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関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-10
Vol.-9からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。
■ 第30番 光松山 威盛院 放生寺
(ほうじょうじ)
公式Web
新宿区西早稲田2-1-14
高野山真言宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第30番、江戸三十三観音札所第15番、大東京百観音霊場第19番、山の手三十三観音霊場第16番、九品仏霊場第7番
司元別当:高田穴八幡宮
授与所:寺務所ないし本堂内
第30番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ 』、江戸八十八ヶ所霊場ともに放生寺なので、御府内霊場開創時から一貫して早稲田の放生寺であったとみられます。
縁起・沿革は公式Web、現地掲示に詳しいので、こちらと下記史料を参照してまとめてみます。
放生寺は寛永十八年(1641年)、威盛院権大僧都法印良昌上人が高田八幡(穴八幡宮)の造営に尽力され、その別当寺として開創されました。
良昌上人は周防國の生まれで十九歳の年遁世して高野山に登り、寶性院の法印春山の弟子となり修行をとげられ、三十一歳の頃より諸國修行されて様々な奇特をあらわされたといいます。
寛永十六年(1639年)二月、陸奥国尾上八幡に参籠の夜、霊夢に老翁があらわれ「将軍家の若君が辛巳の年の夏頃御降誕あり、汝祈念せよ」と告げられました。
上人は直ちに堂宇に籠もり、無事御生誕の大願成就行を厳修されました。
寛永十八年(1641年)当地に止錫の折、御弓組の長松平新五左衛門尉源直次の組の者の請を受け、穴八幡宮の別当職に就かれました。
同年の八月三日、草庵を結ぶため山裾を切り闢くと霊窟があり(現在の穴八幡宮出現殿付近)、窟の中には金銅の下品上生阿彌陀如来が立たれていました。
この阿彌陀如来像は八幡宮の御本地で、良昌上人はこの尊像を手篤く奉安。
「穴八幡宮」の号はこの霊窟に由来といいます。
おりしも、この日に将軍家御令嗣・厳有公(竹千代君、4代将軍家綱公)の御誕生があったため、以前から「将軍家若君、辛巳の年の夏頃無事御降誕の行厳修」の譚を聞いていた人々は、その霊威を新たにしたとのことです。
良昌上人が霊夢でみられた「将軍家の若君」は家光公とする資料もありますが、霊夢は寛永十六年(1639年)、家光公の御生誕は慶長九年(1604年)ですから年代が合いません。
家光公嫡男の竹千代君(4代将軍家綱公)は寛永十八年(1641年)八月の御生誕で、この年は辛巳ですから、おそらく良昌上人は竹千代君御生誕の成就祈願行を2年前に厳修したことになります。
『江戸名所図会』にも、「厳有公 御誕生」と明記されています。
なお、穴八幡宮の公式Webによると、高田八幡(穴八幡宮)は「康平五年(1062年)、奥州の乱を鎮圧した八幡太郎源義家公が凱旋の折、日本武尊命の先蹤に習ってこの地に兜と太刀を納めて氏神八幡宮を勧請」とあるので、良昌上人来所以前の創祀とみられます。
『江戸名所図会』には、寛永十三年(1636年)、御弓組の長松平新五左衛門尉源直次の与力の輩が、射術練習のためこの地に的山を築立てた際、弓箭の守護神である八幡神を勧請とあります。
以上から、八幡宮は良昌上人来所(寛永十八年(1641年))以前に当地に勧請されており、良昌上人は同年、霊窟から金銅の御神像(あるいは阿彌陀佛)を得て穴八幡宮と号したことなどでの貢献とみるべきでしょうか。
当地に古松があって山鳩が遊ぶ神木とされ、あるいは暗夜に瑞光を放つことから霊松ともされて、光松山の号はこの松に由来といいます。
慶安二年(1649年)、大猶院殿(徳川家光公)が御放鷹の折に穴八幡宮を訪れ、良昌上人より件の霊夢や大願成就の厳修について聞き及ぶと、「威盛院光松山放生會寺」の号を賜り、以降、別当・放生寺を御放鷹の御膳所とするなど篤く外護しました。
厳有院(4代将軍・家綱公)生誕の霊夢譚、そして家綱公生誕の当日に高田八幡の御本地・金銅阿彌陀佛の降臨とあっては、将軍家としてもなおざりにはできなかったと思われます。
歴代の徳川将軍家の尊崇は、『江戸名所図会』に穴八幡宮の什寶としてつぎのとおり記されていることからもうかがえます。
・台徳院(2代将軍・秀忠公) 御筆、御自賛の和歌
・大猶院(3代将軍・家光公) 賜物の扇子 一握
・常憲院(5代将軍・綱吉公) 御筆の福禄壽御画 一幅
元禄年間(1688-1704年)には宮居の造営あって結構を整えたといい、とくに元禄十六年(1703年)の造営は江戸権現造り社殿として壮麗を極めたといいます。
爾来、将軍家の尊崇篤く、徳川家代々の祈願寺として葵の紋を寺紋に、また江戸城登城の際には寺格から独礼登城三色(緋色、紫色、鳶色)衣の着用を許されたとも。
穴八幡宮の祭礼の八月十五日には放生會で賑わいをみせたといい、現在の放生寺の放生会はその系譜にあるとみられます。
「放生會(ほうじょうえ)」とは、捕らえられた魚介、鳥、動物などを殺生せずに池、川や山林に放す法事で、養老四年(720年)宇佐八幡宮で行われた放生會が発祥ともされることから、八幡宮社・八幡社で多く催されます。
江戸期の放生寺は穴八幡宮別当としてその地位を固め、一帯は神仏習合の一大霊場として栄えたことは、『江戸名所図会』の挿絵からもうかがえます。
しかし、穴八幡宮とこれだけ強固な神仏習合関係を築きながら、明治初期の神仏分離で放生寺が廃されなかったのはある意味おどろきです。
そのカギはひょっとして別当寺と神宮寺の別にあるのかもしれません。
放生寺の公式Webに唐突ともいえるかたちで、以下の説明が記載されています。
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別当寺 べっとうじ
神宮寺の一種。神社境内に建てられ、別当が止住し、読経・祭祀・加持祈祷とともに神社の経営管理を行なった寺。
神宮寺 じんぐうじ
神社に付属して建てられた寺院。神仏習合思想の現れで、社僧(別当)が神社の祭祀を仏式で挙行した。1868年(明治1)の神仏分離令により廃絶または分離。宮寺。別当寺。神護寺。神宮院。神願寺。
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明治の神仏分離で廃絶されたのは「神宮寺」で、「別当寺」は神宮寺の一種ながら廃絶を免れたと読めなくもありません。
(別当寺の説明で「神仏習合」ということばを用いていない。)
神宮寺と別当寺の別は、わが国の神仏習合を語るうえで避けてとおれない重要な事柄ですが、すこぶるデリケートかつ複雑な内容を含むので、ここではこれ以上触れません。
ひとつ気になるのは、『御府内八十八ケ所道しるべ 』では放生寺の御本尊は阿弥陀如来(穴八幡宮の御本地)となっているのに、現在の御本尊は聖観世音菩薩(融通虫封観世音菩薩)であることです。
この点について、現地掲示には「代々の(放生寺)住職が社僧として寺社一山の法務を司っておりましたが、明治二年、当山十六世実行上人の代、廃仏毀釈の布告に依り、境内を分割し現今の地に本尊聖観世音菩薩が遷されました。」とあります。
放生寺は明治二年に現在地に伽藍を遷し、そのときに聖観世音菩薩を御本尊とされたのでは。
以前の御本尊?の阿弥陀如来は、江戸時代に九品仏霊場第7番(下品上生)に定められた著名な阿弥陀様です。
(九品仏霊場の札所一覧は→こちら(「ニッポンの霊場」様))
一方、放生寺は江戸期から複数の観音霊場の札所で、観音様(おそらく融通虫封観世音菩薩)の信仰の場でもありました。
あるいは八幡宮との習合関係のうすい聖観世音菩薩を御本尊とすることで、神宮寺の性格(御本地が御本尊)をよわめたのかもしれません。
ともあれ御府内霊場第30番札所の放生寺は、明治初期の廃仏毀釈の波を乗り切って存続しました。
現在も高野山真言宗準別格本山の高い格式を保ち、複数の霊場札所を兼務されて多くの参拝客を迎えています。
放生寺と穴八幡宮は現在はそれぞれ独立した寺社ですが、いずれも「一陽来福」「一陽来復」ゆかりの寺社として知られています。
「一陽来福」(「一陽来復」)とは冬至をあらわす中国の易経の言葉で、「陰極まって一陽を生ずる」の意とされます。
「一陽と共に福もかえり来る」、来る年も福がまた訪れますように、との祈念を込めて参詣し、「一陽来福」(「一陽来復」)のお札をいただいて、冬至、大晦日、節分の深夜に恵方(「明の方」、歳徳神のおわす方角)に向けて貼るといいます。
放生寺の「一陽来福」は、御本尊・聖観世音菩薩ゆかりの「観音経の結びの「福聚海無量」=福聚(あつ)むること海の如く無量なり と言う偈文より「福」の字を取り「一陽来福」と名付けられました。」とのこと。(当山Webより)
御本尊・聖観世音菩薩は古来より融通・虫封観世音と呼ばれ、「融通=滞りなく通じる」から商家はもとより円満な人間関係(融通円満)の祈願本尊として信仰を集めており、冬至、大晦日、節分には「一陽来福」「融通」「虫封」を祈念する参詣者でことに賑わいをみせます。
一方、穴八幡宮の「一陽来復」は公式Webによると「福神(打出小槌)」に由来するものです。
『新編武蔵風土記稿』には、聖武天皇の御代に公家の水無瀬家の息女が感得されたもので、祈願の趣を掌に書き、この小槌でその掌を打てば所願成就とあります。
穴八幡宮公式Webには「公家の水無瀬家が山城国国宝寺より感得したものを当社に納めたもので、聖武天皇が養老七年の冬至の日に龍神により授けられた宝器」とあります。
穴八幡宮の「一陽来復御守」は江戸中期から冬至の福神祭に授与された歴史あるもので、「金銀融通の御守」とも呼ばれて、授与時には多くの参詣客で賑わいます。
なお、穴八幡宮の御朱印は「一陽来復」が揮毫される貴重なものですが、冬至から節分にかけては授与されておりません。
【写真 上(左)】 穴八幡宮の社頭
【写真 下(右)】 穴八幡宮の御朱印
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【史料】 ※なぜか『寺社書上』『御府内寺社備考』には記載がありません。
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
三十番
高田穴八まん
光松山 威盛院 放生會寺
高野山宝性院末 古義
本尊:阿弥陀如来 本社八幡宮 弘法大師
■ 『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
(下戸塚村(穴)八幡社)別当放生會寺
古義真言宗、高野山寶性院末、光松山威盛院ト号ス 本尊不動を安ス 開山良昌ハ周防國ノ産ニテ 俗称ハ榎本氏 高野山寶性院青山ニ投ジテ薙染シ 諸國ヲ経歴シテ 寛永十六年(1616年)陸奥國尾上八幡ニ参籠ノ夜 将軍家若君辛巳年夏ノ頃御降誕アルヘキ由霊夢ヲ得タリ 其後当國ニ来リ シルヘノ僧室ニ暫ク錫ヲ止メシニ 同十八年(1618年)松平新五左衛門カ組ノ者ノ請ニ任セ当社((穴)八幡社)ノ別当職トナレリ 此年(寛永十八年(1641年))厳有院殿御降誕マシ々々 カノ霊堂ニ符合セリ 此事イツトナク上聞くニ達セシカハ 大猶院殿御放鷹ノ時当山ニ御立寄アリテ 良昌ヲ召サセラレ社ノ由緒ヲ聞シメサレ 光松山放生會寺ノ号ヲ賜ハレリト云 是ヨリ以来此邊御遊猟ノ時ハ 当寺ヲ御膳所ニ命セラレテ今ニ然リ
什寶
柳ニ竹ノ御書一幅 台徳院殿ノ御筆ト云 御自賛ノ和歌アリ
柳チル カタ岡ノヘノ秋風ニ 一ツフタツノ家ニカクルヽ
扇子一握 大猶院殿ノ賜物ニテ開山良昌拝領す、便面ス便面ニ御筆ノ詩歌アリ
飛鳥去邊山侶眉 空低水潤影遅遅 上林雖好非栖處 一任千枝與萬枝
雁カヘル常世ノ花ノイカナレヤ 月ハイヅクモ霞ム春ノヨ
福禄壽御画一幅 常憲院殿ノ御筆ナリ 落款ニ御諱アリ
楊柳観音画像一幅
百體大黒天画像一幅
(略)
不動愛染ノ画像各幅 弘法大師筆
心経一巻 同筆。
十六善神画像一幅
(略)
打出小槌 由来記一巻アリ其略ニ
此槌●紳家水無瀬家ノ女感得セシ所也 昔聖武天皇ノ此ノ如キ寶物ヲ山城國●原ノ一宇ニ御寄納アリシカハ 彼寺ヲ寶寺ト号ス 信心ノ男女祈願ノ意趣ヲ掌ニ書シテ 此槌モテソノ掌ヲ打テハ所願成就スト云
(略)
寺中 松済院 光済院 是ハ廃院トナリテ末再建ニ及ハス
■ 『江戸名所図会 第2 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)〔要旨抜粋〕
高田八幡宮 穴八幡
牛込の総鎮守 別当は真言宗光松山 放生會寺
祭礼は八月十五日にて、放生會あり
寛永十三年(1636年)御弓組の長松平新五左衛門尉源直次に与力の輩、射術練習の為、其地に的山を築立てらる。
八幡宮は源家の宗廟にして而も弓箭の守護神なればとて、此地に勧請せん事を謀る。
此山に素より古松二株あり。其頃山鳩来つて、日々に此松の枝上に遊ぶを以て、霊瑞とし、仮に八幡大神の小祠を営みて、件の松樹を神木とす。此地昔は阿彌陀山と呼び来りしとなり。
(略)
寛永十八年(1641年)の夏、中野寶仙寺秀雄法印の會下に、威盛院良昌といえる沙門あり。周防國の産にして、山口八幡の氏人なり。十九歳の年遁世して、高野山に登り、寶性院の法印春山の弟子となり、一紀の行法をとげて、三十一の時より、諸國修行の志をおこし、其聞さまざまの奇特をあらはせりといふ。依てこの沙門を迎へて、社僧たらしむ。
同年の秋八月三日、草庵を結ばんとして、山の腰を切り闢く時に、ひとつの霊窟を得たり。
その窟の中石上に、金銅の阿彌陀の霊像一軀たたせ給へり。八幡宮の本地にて、しかも山の号に相応するを以て奇なりとす。穴八幡の号ここに起れり。又此日将軍御令嗣 厳有公 御誕生ありしかば、衆益ますその霊威をしる。
其後元禄年間(1688-1704年)、今の如く宮居を御造営ありて、結構備れり。
若宮八幡宮 本社の前右
東照大権現 同所
氷室大明神 本社に相対す
光松 別当寺と本社との間、坂の支路にあり。暗夜には折として瑞光を現ず。
放生池 本社の左
出現所 坂の半腹、絶壁にそひてあり 往古の霊窟の舊址なり。近頃迄其地に出現堂となづけて、九品佛の中、下品上生の阿彌陀如来の像を安置せし堂宇ありしが。今は見えず。
そもそも当社の別当寺を光松山と号くるも、神木の奇特によそへてなり。
「放生會寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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放生寺は高田・西早稲田方面から東に向かって早稲田の低地に突き出す台地の突端に、穴八幡宮と並ぶようにしてあります。
江戸期は低地から仰ぎ見る台地の寺社として、ことにランドマーク的な偉容を誇ったと思われます。
東京メトロ東西線「早稲田駅」徒歩2分と交通至便です。
周辺には絵御朱印(御首題)で有名な法輪寺、豊島八十八ヶ所霊場第3番の龍泉院、御府内霊場第52番の観音寺、早稲田大学合格祈願で知られる宝泉寺、そして穴八幡宮など都内有数の御朱印エリアとなっています。
放生寺はその縁起・沿革から穴八幡宮とのゆかりがふかいので、一部穴八幡宮の社殿等も併せてご紹介します。
早稲田通り、諏訪通り、早大南門通りが交差する「馬場下町」交差点。
早稲田大学のキャンパスに近く活気ある街なかに、穴八幡宮の朱色の明神鳥居と背後の流鏑馬の銅像が存在感を放っています。
この流鏑馬造は、享保十三年(1726年)、徳川8代将軍吉宗公が御世嗣の疱瘡平癒祈願の為に催した流鏑馬を起源とする「高田馬場の流鏑馬」が、昭和9年皇太子殿下御誕生奉祝のため、穴八幡宮境内にて再興されたことに因むものです。(現在は戸山公園内で開催)
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 参道
放生寺の参道は、ここから左手の諏訪通りに入ってすぐのところにあります。
おのおの入口はことなりますが、両社寺の敷地は重なるように隣接しています。
諏訪通りから伸びる急な登り参道で、放生寺が台地の山裾に位置していることがわかります。
山内は南西向きで明るい雰囲気。
【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 札所標
参道のぼり口に寺号標と「一陽来福の寺」の碑、そして御府内霊場、江戸三十三観音霊場の札所標。
参道途中には「光松山 観世音菩薩 虫封霊場 放生寺」の碑もあります。
【写真 上(左)】 虫封の碑
【写真 下(右)】 寺務所
参道右手上方の朱塗りの建物はおそらく穴八幡宮の出現殿(平成18年再建)で、往年の神仏習合のたたずまいを彷彿とさせます。
坂の正面に見えるのは唐破風軒の寺務所(客殿?)、その手前に本堂。
山内入口手前左手に手水舎と、その奥にある朱塗りの堂宇は神変大菩薩のお堂です。
神変大菩薩(役の行者)は、主に修験系寺院や神仏習合の色あいの強い寺院で祀られます。
当尊のご縁起は定かでないですが、かつての神仏習合の流れを汲む尊格かもしれません。
【写真 上(左)】 神変大菩薩堂
【写真 下(右)】 本堂
階段のうえにおそらく入母屋造瓦葺流れ向拝の本堂。
朱塗りの身舎に五色の向拝幕を巡らせて、観音霊場らしい華々しい雰囲気。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 大提灯
おそらくコンクリート造の近代建築ながら、向拝まわりは水引虹梁両端に木鼻、頭貫上に斗栱、中備に板蟇股など伝統的な寺社建築の特徴を備えています。
向拝見上げに「聖観世音」と徳川家ゆかりの葵紋を掲げた大提灯。
さらにその奥に「聖観自在尊」の扁額。
【写真 上(左)】 扁額と葵紋
【写真 下(右)】 修行大師像
身舎柱には御府内霊場・観音札所の札所板と「高野山真言宗準別格本山」を示す寺号板が掲げられています。
向拝左右は授与所となっていて、こちらで御朱印をいただいたこともあれば、寺務所で拝受したこともあります。
【写真 上(左)】 札所板
【写真 下(右)】 寺号板
本堂向かって左には端正な修行大師像が御座します。
本堂向かって右には放生供養碑と馬頭観世音菩薩立像。
整った像容で、忿怒尊である馬頭尊の特徴がよく出ています。
掲示によると、馬頭尊は畜生道を救うことから、放生会を厳修する当山でお祀りされているそうです。
【写真 上(左)】 放生供養碑と馬頭観世音菩薩
【写真 下(右)】 御府内霊場札所標
このあたりからは、上方に穴八幡宮の鼓楼(以前は鐘楼)がよく見えます。
鼓楼は平成27年の再建。名刹の山門を思わせる楼門の建立は平成10年。
穴八幡宮が次第にかつての神仏習合の姿を取り戻しているかのようです。
とくにある意味「本地堂」ともいえる「出現殿」を再建されるとは、往時の姿の復興に対する明確な意思が感じられます。
「放生會寺」/原典:斎藤幸雄 [等著] ほか『江戸名所図会』第2,有朋堂書店,昭2.国立国会図書館DC(保護期間満了)
また、『江戸名所図会』と見比べてみると、出現殿といい、鼓楼といい、往時に忠実に場所を選んで再建されていることがわかります。
関東の八幡宮の神仏習合例として、明治初頭までは鎌倉・鶴岡八幡宮(鶴岡八幡宮寺)が代表格でしたが、廃仏毀釈で多くの伽藍堂宇を失い神宮寺も現存していません。
なので、穴八幡宮と放生寺が現存している(というか復興が進む)この界隈は、往年の八幡宮の神仏習合の姿を味わえる貴重な空間だと思います。
御朱印は寺務所ないし本堂内で拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「聖観世音」「弘法大師」の揮毫と聖観世音菩薩のお種子「サ」の揮毫と三寶印。
右上に「弘法大師御府内三十番」の札所印。左下に山号寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 江戸三十三観音札所の御朱印
※御本尊御影印の御朱印も授与されている模様です。
■ 第31番 照林山 吉祥寺 多聞院
(たもんいん)
新宿区弁天町100
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第31番、大東京百観音霊場第60番、秩父写山の手三十四観音霊場第26番
司元別当:
授与所:庫裡
新宿区弁天町にある真言宗豊山派で、烏山の多聞院(第3番札所)との区別の意味合いもあって、牛込多聞院と呼ばれます。
第31番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに多聞院なので、御府内霊場開創時から一貫して多聞院であったとみられます。
縁起・沿革について、下記史料、現地掲示、「ルートガイド」を参照に追ってみます。
多聞院は天正年間(1573-1592年)に平河口(現在の千代田区平河町)に起立し、慶長十二年(1607年)江戸城造営のため牛込門外外濠通りに移転、寛永十二年(1635年)、境内がお堀用地となったため現在地の辨天町に移転したといいます。
法流開山は覺祐上人(天正年中(1573-1592年)遷化)、中興開山は覺彦律師と伝わります。
※現地掲示には、寛永年間(1624-1629年)に法印覚賢により開創とあります。
『寺社書上』、『御府内寺社備考』ともに、御本尊は三身毘沙門天となっていますが、『御府内八十八ケ所道しるべ天』には本尊:大日如来 三身毘沙門天王 弘法大師とあります。
弘法大師はもとより、本堂御本尊の三身毘沙門天王、位牌堂御本尊の金剛界大日如来が拝所となっていた可能性があります。
『寺社書上』には、御本尊尊三身毘沙門天王は「楠正成之守本尊」とありますが、詳細については不明。
現在の御本尊は大日如来ですが、院号に多聞院とあるとおり、毘沙門天とゆかりのふかい寺院と思われます。
「多聞院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
三十一番
牛込七軒寺町門前町あり
照林山 吉祥寺 多聞院
西新井村惣持寺末 新義
本尊:大日如来 三身毘沙門天王 弘法大師
■ 『寺社書上 [33] 牛込寺社書上 六』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考 P.122』
武州足立郡西新井村 惣持寺末
牛込七軒寺町
林山 吉祥寺 多聞院
新義真言宗
開山不分名
法流開山 覺祐上人 遷化年代●不詳
中興開山(寛永年中) 覚彦律師● 湯島霊雲寺開山
本堂
本尊 三身毘沙門天 大黒毘沙門 弁財天之三身一体之木像
●教大師之作 楠正成之守本尊 楠正成之末孫に沙門●●と申者当寺●●来案す●る事
唐●双身毘沙門天立像 弘法大師作
聖天堂
●金観喜天王立像
唐金地蔵尊
稲荷大明神
天満宮社
位牌堂
本尊 金剛界大日如来木立像 運●作
毘沙門天画像 弘法大師筆
(付記)
開山ハ覚●法印といふ 寛永十六年七月寂
■ 『牛込区史』(国立国会図書館)
昭林山吉祥寺多聞院
新井總持寺末
年代不詳、平河口に起立、慶長十二年(1607年)牛込門外外濠通りに移転、寛永十二年(1635年)辨天町に移つた。法流開山覺祐上人、天正年中(1573-1592年)遷化。中興開山覺彦律師。舊境内拝領地千九百廿五坪。
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外苑東通り(都道319号)は、江戸川橋そばの鶴巻町から弁天町~牛込柳町と南下して青山、六本木を経て麻布台に至ります。
弁天町~牛込柳町あたりは南北の谷筋を走り、とくに東側は坂が多くみられます。
『江戸切絵図』と現代の地図を見比べてみると、かつての七軒寺町の通りがほぼ現在の外苑東通りとなっていることがわかります。
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』市ヶ谷牛込絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
最寄りは都営大江戸線「牛込柳町」駅。徒歩5分ほどです。
「牛込柳町」周辺は、日蓮宗江戸十大祖師の幸國寺、新宿山之手七福神の経王寺、曹洞宗の法身寺、顕本法華宗の常楽寺、日蓮宗の瑞光寺など、多彩な宗派の御朱印・御首題が拝受できるエリアとなっています。
多聞院のお隣の浄輪寺には江戸時代の和算家で算聖とあがめられた関孝和の墓があり、御首題も授与されています。
【写真 上(左)】 参道入口(工事中)
【写真 下(右)】 山院号表札
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 鐘楼
多聞院の入口は外苑東通りに面し、やはり坂道の参道となっています。
入口にはコンクリ造の山門がありその上部の鐘楼もスクエアなコンクリ造でモダンなイメージ。
左手には真新しい「牛込四恩の杜」(公園墓地?)があり、よく整備された印象です。
【写真 上(左)】 整備された山内
【写真 下(右)】 参道
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂
少し参道をのぼると、いきなり寺院づくりの本堂があらわれます。
本堂向かって左手の庫裡もモダンなイメージですが、本堂まわりだけは伝統的な寺院のイメージを保ち、独特のコントラスト。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝と整った意匠で、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、中備に蟇股を備え、向拝見上げに山号扁額を掲げています。
勢いのある降り棟と留蓋上の獅子飾りがいい味を出しています。
【写真 上(左)】 正等大阿闍梨供養塔
【写真 下(右)】 御府内霊場開創記念碑
山内には、御府内霊場の開基とも伝わる正等和尚の墓?(供養塔)、御府内霊場開創記念碑があります。
供養塔には「御府内八十八ヶ所開基 (通種子・ア)正等大阿闍梨百五十年供養塔 大正十二年六月十二日 大僧正●●●」とあります。
また、別の碑(祈念碑?)には「(梵字)府内八十八霊場開創」とあります。
【写真 上(左)】 吉川湊一の墓
【写真 下(右)】 庫裡
平家琵琶の奥義を極め、検校にまで昇進した吉川湊一(1748-1829年)、大正時代の女優・松井須麿子、大正時代の詩人・生田春月の墓所もあります。
御朱印は本堂向かって左のモダンな庫裡で拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊大日如来」「弘法大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「第三十一番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています
■ 第32番 萬昌山 金剛幢院 圓満寺
(えんまんじ)
文京区湯島1-6-2
真言宗御室派
御本尊:不動明王・十一面観世音菩薩
札所本尊:不動明王・十一面観世音菩薩
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第32番、弘法大師二十一ヶ寺第1番、御府内二十八不動霊場第25番、江戸坂東三十三ヶ所観音霊場第1番、弁財天百社参り番外27
司元別当:
授与所:ビル内寺務所
第32番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに圓満寺なので、御府内霊場開創時から一貫して湯島の圓満寺であったとみられます。
下記史料を参照して縁起・沿革を追ってみます。
圓満寺は、寶永七年(1710年)、木食覺海義高上人が湯島の地に梵刹を建て、萬昌山圓満寺と号したのが開山といいます。
開山の「木食義高」に因んで「木食寺」とも呼ばれます。
義高上人は、足利13代将軍義輝公の孫義辰の子とも(義輝公の孫とも)伝わります。
幼くして出家、日向國佐土原の福禅寺に入り木食となりました。
寛文八年(1668年)から東国に下り各地に堂宇を建立、大いに奇特をあらわされて伝燈大阿闍梨権僧都法印に任ぜられました。
元禄四年(1691年)江戸に赴かれ本郷三組町に住むと、常憲公(5代将軍徳川綱吉公)や浄光院殿(綱吉公の正室・鷹司信子)の帰依を受け御祈祷を申しつけられています。
文昭公(6代将軍家宣公)の帰依も受け、家宣公は上人を以て当寺の(公的な?)開山とされたとのこと。
当山は開創時から真言宗御室派(当時は仁和寺御室御所)と所縁があったとみられます。
義高上人と御室御所について、『江戸名所図会』に「延寶七年(1679年)御室宮へ参るに、高野山光臺院の住持職に任ぜらる。」とあります。
「御室宮」はおそらく「仁和寺御室御所」で、上人は「御室御所」に参内された後、高野山光臺院の住持職に任ぜられています。
高野山光臺院は現存し、その公式Webには「当院は白河天皇の第四皇子覚法親王の開基で(約900年前)以来27代にわたり法親王方が参籠されている。それによって当院は「高野御室」と称され、非常に由緒ある名刹」とあります。
さらに「御室御所」についてたどってみます。
仁和寺の公式Webには「仁和2年(886年)第58代光孝天皇によって「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願されたことに始まります。しかし翌年、光孝天皇は志半ばにして崩御されたため、第59代宇多天皇が先帝の遺志を継がれ、仁和4年(888年)に完成。寺号も元号から仁和寺となりました。」「宇多天皇は寛平9年(897年)に譲位、後に出家し仁和寺第1世 宇多(寛平)法皇となります。以降、皇室出身者が仁和寺の代々住職(門跡)を務め、平安〜鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保ちました。」とあります。
高野山光臺院は高野山内の門跡寺院で、その由緒から仁和寺御室御所と関係があり「高野御室」と称されていたのでは。
義高上人は仁和寺御室御所に参内してその才を認められ、時をおかずに御室御所所縁の高野山光臺院の住持職に任ぜらたのではないでしょうか。
むろん氏素性の明らかでない者が門跡寺院に参内できる筈はなく、おそらく義高上人が足利13代将軍義輝公の曽孫(ないし孫)という出自が効いたものと思われます。
中世の東密(真言宗)は小野六流・広沢六流の十二流に分化し、そこからさらに法脈を広げたといいます。
このうち広沢流の中心となったのが仁和寺御室御所です。
いささか長くなりますが、その経緯について『呪術宗教の世界』(速水侑氏著)を参照してたどってみます。
第52代嵯峨天皇は弘法大師空海の理解者で、東寺を賜った帝として知られています。
第59代の宇多天皇も仏教、ことに密教への帰依篤く、寛平九年(897年)の突然の譲位は、仏道に専心するためという説があるほどです。
宇多天皇は東寺長者の益信僧正(本覚大師)に帰依されたといいます。
益信僧正は弘法大師空海から第4世の直系で、東密広沢流の祖とされる高僧です。
昌泰二年(899年)、33歳の宇多上皇が仁和寺で出家する際に、益信僧正は受戒の師となり寛平法皇(法号は空理)と号されました。
延喜元年(901年)12月、益信僧正は東寺灌頂院にて法皇に伝法灌頂を授け継承者とされたといいます。
延喜四年(904年)、法皇は仁和寺に「御室御所」を構えられ、以降、仁和寺は東密の門跡寺院として寺勢大いに振いました。
法皇の弟子の寛空は嵯峨の大覚寺に入られ、寛空の弟子の寛朝は広沢に遍照寺を開かれました。
この寛平法皇(宇多天皇)所縁の法流が、後に「広沢流」と呼ばれることとなります。
一方、醍醐寺を開かれた聖宝(理源大師)ないしその弟子筋の仁海(小野僧正)も法流を興され、こちらは「小野流」と呼ばれます。
洛東の小野、洛西の広沢は東密の二大潮流となり、さらに分化していきました。
広沢流:仁和御流、西院流、保寿院流、華蔵院流、忍辱山流、伝法院流の六流
小野流:勧修寺(小野)三流(安祥寺流、勧修寺流、随心院流)
醍醐三流(三宝院流、理性院流、金剛王院流)の六流
これらを総じて「野沢(やたく)十二流」といいます。
広沢流と小野流の違いについては、
・広沢流は儀軌を重視、小野流は口伝口訣を重視
・広沢流は「初胎後金」、小野流は「初金後胎」(両部灌頂を行うときに胎蔵界、金剛界いずれを先にするかの流儀)
などが論じられるようです。
東密が分化したのは事相(修法の作法など)の研究が進んだため、というほど修法の存在は大きく、たとえば雨乞いの修法を修するときに
・広沢流は孔雀経法、小野流は請雨経法
という説もみられたようです。
『呪術宗教の世界』では、例外もみられるとして修法における差異については慎重に扱われていますが、それだけ東密に対する「秘法」の要請が強かったとしています。
(「他の流派にない霊験ある秘法を相承することで、貴族たちの呪術的欲求にこたえ、流派独自の秘法として主張喧伝された。」(同書より抜粋引用))
話が長くなりました。
ともあれ、仁和御流は高い格式をもつ門跡寺院・仁和寺を中心に東密「広沢流」の中核をなしました。
なお、Wikipediaには「仁和寺の仁和御流(真言宗御室派)」と記され、仁和御流が真言宗御室派に承継されていることを示唆しています。
仁和御流(真言宗御室派)は西日本中心の流派で、現在の総本山は仁和寺(京都市右京区)、大本山は金剛寺(大阪府河内長野市)と大聖院(広島県廿日市市)、準大本山は屋島寺(香川県高松市)です。
別格本山もほとんどが西日本で、これは仁和寺は江戸時代末期まで法親王(皇族)を迎えた門跡寺院で、京の皇室との所縁が深いということがあるのでは。
しかし、江戸時代の江戸にも仁和寺末を名乗る寺院はいくつかありました。
そのひとつが湯島の圓満寺です。
寶永七年(1710年)、義高上人が湯島の地に圓満寺を開山された以前に、上人は「御室御所」と所縁をもち、おそらく「御室御所」から高野山光臺院(「高野御室」)の住持職を託されています。
その義高上人が江戸に開山された圓満寺が「京仁和寺末」となるのは、自然な流れかと思われます。
(『御府内寺社備考』に「御室御所より院室御影●之節 圓満寺の寺号(以下不詳)」とあり。)
御府内霊場では当山のほか、第41番密蔵院が真言宗御室派です。
義高上人は日暮里の補陀落山 養福寺(豊島霊場第73番ほか)を中興開山と伝わりますが、養福寺は真言宗豊山派(新義真言宗)となっています。
Wikipediaによると、明治初期の火災で伽藍を焼失し、明治20年に相模の大山寺の協力の下で再建されたものの関東大震災、東京大空襲で焼失しています。
昭和38年木造の本堂が再建、昭和53年にはRC造の「おむろビル」に改築され、ビル内の寺院となっています。
なお、Wikipediaには「御室派総本山仁和寺の東京事務所」とあり、おむろビルの袖看板にも「総本山 仁和寺 東京事務所」とあります。
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
三十二番
ゆしま四丁目
萬昌山 金剛幢院 圓満寺
御直末
本尊:十一面観世音菩薩 不動明王 弘法大師
■ 『寺社書上 [68] 湯嶋寺院書上 全』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考 P.2』
本寺 御室御所仁和寺宮 (御室御所院室)
湯島 不唱小名
萬昌山 金剛幢院 圓満寺
開山 開山木食覺海義高僧正者 将軍光源院(足利)義輝公の御子
本堂
本尊 七観音尊木立像 紀伊殿●御寄附
十一面観世音尊 秘佛 如意法尼内親王之御作
歓喜天尊 秘佛
多聞天木立像 開山義高僧正作
両部大日如来木座像
不空羅索尊木座像
千手観音尊木座像
薬師如来木座像 日光月光立像 十二神将立像
愛染明王木座像
孔雀明王尊影
五大虚空蔵尊影
常倶梨天尊影
位牌所
地蔵菩薩木立像(ほか)
鐘楼堂
阿弥陀如来天竺佛座像 等持院殿守本尊
当寺開山義高権僧正御影
弘法大師●筆 楷書心経巻物
六観音 弘法大師之作
辨財天木座像 弘法大師之作
胎蔵界大日如来木座像 弘法大師之作
御香宮明神木像
三尊来迎
天満宮渡唐神像
十六善神
地蔵尊 二童子有
刀八毘沙門天神像 尊氏公軍中守本尊
大師目引之尊影 真如親王之御筆 高野山御影堂に有し●
十六羅漢御影
阿育王塔石
多寶塔
護摩堂
不動明王 二童子附 秘封 弘法大師作
前立五大尊明王
閻魔天木座像
金佛地蔵尊座像
秋葉社
鐘楼堂
辨財天社
辨財天女木立像
稲荷大明神 秘封
大黒天木立像
恵比須神木座像
千手観音木座像
青面金剛木立像
地蔵堂 石地蔵尊立像
七観音堂 本堂の左にあり
十一面観音
■ 『江戸名所図会 第3 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)〔要旨抜粋〕
萬昌山圓満寺
湯島六丁目にあり。真言宗にして、開山は木食義高上人なり。本尊十一面観世音、如意法尼の御作なり。法尼は淳和帝の妃にして弘法大師の御弟子なり。左右に六観音を安置す。当寺を世に木食寺と称す。
寺伝に曰く、開山木食義高上人は覺海と号す。足利十三代将軍義輝公の孫義辰の息なり。
日向國に産る。幼より瑞相あるに仍て出家し、肥後國(日向國?)佐土原の福禅寺に入りて、覺深師に随従し、木食となれり。寛文八年(1668年)、衆生化益のために東奥に下り、あまねく霊地を拝しこゝかしこに堂宇を建立す。(略)伝燈大阿闍梨権僧都法印に任ぜらる。其後西國に赴くの頃も、大に奇特を顕す。延寶三年(1675年)都に上り堀河姉小路多聞寺に止宿(略)延宝五年(1677年)江城湯島の地に至り、大に霊験をあらはす。延寶七年(1679年)御室宮へ参るに、高野山光臺院の住持職に任ぜらる。元禄四年(1691年)志願によって光臺院を辞して江戸に赴き、本郷三組町に住せらる。常憲公(5代将軍徳川綱吉公)および浄光院殿(綱吉公の正室・鷹司信子)、須山女を以て御祈祷を仰附けらる。寶永六年(1709年)上京(略)寶永七年(1710年)江戸湯島の地に梵刹を建てゝ、萬昌山圓満寺と号す。文昭公(6代将軍家宣公)の御志願に仍て、則ち上人を以て当寺の開山とす。
「圓満寺」/原典:斎藤幸雄 [等著] ほか『江戸名所図会』第3,有朋堂書店,昭2.国立国会図書館DC(保護期間満了)
「圓満寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本郷湯島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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JR・メトロ丸ノ内線「お茶ノ水」駅から徒歩約5分、オフィス街に建つ「おむろビル」のなかにあります。
現在、土祝日はビルのセキュリティの関係上入館不可につき平日のみ参拝可のようです。
ごくふつうのオフィスビルのエントランスですが、袖看板に「圓満寺」とあり、かろうじて館内に寺院があることがわかります。
【写真 上(左)】 おむろビル全景
【写真 下(右)】 寺号標
【写真 上(左)】 寺号の袖看板
【写真 下(右)】 行事予定
貼り出されていた行事予定によると、不動護摩祈祷や写経会が開催されているようです。
【写真 上(左)】 エントランス
【写真 下(右)】 8階エレベーターホールの「授与所」
受付は8階、本堂は9階でエレベーターでのぼりますが、通常9階は不停止となっているようです。
8階にどなたかおられるときは、申し入れれば本堂参拝可能な模様ですが、筆者参拝時(2回)はいずれもご不在で、8階からの遙拝となりました。
8階にはエレベーターホールに書置御朱印が置かれているので、ここから遙拝しました。
上層階の御本尊に向かって、階下のエレベーターホールからの参拝ははじめてで、不思議な感じですが、これはこれで「都心のお遍路」ならではの雰囲気は味わえるかと思います。
史料によると、当山は数多くの尊像を奉安されていたようですが、そのお像は現在本堂に安置されているのでしょうか。
『寺社書上』(文政年間(1818-1831年))では、御本尊は七観音木像。
『御府内寺社備考』(同)では本堂本尊は七観音木像、十一面観世音(秘佛、如意法尼内親王御作)。
『江戸名所図会』(天保年間(1831-1845年))では、御本尊は十一面観世音(如意法尼の御作)。
『御府内八十八ケ所道しるべ』(幕末-明治)では、札所本尊は十一面観世音菩薩、不動明王、弘法大師とあります。
さらにWikipediaには「明治初期の火災までは、以下の寺宝があった。 七観音(旧本尊)」とあります。
また『御府内寺社備考』には「七観音堂 本堂の左にあり 十一面観音」「護摩堂 不動明王 二童子付秘封 弘法大師作」とあります。
以上から、江戸時代の御本尊は七観音木像、ないし十一面観世音(如意法尼内親王御作)とみられます。
七観音木像は明治初期の火災で焼失?し、御本尊は十一面観世音菩薩(如意法尼内親王御作)となり、明治20年に「関東三大不動」で不動尊とのゆかり深い相模・大山寺の協力で再建された際に、十一面観世音菩薩・不動明王の両尊御本尊となったのでは。
こちらの不動明王は、護摩堂本尊の不動明王(弘法大師御作)、ないしは大山寺から奉安された尊像と考えられます。
明治初期来、数度の火災に遭い古文書など焼失されているようなので詳細は不明です。
御朱印は8階エレベーターホールに置かれていたものを拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳(規定用紙貼付)
中央に「本尊不動明王」「十一面観世音菩薩」「弘法大師」の印判と十一面観世音菩薩のお種子「キャ」の印判と不動明王のお種子「カン/カーン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内第三十二番」の札所印。山号の印判と寺院印が捺されています。
以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-11)
【 BGM 】
■ 名もない花 - 遥海
■ 栞 - 天野月 feat.YURiCa/花たん
■ Parade - FictionJunction
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。
■ 第30番 光松山 威盛院 放生寺
(ほうじょうじ)
公式Web
新宿区西早稲田2-1-14
高野山真言宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第30番、江戸三十三観音札所第15番、大東京百観音霊場第19番、山の手三十三観音霊場第16番、九品仏霊場第7番
司元別当:高田穴八幡宮
授与所:寺務所ないし本堂内
第30番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ 』、江戸八十八ヶ所霊場ともに放生寺なので、御府内霊場開創時から一貫して早稲田の放生寺であったとみられます。
縁起・沿革は公式Web、現地掲示に詳しいので、こちらと下記史料を参照してまとめてみます。
放生寺は寛永十八年(1641年)、威盛院権大僧都法印良昌上人が高田八幡(穴八幡宮)の造営に尽力され、その別当寺として開創されました。
良昌上人は周防國の生まれで十九歳の年遁世して高野山に登り、寶性院の法印春山の弟子となり修行をとげられ、三十一歳の頃より諸國修行されて様々な奇特をあらわされたといいます。
寛永十六年(1639年)二月、陸奥国尾上八幡に参籠の夜、霊夢に老翁があらわれ「将軍家の若君が辛巳の年の夏頃御降誕あり、汝祈念せよ」と告げられました。
上人は直ちに堂宇に籠もり、無事御生誕の大願成就行を厳修されました。
寛永十八年(1641年)当地に止錫の折、御弓組の長松平新五左衛門尉源直次の組の者の請を受け、穴八幡宮の別当職に就かれました。
同年の八月三日、草庵を結ぶため山裾を切り闢くと霊窟があり(現在の穴八幡宮出現殿付近)、窟の中には金銅の下品上生阿彌陀如来が立たれていました。
この阿彌陀如来像は八幡宮の御本地で、良昌上人はこの尊像を手篤く奉安。
「穴八幡宮」の号はこの霊窟に由来といいます。
おりしも、この日に将軍家御令嗣・厳有公(竹千代君、4代将軍家綱公)の御誕生があったため、以前から「将軍家若君、辛巳の年の夏頃無事御降誕の行厳修」の譚を聞いていた人々は、その霊威を新たにしたとのことです。
良昌上人が霊夢でみられた「将軍家の若君」は家光公とする資料もありますが、霊夢は寛永十六年(1639年)、家光公の御生誕は慶長九年(1604年)ですから年代が合いません。
家光公嫡男の竹千代君(4代将軍家綱公)は寛永十八年(1641年)八月の御生誕で、この年は辛巳ですから、おそらく良昌上人は竹千代君御生誕の成就祈願行を2年前に厳修したことになります。
『江戸名所図会』にも、「厳有公 御誕生」と明記されています。
なお、穴八幡宮の公式Webによると、高田八幡(穴八幡宮)は「康平五年(1062年)、奥州の乱を鎮圧した八幡太郎源義家公が凱旋の折、日本武尊命の先蹤に習ってこの地に兜と太刀を納めて氏神八幡宮を勧請」とあるので、良昌上人来所以前の創祀とみられます。
『江戸名所図会』には、寛永十三年(1636年)、御弓組の長松平新五左衛門尉源直次の与力の輩が、射術練習のためこの地に的山を築立てた際、弓箭の守護神である八幡神を勧請とあります。
以上から、八幡宮は良昌上人来所(寛永十八年(1641年))以前に当地に勧請されており、良昌上人は同年、霊窟から金銅の御神像(あるいは阿彌陀佛)を得て穴八幡宮と号したことなどでの貢献とみるべきでしょうか。
当地に古松があって山鳩が遊ぶ神木とされ、あるいは暗夜に瑞光を放つことから霊松ともされて、光松山の号はこの松に由来といいます。
慶安二年(1649年)、大猶院殿(徳川家光公)が御放鷹の折に穴八幡宮を訪れ、良昌上人より件の霊夢や大願成就の厳修について聞き及ぶと、「威盛院光松山放生會寺」の号を賜り、以降、別当・放生寺を御放鷹の御膳所とするなど篤く外護しました。
厳有院(4代将軍・家綱公)生誕の霊夢譚、そして家綱公生誕の当日に高田八幡の御本地・金銅阿彌陀佛の降臨とあっては、将軍家としてもなおざりにはできなかったと思われます。
歴代の徳川将軍家の尊崇は、『江戸名所図会』に穴八幡宮の什寶としてつぎのとおり記されていることからもうかがえます。
・台徳院(2代将軍・秀忠公) 御筆、御自賛の和歌
・大猶院(3代将軍・家光公) 賜物の扇子 一握
・常憲院(5代将軍・綱吉公) 御筆の福禄壽御画 一幅
元禄年間(1688-1704年)には宮居の造営あって結構を整えたといい、とくに元禄十六年(1703年)の造営は江戸権現造り社殿として壮麗を極めたといいます。
爾来、将軍家の尊崇篤く、徳川家代々の祈願寺として葵の紋を寺紋に、また江戸城登城の際には寺格から独礼登城三色(緋色、紫色、鳶色)衣の着用を許されたとも。
穴八幡宮の祭礼の八月十五日には放生會で賑わいをみせたといい、現在の放生寺の放生会はその系譜にあるとみられます。
「放生會(ほうじょうえ)」とは、捕らえられた魚介、鳥、動物などを殺生せずに池、川や山林に放す法事で、養老四年(720年)宇佐八幡宮で行われた放生會が発祥ともされることから、八幡宮社・八幡社で多く催されます。
江戸期の放生寺は穴八幡宮別当としてその地位を固め、一帯は神仏習合の一大霊場として栄えたことは、『江戸名所図会』の挿絵からもうかがえます。
しかし、穴八幡宮とこれだけ強固な神仏習合関係を築きながら、明治初期の神仏分離で放生寺が廃されなかったのはある意味おどろきです。
そのカギはひょっとして別当寺と神宮寺の別にあるのかもしれません。
放生寺の公式Webに唐突ともいえるかたちで、以下の説明が記載されています。
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別当寺 べっとうじ
神宮寺の一種。神社境内に建てられ、別当が止住し、読経・祭祀・加持祈祷とともに神社の経営管理を行なった寺。
神宮寺 じんぐうじ
神社に付属して建てられた寺院。神仏習合思想の現れで、社僧(別当)が神社の祭祀を仏式で挙行した。1868年(明治1)の神仏分離令により廃絶または分離。宮寺。別当寺。神護寺。神宮院。神願寺。
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明治の神仏分離で廃絶されたのは「神宮寺」で、「別当寺」は神宮寺の一種ながら廃絶を免れたと読めなくもありません。
(別当寺の説明で「神仏習合」ということばを用いていない。)
神宮寺と別当寺の別は、わが国の神仏習合を語るうえで避けてとおれない重要な事柄ですが、すこぶるデリケートかつ複雑な内容を含むので、ここではこれ以上触れません。
ひとつ気になるのは、『御府内八十八ケ所道しるべ 』では放生寺の御本尊は阿弥陀如来(穴八幡宮の御本地)となっているのに、現在の御本尊は聖観世音菩薩(融通虫封観世音菩薩)であることです。
この点について、現地掲示には「代々の(放生寺)住職が社僧として寺社一山の法務を司っておりましたが、明治二年、当山十六世実行上人の代、廃仏毀釈の布告に依り、境内を分割し現今の地に本尊聖観世音菩薩が遷されました。」とあります。
放生寺は明治二年に現在地に伽藍を遷し、そのときに聖観世音菩薩を御本尊とされたのでは。
以前の御本尊?の阿弥陀如来は、江戸時代に九品仏霊場第7番(下品上生)に定められた著名な阿弥陀様です。
(九品仏霊場の札所一覧は→こちら(「ニッポンの霊場」様))
一方、放生寺は江戸期から複数の観音霊場の札所で、観音様(おそらく融通虫封観世音菩薩)の信仰の場でもありました。
あるいは八幡宮との習合関係のうすい聖観世音菩薩を御本尊とすることで、神宮寺の性格(御本地が御本尊)をよわめたのかもしれません。
ともあれ御府内霊場第30番札所の放生寺は、明治初期の廃仏毀釈の波を乗り切って存続しました。
現在も高野山真言宗準別格本山の高い格式を保ち、複数の霊場札所を兼務されて多くの参拝客を迎えています。
放生寺と穴八幡宮は現在はそれぞれ独立した寺社ですが、いずれも「一陽来福」「一陽来復」ゆかりの寺社として知られています。
「一陽来福」(「一陽来復」)とは冬至をあらわす中国の易経の言葉で、「陰極まって一陽を生ずる」の意とされます。
「一陽と共に福もかえり来る」、来る年も福がまた訪れますように、との祈念を込めて参詣し、「一陽来福」(「一陽来復」)のお札をいただいて、冬至、大晦日、節分の深夜に恵方(「明の方」、歳徳神のおわす方角)に向けて貼るといいます。
放生寺の「一陽来福」は、御本尊・聖観世音菩薩ゆかりの「観音経の結びの「福聚海無量」=福聚(あつ)むること海の如く無量なり と言う偈文より「福」の字を取り「一陽来福」と名付けられました。」とのこと。(当山Webより)
御本尊・聖観世音菩薩は古来より融通・虫封観世音と呼ばれ、「融通=滞りなく通じる」から商家はもとより円満な人間関係(融通円満)の祈願本尊として信仰を集めており、冬至、大晦日、節分には「一陽来福」「融通」「虫封」を祈念する参詣者でことに賑わいをみせます。
一方、穴八幡宮の「一陽来復」は公式Webによると「福神(打出小槌)」に由来するものです。
『新編武蔵風土記稿』には、聖武天皇の御代に公家の水無瀬家の息女が感得されたもので、祈願の趣を掌に書き、この小槌でその掌を打てば所願成就とあります。
穴八幡宮公式Webには「公家の水無瀬家が山城国国宝寺より感得したものを当社に納めたもので、聖武天皇が養老七年の冬至の日に龍神により授けられた宝器」とあります。
穴八幡宮の「一陽来復御守」は江戸中期から冬至の福神祭に授与された歴史あるもので、「金銀融通の御守」とも呼ばれて、授与時には多くの参詣客で賑わいます。
なお、穴八幡宮の御朱印は「一陽来復」が揮毫される貴重なものですが、冬至から節分にかけては授与されておりません。
【写真 上(左)】 穴八幡宮の社頭
【写真 下(右)】 穴八幡宮の御朱印
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【史料】 ※なぜか『寺社書上』『御府内寺社備考』には記載がありません。
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
三十番
高田穴八まん
光松山 威盛院 放生會寺
高野山宝性院末 古義
本尊:阿弥陀如来 本社八幡宮 弘法大師
■ 『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
(下戸塚村(穴)八幡社)別当放生會寺
古義真言宗、高野山寶性院末、光松山威盛院ト号ス 本尊不動を安ス 開山良昌ハ周防國ノ産ニテ 俗称ハ榎本氏 高野山寶性院青山ニ投ジテ薙染シ 諸國ヲ経歴シテ 寛永十六年(1616年)陸奥國尾上八幡ニ参籠ノ夜 将軍家若君辛巳年夏ノ頃御降誕アルヘキ由霊夢ヲ得タリ 其後当國ニ来リ シルヘノ僧室ニ暫ク錫ヲ止メシニ 同十八年(1618年)松平新五左衛門カ組ノ者ノ請ニ任セ当社((穴)八幡社)ノ別当職トナレリ 此年(寛永十八年(1641年))厳有院殿御降誕マシ々々 カノ霊堂ニ符合セリ 此事イツトナク上聞くニ達セシカハ 大猶院殿御放鷹ノ時当山ニ御立寄アリテ 良昌ヲ召サセラレ社ノ由緒ヲ聞シメサレ 光松山放生會寺ノ号ヲ賜ハレリト云 是ヨリ以来此邊御遊猟ノ時ハ 当寺ヲ御膳所ニ命セラレテ今ニ然リ
什寶
柳ニ竹ノ御書一幅 台徳院殿ノ御筆ト云 御自賛ノ和歌アリ
柳チル カタ岡ノヘノ秋風ニ 一ツフタツノ家ニカクルヽ
扇子一握 大猶院殿ノ賜物ニテ開山良昌拝領す、便面ス便面ニ御筆ノ詩歌アリ
飛鳥去邊山侶眉 空低水潤影遅遅 上林雖好非栖處 一任千枝與萬枝
雁カヘル常世ノ花ノイカナレヤ 月ハイヅクモ霞ム春ノヨ
福禄壽御画一幅 常憲院殿ノ御筆ナリ 落款ニ御諱アリ
楊柳観音画像一幅
百體大黒天画像一幅
(略)
不動愛染ノ画像各幅 弘法大師筆
心経一巻 同筆。
十六善神画像一幅
(略)
打出小槌 由来記一巻アリ其略ニ
此槌●紳家水無瀬家ノ女感得セシ所也 昔聖武天皇ノ此ノ如キ寶物ヲ山城國●原ノ一宇ニ御寄納アリシカハ 彼寺ヲ寶寺ト号ス 信心ノ男女祈願ノ意趣ヲ掌ニ書シテ 此槌モテソノ掌ヲ打テハ所願成就スト云
(略)
寺中 松済院 光済院 是ハ廃院トナリテ末再建ニ及ハス
■ 『江戸名所図会 第2 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)〔要旨抜粋〕
高田八幡宮 穴八幡
牛込の総鎮守 別当は真言宗光松山 放生會寺
祭礼は八月十五日にて、放生會あり
寛永十三年(1636年)御弓組の長松平新五左衛門尉源直次に与力の輩、射術練習の為、其地に的山を築立てらる。
八幡宮は源家の宗廟にして而も弓箭の守護神なればとて、此地に勧請せん事を謀る。
此山に素より古松二株あり。其頃山鳩来つて、日々に此松の枝上に遊ぶを以て、霊瑞とし、仮に八幡大神の小祠を営みて、件の松樹を神木とす。此地昔は阿彌陀山と呼び来りしとなり。
(略)
寛永十八年(1641年)の夏、中野寶仙寺秀雄法印の會下に、威盛院良昌といえる沙門あり。周防國の産にして、山口八幡の氏人なり。十九歳の年遁世して、高野山に登り、寶性院の法印春山の弟子となり、一紀の行法をとげて、三十一の時より、諸國修行の志をおこし、其聞さまざまの奇特をあらはせりといふ。依てこの沙門を迎へて、社僧たらしむ。
同年の秋八月三日、草庵を結ばんとして、山の腰を切り闢く時に、ひとつの霊窟を得たり。
その窟の中石上に、金銅の阿彌陀の霊像一軀たたせ給へり。八幡宮の本地にて、しかも山の号に相応するを以て奇なりとす。穴八幡の号ここに起れり。又此日将軍御令嗣 厳有公 御誕生ありしかば、衆益ますその霊威をしる。
其後元禄年間(1688-1704年)、今の如く宮居を御造営ありて、結構備れり。
若宮八幡宮 本社の前右
東照大権現 同所
氷室大明神 本社に相対す
光松 別当寺と本社との間、坂の支路にあり。暗夜には折として瑞光を現ず。
放生池 本社の左
出現所 坂の半腹、絶壁にそひてあり 往古の霊窟の舊址なり。近頃迄其地に出現堂となづけて、九品佛の中、下品上生の阿彌陀如来の像を安置せし堂宇ありしが。今は見えず。
そもそも当社の別当寺を光松山と号くるも、神木の奇特によそへてなり。
「放生會寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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放生寺は高田・西早稲田方面から東に向かって早稲田の低地に突き出す台地の突端に、穴八幡宮と並ぶようにしてあります。
江戸期は低地から仰ぎ見る台地の寺社として、ことにランドマーク的な偉容を誇ったと思われます。
東京メトロ東西線「早稲田駅」徒歩2分と交通至便です。
周辺には絵御朱印(御首題)で有名な法輪寺、豊島八十八ヶ所霊場第3番の龍泉院、御府内霊場第52番の観音寺、早稲田大学合格祈願で知られる宝泉寺、そして穴八幡宮など都内有数の御朱印エリアとなっています。
放生寺はその縁起・沿革から穴八幡宮とのゆかりがふかいので、一部穴八幡宮の社殿等も併せてご紹介します。
早稲田通り、諏訪通り、早大南門通りが交差する「馬場下町」交差点。
早稲田大学のキャンパスに近く活気ある街なかに、穴八幡宮の朱色の明神鳥居と背後の流鏑馬の銅像が存在感を放っています。
この流鏑馬造は、享保十三年(1726年)、徳川8代将軍吉宗公が御世嗣の疱瘡平癒祈願の為に催した流鏑馬を起源とする「高田馬場の流鏑馬」が、昭和9年皇太子殿下御誕生奉祝のため、穴八幡宮境内にて再興されたことに因むものです。(現在は戸山公園内で開催)
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 参道
放生寺の参道は、ここから左手の諏訪通りに入ってすぐのところにあります。
おのおの入口はことなりますが、両社寺の敷地は重なるように隣接しています。
諏訪通りから伸びる急な登り参道で、放生寺が台地の山裾に位置していることがわかります。
山内は南西向きで明るい雰囲気。
【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 札所標
参道のぼり口に寺号標と「一陽来福の寺」の碑、そして御府内霊場、江戸三十三観音霊場の札所標。
参道途中には「光松山 観世音菩薩 虫封霊場 放生寺」の碑もあります。
【写真 上(左)】 虫封の碑
【写真 下(右)】 寺務所
参道右手上方の朱塗りの建物はおそらく穴八幡宮の出現殿(平成18年再建)で、往年の神仏習合のたたずまいを彷彿とさせます。
坂の正面に見えるのは唐破風軒の寺務所(客殿?)、その手前に本堂。
山内入口手前左手に手水舎と、その奥にある朱塗りの堂宇は神変大菩薩のお堂です。
神変大菩薩(役の行者)は、主に修験系寺院や神仏習合の色あいの強い寺院で祀られます。
当尊のご縁起は定かでないですが、かつての神仏習合の流れを汲む尊格かもしれません。
【写真 上(左)】 神変大菩薩堂
【写真 下(右)】 本堂
階段のうえにおそらく入母屋造瓦葺流れ向拝の本堂。
朱塗りの身舎に五色の向拝幕を巡らせて、観音霊場らしい華々しい雰囲気。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 大提灯
おそらくコンクリート造の近代建築ながら、向拝まわりは水引虹梁両端に木鼻、頭貫上に斗栱、中備に板蟇股など伝統的な寺社建築の特徴を備えています。
向拝見上げに「聖観世音」と徳川家ゆかりの葵紋を掲げた大提灯。
さらにその奥に「聖観自在尊」の扁額。
【写真 上(左)】 扁額と葵紋
【写真 下(右)】 修行大師像
身舎柱には御府内霊場・観音札所の札所板と「高野山真言宗準別格本山」を示す寺号板が掲げられています。
向拝左右は授与所となっていて、こちらで御朱印をいただいたこともあれば、寺務所で拝受したこともあります。
【写真 上(左)】 札所板
【写真 下(右)】 寺号板
本堂向かって左には端正な修行大師像が御座します。
本堂向かって右には放生供養碑と馬頭観世音菩薩立像。
整った像容で、忿怒尊である馬頭尊の特徴がよく出ています。
掲示によると、馬頭尊は畜生道を救うことから、放生会を厳修する当山でお祀りされているそうです。
【写真 上(左)】 放生供養碑と馬頭観世音菩薩
【写真 下(右)】 御府内霊場札所標
このあたりからは、上方に穴八幡宮の鼓楼(以前は鐘楼)がよく見えます。
鼓楼は平成27年の再建。名刹の山門を思わせる楼門の建立は平成10年。
穴八幡宮が次第にかつての神仏習合の姿を取り戻しているかのようです。
とくにある意味「本地堂」ともいえる「出現殿」を再建されるとは、往時の姿の復興に対する明確な意思が感じられます。
「放生會寺」/原典:斎藤幸雄 [等著] ほか『江戸名所図会』第2,有朋堂書店,昭2.国立国会図書館DC(保護期間満了)
また、『江戸名所図会』と見比べてみると、出現殿といい、鼓楼といい、往時に忠実に場所を選んで再建されていることがわかります。
関東の八幡宮の神仏習合例として、明治初頭までは鎌倉・鶴岡八幡宮(鶴岡八幡宮寺)が代表格でしたが、廃仏毀釈で多くの伽藍堂宇を失い神宮寺も現存していません。
なので、穴八幡宮と放生寺が現存している(というか復興が進む)この界隈は、往年の八幡宮の神仏習合の姿を味わえる貴重な空間だと思います。
御朱印は寺務所ないし本堂内で拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「聖観世音」「弘法大師」の揮毫と聖観世音菩薩のお種子「サ」の揮毫と三寶印。
右上に「弘法大師御府内三十番」の札所印。左下に山号寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 江戸三十三観音札所の御朱印
※御本尊御影印の御朱印も授与されている模様です。
■ 第31番 照林山 吉祥寺 多聞院
(たもんいん)
新宿区弁天町100
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第31番、大東京百観音霊場第60番、秩父写山の手三十四観音霊場第26番
司元別当:
授与所:庫裡
新宿区弁天町にある真言宗豊山派で、烏山の多聞院(第3番札所)との区別の意味合いもあって、牛込多聞院と呼ばれます。
第31番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに多聞院なので、御府内霊場開創時から一貫して多聞院であったとみられます。
縁起・沿革について、下記史料、現地掲示、「ルートガイド」を参照に追ってみます。
多聞院は天正年間(1573-1592年)に平河口(現在の千代田区平河町)に起立し、慶長十二年(1607年)江戸城造営のため牛込門外外濠通りに移転、寛永十二年(1635年)、境内がお堀用地となったため現在地の辨天町に移転したといいます。
法流開山は覺祐上人(天正年中(1573-1592年)遷化)、中興開山は覺彦律師と伝わります。
※現地掲示には、寛永年間(1624-1629年)に法印覚賢により開創とあります。
『寺社書上』、『御府内寺社備考』ともに、御本尊は三身毘沙門天となっていますが、『御府内八十八ケ所道しるべ天』には本尊:大日如来 三身毘沙門天王 弘法大師とあります。
弘法大師はもとより、本堂御本尊の三身毘沙門天王、位牌堂御本尊の金剛界大日如来が拝所となっていた可能性があります。
『寺社書上』には、御本尊尊三身毘沙門天王は「楠正成之守本尊」とありますが、詳細については不明。
現在の御本尊は大日如来ですが、院号に多聞院とあるとおり、毘沙門天とゆかりのふかい寺院と思われます。
「多聞院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
三十一番
牛込七軒寺町門前町あり
照林山 吉祥寺 多聞院
西新井村惣持寺末 新義
本尊:大日如来 三身毘沙門天王 弘法大師
■ 『寺社書上 [33] 牛込寺社書上 六』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考 P.122』
武州足立郡西新井村 惣持寺末
牛込七軒寺町
林山 吉祥寺 多聞院
新義真言宗
開山不分名
法流開山 覺祐上人 遷化年代●不詳
中興開山(寛永年中) 覚彦律師● 湯島霊雲寺開山
本堂
本尊 三身毘沙門天 大黒毘沙門 弁財天之三身一体之木像
●教大師之作 楠正成之守本尊 楠正成之末孫に沙門●●と申者当寺●●来案す●る事
唐●双身毘沙門天立像 弘法大師作
聖天堂
●金観喜天王立像
唐金地蔵尊
稲荷大明神
天満宮社
位牌堂
本尊 金剛界大日如来木立像 運●作
毘沙門天画像 弘法大師筆
(付記)
開山ハ覚●法印といふ 寛永十六年七月寂
■ 『牛込区史』(国立国会図書館)
昭林山吉祥寺多聞院
新井總持寺末
年代不詳、平河口に起立、慶長十二年(1607年)牛込門外外濠通りに移転、寛永十二年(1635年)辨天町に移つた。法流開山覺祐上人、天正年中(1573-1592年)遷化。中興開山覺彦律師。舊境内拝領地千九百廿五坪。
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外苑東通り(都道319号)は、江戸川橋そばの鶴巻町から弁天町~牛込柳町と南下して青山、六本木を経て麻布台に至ります。
弁天町~牛込柳町あたりは南北の谷筋を走り、とくに東側は坂が多くみられます。
『江戸切絵図』と現代の地図を見比べてみると、かつての七軒寺町の通りがほぼ現在の外苑東通りとなっていることがわかります。
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』市ヶ谷牛込絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
最寄りは都営大江戸線「牛込柳町」駅。徒歩5分ほどです。
「牛込柳町」周辺は、日蓮宗江戸十大祖師の幸國寺、新宿山之手七福神の経王寺、曹洞宗の法身寺、顕本法華宗の常楽寺、日蓮宗の瑞光寺など、多彩な宗派の御朱印・御首題が拝受できるエリアとなっています。
多聞院のお隣の浄輪寺には江戸時代の和算家で算聖とあがめられた関孝和の墓があり、御首題も授与されています。
【写真 上(左)】 参道入口(工事中)
【写真 下(右)】 山院号表札
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 鐘楼
多聞院の入口は外苑東通りに面し、やはり坂道の参道となっています。
入口にはコンクリ造の山門がありその上部の鐘楼もスクエアなコンクリ造でモダンなイメージ。
左手には真新しい「牛込四恩の杜」(公園墓地?)があり、よく整備された印象です。
【写真 上(左)】 整備された山内
【写真 下(右)】 参道
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂
少し参道をのぼると、いきなり寺院づくりの本堂があらわれます。
本堂向かって左手の庫裡もモダンなイメージですが、本堂まわりだけは伝統的な寺院のイメージを保ち、独特のコントラスト。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝と整った意匠で、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、中備に蟇股を備え、向拝見上げに山号扁額を掲げています。
勢いのある降り棟と留蓋上の獅子飾りがいい味を出しています。
【写真 上(左)】 正等大阿闍梨供養塔
【写真 下(右)】 御府内霊場開創記念碑
山内には、御府内霊場の開基とも伝わる正等和尚の墓?(供養塔)、御府内霊場開創記念碑があります。
供養塔には「御府内八十八ヶ所開基 (通種子・ア)正等大阿闍梨百五十年供養塔 大正十二年六月十二日 大僧正●●●」とあります。
また、別の碑(祈念碑?)には「(梵字)府内八十八霊場開創」とあります。
【写真 上(左)】 吉川湊一の墓
【写真 下(右)】 庫裡
平家琵琶の奥義を極め、検校にまで昇進した吉川湊一(1748-1829年)、大正時代の女優・松井須麿子、大正時代の詩人・生田春月の墓所もあります。
御朱印は本堂向かって左のモダンな庫裡で拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊大日如来」「弘法大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「第三十一番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています
■ 第32番 萬昌山 金剛幢院 圓満寺
(えんまんじ)
文京区湯島1-6-2
真言宗御室派
御本尊:不動明王・十一面観世音菩薩
札所本尊:不動明王・十一面観世音菩薩
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第32番、弘法大師二十一ヶ寺第1番、御府内二十八不動霊場第25番、江戸坂東三十三ヶ所観音霊場第1番、弁財天百社参り番外27
司元別当:
授与所:ビル内寺務所
第32番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに圓満寺なので、御府内霊場開創時から一貫して湯島の圓満寺であったとみられます。
下記史料を参照して縁起・沿革を追ってみます。
圓満寺は、寶永七年(1710年)、木食覺海義高上人が湯島の地に梵刹を建て、萬昌山圓満寺と号したのが開山といいます。
開山の「木食義高」に因んで「木食寺」とも呼ばれます。
義高上人は、足利13代将軍義輝公の孫義辰の子とも(義輝公の孫とも)伝わります。
幼くして出家、日向國佐土原の福禅寺に入り木食となりました。
寛文八年(1668年)から東国に下り各地に堂宇を建立、大いに奇特をあらわされて伝燈大阿闍梨権僧都法印に任ぜられました。
元禄四年(1691年)江戸に赴かれ本郷三組町に住むと、常憲公(5代将軍徳川綱吉公)や浄光院殿(綱吉公の正室・鷹司信子)の帰依を受け御祈祷を申しつけられています。
文昭公(6代将軍家宣公)の帰依も受け、家宣公は上人を以て当寺の(公的な?)開山とされたとのこと。
当山は開創時から真言宗御室派(当時は仁和寺御室御所)と所縁があったとみられます。
義高上人と御室御所について、『江戸名所図会』に「延寶七年(1679年)御室宮へ参るに、高野山光臺院の住持職に任ぜらる。」とあります。
「御室宮」はおそらく「仁和寺御室御所」で、上人は「御室御所」に参内された後、高野山光臺院の住持職に任ぜられています。
高野山光臺院は現存し、その公式Webには「当院は白河天皇の第四皇子覚法親王の開基で(約900年前)以来27代にわたり法親王方が参籠されている。それによって当院は「高野御室」と称され、非常に由緒ある名刹」とあります。
さらに「御室御所」についてたどってみます。
仁和寺の公式Webには「仁和2年(886年)第58代光孝天皇によって「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願されたことに始まります。しかし翌年、光孝天皇は志半ばにして崩御されたため、第59代宇多天皇が先帝の遺志を継がれ、仁和4年(888年)に完成。寺号も元号から仁和寺となりました。」「宇多天皇は寛平9年(897年)に譲位、後に出家し仁和寺第1世 宇多(寛平)法皇となります。以降、皇室出身者が仁和寺の代々住職(門跡)を務め、平安〜鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保ちました。」とあります。
高野山光臺院は高野山内の門跡寺院で、その由緒から仁和寺御室御所と関係があり「高野御室」と称されていたのでは。
義高上人は仁和寺御室御所に参内してその才を認められ、時をおかずに御室御所所縁の高野山光臺院の住持職に任ぜらたのではないでしょうか。
むろん氏素性の明らかでない者が門跡寺院に参内できる筈はなく、おそらく義高上人が足利13代将軍義輝公の曽孫(ないし孫)という出自が効いたものと思われます。
中世の東密(真言宗)は小野六流・広沢六流の十二流に分化し、そこからさらに法脈を広げたといいます。
このうち広沢流の中心となったのが仁和寺御室御所です。
いささか長くなりますが、その経緯について『呪術宗教の世界』(速水侑氏著)を参照してたどってみます。
第52代嵯峨天皇は弘法大師空海の理解者で、東寺を賜った帝として知られています。
第59代の宇多天皇も仏教、ことに密教への帰依篤く、寛平九年(897年)の突然の譲位は、仏道に専心するためという説があるほどです。
宇多天皇は東寺長者の益信僧正(本覚大師)に帰依されたといいます。
益信僧正は弘法大師空海から第4世の直系で、東密広沢流の祖とされる高僧です。
昌泰二年(899年)、33歳の宇多上皇が仁和寺で出家する際に、益信僧正は受戒の師となり寛平法皇(法号は空理)と号されました。
延喜元年(901年)12月、益信僧正は東寺灌頂院にて法皇に伝法灌頂を授け継承者とされたといいます。
延喜四年(904年)、法皇は仁和寺に「御室御所」を構えられ、以降、仁和寺は東密の門跡寺院として寺勢大いに振いました。
法皇の弟子の寛空は嵯峨の大覚寺に入られ、寛空の弟子の寛朝は広沢に遍照寺を開かれました。
この寛平法皇(宇多天皇)所縁の法流が、後に「広沢流」と呼ばれることとなります。
一方、醍醐寺を開かれた聖宝(理源大師)ないしその弟子筋の仁海(小野僧正)も法流を興され、こちらは「小野流」と呼ばれます。
洛東の小野、洛西の広沢は東密の二大潮流となり、さらに分化していきました。
広沢流:仁和御流、西院流、保寿院流、華蔵院流、忍辱山流、伝法院流の六流
小野流:勧修寺(小野)三流(安祥寺流、勧修寺流、随心院流)
醍醐三流(三宝院流、理性院流、金剛王院流)の六流
これらを総じて「野沢(やたく)十二流」といいます。
広沢流と小野流の違いについては、
・広沢流は儀軌を重視、小野流は口伝口訣を重視
・広沢流は「初胎後金」、小野流は「初金後胎」(両部灌頂を行うときに胎蔵界、金剛界いずれを先にするかの流儀)
などが論じられるようです。
東密が分化したのは事相(修法の作法など)の研究が進んだため、というほど修法の存在は大きく、たとえば雨乞いの修法を修するときに
・広沢流は孔雀経法、小野流は請雨経法
という説もみられたようです。
『呪術宗教の世界』では、例外もみられるとして修法における差異については慎重に扱われていますが、それだけ東密に対する「秘法」の要請が強かったとしています。
(「他の流派にない霊験ある秘法を相承することで、貴族たちの呪術的欲求にこたえ、流派独自の秘法として主張喧伝された。」(同書より抜粋引用))
話が長くなりました。
ともあれ、仁和御流は高い格式をもつ門跡寺院・仁和寺を中心に東密「広沢流」の中核をなしました。
なお、Wikipediaには「仁和寺の仁和御流(真言宗御室派)」と記され、仁和御流が真言宗御室派に承継されていることを示唆しています。
仁和御流(真言宗御室派)は西日本中心の流派で、現在の総本山は仁和寺(京都市右京区)、大本山は金剛寺(大阪府河内長野市)と大聖院(広島県廿日市市)、準大本山は屋島寺(香川県高松市)です。
別格本山もほとんどが西日本で、これは仁和寺は江戸時代末期まで法親王(皇族)を迎えた門跡寺院で、京の皇室との所縁が深いということがあるのでは。
しかし、江戸時代の江戸にも仁和寺末を名乗る寺院はいくつかありました。
そのひとつが湯島の圓満寺です。
寶永七年(1710年)、義高上人が湯島の地に圓満寺を開山された以前に、上人は「御室御所」と所縁をもち、おそらく「御室御所」から高野山光臺院(「高野御室」)の住持職を託されています。
その義高上人が江戸に開山された圓満寺が「京仁和寺末」となるのは、自然な流れかと思われます。
(『御府内寺社備考』に「御室御所より院室御影●之節 圓満寺の寺号(以下不詳)」とあり。)
御府内霊場では当山のほか、第41番密蔵院が真言宗御室派です。
義高上人は日暮里の補陀落山 養福寺(豊島霊場第73番ほか)を中興開山と伝わりますが、養福寺は真言宗豊山派(新義真言宗)となっています。
Wikipediaによると、明治初期の火災で伽藍を焼失し、明治20年に相模の大山寺の協力の下で再建されたものの関東大震災、東京大空襲で焼失しています。
昭和38年木造の本堂が再建、昭和53年にはRC造の「おむろビル」に改築され、ビル内の寺院となっています。
なお、Wikipediaには「御室派総本山仁和寺の東京事務所」とあり、おむろビルの袖看板にも「総本山 仁和寺 東京事務所」とあります。
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
三十二番
ゆしま四丁目
萬昌山 金剛幢院 圓満寺
御直末
本尊:十一面観世音菩薩 不動明王 弘法大師
■ 『寺社書上 [68] 湯嶋寺院書上 全』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考 P.2』
本寺 御室御所仁和寺宮 (御室御所院室)
湯島 不唱小名
萬昌山 金剛幢院 圓満寺
開山 開山木食覺海義高僧正者 将軍光源院(足利)義輝公の御子
本堂
本尊 七観音尊木立像 紀伊殿●御寄附
十一面観世音尊 秘佛 如意法尼内親王之御作
歓喜天尊 秘佛
多聞天木立像 開山義高僧正作
両部大日如来木座像
不空羅索尊木座像
千手観音尊木座像
薬師如来木座像 日光月光立像 十二神将立像
愛染明王木座像
孔雀明王尊影
五大虚空蔵尊影
常倶梨天尊影
位牌所
地蔵菩薩木立像(ほか)
鐘楼堂
阿弥陀如来天竺佛座像 等持院殿守本尊
当寺開山義高権僧正御影
弘法大師●筆 楷書心経巻物
六観音 弘法大師之作
辨財天木座像 弘法大師之作
胎蔵界大日如来木座像 弘法大師之作
御香宮明神木像
三尊来迎
天満宮渡唐神像
十六善神
地蔵尊 二童子有
刀八毘沙門天神像 尊氏公軍中守本尊
大師目引之尊影 真如親王之御筆 高野山御影堂に有し●
十六羅漢御影
阿育王塔石
多寶塔
護摩堂
不動明王 二童子附 秘封 弘法大師作
前立五大尊明王
閻魔天木座像
金佛地蔵尊座像
秋葉社
鐘楼堂
辨財天社
辨財天女木立像
稲荷大明神 秘封
大黒天木立像
恵比須神木座像
千手観音木座像
青面金剛木立像
地蔵堂 石地蔵尊立像
七観音堂 本堂の左にあり
十一面観音
■ 『江戸名所図会 第3 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)〔要旨抜粋〕
萬昌山圓満寺
湯島六丁目にあり。真言宗にして、開山は木食義高上人なり。本尊十一面観世音、如意法尼の御作なり。法尼は淳和帝の妃にして弘法大師の御弟子なり。左右に六観音を安置す。当寺を世に木食寺と称す。
寺伝に曰く、開山木食義高上人は覺海と号す。足利十三代将軍義輝公の孫義辰の息なり。
日向國に産る。幼より瑞相あるに仍て出家し、肥後國(日向國?)佐土原の福禅寺に入りて、覺深師に随従し、木食となれり。寛文八年(1668年)、衆生化益のために東奥に下り、あまねく霊地を拝しこゝかしこに堂宇を建立す。(略)伝燈大阿闍梨権僧都法印に任ぜらる。其後西國に赴くの頃も、大に奇特を顕す。延寶三年(1675年)都に上り堀河姉小路多聞寺に止宿(略)延宝五年(1677年)江城湯島の地に至り、大に霊験をあらはす。延寶七年(1679年)御室宮へ参るに、高野山光臺院の住持職に任ぜらる。元禄四年(1691年)志願によって光臺院を辞して江戸に赴き、本郷三組町に住せらる。常憲公(5代将軍徳川綱吉公)および浄光院殿(綱吉公の正室・鷹司信子)、須山女を以て御祈祷を仰附けらる。寶永六年(1709年)上京(略)寶永七年(1710年)江戸湯島の地に梵刹を建てゝ、萬昌山圓満寺と号す。文昭公(6代将軍家宣公)の御志願に仍て、則ち上人を以て当寺の開山とす。
「圓満寺」/原典:斎藤幸雄 [等著] ほか『江戸名所図会』第3,有朋堂書店,昭2.国立国会図書館DC(保護期間満了)
「圓満寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本郷湯島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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JR・メトロ丸ノ内線「お茶ノ水」駅から徒歩約5分、オフィス街に建つ「おむろビル」のなかにあります。
現在、土祝日はビルのセキュリティの関係上入館不可につき平日のみ参拝可のようです。
ごくふつうのオフィスビルのエントランスですが、袖看板に「圓満寺」とあり、かろうじて館内に寺院があることがわかります。
【写真 上(左)】 おむろビル全景
【写真 下(右)】 寺号標
【写真 上(左)】 寺号の袖看板
【写真 下(右)】 行事予定
貼り出されていた行事予定によると、不動護摩祈祷や写経会が開催されているようです。
【写真 上(左)】 エントランス
【写真 下(右)】 8階エレベーターホールの「授与所」
受付は8階、本堂は9階でエレベーターでのぼりますが、通常9階は不停止となっているようです。
8階にどなたかおられるときは、申し入れれば本堂参拝可能な模様ですが、筆者参拝時(2回)はいずれもご不在で、8階からの遙拝となりました。
8階にはエレベーターホールに書置御朱印が置かれているので、ここから遙拝しました。
上層階の御本尊に向かって、階下のエレベーターホールからの参拝ははじめてで、不思議な感じですが、これはこれで「都心のお遍路」ならではの雰囲気は味わえるかと思います。
史料によると、当山は数多くの尊像を奉安されていたようですが、そのお像は現在本堂に安置されているのでしょうか。
『寺社書上』(文政年間(1818-1831年))では、御本尊は七観音木像。
『御府内寺社備考』(同)では本堂本尊は七観音木像、十一面観世音(秘佛、如意法尼内親王御作)。
『江戸名所図会』(天保年間(1831-1845年))では、御本尊は十一面観世音(如意法尼の御作)。
『御府内八十八ケ所道しるべ』(幕末-明治)では、札所本尊は十一面観世音菩薩、不動明王、弘法大師とあります。
さらにWikipediaには「明治初期の火災までは、以下の寺宝があった。 七観音(旧本尊)」とあります。
また『御府内寺社備考』には「七観音堂 本堂の左にあり 十一面観音」「護摩堂 不動明王 二童子付秘封 弘法大師作」とあります。
以上から、江戸時代の御本尊は七観音木像、ないし十一面観世音(如意法尼内親王御作)とみられます。
七観音木像は明治初期の火災で焼失?し、御本尊は十一面観世音菩薩(如意法尼内親王御作)となり、明治20年に「関東三大不動」で不動尊とのゆかり深い相模・大山寺の協力で再建された際に、十一面観世音菩薩・不動明王の両尊御本尊となったのでは。
こちらの不動明王は、護摩堂本尊の不動明王(弘法大師御作)、ないしは大山寺から奉安された尊像と考えられます。
明治初期来、数度の火災に遭い古文書など焼失されているようなので詳細は不明です。
御朱印は8階エレベーターホールに置かれていたものを拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳(規定用紙貼付)
中央に「本尊不動明王」「十一面観世音菩薩」「弘法大師」の印判と十一面観世音菩薩のお種子「キャ」の印判と不動明王のお種子「カン/カーン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内第三十二番」の札所印。山号の印判と寺院印が捺されています。
以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-11)
【 BGM 】
■ 名もない花 - 遥海
■ 栞 - 天野月 feat.YURiCa/花たん
■ Parade - FictionJunction
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■ 武州江戸六阿弥陀詣の御朱印 ~ 足立姫伝説 ~ 【 前編 】
アクセスが急に増えたと思ったら、たしかにお彼岸のイベントですね。
アゲてみます。
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2021/06/22 UP
江戸時代、江戸の庶民、とくに女性に広く信仰を広めた札所詣がありました。
「武州江戸六阿弥陀詣」です。
江戸名所図会など江戸期の絵図にも多くとりあげられ、逸話も多いので時間をかけてじっくり構成してみたいと思いますが、まずは初稿としてUPしてみます。
なお、「 滝野川寺院めぐり」の記事と重複する内容があります。
ボリュームがあるので、前編と後編に分けます。
■ 武州江戸六阿弥陀詣の御朱印 ~ 足立姫伝説 ~ 【 前編 】
■ 武州江戸六阿弥陀詣の御朱印 ~ 足立姫伝説 ~ 【 後編 】
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『江戸名所図会』(常光寺境内説明板より)
【写真 上(左)】 第1番目 西福寺
【写真 下(右)】 第2番目 恵明寺
武州江戸六阿弥陀霊場(江戸六阿弥陀)は、行基菩薩が一夜の内に一本の木から刻み上げた六体の阿弥陀仏と、余り木で刻した阿弥陀仏、残り木(末木)で刻した聖観世音菩薩を巡拝する八箇寺からなる阿弥陀霊場で、女人成仏の阿弥陀仏として崇められ、江戸中期から大正時代にかけて、とくに春秋の彼岸の頃に女性を中心として盛んに巡拝されたといわれます。
開創年代については諸説あり錯綜していますが、札所は確定しています。
第1番目 三縁山 無量壽院 西福寺
北区豊島2-14-1 真言宗豊山派
第2番目 宮城山 円明院 恵明寺(旧小台村延命院)
足立区江北2-4-3 真言宗系単立
第3番目 佛寶山 西光院 無量寺
北区西ケ原1-34-8 真言宗豊山派
第4番目 宝珠山 地蔵院 與楽寺
北区田端1-25-1 真言宗豊山派
第5番目 福増山 常楽院
調布市西つつじヶ丘4-9-1(旧下谷(上野)広小路) 天台宗
第6番目 西帰山 常光寺
江東区亀戸4-48-3 曹洞宗
木余の弥陀 龍燈山 貞香院 性翁寺
足立区扇2-19-3 浄土宗
木残(末木)の観音 補陀山 昌林寺
北区西ケ原3-12-6 曹洞宗
※国土地理院ウェブサイト掲載の「地理院地図」を筆者にて加工作成。
【写真 上(左)】 『東都歳時記』の札所一覧(国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載・原データ)
【写真 下(右)】 『滑稽名作集. 上/六あみだ詣 上編・十返舎一九題』の札所一覧 (国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載・原データ)
■常光寺「六阿弥陀道道標」説明板より
「江戸六阿弥陀詣とは、江戸時代、春秋の彼岸に六ヶ寺の阿弥陀仏を巡拝するもので、その巡拝地は順に上豊島村西福寺(北区)、下沼田村延命院(足立区)、西ヶ原無量寺(北区)、田端村与楽寺(北区)、下谷広小路常楽院(調布市に移転)、亀戸村常光寺となっていました。江戸六阿弥陀には奈良時代を発祥とする伝承がありますが、文献上の初見は明暦年間(1655-58年)であることから、六阿弥陀詣は明暦大火後の江戸市中拡大、江戸町方住民の定着にともなう江戸町人の行楽行動を示すものといえます。」
江戸六阿弥陀についてまとめた文献は多数ありますが、ここでは下記2資料を主に参考とし、適宜引用させていただきました。
1.「江戸の3 つの『六阿弥陀参』における『武州六阿弥陀参』の特徴」/古田悦造氏(リンク、以下「資料1」とします。)
2.「『篤信』の『商売人』 - 東天紅上野本店裏手の常楽院別院に関する調査報告 -」/徳田安津樹氏(リンク、以下「資料2」とします。)
順路については、『東都歳時記』によると札番どおりではなく、第5番目 常楽院 → 第4番目 與楽寺 → 第3番目 無量寺・木残(末木) 昌林寺 → 第1番目 西福寺 → 第2番目 延命院 (現・恵明寺)・木余 性翁寺 → 第6番目 常光寺〔結願〕という時計回りのコースが多くとられたようです。
※ 『東都歳事記. 春之部 下』(国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載・加工)
※ 『東都遊覧年中行事』(国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載)
各寺院の縁起や由緒、足立区資料、および「資料1」「資料2」などから江戸六阿弥陀の創祀を辿ってみます。
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〔 足立姫伝説 〕
その昔この地に「足立の長者」(足立庄司宮城宰相とも)という人がおり、年老いて子がないことを憂いて、日頃から尊崇している熊野権現に一途に祈ると女の子を授かりました。
「足立姫」と呼ばれたこの子は容顔すこぶる麗しく、見るものはみな心を奪われたといいます。
生来仏を崇うことが篤く、聡明に成長した姫は「豊嶋の長者」(豊島左衛門尉清光とも)に嫁いだものの、嫁ぎ先で誹りを受け、12人(5人とも)の侍女とともに荒川に身を投げ命を絶ってしまいました。
足立の長者はこれを悲しみ、娘や侍女の菩提のために諸国の霊場巡りに出立しました。
紀州牟宴の郡熊野権現に参籠した際、霊夢を蒙り1本の霊木を得て、これを熊野灘に流すと、やがてこの霊木は国元の熊野木(沼田の浦とも)というところに流れ着きました。
この霊木は不思議にも夜ごと光を放ちましたが、折しもこの地を巡られた行基菩薩は(この霊木は)浄土に導かんがための仏菩薩の化身なるべしと云われ、南無阿弥陀仏の六字の御名号数にあわせて霊木から六体の阿弥陀如来像を刻し、余り木からもう一体の阿弥陀仏、さらに残った木から一体の観音菩薩像を刻まれそれを姫の遺影として与えました。
後にこれら七体の阿弥陀仏と一体の観音像は近隣の寺院に祀られ、以降、女人成仏の阿弥陀詣でとしてとくに江戸期に信仰を集めました。
※なお、資料によっては、足立姫は豊嶋左衛門清光の娘、嫁ぎ先を足立少輔家にしているものがあります。
この哀しい逸話は「足立姫伝説」とも呼ばれ、このエリアに広く伝わるものです。
『滝野川寺院めぐり案内』の無量寺の頁に「江戸近郊を歩くこのミニ巡礼は、表向きは信心とはいうものの、実際は世代家族の同居が当たり前だった時代の、年に2回のストレス解消とレクリエーションの一石二鳥の効果を狙ったものであった。まさに庶民が、日常生活の中から考えた知恵だったのであろう。」と記載されていますが、江戸の年中行事を描いた『東都歳時記』や『江戸名所図絵』でも複数取り上げられていることからも、そのような側面が大きかったと思われます。
「足立姫伝説」の経緯からは娵姑の確執がうかがわれ、このような背景もあってか、第6番目の常光寺のWebでは「六番は嫁の小言の言いじまい」「六阿弥陀嫁の小言(噂)の捨て処」の川柳が紹介されています。
気候のよい春秋の彼岸の一日、気の合ったお仲間と連れだって、日頃の鬱憤の発散をはかる庶民の姿がうかがわれます。
※ 『江戸名所図会』7巻[17](国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載)
「資料2」では柳沢吉保の孫・信鴻作の『宴遊日記』からつぎの描写が紹介されています。(安永六年(1777年)2月の項)
「今日彼岸の終り阿弥陀参り往来甚賑し、天色大に晴、西南白雲如刷、平塚明神鳥居前より坂道を下り、利島郡へ行、行人にて塗甚込合、五歩六歩に路上仏を居へ、村姥数人念仏を唱へ、或ハ太鼓・鐘をうち建立の法施を請者夥く、疥癬の乞僧路上に満ち、辻博突有、畝中路上皆貝売雪の如し」
※ 『滑稽名作集. 上/六あみだ詣 上編・十返舎一九題』(国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載)
また、十返舎一九の『六あみだ詣 上編』には下記の描写があります。(国会図書館DC)
「彼岸功徳経に曰。二八月七日の間無数萬億のぼさつ。法を説て衆生楽をあたへ給うなりと。其外諸経にも見へて。春秋二度の彼岸には。人間の罪障消滅の縁ふかく。佛に法施し。僧に供養するの時なりとて。六阿彌陀詣といふ事。いつの頃にやはじまり。六ヶ所の霊地に貴きも賤しきも。あみだの光も地獄のさたも。銭次第とてはやみちに。臍くりをとりこみ。巾着のひもながき麗なるに。打ちむれつヽ一乗無外の色のよの中。とぢぶたとつれだつ破鍋(われなべ)あれば。餅をつく桃灯は。ぬれたる祖母の腰つきを思ひやり。佛性常住の吸筒をかたげ。一色一香のにぎりめしをふところにして。ぬらりくらりの牛は牛づれ。馬は馬づれ。はなしつれてゆく中にも。(以下略)」
「資料2」によると、六阿弥陀伝説が最初に記されたのは江戸時代前期成立の『六阿弥陀伝説』とみられ、すべての札所(寺院所在)が明確にされたのは貞享四年(1987年)の『江戸鹿子』とのことです。
なお、京都今熊野の新熊野神社の公式Webによると、熊野本宮大社の本地は阿弥陀如来で「この当時(平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて)の当時の熊野信仰を一言でいうと、本地垂迹説に基づく神仏習合信仰と浄土信仰が一体化した信仰ということになろう。」とあるので、江戸六阿弥陀が熊野とつながりをもつのは自然な成り行きであったともみられます。
それでは第1番目から順にご紹介していきます。
なお、御朱印については8箇寺すべてで授与されておられますが、多くが授与所ではなく庫裡での授与で、タイミングや状況によっては拝受できない可能性もあるかもしれません。
ある程度御朱印拝受に慣れた方向けの札所詣のような感じがしています。
■ 第1番目 三縁山 無量壽院 西福寺
北区豊島2-14-1
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
他の札所:豊島八十八ヶ所霊場第67番、荒川辺八十八ヶ所霊場第20番
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.江戸六阿弥陀霊場第1番目
朱印尊格:阿弥陀如来
2.豊島八十八ヶ所霊場第67番
朱印尊格:阿弥陀如来
※ 『江戸名所図会』十五(国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載)
「足立姫伝説」の登場人物、豊嶋左衛門清光の創建(開基)と伝わる古刹で、六阿弥陀第1番目の阿弥陀如来をご本尊としています。
「是世に所謂六阿彌陀の一なり、縁起を閲するに、聖武帝御宇當國の住人豊嶋左衛門清光、紀伊國熊野権現を信し、其霊夢に因て一社を王子村に建立し、王子権現と崇め祀れり、然るに清光子なきを憂ひ彼社に祈願せしに、一人の女子を産す、成長の後足立少輔某に嫁せしか、奩具の備はらさるを以少輔に辱しめられしかは、彼女私に逃れ荒川に身を投て死す、父清光悲に堪す是より佛教に心を委ねしか、或夜霊夢に因て異木を得だり、折しも行基當國に来りし故、清光其事を告しに行基即ちかの異木を以て六體の阿弥陀を彫刻し、近郷六ヶ所に安置して彼女の追福とせり、故に是を女人成佛の本尊と稱す、當寺の本尊は其第一なり、次は足立郡小臺村、第三は當郡西ヶ原村、第四は田畑村、第五は江戸下谷、第六は葛飾郡亀戸村なりと云、此説もとより妄誕にして信用すへきにあらされと、當寺のみにあらす残る五ヶ所とともに、少の異同はあれと皆縁起なとありて世人の口碑に傳る所なれは、其略を記しおきぬ、且清光は権頭と稱し、治承の頃の人なれは行基とは時代遥に後れたり」
(『新編武蔵風土記稿』 → 国会図書館DCより)
「此説もとより妄誕にして信用すへきにあらされと、當寺のみにあらす残る五ヶ所とともに、少の異同はあれと皆縁起なとありて世人の口碑に傳る所なれは、其略を記しおきぬ」とあり、江戸六阿弥陀の創祀伝承については疑義をはさんでいます。
ただし文面からは、六阿弥陀の伝承は人口に膾炙し、信仰も広がっていたことがうかがわれます。
江戸六阿弥陀の寺院の縁起や由緒をみると、
A.足立姫の父は足立(沼田)庄司(従二位宰相藤原正成)、嫁ぎ先は豊島左衛門尉清光
B.足立姫の父は豊島左衛門尉清光、嫁ぎ先は足立の沼田治部少輔
の2パターンあることがわかります。
当寺の縁起は、B.足立姫の父は豊島左衛門尉清光のパターンです。
足立氏(藤原氏流)も豊島氏も中世には豊島郡・足立郡に勢力を張った有力氏族です。
足立氏と豊島氏の関係については未だ調べていませんが、対抗関係にあったとすると、その関係が「足立姫伝説」を介して伝わった可能性もあるかもしれません。
豊島清光は中世に豊島郡を領した武将で、史料から正式名は”清元”とされています。
治承四年(1180年)、石橋山の戦いで敗れ、安房国から再挙を図った源頼朝軍に合流し、鎌倉に入って幕府御家人に列しました。
清光・清重父子は奥州合戦の遠征軍に加わり、清重は戦功を挙げて戦後に奥州総奉行に任ぜられています。
豊島清光の館は当寺からもほど近い清光寺とされ、清光寺には豊島清光の木像が祀られています。(清光寺も豊島霊場の札所なので、御朱印を拝受できます。)
飛鳥山から流れ下る石神井川(滝野川・音無川)が荒川に合流するすぐそばにあり、王子駅前からだと徒歩15分弱です。
境内は広く、多くの見どころがあります。
【写真 上(左)】 石柱門
【写真 下(右)】 身代地蔵菩薩
通りに面した石柱門の右手には「身代地蔵菩薩」が御座します。
美貌で高慢な双六好きの藤原氏のお姫様の危機を救われ、改心したお姫様の信仰を受けたという逸話をもつお地蔵さまです。
【写真 上(左)】 境内参道
【写真 下(右)】 山門
【写真 上(左)】 奉石橋の碑
【写真 下(右)】 六地蔵
参道正面が山門。三間一戸の八脚門で屋根は本瓦葺、唐破風の下に天井絵をはじめ艶やかな彩色の意匠が施されています。
手前は仁王尊二体。本堂側には風神、雷神が御座す見どころの多い山門です。
山門の手前右手の六地蔵は、「逆さ卍の六地蔵」として知られる石仏です。
【写真 上(左)】 風神
【写真 下(右)】 雷神
【写真 上(左)】 中門前
【写真 下(右)】 中門
さらに参道を進むと正面が中門。おそらく三間一戸の八脚門ですが山門よりはシックなつくで、山門と中門のふたつの門がいいコントラストを見せています。
手前に「関東六阿彌陀元木第壱番霊場」の札所標。
江戸六阿弥陀は「関東六阿弥陀」とも呼ばれたと伝わりますが、これを裏付けるものです。
中門手前左右の獅子はともに阿形で、ちよっと変わった表情をしています。
左手に御座す端正なお顔立ちのお地蔵様と正面上手の「六阿弥陀第壱番」の赤い提灯が、女人霊場らしい華やぎを醸しています。
【写真 上(左)】 札所標と中門
【写真 下(右)】 本堂前
中門は閉ざされているので脇から回り込みます。
中門から本堂までは回廊形式で朱塗りの柱梁の屋根がかかっています。
正面は左右にたくさんの絵馬がかかった、信仰の篤さを伝える本堂です。
本堂の全容は明らかでないですが、近代建築かと思われます。
【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 阿弥陀如来と本堂
【写真 上(左)】 阿弥陀如来
【写真 下(右)】 岩清水六阿弥陀
本堂向かって右に、御本尊のお前立ちとみられる阿弥陀如来が御座します。
蓮華座に結跏趺坐され、光背に化仏を配し、来迎印(上品下生印)を組まれる存在感あるおすがたで、さすがに阿弥陀霊場発願札所です。
境内にはほかにもさまざまな見どころがあります。
・お馬塚
「よさこい節」の一節 ”土佐の高知のはりまや橋で坊さんかんざし買うを見た”の逸話の主人公「お馬」の墓所が当寺であることが確認されたため、昭和47年に建立されたものです。
土佐の2人のイケメンの僧と、美しい鋳掛屋の娘「お馬」の間で繰り広げられた波瀾万丈の恋物語で、メインの舞台は土佐ですが、「お馬」は2人の僧いずれとも結ばれず、土佐の大工・寺崎氏と結婚し、明治中期に東京に移り、没後西福寺に入りました。
→「お馬」の恋物語の概要
物見高い江戸っ子のことゆえ、この色恋沙汰の物語が知られていれば「お馬」とこのお寺は一大観光?スポットとなった筈ですが、このお話しは幕末が舞台で、しかも当寺との関係が確認されたのは昭和も後期。
さすがの江戸っ子も、これでは駆けつけるすべもありません。
・奉石橋の碑
石神井川に架かる現在の豊石橋は、以前は氾濫のたびに流され、かつてこの地を訪れた夫婦の六部(巡礼者)が川を渡れずに困っていたところ、村人たちが助力してこの六部を安全に渡しました。
その後、「秩父のある方から頼まれて来た」という石屋が立派な橋を架け、一体の石のお地蔵さまを納めて帰っていきました。村人たちは「秩父のある方」がかの六部であると悟り、感謝の意を込めて「奉石橋」と名付けたと伝わります。
・岩清水六阿弥陀
境内の一角にあります。
中央に当山の施無畏印・与願印の立像の阿弥陀如来。左右に定印を結ばれる五体の阿弥陀如来坐像が御座し、六阿弥陀各寺の寺号が刻まれています。
江戸六阿弥陀発願寺としての矜持が感じられる六阿弥陀です。
【写真 上(左)】 当山(壱番目)
【写真 下(右)】 弐番目 恵明寺
【写真 上(左)】 参番目 無量寺
【写真 下(右)】 四番目 與楽寺
【写真 上(左)】 五番目 常楽院
【写真 下(右)】 六番目 常光寺
御朱印は庫裡にて拝受しました。
豊島八十八ヶ所霊場第67番の札所でもあり、そちらの御朱印も授与されています。
● 江戸六阿弥陀如来第1番目の御朱印
中央に宝珠印(蓮華座+火焔宝珠)、「六阿弥陀如来」と阿弥陀三尊の種子「キリーク、サ、サク」の揮毫と右上に「第壱番」の札所印。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
なお、中央上部に阿弥陀如来の種子(キリーク)、右に聖観世音菩薩の種子(サ)、左に勢至菩薩の種子(サク)が揮毫された阿弥陀三尊様式は、江戸六阿弥陀の御朱印で複数みられるものです。
〔 豊島霊場の御朱印 〕
基本的な構成は江戸六阿弥陀と同様ですが、こちらは尊格揮毫が「阿弥陀如来」。
右に豊島霊場の札番「第六十七番」の揮毫があります。
■ 第2番目 宮城山 円明院 恵明寺
足立区江北2-4-3
真言宗系単立
御本尊:阿弥陀如来
他の札所:荒綾八十八ヶ所霊場第54番、荒川辺八十八ヶ所霊場第21番(旧小台村延命寺)、第23番、第24番(旧沼田村能満寺)、第25番(旧宮城村円満寺)、第26番(旧小台村正覚寺)、第27番(旧小台村観性寺)
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.江戸六阿弥陀霊場第2番目
朱印尊格:阿弥陀如来
御本尊の阿弥陀如来は六阿弥陀第2番目で、明治9年(1876年)小台の延命寺を合併の際、延命寺から移られたものと伝わります。(よって、江戸期の第2番目は延命寺)
新編武蔵風土記稿巻之百三十六 足立郡之二 小臺村の「阿彌陀堂」が小台の延命寺を指すものとみられます。
「六阿彌陀堂と称する其第二番なり、沼田村の接地にあるを以て、人多く沼田の六阿彌陀といへり、其濫觴を尋るに、人王四十五代聖武帝の御宇、豊嶋郡沼田村に庄司と云もの一人の女子あり、隣村に嫁す、いかなる故にや其家の婢女と沼田川に身を投じて死せり、父の庄司悲の餘彼等追福の為にとて、所々の霊場を順拝し、紀州熊野山に詣でし時、山下にて一株の霊木を得たりしかば、則仏像を彫刻して、かの冥福を祈らんと、本國に帰りて後僧行基に託して、六軆の彌陀を刻し、分て此邊六ヶ寺に安置せし其一なるよし縁起に載す、尤うけがたき説なり、聖武帝の頃庄司と云ものあるべき名にあらず、且沼田村は豊嶋郡にはあらで本郡の地なり、かゝる杜撰の寺傳取べきにあらず、また隣村宮城村性翁寺の傳には、足立の庄司宮城宰相の女子、豊嶋左衛門尉に嫁せしが、故ありて神亀二年六月朔日侍女と共に荒川に投じて死す、其追福の為にかの熊野山の霊木を以て、行基に託し彫刻して此邊の寺院六ヶ寺に安すと云、神亀は聖武帝の年号にて、少しくたがひあれど同じ傳へなり(中略)されど此六阿弥陀のことは、世の人信ずることにて、其造立さまで近き頃のことゝも思はれず。」
(『新編武蔵風土記稿』 → 国会図書館DCより)
ここでも『風土記稿』は「かゝる杜撰の寺傳取べきにあらず」としながらも「されど此六阿弥陀のことは、世の人信ずることにて」と受け、創祀伝承に疑問を呈しながらも人々のあいだに「六阿弥陀」の信仰が広がっていることを記しています。
荒川辺八十八ヶ所霊場の札所であり、沼田村、宮城村、小台村の数寺の札所が恵明寺に移動していることから、3村の寺院が合併された可能性があります。
「猫のあしあと」様の情報によると、荒川辺霊場第21番の小台村延命寺)、第25番の宮城村円満寺、第26番の小台村正覚寺、第27番の小台村観性寺が荒川河川改修工事に伴い廃寺(第24番の沼田村能満寺は明治維新前に廃寺)となり、札所は本寺の恵明寺に移動したようです。
この影響か、現在の宮城、小台は隅田川と荒川に挟まれた島状のエリアで、寺院の数は少なくなっています。
創建年代等は不詳ですが、複数の末寺を抱えていたことからも想像されるとおり、山城国醍醐三宝院の直末で(足立風土記資料)、慶安元年(1648年)寺領二十石の御朱印状拝領の記録が残るこのエリア有数の古刹(中本寺格の寺院)です。
以前は鉄道駅から遠く陸の孤島的な立地でしたが、日暮里舎人ライナーが開通して交通の便がよくなりました。「扇大橋」駅から徒歩約9分で到着です。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 寺号標と山門
荒川沿い、首都高江北JCTのそばにあります。
山門は本瓦葺の重厚な薬医門で、門前に大ぶりな寺号標、枝ぶりのいい青松と六阿弥陀・荒綾霊場併記の札所標を置く構えは、さすがに名刹の風格があります。
山門は常閉のようなので、脇の通用門から参内します。
【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 通用門
【写真 上(左)】 境内1
【写真 下(右)】 境内2
境内も手入れが行き届き、清々しい空気が流れています。
覆堂内に子育地蔵と数体のお地蔵さま。
【写真 上(左)】 子育地蔵
【写真 下(右)】 本堂への参道
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝
本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝。身舎の材質は木造ではありませんが、色調がシックで落ち着いたたたずまい。
海老虹梁もしっかり造作され、向拝手前の青銅色の天水受がいいアクセントになっています。
【写真 上(左)】 向拝側面
【写真 下(右)】 天水受
恵明寺のもともとの御本尊は不動明王と伝わりますが、延命寺合併時に六阿弥陀の阿弥陀如来坐像(等身大の寄木造り)が御本尊となられたようです。
御朱印は庫裡にて授与いただきました。
荒綾八十八ヶ所霊場や荒川辺八十八ヶ所霊場の御朱印の授与については不明です。
● 江戸六阿弥陀第2番目の御朱印
中央に阿弥陀如来の種子キリークの御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、「六阿弥陀如来」と阿弥陀三尊の種子「キリーク、サ、サク」の揮毫と右に「第弐番」の札所印と「沼田」の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第3番目 佛寶山 西光院 無量寺
北区西ヶ原1-34-8
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
他の札所:御府内八十八箇所第59番、豊島八十八ヶ所霊場第59番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第3番、江戸八十八ヶ所霊場第59番、大東京百観音霊場第81番、、滝野川寺院めぐり第9番
※ 『江戸名所図会』十五(国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載)
メジャー霊場、御府内八十八箇所第59番の札所なので、認知度は比較的高いと思います。
また、こちらは江戸時代、春夏のお彼岸にとくに賑わったといわれる江戸六阿弥陀詣の一寺(第3番目)で、もともと参詣者の多かった寺院とみられます。
『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国会図書館DCコマ番号20/114)に以下の記述があります。
「新義真言宗佛寶山西光院ト号ス 慶安元年寺領八石五斗餘ノ御朱印ヲ附ラル、古ハ田端村與楽寺ノ末ナリシカ、常憲院殿厳命ヲ以テ大塚護持院ノ末トナレリ 又昔ハ長福寺ト称セシヲ 惇信院殿の御幼名ヲ避テ今ノ寺号ニ改ムト云 本尊不動外ニ正観音ノ立像ヲ置 長三尺五寸許惠心ノ作ニテ 雷除の本尊トイヘリ 中興眞惠享保三年閏正月廿三日化ス 今ノ堂ハ昔村内ニ建置レシ御殿御取拂トナリシヲ賜リテ建シモノナリト云 元境内ニ母衣櫻ト名ツケシ櫻樹アリシカ今ハ枯タリ 母衣ノ名ハ寛永ノ頃御成アリシ時名ツケ給ヒシト云伝フ」
「寺寶 紅頗梨色彌陀像一幅 八組大師像八幅 妙澤像一幅 不動像一幅 六字名號一幅。以上弘法大師ノ筆ト云 其内名號ニハ大僧都空海ト落款アリ 菅家自畫像一幅」
「七所明神社 村ノ鎮守トス 紀伊國高野山四社明神ヲ寫シ祀リ天照大神 春日 八幡三座を合祀ス 故ニ七所明神ト号ス 末社ニ天神 稲荷アリ 辨天社」
「阿彌陀堂 行基の作 坐像長三尺許六阿弥陀ノ第三番ナリ 観音堂 西國三十三所札所寫ナリ 鐘樓 安永九年鑄造ノ鐘ヲ掛 寺中勝蔵院 不動ヲ本尊トス」
創建年代は不明ですが、『滝野川寺院めぐり案内』には「現在当山には9~10世紀の未完成の木像菩薩小像と、12世紀末の都風といわれる等身の阿弥陀如来像が安置されている。さらに正和元年(1312年)、建武元年(1334年)の年号を始めとする30数枚の板碑が境内から出土しているから、少なくとも平安時代の後期には、この地に寺があったことはまず間違いないであろう。」と記されています。
また、北区設置の説明板には『新編武蔵国風土記稿』や寺伝等には、慶安元年(1648年)に幕府から八石五斗余の年貢・課役を免除されたこと、元禄十四年(1701年)五代将軍綱吉公の生母桂昌院が参詣したこと、以前は長福寺と号していたが、寺号が九代将軍家重公の幼名長福丸と同じであるため、これを避けて現在の名称に改めたことなどが記されています。
江戸時代には広大な寺域を有していたといわれ、当寺が別当を勤めた「七社」はその境内に鎮座されていたと伝わります。
『江戸名所図会』には無量寺境内とみられる高台(現・旧古河庭園)に「七社」が表され、現・旧古河庭園の一部も無量寺の境内であったことがうかがわれます。
大正三年(1914年)、古河財閥3代当主の古河虎之助が周囲の土地を購入したという記録があるので、その時に古河家に移った可能性があります。
なお、「七社」は神仏分離の翌年明治二年(1869年)に一本杉神明宮の社地(現社地)に遷座されています。
【写真 上(左)】 七社神社
【写真 下(右)】 七社神社の御朱印(旧)
西ヶ原村の総鎮守であった七社神社には、西ヶ原村内に飛鳥山邸(別荘)を構えた渋沢栄一翁が氏子として重きをなし、所縁の品々が残されています。
旧古河庭園は陸奥宗光や古河財閥の邸宅であり、このあたりは府内屈指の高級住宅地であったことがうかがわれます。
現在でも、落ち着いた邸宅がならぶ一画があり、いかにも東京山の手地付きの富裕層が住んでいそうな感じがあります。
内田康夫氏の人気推理小説「浅見光彦シリーズ」の主人公浅見光彦は西ヶ原出身の設定で、家柄がよく、相応の教養や見識を身につけていることなどは、このあたりの地柄を物語るものかもしれません。(内田康夫氏自身が西ヶ原出身らしい。)
このあたりの主要道は、不忍通り、白山通り(中山道)など谷間を走る例が多いですが、本郷通りは例外で、律儀に台地上を辿ります。
第七番城官寺、あるいは西ヶ原駅・上中里駅方面からだと本郷通りを越えての道順となるので、本郷通りからかなりの急坂を下ってのアブローチとなります。
旧古河庭園の裏手にあたるこの坂道は木々に囲まれほの暗く、落ち着いた風情があります。
坂を下りきり、右手に回り込むと参道入口です。
入口回りは車通りも少なく、相応の広さを保って名刹の風格を感じます。
ここで心を落ち着けてから参詣に向かうべき雰囲気があります。
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 参道
【写真 上(左)】 ことぶき地蔵尊
【写真 下(右)】 山門
参道まわりに札所碑、地蔵立像、ことぶき地蔵尊など、はやくも見どころがつづきます。
そのおくに山門。この山門は「大門」と呼ばれ、棟木墨書から伏見の柿浜御門が移築されたものとみられます。本瓦葺でおそらく薬医門だと思います。
【写真 上(左)】 御府内霊場札所碑
【写真 下(右)】 江戸六阿弥陀札所碑
【写真 上(左)】 中門
【写真 下(右)】 秋の山内
【写真 上(左)】 秋の地蔵堂と参道
【写真 下(右)】 地蔵堂と鐘楼
さらに桟瓦葺の中門を回り込んで進む奥行きのある参道です。
緑ゆたかな境内は手入れも行き届き、枯淡な風情があります。
御府内霊場のなかでも屈指の雰囲気ある寺院だと思います。
左手に地蔵堂と鐘楼を見て、さらに進みます。
【写真 上(左)】 見事な紅葉
【写真 上(左)】 冬の山内
【写真 上(左)】 早春の本堂
【写真 下(右)】 秋の本堂
【写真 上(左)】 右斜め前から本堂
【写真 下(右)】 向拝
正面に本堂、向かって右手に大師堂、左手に進むと庫裡があります。
本堂前では数匹のおネコちゃんがくつろいでいます。
【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 まどろむネコ
本堂は、寄棟造平入りで起り屋根の向拝を付設。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に本蟇股。
扁額は「無量寺」。格天井。向拝屋根には「佛寶山」の山号を置く鬼板と兎毛通。
落ち着いた庭園に見合う、風雅な仏堂です。
本堂には阿弥陀如来坐像と、御本尊である不動明王像が御座します。
この阿弥陀如来像は、江戸時代に、江戸六阿弥陀詣(豊島西福寺・沼田延命院(現・足立区恵明寺)・西ヶ原無量寺・田端与楽寺・下谷広小路常楽院(現・調布市)・亀戸常光寺)の第3番目として広く信仰を集めた阿弥陀様です。
御本尊の不動明王像は「当寺に忍び込んだ盗賊が不動明王像の前で急に動けなくなり、翌朝捕まったことから『足止め不動』として信仰されるようになった」という逸話が伝わります。
【写真 上(左)】 大師堂
【写真 上(左)】 大師堂の堂号板
本堂向かって右手の大師堂は宝形造桟瓦葺で向拝を付設し、向拝柱に「大師堂」の板標。
大師堂の中には恵心作と伝わる聖観世音菩薩像が安置されており、「雷除けの本尊」として知られています。
本堂のそばには、上野王子駒込辺三十三観音霊場第3番の札所標も建っており、札所本尊は聖観世音菩薩と伝わるので、この「雷除けの本尊」が札所本尊かもしれません。
御朱印は本堂向かって左の庫裡で拝受できます。
原則として書置はないようで、ご住職ご不在時は郵送にてご対応いただけます。
なお、複数の霊場の御朱印を授与されておられるので、事前に参詣目的の霊場を申告した方がよろしいかと思います。
● 江戸六阿弥陀如来第3番目の御朱印
中央に「六阿弥陀如来」と阿弥陀三尊の種子「キリーク、サ、サク」の揮毫と阿弥陀如来の種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「第三番」の札所印。右に「西ヶ原」の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
【上(左)】 御府内八十八箇所第59番の御朱印(専用納経帳)
【下(右)】 御府内八十八箇所第59番の御朱印(御朱印帳揮毫)
中央に「不動明王」と不動明王の種子「カン」の揮毫と御寶印(蓮華座)。
右上に「第五十九番」の札所印。右に弘法大師の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
● 豊島八十八ヶ所霊場第59番の御朱印
中央に「不動明王」と不動明王の種子「カン」の揮毫と御寶印(蓮華座)。
右上に「第五十九番」の札所印。右に弘法大師の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
● 滝野川寺院めぐり第9番の御朱印
中央に「不動明王」と不動明王の種子「カン」の揮毫と御寶印(蓮華座)。
右上に「滝野川寺院めぐり 第九番寺」の札所印。右に弘法大師の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第4番目 宝珠山 地蔵院 與楽寺
北区田端1-25-1
真言宗豊山派
御本尊:地蔵菩薩
他の札所:御府内八十八箇所第56番、豊島八十八ヶ所第56番、大東京百観音霊場第82番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第21番、江戸八十八ヶ所霊場第56番、九品仏霊場第3番(上品下生)、豊島六地蔵霊場第1番、、滝野川寺院めぐり第1番
※ 『江戸名所図会』十五(国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載)
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 修行大師像と札所標
弘法大師の建立とも伝わり、慶安元年(1648年)に寺領20石の御朱印状を拝領、京都仁和寺の関東末寺の取締役寺を務められ末寺20余を擁したとされる名刹です。
『滝野川寺院めぐり案内』には康歴三年(1381年)銘の石塔の存在が記され、寺歴は相当に古そうです。
『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国会図書館DCコマ番号21/114)には以下の記述があります。
「新義真言宗京都仁和寺末 寶珠山地蔵院ト号ス 慶安元年八月二十四日寺領二十石ノ御朱印を賜フ 本尊地蔵ハ弘法大師ノ作ナリ 昔當寺へ或夜賊押入シ時 イツク●ナク数多ノ僧出テ賊ヲ防キ遂ニ追退タリ、翌朝本尊ノ足泥ニ汚レアリシカハ、是ヨリ賊除ノ地蔵ト号スト伝フ 開山ヲ秀榮ト云」「鐘樓 寶暦元年鑄造ノ鐘ヲカク」「阿彌陀堂 本尊ハ行基ノ作ニテ六阿彌陀ノ第四番ナリ」「九品佛堂 是モ近郷九品阿彌陀佛ノ内第三番ナリト云」
複数の霊場の札所を兼ねておられ、とくに御府内八十八箇所と武州江戸六阿弥陀で参拝される方が多いのでは。
こちらのご住職は滝野川寺院めぐり開創当時の滝野川仏教会の会長で、そのことから札所1番発願寺を務められているものと思われます。
豊島郡有数の名刹の歴史を語るように、ゆったりとした間口を構えます。
山門は平成29年(2017年)建立で、切妻造本瓦葺の立派な四脚門。
山門左手には修行大師像と、御府内霊場第五十六番、六阿弥陀第四番の両札所標、それに上野王子駒込辺三十三観音霊場の札所標「西國廿一番 丹波國阿のう寺写」があります。
【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 霊堂
参道を進むと左手に霊堂。宝形造唐破風向拝の少し変わった雰囲気のお堂です。
その先には鐘楼。さらに進んだ右手にも宝形造のお堂があって、伽藍は整っています。
境内はよく整備され、名刹特有の荘厳な空気がただよっています。
【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 右手のお堂と客殿
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
参道正面に本堂。
入母屋造本瓦葺流れ向拝。降り棟、隅棟、稚児棟をきっちり備える堂々たる仏殿です。
水引虹梁両端に雲形木鼻、頭貫上に出三ツ斗、身舎側に海老虹梁と雲形の手挟を伸ばし、中備に板蟇股を置いています。
正面桟唐戸の上に「與楽寺」の扁額。
向拝両脇の花頭窓と身舎欄間の菱格子が、引き締まった印象を与えます。
【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂向拝見上げ
本堂に御座す御本尊の地蔵菩薩は弘法大師の御作と伝わり、盗賊の侵入を追い返された「賊除地蔵」としても知られる秘仏です。
本堂右手が客殿。切妻造桟瓦葺唐破風付きの整った意匠は、本瓦葺の本堂とバランスのよい対比を見せています。
本堂右手脇にも上野王子駒込辺三十三観音霊場の札所標がありますが、こちらは「西國弐拾九番」となっています。
第29番は東覚寺で、標中に「是」「道」の文字があるので、札所導標かもしれません。
【写真 上(左)】 客殿
【写真 下(右)】 阿弥陀堂
本堂向かって右手が阿弥陀堂で、こちらは武州江戸六阿弥陀第4番目の札所です。
「江戸六阿弥陀」と「滝野川寺院めぐり」とは複数の札所(第1番與楽寺、第9番無量寺、第10番昌林寺)が重複しています。
入母屋造桟瓦葺流れ向拝。水引虹梁両端に木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股。
正面板戸の上に「六阿弥陀 第四番」の扁額。
シンプルな虹梁と両脇の連子が効いて、シャープな印象の向拝です。
札所本尊の阿弥陀如来は行基作と伝わります。
【写真 上(左)】 阿弥陀堂の扁額
【写真 下(右)】 本堂と阿弥陀堂のあいだのナゾのお堂
阿弥陀堂の右手、本堂とのあいだにもうひとつ宝形造のナゾのお堂がありますが詳細不明。
お堂の手前に観音様の線刻碑があるので、観音堂かもしれません。
御朱印は本堂向かって右手の客殿で拝受します。ここは5回以上参拝していますが、いずれも揮毫御朱印をいただけました。
● 江戸六阿弥陀第4番目の御朱印
中央に三寶印と「六阿弥陀如来」と阿弥陀三尊の種子「キリーク、サ、サク」の揮毫。右に「第四番」の札所印と「田端」の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
【上(左)】 御府内八十八箇所第56番の御朱印
【下(右)】 豊島八十八ヶ所第56番の御朱印
滝野川寺院めぐり第1番の御朱印
御朱印は、中央に「本尊 地蔵菩薩」の揮毫と三寶印の捺印、右に「弘法大師」の揮毫。
左下に寺号と寺院印、右上に各霊場の札所印。
尊格構成は御府内霊場、豊島霊場、滝野川寺院めぐりともに同様です。
→ ■ 武州江戸六阿弥陀詣の御朱印 ~ 足立姫伝説 ~ 【 御編 】へつづく
【 BGM 】
■ ひらひら ひらら - ClariS
■ 夢の途中 - KOKIA
■ 潮見表 - 遊佐未森
アゲてみます。
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2021/06/22 UP
江戸時代、江戸の庶民、とくに女性に広く信仰を広めた札所詣がありました。
「武州江戸六阿弥陀詣」です。
江戸名所図会など江戸期の絵図にも多くとりあげられ、逸話も多いので時間をかけてじっくり構成してみたいと思いますが、まずは初稿としてUPしてみます。
なお、「 滝野川寺院めぐり」の記事と重複する内容があります。
ボリュームがあるので、前編と後編に分けます。
■ 武州江戸六阿弥陀詣の御朱印 ~ 足立姫伝説 ~ 【 前編 】
■ 武州江戸六阿弥陀詣の御朱印 ~ 足立姫伝説 ~ 【 後編 】
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『江戸名所図会』(常光寺境内説明板より)
【写真 上(左)】 第1番目 西福寺
【写真 下(右)】 第2番目 恵明寺
武州江戸六阿弥陀霊場(江戸六阿弥陀)は、行基菩薩が一夜の内に一本の木から刻み上げた六体の阿弥陀仏と、余り木で刻した阿弥陀仏、残り木(末木)で刻した聖観世音菩薩を巡拝する八箇寺からなる阿弥陀霊場で、女人成仏の阿弥陀仏として崇められ、江戸中期から大正時代にかけて、とくに春秋の彼岸の頃に女性を中心として盛んに巡拝されたといわれます。
開創年代については諸説あり錯綜していますが、札所は確定しています。
第1番目 三縁山 無量壽院 西福寺
北区豊島2-14-1 真言宗豊山派
第2番目 宮城山 円明院 恵明寺(旧小台村延命院)
足立区江北2-4-3 真言宗系単立
第3番目 佛寶山 西光院 無量寺
北区西ケ原1-34-8 真言宗豊山派
第4番目 宝珠山 地蔵院 與楽寺
北区田端1-25-1 真言宗豊山派
第5番目 福増山 常楽院
調布市西つつじヶ丘4-9-1(旧下谷(上野)広小路) 天台宗
第6番目 西帰山 常光寺
江東区亀戸4-48-3 曹洞宗
木余の弥陀 龍燈山 貞香院 性翁寺
足立区扇2-19-3 浄土宗
木残(末木)の観音 補陀山 昌林寺
北区西ケ原3-12-6 曹洞宗
※国土地理院ウェブサイト掲載の「地理院地図」を筆者にて加工作成。
【写真 上(左)】 『東都歳時記』の札所一覧(国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載・原データ)
【写真 下(右)】 『滑稽名作集. 上/六あみだ詣 上編・十返舎一九題』の札所一覧 (国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載・原データ)
■常光寺「六阿弥陀道道標」説明板より
「江戸六阿弥陀詣とは、江戸時代、春秋の彼岸に六ヶ寺の阿弥陀仏を巡拝するもので、その巡拝地は順に上豊島村西福寺(北区)、下沼田村延命院(足立区)、西ヶ原無量寺(北区)、田端村与楽寺(北区)、下谷広小路常楽院(調布市に移転)、亀戸村常光寺となっていました。江戸六阿弥陀には奈良時代を発祥とする伝承がありますが、文献上の初見は明暦年間(1655-58年)であることから、六阿弥陀詣は明暦大火後の江戸市中拡大、江戸町方住民の定着にともなう江戸町人の行楽行動を示すものといえます。」
江戸六阿弥陀についてまとめた文献は多数ありますが、ここでは下記2資料を主に参考とし、適宜引用させていただきました。
1.「江戸の3 つの『六阿弥陀参』における『武州六阿弥陀参』の特徴」/古田悦造氏(リンク、以下「資料1」とします。)
2.「『篤信』の『商売人』 - 東天紅上野本店裏手の常楽院別院に関する調査報告 -」/徳田安津樹氏(リンク、以下「資料2」とします。)
順路については、『東都歳時記』によると札番どおりではなく、第5番目 常楽院 → 第4番目 與楽寺 → 第3番目 無量寺・木残(末木) 昌林寺 → 第1番目 西福寺 → 第2番目 延命院 (現・恵明寺)・木余 性翁寺 → 第6番目 常光寺〔結願〕という時計回りのコースが多くとられたようです。
※ 『東都歳事記. 春之部 下』(国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載・加工)
※ 『東都遊覧年中行事』(国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載)
各寺院の縁起や由緒、足立区資料、および「資料1」「資料2」などから江戸六阿弥陀の創祀を辿ってみます。
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〔 足立姫伝説 〕
その昔この地に「足立の長者」(足立庄司宮城宰相とも)という人がおり、年老いて子がないことを憂いて、日頃から尊崇している熊野権現に一途に祈ると女の子を授かりました。
「足立姫」と呼ばれたこの子は容顔すこぶる麗しく、見るものはみな心を奪われたといいます。
生来仏を崇うことが篤く、聡明に成長した姫は「豊嶋の長者」(豊島左衛門尉清光とも)に嫁いだものの、嫁ぎ先で誹りを受け、12人(5人とも)の侍女とともに荒川に身を投げ命を絶ってしまいました。
足立の長者はこれを悲しみ、娘や侍女の菩提のために諸国の霊場巡りに出立しました。
紀州牟宴の郡熊野権現に参籠した際、霊夢を蒙り1本の霊木を得て、これを熊野灘に流すと、やがてこの霊木は国元の熊野木(沼田の浦とも)というところに流れ着きました。
この霊木は不思議にも夜ごと光を放ちましたが、折しもこの地を巡られた行基菩薩は(この霊木は)浄土に導かんがための仏菩薩の化身なるべしと云われ、南無阿弥陀仏の六字の御名号数にあわせて霊木から六体の阿弥陀如来像を刻し、余り木からもう一体の阿弥陀仏、さらに残った木から一体の観音菩薩像を刻まれそれを姫の遺影として与えました。
後にこれら七体の阿弥陀仏と一体の観音像は近隣の寺院に祀られ、以降、女人成仏の阿弥陀詣でとしてとくに江戸期に信仰を集めました。
※なお、資料によっては、足立姫は豊嶋左衛門清光の娘、嫁ぎ先を足立少輔家にしているものがあります。
この哀しい逸話は「足立姫伝説」とも呼ばれ、このエリアに広く伝わるものです。
『滝野川寺院めぐり案内』の無量寺の頁に「江戸近郊を歩くこのミニ巡礼は、表向きは信心とはいうものの、実際は世代家族の同居が当たり前だった時代の、年に2回のストレス解消とレクリエーションの一石二鳥の効果を狙ったものであった。まさに庶民が、日常生活の中から考えた知恵だったのであろう。」と記載されていますが、江戸の年中行事を描いた『東都歳時記』や『江戸名所図絵』でも複数取り上げられていることからも、そのような側面が大きかったと思われます。
「足立姫伝説」の経緯からは娵姑の確執がうかがわれ、このような背景もあってか、第6番目の常光寺のWebでは「六番は嫁の小言の言いじまい」「六阿弥陀嫁の小言(噂)の捨て処」の川柳が紹介されています。
気候のよい春秋の彼岸の一日、気の合ったお仲間と連れだって、日頃の鬱憤の発散をはかる庶民の姿がうかがわれます。
※ 『江戸名所図会』7巻[17](国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載)
「資料2」では柳沢吉保の孫・信鴻作の『宴遊日記』からつぎの描写が紹介されています。(安永六年(1777年)2月の項)
「今日彼岸の終り阿弥陀参り往来甚賑し、天色大に晴、西南白雲如刷、平塚明神鳥居前より坂道を下り、利島郡へ行、行人にて塗甚込合、五歩六歩に路上仏を居へ、村姥数人念仏を唱へ、或ハ太鼓・鐘をうち建立の法施を請者夥く、疥癬の乞僧路上に満ち、辻博突有、畝中路上皆貝売雪の如し」
※ 『滑稽名作集. 上/六あみだ詣 上編・十返舎一九題』(国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載)
また、十返舎一九の『六あみだ詣 上編』には下記の描写があります。(国会図書館DC)
「彼岸功徳経に曰。二八月七日の間無数萬億のぼさつ。法を説て衆生楽をあたへ給うなりと。其外諸経にも見へて。春秋二度の彼岸には。人間の罪障消滅の縁ふかく。佛に法施し。僧に供養するの時なりとて。六阿彌陀詣といふ事。いつの頃にやはじまり。六ヶ所の霊地に貴きも賤しきも。あみだの光も地獄のさたも。銭次第とてはやみちに。臍くりをとりこみ。巾着のひもながき麗なるに。打ちむれつヽ一乗無外の色のよの中。とぢぶたとつれだつ破鍋(われなべ)あれば。餅をつく桃灯は。ぬれたる祖母の腰つきを思ひやり。佛性常住の吸筒をかたげ。一色一香のにぎりめしをふところにして。ぬらりくらりの牛は牛づれ。馬は馬づれ。はなしつれてゆく中にも。(以下略)」
「資料2」によると、六阿弥陀伝説が最初に記されたのは江戸時代前期成立の『六阿弥陀伝説』とみられ、すべての札所(寺院所在)が明確にされたのは貞享四年(1987年)の『江戸鹿子』とのことです。
なお、京都今熊野の新熊野神社の公式Webによると、熊野本宮大社の本地は阿弥陀如来で「この当時(平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて)の当時の熊野信仰を一言でいうと、本地垂迹説に基づく神仏習合信仰と浄土信仰が一体化した信仰ということになろう。」とあるので、江戸六阿弥陀が熊野とつながりをもつのは自然な成り行きであったともみられます。
それでは第1番目から順にご紹介していきます。
なお、御朱印については8箇寺すべてで授与されておられますが、多くが授与所ではなく庫裡での授与で、タイミングや状況によっては拝受できない可能性もあるかもしれません。
ある程度御朱印拝受に慣れた方向けの札所詣のような感じがしています。
■ 第1番目 三縁山 無量壽院 西福寺
北区豊島2-14-1
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
他の札所:豊島八十八ヶ所霊場第67番、荒川辺八十八ヶ所霊場第20番
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.江戸六阿弥陀霊場第1番目
朱印尊格:阿弥陀如来
2.豊島八十八ヶ所霊場第67番
朱印尊格:阿弥陀如来
※ 『江戸名所図会』十五(国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載)
「足立姫伝説」の登場人物、豊嶋左衛門清光の創建(開基)と伝わる古刹で、六阿弥陀第1番目の阿弥陀如来をご本尊としています。
「是世に所謂六阿彌陀の一なり、縁起を閲するに、聖武帝御宇當國の住人豊嶋左衛門清光、紀伊國熊野権現を信し、其霊夢に因て一社を王子村に建立し、王子権現と崇め祀れり、然るに清光子なきを憂ひ彼社に祈願せしに、一人の女子を産す、成長の後足立少輔某に嫁せしか、奩具の備はらさるを以少輔に辱しめられしかは、彼女私に逃れ荒川に身を投て死す、父清光悲に堪す是より佛教に心を委ねしか、或夜霊夢に因て異木を得だり、折しも行基當國に来りし故、清光其事を告しに行基即ちかの異木を以て六體の阿弥陀を彫刻し、近郷六ヶ所に安置して彼女の追福とせり、故に是を女人成佛の本尊と稱す、當寺の本尊は其第一なり、次は足立郡小臺村、第三は當郡西ヶ原村、第四は田畑村、第五は江戸下谷、第六は葛飾郡亀戸村なりと云、此説もとより妄誕にして信用すへきにあらされと、當寺のみにあらす残る五ヶ所とともに、少の異同はあれと皆縁起なとありて世人の口碑に傳る所なれは、其略を記しおきぬ、且清光は権頭と稱し、治承の頃の人なれは行基とは時代遥に後れたり」
(『新編武蔵風土記稿』 → 国会図書館DCより)
「此説もとより妄誕にして信用すへきにあらされと、當寺のみにあらす残る五ヶ所とともに、少の異同はあれと皆縁起なとありて世人の口碑に傳る所なれは、其略を記しおきぬ」とあり、江戸六阿弥陀の創祀伝承については疑義をはさんでいます。
ただし文面からは、六阿弥陀の伝承は人口に膾炙し、信仰も広がっていたことがうかがわれます。
江戸六阿弥陀の寺院の縁起や由緒をみると、
A.足立姫の父は足立(沼田)庄司(従二位宰相藤原正成)、嫁ぎ先は豊島左衛門尉清光
B.足立姫の父は豊島左衛門尉清光、嫁ぎ先は足立の沼田治部少輔
の2パターンあることがわかります。
当寺の縁起は、B.足立姫の父は豊島左衛門尉清光のパターンです。
足立氏(藤原氏流)も豊島氏も中世には豊島郡・足立郡に勢力を張った有力氏族です。
足立氏と豊島氏の関係については未だ調べていませんが、対抗関係にあったとすると、その関係が「足立姫伝説」を介して伝わった可能性もあるかもしれません。
豊島清光は中世に豊島郡を領した武将で、史料から正式名は”清元”とされています。
治承四年(1180年)、石橋山の戦いで敗れ、安房国から再挙を図った源頼朝軍に合流し、鎌倉に入って幕府御家人に列しました。
清光・清重父子は奥州合戦の遠征軍に加わり、清重は戦功を挙げて戦後に奥州総奉行に任ぜられています。
豊島清光の館は当寺からもほど近い清光寺とされ、清光寺には豊島清光の木像が祀られています。(清光寺も豊島霊場の札所なので、御朱印を拝受できます。)
飛鳥山から流れ下る石神井川(滝野川・音無川)が荒川に合流するすぐそばにあり、王子駅前からだと徒歩15分弱です。
境内は広く、多くの見どころがあります。
【写真 上(左)】 石柱門
【写真 下(右)】 身代地蔵菩薩
通りに面した石柱門の右手には「身代地蔵菩薩」が御座します。
美貌で高慢な双六好きの藤原氏のお姫様の危機を救われ、改心したお姫様の信仰を受けたという逸話をもつお地蔵さまです。
【写真 上(左)】 境内参道
【写真 下(右)】 山門
【写真 上(左)】 奉石橋の碑
【写真 下(右)】 六地蔵
参道正面が山門。三間一戸の八脚門で屋根は本瓦葺、唐破風の下に天井絵をはじめ艶やかな彩色の意匠が施されています。
手前は仁王尊二体。本堂側には風神、雷神が御座す見どころの多い山門です。
山門の手前右手の六地蔵は、「逆さ卍の六地蔵」として知られる石仏です。
【写真 上(左)】 風神
【写真 下(右)】 雷神
【写真 上(左)】 中門前
【写真 下(右)】 中門
さらに参道を進むと正面が中門。おそらく三間一戸の八脚門ですが山門よりはシックなつくで、山門と中門のふたつの門がいいコントラストを見せています。
手前に「関東六阿彌陀元木第壱番霊場」の札所標。
江戸六阿弥陀は「関東六阿弥陀」とも呼ばれたと伝わりますが、これを裏付けるものです。
中門手前左右の獅子はともに阿形で、ちよっと変わった表情をしています。
左手に御座す端正なお顔立ちのお地蔵様と正面上手の「六阿弥陀第壱番」の赤い提灯が、女人霊場らしい華やぎを醸しています。
【写真 上(左)】 札所標と中門
【写真 下(右)】 本堂前
中門は閉ざされているので脇から回り込みます。
中門から本堂までは回廊形式で朱塗りの柱梁の屋根がかかっています。
正面は左右にたくさんの絵馬がかかった、信仰の篤さを伝える本堂です。
本堂の全容は明らかでないですが、近代建築かと思われます。
【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 阿弥陀如来と本堂
【写真 上(左)】 阿弥陀如来
【写真 下(右)】 岩清水六阿弥陀
本堂向かって右に、御本尊のお前立ちとみられる阿弥陀如来が御座します。
蓮華座に結跏趺坐され、光背に化仏を配し、来迎印(上品下生印)を組まれる存在感あるおすがたで、さすがに阿弥陀霊場発願札所です。
境内にはほかにもさまざまな見どころがあります。
・お馬塚
「よさこい節」の一節 ”土佐の高知のはりまや橋で坊さんかんざし買うを見た”の逸話の主人公「お馬」の墓所が当寺であることが確認されたため、昭和47年に建立されたものです。
土佐の2人のイケメンの僧と、美しい鋳掛屋の娘「お馬」の間で繰り広げられた波瀾万丈の恋物語で、メインの舞台は土佐ですが、「お馬」は2人の僧いずれとも結ばれず、土佐の大工・寺崎氏と結婚し、明治中期に東京に移り、没後西福寺に入りました。
→「お馬」の恋物語の概要
物見高い江戸っ子のことゆえ、この色恋沙汰の物語が知られていれば「お馬」とこのお寺は一大観光?スポットとなった筈ですが、このお話しは幕末が舞台で、しかも当寺との関係が確認されたのは昭和も後期。
さすがの江戸っ子も、これでは駆けつけるすべもありません。
・奉石橋の碑
石神井川に架かる現在の豊石橋は、以前は氾濫のたびに流され、かつてこの地を訪れた夫婦の六部(巡礼者)が川を渡れずに困っていたところ、村人たちが助力してこの六部を安全に渡しました。
その後、「秩父のある方から頼まれて来た」という石屋が立派な橋を架け、一体の石のお地蔵さまを納めて帰っていきました。村人たちは「秩父のある方」がかの六部であると悟り、感謝の意を込めて「奉石橋」と名付けたと伝わります。
・岩清水六阿弥陀
境内の一角にあります。
中央に当山の施無畏印・与願印の立像の阿弥陀如来。左右に定印を結ばれる五体の阿弥陀如来坐像が御座し、六阿弥陀各寺の寺号が刻まれています。
江戸六阿弥陀発願寺としての矜持が感じられる六阿弥陀です。
【写真 上(左)】 当山(壱番目)
【写真 下(右)】 弐番目 恵明寺
【写真 上(左)】 参番目 無量寺
【写真 下(右)】 四番目 與楽寺
【写真 上(左)】 五番目 常楽院
【写真 下(右)】 六番目 常光寺
御朱印は庫裡にて拝受しました。
豊島八十八ヶ所霊場第67番の札所でもあり、そちらの御朱印も授与されています。
● 江戸六阿弥陀如来第1番目の御朱印
中央に宝珠印(蓮華座+火焔宝珠)、「六阿弥陀如来」と阿弥陀三尊の種子「キリーク、サ、サク」の揮毫と右上に「第壱番」の札所印。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
なお、中央上部に阿弥陀如来の種子(キリーク)、右に聖観世音菩薩の種子(サ)、左に勢至菩薩の種子(サク)が揮毫された阿弥陀三尊様式は、江戸六阿弥陀の御朱印で複数みられるものです。
〔 豊島霊場の御朱印 〕
基本的な構成は江戸六阿弥陀と同様ですが、こちらは尊格揮毫が「阿弥陀如来」。
右に豊島霊場の札番「第六十七番」の揮毫があります。
■ 第2番目 宮城山 円明院 恵明寺
足立区江北2-4-3
真言宗系単立
御本尊:阿弥陀如来
他の札所:荒綾八十八ヶ所霊場第54番、荒川辺八十八ヶ所霊場第21番(旧小台村延命寺)、第23番、第24番(旧沼田村能満寺)、第25番(旧宮城村円満寺)、第26番(旧小台村正覚寺)、第27番(旧小台村観性寺)
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.江戸六阿弥陀霊場第2番目
朱印尊格:阿弥陀如来
御本尊の阿弥陀如来は六阿弥陀第2番目で、明治9年(1876年)小台の延命寺を合併の際、延命寺から移られたものと伝わります。(よって、江戸期の第2番目は延命寺)
新編武蔵風土記稿巻之百三十六 足立郡之二 小臺村の「阿彌陀堂」が小台の延命寺を指すものとみられます。
「六阿彌陀堂と称する其第二番なり、沼田村の接地にあるを以て、人多く沼田の六阿彌陀といへり、其濫觴を尋るに、人王四十五代聖武帝の御宇、豊嶋郡沼田村に庄司と云もの一人の女子あり、隣村に嫁す、いかなる故にや其家の婢女と沼田川に身を投じて死せり、父の庄司悲の餘彼等追福の為にとて、所々の霊場を順拝し、紀州熊野山に詣でし時、山下にて一株の霊木を得たりしかば、則仏像を彫刻して、かの冥福を祈らんと、本國に帰りて後僧行基に託して、六軆の彌陀を刻し、分て此邊六ヶ寺に安置せし其一なるよし縁起に載す、尤うけがたき説なり、聖武帝の頃庄司と云ものあるべき名にあらず、且沼田村は豊嶋郡にはあらで本郡の地なり、かゝる杜撰の寺傳取べきにあらず、また隣村宮城村性翁寺の傳には、足立の庄司宮城宰相の女子、豊嶋左衛門尉に嫁せしが、故ありて神亀二年六月朔日侍女と共に荒川に投じて死す、其追福の為にかの熊野山の霊木を以て、行基に託し彫刻して此邊の寺院六ヶ寺に安すと云、神亀は聖武帝の年号にて、少しくたがひあれど同じ傳へなり(中略)されど此六阿弥陀のことは、世の人信ずることにて、其造立さまで近き頃のことゝも思はれず。」
(『新編武蔵風土記稿』 → 国会図書館DCより)
ここでも『風土記稿』は「かゝる杜撰の寺傳取べきにあらず」としながらも「されど此六阿弥陀のことは、世の人信ずることにて」と受け、創祀伝承に疑問を呈しながらも人々のあいだに「六阿弥陀」の信仰が広がっていることを記しています。
荒川辺八十八ヶ所霊場の札所であり、沼田村、宮城村、小台村の数寺の札所が恵明寺に移動していることから、3村の寺院が合併された可能性があります。
「猫のあしあと」様の情報によると、荒川辺霊場第21番の小台村延命寺)、第25番の宮城村円満寺、第26番の小台村正覚寺、第27番の小台村観性寺が荒川河川改修工事に伴い廃寺(第24番の沼田村能満寺は明治維新前に廃寺)となり、札所は本寺の恵明寺に移動したようです。
この影響か、現在の宮城、小台は隅田川と荒川に挟まれた島状のエリアで、寺院の数は少なくなっています。
創建年代等は不詳ですが、複数の末寺を抱えていたことからも想像されるとおり、山城国醍醐三宝院の直末で(足立風土記資料)、慶安元年(1648年)寺領二十石の御朱印状拝領の記録が残るこのエリア有数の古刹(中本寺格の寺院)です。
以前は鉄道駅から遠く陸の孤島的な立地でしたが、日暮里舎人ライナーが開通して交通の便がよくなりました。「扇大橋」駅から徒歩約9分で到着です。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 寺号標と山門
荒川沿い、首都高江北JCTのそばにあります。
山門は本瓦葺の重厚な薬医門で、門前に大ぶりな寺号標、枝ぶりのいい青松と六阿弥陀・荒綾霊場併記の札所標を置く構えは、さすがに名刹の風格があります。
山門は常閉のようなので、脇の通用門から参内します。
【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 通用門
【写真 上(左)】 境内1
【写真 下(右)】 境内2
境内も手入れが行き届き、清々しい空気が流れています。
覆堂内に子育地蔵と数体のお地蔵さま。
【写真 上(左)】 子育地蔵
【写真 下(右)】 本堂への参道
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝
本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝。身舎の材質は木造ではありませんが、色調がシックで落ち着いたたたずまい。
海老虹梁もしっかり造作され、向拝手前の青銅色の天水受がいいアクセントになっています。
【写真 上(左)】 向拝側面
【写真 下(右)】 天水受
恵明寺のもともとの御本尊は不動明王と伝わりますが、延命寺合併時に六阿弥陀の阿弥陀如来坐像(等身大の寄木造り)が御本尊となられたようです。
御朱印は庫裡にて授与いただきました。
荒綾八十八ヶ所霊場や荒川辺八十八ヶ所霊場の御朱印の授与については不明です。
● 江戸六阿弥陀第2番目の御朱印
中央に阿弥陀如来の種子キリークの御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、「六阿弥陀如来」と阿弥陀三尊の種子「キリーク、サ、サク」の揮毫と右に「第弐番」の札所印と「沼田」の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第3番目 佛寶山 西光院 無量寺
北区西ヶ原1-34-8
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
他の札所:御府内八十八箇所第59番、豊島八十八ヶ所霊場第59番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第3番、江戸八十八ヶ所霊場第59番、大東京百観音霊場第81番、、滝野川寺院めぐり第9番
※ 『江戸名所図会』十五(国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載)
メジャー霊場、御府内八十八箇所第59番の札所なので、認知度は比較的高いと思います。
また、こちらは江戸時代、春夏のお彼岸にとくに賑わったといわれる江戸六阿弥陀詣の一寺(第3番目)で、もともと参詣者の多かった寺院とみられます。
『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国会図書館DCコマ番号20/114)に以下の記述があります。
「新義真言宗佛寶山西光院ト号ス 慶安元年寺領八石五斗餘ノ御朱印ヲ附ラル、古ハ田端村與楽寺ノ末ナリシカ、常憲院殿厳命ヲ以テ大塚護持院ノ末トナレリ 又昔ハ長福寺ト称セシヲ 惇信院殿の御幼名ヲ避テ今ノ寺号ニ改ムト云 本尊不動外ニ正観音ノ立像ヲ置 長三尺五寸許惠心ノ作ニテ 雷除の本尊トイヘリ 中興眞惠享保三年閏正月廿三日化ス 今ノ堂ハ昔村内ニ建置レシ御殿御取拂トナリシヲ賜リテ建シモノナリト云 元境内ニ母衣櫻ト名ツケシ櫻樹アリシカ今ハ枯タリ 母衣ノ名ハ寛永ノ頃御成アリシ時名ツケ給ヒシト云伝フ」
「寺寶 紅頗梨色彌陀像一幅 八組大師像八幅 妙澤像一幅 不動像一幅 六字名號一幅。以上弘法大師ノ筆ト云 其内名號ニハ大僧都空海ト落款アリ 菅家自畫像一幅」
「七所明神社 村ノ鎮守トス 紀伊國高野山四社明神ヲ寫シ祀リ天照大神 春日 八幡三座を合祀ス 故ニ七所明神ト号ス 末社ニ天神 稲荷アリ 辨天社」
「阿彌陀堂 行基の作 坐像長三尺許六阿弥陀ノ第三番ナリ 観音堂 西國三十三所札所寫ナリ 鐘樓 安永九年鑄造ノ鐘ヲ掛 寺中勝蔵院 不動ヲ本尊トス」
創建年代は不明ですが、『滝野川寺院めぐり案内』には「現在当山には9~10世紀の未完成の木像菩薩小像と、12世紀末の都風といわれる等身の阿弥陀如来像が安置されている。さらに正和元年(1312年)、建武元年(1334年)の年号を始めとする30数枚の板碑が境内から出土しているから、少なくとも平安時代の後期には、この地に寺があったことはまず間違いないであろう。」と記されています。
また、北区設置の説明板には『新編武蔵国風土記稿』や寺伝等には、慶安元年(1648年)に幕府から八石五斗余の年貢・課役を免除されたこと、元禄十四年(1701年)五代将軍綱吉公の生母桂昌院が参詣したこと、以前は長福寺と号していたが、寺号が九代将軍家重公の幼名長福丸と同じであるため、これを避けて現在の名称に改めたことなどが記されています。
江戸時代には広大な寺域を有していたといわれ、当寺が別当を勤めた「七社」はその境内に鎮座されていたと伝わります。
『江戸名所図会』には無量寺境内とみられる高台(現・旧古河庭園)に「七社」が表され、現・旧古河庭園の一部も無量寺の境内であったことがうかがわれます。
大正三年(1914年)、古河財閥3代当主の古河虎之助が周囲の土地を購入したという記録があるので、その時に古河家に移った可能性があります。
なお、「七社」は神仏分離の翌年明治二年(1869年)に一本杉神明宮の社地(現社地)に遷座されています。
【写真 上(左)】 七社神社
【写真 下(右)】 七社神社の御朱印(旧)
西ヶ原村の総鎮守であった七社神社には、西ヶ原村内に飛鳥山邸(別荘)を構えた渋沢栄一翁が氏子として重きをなし、所縁の品々が残されています。
旧古河庭園は陸奥宗光や古河財閥の邸宅であり、このあたりは府内屈指の高級住宅地であったことがうかがわれます。
現在でも、落ち着いた邸宅がならぶ一画があり、いかにも東京山の手地付きの富裕層が住んでいそうな感じがあります。
内田康夫氏の人気推理小説「浅見光彦シリーズ」の主人公浅見光彦は西ヶ原出身の設定で、家柄がよく、相応の教養や見識を身につけていることなどは、このあたりの地柄を物語るものかもしれません。(内田康夫氏自身が西ヶ原出身らしい。)
このあたりの主要道は、不忍通り、白山通り(中山道)など谷間を走る例が多いですが、本郷通りは例外で、律儀に台地上を辿ります。
第七番城官寺、あるいは西ヶ原駅・上中里駅方面からだと本郷通りを越えての道順となるので、本郷通りからかなりの急坂を下ってのアブローチとなります。
旧古河庭園の裏手にあたるこの坂道は木々に囲まれほの暗く、落ち着いた風情があります。
坂を下りきり、右手に回り込むと参道入口です。
入口回りは車通りも少なく、相応の広さを保って名刹の風格を感じます。
ここで心を落ち着けてから参詣に向かうべき雰囲気があります。
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 参道
【写真 上(左)】 ことぶき地蔵尊
【写真 下(右)】 山門
参道まわりに札所碑、地蔵立像、ことぶき地蔵尊など、はやくも見どころがつづきます。
そのおくに山門。この山門は「大門」と呼ばれ、棟木墨書から伏見の柿浜御門が移築されたものとみられます。本瓦葺でおそらく薬医門だと思います。
【写真 上(左)】 御府内霊場札所碑
【写真 下(右)】 江戸六阿弥陀札所碑
【写真 上(左)】 中門
【写真 下(右)】 秋の山内
【写真 上(左)】 秋の地蔵堂と参道
【写真 下(右)】 地蔵堂と鐘楼
さらに桟瓦葺の中門を回り込んで進む奥行きのある参道です。
緑ゆたかな境内は手入れも行き届き、枯淡な風情があります。
御府内霊場のなかでも屈指の雰囲気ある寺院だと思います。
左手に地蔵堂と鐘楼を見て、さらに進みます。
【写真 上(左)】 見事な紅葉
【写真 上(左)】 冬の山内
【写真 上(左)】 早春の本堂
【写真 下(右)】 秋の本堂
【写真 上(左)】 右斜め前から本堂
【写真 下(右)】 向拝
正面に本堂、向かって右手に大師堂、左手に進むと庫裡があります。
本堂前では数匹のおネコちゃんがくつろいでいます。
【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 まどろむネコ
本堂は、寄棟造平入りで起り屋根の向拝を付設。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に本蟇股。
扁額は「無量寺」。格天井。向拝屋根には「佛寶山」の山号を置く鬼板と兎毛通。
落ち着いた庭園に見合う、風雅な仏堂です。
本堂には阿弥陀如来坐像と、御本尊である不動明王像が御座します。
この阿弥陀如来像は、江戸時代に、江戸六阿弥陀詣(豊島西福寺・沼田延命院(現・足立区恵明寺)・西ヶ原無量寺・田端与楽寺・下谷広小路常楽院(現・調布市)・亀戸常光寺)の第3番目として広く信仰を集めた阿弥陀様です。
御本尊の不動明王像は「当寺に忍び込んだ盗賊が不動明王像の前で急に動けなくなり、翌朝捕まったことから『足止め不動』として信仰されるようになった」という逸話が伝わります。
【写真 上(左)】 大師堂
【写真 上(左)】 大師堂の堂号板
本堂向かって右手の大師堂は宝形造桟瓦葺で向拝を付設し、向拝柱に「大師堂」の板標。
大師堂の中には恵心作と伝わる聖観世音菩薩像が安置されており、「雷除けの本尊」として知られています。
本堂のそばには、上野王子駒込辺三十三観音霊場第3番の札所標も建っており、札所本尊は聖観世音菩薩と伝わるので、この「雷除けの本尊」が札所本尊かもしれません。
御朱印は本堂向かって左の庫裡で拝受できます。
原則として書置はないようで、ご住職ご不在時は郵送にてご対応いただけます。
なお、複数の霊場の御朱印を授与されておられるので、事前に参詣目的の霊場を申告した方がよろしいかと思います。
● 江戸六阿弥陀如来第3番目の御朱印
中央に「六阿弥陀如来」と阿弥陀三尊の種子「キリーク、サ、サク」の揮毫と阿弥陀如来の種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「第三番」の札所印。右に「西ヶ原」の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
【上(左)】 御府内八十八箇所第59番の御朱印(専用納経帳)
【下(右)】 御府内八十八箇所第59番の御朱印(御朱印帳揮毫)
中央に「不動明王」と不動明王の種子「カン」の揮毫と御寶印(蓮華座)。
右上に「第五十九番」の札所印。右に弘法大師の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
● 豊島八十八ヶ所霊場第59番の御朱印
中央に「不動明王」と不動明王の種子「カン」の揮毫と御寶印(蓮華座)。
右上に「第五十九番」の札所印。右に弘法大師の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
● 滝野川寺院めぐり第9番の御朱印
中央に「不動明王」と不動明王の種子「カン」の揮毫と御寶印(蓮華座)。
右上に「滝野川寺院めぐり 第九番寺」の札所印。右に弘法大師の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第4番目 宝珠山 地蔵院 與楽寺
北区田端1-25-1
真言宗豊山派
御本尊:地蔵菩薩
他の札所:御府内八十八箇所第56番、豊島八十八ヶ所第56番、大東京百観音霊場第82番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第21番、江戸八十八ヶ所霊場第56番、九品仏霊場第3番(上品下生)、豊島六地蔵霊場第1番、、滝野川寺院めぐり第1番
※ 『江戸名所図会』十五(国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載)
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 修行大師像と札所標
弘法大師の建立とも伝わり、慶安元年(1648年)に寺領20石の御朱印状を拝領、京都仁和寺の関東末寺の取締役寺を務められ末寺20余を擁したとされる名刹です。
『滝野川寺院めぐり案内』には康歴三年(1381年)銘の石塔の存在が記され、寺歴は相当に古そうです。
『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国会図書館DCコマ番号21/114)には以下の記述があります。
「新義真言宗京都仁和寺末 寶珠山地蔵院ト号ス 慶安元年八月二十四日寺領二十石ノ御朱印を賜フ 本尊地蔵ハ弘法大師ノ作ナリ 昔當寺へ或夜賊押入シ時 イツク●ナク数多ノ僧出テ賊ヲ防キ遂ニ追退タリ、翌朝本尊ノ足泥ニ汚レアリシカハ、是ヨリ賊除ノ地蔵ト号スト伝フ 開山ヲ秀榮ト云」「鐘樓 寶暦元年鑄造ノ鐘ヲカク」「阿彌陀堂 本尊ハ行基ノ作ニテ六阿彌陀ノ第四番ナリ」「九品佛堂 是モ近郷九品阿彌陀佛ノ内第三番ナリト云」
複数の霊場の札所を兼ねておられ、とくに御府内八十八箇所と武州江戸六阿弥陀で参拝される方が多いのでは。
こちらのご住職は滝野川寺院めぐり開創当時の滝野川仏教会の会長で、そのことから札所1番発願寺を務められているものと思われます。
豊島郡有数の名刹の歴史を語るように、ゆったりとした間口を構えます。
山門は平成29年(2017年)建立で、切妻造本瓦葺の立派な四脚門。
山門左手には修行大師像と、御府内霊場第五十六番、六阿弥陀第四番の両札所標、それに上野王子駒込辺三十三観音霊場の札所標「西國廿一番 丹波國阿のう寺写」があります。
【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 霊堂
参道を進むと左手に霊堂。宝形造唐破風向拝の少し変わった雰囲気のお堂です。
その先には鐘楼。さらに進んだ右手にも宝形造のお堂があって、伽藍は整っています。
境内はよく整備され、名刹特有の荘厳な空気がただよっています。
【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 右手のお堂と客殿
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
参道正面に本堂。
入母屋造本瓦葺流れ向拝。降り棟、隅棟、稚児棟をきっちり備える堂々たる仏殿です。
水引虹梁両端に雲形木鼻、頭貫上に出三ツ斗、身舎側に海老虹梁と雲形の手挟を伸ばし、中備に板蟇股を置いています。
正面桟唐戸の上に「與楽寺」の扁額。
向拝両脇の花頭窓と身舎欄間の菱格子が、引き締まった印象を与えます。
【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂向拝見上げ
本堂に御座す御本尊の地蔵菩薩は弘法大師の御作と伝わり、盗賊の侵入を追い返された「賊除地蔵」としても知られる秘仏です。
本堂右手が客殿。切妻造桟瓦葺唐破風付きの整った意匠は、本瓦葺の本堂とバランスのよい対比を見せています。
本堂右手脇にも上野王子駒込辺三十三観音霊場の札所標がありますが、こちらは「西國弐拾九番」となっています。
第29番は東覚寺で、標中に「是」「道」の文字があるので、札所導標かもしれません。
【写真 上(左)】 客殿
【写真 下(右)】 阿弥陀堂
本堂向かって右手が阿弥陀堂で、こちらは武州江戸六阿弥陀第4番目の札所です。
「江戸六阿弥陀」と「滝野川寺院めぐり」とは複数の札所(第1番與楽寺、第9番無量寺、第10番昌林寺)が重複しています。
入母屋造桟瓦葺流れ向拝。水引虹梁両端に木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股。
正面板戸の上に「六阿弥陀 第四番」の扁額。
シンプルな虹梁と両脇の連子が効いて、シャープな印象の向拝です。
札所本尊の阿弥陀如来は行基作と伝わります。
【写真 上(左)】 阿弥陀堂の扁額
【写真 下(右)】 本堂と阿弥陀堂のあいだのナゾのお堂
阿弥陀堂の右手、本堂とのあいだにもうひとつ宝形造のナゾのお堂がありますが詳細不明。
お堂の手前に観音様の線刻碑があるので、観音堂かもしれません。
御朱印は本堂向かって右手の客殿で拝受します。ここは5回以上参拝していますが、いずれも揮毫御朱印をいただけました。
● 江戸六阿弥陀第4番目の御朱印
中央に三寶印と「六阿弥陀如来」と阿弥陀三尊の種子「キリーク、サ、サク」の揮毫。右に「第四番」の札所印と「田端」の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
【上(左)】 御府内八十八箇所第56番の御朱印
【下(右)】 豊島八十八ヶ所第56番の御朱印
滝野川寺院めぐり第1番の御朱印
御朱印は、中央に「本尊 地蔵菩薩」の揮毫と三寶印の捺印、右に「弘法大師」の揮毫。
左下に寺号と寺院印、右上に各霊場の札所印。
尊格構成は御府内霊場、豊島霊場、滝野川寺院めぐりともに同様です。
→ ■ 武州江戸六阿弥陀詣の御朱印 ~ 足立姫伝説 ~ 【 御編 】へつづく
【 BGM 】
■ ひらひら ひらら - ClariS
■ 夢の途中 - KOKIA
■ 潮見表 - 遊佐未森
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■ 初期サザンの名ライブ3曲
どうしようもなく、桑田さんの世界。
途中離脱不可の名テイクたち・・・。
■ 夕陽に別れを告げて〜メリーゴーランド
■ Oh!クラウディア
■ 旅姿六人衆
・「学生の洋楽好きなバンドのサザンオールスターズが終わったのが『KAMAKURA』」。
・「メガサザン」は「国民を相手にしてスタンドアリーナ(の世界)」。
・「初期サザン」だけが別のにおいを発している。
-------------------------
■ 蒼氓 - 山下達郎
『僕の中の少年』(1988年)収録。
コーラス:竹内まりや、桑田圭祐、原由子。
→山下達郎|珠玉の名曲「蒼氓」の魅力とは!?
Wikipediaより
「YMOを取り巻く文化人的なものが、日本のポピュラー音楽をダメにするんじゃないかって、真剣に思ってたの。YMOの音楽的背景ではなく、主として文化人的な側面によって、日本の音楽が変えられるんじゃないかという恐怖感があった。」
↑ いい音楽を生み出すのに、+αの要素は要らないということか・・・。
いまは、+αがなければデビューさえできない時代。
「自分の音楽を思わせぶりに語る」アーティスト、やたらに多いもんね。
だからこそ、(じつは)音楽一本勝負だった初期サザンの曲が心を打つのかも。
音楽だけですベてを語り尽くした名テイク ↓
■ 佐野元春 - HEART BEAT(小さなカサノバと街のナイチンゲールのバラッド) LIVE 1983
映像もあるか・・・。でも、それもすこぶるシンプル。
〔 関連記事 〕
■ 初期サザンとメガサザン(サザンオールスターズ、名曲の変遷)
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■ Oh!クラウディア
■ 旅姿六人衆
・「学生の洋楽好きなバンドのサザンオールスターズが終わったのが『KAMAKURA』」。
・「メガサザン」は「国民を相手にしてスタンドアリーナ(の世界)」。
・「初期サザン」だけが別のにおいを発している。
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■ 蒼氓 - 山下達郎
『僕の中の少年』(1988年)収録。
コーラス:竹内まりや、桑田圭祐、原由子。
→山下達郎|珠玉の名曲「蒼氓」の魅力とは!?
Wikipediaより
「YMOを取り巻く文化人的なものが、日本のポピュラー音楽をダメにするんじゃないかって、真剣に思ってたの。YMOの音楽的背景ではなく、主として文化人的な側面によって、日本の音楽が変えられるんじゃないかという恐怖感があった。」
↑ いい音楽を生み出すのに、+αの要素は要らないということか・・・。
いまは、+αがなければデビューさえできない時代。
「自分の音楽を思わせぶりに語る」アーティスト、やたらに多いもんね。
だからこそ、(じつは)音楽一本勝負だった初期サザンの曲が心を打つのかも。
音楽だけですベてを語り尽くした名テイク ↓
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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-9
Vol.-8からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。
■ 第28番 宝林山 大悲心院 霊雲寺
(れいうんじ)
文京区湯島2-21-6
真言宗霊雲寺派
御本尊:両部(界)大日如来
札所本尊:両部(界)大日如来
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第28番、御府内二十一ヶ所霊場第21番、大東京百観音霊場第22番、御府内二十八不動霊場第27番、秩父写山の手三十四観音霊場第1番、弁財天百社参り番外28、御府内十三仏霊場第12番
司元別当:
授与所:寺務所
第28番は真言宗霊雲寺派総本山の霊雲寺です。
『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに第28番札所は霊雲寺となっており、御府内霊場開創時からの札所であったとみられます。
現地掲示、下記史料、文京区Web資料、東京国立博物館Web資料などから、縁起・沿革を追ってみます。
霊雲寺は、元禄四年(1691年)浄厳覚彦和尚による開山と伝わります。
浄厳和尚は河内国出身の真言律僧で新安祥寺流の祖。
霊雲寺を語るうえで法系は欠かせないので、『呪術宗教の世界』(速水侑氏著)およびWikipediaを参照してまとめてみます。
真言密教は多くの流派に分かれ、「東密三十六流」とも称されました。
その主流は広沢流(派祖:益信)・小野流(派祖:聖宝)とされ、「野沢十二流・根本十二流」と称されました。
小野流は安祥寺流、勧修寺流、随心院流、三宝院流、理性院流、金剛王院流の六流で、とくに安祥寺流、勧修寺流、随心院流を「小野三流」といいます。
浄厳和尚はこのうち「安祥寺流」を承継、「新安祥寺流(新安流)」を興されたといいます。
浄厳和尚は慶安元年(1648年)高野山で出家され、万治元年(1658年)南院良意から安祥寺流の許可を受けて以降、畿内で戒律護持等の講筵を盛んに開かれました。
元禄四年(1691年)、徳川五代将軍綱吉公に謁見して公の帰依を受け、側近・柳沢吉保の援助もあって徳川将軍家(幕府)の祈願所として湯島に霊雲寺を建立。
『悉曇三密鈔』(悉曇学書)、『別行次第秘記』(修行に関する解説書)、『通用字輪口訣』(意密(字輪観)の解説書)などの重要な著作を遺され、近世の真言(律)宗屈指の学徳兼備の傑僧と評されます。
浄厳和尚は霊雲寺で入寂されましたが、霊雲寺は将軍家祈願所であるため、みずから開山された塔頭の池之端・妙極院が墓所となっています。
浄厳和尚、そして霊雲寺を語るとき、「真言律宗」は外せないのでこれについてもまとめてみます。(主にWikipediaを参照)
真言律宗とは、真言密教の出家戒・「具足戒」と、金剛乗の戒律・「三昧耶戒」を修学する一派とされ、南都六宗の律宗の精神を受け継ぐ法系ともいわれます。
弘法大師空海を高祖とし、西大寺の叡尊(興正菩薩)を中興の祖とします。
叡尊は出家戒の授戒を自らの手で行い(自誓授戒)、独自の戒壇を設置したとされます。
「自誓授戒」は当時としては期を画すイベントで、新宗派の要件を備えるとして「鎌倉新仏教」のひとつとみる説さえあります。
→ ■ 日本仏教13宗派と御朱印(首都圏版)
真言律(宗)は当時律宗の新派とする説もあったとされますが、叡尊自身は既存の律宗が依る『四分律』よりも、弘法大師空海が重視された『十誦律』を重んじたため、真言宗の一派である「西大寺流」と規定して行動していた(Wikipedia)という説もあるようです。
以降、律宗は衰微した古義律、唐招提寺派の「南都律」、泉涌寺・俊芿系の「北京律」、そして西大寺系の「真言律(宗)」に分化することとなります。
叡尊の法流は弟子の忍性が承継し、忍性はとくに民衆への布教や社会的弱者の救済に才覚を顕したといいます。
鎌倉に極楽寺を建立したのは忍性です。
叡尊・忍性は朝廷の信任篤く、諸国の国分寺再建(勧進)を命じられたとされ、元寇における元軍の撃退も叡尊・忍性の呪法によるものという説があります。
江戸初期、西大寺系の律宗は真言僧・明忍により中興され、この流れを浄厳が引き継いで公に「真言律(宗)」を名乗ったといいます。
霊雲寺は「将軍家祈願所」であるとともに、関八州真言律宗総本寺を命じられ、御府内屈指の名刹の地位を保ちました。
明治5年、明治政府による仏教宗派の整理により、律宗系寺院の多くは真言宗に組み入れられましたが、その後独立の動きがおこり、西大寺は明治28年に真言律宗として独立しています。
真言律(宗)であった霊雲寺が真言宗霊雲寺総本山となった経緯はオフィシャルな資料が入手できず詳細不明ですが、Wikipediaには「昭和22年(1947年)に真言宗霊雲寺派を公称して真言律宗から独立した。」とあるので、戦後、江戸期に47を数えた末寺とともに独立したとみられます。
霊雲寺を「将軍家祈願寺」としてみるとき、興味ぶかい事柄があります。
真言律(宗)は、もともと民衆への布教・救済と国家鎮護という二面性をもった宗派でした。
とくに、元寇の戦捷祈願に叡尊・忍性が関与したとされることは国家鎮護の面での注目ポイントです。
元寇の戦捷祈願には、大元帥明王を御本尊とする大元帥法が修されたとも伝わります。
もともと大元帥法は国家鎮護・敵国降伏を祈って修される法で、毎年正月8日から17日間宮中の治部省内で修されたといいます。
のちに修法の場は醍醐寺理性院に遷された(江戸期に宮中の小御所に復活)ともいいますが、国家、朝廷のみが修することのできる大法とされています。
一方、霊雲寺の大元帥明王画像について、『御府内寺社備考』には「御祈祷本尊大元帥明王之画像 常憲院様(綱吉公)御自画と(中略)鎮護国家之御祈祷」とあります。
大元帥明王の画像を綱吉公みずからが描かれ、こちらを御本尊として鎮護国家を祈祷したというのです。
しかも大元帥明王が御座される御祈祷殿には、東照大権現も祀られています。
つまり、霊雲寺の御祈祷殿では大元帥明王と東照大権現に鎮護国家が祈祷されていたことになります。
しかも『御府内八十八ケ所道しるべ』には御府内霊場の拝所として「太元堂 灌順堂 本尊太元明王」と明記されています。
出典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
旧来、国家鎮護の大法・大元帥法の御本尊である大元帥明王は厳重に秘すべき存在でしたが、江戸時代になると、そこまでの厳格さは失われていたのでしょうか。
あるいは日の本の為政者としての徳川将軍家の存在を際立たせる、政治的な狙いもあったのやもしれません。
また、当山は「絹本着色大威徳明王像」(文京区指定文化財)を所蔵されます。
大威徳明王は単独で奉安されることは希で、通常、五大明王(不動明王(中心)、降三世明王(東)、軍荼利明王(南)、大威徳明王(西)、金剛夜叉明王(北))として奉安・供養されますから、当山で五大明王を御本尊とする五壇法が修せられていた可能性があります。
五壇法も国家安穏を祈願する修法として知られているので、やはり当山は祈願寺としての性格が強かったとみられます。
御本尊は両部(両界)大日如来。
「幕府祈願所 霊雲寺の名宝」(東京国立博物館)には「独自の解釈による両界曼荼羅」とあり、大進美術㈱のWebに「新安祥寺流曼荼羅」として見事な両界曼荼羅が紹介されていることからみても、新安祥寺流(真言宗霊雲寺派)にとって両界曼荼羅、あるいは両界大日如来がとりわけ重要な存在であることがうかがわれます。
出典:斎藤幸雄 [等著] ほか『江戸名所図会』第3,有朋堂書店,昭2.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
二十八番
ゆしま
宝林山 大悲心院 霊雲寺
真言律
本尊:両界大日如来 太元堂 灌順堂 本尊太元明王 弘法大師
■ 『寺社書上 [68] 湯嶋寺院書上 全』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.142.』
江戸湯嶋(不唱小名)
(関東)真言律宗惣本寺
寶林山 佛日院 霊雲寺
開基 元禄四年(1691年) 浄厳和尚(浄厳律師覚彦)
本堂
本尊 両部大日如来木像
右 不動明王木像
左 愛染明王木像
四天王立像
御祈祷殿
本尊 大元帥明王画像
同 木像秘佛
東照大権現
寶幢閣
本尊 地蔵菩薩木像
右(左) 弘法大師木像
左(右) 開祖浄厳和尚木像
鎮守社
神体八幡大菩薩 賀茂大明神 稲荷大明神 三神合殿
右 冨士権現社
左 恵寶稲荷社
寺中六ヶ院
智厳院 本尊 地蔵菩薩
五大院 本尊 愛染明王
蓮光院 本尊 辨財天
寶光院 本尊 十一面観音
五智院 本尊 愛染明王
福厳院 本尊 釈迦如来
※ 妙極院(下谷七軒町、本尊 大日如来)を含めて塔頭七院
※ 末寺四拾七ヶ寺を記載
■ 『江戸名所図会 第3 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)
寶林山 靈雲寺
大悲心院と号す。圓満寺の北の方にあり。関東眞言律の惣本寺にして、覺彦(かくげん)比丘の開基なり。
灌頂堂 両界の大日如来を安置す。
大元堂 灌頂堂のうしろ方丈の中にあり。本尊大元明王の像は元禄大樹の御筆なり。(以下略(大元法について記す))
鐘楼 本堂の右にあり。開山覺彦和尚自ら銘を作る。
地蔵堂 本堂の左の方艮の隅にあり。本尊地蔵菩薩 弘法大師の作なり。左右の脇壇に弘法大師、ならびに覺彦比丘の両像を安置す。
開山 諱は浄厳、字は覺彦、河州錦部郡小西見村の産なり。父は上田氏、母は秦氏なり。
寛永十六年(1639年)に生る。凡そ耳目の歴る所終に遺忘する事なし。衆人是を神童と称す。(中略)
慶安元年(1648年)高野山検校法雲を禮して薙染す。時に年十歳。朝参暮詣倦む事なし。(中略)元禄四年(1691年)、大将軍(常憲公=綱吉公)召見し給ひ、普門品を講ぜしむ。(中略)遂に城北にして地を賜ひ、梵刹を経始す。ここにおいて佛殿、僧房、香厨、門郭甍を連ね、巍然として一精藍となる。号(なづ)けて霊雲寺という。遂に密壇を建て秘法を行し(中略)元禄五年(1692年)六月、大元帥の大法を修し、國家昇平を祈る。これより以後、毎歳三神通月七日、修法することを永規とす。翌年関東眞言律の僧統となしたまふ。又乙亥の夏、大将軍(常憲公=綱吉公)みづから斎戒し給ひ、大元帥金剛の像を画き、本尊に下し賜ふ。今大元堂に安置し奉る。元禄十年(1697年)、僧俗の請に依って曼荼羅を開く。壇場に入る者九萬人に幾し。隔年灌頂を行ふこと今に至てたえず。(中略)徳化洋々として天下に彌布し。王公より下愚夫に至る迄敬仰せずといふことなし。
■ 『本郷区史 P.1232』(文京区立図書館デジタル文庫)
靈雲寺
湯島新花町に在り、眞言宗高野派の別格本山で寶林山佛日院と称する。元禄四年(1691年)将軍綱吉の建立する所で浄厳和尚を開基とし寺領百石を有した。本堂の外境内に地蔵堂、大元堂、観音堂、鐘楼、経蔵、内佛殿、庫裡、土蔵、学寮等を有したが、何れも大正十二年の震火災に焼失し其後は假建築を以て今日に及んで居る。寺寶の中には十六羅漢十六幅(顔輝筆) 吉野曼荼羅一幅、諸尊集會圖一幅等国寶に指定せられたるものゝ外尊重すべきもの多数を蔵したが何れも大正震火災に焼失した。(國寶は現存)
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本郷湯島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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湯島といってもメイン通りから外れており、東京で生まれ育った人間でもあまり訪れることのない立地です。
このような場所に突如としてあらわれる大伽藍は、ある意味おどろきです。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 戒壇石
山門脇の石標に「不許葷辛酒肉入山内」とあります。
よく禅宗の寺院の山門脇に「不許葷酒入山門」(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)と刻まれた標石が立っていますが、これは「戒壇石」といいます。
修行の妨げになるので、「葷」と「酒」は山内に持ち込んではいけない。あるいは「葷」と「酒」を口にしたものは山内に入ってはいけないという戒めです。
「葷」とはニンニク、韮、ラッキョウなどのにおいが強くて辛い野菜、あるいは生臭い肉料理などをさします。
なので、「葷」には「辛」も「肉」も含むはずですが、あえて「葷」「辛」「酒」「肉」すべて列挙して戒めているあたり、戒律を重んじる律宗系の流れの寺院であることが伝わってきます。
【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 山内
山門は薬医門か高麗門。
うかつにも内側からの写真を撮り忘れたので断言できませんが、正面からのたたずまいからすると高麗門のような感じもします。
屋根は本瓦葺でさすがに名刹の風格。見上げに山号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 寺号標と大本堂
【写真 下(右)】 大本堂
山門をくぐると空間が広がり、正面階段のうえに昭和51年落成の鉄筋コンクリート造2階建ての大本堂(灌頂堂)。
築浅ながら名刹にふさわしい堂々たる大伽藍です。
上層は入母屋造本瓦葺葺、下層も本瓦葺で流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股。
【写真 上(左)】 大本堂向拝
【写真 下(右)】 大本堂扁額
向拝見上げに院号扁額をおき、「西大寺 長老」の揮毫がみえます。
霊雲寺は真言律宗から分離独立して真言宗霊雲寺派総本山となりましたが、西大寺(真言律宗総本山)との関係は依然として深いのかもしれません。
大本堂(灌頂堂)には御本尊として両部(金剛界・胎蔵(界))の大日如来像を奉安。
大本堂の下は寺務所・書院となっています。
【写真 上(左)】 地蔵尊と寶幢閣
【写真 下(右)】 寶幢閣
大本堂向かって左手奥に堂宇があり、「寶幢閣」の扁額があります。
■ 『寺社書上 [68] 湯嶋寺院書上 全』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.142.』には、「寶幢閣」として、「本尊 地蔵菩薩木像、弘法大師木像、開祖浄厳和尚木像」とあり、『江戸名所図会』にはこの位置に「開山堂」とあるので、「大師堂」と「開山堂」の性格を併せ持つ堂宇であったとみられ、いまもこの系譜を受け継ぐ堂宇かもしれません。
なお、「寶幢閣」は「寶幢如来」ゆかりの堂号とも思われます。
【写真 上(左)】 寶幢閣の扁額
【写真 下(右)】 弘法大師記念供養塔
寶幢如来は胎蔵曼荼羅の中央の区画「中台八葉院」に御座される如来で、胎蔵大日如来(中央)、寶幢如来(東)、開敷華王如来(南)、無量寿如来(西)、天鼓雷音如来(北)とともに「胎蔵(界)五仏」と呼ばれます。
寶幢如来は「発心」(悟りを開こうとする心を起こすこと)を表す尊格とされます。
開山の浄厳覚彦和尚は啓蒙のためにかな書きの教学書を著わされ、多くの庶民に灌頂・受戒を行うなど衆生を仏道に導かれたとされるので、そのゆかりで「発心」(あるいは発菩提心)を表す寶幢如来の号をいただいているのかもしれません。
『江戸名所図会』には
「大悲心院 花を見はべりて 灌頂の闇よりいでてさくら哉 其角」
の句が載せられ、「幕府祈願所 霊雲寺の名宝」(東京国立博物館)には「霊雲寺では目隠しをして敷曼荼羅に華を投げ、落ちた仏と結縁する結縁灌頂が盛んに行なわれた(中略)霊雲寺で結縁灌頂を受けた後、目隠しの闇と心の闇が同時に晴れる喜びを詠った宝井其角(1661~1707)の句が紹介されています。」とあって、霊雲寺の結縁灌頂が広く知られていたことがわかります。
「幕府祈願所 霊雲寺の名宝」(東京国立博物館)には「多くの庶民に灌頂、授戒を行ない、啓蒙のためにかな書きの教学書を著すなど、浄厳と霊雲寺は民衆にも寄り添い親しまれる存在となりました。」とあり、江戸名所図会にも記されていることから、「将軍家祈願所」という厳めしい存在ながら案外庶民に親しまれ、御府内霊場の札所としても違和感なくとけこんでいたのでは。
↑ でも触れましたが、将軍家護持の御本尊・大元帥明王が御府内霊場の拝尊であったこと、「将軍家祈願所」という立ち位置ながら、庶民の結縁灌頂の場としての機能していたことなど、やはり霊雲寺は二面性をもつ寺院であったことがうかがわれます。
江戸期にあった大本堂裏手の太元堂もいまはなく、山内の伽藍構成はシンプルですが、寶幢閣前の百度石のうえに地蔵尊、立像の厄除大師像(記念供養塔)、梵字碑の前にも地蔵尊が御座します。
ふつう「祈願所」というと、密寺特有の濃密な空気をまとった寺院を想像しますが、こちらは徹底して明るい空間。
これは律宗の流れ、奈良仏教の平明さを受け継いでいるためかもしれません。
【写真 上(左)】 地蔵尊と梵字碑
【写真 下(右)】 御朱印授与案内
御朱印は寺務所にて拝受しました。
Web情報によると、お昼前後は授与を休止との情報あり要注意です。
なお、霊雲寺は歴史ある名刹だけあって多くの霊場札所となっていますが、現在、御朱印を授与されているのは御府内霊場のみの模様です。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊大日如来」「弘法大師」の揮毫と「霊雲精舎」の御印。
右上に「第二十八番」の札所印。左下には「湯島 霊雲寺」の揮毫と寺院印が捺されています。
【写真 上(左)】 「御本尊」申告にて拝受の御朱印
【写真 下(右)】 ご縁日の御朱印
「御本尊」申告にて拝受の御朱印には胎蔵大日如来のお種子「ア」の揮毫、ご縁日の御朱印には金剛界大日如来のお種子「バン」と胎蔵大日如来のお種子「ア」の揮毫があります。
「ア」は大元帥明王、寶幢如来のお種子でもあり、当山とは格別のゆかりのあるお種子ではないでしょうか。
なお、申告や日によってお種子の種類が定まっているかは不明です。
■ 第29番 大鏡山 薬師寺 南蔵院
(なんぞういん)
豊島区高田1-19-16
真言宗豊山派
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
他札所:豊島八十八ヶ所霊場第41番、東京三十三観音霊場第21番、大東京百観音霊場第71番、弁財天百社参り第44番、江戸薬師如来霊場三十二ヶ所
司元別当:(下高田村)氷川社
授与所:庫裡
御府内霊場には南蔵院と号する札所が練馬(第15番)、牛込(第22番)と高田(第29番)の3箇寺あり、それぞれ練馬南蔵院、牛込南蔵院、高田南蔵院と呼んで区別されます。
第29番札所も複雑な変遷をたどっています。
現在の第29番札所は高田南蔵院ですが、『御府内八十八ケ所道しるべ』では牛込七軒寺町の三明山 清谷寺 千手院となっています。
「ニッポンの霊場」様Webに、江戸八十八ヶ所第29番の(牛込七軒寺町)千手院は「廃寺」とあるので、明治初頭の神仏分離の際に廃され、御府内霊場第29番札所は高田南蔵院に承継されたとみられます。
下記資料、山内掲示などから縁起・沿革を追ってみます。
開山は圓成比丘(永和二年(1376年)寂)と伝わります。
御本尊の薬師如来は、奥州藤原秀衡の念持仏といわれ、圓成比丘が諸国遊化のみぎり、夢告によって彼の地の農家で入手し、当地(高田)を通りかかったところにわかに薬師如来像が重くなり、ここが薬師如来有縁の地として草庵を建て奉安したのが開創と伝わります。
御本尊の薬師如来は聖徳太子の御作ともいいます。
寛永(1624-1644年)の頃は、大猷院殿(徳川三代将軍家光公)が狩猟の折にしばしば訪れたと伝わり、仮御殿も建てられたといいます。
三遊亭円朝作の「怪談乳房榎」ゆかりの寺ともいわれます。
『江戸名所図会』の(高田)「氷川明神社」の項に「『南蔵院』の奉祀なり」とあるので、江戸期は(高田)「氷川明神社」の別当であった可能性があります。
つぎに旧29番札所とみられる千手院について、下記史料から追ってみます。
千手院は牛込七軒寺町にあり、足立郡西新井村惣持寺末の新義真言宗寺院でした。
開山 法印舜●(慶安三年(1650年)八月遷化)
慶長十二年(1607年)、手川口(場所不明)に創立され、寛永四年(1627年)御用地召上のため牛込橋場に遷ったようです。
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』市ヶ谷牛込絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
本堂には御本尊地蔵菩薩、阿弥陀如来、辨財天、愛染明王(弘法大師作)、弘法大師木坐像、興教大師木坐像を奉安。
観音堂には千手観世音菩薩、持國天、不動明王、弁財天、観喜天(秘佛)を奉安し、山内に稲荷社を祀っていたようです。
『御府内寺社備考』によると、観音堂の千手観世音菩薩は、もともと越後国に御座され、柴田勝家、蒲生氏郷、佐倉城主堀田家とゆかりをもたれた後、千手院に奉安されたようですが、達筆すぎて読解不明箇所が多く詳細はわかりません。
千手院は幕末~明治編纂の『御府内八十八ケ所道しるべ』に掲載されているので、明治に入ってから廃されたとみられます。
千手院の廃寺から御府内霊場第29番札所が高田南蔵院に承継された経緯は史料がみつからず不明ですが、千手院は西新井の惣持寺(西新井大師)末、南蔵院は大塚護國寺末で、ともに真言宗豊山派系なので豊山派の法系内で札所が承継されたのではないでしょうか。
また、牛込と高田は比較的近いということもあったかもしれません。
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【史料】
【南蔵院関連】
■ 『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
(下高田村)南蔵院
新義真言宗大塚護國寺末 大鏡山醫王寺ト号ス 開山圓成比丘ト云 本尊薬師ハ聖徳太子ノ作長三尺 或云此像ハ奥州秀衡ノ持佛タリシカ 圓成比丘回國ノヲリ 夢ノ告アリテ笈ニウツシテ 此高田ノ里ニ至ルニ 笈俄ニ重リテ盤石ノ如シ 此地有縁ノ地ナレハトテ 草堂ヲイトナミ安置スト云 其後大橋龍慶佛道歸依ノ餘リシハラク 當寺ニ奇寓シケレハ 大猷院殿此邊御遊猟ノ時シハ々々ナラセラレ 御殿ナト御造營アリシトナリ 其頃中根壱岐守ヨリ龍慶に与ヘシ書状アリ 文後ニ出ス 當寺ヘ御成ノ時四方ヘ出入セル門アリ 八ヶ所門ト名付シト云 昔寺内ニ池アリ鏡カ池ト呼シトナリ 當時ノ山号モ是ヨリ起レリ 今境内ヲ流ルヽ小溝ヲ根川ト云
■ 『江戸名所図会 第2 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)
大鏡山南蔵院
砂利場村にあり。真言宗にして、大塚の護國寺に属す。開山は圓成比丘と号す。本尊薬師佛は聖徳太子の作にして、立像三尺四寸あり。此霊像は秀衡の念持佛なりとて、養和年間の頃迄は、奥州平泉にありしを、圓成比丘、諸国遊化の時、霊夢を感じ、彼地の農家にして是を得て、此地に安置すといへり。(中略)寛永の頃は、大将軍家度々此に入らせ給ひしとて、仮の御殿なども構へ置れしとなり。
「高田」/出典:『江戸名所図会』(山内掲示より)
【千手院関連】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
二十九番
牛込七軒寺町
三明山 清谷寺 千手院
西新井村惣持寺末 新義
本尊:千手観世音王 多聞天 持国天 弘法大師
■ 『寺社書上 [33] 牛込寺社書上 六』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.124』
牛込七軒寺町
武州足立郡西新井村惣持寺末真言宗豊山派
三明山 清谷寺 千手院
新義真言宗
開山 法印舜● 慶安三年(1650年)八月遷化
当寺起立之儀●慶長十二年手川口に造立
寛永四年御用地に●召上 牛込橋場
本堂
本尊 地蔵菩薩木坐像
阿弥陀如来木立像
辨財天木坐像
愛染明王木坐像 弘法大師作
弘法大師木坐像
興教大師木坐像
観音堂
千手観音立像
持國天立像
不動明王木立像 附二童子
弁財天木坐像
観喜天 秘佛
千手尊像脇士多聞持国の二天ともに赤梅壇毘首羯磨●也●●ハ越後国安臣山にあり 天正年中(1573-1592年)太閤秀吉●柴田勝家を討 柴田の一族安臣山●古もる 会津の城を蒲生氏郷に命じて●さしむ ●●の時●●三尊を守りて(以下解読不明)元和年中(1615-1624年)蒲生家●壊の後 殿地ハ下総佐倉城主堀田家の(以下解読不明)
稲荷社
「千手院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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豊島区高田周辺は御府内霊場札所が4箇寺あり(29番南蔵院、35番根生院、38番金乗院、54番新長谷寺)、ふつうは4箇寺まとめての巡拝となります。
このあたりは土地の起伏が激しく、東京メトロ「雑司ヶ谷」駅からだと急な下り坂となります。
35番根生院、38番金乗院、54番新長谷寺は坂の途中にあり、南蔵院は神田川にもほど近い坂下に位置します。
カラフルな月替わり御朱印で有名な高田氷川神社にもほど近く、54番新長谷寺(目白不動尊)は江戸五色不動尊の一尊なので、一帯は御朱印エリアとなっています。
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 山内
【写真 上(左)】 院号標
【写真 下(右)】 札所標
山門はないですが、山内入口両脇に院号標と札所標(御府内霊場、豊島霊場兼用)を備え、門柱と築地を巡らして風格ある構え。
【写真 上(左)】 辨財天
【写真 下(右)】 馬頭観世音碑
門柱を抜けると、多くの石仏群。
うち、弁財天の石碑は元禄九年(1696年)に神保長賢により寄進された山吹の里弁財天で、そばには弁財天像も御座されます。
南蔵院は弁財天百社参り第44番の札所ですが、こちらが札所本尊かもしれません。
端正な馬頭観世音碑も建っています。
『江戸名所図会』には参道脇に「鶯宿梅」が描かれ、これは徳川家光公お手植えの銘木といいますが現在はありません。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
本堂は参道階段の上にありますが、参道や階段には植木鉢がところ狭しと並べられ、階段はシャッターで閉ざされているのでシャッター前からのお参りとなります。
【写真 上(左)】 本堂前階段
【写真 下(右)】 向拝
本堂は宝形造銅板葺と思われますが、定かではありません。
向かって右には銅板葺屋根の鐘楼を配しています。
向拝柱はなく、見上げに御本尊・薬師如来をあらわす「瑠璃光」の扁額。
【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 庫裡への道
御朱印は本堂向かって左の庫裡にて拝受しました。
豊島八十八ヶ所霊場第41番を兼務され、こちらの御朱印も授与されています。
また、東京三十三観音霊場第21番の御朱印(札所本尊:千手観世音菩薩)も拝受しています。
東京三十三観音霊場は、関東大震災の犠牲者の慰霊を目的として開創された観音霊場で、初番・発願は南品川の海晏寺、第33番・結願は墨田区横網の東京都慰霊堂。
札所リストは→こちら(「ニッポンの霊場」様)
初番海晏寺、第12番雲照寺(代々木上原)、第15番心法寺(麹町)、 第17番天龍寺(新宿)など、現況御朱印不授与とみられる寺院を含み、授与寺院でもおおむね他霊場の御朱印となるため、こちらの霊場の御朱印は貴重です。
札所本尊の千手観世音菩薩が、旧千手院観音堂の堂宇本尊であった千手観世音菩薩であるかどうかはよくわかりません。
また、これまたナゾの多い大東京百観音霊場第71番の札所でもありますが、こちらの御朱印は授与されていない模様です。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊薬師如来」「弘法大師」の揮毫と薬師如来のお種子「バイ」の揮毫と御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内第二十九番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
【写真 上(左)】 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印
【写真 下(右)】 東京三十三観音霊場の御朱印
以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-10)
【 BGM 】
■ December - milet
■ Flavor Of Life - 宇多田ヒカル
■ Parade - FictionJunction
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。
■ 第28番 宝林山 大悲心院 霊雲寺
(れいうんじ)
文京区湯島2-21-6
真言宗霊雲寺派
御本尊:両部(界)大日如来
札所本尊:両部(界)大日如来
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第28番、御府内二十一ヶ所霊場第21番、大東京百観音霊場第22番、御府内二十八不動霊場第27番、秩父写山の手三十四観音霊場第1番、弁財天百社参り番外28、御府内十三仏霊場第12番
司元別当:
授与所:寺務所
第28番は真言宗霊雲寺派総本山の霊雲寺です。
『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに第28番札所は霊雲寺となっており、御府内霊場開創時からの札所であったとみられます。
現地掲示、下記史料、文京区Web資料、東京国立博物館Web資料などから、縁起・沿革を追ってみます。
霊雲寺は、元禄四年(1691年)浄厳覚彦和尚による開山と伝わります。
浄厳和尚は河内国出身の真言律僧で新安祥寺流の祖。
霊雲寺を語るうえで法系は欠かせないので、『呪術宗教の世界』(速水侑氏著)およびWikipediaを参照してまとめてみます。
真言密教は多くの流派に分かれ、「東密三十六流」とも称されました。
その主流は広沢流(派祖:益信)・小野流(派祖:聖宝)とされ、「野沢十二流・根本十二流」と称されました。
小野流は安祥寺流、勧修寺流、随心院流、三宝院流、理性院流、金剛王院流の六流で、とくに安祥寺流、勧修寺流、随心院流を「小野三流」といいます。
浄厳和尚はこのうち「安祥寺流」を承継、「新安祥寺流(新安流)」を興されたといいます。
浄厳和尚は慶安元年(1648年)高野山で出家され、万治元年(1658年)南院良意から安祥寺流の許可を受けて以降、畿内で戒律護持等の講筵を盛んに開かれました。
元禄四年(1691年)、徳川五代将軍綱吉公に謁見して公の帰依を受け、側近・柳沢吉保の援助もあって徳川将軍家(幕府)の祈願所として湯島に霊雲寺を建立。
『悉曇三密鈔』(悉曇学書)、『別行次第秘記』(修行に関する解説書)、『通用字輪口訣』(意密(字輪観)の解説書)などの重要な著作を遺され、近世の真言(律)宗屈指の学徳兼備の傑僧と評されます。
浄厳和尚は霊雲寺で入寂されましたが、霊雲寺は将軍家祈願所であるため、みずから開山された塔頭の池之端・妙極院が墓所となっています。
浄厳和尚、そして霊雲寺を語るとき、「真言律宗」は外せないのでこれについてもまとめてみます。(主にWikipediaを参照)
真言律宗とは、真言密教の出家戒・「具足戒」と、金剛乗の戒律・「三昧耶戒」を修学する一派とされ、南都六宗の律宗の精神を受け継ぐ法系ともいわれます。
弘法大師空海を高祖とし、西大寺の叡尊(興正菩薩)を中興の祖とします。
叡尊は出家戒の授戒を自らの手で行い(自誓授戒)、独自の戒壇を設置したとされます。
「自誓授戒」は当時としては期を画すイベントで、新宗派の要件を備えるとして「鎌倉新仏教」のひとつとみる説さえあります。
→ ■ 日本仏教13宗派と御朱印(首都圏版)
真言律(宗)は当時律宗の新派とする説もあったとされますが、叡尊自身は既存の律宗が依る『四分律』よりも、弘法大師空海が重視された『十誦律』を重んじたため、真言宗の一派である「西大寺流」と規定して行動していた(Wikipedia)という説もあるようです。
以降、律宗は衰微した古義律、唐招提寺派の「南都律」、泉涌寺・俊芿系の「北京律」、そして西大寺系の「真言律(宗)」に分化することとなります。
叡尊の法流は弟子の忍性が承継し、忍性はとくに民衆への布教や社会的弱者の救済に才覚を顕したといいます。
鎌倉に極楽寺を建立したのは忍性です。
叡尊・忍性は朝廷の信任篤く、諸国の国分寺再建(勧進)を命じられたとされ、元寇における元軍の撃退も叡尊・忍性の呪法によるものという説があります。
江戸初期、西大寺系の律宗は真言僧・明忍により中興され、この流れを浄厳が引き継いで公に「真言律(宗)」を名乗ったといいます。
霊雲寺は「将軍家祈願所」であるとともに、関八州真言律宗総本寺を命じられ、御府内屈指の名刹の地位を保ちました。
明治5年、明治政府による仏教宗派の整理により、律宗系寺院の多くは真言宗に組み入れられましたが、その後独立の動きがおこり、西大寺は明治28年に真言律宗として独立しています。
真言律(宗)であった霊雲寺が真言宗霊雲寺総本山となった経緯はオフィシャルな資料が入手できず詳細不明ですが、Wikipediaには「昭和22年(1947年)に真言宗霊雲寺派を公称して真言律宗から独立した。」とあるので、戦後、江戸期に47を数えた末寺とともに独立したとみられます。
霊雲寺を「将軍家祈願寺」としてみるとき、興味ぶかい事柄があります。
真言律(宗)は、もともと民衆への布教・救済と国家鎮護という二面性をもった宗派でした。
とくに、元寇の戦捷祈願に叡尊・忍性が関与したとされることは国家鎮護の面での注目ポイントです。
元寇の戦捷祈願には、大元帥明王を御本尊とする大元帥法が修されたとも伝わります。
もともと大元帥法は国家鎮護・敵国降伏を祈って修される法で、毎年正月8日から17日間宮中の治部省内で修されたといいます。
のちに修法の場は醍醐寺理性院に遷された(江戸期に宮中の小御所に復活)ともいいますが、国家、朝廷のみが修することのできる大法とされています。
一方、霊雲寺の大元帥明王画像について、『御府内寺社備考』には「御祈祷本尊大元帥明王之画像 常憲院様(綱吉公)御自画と(中略)鎮護国家之御祈祷」とあります。
大元帥明王の画像を綱吉公みずからが描かれ、こちらを御本尊として鎮護国家を祈祷したというのです。
しかも大元帥明王が御座される御祈祷殿には、東照大権現も祀られています。
つまり、霊雲寺の御祈祷殿では大元帥明王と東照大権現に鎮護国家が祈祷されていたことになります。
しかも『御府内八十八ケ所道しるべ』には御府内霊場の拝所として「太元堂 灌順堂 本尊太元明王」と明記されています。
出典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
旧来、国家鎮護の大法・大元帥法の御本尊である大元帥明王は厳重に秘すべき存在でしたが、江戸時代になると、そこまでの厳格さは失われていたのでしょうか。
あるいは日の本の為政者としての徳川将軍家の存在を際立たせる、政治的な狙いもあったのやもしれません。
また、当山は「絹本着色大威徳明王像」(文京区指定文化財)を所蔵されます。
大威徳明王は単独で奉安されることは希で、通常、五大明王(不動明王(中心)、降三世明王(東)、軍荼利明王(南)、大威徳明王(西)、金剛夜叉明王(北))として奉安・供養されますから、当山で五大明王を御本尊とする五壇法が修せられていた可能性があります。
五壇法も国家安穏を祈願する修法として知られているので、やはり当山は祈願寺としての性格が強かったとみられます。
御本尊は両部(両界)大日如来。
「幕府祈願所 霊雲寺の名宝」(東京国立博物館)には「独自の解釈による両界曼荼羅」とあり、大進美術㈱のWebに「新安祥寺流曼荼羅」として見事な両界曼荼羅が紹介されていることからみても、新安祥寺流(真言宗霊雲寺派)にとって両界曼荼羅、あるいは両界大日如来がとりわけ重要な存在であることがうかがわれます。
出典:斎藤幸雄 [等著] ほか『江戸名所図会』第3,有朋堂書店,昭2.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
二十八番
ゆしま
宝林山 大悲心院 霊雲寺
真言律
本尊:両界大日如来 太元堂 灌順堂 本尊太元明王 弘法大師
■ 『寺社書上 [68] 湯嶋寺院書上 全』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.142.』
江戸湯嶋(不唱小名)
(関東)真言律宗惣本寺
寶林山 佛日院 霊雲寺
開基 元禄四年(1691年) 浄厳和尚(浄厳律師覚彦)
本堂
本尊 両部大日如来木像
右 不動明王木像
左 愛染明王木像
四天王立像
御祈祷殿
本尊 大元帥明王画像
同 木像秘佛
東照大権現
寶幢閣
本尊 地蔵菩薩木像
右(左) 弘法大師木像
左(右) 開祖浄厳和尚木像
鎮守社
神体八幡大菩薩 賀茂大明神 稲荷大明神 三神合殿
右 冨士権現社
左 恵寶稲荷社
寺中六ヶ院
智厳院 本尊 地蔵菩薩
五大院 本尊 愛染明王
蓮光院 本尊 辨財天
寶光院 本尊 十一面観音
五智院 本尊 愛染明王
福厳院 本尊 釈迦如来
※ 妙極院(下谷七軒町、本尊 大日如来)を含めて塔頭七院
※ 末寺四拾七ヶ寺を記載
■ 『江戸名所図会 第3 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)
寶林山 靈雲寺
大悲心院と号す。圓満寺の北の方にあり。関東眞言律の惣本寺にして、覺彦(かくげん)比丘の開基なり。
灌頂堂 両界の大日如来を安置す。
大元堂 灌頂堂のうしろ方丈の中にあり。本尊大元明王の像は元禄大樹の御筆なり。(以下略(大元法について記す))
鐘楼 本堂の右にあり。開山覺彦和尚自ら銘を作る。
地蔵堂 本堂の左の方艮の隅にあり。本尊地蔵菩薩 弘法大師の作なり。左右の脇壇に弘法大師、ならびに覺彦比丘の両像を安置す。
開山 諱は浄厳、字は覺彦、河州錦部郡小西見村の産なり。父は上田氏、母は秦氏なり。
寛永十六年(1639年)に生る。凡そ耳目の歴る所終に遺忘する事なし。衆人是を神童と称す。(中略)
慶安元年(1648年)高野山検校法雲を禮して薙染す。時に年十歳。朝参暮詣倦む事なし。(中略)元禄四年(1691年)、大将軍(常憲公=綱吉公)召見し給ひ、普門品を講ぜしむ。(中略)遂に城北にして地を賜ひ、梵刹を経始す。ここにおいて佛殿、僧房、香厨、門郭甍を連ね、巍然として一精藍となる。号(なづ)けて霊雲寺という。遂に密壇を建て秘法を行し(中略)元禄五年(1692年)六月、大元帥の大法を修し、國家昇平を祈る。これより以後、毎歳三神通月七日、修法することを永規とす。翌年関東眞言律の僧統となしたまふ。又乙亥の夏、大将軍(常憲公=綱吉公)みづから斎戒し給ひ、大元帥金剛の像を画き、本尊に下し賜ふ。今大元堂に安置し奉る。元禄十年(1697年)、僧俗の請に依って曼荼羅を開く。壇場に入る者九萬人に幾し。隔年灌頂を行ふこと今に至てたえず。(中略)徳化洋々として天下に彌布し。王公より下愚夫に至る迄敬仰せずといふことなし。
■ 『本郷区史 P.1232』(文京区立図書館デジタル文庫)
靈雲寺
湯島新花町に在り、眞言宗高野派の別格本山で寶林山佛日院と称する。元禄四年(1691年)将軍綱吉の建立する所で浄厳和尚を開基とし寺領百石を有した。本堂の外境内に地蔵堂、大元堂、観音堂、鐘楼、経蔵、内佛殿、庫裡、土蔵、学寮等を有したが、何れも大正十二年の震火災に焼失し其後は假建築を以て今日に及んで居る。寺寶の中には十六羅漢十六幅(顔輝筆) 吉野曼荼羅一幅、諸尊集會圖一幅等国寶に指定せられたるものゝ外尊重すべきもの多数を蔵したが何れも大正震火災に焼失した。(國寶は現存)
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本郷湯島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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湯島といってもメイン通りから外れており、東京で生まれ育った人間でもあまり訪れることのない立地です。
このような場所に突如としてあらわれる大伽藍は、ある意味おどろきです。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 戒壇石
山門脇の石標に「不許葷辛酒肉入山内」とあります。
よく禅宗の寺院の山門脇に「不許葷酒入山門」(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)と刻まれた標石が立っていますが、これは「戒壇石」といいます。
修行の妨げになるので、「葷」と「酒」は山内に持ち込んではいけない。あるいは「葷」と「酒」を口にしたものは山内に入ってはいけないという戒めです。
「葷」とはニンニク、韮、ラッキョウなどのにおいが強くて辛い野菜、あるいは生臭い肉料理などをさします。
なので、「葷」には「辛」も「肉」も含むはずですが、あえて「葷」「辛」「酒」「肉」すべて列挙して戒めているあたり、戒律を重んじる律宗系の流れの寺院であることが伝わってきます。
【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 山内
山門は薬医門か高麗門。
うかつにも内側からの写真を撮り忘れたので断言できませんが、正面からのたたずまいからすると高麗門のような感じもします。
屋根は本瓦葺でさすがに名刹の風格。見上げに山号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 寺号標と大本堂
【写真 下(右)】 大本堂
山門をくぐると空間が広がり、正面階段のうえに昭和51年落成の鉄筋コンクリート造2階建ての大本堂(灌頂堂)。
築浅ながら名刹にふさわしい堂々たる大伽藍です。
上層は入母屋造本瓦葺葺、下層も本瓦葺で流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股。
【写真 上(左)】 大本堂向拝
【写真 下(右)】 大本堂扁額
向拝見上げに院号扁額をおき、「西大寺 長老」の揮毫がみえます。
霊雲寺は真言律宗から分離独立して真言宗霊雲寺派総本山となりましたが、西大寺(真言律宗総本山)との関係は依然として深いのかもしれません。
大本堂(灌頂堂)には御本尊として両部(金剛界・胎蔵(界))の大日如来像を奉安。
大本堂の下は寺務所・書院となっています。
【写真 上(左)】 地蔵尊と寶幢閣
【写真 下(右)】 寶幢閣
大本堂向かって左手奥に堂宇があり、「寶幢閣」の扁額があります。
■ 『寺社書上 [68] 湯嶋寺院書上 全』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.142.』には、「寶幢閣」として、「本尊 地蔵菩薩木像、弘法大師木像、開祖浄厳和尚木像」とあり、『江戸名所図会』にはこの位置に「開山堂」とあるので、「大師堂」と「開山堂」の性格を併せ持つ堂宇であったとみられ、いまもこの系譜を受け継ぐ堂宇かもしれません。
なお、「寶幢閣」は「寶幢如来」ゆかりの堂号とも思われます。
【写真 上(左)】 寶幢閣の扁額
【写真 下(右)】 弘法大師記念供養塔
寶幢如来は胎蔵曼荼羅の中央の区画「中台八葉院」に御座される如来で、胎蔵大日如来(中央)、寶幢如来(東)、開敷華王如来(南)、無量寿如来(西)、天鼓雷音如来(北)とともに「胎蔵(界)五仏」と呼ばれます。
寶幢如来は「発心」(悟りを開こうとする心を起こすこと)を表す尊格とされます。
開山の浄厳覚彦和尚は啓蒙のためにかな書きの教学書を著わされ、多くの庶民に灌頂・受戒を行うなど衆生を仏道に導かれたとされるので、そのゆかりで「発心」(あるいは発菩提心)を表す寶幢如来の号をいただいているのかもしれません。
『江戸名所図会』には
「大悲心院 花を見はべりて 灌頂の闇よりいでてさくら哉 其角」
の句が載せられ、「幕府祈願所 霊雲寺の名宝」(東京国立博物館)には「霊雲寺では目隠しをして敷曼荼羅に華を投げ、落ちた仏と結縁する結縁灌頂が盛んに行なわれた(中略)霊雲寺で結縁灌頂を受けた後、目隠しの闇と心の闇が同時に晴れる喜びを詠った宝井其角(1661~1707)の句が紹介されています。」とあって、霊雲寺の結縁灌頂が広く知られていたことがわかります。
「幕府祈願所 霊雲寺の名宝」(東京国立博物館)には「多くの庶民に灌頂、授戒を行ない、啓蒙のためにかな書きの教学書を著すなど、浄厳と霊雲寺は民衆にも寄り添い親しまれる存在となりました。」とあり、江戸名所図会にも記されていることから、「将軍家祈願所」という厳めしい存在ながら案外庶民に親しまれ、御府内霊場の札所としても違和感なくとけこんでいたのでは。
↑ でも触れましたが、将軍家護持の御本尊・大元帥明王が御府内霊場の拝尊であったこと、「将軍家祈願所」という立ち位置ながら、庶民の結縁灌頂の場としての機能していたことなど、やはり霊雲寺は二面性をもつ寺院であったことがうかがわれます。
江戸期にあった大本堂裏手の太元堂もいまはなく、山内の伽藍構成はシンプルですが、寶幢閣前の百度石のうえに地蔵尊、立像の厄除大師像(記念供養塔)、梵字碑の前にも地蔵尊が御座します。
ふつう「祈願所」というと、密寺特有の濃密な空気をまとった寺院を想像しますが、こちらは徹底して明るい空間。
これは律宗の流れ、奈良仏教の平明さを受け継いでいるためかもしれません。
【写真 上(左)】 地蔵尊と梵字碑
【写真 下(右)】 御朱印授与案内
御朱印は寺務所にて拝受しました。
Web情報によると、お昼前後は授与を休止との情報あり要注意です。
なお、霊雲寺は歴史ある名刹だけあって多くの霊場札所となっていますが、現在、御朱印を授与されているのは御府内霊場のみの模様です。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊大日如来」「弘法大師」の揮毫と「霊雲精舎」の御印。
右上に「第二十八番」の札所印。左下には「湯島 霊雲寺」の揮毫と寺院印が捺されています。
【写真 上(左)】 「御本尊」申告にて拝受の御朱印
【写真 下(右)】 ご縁日の御朱印
「御本尊」申告にて拝受の御朱印には胎蔵大日如来のお種子「ア」の揮毫、ご縁日の御朱印には金剛界大日如来のお種子「バン」と胎蔵大日如来のお種子「ア」の揮毫があります。
「ア」は大元帥明王、寶幢如来のお種子でもあり、当山とは格別のゆかりのあるお種子ではないでしょうか。
なお、申告や日によってお種子の種類が定まっているかは不明です。
■ 第29番 大鏡山 薬師寺 南蔵院
(なんぞういん)
豊島区高田1-19-16
真言宗豊山派
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
他札所:豊島八十八ヶ所霊場第41番、東京三十三観音霊場第21番、大東京百観音霊場第71番、弁財天百社参り第44番、江戸薬師如来霊場三十二ヶ所
司元別当:(下高田村)氷川社
授与所:庫裡
御府内霊場には南蔵院と号する札所が練馬(第15番)、牛込(第22番)と高田(第29番)の3箇寺あり、それぞれ練馬南蔵院、牛込南蔵院、高田南蔵院と呼んで区別されます。
第29番札所も複雑な変遷をたどっています。
現在の第29番札所は高田南蔵院ですが、『御府内八十八ケ所道しるべ』では牛込七軒寺町の三明山 清谷寺 千手院となっています。
「ニッポンの霊場」様Webに、江戸八十八ヶ所第29番の(牛込七軒寺町)千手院は「廃寺」とあるので、明治初頭の神仏分離の際に廃され、御府内霊場第29番札所は高田南蔵院に承継されたとみられます。
下記資料、山内掲示などから縁起・沿革を追ってみます。
開山は圓成比丘(永和二年(1376年)寂)と伝わります。
御本尊の薬師如来は、奥州藤原秀衡の念持仏といわれ、圓成比丘が諸国遊化のみぎり、夢告によって彼の地の農家で入手し、当地(高田)を通りかかったところにわかに薬師如来像が重くなり、ここが薬師如来有縁の地として草庵を建て奉安したのが開創と伝わります。
御本尊の薬師如来は聖徳太子の御作ともいいます。
寛永(1624-1644年)の頃は、大猷院殿(徳川三代将軍家光公)が狩猟の折にしばしば訪れたと伝わり、仮御殿も建てられたといいます。
三遊亭円朝作の「怪談乳房榎」ゆかりの寺ともいわれます。
『江戸名所図会』の(高田)「氷川明神社」の項に「『南蔵院』の奉祀なり」とあるので、江戸期は(高田)「氷川明神社」の別当であった可能性があります。
つぎに旧29番札所とみられる千手院について、下記史料から追ってみます。
千手院は牛込七軒寺町にあり、足立郡西新井村惣持寺末の新義真言宗寺院でした。
開山 法印舜●(慶安三年(1650年)八月遷化)
慶長十二年(1607年)、手川口(場所不明)に創立され、寛永四年(1627年)御用地召上のため牛込橋場に遷ったようです。
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』市ヶ谷牛込絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
本堂には御本尊地蔵菩薩、阿弥陀如来、辨財天、愛染明王(弘法大師作)、弘法大師木坐像、興教大師木坐像を奉安。
観音堂には千手観世音菩薩、持國天、不動明王、弁財天、観喜天(秘佛)を奉安し、山内に稲荷社を祀っていたようです。
『御府内寺社備考』によると、観音堂の千手観世音菩薩は、もともと越後国に御座され、柴田勝家、蒲生氏郷、佐倉城主堀田家とゆかりをもたれた後、千手院に奉安されたようですが、達筆すぎて読解不明箇所が多く詳細はわかりません。
千手院は幕末~明治編纂の『御府内八十八ケ所道しるべ』に掲載されているので、明治に入ってから廃されたとみられます。
千手院の廃寺から御府内霊場第29番札所が高田南蔵院に承継された経緯は史料がみつからず不明ですが、千手院は西新井の惣持寺(西新井大師)末、南蔵院は大塚護國寺末で、ともに真言宗豊山派系なので豊山派の法系内で札所が承継されたのではないでしょうか。
また、牛込と高田は比較的近いということもあったかもしれません。
-------------------------
【史料】
【南蔵院関連】
■ 『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
(下高田村)南蔵院
新義真言宗大塚護國寺末 大鏡山醫王寺ト号ス 開山圓成比丘ト云 本尊薬師ハ聖徳太子ノ作長三尺 或云此像ハ奥州秀衡ノ持佛タリシカ 圓成比丘回國ノヲリ 夢ノ告アリテ笈ニウツシテ 此高田ノ里ニ至ルニ 笈俄ニ重リテ盤石ノ如シ 此地有縁ノ地ナレハトテ 草堂ヲイトナミ安置スト云 其後大橋龍慶佛道歸依ノ餘リシハラク 當寺ニ奇寓シケレハ 大猷院殿此邊御遊猟ノ時シハ々々ナラセラレ 御殿ナト御造營アリシトナリ 其頃中根壱岐守ヨリ龍慶に与ヘシ書状アリ 文後ニ出ス 當寺ヘ御成ノ時四方ヘ出入セル門アリ 八ヶ所門ト名付シト云 昔寺内ニ池アリ鏡カ池ト呼シトナリ 當時ノ山号モ是ヨリ起レリ 今境内ヲ流ルヽ小溝ヲ根川ト云
■ 『江戸名所図会 第2 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)
大鏡山南蔵院
砂利場村にあり。真言宗にして、大塚の護國寺に属す。開山は圓成比丘と号す。本尊薬師佛は聖徳太子の作にして、立像三尺四寸あり。此霊像は秀衡の念持佛なりとて、養和年間の頃迄は、奥州平泉にありしを、圓成比丘、諸国遊化の時、霊夢を感じ、彼地の農家にして是を得て、此地に安置すといへり。(中略)寛永の頃は、大将軍家度々此に入らせ給ひしとて、仮の御殿なども構へ置れしとなり。
「高田」/出典:『江戸名所図会』(山内掲示より)
【千手院関連】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
二十九番
牛込七軒寺町
三明山 清谷寺 千手院
西新井村惣持寺末 新義
本尊:千手観世音王 多聞天 持国天 弘法大師
■ 『寺社書上 [33] 牛込寺社書上 六』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.124』
牛込七軒寺町
武州足立郡西新井村惣持寺末真言宗豊山派
三明山 清谷寺 千手院
新義真言宗
開山 法印舜● 慶安三年(1650年)八月遷化
当寺起立之儀●慶長十二年手川口に造立
寛永四年御用地に●召上 牛込橋場
本堂
本尊 地蔵菩薩木坐像
阿弥陀如来木立像
辨財天木坐像
愛染明王木坐像 弘法大師作
弘法大師木坐像
興教大師木坐像
観音堂
千手観音立像
持國天立像
不動明王木立像 附二童子
弁財天木坐像
観喜天 秘佛
千手尊像脇士多聞持国の二天ともに赤梅壇毘首羯磨●也●●ハ越後国安臣山にあり 天正年中(1573-1592年)太閤秀吉●柴田勝家を討 柴田の一族安臣山●古もる 会津の城を蒲生氏郷に命じて●さしむ ●●の時●●三尊を守りて(以下解読不明)元和年中(1615-1624年)蒲生家●壊の後 殿地ハ下総佐倉城主堀田家の(以下解読不明)
稲荷社
「千手院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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豊島区高田周辺は御府内霊場札所が4箇寺あり(29番南蔵院、35番根生院、38番金乗院、54番新長谷寺)、ふつうは4箇寺まとめての巡拝となります。
このあたりは土地の起伏が激しく、東京メトロ「雑司ヶ谷」駅からだと急な下り坂となります。
35番根生院、38番金乗院、54番新長谷寺は坂の途中にあり、南蔵院は神田川にもほど近い坂下に位置します。
カラフルな月替わり御朱印で有名な高田氷川神社にもほど近く、54番新長谷寺(目白不動尊)は江戸五色不動尊の一尊なので、一帯は御朱印エリアとなっています。
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 山内
【写真 上(左)】 院号標
【写真 下(右)】 札所標
山門はないですが、山内入口両脇に院号標と札所標(御府内霊場、豊島霊場兼用)を備え、門柱と築地を巡らして風格ある構え。
【写真 上(左)】 辨財天
【写真 下(右)】 馬頭観世音碑
門柱を抜けると、多くの石仏群。
うち、弁財天の石碑は元禄九年(1696年)に神保長賢により寄進された山吹の里弁財天で、そばには弁財天像も御座されます。
南蔵院は弁財天百社参り第44番の札所ですが、こちらが札所本尊かもしれません。
端正な馬頭観世音碑も建っています。
『江戸名所図会』には参道脇に「鶯宿梅」が描かれ、これは徳川家光公お手植えの銘木といいますが現在はありません。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
本堂は参道階段の上にありますが、参道や階段には植木鉢がところ狭しと並べられ、階段はシャッターで閉ざされているのでシャッター前からのお参りとなります。
【写真 上(左)】 本堂前階段
【写真 下(右)】 向拝
本堂は宝形造銅板葺と思われますが、定かではありません。
向かって右には銅板葺屋根の鐘楼を配しています。
向拝柱はなく、見上げに御本尊・薬師如来をあらわす「瑠璃光」の扁額。
【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 庫裡への道
御朱印は本堂向かって左の庫裡にて拝受しました。
豊島八十八ヶ所霊場第41番を兼務され、こちらの御朱印も授与されています。
また、東京三十三観音霊場第21番の御朱印(札所本尊:千手観世音菩薩)も拝受しています。
東京三十三観音霊場は、関東大震災の犠牲者の慰霊を目的として開創された観音霊場で、初番・発願は南品川の海晏寺、第33番・結願は墨田区横網の東京都慰霊堂。
札所リストは→こちら(「ニッポンの霊場」様)
初番海晏寺、第12番雲照寺(代々木上原)、第15番心法寺(麹町)、 第17番天龍寺(新宿)など、現況御朱印不授与とみられる寺院を含み、授与寺院でもおおむね他霊場の御朱印となるため、こちらの霊場の御朱印は貴重です。
札所本尊の千手観世音菩薩が、旧千手院観音堂の堂宇本尊であった千手観世音菩薩であるかどうかはよくわかりません。
また、これまたナゾの多い大東京百観音霊場第71番の札所でもありますが、こちらの御朱印は授与されていない模様です。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊薬師如来」「弘法大師」の揮毫と薬師如来のお種子「バイ」の揮毫と御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内第二十九番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
【写真 上(左)】 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印
【写真 下(右)】 東京三十三観音霊場の御朱印
以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-10)
【 BGM 】
■ December - milet
■ Flavor Of Life - 宇多田ヒカル
■ Parade - FictionJunction
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■ 雨の名曲
雨もよいの初秋。
雨にまつわる名曲を思いつくままにリストしてみました。
■ Last Summer Whisper - 杏里
■ 雨の物語 - イルカ&伊勢正三
■ RAINY DAY - 今井美樹
■ アマオト - Duca
■ if - 西野カナ
■ ベルベット・イースター - 荒井由実 【YUMING COVER】
洋楽だけど、極めつけはやっぱりこれかな ↓
■ Purple Rain - Prince
雨にまつわる名曲を思いつくままにリストしてみました。
■ Last Summer Whisper - 杏里
■ 雨の物語 - イルカ&伊勢正三
■ RAINY DAY - 今井美樹
■ アマオト - Duca
■ if - 西野カナ
■ ベルベット・イースター - 荒井由実 【YUMING COVER】
洋楽だけど、極めつけはやっぱりこれかな ↓
■ Purple Rain - Prince
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■ 秋の湯
8年前(2015/8/30)に書いた記事ですが、ようやく秋っぽくなってきたので少しく追記してアゲてみます。
【写真 上(左)】 秋の箱根塔ノ沢
【写真 下(右)】 秋の信州崖の湯
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秋来ぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞおどろかれぬる
(古今集・巻4・秋歌上 藤原敏行朝臣)
8月の暑気もようやく一段やわらいで、夏休みもあとわずか。
そぞろ寒、鰯雲、暮の秋、待宵、立待月、十六夜、野分、秋霖、秋袷、鳩吹、下り梁、秋簾、鹿垣、初雁、鶺鴒、赤蜻蛉、藪枯し、刈萱・・・
きもちもしっとり落ちついて、秋を詠むことばの情感は、四季のなかでもまた一入。
それにしても、四季の折々をつづる日本語のうつくしさは、いったいどうしたことでしょう。
葦辺なる荻の葉さやぎ秋風の
吹き来るなへに雁鳴き渡る
(万葉集巻十 2134)
はるか西暦700年の昔、これほどの感性を備え、詠いのこした庶民(?)が暮らしたこの国、まこと驚嘆せざるを得ません。
大陸の秋は短いといわれます。
これに対して、季節の変化をやわらげる海原にかこまれたわが国では、秋はゆっくりと日を置きながら深まっていきます。
そして山海の入り組む風土のもと、山々から里へと綾なすように紅葉の彩りを広げていきます。
深田久弥氏が名著『瀟洒なる自然』で絶賛されたように、林相ゆたかな色とりどりの紅葉に彩られる日本の秋は、世界に冠たるわが国の資産だと思います。
【写真 上(左)】 東信の紅葉
【写真 下(右)】 奥鬼怒の紅葉
-------------------------
そこから一里余りを降った望月で、或る日もっと広々とした眺望が欲しく、私は坂を上って丘の上へ出た。
蕎麦が花咲き柿の実がいよいよ重くなる信州の夏の終り、丘の上は晴朗な風と日光との舞台だった。
北方には絵のような御牧ガ原の丘陵を前にして、噴煙をのせた浅間から烏帽子へつらなる連山の歯形。
南にはその美しい円頂と肩とを前衛に、奥へ奥へと八ヶ岳まで深まりつづく蓼科火山群と、豊饒の佐久平をわずかに隠したその緩やかな裾。
さらに西の方にはきらきら光る逆光につかった半透明の美ヶ原溶岩台地、そして東は遠く淡青いヘイズの奥に蛍石をならべたような物見・荒船の国境連山と、其処に大平野の存在を想わせる特別な空の色。
それは晴れやかな、はろばろとした憂鬱な、火山山地の歌であった。
(尾崎喜八著 「山の絵本」 たてしなの歌 より)
-------------------------
■ One Reason - milet
さてさて秋といえば温泉。
「紅葉の温泉」は、毎年飽きもせず旅行雑誌の巻頭を飾ります。
秋の温泉が快適なのは、気温が下がってくるのもさることながら、空気が乾いてくることも大きいのです。
湯浴みの快適さというのは、じつは「からだにこもった熱をいかに発散していくか」ということと高い相関があります。
この「からだにこもった熱」は空気中の湿度が高いと汗として蒸発しにくく、抜けが悪くなります。
夏場、湿度の高い日に熱中症が多発するのと同じ理屈です。
わたしは滅多に湯当たりはしないのですが、ごくごく希に湯当たりするのは決まって真冬のしんしんと降る大雪の露天です。
夏場は湿度が高くても、外気で冷ましたり、水を浴びたりして熱を散らすことができますが、大雪のときは外気で巧く冷ますことができず、気温が低いので豪快な水浴びもままなりません。
逆にカンカン照りの真夏でも、湿度が低めで風があれば、予想以上に快適な湯浴みが楽しめます。夏場の甲府盆地の湯巡りが快適なのはこれによります。
(はなしが逸れました。四季折々の湯浴みの醍醐味については稿を改めてまた書きます。)
「天高く馬肥ゆる秋」の ”天高く” とは、空気中の湿度が減って空気が澄み、空が高くなった感じを指しています。
このような日の湯浴みは、まさに日本の秋の醍醐味といえましょう。
虫の音、名月、紅葉、そしてとりどりの秋の味覚・・・。
日本の秋の幕開けです。
↑ と、前向きに〆られたのはおそらく新型コロナ禍前まで。
長引いたコロナ禍、ロシア・ウクライナ戦争、未曾有の物価高、下落続きの実質賃金・・・と、一般庶民は気の休まる間のない日々がつづいています。
10月導入予定のインボイスで、おそらく景況は悪化しさらなる物価上昇も予想されているので、呑気に「秋の温泉!」などと浮かれている場合ではなくなるかもしれません。
「家族でのんびり温泉旅行」でさえ、庶民には手の届かない贅沢になってしまうかも・・・。
いつか景況が上向くときがあったとしても、お客を受け入れるお宿がどれだけ残っているか、はなはだ疑問です。
(じつは、新型コロナ禍前から、日本の温泉地はやばい状況にあった。)
2009年10月末にお気に入りだった渋川温泉 「保科館」が閉館したときに書いた記事です。
よろしければどーぞ。→ こちら
【 BGM 】
■ Long Island Beach - 杏里
■ bouquet - @ゆいこんぬ(歌ってみた)
■ LOVE BRACE - 華原朋美
【写真 上(左)】 秋の箱根塔ノ沢
【写真 下(右)】 秋の信州崖の湯
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秋来ぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞおどろかれぬる
(古今集・巻4・秋歌上 藤原敏行朝臣)
8月の暑気もようやく一段やわらいで、夏休みもあとわずか。
そぞろ寒、鰯雲、暮の秋、待宵、立待月、十六夜、野分、秋霖、秋袷、鳩吹、下り梁、秋簾、鹿垣、初雁、鶺鴒、赤蜻蛉、藪枯し、刈萱・・・
きもちもしっとり落ちついて、秋を詠むことばの情感は、四季のなかでもまた一入。
それにしても、四季の折々をつづる日本語のうつくしさは、いったいどうしたことでしょう。
葦辺なる荻の葉さやぎ秋風の
吹き来るなへに雁鳴き渡る
(万葉集巻十 2134)
はるか西暦700年の昔、これほどの感性を備え、詠いのこした庶民(?)が暮らしたこの国、まこと驚嘆せざるを得ません。
大陸の秋は短いといわれます。
これに対して、季節の変化をやわらげる海原にかこまれたわが国では、秋はゆっくりと日を置きながら深まっていきます。
そして山海の入り組む風土のもと、山々から里へと綾なすように紅葉の彩りを広げていきます。
深田久弥氏が名著『瀟洒なる自然』で絶賛されたように、林相ゆたかな色とりどりの紅葉に彩られる日本の秋は、世界に冠たるわが国の資産だと思います。
【写真 上(左)】 東信の紅葉
【写真 下(右)】 奥鬼怒の紅葉
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そこから一里余りを降った望月で、或る日もっと広々とした眺望が欲しく、私は坂を上って丘の上へ出た。
蕎麦が花咲き柿の実がいよいよ重くなる信州の夏の終り、丘の上は晴朗な風と日光との舞台だった。
北方には絵のような御牧ガ原の丘陵を前にして、噴煙をのせた浅間から烏帽子へつらなる連山の歯形。
南にはその美しい円頂と肩とを前衛に、奥へ奥へと八ヶ岳まで深まりつづく蓼科火山群と、豊饒の佐久平をわずかに隠したその緩やかな裾。
さらに西の方にはきらきら光る逆光につかった半透明の美ヶ原溶岩台地、そして東は遠く淡青いヘイズの奥に蛍石をならべたような物見・荒船の国境連山と、其処に大平野の存在を想わせる特別な空の色。
それは晴れやかな、はろばろとした憂鬱な、火山山地の歌であった。
(尾崎喜八著 「山の絵本」 たてしなの歌 より)
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■ One Reason - milet
さてさて秋といえば温泉。
「紅葉の温泉」は、毎年飽きもせず旅行雑誌の巻頭を飾ります。
秋の温泉が快適なのは、気温が下がってくるのもさることながら、空気が乾いてくることも大きいのです。
湯浴みの快適さというのは、じつは「からだにこもった熱をいかに発散していくか」ということと高い相関があります。
この「からだにこもった熱」は空気中の湿度が高いと汗として蒸発しにくく、抜けが悪くなります。
夏場、湿度の高い日に熱中症が多発するのと同じ理屈です。
わたしは滅多に湯当たりはしないのですが、ごくごく希に湯当たりするのは決まって真冬のしんしんと降る大雪の露天です。
夏場は湿度が高くても、外気で冷ましたり、水を浴びたりして熱を散らすことができますが、大雪のときは外気で巧く冷ますことができず、気温が低いので豪快な水浴びもままなりません。
逆にカンカン照りの真夏でも、湿度が低めで風があれば、予想以上に快適な湯浴みが楽しめます。夏場の甲府盆地の湯巡りが快適なのはこれによります。
(はなしが逸れました。四季折々の湯浴みの醍醐味については稿を改めてまた書きます。)
「天高く馬肥ゆる秋」の ”天高く” とは、空気中の湿度が減って空気が澄み、空が高くなった感じを指しています。
このような日の湯浴みは、まさに日本の秋の醍醐味といえましょう。
虫の音、名月、紅葉、そしてとりどりの秋の味覚・・・。
日本の秋の幕開けです。
↑ と、前向きに〆られたのはおそらく新型コロナ禍前まで。
長引いたコロナ禍、ロシア・ウクライナ戦争、未曾有の物価高、下落続きの実質賃金・・・と、一般庶民は気の休まる間のない日々がつづいています。
10月導入予定のインボイスで、おそらく景況は悪化しさらなる物価上昇も予想されているので、呑気に「秋の温泉!」などと浮かれている場合ではなくなるかもしれません。
「家族でのんびり温泉旅行」でさえ、庶民には手の届かない贅沢になってしまうかも・・・。
いつか景況が上向くときがあったとしても、お客を受け入れるお宿がどれだけ残っているか、はなはだ疑問です。
(じつは、新型コロナ禍前から、日本の温泉地はやばい状況にあった。)
2009年10月末にお気に入りだった渋川温泉 「保科館」が閉館したときに書いた記事です。
よろしければどーぞ。→ こちら
【 BGM 】
■ Long Island Beach - 杏里
■ bouquet - @ゆいこんぬ(歌ってみた)
■ LOVE BRACE - 華原朋美
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