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■ 鎌倉市の御朱印-24 (C.極楽寺口-7)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)
■ 同-15 (B.名越口-10)
■ 同-16 (B.名越口-11)
■ 同-17 (B.名越口-12)
■ 同-18 (C.極楽寺口-1)
■ 同-19 (C.極楽寺口-2)
■ 同-20 (C.極楽寺口-3)
■ 同-21 (C.極楽寺口-4)
■ 同-22 (C.極楽寺口-5)
■ 同-23 (C.極楽寺口-6)から。


64.小動山 浄泉寺(じょうせんじ)
鎌倉市腰越2-10-7
真言宗大覚寺派
御本尊:不動明王
司元別当:小動神社(腰越)
札所:新四国東国八十八ヶ所霊場第85番、相州二十一ヶ所霊場第16番、相模国準四国八十八ヶ所霊場第29番

浄泉寺は弘法大師の開山と伝わる古義真言宗の古刹です。

下記史料・資料、現地掲示などから縁起沿革を追ってみます。

浄泉寺の開山は弘法大師空海と伝わります。
『新編相模國風土記稿』に「小動松 浄泉寺略縁起中に弘仁(810-824年)中、弘法大師小動山に登り一七日護摩を修せしに満日当山の松樹に神女影向あり」とあります。
このときに弘法大師が当山を開山されたのではないでしょうか。

中興開山は弘治四年(1558年)に寂した元秀と伝わります。
もとは青蓮寺の末でしたが、のちに京都大覚寺の末となりました。

通常、不動明王は一面二臂で降魔の三鈷剣を右手、羂索を左手にもたれますが、当山の不動尊は腕を交差させ左手で剣をもたれていることから「左剣不動明王」と呼ばれます。

当山は大正6年7月までは小動神社の別当でした。
浄泉寺の歴史(鎌倉シニア通信様Web)に「昭和30年(1955年)小動神社と続いていたお寺の敷地内を、国道134号線が造られた時、本堂の位置と向きを変更し、山門も国道側へ移したとのことです。」とあり、昭和30年までは小動神社と浄泉寺は地続きだったようです。

小動神社と浄泉寺の習合関係は強く、『鎌倉市史 社寺編』によると、小動神社のお祭りのとき、当山の住職が馬に乗って小動神社の神輿に供奉していたそうです。

弘法大師ゆかりの寺院だけあって、新四国東国八十八ヶ所霊場、相州二十一ヶ所霊場、相模国準四国八十八ヶ所霊場という3つの弘法大師霊場の札所となっています。

当山の史資料はあまり見当たらず、この程度しかご紹介できません。


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【史料・資料】
『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)※抜粋
八王子社
守鎮とす、幣殿・拝殿あり、社地を小動(古由留義)と云ふ。按ずるに【鎌倉志】に此地を当國の名所、小余呂伎磯となし、證歌を引用し、或は大磯の濱を詠とも記したるは、謬と云ふべし、彼名所は、淘綾郡大磯の属なること論を挨ず
本地佛 十一面観音 銅造長四寸を安ず
牛頭天王歳德神を合祀し、神社の額を扁す 今の領主の筆
縁起に拠るに文治年中(1185-1190年)佐々木盛綱の勧請と云ふ。毎年正月十六日を祭期とし、六月十四日には天王の祭事を行へり
境内社後に至れば翠岩丹壁峙立して海中に突出し頗勝地たり
別当は村内浄泉寺兼管す、神木銀杏樹あり

小動松
浄泉寺略縁起中に弘仁(810-824年)中、弘法大師小動山に登り一七日護摩を修せしに満日当山の松樹に神女影向あり
小動の松と云ふ是なりと記し、又文治年中(1185-1190年)佐々木盛綱当山に詣で老松樹の邊に至るに此松平日風なきに、枝葉靡き動く、其妙音恰(あたか)も琴瑟の如し、天女遊戯の霊木なり、此故に此松を小動の松と号すと記せり【鎌倉志】には、山の端に、海邊へ指出たる松あり。風無に常に動く、故にこゆるぎの松と云ふとなりとあり。

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
小動山松岩院浄泉寺と号する。古義真言宗。もと青蓮寺末。いま京都大覚寺末。
開山は空海と伝える。
中興開山は弘治四年(1558年)に寂した元秀である。
本尊、左剣不動明王。
境内地413.55坪。本堂・地蔵堂・山門・庫裏がある。
大正六年七月まで小動神社の別当で、中興後二十二世栗林龍照の時、神仏分離した。
腰越の老人のうちには、お祭りのとき、当寺の住職が馬に乗って、神輿に供奉したのを覚えている人があるという。
『関東古義真言宗本末帳』には、浄泉寺、寺内御免とみえている。

■ 小動神社境内掲示(小動神社由緒略記/抜粋)
相模風土記に往時、弘仁年中(810-822年)弘法大師、小動山に登りし時、老松に神女影向あり、この松を小動の松と云うとあり。


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江ノ電「腰越」駅からほど近いところ、小動神社と国道134号を挟んで相対しています。


【写真 上(左)】 浄泉寺方向から小動神社
【写真 下(右)】 国道から

山門、本堂ともにもとは江ノ電の線路の方(北側)を向いて建っていましたが、昭和30年国道134号線が整備されたときに、現在の向きに移されたそうです。

国道134号に面して目立つ朱塗りの山門を構えています。
切妻屋根桟瓦葺の四脚門で、門前に「除厄弘法大師」と刻んだ寺号標と廻国供𫝥塔。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門前の石標


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 永代供養廟

山内はけっこう広く、参道左手に正面に弘法大師が御座す永代供養廟。
その奥には宝形造桟瓦葺の地蔵堂があります。

江ノ電方面からの古参道は永代供養廟・地蔵堂あたりに突き当たるので、以前の本堂はこのあたりにあったのでは?


【写真 上(左)】 地蔵堂
【写真 下(右)】 本堂

本堂は入母屋造銅板本瓦棒葺で流れ向拝。
軒唐破風の手前に大がかりな千鳥破風を構えたダイナミックな意匠です。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 向拝-1

向拝柱向かって右に寺号板、左手には「左剣不動明王」の尊格板が掲げられています。


【写真 上(左)】 「左剣不動明王」の尊格板
【写真 下(右)】 寺号板

水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎に沿って海老虹梁、中備に龍の彫刻とそのうえに笈形付大瓶束を置いています。
彫刻類はボリューミーで立体感を備えて見応えがあります。


【写真 上(左)】 向拝-2
【写真 下(右)】 木鼻の見返りの獅子

向拝正面桟唐戸のうえに寺号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 梵字の仏塔

山内には密寺らしく梵字が刻まれた仏塔もおかれていました。


御朱印は本堂向かって右手の庫裏にて拝受しました。


〔 浄泉寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御本尊(新四国東国八十八ヶ所霊場)の御朱印
【写真 下(右)】 相州二十一ヶ所霊場の御朱印


65.龍口山 東漸寺(とうぜんじ)

鎌倉市腰越2-22-13
日蓮宗
御本尊:曼荼羅(『鎌倉市史 社寺編』)
司元別当:
札所:龍口寺輪番八ヵ寺

東漸寺は、龍口寺輪番八ヵ寺の一寺をなす日蓮宗寺院です。
龍口寺輪番八ヵ寺とは、日蓮宗の名刹・龍口寺を輪番で護持した片瀬・腰越に点在する八箇寺の日蓮宗寺院をいい、いずれも山号を龍口山と号します。

龍口山 本蓮寺(藤沢市片瀬、元 大光山本圀寺末)  
龍口山 常立寺(藤沢市片瀬、元 身延山久遠寺末)
龍口山 勧行寺(鎌倉市腰越、元 経王山妙法華寺末) 
龍口山 本成寺(鎌倉市腰越、元 妙厳山本覚寺末)
龍口山 妙典寺(鎌倉市腰越、元 長興山妙本寺末)
龍口山 本龍寺(鎌倉市腰越、元 長興山妙本寺末)
龍口山 法源寺(鎌倉市腰越、元 正中山法華経寺末)
龍口山 東漸寺(鎌倉市腰越、元 正中山法華経寺末)

龍口寺は日蓮宗の重要な霊跡であり、日蓮宗の主だった門流が護持の輪番をつとめていたことがわかります。

延元二年(1337年)の敷皮堂建立(龍口寺草創)から、明治19年(1886年)の太政官布達により龍口寺に住職が置かれるまでの約550年間は、龍口寺には住職はおられず、輪番八ヵ寺が輪番制で龍口寺を護持していました。

龍口寺輪番八ヵ寺を語るとき、龍口寺の開創・沿革は外せないので、龍口寺公式Web、下記史料・資料などから縁起沿革を追ってみます。

文応元年(1260年)7月、日蓮聖人は『立正安国論』を幕臣の宿屋光則を通じて前執権北条時頼に提出しました。
しかし、この論は幕府に異見するものとされ、他宗からも反感を買い、日蓮聖人は数々の法難を受けられました。

「龍口(たつのくち)法難」もそのひとつです。
龍口寺公式WebWikipediaを参考にその経緯を追ってみます。

文永八年(1271年)9月12日、日蓮聖人の御年五十歳の年、鎌倉幕府は幕府や諸宗を批判したとの咎で平頼綱率いる数百人で松葉ヶ谷の草庵を襲い、日蓮聖人を捕縛連行して佐渡國への流罪を申し渡しました。

9月13日子丑の刻、日蓮聖人は申し渡しに相違して、はだか馬に乗せられ鎌倉口の頸の座(現・龍ノ口)に引き出され、あわや斬首の危機となりましたが、「不思議の奇瑞」により難を遁れたと伝わります。

その後、日蓮聖人は愛甲郡依智郷(現・厚木市)の佐渡守護代・本間六郎左衛門重連の館に移送され、一ヶ月後に佐渡に配流となりました。

この龍ノ口での法難は「龍口法難」と呼ばれ、「伊豆法難」(弘長元年(1261年)5月12日)、「小松原法難」(文永元年(1264年)11月11日)、「佐渡法難」(文永八年(1271年)10月28日)と並んで「日蓮聖人四大法難」と呼ばれ、その法難の地はいずれも法華(日蓮)宗の霊跡となっています。

日蓮聖人入滅ののち、延元二年(1337年)に日蓮聖人の弟子・日法上人が「龍ノ口法難霊蹟」の地に「敷皮堂」という草庵を結び、自作の祖師像(日蓮聖人御像)と首敷皮を奉じたのが龍口寺の草始と伝わります。

なお、延文二年(1357)の創始は六老僧(日朗、日昭、日興、日向、日頂、日持)が協力して豪荘な伽藍を建立したという伝えがある一方、寺院としての体裁・格式を整えたのは慶長六年(1601年)、地元津村の国人で日蓮宗の信者であった島村采女の寄進によるという伝えもあって、中世の龍口寺の沿革は諸説ある模様です。

しかし、山内には日蓮聖人が一晩を過ごされた土牢が残り、法華(日蓮)宗各門流の輪番八ヵ寺が龍口寺を綿々と護持してきたことからも、法華(日蓮)宗にとって重要な霊跡寺院であることがわかります。
いまも本山(霊跡寺院)の寺格を有し、「片瀬のお祖師様」とも呼ばれて多くの参拝客を集めています。


【写真 上(左)】 龍口寺
【写真 下(右)】 龍口寺の御首題

東漸寺は旧・津村にあって輪番八ヵ寺のひとつであり、『新編相模國風土記稿』には、開山は日東上人(正蓮阿闍梨)、本尊に三寶祖師を安し、下總國中山法華寺末とあります。
開創は、正平七年(1352年)と伝わります。

境内には、日本薬学の祖ともいわれる長井長義夫妻の記念碑も建てられています。


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【史料・資料】
『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
龍口寺
龍口寺は、腰越村の内なり。寂光山と号す。日蓮遷化の後、弟子六老僧、力を合て建立す。因て日蓮を開山とす。此寺は、八箇寺輪番に住持す。妙典寺(比企谷末寺也)・本成寺(身延の末寺也)・本立寺(比企谷末寺也)・法源寺(中山の末寺也)・本蓮寺(本國寺末寺也)・觀行寺(玉澤の末寺也)・東漸寺(中山の末寺也)・淨立寺(碑文谷末寺也)・是を固瀨(かたせ)の八箇寺と云。皆龍口寺の近邊にあり。
本堂 日蓮の像を安ず。堂内に、日蓮首の座の石とてあり。注畫讚に、文永八年(1271年)九月十二日、日蓮難に遭とあり。
日蓮土籠 堂の西の山の根に、巖窟あるを云ふ。前に日蓮の敷皮石とてあれ共、非なり。堂内に有を以て正とすと云ふ。

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
(片瀬村)龍口寺
腰越村の内なり。寂光山と号す。日蓮上人遷化の後に、弟子六老僧、力を合せ建立す。仍て日蓮を開山とし、此寺を八箇寺の輪番にて住職せり。腰越の内、神戸妙典寺(比企谷妙本寺末)、神戸本成寺(身延山末)、神戸本立寺(比企谷の末)・固瀬村法源寺(中山の末)、固瀬村本蓮寺(京本國寺末)、同所觀行寺(玉澤の末)、同所東漸寺(中山の末)、同所常立寺(碑文谷の末) 是を固瀨の八箇寺といふ。皆龍口寺の近所也。
本堂 日蓮上人の像、中老日法の作を安ず。堂内に日蓮上人頸の座石といふ有。注畫讚に、文永八年(1271年)九月十二日、日蓮難に逢とあり。又日蓮一夜土の牢、堂の西の方山際に洞窟あるをいふ。日蓮敷皮石といふもあれど、古えのものは堂内に置けり。

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(津村)東漸寺
龍口山と号す 下總國中山法華経寺末 開山は日東 正蓮阿闍梨と号す 本尊三寶祖師を安ず

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(片瀬村)龍口寺
寂光山と號す法華宗(無本山)文永八年(1271年)九月十二日宗祖日蓮刑に當りし舊蹟たるを以て弘安(1278-1288年)の頃六老僧等力を戮せて創立し(中略)即日蓮を開山となし、近隣八箇寺(村内常立・本蓮の二寺、腰越村本成・勸行・法源の三寺、津村東漸・本龍・妙典の三寺)にて輪番す、本尊は祖師日蓮なり(長二尺二分日法作) 堂内に敷皮石(長二尺三寸五分幅一尺八寸)と稱するあり (中略)
或は首の座石とも呼ぶ、是日蓮斬に當らんとして座を設けし石なりとぞ堂頭に敷皮堂の三字を扁す(寶鏡寺宮、墨蹟と云ふ)毎歳九月十一十二兩日の會式には宗門の緇素群参せり
日蓮士牢 本堂の西山麓にある岩窟を云ふ、日蓮厄難の時假に設けし牢なりと傳ふ、傍に膳窟と呼べるあり、同時膳所たりし遺址と云ふ
經八稲荷社

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
龍口山東漸寺と号する。日蓮宗。片瀬龍口寺輪番八ヶ寺の一。もと中山法華経寺末 開山、日東。本尊、曼荼羅。

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江ノ電「腰越」駅東の路地を山手に入ったところに、本龍寺、本成寺、勧行寺、妙典寺、そして東漸寺があります。


【写真 上(左)】 腰越駅と江ノ電
【写真 下(右)】 山門前

東漸寺はもっとも山手で、その奥は行き止まりです。
車の通行量は多くはないですが、「腰越」駅東からの路地は道幅が狭く、通行人も多いので鉄道での参拝をおすすめします。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 お題目塔

路地に面して山門と、その手前にお題目塔。

山門は龍口寺門前で文政十一年(1828年)から饅頭店を営む老舗、片瀬上州屋六代目・新倉守蔵氏が施主となり昭和55年に建立された桟瓦葺の薬医門で、見上げに山号扁額、飾り瓦にめずらしい波形を置いています。


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 山内

山手に奥まった山内はすこぶる静かで、よく整備されています。


【写真 上(左)】 よく整備された山内
【写真 下(右)】 本堂


【写真 上(左)】 天水鉢
【写真 下(右)】 本堂向拝

参道正面が本堂、左手が庫裏です。
本堂は入母屋造桟瓦葺で流れ向拝。流れ向拝部の降り棟が特徴的で、降り棟のうえには牡丹?の飾り瓦を置いています。

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上と中備に斗栱を置き、正面桟唐戸の上には豪快な筆致の寺号扁額を掲げています。
身舎の花頭窓がよく効いて、整った印象の本堂です。


【写真 上(左)】 向拝扁額
【写真 下(右)】 庫裏


御首題は庫裏にて快く授与いただけました。


〔 東漸寺の御首題 〕




以下、つづきます。



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■ ご縁日と御朱印

・冬至の日の御朱印(再掲)
飯能の高山不動尊(高貴山 常楽院)は、毎年、冬至の日に秘仏・軍茶利明王の御開帳で、当日のお昼前後のみ高山不動尊の御朱印がいただけます。
成田不動尊、高幡不動尊とともに「関東三大不動尊」のひとつにも数えられる名刹ですが、御朱印をいただけるのは原則年に1日のみ。平日も休日も関係なく冬至の当日です。
(ただし今年の冬至(12/21)の授与については未確認。)

快晴であれば、木の葉が落ちきった明るい尾根道(奥武蔵グリーンライン)を駆っての清々しいアプローチが楽しめ、近くの関八州見晴台の奥の院からは雄大な眺望も得られます。

 
【写真 上(左)】 高山不動尊参道
【写真 下(右)】 高山不動尊の御朱印

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すべてご縁日ではないですが、このところ日にち限定授与の御朱印をかなりいただいたので、ご紹介してみます。


汐留稲荷神社(川崎市川崎区)
原則として「かわさき大師ウォークラリー」(今年は10/27)当日の14時までしか拝受できない模様。
近隣の他の数寺社も当日のみの限定授与のようです。


十番稲荷神社(港区麻布十番)の一の酉の御朱印です。


三柱神社(栃木県足利市)の御朱印。
原則として足利文化財特別公開日(今年は11/23、24)のみの限定授与とみられます。
同公開期間中限定授与の神社は他にもあります。


浮岳山 深大寺(東京都調布市)のそば守観音の造立60周年記念御朱印。
今年(2024年)10/30~11/20の月曜と、「そばまつり」開催期間(11/25~12/3)の授与でした。


浅草鷲神社(台東区千束)の三の酉の御朱印です。


深川の富岡八幡宮・境内社の大鳥神社の三の酉の御朱印です。
原則として酉の市当日のみの授与とみられます。


西浅草八幡神社の御朱印。限定授与ではないですが、原則電話予約が必要です。
数年前の三社祭当日に限定授与された例がありますが、それ以降は不授与でした。
本年(2024年)11月初旬から授与開始の模様です。
詳細は→ こちら


西浅草八幡神社境内御鎮座の大黒天の御朱印。
浅草寺の大黒天とゆかりをもつとされる尊像です。


谷口鹿島神社(相模原市南区鶴間)、毎月1日、15日限定授与の御朱印です。


翠ケ丘出雲神社(相模原市南区相南)、毎月1日、15日の午前中限定授与の御朱印です。


金湯山 早雲寺(神奈川県箱根町湯本)の御朱印。
年3日ほどの特定日の特別拝観等拝観者に限定で授与とみられます。
詳細情報


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2023/10/25 UP

ご縁日ではないですが・・・
鎌倉の建長寺と円覚寺では、今年も11月3日(金・祝)~5日(日)の3日間「宝物風入」(ほうもつかぜいれ)が行われます。
例年、この期間中にはふだんはいただけない御朱印が授与されますが、今年も授与されるかはわかりません。

建長寺の風入情報
円覚寺の風入情報
↑ 検索でヒットする(公社)鎌倉市観光協会のWebは最新情報にアップデートされていませんが、両山の公式Webに上記3日間で開催の案内があります

〔建長寺の風入特別御朱印の例〕
 
 
金泥印の御朱印も  

〔円覚寺の風入特別御朱印の例〕
 

■ 円覚寺の御朱印(25種)

なお、新型コロナ禍前には11月初旬に開催されていた箱根・早雲寺の特別拝観では貴重な御朱印が授与されていたようですが、新型コロナ禍以降は中止となり、今年も11月3日に「箱根大名行列」が4年ぶりに本格開催される関係上、開催見送りとのこと。(箱根湯本観光協会に電話確認)
筆者、痛恨の未拝受御朱印です。

■ 箱根の御朱印

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正月三日は厄除元三大師のご縁日(初大師)です。
川越の喜多院では「だるま市」が開催されます。

 
↑ 令和初の川越喜多院「初大師」の御朱印とだるま市

筆者は、令和のはじめから「ご縁日の御朱印帳」をつくっていて、先日、飯能の高山不動尊で念願の御朱印をいただき46のすべての頁を収められましたので、これと絡めて「ご縁日と御朱印」についてまとめてみます。

構成がけっこうたいへんなので(笑)、しばらくお待ちくださいませ。

■ 埼玉県川越市の札所と御朱印-1(中心エリア)


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ちょっととりかかってみましたが、江戸時代まで遡るにはあまりにもテーマが大きいので(笑)
まずは骨子だけまとめ、あとは随時追記していきます。

縁日とはなんでしょうか。
『神仏混淆の歴史探訪』(川口謙二氏著、東京美術、昭和58年10月刊)の「縁日」の頁には「仏陀、神明に有縁の日で、祭や供養のある日を縁日という。社寺に参詣して、仏・神を追念し、その縁を結び、功徳を生ずる日のことである。また縁日を香期(こうき)ともいう。」とあります。

また、江戸期の国学者、喜多村信節が文政十三年 (1830年)に著した随筆『嬉遊笑覧』(きゆうしょうらん)巻七には下記のとおりあります。
「縁日 佛神縁日といふこと 佛𦬇(菩薩)降誕日示現日或は其神誕辰 降現 昇仙等の日 道書並月令広義などに見ゆ。是俗にいふ縁日なり。」

要は、神仏に有縁の日で社寺に参詣してその縁を結び、功徳を生ずる日ということで、規模が大きく参詣者が多く集まるものが「祭り」ではないかと思われます。
なお、個別の尊格のご縁日についてはこちら (→「主な縁日」(Wikipedia))をご覧ください。

いま、ご縁日に参詣してご住職やご神職とお話しをすると、「昔はもっと賑わっていたものだが・・・」というご感想をよく耳にします。
ご縁日でしっかり向拝幕が張られ、幟も整えられ、尊佛はご開扉されて供物も捧げられているのに、参詣者がほとんどいない境内、というのは寂しいものです。


明治42年刊の上京者向けの観光ガイド『東京案内』(森集画堂編輯部編)には、「祭礼縁日案内」の頁があり、縁日詣で目的の上京者がいたことがわかります。

また、大正13年には全國縁日案内というかなりマニアックな本が出版されているので、この頃までは縁日を意識して参詣していた人がかなりいたのではないでしょうか。
この本をみると、東京都内に限っても毎月一日から晦日まで、一日も途絶えることなく社寺の縁日が連なっています。

時代が進み、次第に世相が忙しくなって、縁日の参詣者も減り、このところの寺社ブームで祭りは注目されても、ご縁日まで掘り下げられることは多くありません。

まぁ、時代にそぐわない企画ともいえるのですが(笑)、ご縁日しかいただけない御朱印があったり、縁日印を捺していただけるところもありますので、ご紹介の意味でUPしてみます。
(筆者は御朱印を「参拝の証」というよりは、その結果としての「神仏との結縁の証」と考えているので、個人的には「ご縁日の御朱印」はひときわ特別な意味があると思っています。月替わり・日替わり限定御朱印にはほとんど興味がありませんが、「ご縁日の御朱印」となるとついついいただいてしまいます。)
西新井大師のご縁日紹介のWebページ

これ以上、縁日の定義や意義にふれても煩雑になるだけなので、ひとまずはご縁日の御朱印をいくつかご紹介してみます。

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令和元年5月1日は「新天皇即位日」の祝日でGWさなかであったこともあり、各地の寺社で御朱印を求める人々の行列がみられました。
個人的な感触からすると、おそらくこのときが御朱印ブームのピークで、近ごろは授与所前で行列をみることは希になりました。

その背景として、御朱印に興味をもつような人の多くはすでにある程度いただいてしまったこと、拝受希望者の増加や新型コロナ禍による「書置御朱印」の増加、そして300円から500円へのお納め額の引き上げなどが考えられます。
筆者は直書御朱印にさしてこだわりませんが、自分の御朱印帳にご住職やご神職がみずから書き入れて下さる、という有り難みが、御朱印ブームを盛り上げていた一面は否定できないと思います。

しかも、ブーム前は書入れでもほとんど300円。
寺社様側の諸般のご事情をお伺いすると、引き上げやむなし、という感じもするのですが、三十三観音を廻ると300円では9,900円、500円だと16,500円。
八十八箇所だと500円で44,000円にもなり、気軽に霊場巡拝をはじめる人が減っているのかもしれません。

すこしく話が逸れました。
とにかく、元号が変わった令和元年5月1日、および平成最終日の平成31年4月30日は、御朱印にかかわる人には特別な日であったと思われます。

ご縁日ではないですが、まずはこちらの関係の御朱印をご紹介します。
改元にちなむ限定御朱印の例は各地でみられましたが、当日はどこもパニック状態で筆者はひとつもいただいておりません。
御朱印帳の最終頁を閉めたり、新しい御朱印帳の1頁目を開いたりがメインでした。

 
【写真 上(左)】 最終頁にいただいた平成31年4月30日の八王子・多賀神社の御朱印
【写真 下(右)】 最初の頁にいただいた甲斐国一宮・浅間神社の令和初日の御朱印

筆者の仕事は時間が比較的自由になるので、これ幸いといくつか令和初縁日の御朱印をいただいています。

〔ご縁日の御朱印〕

 
【写真 上(左)】 令和初縁日(十日)の虎ノ門・金刀比羅宮の御朱印
【写真 下(右)】 令和初縁日(十五日)の阿弥陀如来の御朱印(芝・増上寺)

 
【写真 上(左)】 令和初縁日(十六日)の閻魔大王の御朱印(小石川・源覚寺/こんにゃく閻魔)
【写真 下(右)】 令和初縁日(十九日)の馬頭観世音菩薩の御朱印(江東区大島の羅漢寺)

 
【写真 上(左)】 令和初縁日(廿六日)の愛染明王の御朱印(練馬・愛染院)
【写真 下(右)】 令和初縁日(廿八日)の大日如来の御朱印(湯島・霊雲寺)

〔四万六千日・一粒万倍日の御朱印〕
四万六千日(しまんろくせんにち)とは、観世音菩薩の功徳日のひとつです。
功徳日とは、その日に参拝すると100日、1,000日分などの功徳が得られるという特別な日をいいます。
尊格や寺社によって異なりますが、浅草浅草寺の四万六千日(毎年7月10日)はほおずき市も催され、多くの参拝客で賑わいます。

四万六千日に浅草寺の観音さまを参拝すると、その功徳はじつに46,000日分。なんと126年分の功徳を積めるといわれています。
四万六千日の縁日は浅草寺が創始といわれ、次第に各地の寺院にも広まったとされます。

浅草寺の四万六千日(7月10日)の御朱印には、「四万六千日」の印判が捺されます。

四万六千日とは別に、月に5日程度の「一粒万倍日」というのもあります。
わずかなものが非常に大きく成長する日とされ、ことを始めるのに最適な日といわれています。
一年に数日一粒万倍日と天赦日(暦の上で最上の吉日)が重なる日があり、この日を狙って芸能人カップルが入籍したりして話題を集めます。

 
【写真 上(左)】 浅草寺の四万六千日の御朱印
【写真 下(右)】 市守大鳥神社(八王子)の一粒万倍日&酉の市御朱印

〔酉の市の御朱印〕
酉の市(とりのいち)は、例年11月に催される酉の日の縁日・祭で、年により2日(二の酉)の場合と3日(三の酉)の場合があります。
「おとりさま」と呼ばれ、縁起物の熊手などを求めて多くの人出で賑わいます。
酉の市には、特別な御朱印を出される寺社や、その日しか御朱印をいただけない寺社がかなりあります。

■ 特別な御朱印の例
 
【写真 上(左)】 鷲神社(台東区千束)の酉の市特別御朱印
【写真 下(右)】 長國寺(台東区千束)の酉の市特別御朱印

■ 酉の市しかいただけない御朱印の例
 
【写真 上(左)】 (目黒)大鳥神社の御朱印
【写真 下(右)】 (調布)大鳥神社の御朱印

〔干支・節句など特別な日の御朱印〕
干支が絡むご縁日は複雑で、数十年に一度の縁日などという例もあるようです。
芝の寶珠院の弁財天は60日に1日の「己巳の日(つちのとみのひ)」が大縁日で、特別な御朱印が授与されています。
品川区・双葉の蛇窪神社(上神明天祖神社)でも己巳の日の御朱印が授与されています。

 
【写真 上(左)】 寶珠院の弁財天の己巳の日の御朱印
【写真 下(右)】 蛇窪神社の己巳の日の御朱印は受けていないので、大祭(蛇窪祭)の御朱印です

・浅間神社山開きの御朱印
木花咲耶姫命を御祭神とする浅間神社や富士塚は、7月上旬の「富士山お山開き」に合わせ概ね7月1日前後に山開きとなります。
とくに富士塚系は通常非常駐の場合が多く、山開き日限定の御朱印が多くなっています。
北区中十条の十条冨士神社は、毎年6月30日・7月1日の山開きの例祭時のみ御朱印が授与されている模様です。
台東区下谷の小野照崎神社境内の下谷坂本富士も、毎年6月30日・7月1日の山開きの例祭時のみ御朱印が授与されている模様です。

 
【写真 上(左)】 十条冨士神社の御朱印
【写真 下(右)】 下谷坂本富士の御朱印

・冬至の日の御朱印
飯能の高山不動尊(高貴山 常楽院)は、毎年、冬至の日に秘仏・軍茶利明王の御開帳で、当日のお昼前後のみ高山不動尊の御朱印がいただけます。
成田不動尊、高幡不動尊とともに「関東三大不動尊」のひとつにも数えられる名刹ですが、御朱印をいただけるのは原則年に1日のみ。平日も休日も関係なく冬至の当日です。
こちらは長年の宿題でしたが、先日ついに参拝できました。
冬至の快晴の日、木の葉が落ちきった明るい尾根道(奥武蔵グリーンライン)を駆っての清々しいアプローチ。
関八州見晴台の奥の院も参拝しました。

 
【写真 上(左)】 高山不動尊参道
【写真 下(右)】 高山不動尊の御朱印

・庚申の日の御朱印
巣鴨庚申堂は、元旦と年6日ほどの庚申(かのえさる)の日の午前中のみ御朱印が授与されます。
授与日は公式Webで告知されています。

柴又帝釈天のご縁日も庚申の日で、庚申の日には「庚申」、年の最後の庚申の日(納庚申)には「納庚申」の印判つきの御朱印が授与されています。

 
【写真 上(左)】 巣鴨庚申堂の御朱印
【写真 下(右)】 柴又帝釈天の納庚申の御朱印

・亥の日の御朱印
上野の摩利支天・徳大寺では、亥の日にイノシシの印判つきの御朱印が授与されています。


上野摩利支天・徳大寺の亥の日の御朱印

〔不動明王のご縁日〕
不動明王のご縁日、毎月28日もよく知られており、各地で例祭や護摩供が催されます。
不動明王ご縁日の特別御朱印は西日本で盛んで、関東では少ないですが、深川不動尊では「縁日」の印判が捺されます。
また、品川区豊町の大原不動尊の御朱印は、己巳の日に戸越公園駅周辺の商店街が催す「へびくぼ市」の日のみの授与となっています。

 
【写真 上(左)】 深川不動尊のご縁日の御朱印
【写真 下(右)】 大原不動尊の御朱印

〔お大師さまのご縁日〕
弘法大師空海(お大師さま)は825年3月21日高野山にてご入定され、こちらにちなんで毎月21日はお大師さまのご縁日とされます。
お大師さま専用の御朱印帳に、21日のご縁日にいただいています。

 
【写真 上(左)】 成田山川越別院 本行院のご縁日特別御朱印
【写真 下(右)】 御府内八十八箇所霊場結願所、遍照山 文殊院(杉並区和泉)のご縁日の御朱印

※お大師さまご生誕 1250年
令和5年(2023年)はお大師さまがお生まれになって1250年の記念の年です。(→高野山金剛峯寺Web
ご誕生日の6月15日を中心として各地の真言宗寺院で記念法会が営まれました。

東京・高輪の高野山東京別院では6月15日~17日に青葉まつりが開催され、本堂内に四国八十八か所お砂踏み所が設けられ巡拝ができました。
結願者には稚児大師の御影入りの結願証が授与されました。

 
【写真 上(左)】 ご生誕 1250年当日の御朱印
【写真 下(右)】 結願証

〔閻魔大王のご縁日〕
閻魔大王はことに縁日と縁のふかい尊格です。ご縁日は毎月16日ですが、とくに1月16日は「初閻魔」、7月16日は「藪入り」といわれ、参詣客で賑わいました。
閻魔大王も専用の御朱印帳をこしらえて、原則16日のご縁日に江戸・東京四十四閻魔参りの札所をメインにまわっています。

中目黒の鶏足山 実相寺は、初閻魔と藪入りの年2回のみの授与でしたが、新型コロナ禍以降の授与状況は不明です。
巣鴨の醫王山 眞性寺では藪入りに閻魔まつりが催されます。こちら↓ はその時の御朱印ですが、常時授与されているかは不明です。

 
【写真 上(左)】 実相寺の藪入りの御朱印
【写真 下(右)】 眞性寺の藪入りの御朱印


縁日といえるかはわかりませんが、二十三夜月待講ゆかりの寺院などは毎月23日に限定御朱印を出されるケースがあります。
詳細は→こちら(■ 勢至菩薩の御朱印 / 二十三夜月待講)

なお、神社で正月や祭礼日のみ授与の御朱印はかなりあるので、この記事ではご紹介を控えました。
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■ 早雲寺の御朱印

箱根湯本の名刹、金湯山 早雲寺

小田原城主・北条氏の菩提寺で、二代氏綱公が初代早雲公の遺言により京都大徳寺第83世以天宗清禅師を開山として招き大永元年(1521年)に創建した臨済宗大徳寺派の古刹です。

箱根湯本の町は、もともと早雲寺の門前町として始まったといわれるほどの大寺で、数々の文化財を所蔵されます。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 中門


【写真 上(左)】 客殿(方丈)
【写真 下(右)】 庭園


【写真 上(左)】 開山堂
【写真 下(右)】 北条五代の墓参道


早雲寺の御朱印については、令和元年までは11月の曝涼(ばくりょう)時にあわせた特別拝観時のみの授与でした。
(以前は条件が合えば授与されていたときもあったらしい。)

新型コロナ感染症が広まった令和2年春以降、昨年(令和5年)までは特別拝観は休止となっていたので、御朱印も不授与でした。


庫裏玄関には、こういう掲示↑がされています。


今年は曝涼時ではなく、下記日程で寺宝公開され、そのときに御朱印も授与されます。
詳細は→ こちら
 2024年10月4日(金)達磨忌の前日
 2024年12月8日(日)釈迦尊成道会
 2025年2月15日(土)釈迦尊涅槃会
前回の特別拝観は令和元年11月でしたから、じつに5年ぶりの堂内一般公開&御朱印授与となります。

公開時間は各日それぞれ4回。定員は各回20名で予約者優先となります。

筆者は令和元年11月の特別拝観を狙っていたところ、あいにく時間がとれず懸案となっていましたが、ついに今回拝受できました。

寺宝公開は、ご住職のご案内をいただき開催されました。
すこぶる敷居の高い印象のある当山ですが、ご住職からはたいへんご丁寧な説明をいただき、こちらが恐縮するほどでした。
益田玉城画伯の「出山釈迦図」、北条早雲・氏綱・氏康画像、本堂襖絵三十八面、狩野永納の「宗祇騎馬図」などが公開されました。

また、客殿(方丈)では御本尊の釈迦如来を間近で拝せました。

御朱印は、拝観受付時に御朱印帳をお預けすると拝観後に授与いただけます。
書置のものがあるかは不明です。
今回も相方とそれぞれ1通宛、計2通拝受しました。

 

早雲寺の御朱印は「虎の御朱印」ともいい、捺される印判は「禄壽應穏」(ろくじゅおうおん)と刻されたものです。
虎の印「禄壽應穏」は、二代北条氏綱公の時代から、北条氏の出した朱印状に押印されていたとされ、上部に虎の伏した姿が刻まれています。

じっさいに拝受してみると、やはりただならぬ存在感のある御朱印です。

 
【写真 上(左)】 御朱印説明
【写真 下(右)】 パンフレット

今回は創建500年記念特別展図録「早雲寺」が、内容に比して破格のお値段で頒布されていたので購入しました。


「早雲寺」


次回は2025年2月15日(土)の釈迦尊涅槃会です。
現況、予約枠が空いているかは不明ですが、興味をもたれた方は問合せされてみてはいかがでしょうか。

早雲寺については、平林寺と同様のフォーマットでまとめてみたいと思いますが、歴史ある名刹ゆえしばらく時間がかかるかと思います。

【関連記事】
■ 箱根の御朱印



【 BGM 】
■ 孤独な生きもの - KOKIA


■ 雪の華 - 中島美嘉 Cover.花たん(hanatan)


■ Mirai 未来 - Kalafina

数十人でユニゾンがあたりまえの時代に、わずか3人でこのテクニカルなハーモニー。
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■ 箱根の御朱印

早雲寺の御朱印を追加しました。

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2022/06/21 UP
御朱印を数点、追加しました。

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2021/11/13 UP

先日、超ひさびさに箱根に行ってきました。
元箱根あたりは例年の秋の行楽シーズンに比べ、まだ人出はすくないと思います。
また、新型コロナ禍による御朱印授与制限はおおむね解除されている模様です。



箱根は関東有数の観光地で、箱根神社や箱根七福神があるためか、”御朱印のメッカ”のイメージもありますが、授与される寺社はさほど多くはありません。
(そもそも寺社の数が多くない。)
現況、Web上の御朱印情報は箱根神社など、一部のメジャー神社に集中しています。

御朱印を授与されている寺院もそれなりにあるのですが、拝受難易度はけっこう高く、Web検索でもなかなかヒットしません。
そこで、箱根周辺の御朱印情報を網羅的にまとめてみることにしました。

拝受数を稼ぐ向きは、寺社が集中する小田原市や南足柄市と併せて回るのも面白いかもしれません。
(今回のご紹介範囲は小田原市の一部と箱根町全域、そして小山町の一部とします。)

〔 関連記事 〕
■ 熱海温泉&湯河原温泉周辺の御朱印
↑ 早川方面はこちらでご紹介しています。

なお、こちらでご紹介する御朱印が現在も授与されているかは定かではありません。
(授与状況は寺社様のご都合により都度変動します。)
札所でない寺院も多く含むので、ご不在のケースも予想されます。
また、アプローチは概ね込み入って細く、Pも狭いところが多いので、車での参拝は細心の注意が必要です。
以上、ご留意をお願いします。

〔 温泉の関連記事 〕
■ 箱根二十湯制覇!


それでは、小田原市からいきます。


〔 小田原市の御朱印(一部) 〕



小田原市は関東でも有数の御朱印エリアで、すべてご紹介するとこの記事の主旨を外れるので、下記エリアのみとします。
・小田原城大手前から南西側(本町・南町)の東海道沿い、および城山4丁目、板橋、風祭、入生田あたりの箱根に向かう箱根登山鉄道沿線の寺社
※小田原城では、摩利支天の御朱印を拝受できます。(筆者未拝受)


■ 報徳二宮神社
公式Web 
小田原市城内8-10
御祭神:二宮尊徳翁
旧社格:県社、別表神社
元別当:
授与所:境内社務所

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:報徳二宮神社 直書(筆書)



■ 松原神社
神奈川県神社庁公式Web 
小田原市本町2-10-16
御祭神:日本武命、素戔嗚命、宇迦之魂命
旧社格:県社、小田原宿総鎮守
元別当:玉瀧坊・西光坊?
授与所:境内社務所

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:松原神社 書置(筆書)



■ 不老山 壽松院 無量寺
公式Web
小田原市本町3-13-53
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:足柄三十三観音霊場第33番(十一面観世音菩薩)、小田急武相三十三観音霊場第26番


〔拝受御朱印〕
1.足柄三十三観音霊場の御朱印 十一面観世音菩薩
※御本尊の御朱印の授与は不明。



■ 大恩山 知見院 妙泉寺
小田原市本町3-13-35
日蓮宗
御本尊:
札所:

〔拝受御朱印〕 ※御首題は筆者参拝時ご住職ご不在につき未拝受
1.「大恩山知見院妙泉寺」の御朱印


2.毘沙門天の御朱印



■ 青陽山 妙経寺(御幸ヶ浜)
公式Web
小田原市本町4-6-5
日蓮宗
御本尊:
札所:

〔拝受御朱印〕
1.御首題



■ 蓋子山 福田寺
公式Web
小田原市本町4-6-12
時宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 六字御名号



■ 醫王山 薬師院 圓福寺
公式Web
小田原市本町4-6-24
東寺真言宗
御本尊:不動明王
札所:小田原七福神(布袋尊)

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 不動明王

2.小田原七福神の御朱印 布袋尊



■ 妙珍山 蓮昌寺
小田原市本町4-5-19
日蓮宗
御本尊:
札所:

〔拝受御朱印〕
1.御首題



■ 稲荷山 一花院 大蓮寺
小田原市南町2-4-9
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:足柄三十三観音霊場第32番、小田原七福神(福禄寿)

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 阿弥陀如来
※足柄三十三観音霊場の御朱印不授与



■ 永刧山 最勝院 報身寺
小田原市南町3-11-3
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:足柄三十三観音霊場第31番、小田原七福神(恵比寿神)

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 阿弥陀如来
※足柄三十三観音霊場の御朱印不授与



■ 居神神社
公式Web 
小田原市城山4-23-29
御祭神:三浦荒次郎義意、木花咲耶姫命、火之加具土命
旧社格:旧山角町、旧板橋村の鎮守
元別当:庭松寺
授与所:境内社務所

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:居神神社 直書(筆書)



■ 水神社
公式Web 
小田原市城山4-23-29
御祭神:國之水分神
旧社格:-、居神神社境内社
元別当:
授与所:居神神社境内社務所

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:水神社 直書(筆書)



■ 宝聚山 随心院 大久寺
日蓮宗ポータルWeb
小田原市城山4-24-7
日蓮宗
御本尊:
札所:

〔拝受御朱印〕
1.御首題



■ 惺雄山 蓮船寺
日蓮宗ポータルWeb
小田原市城山3-31-15
日蓮宗
御本尊:
札所:小田原七福神(大黒尊天)

〔拝受御朱印〕
1.御首題


2.小田原七福神 大黒尊天



■ 大久保神社
神奈川県神社庁公式Web
小田原市城山3-27-7
御祭神:大久保忠世候、大久保忠眞候
旧社格:
元別当:
※参拝しましたが、境内に御朱印不授与の掲示がありました。



■ 象鼻山 御塔生福寺
日蓮宗ポータルWeb
小田原市板橋771
日蓮宗
御本尊:
札所:

〔拝受御朱印〕
1.御首題



■ 秋葉山 量覚院
小田原市板橋544
本山修験宗
御本尊:秋葉大権現
札所:

〔拝受御朱印〕
1.御本尊 種子(ボロン)


※御朱印の揮毫は種子(ボロン)とみられます。
ボロンは一字金輪仏頂の種子で、密教系でもことに特別な種子とされます。
秋葉大権現とボロン、ないし一字金輪仏頂との関係は不明ですが、種子ボロンがあらわされた貴重な御朱印と思われます。
思い出せる範囲では、ボロンの御朱印はこちらのほか、王子の金輪寺(豊島八十八ヶ所霊場第55番、御本尊一字金輪仏頂尊)でしか拝受したことがありません。 


■ 南谷山 香林寺
小田原市板橋908
曹洞宗
御本尊:薬師如来
札所:小田急沿線花の寺四季めぐり第27番

〔拝受御朱印〕
1.御本尊 薬師如来



■ 金龍山 宗福院(板橋地蔵尊)
小田原市板橋566
曹洞宗
御本尊:延命子育地蔵菩薩
札所:

〔拝受御朱印〕 ※香林寺にて拝受
1.御本尊 地蔵大菩薩



■ 玉正山 妙覚寺
小田原市風祭482-1
日蓮宗
御本尊:
札所:

〔拝受御朱印〕



■ 永禄山 寶泉寺
小田原市風祭918
臨済宗大徳寺派
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 釈迦牟尼佛



■ 長興山 紹太寺
小田原市入生田303
黄檗宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:小田急沿線花の寺四季めぐり第12番

〔拝受御朱印〕 ※現在、御朱印は原則不授与の模様(不授与の貼り紙あり)。
1.御本尊の御朱印 釈迦如来



〔 箱根町の御朱印 〕

■ 金湯山 早雲寺
箱根湯本観光協会Web
箱根町湯本405
臨済宗大徳寺派
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:

〔拝受御朱印〕 
2024年12月8日の釈迦尊成道会の寺宝公開時に予約拝観して拝受。
通常は御朱印不授与です。
■ 早雲寺の御朱印



■ 霊泉山 鎖雲寺(初花寺)
箱根湯本観光協会Web
箱根町須雲川147
臨済宗大覚寺派
御本尊:薬師如来
札所:

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 薬師如来



※須雲川にある箱根大天狗山神社およびその分院では御朱印が授与されている模様ですが、筆者は未拝受です。


■ 高榮山 守源寺
箱根ナビ
箱根町畑宿167
日蓮宗
御本尊:
札所:箱根七福神(大黒天神)

〔拝受御朱印〕
1.御首題


2.箱根七福神 大黒天神



■ 玉簾神社
天成園公式Web
箱根町湯本682
御祭神:御祭神:箱根大神(瓊瓊杵尊、木花咲耶姫命、彦火火出見尊)箱根大神、相殿に九頭龍大神・水波能売神・稲荷大神・恵比寿神
旧社格:
元別当:
授与所:天成園内自販機および授与所(orフロント?)


【写真 上(左)】 以前の授与所
【写真 下(右)】 多彩な御朱印が授与されていました


【写真 上(左)】 現在の授与所
【写真 下(右)】 御朱印の自動販売機

※以前は境内授与所で書家さんの揮毫による複数のカラフルな御朱印が授与されていましたが、現在は墨朱の書置御朱印のみ授与の模様。
授与所(orフロント?)と自動販売機での授与があり、揮毫はいずれも「玉簾神社」ですが若干内容が異なります。日付の書入れがほしい場合は授与所(orフロント?)で拝受します。
駐車場は天成園の立体駐車場を利用。30分以内の参拝ならば無料となります。(超過すると500円。)

〔拝受御朱印〕
1.御朱印揮毫:九頭龍神 直書(筆書)


2.御朱印揮毫:玉簾神社 直書(筆書)


3.御朱印揮毫:玉簾神社(授与所で授与) 書置(印刷?)


4.御朱印揮毫:玉簾神社(自販機で授与) 書置(印刷?)



■ 箱根出世地蔵尊
箱根町湯本682
宗派不明
御本尊:地蔵菩薩
札所:

※天成園庭園内に奉安されているお地蔵さまです。
玉簾神社の授与所(orフロント?)で拝受できます。

〔拝受御朱印〕
1.箱根出世地蔵尊の御朱印



■ 大慈悲山 福寿院(箱根観音)
箱根湯本観光協会Web
箱根町湯本茶屋182
曹洞宗
御本尊:開運出世慈母観世音菩薩
札所:

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 箱根観音



■ 阿育王山 阿弥陀寺(あじさい寺)
箱根湯本観光協会Web
箱根町塔ノ沢24
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:足柄三十三観音霊場第28番、小田急沿線花の寺四季めぐり第19番
※車でのアプローチ可(お寺下にPあり)ですが、急坂で道幅の狭い山道経由でおすすめしません。

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 黒本尊


2.御本尊の御朱印 黒本尊



■ 大光山 林泉寺
曹洞禅ナビ
箱根町大平台337
曹洞宗
御本尊:
札所:
※交通量の多い国道1号に面し、見通しの悪いカーブの途中に車両出入口があるので要注意です。

〔拝受御朱印〕
1.大平十一面観世音菩薩の御朱印



■ 養食山 常泉寺
公式Web
箱根町宮ノ下289
曹洞宗
御本尊:釈迦如来
札所:
※一方通行のアプローチ道は入口がわかりにくく、道幅も狭いので要注意です。

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 釈迦如来



■ 山王神社(福禄寿社)
箱根ナビ
箱根町二ノ平1297 箱根小涌園内
御祭神:
旧社格:
元別当:
札所:箱根七福神(福禄寿)
授与所:境内授与所
※Web上では「山王神社」の御朱印もみつかりますが、参拝時は「福禄寿」の御朱印のみとのことでした。

〔拝受御朱印〕
1.御朱印揮毫:福禄寿 書置(筆書) ※山王神社の印判あり




■ 大雄山 最乗寺 箱根別院
箱根町強羅1300-319-1
曹洞宗
御本尊:
札所:
※現在、こちらは寺務休止中とのことで、御朱印は授与されていない模様です。

〔拝受御朱印〕 
1.道了尊の御朱印
 

●詳細情報
■ (早雲山)温泉 「最乗寺箱根別院」 〔 Pick Up温泉 & 御朱印 〕


■ 阿字ヶ池弁財天
箱根ナビ
箱根町芦之湯
御祭神:弁財天
旧社格:
元別当:
札所:箱根七福神(弁財天)
授与所:旅館「きのくにや」フロント

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:阿字ヶ池弁財天 印判・書置 (平成28年9月)


2.御朱印尊格:阿字ヶ池弁財天 印判・書置 (令和元年9月)



■ 駒形神社
公式Web
箱根町箱根290
御祭神:駒形大神(天御中主大神、素戔鳴尊、大山衹神)
旧社格:
元別当:
札所:箱根七福神(毘沙門天)/境内社の毘沙門天社
授与所:境内社務所

〔拝受御朱印〕
1.御朱印揮毫:駒形神社 直書(筆書)



■ 毘沙門天社
公式Web
箱根町箱根290
御祭神:毘沙門天
旧社格:-、 駒形神社境内社
元別当:
札所:箱根七福神(毘沙門天)
授与所:駒形神社社務所

〔拝受御朱印〕
1.御朱印揮毫:毘沙門天 直書(筆書)



■ 到国山 無量壽院 本還寺
箱根ナビ
箱根町箱根223
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:足柄三十三観音霊場第34番、箱根七福神(寿老人)、小田急沿線花の寺四季めぐり第26番
※足柄三十三観音霊場第34番の御朱印は不授与とのこと。箱根七福神(寿老人)の御朱印は授与されています。

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 阿弥陀如来 (平成28年9月)


2.御本尊の御朱印 阿弥陀如来 (令和元年9月)



■ 箱根山 萬福寺
親鸞聖人を訪ねて
箱根町箱根228
真宗大谷派
御本尊:
札所:

〔拝受御朱印〕 
1.「箱根御舊地」の御朱印(記念印)



■ 興禅院
箱根ナビ
箱根町箱根125
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:

〔拝受御朱印〕 
1.関所庚申堂
※御本尊の御朱印は不授与とのこと。



■ 瑞龍山 興福院
箱根ナビ
箱根町元箱根26
曹洞宗
御本尊:釈迦如来
札所:箱根七福神(布袋尊)

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 釈迦如来


2.箱根七福神の御朱印 布袋尊


(3.白龍神社の御朱印)


※九頭龍神社本宮、箱根元宮、箱根神社の巡拝を「箱根三社参り」といいます。
このところ、「最強の神社巡り」として人気を集めている模様。




■ 箱根神社


公式Web
箱根町元箱根80-1
御祭神:箱根大神(瓊瓊杵尊、木花咲耶姫命、彦火火出見尊)
旧社格:国幣小社、別表神社
元別当:
札所:箱根七福神(恵比寿神)/境内恵比寿社
授与所:境内社務所

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:箱根神社 印判 (平成28年9月)


2.御朱印尊格:箱根神社 印判 (令和3年11月)



■ 箱根元宮


公式Web
箱根町元箱根 駒ヶ岳山頂
御祭神:箱根大神
旧社格:
元別当:
授与所:拝殿内授与所
※こちらの御朱印は、駒ヶ岳頂上の箱根元宮拝殿内でしか拝受できません。
原則毎月1日、24日の例祭および土日祝のみの授与で、荒天時は箱根駒ヶ岳ロープウェイが運休となるのでそのときも授与されません。参拝当日に箱根神社社務所(0460-83-7123)に問合せするのが確実と思われます。
また、御神職の在殿時間は原則10:00~15:00で、遅くとも14:20箱根園発に乗車する必要があります。


〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:箱根元宮 印判



■ 九頭龍神社新宮
公式Web
箱根町元箱根80-1
御祭神:九頭龍大神
旧社格:-、箱根神社境内社
元別当:
授与所:箱根神社社務所

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:九頭龍神社 印判



■ 恵比寿社
公式Web
箱根町元箱根80-1
御祭神:事代主神
旧社格:-、箱根神社境内社
元別当:
札所:箱根七福神(恵比寿神)
授与所:箱根神社社務所

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:恵比寿神 印判



■ 九頭龍神社本宮


公式Web
箱根町元箱根防ケ沢(箱根樹木園内)
御祭神:九頭龍大神
旧社格:
元別当:
授与所:箱根神社社務所

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:九頭龍神社 印判



■ 白龍神社
公式Web
箱根町元箱根和田ノ角(箱根樹木園内)
御祭神:白龍大神
旧社格:
元別当:
授与所:興福院(箱根町元箱根26)
※※白龍神社例大祭(6月13日)時のみ授与というWeb情報がありますが、興福院で常時授与されている模様。

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:白龍大明神 直書(筆書)



■ 龍虎山 長安寺
箱根ナビ
箱根町仙石原82
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:東国花の寺百ヶ寺霊場第91番、小田急沿線花の寺四季めぐり第30番

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 釈迦牟尼佛


2.東国花の寺百ヶ寺霊場の御朱印 釈迦牟尼佛


3.五百羅漢の御朱印



■ (仙石原)諏訪神社
公式Web
箱根町仙石原88
御祭神:建御名方命
旧社格:村社、旧仙石原村鎮守
元別当:
授与所:公時神社社務所

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:諏訪神社 印判



■ 公時神社
公式Web
箱根町仙石原1181
御祭神:坂田公時命
旧社格:村社、旧仙石原村鎮守
元別当:
授与所:公時神社社務所

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:公時神社 印判



〔 静岡県小山町の御朱印(一部) 〕

■ 足柄山聖天堂
小山町Web
小山町竹之下3649(足柄峠)
曹洞宗
御本尊:大聖歓喜双身天王
札所:
※隣の茶店にて書置御朱印を拝受
・かつて、東海道の箱根(足柄)越えは、足柄路(矢倉沢往還)、湯坂道(湯本~浅間山~鷹巣山~芦之湯~芦ノ湖箱根権現)、箱根八里(三枚橋~畑宿~芦ノ湖)の3つのルートがありました。
もっとも険しい湯坂道は、二所詣(鎌倉将軍の箱根権現と伊豆山権現の参拝)に使われ、かつての鎌倉古道とも伝わります。
時代が下ると距離の短い箱根八里が主街道となり、足柄路は脇街道の位置づけとなりました。
・足柄越えはもっとも古く、昌泰二年(899年)にはすでに足柄之関(関所)が設けられていたとされます。
また、寛治元年(1087年)頃、新羅三郎源義光公が兄八幡太郎源義家公の応援のため奥州に向かう際、笙の秘曲を笙の師匠の息子・豊原時秋に伝授した「新羅三郎義光吹笙之石」がこの地に残り、義光公も足柄越えを使ったことがわかります。
・こちらは足柄路の足柄峠に祀られる堂宇で、弘法大師が奉納されたと伝わる大聖歓喜双身天王が御座され、日本三大聖天(浅草聖天・生駒聖天・足柄聖天)のひとつともされる由緒ある聖天様です。

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 大聖歓喜双身天王



今回、令和3年4月28日に開通したての「県道731号/愛称:はこね金太郎ライン・南箱道路」を走ってみました。
この開通により、足柄峠~箱根仙石原という新たな周遊ルートができたことになります。(以前は、矢倉沢林道とも呼ばれ、箱根の道路大渋滞時に箱根から大井松田方面に抜けるエスケープルートとして一部で知られ、筆者も何回か使ったことがありますが、かなり手厳しい道路でした。)
今回、かなり補修はかけられているものの、線形はほぼ旧林道を踏襲しており、細かいカーブが連続します。初心者にはきびしいかもしれません。
(→道路の概要(県Web資料)

■ はこね金太郎ライン入口(松田側)


■ 和泉山 圓通寺
公式Web
小山町新柴292
曹洞宗
御本尊:馬頭観世音菩薩
札所:御厨観音横道札所第20番
・こちらの御本尊は足利将軍義教公の家臣、小栗判官助重公ゆかりの由緒ある「鬼鹿毛馬頭観世音菩薩」で、牛馬あるいは陸運の守護神として篤い信仰をあつめました。
・堂内には小田原・早川港で水揚げされた鮮魚を(おそらく箱根ないし足柄越えをして)甲州方面へ運ぶ奉納絵が掲げられています。
箱根山の陸運とも関係があると思われる古刹なので、こちらでご紹介します。

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 大悲殿(馬頭観世音菩薩)




■ (中島)金時神社
小山町観光協会Web
小山町中島 金時公園内
御祭神:坂田公時命
旧社格:
元別当:
授与所:駿河小山駅前観光案内所(「道の駅足柄」でも授与されているようです。)
・御祭神の坂田金時命は、金時山(足柄山地の最高峰、箱根外輪山の一峰)の麓で育ち、長じて源頼光公の家来として取りたてられ、渡辺綱・碓井貞光・卜部季武らとともに「源頼光四天王」の一人として大江山の酒呑童子退治をするなど、名声を高めました。(その実在については諸説あります)
・当社は坂田金時の生家の跡地といわれ、金太郎ゆかりの数々の名跡が残ります。
・箱根仙石原の「公時神社」に対してこちらの社号は「金時神社」。ともに御祭神として坂田公時命をお祀りしています。

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:金時神社 書置(筆書)




■ 鷹巣山 勝福寺
公式Web
小山町観光協会Web
小山町中島123-1
臨済宗円覚寺派
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:
・金太郎(坂田金時)の生家「坂田家」の菩提寺といわれます。

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 釈迦牟尼佛



【 BGM 】
■ 孤独な生きもの - KOKIA


■ 雪の華 - 中島美嘉 Cover.花たん(hanatan)


■ Mirai 未来 - Kalafina

数十人でユニゾンがあたりまえの時代に、わずか3人でこのテクニカルなハーモニー。


それにしても、日本の歌姫のレベルおそるべし!
いまの芸能界は優れた才能を粗末にしすぎ。
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■ 鎌倉市の御朱印-23 (C.極楽寺口-6)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)
■ 同-15 (B.名越口-10)
■ 同-16 (B.名越口-11)
■ 同-17 (B.名越口-12)
■ 同-18 (C.極楽寺口-1)
■ 同-19 (C.極楽寺口-2)
■ 同-20 (C.極楽寺口-3)
■ 同-21 (C.極楽寺口-4)
■ 同-22 (C.極楽寺口-5)から。


62.龍護山 満福寺(まんぷくじ)
公式Web

鎌倉市腰越2-4-8
真言宗大覚寺派
御本尊:薬師如来
司元別当:
札所:新四国東国八十八ヶ所霊場第84番、相州二十一ヶ所霊場第15番、相模国準四国八十八ヶ所霊場第50番、小田急武相三十三観音霊場第33番

稲村ヶ崎~七里ヶ浜周辺に寺社は少なく、霊光寺(日蓮宗)は参拝していますが御首題はいただけず、顕証寺(本門佛立宗)の御首題はWeb検索でヒットしません。
よって腰越にエリアを進めます。

満福寺は源義経公・武蔵坊辨慶ゆかりの寺院です。

公式Web、下記史料・資料、現地掲示などから縁起沿革を追ってみます。

天平十六年(744年)行基の開山と伝わる古刹で、古義真言宗手広村青蓮寺末といいます。
御本尊は行基御作の薬師如来、弘法大師御作の不動尊を安ずるとあります。

史料の多くは義経公とのゆかりに紙面をさいています。

源義経公(1159-1189年)は、鎌倉幕府初代将軍源頼朝公の異母弟で、日本史上もっとも著名とみられるその生涯については、ここではふかくなぞりません。
当山に関連ある事柄のみ、簡単に追ってみます。

治承八年(1184年)2月、摂津一ノ谷で平氏を破った義経公は京に凱旋すると後白河法皇から厚遇を受け、頼朝公の許可を得ずして法皇から検非違使・左衛門少尉の任官を受けました。
頼朝公はこれを怒り、義経公の平氏追討の任を解きました。

しかし、義経公解任後の戦況は思わしくなく、元暦二年(1185年)再び義経公を平氏追討に起用するや、義経公は讃岐屋島で見事な勝ち戦をおさめ、同年3月、長門壇ノ浦で平氏を滅ぼしました。

しかし同年4月、頼朝公は朝廷から勝手に任官を受けた義経公麾下の東国武者らを罵り、東国への帰還を禁じました。
平氏追討で義経公を補佐した梶原景時からは、義経公が平家追討の功を誇るあり様が書状で頼朝公に伝えられました。
軍監・景時の意見を聞かず独断専行で軍を進めたこと、兄の範頼公の所轄である九州へ無断で進出したことなども伝えられ、頼朝公の不興を買ったともいわれます。

同年5月、義経公は壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して京を立ち、鎌倉に凱旋しようとしました。
しかし義経公のあり様に不審を抱く頼朝公は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れ、義経公は腰越の満福寺に留め置かれました。

5月24日、義経公は満福寺で頼朝公に対し叛意のないことを切々と示す書状をしたため、頼朝公の側近大江広元に託しました。
これが有名な「腰越状」で、義経公の側近・辨慶が筆を執ったという説もあります。

頼朝公は義経公を弟として正当に処遇し、その実力も認めていましたが、義経公の神がかった武略と声望の高まり、そして法皇との個人的な結びつきは、東国での武家政権樹立をめざす頼朝公にとって脅威となったことは想像に難くありません。

また、義経公が京で平氏の捕虜である平時忠の娘(蕨姫)を娶ったことも、頼朝公の疑念を深めたという見方もあります。

6月9日、頼朝公が義経公に宗盛父子と平重衡を伴わせて帰京を命じると、鎌倉入りを果たせなかった義経公はこれを恨み、「関東に怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言い放ち、これを聞いた頼朝公は義経公の所領を没収したと伝わります。

なお、『愚管抄』、延慶本『平家物語』などは、義経公はじつは鎌倉入りを果たし頼朝公と対面している旨記しているようで、「腰越状」も後世の偽作との見方があります。

8月16日の除目で義経公は頼朝公の推挙により伊予守を拝任したといい、この時点では頼朝公と義経公の決裂は決定的ではなかったという見方があります。
しかし、義経公は伊予守拝任後も朝廷から頼朝公に無断で受けた検非違使・左衛門少尉を離任せず、これにより頼朝公との関係はついに破綻したという説もあります。

頼朝公は義経公の動向を監視すべく梶原景時の嫡男・景季を京に遣わすと同時に、木曽義仲に与力した叔父・源行家の追討を要請しました。

10月、義経公の行家同心を断じた頼朝公は義経公討伐を決意し、刺客として京へ送られた土佐坊昌俊らは堀川の義経邸を襲いました。(堀川夜討)
しかし義経公に行家勢が加勢して襲撃は失敗。

義経公は捕らえた土佐坊から頼朝公の命による襲撃と聞き及ぶと、行家と謀って頼朝公打倒の兵を挙げ、後白河法皇より頼朝公追討の院宣を得ています。
しかし、義経公への与力は思うように集まらず勢いなしとみるや、今度は法皇は義経公追討の院宣を出しています。

このあたりの前後関係や頼朝公の関与については諸説ありますが、義経公が政治に長けた法皇の動きに翻弄されている姿がうかがわれます。

11月1日、頼朝公率いる義経公追討軍が駿河国黄瀬川に達すると、義経公らは京を落ち船で九州へと向うも、暴風で難破して摂津に押し戻されました。
7日には伊予守、検非違使・左衛門尉などの官職を解任され、義経公と行家捕縛の院宣が下されました。

義経公は郎党や愛妾の静御前を連れて吉野に身を隠しましたが、ここでも追討を受け京に潜伏。
文治二年(1186年)になると叔父・行家、佐藤忠信、伊勢義盛などの郎党もつぎつぎと討ち取られました。

義経公の関東での後見人として義父の河越重頼がいましたが、重頼と嫡男重房も殺害され関東での後ろ盾も失いました。
文治三年(1187年)京に潜み切れなくなった義経公は、藤原秀衡を頼り奥州・平泉へと赴きました。

藤原秀衡は義経公を盛り立てる意思をもっていましたが文治三年(1187年)10月に病没。
後継の泰衡は義経公を守り抜くことができず、文治五年(1189年)閏4月ついに義経公が拠る衣川館を襲撃、義経公や辨慶などの郎党は奮戦しましたがことごとく討死し、義経公はここに自害しました。(衣川の戦い)
享年31と伝わります。

義経公の首は鎌倉に送られ、和田義盛、梶原景時らによって首実検が腰越の浦で行われたといいます。
このことからも、腰越は義経公とゆかりをもつ地といえます。

満福寺には辨慶が書いたという「腰越状」の下書きとされる書状が所蔵され、山内には辨慶の腰掛石や手玉石など、義経公・辨慶ゆかりの品が遺ります。

寺前の池は、辨慶が「腰越状」を書く時に墨摺りの水を汲んだことから「硯池」と呼ばれ現存しています。


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【史料・資料】
『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
満福寺
満福寺は、腰越村の中にあり、龍護山と号す。眞言宗なり。
開山行基、本尊薬師 行基作・不動 弘法作
此寺地は、昔源義経、宿せられし所なりと云ふ。【東鑑】に、元暦二年(1185年)五月二十四日、源延尉義経、如思に朝敵を平げ訖ぬ。剰へ前内府平宗盛を相具して参上す。其賞兼て不疑處に、日来不儀の聞へ有るに依て、忽御気色を蒙り、鎌倉中に入られず。腰越の驛に於て、徒に日を捗るの間、愁鬱の余に、因幡前司廣元に付して、一通の疑状を頼朝へ奉つるとあり。其状の下書也とて、今寺にあり。辨慶が筆跡と云。状中の文字、【東鑑】に載たるとは所々異なり。或人云、新筆なり。辨慶が筆には非ずと。
硯池
寺の前にあり。相伝ふ義経の命にて、辨慶疑状を書し時、硯水を汲たる池なりと。池の端に辨慶が腰懸石とてあり。

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
萬福寺
腰越村の内なり。龍護山と号す。古義眞言宗、同國手廣青蓮寺末なり。
開山行基、本尊薬師如来 行基作。弘法大師作の不動尊を安ず。
此寺、義経の宿陣せられし事をいひ伝ふ。元暦二年(1185年)五月二十四日、源延尉義経、思ひの如く朝敵を平げ、剰へ屋島の内府平宗盛を相具して参り、其賞兼て疑はざる處に、不儀の聞へ有に依て、忽御気色を蒙り、鎌倉へ入られず、腰越の驛に於て徒に日を捗るの間、愁鬱の余り、因幡前司廣元に附して、一通の疑状を幕府え奉るといふ。其状の下書なりとて、今も此寺にあり。辨慶が筆なりといひ伝ふ。文書中【東鑑】に見えしとは異なる所もあり。辨慶が書けること覚束なし。
硯池
寺の前庭にあり。寺伝に、義経の仰に依て、辨慶が疑状を書たる時、硯水を汲し池といふ。又池の端に辨慶腰かけ松と名附るもあり。

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)※抜粋
(腰越村)満福寺
龍護山醫王院と号す。古義眞言宗手廣村青蓮寺末。
開山は行基、中興は高範(承安三年(1173年)三月十六日寂す)
本尊は薬師なり 長三尺三寸、行基作、同作の日月光、十二神もありしが、寛文中、回禄に烏有せしとぞ。
不動 弘法作長八寸
十一面観音 同作、長二尺五寸
彌陀 定朝作、長一尺五寸 等を安ず。
文治元年五月延尉義経頼朝の不審を蒙りて鎌倉へ入られず、当所に滞留す。
当時●止宿の所なりと云ふ
此時大江廣元に就て呈せし疑状の草案なりとて今に蔵せり。古文書部に詳載す、世に腰越状と称す是なり、辨慶が書記せしと伝ふれどおぼつかなし
【寺宝】(抜粋)
薬師書像一幅 弘法筆
地蔵堂 天神社 辨天社
硯池
本堂の前にあり。是辨慶疑状を書し時、池水を汲て硯池に滴す故に此名ありと云ふ、池辺に腰掛石といふあり、辨慶が腰を掛し所といふ。

■ 山内掲示
龍護山満福寺と号し、開山は行基(668-749)と伝えられ、本尊は薬師如来像です。源義経(1159-89)が腰越状を書いた所として有名です。境内には弁慶が墨をするのに水を汲んだといわれる硯池、腰掛石があります。-古義真言宗-

■ 山内掲示(鎌倉市教育委員会・鎌倉文学館)
源義経と腰越
鎌倉時代前期の武将、源義経は、幼名牛若丸、のちに九郎判官と称した。父は源義朝、母は常盤。源頼朝の異母弟にあたる。
治承四年(1180)兄頼朝の挙兵に参じ、元暦元年(1184)兄範頼とともに源義仲を討ち入洛し、次いで摂津一ノ谷で、平氏を破った。帰洛後、洛中の警備にあたり、後白河法皇の信任を得、頼朝の許可なく検非違使・左衛門少尉となったため怒りを買い、平氏追討の任を解かれた。文治元年(1185)再び平氏追討に起用され、讃岐屋島、長門壇ノ浦に平氏を壊滅させた。
しかし、頼朝との不和が深まり、捕虜の平宗盛父子を伴って鎌倉に下向したものの、鎌倉入りを拒否され、腰越に逗留。この時、頼朝の勘気を晴らすため大江広元にとりなしを依頼する手紙(腰越状)を送った。

「平家物語」(巻第十二 腰越)には次のように記されている。
さればにや、去んぬる夏のころ、平家の生捕どもあひ具して、関東へ下向せられけるとき、腰越に関を据ゑて、鎌倉へは入れらるまじきにてありしかば、判官、本意なきことに思ひて、「少しもおろかに思ひたてまつらざる」よし、起請文書きて、参らせられけれども、用ゐられざれば、判官力におよばず。

その申し状に曰く、
源義経、恐れながら申し上げ候ふ意趣は、御代官のそのひとつに選ばれね勅宣の御使として朝敵を傾け、累代の弓矢の芸をあらはし、会稽の恥辱をきよむ。(略)

しかし、頼朝の勘気は解けず、かえって義経への迫害が続いた。義経の没後、数奇な運命と悲劇から多くの英雄伝説が生まれた。「義経記」や「平家物語」にも著され、さらに能、歌舞伎などの作品にもなり、現在でも「判官もの」として親しまれている。
中世には鎌倉と京とを結ぶ街道筋のうち、腰越は鎌倉-大磯間に設けられた宿駅で、西の門戸であった。義経はここ満福寺に逗留したと伝えられている。

■ 現地掲示(義経宿陣之趾/鎌倉市青年団)
文治元年(皇紀一八四五年) 五月
源義経朝敵ヲ平ラゲ 降将前内府平宗盛ヲ捕虜トシテ相具シ凱旋セシニ
頼朝ノ不審ヲ蒙リ 鎌倉二入ルコトヲ許サレズ
腰越ノ驛二滞在シ 鬱憤ノ餘
因幡前司大江廣元ニ付シテ一通ノ歎状ヲ呈セシコト東鑑ニ見ユ
世ニ言フ腰越状ハ 即チコレニシテ
其ノ下書ト傳ヘラルルモノ満福寺二存ス


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江ノ電「腰越」駅からもほど近く、駅前通りを南東に進んだところが参道入口。
ここにサイン類と「義経腰越状旧跡 満福寺」の寺号標があります。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 参道入口のサイン類


【写真 上(左)】 寺号標-1
【写真 下(右)】 江ノ電と参道階段

ここから、江ノ電の踏切の向こうに山門と鐘楼、そして本堂の屋根が見えます。

踏切遮断機のすぐ脇から山門階段。江ノ電の線路に至近で、撮り鉄さんにはたまらないスポットでは?


【写真 上(左)】 幟
【写真 下(右)】 参道階段

階段脇に「義経腰越状旧跡 満福寺」の幟がはためき、雰囲気が高まります。


【写真 上(左)】 参道階段すぐ下に江ノ電
【写真 下(右)】 山門

階段の先に構える山門はおそらく入母屋屋根銅版葺の四脚門で、水引虹梁両端に雲形の木鼻、梁上に四連の斗栱、軒に二軒の垂木を備えた豪壮なもの。
見上げに山号扁額、大棟には清和源氏の紋「笹龍胆」を掲げています。


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 山門の寺号標


【写真 上(左)】 「義経宿陣之趾」の石碑
【写真 下(右)】 鐘楼

山門右手には、鎌倉市青年団建立の「義経宿陣之趾」の石碑。左手には鐘楼。
山門そばにある「笛供養」の碑は、笛を愛した義経公にちなむものと思われます。
「笛供養」の碑のよこには、ぼけ封じ祈願仏(おそらく地蔵尊と思われる)が御座します。

さほどの階段ではないのにかなり高低差を稼いでいるらしく、山内からは相模湾が見渡せます。

【写真 上(左)】 「笛供養」の碑とぼけ封じ祈願仏
【写真 下(右)】 山内からの相模湾


【写真 上(左)】 大師堂と札所碑
【写真 下(右)】 相州霊場札所碑-1

山内には大師堂があり、こちらが弘法大師霊場の拝所とみられます。
山内には相州二十一ヶ所霊場の札所を示す碑や板がいくつかあります。この霊場の札所標はあまり目にることがないので、これは貴重です。


【写真 上(左)】 相州霊場札所碑-2
【写真 下(右)】 相州霊場札所碑-3

山門くぐって正面が本堂。
入母屋造桟瓦葺で流れ向拝。向拝上に端正な軒唐破風をおこしています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂


【写真 上(左)】 向拝-1
【写真 下(右)】 向拝-2

水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、頭貫から中備にかけて、じつに8つの斗を置いています。
身舎側に海老虹梁、中備の彫刻は「腰越状」書き上げの構図と思われます。


【写真 上(左)】 中備と兎の毛通しの彫刻
【写真 下(右)】 本堂扁額


【写真 上(左)】 相州霊場札所板-1
【写真 下(右)】 相州霊場札所板-2

その上兎の毛通しは朱雀の彫刻か、さらに唐破風上の鬼飾りには「笹竜胆」の紋が輝いています。
向拝正面桟唐戸の上には寺号扁額や相州二十一ヶ所霊場の札所板が掲げられ、見どころの多い本堂てす。


【写真 上(左)】 腰越状の石像と本堂
【写真 下(右)】 腰越状の石像

本堂向かって左には、義経公と辨慶の石像。辨慶が筆を執っているので、おそらく腰越状をしたためている場面と思われます。
その横に「弁慶の腰掛石」。
訪れたときは、マスコット?のおネコちゃんが石のうえに座り込んでいました。


【写真 上(左)】 弁慶の腰掛石
【写真 下(右)】 おネコちゃん

本堂向かって右には慈悲観音立像と「弁慶の手玉石」。

本堂を拝観(有料)すると、腰越状(の下書き?)、義経公や静御前の襖絵、弁慶仁王立ちの絵などが間近で拝せるようですが、筆者は拝観しておりません。


【写真 上(左)】 弁慶の手玉石
【写真 下(右)】 硯の池(右)と義経公手洗の井戸(左)

本堂右手の山側には鎌倉七里ヶ浜霊園へ向かうトンネルがあり、その右手に「硯の池」、左手には義経公手洗の井戸があります。

「腰越」駅にも案内看板があり、道すがらもいくつかの案内サイン、参道まわりの幟、さらには腰越状の石像を置かれるなどサービス精神?が感じられるお寺さまです。


【写真 上(左)】 サイン-1
【写真 下(右)】 サイン-2


御朱印は本堂向かって左の授与所にて拝受できます。

こちらはかなり渋めの霊場札所を兼務されています。
相模国準四国八十八ヶ所霊場は湘南エリアの弘法大師霊場で文政四年(1821年)開創と伝わる歴史ある霊場ですが、現況は廃寺や札所異動も多く、御朱印はいただきにくい霊場となっています。
(→ 霊場札所リスト(「ニッポンの霊場」様)

小田急武相三十三観音霊場は小田急電鉄が主導して沿線の寺院を札所選定した観音霊場です。
この霊場の札所印はなかなかレアですが、他霊場を兼務される札所が多く、御朱印じたいの拝受は比較的容易です。
(→ 霊場札所リスト(「ニッポンの霊場」様)


〔 満福寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 相州二十一ヶ所霊場の御朱印

これまでに拝受している御朱印は以上の2点ですが、Web上では「千手観音」(新四国東国八十八ヶ所霊場第84番)、「十一面観音」(おそらく小田急武相三十三観音霊場第33番)の御朱印もヒットします。


63.小動神社(こゆるぎじんじゃ)
鎌倉公式観光ガイドWeb
神奈川県神社庁Web

鎌倉市腰越2ー9ー12
御祭神:健速須佐之男命、建御名方神、日本武尊、歳徳神
旧社格:村社、旧腰越村鎮守、神饌幣帛料供進神社
元別当:浄泉寺(鎌倉市腰越、真言宗大覚寺(青蓮寺)末)

小動神社は八王子宮(はちおうじのみや)とも呼ばれ、源頼朝公の側近・佐々木左兵衛尉盛綱の勧請と伝わります。

鎌倉公式観光ガイドWeb神奈川県神社庁Web、下記史料・資料などから縁起沿革を追ってみます。

佐々木盛綱(1151年-)は、近江国佐々木庄に拠った宇多源氏の棟梁・佐々木秀義の三男です。
秀義は平治元年(1159年)の平治の乱で源義朝公に従うも敗れ、一門は関東へ落ちのび渋谷重国の庇護を受けました。
秀義には長男:定綱、次男:経高、三男:盛綱、四男:高綱、五男:義清などの優れた息子がおりました。
三男盛綱は16歳で伊豆國に配流された頼朝公に仕えました。

頼朝公の信任篤く、治承四年(1180年)8月、平氏打倒を決意した頼朝公に挙兵の計画を告げられたとも。
治承四年(1180年)8月の山木館襲撃に加わり、加藤景廉とともに山木兼隆の首を獲ったといいます。

石橋山の戦いののちは渋谷重国の館に逃れ、頼朝公が兵を集めて鎌倉に入ると再び頼朝公の麾下に参じ、富士川の戦いでも戦功をあげています。
元暦元年(1184年)、盛綱は平氏追討のため備前國児島に入り、平行盛ら五百余騎が籠もる城郭をわずか六騎で攻め落としたといいます。(藤戸の戦い)

平家滅亡後も頼朝公の側に仕え、公の寺社参詣や儀式、あるいは上洛の随兵としてその名が多くみえます。
頼朝公没後の建久十年(1199年)3月に出家して西念と号しました。

なお、群馬県安中市磯部の松岸寺には佐々木盛綱夫妻の墓と伝わる五輪塔があります。
詳細は→こちらの記事(■「鎌倉殿の13人」と御朱印-4)をご覧ください。

小動(こゆるぎ)の岬は江ノ島をのぞむ風光明媚な地で、この地に聳える「小動の松」は風もないのに枝葉が揺れ、常に妙音を琴瑟の如く発していたためこの銘木にちなみ「小動」を地名にしたといいます。

『八王子宮縁起』「鎌倉公式観光ガイドWeb」によると、文治年中(1185-1190年)佐々木盛綱は江の島弁財天への参詣の途中に当山に詣で、「小動の松」のあたりを散策して佳景を楽しみ、まことに神徳の地と詠嘆したそうです。
「当山に詣で」とあるので、当地にはすでに寺社が存在していた可能性があります。

現地掲示の『由緒略記』には「相模風土記に往時、弘仁年中(810-822年)弘法大師、小動山に登りし時、老松に神女影向あり」とあります。
弘法大師ゆかりの奇瑞の地とあっては、霊地として崇められのは自然な成り行きでは。

盛綱は平家追討中備州児島の戦で霊夢を感じて大勝し、その報賽のため故郷・近江國から八王子宮を勧請したのが当社の草創といいます。

盛綱の小動来訪は文治年中(1185-1190年)、児島の戦(藤戸の戦い)は元暦元年(1184年)なので時系列が合いませんが、おそらく以前から小動のパワスポぶりは知っていたのでは。
『吾妻鑑』には、盛綱が尊崇する近江國の八王子宮を勧請する地を探していたとあるので、小動のパワスポぶりを知り、藤戸の戦いの戦捷もあってこの地に八王子宮を勧請したとみられます。

元弘三年(1333年)5月、新田義貞が鎌倉攻めの際に当社に戦勝を祈願し、建武年間(1334-1338年)に社殿を再建したといい、義貞を中興とする史料もあります。
この戦勝祈願は稲村ヶ崎の戦いの際とみられ、小動は稲村ヶ崎より手前なので、あるいは進路の潮が引く奇跡は八王子宮の霊験あってのことかもしれず、これを報賽して社殿再建がなされたのでは。
社殿再建は義貞寄進の太刀と黄金をもってなされたといい、黄金の太刀を海中に投じたという稲村ヶ崎の戦いを彷彿とさせます。

当社は明治維新までは、八王子宮(社)、八王子大権現、三神社などと称せられ、腰越の浄泉寺が別当でした。
旧腰越村の鎮守と伝わり、小田原藩7代藩主・大久保忠真(1778-1837年)が「三神社」の扁額を揮毫奉納しているので、大名層の尊崇も集めていたとみられます。

明治元年、神仏分離を受け地名の小動をとって小動神社と改称しています。
以前は本地佛として銅造長四寸の十一面観世音菩薩を安じ、八王子大権現と称されているので、神仏習合色が強かったのでは。

明治6年村社に列格。明治42年字神戸の鎮守・諏訪社を合祀し、昭和13年には神饌幣帛料供進神社に指定されています。

浄泉寺による管理は、神仏分離以降も大正6年7月までつづいていました。
『鎌倉市史 社寺編』には「当社は大正六年七月まで浄泉寺が別当であった。神仏分離の例外として注意しておきたい。神仏混淆引別執行のとき、引わけを実行しないで(中略)今規則に基いて公然社寺両者の関係を絶つとみえている。この時になって分離した事情については、その理由があるのであるが、ここではふれないことにしたい。」とあり、なにか委細があったのかもしれません。

関東大震災で文化十四年(1817年)建立の本殿が大破、拝殿は倒壊しましたが、昭和4年に新築しています。

毎年7月に催される天王祭は江ノ島の八坂神社と共同の大規模な祭で、町一帯を回る神輿や氏子五か町の囃子屋台などで大いに賑わうそうです。


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【史料・資料】
『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
小動 附八王子宮
小動はも七里濱を西へ行、腰越へ入左の方、離れたる巌山あり。此所をこゆるぎと云ふ。山上に八王子の宮あり。又山の端に、海邊へ指出たる松あり。風波に常に動くゆへに、こゆるぎの松と云と也。

土御門内大臣の歌に、「こゆるぎの磯の松風音すれば、夕波千鳥たちさはぐなり」。
又北條氏康の歌に、「きのふたちけうこゆるぎの磯の波、いそひでゆかん夕暮の道」。
此等の歌、此所とも云ひ、或は大磯の濱とも云ふ。相模の名所こゆるぎの歌多し。

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
小動
『新編鎌倉志』とほぼ同様のため略。

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
八王子社
守鎮とす、幣殿・拝殿あり、社地を小動(古由留義)と云ふ。按ずるに【鎌倉志】に此地を当國の名所、小余呂伎磯となし、證歌を引用し、或は大磯の濱を詠とも記したるは、謬と云ふべし、彼名所は、淘綾郡大磯の属なること論を挨ず
本地佛 十一面観音 銅造長四寸を安ず
牛頭天王歳德神を合祀し、神社の額を扁す 今の領主の筆
縁起に拠るに文治年中(1185-1190年)佐々木盛綱の勧請と云ふ。毎年正月十六日を祭期とし、六月十四日には天王の祭事を行へり
境内社後に至れば翠岩丹壁峙立して海中に突出し頗勝地たり
別当は村内浄泉寺兼管す、神木銀杏樹あり
神寶
劔一振 元弘三年(1333年)新田義貞鎌倉を攻るの時当社に祈誓し、成功の後報賽として、奉納せし物と云ふ
末社 稲荷 金毘羅 天神 船玉 第六天 山王 十羅刹 辨天 宇賀神

神奈川県神社誌(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
祭神 健速須佐之男命、建御名方神、日本武尊 相殿に歳徳神を祀る。
境内社 海神社 稲荷社 琴平社 第六天社
神事と芸能 例祭日・湯花神楽 七月十四日・天王祭の神輿渡御
社殿 本殿(流造) 幣殿 拝殿(入母屋造・唐破風付)以上権現造 銅板葺 三棟一宇
境内坪数 630.21坪
由緒沿革
『八王子宮縁起』(弘治二年(1556年銘))によれば、文治年中(1185-1190年)佐々木盛綱当山に詣で、松樹の辺を徘徊、佳景を愛す。殊に小動の松は平日無風なるに枝葉摩動し、妙音琴瑟の如く、正に天女遊戯の霊木なり。誠に神徳永昌の奇峰なりと感じ、平家追討中備州児島の戦に霊夢を感じて大勝した報賽のため、年来尊崇の八王子宮を勧請し奉る、これ当社の草創なり」という。
又、元弘三年(1333年)五月新田義貞が鎌倉攻めの時、当社に戦勝を祈願し社殿を再建したという。
社号は八王子宮、八王子大権現などと称せられ、常泉寺が別当あったが、明治維新、神仏分離により独立し地名の小動をとって小動神社と改称した。
明治六年十二月村社に列格。
大正十四年の関東大震災に、文化十四年(1817年)建立の本殿が大破、拝殿は倒壊したが昭和四年十二月復興工事か完成した。
昭和十三年七月神饌幣帛料供進神社に指定された。
腰越区の氏神社である。

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
小動神社
もと八王子宮、三神社などと称したが明治の神仏分離に際し地名の小動をとって小動神社と改めた。
祭神は健速須佐之男命・建御名方神・日本武尊。『風土記稿』には本地十一面観音銅像長四寸を安んじ、牛頭天王・歳徳神を合祀すとある。(中略)
元指定村社。境内地630.21坪
本殿・拝殿・末社四(海神社 稲荷社 琴平社 第六天社)・社務所・倉庫(中略)
腰越の鎮守。
勧請年月未詳。
弘治二年(1556年)、浄泉寺中興の元秀法印が書写した八王子宮縁起によれば、文治年中(1185-1190年)佐々木盛綱が勧請し、建武年間(1334-1336年)新田義貞が中興したという。
明治四十二年三月九日、諏訪神社を合併。
文化十四年(1817年)四月建立の本殿は震災により破損した。拝殿は昭和四年に新築したものである。
当社は大正六年七月まで浄泉寺が別当であった。神仏分離の例外として注意しておきたい。神仏混淆引別執行のとき、引わけを実行しないで(中略)今規則に基いて公然社寺両者の関係を絶つとみえている。この時になって分離した事情については、その理由があるのであるが、ここではふれないことにしたい。

■ 境内掲示(小動神社由緒略記)
祭神 日本武尊 素戔嗚尊 建御名方神 歳徳神
伝承
相模風土記に往時、弘仁年中(810-822年)弘法大師、小動山に登りし時、老松に神女影向あり、この松を小動の松と云うとあり。新編鎌倉史に、土御門内大臣の歌『こゆるぎの磯の松風音すれば、夕波千鳥たちさはぐなり」の歌は、此所の事とも云ひ、或いは、大磯の浜を詠うとも云う。相模の名所「こゆるぎ」の歌、多しとある。
社号は、古くは八王子宮、八王子大権現などと称された。相模風土記には、八王子社を鎮守とし、社地を社地を小動(古由留義)と云うとあり。
明治初年、現在の『小動神社』と改称した。
明治42年当地字、神戸の鎮守であった諏訪神社を合祀した。

由緒
文治年中(1185年)佐々木盛綱の創建と考えられる。
盛綱は、源頼朝に伊豆配流の時代から仕えた武将で、源平合戦の時に、神恩報賽のため守護神である父祖伝来の領国、近江の八王子宮を新たに勧請すべく、その地を探し求めていたが、ある日、江の島弁財天に参詣の途次、小動山に登り、大いにその風光を賞せられ勧請の地と定められた。
新田義貞が、鎌倉攻めの戦勝を祈願され、後に『報 賽』として『剣一振に黄金』を添えて寄進され、社殿は再興された。
八王子宮縁起によれば、新田義貞を中興の祖と称している。
江戸時代、小田原城主、大久保忠真公(113,000石)は【三神社】の扁額を揮毫し奉納された。三神社とは、三柱の祭神を尊称したものである。

社殿(前半略)・祭礼(略)
境内社として、海(わたつみ)神社(海上安全の神様)・稲荷社・金刀比羅宮・第六天社をお祠りしています。

■ 境内掲示(鎌倉市)
主祭神 健速須佐之男命 建御名方神 日本武尊
小動の地名は、風もないのにゆれる美しい松「小動の松」がこの岬の頂にあったということに由来します。
縁起によれば、源頼朝に伊豆配流の時代から仕えた佐々木盛綱が、源平合戦の時に父祖の領国であった近江国から八王子宮を勧請したものと伝えられています。
元弘三年(1333年)五月には、新田義貞が鎌倉攻めの戦勝を祈願したといいます。
七月第一日曜日から第二日曜日にかけて行われる天王祭は、江の島の八坂神社との共同の大規模な祭で、町一帯を回る神輿や氏子五か町の囃子屋台などで大いに賑わいます。


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「腰越」駅からもほど近い小動の岬に御鎮座です。
西側は腰越漁港。現在の主力魚種はしらすで、周辺には名物「しらす丼」の店がいくつかあります。


【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 社号標

社頭は国道134号に面しています。
参道すぐに石造明神鳥居と右手に社号標。
海際の神社は境内が狭い例も多いですが、こちらは鳥居から長々と参道が伸びています。
道幅が広くスケール感のある参道です。


【写真 上(左)】 神宝殿
【写真 下(右)】 参道階段手前

しばらく進むと両脇に一対の石灯籠。
その先から参道階段が始まります。
海側に向かっているのにのぼり階段とは、当地のパワスポぶりを物語っています。


【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 手水鉢

位置関係が定かではないのですが(おそらく参道階段の手前)、立派な手水舎のなかの手水鉢は黄褐色に変色し、これは井水使用かと思います。

階段の先に石造の明神鳥居(二の鳥居)で、社号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 二の鳥居
【写真 下(右)】 二の鳥居の扁額


【写真 上(左)】 小動神社
【写真 下(右)】 小動神社の向拝-1

小動神社社殿は参道右手に御鎮座。
拝殿前に狛犬一対。
拝殿は入母屋銅板葺で流れ向拝。軒唐破風とその上に千鳥破風を起こす重厚な意匠です。
水引虹梁両端に獅子獏の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻を置き、その上に兎の毛通し、唐破風の鬼飾、千鳥破風の懸魚と鬼飾を立体的に連ねて見応えがあります。
向拝正面桟唐戸のうえには社号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 小動神社の向拝-2
【写真 下(右)】 向拝の扁額

史料に載る境内社がいまも趣ふかく御鎮座される、パワスポ的空気感の境内です。

小動神社の向かって右手の奥には石の鳥居の先に、海(わたつみ)神社が一間社流造のお社を構えられて御鎮座。
掲示には「祭神 綿津見神 別名 船玉神とも云う」「漁業の神・航海の神」とありました。



【写真 上(左)】 海神社
【写真 下(右)】 稲荷社(右)と金刀比羅宮(左)

参道階段の正面にあたる位置には覆屋があり、向かって右手の朱い鳥居の先に、稲荷社が一間社流造のお社を構えられて御鎮座。
掲示には「祭神 宇迦之御魂神 併神 佐田彦神=猿田彦神 大宮能売神=天鈿女命」「商売繁盛・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の神」とありました。

向かって左手の石の鳥居の先に、金刀比羅宮が一間社流造のお社を構えられて御鎮座。
掲示には「祭神 大物主神 別名 大国主命」「海神竜王ともいい、航海安全 海難救助を司る神」とありました。

境内右手奥の石の鳥居には六天王の扁額が掲げられています。
ここからくの字に曲がった参道階段がつづき、大(第)六天社が切妻造銅板葺妻入りのお社を構えられて御鎮座。
掲示には「祭神 第六天神 別名 淤母陀琉神(おもたるのかみ)」「諸願成就の神」とありました。
淤母陀琉神(おもだる)は神世七代の第六代の神とされ、中世には神仏習合により第六天王の垂迹であるとされました。


【写真 上(左)】 第六天社
【写真 下(右)】 腰越漁港と江ノ島

境内からは腰越漁港を見下ろし、その先には江ノ島が望めます。


御朱印はたしか社務所でご神職から拝受できました。


〔 小動神社の御朱印 〕




■ 鎌倉市の御朱印-24 (C.極楽寺口-7)へつづく。


【 BGM 】 (サザンオールスターズ特集-2)
■ 素顔で踊らせて


■ ラチエン通りのシスター


■ 旅姿六人衆
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■ 鎌倉市の御朱印-22 (C.極楽寺口-5)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)
■ 同-15 (B.名越口-10)
■ 同-16 (B.名越口-11)
■ 同-17 (B.名越口-12)
■ 同-18 (C.極楽寺口-1)
■ 同-19 (C.極楽寺口-2)
■ 同-20 (C.極楽寺口-3)
■ 同-21 (C.極楽寺口-4)から。


60.霊鷲山 感応院 極楽律寺(ごくらくりつじ)
鎌倉公式観光ガイドWeb

鎌倉市極楽寺3-6-7
真言律宗西大寺派
御本尊:釈迦如来
司元別当:
札所:鎌倉二十四地蔵霊場第22番、相州二十一ヶ所霊場第14番、鎌倉十三仏霊場第12番(大日如来)、東国花の寺百ヶ寺霊場鎌倉第1番
※鎌倉二十四地蔵霊場第20番導地蔵尊、同第21番月影地蔵尊を護持

極楽律寺は真言律宗の名刹で極楽寺とも呼ばれます。

鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料、現地掲示などから縁起沿革を追ってみます。

極楽寺の開基は北条重時、開山は忍性菩薩(良觀上人)とされますが、草創はそれ以前に遡るとみられています。
Wikipedia等によると『極楽寺縁起』には「深沢(現・鎌倉市西部)に創建された念仏系の寺院(開山正永和尚)」が草創とあるようです。
(『極楽寺由緒沿革書』には永久年間(1113-1118年)、僧勝覚の創建とあるとも。)

また、『元亨釋書』には正嘉(1257-1259年)の頃に一沙門が一宇を建て、丈六の彌陀像を安して極楽寺を号したとあり、極楽寺の草創については諸説あります。

鎌倉幕府2代執権・北条義時の三男で幕府連署であった重時(極楽寺殿)は、この極楽寺が寺域が狭く整備も足りないことから、正元元年(1259年)忍性菩薩(良観上人・良観房)に諮ったところ、西南の「地獄谷」と呼ばれる霊場こそ招提すべき地であるとの教示を得ました。
重時は早速地獄谷の地に極楽寺を遷し、自身が開基となりました。

重時は建長八年(1256年)に出家し、(今の)極楽寺の山庄に隠居しているので、隠居後に極楽寺を開基していることになります。

『吾妻鏡』には、重時は弘長元年(1261年)6月病に倒れるも、鶴岡八幡宮別当隆弁の加持により回復したとあります。
『新編鎌倉志』には「発病の始より、萬事を擲ち、一心念佛正念にして終る」とあり、重時は往生まで極楽寺にて念佛三昧で過ごしたことになります。

弘長元年(1261年)11月3日逝去。
重時の子長時(鎌倉幕府6代執権)・業時兄弟は極楽寺を修営したとあり、子院四十九院を擁して伽藍は壮麗をきわめたといいます。


(雄山閣編輯局 編『大日本地誌大系』第40巻,雄山閣,昭7-8. 国立国会図書館デジタルコレクションより転載/インターネット公開(保護期間満了))

『新編相模國風土記稿』収録の「極楽寺古繪図」には伽藍が立ち並ぶ山内が描かれ、一大霊地を構成していたことがわかります。
最盛期には現在の極楽寺のみならず、稲村ヶ崎小学校の建つ谷一帯が極楽寺の山内で、現在江ノ電が走る極楽寺川沿いの谷には病者・貧者救済の施設があったとみられます。
(現・立稲村ケ崎小学校が最盛期の中心伽藍の地とみられています。)

『吾妻鏡』には、重時の三回忌法要は弘長三年(1263年)極楽寺で西山浄土宗の宗観房を導師として催行とあり、この時点では極楽寺は浄土教系寺院との見方があります。

しかし文永四年(1267年)8月に忍性菩薩を請して開山とし、当寺に移住した時点では「真言律(宗)」に改めていたとみられます。

忍性(にんしょう、忍性菩薩、1217-1303年)は、通称良観とも呼ばれます。
大和国の生まれで、幼くして文殊菩薩信仰に目覚め、師叡尊から真言密教・戒律受持・聖徳太子信仰を受け継いだといいます。

聖徳太子の「四箇院の制」に感銘を受け、とくに病者に薬を施す施薬院、病者を収容治療する療病院、身寄りのない者や年老いた者を収容する悲田院を重んじ、社会的弱者の救済に尽力したことで知られています。

弘長二年(1262年)に北条業時に招かれて多宝寺住持となり、文永四年(1267年)8月には極楽寺を開山しています。

師の叡尊は、忍性の生来の慈悲心が弱者救済に適していると見抜き、この役割を忍性に託したという見方があります。

実際、忍性が開山した極楽寺山内にも療病院、悲田院、癩宿などが設けられています。
忍性は道路の改修や橋梁の架設などを行い、極楽寺坂切通を拓いたのも忍性と伝わることから、忍性は優れた土木技術を持つ人々を抱えていたとみられています。

忍性の多岐にわたる功績は広く称えられ、嘉元元年(1303年)87歳で示寂の後、後醍醐帝より菩薩号を贈られています。

忍性菩薩、そして極楽寺を語るとき、「真言律(宗)」は外せないのでこれについてまとめてみます。
「真言律(宗)」については、■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-9の第28番霊雲寺で整理しているので、ほぼそこからの再掲となります。

真言律(宗)とは、真言密教の出家戒・「具足戒」と、金剛乗の戒律・「三昧耶戒」を修学する一派とされ、南都六宗の律宗の精神を受け継ぐ法系ともいわれます。

弘法大師空海を高祖とし、西大寺の叡尊(興正菩薩)を中興の祖とします。
叡尊は出家戒の授戒を自らの手で行い(自誓授戒)、独自の戒壇を設置したとされます。
「自誓授戒」は当時としては期を画すイベントで、新宗派の要件を備えるとして「鎌倉新仏教」のひとつとみる説さえあります。

■ 日本仏教13宗派と御朱印(首都圏版)

真言律(宗)は当時律宗の新派とする説もあったとされますが、叡尊自身は既存の律宗が依る『四分律』よりも、弘法大師空海が重視された『十誦律』を重んじたため、真言宗の一派である「西大寺流」と規定して行動していた(Wikipedia)という説もあるようです。

以降、律宗は衰微した古義律、唐招提寺派の「南都律」、泉涌寺・俊芿系の「北京律」、そして西大寺系の「真言律(宗)」に分化することとなります。

叡尊の法流は弟子の忍性が承継し、忍性はとくに民衆への布教や社会的弱者の救済に才覚を顕したといいます。

叡尊・忍性は朝廷の信任篤く、諸国の国分寺再建(勧進)を命じられたとされ、元寇における元軍の撃退も叡尊・忍性の呪法によるものという説があります。
『新編相模國風土記稿』には「弘安四年(1281年)勅に拠て蒙古降伏の御教書を下されしかば性(忍性)護国の法を修し蒙古退散す、時宗是功を奏聞して当寺(極楽寺)を御願場とす」とあります。

江戸初期、西大寺系の律宗は真言僧・明忍により中興され、この流れを浄厳が引き継いで公に「真言律(宗)」を名乗ったといいます。

明治5年、明治政府による仏教宗派の整理により、律宗系寺院の多くは真言宗に組み入れられましたが、その後独立の動きがおこり、西大寺は明治28年に真言律宗として独立しています。

真言律(宗)は、もともと民衆への布教・救済と国家鎮護という二面性をもった宗派でした。
とくに、元寇の戦捷祈願に叡尊・忍性が関与したとされることは国家鎮護の面での注目ポイントです。

元寇の戦捷祈願には、大元帥明王を御本尊とする大元帥法が修されたとも伝わります。
もともと大元帥法は国家鎮護・敵国降伏を祈って修される法で、毎年正月8日から17日間宮中の治部省内で修されたといいます。
のちに修法の場は醍醐寺理性院に遷された(江戸期に宮中の小御所に復活)ともいいますが、国家、朝廷のみが修することのできる大法とされています。

この点からしても、中世の極楽寺は勅願祈願寺としての性格も強かったとみられます。

なお、鎌倉と律宗との関係をみるとき、願行上人憲静(1215-1295年)の存在は欠かせません。
願行上人は北京律(ほっきょうりつ)の法統とされますが、真言律宗の名刹、金沢の称名寺とも関係があったとみられており、極楽寺ともなんらかの関係があったのかもしれませんが、調べた限りでは詳細不明です。
関係記事(■ 鎌倉市の御朱印-7)

極楽寺に戻ります。
元弘三年(1333年)には後醍醐帝の綸旨を賜り寺領を安堵され後醍醐帝の勅願所となりましたが、その後度重なる戦乱や火災により寺勢は衰微しました。

天正十九年(1591年)、徳川家康公より九貫五百文の朱印地を得たものの、再び荒廃し、一時無住の時期もあったといいます。

天保十二年(1841年)成立の『新編相模国風土記稿』には「塔頭 吉祥院 古昔は四十九院あり、今当院のみ現在す」とあり、最盛期には49を数えた子院が、天保にはわずか1院となったことがわかります。

そのなかには他地へ移った寺院もあるとみられます。
たとえば、横浜市港北区新羽の西方寺の公式Webには「極楽寺の一院として存在した西方寺は、極楽寺坂切り通しの北側崖上にあり、その付近が古図に示す西方寺の所在と一致し、歴代住侶の墓石十基ほどを残し今も存在し、西方寺跡とされています。」「極楽寺より西方寺が移転されたのは、明応年間(1492)で今から五百年ほど前のこと」とあり、極楽寺の一院であったことを明記しています。


【写真 上(左)】 西方寺
【写真 下(右)】 西方寺の御朱印

栄枯盛衰の歴史を辿った極楽寺ですが近世に復興し、複数の霊場の札所も兼ねて、いまは多くの拝観客が訪れています。


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【史料・資料】
『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
極楽寺
極楽寺、霊山山と号す。眞言律にて、南都西大寺の末寺なり。開山は、忍性菩薩、良觀上人と号す。
当寺は、陸奧守平重時が建立なり。重時を極楽寺と号し、法名觀覺と云。【東鑑】に、弘長元年(1261年)十一月三日、平重時卒す。年六十四、時に極楽寺の別業に住す。発病の始より、萬事を擲ち、一心念佛正念にして終るとあり。按ずるに、【元亨釋書】に、初め正嘉(1257-1259年)中に沙門あり。一宇を営で、丈六の彌陀の像を安ず。名て極楽寺と云。未落せずして亡す。平重時、其宇を今の地に遷して齋場とす。重時の子長時・同弟業時、力を戮て修營すとあり【帝王編年記】に、永仁六年(1298年)四月十日、関東の将軍家久明親王、御祈祷の為に、十三箇寺の寺領の違亂を停止、殺生禁断の事あり。相州鎌倉郡の極楽寺、其一つなり。
此寺、昔は四十九院ありしとなり。今吉祥院と云のみあり。寺領九貫五百文あり。又千服茶磨とて、大なる石磨、門を入右の方にあり。昔此寺繁昌なりしを、知らしめんが為なりといふ。

本堂
本尊は釋迦、興正菩薩の作なり。嵯峨の釋迦を摸したりといふ。十大弟子の像もあり。作者不知。
左に興正菩薩の木像、自作といふ。
右に忍性菩薩の木像、是も自作と云。
又文殊の坐像あり。古への文殊堂の本尊なりと云ふ。(略)
寺寶
九條袈裟 壹頂 乾陀穀子袈裟、東寺第三傳と書付あり。今按ずるに、乾陀穀子袈裟は、弘法大師の伝来にて、八祖相承とて、東寺の寶物なり。今此寺に所有は、其袈裟を摸したる、第三伝と見へたり。(中略)
二十五條袈裟 壹頂 紗なり。八幡大神の所持と云ふ。按ずるに八幡へ調進の物なり。(中略)
千體地藏 弘法作。本尊は、長一寸餘。千體は長五六分ばかり也。今皆紛失して纔に二三百ばかり残れり。

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
極楽寺
霊山山と号す。眞言・律、南都西大寺末なり。
開山は忍性菩薩良觀上人、開基は陸奧守重時が、法号をば極楽寺觀覺と称す。(中略)
古は谷々に四十九院ありしといふ。今は吉祥院といふ一院ばかり。
本堂
本尊釋迦、興正菩薩の作なり。嵯峨の釋迦を摸せしといふ。十大弟子の像もあり。作不知。
左に興正菩薩の自作の木像、右に忍性菩薩の是も自作の木像といふ。
文殊の坐像もあり。古への文殊堂の本尊なりといふ。(以下略)

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)※抜粋
(山之内庄極楽寺村)極楽寺
霊鷲山感應院と号す。眞言律宗南都西大寺末。
北條陸奧守重時が草創なり、始正嘉(1257-1259年)中に一老衲ありて一宇を営み丈六の彌陀像を安じ、名づけて極楽寺と云ふ。然るに経営の功未だ完かずして老衲尋て寂しぬ
正元(1259-1260年)の初重時寺域の狭小なるを見て地を卜して新に創立せんと欲し僧忍性に議しけるに、性答て是より西南に当り地獄谷と云へる霊場あり、此地こそ招提の境なれと云て即性彼地に到り念誦す、須㬰にして感應あり、重時就て一宇を遷して斎場とす、地獄谷は今の境内なりと云ふ
重時の子武蔵守長時其弟業時等力を戮て修飾し、子院四十九院を構造す、堂宇壮麗に一刹となる
時に性(忍性)を請して開山始祖とす、文永四年(1267年)八月性(忍性)当寺に移住せり
弘安四年(1281年)勅に拠て蒙古降伏の御教書を下されしかば性(忍性)護国の法を修し蒙古退散す、時宗是功を奏聞して当寺を御願場とす
性(忍性)嘉元元年(1303年)七月十二日寂す 嘉暦三年(1328年)後醍醐帝性(忍性)の行徳を追崇ありて菩薩の号を賜ふ
元弘二年(1332年)六月勅願寺幷寺領安堵の事
其後堂宇漸く衰廃し、今は仏殿一宇塔頭一院のみ残れり
本尊釋迦 大像長六尺余、興正作、十大弟子の像を置く 毘首羯磨作、脇に興正菩薩 坐像自作長三尺及び聖徳太子の像 立像長二尺三寸余、運慶作、又文殊の像あり、古昔域内別堂に安ぜし本尊なりと云ふ
寺寶
乾陀穀子袈裟 一領 東寺第三傳とあり、元は京都東寺にありしに、永仁元年(1293年)十二月八日、当寺に贈りしとなり、今按ずるに、この袈裟は、東寺の寶物にて【元亨釋書】空海の伝に、弘安十四年正月勅以東寺賜空海乃置惠果所付、健陀國袈裟及念珠為寺鎮と載す、文字違へり健陀●は西域の國名なり(中略)
二十五條袈裟 一領 八幡太神の御袈裟と云へど、是は八幡宮へ調進せし物ならんと

北條陸奧守重時墓
寺後の山にあり、重時は左京太夫義時の三男なり、弘長元年(1263年)十一月三日当所別業に在て卒す、法名を觀覺極楽寺と称す

塔頭
吉祥院 古昔は四十九院あり、今当院のみ現在す、本尊不動を置く 座像二尺五寸智證作

■ 山内掲示(鎌倉市)
宗派 真言律宗
山号寺号 霊鷲山感応院極楽律寺
建立 正元元年(1259年)
開山 忍性菩薩
開基 北条重時  
開山は良観房忍性。奈良西大寺叡尊門下で戒律を学ぶ。弘長二年(一二六二)に北条業時に招かれて多宝寺住持となり、その後文永四年(一二六七)に極楽寺に開山として迎えられました。
極楽寺は正元元年(一二五九)に深沢に創建され、後に開基となる北条重時が現在地に移転したといわれています。元寇に際しては、幕府の命により異国降伏の祈祷を行い、また、鎌倉幕府滅亡後も勅命により国家安泰を祈る勅願所としての寺格を保ちました。かつての寺域は広大で、中心の七堂伽藍を囲むように多くの子院、そして療病院などの病院施設もあったことが当寺に伝わる絵図からわかります。


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【写真 上(左)】 極楽寺駅
【写真 下(右)】 極楽寺駅ホームから

江ノ電「極楽寺」駅至近でホームから見えます。
駅の出口は反対側なので、桜橋で江ノ電の線路を渡って「導地蔵尊」の前を左に折れるとすぐです。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 寺号標と墓標

少しく引きこんで山門。
手入れの行き届いた植栽、落ち着いたただずまいは鎌倉の名刹ならではのもの。

こちらは以前は境内撮影禁止でしたが、現在は解除されている模様です。
解除後参拝しておらず、山内の写真がまったくないので、↓の動画を参考にご案内します。

■ 極楽寺駅周辺と極楽寺 (鎌倉市極楽寺)


山門手前左に、開山忍性菩薩・開基北条重時の墓標と寺号標。

山門は趣ある茅葺屋根。左右に脇塀を備えた四脚門で、見上げに山号扁額を掲げています。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、中備に蟇股を置く堂々たる山門です。
主門は柵で閉ざされているので脇門の木戸から入内します。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額

山門から真っ直ぐに桜並木の石畳参道が伸び、正面が本堂。
参道右手に大師堂と転法輪殿(収納庫)。
参道左手には客殿、納経所と本堂よこに資料館があります。


【写真 上(左)】 冬の山内
【写真 下(右)】 山門から本堂

度重なる天災や兵火のため当初の伽藍は失われ、現在は文久三年(1863年)再建の山門、本堂、大師堂、客殿がメインです。

西側山手には忍性塔があり、こちらは奥の院となっています。
忍性塔は高さ3.57メートルの大型の石造五輪塔で、納置品から嘉元三年(1303年)頃の建塔とみられ、国の重要文化財に指定されています。
通常は非公開で、毎年4月8日のみ公開の模様。
塔内納置品は良観房忍性和尚と同二世賢明房慈済和尚の舎利容器であることから、忍性の墓塔ともいわれます。こちらも国の重要文化財に指定されています。

五輪塔(伝・忍公塔、非公開)は忍性塔の右方にある石造五輪塔で、かつては北条重時の墓塔とされ、昭和2年国の史跡に指定されました。
しかし、昭和36年の豪雨で塔が倒れた際、塔内から発見された納置品より当山3世善願坊順忍と比丘尼禅忍の供養塔であることが判明しています。
忍性塔の周囲にある宝篋印塔が北条重時の墓塔とみる説もあります。 

大師堂は宝形造銅板瓦棒葺で向拝柱はありません。
鎌倉二十四地蔵霊場第22番、相州二十一ヶ所霊場第14番の札所板が掲げられ、霊場拝所となっています。


【写真 上(左)】 鎌倉観音霊場札所板
【写真 下(右)】 同 札所標


【写真 上(左)】 相州二十一ヶ所霊場札所板-1
【写真 下(右)】 相州二十一ヶ所霊場札所板-2

鎌倉二十四地蔵霊場の御朱印には「常磐御前念持佛」の印判がありますが、これを裏付ける史料はみつかりませんでした。

転法輪殿(収納庫)はがっしりとした近代建築で、御本尊である秘仏「清凉寺式釈迦如来」、伝来の木造十大弟子像、木造釈迦如来坐像などが収納されています。

本堂はおそらく宝形造銅板葺流れ向拝で四周に高欄をまわし、屋根勾配が急な特徴ある意匠です。
頂部露盤には北条氏の家紋「三つ鱗紋」とおぼしき紋が刻まれています。
水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に蟇股を置いています。

Wikipediaによると、
本堂の須弥壇中央に不動明王坐像、向かって右に薬師如来坐像、左に文殊菩薩坐像を安置。右奥には忍性像、左奥には興正菩薩(叡尊)像を安置するとのこと。

文殊菩薩坐像はかつてあった文殊堂の御本尊ゆかりの像とみられ、忍性像、興正菩薩(叡尊)像も史料にあらわれています。
不動明王坐像は平安時代末期の作といい、島根県の勝達寺から大正5年に移されたとの由。

向拝に地蔵尊のご縁日が張り出されているので、地蔵尊も奉安とみられます。
通常本堂内は非公開で、4月7日-9日のみ入堂できるようです。

なお、史料に見える聖徳太子像(伝運慶作)、弘法大師が師の惠果阿闍梨から贈られた乾陀穀子袈裟(東寺蔵)の写し(?)などについては所在の調べがつきませんでした。
あるいは、転法輪殿(収納庫)か資料館に収蔵されているのかもしれません。

本堂前には「不許葷酒肉入山門」と刻した戒壇石。戒律の厳しい真言律宗らしい標石です。

本堂向かって右前には「千眼茶臼」「製茶鉢」。
開山の忍性菩薩が悲田院、施益院などを設置されたときに使用されたものと伝わります。

参道右手、授与所前には子育地蔵尊の露仏が御座、参道山門寄り左手には忍性菩薩が粥を施すために使用したという「極楽寺の井」もあります。


御朱印は本堂向かって左の授与所にて拝受できます。
複数の霊場札所を兼務されているので、霊場申告は必須です。
また、鎌倉二十四地蔵霊場第20番の導地蔵尊、同第21番の月影地蔵尊の御朱印もこちらで拝受できますが、当然先にお参りしてからの申告となります。


〔 極楽律寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 東国花の寺霊場の御朱印(御本尊)
【写真 下(右)】 鎌倉二十四地蔵霊場の御朱印

 
【写真 上(左)】 相州二十一ヶ所霊場の御朱印(専用納経帳)
【写真 下(右)】 同(御朱印帳)


鎌倉十三仏霊場の御朱印


61.導地蔵堂(みちびきじぞうどう)
鎌倉市極楽寺2-2-2
真言律宗西大寺派?
御本尊:地蔵菩薩
司元別当:
札所:鎌倉二十四地蔵霊場第20番
※御朱印は極楽律寺にて授与。

導地蔵堂は導地蔵尊を安する鎌倉二十四地蔵霊場第20番の札所で、極楽寺地蔵尊とも呼ばれます。

『鎌倉札所めぐり』(メイツ出版)、下記の史料などを参考に縁起沿革を追ってみます。

導地蔵堂は文永四年(1267年)、極楽寺の忍性が運慶作の地蔵像を安置したのが創始といわれています。

『新編相模國風土記稿』には「(山之内庄極楽寺村)地蔵堂二 一は運慶の作佛を安ず、極楽寺持、一は行基の作像を置く、極楽寺・成就院両寺持」とあり、おそらく前者の「運慶の作佛」が導地蔵尊とみられます。

子育てに霊験あらたかで、この地蔵尊の視野の中にいる子どもたちを災難から守るとされることから「導(き)地蔵」と呼ばれます。

幼い子の宮参りの帰りにはこの地蔵尊に赤飯を供え、子の安全成長を祈るのがこのあたりの風習といいます。

鎌倉時代~室町にかけて戦火に遭うも、室町時代に地蔵尊を新たに造立、堂宇に安置されたといいます。

なお、極楽寺の忍性については、60.極楽律寺の記事をご覧ください。

当尊については史料・資料がすこぶる少なく、この程度しかご紹介できません。


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【史料・資料】
『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)※抜粋
(山之内庄極楽寺村)地蔵堂二
一は運慶の作佛を安ず、極楽寺持、一は行基の作像を置く、極楽寺・成就院両寺持。


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江ノ電「極楽寺」駅至近です。
駅の出口は反対側、桜橋で江ノ電の線路を渡るとすぐに「導地蔵堂」があります。
山肌を背に、寄棟造で朱色の銅板本瓦棒葺の大ぶりな堂宇です。


【写真 上(左)】 本堂-1
【写真 下(右)】 本堂-2

屋根は二重で、下の屋根は雨よけになっており、縁側には観光客が座って休んでいました。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 向拝

身舎に「導地蔵」の板がかかり、地蔵堂であることがわかります。
扉は開いている場合があり、そのときはお厨子のなかに御座す木立像の導地蔵尊を拝せます。
大きな瞳で前方を見つめられ、子供の安全を見守られているかのようです。


【写真 上(左)】 尊格板
【写真 下(右)】 導地蔵尊


御朱印は極楽寺でいただけますが、当然先にお参りしてからの拝受となります。


〔 導地蔵堂(鎌倉二十四地蔵霊場)の御朱印 〕




■ 鎌倉市の御朱印-23 (C.極楽寺口-6)へつづく。



【 BGM 】
■ Bobby Caldwell - What You Won't Do For Love
〔 From 『Bobby Caldwell』(1978)


■ Natalie Cole - Split Decision
〔 From 『Everlasting』(1987)


■ King Of Hearts - Don't Call My Name
〔 From 『King Of Hearts』(1994)
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■ 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印-5

最新情報を追加しました。


Vol.-4からのつづきです。


■ 第15番 瑞光山 如意寺 密嚴院
(みつごんいん)
荒川区荒川4-16-3
真言宗豊山派
御本尊:如意輪観世音菩薩
札所本尊:如意輪観世音菩薩
司元別当:
他札所:豊島八十八ヶ所霊場第83番

第15番札所は荒川区荒川の密嚴院・三河島大師です。

下記史料、『荒川区史』、『豊島八十八ヶ所巡礼』(石坂朋久氏著)などから縁起・沿革を追ってみます。

密嚴院は天文二年(1533年)、覚錟ないし覺生和尚の開基と伝え、山内には同九年(1540年)銘の板碑(荒川区登録文化財)も残ります。
南側にある清瀧山観音寺の末寺で、新義真言宗豊山派に属します。

観音寺は、天文年中(1532-1553年)に長偏僧都が開基創建した名刹で、江戸時代には将軍鷹狩りの際の御膳所にあてられていました。
このエリアの獲物は鶴で、鶴の捕獲を目的とする将軍放鷹は「鶴お成り」と格別に称され、捕らえた鶴は天皇に献上する習わしとなっていました。

密嚴院の御本尊は、一尺八寸の如意輪観世音菩薩立像といいます。
『豊島八十八ヶ所巡礼』には「本尊の如意輪観音は弘法大師作と伝えられ、文化十四年(1817年)に高野山から勧請されたもの」とあります。

境内に弘法大師堂があり「三河島大師」と称され、毎月廿一日の護摩修行は信仰者で賑わったといいます。

御府内二十一霊場札所として、本寺の観音寺ではなく密嚴院が選ばれたのは「三河島大師」の名声が高かったためではないでしょうか。

なお、『荒川区史』には「当院は豊島『八十八ヶ所』の内第八十三番札所、新四國八十八ヶ所の内第四十二番の札所として有名である。」とありますが、「新四國八十八ヶ所の内第四十二番」についてはよくわかりません。

境内には竜女塚があり、塚上にあった文政十三年(1830年)の石碑、本堂・庫裡等は昭和20年の東京大空襲の際に失われたといいます。
伽藍は終戦後に再建されていますが、現在は無住で、観音寺が護持されているようです。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 豊島郡巻六』(国立国会図書館)
(三河島村)密嚴院
(三河島村)観音寺末 瑞光山如意寺ト号ス 本尊如意輪観音

『荒川区史』(国立国会図書館)
密嚴院(三河島町五丁目九六七番地)
観音寺の北隣にある密嚴院は、瑞光山如意寺と号して、新義真言宗豊山派に属し観音寺の末寺である。本尊如意輪観音は其の丈け一尺八寸の立像である。
開山は覺生和尚と云はれるが詳細は不明である。
境内に弘法大師堂がある。敷地四百六十五坪余。毎月廿一日に護摩修行がある。
当院は豊島「八十八ヶ所」の内第八十三番札所、新四國八十八ヶ所の内第四十二番の札所として有名である。


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京成線「町屋」駅とJR常磐線「三河島」駅の中間くらい、近くに荒川区役所はありますが、区民以外はなかなか訪れないところ。
戸建て、マンション、ビルや町工場が混在する下町らしい街区です。


【写真 上(左)】 門前
【写真 下(右)】 院号標

観音寺の北東側の路地に面していますが、山内はなかなか広そうです。
参拝時は門扉が堅く閉ざされていたので、山内の詳細はわかりません。



【写真 上(左)】 三河島大師の標
【写真 下(右)】 弘法大師の石標

門柱には「院号」と「三河島大師」の刻字。
鉄扉には真言宗豊山派の宗紋「輪違い紋」。
門柱手前には「開運厄除弘法大師」の石標が建ち、弘法大師霊場であることを示しています。

鉄扉ごしに近代建築陸屋根の本堂が見えますが、詳細は不明です。

御朱印は観音寺にて拝受しました。(以前の情報)
「門扉が閉まっていたので、門前からの参拝となった旨」申告しましたが、現在、閉門中につきその参拝方法でよろしいということで、快く御朱印を授与いただけました。
※ 現在(2024年秋)、密嚴院の御朱印は円性寺(足立区東和1-29-22)で授与されています。
御府内二十一ヶ所霊場、豊島八十八ヶ所霊場ともに拝受できます。


〔 密嚴院の御朱印 〕
〔 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印 〕


中央に如意輪観音の揮毫と如意輪観音のお種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内廿一ヶ所第十五番」の札所印。
左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。

〔 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印 〕




■ 第16番 五剣山 普門寺 大乗院
(だいじょういん)
台東区元浅草4-5-16
真言宗智山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
司元別当:
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第81番、弘法大師二十一ヶ寺第3番

第16番札所は元浅草の大乗院です。

下記史料などから縁起・沿革を追ってみます。

大乗院の創建年代は不詳ですが、『江戸志』には増誉法印の開山とあります。

『寺社書上』『御府内寺社備考』には、江戸大塚護国寺末、境内古跡拝領地五百坪とあります。
本堂は四間四方で、御本尊は丈壱尺三寸の不動明王立像と記されています。

本堂内奉安の弘法大師御像は「江戸八十八ヵ所之内八十一番」とあり、これは荒川辺八十八ヶ所霊場第81番をさしているとみられます。
『江戸砂子』には「波断不動」ともあるようです。
山内に護摩堂、天王社も擁していたとみられます。

当山は度々類焼に見舞われたためか史料類が少なく、これ以上は辿れませんでした。

しかし、荒川辺八十八ヶ所霊場、御府内二十一ヶ所霊場、弘法大師二十一ヶ寺の3つの弘法大師霊場札所を兼務されているわけですから、弘法大師とのゆかりのふかい寺院であると考えられます。


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【史料・資料】

『寺社書上 [80] 浅草寺社書上 甲五』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.45』
江戸大塚護國寺末 浅草新寺町
五釼山普門寺大乗院 境内古跡拝領地五百坪
当寺書留●度々類焼之為焼失仕 年数其外共●相知不申候
本堂 四間四方
 本尊 不動明王、丈ヶ壱尺三寸立像
 弘法大師 江戸八十八ヵ所之内八十一番
護摩堂
天王社 九尺四方 神体幣束
二王門 二天門 山門 楼門
波断不動(江戸砂子)
開山増誉法印 (江戸志)



原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはメトロ銀座線「稲荷町」駅で徒歩約5分。
メトロ銀座線「田原町」駅からも歩けます。

住宅とオフィスビルが混在する立地。
元浅草から寿にかけては都内有数の寺院の密集地で、需要があるためか仏具・仏壇店が目立ちます。

都道463号浅草通り「松が谷一丁目」交差点から南下する左右衛門橋通りの1本東側の路地を南に入って正福院を過ぎたすぐ先です。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 院号標

路地から少し引きこんだ民家風の建物なので、参道入口の院号札を見落とすとそれとわかりません。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

参道をたどり、本堂に近づくにつれて寺院らしい雰囲気が高まります。

建物手前が向拝。
正面はシックな格子扉、壁面には真言宗智山派の宗紋「桔梗紋」、見上げには院号扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 札所標

向拝手前の「弘法大師 第十六番」と刻まれた立派な石標は、御府内二十一ヶ所霊場の札所標です。

こちらは何度かの参拝でご不在気味だったので、特別にお願いして御朱印を授与いただきました。
通常は不授与の可能性があります。


〔 大乗院の御朱印 〕



中央に不動明王の揮毫と、不動明王のお種子「カン/カ-ン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
左に山号・院号の揮毫があります。


■ 第17番 和光山 興源院 大龍寺
(だいりゅうじ)
北区田端4-18-4
真言宗霊雲寺派
御本尊:両部大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:(上田端)八幡神社
他札所:御府内八十八ヶ所霊場第13番-2、豊島八十八ヶ所霊場第21番、滝野川寺院めぐり第6番

※この記事は御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-4 をベースに再編しています。

第17番札所は田端の大龍寺です。

真言律宗の流れを汲むとされる真言宗霊雲寺派の大龍寺は、東京・豊島エリアの「豊島八十八ヶ所霊場」第21番の札所でもあります。
こちらはWeb上で「弘法大師 十三番」の札所印の御朱印がみつかります。
一瞬「御府内二十一ヶ所霊場」のことかと思いましたが、こちらは第17番。
Web上で調べてみると、どうやら御府内八十八箇所第13番の札所らしいのです。

御府内八十八箇所は、番外・掛所などの札所はありませんが、第19番が2つあること(板橋の青蓮寺と南馬込の圓乗院)は知っており、いずれも御朱印は拝受していました。

しかし、第13番についてはノーマーク。Web検索でも確たる情報は出てきません。
通常、第13番は三田の龍生院(弘法寺)がリストされています。

御府内霊場第13番は、もともと霊岸島にあった圓覚寺とされ、明治初期に龍生院に引き継がれたとされていて大龍寺との関連は不詳です。

そこで「弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場」に注目してみました。
「弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場」は江戸期に開創とみられる弘法大師霊場で、『東都歳時記』に「弘法大師 二十一ヶ所」として記載があります。(ただし、こちらは別霊場とみられる「弘法大師二十一ヶ寺」を示すものかもしれません。)

札所一覧は→こちら(「ニッポンの霊場」様)

こちらをみると、ほとんどが新義真言宗系・真言宗霊雲寺派(天台宗1)で、古義真言宗寺院はありません。
ふたつの真言宗霊雲寺派は湯嶋霊雲寺(結願)と大龍寺で、湯嶋霊雲寺のみの御府内霊場より札所数が多くなっています。

ふつう、弘法大師二十一ヶ所は弘法大師八十八ヶ所の簡易版で、札所が重複するケースが多いですが、御府内二十一ヶ所霊場では21札所のうち7のみ(谷中観音寺、谷中加納院、谷中明王院、谷中長久院、谷中多宝院、谷中自性院、湯嶋霊雲寺、当山を入れると8)で重複はすくなく、御府内霊場とは別の観点から開創されたものかもしれません。

いずれにしても、すくなくとも大龍寺は豊島八十八ヶ所、御府内二十一ヶ所霊場のふたつの弘法大師霊場札所なので、大師霊場とゆかりのふかい寺院であることは間違いないと思います。

下記史料等によると創建は慶長年間(1596-1615年)。
当初は新義真言宗で不動院 浄仙寺と号していましたが、安永年間(1772-1780年)に湯嶋靈雲寺の観鏡光顕律師が中興され、現寺号に改称しているようです。
俳人の正岡子規をはじめ、横山作次郎(柔道)、板谷波山(陶芸家)などの墓所としても知られています。

『新編武蔵風土記稿』によると、江戸期は(上田端)八幡神社の別当を司っていたようです。

【写真 上(左)】 (上田端)八幡神社
【写真 下(右)】 (上田端)八幡神社の御朱印


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国立国会図書館DC)
(西ヶ原村)大龍寺
眞言律宗湯嶋靈雲寺末 和光山興源院ト号ス 古ハ不動院浄仙寺ト号セシニ 天明ノ頃僧観鏡光顕中興シテ今ノ如ク改ム 本尊大日ヲ置
八幡社 村ノ鎮守トス
稲荷社

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JR「駒込」駅と「田端」駅のほぼ中間、上野から日暮里、田端、西ヶ原、飛鳥山とつづく台地のうえにあります。

落ち着いた住宅地のなかに名刹らしい広大な寺地を構えています。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 墓所を示す境外の石碑

山門は三間三戸の八脚門ですが、脇戸にも屋根を置き、様式はよくわかりません。
主門上部に「和光山」の扁額。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 右手からの本堂

本堂は二層で、入母屋造本瓦葺様銅板葺で流れ向拝、階段を昇った上層に向拝を置いています。
すっきりとした境内に堂々たる伽藍。このあたりは、霊雲寺派総本山の霊雲寺にどことなく似通っています。


【写真 上(左)】 向拝見上げ
【写真 下(右)】 本堂扁額

水引虹梁両端に草文様の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に彩色の海老虹梁と手挟、中備に葵紋付き彩色の板蟇股。
正面に「大龍寺」の扁額と、これを挟むように小壁に彩色の蟇股がふたつ。
身舎出隅の斗栱にも彩色が施され、二軒の平行垂木もよく整って華やかな印象の本堂です。

このところ巡拝者が増えているとみられる豊島八十八ヶ所霊場の札所なので、御朱印は手慣れたご対応です。
拝受者が少ない滝野川寺院めぐりの御朱印申告についても、特段驚かれた風はありませんでした。

御府内八十八箇所は結願したつもりでしたが、知ってしまった以上は、参拝し御朱印を拝受したいところ。

仔細がおありになるかもしれないので、御府内霊場についての詮索めいた質問は控えました。
淡々と「御府内霊場第13番」の御朱印をお願いし、淡々とお受けいただき、淡々と拝受しました。
なお、こちらは原則月曜はお休み(閉門)なので要注意です。


〔 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印 〕

【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊 大日如来」の揮毫と胎蔵大日如来の種子「ア」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右下に「弘法大師 十三番」の札所印。左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

〔 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印 〕


〔 滝野川寺院めぐりの御朱印 〕



■ 第18番 象頭山 観音寺 本智院
(ほんちいん)
北区滝野川1-58-2
真言宗智山派
御本尊:
札所本尊:
司元別当:鳥越大明神(鳥越神社)?
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第80番、弘法大師二十一ヶ寺第18番、北豊島三十三観音霊場第28番

第18番札所は北区滝野川の本智院(滝野川不動尊)です。

下記史料などから縁起・沿革を追ってみます。

『御府内寺社備考』によると本智院は当初八丁堀辺に起立されたといいます。
明暦年間(1655-1658年)に記録焼失とあるので、すくなくともそれ以前の起立とみられます。(元和年中(1615-1624年)開基という資料あり。)
同書には「京都智積院末」とあり、智積院直末というすこぶる格の高い寺院であった可能性があります。

中興開山は権大僧都法印明実(元禄二年(1689年)寂)。

『寺社書上』(文政年間(1818-1830年)編纂)には「仮本堂」とあるので、この時期なんらかの理由で仮の本堂となっていたとみられます。
とはいえ間口六間奥行三間の堂々たる堂宇です。

御本尊は金剛界大日如来木像。
本堂には弘法大師木座像、興教大師木座像、阿弥陀木立像、正観音木立像を安すと記されています。

聖天堂は宗対馬守建立とあり、対馬藩主宗家の建立かもしれません。
安する長七寸五分の聖天銅立像は弘法大師の御作で赤松円心(赤松則村、1277-1350年、村上源氏赤松氏4代当主で播磨国守護)の所持と記されています。
甲宵聖天像も弘法大師の御作で赤松円心の所持とあります。
本地は十一面観世音菩薩木立像、長一尺七寸五分で恵心僧都作とあります。

弁財天並びに十五童子も弘法大師の御作で、「江の嶋にて十万座護摩修行、其灰を以て作り裏に手判有之」とあります。
正観音立像も弘法大師の御作とあります。

山内に鎮守十二所権現、長珠院・不動院の二ケ院を擁したとあります。

弘法大師御作と伝わる尊像を幾軆も安し、対馬の宗氏、赤松円心という名族とのゆかりをもつことからみても、相応の寺格を有していたとみられます。

荒川辺八十八ヶ所霊場、御府内二十一ヶ所霊場、弘法大師二十一ヶ寺という3つの弘法大師霊場の札所を務められることについては、寺格の高さもさることながら、複数の弘法大師御作の尊像を安するという所以によるのではないでしょうか。

明暦年間(1655-1658年)に焼失後、浅草(不唱小名)に移転といいます。
『江戸切絵図』には、浅草新寺町の仙蔵寺と玉宗寺の間に「本智院」とみえるので、現在の台東区寿二丁目あたりとみられます。

大正になされたという滝野川への移転の経緯は、当然下記史料には記載がありません。
「猫のあしあと」様記載の『北区史』には「もと浅草区(現台東区)栄久町一三二にあつた。幕末鳥越神社の別当職を司つた時代もあつた程の由緒ある寺で、元和年中(1615-1624年)開基、大正六年五月区内の滝野川町四八都電飛鳥山終点の所に移転の許可を得て新築し、大正十年五月に移転をおえた。滝野川の不動として知られ本尊は不動明王である。」とあります。

『北区史』の「幕末鳥越神社の別当職を司つた時代もあつた」という記載が気になるので、いささか長くなりますが鳥越神社(鳥越大明神)について辿ってみます。。

鳥越神社の別当は御府内八十八ヶ所霊場第51番であった鳥越の長樂寺だった筈です。
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-17

鳥越大明神(鳥越神社)は白雉二年(651年)村人が日本武尊の遺徳を偲び、白鳥明神として鳥越山(白鳥山)に祀ったのが創祀と伝わる古社です。
往年のこの地は「鳥越(白鳥)の山」と呼ばれた小高い丘で、日本武尊が東夷御征伐の折に暫く御駐在された地といいます。
相殿の天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、中臣(藤原)氏の祖神として祀られ、奈良時代に藤原氏が国司として武蔵に赴任した際、この地にお祀りされたといいます。

永承(1046-1053年)の頃、八幡太郎義家公の奥州征伐の折、この地で渡河に難儀しましたが、白い鳥に浅瀬を教えられて無事軍勢を進めることができました。
義家公はこれを白鳥大明神の御加護と称え、鳥越山(白鳥山)のお社を参拝され「鳥越大明神」の号を奉じられて、これより「鳥越」の地名が起こったとされます。

社地はすこぶる広く、三味線堀(姫が池)に熱田明神、森田町に第六天神(榊神社)が末社として御鎮座され「鳥越三所明神」と称していました。

徳川幕府による旗元・大名屋敷・御蔵地整備のため、鳥越山はとり崩されて埋め立てに使われました。
この際、熱田神社は三谷(現・今戸)へ、榊神社は堀田原(現・蔵前)へと御遷座され、鳥越大明神も御遷座を迫られましたが、第二代神主鏑木胤正の請願が容れられて元地に残られました。

別当・長樂寺は『寺社書上』によると、開山の法印の遷化が寛永二十年(1643年)なので、3代将軍家光公の治世(1623-1651年)までには創建とみられます。

鳥越山轉輪院長樂寺と号し、山号は本社から、院号は兼帯していた京都嵯峨轉輪院永院室から号したものとみられます。

本社・鳥越大明神の御本地馬頭観音、御本尊として不動明王を奉安していました。
弘法大師御像も奉安していたため、御府内霊場札所の要件はきっちり満たしていたとみられます。

鳥越大明神の神職鏑木氏は桓武平氏常将流と伝わり、鳥越神社の社紋として月星紋・九曜紋(千葉氏の紋)が使われているようです。
また、長樂寺に星供養曼荼羅が奉安されていたことからも、妙見信仰の千葉氏との関係がうかがわれます。

鳥越大明神と別当・長樂寺は源氏の棟梁・八幡太郎義家公、桓武平氏の代表姓・千葉氏いずれともゆかりをもつ、複雑な来歴をもたれているのかもしれません。

明治初期の神仏分離で別当の長樂寺は廃寺となり、以降は鳥越神社と号して郷社に列せられました。

例大祭・鳥越祭は都内随一の重さを誇る「千貫神輿」の渡御と、夜に行われる荘厳な宮入で「鳥越の夜祭り」として広く知られています。

以上、鳥越神社の沿革を辿ると、別当として長樂寺の名は出てきますが、本智院との関係は明示されていません。
結局のところ、『北区史』の「幕末鳥越神社の別当職を司つた時代もあった」という記載の根拠についてはよくわかりませんでした。


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【史料・資料】

『寺社書上 [77] 浅草寺社書上 甲三』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.33』
京都智積院末 浅草不唱小名
象頭山観音密寺本地院 境内古跡拝領地六百七拾二坪
当寺往古八丁堀辺に起立之由申伝候得● 明暦年中(1655-1658年)類焼之節記録焼失仕相知不申候
中興開山 権大僧都法印明實(元禄二年(1689年)寂)
仮本堂 間口六間奥行三間
 本尊 大日金剛界木像
 弘法大師木座像 興教大師木座像 阿弥陀木立像 正観音木立像
聖天堂 土蔵造方三間 拝殿 二間四方宗対馬守建立
 聖天銅立像 長七寸五分弘法大師作 赤松円心所持
 甲宵聖天像 同作同人所持
 本地十一面観音木立像 長一尺七寸五分恵心僧都作
 辨財天并十五童子 各長七寸八分弘法大師作
  右ハ江の嶋にて十万座護摩修行 其灰を以て作り裏に手判●●
  天長七年(830年)七月七日と●●
 正観音立像 長九分弘法大師作
 大黒天立像 俵千十三俵其上ニ安置長一寸三分
鎮守十二所権現
末社稲荷木立像
 右十二所権現稲荷合社ニ有之候所 先年類焼之節焼失仕 当時聖天堂二安置
寺中長珠院不動院と号し候 二ケ院有之候処退廃仕候 年代は相知不申候得共 延享年中(1744-1748年)御改之節 二ケ院共書上候由申伝候得ハ 其比ハ相続仕有之候義ニ御座



原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りは都電荒川線(東京さくらトラム)「飛鳥山」駅至近。「王子」駅からも歩けます。

滝野川は寺社が集まる御朱印エリアですが、その多くは明治通り北側の滝野川沿いに立地しています。
明治通りの南側に位置する本智院周辺は、一種のエアポケット的なエリアとなっており、筆者もこの界隈は初訪でした。

都電荒川線(東京さくらトラム)「飛鳥山」駅のお隣りですが、フェンスがあったりして、やや複雑なアプローチです。


【写真 上(左)】 すぐ横が飛鳥山駅
【写真 下(右)】 外観

山内入口には門柱。院号と「滝野川不動尊」が刻字されています。
入口向かって右脇には身代地蔵堂。堂前の石碑には「江戸三大身代地蔵尊」とあるので、有名な地蔵尊なのかもしれません。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 身代地蔵尊


【写真 上(左)】 狛犬と大日堂
【写真 下(右)】 大日堂

山内右手に狛犬と大日堂。
堂内には法界定印を結ばれる胎蔵大日如来が御座します。
Wikipediaに「境内には、1667年(寛文7年)製の石像の大日如来坐像があるが、これは移転時に一緒に移したものである。(出所:『北区史跡散歩』 (東京史跡ガイド17))」とあるので、こちらの大日如来はおそらく浅草時代に造立され、こちらに遷られたとみられます。

参道右手が庫裏で、その先が本堂です。
3階建の建物の右手1階が向拝となっているかたちです。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

タイル壁に木造の千鳥破風の向拝が填め込まれたような、個性的な意匠です。
左右の向拝柱に木札が掛けられていますが、読みとれませんでした。
向拝上部に「阿遮羅尊」の扁額。
「阿遮羅」とは不動明王の梵名「acalanātha(アチャラナータ)」の漢字表記で、不動堂を
阿遮羅殿と記す場合があります。

【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 本堂側からの大師堂

本堂から駅寄りに進むと大師堂です。
こちらは通常閉門されていますが、毎月二十一日(お大師さまのご縁日)には解放され、中のお砂踏み場にて巡拝することができます。


【写真 上(左)】 大師堂門前
【写真 下(右)】 札所標


【写真 上(左)】 大師堂よこのお砂踏み場
【写真 下(右)】 御砂踏心得

堂前の門柱は「荒川辺八十番、御府内十八番、北豊島二十八番」の3つの霊場の札所標となっています。


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 御府内十八番の御詠歌

大師堂は切妻屋根銅板葺でシックな黒色系の格子扉。
見上には御府内二十一ヶ所第18番の御詠歌が掲げられています。

弘法大師霊場を巡拝していて、このようなしっかりとした大師堂に出会うのはやはり嬉しいものです。

御朱印は庫裏にて拝受しました。
お不動様のご縁日(28日)に、事前にTELの上お伺いしました。
常時授与かはわからず、ご不在のこともありそうなので事前確認をおすすめします。


〔 本智院の御朱印 〕
〔 荒川辺霊場・御府内二十一ヶ所霊場の御朱印 〕



中央に「本尊 不動明王」の印判と三寶印。
右上に「御府内十八番 荒川辺八十番」の札所印。
左に「瀧野川不動尊」の印判と寺院印が捺されています。


■ 第19番 阿遮羅山 蓮華寺 阿遮院
(あしゃいん)
荒川区東尾久3-6-25
真言宗豊山派
御本尊:阿遮羅明王(不動明王)
札所本尊:阿遮羅明王(不動明王)
司元別当:
他札所:豊島八十八ヶ所霊場第63番、荒川辺八十八ヶ所霊場第10番

第19番札所は荒川区東尾久の阿遮院です。

下記資料、『荒川区史』、『豊島八十八ヶ所巡礼』(石坂朋久氏著)などから縁起・沿革を追ってみます。

阿遮院の開基創立等は不明ですが、延元三年(1338年)銘の板碑が所蔵されています。
尾久に於ける最古の寺院と伝えられ、「尾久町字大門」の地名は当院の大門があった事によるとの説があります。
『新編武蔵風土記稿』には、新義真言宗で田端村與楽寺の末とあります。

『江戸切絵図』には、東尾久とおぼしきところに「阿比院」とあります。
荒川観音寺、満光寺、慶(華)蔵院、地蔵寺、宝蔵寺と隅田川との位置関係からみて、この「阿比院」が阿遮院と思われます。(ただし満光寺との位置関係が逆。)

旧本堂は中興の巌永上人により天保二年(1831年)建立といいますが、震災により失いました。

御本尊の阿遮羅明王(不動明王)は、良辨僧都(689-774年)の作と伝えます。
『荒川区史』には「境内にはなほ閻魔堂や稲荷社がある。」と記されています。

本尊は阿遮羅明王(不動尊、梵名アシャラナータ)で、こちらが山号・院号の由来といいます。

山内には延元三年(1338)の板碑が所蔵され、元禄十四年(1701年)の光明真言供養塔があります。

『新編武蔵風土記稿』には、東尾久の華蔵院、町屋の慈眼寺は阿遮院の末寺・門徒とあります。

当山についての史料類は多くはありませんが、末寺をもっていたこと、豊島八十八ヶ所霊場、御府内二十一ヶ所霊場、荒川辺八十八ヶ所霊場の3つの弘法大師霊場の札所を兼務されていること、また、現在の寺容からみても相当の名刹と思われます。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 豊島郡巻六』(国立国会図書館)
(下尾久村)阿遮院
新義真言宗、田端村與楽寺ノ末 阿遮山蓮葉寺ト号ス 本尊不動
稲荷社

『荒川区史』(国立国会図書館)
阿遮院(尾久町一丁目八九七番地)
新義真言宗豊山派に属し、田端與楽寺末である。
開基創立等は不明であるが、尾久に於ける最古の寺院と伝へられている。
尾久町字大門は、昔そこに当院の大門があった事により出たものとの説がある。
境内地は八百五十六坪である。
震災前の本堂は、中興巌永上人によって天保二年(1831年)に建立されたものであった。
本尊阿遮羅明王即ち不動尊は良辨僧都の作と伝える。
境内にはなほ閻魔堂や稲荷社がある。



原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
※図中「阿比院」とあります。
荒川観音寺、満光寺、慶(華)蔵院、地蔵寺、宝蔵寺と隅田川との位置関係からみて、この「阿比院」が阿遮院と思われます。(ただし満光寺との位置関係が逆。)


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最寄りは都営荒川線(東京さくらトラム)京成線「東尾久三丁目」駅。
まわりに寺社は少なく御朱印エリアではないですが、阿遮院は豊島八十八ヶ所霊場の札所なので一定の参拝客はいるのかもしれません。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 門柱の院号標

山内入口の門柱に院号標とその手前に御府内二十一ヶ所の札所標。
反対側には院号サイン。「出世石尊 子育(授)地蔵様 弘法大師霊場」とあります。
「弘法大師霊場」として「武蔵國 豊島八十八箇所第六十三番 荒川邊八十八箇所第十番 御府内二十一箇所第十九番」の掲示も出ています。


【写真 上(左)】 御府内二十一ヶ所の札所標
【写真 下(右)】 弘法大師霊場案内

荒川区教育委員会の説明板には「山号・寺号は本尊不動明王の梵名阿遮羅囊他(アシャラナータ)にちなむもの」とあります。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山門

ブロック塀に沿って参道を進むと、正面に山門。
切妻屋根桟瓦葺でおそらく薬医門と思われます。
見上げには山号扁額。


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 石仏群


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

山内は予想以上に広く、緑もゆたかです。
本堂は入母屋造本瓦葺流れ向拝。均整のとれた堂々たる堂宇です。
向拝柱はなく、開けた印象の向拝で、硝子扉の上に院号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額

現地案内板には、文化財として江戸時代、百万遍念仏講で使用した鐘と数珠、建武三年(1338年)銘の板碑、元禄十四年(1701年)建立の光明真言三百六十万遍供養塔などが記されています、

御朱印は庫裏にて拝受しました。


〔 阿遮院の御朱印 〕
〔 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印 〕



中央に「不動明王」のお種子「カンマン」と尊格の揮毫と「カンマン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)
右上に「武蔵國豊島六十三番」の札所印。
左に山号・院号の揮毫と寺院印が捺されています。


以下、つづきます。
(→ ■ 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印-6

記事リスト



【 BGM 】
■ Ring Your Bell - LiSA x Kalafina LisAni! LIVE 2017 Complete Ver CROSS STAGE 2017/01/27


■ 名もない花 - 遥海


■ 千年の恋 - ANRI/杏里
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■ 鎌倉市の御朱印-21 (C.極楽寺口-4)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)
■ 同-15 (B.名越口-10)
■ 同-16 (B.名越口-11)
■ 同-17 (B.名越口-12)
■ 同-18 (C.極楽寺口-1)
■ 同-19 (C.極楽寺口-2)
■ 同-20 (C.極楽寺口-3)から。


57.明鏡山 円満院 星井寺(虚空蔵堂)(ほしいでら)
公式Web
鎌倉公式観光ガイドWeb

鎌倉市坂ノ下18-28
真言宗大覚寺派
御本尊:虚空蔵菩薩
司元別当:
札所:鎌倉十三仏霊場第13番(虚空蔵菩薩)
※現在は普明山成就院の境外仏堂

星井寺(虚空蔵堂)は虚空蔵菩薩を御本尊とする密寺で、現在は普明山成就院の境外仏堂となっています。
鎌倉十三仏霊場第13番の札所として知られています。

公式Web鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料などから縁起沿革を追ってみます。

星井寺(虚空蔵堂)は、天平年間(729-749年)、古井戸「星月井」のなかに虚空蔵菩薩の御影を見い出した行基菩薩が、自ら虚空蔵菩薩像を彫刻し建立した堂宇と伝わります。

「星月井」は鎌倉十井(かまくらじっせい)の一つで、星月夜の井、星月の井とも呼ばれます。
極楽寺坂ののぼり口にあたるこのあたりは、木々が生い茂り昼なお暗かったため「星月夜」(ほしづきよ)と呼ばれ、ここにある井戸なので「星月夜の井」と呼ばれたといいます。
あるいは、暗い井戸のなかに昼でも星の影が見えたことから、この名がついたとも。

源頼朝公はこちらの虚空蔵尊を内陣仏として崇敬し、仏師運慶に外陣仏を刻させて御前立としたといいます。

虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)は、無限の智恵と大慈大悲を持たれる菩薩とされます。

梵語はアーカーシャガルバ。明星天子、大明星天王などの別名があります。
御真言はノウボウ・アキャシャキャラバヤ・オンアリキャ・マリボリソワカ。
種子はタラーク。三昧耶形は宝剣、如意宝珠、ご縁日は毎月13日です。

高野山霊宝館WebWikipediaによると、虚空蔵菩薩は大日如来の福智の二徳を司る仏で、とくに「智恵を授ける仏さま」「頭脳明晰となり記憶力が高まる功徳」として信仰を集めています。

虚空蔵尊信仰はすでに奈良時代からあったといい、若かりし弘法大師も虚空蔵尊を御本尊とする「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」を阿波太龍岳や土佐室戸崎などで修行されたと伝わります。
また、虚空蔵尊に礼するものは、三世十方一切の諸仏を礼することと同じともされる強力な尊格です。

虚空蔵菩薩の誓願に「人には三期の厄あり。その厄災のうち、とりわけて変体の厄を除き、智徳を与え、二世の願いを成就せしめん。」という項目があり、「変体」とは子供から大人に変わる年頃をいいます。

虚空蔵尊は「十三詣り」の御本尊として知られます。
「十三詣り」とは旧暦の3月13日前後に、数え年13歳でおこなう寺院詣でで、とくに虚空蔵尊にお参りします。

京都嵯峨の虚空蔵法輪寺が有名ですが、各地でみられる風習で星井寺でも「十三詣り」がおこなわれます。
この「十三詣り」はおそらく「変体(子供から大人に変わる年頃)の厄払い」から来ているものと思われます。

虚空蔵信仰は星宿、日月などの星神信仰と深い関係をもち、「星月井」とのゆかりも、この信仰からきているのでは。

一見なじみのない尊格にも思えますが、弘法大師とのゆかりもあって、真言密教ではことに重要な尊格とされ、禅刹でもしばしば御本尊となられます。

虚空蔵尊は「十三仏詣で」の一尊です。
「十三仏詣で」とは室町時代に日本で成立した信仰で、十三回の追善供養(初七日〜三十三回忌)をそれぞれ司る仏尊を供養ないし詣でるものです。

虚空蔵尊は三十三回忌の尊格で、札番13番の結願尊となります。
星井寺の虚空蔵尊も鎌倉十三仏霊場第13番の札所本尊となっています。
(詳細は→こちら。)

また、十二支守り本尊参りでは、虚空蔵尊は丑歳、寅歳の守り本尊となっています。

虚空蔵尊の像容は、右手に宝剣、左手に如意宝珠を持つタイプ、法界定印の掌中に五輪塔を持つタイプ、与願印を結ぶタイプなどがみられ多彩です。

かつて、「星月井」(星月夜の井)は鎌倉を代表する名所でした。

慶長五年(1600年)6月、徳川家康公は京・伏見城から上杉氏征伐のため江戸に向かう途中、「星月井」に立ち寄っています。(6月29日とみられる)
「慶長五年(1600年)六月徳川家康京師ヨリノ帰途鎌倉ニ過リ特ニ此井ヲ見タルコトアリ」(「星月井」碑文)

神奈川県Webによると、「星月夜の井」は「鎌倉」を導く枕詞とされています。

 我ひとり鎌倉山を越へ行けば 星月夜こそうれしかりけれ (後堀川百首)

鎌倉市の旧徽章は「星月夜」がモチーフにされていたともいいます。
鎌倉宮近くの通りに、この旧徽章を描いたマンホールが一枚だけ残っています。

鉄道唱歌にも「星月井」(星月夜の井)は下記のとおり歌われ、鎌倉を代表する名所であったことを裏付けています。

「北は円覚建長寺 南は大仏星月夜 片瀬腰越江の島も ただ半日の道ぞかし」

こぢんまりとした山内ですが、上記のようにさまざまな由緒沿革をもち、鎌倉を代表する虚空蔵尊霊場として重要な堂宇です。


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【史料・資料】
『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
星月夜井
極楽寺の切通へ上る坂の下、右の方にあり。里老云、昔は此井の中に、昼も星の影見ゆる故に名く。此邊の奴碑、此井を汲に来り、誤て菜刀を井中へ落したり。爾しより来星影不見と。
又此井の西に、虚空蔵堂あり。星月山星井寺と号す。極楽寺村の、成就院の持ち分なり。成就院は、真言宗。虚空蔵は、行基作、長二尺五寸。縁起一巻あり。其略に云、聖武帝の天平中(729-749年)に、此井に光りあり。里民不思議の思をなし、これを見れば、井の邊に、虚空蔵の像現じ給。此由を奏しければ、行基に勅し、此像を作らしめ、爰に安置し給ふとあり。
【後堀河百首】に常陸が歌に
 「我ひとり 鎌倉山を越行ば、星月夜こそ うれしかりけれ」

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
虚空蔵堂
極楽寺村のうち、星月夜の井の西にあり。この堂を星月山星井寺と号す。
村内成就院の持なり。これは真言宗。
虚空蔵は行基作、長二尺五寸。縁起の略に、聖武天皇の天平年中(729-749年)、此寺井に光有。里民不思議のおもひをなし、是を見れば井の邊に虚空蔵の像現じ給ふと。此よしを奏しければ、行基に勅し此像を造らしめ、爰に安置し給ふと云云。【堯恵法印紀行】に、星の御堂と書しは、この堂のことなり。

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(坂之下村)虚空蔵堂
明鏡山(【鎌倉志】には星月山に作る)星井寺と号す、極楽寺村成就院持なり
本尊は行基の作像なり 木佛立像長三尺
縁起に拠るに聖武帝の天平年中(729-749年)此寺の井に光あり、村民奇として是を見るに井の邊に虚空蔵の形出現す、此由天聴に達しければ行基に勅ありて此像を造らせられ、即爰に安置ありしと云へり、堯惠が紀行に星の御堂とあるは此堂なり
【什寶】
明星石一顆 星ノ井より出し物と云ふ
独鈷 行基所持の物と云ふ、下同じ
唐錢六文 是も照天姫、所持せし物と云ふ、祟寧通寶二文、祟寧重寶四文とあり
駒爪 小栗判官の乗馬、鬼鹿毛の爪なりと伝ふ

■ 山内掲示(虚空蔵堂護持会)
明鏡山円満院星の井寺(御本尊虚空蔵菩薩安置)
天平年間(729-749年)、聖武天皇の御代に諸国行脚中の行基僧正が当地の古井戸「星月の井」に明るく輝く明星の光りが移るとのうわさを地元民から聴き、井戸をのぞくと中に虚空蔵菩薩のお姿が写し現われていた
行基はそのお姿を仏像に彫り当地にお堂を建立し安置した。
かの像は明星の照曜の如き光を放ち、鏡に影の移る如くでありました。
以後数百年経って幕下の征夷大将軍源頼朝公はこの菩薩を崇敬し、この菩薩像を内陣仏の秘仏とし、仏師運慶に外陣仏を作らせた これが前立尊であるという。
秘仏虚空蔵菩薩はわが国では唯三体の木彫の仏像で大変貴重な仏像であります。
これに加えてこの御仏は明星と一体で、その分身であり限りない知恵をそなえた御仏で、経典では虚空蔵菩薩は、西方香集世界の教主で娑婆世界の苦難する人々の利益のために無不畏陀羅尼を説くことを、釈迦・敷蔵の二仏に許された御仏であります。
即ちその本尊に礼するものは三世十方一切の諸仏を礼することと同じであるといわれます。
又、虚空蔵菩薩を本尊として修業する虚空蔵求聞持法では心を静かにしこの真言を唱えれば天より明星が口に入り、菩薩の威はあらわれて頭脳は明晰となり記憶力は増進するといわれております。
秘仏であるが衆生に縁を結ばせるべきでるとして三十五年一度に開帳し衆生にそのお姿を拝する事が許されました。
近代に至り熱心な信仰者の意に添うようにと毎年正月十三日に開帳し善男善女もそのお姿を毎年拝することが出来るようになりました。
正月十三日の初護摩供養には、丑年寅年の人々の守本尊として、また、知恵、記憶力をお授け下さる虚空蔵様として地元民をはじめ各地より善男善女が参詣に集まります。

■ 山内掲示(虚空蔵堂護持会)
舟守地蔵(虚空蔵堂境内安置)
いつの時代に開眼されたお地蔵であるか不明であるが往年より海上安全、大漁満足、身宮安泰、海難、水難除け、その他船舶水に関係した一切の事業に従事しておられる人々に大きな功徳をお授け下さるお地蔵として近郷、近在の人々に深く崇敬されております。
また、その昔より願主の心清く精進すれば願い事を数日で成就させていだ(ママ)ける有難いお地蔵様であるとも言い伝えられております。

■ 現地掲示((社)鎌倉青年会議所)
星の井(ほしのい)
この井戸は、鎌倉十井の一つで、星月夜の井、星月の井とも呼ばれています。
昔、この井戸の中に昼間も星の影が見えたことから、この名がついたといわれています。
奈良時代の名僧・行基は、井戸から出てきた光り輝く石を虚空蔵菩薩の化身と思い、お堂を建てて虚空蔵菩薩をまつったという伝説もあります。
井戸の水は清らかで美味だったので、昭和初期まで旅人に飲料水として売られていたそうです。

■ 現地掲示(「星月井」碑文、昭和二年三月建 鎌倉青年団)
星月夜ノ井ハ一ニ星ノ井トモ言フ鎌倉十井ノ一ナリ
坂ノ下ニ属ス往時此附近ノ地老樹蓊鬱トシテ昼尚暗シ故ニ称シテ星月谷ト曰フ後転ジテ
星月夜トナル井名蓋シ此ニ基ク里老言フ古昔此井中昼モ星ノ影見ユ故ニ此名アリ近傍ノ婢女誤ツテ菜刀ヲ落セシヨリ以来星影復タ見エサルニ至ルト此説最モ里人ノ為メニ信ゼラルルガ如シ慶長五年(1600年)六月徳川家康京師ヨリノ帰途鎌倉ニ過リ特ニ此井ヲ見タルコトアリ以テ
其名世ニ著ハルルヲ知ルベシ水質清冽最モ口ニ可ナリ


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長谷と極楽寺のあいだにある極楽寺切通の長谷側ののぼり口にあります。
ちょうど鎌倉・長谷の市街から極楽寺切通の山手にさしかかるところで、周囲は木々に覆われています。

極楽寺切通は、新田義貞勢がついに攻め落とすことができなかった要衝です。
極楽寺坂切通は極楽寺開山の忍性(1217-1303年)により拓かれたという説があるので、新田義貞の時代はもっと厳しい道のりだったのかもしれません。


【写真 上(左)】 極楽寺坂
【写真 下(右)】 極楽寺坂の碑

長谷から行くと、極楽寺坂の右手手前に宝形の屋根が掛かった「星月井」とその石碑。
そのおくが虚空蔵堂の参道です。


【写真 上(左)】 星月井と虚空蔵堂の参道
【写真 下(右)】 星月井


【写真 上(左)】 星月井の碑
【写真 下(右)】 参道-1

筆者の参拝時に建てられていた「初護摩供」の看板には「日本三虚空蔵」とありましたが詳細は不明です。
こちらの御本尊(虚空蔵尊)はもともと秘仏でしたが、35年に一度御開帳されるようになり、いまは毎年1月13日の初縁日にご開帳されています。(毎年1月、5月、9月の13日とも)


【写真 上(左)】 参道-2
【写真 下(右)】 狛犬と虚空蔵堂

「南無虚空蔵菩薩」の奉納幟がはためく急な石段を登ると左右に立派な狛犬。
正面が本堂で、向かって左手前に舟守地蔵尊の堂宇があります。


【写真 上(左)】 本堂(虚空蔵堂)
【写真 下(右)】 斜めからの向拝

本堂(虚空蔵堂)はおそらく入母屋造桟瓦葺で流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻を置いています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 虚空蔵菩薩の御真言

右手身舎には虚空蔵菩薩の御真言。
向拝見上には山号扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 舟守地蔵尊

舟型地蔵尊の堂宇は切妻造銅板葺の妻入りで、舟形台座のうえに御座する地蔵尊を間近で拝せます。
開眼の時期は不明ですが、海上安全、大漁満足、身宮安泰、海難、水難除け、その他船舶水に関係する業に従事する人々に功徳をお授けくださるお地蔵様とのこと。
願主の心が清く、精進すれば願い事を数日で成就いただけるともいいます。

もともと虚空蔵尊と地蔵尊とは対になっていたという説があります。
星井寺で虚空蔵尊と地蔵尊(舟守地蔵尊)が奉安されているのは、この流れによるものかもしれません。


御朱印は、極楽寺坂を3分ほど登った成就院で拝受できます。

なお、星井寺から成就院へ向かう極楽寺坂の途中に、日限六地蔵尊のお堂があります。
説明板によると、道行く人々をお守り下さり、願いを期日を極めておすがりすれば、その期日までに功徳がいただける有難いお地蔵様とのことです。


【写真 上(左)】 日限六地蔵尊
【写真 下(右)】 日限六地蔵尊の説明板


〔 星井寺の御朱印 〕




58.普明山 法立寺 成就院(じょうじゅいん)
公式Web
鎌倉公式観光ガイドWeb

鎌倉市極楽寺1-1-5
真言宗大覚寺派
御本尊:不動明王
司元別当:御霊神社(坂の下)、星井寺虚空蔵堂(坂の下)
札所:鎌倉三十三観音霊場第21番、相州二十一ヶ所霊場第13番、新四国東国八十八ヶ所霊場第83番

成就院は弘法大師空海とのゆかりを伝え、鎌倉幕府第3代執権北条泰時公が創建という古刹です。

公式Web鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料などから縁起沿革を追ってみます。

弘法大師が相州江島に留錫されたとき、この地で数日間護摩供を修されたといいます。
Wikipediaによると、伝承によれば弘法大師が江ノ島の金窟(現・岩屋)に参拝し国土守護・万民救済を祈願、社殿(岩屋本宮)を創建されたのは、弘仁五年(814年)とあるので、成就院の護摩供伝説もおそらくその頃とみられます。

弘法大師は成就院の裏山で虚空蔵求聞持法を修されたと伝わります。
であれば、成就院よりも虚空蔵菩薩を御本尊とする星井寺の由緒にこの伝承がでてきそうですが、調べた限りでは星井寺の由緒には弘法大師の虚空蔵求聞持法は記されていないようです。

弘法大師は相模湾や富士山を望む高台で護摩を焚かれ、その煙は海風にのってたなびき、厳修の鈴の音は里々に響き渡り、その煙や鈴の音が届いた里は作物がよく実り、人々は安心して暮らすことができたといいます。

この伝承を聞いた鎌倉幕府第3代執権北条泰時公は、高僧を請して承久元年(1219年)不動明王を御本尊として堂宇を建立、普明山願成就院と号したといいます。

元弘三年(1333年)、新田義貞鎌倉攻めの際に伽藍を焼失し、西谷に遁れたものの願成就院はひきつづき鎌倉幕府で重んじられ、第5代鎌倉公方足利成氏公(1449-1455年)は、毎年正月に願成就院の住持を招いて饗待したと伝わります。

元禄年中(1688-1704年)、祐尊和尚のときに旧地に還って再興したため、祐尊和尚を中興とします。
元寇の役の供養のために植えられたという、262株(般若心経の文字数と同じ)の紫陽花が有名で、花の寺としても知られています。

こちらの御本尊・不動明王は古来から「縁結び不動明王」と崇められ、良縁成就の寺としても知られています。

成就院の寺宝として、真言僧・文覚(1139-1203年)が自ら彫ったとされる「文覚上人荒行像」が伝わります。
日本の近代彫刻の大家・荻原碌山(おぎわらろくざん/守衛)の代表作「文覚」は、この像に触発されて作られたといいます。


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【史料・資料】
『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(極楽寺村)成就院
普明山法立寺と号す、古義真言宗 手廣村青蓮寺末 北條泰時開基すと云ふ
縁起に拠に空海江島に錫を駐めし時此地に於て数日護摩供を修す、此時泰時高僧を請して承久元年(1219年)一宇を建立し願成就院と称し大師護摩の靈場なるを以て普明山と号すとなり、管領成氏が時は毎年正月住持を営中に饗待あり(中略)
永禄五年(1562年)十月大道寺駿河守政繁寺内制札の副状を出せり(中略)
当寺元弘の乱(1331-1333年)に寺地を蹂踐せられ、西谷に遁れて星霜を送りけるが元禄年中(1688-1704年)現住祐尊が時舊地に還住し再興せり、故に祐尊を中興とす(元禄十四年(1701年)十月十一日寂す)本尊不動を置く
稲荷社 境内の鎮守とす

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
普明山法立寺成就院と号する。
古義真言宗。もと青蓮寺末、いま京都大覚寺末。
縁起によれば、承久元年(1219年)十一月廿一日、北条泰時の創建で、空海が護摩供を修した跡に建立したという。
本尊、不動明王。
境内地596坪。本堂・山門・庫裏等あり。
『風土記稿』には元文六年二月二十一日岩沢重●の作った縁起により、元弘の乱に寺地を蹂踐され、西谷に移っていたのを元禄年中(1688-1704年)に祐尊が旧地に還って再興した。とあるが、現在寺にはこのことを証すべき史料がない。
ただし、極楽寺の奥に西方寺屋敷とよんでいるところがあり、ここが成就院の持地であるから、もとここに移っていたのかもしれない。(中略)
明鏡山円満院星井寺と号する虚空蔵堂を管理している。


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長谷から星井寺(虚空蔵堂)を過ぎて極楽寺坂を登ると極楽寺切通
成就院は、極楽寺切通の上方にあります。


【写真 上(左)】 極楽寺切通
【写真 下(右)】 東参道


【写真 上(左)】 東参道からの由比ヶ浜
【写真 下(右)】 山内からの由比ヶ浜

参道・山内からは由比ヶ浜の海岸が、思いがけないアングルで見下ろせます。
こういう景色は山が海に迫る鎌倉ならでは。


【写真 上(左)】 東参道の山門
【写真 下(右)】 院号標


【写真 上(左)】 西参道
【写真 下(右)】 西参道の山門

長谷方向からの参道の山門には「東結界」の扁額と傍らには院号標。
極楽寺方向からの参道登り口には山号標、その先の山門には「西結界」の扁額が掲げられています。
東参道の石段は108段あるそうで、なかなか登りごたえがあります。


【写真 上(左)】 山号標
【写真 下(右)】 山門

東西の参道が合わさって正面階段うえに切妻屋根銅板葺の山門。四脚門とも思いますが、山内側から撮影し忘れたので薬医門かもしれません。
桁行一間、梁間二間の禅宗様で、江戸時代後期のものとのこと。
二軒の繁垂木、四連の中備と脇塀を備えた立派な山門で、見上げに山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 山内


【写真 上(左)】 秋の山内
【写真 下(右)】 なで蛙

高台にある山内はさほど広くないものの見どころ多数。
いつも観光客で賑わい、明るい雰囲気のお寺さまです。

向かって左手には庫裏と授与所。


【写真 上(左)】 手水鉢
【写真 下(右)】 修行大師像


【写真 上(左)】 御分身不動明王
【写真 下(右)】 御朱印案内

右手には手前から立派な龍をおいた手水鉢と修行大師像。
その先の矜羯羅・制多伽の二童子を従えた「御分身不動明王」は、パワースポット「縁結び不動明王」として有名なようです。

そのおくに子授け・安産・子育ての功徳のある子安地蔵菩薩と子生み石がある筈ですが、なぜか写真が残っていません。


【写真 上(左)】 聖徳太子堂
【写真 下(右)】 チベット招来仏(レプリカ)

さらにそのおくに聖徳太子1300年御忌を記念して造立された多角堂がおかれ、覆堂には「和貴」の扁額が掲げられています。

河口慧海釈迦菩行像は、河口慧海師(1866-1945年)がチベットから持ち帰られた像のレプリカです。

さらに文覚上人荒行像のブロンズ像がある筈ですが、なぜかこちらも写真がありません。
こちらは3回お参りしているのですが、すみません、なぜか撮影忘れが目立ちます。
文覚上人荒行像は「日本のロダン」と称された明治時代の彫刻家、荻原碌山の作品に大きな影響を与えたとされるものです。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂は入母屋造銅板葺でボリューム感のある堂宇。
向拝柱はなく、堂前はすっきりとしています。
向拝見上げに院号扁額。


【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額

本堂内には、御本尊の不動明王、大日如来、地蔵菩薩が御座します。
不動明王は、新四国東国八十八ヶ所霊場第83番の札所本尊です。
鎌倉三十三観音霊場第21番の札所本尊・聖観世音菩薩と相州二十一ヶ所霊場第13番の札所本尊・弘法大師座像も本堂内に奉安で、こちらが拝所となります。


〔 成就院の御朱印 〕

こちらは鎌倉三十三観音霊場第21番、相州二十一ヶ所霊場第13番、新四国東国八十八ヶ所霊場第83番の札所です。
新四国東国八十八ヶ所霊場は、川崎から横浜、そして逗子、鎌倉、藤沢と巡拝する神奈川県の弘法大師霊場(八十八ヶ所)で、鎌倉市内では、補陀洛寺(材木座)、浄光明寺(扇ヶ谷)、成就院(極楽寺)、満福寺、浄泉寺、宝善院(以上腰越)、青蓮寺(手広)の7寺院が札所で、結願は手広の青蓮寺です。
(→ 霊場札所リスト(「ニッポンの霊場」様)
新四国東国八十八ヶ所霊場については、こちらの記事をご覧ください。

なお、新四国東国八十八ヶ所霊場の御朱印については申告して拝受した記憶がありますが、札所印は捺されていません。あるいは札所印つき御朱印を拝受できるかもしれません。

 
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印

 
【写真 上(左)】 相州二十一ヶ所霊場の御朱印(専用納経帳)
【写真 下(右)】 同(御朱印帳)
※相州二十一ヶ所霊場の御朱印は、専用納経帳では「弘法大師」、御朱印帳では「遍照金剛」の揮毫をいただいています。


59.月影地蔵堂(つきかげじぞうどう)

鎌倉市極楽寺3-1
真言律宗西大寺派?
御本尊:地蔵菩薩(月影地蔵尊)
司元別当:
札所:鎌倉二十四地蔵霊場第21番

月影地蔵堂は、鎌倉二十四地蔵霊場第21番の札所です。

下記史料・資料、現地掲示などから縁起沿革を追ってみます。

月影地蔵尊には、以下のような哀しい逸話が伝わっています。

昔、このあたりに鎌倉幕府第8代執権時宗公の連署・北条業時邸に仕える母娘が住んでいました。
母親は悪女でしたが、娘の「露」は気立てのよい孝行娘でした。
ある時、母親が業時愛用の白磁の皿を割ってしまい、これを咎められるとその罪を娘の露になすりつけ、露も自分が割ったと申し述べました。
業時は露の罪ではないと見抜いたものの、行きがかり上やむなく母娘に暇を出しましたが、その折に露には「梅小紋の小袖」を与えました。

その後、母親は露の「梅小紋の小袖」を奪って姿を消しました。

業時は露を屋敷で保護しましたが、露は追放された母の身をいとうあまり病に倒れついにこの世を去りました。
人々は露を哀れにおもい、露の生まれた「月影ヶ谷」に墓を立てました。
いつしかその墓には「梅の木苔」がびっしりと生え、人々は「梅小紋の小袖」に袖を通すこともなく亡くなった不憫な露のために、月影地蔵尊が「梅の木苔」を着せたのだと噂したといいいます。

露の墓所はいまは不明ですが、月影地蔵堂境内にある石像は露を祀ったともいわれます。

月影地蔵尊は極楽寺建立(正元元年(1259年))以前から「月影ヶ谷」に御座し、江戸時代に稲村ケ崎小学校の奥の西ヶ谷(現在地)に遷されたといいます。

「月影ヶ谷」は鎌倉時代中期に成立し、中世三大紀行文のひとつに数えられる『十六夜日記』(いざよいにっき)ゆかりの地です。
『十六夜日記』は藤原為家の側室・阿仏尼によって書かれた名作です。

藤原為家(1198-1275年)は、歌道の本流ともいわれる御子左家(みこひだりけ)・藤原定家の嫡男として生まれ、鞠道や歌道の大家として名を馳せ、政治的手腕も備えていたため、後嵯峨院のもとで正二位・権大納言までのぼりました。

阿仏尼(あぶつに、1222?-1283年)は、平維茂の子孫である奥山度繁の娘ないし養女で、後堀河帝の准母・安嘉門院(邦子内親王)に仕え、失恋の失意から一旦尼となりましたが、30歳の頃藤原為家の側室となり、冷泉為相を産みました。

為家の没後、播磨国細川荘(現・兵庫県三木市)の相続をめぐって正妻の子二条為氏と争い、弘安二年(1279年)幕府に訴えるため鎌倉へ下りました。
鎌倉下向時のことどもを紀行として著したのが『十六夜日記』です。

阿仏尼は当時の女流文人にはめずらしく紀行文をものしたこと、領地返還の訴訟をおこしたことなどから、かなり現実的な行動をする女性とみられています。

『十六夜日記』は当初無題で『阿仏日記』などと呼ばれていましたが、書き出しが10月16日であることから後世に『十六夜日記』と題されたといいます。

阿仏尼の訴訟は最終的に勝訴したといい、子の為相は冷泉家をおこして正二位・権中納言までのぼり、晩年は母親ゆかりの鎌倉にあって鎌倉歌壇を指導したといいます。

「鎌倉と(旧)鎌倉郡の歴史をたずねて」様によると、江ノ電「極楽寺」駅と「七里ヶ浜」駅の中間にある江ノ島車庫の南側の線路沿いに「阿陀邸旧蹟」があり、そこから西北に伸びる谷筋が「月影ヶ谷」(つきかげがやつ)です。

弘安二年(1279年)(建治三年(1277年)とも)、訴訟のため京を発ち鎌倉へ下った阿仏尼は、翌年秋まで(数年間とも)「月影ヶ谷」に滞在したと伝わります。



「月影ヶ谷」という風流な地名は、『十六夜日記』に「すむところは月影の谷」と記されているゆえんともいいます。

 東にてすむ所は月影の谷とぞいふなる、浦近き山もとにて風いと荒し
 山寺の傍らなればのどかに凄くて 波の音松風絶えず

阿仏尼の没地は鎌倉ではないといいますが、英勝寺墓地の崖下には阿仏尼の墓と伝わる供養塔があります。

「鎌倉市中央図書館資料」(PDF)によると、近所の人は月影地蔵尊に「こどもがじょうぶに育ちますように。」とお祈りするそうですが、これは若くしてなくなった娘(露)を供養された月影地蔵尊の逸話によるものと思われます。

観光客もまばらな山際の目立たない地蔵堂ですが、鎌倉二十四地蔵霊場第21番の札所なので参拝者はそれなりにいると思われます。


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【史料・資料】
『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
月影谷附阿佛屋敷
月影谷は、極楽寺の境内、西の方なり。昔は暦を作る者居住せしとなり。此所に阿佛屋敷あり。【十六夜日記】に、東にて住む所は月影谷とぞ云なる。浦近き山本にて、風いとあらし、山寺の傍なれば、のどかにすごくて、浪の音松風たへずとあり。
英勝寺の境内に阿佛屋敷と云有。彼こは葬たる所故に、阿佛卵塔屋敷と云有。
住し所は此谷なり。

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
月影の谷
此谷は極楽寺より西寄、阿佛尼の故居なり。
【十六夜日記】に、あつまにてすむ所は月影のやつとそいふなる。浦近き山もとにて風いとあらし、山寺のかたはらなれはのとかにすこくて、浪の音松の風たへずと云々。
此日記は下向の時の紀行なり。此阿佛尼と申は定家卿の室にて、公達五人ましましける。
播磨の國細川の庄を為家卿よりゆすりおかれるを、為氏卿は他腹たるによりて横領し給ひしを、そしゆうのために鎌倉え下られける。
為相卿もちんぢやうのため、両人ともにかまくらにて死去せられし。
そしやうは為氏卿のかたへはつけらすとかや。
此阿佛は安嘉門院四條と申人なり。為相卿の母堂なり。

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
阿佛尼第蹟
月影谷にあり今阿佛屋鋪と唱へ陸田の寺に残れり
阿佛は為家の室にて為相の母なり
【十六夜日記】にも当所に在しと記せり
曰、東にて住む所は月影谷とぞ云なる浦近き山にて、風いとあらし、山寺の傍なればのどかに凄くて浪の音松風絶えず云々
母子ともに鎌倉に在て死せしと云ふ、今も扇ヶ谷村に為相の墓あり
又同村英勝寺域内に阿佛卵塔屋鋪と云あり是尼が葬地なり

■ 山内掲示(文学案内板)
鎌倉時代中期の女流歌人、阿仏尼は夫である藤原為家の没後、先妻の子為氏と実子為相とのあいだにおこった遺産相続の訴訟のため、京都から鎌倉へ下った。
その間のことを記したのが「十六夜日記」で、前半は東海道の紀行文、後半は鎌倉での日記となっている。鎌倉では月影ヶ谷に滞在した。

為家の没後、播磨国細川荘(現・兵庫県三木市)の相続をめぐって正妻の子二条為氏と争い、弘安二年(1279年)幕府に訴えるため鎌倉へ下りました。
「十六夜日記」には次のように記されている。
 東にて住む所は、月影の谷とぞいふなる。浦近き山もとにて、風いと荒し、山寺の傍なれば、のどかにすごくて、浪の音松風絶えず。


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江ノ電「極楽寺」駅から徒歩約5分。
導地蔵を通り過ぎ、北の山側に道なりにいくと稲村ヶ崎小学校があり、その先の小路を左に入り右に折れてすぐです。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 尊格碑

道が二股になるところ、数段高く置かれた参道の向こうに地蔵堂がみえます。
参道右手には「月影地蔵」の石標とそのおくに数基の墓石。
右手には数体の石仏が並び、そのうちのいずれかが露を祀った像とされています。


【写真 上(左)】 境内
【写真 下(右)】 地蔵堂

地蔵堂はおそらく寄棟造銅板葺で、前面に小屋根を置き軒下が向拝となっています。
向拝柱はなく、柱と見上げに「月影地蔵」の板と扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 尊格標

御内陣に御座す月影地蔵尊は木造の立像で、赤い衣を着て頭巾をかぶられています。
ふっしらとした面立ちでやさしい印象のお地蔵さまです。
「子供が丈夫に育ちますように」と祈願される地蔵尊で、堂内には千羽鶴が奉納されています。


御朱印は極楽寺でいただけますが、当然先にお参りしてからの拝受となります。


〔 月影地蔵堂の御朱印 〕




■ 鎌倉市の御朱印-22 (C.極楽寺口-5)へつづく。



【 BGM 】 (サザンオールスターズ特集-1)
■ シャ・ラ・ラ (1982年)


■ 海 (『人気者で行こう』1984年)


■ 夕陽に別れを告げて〜メリーゴーランド (『KAMAKURA』(1985年))
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■ 鎌倉市の御朱印-20 (C.極楽寺口-3)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)
■ 同-15 (B.名越口-10)
■ 同-16 (B.名越口-11)
■ 同-17 (B.名越口-12)
■ 同-18 (C.極楽寺口-1)
■ 同-19 (C.極楽寺口-2)から。


55.四条山 収玄寺(しゅうげんじ)
鎌倉公式観光ガイドWeb

鎌倉市長谷2-15-12
日蓮宗
御本尊:日蓮聖人・四条金吾夫妻(『鎌倉市史 社寺編』)
司元別当:
札所:

収玄寺は、「龍口法難」ゆかりの日蓮宗寺院です。

鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料などから縁起沿革を追ってみます。

収玄寺は、鎌倉武士で日蓮聖人の有力檀越でもあった四条金吾頼基(1229-1296年)の屋敷跡に建てられたという日蓮宗寺院です。

四条金吾(左衛門尉)頼基は北条一族・名越(江間)家の執事で、建長五年(1253年)日蓮聖人に帰依して有力檀越となりました。

鎌倉幕府第2代執権・北条義時公次男の朝時は名越(なごえ)氏を称し、朝時の嫡男、光時は江間氏を称しました。

寛元四年(1246年)第4代執権北条経時公が早世すると、光時は前将軍藤原頼経卿と共謀して新執権の時頼公を廃する謀反を企図して発覚しました。これを宮騒動といいます。
光時は義時公の孫であり、自身の出自に矜持を抱いていたといわれます。

しかし頼経・光時一派は敗北、光時は出家して降伏し、所領を没収されて伊豆國江間郷へ配流となり江間氏を称しました。

四条金吾は名越朝時、江間光時の執事だったといいます。

Wikipediaによると、四条金吾は建長五年(1253年)から日蓮聖人の説法に深く帰依し、文永八年(1271年)の龍口法難では日蓮聖人への殉死を覚悟したとも。

文永八年(1271年)9月12日、鎌倉幕府は幕府や諸宗を批判したとの咎で松葉ヶ谷の草庵で日蓮聖人を捕縛連行して佐渡國への流罪を申し渡しました。
9月13日子丑の刻、日蓮聖人は申し渡しに相違して、鎌倉口の頸の座(現・龍ノ口)に引き出され、あわや斬首の危機を迎えましたが、「不思議の奇瑞」により難を遁れられたと伝わります。(龍口法難)

その後、日蓮聖人は愛甲郡依智郷(現・厚木市)の佐渡守護代・本間六郎左衛門重連の館に移送され、一ヶ月後に佐渡に配流となりました。

龍口法難の際、日朗上人をはじめとする日蓮聖人の弟子達も迫害を受け、四条金吾は日朗上人とともに幕臣・宿屋光則邸の土牢に押し込められたと伝わります。

その後四条金吾は赦されて、現在の収玄寺にあったという屋敷に住み、主君江間光時に仕えていたといいます。(光則寺を四条金吾の屋敷跡とする資料もみられます。)

日蓮聖人の代表著作『開目抄』は佐渡から四条金吾に送られ、門下に広められたとも。

日蓮宗Web資料には、甲斐身延の内船寺は四条金吾が建治三年(1277年)、内船の邸内に三間四面の持仏堂を建立したのが草創とあります。

同資料によると、四条金吾は夫婦そろって篤く日蓮聖人に帰依し、鎌倉では「法華宗の四条金吾」と名高く、常に日蓮聖人の庇護につとめていたと伝わります。
医薬の道にも通じ、主君江間光時の大病を平癒させた功によって身延内船の地を与えられたといいます。

日蓮聖人の晩年の看護もつとめ、日蓮聖人入滅後は内船に住んで身延の祖師の霊廟に仕えたといいます。
四条金吾は、これらの業績から日蓮聖人四大檀越の一人として数えられます。
なお、日蓮聖人四大檀越とは四条金吾、富木常忍、池上兄弟(宗仲、宗長)をさすようです。

正安二年(1300年)3月、71歳(文仁四年(1296年)、67歳とも)で没し、室の日眼女は嘉元元年(1303年)3月に亡くなり、夫妻の廟石はいまも内船寺山内にあって、夫妻の木像が寺宝として収蔵されています。


【写真 上(左)】 内船寺
【写真 下(右)】 内船寺の御首題

身延東谷の端場坊(はばのぼう)も四条金吾の開基といいます。

端場坊公式Webには、日蓮聖人佐渡御配流の折には、四条金吾みずからが佐渡を訪れたとあり、弘安三年(1280年)日蓮聖人のお側近くでお給仕するために庵を構えたのが創始とあります。

また、「(四条金吾)は日蓮聖人の主治医」とあり、「日蓮聖人の信頼もことに篤く『身のことは一切あなたにお任せし、他の薬は用いない』とまで仰せられました。」と掲載され、日蓮聖人の信任の篤さがうかがわれます。
日蓮聖人はまた、金吾夫婦の子を月満御前と命名されたともいいます。

御草庵と端場坊の位置関係


【写真 上(左)】 端場坊
【写真 下(右)】 端場坊の御首題

天保十二年(1841年)成立の『新編相模國風土記稿』の「四條金吾頼基宅蹟」條には「今田畝となる」(=寺院はない)とありますが、複数の資料に収玄庵創立は文永年間(1818-1830年)と考えられるとあるので、ぎりぎりで掲載が間に合わなかったのでは。

文永年間(1818-1830年)に妙詣尼が四条金吾の法名・収玄院日頼上人から収玄庵と号した堂宇を建立、明治初頭の廃仏毀釈で荒廃しましたが、大正期に収玄寺住職を兼務していた光則寺の日慈上人が再建し、後に収玄寺と改めたといいます。

山内には東郷平八郎元帥揮毫の「四條金吾邸址」と刻まれた石碑が建ち、花の寺としても知られています。
レファレンス共同データベースには、この邸址碑に関して「東郷平八郎は日蓮宗の信者でした。」とあります。

また、府中市の日蓮宗聖将山東郷寺の公式Webによると、「法華経に説かれる『仏子』の自覚を以て信仰を続けられた元帥は、自らの没後に法華経の道場を建立することと、寺号を『東郷寺』とする事を承諾」され、東郷元帥を開基として誕生とあります。
収玄寺も東郷元帥となんらかのゆかりがあって、この邸址碑が建立されたものと思われます。

大寺が並ぶ長谷エリアでは地味な寺院ですが、日蓮聖人四大檀越ゆかりの聖地として、熱心な信者の巡拝先になっているのかもしれません。


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【史料・資料】

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
四條金吾頼基宅蹟
入地に在り今田畝となる。頼基其父祖詳ならず、日蓮帰依の俗弟子たり
文永八年(1271年)九月日蓮既に擒となり由比濱に至り、童子熊王をして此由を頼基に告ぐ、頼基兄弟四人徒跣して馳到り、日蓮に謁し其場にて自殺せんと契約す(中略)
日朗も師と同罪たらんと望けれども、是も許されず、遂に頼基日朗等六人宿屋光則に預られ、土牢に入らる(中略)
十年(1273年)閏五月赦免あり 按ずるに是月日朗赦免あり、さては頼基等も赦免ありしなるべし今推考して記す
是より又当所に還住せしや、事蹟の伝ふるものなければ詳ならず

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
四条山収玄寺と号する。日蓮宗。もと光則寺末。
開山、未詳。
本尊、日蓮聖人・四条金吾夫妻
境内地131.16坪
本堂・庫裏・門あり
『(新編相模國)風土記稿』には、四条金吾頼基宅蹟として、今田畝となるとある。
もと妙詣尼のたてた収玄庵というお堂があったのを、大正十二年光則寺の三十一世日慈が本堂を再建、戦後寺としたという。

■ 山内掲示
四條金吾頼基公(北條氏の一族、江間光時の臣)
鎌倉時代 1229年(寛喜元年)生 - 1296年(文仁四年)没 67歳
宗祖日蓮聖人に篤く帰依し、聖人四大法難の一つである1271年(文永八年)の龍口法難の際には、殉死の覚悟を決して日蓮に随従した鎌倉武士、四條金吾頼基の屋敷跡。
聖人四大檀越の一人とされる。金吾の滅後、「捨身護法」「法華色読」の霊地として一寺が建立されたものである。文永年間(1818-1830年)の創立。
当所収玄庵と称したが、大正初期の本堂改築を機に寺号も収玄寺と改称した。


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江ノ電「長谷」駅から長谷寺~鎌倉大仏高徳院にかけては、平日も観光客で賑わう鎌倉きっての観光スポットで、収玄寺はそのメインロードに面していますが参詣者はさほど多くないのでは。

ただし、古民家カフェ「蕪珈琲」(カブラコーヒー)が山内にあるので、こちら目当てで参内する人はそれなりにいるかと思います。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号板

県道に面して青銅葺の屋根を置いた冠木門を置き、門柱には寺号板、門の右手にお題目碑。
この冠木門がけっこう威圧的(?)で、観光客の乱入(笑)を防いでいる感じがあります。

門の左手奥に建つ「四條金吾邸址」の石碑は東郷平八郎元帥の揮毫になるもの。
別に「四條金吾屋鋪」の石碑もあります。


【写真 上(左)】 お題目碑
【写真 下(右)】 東郷平八郎元帥揮毫の邸址碑


【写真 上(左)】 「四條金吾屋鋪」の石碑
【写真 下(右)】 山内

山内はこぢんまりとしていますが、緑濃く落ち着いた風情があります。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝


【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 庵号扁額

青銅板本瓦棒葺の本堂は、おそらく宝形造流れ向拝と思われます。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻を置き、桟扉の上に庵号の扁額を掲げています。
シンプルシックに整ったいい向拝です。


庫裏にて御首題と御朱印を授与いただきました。


〔 収玄寺の御首題・御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 御朱印


56.御霊神社(ごりょうじんじゃ)
鎌倉公式観光ガイドWeb
神奈川県神社庁Web

鎌倉市坂の下3-17
主祭神:鎌倉権五郎景政公
旧社格:村社、坂ノ下区鎮守
元別当:成就院(鎌倉市極楽寺、真言宗大覚寺末)
札所:鎌倉・江ノ島七福神(福禄寿)

御霊神社は権五郎神社(ごんごろうじんじゃ)とも呼ばれます。
紫陽花の名所で、花の時季には多くの参拝客で賑わいます。

鎌倉公式観光ガイドWeb神奈川県神社庁Web、下記史料・資料などから縁起沿革を追ってみます。

神奈川県神社庁Webによると、当社の御祭神は鎌倉権五郎景政(景正)公で、平安末期には存立していたものと掲載されています。

しかし、『新編鎌倉志』『鎌倉攬勝考』『新編相模國風土記稿』などにはそれぞれ異説が掲載され、複雑な由緒をもたれる可能性があります。
それぞれの掲載概要は以下のとおりです。

『新編鎌倉志』
社号:御霊宮
御祭神:鎌倉権五郎景政
勧請・御遷座関連:梶原村の御霊宮を当地にも勧請

『鎌倉攬勝考』(「五霊ノ社」の項)
社号:五霊ノ社
御祭神:権五郎景政と【保元物語】にあるが「其事のたがへるしはれ有。次第は葛原ヶ岡の條にしるせり。」
勧請・御遷座関連:もと梶原村にあり当地に勧請

『鎌倉攬勝考』(「葛原岡」の項)
社号・称号:葛原の宮、御霊の社、くづはらの御霊社、御霊権現
御祭神:葛原親王
勧請・御遷座関連:もとは葛原岡に御鎮座、後梶原村へ遷して後、鎌倉権八郎景経の代に権五郎景政の霊を御霊社に合祀し、景政公を配祀。

『新編相模國風土記稿』
社号:御霊社、五霊社、五流宮
御祭神:鎌倉権五郎景政公(村岡五郎忠通の霊を祀る、其後五家の祖をも合祀して、是を御霊尊と崇む)
勧請・御遷座関連:葛原岡及び梶原村にも古昔此社あり
「(葛原)親王氏神に崇め奉り」「梶原村へ移してよりは、御霊の社とのみ唱ふ、されば社号は御霊権現にて祭神は葛原親王を崇め祀れるなり」「鎌倉権八郎景経が代に至り、権五郎景政が霊を、御霊社に合せ祀れり(中略)景政の霊を祀りしと云ふ事、古くより伝はりしと思はる、前に云所の二説、恐くは牽強付会の説なるべし」

上記すべての説を包摂すると、
葛原岡葛原の宮(御霊の社)→ 梶原村御霊社→坂ノ下御霊社(当社)ということになります。

資料掲載の御祭神は
・葛原親王(786-853年) 桓武天皇の皇子。桓武平氏の祖。
・村岡(平)五郎忠通公(1000年前後?) 伝・三浦氏・鎌倉氏の祖。
・村岡忠通公の五子 (大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉各氏「関東平氏五家」の祖)
・鎌倉権五郎景政公(1069年-)

鎌倉各氏「関東平氏五家」の系譜は諸説あって錯綜気味につきここでは触れませんが、鎌倉氏を桓武平氏とすると、いずれも鎌倉氏の系譜に連なる人物となります。

『鎌倉攬勝考』では葛原岡→梶原村→坂ノ下説をとり、御祭神葛原親王の御霊社に鎌倉権五郎景政公を合祀(配祀)と力説しています。

一方、『新編相模國風土記稿』では、葛原岡、梶原村にも(御霊)社ありと云うと記すものの、「景政の霊を祀りしと云ふ事、古くより伝はりしと思はる、前に云所の二説、恐くは牽強付会の説なるべし」として、坂ノ下御霊社は古くからあり、御祭神は鎌倉権五郎景政公という説を展開しています。

『神奈川県神社誌』および境内掲示では、当地に大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉の平氏五家の先祖を祀る五霊神社が建てられ、いつしか祭神も景政公一柱になったとしています。

『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市)では、上記の各説を紹介しつつ、当社は鎌倉幕府成立以前からの旧社とし、「各子孫がそれぞれ先祖の霊を祀ったので、梶原の御霊社も、鎌倉の御霊社も、共にむかしからあって差支えない。ともかく、御霊社が鎌倉氏乃至梶原氏、大庭氏等の先祖のみたまを祀った社であることは諸説とも一致している。」と記してまとめています。

『鎌倉市史 社寺編』ではこのようなあいまいともとれる書きぶりは少なく、御霊神社の創祀沿革がそれだけ辿りにくいことを物語っています。

なお、梶原村御霊社→坂ノ下御霊社(当社)の論拠として、当社祭礼に梶原村御霊社の神主が出合して神事を修すということがあるようです。


【写真 上(左)】 (梶原)御霊神社
【写真 下(右)】 同御朱印

現在の主祭神である鎌倉権五郎景政公は、景正公とも記され、平安時代後期の武将です。
16歳の頃、後三年の役(1083-1087年)に従軍し、金沢の柵で敵に片目を射られながらも矢を抜くこともなく、答の矢を放って敵を倒した武勇の士として広く知られています。

景政公は陣に戻り兜をぬいで「景政手負いたり」と発して倒れました。
味方の三浦の平太為次という武士が景政公の眼の矢を抜こうと軍靴をはいたまま景政公の面部に足をかけると、景政公は「弓矢に当り死するは武士の本望。しかれど土足をもって面部を踏むとは何事ぞ」と、刀を構えてその無礼を叱咤したといいます。
為次は無礼を詫び、膝で丁寧に面部を押さえて矢を抜き、一命をとりとめた景政公の功名はいよいよ高まったといい、鎌倉武士の鑑として崇められるようにもなりました。

したがって、御霊神社の主祭神が景政公であることは、諸人に違和感なく受け入れられ、実際のちの幕府や武士を中心に篤い尊崇を受けたといいます。
また、眼の病に霊験あらたかといい、坂ノ下の鎮守ということもあって、庶民からも「権五郎さま」と呼ばれて尊崇を集め現在に至ります。

例祭は、景政公のご命日である9月18日に催され、「面掛(めんかけ)行列」とも「はらみっと」とも呼ばれる奇妙な行列が出ます。
もとは鶴岡八幡宮の神幸に出ていたものが、明治になって御霊神社にうつされました。
舞楽や田楽の流れを汲むとされる十面のグロテスクな面をかぶった行列が練り歩くもので、県の無形文化財に指定されています。

このなかに福禄寿の面があり、普段は宝蔵庫に祀られているため、こちらは鎌倉・江ノ島七福神の福禄寿の札所となっています。

元別当は極楽寺村の普明山成就院(古義真言宗大覚寺末)、明治に旧村社に列格しています。

長谷~極楽寺に向かう散策コースに位置し、江ノ電や紫陽花の撮影スポットとして知られ、鎌倉・江ノ島七福神の札所でもあることから参拝客の多い神社です。

境内社の石上神社は、海難防除の霊験で知られているようです。

資料に創祀として記されている葛原親王について、すこしく調べてみました。
Wikipediaによると、葛原親王(786-853年、かずらわらしんのう)は桓武天皇の皇子で桓武平氏の祖とされます。
式部卿、大宰帥などを歴任され、天長八年(831年)には一品(律令制で皇親に対して叙せられる最も高い品位)に叙せられています。

承和二年(835年)に甲斐国巨麻郡(現・山梨県南アルプス市)の牧を領されていますが、関東下向の正式な記録は確認されていないようです。

『六国史』で、政務に熟達し朝廷で重んじられていたと記されている葛原親王が、東国に下向されたとは考えにくいですが、じつは神奈川県内には葛原親王ゆかりの地がいくつか伝わります。

ひとつは、横浜市栄区公田町にある上臈塚です。
この塚は、葛原親王の妃・照玉姫を弔う塚と伝わります。
Wikipediaによると、葛原親王は朝廷の争いの多い京都を離れ、妃の照玉姫と共に旅に出られたものの、照玉姫は公田の地で病気にかかり進めなくなったため公田の地に滞留されました。
姫は一旦回復され里の人々から慕われていたものの、天長元年(824年)に再び病を発してこの地で没したといいます。
里の人々は塚を建て照玉姫とふたりの侍女(相模の局・大和の局)を弔ったといいます。

文禄元年(1592年)、旅の僧・信永は照玉姫の遺徳に感じ、読経供養をしたうえで塚の近くに祠を建てたのが皇女御前神社の前身ともいいます。
「猫の足あと」様の皇女御前神社の記事に詳細が紹介されています。

藤沢市北部の「葛原」も葛原親王ゆかりの地といいます。
藤沢市Web等によると、葛原の名は、この地に葛原親王の御所(垂木御所(たるきのごしょ))があり「高倉郡葛原村」となったという説や、葛原親王の子孫・垂木主膳正従四位下長田武蔵守平忠望が、平安時代この地の領主となったという説があるようです。
この地に御鎮座の皇子大神は、葛原親王と素盞嗚尊を御祭神としています。

上記のとおり、鎌倉の葛原岡も葛原親王ゆかりの地とされ、この地に御鎮座とされる葛原の宮(御霊の社)の御祭神は葛原親王とも伝わります。
上臈塚(横浜市栄区公田町)は鎌倉の北東、「葛原」は鎌倉の北西に位置することからも、葛原親王と鎌倉は何らかのゆかりがあったのかもしれません。

なお現在、葛原岡には葛原岡神社が御鎮座されますが、こちらの御祭神は後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基卿です。


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【史料・資料】
『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
御霊宮
長谷村より西南の方にあり。鎌倉権五郎景政が祠なり。景政が事、【奥羽軍記】に詳になり。【東鏡】に、建久五年(1194年)正月、御霊社御奉弊、八田知家御使たり。御霊社の事往々見たり。
【保元物語】に、後三年の御合戦に、鳥海城を落されし時、生年十六歳にて、右の眼をいさせて、其矢を不抜して答の矢を射て敵を打、名を後代に揚、今は神といははれたる、鎌倉権五郎景政と有。
神主は、小坂氏なり。景政が家臣の末也と云ふ。
梶原村にも、御霊宮あり。里老云、当社は、本梶原村に有しを、後に此地にも勧請す。故に今祭礼の時は、彼所の神主合て勤と也。

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
五霊ノ社
長谷村より西南の方にあり。神主小坂氏、別当は極楽寺村にて、普明山成就院、古義真言宗、同國手廣村青蓮寺末なり。例祭九月十八日、権五郎景政を祀れりといふこと、【保元物語】にしるしたるより、普く人の称する社号なり。
されど其事のたがへるしはれ有。次第は葛原ヶ岡の條にしるせり。合せ見るべし。(中略)
当社、もとは梶原村にあり。いつの年にか此地に勧請しける。祭礼の時は、梶原村より神主出合して神事を修す。
神主小坂氏も。景政か家従の末孫といふ。されは古へ社檀鳴動せしは、梶原村にての事にりしと、里老語れりといふ。

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
葛原岡
(前略)
むかし梶原景時が先祖、鎌倉権守景成は、鎌倉幷梶原村邊を領しけるころ、此葛原が岡も梶原村の地にして、其頃までは名もなき葦はらにて有しが、権守景成は、桓武平氏にて、葛原親王より出たれば、其親王を氏神に崇め奉り、宮社をいはひ、葛原の宮とも御霊の社とも称し、此岡に鎮座なし奉りけり。文字は同じけれど、唱を替てくづはらの御霊社と申せしより、此岡をくずはら岡とぞ土人称しれけば、竟に地名とは成にける。
其後玆の宮を、梶原村へうつしてよりは、御霊の社とのみ唱ふ。
されば社号は御霊権現にて、祭神は葛原親王を崇め祀れる事にぞ。
又其後、鎌倉権八郎景経が代に至り、権五郎景政が霊を、御霊社に合せ祀れりといふ。
是平氏の祖神なり。然るを、御霊の社といへば、権五郎景政を祀りし事とおもふは、尊卑を知らぬ誤りなり。御霊社へ景政を配しまつれる事をしるべし。

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
御霊社
鎌倉権五郎景政公が霊を祀ると云ふ。土人は五霊社と唱ふ
按ずるに此神主小池氏の𦾔記に拠るに、桓武天皇の後胤、平良兼四世の孫を、村岡五郎忠通と云ふ、忠通五人の子あり、一男為通、二男景成、三男景村、四男景通、五男景政と号し、五人五家に別る
忠通卒して、五家々門栄盛の為に、鎌倉に一宇を草創して、忠通の霊を祀る、故に五流宮と唱へ、其後五家の祖をも合祀して、是を御霊尊と崇むとなり、土人の五霊と唱るは、此によれり

又扇谷葛原岡、及び梶原村にも、古昔此社ありと云ふ、葛原岡の里老の話に、昔梶原景時が先祖鎌倉権守景成は、鎌倉幷梶原村邊を領しける頃、此葛原カ岡も、梶原村の地にして、其頃迄し名もなき軍原にて有しが、権守景成は桓武平氏にて、葛原親王より出たれば、其親王菅氏神に崇め奉り、宮社をいはひ、葛原の宮とも、御霊社とも称し、此岡に鎮座なし奉りけり、文字は同じけれど、唱を替て、くつは方の御霊社と申せしなり
梶原村へ移してよりは、御霊の社とのみ唱ふ、されば社号は御霊権現にて祭神は葛原親王を崇め祀れるなり

又其後鎌倉権八郎景経が代に至り、権五郎景政が霊を、御霊社に合せ祀れりと云へど、今葛原岡・梶原村共に其蹤を伝へず、且神主の𦾔記、里老の口碑、其拠どころ無に非ざれど、【保元物語】を閲するに、義朝白河殿夜討の條に、大橋平太、同三郎懸出名のりけるは、御先祖八幡殿、後三年の御合戦に、鳥海城を落とされし時、生年十六歳にて、右の眼を射させ、其矢を抜ずして、答の矢に敵を射て、名を後代に揚ぐ、今は神といはれたる、鎌倉権五郎景政口、五代の末葉にて候云々、と見ゆれば、景政の霊を祀りしと云ふ事、古くより伝はりしと思はる、前に云所の二説、恐くは牽強付会の説なるべし

景政は奥州の役に義家に従ひ、敵に左の眼を射られしが遂に其矢を抜かずして其敵を討て高名を顕はす
故に眼を患る者此社に祈誓するは往々其験ありと伝ふ
【海道記】にも当社の名見えたり(中略)
別当は極楽寺村成就院なり 神主は鶴岡の小池新大夫兼職す(中略)
末社 石上 金比羅 地神
稲荷社 極楽寺村成就院持

神奈川県神社誌(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
祭神 鎌倉権五郎景政公
境内社 石神神社 地神社 金刀比羅社 秋葉神社 祖霊社 稲荷社
社殿 本殿 幣殿 拝殿(入母屋造・唐破風向拝付)以上権現造瓦葺 三棟一宇
境内坪数 639.22坪

由緒沿革
当社の創立については詳らかではないが、御霊信仰の思想と鎌倉地方開発の跡を考えあわすと、平安末期には存在していたものと思われる。
祭神・鎌倉権五郎景政公は桓武天皇の子孫で平氏一門であるが、当時関東には大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉の平氏五家があって、これら先祖を祀る神社として五霊神社が建てられ、その五霊が御霊にかわり、いつしか祭神も景政公一柱になったものと考えられる。

権五郎景政公の事は『奥州後三年記』(南北朝時代に書かれた絵巻物)書かれて居り、その武勇、廉恥の物語は有名である。景政公の領地は大庭の御厨(現在の藤沢市鵠沼あたり)を中心にして、その飛地は坂ノ下から長谷の一部にまで及び、当社の祭神が景政公一柱になったのも当地の領主であったからであろうと思われる。
鎌倉時代には幕府の崇敬も厚く、『吾妻鏡』文治元年(1185年)八月二十七日の条には、御社殿が鳴動して頼朝の参詣があり、願書を奉納し、巫子等面々に賜物があったという。(中略)
現在の社殿は明治四十五年改築されたものである。(中略)
別当は成就院であった事が『相模風土記』に見える。元村社で坂ノ下区の氏神社である。
(以下略)

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
御霊神社
祭神、鎌倉権五郎景政。
例祭九月十八日。
元村社。坂ノ下の鎮守。
境内地639.98坪
本殿・幣殿・拝殿
境内無格社石上神社・末社四(地主神、金刀比羅、秋葉・祖霊)
勧請年月未詳。鎌倉幕府成立以前からの旧社としてよいであろう。
境内の石上神社は堅石一箇あり、もとこの石は由比ヶ浜の沖にあった。
毎年溺死するものが多かったが、寛政三年(1791年)九月の或夜、海面が光り輝いたので、村民挙ってこの石を引上げ、石上神社に奉納した。それ以来ここで溺死するものがなくなったと伝えている。
もと極楽寺の成就院持。

『新編鎌倉志』は、御霊宮を「鎌倉権五郎景政ノ祠ナリ」とし「梶原村ニモ、御霊宮アリ。里老云、当社ハ、本梶原村ニ有シヲ、後ニ此地ニモ勧請す。故ニ今祭礼ノ時ハ、彼所ノ神主合テ勤ト也」といっている。
『鎌倉攬勝考』五霊ノ社の項では、祭神を景政とすることは誤りとし、葛原岡の項では、里老の話により、祭神は葛原親王で、景政を合祀したとする。
『風土記稿』所引の神主小池氏の『旧記』には村岡五郎忠通を祭り、忠通の子五人も合祀したといい、五流宮といったのを土地のものは五霊社というと書いている。
また『鎌倉攬勝考』は鎌倉権守景成がいまの葛原ヶ岡に先祖葛原親王をまつり、葛原の宮とも、御霊社とも称した。後それを梶原村に移して御霊社と称し、その後鎌倉権八郎景経の代に景政を合祀した。といい、また『吾妻鏡』文治元年(1185年)八月二十七日の記事は梶原村の御霊社をさす。という里老の言を無批判にのせているが、これが梶原村としなければならぬ明証はなく(中略)この説に従うことはできない。

各子孫がそれぞれ先祖の霊を祀ったので、梶原の御霊社も、鎌倉の御霊社も、共にむかしからあって差支えない。ともかく、御霊社が鎌倉氏乃至梶原氏、大庭氏等の先祖のみたまを祀った社であることは諸説とも一致している。

■ 境内掲示
鎌倉・江の島七福神 面掛福禄寿 御霊神社
御霊神社は其の昔鎌倉近辺には大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉という平氏五家があり、これら五家の祖を祀る神社として御霊神社が建てられこれが御霊神社となり祭神●、いつしか武勇で名高い領主の鎌倉権五郎景政公一柱だけを祀るようになりました。
この権五郎景政公の命日が九月十八日でこの例祭日には昔から面掛け行列という珍しい行事があります。これは伎楽や舞楽・田楽などに使われる特異な面を十人衆がつけ古いいでたちで街の中をねり歩く県指定の文化財です。此の十一面の中に「福禄寿」が含まれており此れにちなんで「福禄寿」が宝物庫に安置されています。

■ 境内掲示(鎌倉市)(抜粋)
御霊とは、強く尊い祖先の御霊(みたま)の意で、神社の創建は、平安時代後期と伝えられています。桓武天皇の子孫で「鎌倉武士団」を率いた鎌倉権五郎景正(ママ)を祀っています。
景政は、後三年の役(一〇八三年〜)に十六歳で出陣して勇名をはせ、その後現在の鎌倉・湘南地域を開発した領主です。地元では「権五郎さま」と呼ばれ、親しまれています。
毎年九月に行われる「面掛行列」は、伎楽や舞楽、田楽などの古い面をつけた面掛衆が練り歩く珍しい祭事です。


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長谷の収玄寺脇から極楽寺方向へ向かう小路は「御霊小路」と呼ばれます。
観光客はそれなりにいるものの、長谷大仏前の雑踏から逃れてほっとする道です。


【写真 上(左)】 御霊小路
【写真 下(右)】 御霊小路の碑


【写真 上(左)】 案内板-1
【写真 下(右)】 案内板-2

南側に江ノ電の踏切があり、境内はこの踏切に面し、線路脇には紫陽花が咲くという撮り鉄や花の写真愛好家には絶好の撮影スポットとなっています。


【写真 上(左)】 鎌倉源五郎神社の社号標
【写真 下(右)】 踏切下からの参道

しかしながら、あまりにカメラマンが殺到して危険なためか、一部の紫陽花は現在鉢植えとなっている模様です。(Web情報)
また、境内は現在撮影禁止となっています。


【写真 上(左)】 踏切と鳥居
【写真 下(右)】 鳥居と江ノ電


【写真 上(左)】 社頭の桜
【写真 下(右)】 境内撮影です

筆者は撮影禁止前に境内の撮影をしていますが、なぜかあまり枚数を撮っておらず境内の様子もはっきりしないので、境内の詳細な紹介は控えます。

また、写真についても境外の数枚の写真掲載にとどめます。

おそらく踏切手前から参道になっており、遮断機のすぐ向こうに石造の明神鳥居。
江ノ電は単線ながら本数が多いので、参拝中少なくとも1本は江ノ電を見れると思います。

かながわ名木100選のタブノキや樹齢約四百年の夫婦銀杏が茂り、緑濃い境内。
鳥居をくぐって左手に社号標。右手に手水舎と授与所。

正面は参道で基壇の上に石灯籠一対、石段を登ると正面が入母屋造銅板葺流れ向拝の拝殿です。
水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻を置いています。

たしか拝殿向かって右手の宝蔵庫前には鎌倉・江ノ島七福神の幟が立ち、福禄寿の札所となっています。


御朱印は境内右手の授与所で授与されており、鎌倉・江ノ島七福神の御朱印も拝受できます。
江ノ電とマスコットのおネコちゃんをモチーフとした、人気のオリジナル御朱印帳も頒布されています。


〔 御霊神社の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 社号の御朱印
【写真 下(右)】 御祭神の御朱印


御朱印帳


■ 鎌倉市の御朱印-21 (C.極楽寺口-4)へつづく。



【 BGM 】
■ Christopher Cross - Sailing


■ Whitney Houston - Where You Are


■ James Ingram & Patti Austin - How Do You Keep The Music Playing
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■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-0(導入編)

この記事、アクセスしにくくなっていたのでアゲてみます。

なお、現在、札所0番の愛鷹山 三明寺(さんみょうじ)様(沼津市大岡4051)が実質的な事務局対応(専用納経帳の頒布など)をされていますので、発願にトライされる方はまずはこちらの参拝をおすすめします。
→ 詳細はこちら

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2022/02/13に記事は一応完結していますが、札所の追加・変更があったのでリニューアルUPします。


伊豆八十八ヶ所霊場は、江戸時代開創と伝わる伊豆全域に広がる弘法大師霊場です。
ながらく巡拝者は途絶えていたものとみられますが、昭和50年に伊豆霊場振興会が設立され復興が始まりました。

初番発願所は伊豆の国市四日町の長徳寺(以前は伊豆市田沢の嶺松院)、八十八番結願所は修禅寺および修禅寺奥の院。
全行程は460㎞で札所は伊豆半島全域に及びますが、とくに南伊豆町に多く立地しています。

この霊場の巡拝ガイドブック『伊豆八十八ヶ所霊場 こころの旅』(監修:伊豆霊場振興会)を参考に、歴史をたどってみます。

伊豆八十八ヶ所霊場は、江戸時代から明治初期にかけて多くの巡拝者を迎えたとみられる歴史ある霊場です。
伊豆には弘法大師の逸話が多く伝わります。
弘法大師が唐に渡られる前後14年の間に訪れた「桂山の山寺」は修禅寺であったともいわれ、この地で弘法大師霊場が隆盛する素地は、往古からすでにあったとみることができます。

結願所の修禅寺(福地山修禅萬安禅寺)は、大同二年(807年)弘法大師による開創と伝わり、その後約470年間は真言宗寺院として栄えました。
鎌倉時代、中国から蘭渓道隆禅師が入山して臨済宗に改宗。
さらに室町時代の応永九年(1489年)には、韮山城主北条早雲が遠州から隆渓繁紹禅師を招いて曹洞宗に改宗しています。

修禅寺の影響が強いとみられるこの霊場では、当初真言宗で、のちに禅宗に改めた寺院が多くあります。
禅宗メインでありながら御本尊は多彩で、札所によっては密寺の雰囲気を色濃く残していることも、この霊場の個性であり魅力であるかと思います。

昭和に入って霊場は衰退し無住の札所も増えましたが、昭和40年代頃、伊豆在住の田上東平氏が第28番札所「大江院」に霊場の納経帳が残されていることを知り、昭和50年に伊豆霊場振興会を設立されて霊場の復興が始まりました。

田上氏は第6番札所「金剛寺」でも明治22年の日付の木版を発見、平成に入って第21番「龍澤寺」で天保十五年(1844年)と彫られた巡拝祈念碑がみつかり、少なくとも江戸時代には巡拝されていたという裏付けがなされました。

温泉地や観光地にある札所も多く、公式WebもUPされ、このところの御朱印ブームもあって近年、巡拝者が増えている模様。

~ 江戸時代より巡礼されていた伊豆八十八ヶ所霊場 長い沈黙から 今、まさに蘇る ~
(巡拝ガイド表紙より)

さらに2021年6月、伊豆八十八ヶ所霊場を熱海を起点として回る「熱海御朱印物語」が企画され、詳細なガイドが紹介されています。

「神社仏閣に参拝した証に頂くのが『御朱印』で、お遍路の様に、お経を納める事で頂くのが『納経印』と言います。御朱印という姿形は一緒でも意味は違います。まずは気軽に『御朱印』を集めながら、伊豆半島を楽しんでみませんか。」(同Webより)という趣意で、「御朱印」を納経や読経から切り離し、参加者を広げようという試みは賛否両論あるのかもしれませんが、時代に見合ったかたちなのかもしれません。(→ リリース紹介の記事

巡拝はマイカー利用が楽ですが、伊豆半島全域をカバーしている東海バスで、公共交通機関を利用した巡拝コースが設定されています。
〔 東海バスのパンフ掲載地図 〕
※ 一部現況と異なる内容があります。


〔 札所一覧 〕
※ 一部現況と異なる内容あり。追って修正します。



2020年秋、数年がかりで結願しましたので、拝受した御朱印をご紹介します。
この霊場はほぼ2巡しており、専用納経帳のほか、ほとんどの札所で書入・印判の御朱印をいただいていますので両方ご紹介します。

伊豆八十八ヶ所霊場の専用納経帳は、デフォルトで揮毫の札所本尊、山号寺号などの揮毫が印刷されており、これに主印(三寶印、御寶印)と札所印、寺院印などの捺印をいただいて完成します。
ご不在の場合でも堂内に印が備えてあればセルフで捺印し、完成することができます。

霊場振興会では専用納経帳での巡拝を推奨されている模様で(詳細は→こちら)、専用納経帳巡拝の場合、印があるところは自分で捺せ、ご不在の場合、条件によっては後日授与対応していただけるので、御朱印をコンプリートされたい向きには専用納経帳がおすすめです。

筆者は専用納経帳を松崎で入手し、修善寺でも入手できる可能性がありますが、確実に入手するには通販での購入をおすすめします。(詳細は→こちら)、


【写真 上(左)】 霊場ガイド-1
【写真 下(右)】 霊場ガイド-2


【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 専用納経帳


【写真 上(左)】 パンフ類
【写真 下(右)】 チラシ

また、伊豆には伊豆横道(よこどお)三十三観音霊場という観音霊場もあります。
こちらは、伊豆に流されていた源頼朝公が源氏再興を決意し、その成就を祈りつつ「三十三観音」を巡ったのが始まりと伝わる古い霊場です。
いくつかの札所は伊豆八十八ヶ所と重複していますので、こちらについても御朱印をご紹介します。
また、札所で拝受したその他の御朱印についても併せてご紹介していきます。

せっかくなので、伊豆半島の霊場・札所について、その概要をみてみます。

【伊豆半島と霊場・札所】
伊豆半島は人口密度が高く、寺院も多かったためか複数の霊場が開創されています。
口伊豆(三島・沼津)方面では駿河一国観音霊場(駿河三十三観音)が現役。
古い霊場では御厨観音横道札所、駿豆両国横道三十三観音霊場、また、静岡梅花観音霊場、駿河一国百地蔵尊霊場などの札所も点在し、一部札所で御朱印を授与されています。
中伊豆には伊豆中道三十三観音霊場、中伊豆観音札所、伊豆長岡温泉七福神、伊豆天城七福神などの札所があり、こちらも一部ですが御朱印が授与されています。

西・南・東伊豆では、現役霊場として伊豆横道三十三観音霊場、円覚寺百観音霊場、伊豆国(下田南伊豆)七福神、稲取八ヶ寺めぐり、伊東温泉七福神などがあり、多くの札所で御朱印が授与されています。
とくに稲取や松崎エリアは御朱印にちなんだ観光振興に積極的で、御朱印関連イベントがしばしば企画されている模様。

〔稲取・松崎の御朱印企画のパンフ〕


現況不明の霊場に、熱海三弘法大師霊場、伊豆二十一ヶ所霊場、熱海六観音霊場、伊豆伊東六阿弥陀霊場などがあり、熱海三弘法大師霊場と熱海六観音霊場の札所はだいたい伊豆八十八ヶ所と重複していますが、伊豆二十一ヶ所霊場と伊豆伊東六阿弥陀霊場は伊東市内の地域霊場的な性格で、伊豆八十八ヶ所との札所重複は少なくなっています。

伊豆は日蓮宗・法華宗寺院も多く、多くの寺院で御首題あるいは御朱印を授与されています。

伊豆は、御朱印授与神社は比較的少ないエリアですが、それでも↑のとおり授与寺院多数で目移りします。
とくに南伊豆は東京方面からの交通の便がよくないので、せっかく来たのだからと、ついつい無理をしがちです。
しかし、伊豆八十八ヶ所霊場の巡拝じたいがかなりハードなので、他札所御朱印も一気にゲットとなるとおそらく時間切れ再訪という状況に陥ります(笑)

伊豆八十八ヶ所霊場の札所はしみじみと落ち着いたいいお寺さまが多いので、ここは欲張らずに八十八ヶ所に的を絞って回るのがベターかもしれません。

無住のお寺も多くなかなか手ごわいですが、伊豆の温泉めぐりと併せ、数年がかりでじっくり回っていくのも面白いかと思います。
なお、温泉レポをUPしているお湯については、適宜リンクを貼るかたちでこちらもご案内していきます。(休業中・廃業の施設を含みます。ご注意願います。)

ボリュームがあるので、時間をかけて連載でUPしていきます。

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
第0番 愛鷹山 三明寺(沼津市大岡)
(旧)第1番 観富山 嶺松院(伊豆市田沢)
第1番 瑞応山 長徳寺(伊豆の国市四日町)
第2番 天城山 弘道寺(伊豆市湯ケ島)
第3番 妙高山 最勝院(伊豆市宮上)
第4番 泉首山 城富院(伊豆市城)
第5番 吉原山 玉洞院(伊豆市牧之郷)
第6番 大澤山 金剛寺(伊豆市大沢)
第7番 東嶽山 泉龍寺(伊豆市堀切)
第8番 養加山 益山寺(伊豆市堀切)
第9番 引摂山 澄楽寺(伊豆の国市三福)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-2
第10番 長谷山 蔵春院(伊豆の国市田京)
第11番 天與山 長源寺(伊豆の国市中)
第12番 湯谷山 薬王林 長温寺(伊豆の国市古奈)
第13番 巨徳山 北條寺(伊豆の国市南江間)
第14番 龍泉山 慈光院(伊豆の国市韮山多田)
第15番 華頂峰 高岩院(伊豆の国市奈古谷)
第16番 金寶山 興聖寺(函南町塚本)
第17番 明王山 泉福寺(三島市長伏)
第18番 龍泰山 宗徳院(三島市松本)
第19番 君澤山 連馨寺(三島市広小路町)
第20番 福翁山 養徳寺(函南町平井)
第21番 圓通山 龍澤寺(三島市沢地)
第22番 龍泉山 宗福寺(三島市塚原新田)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-3
第23番 日金山 東光寺(熱海市伊豆山)
第24番 走湯山 般若院(熱海市伊豆山)
第25番 護国山 興禅寺(熱海市桜木町)
第26番 根越山 長谷寺(熱海市網代)
第27番 稲荷山 東林寺(伊東市馬場町)
第28番 伊雄山 大江院(伊東市八幡野)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4
第29番 大川山 龍豊院(東伊豆町大川)
第30番 金澤山 自性院(東伊豆町奈良本)
第31番 来宮山 東泉院(東伊豆町白田)
第32番 稲取山 善應院(東伊豆町稲取)
第33番 見海山 来迎院 正定寺(東伊豆町稲取)
別格旧第31番 宝林山 称念寺(河津町浜)
第34番 千手山 三養院(河津町川津筏場)
(旧)第35番 鳳儀山 栖足寺(河津町谷津)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5
第35番 天城山 慈眼院(河津町梨本)
第36番 長運山 乗安寺(河津町谷津)
第37番 玉田山 地福院(河津町縄地)
第38番 興國山 禅福寺(下田市白浜)
第39番 西向山 観音寺(下田市須崎)
第40番 瑞龍山 玉泉寺(下田市柿崎)
第41番 富巖山 天気院 海善寺(下田市一丁目)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-6
第42番 大浦山 長楽寺(下田市三丁目)
第43番 乳峰山 大安寺(下田市四丁目)
第44番 湯谷山 廣台寺(下田市蓮台寺)
第45番 三壺山 向陽院(下田市河内)
第46番 砥石山 米山寺(下田市箕作)
第47番 保月山 龍門院(下田市相玉)
第48番 婆娑羅山 報本寺(下田市加増野)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-7
第49番 神護山 太梅寺(下田市横川)
第50番 古松山 玄通寺(南伊豆町一條)
第51番 青谷山 龍雲寺(南伊豆町青市)
第52番 少林山 曹洞院(下田市大賀茂)
第53番 佛谷山 寶徳院(下田市吉佐美)
第54番 浦岳山 長谷寺(下田市田牛)
第55番 飯盛山 修福寺(南伊豆町湊)
第56番 養珠山 正善寺(南伊豆町手石)
第57番 東海山 青龍寺(南伊豆町手石)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-8
第58番 稲荷山 正眼寺(南伊豆町石廊崎)
(石室神社)(南伊豆町石廊崎)
第59番 瑞雲山 海蔵寺(南伊豆町入間)
第60番 龍燈山 善福寺(南伊豆町妻良)
第61番 臥龍山 法泉寺(南伊豆町妻良)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-9
第62番 石屏山 法伝寺(南伊豆町二條)
第63番 五峰山 保春寺(南伊豆町加納)
第64番 金嶽山 慈雲寺(南伊豆町下賀茂)
第65番 田村山 最福寺(南伊豆町上賀茂)
第66番 波次磯山 岩殿寺(南伊豆町岩殿)
第67番 太梅山 安楽寺(南伊豆町上小野)
第68番 廬岳山 東林寺(南伊豆町下小野)
第69番 塔峰山 常石寺(南伊豆町蛇石)
第70番 医王山 金泉寺(南伊豆町子浦)
第71番 翁生山 普照寺(南伊豆町伊浜)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-10
第72番 黒崎山 禅宗院(松崎町石部)
第73番 霊鷲山 常在寺(松崎町岩科南側)
第74番 嵯峨山 永禅寺(松崎町岩科北側)
第75番 岩科山 天然寺(松崎町岩科北側)
第76番 清水山 浄泉寺(松崎町松崎)
第77番 文覚山 圓通寺(松崎町宮内)
第78番 祥雲山 禅海寺(松崎町江奈)
第79番 曹源山 建久寺(松崎町建久寺)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-11
第80番 萬法山 帰一寺(松崎町船田)
第81番 富貴野山 宝蔵院(松崎町門野)
第82番 照嶺山 東福寺(西伊豆町中)
第83番 照嶺山 東福寺(西伊豆町中)
第84番 正島山 法眼寺(西伊豆町仁科)
第85番 満行山 航浦院(沼津市西浦江梨)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-12
(旧)第85番 授寶山 大聖寺(西伊豆町安良里)
第86番 吉祥山 安楽寺(伊豆市土肥)
第87番 専修山 大行寺(沼津市戸田)
第88番 奥の院 正覚院(伊豆市修善寺)
第88番 福地山 修禅寺(修禅萬安禅寺)(伊豆市修善寺)



【 BGM 】
■ by your side - Wise feat. Nishino Kana


■ Waiting For Love feat.Noa - 中村舞子


■ SWEET MEMORIES 松田 聖子
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■ 鎌倉市の御朱印-19 (C.極楽寺口-2)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)
■ 同-15 (B.名越口-10)
■ 同-16 (B.名越口-11)
■ 同-17 (B.名越口-12)
■ 同-18 (C.極楽寺口-1)から。


53.行時山 光則寺(こうそくじ)
鎌倉公式観光ガイドWeb

鎌倉市長谷3-9-7
日蓮宗
御本尊:十界曼荼羅(『鎌倉市史 社寺編』)
司元別当:山王社(長谷)
札所:小田急沿線花の寺四季めぐり第33番

光則寺は、日蓮聖人、日朗上人ゆかりの日蓮宗寺院です。

鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料などから縁起沿革を追ってみます。

文応元年(1260年)7月、日蓮聖人は『立正安国論』を幕臣の宿屋光則を通じて前執権北条時頼に提出しました。
しかし、この論は幕府に異見するものとされ、他宗からも反感を買い、日蓮聖人は数々の法難を受けられました。

「龍口(たつのくち)法難」もそのひとつです。
Wikipediaを参考にその経緯を追ってみます。

文永八年(1271年)9月12日、鎌倉幕府は幕府や諸宗を批判したとの咎で松葉ヶ谷の草庵で日蓮聖人を捕縛連行して佐渡國への流罪を申し渡しました。
9月13日子丑の刻、日蓮聖人は申し渡しに相違して、鎌倉口の頸の座(現・龍ノ口)に引き出され、あわや斬首の危機となりましたが、「不思議の奇瑞」により難を遁れたと伝わります。

その後、日蓮聖人は愛甲郡依智郷(現・厚木市)の佐渡守護代・本間六郎左衛門重連の館に移送され、一ヶ月後に佐渡に配流となりました。

「龍口法難」の際、日朗上人をはじめとする日蓮聖人の弟子達も迫害を受けました。
日朗上人(1245-1320年)は下総國海上郡能手郷に生まれたといい、父は平賀氏(平賀有国)、母は姓印東氏と伝わります。
建長六年(1254年)に鎌倉松葉ヶ谷で日蓮聖人の弟子となったといいます。
日蓮六老僧の一人で筑後房、大国阿闍梨とも称され、日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖となりました。

文永八年(1271年)の「龍口法難」の際には、日蓮上人の有力檀越・四条金吾頼基らとともに幕臣・宿屋光則邸の土牢に押し込みとなりました。

四條金吾(左衛門尉)頼基は北条一族・名越(江間)家の執事で、建長五年(1253年)日蓮聖人に帰依して有力檀越となりました。
日蓮聖人の代表著作『開目抄』は佐渡から頼基に送られ、門下に広められたとも。
屋敷は光則寺のそば、長谷の収玄寺にあったといい、法名を収玄院日頼上人といいます。

なお、光則寺を四條金吾の屋敷跡とする資料もみられます。

宿屋光則(やどやみつのり)は、北条得宗家の被官で鎌倉幕府5代執権・北条時頼の家臣でした。
『吾妻鏡』(弘長3年11月22日條)は、時頼の臨終の際に看病を許された得宗被官7人の一人に挙げているので、時頼側近とみられます。
文応元年(1260年)7月、日蓮聖人の『立正安国論』は光則を経て時頼に提出されたといいい、日蓮聖人は『立正安国論』を光則邸(現・光則寺)で光則に委ねたともいいます。

「龍口法難」の際には日朗上人、四条金吾頼基らを自邸裏山の土牢に押し込みましたが、次第に日蓮聖人の教えに感化し、のちに自邸を日朗聖人を開山として寺となし、光則寺と号しました。

『新編相模國風土記稿』には、日朗上人が獄卒に訴え度々土牢を抜け出し佐渡の日蓮聖人のもとに向かったとありますが、主人の許可を得ずして獄卒が因人を逃すとは考えにくいので、光則は日朗上人の佐渡出向を許したか、あるいは黙認していたとみられます。

なお、日蓮聖人の佐渡配流赦免状も日朗上人がもたらしたという説がありますが、異論もあるようです。

光則寺の開山は日蓮聖人の佐渡からのご帰還(文永十一年(1274年)3月)後とみられます。

江戸時代、古田兵衛少輔重恒の室、大梅院常学日通が堂宇を再興したので、大梅寺とも呼ばれます。

樹齢約150年のカイドウをはじめ花の寺として知られ、小田急沿線花の寺四季めぐり第33番の札所にもなっています。

境内には大橋太郎通貞の土牢と伝える古墳もあります。
「歴史資料としての日蓮聖人遺文について」(小西日遶氏/PDF)等によると、大橋太郎通貞(貞経とも)は九州・豊後国の平家方の武将で、頼朝公の勘気を蒙り、領地を没収され鎌倉由比浜の土牢(光則寺山内の土牢?)に十二年間捕らえられていたといいます。

その妻は懐妊して豊後国(肥後国とも)におりましたが、無事男の子を産み落としました。

妻は夫は戦乱のなかすでに命を落としたと考え、夫の供養を子に託すため幼くして山寺に預けました。
子は昼夜に怠りなく法華経を読誦したので、ついに法華経一部を暗誦できるようになりました。

ある日その子は豊後を出て、鎌倉に至りました。
その子は八幡神の本地は霊山で法華経を説いた教主釈尊と信じ、父の生死を知る願いをかけつつ鶴岡八幡宮の宮前で法華経を誦したところ、読経の声は殿中に切々と響きわたり、
涙を流す人さえいたそうです。
ちょうど八幡宮を詣でていた頼朝公の奥方はその読経の声に尊さを感じ、その子を保護しました。

法華経を信じていた頼朝公は、その子を召し出して法華経の内で不審に思う経文について逐一尋ねたところ、その子はよどみなくこれに応えたそうです。
頼朝公は感じ入り、その子を持仏堂の読経僧としました。

ある日、囚人の首が切られると聞いてその子が涙を流したので、頼朝公がその理由を尋ねると、その子は自分は大橋太郎通貞の子で、父親は鎌倉で捕らえられているかもしれぬという懸念を話しました。

おりしも、その日に斬られることとなっていた囚人はかの大橋太郎通貞で、これを知った頼朝公は急ぎ梶原景時を刑場につかわして、刑の執行をとりやめました。
頼朝公は法華経の功徳に感じ入り、その子に様々な布施を与え、大橋太郎通貞にはもとの領地を安堵したといいます。

また、山内の稲荷社は鎮守で、建長四年(1252年)宿屋光則が上京の折、感得した木像の神躰を勧請して山内に建立と伝わります。


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【史料・資料】
『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
光則寺 附宿屋光則𦾔跡
光則寺は、行時山と号す。大佛へ行道左にあり。此所を宿屋とも云ふ。相伝ふ、平時頼家臣、宿屋左衛門光則入道西信が宅地なりと。昔日蓮、龍口にて首の座に及ぶ時、弟子日朗・日心二人、檀那四條金吾、父子四人、安國寺にて召捕て、光則に預け給ひ、土籠に入らる。日蓮不思議の奇瑞有て害を免る。因て光則信を起し、宅地に草庵を結び、日朗を開山祖とす。光則が父の名を行時と云。近年、古田兵衛少輔重恆が後室、大梅院再興す。故に今大梅寺とも云なり。堂に、日蓮・日朗の木像、光則・四條金吾父子四人の像もあり。
妙本寺の末寺なり。
日朗土籠 寺の北の方、山上にあり。

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
光則寺 附宿屋光則𦾔跡
大佛へ行道の左の方、執権北條時頼の家臣、宿屋左衛門光則入道西信が宅地なりといふ。昔日蓮上人、龍の口にて刑に臨首の座に及ぶ時、弟子日朗・日心二人、檀那四條金吾父子四人、安國寺にて召捕、光則に預け給ひ土牢に入らる。日蓮、不思議の奇瑞有て害を遁る。因て光則も信を起し、宅地を以て草庵とし、日朗を開山となし、光則が父の名を行時といふゆえ、父の名を山号とし、我名を寺号とす。
中古以来、古田兵衛少輔重恆が後室大梅院、再興すといふ。故に今は大梅寺とも号するよし。
堂内に、日蓮上人・日朗の木像、光則・四條金吾父子四人の像も有。
妙本寺末なり。
日朗が土牢、寺の北の方なる山上にあり。

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
光則寺
行時山と号す。法華宗大町妙本寺末
寺域はもともと北條時頼が臣宿屋左衛門光則入道西信が宅地なり。故に今も域内ばかりを宿屋と号す。
昔日蓮龍の口にて刑に臨し時弟子日朗・日眞二人檀那四條金吾父子四人を光則に預られ、
土の牢に入らる然るに日蓮不思議の奇瑞有て害を免れしかば是より光則深く渇仰し、宅地に一宇を営み、光則が父の名を行時と云ひしが故其名を山号とし、我名を寺号とし、日朗(元應二年(1320年)正月廿一日寂す)を開山始祖とすと云へり、其後、古田兵衛少輔重恒が室、堂宇を再興せり、故に或は大梅院とも唱ふ
本尊三寶を安ず 日蓮坐長一尺日法作の像あり(略)

稲荷社
境内の鎮守なり、愛敬稲荷と云ふ、縁起に拠るに往昔鍛冶宗近一條帝の勅により一振の劔を鍛し時、藤森の稲荷に祈誓しけるに神其懇誠を感じ、合鎚を助け給ひしとぞ、かくて其劔を捧げしに叡慮ありて宗近を賞し給ふ、かゝりしかば宗近崇敬の余り神躰を彫刻し、宅地に安じて合鎚稲荷と号しけり、其後建長四年(1252年)宿屋光則、北條時頼の旨を受け京に到て宗尊親王を迎まいらせし時我君守護の為宗近の劔を求けるに或夜此神霊童子に現じて一振の劔を授くと夢みしに覚て後枕上に小祠あり、開き見れば木像の神躰なり、光則奇異の思をなし鎌倉に帰り当社を造立せしと云ふ

開山堂
日朗・日眞、及四條金吾頼基、同左衛門・南條平七郎・中務三郎左衛門等の木像を置く

土牢
寺後の山上にあり文永八年(1271年)九月日蓮囚はれし時、日朗・日眞、及四條金吾頼基等四人を宿屋光則に預られ、此に繋累せらる(中略)かくて日蓮不思議の奇瑞ありて戮を宥められ、愛甲郡依智郷本間六郎左衛門重連が許にあり、十月三日依智より日朗等に書状を贈る(中略)同九日再窟中に離別の書翰を投ず 同九日、別送日朗状云日蓮波明日、佐渡國江罷也(中略)日朗窟中に在て吾師患難の惨に堪ず、獄吏に対ひ一度師の謫居を訪ひ再獄所に帰らん事を請けるに獄吏も其心の切なるに感じて是を許す、日朗殊に喜び潜に遁れ出て佐州の配所に至る事数度に及ぶ(中略)同十年(1273年)閏五月赦免あり
今窟内に日朗の像及び五輪塔あり
宿屋左衛門光則墓
寺後の山腹にあり 当時のものとは見えず 中古冥福のために建しなるべし、光則は北條時頼の臣なり

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
行時山光則寺と号する。日蓮宗。もと妙本寺末。
開山、日朗。開基、宿屋光則。
本尊、十界曼荼羅。
境内地1370坪
本堂・庫裏・山門等あり
寺伝に、宿屋光則は北条の被官、その父の名を行時といった。山号・寺号はこれによる。
文応元年(1264年)七月十六日、日蓮は立正安国論を宿屋光則の手を経て前執権時頼に上った。
光則は大覚禅師に参禅もしている。
文応八年(1271年)九月、日蓮佐渡に配流となったとき、日朗等を預って寺の後山にある土牢に入れた。後入信して宅を寺としたという。いまも寺のあるところを宿屋と呼んでいる。
江戸時代、古田兵衛少輔重恒の室、大梅院常学日通が堂宇を再興したので、大梅寺ともよぶという。
今の本堂は慶安三年(1650年)の建立と伝え、大震災後修理を加えた。
境内に大橋太郎通貞の土牢と伝える古墳がある。

■ 山内掲示(鎌倉市)
宗派 日蓮宗
山号寺号 行時山光則寺
建立 文永11年(1274)頃
開山 日朗上人
開基 宿谷光則
『立正安国論』などによって日蓮聖人が佐渡へ流された時、弟子の日朗上人も、北条時頼の家臣であった宿谷光則の屋敷に捕らえられました。
やがて光則は、日蓮聖人に帰依し、屋敷を光則寺としたと伝えられています。
境内の裏山には日朗上人が捕らえられていたと伝わる土牢が残っています。
境内には法華教の信者だった宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の詩碑があり、樹齢二百年といわれるカイドウの古木をはじめ、四季折々さまざまな花が見られる鎌倉有数の花の寺です。

■ 山内掲示(日朗上人の土の牢)
文永十一年(1274年)頃に建立された光則寺は、もともとは北条時頼の側近・宿屋光則の屋敷であったが、日蓮聖人が佐渡へ流された時、高弟・日朗上人も捕らえられ、この邸内の土の牢に監禁されたといわれています。
その後、光則は次第に日蓮聖人に帰依し、日蓮赦免後は日朗上人を開山に光則寺を創建した。
この土の牢は700年以上の歴史を刻んでいると推定されています。


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江ノ電「長谷」駅から鎌倉大仏高徳院にかけては、平日も観光客で賑わう鎌倉きっての観光スポットです。
しかし観光客が向かうのは鎌倉大仏が長谷観音(長谷寺)で、鎌倉大仏と長谷観音のあいだに位置する光則寺へ向かう人は多くはありません。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 霊跡碑-1

「長谷観音前」交差点の1つ北側の信号から、西側の山寄りに向かって参道が伸びています。
参道入口に「日蓮聖人 立正安国論 上書 霊跡」の碑が建っています。


【写真 上(左)】 霊跡碑-2
【写真 下(右)】 宿屋氏邸址碑

数百mの長い参道で、光則寺の山内の懐は、南の長谷寺よりもふかくなっています。
参道途中に「日蓮聖人立正安國論進献霊跡」の碑とお題目碑。
また、「宿谷左衛門 宿屋?光則 邸址」の石碑も建っています。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標


【写真 上(左)】 山門前
【写真 下(右)】 山門


【写真 上(左)】 山門上部
【写真 下(右)】 山門扁額

さらに進むとやや開けて門柱があり、左右の門柱は山号・寺号の標となっています。
古木の先にある山門は、切妻屋根青銅本瓦棒葺でおそらく四脚門。
朱塗りで上部に精緻な龍つきの本蟇股を設え、「宿谷」の扁額を掲げています。
山門脇には「日蓮聖人 第七百遠忌報恩」の石碑。


【写真 上(左)】 遠忌報恩碑
【写真 下(右)】 山内-1

山門をくぐった山内は緑濃く、背後に山肌をみせて趣があります。
数基の石碑の向こうに本堂が見えます。


【写真 上(左)】 山内-2
【写真 下(右)】 本堂

本堂はおそらく寄棟造桟瓦葺流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に本蟇股を置いています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

向拝正面桟唐戸のうえに「師孝第一」の扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 日朗上人土牢への石段
【写真 下(右)】 土牢

本堂向かって右手の階段のうえに日朗上人の土牢があり、説明板もあります。

山内には宿屋光則の墓と大橋太郎通貞の土牢もあり、歴史の香りゆたかです。


〔 光則寺の御首題・御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 御朱印


54.海光山 慈照院 長谷寺(はせでら)
公式Web
鎌倉公式観光ガイドWeb

鎌倉市長谷3-11-2
浄土宗系単立
御本尊:十一面観世音菩薩
司元別当:
札所:坂東三十三箇所(観音霊場)第4番、鎌倉三十三観音霊場第4番、相州二十一ヶ所霊場第12番、鎌倉六阿弥陀霊場第2番、鎌倉・江ノ島七福神(大黒天)

長谷寺は鎌倉有数の古刹で、長谷観音として広く知られています。

公式Web鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料などから縁起沿革を追ってみます。

開創は奈良時代の天平八年(736)と伝え、聖武天皇の治世下に勅願所と定められた鎌倉有数の古刹です。本尊は十一面観世音菩薩像。木彫仏としては日本最大級(高さ)の尊像で、坂東三十三所観音霊場の第四番に数えられる当山は、東国を代表する観音霊場の象徴としてその法灯を今の世に伝えています。

創建の時期や経緯については関連史料が少ないですが、天平八年(736年)、大和長谷寺の開基・德道上人を藤原房前が招いて十一面観世音菩薩像を御本尊として開山といいます。

海光山新長谷寺と号す、本尊十一面観音は長二丈六尺、和州長谷の観音と同木同作なりと

元正天皇の御宇(715-724年)、德道上人が大和長谷の山中に楠の巨木が倒れ香と瑞光を発しているのを見て、この霊木に観世音菩薩像を彫刻し、末世の衆生に結縁せしめるべく誦経礼念されました。
すると、老翁二人が来て我等で尊像を彫刻しようと云われたので、德道上人は歓喜しました。
德道上人は十一面大悲の尊像の彫刻を依頼すると二翁はわずか三日で尊像を彫り上げたといいます。
あるいは、かの二翁は「天照大神・春日明神なり、衆生利益の大願を成就せしめん為にここに来たりて彫刻せり」と告げ忽然と姿を消されたとも。
ときに養老五年(721年)三月のことといいます。

藤原北家の祖・房前卿は勅を奉じて長谷に下向し、僧行基(668-749年)を導師としてこの霊像の開眼供養の法会を修したといいます。

一説には霊像は二軀彫られ、一軀は長谷にとどめて長谷寺の御本尊となりました。
もう一軀は有縁の地に出現して衆生を済度し給へと海中に流され、十六年のちの天平八年(736年)6月三浦郡長井村の海上に現出されたといいます。
この吉祥は聖武帝の叡聞に達し、房前卿は德道上人を鎌倉に遣わして開山とし、海光山新長谷寺を号しました。

あるいは、尊像は馬入に流れ寄せ、いっときは飯山にあったのを、忍性(1217-1303年)と大江広元(1148-1225年)が鎌倉・長谷に移したともありますが、年代が合わないという説もあります。

康永元年(1342年)、足利尊氏公が御本尊を修飾、明徳三年(1392年)には足利義満公が後光を造立し、伝・行基作の御像をお前立として安置と伝わります。

慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いの前に徳川家康公の御参あり 同十二年(1607年)には堂宇を修整、これを期に浄土宗に改宗し当時の住持・住持玉誉春宗を中興開山としています。
正保二年(1645年)酒井讃岐守忠勝が再修復し、再中興を辨秋(元禄七年(1694年)寂)としています。

以降も鎌倉を代表する名刹として参詣者を集め、坂東三十三箇所(観音霊場)第4番の札所にもなっています。

最近ではアート・音楽・食を融合した期間・人数限定イベント「長谷寺 NIGHT TABLE」を開催されるなど、新たな取り組みが注目を集めています。


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【史料・資料】
『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
長谷観音堂
海光山と号す。額に、長谷寺、子純筆とあり。子純筆、在杉本寺下。板東巡礼札所第四番なり。光明寺の末寺なり。相伝、此観音大和長谷より流木に流され、馬入へ流れ寄たるを上て、飯山に有しを、忍性と、大江廣元と謀て、此所に移すと、按ずるに忍性伝に健保後年に生、十六にて出家すとあり。廣元は、嘉禄元年(1225年)に卒す。時に忍性漸九 なり。旦【釋書】に、弘長の始、相陽に入とあれば、此事不審。又云、和州長谷の観音と此観音とは、一木の楠にて作れり。和州の観音は木本、此像は木末也。十一面観音にて、長二丈六尺二分、春日作。
按ずるに、春日と云は佛師の名なり。佛像のみにあらず。●の假面にも春日が作数多あり。(中略)
阿彌陀 作者不知
十一面像 詫間法眼作
如意輪像 安阿彌作
勢至像 安阿彌作 此像も畠山重忠が、持佛堂の本尊と云伝ふ。
聖徳太子像 作者不知
和州長谷開山徳道上人像 自作
毎年六月十七日、当寺の会にて貴賤老少参詣多し、寺領二貫文あり。
鶴岡一鳥居より十八町許あり。 
慈照院 本堂の北東にあり。
慈眼院 本堂の東にあり。

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
観音堂
海光山新長谷寺と号す、本尊十一面観音は長二丈六尺、和州長谷の観音と同木同作なりとぞ、縁起に拠に元正天皇の御宇(715-724年)德道上人和州長谷の山中に巨木の倒れ臥たるより異香常に薫と瑞光の現するを見て是を怪み其所に往て視るに十丈余の楠なり(中略)德道殊に悦び、かゝる霊木にて観音菩薩の像を彫刻し、末世の衆生に結縁せしめ普く救世の大悲を蒙らしめん事を志願して霊木に向ひ誦経礼念す(中略)
玆(ここ)に老翁二人来たりて我等尊像を彫刻しまいらせんと云ふ、德道歓喜し、二翁の姓名を尋るに稽文會稽首勳と云へる佛工なりと答ふ、德道卽十一面大悲の尊像を彫刻せんと請けるに二翁承諾して彼木を両斷となし纔(わずか)に三日を経て二躰を成就し、或は
天照大神・春日明神なり、衆生利益の大願を成就せしめん為に爰(ここ)に来たりて彫刻せりと告て忽雲中に化し去ぬ、時に養老五年(721年)三月なり(中略)
藤原房前勅を奉じて和州長谷に下向し、僧行基を導師として開眼供養の法会を修す(中略)
斯て一軀は其地にとゞめ、一軀は有縁の地に出現し、衆生を済度し給へと海中の波濤に泛(うか)ぶ、後十六年を経て天平八年(736年)六月十八日当國三浦郡長井村の海上に現出す、此事叡聞に達し藤原房前再僧德道を迎て開山とし、海光山新長谷寺と称すと云へり

按ずるに、佛像二軀を彫刻せしと云ふこと、菅公の長谷寺縁起に記されず、其他にも所見なければ、疑なきにあらざれど、其頃模造して此地に霊場を開きし、古刹なる事は知るべし、今姑く本文は、爰の縁起に従ふ、又或説に、此観音大和の長谷より、洪水に流され、馬入に流れ寄たるを上て、飯山に有しを、忍性(1217-1303年)と大江廣元と謀て此所に移すと云ふ、忍性が行状略頌に合考するに、年代合せず謬なり
康永元年(1342年)三月尊氏佛躰を修飾し箔を彩り、玅相を修治して荘厳を加へ、明徳三年(1392年)十二月義満後光を造立す、

行基作の同像(長八尺)を前立とし傍に勢至(座像長五尺、安阿彌作、畠山重忠が、持佛堂の本尊と云伝ふ)、如意輪(座像長二尺五寸作同上)、大黒(長三尺五寸弘法作)、恵比寿(運慶作)及び三十三身の観音像(各長三尺五寸義政の寄附と云ふ)、愛敬地蔵(座像長三尺、二位禅尼の寄附と云ふ)、大日(座像金佛、長三尺五寸八分)、彌勒(座像長二尺)並に開山德道(長三尺自作)等の像を置く(中略)

慶長五年(1600年)関原役の前東照宮御参あり 同十二年(1607年)更に命ありて堂宇を修整せらる
正保二年(1645年)酒井讃岐守忠勝資財を抛て再修復せり
中興を春宗(慶安元年(1648年)正月七日寂)、再中興を辨秋と云ふ 元禄七年(1694年)三月十七日寂す、当山七世中興、本尊並諸尊佛具等再建せしとぞ
板東札所第四なり(中略)

彌陀堂 本尊坐像長一尺 元は大町村内に建しを元禄年間(1688-704年)当寺寂譽が時此に移すと云ふ
五社明神社 神明・春日・白山・稲荷・天神を合祀す、村の鎮守なり
荒神社 神躰は運慶作観音の尊像、海中より出現の時佛躰に蝕せしめ、社を勧請すと伝へ貝柄荒神と唱ふ
辨天社 巌窟の内に安ず 長一尺五寸、弘法作、或は運慶作とも云ふ(中略)
別当二院
慈照院 浄土宗材木座光明寺末 本尊彌陀を安ず
慈照(眼?)院 本寺前に同じ 本尊は彌陀 開山を明譽と云ふ

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
海光山慈照院長谷寺と号する。浄土宗。もと光明寺末。いま単立宗教法人。
開山、德道。開基、藤原前房。天平八年(736年)の草創と云う。
中興、玉譽春宗、再中興、弁秋。
本尊、十一面観世音菩薩。
境内地2026.77坪
観音堂・拝観所・阿弥陀堂・大黒堂・鐘楼・客殿・庫裏・寺務所等あり
板東巡礼札所第四番。大和の長谷寺を本とすることは明らかである。
正治二年(1200年)に大江広元が重ねて寺を建てたという。
ともかく鎌倉末期にかなり大きな堂があったことは想像してよいと思う。

■ 山内掲示(鎌倉市)
宗派 単立(浄土宗)
山号寺号 海光山慈照院長谷寺
建立 天平8年(736)
開山 徳道上人

本尊の十一面観音像は日本最大級の木造の仏像です。
寺伝によると。開山の徳道上人が大和国(奈良県)初瀬の山中で見つけた樟の巨大な霊木から、二体の観音像が造られました。
一体は大和長谷寺の観音像となり、残る一体が衆生済度の願いが込められ海に流されたといいます。その後、三浦半島の長井浦(現在の初声あたり)に流れ着いた観音像を遷し、建立されたのが長谷寺です。
境内の見晴台からは鎌倉の海が一望でき、また、二千株を超えるアジサイをはじめ、四季折々の花木を楽しめます。

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長谷周辺では、鎌倉大仏高徳院とならぶメジャーな観光スポットです。
駐車場はありますが、常時混雑気味で夕方は閉山時間の30分前に営業終了となり翌朝まで出庫できなくなるので要注意です。


【写真 上(左)】 参道-1
【写真 下(右)】 参道-2

山内は三段構成で、登るにしたがい変化のある景色を堪能できる美しい寺院です。
山内案内はこちら


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 長谷大観音の石標


【写真 上(左)】 出世開運大黒天の石標と山門
【写真 下(右)】 門前の観音様と地蔵尊

県道から相当の幅員で引きこんだ山門前は、門前に伸びる松の木の存在感もあいまって、さすがに名刹の風格があります。
山門前には寺号標、長谷大観音の石標、出世開運大黒天の石標と観音様&地蔵尊が御座します。


【写真 上(左)】 山門-1
【写真 下(右)】 山門-2


【写真 上(左)】 山門見上げ
【写真 下(右)】 山門妻部

山門は切妻屋根青銅本瓦棒葺の堂々たる四脚門で常閉。妻部に大瓶束を置くしっかりとした意匠です。
山内口は左手通用門でこちらが拝観受付となっています。

受付を抜けると左手が以前の授与所。(現在、御朱印授与は本堂(観音堂)となっている模様。)
その脇に明治の文芸評論家・高山樗牛(たかやまちょぎゅう)の碑は、樗牛がこの地に居住したゆかりによるもの。

正面に妙智池、放生池を配した緑濃い庭園は四季折々の風情が楽しめ、花の寺としても知られています。
寺務所から右手方向に、和み地蔵、大黒堂、書院、辨天窟(堂)と露仏や堂宇が並び、こちらが一段目(下境内)となっています。


【写真 上(左)】 早春の下境内-1
【写真 下(右)】 早春の下境内-2


【写真 上(左)】 秋の山内
【写真 下(右)】 上境内への階段

寺務所は旧別当の慈照院と思われますが詳細不明。
その横に御座の「和み地蔵」はかわいい表情で、人気の撮影スポットです。
良縁地蔵、ふれ愛観音、梶山観音など多彩な露仏が御座し、稀少な相州二十一ヶ所霊場の札所標もありました。


【写真 上(左)】 寺務所
【写真 下(右)】 良縁地蔵


【写真 上(左)】 ふれ愛観音・梶山観音
【写真 下(右)】 相州二十一ヶ所霊場札所標


【写真 上(左)】 大黒堂
【写真 下(右)】 大黒堂の扁額

大黒堂は、もともと応永十九年(1412年)銘の尊像が堂宇本尊でしたが、いまは観音ミュージアムに収蔵されています。
現在の堂宇本尊は「出世・開運授け大黒天」、「さわり大黒天」で、鎌倉・江の島七福神巡り(大黒天霊場)の札所となっています。


【写真 上(左)】 辨天堂と弁天窟入口
【写真 下(右)】 辨天堂の扁額

大黒堂の対面には辨天堂と辨天窟。
弘法大師御参籠と伝わる弁天窟の内壁には弁財天、十六童子が彫られ、宇賀神も安置されています。
『新編相模國風土記稿』に「辨天社 巌窟の内に安ず 長一尺五寸、弘法作、或は運慶作とも云ふ」とある八臂辨財天ゆかりの窟とみられますが、こちらの尊像は現在観音ミュージアムに収蔵されています。(通常非公開)


【写真 上(左)】 辨天窟
【写真 下(右)】 卍池


【写真 上(左)】 地蔵堂
【写真 下(右)】 地蔵堂の扁額

庭園を抜けて斜め右手上方に進むと地蔵堂で、このあたりが二段目(上境内)の入口になります。
木々がうっそうと繁り、パワスポ的イメージのある一画です。
宝形造の地蔵堂には子孫繁栄ご利益の「福徳地蔵尊」が御座し、堂宇を囲むように地蔵尊が安置されています。


【写真 上(左)】 かきがら稲荷の鳥居
【写真 下(右)】 かきがら稲荷

さらに上方に進むとかきがら稲荷。
寺伝によると、御本尊の十一面観世音菩薩像が海上を流れている際、御尊体をお守りするためにかきがらが付着し、尊像をお導きしたといわれています。
その「かきがら」をお祀りしているお社で、「かきがら絵馬」は人気の絵馬となっています。

なお、かつて山内に御鎮座で長谷村の鎮守であった五社明神社(神明・春日・白山・稲荷・天神を合祀)は明治20年、甘縄神明宮境内に御遷座されています。


【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 阿弥陀三尊碑

鐘楼の梵鐘は、文永元年(1264年)銘の鎌倉で3 番目に古い作例とされ国の重要文化財に指定、現在は観音ミュージアムで収蔵・展示されています。
現在の梵鐘は昭和59 年に新鋳されたもので、毎朝時を告げる鐘として鎌倉市民に親しまれています。

さて、いよいよ長谷寺の核心部です。


【写真 上(左)】 阿弥陀堂
【写真 下(右)】 阿弥陀堂の扁額

二層の楼閣の阿弥陀堂。
こちらに奉安の阿弥陀如来坐像は、源頼朝公が42 歳の厄除け祈願のために造立と伝わり「厄除阿弥陀」とも呼ばれます。
本像は近隣に所在した旧誓願寺の御本尊だったとされ、鎌倉六阿弥陀霊場の札所本尊となっています。


【写真 上(左)】 阿弥陀仏
【写真 下(右)】 本堂(観音堂)


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂(観音堂)入口

本堂(観音堂)も二層楼閣の堂々たる堂宇で、堂内にて参拝できます。
御本尊の十一面観音菩薩立像は像高9.18m、台座を数えると12mにも及び、木造では最大級の仏像とされます。

頭上に十一の尊顔、右手に錫杖、左手に花瓶を執られ、磐座に立たれる「長谷寺式十一面観音菩薩」です。
堂内右手には、弘法大師坐像が御座され、おそらくこちらが相州二十一ヶ所霊場札所本尊とみられます。

観音堂は幾度となく再建され、関東大震災でも甚大な被害を受けましたが、昭和61年再建がなっています。


【写真 上(左)】 長谷観音の扁額
【写真 下(右)】 観音ミュージアム

観音ミュージアムでは、数々の寺宝が観音菩薩信仰の教義とあわせ展示されています。
十一面観音菩薩立像(前立観音)は御本尊の前に祀られていた尊像で、江戸時代の造立と
されますが、行基作とも伝わる旧像の再興仏のようです。

三十三応現身像は室町時代造立とみられ、足利義政公の寄附とも伝わり鎌倉市指定文化財です。
長谷寺縁起絵巻は制作年(弘治三年(1557年)が判明する唯一の資料として神奈川県指定文化財となっています。

開山徳道上人坐像、「長谷寺」の寺号が確認できる最古(文永元年(1264年))の梵鐘や十一面観音懸仏なども展示されています。
観音ミュージアムサイトについては、→ こちらをご覧ください。


【写真 上(左)】 見晴台からの眺望-1
【写真 下(右)】 見晴台からの眺望-2

海側にせり出すようにある見晴台からは鎌倉の街並みと由比ガ浜、三浦半島から伊豆大島まで見渡せる眺望が楽しめ、その隣にある飲食所「海光庵」とともに人気スポットとなっています。


【写真 上(左)】 海光庵
【写真 下(右)】 上境内

山際に寄ったところに経蔵(輪蔵)。
輪蔵とは堂内の回転式書架で、中には一切経(大蔵経)が収められており、書架を一回転することで一切経をすべて読誦した功徳が得られるとされます。
輪蔵は正月三が日、8月10日(四萬六阡日)など特定の日のみ回すことができます。


【写真 上(左)】 経蔵
【写真 下(右)】 経蔵の向拝


【写真 上(左)】 経蔵の扁額
【写真 下(右)】 輪蔵

なお、観音ミュージアム前には四天王が御座しますが、主尊は複雑な印相につき不明です。


【写真 上(左)】 四天王と主尊
【写真 下(右)】 眺望散策路入口

経蔵からさらに登ると三段目の眺望散策路です。
平成のはじめに紫陽花が植栽され、いまでは40種類以上、約2500株の紫陽花が咲く鎌倉有数の紫陽花スポットとなっています。
ここからは見晴台を凌ぐ眺望が楽しめます。


【写真 上(左)】 散策路からの眺望-1
【写真 下(右)】 散策路からの眺望-2


御朱印は本堂(観音堂)で拝受できます。
混雑するので、前に御朱印帳をお預けし番号札をいただいて参拝後に受け取るのがベターかと思います。
また、複数の霊場札所を兼ねておられるので、霊場御朱印の申告は必須となります。


〔 長谷寺の御首題・御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印(造立千三百年記念)
【写真 下(右)】 坂東三十三箇所(観音霊場)の御朱印

 
【写真 上(左)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉六阿弥陀霊場の御朱印

 
【写真 上(左)】 相州二十一ヶ所霊場の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉・江ノ島七福神(大黒天)の御朱印


■ 鎌倉市の御朱印-20 (C.極楽寺口-3)へつづく。



【 BGM 】
■ 空が凪いだら/After Calm - 凪葵(Nagi)


■ Sign - 幾田りら


■ おはよう、僕の歌姫 -Happy End Ver. - Covered by Cereus
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■ 鎌倉市の御朱印-18 (C.極楽寺口-1)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)
■ 同-15 (B.名越口-10)
■ 同-16 (B.名越口-11)
■ 同-17 (B.名越口-12)から。


市内各所に寺社が立地する鎌倉市ですが、鎌倉駅西の市役所通りから由比ヶ浜にかけての御成町、和田塚、笹目町エリアは一種の寺社空白地帯となっています。

ここからは西に転じて長谷、極楽寺、腰越方面の寺社を「極楽寺口」としてくくりまとめていきます。


51.甘縄神明宮(あまなわしんめいぐう)
鎌倉公式観光ガイドWeb

鎌倉市長谷1ー12ー1
主祭神:天照大御神
旧社格:村社、神饌幣帛料供進神社
元別当:甘縄院(臨済宗妙心寺末)

甘縄神明宮は、甘縄神明神社とも呼ばれ鎌倉市最古の神社とされています。

鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料などから縁起沿革を追ってみます。

甘縄神明宮は、和銅三年(710年)行基菩薩の草創、染谷太郎太夫時忠の創建と伝わり、鎌倉最古のお社といわれます。

「鎌倉史跡・寺社データベース」様によると、「染屋太郎大夫時忠邸址碑」(鎌倉市長谷2-4-6)には、「染屋太郎太夫時忠は藤原鎌足の玄孫にあたり、南都の東大寺・良弁僧正の父であり、文武天皇の御時より聖武天皇の神亀年間に至る間、鎌倉に居住し、関東八国の僧追捕使となって、東夷を鎮め、由比の長者と称された(中略)甘縄新明宮の別当甘縄院は時忠の開基であるという」との旨の碑文がみえるとのこと。

東大寺の開山・良辨僧正(689-774年)の父で、関東八国の僧追捕使とは相当な大物です。
「鎌倉むかし物語」様の「由比の長者」では、由井の里の長者・染屋太郎太夫時忠の娘が鷲にさらわれたという逸話が紹介されています。
良辨僧正も幼い頃鷲にさらわれたという逸話が残り、なんらかの関連を示唆しています。

『新編相模國風土記稿』にも、甘縄神明宮の別当神興山甘縄院は、天平年中(729-749年)行基の草創にして開基は染谷太郎太夫時忠とあります。

『鎌倉市史 社寺編』には、源頼義公(河内源氏2代、988-1075年)が相模守として下向の折に上野介直方の女を娶り、当社に祈って八幡太郎義家公を甘縄の地に生んだと伝えるとあります。

平上野介直方は平忠常の乱(長元元年(1028年))の際、討伐に赴いた桓武平氏国香流の軍事貴族で、鎌倉に所領を得て居館を構えたといいます。

長元三年(1030年)、源頼信公・頼義公父子は忠常を降伏させ、頼義公は長元九年(1036年)相模守に任ぜられ相模国に下向しました。

当時、鎌倉には平直方が拠っていましたが、直方は自身が平定できなかった忠常を頼義公が降伏させたことを尊んで、息女を輿入れさせ、鎌倉・大蔵の拠点と在鎌倉の郎党を譲り渡したといいます。

頼義公は直方の息女とのあいだに、八幡太郎義家公、賀茂次郎義綱公、新羅三郎義光公の3人の子息をもうけました。
通説では、義家公は河内國石川郡壺井(現・大阪府羽曳野市)の香炉峰の館に生まれたとされますが、『鎌倉市史 社寺編』には「(義家公は)当社(甘縄神明宮)に祈って八幡太郎義家を甘縄の地に生んだと伝える。」とあります。

また、『神奈川県神社誌』には、「康平六年(1063年)(頼義公が)当社を修復、義家も永保元年(1081年)に修復を加えた」とあります。

八幡太郎義家公生誕の地とすると、そこは源家の聖地です。
頼朝公は甘縄神明宮を尊崇してしばしば参詣し、文治二年(1186年)10月には社殿を修理監督し、落慶の行事に自ら臨んでいます。

『吾妻鏡』には、北条政子や3代将軍源実朝公の参詣も記されています。
北条政子は鶴岳宮(鶴岡八幡宮)と甘縄明神(甘縄神明宮)を同日に参詣しています。(「 文治五年(1189年)十月十七日、御臺所御参詣鶴岳宮幷甘縄明神」)
『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)には「是(甘縄神明宮)は古へより伊勢の別宮」とあります。

『承久記』には「日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひ」と記され、伊勢の天照太神、八幡大菩薩(八幡神)はすこぶる重要な神として尊崇されていたことがわかります。

気になるのは実朝公参詣の條に「建保三年(1215年)四月二日、令詣甘縄神明幷日吉別宮等給」とあることです。
つまり、実朝公は甘縄の甘縄神明宮と日吉別宮(山王社)を同時に詣でています。

『新編相模國風土記稿』の(甘縄)山王社の條には「大佛陸奥守貞直の勧請と云ふ」とあります。
大佛貞直(元弘三年(1333年没)は鎌倉末期の北条一門で、実朝公(1192-1219年)とは時代が合いません。

実朝公は大佛貞直勧請前の日吉別宮(山王社)に参詣していたことになり、この点は『風土記稿』の筆者も気になったらしく「思ふに(山王)社は古くより、此に在て、貞直が再興勧請せしなるべし」との説を展開しています。

甘縄神明宮周辺には、安達藤九郎盛長の屋敷があったとされます。(異説あり)

安達氏は藤原氏魚名(山蔭)流ともされますが、安達盛長の父は小野田兼広とも小野田兼盛とも伝わり、小野田姓のようですが詳細不明です。

安達盛長の兄は藤原遠兼とされ、父親の小野田姓から藤原姓に復姓も考えられますが詳細不明。
しかも弟の盛長は安達姓を名乗っており、どうも整理がつきません。
また、藤原遠兼の子は足立遠元で、土着した武蔵国足立郡から名乗ったとされるので、安達氏、足立氏の系譜はわかりにくくなっています。

安達盛長は生え抜きの東国武将とはいい難いですが、源頼朝公の乳母・比企尼の長女・丹後内侍を妻とし、旗揚げ前から源頼朝公の信任を得ていたと伝わります。

丹後内侍はもとは京で二条院に女房として仕え、官吏や右筆の招聘窓口となっていたとみられ、頼朝公の初期右筆・藤原邦通は、丹後内侍のルートで招かれたといいます。
一説には、伊豆で頼朝公と北条政子の仲をとり持ったのは盛長だとも。

治承四年(1180年)8月の頼朝公挙兵に従い、石橋山の戦いの後に頼朝公とともに安房に逃れ、下総国の豪族・千葉常胤を説得して味方につけたとされます。
頼朝公鎌倉入りののち、元暦元年(1184年)頃から上野国奉行人となり、文治五年(1189年)奥州合戦に従軍して戦功をあげ、陸奥国安達郡と出羽国大曽根荘を賜わりました。

盛長は、『吾妻鏡』では”藤九郎(盛長)”と記されることが多く、だとすると安達の名字は所領の”安達郡”由来かもしれません。

甥とされる足立遠元は武蔵国足立郡に確かな拠点を築いており、代表的な武蔵武士として知られています。
盛長と足立遠元の関係はよくわかりませんが、遠元は武官、盛長は頼朝公側近として協力しつつ頼朝公を支えていたのかもしれません。

幕府開府後も頼朝公の信任厚く、甘縄にあった盛長邸を頼朝公がしばしば訪れた記録が残ります。
文治二年(1186年)6月、丹後内侍罹病の際、頼朝公は盛長邸に丹後内侍を見舞っているので、盛長・丹後内侍夫婦と頼朝公の私的なつながりが強かったかと。

『吾妻鏡』には「還向便路藤九郎盛長屋敷」という記載があり、「還向」は神仏に参詣して帰ること、「便路」は便利な道を指すので、盛長邸への頼朝公来訪は甘縄神明宮参詣を兼ねた側面もあったかと思います。

正治元年(1199年)1月の頼朝公逝去後、出家して蓮西と名乗りましたが、同年4月、2代将軍・源頼家公の宿老として十三人の合議制の一人となり幕政に参画しています。
梶原景時の弾劾(梶原景時の変)でも大きな役割を担ったとされますが、生涯無位無官のままとみられています。

「神明様」(しんめいさま)と呼ばれ、長谷の鎮守として鎌倉の庶民にも尊崇された甘縄神明宮は、明治6年村社に列格し、明治20年、長谷寺の鎮守であった五社明神社(神明・春日・白山・稲荷・天神)を合祀しています。
関東大震災で本殿は半潰、拝殿は全潰しましたが、昭和12年に再建されています。

なお、別当の神輿山甘縄院は山下にあり、当初は神輿山円徳寺を号しました。
和銅三年(710年)八月行基の草創といい、染屋時忠が山上に神明宮、麓に神輿山円徳寺を建立開基と伝わります。
京都妙心寺末の臨済宗寺院で御本尊は地蔵菩薩。

中興は京都妙心寺の独園和尚(宝永六年(1709年)寂)で、伝来の義家公木像を修復したといいます。
明治の神仏分離により甘縄院は廃されています。


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【史料・資料】
『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
甘縄明神
甘(甘或作海女)縄明神は、佐佐目谷の西、路の北にある茂林なり。天照大神を勧請す。神主は小池氏也。【東鑑】に、文治二年(1186年)正月二日、二品(頼朝)幷に御臺所、甘縄神明の宮に御参とあり。又甘縄明神奉幣の事、往々見へたり。里俗或は誤てたまなはと云者あり。(中略)此地より西の方は長谷村也。東北の山に隋て、無量寺谷まで甘縄の内なり。

塔辻
里俗の云、由井長者太夫時忠と云者、三歳の児を鷲につかまれ、方々尋求て、道路に棄たる骨肉のある所ごとに、是や我子の骨肉ならんかとて、菩提の為に立たる石塔也。(中略)大織冠の玄孫に、染谷太郎太夫時忠、南都良辨の父也。文武天皇の御宇より、聖武天皇の御宇に至るまで鎌倉に居住し、東八箇國の總追捕使となりて、東夷を鎮むとあり。是ならんか。然れども未詳。良辨の父とはいへども、【元亨釋書】にも不載。【釋書】に、良辨は近州志賀里人、或は相州の人とも云と有。又鷲につかまれし事もあれば、相似たるにや。

藤九郎盛長屋敷
甘縄明神の前、東の方を云。【東鑑】に、治承四年(1180年)十二月廿日、武衛御行始めとして、藤九郎盛長が、甘縄の家に入御し給ふとあり。其後往々見へたり。

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
甘縄神明宮
佐々目が谷の西の路北に、樹木茂りたる社地なり。是は古へより伊勢の別宮と称し、【東鑑】にも記せり。神主小池氏。文治二年(1186年)正月二日、二品(頼朝)並に御臺所、甘縄神明宮御参とあり。其後も奉幣の事往々出たり。地名を甘縄と号するゆへ、宮号にも古く唱へ来れり。又同年十月廿日甘縄神明寶殿修理せられ、今日四面に荒垣をゆひ、幷鳥居を建らる。盛長の沙汰とし、二品監臨と給ふ。(以下略)

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
神明宮
【東鑑】に伊勢別宮とある是なり 里俗は甘縄明神と唱ふ神躰は義家の守護神と云伝へ秘して開扉を許さず、義家の木像をも安ぜり、長一尺五寸、束帯の坐像なり、文治二年(1186年)正月頼朝当社に参詣あり
【東鑑】曰、文治二年(1186年)正月二日、二品幷御臺所、御参甘縄神明宮、以御還向便路藤九郎盛長屋敷 是歳十月社殿を修理し(中略)文治五年(1189年)十月十七日、御臺所御参詣鶴岳宮幷甘縄明神(中略)建保三年(1215年)四月實朝参詣あり
建保三年(1215年)四月二日、令詣甘縄神明幷日吉別宮等給、御還向之次、入御安達右衛門尉景盛家、今当村の鎮守にして年々九月十六日神事あり。
末社 疱瘡神 稲荷四

別当甘縄院
神興山と号す、臨済宗京都妙心寺末 本尊地蔵を安ず、天平年中(729-749年)行基の草創にして開基は染谷太郎太夫時忠と云ふ、境内より江山臨眺の景尤佳なり

山王社
光則寺持 大佛陸奥守貞直が勧請と云ふ 按ずるに、【東鑑】建保三年(1215年)の條に、甘縄神明幷日吉別宮等に、参詣せしめ、還路の次、安達右衛門尉景盛が家に、入御ありと見ゆ、景盛が亭跡、神明社の東にあり、さては日吉の別宮と云ふ、当社なるべし、されど大佛貞直が、勧請と云ふ、合期せず、貞直は、北条陸奥守宣時が三男、民部少輔宗泰が子にて、元弘三年(1333年)五月、由井濱の戦に討死す、建保を距る事、百年に過たりさては時代合せず、思ふに社は古くより、此に在て、貞直が再興勧請せしなるべし

神奈川県神社誌(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
祭神 天照大御神
境内社 五社明神(天照大御神 倉稲魂命 伊邪那美命 菅原道真公) 秋葉社
社殿 本殿(神明造銅板葺)一棟一宇 幣殿 拝殿(入母屋造銅板葺・千木・鰹魚木・向拝付)二棟一宇
境内坪数 127.04坪

『相州鎌倉郡神輿山甘縄寺神明宮縁起略』(正徳二年(1712年)銘)によれば、和銅三年(710年)八月行基の草創になり、染屋太郎時忠が山上に神明宮、麓に神輿山円徳寺を建立したことにはじまるという。
また源頼義が当社に祈って八幡太郎義家を当地に生み、康平六年(1063年)当社を修復、義家も永保元年(1081年)に修復を加えたという。

『吾妻鏡』によれば、伊勢別宮として源頼朝が崇敬し、文治二年(1186年)十月社殿を修理し、四面に荒垣及び鳥居を建て、また建久五年(1194年)までに三度参詣している。夫人政子は二度、実朝も一度参詣している。
『相模風土記』には「神明宮、里俗甘縄明神と唱う」「別当臨済宗甘縄院」とある。
明治維新の神仏分離により、別当甘縄院は廃絶し、神明宮は明治六年十二月村社に列格され、明治二十年五月、五社明神社を合併し、明治四十年四月神饌幣帛料供進神社に指定された。
昭和七年社号を甘縄神明神社と改称した。旧社殿は大正十二年の関東大震災に倒潰し、現社殿は昭和十二年九月新築復興した。長谷区の氏神社である。
宝物 神輿・一基、義家座像・一体

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
甘縄神明神社
もとは神明社或は神明宮と称したが昭和七年九月二十一日、今の名に改めた。
祭神は天照大御神のほか倉稲魂命・伊邪那美命・武甕槌命・菅原道真公を配祀する。例祭九月十四日。元指定村社。長谷の鎮守。境内地127.04坪。
本殿・拝殿・摂社稲荷社・社務所・神輿庫等あり。(中略)
勧請年月未詳。『吾妻鏡』によれば、伊勢別宮であり、源頼朝は三度、政子は二度、実朝は一度参詣しており、文治二年(1186年)十月二十四日には社殿を修理し、四面に荒垣及び鳥居を建て、頼朝自らその場に臨んだことがわかる。

いま社蔵する『相州鎌倉郡神輿山甘縄寺神明宮縁起略』の写しによれば、ここは和銅三年(710年)八月行基の草創で、染屋時忠が山上に神明宮、麓に神輿山円徳寺を建立し、後源頼義が相模守として下向、上野介直方の女をめとり、当社に祈って八幡太郎義家を甘縄の地に生んだと伝える。
また中興は宝永六年(1709年)六月二十六日に寂した京都妙心寺の独園和尚で、社殿・寺舎を造替し、弟子瑞峯祖堂を住持とし、また義家の像を修復させたという。(中略)
この寺を別当甘縄院といい、その本尊は地蔵であった。神仏分離により寺は廃滅したという。いまは寺の痕跡もない。
明治二十年五月二十五日、長谷寺の鎮守であった五社明神社、祭神は神明・春日・白山・稲荷・天神を合祀している。
大正十二年の震災で本殿半潰、拝殿全潰し、昭和十二年九月新築した。

甘縄神明神社がここにまつられた理由は、此の地が大庭御厨の飛地であったか、或は大庭氏の一族梶原氏、鎌倉氏などの地であったことによると思われるが、(以下略)

■ 境内掲示(甘縄神明神社略誌)(抜粋)
御祭神
天照大神
伊邪那岐尊(白山) 倉稲魂命(稲荷)
武甕槌命(春日) 菅原道真公(天神)

御由緒
和銅三年(710年) 染屋太郎太夫時忠の創建です
永保元年(1081年) 源義家公が社殿を再建せらる
源頼朝公政子の方實朝公など武家の崇敬が篤く 古来伊勢別家と尊称せられている鎌倉で最も古い神社です。
社殿の裏山は御輿ヶ嶽(見越ヶ嶽とも書く)と云い古くから歌によまれています
源頼義は相模守として下向の節 当宮に祈願し一子八幡太郎義家が生まれたと伝えられています

 都にははや吹ぬらし 鎌倉の御輿ヶ崎 秋の初風


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江ノ電「長谷」駅から鎌倉大仏高徳院にかけては、平日も観光客で賑わう鎌倉きっての観光スポットです。
しかし「長谷観音前」から鎌倉駅方面への神奈川県道311号鎌倉葉山線(旧大町大路)に入る観光客は多くはありません。

源氏や頼朝公とふかいゆかりをもつ甘縄神明宮ですが、訪れる観光客はさほど多くないとみられます。
実際、筆者の参拝時も「長谷」駅から大仏にかけてはかなりの雑踏でしたが、甘縄神明宮は終始筆者のみの参拝でした。


【写真 上(左)】 県道からの参道
【写真 下(右)】 社号標-1

県道から目立たない路地を山側に入るので、知らない観光客はまず気づきません。
県道沿いの木の社号標の文字は消えかかっていますが、かろうじて「長谷鎮守 甘縄神明宮」と読めます。(Web記事によるといまは新しくなっている模様。)


【写真 上(左)】 鳥居
【写真 下(右)】 社号標-2


【写真 上(左)】 参道-1
【写真 下(右)】 参道-2

民家の間を進む参道の正面に石造の神明鳥居、その横にも社号標があります。
鳥居をくぐった右手にさらに社号標があり、ここから石段まじりの参道が伸びています。
ひとつめの石段右手には鎌倉町青年団による「安達盛長邸址」の石碑。
参道脇の「玉縄桜」は有名なようで、ソメイヨシノより早く咲くそうです。


【写真 上(左)】 「安達盛長邸址」の石碑
【写真 下(右)】 手水舎


【写真 上(左)】 参道-3
【写真 下(右)】 神輿庫

その先の左手に立派な手水舎。
石灯籠一対を抜けると急な石段がはじまります。
階段上り口の左手には8代執権・北条時宗公産湯・二條公爵愛用の井があり、子宝や子供の健やかな成長に御利益があるそうです。


【写真 上(左)】 参道-4
【写真 下(右)】 拝殿

登った正面が拝殿で、殿前に立派な狛犬一対。
ここまでくるとまわりはうっそうとした社叢で、神さびた雰囲気に包まれています。
拝殿からは長谷の町と由比ガ浜が一望できます。


【写真 上(左)】 斜めからの拝殿
【写真 下(右)】 拝殿扁額

拝殿は切妻造銅板葺流れ向拝で、急な屋根勾配と照りのバランスがよく、棟には千木と鰹魚木をおいて引き締まったイメージ。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、中備に本蟇股を置き、向拝見上げに社号扁額を掲げています。

拝殿背後に奥まった石垣上の山際には本殿があります。
こちらの様式は不明ですが青銅葺の棟に千木と鰹魚木をおき、照り気味の屋根のフォルムが秀麗。


【写真 上(左)】 本殿
【写真 下(右)】 秋葉神社への参道

俯瞰写真がなく位置関係が不明ですが、おそらく拝殿よこに五社神社、拝殿向かって右手の急な階段を登ると火防御守護の秋葉神社が御鎮座。

五社神社は明治20年5月、長谷寺の鎮守であった五社明神社(御祭神、神明・春日・白山・稲荷・天神を合祀)を御遷座のお社です。


【写真 上(左)】 五所神社
【写真 下(右)】 五所神社の扁額


【写真 上(左)】 秋葉神社
【写真 下(右)】 秋葉神社の扁額

近くには川端康成の旧宅があり、小説「山の音」に登場する神社として描かれているとのこと。

境内には「当宮では御朱印は行っておりません」の掲示がありますが、筆者は大町の八雲神社にて拝受しています。
ただし、現在も授与されているかは不明です。




〔 甘縄神明宮の御朱印 〕




52.獅子吼山 清浄泉寺 高徳院(こうとくいん/鎌倉大仏)
公式Web
鎌倉公式観光ガイドWeb

鎌倉市長谷4-2-28
浄土宗
御本尊:阿弥陀三尊
司元別当:
札所:鎌倉三十三観音霊場第23番、鎌倉六阿弥陀霊場第1番

鎌倉大仏は鎌倉唯一の国宝です。
「鎌倉大仏」の方が通りでいいですが、正式には大異山高徳院清浄泉寺を号し、大仏は高徳院の御本尊です。

鎌倉大仏(高徳院)については膨大な史料・資料がみつかるので、公式Web『新編鎌倉志』 『新編相模國風土記稿』文化遺産オンライン、山内掲示などに絞ってまとめます。

記事ネタも膨大なので、適宜端折っていきます。
鎌倉大仏の特徴については、こちらをご覧ください。

『吾妻鏡』などによると、鎌倉大仏は建長四年(1252年)8月に鋳造を始めた金銅の「八丈釈迦如来像」であるといい、文永元年(1264年)8月以前に完成とみられ、当初は大仏殿も備えていました。

しかし造立当時の史料に乏しく、尊像の(原型)作者すら特定されていません。
また、寺院の開基・開山も不詳です。

『吾妻鏡』の通常の書きぶりからすると、これほどの大事業を幕府が支援したとすると詳細な記述を残す筈ですが、大仏の造立開始について記すのみで、この点も鎌倉大仏のナゾを深める一因となっています。

鎌倉大仏の前身寺院については、別当であった高徳院からたどるのが有効です。
『新編相模國風土記稿』の「別当高徳院」の條には、天平年中(729-749年)に行基菩薩がこの地に浄泉寺を開基し、高座郡の国分寺との関係を示唆する記述があります。
全国の国分寺の大もとは大和国の東大寺(華厳宗)ですから、この説を信じると創立時は華厳宗系列ということになります。

じっさい、高徳院山内入口の石碑には「聖武帝艸創東三十三箇國總國分寺」と彫られていますが、『新編相模國風土記稿』では「往古の國分寺跡とするは非なり」と断じています。

さらに史料には「此地もと真言宗」とあり「建長寺持分」とあるので、真言宗から臨済宗建長寺末に転じた可能性があります。

『新編相模國風土記稿』は「【東鑑】に暦仁元年(1238年)、大佛造立の事を載せ、之より梵刹ありし事、初見なし、且舊は建長寺の持なりしと云へば、古より清浄泉寺の有しと云ふ疑べし」とし、「寺号を云はざれば、明證を得がたし、今本文起立の事、姑く寺伝に従ふ」として、前身寺院についてはサジを投げた感じの書きぶりとなっています。
(【建長寺過去帳】には「大佛開山、大素和尚諱は素一とあり。素一は中興開山なりと云ふ。」とあるようです。)

なお、『吾妻鏡』には、暦仁元年(1238年)、深沢の地(現・大仏所在地)にて僧・浄光の勧進により大仏堂建立が始められ、寛元元年(1243年)に開眼供養が行われ、大仏は木造であったという記述がありますが、上記の建長四年(1252年)造立開始の金銅の「八丈釈迦如来像」を現在の鎌倉大仏とし、「釈迦如来」は「阿弥陀如来」の誤記と解釈するのが定説です。
なお、現地掲示には源頼朝公の侍女・稲多野局(いたののつぼね)が発起し、僧・浄光の勧進で造ったとあります。

ときどき「大仏はお釈迦さまですか?」と訊く人がいますが、大仏の定義は「大きな仏像」なので、阿弥陀さまもいれば観音さまもいます。
日本の主な大仏(Wikipedia)
ちなみに、奈良の大仏は毘盧遮那仏、牛久大仏は阿弥陀如来、上野大仏は釈迦如来です。

鎌倉大仏は阿弥陀如来とされていますが、釈迦如来、あるいは毘盧遮那仏としている史料もあります。

山内の与謝野晶子歌碑
かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな
では、鎌倉大仏は釈迦牟尼(釈迦如来)として詠みこまれています。

鎌倉公式観光ガイドWebには「大仏のところどころに金箔が残っているのをわずかに見ることができますが、つくられた当時は、これが全部に施されていたといいます。」とあります。
長谷の山裾の緑に映える黄金の大仏は、多くの人々の尊崇を集めたと思います。

大仏殿は嘉元三年(1305年)頃に倒壊し、元徳元年(1329年)再建したものの建武元年(1334年)に大風で倒壊。応安二年(1369年)にも大風で倒壊し以降は再建の記録がないとされ、以降は「露坐の大仏」となりました。
明応七年(1498年)の大地震で損壊との記録もあって、鎌倉大仏の歴史はまさに災害の歴史です。

鎌倉大仏は南北朝期から江戸前期にかけて建長寺の管理下に置かれていたといいます。
現地掲示によると、大仏殿、大仏寺、鎌倉大仏寺などと呼ばれていたとのこと。

元禄十六年(1703年)の大地震で破損しましたが、正徳二年(1712年)に浅草の豪商・野島新左衛門(泰祐)から寄進を受け、正徳年間(1711-1716年)に増上寺祐天上人によって復興され、別当は新左衛門の法名から高徳院と命名されたといいます。
よって、臨済宗から浄土宗に転じたのは正徳年間(1711-1716年)とみる説があります。

祐天上人は浄土宗の名刹・光明寺の「奥之院」として位置づけたといい、享保十八年(1733年)大仏を復興し開眼供養を行った養国上人が、高徳院の初代住職となっています。

江戸時代末期まで、鎌倉大仏の別当・高徳院の御本尊は、惠心作とも伝わる長一尺五寸の阿弥陀如来木像であったとみられます。
つまり、山内には鎌倉大仏である阿弥陀如来金銅仏(露仏)と、別当高徳院の御本尊である阿弥陀如来木像が安されていたことになります。

山内には鎮守社である八幡・春日・雨寶童子三神合殿、秋葉社、天神社、辨天社、疱瘡神社が御鎮座され、神仏習合の様相を呈していたとみられます。

江戸時代初期には欧州からの宣教師や平戸商館長などが訪れているので、この当時から鎌倉の名所であったことがわかります。
安政六年(1859年)に横浜港が開港、外国人居留地の外国人の出向範囲が40km程に制限されたため、範囲内の鎌倉は行楽地として人気を集め、なかでも鎌倉大仏はマストスポットだったようです。

鎌倉大仏(国宝銅造阿弥陀如来坐像)は高徳院の御本尊で像高約11.3m、重量約121t の巨像です。
数々の災害に見舞われながらもほぼ造立当初の像容を保ち、わが国の仏教芸術史上すこぶる重要な価値を有することから国宝に指定されています。


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【史料・資料】

『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
大佛
大異山浄泉寺と号す。此所を深澤と云。大佛の坐像、長三丈五尺、膝の通りにて横五間半、袖口より指の末まで二尺七寸余あり。建長寺持分なり。
【東鏡】曰、暦仁元年(1238年)三月廿三日、相模國深澤里大佛殿の事始なり。僧浄光、尊卑緇素を勧請して、此営作を企つ。
同五月十八日、大佛の御頭擧奉る。周八丈あり。(中略)
寛元元年(1243年)六月十六日、深澤村に一宇の精舎を建立し、八丈餘の阿彌陀の像を安す。今日供養をのぶ。導師は、卿の僧正良信、讃衆十人、勧進の聖人浄光坊、此六年の間都鄙を勧進す。卑尊を奉加せずと云事なしとあり。是皆頼経将軍の時也。

又建長四年(1252年)八月十七日、深澤里にて釋迦如来の像を鋳奉ると有。宗尊親王の時なり。

今の銅佛是なりと云ふ、或云此銅像も何の頃にや亡失し、今の大佛は廬舎那佛なり、此佛を改め造りし来由は詳ならずと云ふ、今何れが是なるを知らず、暫く異同を注して、考證に備ふ(中略)

源親行【東関紀行】に、由比の浦に阿彌陀の大佛を作りたてまつる。事の起りを尋ぬるに、本は遠江國人浄光と云者有。過にし延應(1239-1240年)の比に関東尊卑を勧て佛像を作る。此阿彌陀は八丈の長、木像也とあり。按ずるに暦仁元年(1238年)に、浄光造作の像も八丈の阿彌陀佛とあり。延應は暦仁の次の年なり。所謂六年の内なれば【東鑑】に符合せり。其佛は何れの時か滅亡して、今の大佛は金銅廬遮那佛なり。【東鑑】に所謂、建長四年(1252年)に鋳たる佛か。堂なし。(中略)
【建長寺過去帳】に、大佛開山、大素和尚諱は素一とあり。素一は中興開山なりと云ふ。

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(長谷村)大佛・獅子吼山(寺は大異山と号す)
清浄泉寺と号す、金堂の廬舎那仏なり(注釈略)
彌陀(木像長一尺二寸、天竺傳来と云ふ)を腹籠とす、抑当佛殿は沙門浄光普く募縁して営作を企て、暦仁元年(1238年)三月遂に此地に新造の事始あり 【東鏡】曰、暦仁元年(1238年)三月廿二日、相模國深澤里、大佛堂事始也、僧浄光令勧進、尊卑緇素、企此営作云々
五月大佛の妙好相始て成る 五月十八日、相模國深澤里大佛御頭奉擧之、周八丈也(中略)
寛元元年(1243年)六月落成して供養あり(寛元元年(1243年)六月十六日深澤村建立一宇精舎、安八丈餘阿彌陀像、今日展供養導師卿僧正良信、讃衆十人、勧進聖人浄光房、此六年之間勧進都鄙卑尊莫不奉加 
此時造立の佛像は木像なり(注釈略)

建長四年(1252年)八月改て金銅の佛像を鑄る 【東鑑】曰、建長四年(1252年)八月十七日、今日、当彼岸第七日、深澤里奉鑄始金銅八丈釋迦如来像、按ずるに、是宗尊親王の時にして、今の銅佛是なりと云ふ、或云此銅像も何の頃にや亡失し、今の大佛は廬舎那佛なり、此佛を改め造りし来由は詳ならずと云ふ、今何れが是なるを知らず、暫く異同を注して、考證に備ふ(中略)

明應四年(1495年)八月由井濱の海水激奔して又佛殿破壊に及べり 其後はたゞ礎石のみを存して佛像は露座せり(中略)今に至て猶堂再建に及ばず(略)
古は建長寺の持なりしが今は別当を置て高徳院と云ふ
鎮守社 八幡・春日・雨寶童子三神を合祀す
秋葉社 天神社 辨天社 疱瘡神社
仁王門 獅子吼山の額を掲ぐ、
國分寺碑 聖武帝艸創東三十三箇國總國分寺と彫す、往古の國分寺跡とするは非なり、事は高徳院の條に辨ず

別当高徳院
浄土宗 材木座村光明寺末 此地もと真言宗、浄泉寺の舊趾にて其先天平年中(729-749年)行基浄泉寺を開基しけるに 其後星霜を経て明應年中(1492-1501年)廃寺となり
按ずるに所蔵に、正喜二年九月、勝壽院別當、權少都最信が記せし、清浄泉寺建立序次之記の写曰、艸創本願聖武帝也、天平九年(737年)丁丑三月、創建東國總國分寺、斯乃東之國分寺、建立之權輿也、内道場之本尊、釋迦・薬師・觀世音之三尊(中略)開山沙門行基菩薩、以本願皇帝・行基菩薩・良辨僧正・菩薩僧正之四哲、以称國分寺草創同心之四聖(中略)
按ずるに、今高座郡國分寺に、國分寺の舊蹟あり、彼條に詳なり、当寺を東國總國分寺と云、最非り、浮屠氏の妄誕往々此の如し、又按ずるに、【東鑑】に暦仁元年(1238年)、大佛造立の事を載せ、之より梵刹ありし事、初見なし、且舊は建長寺の持なりしと云へば、古より清浄泉寺の有しと云ふ疑べし、【注畫賛】に、文應元年(1260年)十月十一日、通状遣十箇所、所謂建長寺道隆、極楽寺良觀、大佛別当云々也、と見えたれば、其頃別当ありしと覚ゆれど、寺号を云はざれば、明證を得がたし、今本文起立の事、姑く寺伝に従ふ)

大佛のみ有しを近世正徳年間(1711-1716年)増上寺主顯譽祐天再興の志を発せしに江戸神田に在る商買、野島新左衛門祐天に帰依し、資財を捨て共に当寺を興立し、山号を獅子吼と改め寺号は清浄泉寺の舊に從ひ、宗旨を改て光明寺の末に屬す、故に祐天を中興の開祖とし、松参詮察を第二世とし新左衛門を中興の開基とす

本尊彌陀 木像長一尺五寸、惠心作を安ず、又同像(是も惠心作、座像五十五分)及び愛染(行基の作なり、宗尊親王、大佛傳前に一宇を建て、安ぜし像なりと云ふ)の像を置く(略)

■ 山内掲示(国宝鎌倉大佛因由)(抜粋)
この大佛像は阿弥陀仏である。源頼朝の侍女であったといわれる稲多野局(いたののつぼね)が発起し、僧浄光が勧進(資金集め)して造った。零細な民間の金銭を集積して成ったもので、国家や王侯が資金を出して作(ママ)ったものではない。
始めは木造で暦仁元年(1238年)に着工し六年間で完成したが、宝治元年(1247年)大風で倒れたので、再び資金を集め、建長四年(1252年)に至って現在の青銅の像を鋳造し、大仏殿を造って安置した。(中略)大仏殿は建武元年(1334年)と應安二年(1369年)とに大風に倒れ、その都度復興したが、明應七年(1498年)の海潮に流失以来は復興せず、露像として知られるに至った。(略)

■ 山内掲示(鎌倉市教育委員会)(抜粋)
高徳院本尊の「鋳造阿弥陀如来坐像」は鎌倉大仏とも呼ばれ、国宝に指定されています。
日本有数の銅造大仏で、建長4年(1252年)に鋳造を始めたと史料にみえる「金銅八丈釈迦如来像」がこの大仏であるとされています。
完成時期はわかっていませんが、文永5年(1268年)ごろまでには大仏殿も建てられていたと考えられ、管理していた寺院は大仏殿、大仏寺、鎌倉大仏寺などと呼ばれていました。
大仏殿は災害により何度か倒壊し、その度に大仏の修理が行われたようです。(中略)
大仏は15世紀末以降、現在と同じように露坐となり、相次ぐ災害によって荒廃しました。
高徳院は、正徳二年(1712年)に増上寺の祐天上人、浅草の商人・野嶋新左衛門らが大仏の復興を発願して建立した寺院です。復興された大仏の開眼供養は、天文二年(1737年)に高徳院住職の養国上人によって行われ、今に至っています。


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江ノ電「長谷」駅から鎌倉大仏にかけてはいつも観光客であふれています。
修学旅行では鎌倉大仏はマストらしく、シーズンには学生も多くみられて賑わいます。


【写真 上(左)】 賑わう紅葉の参道
【写真 下(右)】 めずらしく空いている参道

参道入口に「總國分寺」と刻まれた石碑。
参道は幅員のある石畳で、どこか神社(大社)の参道のようです。


【写真 上(左)】 「總國分寺」の石碑
【写真 下(右)】 仁王門への参道


【写真 上(左)】 仁王門
【写真 下(右)】 仁王門の扁額

すこし進むと仁王門。
切妻屋根銅板本瓦棒葺三間一戸の八脚門は、朱塗りの丸柱で風格があります。
両脇間に仁王尊を安置し、見上げに山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 門
【写真 下(右)】 手水舎

も少し進むと門で遮られ、左手に券売所と入場門があります。
むろん拝観料が必要です。
門を入ってすぐに手水舎。



高徳院の山内は広いですがシンプルで、右手正面に鎌倉大仏、その右手に授与所&売店、大仏の裏手に観月堂と右手奥に与謝野晶子の歌碑があります。


【写真 上(左)】 山内-1
【写真 下(右)】 山内-2


【写真 上(左)】 国宝の碑
【写真 下(右)】 正面から

大仏は台座に座し、衣を通肩にまとい、上品上生の定印を結ばれています。


【写真 上(左)】 斜めから
【写真 下(右)】 背面

来迎印ではなく定印を結んでいるので密教系の尊像とする説もみられますが、浄土宗でも定印阿弥陀如来像はいくらも見られるので、筆者的にはこの説は疑問です。
整った面立ちで軽くうつむき、イケメンの大仏として知られています。

別料金ですが、大仏の胎内を拝観することもできます。


【写真 上(左)】 六字御名号の碑
【写真 下(右)】 観月堂-1

観月堂は、朝鮮王宮にあったものを大正13年山一合資会社(後の山一證券)社長だった杉野喜精が寄贈した建物です。
江戸幕府2代将軍徳川秀忠公が所持していたとされる聖観世音菩薩像を安置し、鎌倉三十三観音霊場第23番の札所となっています。

切妻造?本瓦葺の風格ある建物ですが、柵があるので向拝まで近づくことはできません。


【写真 上(左)】 観月堂-2
【写真 下(右)】 観音霊場札所標


御朱印は大仏の向かって右の授与所にて拝受しました。
オリジナル御朱印帳の頒布があり、現在は両面の絵御朱印も授与されているようです。
なお、公式Webによると御朱印帳書入れは15時までのようです。


〔 高徳院の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御本尊(鎌倉大仏)の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印


■ 鎌倉市の御朱印-19 (C.極楽寺口-2)へつづく。



【 BGM 】
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■ 中山美穂 - ただ泣きたくなるの


■ Kalafina - far on the water(LIVE)
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■ 鎌倉市の御朱印-17 (B.名越口-12)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)
■ 同-15 (B.名越口-10)
■ 同-16 (B.名越口-11)から。


49.中座山 大聖院 教恩寺(きょうおんじ)
鎌倉公式観光ガイドWeb

鎌倉市材木座1-4-29
時宗
御本尊:阿弥陀三尊
司元別当:
札所:鎌倉三十三観音霊場第12番

教恩寺は、源平合戦の艶やかな歴史を辿れる時宗寺院です。

鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。

教恩寺は知阿上人を開山に、後北条氏三代・北条氏康(大聖寺殿東陽岱公)が開基となり光明寺境内に建立した寺院が創始といいます。
もともとこの場所には光明寺の末寺・善昌寺がありましたが廃寺となり、延宝六年(1678年)、貴誉上人のときに光明寺境内の北の山際にあった教恩寺を移築と伝わります。

教恩寺は平重衡とのゆかりで知られています。

平重衡(たいらのしげひら、1157-1185年)は、平清盛の五男で母は清盛の継室・平時子。
順調に昇進を重ね、治承三年(1179年)、23歳で左近衛権中将に進み「三位中将」と称されました。
『吾妻鏡』などでは「三品羽林(さんぽんうりん)重衡」とも。

治承四年(1180年)5月、以仁王の挙兵に際し、重衡は甥の維盛とともに大将軍として出陣してこれを鎮圧しました。

平清盛は南都寺院の旧来の特権を無視して検断を行ったため南都寺院側は強く反発、とくに強大な勢力を誇った東大寺、興福寺、園城寺とははげしく対立しました。

治承四年(1180年)12月11日、清盛の命により園城寺を攻撃して焼き払ったのが重衡です。
ついで12月28日、重衡の軍勢は南都へ攻め入って火を放ち、興福寺、東大寺の堂塔伽藍を一宇残さず焼き尽して多くの僧侶が焼死し、東大寺大仏も焼け落ちました。
この一連の騒乱を「南都焼討」といいます。

なお、治承五年(1181年)閏2月の清盛死去後、政権を継いだ平宗盛は東大寺・興福寺との融和を図り、両寺の再建を赦したため東大寺は建久六年(1195年)頃、興福寺は建暦二年(1212年)頃にはある程度の復興をみたといいます。

重衡は清盛死去後も平家軍の中核を担い、治承五年(1181年)3月、大将軍として墨俣川の戦いに臨んで源行家・義円軍を破り、源氏の侵攻を食い止めました。

しかし寿永二年(1183年)5月の倶利伽羅峠の戦い、6月の篠原の戦いで平維盛軍が源義仲勢に大敗し、重衡は妻の輔子とともに都落ちしました。

重衡は都落ちののちも平家方の中心武将として活躍し、寿永二年(1183年)10月の水島の戦いで足利義清、同年11月の室山の戦いで源行家を破りました。

しかし、寿永三年(1184年)源範頼・義経軍が攻め上ると情勢は悪化し、同年2月の一ノ谷の戦いでついに重衡軍も大敗し、重衡は馬を射られて捕らえられました。

重衡を捕らえた武将として、『平家物語』では梶原景季と庄高家、『吾妻鏡』では梶原景時と庄家長が記されています。

京へ護送された重衡は土肥実平の監視下に置かれ、同年3月梶原景時によって鎌倉へと護送されました。

重衡は鎌倉で頼朝公と引見しましたが、頼朝公は重衡の器量に感心して厚遇したといいます。

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『新刊吾妻鏡 巻2-3』(国立国会図書館)

壽永三年(1184年)三月小廿八日丁巳
被請本三位中將 藍摺直垂引立烏帽子 於廊令謁給 仰云 且為奉慰君御憤 且為●父尸骸之耻 試企石橋合戦以降 令對治平 氏之逆乱如指掌 仍及面拝 不屑眉目也 此上者 謁槐門之事 亦無疑者歟 羽林答申曰 源平為天下警衛之處 頃年之間 當家獨為朝廷之計 昇進者八十餘輩 思其繁榮者 二十餘年也。而今運命之依縮 為囚人参入上者 不能左右 携弓馬之者 為敵被虜 強非耻辱 早可被處斬罪云云 無纎介之憚 奉問答 聞者莫不感 其後被召預狩野介云云 今日就武家輩事 於自仙洞被仰下事者 不論是非 可成敗 至武家帶道理事者 追可奏聞之旨 被定云云

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『吾妻鏡』によると、重衡は頼朝公に対して「武運尽きて囚人の身となったからには、あれこれ申し開くこともありません。弓馬に携わる者が、敵の捕虜になる事はけっして恥ではない。早く斬罪になされよ」と堂々と述べ、周囲の人々はその毅然とした態度に感じ入ったといいます。

狩野宗茂に預けられた重衡は北条政子からも厚遇を受け、重衡をもてなすために侍女の千手の前を側につけたといいます。
千手の前はこの平家の貴公子に惹かれ、ふたりは時をおかず結ばれたとも。

ある日、頼朝公は重衡を慰めるために宴を設け、工藤祐経が鼓を打ち、千手の前は琵琶を弾き、重衡が横笛を吹いて、弦楽の風雅を愉しむ様が『平家物語』に描かれています。

教恩寺には、重衡が千手前と酒宴のときに酌み交わした盃が寺宝として伝わっています。

元暦二年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡しましたが、重衡の妻の輔子は助け上られ捕虜となり、山城国日野に隠栖しました。

同年6月、「南都焼討」の恨みをもつ南都衆徒の強硬な要求を受け、重衡はやむなく南都に引き渡されることになり、源頼兼の護送で南都に入り東大寺に引き渡されました。

『平家物語』には、一行が輔子が住む日野の近くを通った際、重衡が「せめて一目、妻と会いたい」と願って許され、涙ながらの別れを交わした場面が描かれています。

元暦二年(1185年)3月23日、重衡は木津川畔にて斬首、奈良坂にある般若寺門前で梟首されました。享年29と伝わります。
なお、重衡は斬首前に法然上人と面会し、受戒したという説があります。

妻の輔子は重衡の遺骸を引き取って荼毘に付し、日野に墓を建てました。
その後輔子は大原に隠棲した建礼門院に仕え、後白河法皇の大原御幸に立ち会い、建礼門院の最期を阿波内侍とともに看取っています。

重衡の死の3年後、千手の前は若くしてこの世を去りました。
人々は、亡き重衡を恋慕したあげくの憂死と噂したといいます。


平家の公達は美形揃いともいいますが、なかでも維盛、重衡、敦盛の3人は平家を代表するイケメンとして知られています。

姿が美しいだけでなく、重衡はこまやかな心遣いをする人物で、ウィットに富み、彼のまわりは笑いが絶えなかったともいいます。

舞にも堪能で、後白河上皇の50歳の祝賀の儀では維盛と重衡が青海波を華麗に舞ったといいます。(他者説あり)

また当代一流の歌人としても知られ、『玉葉和歌集』に選歌された勅撰歌人でもあります。

『玉葉和歌集』巻第8 旅歌
 住みなれし 古き都の 恋しさは 神もむかしに 思ひしるらむ

このような人物が女性にもてないわけがありません。
江戸時代の『平家公達草紙』によると、重衡が都落ちの際、式子内親王の御所に別れの挨拶に訪れた際には、大勢の女房たちが涙にくれたとあります。

南都の大寺院を焼き打ちして多くの人々の命を奪い、大仏さえもも焼き払っているのですからふつうに考えれば大悪人です。

しかし、重衡を悪し様に伝える史料類は調べた限りではほとんど見当たりません。
能の演目「重衡」では南都焼討した重衡の苦悩が描かれています。

ここでは重衡が木津川畔で斬首される際に、今生の最期に仏を拝みたいと頼み、阿弥陀如来に念仏を唱える場面がでてきます。
また、斬首の前に法然上人に出会い帰依したという伝承もあり、重衡が南都焼討の罪障をふかく苦悩していた姿が浮かびます。

教恩寺の阿弥陀三尊像は源頼朝公が重衡に対して「一族の冥福を祈るように」と授けといい、重衡はこの尊像をふかく信仰したといいます。
『新編鎌倉志』には「本尊阿彌陀、運慶作。相伝ふ。平重衡囚れに就て、此本尊を礼し、臨終正念を祈りしかば、彌陀の像、打ちうなづきけるとなん。」とあります。

生涯の多くを京で過ごした平重衡ゆかりの寺院は関東にはほとんどないですが、教恩寺はその貴重な一寺といえましょう。


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【史料・資料】

『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
教恩寺
教恩寺は寶海山と号す。米町の内にあり。時宗。藤澤道場の末寺なり。
里老の云、本は光明寺の境内、北の山ぎわに有しを延寶六年(1678年)に、貴譽上人此地に移す。
元此地に善昌寺と云て光明寺の末寺あり。廃亡したる故に、教恩寺を此に移し。元教恩寺の跡を、所化寮とせり。
本尊阿彌陀、運慶作。相伝ふ。平重衡囚れに就て、此本尊を礼し、臨終正念を祈りしかば、彌陀の像、打ちうなづきけるとなん。

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
米町の内にあり。は寶海山と号す。時宗藤澤清浄光寺の末也。
土人いふ、もとは光明寺境内の山際に有しを、延寶六年(1678年)爰に移せり。
此所は善昌寺と云光明寺末寺の廃せし所なり。
本尊阿彌陀 運慶作といふ。
寺寶
盃一箇 伝へいふ 平重衡、千壽前と酒宴の盃なりといふ。
内外黒ぬり。内に梅花の蒔絵あり。大いさ、今時の平皿の如くにて浅し。木薄く軽し。

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(大町村)教恩寺
中座町にあり、中座山(【鎌倉志】に寶海山とあり、貞享已後改しにや) 大聖院と号す 本寺前(藤澤清浄光寺)に同じ、開山は知阿 開基は俗称を伝へず、大聖院東陽岱公とのみ伝ふ、是北條左京大夫氏康の法名にて今大住郡栗原村萬松寺に其牌あり 大聖寺殿東陽岱公、元龜二年(1571年)十月三日と記せり又同寺所蔵、天正二年(1574年)の文書に、大聖院様号御位牌所云々とあり 剏建の年代を伝へざれど、是に拠て推考すべし、【鎌倉志】里老の言を引て舊は光明寺の境内北の山際に在しを延寶六年(1678年)僧貴譽此地に移す、元此地に善昌寺と云ふ光明寺の末寺あり、其寺廃蕪せしが故当寺を爰に移し元の当寺蹟を所化寮とすと記せり、三尊の彌陀 運慶作、を本尊とす、寺伝に是は元暦元年(1184年)平家没落の時三位中将重衡囚れて鎌倉に在し程賴朝が授興の霊像にて重衡が帰依佛なりと伝ふ、当寺安置の来由伝はらず

【寺寶】
盃三口 共に重衡の盃と云ふ
【鎌倉志】には一口と挙げ、重衡千手前と、酒宴の時の盃なりと記せり、按ずるに、【東鑑】元暦元年(1184年)四月廿日の條に曰、本三位中将、依武衡御免、有沐浴之儀、其後及乗燭之期、称為慰徒然披遣藤判官代邦通、工藤一﨟祐經、官女一人号千手前等、於羽林之方、剰被副送竹葉上林已下、羽林殊喜悦、遊興移剋、祐經打鼓歌今様、女房弾琵琶、羽林和横笛、先吹五常楽、為下官以可為後生楽由称之、次吹皇●急、謂往生急、凡於事莫不催興、及夜半女房欲帰、羽林暫抑留之而盃及朗詠、燭暗數行寞氏涙、夜深四面楚歌聲云々、其後各帰参御前、武衡令問酒宴次第給云々、又武衡令持宿衣一領於千手前、更被送遣、其上以祐經、邊鄙士女還可有其興歟、御在國之程、可被召置之由被仰云々、更に拠ば、此宴席に用し物なるべし

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
中座山大聖院教恩寺と号する。時宗。藤澤清浄光寺。
開山、知阿。開基、北条氏康。
本尊、阿弥陀如来。
境内地355.31坪。本堂・庫裏・山門あり。
『新編鎌倉志』には山号を寶海山とし、もと光明寺の境内にあったという説を述べている。


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神奈川県道311号鎌倉葉山線(旧大町大路)と小町大路が交差する「大町四つ角」交差点から311号を西に進み一本目の路地を北に入った正面で、あたりは住宅地です。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 寺号板

正面に切妻屋根銅板本瓦棒葺四脚門の山門で、門柱には寺号板、中備にはボリューム感ある十六羅漢(裏面は牡丹)の彫刻が刻まれています。


【写真 上(左)】 十六羅漢
【写真 下(右)】 山内


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 天水鉢の「隅切角に三」

山内は緑ゆたかでしっとりと落ち着いた空気感。
重衡と千手の前の哀恋を伝える寺院にふさわしいたたずまいです。

石畳の参道正面に本堂。本堂前には時宗の宗紋「隅切角に三」。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂はおそらく切妻造銅板葺流れ向拝で、屋根勾配が急で照り気味なので勢いを感じます。
水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に精緻な龍の彫刻を置いています。
虹梁持ち送りにも鳥の彫刻を置き、見どころの多い向拝です。


【写真 上(左)】 向拝の彫刻
【写真 下(右)】 斜めからの向拝

向拝正面桟唐戸のうえに山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 御朱印所

中尊は御本尊の阿弥陀三尊(阿弥陀如来、聖観世音菩薩、勢至菩薩各立像)で、平重衡が囚われの身でふかく信仰したという尊像です。
運慶作とも伝わり、「木造 阿弥陀如来及び両脇侍立像」として神奈川県指定文化財に指定されています。

観音堂は見当たらないので、鎌倉三十三観音霊場第12番の札所本尊。聖観世音菩薩は本堂内に奉安とみられます。
御朱印は本堂向かって左の授与所にて拝受しました。

〔 教恩寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印


50.帰命山 延命寺(えんめいじ)
鎌倉公式観光ガイドWeb

鎌倉市材木座1-1-3
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
司元別当:
札所:鎌倉三十三観音霊場第11番、鎌倉二十四地蔵霊場第23番

延命寺は、北条時頼公ゆかりの浄土宗寺院です。

鎌倉公式観光ガイドWeb、『鎌倉札所めぐり』(メイツ出版)、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。

延命寺は、鎌倉幕府第5代執権北条時頼公(1227-1263年)の夫人の創建といいます。
時頼夫人の念持佛・身代り地蔵尊を奉安する地蔵堂として正慶年間(1332-1333年)に建立、専蓮社昌誉能公を開山ないし中興開山といいます。

北条時頼公の正室は大江広元四男・毛利季光の息女。継室は北条重時の息女・葛西殿、側室は讃岐局、辻殿などが記録に残りますが、当山草創夫人が誰なのかは伝わっていません。

当山の身代り地蔵尊(裸地蔵尊)は時頼夫人をしばしば救われたといい、双六の勝負で窮地に陥った夫人を救ったという逸話が遺っています。
この双六の勝負にまつわる逸話もあって、参詣客を集めたともいわれています。

身代り地蔵尊(裸地蔵尊)は等身大の女性のお姿をされ、双六盤の上安置された地蔵尊で、運慶作とも伝わります。
また、北条政子像とする研究者もいるようです。

また、赤穂浪士の岡島八十右衛門の息子が当山住職をであった縁により、忠臣蔵にまつわる寺宝も有していたといいます。

鎌倉三十三観音霊場第11番、鎌倉二十四地蔵霊場第23番の札所につき、霊場巡拝者の来山も多いとみられます。


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【史料・資料】

『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
延命寺
延命寺は、米町にあり。浄土宗。安養院の末寺なり。
堂に立像の地蔵を安ず。俗に裸地蔵と云ふ。又前出地蔵とも云。裸形にて双六局を踏せ、厨子に入、衣を著せてあり。参詣の人は裸にして見するなり。(略)

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
延命寺
米町の西にあり。浄土宗安養院末なり。
堂に立像の地蔵を安す。土俗裸地蔵といふ。又は前出し地蔵ともいふ。裸形にて双六局をふみ、厨子入、衣を着せたり。参詣のものに裸にして見する所なり。(略)

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(大町村)延命寺
米町にあり、帰命山と号す 前寺(安養院)末
本尊彌陀 立像長二尺二寸五分、運慶作 及び地蔵 立像長五尺二寸 是も同(運慶)作と伝ふ を安ず、此像は北條時頼の夫人が念持佛にて身代地蔵と称す、夫人此佛徳にて無實の難を遁れし事あり 故に身代の称起れりと云ふ 或は裸地蔵の唱へありて(中略)
是より北條氏代々の念持佛なりしが正慶年中(1332-1333年)更に一宇を建立して安置せしと伝へ、即其時の記今猶ありと云ふ、此餘淺野内匠頭長矩の臣四十六士の画像を置く 寺伝に彼の士の内、岡嶋八十右衛門の三男、当寺の住職たりし故、安ずるなりと云ふ

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
帰命山延命寺と号する。浄土宗、もと安養院末。
開山、専蓮社昌誉能公。
本尊、阿弥陀如来。
境内地365.49坪。本堂・庫裏・山門・倉庫あり。
ここには北条時頼室の念持仏であったという身代地蔵がある。(中略)
寺仏に、赤穂四十七士のうち岡島八十右衛門の三男が住持であったと伝え、義士銘々伝があり、義士の画像もあったが今はない。


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神奈川県道311号鎌倉葉山線(旧大町大路)が横須賀線を渡ってすぐの滑川沿い、若宮大路「下馬」交差点の東側で、「鎌倉」駅にもほど近いところ。


【写真 上(左)】 滑川
【写真 下(右)】 山内入口


【写真 上(左)】 寺号標-1
【写真 下(右)】 寺号標-2

山内入口に寺号標。門柱にも寺号標があります。
山内はこぢんまりとしていて、入母屋造銅板本瓦棒葺妻入りの本堂が、観音・地蔵両霊場の拝所です。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂

妻部千鳥破風の下が向拝で、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、中備に板蟇股を置き、左右の身舎には花頭窓を配しています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 案内

中尊の御本尊は運慶作とも伝わる阿弥陀如来坐像で、北鎌倉の圓應寺の閻魔王像の木余り
でつくられたとされ「木あまりの像」とも「日あまりの」像とも呼ばれます。
その向かって右手に奉安の聖観世音菩薩立像は、鎌倉三十三観音霊場第11番の札所本尊です。

左手には北条時頼公夫人の守護佛・身代わ地蔵尊((裸地蔵尊))を奉安で、こちらは鎌倉二十四地蔵霊場第23番の札所本尊です。

堂内右手には弥陀三尊と両大師が奉安されています。

御朱印は本堂向かって右手の庫裏にて拝受しました。


〔 延命寺の御首題 〕

 
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印


鎌倉二十四地蔵霊場の御朱印


■ 鎌倉市の御朱印-18 (C.極楽寺口-1)へつづく。



【 BGM 】
■ 西風の贈り物 - 志方あきこ


■ あなたの夜が明けるまで - 春吹そらの(covered by)


■ 私にはできない - Eiーvy
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■ 鎌倉市の御朱印-16 (B.名越口-11)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)
■ 同-15 (B.名越口-10)から。


47.法華山 本興寺(ほんこうじ)
鎌倉公式観光ガイドWeb

鎌倉市大町2-5-32
日蓮宗
御本尊:三宝祖師(『鎌倉市史 社寺編』)
司元別当:
札所:

本興寺は、大町二丁目の歴史ある日蓮宗寺院です。

鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。

本興寺は、延元元年(1336年)「九老僧」の一人天目上人が開基建立し、日蓮聖人が辻説法の途中に休息された地に因んで「休息山本興寺」を号しました。

永徳二年(1382年)、2世日什上人が法華山と改め、開山は日什上人とされています。
日蓮聖人の鎌倉辻説法の由緒地・大町にあるため「辻の本興寺」とも呼ばれます。

当山は宗派的に複雑な変遷をたどっています。
開山・美濃阿闍梨天目上人(1256-1337年)は、日蓮六老僧・日朗上人の弟子「九老僧」の一人で日盛、上法房とも称します。

法華山 本興寺(横浜市泉区)公式Webには
「天目上人は、法華経二十八品のうち、前半十四品の迹門と後半十四品の本門では説相が異なると「迹門不読説」を主張しており、天目上人の弟子達も同じ主張をしておりましたが、日什門流の開祖である日什大正師の教化にふれ改派に至りました。」とあります。

この記述は「本迹勝劣」の概念がわからないと理解できません。
ただし、「本迹勝劣」は法華宗の本義にかかわる重要なことがらなので、Wikipediaの内容に従って概略のみまとめてみます。

・所依の法華経を構成する二十八品(28章)は前半の「迹門」、後半の「本門」に二分される。
・二十八品全体を一体のものとして扱うべきとするのが一致派。(釈尊を本仏とする)
・「本門」に法華経の極意があるとするのが勝劣派。
・勝劣派は「釈尊を本仏とする勝劣派」と「日蓮聖人を本仏とする勝劣派」に分かれる。
・「勝劣五派」とは、日興門流(富士門流、興門派)、日什門流(妙満寺派)、日陣門流(本成寺派)、日隆門流(八品派)、日真門流(本隆寺派)をさす。

天目上人は「迹門不読説」を唱えられ、当山2世の日什上人は「釈尊を本仏とする勝劣派」の日什門流の流祖です。

日什上人(1314年-1392年)について、京都妙満寺公式Webには以下のとおりあります。

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19歳で比叡山に登られ「玄妙」と号され、38歳の時には三千人の学僧の学頭となり、「玄妙能化」と称されました。
故郷の会津に戻られた日什上人は66歳のとき、日蓮聖人の御書『開目抄』『如説修行鈔』に触れられ、直ちに日蓮聖人を師と仰ぎ、名を「日什」と改められました。
下総中山の法華経寺にこもられ、不惜身命の布教を誓われた日什上人は、永徳元年(1381)京に上られ関白・二条良基卿と対面し、「洛中弘法の綸旨」と「二位僧都」の官位を賜わりました。
関東でも、関東管領・足利義満公などに諌暁を繰り返され、宗旨と修行の方軌を示されて日什門流を開かれました。

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日什門流は顕本法華宗(総本山・妙満寺)につながり、顕本法華宗の宗祖は日什上人です。

「鎌倉市史 社寺編」によると、天正十九年(1591年)、徳川家康公は当山に寺領五百五十文を寄進しています。

文明十三年(1481年)、当山16世日泰上人は大旦那酒井清伝によって堂を建立とありますが、「千葉市Web資料」によると酒井清伝は上総国土気の武将です。
Wikipediaには「上総酒井氏の祖は酒井清伝と称される人物で、この人物については、16世紀の東金城主酒井胤敏および土気城主酒井胤治が揃って酒井氏の祖として清伝の名前を挙げている。」とあるので、上総酒井氏の祖(酒井定隆?)とみられます。

酒井清伝(定隆)は法華宗(妙満寺派)の日泰上人に帰依した熱心な法華宗信者で、上総北部の平定後数年で領内のほとんどの寺院を法華宗へと改宗させた(上総七里法華)とする伝説があります。
「上総七里法華」は、江戸時代初期に不受不施を唱えた寺院があるといいます。

永禄二年(1559年)、清伝の子酒井胤治とその子政茂も当山を修造、その費用寄進者には生実御所・足利高基の室もいて、造営のため奥州や越中からも僧が鎌倉に来たとあるので、「上総七里法華」が主体となって大々的に改修が行われたのでは。

『鎌倉市史 社寺編』はまた、当山27世から妙満寺27世となった(Wikipedia)日経上人は、慶長の初年(1596年-)に倒壊した堂を慶長四年(1599年)再興したと記しています。

しかし慶長十三年(1608年)、日経上人は「不受不施」を説いたため、江戸幕府より弾圧を受けました。(慶長の法難)

不受不施派は以降も幕府の厳しい詮議を受けたため、万治三年(1660年)当山30世日顕上人により鎌倉郡飯田村に寺基を移したのが、現在の横浜市泉区上飯田町の本興寺といいます。

寛文十年(1670年)、比企谷妙本寺照幡院日逞上人が宗祖辻説法旧地の衰退を嘆き、徳川家より寺領の寄付を受けて、鎌倉の辻の旧地に本興寺を再興したといいます。

日什門流は「釈尊を本仏とする勝劣派」、妙本寺は日朗門流(比企谷門流)で「釈尊を本仏とする一致派」とされますから、複雑な門流を経由していることがわかります。

なお、日什門流の名刹・飯田本興寺は顕本法華宗本山でしたが、明治政府の宗教政策により日蓮宗と合同し、現在も日蓮宗本山(由緒寺院)の寺格を誇っています。

寛文十年(1670年)といえば将軍家綱公の治世。
名刹妙本寺の末寺で家綱公のお墨付きを得たとなれば、江戸時代の寺院経営は安定していたとみられ、明治の神仏分離も乗り切って、「辻の本興寺」の名跡をいまに伝えています。


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【史料・資料】

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(大町村)本興寺
辻町にあり、法華山と号す 本寺前に同じ(妙本寺末)、古は京妙満寺の末なりしが、中興の後今の末となると云ふ
本尊三寶祖師を安ぜり、開山を日什(明徳三年(1392年)二月廿八日寂す)中興を日逞と云ふ(延寶三年(1675年)五月十七日寂す)天正十九年(1591年)十一月寺領五百五十文の御朱印を賜へり

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
法華山本興寺と号する。日蓮宗。もと妙本寺末。
開山、日什。中興開山、日逞
本尊、三宝祖師
境内地523.82坪。本堂・庫裏・太子堂・渡廊下・山門あり。
もと京都の妙満寺末。日什は明徳三年(1392年)二月廿八日寂、日逞は延寶三年(1675年)五月十七日寂。
天正十九年(1591年)十一月、徳川家康は寺領五百五十文を寄進した。
文明十三年(1481年)六月、当寺十六世日泰は大旦那酒井清伝によって、堂を建立した。(中略)
清伝の子酒井胤治とその子政茂が、永禄二年(1559年)修造した。この時の住持は日芸である。
修理の費用は胤治をはじめその一族がだしたが、その中には生実御所足利高基の室もいて(中略)造営のためには奥州や越中からも僧が鎌倉に来ている。
慶長の初年(1596年-)に再び倒壊した堂を復興するため、日経が僧俗にすすめて(中略)慶長四年(1599年)再興した。

■ 山内掲示(縁起碑)
本興寺略縁起 日蓮大聖人 辻説法之𦾔地
日蓮大聖人鎌倉御弘通の当時 此の地点は若宮小路に至る辻なるにより 今猶辻の本興寺と称す 御弟子天目上人聖躅を継いで又此地に折伏説法あり 實に当山の開基なり 後年日什上人(顕本法華宗開祖)留錫せられ 寺観大いに面目を改む 常楽院日経上人も亦 当寺の第廿七世なり

法華山 本興寺(横浜市泉区)公式Webより
本興寺は、日蓮大聖人の直弟子である天目上人が鎌倉に開創したお寺です。
大聖人が辻説法の途中、休息された地として、『休息山本興寺』と称していました。
天目上人は、法華経二十八品のうち、前半十四品の迹門と後半十四品の本門では説相が異なると「迹門不読説」を主張しており、天目上人の弟子達も同じ主張をしておりましたが、日什門流の開祖である日什大正師の教化にふれ改派に至りました。
その後、弘和2年(1382年)に『法華山 本興寺』と改称しました。
以後、日什大正師を当山の事実上の開祖としております。
また、現在本興寺のある飯田は、弘安5年(1282年)に日蓮大聖人が池上でご入滅後、ご遺骨を身延に奉じる途次、10月20日頃にご一泊された地と伝えられています。
(中略)
万治3年(1660年)に現在の地(泉区上飯田町)にお寺の一切を移されたとされています。


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小町大路が横須賀線を渡る踏切のすぐ北側に参道があり、山内北側は旧車小路に面しています。
参道入口には「日蓮大聖人辻説法之𦾔地」の石碑(縁起碑)が建っています。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 縁起碑


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 山門

山門手前左手にお題目が刻まれた寺号標。
山門は切妻屋根桟瓦葺の四脚門で、門柱は朱塗りの丸柱です。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 飾り瓦

山内正面が入母屋造桟瓦葺流れ向拝の整った意匠の本堂。
軒上の飾り瓦の獅子の表情がいい味を出しています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 鎮守?

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に板蟇股を置いています。
向拝正面は端正な唐桟戸。

山内に御鎮座の朱塗りの一間社流造のお社と石祠は当山鎮守でしょうか。

御首題は、参拝時本堂前におられたご住職からこころよく授与いただけましたが、こちらこちらの記事によるとご不在が多そうです。


〔 本興寺の御首題 〕




48.由比若宮(鶴岡八幡宮元宮・元鶴岡八幡宮)(ゆいのわかみや)
鎌倉公式観光ガイドWeb

鎌倉市材木座1-7
御祭神:応神天皇
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-1でも触れています。

由比若宮は鶴岡八幡宮の元宮で、頼朝公や鎌倉幕府にとってすこぶる重要な神社です。

鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。

康平六年(1063年)源頼義公が、奥州安倍氏征伐(前九年の役)にあたり、京の石清水八幡宮に戦捷を祈願されました。
征伐が成り京に帰る帰途、鎌倉に立ち寄られ由比郷鶴岡に源氏の守り神である石清水八幡宮の御祭神を勧請されて創祀といいます。

永保元年(1081年)には、頼義公の子八幡太郎義家公が修復したとも伝わります。

治承四年(1180年)10月7日(11日とも)、鎌倉に入られた源頼朝公は、まず由比郷の鶴岡八幡宮を遙拝され、そののちに鎌倉の経営に着手したといいます。

同月11日、(伊豆山)走湯山の専光坊良暹が鎌倉に到着すると、12日には小林郷北山に建てた宮廟に(由比郷の)鶴岡八幡宮を遷し、同時に良暹を当座の別当としました。
これが現在の若宮(下宮)の始まりで、頼朝公は同社を「鶴岡八幡新宮若宮」と称されました。

つまり、康平六年(1063年)源頼義公創祀の(由比郷)鶴岡八幡宮を、治承四年(1180年)10月に源頼朝公が現在の若宮(下宮)に御遷座ということになります。

【 由比元宮と鶴岡八幡宮の関係 】
両社の関係については、史料によりニュアンスが異なりますが、だいたいつぎのとおりです。

・康平六年(1063年)源頼義公が(由比郷)鶴岡八幡宮を創祀。
・治承四年(1180年)鎌倉に入られた頼朝公が(由比郷)鶴岡八幡宮を今の若宮(下宮)の地に御遷座。
・(由比郷)鶴岡に御鎮座だったが、小林郷北山(現社地)に遷したのちも「鶴岡」を号した。
・建久二年(1191年)11月、若宮(下宮)の上方の地に建てた本宮社殿に石清水八幡宮の御神体を勧請。若宮及び末社等の遷宮も行われた。

『新編相模國風土記稿』の「(山之内庄 鶴岡 五)下ノ宮」の條に意味深な記述があります。
それは「社僧が語った」という内容で、頼義公が由比郷に祀った鶴岡八幡宮は石清水八幡宮からの勧請ながら、私の勧請だったので「別宮」の意味で「若宮」と称している。
これに対して(鶴岡八幡宮)上宮は、頼朝公が勅許を得て(公式に)勧請されたので直に「八幡宮」と称しているというのです。
また、下宮の神躰を上宮に遷して下宮は空殿となったところ、後世「若宮」の称に因んで(応神帝/誉田別命)の御子の仁徳帝(大鷦鷯命)を勧請せしめたとも。

これに対して『新編相模國風土記稿』の著者は、【東鏡】によると建久二年3月に若宮以下火災に罹りしとき、新たに上宮を造立、若宮および末社等もことごとく再建されて10月には上下両宮ともに(石清水八幡宮)から遷宮ありとあるので、「下宮は空殿となった」というのは誤謬であると断じています。

しかし、康平六年(1063年)源頼義公の勧請を多くの史料・資料が「潜かに(ひそかに)」と記しているのは、上記の社僧の「私の勧請」という説明とニュアンスが重なります。

由比元宮と鶴岡八幡宮の関係がわかりにくくなっているのは、「別宮」「新宮」「若宮」の意味が錯綜しているためと思われます。

たとえば「別宮」・「若宮」は、「本宮」(石清水八幡宮)から私に勧請した宮の意で使われています。
「新宮」は「本宮」からの分社で「若宮」も同じ意味に用いられることがあるといいます。
また、八幡社では「本宮」の御祭神・誉田別命(応神帝)に対し「若宮」では御子の仁徳帝(大鷦鷯命)を祀る例が多くみられます。

頼朝公が由比郷から小林郷に遷座された八幡宮を「鶴岡八幡新宮若宮」と称したことが混乱のもととも思えますが、『鎌倉市史 社寺編』に記されている「由比郷に勧請されていた石清水八幡宮の分社のまた分社として鶴岡八幡新宮若宮と称したのであろう。」という見解がわかりやすいように思えます。

この考えをとると、由比郷鶴岡の八幡宮は「鶴岡八幡本宮若宮」になるかとも思いますが、これを記した史料は存在しない模様です。

【 由比若宮の御祭神 】
由比若宮の御祭神を記した史料や公的資料はほとんどありませんが、境内縁起書には「祭神 応神天皇」とあります。
しかし、Web記事ではつぎのふたつの記載がみられます。

1.応神天皇
2.応神天皇、比売神、神功皇后

康平六年(1063年)、源頼義公が由比郷鶴岡に勧請されたのは石清水八幡宮です。
このとき勧請された御祭神は、つぎの2パターンが考えられるので、ここから↑の2説が出てきているかと思います。

1.石清水八幡宮の中御前御祭神:誉田別命(応神天皇)
2.石清水八幡宮の八幡三所大神
 (中御前:誉田別命(応神天皇)、西御前:比咩大神(比売神)、東御前:息長帯姫命(神功皇后))

いずれにしても主祭神は応神天皇ですから、この時点では「若宮」は称せず、由比郷鶴岡に御鎮座の八幡宮ということで「鶴岡八幡宮」を称したのではないかと思いました。

しかし、そうではないかもしれません。
石川県白山市若宮に源頼義公建立と伝わる若宮八幡宮があります。
石川県神社庁のWeb資料によると、こちらの御祭神は応神天皇で、由緒に「康平6年(1063)鎮守府将軍 源頼義の建立と言われる。源頼義が奥州を平定し、石清水八幡宮を相州鎌倉郡由比郷鶴岡の地に勧請し、次いでこの加賀松任の地に国守富樫介に造営を命じ」とあります。

由比若宮と同年に源頼義公が建立し、おそらく石清水八幡宮からの勧請で御祭神は応神天皇。そして社号は「若宮八幡宮」です。
こちらの「若宮」の社号は「本宮(石清水八幡宮)から勧請した『若宮』」から来ているとも思われます。
となると、あるいは由比若宮も当初から「若宮」を称していたのかもしれません。

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ここからはほとんど筆者の推測です。
・治承四年(1180年)頼朝公が小林郷に造営し(由比郷)鶴岡八幡宮から御遷座のお社は、石清水八幡宮から勧請したため「若宮」を称した。
・頼朝公が石清水八幡宮からの勧請社を「若宮」を称した以上、由比郷の八幡宮も「(由比)若宮」と称した。(あるいは当初から「若宮」を称していた。)
・康平六年(1063年)頼朝公が造営した「本社」(上社)には、改めて石清水八幡宮から八幡三所大神(中御前:誉田別命(応神天皇)、西御前:比咩大神(比売神)、東御前:息長帯姫命(神功皇后))を勧請。このとき、旧「若宮」の御祭神が合祀?されたかは不明。
・新しい「若宮」(下宮)には石清水八幡宮から仁徳天皇、履中天皇・仲媛命・磐之媛命の四柱を勧請し、ここに(若宮=仁徳天皇)が成立。

となると、気になるのは小林郷北山に御遷座されたのちの由比の鶴岡八幡宮です。
『新編相模國風土記稿』に「旦頼義の勧請する所、石清水の本宮たらば、若宮の称呼ありとも、頼朝祖先の祀る所を廃して、更に勧請すべき謂なし」とあり、頼朝公が祖先の祀る所(頼義公勧請の由比若宮)を廃するいわれはないと断じています。

『新編相模國風土記稿』には「其𦾔地なれば今に祠ありて鶴岡八幡社職の持とす」「由比宮の𦾔地は、由比濱大鳥居の東にあり、今に小社を存し社外の末社に属す」とあり、由比若宮の祠は鶴岡八幡宮の社外末社で鶴岡八幡社職が奉仕していたことを伝えます。

鶴岡八幡宮境内には由比若宮遥拝所があることから、昔もいまも元宮たる神社として尊崇されているものとみられます。


【写真 上(左)】 由比若宮遙拝所(鶴岡八幡宮境内)
【写真 下(右)】 同

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【史料・資料】

『新刊吾妻鏡 巻1』(国立国会図書館)
治承四年(1180年)十月十一日庚寅
卯尅御臺所入御鎌倉 景義奉迎之 去夜自伊豆國阿岐戸郷 雖令到着給 依日次不宜 止宿稻瀬河邊民居給云々 又走湯山住侶專光房良暹 依兼日御契約参着 是武衛年來御師檀也

治承四年(1180年)十月十二日辛卯
快晴 寅尅 為崇祖宗 點小林郷之北山搆宮廟 被奉遷鶴岳(岡)宮於此所 以專光房暫為別當職 令景義執行宮寺事 武衛此間潔齋給 當宮御在所 本新両所用捨 賢慮猶危給之間 任神鑒 於寳前自令取鬮給 治定當砌訖 然而未及花搆之餝 先作茅茨之営 本社者 後冷泉院御宇 伊豫守源朝臣頼義奉勅定 征伐安倍貞任之時 有丹祈之旨 康平六年秋八月 潜勧請石淸水 建瑞籬於當國由比郷 今号之下若宮 永保元年二月 陸奥守同朝臣義家加修復 今又奉遷小林郷 致●繁礼奠云々

『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
下宮𦾔地
下宮𦾔地は、由比濱大鳥居の東にあり、【東鏡】に、頼朝卿、鎌倉に入給ふ時、先遙に鶴岡の八幡宮を拝み奉るとあるは、此所に有し時也。此所に有し社を、今の若宮の地に遷し奉らん為に、本・新両所の用捨を、賽前にて籤を取、今の若宮の地に治定し給ふ。本と有は此所の事、新とあるは今の若宮の事なり。爰を鶴岡と云ゆへに、小林へ遷して後も、鶴岡の若宮と云なり。鶴岡の條下と照し見るべし。

『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮は、【東鏡】に、本社は、伊豫守源頼義、勅を奉て、安倍貞任征伐の時、丹新の旨有て、康平六年(1063年)秋八月、潜に石清水を勧請し、瑞籬を当國由比郷に建。今此を下宮の𦾔跡と云也。永保元年(1081年)二月、陸奥守源義家、修復を加ふ。其後治承四年(1180年)十月十二日、源頼朝、祖宗を崇めんがために、小林郷の北の山を點じて宮廟を構へ、鶴岡由比の宮を此所に遷し奉る。(中略)
由比濱下の宮の𦾔地を、昔しは鶴が岡と云なり。【東鏡】に、治承四年(1180年)十月七日、頼朝先遙に鶴岡の八幡宮ををがみ奉るとあるは、由比濱の宮なり。小林郷に遷して後も、又鶴岡の八幡宮と云傳へたり。

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
若宮𦾔地
由比濱大鳥居の東の方にあり、此邊を往昔は鶴岡と号しける𦾔地なり。右大将家、治承四年(1180年)十月鎌倉に入給ふ最初、まづ遙に八幡宮を拝み奉るとあるは、爰に鎮座の宮殿をいふ。是則天喜年中(1053-1058年)、源頼義朝臣当所へ初て勧請の社頭なり。頼朝卿、今の地へ移し給はんとせらるゝ砌、本新両所決しかたく、神前にて籤を取給ふとあるも此地にて、本といふは爰の𦾔地をさし、新とは今の社地をさす。神監に任て、今の地に治定せしと云云。

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(大町村)下若宮
辻町の西にあり、往昔当所を鶴岡と号す 今𦾔号を失ふ
康平六年(1063年)八月、頼義潜に石清水の神官を模して此所に勧請ありしを治承四年(1180年)頼朝鎌倉に入て当所の宮を小林松ヶ岡に遷し、夫より彼地も鶴岡と号す、其𦾔地なれば今に祠ありて鶴岡八幡社職の持とす 事は鶴岡八幡宮の條に詳載す

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(山之内庄 鶴岡)鶴岡八幡宮
康平六年(1063年)八月、伊豫守源頼義、石清水の神を勧請して、瑞籬を当郡由比の郷に建 【東鑑】治承四年(1180年)十月十二日條曰、本社者、後冷泉院御宇、伊豫守源朝臣頼義、奉勅定征伐安倍貞任之時、有丹新之旨、康平六年(1063年)秋八月、潜勧請石清水建瑞籬於当国由比郷、原注に今号之下若宮とあり、按ずるに由比宮の𦾔地は、由比濱大鳥居の東にあり、今に小社を存し社外の末社に属す 永保元年(1081年)二月、陸奥守源義家修理を加ふ 治承四年(1180年)十月、右大将源頼朝鎌倉に到り、由比の宮を遥拝し 七日條曰、先奉遙拝鶴岡八幡宮給 同月、此地を點じて假に宮廟を構へ、由比の宮を遷せり 今の下宮是なり 建久二年(1191年)三月四日神殿以下、悉く回禄に罹る、四月頼朝、下宮後背の山上に、新に寶殿を営作す、是別に八幡宮を、勧請せしが為なり 今の上宮是なり、十一月上下両宮及末社等に至まで、造営成就して、遷宮の儀を行はる、是より両宮となれり

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(山之内庄 鶴岡 五)下ノ宮
若宮と称す
社僧云、若宮とは本社より別ちて、他所に勧請せし宮を号す。蓋頼義、由井(ママ)郷に祀りしは、石清水八幡宮なれど、【東鏡】に載する如く、私に勧請する所なれば、則別宮の義に取り、若宮と称せり、又頼朝上宮を勧請せしは、勅許を得たる事なれば、直に八幡宮と号す、故に此時下宮の神躰を、上宮に遷し、下宮は空殿となりしかば、後世若宮の唱へに因て、仁徳帝を勧請せしなりと、按ずるに、【東鏡】に建久二年(1191年)三月若宮以下火災に罹りし時、新に上宮を造立し、若宮及末社等、悉く再建ありて、十月上下両宮共に、遷宮ありしと見ゆ、然れば下宮、空殿となりしと伝は謬なり、旦頼義の勧請する所、石清水の本宮たらば、若宮の称呼ありとも、頼朝祖先の祀る所を廃して、更に勧請すべき謂なし、社僧の説信じ難し(中略)
治承四年(1180年)十月、源頼朝由比郷より移して建立ありし社なり

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(山之内庄 鶴岡 五)由比若宮
由比ノ濱大鳥居の東、辻町(大町村属)にあり、下宮の原社なり、康平六年(1063年)八月頼義の勧請せしより治承四年(1180年)十月、頼朝下宮の地に移せし事は社の総説に見えたり 【東鑑】仁治二年(1241年)四月由比大鳥居邊の拝殿、逆浪の為に流失せし由載せたるは 即当社の拝殿なるべし  我覺院管す

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
治承四年(1180年)十月七日、源頼朝は鎌倉に入り先ず由比郷に鎮座していた鶴岡八幡宮を遙拝してから鎌倉の経営に着手したようである。
十一日に(伊豆山)走湯山の専光坊良暹が鎌倉に到着すると、十二日には小林郷の北山に建てた宮廟にこの鶴岡八幡宮を遷し、同時に良暹を当座の別当とし大庭景義に宮寺のことを執行わせた。
これが現在の若宮の始まりで、その位置も大体今と同じと考えてよかろう。
そして、頼朝は同社を鶴岡八幡新宮若宮と称している。
鶴岡八幡新宮若宮の称は寿永二年(1183年)の頼朝の寄進状に見える。新宮は本宮に対する分社をいうのであるが、若宮も同じ意に用いられることがある。
由比郷に勧請されていた石清水八幡宮の分社のまた分社として鶴岡八幡新宮若宮と称したのであろう。

遡って由比郷にあった鶴岡八幡宮というのは、源頼義が勅定を奉じて陸奥の安倍貞任を征伐のとき、石清水八幡宮に祈願をこめたが、その効験あって征討の目的を果たすことが出来たので、康平六年(1063年)八月、潜かにかの石清水八幡宮を勧請することとし、由比郷に瑞籬を営んだことに始まる。それから十八年を経た永保元年(1081年)二月に、頼義の子義家がこれに修復を加えたと伝えており、その位置は大町字西町にある由比若宮の地であるといわれている。

建久二年(1191年)三月四日、鎌倉は大火となり、社域にも延焼しすべてが灰燼と化してしまった。
八日には頼朝監臨のもとに、若宮仮殿の造営が始められたが(中略)これを機会に頼朝は改めて石清水八幡宮を勧請しようとして、鶴岡若宮の上の地に社殿の営作を始めたが(中略)これが現在の本宮の起りで大体現在の位置であろう。
十一月二十一日になると本宮に石清水八幡宮の神体が勧請され、若宮及び末社等の遷宮が行われたのである。
これよりのち本宮を鶴岡八幡宮或は鶴岡八幡宮寺などと称し、更にこれを上宮と呼び、鶴岡若宮の社殿は若宮或は下宮と称せられるようになった。
ここに新に石清水八幡宮の神体を勧請したのは、鶴岡を石清水に模するためであったようである。そのため鶴岡若宮の社殿には八幡宮の摂社としての若宮(仁徳天皇以下祭神四座)の神体が勧請されたものと考えられる。
この結果、八幡宮の分社としての鶴岡若宮が、摂社としての若宮の性格を帯びることとなった。

■ 現地掲示(由比若宮 御由緒)
鶴岡八幡宮境内末社。
前九年の役で奥州を鎮定した源頼義が、康平六(1063)年、報賽の意を込め、源氏の守り神である石清水八幡宮を由比郷に潜かに勧請したことに始まる。
鶴岡八幡宮の元となったことから元八幡とも称される。

祭神 応神天皇
例祭日 四月二日 毎月三日

由比若宮創建以前、鎌倉は郡衙が置かれるなど古代東国の要地で、源頼義以来、源家相伝の地としてあった。
源頼義は勅諚により奥州安倍貞任を征伐した時、丹祈の心あって潜かに康平六(1063)年秋に石清水八幡宮を勧請し、瑞籬をを営み、永保元(1081)年には源義家が修復を加えた。
その後治承四(1180)年十月、源頼朝公が鎌倉に入ると、この社を遙拝し、神意を伺って、現在の鶴岡八幡宮の場所である小林郷北山に遷した。
社頭には義家旗立松があり、近くには石清水の井がある。

■ 現地掲示(鶴岡八幡宮境内、抜粋)
御祭神 応神天皇 比売神 神功皇后
当宮は源頼義公が前九年の役平定後、康平六年(1063)報賽のため由比郷鶴岡の地に八幡大神を勧請したのに始まる。
治承四年(1180)源頼朝公は源氏再興の旗を挙げ、父祖由縁の地鎌倉に入ると、まず由比郷の鶴岡八幡宮を遙拝し「祖宗を崇めんが為」小林郷北山(現在地)に奉遷し、京に於ける内裏に相当する位置に据えて諸整備に努めた。

国土交通省資料(PDF)
由比若宮
由比若宮は鎌倉の八幡信仰の発祥の地です。
「元八幡」とも呼ばれるこの宮は、京の帝に武将として仕えた源頼義 (988–1075) が1063 年に創建しました。
1051 年、頼義は侍の謀反を制圧するため東北地方へと送られます。京を発つ際、頼義は源氏の守護神で祖先でもある八幡大神に必勝を祈願しました。
12 年におよぶ戦いを制した頼義は京へ帰る途中鎌倉に立ち寄り、そのとき八幡大神への感謝のしるしとして祀ったのが由比若宮です。
その1世紀以上のちの1180年、頼義の子孫である源頼朝 (1147–1199) が新たに打ち立てた幕府の拠点を鎌倉に置きました。頼朝は町を広げ、その信仰の中心として鶴岡八幡宮を創建しました。
こうして信仰の中心地は鶴岡八幡宮へと移り、頼義が祀った簡素な神社は創建当時と同じ場所に残されました。

観光庁Web資料
由比若宮
由比若宮は鎌倉の八幡信仰の発祥の地です。
京の帝に武将として仕えた源頼義 (988–1075) が1063年に創建しました。1051年、頼義は侍の謀反を制圧するため東北地方へと送られます。京を発つ際、頼義は源氏の守護神で祖先でもある八幡大神に必勝を祈願しました。12年におよぶ戦いを制した頼義は京へ帰る途中鎌倉に立ち寄り、そのとき八幡大神への感謝のしるしとして祀ったのが由比若宮です。

その1世紀以上のちの1180年、頼義の子孫である源頼朝 (1147–1199) が鎌倉に拠点を置き、町を切り開いてその中心に鶴岡八幡宮を建てました。
引き続き八幡大神を源氏の守護神として崇めた頼朝は、京の朝廷を支配していた敵の平氏に対抗すべく兵力を集めます。頼朝は5年にわたった源平合戦に勝利して、日本で初めての武士による政権を鎌倉に打ち立てました。

由比若宮は今も、鶴岡八幡宮参道の東側、海に近い材木座地区の創建当時と同じ場所に建っています。
「元八幡」とも呼ばれるこの宮は、鎌倉の歴史の中で源氏が果たした大きな役割を今に伝える遺産となっています。

石川県神社庁Web(抜粋)
若宮八幡宮

御祭神
応神天皇(境内社より合祀 綿津見神 大山祇神 日本武尊 豊受比売神 大田神)

鎮座地
白山市若宮1丁目100

由緒
康平6年(1063)鎮守府将軍 源頼義の建立と言われる。
源頼義が奥州を平定し、石清水八幡宮を相州鎌倉郡由比郷鶴岡の地に勧請し、次いでこの加賀松任の地に国守富樫介に造営を命じ富樫介の臣であった山上新保介はその命をかしこみ、誠をもって社殿の建立の事にあたると共に新たに武内社守六社の境内社を勧請しました。


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小町大路が横須賀線を渡る踏切のすぐ南側の路地を西側に入ったところです。
あたりは住宅地で、鶴岡八幡宮の元宮がこのような目立たない住宅地の一画に御鎮座とはある意味おどろきです。
むろん、神社が先にあったわけですが。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 参道入口の社号標


【写真 上(左)】 全景
【写真 下(右)】 境内入口

参道入口には社号標、境内入口にも社号標があります。
住宅地のなかにまとまった社叢を配して神さびた空気感。


【写真 上(左)】 境内入口の社号標
【写真 下(右)】 境内


【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 参道

朱塗りの一の鳥居抜けると参道左手に「源義家公旗立の松」で、その先に朱塗りの二の鳥居。
すみません。源義家が源氏の白旗を立てて武運長久を願ったとされる「源義家公旗立の松」のUP写真がなぜかありません。

二基の鳥居はいずれも亀腹、転び、貫、額束、島木、笠木、反増を備える明神鳥居系ですが、楔はありません。


【写真 上(左)】 拝殿前
【写真 下(右)】 拝殿

拝殿前に石灯籠一対。
階段をのぼると拝殿です。
拝殿は銅板葺の一間社流造と思われ、身舎、向拝とも朱塗りで華やいだイメージの社殿です。
賽銭箱に刻まれた紋は「鶴の丸(つるのまる)紋」で、鶴岡八幡宮の神紋です。

朱塗りの木柵に囲まれた拝殿前は荘厳な空気が流れ、さすがに鶴岡八幡宮の元宮です。


御朱印は、たまたまご縁があって拝受できましたが、ご不在も多そうです。
境内に書置ありとのWeb情報もありますが、筆者は未確認です。


〔 由比若宮の御首題 〕




■ 鎌倉市の御朱印-17 (B.名越口-12)へつづく。



【 BGM 】
■ True To Life - Roxy Music (1982)


■ A Clue - Boz Scaggs (1977)


■ After All This Time - Think Out Loud (1988)
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■ 長瀞秋の七草寺巡り&埼玉県長瀞町の札所と御朱印

長瀞秋の七草寺巡りは、境内に「秋の七草」が一種類づつ植えられている長瀞町内の七つのお寺を巡る札所巡りです。
ウォーキングブーム、花の写真ブーム、そして御朱印ブームが重なって、人気を集めているようです。
今回は、あわせて長瀞町内でいただいた御朱印をすべてご紹介します。


長瀞七草寺霊場のご案内(専用納経帳)

秩父観光協会Web
長瀞町観光協会
同 パンフ(PDF)
秩父鉄道
地図(東武鉄道、PDF)

■ ご朱印ラリー
8/24(木)~9/30(土) 受付時間 9:00~17:00
各七草寺を巡り、七ヶ寺すべてのご朱印(有料)を集めます。
七ヶ寺すべてのご朱印を集めた方には、最終のお寺にて記念品を差し上げます。

8年ぶりに専用御朱印帳で回ってみました。
前回(2016年9月)に比べるとだいぶん人は少なめで、御朱印ブームの落ち着きを感じますが、その分ゆったりと参拝や撮影ができると思います。

綺麗な花のイラスト入りの専用台紙もありますので、これもスタンプをいただいてきました。
朱印が御寶印や三寶印でなく、花の印なので厳密には御朱印とはいえないかもしれませんが、こちらもご紹介します。


台紙にスタンプ捺印

「ご朱印ラリー」は9月末日までです。
今年は猛暑で開花が遅れているせいか、9月中旬でもほとんど満開でした。

なお、専用御朱印帳は1,700円、御朱印(揮毫)は各500円。印判捺印は各200円です。
満願の記念品は2016年は手ぬぐい、2024年は一筆箋でした。
2016年は御朱印(揮毫)、2024年は専用御朱印帳(捺印)での結願だったので、それぞれれ記念品が違うのかもしれません。(未確認)


【写真 上(左)】 結願でいただけた手拭い(2016年)
【写真 下(右)】 結願でいただけた一筆箋(2021年)

駐車場は全寺院ありますが、狭い路地やアプローチ道が荒れ気味のところもあるので要注意。

御朱印対応は17:00までです。
筆者は12時少し前から車で回り始めましたが、楽勝で結願&寶登山神社の参拝ができました。(ただし昼からだと奥宮はきびしいかも。)


 


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2016-09-11 UP

■長瀞秋の七草寺巡り
秩父鉄道サイト
長瀞町観光協会サイト

境内に「秋の七草」が一種類づつ植えられている長瀞町内の七つのお寺を巡る札所巡り。
ウォーキングブーム、花の写真ブーム、そして御朱印ブームが重なって、近年とみに活況を呈しているようです。

各鉄道会社が力を入れているので、電車で行き徒歩・レンタサイクルや巡回バスなどで楽しむのも手かと思いますが、今回は車で行きました。
札所間の距離はさしてないので、早めに現地に入れば徒歩でも1日で結願できるかと思います。

花の盛りはややタイムラグがあって、くず、ききょう、なでしこが早めです。
秩父鉄道のチラシでもこの3ヶ寺を先に巡る2日間分割プランが紹介されていました。
また、この霊場は他札所の重複札所が1ヶ寺しかないので、御朱印収集的にも貴重なものだと思います。

●秋の七草
山上憶良が詠んだ以下の二首の歌がその由来とされ、滋養などのために”七草がゆ”を楽しむ「春の七草」とちがって、花の美しさを愛でるものとされているようです。
 秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり) かき数ふれば 七種(ななくさ)の花
 〔万葉集・巻八 1537〕
 萩の花 尾花 葛花 瞿麦(なでしこ)の花 姫部志(をみなへし) また藤袴 朝貌の花
 〔万葉集・巻八 1538〕

尾花はすすき、をみなへしは女郎花とも。「朝貌の花」は桔梗とするのが定説のようで、やはり桔梗が植えられていました。
春の七草は調子のよい「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ」の順で定着していますが、秋の七草の順序は諸説あります。

山上憶良の歌に因むと、「はぎ、おばな、くず、なでしこ、おみなえし、ふじばかま、ききょう」となります。

五・七・五の調子でいくなら「はぎ、ききょう、くず、ふじばかま、おみなえし、おばな、なでしこ、(秋の七草)」となります。

語呂で知られているのは「おすきなふく(服)は」で、「お:おみなえし、す:すすき、き:ききょう、な:なでしこ、ふ:ふじばかま、く:くず、は:はぎ」となります。

べつに「おおきなはかま(袴)は(穿)く」=「お:おみなえし、お:おばな、き:ききょう、な:なでしこ、はかま:ふじばかま、は:はぎ、く:くず」というのもあります。
秩父鉄道、町観光協会のチラシともに並び順は↑のいずれともことなるランダムですが、末尾のおみなえしとなでしこだけは一致しています。(長瀞駅周辺での結願を意図したものだと思う。)

筆者はふだんは順打ち、逆打ちにはさほどこだわらないのですが、今回は一日結願なので御朱印の構成(順序)にこだわってみました(笑)
やはり、由来とされる山上憶良の歌に因む、「はぎ、おばな、くず、なでしこ、おみなえし、ふじばかま、ききょう」の順にしました。

寄居方面から入りこの順番で順打ちすると、おばなとなでしこで道順の重複が出るので、効率的に回るために頁を決めて揮毫いただくという、綴じ式納経帳的な方法をとりました。

長瀞七草寺で花をテーマにしたブログ記事はたくさんみつかるので、今回はほとけさまに焦点をあててまとめてみたいと思います。


1.不動山 白山寺 洞昌院 【萩】
埼玉県長瀞町野上下郷2868
真言宗智山派
御本尊:不動明王
御朱印尊格:同上
他札所:関東三十六不動尊霊場第29番
花期:7月中旬~9月下旬


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 扁額


【写真 上(左)】 萩-1
【写真 下(右)】 萩-2


【写真 上(左)】 御朱印(揮毫)
【写真 下(右)】 御朱印(専用御朱印帳)


【写真 上(左)】 台紙スタンプ
【写真 下(右)】 案内サイン

七草寺で唯一、他霊場の札所(関東三十六不動尊霊場)を兼ねるお寺です。
私は関東三十六不動、連れは七草寺の御朱印をいただきましたが、単に「御朱印をお願いします」というと、どちらの御朱印か尋ねられるかもしれません。(2016年)

御本尊は弘法大師のお作とも伝わる不動明王です。
奥の院は「苔不動」の聖地とされていますが、今回は遙拝のみでした。
本堂左手には虚空蔵菩薩のお堂があり、向拝から扉越しに端正なお姿が拝観できます。
萩は参道から本堂前、そして裏山とたくさん植えられています。

2.吉祥山 道光寺 【尾花(すすき)】
埼玉県長瀞町岩田735
臨済宗妙心寺派
御本尊:釈迦如来
御朱印尊格:同上
花期:7月中旬~9月下旬


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 扁額


【写真 上(左)】 尾花-1
【写真 下(右)】 尾花-2


【写真 上(左)】 御朱印(揮毫)
【写真 下(右)】 御朱印(専用御朱印帳)


【写真 上(左)】 台紙スタンプ
【写真 下(右)】 案内サイン
 
寄居方面から入ると最初のお寺で、秩父鉄道「樋口」駅からも近いのでここから打ち始める人も多いかもしれません。県道に面して広いPがあります。

開けた感じの明るい寺で、あちこちで尾花が穂を上げています。
色味に微妙なコントラストがあり、陽光を受けてとても綺麗でした。
山門右手の六地蔵もすすきを背景になかなか画になります。

納経所には地元の方?が何人か詰められてご開帳札所のようです。
御本尊は釈迦如来で、普賢、文殊の両菩薩とともに釈迦三尊形式となっており、御朱印の尊格も”南無釈迦三尊”となっています。


3.野上山 金剛院 遍照寺 【くず】
埼玉県長瀞町野上下郷2322
真言宗智山派
御本尊:神変大菩薩(役行者)
御朱印尊格:同上
花期:8月上旬~9月中旬(葛の花のトンネル)


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝


【写真 上(左)】 くず-1
【写真 下(右)】 くず-2


【写真 上(左)】 御朱印(揮毫)
【写真 下(右)】 御朱印(専用御朱印帳)


【写真 上(左)】 台紙スタンプ
【写真 下(右)】 案内サイン


【写真 上(左)】 役行者のおすがた
【写真 下(右)】 遍照寺

すこし山手に入ったところにあります。徒歩アプローチと車アプローチは別で、車アプローチは距離は短いですが一部未舗装で荒れ気味です。
Pからは山道をトラバース気味に少し下って葛棚をくぐっての風情あるアプローチ。
高台で見晴らしもよい好ロケーションのお寺です。

御本尊は、御本尊としてはめずらしい役行者(神変大菩薩)で、等身大で迫力があります。
脇本尊として不動明王もおわしますが、こちらも古色を帯びられて風格あるお姿でした。

御本尊が役行者ということもあってか、山岳修験的な雰囲気を感じます。由緒書きによると醍醐寺とのつながりを示すものもあるそうです。
御朱印の尊格は”神変大菩薩”。役行者の御朱印はなかなかいただけないのでこれは希少です。


4.長瀞山 五大院 不動寺 【撫子】
埼玉県長瀞町長瀞1753-1
真言宗醍醐派
御本尊:不動明王・五大明王
御朱印尊格:同上
花期:7月下旬~10月上旬(河原撫子約5,000本)


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 扁額


【写真 上(左)】 撫子-1
【写真 下(右)】 撫子-2


【写真 上(左)】 御朱印(揮毫)
【写真 下(右)】 御朱印(専用御朱印帳)


【写真 上(左)】 台紙スタンプ
【写真 下(右)】 案内サイン

宝登山ロープウェイの乗場のそばにあるお寺で、宝登山ロープウェイ駐車場の奥にPがあります。じっさいにはここが最後(結願)のお寺となりました。
なお、ETCによっては全然違う場所をナビされるので、国道から寶登山神社の鳥居をくぐり、左手のロープウェイ乗場の方へ坂を登り、参道をすこし進むと階段手前に駐車スペースがあります。

寶登山は山岳信仰の歴史も古く、寶登山神社・玉泉寺から不動寺にかけてはやはり山岳修験的な雰囲気を感じます。
開山は品川寺三十一世・仲田順和和上(境内縁起書より)で、いまなお真言宗醍醐派別格本山である品川寺との関係が深そうです。
また、「火生三昧・火渡り荒行」が年々厳修されているようです。

本堂はこぢんまりとしていますが、御内陣須弥壇には御本尊不動明王とその脇侍である矜羯羅童子と制多迦童子、そして、東に降三世明王、南に軍荼利明王、西に大威徳明王、北に金剛夜叉明王がおわされる壮麗な五大明王の様式となっています。

筆者参拝時は堂内にあげていただけたので、まぢかで拝することができました。
ふつう不動明王を御本尊とする寺院では、御真言として中咒(慈救咒)が掲げられていることが多いですが、ここでは、大咒(火界咒)、中咒(慈救咒)、小咒(一字咒)と掲げられていて、護摩修行の場としての臨場感があります。(2016年)
御朱印の尊格は”五大力尊”で、これも関東では例のすくないものです。

参道まわりや本堂前に植えられているなでしこは、近年害虫に蕾を食べられてしまうとのことで、かろうじて数輪のみ咲いていました。(2024年)


5.東谷山 真性寺 【女郎花(おみなえし)】
埼玉県長瀞町本野上436
真言宗智山派
御本尊:不動明王
御朱印尊格:同上
花期:7月中旬~9月下旬


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 扁額


【写真 上(左)】 おみなえし-1
【写真 下(右)】 おみなえし-2


【写真 上(左)】 御朱印(揮毫)
【写真 下(右)】 御朱印(専用御朱印帳)


【写真 上(左)】 台紙スタンプ
【写真 下(右)】 案内サイン

アプローチは狭いですが、本堂手前に駐車できるスペースがあります。
規模は大きくないですが、なんとなくほのぼのとした感じのするお寺です。

おみなえしは本堂を囲むようにたくさん植えられていて満開でした。
本堂前には立派な修行大師像が御座されます。
弘法大師御作と伝わる薬師如来像も護持されています。

「幸せを運ぶ青い蜂」ともいわれる”オオセイボウ”が来ていて、写真も撮れました。


【写真 上(左)】 オオセイボウ
【写真 下(右)】 オオセイボウの説明書


6.金嶽山 法善寺 【藤袴(ふじばかま)】
埼玉県長瀞町井戸4176
臨済宗妙心寺派
御本尊:阿弥陀如来
御朱印尊格:同上
花期:9月上旬~10月上旬


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 扁額


【写真 上(左)】 ふじばかま-1
【写真 下(右)】 ふじばかま-2


【写真 上(左)】 御朱印(揮毫)
【写真 下(右)】 御朱印(専用御朱印帳)


【写真 上(左)】 台紙スタンプ
【写真 下(右)】 案内サイン

道沿いに広いP。風格ある山門、楚々とした境内は禅寺の趣。
文明八年(1476年)、初代天神山城主藤田康邦と伝わる古刹です。
境内のあちこちで咲いていたふじばかまは繊細な花姿で、うす紫と白の二種類あります。
すっきりとした御内陣。竜虎の欄間彫刻が見事でした。

御朱印はご住職とおぼしきご高齢の方に揮毫いただけました。味わいのあるすばらしい筆致です。(2016年)


7.金玉山 多宝寺 【桔梗(ききょう)】
埼玉県長瀞町本野上40-1
真言宗智山派
御本尊:十一面観世音菩薩
御朱印尊格:同上
花期:7月下旬~9月下旬


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 扁額


【写真 上(左)】 桔梗-1
【写真 下(右)】 桔梗-2


【写真 上(左)】 御朱印(揮毫)
【写真 下(右)】 御朱印(専用御朱印帳)


【写真 上(左)】 台紙スタンプ
【写真 下(右)】 案内サイン

道沿いに大きなスペースがありますが、Pはさらに奥です。
参道まわりには、如意輪観世音菩薩や馬頭観世音菩薩も御座します。
ちょうど巡礼バスが発車するところで、20人以上も乗っていたと思います。このバスの到着とかちあうと御朱印拝受は時間がかかるのでは?(2016年)
なお、今回御朱印所は最大でも3人待ち、ほとんどは待ちなしでいただけました。御朱印を受けない参拝客もけっこういたので、ウォーキングメインの人も多いのでは。

ききょうは参道まわりや本堂前に植えられています。

御本尊はこの霊場唯一の観音様で行基菩薩御作と伝わります。
十一面観世音菩薩は人々の十一品類の無明煩悩を断ち切る功徳を施すとされ、数々の大寺の御本尊とされる力感のある観音様です。
脇侍は不動明王、毘沙門天の三尊様式です。

 
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長瀞七草寺の御朱印の特徴は、中央の御宝印・三宝印のかわりに花の印判が捺されているところです。
イメージ的にはやさしい感じがありますが、不動明王、釈迦三尊、神変大菩薩、五大力尊、不動明王、阿弥陀如来、十一面観世音菩薩と力感ある尊格が並びます。


【写真 上(左)】 七草寺の御朱印
【写真 下(右)】 不動寺の御朱印所看板


【写真 上(左)】 洞昌院の七草寺霊場の御朱印
【写真 下(右)】 洞昌院の関東三十六不動霊場の御朱印 

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(2016年)
結願後、かなり時間があったので、寶登山神社や秩父十三佛、秩父七福神の札所巡りにモードチェンジ。(御朱印三昧 ^^; )
寶登山神社はさすがですね。空気がちがいます。本殿から藤谷淵神社、日本武尊社、天満天神社、宝玉稲荷神社と回っていくと、なぜかいつの間にか玉泉寺の境内にいるという・・・。
神仏習合、そして特殊な分離の歴史があるそう。(玉泉寺の御朱印は授与されていないようです。)
あと、藤谷淵神社の御祭神にはおどろきました。


【写真 上(左)】 寶登山神社
【写真 下(右)】 寶登山神社の御朱印(2021年)


【写真 上(左)】 寶登山神社の御朱印(2024年)
【写真 下(右)】 寶登山神社の御朱印帳


【写真 上(左)】 玉泉寺山門
【写真 下(右)】 みごとなタマゴタケが生えていました 

寶登山神社奥宮はロープウェイを使ってのアプローチ。
降り場からもそれなりに歩きますので、余裕をもった参拝をおすすめします。


【写真 上(左)】 寶登山神社奥宮
【写真 下(右)】 寶登山奥宮の御朱印

寶登山神社は人気のパワスポらしく、若いカップルや女性グループが目立ちました。人気のかき氷も行列店がいくつかありました。

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長瀞町では、上記のほかつぎの御朱印がいただけます。

普光山 総持寺
埼玉県長瀞町本野上924
臨済宗南禅寺派
御本尊:文殊菩薩
札所:秩父七福神(福禄寿)


※御本尊の御朱印は不授与です。


【秩父満願の湯】
 
【写真 上(左)】 満願の湯
【写真 下(右)】 秩父鹿の味噌焼丼

参拝を終えて、ひさびさに秩父満願の湯に立ち寄りました。
入浴前に「秩父鹿の味噌焼丼」があったので食べてみました。味噌だけでシンプルに仕上げられ鹿肉の滋味が引き立ってなかなか美味でした。こういうのはあまり手を加えずにシンプルに調理した方がいいですね。
連れが注文した”黄金めし(セット)”もなかなか美味でした。(セットでついていた蕎麦のレベルも想定外に高かった。)

脱衣所、露天まわりなどリニューアルされて綺麗になっていました。依然はやや雑多な感じのあった脱衣所&浴場がシックな感じに一新され、これはリニューアルの成功例では。
露天から望む奥長瀞渓谷の佇まいはやはりいいですね。日帰り温泉では関東でも屈指の沢沿い露天ではないでしょうか。

土曜の夜だったのでファミリー客が目立ちました。客回転を速めるためか湯温が高めに設定されていて、子供さんがゆっくり入れる浴槽があまりなくちょっと気の毒でした。

全体にお湯のコンディションは悪くないです。
とくに水風呂は源泉のかけ流しに近い湯づかいで、しっかりイオウ臭が香ります。高アルカリのイオウ重曹泉系の威力発揮でお肌つるつる。
このところ秩父では新木鉱泉ばかり入っていたのですが、新木の”甘イオウ臭たまご水”とはちょっとちがったニュアンスを感じました。
以前のレポはこちら(当サイトでのレポは近日UPの予定。)


【 BGM 】
■ Best Part Of My Life - Marc Jordan


■ You Stand Out - The Manhattans


■ Umoya - Miriam Stockley
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