましたが、ご不在の場合もあるようです。


〔 来迎寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印


41.五所神社(ごしょじんじゃ)
公式Web
神奈川県神社庁Web
鎌倉市観光協会Web

鎌倉市材木座2-9-1
御祭神:大山祇命、天照大御神、素盞嗚命、建御名方命、崇徳院霊
旧社格:村社、材木座の氏神
元別当:南向山 補陀落寺(鎌倉市材木座) 旧・諏訪神社の別当

五所神社は「材木座の氏神」と親しまれる、地域を代表する神社です。

公式Web 、下記史料・資料、境内掲示などから縁起沿革を追ってみます。

もともとこの地は材木座村でしたが、乱橋(みだればし)村と材木座(ざいもくざ)村に分村しました。
明治22年、両村が合併して西鎌倉郡乱橋材木座(鎌倉郡西鎌倉村ないし東鎌倉村の一部とも)となりました。
境内掲示によると、合併以前から両村には下記の神社が鎮座されていました。

・三島神社 御祭神 大山祇命
 現社地、乱橋村の鎮守社、旧村社
・八雲神社
 現・材木座4-4-26公会堂内、乱橋村龍蔵寺(能巌寺)部落、三島神社の相殿?
・金比羅宮(金刀比羅社) 御祭神 金山彦命
 現・材木座4-7-2竹内宅裏山「普賢象山」、乱橋村
・諏訪神社 御祭神 建御名方命
 現・材木座5-13-8山ノ上方、材木座の鎮守、補陀落寺持
・視女八坂社(見目明神・見目天王、牛頭天王、見目明神社合社)
 現・材木座6-7-35、材木座村仲島部落、補陀洛寺の鎮守?

『新編相模国風土記稿』には「(亂橋村)三島社 村持」「(材木座村)諏訪社 補陀落寺持」の記載がみえます。

見目明神は、三島大社の摂社として知られています。→ 三島市Web資料
御祭神は三嶋大社の御祭神・事代主神のお妃六柱です。
こちらの視女八坂社(見目明神)も、乱橋村鎮守の三島神社となんらかの関係があるのかもしれません。

『鎌倉市史 社寺編』では、五社神社に合祀の見目明神は『補陀洛寺文書』に見目天王分としてみえることから、古くから補陀洛寺の鎮守であったとみています。
また、『新編鎌倉志』の補陀落寺の項には「寺寶 寶満菩薩像 壹軀 八幡の姨なり。鶴岡にもあり。社家にては見目明神(ミルメ)と云ふ。」とあり、見目明神の本地が寶満菩薩であることを示しています。

寶満(宝満)菩薩は、太宰府の宝満山が有名です。
「文化遺産オンライン」には「(宝満山)は八幡信仰と融合し、宮寺として社寺一体となり」「中世には宝満山とも呼ばれ、宝満大菩薩という仏神となり、英彦山修験道と結合して英彦山の胎蔵界に対し、金剛界の行場として、修験の山となった。」とあり、寶満(宝満)菩薩と八幡神、修験道との関係を示しています。

また、境内の「板碑(石造板塔婆)」は廃寺となった乱橋村の感應寺から遷されたとの説明があります。
由比山寶幢院感應寺は、真言宗京都三寶院末でした。
三寶院は真言宗系修験道「当山派」の本寺ですから、旧・感應寺から当山修験の流れが五社神社に引き継がれたのかもしれません。

明治41年、三島神社に四社を合祀して五所神社と改称しました。

合祀時に旧・諏訪神社の社殿を移築した本殿は、関東大震災の土砂災害で倒壊したため昭和6年に新築されました。

五所神社はいまも材木座の氏神として尊崇され、三基の神輿が渡る例祭は鎌倉の風物詩として広く知られています。


-------------------------
【史料・資料】

『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
補陀落寺 寺寶 寶満菩薩像 壹軀
八幡の姨なり。鶴岡にもあり。社家にては見目明神(ミルメ)と云ふ。

■ 『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(亂橋村)
三島社 村持
(材木座村)
諏訪社 補陀落寺持
(亂橋村)
感應寺
由比山寶幢院と号す、真言宗京都三寶院末 不動を本尊とし、神変菩薩理源大師の像あり、中興を養源と云ふ 境内に倶利迦羅竜王の古碑あり

神奈川県神社庁Web資料
五所神社
当社鎮座地は、古くは乱橋村と材木座村とに分かれていた。乱橋村には三島神社、八雲神社、金刀比羅社の3社が鎮座し、材木座村には諏訪社と視女八坂社の2社が鎮座していた。明治初年に村が合併し、乱橋材木座村となった。相模風土記稿に「三島社村持」とある如く、村の中心的社であったので明治6年、村社に列格された。
明治41年に他の四社が合祀され、五所神社と改称された。

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
五社神社
祭神、大山祇命、天照大御神、素盞嗚命、建御名方命、崇徳院霊。
例祭七月七日。元指定村社。乱橋材木座の鎮守。境内地163.09坪。
覆殿、社殿、神輿庫あり。現在の社殿は昭和六年七月の新築。
現在の神社は明治四十一年七月、乱橋村と材木座村が合して、東鎌倉村大字乱橋材木座となったとき、乱橋村の鎮守三島神社の地に材木座村の鎮守諏訪神社・乱橋村能蔵寺部落の八雲神社・金比羅宮・材木座村中島部落の見目明神の四社を合わせ、同年十一月、五所神社と改称したものである。もとの五社はいずれも勧請年月不明。

このうち、見目明神は補陀洛寺文書に見目天王分として二貫三百文の地を北条氏康が同寺に寄進しているから、古くから同寺の鎮守であったと思われる。
『新編鎌倉誌』には見目明神とよんだ宝満宮菩薩像があったことがみえ、『風土記稿』には牛頭天王、見目明神社合社とある。
三島神社は、乱橋村持(『風土記稿』)で八雲社を相殿とし、この相殿天王の神輿棟札によれば、寛永十九年(1642年)修造以後、延宝九年(1681年)元禄十一年(1698年)元文二年(1737年)宝暦十三年(1763年)に修理を加え、万延元年(1860年)に再建している。(中略)
境内に昭和十六年重要美術品に認定された板碑がある。
境内坪数二八0坪で、もとの本殿は明治十六年七月建立の諏訪神社本殿を合併後移築したものであったが、震災の時山崩れのため社殿埋没全壊した。

■ 境内掲示
五所神社
祭神 天照大御神、素盞嗚命、大山祇命、建御名方命、崇徳院命
明治二十二年(一八八八)乱橋村と材木座村が合併して西鎌倉村大字乱橋材木座となった後明治四十一年(一九〇八)七月に、もとの乱橋村の鎮守”三島神社”(現在の地)の地に材木座の鎮守、諏訪神社(現材木座五-十三-八 山ノ上方)乱橋村龍蔵寺部落の八雲神社(現材木座四-四-二六 公会堂内)、金比羅宮(材木座四-七-二 竹内宅裏山「普賢象山」中腹)、材木座村仲島部落の見目明神 材木座六-七-三五)の四社を合併して五所神社として改名したものである。
もとの五所はいずれも勧請年月不詳このうち見目明神は補陀洛寺文書に見目天王文と二貫三百文の地を北条氏康が同時に寄進しているから古くから同寺の鎮守であったと思われる。
「新編鎌倉誌」には、見目明神とよんだ宝満宮菩薩像があったとみえ「風土記稿」には牛頭天王、見目明神社合社とある。

三島神社は、乱橋村持「風土記稿」で八雲社を相殿とし、この相殿天王みこし棟札によれば、寛永十九年(一六四二)修造以後、延宝九年(一六八一)元禄十一年(一六九八)元文二年(一七三七)宝暦十三年(一七六三)に修理を加え、万延元年(一八六〇)に再建している。

諏訪社は補陀洛寺であった「風土記稿」明治八年(一八七五)公達に基づいての皇国地誌調査さんによると次の通り記載されている。
三島社
式外村社々地東西四間南北六間三尺面積二六坪の東方にアリ大山祇命ヲマツル。
勧譜年暦詳ナラス 例祭四月 十一月ノ酉ノ日ヲ用ウ
見目社
同社東西九間南北八間四尺八寸面積七九坪村ノ東西間ニアリ祭神及ビ創造勧譜年暦詳ナラス 例祭二月二七日 六月七日両回トス
諏訪社
同社東西八間一尺二寸南北一間六寸面九坪村のノ南方ニアリ祭神建御名方命勧譜年暦詳ナラス 例祭六月七日 七月二七日ノ二回トス
金比羅社
同社東西十間南北七間面七十坪村ノ辰ノ方ニアリ祭神金山彦命勧譜年暦詳ナラス 例祭十月十日

現在の社殿は昭和六年(一九三一)七月に新築されたものである。
もとの本殿は明治一六年(一八八三)七月諏訪神社の本殿を合併後、移建したものであったが大正十二年(一九二三)九月一日震災のとき山崩れのため社殿埋没全潰した。

お神輿三基
一号 諏訪神社 二号 三合(ママ) 見目明神の持ち物であった。
祭礼、潮祭り 一月十一日 春季小祭 四月十五日 秋季小祭 十一月二十四日 
例大祭 七月七日から十四日
現在の祭礼(抜粋)
例大祭 六月第二日曜日 三ツ目神楽 例大祭三日目(火曜日)


-------------------------



名越・朝比奈方面からつづく鎌倉東部の山地は、材木座・光明寺の裏手から大町、小町と北にかけて連なり、西向きの山裾を大蔵あたりまで落としています。
この山裾は鎌倉有数の寺社の集積エリアで、五社神社もこの山裾に当たります。


【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 参道-1

来迎寺と実相寺の中間くらいに路地に面して社頭があります。
参道右手に社号標、その先に藁座を置いた神明鳥居?。
鳥居は本殿手前の石段前に置かれていましたが、関東大震災で倒壊破損したため昭和9年に社頭に移設されたものです。

参道は鳥居から真っ直ぐに伸びていますが、かなり奥行きがありここから拝殿は見えません。


【写真 上(左)】 狛犬-1
【写真 下(右)】 狛犬-2

すぐ先に石灯籠一対と真新しい狛犬一対。
さらに進んだ古い狛犬一対は、大正5年に材木座三丁目の地主ら十三名が寄進したものとのこと。


【写真 上(左)】 参道-2
【写真 下(右)】 参道-3

さらに行くと数段の石段で、ここまでくると参道階段の上に社殿が見えてきます。
社殿下の階段左脇に社務所があり、御朱印はこちらで授与されています。

あたりはうっそうとした木々に囲まれ、山里の神社のようです。
参道階段をのぼった正面、切妻造の建物は神輿庫(天王堂)で、庫内にはきらびやかな三基の神輿が安置されています。


【写真 上(左)】 境内
【写真 下(右)】 神輿庫(天王堂)

公式Webには「向かって右手より一番様(旧諏訪神社 江戸末期建造・鎌倉市指定有形民俗文化財)、二番様(旧牛頭天王社 弘化四年(1847)建造)、三番様(旧見目明神社 弘化四年(1847)建造)」とあります。

三基の神輿のお渡りをはじめ、数々の見どころがある五社神社の祭礼は、鎌倉の風物詩としてよく知られています。


【写真 上(左)】 神輿
【写真 下(右)】 拝殿

神輿庫(天王堂)前を左に直角に曲がった正面が拝殿です。
入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、軒唐破風を張り出し、妻側千鳥破風に経の巻獅子口を置き、寺院建築のイメージ。


【写真 上(左)】 拝殿妻側
【写真 下(右)】 拝殿向拝-1


【写真 上(左)】 拝殿向拝-2
【写真 下(右)】 中備の彫刻

水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻、その上に兎の毛通しと、こちらにも経の巻獅子口を置いています。
彫刻類はいずれも重厚感を備えたすばらしい出来です。

向拝見上の扁額には「国家興隆」とあり、鎌倉宮ゆかりのもののようです。


【写真 上(左)】 三光尊石上稲荷と板碑(石造板塔婆)
【写真 下(右)】 板碑

神輿庫右手の木の鳥居のおく、正面が三光尊石上稲荷、向かって左手が板碑(石造板塔婆)の覆屋です。

三光尊石上稲荷は、ふるくは豆腐川の河口に御鎮座といいます。
豆腐川は、材木座海岸に注ぐ短い川です。
お祀りされている石は「石上さま」といわれ、漁師の網を切ったり、船を転覆させたりと、いたずらをする石であったそうです。
陸に引き揚げられ、昭和9年、補陀洛寺第33世光照上人より名を授かり、昭和12年に石祠を建立、海上安全の守護神としてお祀りされています。

左手の板碑(石造板塔婆)は弘長二年(1262年)の銘。
倶利迦羅剣になぞらえた不動明王のお種子「カン/カーン」を蓮華座のうえに置く見事な板碑で、上部には天蓋も彫られています。
板碑の多くは秩父片岩ですが、この板碑は雲母片岩を用いて特徴的とのことで、市指定有形民俗資料に指定されています。

板碑の説明板に「昔は感應寺『修験真言宗、京都三宝院末」(材木座公会堂のある附近一帯)の境内に建っていたが、同寺が廃寺となったため五所神社創建の際ここに移されたのである。」とあります。

『新編相模国風土記稿』には「(亂橋村)感應寺 由比山寶幢院と号す、真言宗京都三寶院末 不動を本尊とし、神変菩薩理源大師の像あり、中興を養源と云ふ 境内に倶利迦羅竜王の古碑」とあり、もしかしてこの「倶利迦羅竜王の古碑」が五所神社の「板碑(石造板塔婆)」なのかもしれません。

鳥居の右よこには旧諏訪神社の古祠と、そのよこに大阪株式取引所(現・大阪取引所)の第二代頭取・吉田千足書の石碑があります。


【写真 上(左)】 旧諏訪神社の古祠
【写真 下(右)】 庚申塔

その右手には十数基の庚申塔と石佛。
庚申塔は乱橋村・材木座村両村の道端や辻にあったものを明治9年境内に集めてお祀りしたものとの由。

馬頭観音像のよこには、背後に十字架が置かれた「お春像」が安置されています。
公式Webには「『天和四』と掘られていることから一六八四年(徳川幕府五代将軍綱吉の初期の時代)一月から二月に造られたであろう石像と思われますが、その目的は未詳。その様子から隠れキリシタン殉教の像と伝えられています。」とあります。
神社の境内に十字架とは、かなりインパクトがありますが、このような歴史を伝える尊像です。


【写真 上(左)】 お春像
【写真 下(右)】 摩利支天像

さらにその右には大正2年奉納の「摩利支天像」。
摩利支天はもとは天竺(インド)の神格でしたが、仏教にとり入れられて守護神となりました。
三面六臂の丸彫りで椎型兜をかぶり、槍先が三つに割れた矛を握られたこのお姿の摩利支天像は、公式Webによると日本で十二体しか存在していないそうです。

境内には手玉石(かめ石)や疱瘡ばあさんの石、山岳信仰道場などもあります。

西向きの明るい境内ですが、どこかパワスポ的な陰りを感じるのは、修験や神仏混淆の歴史がもたらすものかもしれません。

御朱印は参道階段左手の社務所にて拝受しました。


〔 五所神社の御朱印 〕

 



42.弘延山 實相寺(じっそうじ)
鎌倉市観光協会Web

鎌倉市材木座4-3-13
日蓮宗:
司元別当:
札所:札所:

實相寺は宗祖嫡弟六老僧日昭尊者潜居の地とも伝わる日蓮宗の名刹です。

鎌倉市観光協会Web、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。

實相寺は、日蓮宗六老僧の辨阿闍梨日昭(元享三年(1323年寂))が創建とされます。
日蓮聖人が佐渡へ流罪となった後も当地で布教を続け、伊豆の名刹・玉澤妙法華寺が移転する前の旧地といいます。


【写真 上(左)】 玉澤妙法華寺
【写真 下(右)】 同 御首題

またこの地は、鎌倉時代の武将・工藤祐経の屋敷跡で、日昭上人はその息女の子とも伝わります。
日昭上人が屋敷跡に法華堂を建てたのが創始といいます。
法華堂は法華寺と号して三島・玉澤に移り、元和七年(1621年)に日潤上人が再建とされます。

日昭上人はWikipediaによると俗姓を印東氏といい、晩年の日蓮聖人を池上に迎え、池上本門寺の基礎をつくった日蓮宗の有力檀越・池上宗仲と親戚関係にあったとも。

玉澤法華経寺公式Webによると、宗祖日蓮聖人の比叡山遊学中の学友ともいい、聖人に共鳴し、宗祖が鎌倉で法華経弘通を始められとすぐ最初の弟子となったとの由。

日蓮六老僧の一人に数えられ、日昭門流(濱門流・玉澤門流)の祖です。
現在の日昭門流の本山は、妙法華寺(三島市玉澤)と村田妙法寺(新潟県長岡市)で、その妙法華寺の旧地とあっては宗門上、重要な寺院とみられます。

工藤氏については■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2/14.稲荷山 東林寺でとりあげているので再掲します。

藤原南家の流れとされる工藤氏は、平安時代から鎌倉時代にかけて東伊豆で勢力を張り、当初は久須見氏(大見・宇佐見・伊東などからなる久須見荘の領主)を称したともいいますが、のちに伊東氏、河津氏、狩野氏など地名を苗字とするようになりました。

東伊豆における工藤(久須見)氏の流れは諸説あるようです。
いささか長くなりますが整理してみます。

工藤(久須見)祐隆は、嫡子の祐家が早世したため、実子(義理の外孫とも)の(滝口)祐継を後継とし伊東氏を名乗らせました。(伊東祐継)
他方、摘孫の祐親も養子とし、河津氏を名乗らせました。(河津祐親)

伊東祐継は、嫡男・金石(のちの工藤祐経)の後見を河津祐親に託し、祐親は河津荘から伊東荘に移って伊東祐親と改め、河津荘を嫡男・祐泰に譲って河津祐泰と名乗らせました。
(河津祐親→伊東祐親)

一方、工藤祐経は伊東祐親の娘・万劫御前を妻とした後に上洛し、平重盛に仕えました。

工藤(久須見)氏は東国の親平家方として平清盛からの信頼厚く、伊東祐親は伊豆に配流された源頼朝公の監視役を任されました。

娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸をもうけたことを知った祐親は激怒し千鶴丸を殺害、さらに頼朝公の殺害をも図ったとされます。
このとき、頼朝公の乳母・比企尼と、その三女を妻としていた次男の祐清が危機を頼朝公に知らせ、頼朝公は伊豆山神社に逃げ込んで事なきを得たといいます。

なお、北条時政の正室は伊東祐親の娘で、鎌倉幕府第二代執権・北条義時は祐親の孫にあたるので、鎌倉幕府における伊東祐親の存在はすこぶる大きなものがあったとみられます。

工藤祐経の上洛後、伊東祐親は伊東荘の所領を独占し、伊東荘を奪われた工藤祐経は都で訴訟を繰り返すも効せず、さらに伊東祐親は娘の万劫を壻・工藤祐経から取り戻して土肥遠平へ嫁がせたため、所領も妻も奪われた祐経はこれをふかく恨みました。

安元二年(1176年)、奥野の狩りが催された折、河津祐泰(祐親の嫡子)と俣野五郎の相撲で祐泰が勝ちましたが、その帰途、赤沢山の椎の木三本というところで工藤祐経の郎党、大見小藤太、八幡三郎の遠矢にかかり河津祐泰は落馬して息絶えました。
祐親もこのとき襲われたものの離脱して難をのがれました。

伊東祐親は、嫡子河津祐泰の菩提を弔うため伊東市の東林寺に入って出家しました。

治承四年(1180年)頼朝公が挙兵すると、伊東祐親は大庭景親らと協力して石橋山の戦いでこれを撃破しました。
しかし頼朝公が坂東を制圧したのちは追われる身となり、富士川の戦いの後に捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられ、義澄の助命嘆願により命を赦されたものの、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」といい、養和二年(1182年)2月、自害して果てたとされます。

河津祐泰の妻は、5歳の十郎(祐成)、3歳の五郎(時致)を連れて曾我祐信と再婚。
建久四年(1193年)5月、祐成・時致の曾我兄弟は、富士の巻狩りで父(河津祐泰)の仇である工藤祐経を討った後に討死し、この仇討ちは『曽我物語』として広く世に知られることとなりました。

工藤祐経の子・祐時は伊東氏を称し、日向国の伊東氏はその子孫とされています。


-------------------------
【史料・資料】

『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(亂橋村)實相寺
弘延山と号す 豆州玉澤妙法華寺末 開山日昭 元享三年(1323年)三月廿六日寂す
本尊三寶を安ず

■ 山門掲示
當山ハ宗祖嫡弟六老僧第一辨大成辨阿闍梨日昭尊者潜居の地 宗祖佐渡流竄後門下僧俗を統率したる濱土法華堂(祖滅後法華寺と称す)乃霊跡にて玉澤妙法華寺の旧地也 傳フ工藤祐経邸趾と云ふ
日昭尊者濱土法華堂霊跡
御廟 裏山の麓にあり往古ハ峯の岩屋ニ有しを元禄三年現所ニ移せり

玉澤妙法華寺公式Web
妙法華寺は、日蓮聖人の本弟子で六老僧第一の弁阿閣梨日昭上人が開創された寺である。
もと鎌倉の浜にあった法華寺がその前身であり、宗祖が日頃、日昭上人を浜殿と呼んでいたのは、この浜の地名によるものである。宗門としては最も初期の寺に属する。

当山の古記録によると、身延を除けば妙本寺第叫、法華寺第二と誌されている。この古い歴史と霊宝の聖人ご真筆、『宗祖説法御影』、調度品等が聖人の息吹を今に伝えている。

縁起
弘安7年(1284)12月、越後の風間信昭により、鎌倉の浜にあった日昭上人の庵室を寺としたのが起源である。

日昭上人は、宗祖の比叡山遊学中の学友であったが、聖人に共鳴し、宗祖が鎌倉で法華経弘通を始めるとすぐ最初の弟子となった。

鎌倉の浜土に草庵を構え、宗祖や他の門弟と共に教化活動を行い、その後、宗祖が身延に人山すると、日朗上人とともに鎌倉の日蓮教団の中心的役割を果たした。一門を日昭門流とか浜土門流と称し、近代は玉沢門流と呼んだ。(以下略)

■ 『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市)(抜粋)
弘延山 實相寺と号する。日蓮宗。伊豆玉澤妙法華寺の旧地。
開山、日昭。
本尊、一尊四士。
境内地405坪。
本堂・庫裏・山門あり。
日昭は元亨三年(1323年)三月廿六日寂。日昭は工藤祐経の女の生んだ子。この地は祐経の旧邸址と伝える。当寺の十一代日弘・十二代日南は関東管領扇ガ谷上杉氏の一族であるという。明治初年の大火で焼失した。

-------------------------



鎌倉材木座・五所神社の並びにあります。
由緒ある名刹ですが、やはり立地的に観光客の拝観は多くないと思われます。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 斜めからの山門

路地に面する山門は、門前にゆったりと空間をおき、二基のお題目塔(寺号標)を拝して落ち着いた名刹の風情。


【写真 上(左)】 寺号標-1
【写真 下(右)】 寺号標-2

山門は脇塀を巡らした切妻屋根桟瓦葺の薬医門かと思われますが、水引虹梁に四連の斗栱を拝して風格があります。
山門柱には「日昭尊者濱土法華堂霊跡」の表札で、由緒が記されています。


【写真 上(左)】 霊跡の札板
【写真 下(右)】 山内


【写真 上(左)】 お題目塔
【写真 下(右)】 本堂

山内は数基のお題目塔はありますがすっきりシンプルで、参道正面が本堂です。
本堂は寄棟造桟瓦葺流れ向拝で、なだらかに照りを帯びる屋根の勾配が優美です。


【写真 上(左)】 向拝-1
【写真 下(右)】 向拝-2

水引虹梁両端に木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股を置いています。
向拝・身舎ともに格子と桟をおき、端正なイメージの堂宇です。


御首題・御朱印は庫裏にて拝受しました。


〔 實相寺の御首題・御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 御朱印


■ 鎌倉市の御朱印-14 (B.名越口-9)へつづく。



【 BGM 】
■ Rina Aiuchi(愛内里菜) - Magic


■ 森高千里 - 渡良瀬橋


■ 今井美樹 - Goodbye Yesterday
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

■ 風向きが変わった? ~ 女神系歌姫の逆襲 22曲 ~

もはやメロディ崩壊したようにも見えるいまの洋楽。
■ 日本で洋楽が聴かれなくなった理由?

でも、日本にはまだ奇跡的にメロ曲が残っていて、とくにこのところナイスメロの楽曲が増えてきている感じがする。
ひょっとして、風向きが変わってきているのかも。
ことメロディやアレンジの質に関しては、メジャーとインディ(というかYouTubeやTikTok)で逆転現象が起きている感じがする。

おそらく1980~90年代では、この手の曲はつくりだせなかった。
テクノロジーや歌唱力の高さもそうだけど、バブル崩壊以降30年間の日本の社会情勢が、いまの音楽をつくり出したのだと思う。

このところTVは「昭和の名曲」特集ばっかりだけど、リアタイのこういう優れた才能を、もっととりあげてもいいのでは。


■ Himika Akaneya(茜屋日海夏)『Stereo Sunset (Prod. AmPm) 』-Music Video-【TVアニメ『MFゴースト』エンディングテーマ】


■ 本当だよ feat.花本朔


■ 愛するように / MIMI【Covered by Kotoha】


■ SERRA『テノヒラ』Music Video

ヴォーカルに力感あるし、インストの演奏力も高い。
最近TVで演奏力に欠けるバンドよく視るけど(笑)、こういうユニットもいるんだよね。しっかり。

■ Shiryu+Suno AI - wherever [ MUSIC VIDEO ]

これ、セブンス曲だよね・・・。
ものすごい楽曲の完成度。Suno AIおそるべし!

■ かりん「ヒトリ」【MV】


●【ひぐらしのなく頃に】 ~you / Vocal ~ 【癒月 Ver.】

Vocal Vers.の初出は2005年。
この頃から2015年頃まで、こういう美しい旋律&ヴォーカルのアニメ(ゲーム)曲がかなりつくられていた。
まわりまわっていま、再びこういう曲調が増えてきている気がする。
この手の精細な楽曲は世界でもあまり例がない(と思う)ので、これは貴重では?

■ 女神系歌姫 (ハイトーンJ-POPの担い手たち)【リニューアル】

■ 野田愛実 - butterfly effect (Official Music Video)


■ 夏うらら / 橙里セイ (Official MV)

曲調が往年のウェストコースト・ロック。

■ REJAY - Meant to Be (Official Video)

高校生でこの完成度って、ちょっとありえないレベル。

■ tayori - 可惜夜 (Official Video)


■ ミセカイ - 泡沫少女 [Official Music Video]

こういうスケール感あふれる曲が出てくるときは、シーンは本物かもしれぬ。
2022年結成。2022年9月1stSingleリリースk男女混声2人組音楽ユニット。
そうね、本格的に風向きが変わってきたのはこの頃かな?
ポニキャン所属。ポニキャンはけっこういい仕事してると思う。

● ClariS『サイレント・イヴ』リリック Music Video (Illustration: きさらぎゆり)

2022年12月YouTubeUP。
オリジナル化的カバーが目立ってきたのもこのころから。

● 誇り高きアイドル/HoneyWorks feat.Kotoha

ハニワの存在も大きい。これは2021年3月リリース。
アイドルモチーフだけど、メロ展開&アレンジメントはキレッキレで高度。
繊細なキーボードのリフ&カウンターメロが聴きどころ。
落ちサビ&キメつかった緩急・強弱効かせ加減も絶妙。

「見てもいないくせに言うな」
↑ ホントそうだよね。
評価までコピペはまずいでしょ。

■ バンドワゴンからの離脱をモチーフにした曲が、バンドワゴン的に売れてしまうというジレンマ(笑)

● 【MV】可愛くてごめん/高嶺のなでしこ【HoneyWorks】

2022年8月ステージデビュー。楽曲・プロデュースはハニワ。
●道シリーズとはあきらかに楽曲のイメージが違う。
これ、TVに生出演した番組視たことあるけど、目が点になってたゲスト多し(笑)

● 【神回】実の妹と一緒に「点描の唄」歌ったら大感動の嵐だった件【Mrs. GREEN APPLE (feat. 井上苑子)】

2018年夏リリース。
最初に風向きのびみょーな変化を感じたのはこの曲あたりか。
メロの美しさだけで聴き手を惹きつけられる曲。

■ Soala - すれ違い 【Official Music Video】

曲調が2010年頃のセツナ系。
やっぱりいいわ。この音の流れ。
セツナ系もリベンジ復活?

● First Desire feat.HIRO from LGYankees, 山猿 中村舞子 (2010年)

セツナ系。
妙に奇をてらわず、メロがしっかりしていて楽曲として安定感があった。
この頃の一部のラッパーは、ハイトーンヴォーカルのフォローがやたらに巧かった。

■ サクラキミワタシ - tuki.


■ 八木海莉 『know me...』 (from One-Man Live Tour - know me... -)

個人的にはJ-POPの保守本流だと思う。
ブレスと共鳴を活かした安定感あふれるヴォーカル。そしてハイレベルなインスト。
とくにフレーズのこまかいベースと腰の据わったドラムスがいい。
こういうLIVEをリアルに味わうのは、ほんとうに音楽の醍醐味だと思う。

■ realize - あたらよ


■ Daisy - 花鋏キョウ【MV】


■ AliA / 星空と君のうた【Official Music Video】

こんな見事なフック&エモーショナルUP曲は、supercell以来かも。
もう出てこないと思ってたけど、いるもんだわ。びっくり。

● 君の知らない物語 (supercell)- くゆり(歌ってみた)
 
supercellの1stシングル。2009年8月12日リリース。
華麗なメロの名曲で、ハイトーン系歌い手の「歌ってみた」多数。

■ 【shallm】へミニス (Music Video) - 日本テレビ金曜深夜ドラマ「私をもらって~追憶編~」主題歌


■ 願い/Ayame


■ 由薫 - Sunshade(Live Clip " TOUR 2024 Brighter ")


■ あなたの夜が明けるまで / covered by 春吹そらの

これ1曲で169万回視聴、チャンネル登録者数1.4万人とはおそるべき才能!
聴き流しできないエモーション。

■ 私にはできない/ Eiーvy【MV】

これもSuno AI使用ですばらしい仕上がり。
楽曲はともかく、ヴォーカルはAIじゃムリだと思っていたが、これ聴くかぎりヤバイ。


やはりアニソンとボカロの存在が大きい。
これだけの美しい旋律や歌声を生み出せる国は、もう日本だけかもしれない・・・。

「シティ・ポップ」「女神系歌姫」、日本はふたつのキラーコンテンツをもっていると思う。
このふたつは米国にも韓国にもないものだから、じっさいのところ日本はアドバンテージとりすぎでは?


【関連記事】
■ 透明感のある女性ヴォーカル50曲
■ 鈴を転がすような声  ~ 究極のハイトーンボイス ~
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

■ 「シティ・ポップ」って?-2

8/31放送のテレビ朝日系「サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん」の「令和の今見てもカッコいい昭和の歌手ベスト20」で寺尾聰がランクインし、葉加瀬太郎氏がどうして「カッコいい」かの解説してた。

【ルビーの指環】寺尾聰


そのキモは、
1.16ビートを使っていること。(さらにシンコペを使っていること。)
2.セブンスコードを使っていること。
3.転調を巧く使っていること。(とくに2年の月日の経過を転調であらわしていること。)

でもって、キーボードで8ビートバージョンと16ビートバージョンの比較してたけど、これわかりやすかった。

■ Lowdown - Boz Scaggs(1976年)

1970年代中盤、16ビートを世に広めた曲のひとつ。
ここから1980年代前半の洋楽全盛期?に向けて、洋楽は一気に洗練度を上げていくことになる。


以前、この記事で「シティ・ポップ成立の要件」について書いたけど、やっぱり16ビートシンコペとセブンスの効果は絶大だと思う。
でも、わかっててもつくれないんだよね。やっぱりいまの時代では。


【シティ・ポップ成立の要件】

1.リズムセクションが生楽器で、アップビート(裏拍)、ヨコノリであること。
2.音にすきまがあって、16分のハイハットがシャープに響いていること。
3.グルーヴ感があること。リズムに「キメ&ブレイク」やシンコペーションが絡んでいること。
4.メジャー・セブンス(四和音)系のコード進行で、ドミナントや転調を多用すること。
5.ボーカルとインスト(楽器)のアンサンブルバランスがいいこと。とくにカッティングやリフのサポートがあること。
6.多声部は基本的にコーラス(ハモリ)であること。
7.AORやBCMに通じるこ洒落た質感があること。
8.マルチトラック・レコーダーでバウンス(ピンポン録音)され、腕利きのエンジニアが手掛けていること。

その背景となったのが、↓ のファクターだと思う。
A.聴き手に洋楽を聴く”素養”があったこと。だからセブンスや”抽象な歌詞”も受け入れやすかったこと。
B.エッセンスをベースにし、これに日本人ならではのこだわりの職人芸を加えていること。
C.上質なアンサンブルを展開できる、腕利きのミュージシャンが日本にも数多くいたこと。
D.セッションが頻繁に行われ、そのなかから新しいフレーズやコード進行などが生まれていたこと。
E.プロのライターやアレンジャーがメインストリームで活躍していたこと。
F.媒体が情報量の多いアナログレコードで、しかもLP購買がメインだったのでアルバム曲がふつうに聴かれていたこと。
G.経済がほぼ右肩上がりで「生活の質を高めよう」という意識が高かったこと。なので曲調がブライトで気分を高揚させるものだった。
H.ウォークマンやカーオーディオで音楽を外で聴く機会が多かったので、「心に刺さる歌詞」よりもBGMとしての適性が求められていた。
I.MTVなどビジュアル媒体がほとんどなく、サウンドだけで勝負する必要があったので、”音”に集中できる環境にあった。

だから、シティ・ポップの成立にはおそらくこのような時代背景が必要だし、腕利きのミュージシャンやプロ(本来の意味での)のクリエイターがいないと成立しない。

とくに1981年といえば、洋楽がその洗練度を高めており、→ ■ 1981年の洋楽ヒット曲 (Billboardデータから)、しかもその多くがグルーヴ感を備えていた。
洋楽が邦楽に与えていた影響は計り知れず、なおかつ日本独自の解釈が生まれメジャー化するタイミングだったと思う。

だがら当時は洋楽と邦楽(シティ・ポップ)の質感はほぼ同質で、同じカセットに入れて聴いたりしていた。
例→ ■ 1984年のテープリスト



****************
2022/11/16 UP

さきほど「マツコの知らない世界」でDJ Night Tempo氏招いて”80's Japanese POPSの世界”を特集してた。
やっぱりマツコさん音楽の造詣ふかいわ。

正鵠射まくりのコメントがいくつかあったので、テープおこし的にいくつか紹介してみます。

【マツコ氏】
「('80年代の曲って)歌詞とかもさ~、何て言ったらいいのかな、なんか壮大なんだよね。夢や希望が詰まっている人が聴くからさ、なんか異国がいっぱい出てくるのよ 不必要な(笑) 明菜ちゃんなんてすぐに中東行っちゃうのよ。砂漠の歌歌うのよ(笑)」

↑ たしかに・・・、聖子ちゃんもすぐに南の島に行っちゃうし(笑)

■ 松田聖子 - セイシェルの夕陽


■ スペクトラム(SPECTRUM) - なんとなくスペクタクル

そうそういたなぁ、スペクトラム。ほんとに何十年ぶりかで聴いた!

スペクトラム聴いて【マツコ氏】
「いまのっていわゆる向こうのChicだったりとかE.W&Fとか、あっちのリスペクト・ヴァージじゃない。(中略)音楽に対してめちゃくちゃ日本人って貪欲だったと思うんだよね、あの頃・・・。もう世界中のありとあらゆる音楽を知りたくて、それをすぐに吸収してああやって学びたくて、なんであんなに貪るように音楽を聴いていたんだろう。」

↑ ほんとに、誰もかれもが音楽マニアだった気がする。
音楽はたいていLP(アルバム)聴きで、シングルカットされないアルバム曲でもさりげに人気があったりした。

■ Chic - Good Times(1979)




---------------------------------
2023/11/12 UP

先ほどBS朝日で放送していたシティポップ・スタジオ、聴き応えがあった。
とくに、桑江知子、浜田金吾とマリーン。

改めて思ったのは、インスト陣が腕利きで、どの曲もボーカルなしでもFusionとして成り立っていること。
これに雰囲気あるボーカルが乗ってくるので、悪くなりようがない。

それにしても、BSとはいえプライム・タイムでこの面々のパフォーマンスが聴けるとは・・・。
喜んでいいのか、はたはた哀しむべきか・・・。

■ 桑江知子 - ダンシング・イン・ザ・ワンダーランド

歳を重ねても声のよさ、歌の上手さは翳りを見せず。

■ 濱田金吾 - Piano Man

リリカルなフェンダー・ローズ、シンコペなクルーヴ、流麗なストリングス、むせび泣くサックス・・・。
完璧なAORの構成。

■ マリーン - It's Magic - 1983.09

マリーンって、こんなに上手かった??
と思うほど説得力があった。
そうね、この頃はサックスも主役級だったな。

■ THE SQUARE - ALL ABOUT YOU

これはサックスじゃなくて、リリコンだけど。
完璧なリード楽器。

-------------------------
2023 /05/17

こちら→「■ 「シティ・ポップ」って?」に続けて書こうと思いましたが、字数オーバーになったので若干記事を重ねて続編としました。

--------------
かなり前に録画したNHK「あさイチ」のシティ・ポップ特集、さきほど視てみました。
いろいろとシティ・ポップのサウンド分析していたけど、いくつか面白いポイントがあった。

1.波形が自然の音に近い
これはおそらく、1/fゆらぎを含んでいるということ。
だから聴いてて心地よく、しかも飽きがこない。
番組中でシティ・ポップの波形分析していたけど、すごく綺麗な波形をしていた。
※1/fゆらぎについては→こちらをみてね。

じっさい実験によると、シティ・ポップをBGMに作業したときが、他のジャンルに比べてもっとも作業効率が上がったという。


2.人間の鼓動に近い
シティ・ポップのBPMは100~120 程度。
これは人間のもつ鼓動にアジャストしやすいテンポだという。
人間の鼓動は外部からのリズムに呼応しやすいというから、シティ・ポップやディスコ曲を聴くと自然にからだが揺れるというのは、こういう流れなのかもしれない。

■ Plastic Love - 竹内まりや (Official Music Video)

↑ この曲でBPM104とのこと。
ミディアム曲でBPM100~110、アップテンポ曲でBPM110~120程度か。
この程度ならば”ヨコノリ”で心地よく踊れる。

ハウスでBPM120~130、テクノ/トランス系でBPM120~140とされるが、こうなるともはや”ヨコノリ”はむずかしく、強制的に”タテノリ”となる。
だから、いまのスタンダードなビート(BPM120-)にサンプリングで載せても、シティ・ポップならではの質感の再現はできない。
ただ、メロディのよさを伝えられるだけ。

2:28 キメ~インストパート
3:22 キメ~フィルイン~Aメロ復帰
4:00 キメ~コーラス(リフレイン) 


3.インストのパッセージ&存在感
これは番組でとり上げていなかったが、代表曲として流していた曲を改めて聴いてみたら、いかにインストのパッセージ(メロをつなぐフレーズやリフなど)が大きな役目を果たしていたかがわかる。

■ 水銀燈 Mercury Lamp - 杏里

米国の一流ミュージシャンがサポート。
インスト一音一音の芸がこまかい。

■ 夕陽に別れを告げて〜メリーゴーランド - サザンオールスターズ

サザンサウンドを決定づけていた原さんのキーボード。
フレーズどりのセンスがただごとじゃない。


4.キメ&ブレイク
3.と関連して、キメ(演奏者が一斉に同じ動きをすること)やブレイク(すべてor一部の演奏者が演奏を止めること)がやたらに効果的に使われていた。
キメやブレイクは演奏者の技倆がないと決まらないから、やはりシティ・ポップのつくり手のレベルが高かったんだと思う。

番組後半でAiがつくったシティ・ポップ曲を流していたが、まったくダメダメだったのは、「インストのパッセージ」や「キメ&ブレイク」が欠落していたためではないか。

↓ の例を聴くと、キメやブレイクが聴きどころになっているのがわかる。

たとえば・・・。

■ Off Shore - 角松敏生

0:37 イントロからいきなりのキメ
2:07 キメ
3:44 フィルイン~リズムブレイク~キメ~フィルイン~復帰

■ GoodBye Boogie Dance - 杏里

0:00 イントロからいきなりキメ3連
1:22 キメ~Aメロ
2:58 キメ~Aメロ
3:29 キメ~カッティングギター残してブレイク

■ P・R・E・S・E・N・T - 松田聖子
    
0:59 聖子ちゃんのステップ契機のキメ
1:49 キメ~~16ビートのハット
3:45 キメ~イントロフレーズ回帰

↑ どれもインストのパッセージが決まりすぎてる。
シティ・ポップの曲のつくりは、洋楽のなかでもロックよりはむしろディスコに近い。↓

■ A Night To Remember - Shalamar

0:35 キメ~ボーカル(female)・イン
1:17 キメ~ボーカル(male)・イン
2:21 キメ~リズムセクション残してブレイク
4:07 ボーカル契機のテクニカルなキメ
ダンスが完璧なヨコノリ!

■ On The Beat - The BB & Q Band

0:33 キメ~カッティングギター
2:50 キメ~インストパート
3:07 カッティングギターのフレーズ決まりすぎ
4:11 キメ+ブレイク(こういうところで曲をつなげる)
5:24 キメ~ホーンのソロパート

↑ やっぱりこいつらも、「インストのパッセージ」や「キメ&ブレイク」にあふれていることがわかる。

「インストのパッセージ」や「キメ&ブレイク」はインスト名手の掛け合いやアドリブによるものも多いし、データ変数が多いからサンプリングがやっかいだし、この質感はおそらくアナログ音源でしか記録・再現できない。

「ChatGPT」的なものが幅を利かせるであろうこれからの時代、おそらく「AIではつくり出せないもの」の価値がどんどん上がっていくから、その点からも1980年代の音楽は普遍的な価値を高めていくのではないか。


-------------------------
2023-01-15 UP

どのテイクとはいわないけど・・・。
シティ・ポップの名曲のアレンジは練りに練られているし、インスト陣のレベルもハンパないし、
しかもはっきりしたサビメロのないメジャー・セブンス曲がメインだから、よほどの技倆 or オリジナリティがないとすぐさまお経になる・・・。

とくに、シティ・ポップ特有の弾むようなリズム&グルーヴは1980年代のBCMやAORでもそうは聴けないものだから、4つ打ち全盛のいま、再現するのは相当きつい。

安易にカバーすると返り血浴びると思うよ(笑)

なによりオリジナルテイクのイメージが強烈だから、上位互換はまずムリだと思う。
いじるな危険!(笑)

■ 松任谷由実 - Hello,my friend (1994年)

↑ サウンドの質感はもはやシティ・ポップのものじゃないけど、往年のユーミンを彷彿とさせる曲想。
ユーミンのヴォーカルあってこその難曲。

■ -TATSURO YAMASHITA-山下達郎 'SPARKLE' (1982年) Tribute Cover 2022

↑ これはかなりよくできたカバーだと思う。
やっぱり神曲はオリジナルのアレンジから離れられない。
それだけのものが原曲にこもってる。

-----------------------
2023/01/08
紅白で反響が大きかったという・・・・ ↓

【milet×Aimer×幾田りら×Vaundy】「おもかげ」| 第73回NHK紅白歌合戦 音源Ver.


ポイントはカッティングギター、ベースライン、そしてコーラスだと思う。
ポップミュージックが失ってしまった”グルーヴ感”を、人々がふたたび求めはじめてるのかもしれぬ。

↓ 40年前の角松敏生。ヴォーカルとインストのバランスが絶妙。
■ SUMMER EMOTIONS - 角松敏生 (1983年)


↓ 異論はあると思うが、シティ・ポップのマスターピースのひとつだと思う。
■ 【EY TV】矢沢永吉「YES MY LOVE」Music Video (1982年)



↓ 現在、もっとも巧みにグルーヴ感を生み出せるユニット-その1
FictionJunction (FBM
■ 梶浦由記「Yuki Kajiura LIVE vol.#16 ~Sing a Song Tour~『overtune〜Beginning』」


↓ 現在、もっとも巧みにグルーヴ感を生み出せるユニット-その2
Bank Band
■「to U -PROTECT “to U” version- 」 Bank Band with Salyu


↓ インストとのアンサンブルや、”音の隙間”を大切にする若手アーティストが増えてきている感じもする。
■ 三阪咲 - Rollercoaster (Acoustic Live Performance)



****************
2022/12/29 UP

昨日放送のBSフジ『シティポップカレンダー'81』、録画したやつを視てみました。
民放にしてはかなりよくできた構成だったと思う。(コメンターによっては2、3意味不明の発言もあったけど。)

とくに当時、シティ・ポップを創り上げた当事者のコメントが深すぎた。

以前、シティ・ポップの構成要件として ↓ を挙げたけど、これを裏付けるコメントが多かった。
とくに、松任谷正隆氏の「メジャー・セブンス=シティ・ポップ」発言には正直おどろいた。

それと、大滝詠一『A LONG VACATION』のモチーフがJ.D. Southerにあったとは、これもびっくり。
■ 大滝詠一 - カナリア諸島にて(1981年)


■ J.D. Souther - You're Only Lonely (Official Audio)
10/20/1979 / 7位 13Weeks


レコーディングに関するファクターがひとつあったと思うので8.として追加します。

1.リズムセクションが生楽器で、アップビート(裏拍)、ヨコノリであること。
2.音にすきまがあって、16分のハイハットがシャープに響いていること。
3.グルーヴ感があること。リズムに「キメ&ブレイク」やシンコペーションが絡んでいること。
4.メジャー・セブンス(四和音)系のコード進行で、ドミナントや転調を多用すること。
5.ボーカルとインスト(楽器)のアンサンブルバランスがいいこと。とくにカッティングやリフのサポートがあること。
6.多声部は基本的にコーラス(ハモリ)であること。
7.AORやBCMに通じるこ洒落た質感があること。
8.マルチトラック・レコーダーでバウンス(ピンポン録音)され、腕利きのエンジニアが手掛けていること。

その背景となったのが、↓ のファクターだと思う。
A.聴き手に洋楽を聴く”素養”があったこと。だからセブンスや”抽象な歌詞”も受け入れやすかったこと。
B.エッセンスをベースにし、これに日本人ならではのこだわりの職人芸を加えていること。
C.上質なアンサンブルを展開できる、腕利きのミュージシャンが日本にも数多くいたこと。
D.セッションが頻繁に行われ、そのなかから新しいフレーズやコード進行などが生まれていたこと。
E.プロのライターやアレンジャーがメインストリームで活躍していたこと。
F.媒体が情報量の多いアナログレコードで、しかもLP購買がメインだったのでアルバム曲がふつうに聴かれていたこと。
G.経済がほぼ右肩上がりで「生活の質を高めよう」という意識が高かったこと。なので曲調がブライトで気分を高揚させるものだった。
H.ウォークマンやカーオーディオで音楽を外で聴く機会が多かったので、「心に刺さる歌詞」よりもBGMとしての適性が求められていた。
I.MTVなどビジュアル媒体がほとんどなく、サウンドだけで勝負する必要があったので、”音”に集中できる環境にあった。

だから、シティ・ポップの成立にはおそらくこのような時代背景が必要だし、腕利きのミュージシャンやプロ(本来の意味での)のクリエイターがいないと成立しない。

とくに1981年といえば、洋楽がその洗練度を高めており、→ ■ 1981年の洋楽ヒット曲 (Billboardデータから)、しかもその多くがグルーヴ感を備えていた。
洋楽が邦楽に与えていた影響は計り知れず、なおかつ日本独自の解釈が生まれメジャー化するタイミングだったと思う。

だがら当時は洋楽と邦楽(シティ・ポップ)の質感はほぼ同質で、同じカセットに入れて聴いたりしていた。
例→ ■ 1984年のテープリスト

※ 以前の記事ですが、すぐ聴けるように再掲します。↓

****************
おそらく1984年くらいにつくったテープだと思います。
この時代、洋楽と邦楽をシャッフルしてもまったく違和感がなかったことがわかる。
リズムが16ビート、シンコペがらみのアップビートのグルーヴで通底していたからかもしれぬ。

01.C調言葉に御用心 - Southern All Stars  〔from『Tiny Bubbles』/1980〕


02.Just One Kiss - Rick Springfield  〔from『Success Hasn't Spoiled Me Yet』/1982〕


03.Sunset Memory - Kazu Matsui Project Feat. Robben Ford  〔from『Standing On The Outside』/1983〕


04.Plastic Love - 竹内まりや 〔from『VARIETY』/1984〕


05.Let's Celebrate - Skyy  〔from『Skyy Line』/1981〕


06.Seeing You (For The First Time) - Jimmy Messina 〔from『Oasis』/1979〕


07.He's Returning - White Heart 〔from『White Heart』/1982〕


08.Last Summer Whisper - 杏里・Anri 〔from『Heaven Beach』/1982〕


09.Tribeca - Kenny G 〔from『G Force』/1983〕


10.The Goodbye Look - Donald Fagen 〔from『The Nightfly』/1982〕


11.The Last Resort - Eagles 〔from『Hotel California』/1976〕

↑ なぜかラストにこの曲が入っていた。

And they called it paradise, I don't know why.
みんなその場所を楽園と呼ぶけど、僕には何故だか分からない・・・
****************


::::::::::::::::::::::::
アンサンブル、洗練度、グルーヴ感は、いまのほとんどの洋楽が失ってしまったものだから、これをマニアックに追求した1980年代の日本のシティ・ポップが全世界から再評価されているのではないか。


******
個人的に、シティ・ポップの源流のひとつと思っている「サーフ・ロック」。
当時(1970年代中盤~)はいまから考えられないほど日本でも人気があって、ニューミュージックとサーフ・ロックを一緒に聴いていた輩がたくさんいた。

■ Ned Doheny - A Love Of Your Own (1976年)


■ Kalapana - Dilemma (1977年)


■ Pablo Cruise - Atlanta June (1977年)




-----------------------
2022/11/16 UP

さきほど「マツコの知らない世界」でDJ Night Tempo氏招いて”80's Japanese POPSの世界”を特集してた。
やっぱりマツコさん音楽の造詣ふかいわ。

正鵠射まくりのコメントがいくつかあったので、テープおこし的にいくつか紹介してみます。

【マツコ氏】
「('80年代の曲って)歌詞とかもさ~、何て言ったらいいのかな、なんか壮大なんだよね。夢や希望が詰まっている人が聴くからさ、なんか異国がいっぱい出てくるのよ 不必要な(笑) 明菜ちゃんなんてすぐに中東行っちゃうのよ。砂漠の歌歌うのよ(笑)」
↑ たしかに・・・、聖子ちゃんもすぐに南の島に行っちゃうし(笑)
■ 松田聖子 - セイシェルの夕陽


■ スペクトラム(SPECTRUM) - なんとなくスペクタクル

そうそういたなぁ、スペクトラム。ほんとに何十年ぶりかで聴いた!

スペクトラム聴いて【マツコ氏】
「いまのっていわゆる向こうのChicだったりとかE.W&Fとか、あっちのリスペクト・ヴァージじゃない。(中略)音楽に対してめちゃくちゃ日本人って貪欲だったと思うんだよね、あの頃・・・。もう世界中のありとあらゆる音楽を知りたくて、それをすぐに吸収してああやって学びたくて、なんであんなに貪るように音楽を聴いていたんだろう。」
↑ ほんとに、誰もかれもが音楽マニアだった気がする。
音楽はたいていLP(アルバム)聴きで、シングルカットされないアルバム曲でもさりげに人気があったりした。

■ Chic - Good Times(1979)



【途中で出てきた外国のシティ・ポップファン】のコメント
「僕がすごいと思うのは、この時代の日本の音楽のレベルの高さ。ミュージシャンの演奏も素晴らしいし、曲のアレンジ、ストリングスすべてが贅沢でお金がかかっている。でも日本の80年代の音楽は日本の中だけに閉じ込められていたから、まだまだ知らない素晴らしい曲がたくさんあってまるで宝探し。」
↑ そうなのかな???
当時の音楽好きはたいてい洋楽メインに聴いていたし、日本のトップアーティストだってみんなLAレコーディングとかしてた訳で・・・。
日本のポップス買いかぶり過ぎの感なきにしもあらず。
それをいうなら、70年代後半~80年代初頭の米国のBCM系マイナーレーベルなんて、それこそお宝だらけかと・・・。

【マツコ氏】
「いまの(日本の)音楽をあまり聴かない理由のひとつは、イントロも間奏もないじゃん。(中略)だから変化は頑張ってつけているけど、ギターソロとか入ってないと大して変わらないじゃん。その、一曲通しての物語としては・・・。なんか物足りない。」
↑ いまの曲はボーカルがベタに張り付いて、アンサンブルが弱いといったことかと思う。


【Tempo氏】
「トイレ行ってスッキリしてない気分ですかね・・・。」

【マツコ氏】
(絶句しつつ)「じゃあ、そういうことにしておこう、いいよ(苦笑)」

【マツコ氏】
「あぁ、でもこれ言いすぎるとまた、『オワコンオカマがノスタルジー語ってる』とか言われるからやめよ(笑)」
↑ オワコンサンプリングして悦に入る、しかも世界的に受けてるって、いったいどゆこと?(笑)

【マツコ氏】
「当時の特徴としてね、不倫の曲がめちゃくちゃ多いのよ、日本って。相当不倫願望の強い国だったんんだと思う。なんかああいうのって、余裕がないと出てこないんだろうっていうのは、いまの歌とかみてると・・・、まぁでも世界的にそうなのかな? なんか歌詞とか現実的な歌詞が多くなったよね。前はめちゃくちゃな歌あったじゃない、いっぱい、日本の歌・・・。」
↑ これとか・・・ ↓
■ 恋におちて -Fall in love- 小林明子(カバー)


【マツコ氏】
「(当時の)日本の歌詞ってすごい独特だったと思うのよ、その、感情表現が・・・。”I Love You”だけじゃないじゃない。いま日本の歌って、けっこうめちゃくちゃシンプルな歌詞をみんなつかってるけど・・・。」
「ほんと、むかしの曲って1回聴いただけではちょっと理解できないというか、という歌詞が多かった気がする。」


■ 涙のアベニュー - 桑田佳祐

暗喩絡みの歌詞がおサレすぎる。


菊池桃子氏登場。RA MUの原曲聴いて。
■ ラ・ムー(RA MU)/ 菊池桃子 - 少年は天使を殺す(1988年6月15日)

ラ・ムー(RA MU)は、アイドル(菊池桃子)とブラコンとフュージョンが合体したユニット。

【マツコ氏】
「お洒落だね~。Tempoちゃんのやつもそうだけど(意味深な笑い)、原曲もいま聴き返すと凄いわ。やっぱあの頃って。(菊池桃子は)すごいアイドルだったのに、それに挑戦させる。いまだったらこわいというか、想像すらしないと思うのよ。あれができちゃうって、相当、芸能界も含めて、日本っていろんなチャレンジをする国だったんだなっていうのが・・・。」

【桃子氏】
「なにか、遊びごころが減ってきたのか、リスクをとらなくなってきたのか???・・・。」

【マツコ氏】
「RA MUは遊びすぎですけどね(笑)」

一度でいいから、マツコさんとマキタスポーツ氏の音楽対談きいてみたい。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

■ 女性ヴォーカルの力 ~ 歌の女神降臨LIVE ~

むしょうに綺麗なメロディ聴きたくなり、思いつくままに引っ張ってみるとやっぱり女性ヴォーカルばっかりだった。

つらつら聴いていくと、
「優秀な男性ボーカルが10人束になってかかっても、1人の才能ある女性ボーカルには到底及ばない。」
などという音楽格言が想い浮かんでくる。

小室哲哉氏がどうしてハイトーンの女性ヴォーカルをあれだけ追い求めたのか、いま振り返るとわかる気がする。


■ 華原朋美 - LOVE BRACE


■ Every Little Thing - Over and Over

華麗な五十嵐サウンドもまた、持田香織のヴォーカルを必要とした。

■ Yuna Ito(伊藤由奈) - Endless Story


■ KOKIA - 孤独な生きもの


■ 揺れる想い - ZARD



■ 柴山サリー(SARI) - 遠い日のNostalgia


■ 西野カナ - 君って 


■ Sachi Tainaka - Saikou no Kataomoi (最高の片想い)


■ Rina Aiuchi(愛内里菜) - Magic


■ 森高千里 - 渡良瀬橋


■ 今井美樹 - Goodbye Yesterday


■ Kalafina - Mirai 未来
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

■ 鎌倉市の御朱印-12 (B.名越口-7)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)から。


37.天照山 蓮乗院(れんじょういん)
鎌倉市観光協会Web

鎌倉市材木座6-16-15
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
司元別当:
札所:鎌倉三十三観音霊場第19番、相州二十一ヶ所霊場第11番


蓮乗院は材木座・光明寺の参道右手にある塔頭寺院です。

鎌倉市観光協会Web、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。

蓮乗院の創立年代・開山は不詳ですが、光明寺開山(寛元元年(1243年))より早い時期からこの地にあり、当初は蓮乗寺と号す真言密寺だったと伝わります。

佐介谷の悟真寺(蓮華寺)がこの地に移転の際(寛元三年(1247年))、良忠上人は伽藍落成まで蓮乗院に入られて建築を督励されたといいます。
光明寺(改号後)の子院となり、浄土宗の蓮乗院と改めたと伝わります。

この沿革にもとづき、光明寺の新住職はまず蓮乗院に入ってから光明寺の本山方丈に入るならわしだったといいます。

蓮乗院が塔頭や僧坊ではなく、「子院」と呼ばれることがあるのもこのような格式によるものかも。

本堂に御座す十一面観世音菩薩は鎌倉三十三観音霊場第19番、弘法大師像は相州二十一ヶ所霊場第11番の札所本尊となっています。

『鎌倉市史 寺社編』には「弘法大師の霊場として大正三年東京東山講(魚河岸の人達)が大師像を作って納め、当二十一ヶ所の十一番とした。」とあり、大正三年に相州二十一ヶ所霊場第11番の札所となったことがわかります。

なお、相州二十一ヶ所霊場については、こちらの「31.金龍山 釈満院 宝戒寺」をご覧くださいませ。

『新編鎌倉志』『新編相模国風土記稿』ともに、蓮乗院の御本尊・阿弥陀如来木像は伝・運慶作で、千葉介常胤の守護佛と伝えます。

千葉介常胤および千葉氏については「鎌倉殿の13人」と御朱印-3/22.阿毘盧山 密乗院 大日寺にまとめていますが転記します。

千葉氏は桓武平氏良文流、坂東八平氏(千葉氏・上総氏・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏)を代表する名族として知られています。

律令制のもとの親王任国(親王が国守に任じられた国。常陸国、上総国、上野国の3国ですべて「大国」)の国守(太守)は親王で、次官として「介」(すけ)がおかれ、実質的な国の長官は「介」ないし「権介」であったとされます。

常陸国の「介」には平家盛、頼盛、経盛、教盛など伊勢平氏(いわゆる「平家」)が任ぜられました。上総国の「介」は早くから坂東に下向した桓武平氏良文流の上総氏、下総国は親王任国ではありませんが、こちらも実質的な長官は「介」ないし「権介」で、良文流の千葉氏が占めて”千葉介”を称し、有力在庁官人としてともに勢力を張りました。

もうひとつの親王任国、上野国(現・群馬県)には、平良文公や千葉氏の嫡流・平(千葉)常将公にまつわる伝承が多く残ります。
(ご参考→『榛名山南東麓の千葉氏伝承』

千葉氏の妙見信仰にもかかわる逸話が伝わるので、少しく寄り道してみます。
千葉氏の妙見信仰のはじまりについては諸説がありますが、千葉市史のなかに、上野国の妙見菩薩にちなむとする記載がありました。(『千葉市史 第1巻 原始古代中世編』(千葉市地域情報デジタルアーカイブ))

これによると、桓武天皇四世、平高望公の子・平良文公は武蔵国大里郡を本拠とし、良文公と平将門公が結んで上野国に攻め入り、上野国府中花園の村の染谷川で平国香公の大軍と戦った際に示現された妙見菩薩(花園妙見・羊妙見)が、その信仰のはじまりだというのです。

「染谷川の戦い」は、伊勢平氏の祖・国香公と良文流の祖・良文公、そして関東の覇者・将門公という超大物が相戦うスケール感あふれる戦いですが、複数の伝承があるようで、国香公と将門公の対峙は明らかですが、良文公がどちらについたかが定かでありません。(そもそも史実かどうかも不明)

しかし、この戦いで花園妙見の加護を得た将門公と良文公が実質的な勝利を得、国香公は撤収したとされています。
これに類する逸話は『源平闘諍録』にも記されており、千葉市史はこれにもとづいて構成されたのかもしれません。

また、良文公の嫡流、平(千葉)常将公も、上野国の榛名山麓に多くの逸話を残しています。
上野国に大きな所領を得たわけでもない良文公や常将公の足跡が上野国にのこるのは、やはり房総平氏の妙見信仰が上野国所縁であることを示すものかもしれません。
※関連記事 → ■ 伊香保温泉周辺の御朱印-1(前編A)の6.三鈷山 吉祥院 妙見寺

房総半島に依った桓武平氏は「房総平氏」とも呼ばれ、平忠常公がその始祖とされます。
「房総平氏」の代表格は上総介と千葉介で、鎌倉幕府草創期の当主は上総介広常と千葉介常胤でした。(→千葉氏系図)(千葉一族の歴史と史跡)

石橋山の戦いで敗れ房総で再挙を図った頼朝公ですが、大きな武力をもつ「房総平氏」の上総介と千葉介の協力なくして鎌倉入りは果たせなかったとみられています。
上総介広常は頼朝公に粛清されましたが、頼朝公のサポート役に徹した千葉介常胤はその地位を能く保ちました。

常胤は千葉氏の祖ともされる平常重の嫡男で、保元元年(1156年)の保元の乱では源義朝公の指揮下で戦いました。
治承四年(1180年)、石橋山の戦いで敗れた頼朝公が安房に逃れると、頼朝公は安達盛長を使者として千葉庄(現在の千葉市付近)の常胤に送り、常胤は盛長を迎え入れ、頼朝公に源氏ゆかりの鎌倉に入ることを勧めたとされます。(『吾妻鑑』治承4年9月9日条)

『吾妻鏡』には、同年9月17日に常胤が下総国府に赴き頼朝公に参陣とあります。
この時期、頼朝公が千葉妙見宮を参詣、以降も尊崇篤かったと伝えられ、頼朝公は房総における妙見信仰の大切さを熟知していたのかもしれません。

これに関連して『千葉市における源頼朝の伝説と地域文化の創出に向けて』(丸井敬司氏)には興味ぶかい説が記されています。

頼朝公は鎌倉に入るやいなや鶴岡若宮(現・元八幡宮)を北に遷座(現・鶴岡八幡宮)していますが、同書では「(鶴岡若宮の北遷は)八幡神を道教における四神の玄武と見做したことを意味する。こうした既存の八幡社に妙見の神格を加えるような事例は房総半島には多く確認される。」とし、守谷の妙見八幡、竜(龍)ヶ崎の妙見八幡を例にひいています。

また、「尊光院(現・千葉神社)のように妙見の別当寺を町の北側に建立することで、事実上、八幡社を妙見社とする例もある(こうした八幡に妙見の神格を加えたものを「千葉型の八幡信仰」という)。こうした事例から考えると筆者は、鶴岡若宮は典型的な「千葉型の八幡信仰」の寺院であったと考えている。」とし、鶴岡八幡宮の御遷座に千葉氏の関与ないしは献策があったことを示唆しています。

源平合戦では範頼公に属して一ノ谷の戦いに参加、豊後国で軍功をあげ、奥州討伐では東海道方面の大将に任じられて活躍、鎌倉幕府でも重きをなしたとされています。
頼朝公も常胤を深く信頼し、「(常胤を)以て父となす」という言葉が伝わります。

千葉氏における常胤の存在の大きさは、常胤以降、嫡流は諱に「胤」の一字を受け継ぐことが通例となったことからもうかがわれます。

また、千葉市Web千葉市立郷土博物館Webでも、千葉氏が大きくとりあげられ、この地における千葉氏の存在の大きさが感じられます。

これは千葉氏が単なる豪族にとどまらず、房総に広がる妙見信仰と深くかかわっていることもあると思われ、実際、千葉市公式Webには「千葉氏と北辰(妙見)信仰」というコンテンツが掲載されています。

常胤の6人の息子の子孫は分家を繰り返しながら全国に広がり、のちに「千葉六党(ちばりくとう)」(千葉氏、相馬氏、武石氏、大須賀氏、国分氏、東氏)と呼ばれる同族勢力を形成しています。

千葉介常胤は真言宗ともゆかりがふかく、あるいは真言密寺の旧・蓮乗寺は千葉介常胤とゆかりがあり、旧・蓮乗寺の御本尊が蓮乗院の御本尊に奉安されたのかもしれませんが、史料類は詳細を伝えていません。

千葉介常胤絡みで当山を訪れる人は多くはないと思いますが、ふたつの霊場の札所なので、こちらの巡拝者の参拝は多いと思われます。


-------------------------
【史料・資料】

『新編鎌倉志 鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
蓮乗院
総門を入右にあり。光明寺草創以前に、真言宗の寺あり。蓮乗寺と云ふ。今の蓮乗院是なり。開山此寺に居て、光明寺を建立す。故に今に住持入院の時は、先づ此院に入て後方丈に入。古例なりと云ふ。当院の本尊阿彌陀木像、腹内に書付あり。貞治二年(1363年)三月十五日、修復之とあり。伝へ云、運慶が作にて、千葉介常胤が守本尊なりと。

『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(材木座村)塔頭 蓮乗院
総門を入て右にあり、当院は本坊草創已前密刹にて蓮乗寺と号せり、開山良忠此寺に居て光明寺を建立す 故に今に住持入院の時は先此院に入て後方丈に入る古例なりと云ふ、
本尊は彌陀の雕像にて肚裏に紙片あり貞治二年(1363年)三月十五日修復之の十二字を記す、是運慶が作にて千葉介常胤が守護佛なりと伝ふ


-------------------------



光明寺の参道・山門の左手にあります。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額

山門は脇塀付き切妻屋根桟瓦葺のおそらく薬医門かと思います。
見上げに院号扁額。

山内は広くはないものの、しっとりと落ち着きがあります。
相州二十一ヶ所霊場第11番の札所標もありました。


【写真 上(左)】 相州二十一ヶ所霊場札所標
【写真 下(右)】 (光明寺の?)鐘楼堂

墓域の方に見える斗栱をダイナミックに組み上げた鐘楼堂は、光明寺のものでしょうか。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂

本堂は寄棟造桟瓦葺流れ向拝。
向拝の張り出しが大きく、なんとなく入母屋造的イメージもありますが、寄棟造平入りかと思います。
シンプルな屋根構成ながら軒上にはしっかり飾り瓦を置いています。



【写真 上(左)】 飾り瓦
【写真 下(右)】 向拝

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、中備に卍紋付きの板蟇股を置いています。
繋ぎ虹梁はないものの、向拝まわりは朱塗りで華やかなイメージのある本堂です。

本堂の扉はわずかに開くので、堂内を拝することができます。
阿弥陀如来、釈迦如来、十一面観世音菩薩、善導大師像、法然上人像、弘法大師像などが安置され、うち十一面観世音菩薩は鎌倉三十三観音霊場第19番、弘法大師像は相州二十一ヶ所霊場第11番の札所本尊となっています。


【写真 上(左)】 観音霊場札所板
【写真 下(右)】 天水鉢

鎌倉三十三観音霊場の札所標も置かれていました。
板ふすま絵や絢爛たる天井絵は逸品とされます。

堂前の天水鉢には月星紋が置かれています。
月星紋は千葉氏の家紋のひとつとされるので、当山と千葉氏のゆかりを示すものかもしれません。


御朱印は本堂右手庫裏にて拝受しました。


〔 蓮乗院の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印


相州二十一ヶ所霊場の御朱印


38.天照山 千手院(せんじゅいん)
鎌倉市観光協会Web

鎌倉市材木座6-12-8
浄土宗
御本尊:確認中
司元別当:
札所:札所:鎌倉三十三観音霊場第20番

千手院は光明寺の参道・山門の左手にある光明寺の塔頭寺院です。

鎌倉市観光協会Web、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。

開山・縁起等は不明です。

材木座への光明寺移転は寛元三年(1247年)とされるので、寺僧寮である千手院の創立もそれ以降とみられますが、史料類は明示していません。

『新編相模国風土記稿』には「按ずるに、【鎌倉志】専修院に作る、当時しか書記せしにや、詳ならず」とあり、『新編鎌倉志』記載の専修院を千手院とみていますが、「詳ならず」と付記しています。

奉安する千手観世音菩薩は、鎌倉三十三観音霊場第20番の札所本尊です。
「Wikipedia」によると千手観世音菩薩像は、天文元年(1532年)恢誉上人により奉安と伝わるとのこと。

なお、『鎌倉市史 社寺編』には「本尊、千手観音」とあり、拝受した御朱印には「本尊 阿弥陀如来」とあったので、御本尊については不明です。

当初は各地から集まった学僧の修行道場ないし寮でしたが、江戸期には学僧の数も減ったため、近所の子供たちに読み書きなどを教える寺子屋としての役割も果たしたといいます。


-------------------------
【史料・資料】

『新編鎌倉志 鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
専修院
総門を入左にあり。此二箇院(蓮乗院・専修院)、共に光明寺の寺僧寮なり。

『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(材木座村)千手院
僧門を入て、左にあり(按ずるに、【鎌倉志】専修院に作る、当時しか書記せしにや、詳ならず、)千手観音を本尊とす

■ 山内掲示
千手院は浄土宗で、天照山千手院と号し、光明寺の塔頭の一つであり、もとは光明寺の寺僧寮であったと伝えられる。
本尊は千手観音、江戸時代から寺子屋のあった所で、境内には梅の古木があった。

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
天照山千手院と号する。
『新編鎌倉志』には専修院とあり、『光明寺志』には千手院とある。浄土宗。
もと光明寺の寺僧寮という。開山不詳。本尊、千手観音。


-------------------------



光明寺の参道・山門の左手にあります。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 院号板


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 観音霊場札所標

山門は脇塀付き切妻屋根桟瓦葺のおそらく四脚門かと思われます。
「赤門寺」と呼ばれそうな鮮やかな朱色の山門です。
門柱に院号板、見上げに院号扁額を掲げ、門前には鎌倉三十三観音霊場第20番の札所標を置いています。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 参道

山内はかなりの奥行きがあり、緑が多く落ち着いたたたずまい。
参道は本堂前で左手に曲がり、その前の覆屋内には子恵地蔵尊が御座します。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂の様式は不詳ですが、宝形造桟瓦葺の流れ向拝かと思います。
水引虹梁は軒下に連接し両端に角形の木鼻、身舎側に繋ぎ虹梁を伸ばしています。
全体にシンプルでスクエアなイメージがあります。

見上げには鎌倉三十三観音霊場の札所板が掲げられていました。
鎌倉三十三観音霊場の第19番蓮乗院・第20番千手院は光明寺の子院・塔頭、第27番妙高院・第29番龍嶺院は建長寺の塔所、結願第33番佛日庵は円覚寺の塔頭で、とくに妙高院・龍嶺院は一般拝観不可で、原則観音霊場巡拝者のみ山内立ち入り・参拝が許されています。
大寺も多くメジャー霊場のイメージがありますが、意外にマニアックな霊場かもしれません。
(→ 霊場札所リスト(「ニッポンの霊場」様)


【写真 上(左)】 観音霊場札所板
【写真 下(右)】 芭蕉句碑

境内には、当院の定賢和尚(明治25年寂)の教え子の田中氏が建立したという松尾芭蕉の句碑があります。

 春もやヽ 気しきとヽのふ月と梅 

かつてあったという梅の古木にちなんで選句したともみられています。


御朱印は山内右手の庫裏にて拝受しました。
比較的メジャーな鎌倉三十三観音霊場の札所なので、ご対応は手慣れておられます。


〔 千手院の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 阿弥陀如来の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印


39.石井山 長勝寺(ちょうしょうじ)
公式Web
鎌倉市観光協会Web

鎌倉市材木座2-12-17
日蓮宗
司元別当:
札所:札所:

長勝寺は日蓮聖人開山とも伝わる日蓮宗の名刹です。

鎌倉市観光協会Web、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。

開山・縁起等については諸説ある模様です。
長勝寺は、妙法寺・安国論寺とともに日蓮聖人が鎌倉に入られ最初に営まれた小庵(松葉ヶ谷御小庵の法華堂)の旧地ともみられています。

石井藤五郎長勝が日蓮聖人に帰依し、邸宅を寄進して一寺にしたという伝もあります。
Wikipediaには、石井氏は鎌倉の有力御家人三浦氏(佐原流)の流れといい、石井藤五郎長勝は文応(1260-1261年)の頃、鎌倉松葉ヶ谷付近の地頭職をつとめていたとあります。
また、宝治合戦(1247年)で三浦一族が滅亡の後、出家して日隆と号したとも。

一方、Wikipediaの「大隅石井氏」の項には、大隅石井氏の略系図として「(三浦)義明 - 義澄 - 義村 - 朝村 - 員村 - 盛明 - 義継(石井太郎) - 重義(大隅国に下向)」とあります。
これによると、盛明は宝治合戦(1247年)には誕生しているので、その子石井義継(石井氏初代)は宝治合戦の数十年後には誕生していたことになります。

義継の子石井重義が大隅国(鹿児島県東部)に下向したのは元徳二年(1330年)頃とされるので、石井義継と石井藤五郎長勝は同族関係にあったのかもしれません。
この系譜を信じると、石井藤五郎長勝は佐原流ではなく、三浦義明 - 義澄 - 義村とつながる三浦氏嫡流筋ということになります。

なお、日蓮聖人が名越松葉ヶ谷に草庵を構え布教を開始されたのは建長五年(1253年)といいますから、戦いに敗れ落魄の身にあった長勝が日蓮聖人の教えにふれて出家し、日隆と号したという説は時系列的に符合します。

ただし、戦いに敗れ、出家した三浦一族の身ではおそらく地頭職には就けないので、「文応(1260-1261年)の頃、鎌倉松葉ヶ谷付近の地頭職」というのは、もう少し前のような気がしますが、宝治合戦ののちでも三浦氏傍系の佐原流・三浦盛時(相模三浦氏)は御家人として命脈を保っているので、あるいはその流れで文応の頃でも地頭職を担えたのかもしれません。

この地は、京都・本圀寺の跡地ともいわれます。
Wikipediaには、本国寺(現・本圀寺)が鎌倉から京都へ移ったのは貞和元年(1345年)、四祖日静上人の時とあります。

京都の本圀寺は日蓮宗の大本山(霊跡寺院)で、日蓮宗公式Webには「(本圀寺は)建長5(1253)年、高祖日蓮大聖人が鎌倉松葉ヶ谷に構え22ヵ年住まわれた御小庵の法華堂を前身とします。」とあるので、本国寺が鎌倉から京都に移ったのは確実です。

ただし、鎌倉から移ったのは「松葉ヶ谷の法華堂」(御小庵の法華堂)なので、この法華堂の旧地が問題となります。(諸説あります。)

「御小庵の法華堂」がいまの長勝寺にあったとした場合に、「長勝寺=本圀寺の跡地」説が成り立つことになります。

『新編相模国風土記稿』には「サレド当所ヲ京都本國寺ノ舊蹟ト云ハ疑ベシ。」とあり、『鎌倉市史 社寺編』でも「草創について寺伝は石井長勝が日蓮に帰依して長勝寺をつくるといい、『新編鎌倉志』及び『(新編相模国)風土記稿』もいろいろ書いているが明らかでない。」と、やや突き放した書きぶりです。

『鎌倉市史 社寺編』は、各寺社の縁起や沿革をすこぶる精緻に考証しており、このような書きぶりはめずらしいもの。
とはいえ、同書は「京都に移った本国寺の旧跡に、貞和元年(1345年)日静が寺を再興し石井山長勝寺と名づけた。(『由緒書』)」と、(当山?)由緒書を引用するかたちで「本国寺旧跡」説を紹介しています。

さらに「延徳五年四月二十日付、結城政朝堵状によれば、正行院が、松葉谷法花堂屋地を本国寺の屋地として充行われている。この正行院が長勝寺の塔頭であるとすると、本国寺跡の問題に一つの手がかりとなるであろう。」とし、「御小庵の法華堂」の旧地については名言を避けているようにもみえます。

『新編鎌倉志』と『新編相模国風土記稿』でもややニュアンスが異なり、『新編鎌倉志』では妙法寺や啓運寺まで出てくるので、やはり長勝寺の縁起は一筋縄ではいかないようです。

筆者にはとても「本国寺跡の問題」を整理する力はないので、下記「史料」の原文をご覧ください。(と逃げる。)

なお、山内掲示(鎌倉市)には、「創建:弘長三年(1263年)」とあり、「京都本圀寺の前身と伝えられており、日静の代、貞和元年(1345年)に寺号が京都に移った後、石井山長勝寺と号し今日に至ります。」と記されています。

『新編鎌倉志』『新編相模国風土記稿』ともに「日朗・日印・日靜と次第して居す。日靜は、源(足利)尊氏の叔父なるゆへに、此寺を京都に移し本國寺と号す。」と記しています。

貞和元年(1345年)、日静上人(日隆上人とも)が復興し、石井長勝の名にちなんで長勝寺と名付けたといいます。

本圀寺は「六条門流」の中心寺院です。
六条門流は釈尊を本仏とする一致派の一派とされ、日静門流とも呼ばれます。

日静上人(1298-1369年)は、Wikipediaに「父は藤原北家の末裔上杉頼重、母は足利氏の娘と言われ、姉の上杉清子が征夷大将軍足利尊氏の生母であるため尊氏の叔父とされる。字は豊龍。号は妙龍院。出身は駿河国(現在の静岡県)。六条門流の祖。」とあり、史料類の「日靜は源尊氏の叔父」という記述と一致します。

貞和元年(1345年)3月、本国寺を鎌倉から京都へ移した日静上人は、みずから住していた鎌倉の本国寺旧地を寺院として残したのでは。
ここから、日静上人復興説が出ているのだと思います。

『新編鎌倉志』に中興開山は日際とありますが、詳細は不明です。

天正十九年(1590年)、関東を平定した豊臣秀吉公より寺領四貫三百文の御朱印を賜わったといい、この寺領は江戸時代も承継されたようです。

現在は、2月11日の建国記念日に、市川市中山の法華経寺で百日間堂に籠もり荒行を遂げた僧たちが、寒水を浴びて世界平和と諸人開運を祈祷する「大国祷会成満祭」のお寺として知られています。

また、鎌倉厄除開運帝釋天のお寺としても有名ですが、これは日蓮聖人が松葉ヶ谷法難の際、帝釋天のお使いである白猿に助けられたことを由縁とされているようです。


-------------------------
【史料・資料】

『新編鎌倉志 鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
長勝寺 附石井
長勝寺は、石井山と号す。名越坂へ通る道の南の谷にあり。寺内に岩を切抜たる井あり。鎌倉十井の一なり。
故に俗に石井の長勝寺と云ふ。法華宗也。
当寺は、洛陽本國寺の舊蹟なり。今は却て末寺となる。寺僧語て曰く、此地に昔日蓮、菴室を卜て居せり。後日朗・日印・日靜と次第して居す。
日靜は、源尊氏の叔父なるゆへに、此寺を京都に移し本國寺と号す。跡の長勝寺を弟子日叡に相続して住せしむ。日叡寺号を妙法寺と改む。本日叡を妙法坊と云しを以てなり。
其後大倉塔辻へ移し。又其後辻町へ移す。寺僧云、今の辻町の啓運寺なり。近来妙法寺と啓運寺の寺号を●たり。辻町の啓運寺は、元妙法寺なるを、今は啓運寺と云ひ、名越の妙法寺は、元啓運寺なるを、今妙法寺と云ふ。其謂を不知。
今の長勝寺は、荒地なりしを、中比日際法師と云僧、舊地を慕ひ一寺を立、又寺号を長勝寺と号す。故に日際を中興開山と云也。
日際は、房州小湊の人なりと云ふ。其再興の年月、幷に日際の死期も不知。
寺領四貫三百文あり。豊臣秀吉公幷に御当家、代々の御朱印あり。
本尊は釋迦なり。
鐘楼 堂の東にあり。銘あり。

日蓮乞水
名越切通の坂より、鎌倉の方一里半許前、道の南にある小井を云なり。
日蓮、安房國より鎌倉に出給ふ時、此坂にて水を求められしに、此水俄に涌出けると也。
水斗升に過ぎざれども、大旱
にも涸ずと云ふ。甚冷水也。土人云。鎌倉に五名水あり。曰く金龍水、不老水、銭洗水、日蓮乞水、梶原太刀洗水なりと。

『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(大町村)長勝寺
松葉谷ノ南方ニアリ。石井山ト号ス。日蓮宗。京都本國寺末。寺伝ニ当所ハ。日蓮菴室ノ地ナリ。其後一寺トナシ。日朗。日印。日靜次第シテ住ス。
靜ハ将軍尊氏ノ叔父ニテ。当寺ヲ京都ニ移ス。今ノ本國寺是ナリ。故ニ当寺ヲ本國寺舊蹟ト称ス。後僧日際(平安元年九月晦日寂ス。)其舊蹟タルヲ追慕シ。更ニ一寺ヲ●建セリ。
際ハ俗稱石井藤五郎長勝ト云ヘリ。故ニ寺ヲ長勝寺ト名ヅク。因テ際ヲ中興開山ト称セリト云フ。サレド当所ヲ京都本國寺ノ舊蹟ト云ハ疑ベシ。
寺寶宗祖ノ筆蹟二幅アリテ。一ハ建長六年。石井藤五郎長勝ヘ授與ノ物。一ハ文應元年九月。松葉谷石井長勝屋鋪、法華堂ニテ書セシ物ト云ヘバ。当所長勝ガ宅地ニテ。日蓮此邊小菴ニ在リシ頃。長勝帰依シテ。爰ニ堂舎ヲ営ミ。其後一寺トナシ。長勝寺ト号セシナラン。
日靜カ本國寺ヲ京都ニ移セシハ。貞和元年ナレバ。夫より四十六年已前。正安元年ニ寂セシ日際。当時本國寺舊蹟ニ一寺ヲ建ト云フモノ。年代事暦合期シ難ク。其訛論スベカラズ。
鎌倉志ニ。長勝寺ハ荒地ナリシヲ。中頃僧日際舊地ヲ慕ヒ一寺ヲ立。又寺号トヲ長勝寺ト號ス。故ニ日際ヲ中興開山ト云フナリ。
際ハは、房州小湊ノ人ト云フ。再興ノ年代。際カ死期モシレズ云々。トアルニ據レバ。当時長勝入道日際。当寺ヲ開基セシガ。本國寺京都に移転ノ後。当寺モ一旦廃寺トナリシヲ。其後日隆再建エリシヨリ。妙法寺ト同ジク。本國寺舊蹟ノ訛傳ハ起リシナルベシ。
天正十八年。小田原陣ノ時。豊臣太閤制札ヲ出セリ。寺領四貫三百文ハ同十九年十一月。御朱印ヲ賜ヘリ。
本尊釋迦ヲ安ス。本堂ハ小田原北條氏ノ臣。遠山因幡守宗爲ガ建立ト云フ。

寺寶
日蓮書二幅 一ハ建長六年正月元日。石井藤五郎長勝授與之トアリ。一ハ文應元年九月三日。松葉谷石井長勝屋鋪法華堂ニテ。御認ナリト書記セリ。
鬼子母神像一軀 長一尺五寸。立像。傳教作。
釋迦像一軀 唐木。長九寸二分。座像運慶作。
大黒像一軀 長一尺四分。日蓮作。
寶陀觀音像一軀 長一尺七寸五分。座像。道潤作。新羅三郎義光。守本尊ト云フ。
山王像一軀 立像。長八寸二分。菅家作ト云フ。
八幡像一軀 金體立像。長一寸八分。将軍賴朝判アリ。
日蓮眞骨塔一基 同歯骨塔一基 古文書二通
釋迦堂 本尊ハ立像ナリ。長一尺九寸。
祖師堂 中央に日蓮。左右に日朗日印ノ像ヲを安ス。
鐘樓 鐘ニ寛永元年鑄造ノ序銘ヲ彫ス。
銚子井 東方ニアリ。日蓮ノ供水ト云フ。寺伝ニハ。日蓮乞水ト唱フトイヘド。是ハ近キアタリ。同名ノ小井アルヲ。混ジ訛レルラン。鎌倉志ニハ。当寺境内ニ。岩ヲ穿チシ井アリ。石井ト号ス。鎌倉十井ノ一ナリト記ス。此井の事歟。今詳ナラズ。
表門 妙法華庵ノ額ヲ扁ス。
駒留木

■ 山内掲示(鎌倉市)
宗派 日蓮宗
山号寺号 石井山長勝寺
創建 弘長3年(1263)
開山 日蓮大聖人
開基 石井長勝

伊豆に配流されてたいた日蓮が鎌倉に戻り、この地にあった石井長勝の邸内に庵を結んだことが当寺の発祥です。
京都本圀寺の前身と伝えられており、日静の代、貞和元年(1345年)に寺号が京都に移った後、石井山長勝寺と号し今日に至ります。
境内の建物と、法華堂は県指定重要文化財。室町時代末期の造営と推定されています。
また、日蓮大聖人の銅像は、鎌倉辻説法を写しています。
毎年二月十一日には、國祷会といわれる厳しい寒さの中で冷水を浴びる荒行が行われます。

■ 『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市)(抜粋)
石井山長勝寺と号する。日蓮宗。京都本国寺の旧地。
開山、日蓮聖人 本尊、日蓮聖人
境内地1017.69坪。
祖師堂、帝釈堂、客殿、尊神堂、龍神堂、石井稲荷社、鐘楼、山門あり。
この寺は本国寺の旧跡と称する。
草創について寺伝は石井長勝が日蓮に帰依して長勝寺をつくるといい、『新編鎌倉志』及び『(新編相模国)風土記稿』もいろいろ書いているが明らかでない。
京都に移った本国寺の旧跡に、貞和元年(1345年)日静が寺を再興し石井山長勝寺と名づけた。(『由緒書』)
天正十八年、秀吉の小田原征伐にあたり、北条氏が当寺の鐘を徴発したため、寛永にいたって、鐘を住持寿仙院日桑が新鋳したという(『新編鎌倉志』)。(中略)
本堂は小田原北条氏の臣遠山因幡守宗為の建立という。
昭和三十三年十月、山門の位置を変更して現在のところに改めた。
延徳五年四月二十日付、結城政朝堵状によれば、正行院が、松葉谷法花堂屋地を本国寺の屋地として充行われている。この正行院が長勝寺の塔頭であるとすると、本国寺跡の問題に一つの手がかりとなるであろう。


-------------------------



鎌倉大町のはずれ、名越切通への登り口辺にあります。
住所は材木座ですが、材木座海岸からは一山越えたところにあるので、大町に近いです。
大町市街から横須賀線を挟んだ山際にあり、奥まった感じの場所ですが、安国論寺や妙法寺にもほど近いところです。

大町方面から横須賀線の名越踏切りを渡り、道を一本横切るとその先が長勝寺の山内です。
山内入口に真新しい寺号標が建っています。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 山門

参道が直角に曲がったところに山門。
脇塀付き切妻屋根桟瓦葺の四脚門で、水引虹梁両端に獅子漠の木鼻、その上にボリューム感ある四連の斗栱を置く堂々たるつくりです。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 お題目塔

ここから正面の本堂(帝釋堂)に向けて、真っ直ぐに参道が伸びています。
参道途中のお題目塔には「松葉谷」「宗門根本法華堂本圀寺𦾔地」とあります。



【写真 上(左)】 六地蔵
【写真 下(右)】 本堂前

本堂前に日蓮聖人像、その尊像を取り囲むように持国天(東方)、増長天(南方),広目天(西方)、多聞天(北方)の四天王立像が御座します。
いずれも精緻なブロンズ像で迫力があります。

5像すべてかはわかりませんが、少なくとも日蓮聖人像は上野の西郷隆盛像造立で有名な彫刻家・高村光雲(1852-1934年)の作といいます。


【写真 上(左)】 水行の場
【写真 下(右)】 水行肝文

持国天の奥手に水行の場があり、こちらで「大国祷会成満祭」の水行が行われます。
覆屋には「水行肝文」が掲げられていました。
その奥には、「久遠」の扁額が掛かる六角堂。


【写真 上(左)】 六角堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

本堂は屋根頂部の基盤に宝珠を置き、宝形造銅板葺とも思われますが、堂宇の規模が大きく確定できません。
三連の扉を置いた向拝の見上げに「帝釋尊天」の扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 法華堂参道

本堂向かって左手の高みには重要な堂宇が並びます。
山門寄り階段を上った先に法華堂(祖師堂)。
小田原の後北条氏の家臣・遠山因幡守宗為による室町時代末の建立とみられ、県唯一の中世五間堂として神奈川県指定重要文化財に指定されています。


【写真 上(左)】 法華堂
【写真 下(右)】 法華堂向拝

桁行五間梁間六間寄棟造銅板葺で、向拝には端正な禅宗様の桟唐戸が並び、質素ながら落ち着きのある意匠です。
向拝見上げに「法華堂」の扁額。


【写真 上(左)】 法華堂扁額
【写真 下(右)】 本師堂

その本堂寄りには鐘楼と本師堂。
本師堂は銅板葺、頂部に立派な火焔宝珠を置く八角堂で、向拝には「本師堂」の扁額が掲げられています。
御本尊は釈迦尊像のようです。


【写真 上(左)】 本師堂向拝
【写真 下(右)】 本師堂扁額

その上手には伝説の映画俳優・赤木圭一郎(1939-1961年)の胸像があります。
赤木の記念碑が当山・材木座霊園にあるため、これにちなみ「赤木圭一郎を偲ぶ会」が造立したとのことです。


御首題・御朱印は本堂向かって左手の庫裏にて拝受しました。
御首題と大帝釋天の御朱印を授与されています。


〔 長勝寺の御首題・御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 御朱印


■ 鎌倉市の御朱印-13 (B.名越口-8)へつづく。



【 BGM 】
■ David Foster and Olivia Newton-John - The Best Of Me (Official Music Video)


■ Natalie Cole - Split Decision


■ Jon and Vangelis - BESIDE
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )