関東周辺の温泉入湯レポや御朱印情報をご紹介しています。対象エリアは、関東、甲信越、東海、南東北。
関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 日本で洋楽が聴かれなくなった理由?
さらに追記します。
メロもグルーヴもアンサンブルもだけど、つまるところアーティストの個性だったのかもしれぬ。↓
ブラインドで聴いても、誰が歌ってるかわかるもんね。
■ U.S.A. For Africa - We Are the World
■ 伝説のオールスター曲『We Are The World』完全解説
↓ こっちの方が先だけどね。
英国とアイルランドのアーティストだけで、これだけのインパクトある企画を立ち上げられたって、いまの洋楽から考えると信じられぬ。
■ Band Aid - Do They Know It's Christmas? (Live Aid 1985)
1980年代前半、メインストリームのど真ん中にいたアーティストたち。↓
この当時の洋楽が、いかにメロディにあふれていたかがわかる。
■ Journey - Don't Stop Believin' (Live 1981: Escape Tour - 2022 HD Remaster)
■ The Go-Go's - Head Over Heels
■ Hall & Oates - Wait For Me (Live) - [STEREO]
■ Cyndi Lauper - Time After Time (Official HD Video)
■ Elton John - I Guess That's Why They Call It The Blues
■ Van Halen - Jump (Official Music Video)
■ Prince - Purple Rain (Official Video)
■ top songs of 1981
■ top songs of 1982
■ top songs of 1983
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先日アップしたこの記事→ ■ utsuboの音楽遍歴-4 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)【 洋楽1983年ピーク説 】。
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最近、日本人の洋楽離れがあちこちで話題になっているような・・・。
ライフスタイルとかメディア論とか、いろいろ難しい分析かける人もいるけど、
単純に洋楽にいい曲がなくなったからでは?
かつて、仲間内で ”洋楽●鹿”(笑)と呼ばれていた筆者個人の例からすると、すでに1980年代後半には洋楽チャートを追うのをやめてしまっていた。(↓ の記事のとおり)
まぁ、ことばもわからず、まして音楽的に魅力も感じないのに、ムリしてRapやhip hop聴かにゃならん義務なんてどこにもないし・・・。
とくに最近、米国で主流のワンループお経的hip hopなんて苦痛でしかなんもんね、筆者的には・・・。
↓ の動画とコメント、なかなか本質ついてると思います。
【解説】日本人はもう洋楽を聴いていない
【解説】「日本人の洋楽離れ」みんなの反応+衝撃データ発表
---------------------------------
と書きました。
その後、ナビゲーター氏の「Rapやhip hop曲が増えただけじゃなく、それ以外の曲もメロディがループ的」的なコメントが妙に気になって、米国のメインストリームというか、MOR(middle-of-the-road)系の最新曲をすこし聴いてみました。
聴いてもいないのに、あ~だこ~だいうのもどうかと思うし・・・。
■ Ariana Grande - we can't be friends (wait for your love) (official music video)
■ Sabrina Carpenter - Please Please Please (Official Video)
■ KAROL G, Tiësto - CONTIGO (Official Video)
■ Beyoncé - TEXAS HOLD 'EM (Official Lyric Video)
カントリー大復権って、ほんとなのか??
↓ 次の2曲は比較的往年の洋楽のイメージを残しているような・・・。
でも、メロやアレンジやアンサンブルが単調。
■ Halsey - Lucky (Official Video)
■ Billie Eilish - BIRDS OF A FEATHER (Official Lyric Video)
やっぱり筆者的にはいまいちかな・・・。
なんといっても圧倒的に引きつけられるメロディ、そしてグルーヴがない。
欲求不満になったので、以前まとめた1980~1990年代のLady Soulの名曲を聴き直してみました ↓
↑と比べると曲に引きこんでいく力が圧倒的に強い。(あくまでも筆者的にです。)
やっぱり洋楽人気の低迷は、単純に洋楽にいい曲がなくなったからでは?
「ベストヒットUSA」で、小林克也氏が最新のヒット曲紹介早々に切り上げ昔の名曲流してしまうのも、わかる気がする(笑)
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2022/07/29 UP
記事タイトル「■ Lady Soulの名曲(1980~1990年代)10曲」
先日、実家で大量の自作テープリストを発見したので、一部ジャンルを絞ってご紹介してみます。
別記事で、筆者は1985年くらいで洋楽を離れた的なことを書いていますが(笑)、BCM、スムースジャス、ヒーリング系は実はその後もそれなりにフォローしていました。
このテープリストはたぶん1990年くらいにまとめたものだと思います。
今回はLady Soul(BCM(ブラコン)の女性ヴォーカル)のミディアム~スロー曲をリストからピックアップしてみました。
あふれんばかりにネタがあるので、今後もテーマ別にご紹介します。
01.Whitney Houston - Where You Are (from『Whitney』/1987年)
Whitneyの最高傑作とも評されるLP『Whitney』収録の名バラード。
才人Kashifのプロデュース。
KashifのセルフALBUMはもっとごつごつとしたサウンドだが、これはWhitneyのハイトーンを活かした透明感あふれる仕上がり。
こうして聴き返してみると、Whitneyがいかに綺麗な声質を持っていたか、あらためて実感する。
b:Marcus Miller、Ds: Paul Leimのリズムセクションも安定感抜群。
02.Amy Keys - Has It Come To This (from『Lover's Intuition』/1989年)
いま、手元にCDがないので詳細不明だが、1989年にわずか1枚のALBUMを残しただけのBCMシンガー。
響きの深いエモーショナルな歌いまわしは聴き応えあり。もっと早くにデビューしていたら数枚の名盤を残していたであろう逸材。
これは『Lover's Intuition』収録のスケール感あふれるミディアムテイク。
03.Champaign - Love Games (from『Modern Heart』/1983年)
イリノイ州Champaignで結成されたBCMユニットで、 1981年のヒット曲"How 'Bout Us"で知られる。
これは1983年リリースの名盤、2nd ALBUM『Modern Heart』収録の甘~いデュエット。
確信もてないが、フェミニンで華のある女性ヴォーカルはRena Jonesと思われる。
04.Sharon Bryant - Foolish Heart (from『Here I Am』/1989年)
Atlantic Starrのリードヴォーカルを張った、Sharon Bryantの1989年1stソロアルバムからのシングル曲。
Randy GoodrumとSteve Perry(Journeyのリードヴォーカル)の共作で、1984年リリースのSteve Perry『Street Talk』に収録されシングルヒットしている。
05.Chaka Khan - Through the Fire (from『I Feel For You』/1984年)
1984年リリースの名バラード。
David FosterとTom Keaneの共作と思われ、David Fosterの1stソロアルバム『The Best Of Me』(1983年)にインスト曲として収録されている。
曲名はなんと「Chaka」。
のちに名手Cynthia Weilが歌詞をつけ、Chaka Khanが歌った。
プロデュースはDavid Foster&Humberto Gatica。 Executive ProducerにArif Mardin。
b:Nathan East、Ds:J.R. Robinson、G:Michael Landau、Key:David Fosterの隙のないバッキング。
↓ のヒットもこのALBUMから。この時期、いかにChakaに勢いがあったかがわかる。
Chaka Khan - I Feel for You (Official Music Video)
この頃のRAPって、こういう入り方していた。
06.James Ingram & Patti Austin - How Do You Keep The Music Playing (from『It's Your Night』/1983年)
クインシー・ジョーンズ(Quincy Delight Jones II)の秘蔵っ子、James IngramとPatti Austinが1983年に放ったヒット・ソング。
Arranged:Quincy Jones
b:Nathan East、Ds:Leon Ndugu Chancler、G:George Doering, Paul Jackson Jr.、Piano:David Foster、Syn:David Paich
すこぶるメロディアスな曲調を名うてのミュージシャンが完璧にサポート。とくにDavid Fosterの関与が大きいと思う。
07.Angela Bofill - On And On (from『Something About You』/1981年)
New York、Bronx出身のBCMシンガー。
これは3rdALBUM『Something About You』からのミディアム・チューン。
Dave Grusinのサポートでデビューしただけに、クロスオーバー色が強い。
1980年代前半の典型的なグルーヴ。フェンダー・ローズがバックでひたすらサポートしてる。
08.Perri - Tradewinds (from『Tradewinds』/1990年)
Los Angeles出身の4人組BCMユニットで1986年1stALBUMリリース。
これは1990年リリースの名盤『Tradewinds』収録のミディアムでSaxはEverette Harp。
ウエスト・コーストらしいブライトなメロが、グルーヴ感あふれるバックインストにたおやかに乗って聴きごこちよし。
この名盤を残して、このユニットは2016年までALBUMリリースを絶つことになる。
09.Natalie Cole - Starting Over Again (from『Good To Be Back』/1989年)
Nat King Coleの実娘。
薬物中毒から立ち直り、心機一転放った1987年『Everlasting』と1989年の『Good To Be Back』は何れ劣らぬ名盤。
これは『Good To Be Back』収録の名バラードでGerry Goffin&Michael Masserならではの華麗なメロディライン。
プロデュースはMichael Masser、アレンジは才人Gene Page。
バッキングもb:Mike Porcaro、Ds:Jeff Porcaro、G:Paul Jackson (Jr.)、Key:Robbie Buchananとオールスター。
Robbie Buchananのフェンダー・ローズが綺麗に効いて、リバーブの効いたJeff Porcaroのドラムスも聴きどころ。
10.Klymaxx - Finishing Touch (from『The Maxx Is Back』/1990年)
当初はSolarレーベルに所属していた女性BCMユニットで、メロディアスなヒット曲をいくつか持っている。
これは1990年に4年振りにリリースされた『The Maxx Is Back』収録のバラードで、シングルカットされていた記憶があるが、いま調べるとALBUM曲。
スキのない仕上がりで、Lady Soulは1990年にしてなお、かなりのレベルを保っていたことがわかる。
メロもグルーヴもアンサンブルもだけど、つまるところアーティストの個性だったのかもしれぬ。↓
ブラインドで聴いても、誰が歌ってるかわかるもんね。
■ U.S.A. For Africa - We Are the World
■ 伝説のオールスター曲『We Are The World』完全解説
↓ こっちの方が先だけどね。
英国とアイルランドのアーティストだけで、これだけのインパクトある企画を立ち上げられたって、いまの洋楽から考えると信じられぬ。
■ Band Aid - Do They Know It's Christmas? (Live Aid 1985)
1980年代前半、メインストリームのど真ん中にいたアーティストたち。↓
この当時の洋楽が、いかにメロディにあふれていたかがわかる。
■ Journey - Don't Stop Believin' (Live 1981: Escape Tour - 2022 HD Remaster)
■ The Go-Go's - Head Over Heels
■ Hall & Oates - Wait For Me (Live) - [STEREO]
■ Cyndi Lauper - Time After Time (Official HD Video)
■ Elton John - I Guess That's Why They Call It The Blues
■ Van Halen - Jump (Official Music Video)
■ Prince - Purple Rain (Official Video)
■ top songs of 1981
■ top songs of 1982
■ top songs of 1983
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先日アップしたこの記事→ ■ utsuboの音楽遍歴-4 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)【 洋楽1983年ピーク説 】。
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最近、日本人の洋楽離れがあちこちで話題になっているような・・・。
ライフスタイルとかメディア論とか、いろいろ難しい分析かける人もいるけど、
単純に洋楽にいい曲がなくなったからでは?
かつて、仲間内で ”洋楽●鹿”(笑)と呼ばれていた筆者個人の例からすると、すでに1980年代後半には洋楽チャートを追うのをやめてしまっていた。(↓ の記事のとおり)
まぁ、ことばもわからず、まして音楽的に魅力も感じないのに、ムリしてRapやhip hop聴かにゃならん義務なんてどこにもないし・・・。
とくに最近、米国で主流のワンループお経的hip hopなんて苦痛でしかなんもんね、筆者的には・・・。
↓ の動画とコメント、なかなか本質ついてると思います。
【解説】日本人はもう洋楽を聴いていない
【解説】「日本人の洋楽離れ」みんなの反応+衝撃データ発表
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と書きました。
その後、ナビゲーター氏の「Rapやhip hop曲が増えただけじゃなく、それ以外の曲もメロディがループ的」的なコメントが妙に気になって、米国のメインストリームというか、MOR(middle-of-the-road)系の最新曲をすこし聴いてみました。
聴いてもいないのに、あ~だこ~だいうのもどうかと思うし・・・。
■ Ariana Grande - we can't be friends (wait for your love) (official music video)
■ Sabrina Carpenter - Please Please Please (Official Video)
■ KAROL G, Tiësto - CONTIGO (Official Video)
■ Beyoncé - TEXAS HOLD 'EM (Official Lyric Video)
カントリー大復権って、ほんとなのか??
↓ 次の2曲は比較的往年の洋楽のイメージを残しているような・・・。
でも、メロやアレンジやアンサンブルが単調。
■ Halsey - Lucky (Official Video)
■ Billie Eilish - BIRDS OF A FEATHER (Official Lyric Video)
やっぱり筆者的にはいまいちかな・・・。
なんといっても圧倒的に引きつけられるメロディ、そしてグルーヴがない。
欲求不満になったので、以前まとめた1980~1990年代のLady Soulの名曲を聴き直してみました ↓
↑と比べると曲に引きこんでいく力が圧倒的に強い。(あくまでも筆者的にです。)
やっぱり洋楽人気の低迷は、単純に洋楽にいい曲がなくなったからでは?
「ベストヒットUSA」で、小林克也氏が最新のヒット曲紹介早々に切り上げ昔の名曲流してしまうのも、わかる気がする(笑)
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2022/07/29 UP
記事タイトル「■ Lady Soulの名曲(1980~1990年代)10曲」
先日、実家で大量の自作テープリストを発見したので、一部ジャンルを絞ってご紹介してみます。
別記事で、筆者は1985年くらいで洋楽を離れた的なことを書いていますが(笑)、BCM、スムースジャス、ヒーリング系は実はその後もそれなりにフォローしていました。
このテープリストはたぶん1990年くらいにまとめたものだと思います。
今回はLady Soul(BCM(ブラコン)の女性ヴォーカル)のミディアム~スロー曲をリストからピックアップしてみました。
あふれんばかりにネタがあるので、今後もテーマ別にご紹介します。
01.Whitney Houston - Where You Are (from『Whitney』/1987年)
Whitneyの最高傑作とも評されるLP『Whitney』収録の名バラード。
才人Kashifのプロデュース。
KashifのセルフALBUMはもっとごつごつとしたサウンドだが、これはWhitneyのハイトーンを活かした透明感あふれる仕上がり。
こうして聴き返してみると、Whitneyがいかに綺麗な声質を持っていたか、あらためて実感する。
b:Marcus Miller、Ds: Paul Leimのリズムセクションも安定感抜群。
02.Amy Keys - Has It Come To This (from『Lover's Intuition』/1989年)
いま、手元にCDがないので詳細不明だが、1989年にわずか1枚のALBUMを残しただけのBCMシンガー。
響きの深いエモーショナルな歌いまわしは聴き応えあり。もっと早くにデビューしていたら数枚の名盤を残していたであろう逸材。
これは『Lover's Intuition』収録のスケール感あふれるミディアムテイク。
03.Champaign - Love Games (from『Modern Heart』/1983年)
イリノイ州Champaignで結成されたBCMユニットで、 1981年のヒット曲"How 'Bout Us"で知られる。
これは1983年リリースの名盤、2nd ALBUM『Modern Heart』収録の甘~いデュエット。
確信もてないが、フェミニンで華のある女性ヴォーカルはRena Jonesと思われる。
04.Sharon Bryant - Foolish Heart (from『Here I Am』/1989年)
Atlantic Starrのリードヴォーカルを張った、Sharon Bryantの1989年1stソロアルバムからのシングル曲。
Randy GoodrumとSteve Perry(Journeyのリードヴォーカル)の共作で、1984年リリースのSteve Perry『Street Talk』に収録されシングルヒットしている。
05.Chaka Khan - Through the Fire (from『I Feel For You』/1984年)
1984年リリースの名バラード。
David FosterとTom Keaneの共作と思われ、David Fosterの1stソロアルバム『The Best Of Me』(1983年)にインスト曲として収録されている。
曲名はなんと「Chaka」。
のちに名手Cynthia Weilが歌詞をつけ、Chaka Khanが歌った。
プロデュースはDavid Foster&Humberto Gatica。 Executive ProducerにArif Mardin。
b:Nathan East、Ds:J.R. Robinson、G:Michael Landau、Key:David Fosterの隙のないバッキング。
↓ のヒットもこのALBUMから。この時期、いかにChakaに勢いがあったかがわかる。
Chaka Khan - I Feel for You (Official Music Video)
この頃のRAPって、こういう入り方していた。
06.James Ingram & Patti Austin - How Do You Keep The Music Playing (from『It's Your Night』/1983年)
クインシー・ジョーンズ(Quincy Delight Jones II)の秘蔵っ子、James IngramとPatti Austinが1983年に放ったヒット・ソング。
Arranged:Quincy Jones
b:Nathan East、Ds:Leon Ndugu Chancler、G:George Doering, Paul Jackson Jr.、Piano:David Foster、Syn:David Paich
すこぶるメロディアスな曲調を名うてのミュージシャンが完璧にサポート。とくにDavid Fosterの関与が大きいと思う。
07.Angela Bofill - On And On (from『Something About You』/1981年)
New York、Bronx出身のBCMシンガー。
これは3rdALBUM『Something About You』からのミディアム・チューン。
Dave Grusinのサポートでデビューしただけに、クロスオーバー色が強い。
1980年代前半の典型的なグルーヴ。フェンダー・ローズがバックでひたすらサポートしてる。
08.Perri - Tradewinds (from『Tradewinds』/1990年)
Los Angeles出身の4人組BCMユニットで1986年1stALBUMリリース。
これは1990年リリースの名盤『Tradewinds』収録のミディアムでSaxはEverette Harp。
ウエスト・コーストらしいブライトなメロが、グルーヴ感あふれるバックインストにたおやかに乗って聴きごこちよし。
この名盤を残して、このユニットは2016年までALBUMリリースを絶つことになる。
09.Natalie Cole - Starting Over Again (from『Good To Be Back』/1989年)
Nat King Coleの実娘。
薬物中毒から立ち直り、心機一転放った1987年『Everlasting』と1989年の『Good To Be Back』は何れ劣らぬ名盤。
これは『Good To Be Back』収録の名バラードでGerry Goffin&Michael Masserならではの華麗なメロディライン。
プロデュースはMichael Masser、アレンジは才人Gene Page。
バッキングもb:Mike Porcaro、Ds:Jeff Porcaro、G:Paul Jackson (Jr.)、Key:Robbie Buchananとオールスター。
Robbie Buchananのフェンダー・ローズが綺麗に効いて、リバーブの効いたJeff Porcaroのドラムスも聴きどころ。
10.Klymaxx - Finishing Touch (from『The Maxx Is Back』/1990年)
当初はSolarレーベルに所属していた女性BCMユニットで、メロディアスなヒット曲をいくつか持っている。
これは1990年に4年振りにリリースされた『The Maxx Is Back』収録のバラードで、シングルカットされていた記憶があるが、いま調べるとALBUM曲。
スキのない仕上がりで、Lady Soulは1990年にしてなお、かなりのレベルを保っていたことがわかる。
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■ 鎌倉市の御朱印-11 (B.名越口-6)
■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)から。
ここから材木座エリアに入ります。
36.天照山 蓮華院 光明寺(こうみょうじ)
公式Web
「新纂 浄土宗大辞典/光明寺」
鎌倉市材木座6-17-19
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
司元別当:
札所:関東十八檀林10、鎌倉六阿弥陀霊場第3番、鎌倉三十三観音霊場第18番、鎌倉二十四地蔵霊場第22番、三浦半島四十八阿弥陀霊場第48番、東国花の寺百ヶ寺霊場鎌倉第2番、七観音霊場第3番、小田急沿線花の寺四季めぐり第25番
光明寺は材木座にある浄土宗の大本山です。
公式Web、「新纂 浄土宗大辞典/光明寺」、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。
光明寺の創立は寛元元年(1243年)、開山は浄土宗三祖然阿良忠上人(1199-1287年・記主禅師)といいます。
良忠上人は正治元年(1199年)石見国三隅庄に生まれ、38歳で聖光上人のお弟子となり、学究ののち法然上人の教えを受け継がれて浄土宗の三祖になられました。
浄土宗の宗祖は法然上人で、二祖は久留米善導寺を開かれた聖光上人(弁長)です。
法然上人の寂後、浄土教学は大きく以下の4流(浄土四流)に分かれました。
・三鈷寺証空の西山義(西山派)
・善導寺弁長の鎮西義(鎮西派)
・長楽寺隆寛の長楽寺義
・九品寺長西の九品寺義
うち、浄土宗主流は弁長(聖光上人)の鎮西義(鎮西派)となり、良忠上人はこの鎮西義(鎮西派)を継がれました。
---------------------------------
建暦元年(1211年)良忠上人は13歳のとき、出雲国の天台宗寺門派鰐淵寺の月珠房信暹門弟となり、16歳で出家受戒。
鰐淵寺では天台寺門派、同山門派等の天台密教を相承したといいます。
嘉禎二年(1236年)九州に下向、筑後国上妻の天福寺で浄土宗二祖の聖光上人に面謁、数々の教えを相伝。宗論を撰述し、聖光上人の印可を受けました。
暦仁元年(1238年)から約10年間石見国~安芸国を教化。
高野山明王院学頭の源朝阿闍梨が安芸国に左遷された折、良忠上人は源朝阿闍梨に師事して真言密教を学んだともいいます。
建長元年(1249年)頃、信濃善光寺を経て下総に向われ千葉氏一族の外護を受け、常陸、上総、下総三国の教化活動と浄土宗典の講述をなされました。
正元元年(1259年)頃鎌倉に移住。
ただし、仁治元年(1240年)鎌倉入り説もあります。
浄土宗の立教開宗の書ともされる『選択本願念仏集』(選択集/せんちゃくしゅう)、浄土三部経(『無量寿経』『観無量寿経(観経)』『阿弥陀経』)、『観経疏』(『観経』の注釈書)などの講述を究められたといいます。
東密(真言密教)、台密(天台密教)と幅広く学ばれた良忠上人は、浄土宗論の撰述・講述でも卓越した才をあらわされたのではないでしょうか。
鎌倉では幕府の評定衆・大仏(北条)朝直の帰依を得て佐介ヶ谷に悟真寺を創建。
朝直は北条時政の子息・北条時房(鎌倉幕府初代連署)の子につき相応の権力を有していたとみられ、バックアップは安定していたのでは。
良忠上人は朝直の子時遠からも帰依を受け、専修念仏の指導的な立場を担われたといいます。
なお、寺伝では当山開基は鎌倉幕府第四代執権・北条経時公とされています。
悟真寺については後述しますが、悟真寺(蓮華寺)を光明寺の前身寺院とすることについては年代的な不整合もみられ、異説もあるようです。
文永八年(1271年)、良忠上人は極楽寺の良観・理智光寺の道教・浄光明寺の行敏らとともに日蓮宗に対抗するとともに、比叡山修学中の良暁を鎌倉に呼び寄せ浄土の奥義を授けたといいます。
当時の鎌倉では法然門流のうち、長楽寺義の南無房智慶・願行円満、西山義西谷流の観智・行観、諸行本願義の念空道教・性仙道空らがそれぞれの浄土教を布教・展開していました。
したがって良忠上人は、独自の教学を強く打ち出す必要がありました。
建治二年(1276年)良忠上人は上洛され、宗祖法然上人の遺弟を尋ねて法然上人の遺文の収集に努めたといいます。
また、良忠上人の教学は、浄土教学(法然門流)の長楽寺義・九品寺義・西山義(東山義・深草義)との討論(教学論争)によって研ぎ澄まされたとみられています。
そして各種の教学講述や法然上人の遺文類をもとに、『決疑鈔』(五巻本)を完成されました。
良忠上人は弘安九年(1286年)の秋、鎌倉に再度下向されました。
その直後、弟子の良暁に授与された付法状で、法然—聖光—良忠の「三代相伝」をいい、「三代之義勢」を表明されたといいます。
弘安十年(1287年)89歳をもって入寂。
生前の功績が認められ、伏見天皇より「記主禅師」の謚号を賜りました。
良忠上人の寂後、その門流は以下の6派に分かれました。
・白旗派(良暁)
・藤田派(性心)
・名越派(尊観)
・三条派(道光)
・一条派(然空)
・木幡派(慈心)
うち白旗派が浄土宗(鎮西義)の主流となり、現在に至っています。
光明寺は白旗派を代表する名刹です。
名越派は尊観が鎌倉名越谷善導寺で布教したため善導寺義ともいい、善導寺は大町の安養院(浄土宗)の前身のため、大町~材木座にかけては良忠上人の影響がとりわけ強いエリアです。
※ 善導寺および名越谷善導寺については、■ 鎌倉市の御朱印-7 (B.名越口-2)の24.安養院を参照願います。
【 悟真寺・蓮華寺 】(ごしんじ・れんげじ)
正嘉元年(1257年)頃(仁治元年(1240年)説あり)、下総から鎌倉入りした良忠上人は、はじめ慈恩坊を頼って大仏勧進聖の浄光を尋ね、浄光は大仏谷に一宇を建てて良忠上人はここに住されたと伝えます。
間もなく大仏(北条)朝直の支援を得て、佐介ヶ谷に悟真寺を創建といいます。
寺号については、浄土第三祖・善導大師入山の終南山悟真寺由来との説があります。
のちに蓮華寺と改名され、材木座へ移転して浄土宗大本山光明寺となったため、光明寺の前身寺院とされます。
悟真寺から蓮華寺への改号の理由ははっきりせず、蓮華寺から光明寺への改号は北条経時の霊夢によるという伝承もありますが、こちらもはっきりしません。
また、佐介谷から材木座への移転の理由も時期も、多くの史料類は明示していません。
悟真寺については後述しますが、悟真寺・蓮華寺を光明寺の前身寺院とすることについては史料により年代的な不整合もみられ、異説もあるようです。
今回、史料・資料類を当たってみると2つの時系列説があることがわかります。
ひとつは『新纂 浄土宗大辞典』系のもの、もうひとつは『新編鎌倉志』系のものです。
【A.『新纂 浄土宗大辞典』系説】
正元元年(1259年)頃
良忠上人 下総から鎌倉に移住
佐介ヶ谷に建立された悟真寺に入る
建治二年(1276年)
良忠上人 鎌倉から上洛
弘安九年(1286年)
良忠上人 京から鎌倉へ下向
弘安十年(1287年)
良忠上人 鎌倉にて八九歳で入寂
後継者の良暁上人は悟真寺を中心に教線の拡張を計る
正中二年(1325年)頃
良暁上人は悟真寺から蓮華寺と寺名を改めた
九世祐崇上人(1426-1509)のとき
佐介ヶ谷の蓮華寺を材木座の現在地に移し、光明寺と改称したともいわれる
明応四年(1495年)
祐崇上人は後土御門天皇の勅命により浄土教を講説
光明寺は勅願寺と関東総本山となる
【B.『新編鎌倉志』系説】
仁治元年(1240年)
良忠上人鎌倉に入られる
寛元元年(1243年)
北条経時、佐介谷に悟真寺を良忠上人を開山として開基
寛元三年(1247年)以前
良忠上人、材木座の蓮乗院に入られ光明寺建立の準備をされる
寛元三年(1247年)
悟真寺(蓮華寺)が材木座に移り光明寺と改号
弘安十年(1287年)
良忠上人 鎌倉にて八九歳で入寂
※ただし、蓮華寺跡(佐介谷)の項に「光明寺、本此地にあって、蓮華寺と号す。後に光明寺と改む。『鎌倉大日記』に、建長三年(1251年)、経時が為に、佐介に於て蓮華寺建立、住持良忠とあり。良忠此谷に居住ありしゆへに、佐介の上人と云ふなり。」との記事があり、上記と整合しません。
A.『新纂 浄土宗大辞典』系説では、弘安十年(1287年)良忠上人が八九歳で入寂されたときには佐介谷悟真寺が存在し、光明寺(1426年以降の移転・改称)はまだありません。
B.『新編鎌倉志』系説では、良忠上人が材木座の蓮乗院に入ってみずから光明寺建立の準備をされ、寛元三年(1247年)悟真寺(蓮華寺)が材木座に移り光明寺に改号という流れです。
以上、A説とB説では年代的に隔たりがあるので、この二説が混在すると時系列が不整合となります。
光明寺の前身寺院の沿革に諸説あるのは、このような背景があるためと思われます。
なお、光明寺公式Webや現地案内板では光明寺の創立を寛元元年(1243年)としているので、B.『新編鎌倉志』系説が定説として流布している模様です。
関連して、『新編鎌倉志』『新編相模国風土記稿』の「光明寺・善導堂」の項には気になる記述があります。
善導堂はもと光明寺の海側の総門内松葉林中にあったといいます。
御本尊の善導大師(613-681年)は、唐時代の中国の僧で「浄土五祖」の第三祖とされ、その教えは法然上人・親鸞上人に大きな影響を与えました。
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【善導堂縁起】
善導大師の霊像が唐船で筑紫に渡来したとき、鎮西善導寺の開山・聖光上人の夢に善導大師があらわれて「われ筥崎にあり、来り迎へよ」とお告げがありました。
聖光上人が筥崎に来てみると果して善導大師の霊像がみつかり、一宇を建立して霊像を安置し、その後善導寺に遷しました。
聖光上人はこの霊像を良忠上人に託しましたが、良忠上人が関東巡錫に出立される際、この霊像に向かい「わたしはこれから関東教化のため出立します。どうぞ願わくば教化有縁の地を示し給え」と念じて、尊像を筑紫の海中に投じたといいます。
良忠上人は鎌倉の佐介谷に住しましたが、あるとき由比の浜辺に光明が満ちて、かの霊像が忽然とお姿をあらわしました。
良忠上人は霊像漂着の地が浄土教学有縁の地と確信され、一宇を建立して霊像を安じました。
これが光明寺といいます。
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上の善導堂縁起によると、良忠上人は佐介谷の悟真寺(ないし蓮華寺)に住されていましたが、善導大師の霊像の霊験を目の当たりにして材木座の海岸に一宇を建立、これが光明寺(の前身)ということになります。
つまり、佐介谷に悟真寺(蓮華寺)が存在した時点で、すでに材木座の海岸にも一宇(善導堂)があったという見方です。
佐介谷の悟真寺(蓮華寺)が材木座に移り光明寺と改めたのは良忠上人寂後としても、上人が材木座に建立された善導堂の地に移ったという流れなのかもしれません。
寺号については史料に「光明赫奕して霊像が忽然と由比濱に着岸」とあるので、あるいはこの縁起から由来という想像も浮かびます。
なお、悟真寺→蓮華寺→光明寺の改号については、以前別記事(■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-8/蓮花寺)にてとり上げています。興味のある方はご参照くださいませ。
光明寺は、その後も第五代執権・北条時頼公をはじめ歴代執権の帰依を受けました。
関東における念仏道場の中心となり、七堂伽藍を整え、後土御門天皇より「関東総本山」の称号を賜り勅願寺とされ、「関東総本山」ともされました。
後土御門天皇の帰依を受け、紫衣を許された八世観誉祐崇上人は中興開山とされています。
上記のA説によれば佐介谷の蓮華寺を現在地(材木座)に移し、光明寺と改めたのは祐崇上人ですから、この業績も認められてのことかもしれません。
徳川家康公は当山を「関東十八檀林」の筆頭に位置づけ、念仏信仰、仏教研鑽の根本道場の地位を固めました。(※檀林とは徳川幕府が定めた学問所です。)
同じ大本山の芝・増上寺は徳川家菩提寺で、当山とは役割を分けていたようです。
浄土宗公式Webによると、現在の主要寺院の格式は以下のとおりです。
総本山
・知恩院(京都市東山区)
大本山(7寺院)
・増上寺(港区芝公園)
・金戒光明寺(京都市左京区)
・百萬遍知恩寺(京都市左京区)
・清浄華院(京都市上京区)
・善導寺(福岡県久留米市)
・光明寺(神奈川県鎌倉市)
・善光寺大本願(長野県長野市)
光明寺は関東にふたつしかない浄土宗大本山で、たいへん高い寺格をもちます。
筆者は光明寺の御朱印帳をもって関東の浄土宗寺院を回ったことがあるのですが、いくつかの寺院で「光明寺様の御朱印帳に書き入れるのは畏れ多い。」とのご住職のお言葉をいただきました。
それだけ高い格式・権威をもたれているということかと。
当山は譜代大名・内藤家の菩提所です。
内藤氏はふるくから松平氏(徳川氏)に仕えた譜代の家臣の家柄で、上総佐貫藩主を経て陸奥磐城平藩主から日向延岡藩7万石の藩主に転じました。
磐城平藩第3代藩主・内藤義概(1619-1685年)の代まで、内藤家菩提寺は江戸霊厳寺でしたが、義概は位牌堂と石塔を光明寺に移し、寺領百五十石を寄進して光明寺の大旦那となりました。
別に新庄家などの墓所もあり、こうした武家の旦那衆が江戸期の当山の経営を支えたともみられています。
当山は「お十夜」発祥の寺でもあります。
お十夜法要は、第九世観譽祐崇上人の代(明応四年(1495年))に始まりました。
後土御門天皇の勅許を受け、引声阿弥陀経と引声念仏による十夜法要を勤めるようになり、いまも毎年十月の四日間盛大に法要が勤められています。
関東大震災で大きな被害を被りましたが復興し、いまも浄土宗大本山、鎌倉を代表する名刹としての存在感を放っています。
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【史料・資料】
■ 『新編鎌倉志 鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
光明寺
光明寺は、本は佐介谷に在しを、後に此地に移す。当寺開山の伝に、寛元元年(1243年)五月三日、前武州太守平経時、佐介谷に於て浄刹を建立し、蓮華寺と号し、良忠を導師として、供養をのべらる。後に経時、霊夢有て光明寺と改む。方丈を蓮華院と名くとあり。(中略)
開山は記主禅師、諱は良忠、然阿と号す。石州三隅荘人なり。父は宰相藤原頼定、母は伴氏、正治元年(1199年)七月二十七日に生る。弘安十年(1287年)七月六日に示寂。年八十九。聖光上人の弟子なり。聖光は法然上人の弟子なり。
良忠弟子六人有て、今に六派相分る。
所謂六派は、京都の三箇は、一條ノ禮阿、三條ノ道光、小幡ノ慈心なり。
関東の三箇は、白旗ノ寂慧(光明寺二世)、名越尊観(大澤流義の祖)、藤田ノ持阿(藤田流義の祖)、是を六派と云ふ。
当寺は六派の本寺なり。六派の内、白旗・大澤の両派のみ今尚盛なり。四派は断絶す。
十七箇寺の檀林は白旗なり。(中略)
外門 昔佐介谷に有し時、平経時の弟時頼外門に額を掛て、佐介浄刹と号すと。今は額なし。
山門 額、天照山とあり。後花園帝の宸筆なり。
開山堂 開山木像を安ず。自作なり。勅諡記主禅師とある額を此堂に掛しとなり。
客殿 三尊を安ず。阿彌陀の像は運慶作。観音勢至像、作者不知。
方丈 蓮華院と号す。阿彌陀の像を安ず、此像も運慶が作にて肚裏に運慶が骨を収むと云ふ。
祈祷堂 今は念佛堂と云ふ。本尊は阿彌陀、慧心の作と云ふ。左方に辯才天の像あり。昔江島辯才天の像、或時暴風吹来て、此寺前海濱に寄泊る。里民相議して彼島帰す。其後又来る。如此する事三度なり。因て寺僧御●を取に、永く此寺に止まるべき由なり。故に爰に安ずと云。右の方に善導像あり。自作と云。
寺寶
勅額 二枚
一枚は、後宇多帝の宸筆、勅諡記主禅師とあり。
一枚は、後土御門帝の宸筆、祈禱の二字なり。
善導塚 ※由緒は『新編相模国風土記稿』にほぼ同じにつき略。
蓮華寺跡(佐介谷)(同上資料)
今俗に光明寺畠と云ふ。光明寺、本此地にあって、蓮華寺と号す。後に光明寺と改む。
『鎌倉大日記』に、建長三年(1251年)、経時が為に、佐介に於て蓮華寺建立、住持良忠とあり。良忠此谷に居住ありしゆへに、佐介の上人と云ふなり。光明寺の條下及ひ『記主上人傳』に詳也。
■ 『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(材木座村)光明寺
天照山蓮華院と号す、浄土宗、関東総本山と称し十八檀林の第一位にして六派の本寺なり、仁治元年(1240年)北條武蔵守経時佐介谷に於て浄刹を創立し蓮華寺と名つく時に僧良忠悟眞寺に在り経時延て開山初祖とし、武州足立郡箕田の地を寄附して寺領とす
寛元元年(1243年)今の地に移転して堂宇を修復す斯て経時夢兆に感じて光明寺と改む(中略)寶治二年(1248年)良忠洛の尼院にあり、後嵯峨上皇の戒師となり、香衣幷に上人号を賜ふ
建長元年(1249年)鎌倉に帰る、時頼由良の地を割て寄附せり、良忠弘安十年(1287年)七月六日寂す 永仁元年(1293年)勅謚ありて記主禅師と号す
建武二年九月當寺造營の爲修理田一町を寄附あり(注釈)
貞治二年二月足利基氏上總國湯井號觀應三年の例に任せ、寄附ある旨證状を授與す(注釈)
其後祐崇永正六年(1509年)寂す、当寺の住職たり、是を中興の祖とす
本堂 開山の像を置く
客殿 三尊の彌陀を安ず 中尊は運慶作余は作人知れず
方丈 彌陀を安ず 運慶作にて肚裏に運慶が骨を収むと云ふ
【寺寶】(中略)
紫石硯一面 唐玄宗の松蔭の硯と称す、相伝て平重衡受戒の時、法然に与ふ、法然是を聖光に譲り、聖光又記主に譲ると云へど、背に永享(1429年)の年号あり、是法然記主の時代にあらず、是非詳ならず
二尊堂 善導大師 自作、衣に金泥にて、彌陀經を書たり
辨財天 江島奥院の分身と云ふ、昔江島辨財天の像、或時暴風吹来て、此の如する事三度なり、因て寺僧御●を取に、当寺に止まるべき由なり、故に爰に安ずといへり、及び聖徳太子の像を置く
善導堂 総門内松葉林中にあり、金銅の像を安ず【鎌倉志】には是を善導塚と挙げ、古伝を引て昔善導の像僧と化し唐船に乗て筑紫に渡来す、時に鎮西善導寺の開山聖光夢に善導来朝して筥崎にあり、来り迎へよと告ると見しかば頓て彼地に至る果して像あり、其地に一宇を建立す、其落善導寺に移す、後良忠鎮西にて(聖?)光より其像を附屬せらる(良?)忠霊像に向て吾是より関東の諸國に化を施さんと思ふ、其間何國にても有縁の地に蹟を留め給へと云て海中に投ず、其後(良?)忠鎌倉に至り佐介谷に居す、由比の澳に光明赫奕たり、漁父奇とする処霊像忽然として由比濱に着岸す、(良?)忠因て一宇を建立して彼像を安ず、光明寺是なり、漂泊の地を善導塚と名づくと載せたれど此霊像の為に(良?)忠当寺を創建せしと云ふは寺伝と齟齬せり、さて舶来せしは今二尊堂に安ずる像にて是なるは其模像なりとぞ
神明宮 八幡春日を合祀す、域内鎮護の祠なり
秋葉社、九頭權現社、蔵王窟 後阜にあり、開山塔。山上にあり
内藤家祠堂。阿彌陀 定朝作 如意輪等の像を安じ、内藤備後守、同氏播磨守先世代々の霊牌を置く
鐘樓 正保四年鑄造の鐘を掛く 按ずるに当寺に、竹園山法泉寺の鐘ありしが、今は失へりと云ふ
記主水 寺の山麓にあり 開山の加持水なりと云ふ
総門 昔佐介谷に在し時は、経時の弟時頼、浄刹の額を掲げしと云ふ 今其額を伝へず
山門 天照山の額を扁す 後花園帝の宸筆なり
■ 山内掲示
・光明寺(鎌倉市)
宗派 浄土宗
山号寺号 天照山蓮華院光明寺
創建 寛元元年(1243)
開基 北条経時
材木座に所在する光明寺は、江戸時代には浄土宗関東十八檀林の第一位として格付けされた格式の高い寺院です。
開山は記主禅師然阿良忠、開基は鎌倉幕府の第四代執権北条経時で仁治元年(一二四0)鎌倉に入った良忠のために、経時が佐助ガ谷に寺を建てて蓮華寺と名づけ、それが寛元三年(一二四三)に現在地に移り光明寺と改められたと伝えます。
元禄十一年(一六九八)建立の本堂は、国指定重要文化財。また、弘化四年(一八四七)建立の山門は、県指定重要文化財。ことに本堂は、鎌倉で現存する近世仏堂のうちでも最大規模を誇ります。当寺は今なお、建長寺、円覚寺と並ぶ壮大な伽藍を構成しています。
十月十二日から十五日の間に行われる「十夜法要」の行事は今でも、夜市が立ち大勢の人で賑わいます。
・御案内
この寺は天照山蓮華院光明寺と称し、浄土宗の大本山で「お十夜さんの寺」として、多くの方々に親しまれております。
その十夜法要は明応四年(一四九五年)当山第九代観誉祐崇上人が後土御門天皇の勅許によりつとめられたのを始めといたします。
創立 鎌倉時代・寛元元年(一二四三年)
開基 鎌倉幕府 執権第四代 北条経時公
法号は蓮華寺殿安樂大禅定門
開山 浄土宗第三祖然阿良忠記主禅師大和尚
御入滅 弘安十年(一二八七年)七月六日 八十九歳
御本尊 阿弥陀如来「伝 鎌倉中期作」(大殿中央)
札所 鎌倉三十三観音霊場第十八番如意輪観音(大殿右手)
鎌倉二十四地蔵霊場第二十二番延命地蔵(境内右手)
鎮守 天照皇大神(天照山中腹)
秋葉大権現(天照山山頂)
繁栄稲荷大明神(境内右手)
建物 総門 承応四年(一六五五年)
山門 弘化四年(一八四七年)
大殿 元禄十一年(一六九八年)
開山堂 元禄十一年(一六九八年)
大聖閣 平成二十一年再建
施設 小堀遠州作「記主庭園」
昭和の名庭「三尊五祖の石庭」
・山門
弘化四年(一八四七)に再建された鎌倉に現存する最大の山門です。
建築は和様と唐様の折衷様式で、江戸時代後期の重厚な風格を備えています。
「天照山」の扁額は永享八年(一四三六)の裏書のある後花園天皇の御宸筆です。
楼上には次の諸尊が安置されています。
釈迦三尊
四天王像
十六羅漢像
(いずれも江戸時代後期作のすぐれたお像です。)
・大殿
本尊阿弥陀如来、観音・勢至両菩薩を安置する当山の中心の御堂です。
元禄十一年(一六九八)、当山第五十一世洞譽上人の代に建立されたものです。
十四間四方の大建築で現存する木造の古建築では鎌倉一の大堂です。
建物は数度の改修で一部建立当初の形を変えていますが、内部の円柱、格天井、欄間の彫刻など建立当初の荘厳さを今に伝えています。
大殿の左側には小堀遠州の流れをくむ蓮池として有名な記主庭園、右側は三尊五祖の石庭が配してあります。
大殿内の主な尊像
本尊阿弥陀三尊像 善導大師像 宗祖法然上人像
如意輪観音像 和賀江島弁財天僧
・開山堂
当寺開山良忠上人(記主禅師)の尊像および歴代の法主(住職)を祀る御堂です。
開山の良忠上人は、浄土宗の第三祖(宗祖法然上人から三代目)として関東にお念仏の教えを弘められました。
上人は島根県那賀郡に生まれ各地で修業と修学を積み正嘉二年(一二五八)の頃鎌倉に入り、幕府第四代執権北条経時公の帰依を受けて、この寺を開かれました。学徳を備えた高僧で、すぐれた僧侶を育てました。
また多くの書物を著し、今日の浄土宗の基盤を為るという大きな働きをされ、この功績を称えて、没後、伏見天皇から記主禅師の謚号を贈られました。
毎年七月六日のご命日には開山忌法要を勤めています。
・善導大師像
中国唐時代に活躍された浄土教の高僧で、宗祖法然上人はこの善導大師の教えに導かれて浄土宗を開かれました。
浄土宗では大師を高祖と崇拝しています。
当寺の御開山良忠上人も厚く大師を敬い鎌倉時代から深く心の結びつきを持たれていました。
良忠上人はこの地に光明寺を開かれて善導像を作り、大師を顕彰されました。
この銅像は寛文(一六六三年)当時第四十一代玄譽知鑑上人の建立です。
・繁栄稲荷大明神
当寺開山良忠上人は、この地に当寺を開くまでしばらく佐介ヶ谷に住まわれていました。
この時上人は子狐を助けたことがありました。すると夢に親狐が現れ、お礼とともに薬種袋を残していったということです。
鎌倉に悪病が流行した折、上人はこの時の夢のお告げに従って、薬種を蒔くと、三日の内に成長し、この薬草を服すると薬効顕れ、病魔はたちまちに退散したということです。
のちに稲荷大明神として当寺に勧請し病魔退散、豊漁満般、家業繁栄を祈念しています。
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
浄土宗大本山 もと関東総本山と称し、良忠門下六派の総本山、十八檀林の第一位であった。
開山 然阿良忠
中興開山 八世観誉祐崇、三十一世深誉伝察
開基は北条経時と伝える。
本尊 阿弥陀三尊
従来光明寺について多くのものは『鎌倉佐介浄刹光明寺開山御伝』により、然阿良忠が仁治元年(1241年)二月、鎌倉に入り、住吉谷悟真寺に住して浄土宗を弘めていた、時の執権経時は良忠を尊崇し、佐介谷に蓮華寺を建立して開山とし、ついで光明寺とその名を改め、前の名蓮華の二字を残して方丈を蓮華院となづけた。寛元元年(1243年)五月三日、吉日を卜して良忠を導師として供養した。といい、『風土記稿』所引の寺伝では、この時に、現在地材木座に移転したようにいっている。
しかし、経時(1246年没)の法名は蓮花寺殿安楽大禅定門とあるから、光明寺と改名するのは、どうも後世のように思われる。
『良暁述聞制文』には、「佐介谷悟真寺今号蓮華寺」とあり、正中二年(1325年)三月十五日にはまだ光明寺という名がでてこない。(中略)
『開山御伝』に建長頃(1249-1256年)、北条時頼が寺領を加へ、外門の額字を、佐介浄刹としたという話も、佐介谷にあればこそのことではないかと思う。(中略)
現在のところ(材木座)に移転した期日及び名を光明寺と改めた時期はなお研究を要する問題である。
原典:河井恒久 等著 ほか『新編鎌倉志,鎌倉攬勝考』,大日本地誌大系刊行会,大正4.国立国会図書館DC(保護期間満了)
原典:雄山閣編輯局 編『大日本地誌大系』第40巻/ 第40巻 新編相模国風土記稿. 第1至5,雄山閣,昭7-8.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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光明寺は材木座海岸にほとんど面してあります。
車の場合、海沿いの国道134号からは直接アプローチできず、小坪海岸トンネルか小町大路経由となるので要注意です。
材木座海岸には鎌倉時代に北条泰時公(1183-1242年)の命で築かれた「和賀江嶋」(わかえのしま)の遺蹟があります。
和賀江嶋は遠浅の相模湾で港の機能を強化するために築かれたもので、鎌倉時代から江戸時代まで使われたといいます。
南宋などから船が来港していた可能性もあり、光明寺は鎌倉の海の玄関口に位置していたことになります。
海岸から100mも離れず参道が始まります。
関東でも海に近い神社はけっこうありますが、海に至近の名刹はめずらしく、当山と安房鴨川の誕生寺くらいしか思いつきません。
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 総本山の石標
入口に「関東総本山」の立派な石標。参道の幅員も広くさすがに名刹の風格。
正面が総門、右手が支院の蓮乗院、左手も旧僧坊の千手院です。
イメージ的には材木座海岸が南ですが、じつはほぼ西向きで、夕刻まで日が差す明るい山内。
関東では稀少な「ウェスト・コーストのお寺」です。
【写真 上(左)】 総門(開門時)
【写真 下(右)】 総門(閉門時)
【写真 上(左)】 総門前寺号標
【写真 下(右)】 総門の寺号板
【写真 上(左)】 総門の扁額と彫刻
【写真 下(右)】 総門門扉の紋
総門は鎌倉市指定文化財。
切妻屋根本瓦葺の四脚門で、柱に「大本山光明寺」、見上げに精緻な彫刻を置き中央に扁額を掲げています。
建立は明応四年(1495年)で寛永年間(1624-1628年)に再興。
以前はもっと大きな門だったといいますが、上部には桃山時代の様式をいまも残すとされます。
門扉は格子、桟と菱格子を併用した意匠性の高いもので、五七桐紋と菊花紋を組み合わせた紋を置いています。
この格調高い御紋は、後土御門帝勅願所の格式をいまに伝えるものでは。
総門前には「浄土宗第三祖 記主禅師遺蹟 大本山光明寺」の石標。
総門をくぐると広大な駐車場。この広さは鎌倉屈指です。
【写真 上(左)】 六字御名号
【写真 下(右)】 山内案内図
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 斜めからの山門
その先に弘化四年(1847年)再建の山門(県重要文化財)が聳え建ちます。
間口約16m、奥行約7m、高さ約20mで、鎌倉に現存する最大の山門です。
桟瓦葺、間数のある堂々たる二重門で、上下層軒下の複雑な斗栱組手が圧巻です。
【写真 上(左)】 山門の斗栱と扁額
【写真 下(右)】 山門扁額
和様唐様折衷様式で、江戸時代後期の重厚な風格を備えるとされます。
折衷様式の代表例は、一層軒の平行繁垂木(和様)、二層軒の扇垂木(唐様/禅宗様)にも見られるといいます。
二層中央の「天照山」の扁額は、永享八年(1436年)の裏書のある後花園天皇の御宸筆です。
楼上には釈迦三尊像、四天王像、十六羅漢像(いずれも江戸時代後期作)が安置されています。
【写真 上(左)】 山門から山内
【写真 下(右)】 参道から本堂
山門をくぐると参道正面が大殿(本堂)。
右手手前から合祀墓、鐘楼堂、繁栄稲荷大明神、延命地蔵尊、本堂右手奥に三尊五祖之石庭。
当山大旦那・内藤家墓所は右手墓域内にあり、宝筐印塔を中心に100以上の石塔を連ねています。
左手は手前から庫裏・本坊、書院、開山堂、本堂左手奥に記主庭園、大聖閣という構成です。
順にみていきます。
【鐘楼堂】
総欅瓦葺きの鐘楼堂は弘化四年(1847年)建立。
現梵鐘は昭和36年、法然上人七百五十年遠忌に鋳造された重量三百貫の巨鐘です。
【写真 上(左)】 鐘楼堂-1
【写真 下(右)】 鐘楼堂-2
【繁栄稲荷大明神】
良忠上人は佐介ヶ谷で子狐を助けたことがありました。すると夢に親狐があらわれ、お礼とともに薬種袋を残していきました。
鎌倉で悪病が流行した折、上人はこの薬種を蒔くと三日の内に成長し、この薬草を服したものは薬効顕れ、病魔はたちまち退散したといいます。
のちに繁栄稲荷大明神として当山に勧請され、病魔退散、豊漁満般、家業繁栄に霊験あらたかといいます。
【写真 上(左)】 繁栄稲荷大明神
【写真 下(右)】 山内の石碑群
【延命地蔵尊】
稲荷大明神の本堂寄りに地蔵堂があります。
『鎌倉札所めぐり』(メイツ出版)等によると、こちらには正中二年(1325年)作銘のある石佛坐像・綱引延命地蔵尊が安置されています。
かつて以前光明寺裏山の小坪切通しの鎌倉側の入口のやぐらにあった御像を遷したものです。
こちらは鎌倉二十四地蔵霊場第22番札所(綱引延命地蔵尊)となっています。
【写真 上(左)】 地蔵堂
【写真 下(右)】 綱引延命地蔵尊
【三尊五祖之石庭】(本堂改修中は拝観不可)
本堂右手奥側にあります。
「三尊」とは、阿弥陀仏とその脇士観音・勢至の二菩薩。
「五祖」とは浄土教を説法流布された釈尊、善導大師、法然上人(浄土宗開祖)、鎮西上人(浄土第宗二祖・聖光)、記主禅師(良忠上人)の五大祖師を示します。
この三尊五祖が庭園中の石により表現され、庭園構図は此岸と彼岸をあらわしています。
【写真 上(左)】 三尊五祖之石庭
【写真 下(右)】 同 説明板
【庫裏・本坊】
前面の附属棟が授与所となっています。
【開山堂】
開山良忠上人(記主禅師)の尊像、および歴代法主(住職)を祀る御堂です。
令和2年春からの「大殿・令和の大改修」にともない、現在・大殿(本堂)にお祀りする阿弥陀如来および諸尊像は開山堂に遷られ、仮本堂となっています。
かつては現・本堂(大殿)を祖師堂と称していました。
関東大震災で倒潰した旧・阿弥陀堂の御本尊を旧・開山堂へ遷座して本堂とし、開山堂は大正13年新たに建てられ、平成14年老朽化のため再建されました。
入母屋造銅板葺流れ向拝の平入りですが、向拝上部に大がかりな千鳥破風を起こしているので、一見妻入りに見えます。
三間の向拝で、水引虹梁両端に獅子漠の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に三連の蟇股を置いています。
向拝見上げに「開山堂」、堂内に「勅諡記主禅師」の二重扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 開山堂
【写真 下(右)】 開山堂扁額-1
【写真 上(左)】 開山堂扁額-2
【写真 下(右)】 開山堂堂内
本堂と開山堂のあいだには回廊が渡され、背後の庭園とあいまって見どころとなっています。
回廊前には善導大師像が安置されています。
【写真 上(左)】 庭園方向
【写真 下(右)】 善導大師像
【本堂(大殿)】
元禄十一年(1698年)建立の十四間四面の大堂で、現存する木造の古建築では鎌倉一の規模とされ「百本柱のお堂」として知られています。国指定の重要文化財です。
かつては開山良忠上人像を安置して「祖師堂」と称していましたが、祖師堂を中心伽藍に置く様式は、知恩院をはじめとする京都の浄土宗本山の通例とされます。
【写真 上(左)】 本堂(改修前)
【写真 下(右)】 本堂(改修中)
入母屋造銅本棒葺流れ向拝で軒唐破風。大棟には菊花紋と五七桐紋を交互に置いています。
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝
【写真 上(左)】 向拝(閉扉時)
【写真 下(右)】 向拝(開扉時)
向拝は三間で水引虹梁両端に木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に蟇股を置いています。
向拝柱には「専修念佛根本道場」、見上げに寺号扁額、堂内にも扁額を置く二重扁額です。
【写真 上(左)】 「専修念佛根本道場」
【写真 下(右)】 向拝扁額
【写真 上(左)】 二重扁額
【写真 下(右)】 本堂内-1
【写真 上(左)】 本堂内-2
【写真 下(右)】 御本尊
浄土宗では本堂を開放する寺院が多いですが、こちらも通常開扉され堂内拝観できます。
華やかな欄間彫刻、精緻な天井絵、金色に輝く天蓋や瓔珞など、さすがに名刹にふさわしい空間です。
中央の御本尊阿弥陀三尊像は、伝・鎌倉中期作といいます。
右檀には善導大師等身大立像と弁財天像が安置されています。
善導大師立像は、かつて二尊堂にあって良忠上人が聖光上人より拝受の像といい、由比ヶ浜漂着の縁起が伝わります。
弁財天像は、江ノ島辯才天ゆかりの縁起が伝わります。
左檀上には、如意輪観世音菩薩像(鎌倉三十三観音霊場第18番・七観音霊場札所本尊)と宗祖法然上人像が安置されています。
【写真 上(左)】 如意輪観世音菩薩像
【写真 下(右)】 観音霊場札所板
【写真 上(左)】 法然上人像
【写真 下(右)】 天井絵
令和2年春から10 年計画で保存修理工事が始まり、御本尊阿弥陀如来および諸尊像は開山堂に遷られています。
■ 大殿 令和の大改修【令和5年度ダイジェスト】―重要文化財光明寺本堂修理工事―
【記主庭園・大聖閣】
背後に小山をおく風雅な浄土宗庭園で、小堀遠州作と伝わります。
蓮池の蓮は夏に色とりどりに開花します。
大聖閣は宗祖法然上人800年大御忌を期して建立。二層には阿弥陀三尊が安置されています。
【写真 上(左)】 記主庭園
【写真 下(右)】 大聖閣
本堂背後の天照山は、良忠上人が天照大神の尊像を感得せられたことからの命名といいます。
中腹に良忠上人をはじめ歴代の墓所と開基である北条経時公(法名:蓮華寺殿安楽大禅定門)の墓所があります。
鎮守社・神明社、秋葉大権現も天照山に祀られています。
【神明社】
天照・春日・八幡の三神を合祀しています。
『新編相模国風土記稿』には、「神明宮 八幡春日を合祀す、域内鎮護の祠なり」とあります。
【秋葉社】
『新編相模国風土記稿』には、「秋葉社、九頭權現社、蔵王窟 後阜にあり」とあります。
寺伝には、当山三十三世深譽伝察上人が身を天狗に現じて当山を守護されたとあります。
御朱印は山内左手の庫裏・本坊附属棟にて拝受しました。
複数の御朱印を授与されていますが、↓ の注意書きがあります。
【写真 上(左)】 注意書き
【写真 下(右)】 御朱印見本(金額は変更の可能性あり。)
〔 光明寺の御朱印 〕
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 御名号の御朱印
【写真 上(左)】 開山 記主禅師の御朱印
【写真 下(右)】 東国花の寺霊場の御朱印
【写真 上(左)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉二十四地蔵霊場の御朱印
七観音霊場の御朱印
→ ■ 鎌倉市の御朱印-12 (B.名越口-6)へつづく。
【 BGM 】
■ David Benoit - The Key To You
■ King of Hearts - Don't Call My Name
■ Bryan Ferry & Roxy Music - Avalon
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)から。
ここから材木座エリアに入ります。
36.天照山 蓮華院 光明寺(こうみょうじ)
公式Web
「新纂 浄土宗大辞典/光明寺」
鎌倉市材木座6-17-19
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
司元別当:
札所:関東十八檀林10、鎌倉六阿弥陀霊場第3番、鎌倉三十三観音霊場第18番、鎌倉二十四地蔵霊場第22番、三浦半島四十八阿弥陀霊場第48番、東国花の寺百ヶ寺霊場鎌倉第2番、七観音霊場第3番、小田急沿線花の寺四季めぐり第25番
光明寺は材木座にある浄土宗の大本山です。
公式Web、「新纂 浄土宗大辞典/光明寺」、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。
光明寺の創立は寛元元年(1243年)、開山は浄土宗三祖然阿良忠上人(1199-1287年・記主禅師)といいます。
良忠上人は正治元年(1199年)石見国三隅庄に生まれ、38歳で聖光上人のお弟子となり、学究ののち法然上人の教えを受け継がれて浄土宗の三祖になられました。
浄土宗の宗祖は法然上人で、二祖は久留米善導寺を開かれた聖光上人(弁長)です。
法然上人の寂後、浄土教学は大きく以下の4流(浄土四流)に分かれました。
・三鈷寺証空の西山義(西山派)
・善導寺弁長の鎮西義(鎮西派)
・長楽寺隆寛の長楽寺義
・九品寺長西の九品寺義
うち、浄土宗主流は弁長(聖光上人)の鎮西義(鎮西派)となり、良忠上人はこの鎮西義(鎮西派)を継がれました。
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建暦元年(1211年)良忠上人は13歳のとき、出雲国の天台宗寺門派鰐淵寺の月珠房信暹門弟となり、16歳で出家受戒。
鰐淵寺では天台寺門派、同山門派等の天台密教を相承したといいます。
嘉禎二年(1236年)九州に下向、筑後国上妻の天福寺で浄土宗二祖の聖光上人に面謁、数々の教えを相伝。宗論を撰述し、聖光上人の印可を受けました。
暦仁元年(1238年)から約10年間石見国~安芸国を教化。
高野山明王院学頭の源朝阿闍梨が安芸国に左遷された折、良忠上人は源朝阿闍梨に師事して真言密教を学んだともいいます。
建長元年(1249年)頃、信濃善光寺を経て下総に向われ千葉氏一族の外護を受け、常陸、上総、下総三国の教化活動と浄土宗典の講述をなされました。
正元元年(1259年)頃鎌倉に移住。
ただし、仁治元年(1240年)鎌倉入り説もあります。
浄土宗の立教開宗の書ともされる『選択本願念仏集』(選択集/せんちゃくしゅう)、浄土三部経(『無量寿経』『観無量寿経(観経)』『阿弥陀経』)、『観経疏』(『観経』の注釈書)などの講述を究められたといいます。
東密(真言密教)、台密(天台密教)と幅広く学ばれた良忠上人は、浄土宗論の撰述・講述でも卓越した才をあらわされたのではないでしょうか。
鎌倉では幕府の評定衆・大仏(北条)朝直の帰依を得て佐介ヶ谷に悟真寺を創建。
朝直は北条時政の子息・北条時房(鎌倉幕府初代連署)の子につき相応の権力を有していたとみられ、バックアップは安定していたのでは。
良忠上人は朝直の子時遠からも帰依を受け、専修念仏の指導的な立場を担われたといいます。
なお、寺伝では当山開基は鎌倉幕府第四代執権・北条経時公とされています。
悟真寺については後述しますが、悟真寺(蓮華寺)を光明寺の前身寺院とすることについては年代的な不整合もみられ、異説もあるようです。
文永八年(1271年)、良忠上人は極楽寺の良観・理智光寺の道教・浄光明寺の行敏らとともに日蓮宗に対抗するとともに、比叡山修学中の良暁を鎌倉に呼び寄せ浄土の奥義を授けたといいます。
当時の鎌倉では法然門流のうち、長楽寺義の南無房智慶・願行円満、西山義西谷流の観智・行観、諸行本願義の念空道教・性仙道空らがそれぞれの浄土教を布教・展開していました。
したがって良忠上人は、独自の教学を強く打ち出す必要がありました。
建治二年(1276年)良忠上人は上洛され、宗祖法然上人の遺弟を尋ねて法然上人の遺文の収集に努めたといいます。
また、良忠上人の教学は、浄土教学(法然門流)の長楽寺義・九品寺義・西山義(東山義・深草義)との討論(教学論争)によって研ぎ澄まされたとみられています。
そして各種の教学講述や法然上人の遺文類をもとに、『決疑鈔』(五巻本)を完成されました。
良忠上人は弘安九年(1286年)の秋、鎌倉に再度下向されました。
その直後、弟子の良暁に授与された付法状で、法然—聖光—良忠の「三代相伝」をいい、「三代之義勢」を表明されたといいます。
弘安十年(1287年)89歳をもって入寂。
生前の功績が認められ、伏見天皇より「記主禅師」の謚号を賜りました。
良忠上人の寂後、その門流は以下の6派に分かれました。
・白旗派(良暁)
・藤田派(性心)
・名越派(尊観)
・三条派(道光)
・一条派(然空)
・木幡派(慈心)
うち白旗派が浄土宗(鎮西義)の主流となり、現在に至っています。
光明寺は白旗派を代表する名刹です。
名越派は尊観が鎌倉名越谷善導寺で布教したため善導寺義ともいい、善導寺は大町の安養院(浄土宗)の前身のため、大町~材木座にかけては良忠上人の影響がとりわけ強いエリアです。
※ 善導寺および名越谷善導寺については、■ 鎌倉市の御朱印-7 (B.名越口-2)の24.安養院を参照願います。
【 悟真寺・蓮華寺 】(ごしんじ・れんげじ)
正嘉元年(1257年)頃(仁治元年(1240年)説あり)、下総から鎌倉入りした良忠上人は、はじめ慈恩坊を頼って大仏勧進聖の浄光を尋ね、浄光は大仏谷に一宇を建てて良忠上人はここに住されたと伝えます。
間もなく大仏(北条)朝直の支援を得て、佐介ヶ谷に悟真寺を創建といいます。
寺号については、浄土第三祖・善導大師入山の終南山悟真寺由来との説があります。
のちに蓮華寺と改名され、材木座へ移転して浄土宗大本山光明寺となったため、光明寺の前身寺院とされます。
悟真寺から蓮華寺への改号の理由ははっきりせず、蓮華寺から光明寺への改号は北条経時の霊夢によるという伝承もありますが、こちらもはっきりしません。
また、佐介谷から材木座への移転の理由も時期も、多くの史料類は明示していません。
悟真寺については後述しますが、悟真寺・蓮華寺を光明寺の前身寺院とすることについては史料により年代的な不整合もみられ、異説もあるようです。
今回、史料・資料類を当たってみると2つの時系列説があることがわかります。
ひとつは『新纂 浄土宗大辞典』系のもの、もうひとつは『新編鎌倉志』系のものです。
【A.『新纂 浄土宗大辞典』系説】
正元元年(1259年)頃
良忠上人 下総から鎌倉に移住
佐介ヶ谷に建立された悟真寺に入る
建治二年(1276年)
良忠上人 鎌倉から上洛
弘安九年(1286年)
良忠上人 京から鎌倉へ下向
弘安十年(1287年)
良忠上人 鎌倉にて八九歳で入寂
後継者の良暁上人は悟真寺を中心に教線の拡張を計る
正中二年(1325年)頃
良暁上人は悟真寺から蓮華寺と寺名を改めた
九世祐崇上人(1426-1509)のとき
佐介ヶ谷の蓮華寺を材木座の現在地に移し、光明寺と改称したともいわれる
明応四年(1495年)
祐崇上人は後土御門天皇の勅命により浄土教を講説
光明寺は勅願寺と関東総本山となる
【B.『新編鎌倉志』系説】
仁治元年(1240年)
良忠上人鎌倉に入られる
寛元元年(1243年)
北条経時、佐介谷に悟真寺を良忠上人を開山として開基
寛元三年(1247年)以前
良忠上人、材木座の蓮乗院に入られ光明寺建立の準備をされる
寛元三年(1247年)
悟真寺(蓮華寺)が材木座に移り光明寺と改号
弘安十年(1287年)
良忠上人 鎌倉にて八九歳で入寂
※ただし、蓮華寺跡(佐介谷)の項に「光明寺、本此地にあって、蓮華寺と号す。後に光明寺と改む。『鎌倉大日記』に、建長三年(1251年)、経時が為に、佐介に於て蓮華寺建立、住持良忠とあり。良忠此谷に居住ありしゆへに、佐介の上人と云ふなり。」との記事があり、上記と整合しません。
A.『新纂 浄土宗大辞典』系説では、弘安十年(1287年)良忠上人が八九歳で入寂されたときには佐介谷悟真寺が存在し、光明寺(1426年以降の移転・改称)はまだありません。
B.『新編鎌倉志』系説では、良忠上人が材木座の蓮乗院に入ってみずから光明寺建立の準備をされ、寛元三年(1247年)悟真寺(蓮華寺)が材木座に移り光明寺に改号という流れです。
以上、A説とB説では年代的に隔たりがあるので、この二説が混在すると時系列が不整合となります。
光明寺の前身寺院の沿革に諸説あるのは、このような背景があるためと思われます。
なお、光明寺公式Webや現地案内板では光明寺の創立を寛元元年(1243年)としているので、B.『新編鎌倉志』系説が定説として流布している模様です。
関連して、『新編鎌倉志』『新編相模国風土記稿』の「光明寺・善導堂」の項には気になる記述があります。
善導堂はもと光明寺の海側の総門内松葉林中にあったといいます。
御本尊の善導大師(613-681年)は、唐時代の中国の僧で「浄土五祖」の第三祖とされ、その教えは法然上人・親鸞上人に大きな影響を与えました。
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【善導堂縁起】
善導大師の霊像が唐船で筑紫に渡来したとき、鎮西善導寺の開山・聖光上人の夢に善導大師があらわれて「われ筥崎にあり、来り迎へよ」とお告げがありました。
聖光上人が筥崎に来てみると果して善導大師の霊像がみつかり、一宇を建立して霊像を安置し、その後善導寺に遷しました。
聖光上人はこの霊像を良忠上人に託しましたが、良忠上人が関東巡錫に出立される際、この霊像に向かい「わたしはこれから関東教化のため出立します。どうぞ願わくば教化有縁の地を示し給え」と念じて、尊像を筑紫の海中に投じたといいます。
良忠上人は鎌倉の佐介谷に住しましたが、あるとき由比の浜辺に光明が満ちて、かの霊像が忽然とお姿をあらわしました。
良忠上人は霊像漂着の地が浄土教学有縁の地と確信され、一宇を建立して霊像を安じました。
これが光明寺といいます。
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上の善導堂縁起によると、良忠上人は佐介谷の悟真寺(ないし蓮華寺)に住されていましたが、善導大師の霊像の霊験を目の当たりにして材木座の海岸に一宇を建立、これが光明寺(の前身)ということになります。
つまり、佐介谷に悟真寺(蓮華寺)が存在した時点で、すでに材木座の海岸にも一宇(善導堂)があったという見方です。
佐介谷の悟真寺(蓮華寺)が材木座に移り光明寺と改めたのは良忠上人寂後としても、上人が材木座に建立された善導堂の地に移ったという流れなのかもしれません。
寺号については史料に「光明赫奕して霊像が忽然と由比濱に着岸」とあるので、あるいはこの縁起から由来という想像も浮かびます。
なお、悟真寺→蓮華寺→光明寺の改号については、以前別記事(■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-8/蓮花寺)にてとり上げています。興味のある方はご参照くださいませ。
光明寺は、その後も第五代執権・北条時頼公をはじめ歴代執権の帰依を受けました。
関東における念仏道場の中心となり、七堂伽藍を整え、後土御門天皇より「関東総本山」の称号を賜り勅願寺とされ、「関東総本山」ともされました。
後土御門天皇の帰依を受け、紫衣を許された八世観誉祐崇上人は中興開山とされています。
上記のA説によれば佐介谷の蓮華寺を現在地(材木座)に移し、光明寺と改めたのは祐崇上人ですから、この業績も認められてのことかもしれません。
徳川家康公は当山を「関東十八檀林」の筆頭に位置づけ、念仏信仰、仏教研鑽の根本道場の地位を固めました。(※檀林とは徳川幕府が定めた学問所です。)
同じ大本山の芝・増上寺は徳川家菩提寺で、当山とは役割を分けていたようです。
浄土宗公式Webによると、現在の主要寺院の格式は以下のとおりです。
総本山
・知恩院(京都市東山区)
大本山(7寺院)
・増上寺(港区芝公園)
・金戒光明寺(京都市左京区)
・百萬遍知恩寺(京都市左京区)
・清浄華院(京都市上京区)
・善導寺(福岡県久留米市)
・光明寺(神奈川県鎌倉市)
・善光寺大本願(長野県長野市)
光明寺は関東にふたつしかない浄土宗大本山で、たいへん高い寺格をもちます。
筆者は光明寺の御朱印帳をもって関東の浄土宗寺院を回ったことがあるのですが、いくつかの寺院で「光明寺様の御朱印帳に書き入れるのは畏れ多い。」とのご住職のお言葉をいただきました。
それだけ高い格式・権威をもたれているということかと。
当山は譜代大名・内藤家の菩提所です。
内藤氏はふるくから松平氏(徳川氏)に仕えた譜代の家臣の家柄で、上総佐貫藩主を経て陸奥磐城平藩主から日向延岡藩7万石の藩主に転じました。
磐城平藩第3代藩主・内藤義概(1619-1685年)の代まで、内藤家菩提寺は江戸霊厳寺でしたが、義概は位牌堂と石塔を光明寺に移し、寺領百五十石を寄進して光明寺の大旦那となりました。
別に新庄家などの墓所もあり、こうした武家の旦那衆が江戸期の当山の経営を支えたともみられています。
当山は「お十夜」発祥の寺でもあります。
お十夜法要は、第九世観譽祐崇上人の代(明応四年(1495年))に始まりました。
後土御門天皇の勅許を受け、引声阿弥陀経と引声念仏による十夜法要を勤めるようになり、いまも毎年十月の四日間盛大に法要が勤められています。
関東大震災で大きな被害を被りましたが復興し、いまも浄土宗大本山、鎌倉を代表する名刹としての存在感を放っています。
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【史料・資料】
■ 『新編鎌倉志 鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
光明寺
光明寺は、本は佐介谷に在しを、後に此地に移す。当寺開山の伝に、寛元元年(1243年)五月三日、前武州太守平経時、佐介谷に於て浄刹を建立し、蓮華寺と号し、良忠を導師として、供養をのべらる。後に経時、霊夢有て光明寺と改む。方丈を蓮華院と名くとあり。(中略)
開山は記主禅師、諱は良忠、然阿と号す。石州三隅荘人なり。父は宰相藤原頼定、母は伴氏、正治元年(1199年)七月二十七日に生る。弘安十年(1287年)七月六日に示寂。年八十九。聖光上人の弟子なり。聖光は法然上人の弟子なり。
良忠弟子六人有て、今に六派相分る。
所謂六派は、京都の三箇は、一條ノ禮阿、三條ノ道光、小幡ノ慈心なり。
関東の三箇は、白旗ノ寂慧(光明寺二世)、名越尊観(大澤流義の祖)、藤田ノ持阿(藤田流義の祖)、是を六派と云ふ。
当寺は六派の本寺なり。六派の内、白旗・大澤の両派のみ今尚盛なり。四派は断絶す。
十七箇寺の檀林は白旗なり。(中略)
外門 昔佐介谷に有し時、平経時の弟時頼外門に額を掛て、佐介浄刹と号すと。今は額なし。
山門 額、天照山とあり。後花園帝の宸筆なり。
開山堂 開山木像を安ず。自作なり。勅諡記主禅師とある額を此堂に掛しとなり。
客殿 三尊を安ず。阿彌陀の像は運慶作。観音勢至像、作者不知。
方丈 蓮華院と号す。阿彌陀の像を安ず、此像も運慶が作にて肚裏に運慶が骨を収むと云ふ。
祈祷堂 今は念佛堂と云ふ。本尊は阿彌陀、慧心の作と云ふ。左方に辯才天の像あり。昔江島辯才天の像、或時暴風吹来て、此寺前海濱に寄泊る。里民相議して彼島帰す。其後又来る。如此する事三度なり。因て寺僧御●を取に、永く此寺に止まるべき由なり。故に爰に安ずと云。右の方に善導像あり。自作と云。
寺寶
勅額 二枚
一枚は、後宇多帝の宸筆、勅諡記主禅師とあり。
一枚は、後土御門帝の宸筆、祈禱の二字なり。
善導塚 ※由緒は『新編相模国風土記稿』にほぼ同じにつき略。
蓮華寺跡(佐介谷)(同上資料)
今俗に光明寺畠と云ふ。光明寺、本此地にあって、蓮華寺と号す。後に光明寺と改む。
『鎌倉大日記』に、建長三年(1251年)、経時が為に、佐介に於て蓮華寺建立、住持良忠とあり。良忠此谷に居住ありしゆへに、佐介の上人と云ふなり。光明寺の條下及ひ『記主上人傳』に詳也。
■ 『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(材木座村)光明寺
天照山蓮華院と号す、浄土宗、関東総本山と称し十八檀林の第一位にして六派の本寺なり、仁治元年(1240年)北條武蔵守経時佐介谷に於て浄刹を創立し蓮華寺と名つく時に僧良忠悟眞寺に在り経時延て開山初祖とし、武州足立郡箕田の地を寄附して寺領とす
寛元元年(1243年)今の地に移転して堂宇を修復す斯て経時夢兆に感じて光明寺と改む(中略)寶治二年(1248年)良忠洛の尼院にあり、後嵯峨上皇の戒師となり、香衣幷に上人号を賜ふ
建長元年(1249年)鎌倉に帰る、時頼由良の地を割て寄附せり、良忠弘安十年(1287年)七月六日寂す 永仁元年(1293年)勅謚ありて記主禅師と号す
建武二年九月當寺造營の爲修理田一町を寄附あり(注釈)
貞治二年二月足利基氏上總國湯井號觀應三年の例に任せ、寄附ある旨證状を授與す(注釈)
其後祐崇永正六年(1509年)寂す、当寺の住職たり、是を中興の祖とす
本堂 開山の像を置く
客殿 三尊の彌陀を安ず 中尊は運慶作余は作人知れず
方丈 彌陀を安ず 運慶作にて肚裏に運慶が骨を収むと云ふ
【寺寶】(中略)
紫石硯一面 唐玄宗の松蔭の硯と称す、相伝て平重衡受戒の時、法然に与ふ、法然是を聖光に譲り、聖光又記主に譲ると云へど、背に永享(1429年)の年号あり、是法然記主の時代にあらず、是非詳ならず
二尊堂 善導大師 自作、衣に金泥にて、彌陀經を書たり
辨財天 江島奥院の分身と云ふ、昔江島辨財天の像、或時暴風吹来て、此の如する事三度なり、因て寺僧御●を取に、当寺に止まるべき由なり、故に爰に安ずといへり、及び聖徳太子の像を置く
善導堂 総門内松葉林中にあり、金銅の像を安ず【鎌倉志】には是を善導塚と挙げ、古伝を引て昔善導の像僧と化し唐船に乗て筑紫に渡来す、時に鎮西善導寺の開山聖光夢に善導来朝して筥崎にあり、来り迎へよと告ると見しかば頓て彼地に至る果して像あり、其地に一宇を建立す、其落善導寺に移す、後良忠鎮西にて(聖?)光より其像を附屬せらる(良?)忠霊像に向て吾是より関東の諸國に化を施さんと思ふ、其間何國にても有縁の地に蹟を留め給へと云て海中に投ず、其後(良?)忠鎌倉に至り佐介谷に居す、由比の澳に光明赫奕たり、漁父奇とする処霊像忽然として由比濱に着岸す、(良?)忠因て一宇を建立して彼像を安ず、光明寺是なり、漂泊の地を善導塚と名づくと載せたれど此霊像の為に(良?)忠当寺を創建せしと云ふは寺伝と齟齬せり、さて舶来せしは今二尊堂に安ずる像にて是なるは其模像なりとぞ
神明宮 八幡春日を合祀す、域内鎮護の祠なり
秋葉社、九頭權現社、蔵王窟 後阜にあり、開山塔。山上にあり
内藤家祠堂。阿彌陀 定朝作 如意輪等の像を安じ、内藤備後守、同氏播磨守先世代々の霊牌を置く
鐘樓 正保四年鑄造の鐘を掛く 按ずるに当寺に、竹園山法泉寺の鐘ありしが、今は失へりと云ふ
記主水 寺の山麓にあり 開山の加持水なりと云ふ
総門 昔佐介谷に在し時は、経時の弟時頼、浄刹の額を掲げしと云ふ 今其額を伝へず
山門 天照山の額を扁す 後花園帝の宸筆なり
■ 山内掲示
・光明寺(鎌倉市)
宗派 浄土宗
山号寺号 天照山蓮華院光明寺
創建 寛元元年(1243)
開基 北条経時
材木座に所在する光明寺は、江戸時代には浄土宗関東十八檀林の第一位として格付けされた格式の高い寺院です。
開山は記主禅師然阿良忠、開基は鎌倉幕府の第四代執権北条経時で仁治元年(一二四0)鎌倉に入った良忠のために、経時が佐助ガ谷に寺を建てて蓮華寺と名づけ、それが寛元三年(一二四三)に現在地に移り光明寺と改められたと伝えます。
元禄十一年(一六九八)建立の本堂は、国指定重要文化財。また、弘化四年(一八四七)建立の山門は、県指定重要文化財。ことに本堂は、鎌倉で現存する近世仏堂のうちでも最大規模を誇ります。当寺は今なお、建長寺、円覚寺と並ぶ壮大な伽藍を構成しています。
十月十二日から十五日の間に行われる「十夜法要」の行事は今でも、夜市が立ち大勢の人で賑わいます。
・御案内
この寺は天照山蓮華院光明寺と称し、浄土宗の大本山で「お十夜さんの寺」として、多くの方々に親しまれております。
その十夜法要は明応四年(一四九五年)当山第九代観誉祐崇上人が後土御門天皇の勅許によりつとめられたのを始めといたします。
創立 鎌倉時代・寛元元年(一二四三年)
開基 鎌倉幕府 執権第四代 北条経時公
法号は蓮華寺殿安樂大禅定門
開山 浄土宗第三祖然阿良忠記主禅師大和尚
御入滅 弘安十年(一二八七年)七月六日 八十九歳
御本尊 阿弥陀如来「伝 鎌倉中期作」(大殿中央)
札所 鎌倉三十三観音霊場第十八番如意輪観音(大殿右手)
鎌倉二十四地蔵霊場第二十二番延命地蔵(境内右手)
鎮守 天照皇大神(天照山中腹)
秋葉大権現(天照山山頂)
繁栄稲荷大明神(境内右手)
建物 総門 承応四年(一六五五年)
山門 弘化四年(一八四七年)
大殿 元禄十一年(一六九八年)
開山堂 元禄十一年(一六九八年)
大聖閣 平成二十一年再建
施設 小堀遠州作「記主庭園」
昭和の名庭「三尊五祖の石庭」
・山門
弘化四年(一八四七)に再建された鎌倉に現存する最大の山門です。
建築は和様と唐様の折衷様式で、江戸時代後期の重厚な風格を備えています。
「天照山」の扁額は永享八年(一四三六)の裏書のある後花園天皇の御宸筆です。
楼上には次の諸尊が安置されています。
釈迦三尊
四天王像
十六羅漢像
(いずれも江戸時代後期作のすぐれたお像です。)
・大殿
本尊阿弥陀如来、観音・勢至両菩薩を安置する当山の中心の御堂です。
元禄十一年(一六九八)、当山第五十一世洞譽上人の代に建立されたものです。
十四間四方の大建築で現存する木造の古建築では鎌倉一の大堂です。
建物は数度の改修で一部建立当初の形を変えていますが、内部の円柱、格天井、欄間の彫刻など建立当初の荘厳さを今に伝えています。
大殿の左側には小堀遠州の流れをくむ蓮池として有名な記主庭園、右側は三尊五祖の石庭が配してあります。
大殿内の主な尊像
本尊阿弥陀三尊像 善導大師像 宗祖法然上人像
如意輪観音像 和賀江島弁財天僧
・開山堂
当寺開山良忠上人(記主禅師)の尊像および歴代の法主(住職)を祀る御堂です。
開山の良忠上人は、浄土宗の第三祖(宗祖法然上人から三代目)として関東にお念仏の教えを弘められました。
上人は島根県那賀郡に生まれ各地で修業と修学を積み正嘉二年(一二五八)の頃鎌倉に入り、幕府第四代執権北条経時公の帰依を受けて、この寺を開かれました。学徳を備えた高僧で、すぐれた僧侶を育てました。
また多くの書物を著し、今日の浄土宗の基盤を為るという大きな働きをされ、この功績を称えて、没後、伏見天皇から記主禅師の謚号を贈られました。
毎年七月六日のご命日には開山忌法要を勤めています。
・善導大師像
中国唐時代に活躍された浄土教の高僧で、宗祖法然上人はこの善導大師の教えに導かれて浄土宗を開かれました。
浄土宗では大師を高祖と崇拝しています。
当寺の御開山良忠上人も厚く大師を敬い鎌倉時代から深く心の結びつきを持たれていました。
良忠上人はこの地に光明寺を開かれて善導像を作り、大師を顕彰されました。
この銅像は寛文(一六六三年)当時第四十一代玄譽知鑑上人の建立です。
・繁栄稲荷大明神
当寺開山良忠上人は、この地に当寺を開くまでしばらく佐介ヶ谷に住まわれていました。
この時上人は子狐を助けたことがありました。すると夢に親狐が現れ、お礼とともに薬種袋を残していったということです。
鎌倉に悪病が流行した折、上人はこの時の夢のお告げに従って、薬種を蒔くと、三日の内に成長し、この薬草を服すると薬効顕れ、病魔はたちまちに退散したということです。
のちに稲荷大明神として当寺に勧請し病魔退散、豊漁満般、家業繁栄を祈念しています。
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
浄土宗大本山 もと関東総本山と称し、良忠門下六派の総本山、十八檀林の第一位であった。
開山 然阿良忠
中興開山 八世観誉祐崇、三十一世深誉伝察
開基は北条経時と伝える。
本尊 阿弥陀三尊
従来光明寺について多くのものは『鎌倉佐介浄刹光明寺開山御伝』により、然阿良忠が仁治元年(1241年)二月、鎌倉に入り、住吉谷悟真寺に住して浄土宗を弘めていた、時の執権経時は良忠を尊崇し、佐介谷に蓮華寺を建立して開山とし、ついで光明寺とその名を改め、前の名蓮華の二字を残して方丈を蓮華院となづけた。寛元元年(1243年)五月三日、吉日を卜して良忠を導師として供養した。といい、『風土記稿』所引の寺伝では、この時に、現在地材木座に移転したようにいっている。
しかし、経時(1246年没)の法名は蓮花寺殿安楽大禅定門とあるから、光明寺と改名するのは、どうも後世のように思われる。
『良暁述聞制文』には、「佐介谷悟真寺今号蓮華寺」とあり、正中二年(1325年)三月十五日にはまだ光明寺という名がでてこない。(中略)
『開山御伝』に建長頃(1249-1256年)、北条時頼が寺領を加へ、外門の額字を、佐介浄刹としたという話も、佐介谷にあればこそのことではないかと思う。(中略)
現在のところ(材木座)に移転した期日及び名を光明寺と改めた時期はなお研究を要する問題である。
原典:河井恒久 等著 ほか『新編鎌倉志,鎌倉攬勝考』,大日本地誌大系刊行会,大正4.国立国会図書館DC(保護期間満了)
原典:雄山閣編輯局 編『大日本地誌大系』第40巻/ 第40巻 新編相模国風土記稿. 第1至5,雄山閣,昭7-8.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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光明寺は材木座海岸にほとんど面してあります。
車の場合、海沿いの国道134号からは直接アプローチできず、小坪海岸トンネルか小町大路経由となるので要注意です。
材木座海岸には鎌倉時代に北条泰時公(1183-1242年)の命で築かれた「和賀江嶋」(わかえのしま)の遺蹟があります。
和賀江嶋は遠浅の相模湾で港の機能を強化するために築かれたもので、鎌倉時代から江戸時代まで使われたといいます。
南宋などから船が来港していた可能性もあり、光明寺は鎌倉の海の玄関口に位置していたことになります。
海岸から100mも離れず参道が始まります。
関東でも海に近い神社はけっこうありますが、海に至近の名刹はめずらしく、当山と安房鴨川の誕生寺くらいしか思いつきません。
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 総本山の石標
入口に「関東総本山」の立派な石標。参道の幅員も広くさすがに名刹の風格。
正面が総門、右手が支院の蓮乗院、左手も旧僧坊の千手院です。
イメージ的には材木座海岸が南ですが、じつはほぼ西向きで、夕刻まで日が差す明るい山内。
関東では稀少な「ウェスト・コーストのお寺」です。
【写真 上(左)】 総門(開門時)
【写真 下(右)】 総門(閉門時)
【写真 上(左)】 総門前寺号標
【写真 下(右)】 総門の寺号板
【写真 上(左)】 総門の扁額と彫刻
【写真 下(右)】 総門門扉の紋
総門は鎌倉市指定文化財。
切妻屋根本瓦葺の四脚門で、柱に「大本山光明寺」、見上げに精緻な彫刻を置き中央に扁額を掲げています。
建立は明応四年(1495年)で寛永年間(1624-1628年)に再興。
以前はもっと大きな門だったといいますが、上部には桃山時代の様式をいまも残すとされます。
門扉は格子、桟と菱格子を併用した意匠性の高いもので、五七桐紋と菊花紋を組み合わせた紋を置いています。
この格調高い御紋は、後土御門帝勅願所の格式をいまに伝えるものでは。
総門前には「浄土宗第三祖 記主禅師遺蹟 大本山光明寺」の石標。
総門をくぐると広大な駐車場。この広さは鎌倉屈指です。
【写真 上(左)】 六字御名号
【写真 下(右)】 山内案内図
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 斜めからの山門
その先に弘化四年(1847年)再建の山門(県重要文化財)が聳え建ちます。
間口約16m、奥行約7m、高さ約20mで、鎌倉に現存する最大の山門です。
桟瓦葺、間数のある堂々たる二重門で、上下層軒下の複雑な斗栱組手が圧巻です。
【写真 上(左)】 山門の斗栱と扁額
【写真 下(右)】 山門扁額
和様唐様折衷様式で、江戸時代後期の重厚な風格を備えるとされます。
折衷様式の代表例は、一層軒の平行繁垂木(和様)、二層軒の扇垂木(唐様/禅宗様)にも見られるといいます。
二層中央の「天照山」の扁額は、永享八年(1436年)の裏書のある後花園天皇の御宸筆です。
楼上には釈迦三尊像、四天王像、十六羅漢像(いずれも江戸時代後期作)が安置されています。
【写真 上(左)】 山門から山内
【写真 下(右)】 参道から本堂
山門をくぐると参道正面が大殿(本堂)。
右手手前から合祀墓、鐘楼堂、繁栄稲荷大明神、延命地蔵尊、本堂右手奥に三尊五祖之石庭。
当山大旦那・内藤家墓所は右手墓域内にあり、宝筐印塔を中心に100以上の石塔を連ねています。
左手は手前から庫裏・本坊、書院、開山堂、本堂左手奥に記主庭園、大聖閣という構成です。
順にみていきます。
【鐘楼堂】
総欅瓦葺きの鐘楼堂は弘化四年(1847年)建立。
現梵鐘は昭和36年、法然上人七百五十年遠忌に鋳造された重量三百貫の巨鐘です。
【写真 上(左)】 鐘楼堂-1
【写真 下(右)】 鐘楼堂-2
【繁栄稲荷大明神】
良忠上人は佐介ヶ谷で子狐を助けたことがありました。すると夢に親狐があらわれ、お礼とともに薬種袋を残していきました。
鎌倉で悪病が流行した折、上人はこの薬種を蒔くと三日の内に成長し、この薬草を服したものは薬効顕れ、病魔はたちまち退散したといいます。
のちに繁栄稲荷大明神として当山に勧請され、病魔退散、豊漁満般、家業繁栄に霊験あらたかといいます。
【写真 上(左)】 繁栄稲荷大明神
【写真 下(右)】 山内の石碑群
【延命地蔵尊】
稲荷大明神の本堂寄りに地蔵堂があります。
『鎌倉札所めぐり』(メイツ出版)等によると、こちらには正中二年(1325年)作銘のある石佛坐像・綱引延命地蔵尊が安置されています。
かつて以前光明寺裏山の小坪切通しの鎌倉側の入口のやぐらにあった御像を遷したものです。
こちらは鎌倉二十四地蔵霊場第22番札所(綱引延命地蔵尊)となっています。
【写真 上(左)】 地蔵堂
【写真 下(右)】 綱引延命地蔵尊
【三尊五祖之石庭】(本堂改修中は拝観不可)
本堂右手奥側にあります。
「三尊」とは、阿弥陀仏とその脇士観音・勢至の二菩薩。
「五祖」とは浄土教を説法流布された釈尊、善導大師、法然上人(浄土宗開祖)、鎮西上人(浄土第宗二祖・聖光)、記主禅師(良忠上人)の五大祖師を示します。
この三尊五祖が庭園中の石により表現され、庭園構図は此岸と彼岸をあらわしています。
【写真 上(左)】 三尊五祖之石庭
【写真 下(右)】 同 説明板
【庫裏・本坊】
前面の附属棟が授与所となっています。
【開山堂】
開山良忠上人(記主禅師)の尊像、および歴代法主(住職)を祀る御堂です。
令和2年春からの「大殿・令和の大改修」にともない、現在・大殿(本堂)にお祀りする阿弥陀如来および諸尊像は開山堂に遷られ、仮本堂となっています。
かつては現・本堂(大殿)を祖師堂と称していました。
関東大震災で倒潰した旧・阿弥陀堂の御本尊を旧・開山堂へ遷座して本堂とし、開山堂は大正13年新たに建てられ、平成14年老朽化のため再建されました。
入母屋造銅板葺流れ向拝の平入りですが、向拝上部に大がかりな千鳥破風を起こしているので、一見妻入りに見えます。
三間の向拝で、水引虹梁両端に獅子漠の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に三連の蟇股を置いています。
向拝見上げに「開山堂」、堂内に「勅諡記主禅師」の二重扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 開山堂
【写真 下(右)】 開山堂扁額-1
【写真 上(左)】 開山堂扁額-2
【写真 下(右)】 開山堂堂内
本堂と開山堂のあいだには回廊が渡され、背後の庭園とあいまって見どころとなっています。
回廊前には善導大師像が安置されています。
【写真 上(左)】 庭園方向
【写真 下(右)】 善導大師像
【本堂(大殿)】
元禄十一年(1698年)建立の十四間四面の大堂で、現存する木造の古建築では鎌倉一の規模とされ「百本柱のお堂」として知られています。国指定の重要文化財です。
かつては開山良忠上人像を安置して「祖師堂」と称していましたが、祖師堂を中心伽藍に置く様式は、知恩院をはじめとする京都の浄土宗本山の通例とされます。
【写真 上(左)】 本堂(改修前)
【写真 下(右)】 本堂(改修中)
入母屋造銅本棒葺流れ向拝で軒唐破風。大棟には菊花紋と五七桐紋を交互に置いています。
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝
【写真 上(左)】 向拝(閉扉時)
【写真 下(右)】 向拝(開扉時)
向拝は三間で水引虹梁両端に木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に蟇股を置いています。
向拝柱には「専修念佛根本道場」、見上げに寺号扁額、堂内にも扁額を置く二重扁額です。
【写真 上(左)】 「専修念佛根本道場」
【写真 下(右)】 向拝扁額
【写真 上(左)】 二重扁額
【写真 下(右)】 本堂内-1
【写真 上(左)】 本堂内-2
【写真 下(右)】 御本尊
浄土宗では本堂を開放する寺院が多いですが、こちらも通常開扉され堂内拝観できます。
華やかな欄間彫刻、精緻な天井絵、金色に輝く天蓋や瓔珞など、さすがに名刹にふさわしい空間です。
中央の御本尊阿弥陀三尊像は、伝・鎌倉中期作といいます。
右檀には善導大師等身大立像と弁財天像が安置されています。
善導大師立像は、かつて二尊堂にあって良忠上人が聖光上人より拝受の像といい、由比ヶ浜漂着の縁起が伝わります。
弁財天像は、江ノ島辯才天ゆかりの縁起が伝わります。
左檀上には、如意輪観世音菩薩像(鎌倉三十三観音霊場第18番・七観音霊場札所本尊)と宗祖法然上人像が安置されています。
【写真 上(左)】 如意輪観世音菩薩像
【写真 下(右)】 観音霊場札所板
【写真 上(左)】 法然上人像
【写真 下(右)】 天井絵
令和2年春から10 年計画で保存修理工事が始まり、御本尊阿弥陀如来および諸尊像は開山堂に遷られています。
■ 大殿 令和の大改修【令和5年度ダイジェスト】―重要文化財光明寺本堂修理工事―
【記主庭園・大聖閣】
背後に小山をおく風雅な浄土宗庭園で、小堀遠州作と伝わります。
蓮池の蓮は夏に色とりどりに開花します。
大聖閣は宗祖法然上人800年大御忌を期して建立。二層には阿弥陀三尊が安置されています。
【写真 上(左)】 記主庭園
【写真 下(右)】 大聖閣
本堂背後の天照山は、良忠上人が天照大神の尊像を感得せられたことからの命名といいます。
中腹に良忠上人をはじめ歴代の墓所と開基である北条経時公(法名:蓮華寺殿安楽大禅定門)の墓所があります。
鎮守社・神明社、秋葉大権現も天照山に祀られています。
【神明社】
天照・春日・八幡の三神を合祀しています。
『新編相模国風土記稿』には、「神明宮 八幡春日を合祀す、域内鎮護の祠なり」とあります。
【秋葉社】
『新編相模国風土記稿』には、「秋葉社、九頭權現社、蔵王窟 後阜にあり」とあります。
寺伝には、当山三十三世深譽伝察上人が身を天狗に現じて当山を守護されたとあります。
御朱印は山内左手の庫裏・本坊附属棟にて拝受しました。
複数の御朱印を授与されていますが、↓ の注意書きがあります。
【写真 上(左)】 注意書き
【写真 下(右)】 御朱印見本(金額は変更の可能性あり。)
〔 光明寺の御朱印 〕
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 御名号の御朱印
【写真 上(左)】 開山 記主禅師の御朱印
【写真 下(右)】 東国花の寺霊場の御朱印
【写真 上(左)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉二十四地蔵霊場の御朱印
七観音霊場の御朱印
→ ■ 鎌倉市の御朱印-12 (B.名越口-6)へつづく。
【 BGM 】
■ David Benoit - The Key To You
■ King of Hearts - Don't Call My Name
■ Bryan Ferry & Roxy Music - Avalon
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■ utsuboの音楽遍歴-4 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)【 洋楽1983年ピーク説 】
最近、日本人の洋楽離れがあちこちで話題になっているような・・・。
ライフスタイルとかメディア論とか、いろいろ難しい分析かける人もいるけど、
単純に洋楽にいい曲がなくなったからでは?
かつて、仲間内で ”洋楽●鹿”(笑)と呼ばれていた筆者個人の例からすると、すでに1980年代後半には洋楽チャートを追うのをやめてしまっていた。(↓ の記事のとおり)
まぁ、ことばもわからず、まして音楽的に魅力も感じないのに、ムリしてRapやhip hop聴かにゃならん義務なんてどこにもないし・・・。
とくに最近、米国で主流のワンループお経的hip hopなんて苦痛でしかなんもんね、筆者的には・・・。
だから、Bruno Marsがいきなり出てきたとき、かすかな期待感はあった。
【和訳】Bruno Mars, Anderson .Paak, Silk Sonic「Leave the Door Open」【公式】
でも、続かなかったかな?
Bruno Marsの来日コンサートは大好評だったらしいが・・・。
■ ABBA - Dancing Queen(1976年)
1970年代中盤にはこういう洋楽のヒット曲があった。
洋楽どころか音楽になじみのうすい人にも、聴き流しさせない圧倒的なメロディ&アレンジ力。
こういう優れた曲たちが、洋楽の黄金時代1980年代に向けてのレールを敷いた。
■ 君の瞳に恋してる/Boys Town Gang (歌詞付)
1982年、ディスコだけでなく日本中の街角でヘビロテされていたハイ・エナジーの名曲。
→ ■ パープル・レイン ~ 1980年代洋楽の底力 ~
↓ の動画とコメント、なかなか本質ついてると思います。
【解説】日本人はもう洋楽を聴いていない
【解説】「日本人の洋楽離れ」みんなの反応+衝撃データ発表
ひょっとして、「(日本の若い層で)音楽じたいに興味がなくなっている」ってのも真理かもしれぬ。
でも、世界の音楽市場は今後ますます拡大していくって・・・?
いったいどゆこと?
日本の(一部の)女性アーティストの楽曲は、いまの洋楽が失ってしまったメロディやアレンジメントやヒーリング感を残す(というかブラッシュアップした)ものも少なくない。
なんといっても、アニソンやゲームやボカロ系に才能が集まっているのが強い。
殺伐とした世界では、音楽に「癒やし」を求めるニーズが高まると思う?
そのマーケットを担ったのは、かつてはアイルランド(ケルティック・ウーマン)だったが、いまは質・量ともに邦楽が凌駕している。
今後伸びていくであろう世界の音楽市場を牽引するのは、もしかして日本の歌うま女子たちかもしれぬ。
→ ■ 女神系歌姫 (ハイトーンJ-POPの担い手たち)【リニューアル】
→ ■ 女神系歌姫-1 【 Angel Voice列伝 01-50 】
この系統の楽曲は、2015年~2022年くらいまで一時期勢いを失った感じもあったが、ここにきてまた盛り返している感じもする。↓
■ サクラキミワタシ - tuki.
■ 私にはできない - Eiーvy
歌声with SunoAIだけど、生声で圧巻の「歌ってみた」かます女子、ぜったい出てくると思う。
■ あなたの夜が明けるまで - Covered by 春吹そらの
それと、いまだに陰りを見せない日本の「シティ・ポップ」だって、もはや洋楽が失ってしまったメロディやアンサンブル、そして心地よいグルーヴを海外のリスナーが聴きに来てるわけでしょ。
つまるところ。
■ 山下達郎 - SPARKLE
→ 関連記事(■ 「シティ・ポップ」って?-2)
それにこんな曲調の曲 ↓ リアルタイムでCMにもってくる国も日本くらいでは?
■ 乃木坂46・五百城茉央出演!“I feel Coke”楽曲を使用したビッグマック新TVCM「あしたも、笑おう。」篇
■「酪農家たちのまっすぐな夢」篇 Webムービー(よつ葉乳業株式会社ブランドムービー)/池田綾子
そして、サポートし頃の、こんな実力派もいるし・・・。↓
■ 遥海 - Pride Live Ver. (HARUMI LIVE 2021”FOCUS”)
■ SARI(柴山サリー)
かすかに見える光明・・・?
↓ こちらもみてね。
■ utsuboの音楽遍歴-5 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)
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2020/01/18UP
このところ、1970~80年代のPop-Musicの再評価が、洋楽・邦楽問わず進んでいるような気がします。
わたしは以前から「洋楽1983年ピーク説」を勝手に唱えていますが、改めて考えると、洋楽が1983年頃に大きく変容したため、結果として1983年が洋楽の(個人的な)ピークとなったような感じがしています。
なので、その「変容」について書いたこの記事を「洋楽1983年ピーク説」とサブタイトルし、以前にUPした楽曲集を「1983年洋楽ピーク説(名曲編)」 として整理しなおします。
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1983年から1984年にかけて起こった洋楽シーンの変容は、わたしにとって大きな転機となりました。
ここではその状況について書いてみます。
〔 失速 / AORの巻 〕
百花繚乱の様相をみせていた'82年の洋楽シーン。
だが、このころからAORシーンの変質がびみょ~に気になりだしていた。
ディールを得ていたAORに他ジャンルからの参入があいつぎ、MORやカントリーシーンからもAORライクなアルバムがつぎつぎと送り出された。
Jesse Colin Young『The Perfect Stranger』('82)、Lee Greenwood、『Somebody's Gonna Love You』('83)、Larry Lee(Ozark Mountain Daredevils)『ロンリー・フリーウェイ(Marooned)』('82)などがその好例だ。
■ Larry Lee 「Don't Talk」 (1982)
彼らは個性も実力もあるので、なかなかのアルバムに仕上がっているが、「そいつは違うんでないかい?」と感じたのが、ベタでMORチックな新人が”AORの新星”とかタイトルされ売り出されてきたことだ。
リズムやアレンジが複雑なAORでは歌の巧さが高度に要求されるが、そこまでの実力も経験もない新人がつぎつぎと参入してきた。
ところで、当時洋楽(AOR)好きのあいだで常識となっていたのが「クレジット買い」だ。
これはなじみのないアルバムを、裏ジャケに載っているバック(スタジオ)ミュージシャンの顔ぶれ(=credit)を確認して買うというもので、当時のAORシーンでバック(スタジオ)ミュージシャン達がいかに重要なポジションを占めていたかがわかる。
これら経験豊富な一連のバックミュージシャンのセッションは抜群に安定していて、MORだろうがカントリーだろうが持ち前のワザとセンスで洒落たAORに仕立ててしまう。
なので、上にあげたAORへのシフトは、「AOR系バック(スタジオ)ミュージシャンの起用」でほぼ9割方達成されるといっても過言ではない。
Boz Scaggs - Lowdown (Live-HQ)
■ 名うてのスタジオミュージシャンがサポートしたBoz Scaggsの名曲。
16ビート/アップビートが醸す、ばりばりのグルーヴ感。
↓ Vinnie Colaiuta(ds)&Neil Stubenhaus(b)&Russell Ferrante(key)という、AOR的にはほぼ最強のラインナップ。Vo.が名手Howard Smithなのでかなりの出来に仕上がっているが、ここまでお膳立てされたら誰が歌ってもAORになると思う(笑)
Robben Ford 「Save Your Night for Me」 (1983)
裏返していうと、生半可なボーカルだと完璧にバックに喰われてしまう。
じっさい、AOR後期('83年~)にはバック一流、ボーカル三流という、だれが主役だかわからないアルバムがいくつも出された(あえて例はあげぬが・・・(笑))。
後年、AORが批判の矢面に立たされたときの常套句に「ワンパターン」「没個性」「誰が歌ってもおなじ」というのがあるが、少なくとも後期AORについては、わたしは反論できない・・・。
(余談になるが、邦楽、とくにアイドル系でこれら米国スタジオミュージシャンをレコーディングに起用した例は意外に多い。)
初~中期のAORは違った。
もともとAORの醍醐味は、Rock、R&B、Jazz、Ethnoなどが渾然一体に混じり合うところにあり、当然、アーティストはおのおのアイデンティティをもっていた。
たとえば、Boz Scaggs、Bobby CaldwellやBill LaBountyはブラックミュージックの影響を受けていたし、Michael FranksやBen SidranはJazzやBossa Novaのエッセンスをもっていた。J.D.SoutherやPhotogloには古きよきR&Rの香りがあった。
■ Bill LaBounty 「Room205」 (1978)
■ Michael Franks 「One Bad Habit」 (1980)
■ J.D.Souther 「You're Only Lonely」 (1979)
■ Jim Photoglo 「Ruled By My Heart」 (1981)
なので、AORというのはもともと分類ジャンルではなく、「ポピュラーミュージックのさまざまな要素を盛り込んだソフトでメローなイメージをもつ、アダルト向けの音楽」を意味したと思う。
この手の音楽が初期に「ソフト&メロー」や「クロスオーバー」と呼ばれたのがそのことを如実に物語っているし、現在、米国でこの流れを汲むフォーマットは、分類ジャンルをつけず単にアダルト・コンテンポラリー(Adult Contemporary/AC)と呼ばれている。
■ Homi & Jarvis 「It Didn't Work Out That Way」 (1983)
↑いろいろな要素がほどよくバランスして、テクニカルだけどさらっと流せる曲も多かった。
AORがそのマーケット性を拡大したときに、”AOR”でイメージされる楽曲のパターンができあがり、それを得意とするミュージシャンがAORというジャンルフォーマットをつくりあげた。(たとえば、「After The Love Is Gone」/Airplay、Michael McDonaldの一連の楽曲など)これらは音楽的にはすこぶる質の高いものだが、あまりに氾濫するとどうしても没個性になっていく。
■ Michael McDonald 「That's Why」 (1982)
これと並行して、プロデューサーの地位上昇が進んだ。
もともとAOR界にはTommy LiPuma、Jay Graydon、Randy Goodrum、James Strondなど著名なプロデューサーがいたが、彼らはどちらかというと、ミュージシャン達のよきとりまとめ役であったような気がする。
これに対して、'83年頃からはプロデューサーが強力なイニシアティブをとり、アルバムコンセプトから果てはマメジメントに至るまで関与するようになっていく。このような体制のもと、楽曲はサビメロで固められ一分の隙もないアレンジが施された。
楽曲としての完成度はたしかに高いが、なんとなく音に隙間がなく、厚化粧で息が詰まるような曲が増えていった。
初~中期のAORでは、リズムセクションがグルーヴをキープし、そのうえでVoやリード楽器(Key,g,saxなど)が伸びやかに泳ぐというパターンの曲が多かったが、このころからきっちりとプロデュース、というかむしろオーバープロデュース気味の作品が増えてきた。
これはバックミュージシャンが多忙すぎて、セッションを楽しむ余裕をなくしたことも大きいと思っているが、いずれにしてもこの時点で「アーティスト&ミュージシャンの時代」から「プロデューサーの時代」への変化が起こった意味は大きく、これと歩調を合わせるようにしてAORシーンは急速に失速していく。
〔 パラダイム・チェンジ / ブラックミュージックの巻 〕
Rapの先駆とされる、The Sugarhill Gangの登場は1979年。
それでも1982年頃まではブラックミュージックのメインストリームは、なおセルフコンテインド・グループ(Self-Contained Group)にあった(と思う)。
これはいわゆる自給自足バンドで、一般にはボーカル・コーラス、リード楽器からリズムセクションまで、すべてグループ内で補う大型ファンクバンドをさす。EW&F、Atlantic Starr、Skyy、Dazz Band、Lakeside、One Wayなどがその代表例だ。
■ Skyy 「Show Me The Way」 (1983)
リズムセクションが叩き出すグルーヴのうえでダイナミックなコーラスやファルセットを展開、Up~Balladeまで多彩な名曲を提供する彼らはディスコの花形だった。
しかし、大人数ゆえ、その維持にはコストがかかる。おりしも景気の下降局面にあった米国で、その状況は次第にきびしいものとなっていく。
■ B B.&Q.Band 「(I Could Never Say) It's Over」 (1982)
異論はあると思うが、勢力を拡大しつつあったhip hop/Rap系が一般的な意味で大ブレークしたのは1983年Herbie Hancockの『Future Shock』に収録された"Rock It"だと思う。
大胆なスクラッチが導入されたこの曲は、たしかに異様なインパクトがあった。
低コストで斬新な音を産み出せるこれらの流れは、またたく間にブラックシーンに浸透していった。
■ Herbie Hancock 「Rock It」 (1983)
その勢いはパラダイム・チェンジといえるほどすさまじく、すでに1984年の時点でリズムをデジタルサンプリングしていない新譜を探すのがむずかしいほどだった。
■ Prince 「Purple Rain」 (1984)
パラダイム・チェンジのさなかに産み落とされた歴史的名曲。
経済的に苦境を迎えていたSelf-Contained Groupはつぎつぎと瓦解し、ボーカルはソロとして独立。残ったメンバーはRap系小ユニットやバラードグループとして余命を保つことになる。
このなかでは、バラードに活路を見いだした連中が気を吐いた。
彼らはニュー・クラシック・ソウル(New Classic Soul)などと呼ばれ、甘甘ながらなかなかに聴かせる作品を残している。
■ Atlantic Starr 「Secret Lovers」 (1985)/ New Classic Soulの例
Force MD's 「Tender Love」 (1985)
'80年代後半まではいわゆるレディ・ソウルも好調だった。Whitney Houstonのデビューは1983年だし、Anita BakerやNatalie Cole、そしてKlymaxxなどの女性グループも80年代中期以降にいいアルバムを残しているので、AORほどの強烈な失速感はない。
■ Natalie Cole 「Miss You Like Crazy」 (1989)/ '80年代後期のLady Soulの例
■ Klymaxx 「Finishing Touch」 (1990)/ 抜群のメロディライン
■ Genobia Jeter 「Take A Look」 (1986)
当時のBCM(ブラック・コンテンポラリー)が、ハイレベルなヴォーカルに支えられていたことを示す例。
当然、ゴスペルもクロスオーバーしてたわけです。
それでもわたしのなかでのブラックミュージックは、やはりSelf-Contained Group。
彼らは”レア・グルーヴ(Rare Groove)”(広義です(笑))とジャンルされ、のちに腐るほどカバー、サンプリングされることになる。
〔 ボーダーライン / ポップミュージックの巻 〕
1983~85年までのおもなヒット曲をみると、
Every Breath You Take(The Police)、Billy Jean・Beat It・Thriller(Michael Jackson)、Maneater・Out Of Touch(Hall & Oates)、Let's Dance(David Bowie)、When Doves Cry(Prince)、Against All Odds(Phil Collins)、Jump(Van Halen)、Hello(Lionel Richie)、Girls Just Want To Have Fun(Cyndi Lauper)、Careless Whisper(Wham!)、Like A Virgin(Madonna)、We Are The World(USA For Africa)など、ビッグネームたちの錚々たる代表曲が並んでいるようにみえる。
たしかに、Michael Jacksonの『Thriller』のビデオクリップは圧倒的なインパクトがあった。でも、曲的にはひとつ前のALBUMの「Don't Stop 'Til You Get Enough」、「Rock With You」などの方がしっくりときていた。
Hall & Oatesにしても「Maneater」よりも「Wait for Me」「Kiss on My List」などが、Princeにしても「When Doves Cry」より「Little Red Corvette」の方が曲としての魅力を感じた。
■ Hall & Oates 「Maneater」 (1983)
■ Hall & Oates 「Wait For Me」 (1979)
Madonnaについても、Studio1stALBUM「Madonna」(1983)と大ヒットした「Like a Virgin」(1984)を聴き比べたときに同じような印象を抱いた。
■ Madonna 「Holiday」
「Madonna」(1983)収録。
リズムに新しいテクノロジーは入ってきているものの、曲全体のイメージはこれまでの洋楽の流れを引き継いでいる。
4つ打ちっぽいけど、ベースはアップビートでダンスもヨコノリ。
先日、同世代の友人たちと飲んだときに、こんなハナシが出た。
それはいま振り返ると、H&Oにせよ、Journeyにせよ、世間で大ブレークしたときにはすでにピークを過ぎていたのではないか? ということだ。
そして、この大ブレークする直前にこの世代にとって面白い音楽とそうでなくなってしまった音楽のボーダーラインがあるというのだ。(「14番目の月」説)
例えば、H&Oの『Private Eyes』('81)と『H2O』('82、ブレークは'83)。前者は全米5位だが、後者は全米1位で彼ら最大のヒットとなった。
でも『H2O』を聴いたとき、「なにか違う」という違和感を感じたことはたしかで、大ヒットした"Maneater"もたいした曲には思えなかったわけだ。
Journeyにしても、データ的には『Escape』('81)のほうが売れているが、日本での反響は『Frontiers』('83)のほうが大きかったような気がする。
そして『Frontiers』をきいたときも『H2O』とおなじ違和感を覚えた。
Michael Jacksonもそうで、少なくとも仲間うちでは、歴史的メガヒットとなった『Thriller』('83)より前作『Off The Wall』('79)の評価が高い。
■ Journey 「Still They Ride」 (1981) / ALBUM『Escape』収録
このとき感じた違和感が何だったかは断言できないけれど、厚化粧で妙な圧迫感があり、心底から音に浸れない心地わるさがあったように思う。
そして、その原因はやはりオーバープロデュース、いいかえれば、楽曲が”作品”から”商品”へと変化しはじめたことが大きいような気がする。
■ Michael McDonald 「Our Love」 (1985)
個人的には「AORの時代」の終焉を告げたと思っている名曲。
■ Patti Austin 「if I belive」 (1985/Qwest)
Quincy Jonesの秘蔵娘、Patti Austinの名曲。女性Vo.だが、これも「AORの時代」の幕引きを感じる曲のひとつだと思う。
音楽をめぐる環境もこのころ大きな変貌を遂げていた。
MTVが一躍人気を集め、若者向けの飲食店などでもふつうに流されていた。
楽曲のよしあしより、ビデオクリップのできに話題が集中し、「ビデオクリップのでき(=MTVでの見映え)が悪いと、曲がよくてももはやヒットしない。」などと揶揄されたりした。
一方、1982年秋に発売が開始されたCDは、またたく間に市場シェアを上げ、1986年にははやくも販売枚数ベースでLPを追い抜いた。
CDはたしかに手軽で便利だが、はじめてその音を聞いたとき感じたいいようのない違和感はいまでも忘れられない。
妙な閉塞感があり、スネアやハイハットの音がすこ~んときれいに抜けないのだ。
「これはひょっとして音楽のつくり方や質じたいが変わっていくのでは?」という漠たる予感があった。
そして、事態はその予感をはるかに超えるスピードで進行した。
この頃Rapはますます勢力を拡大し、「hip hop(いまで言う”Old School”)」といわれる一大ムーブメントを形成しつつあった。
おりしもRock Steady Crewなどにより紹介されたブレイクダンス(breakin')が日本でも広まり、1983年_On SaleのHerbie Hancockは「Rock it」でGrandmixer DSTのスクラッチをとり入れ一世を風靡したのは↑に書いたとおり。
このような動きは当然のことながらRock/Pop Marketにも大きな影響を与え、次第にストリート感やアグレッシブな雰囲気が求められるようになっていった。
メロディ・ハーモニー・リズムがバランスよく構成されていたそれまでの楽曲にくらべ、リズム(というかピッチ)が極端に重視されるようになった。
これは端的にいうと、「メロディの時代」から「リズム(ピッチ)の時代」への転換だったのではないか・・・。
単発的にこういう↓名メロ曲はでたけどね。
■ Starship 「We Built This City」 (1985)
■ BRUCE HORNSBY and the Range 「The Way It Is」 (1986)
■ Boy Meets Girl 「Waiting for a Star to Fall」 (1988)
いま振り返ると、ポピュラーミュージックをめぐるこのような環境の変化が重なって、(すくなくともわたしにとっては)「新譜を聴くのがあまり面白くない時代」に入っていったのではないかと思う。
決定的だったのは、ストック・エイトキン・ウォーターマン (Stock Aitken Waterman/SAW)絡みのプロジェクトがメインストリームとなったこと。
数年前までは、こんな4つ打ちベタメロ曲が、まさか洋楽から出てくるとは思いもしなかった・・・。
■ Kylie Minogue 「Turn It Into Love」 (1988)
これだったら日本でも作れるし洋楽聴く必要ないじゃん、と思ったわけです私的には。
で、やっぱり日本でも大ヒットとなったわけです。↓
■ WINK 「愛が止まらない」 (1988)
このあたりについては→■ 4つ打ちとグルーヴ (音のスキマ論-0)に書いているので、ご興味のある方はどーぞ。
(さらにもう1回つづきます。)
→■ utsuboの音楽遍歴-5 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)
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■ utsuboの音楽遍歴-1 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)
■ utsuboの音楽遍歴-2 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)
■ utsuboの音楽遍歴-3 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)
■ utsuboの音楽遍歴-4 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)【1983年洋楽ピーク説】
■ utsuboの音楽遍歴-5 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)
■ 黄金の世代?(カラバトU-18が強い件)
■ 1983年洋楽ピーク説(名曲編)
■ AOR系名曲を100曲! ※リンク切れあり
■ AC全盛期('70年代後半~'80年代前半)のリズム
■ AC全盛期('70年代後半~'80年代前半)のデュエット
■ プログレハードの名曲
■ 女神系歌姫 (ハイトーンJ-POPの担い手たち)【リニューアル】
■ 女神系歌姫【Angel Voice列伝 】のリスト(110曲)(カラバトU-18系含まず、リンク切れ多数)
ライフスタイルとかメディア論とか、いろいろ難しい分析かける人もいるけど、
単純に洋楽にいい曲がなくなったからでは?
かつて、仲間内で ”洋楽●鹿”(笑)と呼ばれていた筆者個人の例からすると、すでに1980年代後半には洋楽チャートを追うのをやめてしまっていた。(↓ の記事のとおり)
まぁ、ことばもわからず、まして音楽的に魅力も感じないのに、ムリしてRapやhip hop聴かにゃならん義務なんてどこにもないし・・・。
とくに最近、米国で主流のワンループお経的hip hopなんて苦痛でしかなんもんね、筆者的には・・・。
だから、Bruno Marsがいきなり出てきたとき、かすかな期待感はあった。
【和訳】Bruno Mars, Anderson .Paak, Silk Sonic「Leave the Door Open」【公式】
でも、続かなかったかな?
Bruno Marsの来日コンサートは大好評だったらしいが・・・。
■ ABBA - Dancing Queen(1976年)
1970年代中盤にはこういう洋楽のヒット曲があった。
洋楽どころか音楽になじみのうすい人にも、聴き流しさせない圧倒的なメロディ&アレンジ力。
こういう優れた曲たちが、洋楽の黄金時代1980年代に向けてのレールを敷いた。
■ 君の瞳に恋してる/Boys Town Gang (歌詞付)
1982年、ディスコだけでなく日本中の街角でヘビロテされていたハイ・エナジーの名曲。
→ ■ パープル・レイン ~ 1980年代洋楽の底力 ~
↓ の動画とコメント、なかなか本質ついてると思います。
【解説】日本人はもう洋楽を聴いていない
【解説】「日本人の洋楽離れ」みんなの反応+衝撃データ発表
ひょっとして、「(日本の若い層で)音楽じたいに興味がなくなっている」ってのも真理かもしれぬ。
でも、世界の音楽市場は今後ますます拡大していくって・・・?
いったいどゆこと?
日本の(一部の)女性アーティストの楽曲は、いまの洋楽が失ってしまったメロディやアレンジメントやヒーリング感を残す(というかブラッシュアップした)ものも少なくない。
なんといっても、アニソンやゲームやボカロ系に才能が集まっているのが強い。
殺伐とした世界では、音楽に「癒やし」を求めるニーズが高まると思う?
そのマーケットを担ったのは、かつてはアイルランド(ケルティック・ウーマン)だったが、いまは質・量ともに邦楽が凌駕している。
今後伸びていくであろう世界の音楽市場を牽引するのは、もしかして日本の歌うま女子たちかもしれぬ。
→ ■ 女神系歌姫 (ハイトーンJ-POPの担い手たち)【リニューアル】
→ ■ 女神系歌姫-1 【 Angel Voice列伝 01-50 】
この系統の楽曲は、2015年~2022年くらいまで一時期勢いを失った感じもあったが、ここにきてまた盛り返している感じもする。↓
■ サクラキミワタシ - tuki.
■ 私にはできない - Eiーvy
歌声with SunoAIだけど、生声で圧巻の「歌ってみた」かます女子、ぜったい出てくると思う。
■ あなたの夜が明けるまで - Covered by 春吹そらの
それと、いまだに陰りを見せない日本の「シティ・ポップ」だって、もはや洋楽が失ってしまったメロディやアンサンブル、そして心地よいグルーヴを海外のリスナーが聴きに来てるわけでしょ。
つまるところ。
■ 山下達郎 - SPARKLE
→ 関連記事(■ 「シティ・ポップ」って?-2)
それにこんな曲調の曲 ↓ リアルタイムでCMにもってくる国も日本くらいでは?
■ 乃木坂46・五百城茉央出演!“I feel Coke”楽曲を使用したビッグマック新TVCM「あしたも、笑おう。」篇
■「酪農家たちのまっすぐな夢」篇 Webムービー(よつ葉乳業株式会社ブランドムービー)/池田綾子
そして、サポートし頃の、こんな実力派もいるし・・・。↓
■ 遥海 - Pride Live Ver. (HARUMI LIVE 2021”FOCUS”)
■ SARI(柴山サリー)
かすかに見える光明・・・?
↓ こちらもみてね。
■ utsuboの音楽遍歴-5 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)
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2020/01/18UP
このところ、1970~80年代のPop-Musicの再評価が、洋楽・邦楽問わず進んでいるような気がします。
わたしは以前から「洋楽1983年ピーク説」を勝手に唱えていますが、改めて考えると、洋楽が1983年頃に大きく変容したため、結果として1983年が洋楽の(個人的な)ピークとなったような感じがしています。
なので、その「変容」について書いたこの記事を「洋楽1983年ピーク説」とサブタイトルし、以前にUPした楽曲集を「1983年洋楽ピーク説(名曲編)」 として整理しなおします。
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1983年から1984年にかけて起こった洋楽シーンの変容は、わたしにとって大きな転機となりました。
ここではその状況について書いてみます。
〔 失速 / AORの巻 〕
百花繚乱の様相をみせていた'82年の洋楽シーン。
だが、このころからAORシーンの変質がびみょ~に気になりだしていた。
ディールを得ていたAORに他ジャンルからの参入があいつぎ、MORやカントリーシーンからもAORライクなアルバムがつぎつぎと送り出された。
Jesse Colin Young『The Perfect Stranger』('82)、Lee Greenwood、『Somebody's Gonna Love You』('83)、Larry Lee(Ozark Mountain Daredevils)『ロンリー・フリーウェイ(Marooned)』('82)などがその好例だ。
■ Larry Lee 「Don't Talk」 (1982)
彼らは個性も実力もあるので、なかなかのアルバムに仕上がっているが、「そいつは違うんでないかい?」と感じたのが、ベタでMORチックな新人が”AORの新星”とかタイトルされ売り出されてきたことだ。
リズムやアレンジが複雑なAORでは歌の巧さが高度に要求されるが、そこまでの実力も経験もない新人がつぎつぎと参入してきた。
ところで、当時洋楽(AOR)好きのあいだで常識となっていたのが「クレジット買い」だ。
これはなじみのないアルバムを、裏ジャケに載っているバック(スタジオ)ミュージシャンの顔ぶれ(=credit)を確認して買うというもので、当時のAORシーンでバック(スタジオ)ミュージシャン達がいかに重要なポジションを占めていたかがわかる。
これら経験豊富な一連のバックミュージシャンのセッションは抜群に安定していて、MORだろうがカントリーだろうが持ち前のワザとセンスで洒落たAORに仕立ててしまう。
なので、上にあげたAORへのシフトは、「AOR系バック(スタジオ)ミュージシャンの起用」でほぼ9割方達成されるといっても過言ではない。
Boz Scaggs - Lowdown (Live-HQ)
■ 名うてのスタジオミュージシャンがサポートしたBoz Scaggsの名曲。
16ビート/アップビートが醸す、ばりばりのグルーヴ感。
↓ Vinnie Colaiuta(ds)&Neil Stubenhaus(b)&Russell Ferrante(key)という、AOR的にはほぼ最強のラインナップ。Vo.が名手Howard Smithなのでかなりの出来に仕上がっているが、ここまでお膳立てされたら誰が歌ってもAORになると思う(笑)
Robben Ford 「Save Your Night for Me」 (1983)
裏返していうと、生半可なボーカルだと完璧にバックに喰われてしまう。
じっさい、AOR後期('83年~)にはバック一流、ボーカル三流という、だれが主役だかわからないアルバムがいくつも出された(あえて例はあげぬが・・・(笑))。
後年、AORが批判の矢面に立たされたときの常套句に「ワンパターン」「没個性」「誰が歌ってもおなじ」というのがあるが、少なくとも後期AORについては、わたしは反論できない・・・。
(余談になるが、邦楽、とくにアイドル系でこれら米国スタジオミュージシャンをレコーディングに起用した例は意外に多い。)
初~中期のAORは違った。
もともとAORの醍醐味は、Rock、R&B、Jazz、Ethnoなどが渾然一体に混じり合うところにあり、当然、アーティストはおのおのアイデンティティをもっていた。
たとえば、Boz Scaggs、Bobby CaldwellやBill LaBountyはブラックミュージックの影響を受けていたし、Michael FranksやBen SidranはJazzやBossa Novaのエッセンスをもっていた。J.D.SoutherやPhotogloには古きよきR&Rの香りがあった。
■ Bill LaBounty 「Room205」 (1978)
■ Michael Franks 「One Bad Habit」 (1980)
■ J.D.Souther 「You're Only Lonely」 (1979)
■ Jim Photoglo 「Ruled By My Heart」 (1981)
なので、AORというのはもともと分類ジャンルではなく、「ポピュラーミュージックのさまざまな要素を盛り込んだソフトでメローなイメージをもつ、アダルト向けの音楽」を意味したと思う。
この手の音楽が初期に「ソフト&メロー」や「クロスオーバー」と呼ばれたのがそのことを如実に物語っているし、現在、米国でこの流れを汲むフォーマットは、分類ジャンルをつけず単にアダルト・コンテンポラリー(Adult Contemporary/AC)と呼ばれている。
■ Homi & Jarvis 「It Didn't Work Out That Way」 (1983)
↑いろいろな要素がほどよくバランスして、テクニカルだけどさらっと流せる曲も多かった。
AORがそのマーケット性を拡大したときに、”AOR”でイメージされる楽曲のパターンができあがり、それを得意とするミュージシャンがAORというジャンルフォーマットをつくりあげた。(たとえば、「After The Love Is Gone」/Airplay、Michael McDonaldの一連の楽曲など)これらは音楽的にはすこぶる質の高いものだが、あまりに氾濫するとどうしても没個性になっていく。
■ Michael McDonald 「That's Why」 (1982)
これと並行して、プロデューサーの地位上昇が進んだ。
もともとAOR界にはTommy LiPuma、Jay Graydon、Randy Goodrum、James Strondなど著名なプロデューサーがいたが、彼らはどちらかというと、ミュージシャン達のよきとりまとめ役であったような気がする。
これに対して、'83年頃からはプロデューサーが強力なイニシアティブをとり、アルバムコンセプトから果てはマメジメントに至るまで関与するようになっていく。このような体制のもと、楽曲はサビメロで固められ一分の隙もないアレンジが施された。
楽曲としての完成度はたしかに高いが、なんとなく音に隙間がなく、厚化粧で息が詰まるような曲が増えていった。
初~中期のAORでは、リズムセクションがグルーヴをキープし、そのうえでVoやリード楽器(Key,g,saxなど)が伸びやかに泳ぐというパターンの曲が多かったが、このころからきっちりとプロデュース、というかむしろオーバープロデュース気味の作品が増えてきた。
これはバックミュージシャンが多忙すぎて、セッションを楽しむ余裕をなくしたことも大きいと思っているが、いずれにしてもこの時点で「アーティスト&ミュージシャンの時代」から「プロデューサーの時代」への変化が起こった意味は大きく、これと歩調を合わせるようにしてAORシーンは急速に失速していく。
〔 パラダイム・チェンジ / ブラックミュージックの巻 〕
Rapの先駆とされる、The Sugarhill Gangの登場は1979年。
それでも1982年頃まではブラックミュージックのメインストリームは、なおセルフコンテインド・グループ(Self-Contained Group)にあった(と思う)。
これはいわゆる自給自足バンドで、一般にはボーカル・コーラス、リード楽器からリズムセクションまで、すべてグループ内で補う大型ファンクバンドをさす。EW&F、Atlantic Starr、Skyy、Dazz Band、Lakeside、One Wayなどがその代表例だ。
■ Skyy 「Show Me The Way」 (1983)
リズムセクションが叩き出すグルーヴのうえでダイナミックなコーラスやファルセットを展開、Up~Balladeまで多彩な名曲を提供する彼らはディスコの花形だった。
しかし、大人数ゆえ、その維持にはコストがかかる。おりしも景気の下降局面にあった米国で、その状況は次第にきびしいものとなっていく。
■ B B.&Q.Band 「(I Could Never Say) It's Over」 (1982)
異論はあると思うが、勢力を拡大しつつあったhip hop/Rap系が一般的な意味で大ブレークしたのは1983年Herbie Hancockの『Future Shock』に収録された"Rock It"だと思う。
大胆なスクラッチが導入されたこの曲は、たしかに異様なインパクトがあった。
低コストで斬新な音を産み出せるこれらの流れは、またたく間にブラックシーンに浸透していった。
■ Herbie Hancock 「Rock It」 (1983)
その勢いはパラダイム・チェンジといえるほどすさまじく、すでに1984年の時点でリズムをデジタルサンプリングしていない新譜を探すのがむずかしいほどだった。
■ Prince 「Purple Rain」 (1984)
パラダイム・チェンジのさなかに産み落とされた歴史的名曲。
経済的に苦境を迎えていたSelf-Contained Groupはつぎつぎと瓦解し、ボーカルはソロとして独立。残ったメンバーはRap系小ユニットやバラードグループとして余命を保つことになる。
このなかでは、バラードに活路を見いだした連中が気を吐いた。
彼らはニュー・クラシック・ソウル(New Classic Soul)などと呼ばれ、甘甘ながらなかなかに聴かせる作品を残している。
■ Atlantic Starr 「Secret Lovers」 (1985)/ New Classic Soulの例
Force MD's 「Tender Love」 (1985)
'80年代後半まではいわゆるレディ・ソウルも好調だった。Whitney Houstonのデビューは1983年だし、Anita BakerやNatalie Cole、そしてKlymaxxなどの女性グループも80年代中期以降にいいアルバムを残しているので、AORほどの強烈な失速感はない。
■ Natalie Cole 「Miss You Like Crazy」 (1989)/ '80年代後期のLady Soulの例
■ Klymaxx 「Finishing Touch」 (1990)/ 抜群のメロディライン
■ Genobia Jeter 「Take A Look」 (1986)
当時のBCM(ブラック・コンテンポラリー)が、ハイレベルなヴォーカルに支えられていたことを示す例。
当然、ゴスペルもクロスオーバーしてたわけです。
それでもわたしのなかでのブラックミュージックは、やはりSelf-Contained Group。
彼らは”レア・グルーヴ(Rare Groove)”(広義です(笑))とジャンルされ、のちに腐るほどカバー、サンプリングされることになる。
〔 ボーダーライン / ポップミュージックの巻 〕
1983~85年までのおもなヒット曲をみると、
Every Breath You Take(The Police)、Billy Jean・Beat It・Thriller(Michael Jackson)、Maneater・Out Of Touch(Hall & Oates)、Let's Dance(David Bowie)、When Doves Cry(Prince)、Against All Odds(Phil Collins)、Jump(Van Halen)、Hello(Lionel Richie)、Girls Just Want To Have Fun(Cyndi Lauper)、Careless Whisper(Wham!)、Like A Virgin(Madonna)、We Are The World(USA For Africa)など、ビッグネームたちの錚々たる代表曲が並んでいるようにみえる。
たしかに、Michael Jacksonの『Thriller』のビデオクリップは圧倒的なインパクトがあった。でも、曲的にはひとつ前のALBUMの「Don't Stop 'Til You Get Enough」、「Rock With You」などの方がしっくりときていた。
Hall & Oatesにしても「Maneater」よりも「Wait for Me」「Kiss on My List」などが、Princeにしても「When Doves Cry」より「Little Red Corvette」の方が曲としての魅力を感じた。
■ Hall & Oates 「Maneater」 (1983)
■ Hall & Oates 「Wait For Me」 (1979)
Madonnaについても、Studio1stALBUM「Madonna」(1983)と大ヒットした「Like a Virgin」(1984)を聴き比べたときに同じような印象を抱いた。
■ Madonna 「Holiday」
「Madonna」(1983)収録。
リズムに新しいテクノロジーは入ってきているものの、曲全体のイメージはこれまでの洋楽の流れを引き継いでいる。
4つ打ちっぽいけど、ベースはアップビートでダンスもヨコノリ。
先日、同世代の友人たちと飲んだときに、こんなハナシが出た。
それはいま振り返ると、H&Oにせよ、Journeyにせよ、世間で大ブレークしたときにはすでにピークを過ぎていたのではないか? ということだ。
そして、この大ブレークする直前にこの世代にとって面白い音楽とそうでなくなってしまった音楽のボーダーラインがあるというのだ。(「14番目の月」説)
例えば、H&Oの『Private Eyes』('81)と『H2O』('82、ブレークは'83)。前者は全米5位だが、後者は全米1位で彼ら最大のヒットとなった。
でも『H2O』を聴いたとき、「なにか違う」という違和感を感じたことはたしかで、大ヒットした"Maneater"もたいした曲には思えなかったわけだ。
Journeyにしても、データ的には『Escape』('81)のほうが売れているが、日本での反響は『Frontiers』('83)のほうが大きかったような気がする。
そして『Frontiers』をきいたときも『H2O』とおなじ違和感を覚えた。
Michael Jacksonもそうで、少なくとも仲間うちでは、歴史的メガヒットとなった『Thriller』('83)より前作『Off The Wall』('79)の評価が高い。
■ Journey 「Still They Ride」 (1981) / ALBUM『Escape』収録
このとき感じた違和感が何だったかは断言できないけれど、厚化粧で妙な圧迫感があり、心底から音に浸れない心地わるさがあったように思う。
そして、その原因はやはりオーバープロデュース、いいかえれば、楽曲が”作品”から”商品”へと変化しはじめたことが大きいような気がする。
■ Michael McDonald 「Our Love」 (1985)
個人的には「AORの時代」の終焉を告げたと思っている名曲。
■ Patti Austin 「if I belive」 (1985/Qwest)
Quincy Jonesの秘蔵娘、Patti Austinの名曲。女性Vo.だが、これも「AORの時代」の幕引きを感じる曲のひとつだと思う。
音楽をめぐる環境もこのころ大きな変貌を遂げていた。
MTVが一躍人気を集め、若者向けの飲食店などでもふつうに流されていた。
楽曲のよしあしより、ビデオクリップのできに話題が集中し、「ビデオクリップのでき(=MTVでの見映え)が悪いと、曲がよくてももはやヒットしない。」などと揶揄されたりした。
一方、1982年秋に発売が開始されたCDは、またたく間に市場シェアを上げ、1986年にははやくも販売枚数ベースでLPを追い抜いた。
CDはたしかに手軽で便利だが、はじめてその音を聞いたとき感じたいいようのない違和感はいまでも忘れられない。
妙な閉塞感があり、スネアやハイハットの音がすこ~んときれいに抜けないのだ。
「これはひょっとして音楽のつくり方や質じたいが変わっていくのでは?」という漠たる予感があった。
そして、事態はその予感をはるかに超えるスピードで進行した。
この頃Rapはますます勢力を拡大し、「hip hop(いまで言う”Old School”)」といわれる一大ムーブメントを形成しつつあった。
おりしもRock Steady Crewなどにより紹介されたブレイクダンス(breakin')が日本でも広まり、1983年_On SaleのHerbie Hancockは「Rock it」でGrandmixer DSTのスクラッチをとり入れ一世を風靡したのは↑に書いたとおり。
このような動きは当然のことながらRock/Pop Marketにも大きな影響を与え、次第にストリート感やアグレッシブな雰囲気が求められるようになっていった。
メロディ・ハーモニー・リズムがバランスよく構成されていたそれまでの楽曲にくらべ、リズム(というかピッチ)が極端に重視されるようになった。
これは端的にいうと、「メロディの時代」から「リズム(ピッチ)の時代」への転換だったのではないか・・・。
単発的にこういう↓名メロ曲はでたけどね。
■ Starship 「We Built This City」 (1985)
■ BRUCE HORNSBY and the Range 「The Way It Is」 (1986)
■ Boy Meets Girl 「Waiting for a Star to Fall」 (1988)
いま振り返ると、ポピュラーミュージックをめぐるこのような環境の変化が重なって、(すくなくともわたしにとっては)「新譜を聴くのがあまり面白くない時代」に入っていったのではないかと思う。
決定的だったのは、ストック・エイトキン・ウォーターマン (Stock Aitken Waterman/SAW)絡みのプロジェクトがメインストリームとなったこと。
数年前までは、こんな4つ打ちベタメロ曲が、まさか洋楽から出てくるとは思いもしなかった・・・。
■ Kylie Minogue 「Turn It Into Love」 (1988)
これだったら日本でも作れるし洋楽聴く必要ないじゃん、と思ったわけです私的には。
で、やっぱり日本でも大ヒットとなったわけです。↓
■ WINK 「愛が止まらない」 (1988)
このあたりについては→■ 4つ打ちとグルーヴ (音のスキマ論-0)に書いているので、ご興味のある方はどーぞ。
(さらにもう1回つづきます。)
→■ utsuboの音楽遍歴-5 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)
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■ utsuboの音楽遍歴-1 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)
■ utsuboの音楽遍歴-2 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)
■ utsuboの音楽遍歴-3 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)
■ utsuboの音楽遍歴-4 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)【1983年洋楽ピーク説】
■ utsuboの音楽遍歴-5 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)
■ 黄金の世代?(カラバトU-18が強い件)
■ 1983年洋楽ピーク説(名曲編)
■ AOR系名曲を100曲! ※リンク切れあり
■ AC全盛期('70年代後半~'80年代前半)のリズム
■ AC全盛期('70年代後半~'80年代前半)のデュエット
■ プログレハードの名曲
■ 女神系歌姫 (ハイトーンJ-POPの担い手たち)【リニューアル】
■ 女神系歌姫【Angel Voice列伝 】のリスト(110曲)(カラバトU-18系含まず、リンク切れ多数)
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■ 「Xメロ」の名曲12曲
確信的に「Xメロ」の名曲はなかなか見つからないけど、2曲追加してみました。
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2024/07/22 UP
先ほど放送のザ・カセットテープ・ミュージック「謎のメロディ・Xメロとは」。
これはよかった。
番組紹介で「Xメロ」をつぎのように定義している。
「Aメロ、Bメロ、サビ、Cメロなどと言われるメロディ区分の中でも、“曲中一度しか出てこないメロディ”に注目!『大サビ』とも言われるこの謎のメロディを『Xメロ』とマキタが名づけ、90年代以降のJPOPのヒット曲に出てくる『Xメロ』を次々に聴いていきます。」
個人的には「Xメロ」と「大サビ」は違うと思うけど、どちらもメロディを余しているワケだから、作曲者やアレンジャーが絶好調のときの楽曲が多い。
ちがうかもわからんが、筆者が「Xメロ」と勝手に思い込んでる曲を思いつくままに10曲ほどあげてみます。
例によって女性Vo限定です。
■ あなたに会えてよかった - 小泉今日子
3:15~「思い出が 星になる~」のフレーズが確信的に「Xメロ」。
こんな不安定なフレーズつかって、よく破綻しないと思う。
ドミナントだらけの展開で、アウトロだけしっかりトニックって、笑いしかない。
名曲中の名曲だと思う。
■ One Reason - milet
miletはかなり変化のある楽曲が多い。
2:52~がおそらく「Xメロ」。
落ちサビを挟んで転調~サビ回帰の威力は抜群。
■ LANI~HEAVENLY GARDEN~ - ANRI/杏里
杏里もさりげに「Xメロ」を織り込む。
だからアルバム通して聴いても飽きがこない。
3:15~「空と大地が溶けて~」がたぶん「Xメロ」。
そのあとの転調とサビ回帰のお約束の展開。
■ Story Teller(ゆめいろアルエットOST) - Kicco
アニソン、ゲーム系も「Xメロ」の宝庫。
意外とクリエイターに遊びが許されているからかも。
2:14~「僕の服の袖も~」、4:33~「僕の腕を握り~」。
2回出てくるから厳密には「Xメロ」じゃなくて「大サビ」だと思うが、意表をついたメロ展開はいかにも「Xメロ」的。
■ Butterfly - 木村カエラ(Covered)
「Xメロ」曲はイントロからしていい曲が多い。
これ、いきなりイントロから転調してるし・・・。
3:53~「運命の~」がラストフレーズだけど「Xメロ」では?
■ CAN YOU CELEBRATE? - 安室奈美恵(Covered)
小室哲哉氏も当然ながら「Xメロ」の使い手。
3:44~「間違いだらけの道順」がたぶん「Xメロ」。
この曲の難易度を1ランク上げている不安定なフレーズ。
歌い手の技量を問いまくる小室哲哉氏らしい展開。
■ Shunkan (瞬間) - 藤田麻衣子
天才肌の藤田麻衣子も「Xメロ」を多用する。
3:11~「形には残らないものだから~」が、思いっきりエモーショナルな「Xメロ」。
■ Because - LGYankees Feat.中村舞子
”セツナ系”は長尺曲が多く、「Xメロ」もかなり使われていた。
3:45~「お守りに触れるよに~」と4:40~「そばにいてほしい」がおそらく「Xメロ」。
中村舞子、「Xメロ」の扱い巧すぎ。
■ Everlasting Song - FictionJunction
梶浦由記さんも当然「Xメロ」の使い手。
5:44~「手を取って二人で奏でる~」がおそらく「Xメロ」。
ここだけ主旋律が強力なユニゾンになるので余計に「Xメロ」っぽい。
■ ここにあること - ふわりP/@うさ(歌ってみた)
ボカロ曲は「Xメロ」が多い。
2:30~「オレンジいろの そらのかげ~」以降、ほとんどすべてが「Xメロ」じゃないかと思えるほどのもの凄い曲。
「Xメロ」?+転調のバラエティではピカ一とも思える名曲かつ超難曲。
歌いこなせる人はごくごく一握りだと思う。
■ グッドタイムズ&バッドタイムズ - 佐野元春
17:24~「その寂し気な瞳~」が確信的に「Xメロ」。
しかしこれほど不安定な「Xメロ」を、破綻することなく織り込める佐野元春の才能のキレおそるべし!
■ Over and Over - Every Little Thing
2:47~「悲しみの数だけ~」と3:14~「恋に落ちると 時に誰かを~」がおそらく「Xメロ」でなんと二重の「Xメロ」。
これだけの好メロ曲があまり売れなかったのは、メロディが複雑過ぎたからかもしれぬ。
なんか、名曲と思ってる曲のほとんどが「Xメロ」絡みぽっいんですけど・・・(笑)
個人的に長尺曲好きだし、長尺曲は「Xメロ」絡めないともたない、ってのもあるかと思う。
確信的なやつがみつかったら、追加していきます。
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2024/07/22 UP
先ほど放送のザ・カセットテープ・ミュージック「謎のメロディ・Xメロとは」。
これはよかった。
番組紹介で「Xメロ」をつぎのように定義している。
「Aメロ、Bメロ、サビ、Cメロなどと言われるメロディ区分の中でも、“曲中一度しか出てこないメロディ”に注目!『大サビ』とも言われるこの謎のメロディを『Xメロ』とマキタが名づけ、90年代以降のJPOPのヒット曲に出てくる『Xメロ』を次々に聴いていきます。」
個人的には「Xメロ」と「大サビ」は違うと思うけど、どちらもメロディを余しているワケだから、作曲者やアレンジャーが絶好調のときの楽曲が多い。
ちがうかもわからんが、筆者が「Xメロ」と勝手に思い込んでる曲を思いつくままに10曲ほどあげてみます。
例によって女性Vo限定です。
■ あなたに会えてよかった - 小泉今日子
3:15~「思い出が 星になる~」のフレーズが確信的に「Xメロ」。
こんな不安定なフレーズつかって、よく破綻しないと思う。
ドミナントだらけの展開で、アウトロだけしっかりトニックって、笑いしかない。
名曲中の名曲だと思う。
■ One Reason - milet
miletはかなり変化のある楽曲が多い。
2:52~がおそらく「Xメロ」。
落ちサビを挟んで転調~サビ回帰の威力は抜群。
■ LANI~HEAVENLY GARDEN~ - ANRI/杏里
杏里もさりげに「Xメロ」を織り込む。
だからアルバム通して聴いても飽きがこない。
3:15~「空と大地が溶けて~」がたぶん「Xメロ」。
そのあとの転調とサビ回帰のお約束の展開。
■ Story Teller(ゆめいろアルエットOST) - Kicco
アニソン、ゲーム系も「Xメロ」の宝庫。
意外とクリエイターに遊びが許されているからかも。
2:14~「僕の服の袖も~」、4:33~「僕の腕を握り~」。
2回出てくるから厳密には「Xメロ」じゃなくて「大サビ」だと思うが、意表をついたメロ展開はいかにも「Xメロ」的。
■ Butterfly - 木村カエラ(Covered)
「Xメロ」曲はイントロからしていい曲が多い。
これ、いきなりイントロから転調してるし・・・。
3:53~「運命の~」がラストフレーズだけど「Xメロ」では?
■ CAN YOU CELEBRATE? - 安室奈美恵(Covered)
小室哲哉氏も当然ながら「Xメロ」の使い手。
3:44~「間違いだらけの道順」がたぶん「Xメロ」。
この曲の難易度を1ランク上げている不安定なフレーズ。
歌い手の技量を問いまくる小室哲哉氏らしい展開。
■ Shunkan (瞬間) - 藤田麻衣子
天才肌の藤田麻衣子も「Xメロ」を多用する。
3:11~「形には残らないものだから~」が、思いっきりエモーショナルな「Xメロ」。
■ Because - LGYankees Feat.中村舞子
”セツナ系”は長尺曲が多く、「Xメロ」もかなり使われていた。
3:45~「お守りに触れるよに~」と4:40~「そばにいてほしい」がおそらく「Xメロ」。
中村舞子、「Xメロ」の扱い巧すぎ。
■ Everlasting Song - FictionJunction
梶浦由記さんも当然「Xメロ」の使い手。
5:44~「手を取って二人で奏でる~」がおそらく「Xメロ」。
ここだけ主旋律が強力なユニゾンになるので余計に「Xメロ」っぽい。
■ ここにあること - ふわりP/@うさ(歌ってみた)
ボカロ曲は「Xメロ」が多い。
2:30~「オレンジいろの そらのかげ~」以降、ほとんどすべてが「Xメロ」じゃないかと思えるほどのもの凄い曲。
「Xメロ」?+転調のバラエティではピカ一とも思える名曲かつ超難曲。
歌いこなせる人はごくごく一握りだと思う。
■ グッドタイムズ&バッドタイムズ - 佐野元春
17:24~「その寂し気な瞳~」が確信的に「Xメロ」。
しかしこれほど不安定な「Xメロ」を、破綻することなく織り込める佐野元春の才能のキレおそるべし!
■ Over and Over - Every Little Thing
2:47~「悲しみの数だけ~」と3:14~「恋に落ちると 時に誰かを~」がおそらく「Xメロ」でなんと二重の「Xメロ」。
これだけの好メロ曲があまり売れなかったのは、メロディが複雑過ぎたからかもしれぬ。
なんか、名曲と思ってる曲のほとんどが「Xメロ」絡みぽっいんですけど・・・(笑)
個人的に長尺曲好きだし、長尺曲は「Xメロ」絡めないともたない、ってのもあるかと思う。
確信的なやつがみつかったら、追加していきます。
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■ 鎌倉市の御朱印-10 (B.名越口-5)
書きかけの「鎌倉市の御朱印」に戻ります。
しばらくつづけます。
■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)から。
33.蛭子神社(ひるこじんじゃ)
神奈川県神社庁Web
鎌倉市小町2-23-3
御祭神:大己貴命
旧社格:村社、神饌幣帛料供進神社、小町一帯の産土神
元別当:妙厳山 本覚寺(鎌倉市小町)
蛭子神社は小町大路に面する小町地区の鎮守社です。
蛭子神社の縁起沿革はすこぶる複雑で、本覚寺内の夷三郎社、宝戒寺内の山王大権現、現在地に御鎮座の七面大明神の合祀といいます。
各社の縁起沿革を順に追ってみます。
【 夷三郎社(夷堂) 】
滑川は鎌倉十二所、二階堂方面から鶴岡八幡宮東脇~若宮大路に沿って流れ、由比ヶ浜に注ぐ鎌倉随一の河川です。
源頼朝公は鎌倉幕府の裏鬼門除けのために小町大路が滑川を渡る橋のたもとに「夷三郎社」(夷堂)を祀ったといい、この橋を「夷堂橋」といいます。
当所は小町と大町の境。
夷堂橋の上に立って左右を眺めると西は本覚寺山門、東は妙本寺参道で、信仰的にも重要な場であることがわかります。
【写真 上(左)】 夷堂橋の石碑
【写真 下(右)】 夷堂橋から本覚寺
「本覚寺公式Web」「鎌倉公式観光ガイド(鎌倉市観光協会)」等によると、夷堂はもともと天台宗系でしたが、文永十一年(1274年)流罪の地・佐渡から鎌倉に戻られた日蓮聖人が約40日間滞在されたお堂といい、鎌倉幕府に対して三度目の諫暁をされ、受け入れられなかったために身延への隠棲を決められたと伝わります。
鎌倉幕府滅亡(正慶二年(1333年))の際に焼失したともいいますが、永享八年(1436年)この地にあった天台宗夷堂を、一乗房日出上人が日蓮宗に改め開創したのが本覚寺と伝わります。
Wikipediaには、「永享法難」をめぐる一乗房日出上人と本覚寺創建の由来が記されています。抜粋引用します。
---------(抜粋引用はじめ)
永享八年(1436年)、気鋭の布教伝道で名高い一乗房日出が常在山本覺寺(静岡県三島市)から鎌倉へ転出するも、足利持氏は弾圧処分を試みた。これに反発する信徒衆が荒居閻魔堂(現・新居山圓應寺)に集結し一触即発の状態になった。持氏はこの騒動が“鎌倉府討伐の口実”となる事を憂慮し処分を撤回。更に日出に対して日蓮の国家諌暁ゆかりの夷堂とその社領12000坪を寄進して法華寺院の建立を認めた。これが本覺寺創建の由来と伝えられている。
---------(抜粋引用おわり)
夷三郎社(夷堂)は旧地の橋のたもとから本覚寺山内に遷され、ひきつづき夷三郎社と称して山内の鎮守と仰がれましたが、明治初期の神仏分離により同山の管理を離れ、現社地に御鎮座の小町下町の鎮守・七面大明神に合祀されたといいます。
【 宝戒寺内の山王大権現 】
『新編鎌倉志』には「(宝戒寺)山門を入て右にあり。」とあり、小町上町の鎮守といいます。
『鎌倉市史』には「山王権現は応永二年(1395年)二月に宝戒寺住持興顗が山王七社と大行事早尾の御正躰一面を造立している。御神体はもとからあったというから、山王社は恐らく草創と共に勧請されていたのであろう。」とあり、宝戒寺草創当初(観応三年(1352年)頃造営)から山内に御鎮座とみられます。
『山門秘書記』翻刻版(小峯和明氏/PDF)、Wikipediaの「山王権現」によると、山王七社とは日吉大社の本社・摂社・末社二十一社を上・中・下に七社ずつ分けていう呼び名のうち、とくに上の七社をさすといい、大宮(大比叡)・二宮(小比叡)・聖真子・八王子・客人・十禅師・三宮の七所です。
大行事権現は中七社の一社で本地を毘沙門天といい、天台宗寺院の地主神として本堂の裏手等に祀られる例があります。
早尾権現も中七社の一社で本地を不動明王といいます。
上記の山王七社と大行事権現、早尾権現を併せて(宝戒寺の)山王大権現と称していた可能性があります。
明治維新後の神仏分離令により宝戒寺から分離され、現社地に御鎮座の七面大明神に合祀されたといいます。
【 小町下町の鎮守・七面大明神 】
小町下町の鎮守・七面大明神についての縁起沿革は見つかりませんでしたが、神号からおそらく日蓮宗系の尊格と思われます。
以上のとおり、もともと現在地に御鎮座の小町下町の鎮守・七面大明神、本覚寺山内の夷三郎社、宝戒寺山内に御鎮座で小町上町の鎮守・山王大権現の3社を合祀して、明治7年8月蛭子神社を号したとみられます。
明治6年の村社列格を記念して、明治7年社殿を新築。
本殿は、そのときに鶴岡八幡宮末社今宮の社殿を譲り受け移築したものといいます。
昭和15年神饌幣帛料供進神社に指定。
『鎌倉市史』には、旧社殿は関東大震災で大破し、昭和8年改築とあります。
3社合祀の沿革で御祭神が気になるところですが、神奈川県神社庁資料には大己貴命(おおなむちのみこと)と記されています。
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【史料・資料】
■ 『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
夷堂橋
夷堂橋は、小町と大町との境にあり。座禅川の下流なり。昔は此邊に夷三郎社ありしとなり。今はなし。
寶戒寺(山王権現社)
門を入て右にあり。
■ 神奈川県神社庁Web資料
蛭子神社
新編相模風土記稿に「夷堂橋は 此辺に夷三郎社ありしとなり」とある如く、産土神であったが、其所に本覚寺が創建され、地主神として山門の鎮守として奉斎されていたが、神仏分離令により寺内より離れ、小町村の鎮守として明治6年村社に列格された、付近の山王権現、七面大明神などを合祀に明治7年8月、蛭子神社と称した。
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
蛭子神社
ヒルコと読む。祭神、大己貴命。例祭九月十五日。元指定村社。境内地八二.六二坪。拝殿・本殿・社務所あり。本殿は明治七年八月、鶴岡八幡宮の末社今宮の社殿を譲りうけて建立したものである。
小町の鎮守。この所にはもと小町下町の鎮守七面大明神が祀られていたが、神仏分離により本覚寺の鎮守であった夷三郎社をここに移し、かつ上町下町が一村に合され一村に鎮守は一社しかおかぬという達しによって、小町上町の宝戒寺鎮守山王大権現も合祀したという。
夷三郎社は『風土記稿』本覚寺境内図に見えている。いま本覚寺山門前の橋を夷堂橋というのはこの社によってつけられた名といわれている。
宝戒寺の山王も『風土記稿』同寺の項に見えている。現在の社殿は大正十二年関東大震災で大破したが、昭和八年九月改築したもの。
宝戒寺(山王権現の項)
寛永十二年、弁盛が宝戒寺造営のことについて目安を江戸幕府に上った。それによると、境内には本堂・僧堂・鎮守(山王権現)があり、山王権現は応永二年二月に宝戒寺住持興顗が山王七社と大行事早尾の御正躰一面を造立している。
御神体はもとからあったというから、山王社は恐らく草創と共に勧請されていたのであろ
う。
■ 境内掲示(鎌倉市)(「猫のあしあと」様より/抜粋)
鎮守蛭子神社は出雲大社に鎮ります大国主神を御祭神として(里俗夷尊神)と称され、往古永享年間(凡五百余年前)日蓮宗本覚寺前夷堂端の傍に夷堂あり夷三郎社とも称され、同寺の守護神として、又付近住民の氏神様として崇敬されたが、明治維新に神仏分離によりこの地に鎮座し、同時に宝戒寺門前地区の氏神として、同寺境内に祀られし北条一門の守護神山王大権現をも之に合祀し、蛭子神社と称するに至った。
爾来百余年えびす様の愛称で福の神・むすびの神として信仰され遠近より善男善女の参詣多く神賑を極め今日に至った。
■ 鎌倉公式観光ガイド(鎌倉市観光協会)
鎌倉十橋(かまくらじっきょう)/夷堂橋
夷堂橋は、本覚寺門前を流れる滑川に架かる橋で、その名は本覚寺の仁王門前あたりにあったとされる夷堂に由来します。夷堂は源頼朝が御所の裏鬼門に夷神をまつった夷三郎社が始まりで、滑川もこのあたりでは夷堂川とも呼ばれていました。現在夷堂は本覚寺の境内にあります。
夷堂橋(えびすどうばし)
設置場所:小町1-12-12
本覚寺前。鎌倉十橋の一つ。かって、この橋のたもとに源頼朝が幕府の鬼門除けのために創建した「夷三郎社」(夷堂)があったことからこの名前になったと言われています。
本覚寺
小町大路が滑川を渡るところに、源頼朝が幕府の守り神として創建した夷堂がありました。
今も夷堂橋があります。
日蓮が滞在していたお堂で、その後ここから身延山へ旅立ちました。
夷堂は鎌倉幕府滅亡のときに焼け、その跡につくられたのが本覚寺です。
1436(永享8)年、もとこの地にあった天台宗夷堂を日出上人が日蓮宗に改めたのがはじまりと伝えます。
■ 本覺寺公式Web(日蓮宗)
本覺寺の創立は永享8年(1436)ですが、夷堂の歴史はさらに古く、鎌倉時代の初期頃と伝わります。そしてこの夷堂は日蓮聖人とも縁が深く、流罪の地・佐渡から鎌倉に戻られた日蓮聖人が、40数日滞在されたといわれています。その間に、日蓮聖人は鎌倉幕府へ3度目の諫暁をされ、受け入れられなかったために身延への隠棲を決められるなど、後の布教のあり方などを大きく変えられました。
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
本覚寺
寺ではこの地は『吾妻鏡』にみえる夷堂の地であるという。そして日蓮は佐渡から帰ってここに留錫し、この地から身延に移った。夷堂はもと天台宗の寺であったといい、その本尊と伝える釈迦・文殊・普賢の像がある。日出が改宗して創建した。
『風土記稿』所蔵の絵図には、夷三郎社・番神堂・祖師分骨堂などもみえる。
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鎌倉駅にもほど近い小町大路に面して御鎮座、「日蓮上人辻説法跡」にも至近です。
小町大路に面する社頭・参道の間口は広くなく、あまり目立たないので観光客の参拝はさほど多くはないのでは。
御朱印が授与されていることも、あまり知られていないかと思います。
【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 社号標
社頭に社号標と亀腹を置く明神鳥居で、社号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 鳥居扁額
【写真 下(右)】 参道
しかしながら小町の鎮守であり、鎌倉有数の名刹、本覚寺、宝戒寺と古いゆかりをもつこともあってか、参道を進むにしたがい神さびた空気感に包まれます。
桟瓦葺で木鼻獅子や蟇股を備えた立派な手水舎。
手水鉢には「魚がし」の刻字。
【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 斜めからの拝殿
拝殿は南面し、向かってすぐ右手(東側)は滑川です。
【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 拝殿扁額
拝殿は入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、向拝上に唐破風を置いています。
水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に精緻な彫刻を置いています。
唐破風の鬼板や兎の毛通しも見事な出来映えで見応えがあります。
向拝正面桟唐戸の上部に、端正な字体の社号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 天水鉢
向拝桟唐戸と殿前の天水鉢とに同じ紋を置いています。
梶の葉紋系統にも思えますが、諏訪系の梶の葉紋とは趣を異にしていて、他の神紋を当たってみましたが該当する紋がみつからず、よくわかりません。
御朱印は大町の八雲神社にて拝受しました。
〔 蛭子神社の御朱印 〕
34.長慶山 正覺院 大巧寺(だいぎょうじ)
公式Web
鎌倉市小町2-17-20
単立(日蓮宗系)
御本尊:産女霊神(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:-
大巧寺は小町にある日蓮宗系単立寺院で、「おんめさま」の愛称で親しまれています。
当初は十二所の梶原屋敷内にあったといい、長慶山正覺院大行寺と号す真言宗寺院でした。
大行寺は頼朝公の祈願所で、この寺で軍評定した戦に勝利したため大巧寺と改めたといいます。
後に小町の現在地に移転。
日蓮聖人が妙本寺御在時の折、住僧が聖人に帰依して日蓮宗に改宗。
開山は九老僧の日澄上人とも日證上人とも伝わります。
「(朗門の)九老僧(朗門九鳳)」とは、日蓮六老僧の一人・筑後房日朗上人の9人の高弟を指します。
日澄上人 (大乗坊、1239-1326年?)は、比企谷門流の僧で九老僧(朗門九鳳)のひとりです。
『新編相模國風土記稿』には、小田原の妙珍山圓成院蓮昌寺の項で当山開山が九老ノ一、形善院日澄上人(文保元年(1317年)卒)であること。開基は小田原の濱名豊後守時成(永仁六年(1298年)卒)であること。時成は日蓮上人の投宿に随喜して出家し、妙音院日行を号したこと。時成の子は祖母妙珍尼に養われ、七歳で出家し日澄と号したこと。北條氏政の家臣・濱名時成は鎌倉小町大巧寺の檀那で、天正三年(1575年)大巧寺に寺領を寄附したこと。法名を妙法といい大巧寺に墓があり、子の蓮真と母妙節等の碑があることなどが記されています。
神奈川県平塚市の松雲山 要法寺の公式Webには、歴代上人として「二祖 九老僧 形善院日澄上人」「喜暦元(丙寅)年(1326年)八月1日化 池上大坊開山 本要阿闍梨小田原浜名豊後守時成長男」とあります。
また、池上大坊 本行寺の公式Webにも、「3祖大乗阿闍梨 形善院 日澄(嘉歴1(1326)没)」と明記されています。
上記から、大巧寺は小田原で日蓮上人に宿を提供した濱名豊後守時成(永仁六年(1298年)卒)の子で、九老僧のひとり形善院日澄上人(嘉歴元年(1326年)寂)の開山ともみられます。
しかし、天正三年(1575年)大巧寺に寺領を寄附した檀那・濱名時成は北條氏政(1538-1590年)の家臣で、鎌倉時代と戦国時代にそれぞれ2人の濱名時成が大巧寺とゆかりをもったことになりますが、詳細は不明です。
なお、濱名氏は源三位頼政の子孫といわれ、「鵺退治」で有名な頼政が恩賞に賜った遠江国堀之内郷を領したことから「鵺代」とも称しました。
濱名詮政は足利将軍義満公の信任厚かった記録があり、著名な歌人を輩出したことでも知られていますが、濱名氏の本拠は遠江で戦国期は今川氏との関係が深く、小田原や鎌倉に拠点をもった濱名時成がこの系統かどうかは不明です。
大巧寺は妙本寺の院家寺院でしたが、現在は単立寺院となっています。
大巧寺は安産祈願で有名で、「安産腹帯守」を求めて多くの参詣者があります。
安産祈願は『産女霊神縁起』にもとづくものです。
詳細は公式Web(PDF)で紹介されていますが、概要は以下のとおりです。
当山第五世日棟上人は毎夜妙本寺の祖師堂に詣でていましたが、天文元年(1532年)4月のある夜、夷堂橋の脇で産女の霊と遭遇しました。
やつれた様子の産女の霊は、日棟上人に自分は大倉に住む秋山勘解由の妻で難産によりこの世を去ったが、死出の旅路に迷って成仏できない。
どうぞよしなに回向をいただき成仏に導いていただきたいと訴えました。
哀れに思った日棟上人は法華経を読経して回向すると、女はいつのまにか姿を消していました。
数日後、日棟上人の前にみちがえったように美しい件の産女が現れ、上人の回向により成仏できたことを謝し、布に包んだ金銭を奉じたうえで、夫の秋山勘解由にこの経緯を伝え、宝塔を建立し供養して欲しいと訴えました。
そして、宝塔を供養してくれればその恩返しとして、今後、この塔に妊婦が参詣すれば安産となるよう尽力することを伝えました。
上人はこの願いに報いることを約すと、すぐに大倉の秋山勘解由を訪れました。
勘解由はこの話におどろきましたが、妻が日頃からこつこつとお金を蓄えていたこと、上人に奉じた金銭を包んでいた布は、妻が残した小袖の片袖であったことがわかりました。
勘解由は妻の回向を上人に深く謝し、自らも上人と師壇の契りを結んで宝塔建立への協力を申し出ました。
上人は「産女霊神」と号して産女の霊を祀り、宝塔を建立して手厚く供養しました。
この縁起を聞いて妊婦が参詣すると、みな安産となったので、当山は安産祈願で有名となったといいます。
この縁起を読んだとき、疑問に感じたことがあります。
・秋山勘解由について
鎌倉に秋山姓は少ないですが、あえて「大倉に住む秋山勘解由」と明記していること。
・上人への宝塔建立のお布施
諸史料は秋山勘解由の財産ではなく、産女の私財と強調していること。
・天文元年(1532年)という年号
Web検索していくと、「おんめさま 産女(うぶめ)伝説 (私説)」という記事がみつかりました。
秋山姓は甲斐発祥の甲斐源氏で、のちに武田二十四将の秋山伯耆守虎繁(信友)を生んでいます。
そして、天文三年(1534年)には武田信玄の正室・上杉の方(上杉朝興の息女)が難産で逝去しています。
上の記事では、私説として「おんめさま」と上杉の方との関係を示唆しています。
そこで筆者の想像も含めて整理してみます。
秋山氏は甲斐源氏・加賀美遠光の嫡男・光朝を祖とし、巨摩郡秋山を領しました。
秋山光朝は上京して平重盛に仕え、重盛の息女(六女・茂子)を室としたといいます。
平家滅亡後に甲斐に戻りますが、一時平家に使えていたことで頼朝公にうとまれ、居城雨鳴城を攻められ自害、あるいは鎌倉で暗殺されたともいいます。
しかし子孫は存続し、同族の甲斐武田氏に属しました。
武田家の重臣であった秋山伯耆守虎繁は大永七年(1527年)の生まれですから、上杉朝興の息女が武田晴信(信玄公)に嫁いだ天文二年(1533年)には一族の誰かが上杉の方の甲斐での後見役ないし世話役に任ぜられた可能性もあるのでは。
話が飛びますが戦国末期、穴山信君は甲斐源氏で武田家臣の秋山越前守虎康の息女を養女とし、この養女は天正十年(1582年)、信君が織田・徳川氏に臣従した際に徳川家康公の側室となりました。(下山殿/お都摩の方)
下山殿は天正十一年(1583年)、家康公の五男・万千代君(武田信吉公)を出産。
信吉公は下総小金城3万石~下総佐倉城10万石と移り、佐竹氏に替わって水戸25万石の太守となり、旧武田遺臣を付けられて武田氏を再興するやにみえましたが、慶長八年(1603年)21歳で死去し武田氏再興はなりませんでした。
下山殿は天正十九年(1591年)下総国小金にて早逝。平賀の日蓮宗の名刹・長谷山 本土寺に葬られました。
また、下山殿の実父(武田信吉公の実祖父)・秋山虎康は松戸市大橋の地に止住し、慶長元年(1596年)に了修山 本源寺を開山しているのでおそらく日蓮宗信徒です。
下山殿の「下山」は身延町下山から称したといいます。
『穴山氏とその支配構造』/町田是正氏(PDF)には「(秋山氏の祖)秋山太郎光朝の末の下山氏の住する処で(中略)『日蓮聖人遺文』にも下山氏の存在が記される所」とあり、下山殿の実家の秋山氏は、京よりはやくに讃岐に日蓮宗を伝えた(→ビジネス香川)ともいいますから、そんなこともあって日蓮宗寺院と秋山氏は結びつきやすかったのかもしれません。
さすがに話が飛びすぎました。
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信玄公の正室を三条の方(左大臣・三条公頼の次女)とする資料もありますが、正式には継室で、正室は上杉の方です。
上杉の方が嫁いだとき信玄公はわずか13歳で、上杉の方も同年代といいます。
天文三年(1534年)に出産の折、年若い上杉の方は難産であえなく逝去されました。
その頃、上杉の方の父・上杉朝興は扇谷上杉家の家督を嫡男・朝定に譲ったものの川越城に依り、相模国に盛んに兵を出しています。
年若くして難産で世を去った息女の供養は、父親としてごく自然な感情です。
しかし、当時の扇谷上杉家は古河公方、関東管領(山内上杉家)、武田家、後北条家、越後長尾家などとすこぶるデリケートな関係にあり、政略結婚で命を落とした娘の供養を、(娘に仕えていた)秋山勘解由の妻に託したという想像もあるいは許されるかもしれません。
また、秋山勘解由の在所は大倉(大蔵)で旧・大蔵幕府の跡、かつては幕政の中心地で官吏なども住んでいたと思われます。
上杉朝興は扇谷上杉家で関東管領ではないですが、関東管領(山内上杉家)に比肩する勢力をもち、その家人や与力衆はこの辺に住んでいたかもしれません。
勘解由の名も官吏・文官的な性格をイメージさせます。
このような背景から「おんめさま 産女(うぶめ)伝説 (私説)」は、「彼女(上杉の方)に仕えていた秋山勘解由の妻は、葬儀を終えて鎌倉の大倉に帰って来た。彼女の死後1年を過ぎて、自宅近くの寺に彼女を弔った。傷心の上杉朝興(46歳)は、彼女を通じて寺に寄進をし、娘の菩提を弔う秋山勘解由の心遣いを喜んだ。」という私説を展開されているのでは。
なお、大巧寺と上杉の方・上杉朝興の関係を示唆する史料は見当たらないので、上の内容はあくまでも想像で、お寺の紹介としてはいささか飛躍が過ぎたかもしれません。
いずれにしても、大巧寺は寺院が集まる鎌倉市内でも「安産祈願」という格別のご利益をもって広く信仰を集めていることは間違いありません。
寺宝で、産女霊神神骨を収めるという宝塔(水晶五輪塔)は、旧本山の妙本寺に預けられていましたが、平成23年に返却されて以降、当山にて格護されています。
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【史料・資料】
■ 『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
大巧寺
大巧寺は、小町の西頰にあり。相伝、昔は長慶山正覺院大行寺と号し、真言宗にて、梶原屋敷の内にあり。後に大巧寺と改め、此地に移すとなり。梶原屋敷の條下に詳なり。昔し日蓮、妙本寺在世の時、此寺法華宗となり、九老僧日澄上人を開山とし、妙本寺の院家になれり。(略)
産女寶塔
堂の内に、一間四面の二重の塔あり。是を産女寶塔と云事は、相伝ふ、当寺第五世日棟と云僧、道念至誠にして、毎夜妙本寺の祖師堂に詣す。或夜、夷堂橋の脇より、産女の幽魂出て、日棟に逢、廻向に預て苦患を免れ度由を云。日棟これが為に廻向す。産女、䞋金一包を捧て謝す。日棟これを受て其為に造立すと云ふ。寺の前に産女幽魂の出たる池、橋柱の跡と云て今尚存す。夷堂橋の小北なり。
寺宝
曼荼羅 三幅 共に日蓮の筆。
無邊行菩薩名号 日蓮筆。
日蓮消息 壱幅
曼荼羅 壱幅 日朗筆。
舎利塔 壱基 五重の玉塔なり。
濱名石塔 北條氏政の家臣、濱名豊後守時成、法名妙法、子息蓮眞、母儀妙節、三人の石塔なり。
番神堂 濱名時成建立すと云。
梶原屋敷 附大巧寺𦾔跡
梶原屋敷は五大堂の北方山際にあり。梶原平三景時が𦾔跡なり。『東鑑』に、景時は正治二年(1200年)十二月十八日に、鎌倉を追出され、相模国一宮へ下る。彼家屋を破却して、永福寺の僧坊に寄附せらるとあり。頼家の時也。今此所に、大なる佛像の首ばかり、草庵に安置す。按ずるに『東鑑脱漏』に、安貞元年(1227年)四月二日、大慈寺の郭内に於て、二位家平政子第三年忌の為に。武州泰時、丈六堂を建らるとあり。此所大慈寺へ近ければ、疑らくは其丈六佛の首ならんか。又里老云、昔大行寺と云真言寺此所にあり。頼朝の祈願所にて、或は此寺にて、軍の評議して勝利を得られたり。故に大巧寺と改む。後に小町へ移し、日蓮宗となる。今の小町の長慶山大巧寺なりと、しかれども、『東鑑』等の記録に不見。按ずるに、五大堂を大行寺と号すれば、昔の大行寺の跡は、五大堂を云ならんか。不分明也。
■ 『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
大巧寺
長慶山正覺院ト号ス。法華宗 古大行寺ト号シ。真言宗ニテ。今唱フル。梶原屋敷ノ内ニアリ。頼朝ノ祈願所タリ。或時此寺ニテ。軍評定妙本寺大町村ニ在シ時。当寺住僧帰依シテ改宗シ。日證ヲ開山トシ。妙本寺ノ院家ニ属セリ。(略)
天正三年(1575年)二月。濱名豊後守時成。鎌倉能成分。六貫文ノ地ヲ寄附ス。(略)
本尊ハ三寶諸尊ヲ安ス。(以下略)
■ 『新編相模國風土記稿12』(国立公文書館デジタルアーカイブ)
蓮昌寺(小田原筋違橋町)
日蓮宗。鎌倉比企谷妙本寺末。妙珍山圓成院ト号ス。開山日澄。形善院ト號ス。九老ノ一、文保元年八月十日卒。傳云。文永十一年(1274年)五月。日蓮身延ヘ入山ノ時。憩ヒシ旧蹟ニテ。後ニ一寺トナル。開基濱名豊後守時成。寺傳云。宗祖身延入山ノ時。当所豊後守時成ノ館ニ投宿セリ。其時時成随喜シテ出家シ。妙音院日行ト号ス。永仁六年(1298年)二月五日。尾州熱田ニテ卒ス。一子アリ。祖母妙珍尼ニ養レ七歳にて出家ス。日澄ト号ス。即当寺開山ナリ。日澄其祖父蓮昌。祖母妙珍菩提ノ為。当寺ヲ開キ。即祖父母ノ法号ニヨリテ。寺山号ニ名けケシト云。今按スルニ豊後守時成ハ。北條氏政ニ仕ヘシ人ニテ。鎌倉小町大巧寺ノ檀那ナリ。天正三年(1575年)二月。大巧寺ニ時成寺領を寄附セシ券状。今ニ彼寺ニ傳フ。又同寺ニ墳アリ。法名妙法ト云。其子蓮真母妙節等ノ碑モアリ。然ルヲ時成日蓮ノ弟子トナリ。日澄ヲ其子トナスノ類。(以下略)
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
大巧寺
長慶山正覺院大巧寺と号する。日蓮宗系 単立宗教法人。もと妙本寺の院家。
開山、日澄。本尊、産女霊神。本堂・庫裏・山門・門あり。
産女宝塔は妙本寺に預けてある。
寺伝によると、大巧寺はもと大行寺と号した。真言宗の寺で十二所にあり、頼朝が軍の評議をしたところであるという。また日蓮が妙本寺にいたとき、時の住持が帰依して文永十一年(1274年)に改宗したという。(略)
産女様
当寺は俗におうめさまといい、安産のお守りを出す。これは五世日棟が産女の幽魂を鎮めたところから起こったといわれている。
■ 山内掲示(鎌倉市)
宗派 日蓮宗系単立寺院
山号寺号 長慶山大巧寺
開山 日澄上人
初め「大行寺」という名でしたが、源頼朝がこの寺で行った軍評定(作戦会議)で大勝したので、「大巧寺」に改めるようになったと伝えられています。
室町時代の終わり頃、この寺の住職の日棟上人が、難産で死んだ秋山勘解由の妻を供養して成仏させました。その後、お産で苦しむ女性を守護するために、「産女霊神(うぶすめれいじん)」を本尊としてお祀りしました。
今も安産祈願の寺として、「おんめさま」の愛称で呼ばれ、多くの方が参詣されています。
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若宮大路と小町大路双方に接し、鎌倉駅からもっとも近い寺社のひとつです。
たいていの鎌倉ガイドに載っているので、観光客の参詣も多いとみられます。
【写真 上(左)】 若宮大路口
【写真 下(右)】 寺号標
若宮大路に面して整った石積みの参道とその奥に山門。
参道入口の「安産子育 産女霊神 長慶山大巧寺」の標石、そして参道の正中に据えられた石が目立ちます。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 参道
山門は脇塀付切妻屋根銅板葺のおそらく四脚門で、渋い朱塗りが趣を添えています。
石畳の参道は、右手のビルの存在感はあるものの緑豊かで四季折々の花が咲くようです。
【写真 上(左)】 小町大路口
【写真 下(右)】 小町大路口のお題目塔
小町大路側からも参道が伸び、入口には寺号を配したお題目塔とその奥には門柱を置いています。
こちらからは本堂が正面で、本来の参道はこちら側かもしれません。
こちらの参道も緑豊かで、雑踏の鎌倉駅至近とは思えない落ち着いた空間です。
【写真 上(左)】 小町大路側の門柱
【写真 下(右)】 手水舎
山内に産女霊神、福子霊神の石の墓碑がありますが、写真は撮っておりません。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝上部
本堂は入母屋造銅板棒葺流れ向拝で、向拝上に整った唐破風を置いています。
水引虹梁両端に獅子・獏(象かも)の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に二本の大瓶束と、その間に風格ある龍の彫刻を置いています。
彫刻の上段には笈形(おいがた)付大瓶束(たいへいづか)で、兎の毛通し&鬼板も配して見応えがあります。
向拝は桟の上に白壁(?)を置いた個性的な扉で、見上げの本蟇股とその上の三連の斗栱も存在感があります。
【写真 上(左)】 向拝中備
【写真 下(右)】 授与所
御首題・御朱印は本堂よこの授与所で拝受しましたが。Web情報によるとタイミングにより授与を休止されることもあるようです。
こちらの授与所では安産腹帯守が授与されています。
戌の日および大安の休日にはたいへん混雑するようです。
〔 大巧寺の御首題・御朱印 〕
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 御朱印
35.妙厳山 本覺寺(ほんがくじ)
日蓮宗公式Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市小町1-12-12
日蓮宗
御本尊:三宝祖師(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:鎌倉十三仏霊場第3番、鎌倉・江ノ島七福神(恵比寿)
司元別当:蛭子神社(鎌倉市小町)
本覺寺は小町にある日蓮宗の本山(由緒寺院)です。
身延山久遠寺の日蓮聖人の遺骨を分骨したため「東身延」とも呼ばれます。
鎌倉時代の初期、本覺寺の山門前の滑川にかかる端のたもとには「夷堂」と呼ばれる堂宇がありました。
鎌倉幕府の裏鬼門にあたり、源頼朝公が幕府守護のために夷堂を創建したといいます。
もとは天台宗系でしたが、文永十一年(1274年)に佐渡配流から戻られた日蓮聖人が約40日間にわたって夷堂に滞在され、鎌倉幕府に対し三度目の諫暁をされたものの、受け入れられなかったためついに身延への隠棲を決められたと伝わります。
(この「夷堂」の詳細については、33.蛭子神社を参照願います。)
夷堂は、鎌倉幕府滅亡(正慶二年(1333年))の際に焼失したともいいますが、永享八年(1436年)この地にあった天台宗夷堂を、一乗房日出上人が日蓮宗に改め開創したのが本覺寺と伝わります。
鎌倉公方・足利持氏開基説もみられます。
永享八年(1436年)、日蓮宗の布教伝道で名高い一乗房日出上人が常在山本覺寺(静岡県三島市)から鎌倉へ入られ、天台宗宝戒寺の僧・心海和尚と問答を繰り広げ(永享問答)、これをきっかけに騒動が起こったといいます。(永享法難)
Wikipediaには、「永享法難」をめぐる一乗房日出上人と本覺寺創建の由来が記されています。抜粋引用します。
---------(抜粋引用はじめ)
永享八年(1436年)、気鋭の布教伝道で名高い一乗房日出が常在山本覺寺(静岡県三島市)から鎌倉へ転出するも、足利持氏は弾圧処分を試みた。これに反発する信徒衆が荒居閻魔堂(現・新居山圓應寺)に集結し一触即発の状態になった。持氏はこの騒動が“鎌倉府討伐の口実”となる事を憂慮し処分を撤回。更に日出に対して日蓮の国家諌暁ゆかりの夷堂とその社領12000坪を寄進して法華寺院の建立を認めた。これが本覺寺創建の由来と伝えられている。
---------(抜粋引用おわり)
文安三年(1446年)に日出上人の弟子・行学院日朝上人が第2世として在寺され、15年ののちに身延山久遠寺第11世として入られ、身延山の再興を図られたといいます。
日朝上人は身延山への参詣が難しい老人や女性のために、身延山から日蓮聖人の遺骨を分骨して本覺寺に納めたため、以降当山は「東身延」とも称されました。
また、日朝上人は眼病救護の誓願を立てられたことから、当山は「日朝さま」とも呼ばれ鎌倉の庶民に親しまれました。
日蓮聖人の分骨の権威と、日朝上人の名声により、当山は鎌倉における日蓮宗の名刹の地位を確立し、後北条氏、豊臣氏、徳川氏から代々寺領を安堵され、塔頭末寺併せて10箇寺をもつ中本寺の格式を保ちました。
『新編鎌倉志』には「東三十三箇國、別して関八州の僧録」とあります。
僧録とは、僧侶の登録・住持の任免などの人事を統括した役職をいい、当山が大きな権威をもっていたことがうかがえます。
『鎌倉市史 社寺編』には「嘉永三年(1850年)の境内及び寺領の絵図があり、いまの市役所、市民座、駅前等を含む広い境内であったことがわかる。」とあるので、幕末の当山はすこぶる広大な寺領を有していたことがわかります。
開山七百年の節目にあたる昭和49年には日蓮宗本山(由緒寺院)に昇格し、いまも隆盛を保っています。
日蓮聖人ゆかりの夷堂は、山内鎮守の夷三郎社として祀られたといいますが、明治の神仏分離の際に蛭子神社に合祀されたといいます。
現在の八角形の夷堂は、昭和56年に建立されたものです。
名刹だけに文化財も豊富で、本堂安置の木造釈迦如来 、文殊菩薩、普賢菩薩の三尊像は
南北朝時代の作で宋風のすぐれた作風を伝えるとされ、鎌倉市指定の文化財です。
墓域には、鎌倉の住人で名刀工の正宗の墓があります。
正月三が日の「初えびす」、正月10日の「本えびす」には商売繁盛を願う参詣者たちで賑わい、10月の人形供養も古都・鎌倉の風物詩とされます。
鎌倉・江ノ島七福神(恵比寿)、鎌倉十三仏霊場第3番(文殊菩薩)の札所で、巡拝客や観光客も多く訪れる鎌倉の名所です。
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【史料・資料】
■ 『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
本覺寺
妙厳山と号す。身延山の末寺なり。開山日出上人。永享年中(1429-1441年)に草創すと云伝。此寺は東國法華宗の小本寺也。当寺三世日燿へ、日朝より書を遺して曰、総じて東三十三箇國、別して関八州の僧録に任じ置事に候へば、萬端制法肝要に候と云云。
う々、とありし由鎌倉志に見えたり、今此文書傳はらず。日朝上人は、日出上人の弟子、当寺第二世なり。廿歳にして身延山に住す。身延山第十一祖なり。在住四十年。身延山の諸法式も此代に定む。此書も身延山より遺はすと云ふ。本尊は釋迦・文殊・普賢なり。(以下略)
■ 『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
本覺寺
妙厳山ト号ス。法華宗身延山久遠寺末。永享年中(1429-1441年)ノ草創ニシテ開山ヲ日出(武州ノ人ナリ。始ハ是性坊ト号シ。天台宗ナリシカ。身延山日延ニ帰依シテ改宗シ。一乗坊ト称ス。)ト云フ。
当寺ハ東國法華宗ノ小本寺ナリ。日朝(当寺二世。本寺十一世ナリ。)身延山ニ在シ時。当寺三世日燿ヘ贈リシ書ニ。総して東三十三箇國。別シテ関八州ノ僧録ニ。任シ置事ニ候ヘハ。萬端制法。肝要ニ候云々。トアリシ由。鎌倉志ニ見エタリ。今此文書伝ハラス。(略)
本尊三寶ヲ安ス。又釋迦文殊普賢ノ像アリ。元ノ本尊ト云。
寺寶
曼陀羅一幅。日蓮筆。
日蓮消息十通。
記録一巻。日出天台宗ト問答ノ時。執権某是非ヲ糾シ。又修法ノ怪異ニ驚キ。褒賞シテ。田園ヲ寄附スルノ由。日出ノ書ナリ。巻尾ニ永享八年(1436年)五月晦日トアリ。
古文書十通。其文前ニ註記ス。
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
本覚寺
妙厳山と号する。日蓮宗。もと身延山久遠寺末中本寺。開山、一乗日出。永享八年(1436年)の創建と伝える。
本尊、三宝祖師。境内地二六一四坪。本堂・祖師分骨堂・客殿・庫裏・鐘楼・二王門・横門棟あり。
寺ではこの地は『吾妻鏡』にみえる夷堂の地であるという。そして日蓮は佐渡から帰ってここに留錫し、この地から身延に移った。夷堂はもと天台宗の寺であったといい、その本尊と伝える釈迦・文殊・普賢の像がある。日出が改宗して創建した。
二世日朝の書状に本覚寺大浄坊を関八州の僧録となすことがみえ東身延と称している。
俗に日朝様とよぶ。串川光明寺にある善宝寺寺池の図にみえる法華堂はここのことであろう。(略)
嘉永三年(1850年)の境内及び寺領の絵図があり、いまの市役所、市民座、駅前等を含む広い境内であったことがわかる。
『風土記稿』所蔵の絵図には、夷三郎社・番神堂・祖師分骨堂などもみえる。
なお境内の墓地には正宗の墓と伝えるものがある。
■ 山内掲示(鎌倉市)
宗派 日蓮宗
山号寺号 妙厳山本覚寺
建立 永享8年(1436)
開山 日出
本覚寺のあるこの場所は幕府の裏鬼門にあたり、源頼朝が鎮守として夷堂を建てた所といわれています。
この夷堂を、日蓮が佐渡配流を許されて鎌倉に戻り、布教を再開した際に住まいにしたと伝えられます。その後、鎌倉公方・足利持氏がこの地に寺を建て、日出に寄進したのが本覚寺であるといい、二代目住職の日朝が、身延山から日蓮の骨を分けたので「東身延」と呼ばれています。
日朝は「眼を治す仏」といわれ、本覚寺は眼病に効く寺「日朝さま」の愛称で知られています。
十月は「人形供養」、正月は福娘がお神酒を振舞う「初えびす」でにぎわいます。
鎌倉の住人、名刀工・正宗の墓が境内にあります。
原典:間宮士信 等編『新編相模国風土記稿』第4輯 鎌倉郡,鳥跡蟹行社,明17-21.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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小町大路に接し、鎌倉駅からもっとも近い寺社のひとつです。
鎌倉市内の名所の位置づけで、観光客の参詣も多いとみられます。
「日蓮上人辻説法跡」にもほどちかいところです。
【写真 上(左)】 日蓮上人辻説法跡
【写真 下(右)】 夷堂橋から山門
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 斜めからの山門
小町大路が滑川を渡る夷堂橋のたもとに山門(二王門)があります。
桟瓦葺の楼門。両脇間に二王尊を安する三間一戸の八脚門で、大寺の風格があります。
手前には台座に「東身延」とある大きなお題目塔。
【写真 上(左)】 山門前のお題目塔
【写真 下(右)】 夷堂
山門をくぐって右側に鎌倉・江ノ島七福神(恵比寿)である夷堂。
銅板葺の屋根上に相輪を置き、急傾斜でむくり気味の屋根の角部が向拝になっている変わった意匠で、宝形造とも思いますがよくわかりません。
向拝には「夷尊堂」の扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 夷堂の扁額
【写真 下(右)】 授与所と参道
【写真 上(左)】 客殿?
【写真 下(右)】 手水舎
参道を進むと左手が授与所と、その奥は庫裏と客殿でしょうか。
さらに行くと右手に虹梁、木鼻、斗栱、中備を備えた立派な手水舎。
手水鉢では剣に二軆の龍が巻き付いた、倶利迦羅剣のような吐水口から水が注がれています。
その奥手に均整のとれた鐘楼。
【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 参道
【写真 上(左)】 本堂前
【写真 下(右)】 本堂
正面本堂の堂前に香炉、金灯籠、石灯籠と天水鉢。
本堂は基壇上に入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、向拝上に軒唐破風をおこしています。
【写真 上(左)】 向拝-1
【写真 下(右)】 向拝-2
向拝は三間で水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に三連の蟇股を置いています。
各所に菱格子、格子を配して引き締まったイメージの意匠です。
向拝見上げに各号扁額を掲げていますが、達筆すぎて読解できず。(常拝閣か/?)
【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 しあわせ地蔵尊
【写真 上(左)】 日蓮上人分骨堂
【写真 下(右)】 斜めからの分骨堂
本堂向かって右手奥にまわると、濡佛のしあわせ地蔵尊。
その奥には堂前に宝塔、香炉、石灯籠を配した日蓮上人分骨堂。
当山が「東身延」と呼ばれる由縁の重要な堂宇です。
桟瓦葺、二層の楼閣で、二層屋根の基盤上に宝珠。
堂回りに瑞垣をまわし、堂前は日蓮宗の宗紋「井桁橘」が刻まれた石扉で閉ざされています。
向拝の桟唐戸と両脇の花頭窓が、シンプルながら風格を感じさせます。
大寺ながら堂宇や山内佛がすくなく、明るくすっきりとして公園のような印象です。
【写真 上(左)】 路地からの脇門
【写真 下(右)】 脇門
若宮大路から小町大路に抜ける路地側にも山門があります。
脇塀付き切妻屋根桟瓦葺の四脚門で、脇門ながら風格があります。
門前にお題目塔と「一天四海皆妙法」の石碑。
【写真 上(左)】 脇門前のお題目
【写真 下(右)】 脇門前の石碑
御首題・御朱印は参道左手の授与所で拝受しました。
札所でもあるので、複数の御朱印を授与されています。
〔 本覺寺の御首題・御朱印 〕
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 日朝大上人の御朱印
【写真 上(左)】 夷神(鎌倉・江ノ島七福神)の御朱印
【写真 下(右)】 文殊菩薩(鎌倉十三仏霊場)の御朱印
→ ■ 鎌倉市の御朱印-11 (B.名越口-5)へつづく。
【 BGM 】
■ 私にはできない - Eiーvy
■ Re:Call - 霜月はるか
■ あなたの夜が明けるまで - Covered by 春吹そらの
しばらくつづけます。
■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)から。
33.蛭子神社(ひるこじんじゃ)
神奈川県神社庁Web
鎌倉市小町2-23-3
御祭神:大己貴命
旧社格:村社、神饌幣帛料供進神社、小町一帯の産土神
元別当:妙厳山 本覚寺(鎌倉市小町)
蛭子神社は小町大路に面する小町地区の鎮守社です。
蛭子神社の縁起沿革はすこぶる複雑で、本覚寺内の夷三郎社、宝戒寺内の山王大権現、現在地に御鎮座の七面大明神の合祀といいます。
各社の縁起沿革を順に追ってみます。
【 夷三郎社(夷堂) 】
滑川は鎌倉十二所、二階堂方面から鶴岡八幡宮東脇~若宮大路に沿って流れ、由比ヶ浜に注ぐ鎌倉随一の河川です。
源頼朝公は鎌倉幕府の裏鬼門除けのために小町大路が滑川を渡る橋のたもとに「夷三郎社」(夷堂)を祀ったといい、この橋を「夷堂橋」といいます。
当所は小町と大町の境。
夷堂橋の上に立って左右を眺めると西は本覚寺山門、東は妙本寺参道で、信仰的にも重要な場であることがわかります。
【写真 上(左)】 夷堂橋の石碑
【写真 下(右)】 夷堂橋から本覚寺
「本覚寺公式Web」「鎌倉公式観光ガイド(鎌倉市観光協会)」等によると、夷堂はもともと天台宗系でしたが、文永十一年(1274年)流罪の地・佐渡から鎌倉に戻られた日蓮聖人が約40日間滞在されたお堂といい、鎌倉幕府に対して三度目の諫暁をされ、受け入れられなかったために身延への隠棲を決められたと伝わります。
鎌倉幕府滅亡(正慶二年(1333年))の際に焼失したともいいますが、永享八年(1436年)この地にあった天台宗夷堂を、一乗房日出上人が日蓮宗に改め開創したのが本覚寺と伝わります。
Wikipediaには、「永享法難」をめぐる一乗房日出上人と本覚寺創建の由来が記されています。抜粋引用します。
---------(抜粋引用はじめ)
永享八年(1436年)、気鋭の布教伝道で名高い一乗房日出が常在山本覺寺(静岡県三島市)から鎌倉へ転出するも、足利持氏は弾圧処分を試みた。これに反発する信徒衆が荒居閻魔堂(現・新居山圓應寺)に集結し一触即発の状態になった。持氏はこの騒動が“鎌倉府討伐の口実”となる事を憂慮し処分を撤回。更に日出に対して日蓮の国家諌暁ゆかりの夷堂とその社領12000坪を寄進して法華寺院の建立を認めた。これが本覺寺創建の由来と伝えられている。
---------(抜粋引用おわり)
夷三郎社(夷堂)は旧地の橋のたもとから本覚寺山内に遷され、ひきつづき夷三郎社と称して山内の鎮守と仰がれましたが、明治初期の神仏分離により同山の管理を離れ、現社地に御鎮座の小町下町の鎮守・七面大明神に合祀されたといいます。
【 宝戒寺内の山王大権現 】
『新編鎌倉志』には「(宝戒寺)山門を入て右にあり。」とあり、小町上町の鎮守といいます。
『鎌倉市史』には「山王権現は応永二年(1395年)二月に宝戒寺住持興顗が山王七社と大行事早尾の御正躰一面を造立している。御神体はもとからあったというから、山王社は恐らく草創と共に勧請されていたのであろう。」とあり、宝戒寺草創当初(観応三年(1352年)頃造営)から山内に御鎮座とみられます。
『山門秘書記』翻刻版(小峯和明氏/PDF)、Wikipediaの「山王権現」によると、山王七社とは日吉大社の本社・摂社・末社二十一社を上・中・下に七社ずつ分けていう呼び名のうち、とくに上の七社をさすといい、大宮(大比叡)・二宮(小比叡)・聖真子・八王子・客人・十禅師・三宮の七所です。
大行事権現は中七社の一社で本地を毘沙門天といい、天台宗寺院の地主神として本堂の裏手等に祀られる例があります。
早尾権現も中七社の一社で本地を不動明王といいます。
上記の山王七社と大行事権現、早尾権現を併せて(宝戒寺の)山王大権現と称していた可能性があります。
明治維新後の神仏分離令により宝戒寺から分離され、現社地に御鎮座の七面大明神に合祀されたといいます。
【 小町下町の鎮守・七面大明神 】
小町下町の鎮守・七面大明神についての縁起沿革は見つかりませんでしたが、神号からおそらく日蓮宗系の尊格と思われます。
以上のとおり、もともと現在地に御鎮座の小町下町の鎮守・七面大明神、本覚寺山内の夷三郎社、宝戒寺山内に御鎮座で小町上町の鎮守・山王大権現の3社を合祀して、明治7年8月蛭子神社を号したとみられます。
明治6年の村社列格を記念して、明治7年社殿を新築。
本殿は、そのときに鶴岡八幡宮末社今宮の社殿を譲り受け移築したものといいます。
昭和15年神饌幣帛料供進神社に指定。
『鎌倉市史』には、旧社殿は関東大震災で大破し、昭和8年改築とあります。
3社合祀の沿革で御祭神が気になるところですが、神奈川県神社庁資料には大己貴命(おおなむちのみこと)と記されています。
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【史料・資料】
■ 『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
夷堂橋
夷堂橋は、小町と大町との境にあり。座禅川の下流なり。昔は此邊に夷三郎社ありしとなり。今はなし。
寶戒寺(山王権現社)
門を入て右にあり。
■ 神奈川県神社庁Web資料
蛭子神社
新編相模風土記稿に「夷堂橋は 此辺に夷三郎社ありしとなり」とある如く、産土神であったが、其所に本覚寺が創建され、地主神として山門の鎮守として奉斎されていたが、神仏分離令により寺内より離れ、小町村の鎮守として明治6年村社に列格された、付近の山王権現、七面大明神などを合祀に明治7年8月、蛭子神社と称した。
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
蛭子神社
ヒルコと読む。祭神、大己貴命。例祭九月十五日。元指定村社。境内地八二.六二坪。拝殿・本殿・社務所あり。本殿は明治七年八月、鶴岡八幡宮の末社今宮の社殿を譲りうけて建立したものである。
小町の鎮守。この所にはもと小町下町の鎮守七面大明神が祀られていたが、神仏分離により本覚寺の鎮守であった夷三郎社をここに移し、かつ上町下町が一村に合され一村に鎮守は一社しかおかぬという達しによって、小町上町の宝戒寺鎮守山王大権現も合祀したという。
夷三郎社は『風土記稿』本覚寺境内図に見えている。いま本覚寺山門前の橋を夷堂橋というのはこの社によってつけられた名といわれている。
宝戒寺の山王も『風土記稿』同寺の項に見えている。現在の社殿は大正十二年関東大震災で大破したが、昭和八年九月改築したもの。
宝戒寺(山王権現の項)
寛永十二年、弁盛が宝戒寺造営のことについて目安を江戸幕府に上った。それによると、境内には本堂・僧堂・鎮守(山王権現)があり、山王権現は応永二年二月に宝戒寺住持興顗が山王七社と大行事早尾の御正躰一面を造立している。
御神体はもとからあったというから、山王社は恐らく草創と共に勧請されていたのであろ
う。
■ 境内掲示(鎌倉市)(「猫のあしあと」様より/抜粋)
鎮守蛭子神社は出雲大社に鎮ります大国主神を御祭神として(里俗夷尊神)と称され、往古永享年間(凡五百余年前)日蓮宗本覚寺前夷堂端の傍に夷堂あり夷三郎社とも称され、同寺の守護神として、又付近住民の氏神様として崇敬されたが、明治維新に神仏分離によりこの地に鎮座し、同時に宝戒寺門前地区の氏神として、同寺境内に祀られし北条一門の守護神山王大権現をも之に合祀し、蛭子神社と称するに至った。
爾来百余年えびす様の愛称で福の神・むすびの神として信仰され遠近より善男善女の参詣多く神賑を極め今日に至った。
■ 鎌倉公式観光ガイド(鎌倉市観光協会)
鎌倉十橋(かまくらじっきょう)/夷堂橋
夷堂橋は、本覚寺門前を流れる滑川に架かる橋で、その名は本覚寺の仁王門前あたりにあったとされる夷堂に由来します。夷堂は源頼朝が御所の裏鬼門に夷神をまつった夷三郎社が始まりで、滑川もこのあたりでは夷堂川とも呼ばれていました。現在夷堂は本覚寺の境内にあります。
夷堂橋(えびすどうばし)
設置場所:小町1-12-12
本覚寺前。鎌倉十橋の一つ。かって、この橋のたもとに源頼朝が幕府の鬼門除けのために創建した「夷三郎社」(夷堂)があったことからこの名前になったと言われています。
本覚寺
小町大路が滑川を渡るところに、源頼朝が幕府の守り神として創建した夷堂がありました。
今も夷堂橋があります。
日蓮が滞在していたお堂で、その後ここから身延山へ旅立ちました。
夷堂は鎌倉幕府滅亡のときに焼け、その跡につくられたのが本覚寺です。
1436(永享8)年、もとこの地にあった天台宗夷堂を日出上人が日蓮宗に改めたのがはじまりと伝えます。
■ 本覺寺公式Web(日蓮宗)
本覺寺の創立は永享8年(1436)ですが、夷堂の歴史はさらに古く、鎌倉時代の初期頃と伝わります。そしてこの夷堂は日蓮聖人とも縁が深く、流罪の地・佐渡から鎌倉に戻られた日蓮聖人が、40数日滞在されたといわれています。その間に、日蓮聖人は鎌倉幕府へ3度目の諫暁をされ、受け入れられなかったために身延への隠棲を決められるなど、後の布教のあり方などを大きく変えられました。
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
本覚寺
寺ではこの地は『吾妻鏡』にみえる夷堂の地であるという。そして日蓮は佐渡から帰ってここに留錫し、この地から身延に移った。夷堂はもと天台宗の寺であったといい、その本尊と伝える釈迦・文殊・普賢の像がある。日出が改宗して創建した。
『風土記稿』所蔵の絵図には、夷三郎社・番神堂・祖師分骨堂などもみえる。
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鎌倉駅にもほど近い小町大路に面して御鎮座、「日蓮上人辻説法跡」にも至近です。
小町大路に面する社頭・参道の間口は広くなく、あまり目立たないので観光客の参拝はさほど多くはないのでは。
御朱印が授与されていることも、あまり知られていないかと思います。
【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 社号標
社頭に社号標と亀腹を置く明神鳥居で、社号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 鳥居扁額
【写真 下(右)】 参道
しかしながら小町の鎮守であり、鎌倉有数の名刹、本覚寺、宝戒寺と古いゆかりをもつこともあってか、参道を進むにしたがい神さびた空気感に包まれます。
桟瓦葺で木鼻獅子や蟇股を備えた立派な手水舎。
手水鉢には「魚がし」の刻字。
【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 斜めからの拝殿
拝殿は南面し、向かってすぐ右手(東側)は滑川です。
【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 拝殿扁額
拝殿は入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、向拝上に唐破風を置いています。
水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に精緻な彫刻を置いています。
唐破風の鬼板や兎の毛通しも見事な出来映えで見応えがあります。
向拝正面桟唐戸の上部に、端正な字体の社号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 天水鉢
向拝桟唐戸と殿前の天水鉢とに同じ紋を置いています。
梶の葉紋系統にも思えますが、諏訪系の梶の葉紋とは趣を異にしていて、他の神紋を当たってみましたが該当する紋がみつからず、よくわかりません。
御朱印は大町の八雲神社にて拝受しました。
〔 蛭子神社の御朱印 〕
34.長慶山 正覺院 大巧寺(だいぎょうじ)
公式Web
鎌倉市小町2-17-20
単立(日蓮宗系)
御本尊:産女霊神(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:-
大巧寺は小町にある日蓮宗系単立寺院で、「おんめさま」の愛称で親しまれています。
当初は十二所の梶原屋敷内にあったといい、長慶山正覺院大行寺と号す真言宗寺院でした。
大行寺は頼朝公の祈願所で、この寺で軍評定した戦に勝利したため大巧寺と改めたといいます。
後に小町の現在地に移転。
日蓮聖人が妙本寺御在時の折、住僧が聖人に帰依して日蓮宗に改宗。
開山は九老僧の日澄上人とも日證上人とも伝わります。
「(朗門の)九老僧(朗門九鳳)」とは、日蓮六老僧の一人・筑後房日朗上人の9人の高弟を指します。
日澄上人 (大乗坊、1239-1326年?)は、比企谷門流の僧で九老僧(朗門九鳳)のひとりです。
『新編相模國風土記稿』には、小田原の妙珍山圓成院蓮昌寺の項で当山開山が九老ノ一、形善院日澄上人(文保元年(1317年)卒)であること。開基は小田原の濱名豊後守時成(永仁六年(1298年)卒)であること。時成は日蓮上人の投宿に随喜して出家し、妙音院日行を号したこと。時成の子は祖母妙珍尼に養われ、七歳で出家し日澄と号したこと。北條氏政の家臣・濱名時成は鎌倉小町大巧寺の檀那で、天正三年(1575年)大巧寺に寺領を寄附したこと。法名を妙法といい大巧寺に墓があり、子の蓮真と母妙節等の碑があることなどが記されています。
神奈川県平塚市の松雲山 要法寺の公式Webには、歴代上人として「二祖 九老僧 形善院日澄上人」「喜暦元(丙寅)年(1326年)八月1日化 池上大坊開山 本要阿闍梨小田原浜名豊後守時成長男」とあります。
また、池上大坊 本行寺の公式Webにも、「3祖大乗阿闍梨 形善院 日澄(嘉歴1(1326)没)」と明記されています。
上記から、大巧寺は小田原で日蓮上人に宿を提供した濱名豊後守時成(永仁六年(1298年)卒)の子で、九老僧のひとり形善院日澄上人(嘉歴元年(1326年)寂)の開山ともみられます。
しかし、天正三年(1575年)大巧寺に寺領を寄附した檀那・濱名時成は北條氏政(1538-1590年)の家臣で、鎌倉時代と戦国時代にそれぞれ2人の濱名時成が大巧寺とゆかりをもったことになりますが、詳細は不明です。
なお、濱名氏は源三位頼政の子孫といわれ、「鵺退治」で有名な頼政が恩賞に賜った遠江国堀之内郷を領したことから「鵺代」とも称しました。
濱名詮政は足利将軍義満公の信任厚かった記録があり、著名な歌人を輩出したことでも知られていますが、濱名氏の本拠は遠江で戦国期は今川氏との関係が深く、小田原や鎌倉に拠点をもった濱名時成がこの系統かどうかは不明です。
大巧寺は妙本寺の院家寺院でしたが、現在は単立寺院となっています。
大巧寺は安産祈願で有名で、「安産腹帯守」を求めて多くの参詣者があります。
安産祈願は『産女霊神縁起』にもとづくものです。
詳細は公式Web(PDF)で紹介されていますが、概要は以下のとおりです。
当山第五世日棟上人は毎夜妙本寺の祖師堂に詣でていましたが、天文元年(1532年)4月のある夜、夷堂橋の脇で産女の霊と遭遇しました。
やつれた様子の産女の霊は、日棟上人に自分は大倉に住む秋山勘解由の妻で難産によりこの世を去ったが、死出の旅路に迷って成仏できない。
どうぞよしなに回向をいただき成仏に導いていただきたいと訴えました。
哀れに思った日棟上人は法華経を読経して回向すると、女はいつのまにか姿を消していました。
数日後、日棟上人の前にみちがえったように美しい件の産女が現れ、上人の回向により成仏できたことを謝し、布に包んだ金銭を奉じたうえで、夫の秋山勘解由にこの経緯を伝え、宝塔を建立し供養して欲しいと訴えました。
そして、宝塔を供養してくれればその恩返しとして、今後、この塔に妊婦が参詣すれば安産となるよう尽力することを伝えました。
上人はこの願いに報いることを約すと、すぐに大倉の秋山勘解由を訪れました。
勘解由はこの話におどろきましたが、妻が日頃からこつこつとお金を蓄えていたこと、上人に奉じた金銭を包んでいた布は、妻が残した小袖の片袖であったことがわかりました。
勘解由は妻の回向を上人に深く謝し、自らも上人と師壇の契りを結んで宝塔建立への協力を申し出ました。
上人は「産女霊神」と号して産女の霊を祀り、宝塔を建立して手厚く供養しました。
この縁起を聞いて妊婦が参詣すると、みな安産となったので、当山は安産祈願で有名となったといいます。
この縁起を読んだとき、疑問に感じたことがあります。
・秋山勘解由について
鎌倉に秋山姓は少ないですが、あえて「大倉に住む秋山勘解由」と明記していること。
・上人への宝塔建立のお布施
諸史料は秋山勘解由の財産ではなく、産女の私財と強調していること。
・天文元年(1532年)という年号
Web検索していくと、「おんめさま 産女(うぶめ)伝説 (私説)」という記事がみつかりました。
秋山姓は甲斐発祥の甲斐源氏で、のちに武田二十四将の秋山伯耆守虎繁(信友)を生んでいます。
そして、天文三年(1534年)には武田信玄の正室・上杉の方(上杉朝興の息女)が難産で逝去しています。
上の記事では、私説として「おんめさま」と上杉の方との関係を示唆しています。
そこで筆者の想像も含めて整理してみます。
秋山氏は甲斐源氏・加賀美遠光の嫡男・光朝を祖とし、巨摩郡秋山を領しました。
秋山光朝は上京して平重盛に仕え、重盛の息女(六女・茂子)を室としたといいます。
平家滅亡後に甲斐に戻りますが、一時平家に使えていたことで頼朝公にうとまれ、居城雨鳴城を攻められ自害、あるいは鎌倉で暗殺されたともいいます。
しかし子孫は存続し、同族の甲斐武田氏に属しました。
武田家の重臣であった秋山伯耆守虎繁は大永七年(1527年)の生まれですから、上杉朝興の息女が武田晴信(信玄公)に嫁いだ天文二年(1533年)には一族の誰かが上杉の方の甲斐での後見役ないし世話役に任ぜられた可能性もあるのでは。
話が飛びますが戦国末期、穴山信君は甲斐源氏で武田家臣の秋山越前守虎康の息女を養女とし、この養女は天正十年(1582年)、信君が織田・徳川氏に臣従した際に徳川家康公の側室となりました。(下山殿/お都摩の方)
下山殿は天正十一年(1583年)、家康公の五男・万千代君(武田信吉公)を出産。
信吉公は下総小金城3万石~下総佐倉城10万石と移り、佐竹氏に替わって水戸25万石の太守となり、旧武田遺臣を付けられて武田氏を再興するやにみえましたが、慶長八年(1603年)21歳で死去し武田氏再興はなりませんでした。
下山殿は天正十九年(1591年)下総国小金にて早逝。平賀の日蓮宗の名刹・長谷山 本土寺に葬られました。
また、下山殿の実父(武田信吉公の実祖父)・秋山虎康は松戸市大橋の地に止住し、慶長元年(1596年)に了修山 本源寺を開山しているのでおそらく日蓮宗信徒です。
下山殿の「下山」は身延町下山から称したといいます。
『穴山氏とその支配構造』/町田是正氏(PDF)には「(秋山氏の祖)秋山太郎光朝の末の下山氏の住する処で(中略)『日蓮聖人遺文』にも下山氏の存在が記される所」とあり、下山殿の実家の秋山氏は、京よりはやくに讃岐に日蓮宗を伝えた(→ビジネス香川)ともいいますから、そんなこともあって日蓮宗寺院と秋山氏は結びつきやすかったのかもしれません。
さすがに話が飛びすぎました。
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信玄公の正室を三条の方(左大臣・三条公頼の次女)とする資料もありますが、正式には継室で、正室は上杉の方です。
上杉の方が嫁いだとき信玄公はわずか13歳で、上杉の方も同年代といいます。
天文三年(1534年)に出産の折、年若い上杉の方は難産であえなく逝去されました。
その頃、上杉の方の父・上杉朝興は扇谷上杉家の家督を嫡男・朝定に譲ったものの川越城に依り、相模国に盛んに兵を出しています。
年若くして難産で世を去った息女の供養は、父親としてごく自然な感情です。
しかし、当時の扇谷上杉家は古河公方、関東管領(山内上杉家)、武田家、後北条家、越後長尾家などとすこぶるデリケートな関係にあり、政略結婚で命を落とした娘の供養を、(娘に仕えていた)秋山勘解由の妻に託したという想像もあるいは許されるかもしれません。
また、秋山勘解由の在所は大倉(大蔵)で旧・大蔵幕府の跡、かつては幕政の中心地で官吏なども住んでいたと思われます。
上杉朝興は扇谷上杉家で関東管領ではないですが、関東管領(山内上杉家)に比肩する勢力をもち、その家人や与力衆はこの辺に住んでいたかもしれません。
勘解由の名も官吏・文官的な性格をイメージさせます。
このような背景から「おんめさま 産女(うぶめ)伝説 (私説)」は、「彼女(上杉の方)に仕えていた秋山勘解由の妻は、葬儀を終えて鎌倉の大倉に帰って来た。彼女の死後1年を過ぎて、自宅近くの寺に彼女を弔った。傷心の上杉朝興(46歳)は、彼女を通じて寺に寄進をし、娘の菩提を弔う秋山勘解由の心遣いを喜んだ。」という私説を展開されているのでは。
なお、大巧寺と上杉の方・上杉朝興の関係を示唆する史料は見当たらないので、上の内容はあくまでも想像で、お寺の紹介としてはいささか飛躍が過ぎたかもしれません。
いずれにしても、大巧寺は寺院が集まる鎌倉市内でも「安産祈願」という格別のご利益をもって広く信仰を集めていることは間違いありません。
寺宝で、産女霊神神骨を収めるという宝塔(水晶五輪塔)は、旧本山の妙本寺に預けられていましたが、平成23年に返却されて以降、当山にて格護されています。
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【史料・資料】
■ 『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
大巧寺
大巧寺は、小町の西頰にあり。相伝、昔は長慶山正覺院大行寺と号し、真言宗にて、梶原屋敷の内にあり。後に大巧寺と改め、此地に移すとなり。梶原屋敷の條下に詳なり。昔し日蓮、妙本寺在世の時、此寺法華宗となり、九老僧日澄上人を開山とし、妙本寺の院家になれり。(略)
産女寶塔
堂の内に、一間四面の二重の塔あり。是を産女寶塔と云事は、相伝ふ、当寺第五世日棟と云僧、道念至誠にして、毎夜妙本寺の祖師堂に詣す。或夜、夷堂橋の脇より、産女の幽魂出て、日棟に逢、廻向に預て苦患を免れ度由を云。日棟これが為に廻向す。産女、䞋金一包を捧て謝す。日棟これを受て其為に造立すと云ふ。寺の前に産女幽魂の出たる池、橋柱の跡と云て今尚存す。夷堂橋の小北なり。
寺宝
曼荼羅 三幅 共に日蓮の筆。
無邊行菩薩名号 日蓮筆。
日蓮消息 壱幅
曼荼羅 壱幅 日朗筆。
舎利塔 壱基 五重の玉塔なり。
濱名石塔 北條氏政の家臣、濱名豊後守時成、法名妙法、子息蓮眞、母儀妙節、三人の石塔なり。
番神堂 濱名時成建立すと云。
梶原屋敷 附大巧寺𦾔跡
梶原屋敷は五大堂の北方山際にあり。梶原平三景時が𦾔跡なり。『東鑑』に、景時は正治二年(1200年)十二月十八日に、鎌倉を追出され、相模国一宮へ下る。彼家屋を破却して、永福寺の僧坊に寄附せらるとあり。頼家の時也。今此所に、大なる佛像の首ばかり、草庵に安置す。按ずるに『東鑑脱漏』に、安貞元年(1227年)四月二日、大慈寺の郭内に於て、二位家平政子第三年忌の為に。武州泰時、丈六堂を建らるとあり。此所大慈寺へ近ければ、疑らくは其丈六佛の首ならんか。又里老云、昔大行寺と云真言寺此所にあり。頼朝の祈願所にて、或は此寺にて、軍の評議して勝利を得られたり。故に大巧寺と改む。後に小町へ移し、日蓮宗となる。今の小町の長慶山大巧寺なりと、しかれども、『東鑑』等の記録に不見。按ずるに、五大堂を大行寺と号すれば、昔の大行寺の跡は、五大堂を云ならんか。不分明也。
■ 『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
大巧寺
長慶山正覺院ト号ス。法華宗 古大行寺ト号シ。真言宗ニテ。今唱フル。梶原屋敷ノ内ニアリ。頼朝ノ祈願所タリ。或時此寺ニテ。軍評定妙本寺大町村ニ在シ時。当寺住僧帰依シテ改宗シ。日證ヲ開山トシ。妙本寺ノ院家ニ属セリ。(略)
天正三年(1575年)二月。濱名豊後守時成。鎌倉能成分。六貫文ノ地ヲ寄附ス。(略)
本尊ハ三寶諸尊ヲ安ス。(以下略)
■ 『新編相模國風土記稿12』(国立公文書館デジタルアーカイブ)
蓮昌寺(小田原筋違橋町)
日蓮宗。鎌倉比企谷妙本寺末。妙珍山圓成院ト号ス。開山日澄。形善院ト號ス。九老ノ一、文保元年八月十日卒。傳云。文永十一年(1274年)五月。日蓮身延ヘ入山ノ時。憩ヒシ旧蹟ニテ。後ニ一寺トナル。開基濱名豊後守時成。寺傳云。宗祖身延入山ノ時。当所豊後守時成ノ館ニ投宿セリ。其時時成随喜シテ出家シ。妙音院日行ト号ス。永仁六年(1298年)二月五日。尾州熱田ニテ卒ス。一子アリ。祖母妙珍尼ニ養レ七歳にて出家ス。日澄ト号ス。即当寺開山ナリ。日澄其祖父蓮昌。祖母妙珍菩提ノ為。当寺ヲ開キ。即祖父母ノ法号ニヨリテ。寺山号ニ名けケシト云。今按スルニ豊後守時成ハ。北條氏政ニ仕ヘシ人ニテ。鎌倉小町大巧寺ノ檀那ナリ。天正三年(1575年)二月。大巧寺ニ時成寺領を寄附セシ券状。今ニ彼寺ニ傳フ。又同寺ニ墳アリ。法名妙法ト云。其子蓮真母妙節等ノ碑モアリ。然ルヲ時成日蓮ノ弟子トナリ。日澄ヲ其子トナスノ類。(以下略)
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
大巧寺
長慶山正覺院大巧寺と号する。日蓮宗系 単立宗教法人。もと妙本寺の院家。
開山、日澄。本尊、産女霊神。本堂・庫裏・山門・門あり。
産女宝塔は妙本寺に預けてある。
寺伝によると、大巧寺はもと大行寺と号した。真言宗の寺で十二所にあり、頼朝が軍の評議をしたところであるという。また日蓮が妙本寺にいたとき、時の住持が帰依して文永十一年(1274年)に改宗したという。(略)
産女様
当寺は俗におうめさまといい、安産のお守りを出す。これは五世日棟が産女の幽魂を鎮めたところから起こったといわれている。
■ 山内掲示(鎌倉市)
宗派 日蓮宗系単立寺院
山号寺号 長慶山大巧寺
開山 日澄上人
初め「大行寺」という名でしたが、源頼朝がこの寺で行った軍評定(作戦会議)で大勝したので、「大巧寺」に改めるようになったと伝えられています。
室町時代の終わり頃、この寺の住職の日棟上人が、難産で死んだ秋山勘解由の妻を供養して成仏させました。その後、お産で苦しむ女性を守護するために、「産女霊神(うぶすめれいじん)」を本尊としてお祀りしました。
今も安産祈願の寺として、「おんめさま」の愛称で呼ばれ、多くの方が参詣されています。
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若宮大路と小町大路双方に接し、鎌倉駅からもっとも近い寺社のひとつです。
たいていの鎌倉ガイドに載っているので、観光客の参詣も多いとみられます。
【写真 上(左)】 若宮大路口
【写真 下(右)】 寺号標
若宮大路に面して整った石積みの参道とその奥に山門。
参道入口の「安産子育 産女霊神 長慶山大巧寺」の標石、そして参道の正中に据えられた石が目立ちます。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 参道
山門は脇塀付切妻屋根銅板葺のおそらく四脚門で、渋い朱塗りが趣を添えています。
石畳の参道は、右手のビルの存在感はあるものの緑豊かで四季折々の花が咲くようです。
【写真 上(左)】 小町大路口
【写真 下(右)】 小町大路口のお題目塔
小町大路側からも参道が伸び、入口には寺号を配したお題目塔とその奥には門柱を置いています。
こちらからは本堂が正面で、本来の参道はこちら側かもしれません。
こちらの参道も緑豊かで、雑踏の鎌倉駅至近とは思えない落ち着いた空間です。
【写真 上(左)】 小町大路側の門柱
【写真 下(右)】 手水舎
山内に産女霊神、福子霊神の石の墓碑がありますが、写真は撮っておりません。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝上部
本堂は入母屋造銅板棒葺流れ向拝で、向拝上に整った唐破風を置いています。
水引虹梁両端に獅子・獏(象かも)の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に二本の大瓶束と、その間に風格ある龍の彫刻を置いています。
彫刻の上段には笈形(おいがた)付大瓶束(たいへいづか)で、兎の毛通し&鬼板も配して見応えがあります。
向拝は桟の上に白壁(?)を置いた個性的な扉で、見上げの本蟇股とその上の三連の斗栱も存在感があります。
【写真 上(左)】 向拝中備
【写真 下(右)】 授与所
御首題・御朱印は本堂よこの授与所で拝受しましたが。Web情報によるとタイミングにより授与を休止されることもあるようです。
こちらの授与所では安産腹帯守が授与されています。
戌の日および大安の休日にはたいへん混雑するようです。
〔 大巧寺の御首題・御朱印 〕
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 御朱印
35.妙厳山 本覺寺(ほんがくじ)
日蓮宗公式Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市小町1-12-12
日蓮宗
御本尊:三宝祖師(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:鎌倉十三仏霊場第3番、鎌倉・江ノ島七福神(恵比寿)
司元別当:蛭子神社(鎌倉市小町)
本覺寺は小町にある日蓮宗の本山(由緒寺院)です。
身延山久遠寺の日蓮聖人の遺骨を分骨したため「東身延」とも呼ばれます。
鎌倉時代の初期、本覺寺の山門前の滑川にかかる端のたもとには「夷堂」と呼ばれる堂宇がありました。
鎌倉幕府の裏鬼門にあたり、源頼朝公が幕府守護のために夷堂を創建したといいます。
もとは天台宗系でしたが、文永十一年(1274年)に佐渡配流から戻られた日蓮聖人が約40日間にわたって夷堂に滞在され、鎌倉幕府に対し三度目の諫暁をされたものの、受け入れられなかったためついに身延への隠棲を決められたと伝わります。
(この「夷堂」の詳細については、33.蛭子神社を参照願います。)
夷堂は、鎌倉幕府滅亡(正慶二年(1333年))の際に焼失したともいいますが、永享八年(1436年)この地にあった天台宗夷堂を、一乗房日出上人が日蓮宗に改め開創したのが本覺寺と伝わります。
鎌倉公方・足利持氏開基説もみられます。
永享八年(1436年)、日蓮宗の布教伝道で名高い一乗房日出上人が常在山本覺寺(静岡県三島市)から鎌倉へ入られ、天台宗宝戒寺の僧・心海和尚と問答を繰り広げ(永享問答)、これをきっかけに騒動が起こったといいます。(永享法難)
Wikipediaには、「永享法難」をめぐる一乗房日出上人と本覺寺創建の由来が記されています。抜粋引用します。
---------(抜粋引用はじめ)
永享八年(1436年)、気鋭の布教伝道で名高い一乗房日出が常在山本覺寺(静岡県三島市)から鎌倉へ転出するも、足利持氏は弾圧処分を試みた。これに反発する信徒衆が荒居閻魔堂(現・新居山圓應寺)に集結し一触即発の状態になった。持氏はこの騒動が“鎌倉府討伐の口実”となる事を憂慮し処分を撤回。更に日出に対して日蓮の国家諌暁ゆかりの夷堂とその社領12000坪を寄進して法華寺院の建立を認めた。これが本覺寺創建の由来と伝えられている。
---------(抜粋引用おわり)
文安三年(1446年)に日出上人の弟子・行学院日朝上人が第2世として在寺され、15年ののちに身延山久遠寺第11世として入られ、身延山の再興を図られたといいます。
日朝上人は身延山への参詣が難しい老人や女性のために、身延山から日蓮聖人の遺骨を分骨して本覺寺に納めたため、以降当山は「東身延」とも称されました。
また、日朝上人は眼病救護の誓願を立てられたことから、当山は「日朝さま」とも呼ばれ鎌倉の庶民に親しまれました。
日蓮聖人の分骨の権威と、日朝上人の名声により、当山は鎌倉における日蓮宗の名刹の地位を確立し、後北条氏、豊臣氏、徳川氏から代々寺領を安堵され、塔頭末寺併せて10箇寺をもつ中本寺の格式を保ちました。
『新編鎌倉志』には「東三十三箇國、別して関八州の僧録」とあります。
僧録とは、僧侶の登録・住持の任免などの人事を統括した役職をいい、当山が大きな権威をもっていたことがうかがえます。
『鎌倉市史 社寺編』には「嘉永三年(1850年)の境内及び寺領の絵図があり、いまの市役所、市民座、駅前等を含む広い境内であったことがわかる。」とあるので、幕末の当山はすこぶる広大な寺領を有していたことがわかります。
開山七百年の節目にあたる昭和49年には日蓮宗本山(由緒寺院)に昇格し、いまも隆盛を保っています。
日蓮聖人ゆかりの夷堂は、山内鎮守の夷三郎社として祀られたといいますが、明治の神仏分離の際に蛭子神社に合祀されたといいます。
現在の八角形の夷堂は、昭和56年に建立されたものです。
名刹だけに文化財も豊富で、本堂安置の木造釈迦如来 、文殊菩薩、普賢菩薩の三尊像は
南北朝時代の作で宋風のすぐれた作風を伝えるとされ、鎌倉市指定の文化財です。
墓域には、鎌倉の住人で名刀工の正宗の墓があります。
正月三が日の「初えびす」、正月10日の「本えびす」には商売繁盛を願う参詣者たちで賑わい、10月の人形供養も古都・鎌倉の風物詩とされます。
鎌倉・江ノ島七福神(恵比寿)、鎌倉十三仏霊場第3番(文殊菩薩)の札所で、巡拝客や観光客も多く訪れる鎌倉の名所です。
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【史料・資料】
■ 『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
本覺寺
妙厳山と号す。身延山の末寺なり。開山日出上人。永享年中(1429-1441年)に草創すと云伝。此寺は東國法華宗の小本寺也。当寺三世日燿へ、日朝より書を遺して曰、総じて東三十三箇國、別して関八州の僧録に任じ置事に候へば、萬端制法肝要に候と云云。
う々、とありし由鎌倉志に見えたり、今此文書傳はらず。日朝上人は、日出上人の弟子、当寺第二世なり。廿歳にして身延山に住す。身延山第十一祖なり。在住四十年。身延山の諸法式も此代に定む。此書も身延山より遺はすと云ふ。本尊は釋迦・文殊・普賢なり。(以下略)
■ 『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
本覺寺
妙厳山ト号ス。法華宗身延山久遠寺末。永享年中(1429-1441年)ノ草創ニシテ開山ヲ日出(武州ノ人ナリ。始ハ是性坊ト号シ。天台宗ナリシカ。身延山日延ニ帰依シテ改宗シ。一乗坊ト称ス。)ト云フ。
当寺ハ東國法華宗ノ小本寺ナリ。日朝(当寺二世。本寺十一世ナリ。)身延山ニ在シ時。当寺三世日燿ヘ贈リシ書ニ。総して東三十三箇國。別シテ関八州ノ僧録ニ。任シ置事ニ候ヘハ。萬端制法。肝要ニ候云々。トアリシ由。鎌倉志ニ見エタリ。今此文書伝ハラス。(略)
本尊三寶ヲ安ス。又釋迦文殊普賢ノ像アリ。元ノ本尊ト云。
寺寶
曼陀羅一幅。日蓮筆。
日蓮消息十通。
記録一巻。日出天台宗ト問答ノ時。執権某是非ヲ糾シ。又修法ノ怪異ニ驚キ。褒賞シテ。田園ヲ寄附スルノ由。日出ノ書ナリ。巻尾ニ永享八年(1436年)五月晦日トアリ。
古文書十通。其文前ニ註記ス。
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
本覚寺
妙厳山と号する。日蓮宗。もと身延山久遠寺末中本寺。開山、一乗日出。永享八年(1436年)の創建と伝える。
本尊、三宝祖師。境内地二六一四坪。本堂・祖師分骨堂・客殿・庫裏・鐘楼・二王門・横門棟あり。
寺ではこの地は『吾妻鏡』にみえる夷堂の地であるという。そして日蓮は佐渡から帰ってここに留錫し、この地から身延に移った。夷堂はもと天台宗の寺であったといい、その本尊と伝える釈迦・文殊・普賢の像がある。日出が改宗して創建した。
二世日朝の書状に本覚寺大浄坊を関八州の僧録となすことがみえ東身延と称している。
俗に日朝様とよぶ。串川光明寺にある善宝寺寺池の図にみえる法華堂はここのことであろう。(略)
嘉永三年(1850年)の境内及び寺領の絵図があり、いまの市役所、市民座、駅前等を含む広い境内であったことがわかる。
『風土記稿』所蔵の絵図には、夷三郎社・番神堂・祖師分骨堂などもみえる。
なお境内の墓地には正宗の墓と伝えるものがある。
■ 山内掲示(鎌倉市)
宗派 日蓮宗
山号寺号 妙厳山本覚寺
建立 永享8年(1436)
開山 日出
本覚寺のあるこの場所は幕府の裏鬼門にあたり、源頼朝が鎮守として夷堂を建てた所といわれています。
この夷堂を、日蓮が佐渡配流を許されて鎌倉に戻り、布教を再開した際に住まいにしたと伝えられます。その後、鎌倉公方・足利持氏がこの地に寺を建て、日出に寄進したのが本覚寺であるといい、二代目住職の日朝が、身延山から日蓮の骨を分けたので「東身延」と呼ばれています。
日朝は「眼を治す仏」といわれ、本覚寺は眼病に効く寺「日朝さま」の愛称で知られています。
十月は「人形供養」、正月は福娘がお神酒を振舞う「初えびす」でにぎわいます。
鎌倉の住人、名刀工・正宗の墓が境内にあります。
原典:間宮士信 等編『新編相模国風土記稿』第4輯 鎌倉郡,鳥跡蟹行社,明17-21.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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小町大路に接し、鎌倉駅からもっとも近い寺社のひとつです。
鎌倉市内の名所の位置づけで、観光客の参詣も多いとみられます。
「日蓮上人辻説法跡」にもほどちかいところです。
【写真 上(左)】 日蓮上人辻説法跡
【写真 下(右)】 夷堂橋から山門
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 斜めからの山門
小町大路が滑川を渡る夷堂橋のたもとに山門(二王門)があります。
桟瓦葺の楼門。両脇間に二王尊を安する三間一戸の八脚門で、大寺の風格があります。
手前には台座に「東身延」とある大きなお題目塔。
【写真 上(左)】 山門前のお題目塔
【写真 下(右)】 夷堂
山門をくぐって右側に鎌倉・江ノ島七福神(恵比寿)である夷堂。
銅板葺の屋根上に相輪を置き、急傾斜でむくり気味の屋根の角部が向拝になっている変わった意匠で、宝形造とも思いますがよくわかりません。
向拝には「夷尊堂」の扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 夷堂の扁額
【写真 下(右)】 授与所と参道
【写真 上(左)】 客殿?
【写真 下(右)】 手水舎
参道を進むと左手が授与所と、その奥は庫裏と客殿でしょうか。
さらに行くと右手に虹梁、木鼻、斗栱、中備を備えた立派な手水舎。
手水鉢では剣に二軆の龍が巻き付いた、倶利迦羅剣のような吐水口から水が注がれています。
その奥手に均整のとれた鐘楼。
【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 参道
【写真 上(左)】 本堂前
【写真 下(右)】 本堂
正面本堂の堂前に香炉、金灯籠、石灯籠と天水鉢。
本堂は基壇上に入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、向拝上に軒唐破風をおこしています。
【写真 上(左)】 向拝-1
【写真 下(右)】 向拝-2
向拝は三間で水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に三連の蟇股を置いています。
各所に菱格子、格子を配して引き締まったイメージの意匠です。
向拝見上げに各号扁額を掲げていますが、達筆すぎて読解できず。(常拝閣か/?)
【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 しあわせ地蔵尊
【写真 上(左)】 日蓮上人分骨堂
【写真 下(右)】 斜めからの分骨堂
本堂向かって右手奥にまわると、濡佛のしあわせ地蔵尊。
その奥には堂前に宝塔、香炉、石灯籠を配した日蓮上人分骨堂。
当山が「東身延」と呼ばれる由縁の重要な堂宇です。
桟瓦葺、二層の楼閣で、二層屋根の基盤上に宝珠。
堂回りに瑞垣をまわし、堂前は日蓮宗の宗紋「井桁橘」が刻まれた石扉で閉ざされています。
向拝の桟唐戸と両脇の花頭窓が、シンプルながら風格を感じさせます。
大寺ながら堂宇や山内佛がすくなく、明るくすっきりとして公園のような印象です。
【写真 上(左)】 路地からの脇門
【写真 下(右)】 脇門
若宮大路から小町大路に抜ける路地側にも山門があります。
脇塀付き切妻屋根桟瓦葺の四脚門で、脇門ながら風格があります。
門前にお題目塔と「一天四海皆妙法」の石碑。
【写真 上(左)】 脇門前のお題目
【写真 下(右)】 脇門前の石碑
御首題・御朱印は参道左手の授与所で拝受しました。
札所でもあるので、複数の御朱印を授与されています。
〔 本覺寺の御首題・御朱印 〕
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 日朝大上人の御朱印
【写真 上(左)】 夷神(鎌倉・江ノ島七福神)の御朱印
【写真 下(右)】 文殊菩薩(鎌倉十三仏霊場)の御朱印
→ ■ 鎌倉市の御朱印-11 (B.名越口-5)へつづく。
【 BGM 】
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■ Re:Call - 霜月はるか
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■ 佐野元春(初期)のバラッド
あいかわらずTVの音楽番組で昭和(とくに1980年代)の名曲ヘビロテされてます。
夏歌特集ではサザンやTUBE、達郎、大瀧詠一くらいまでは行くけど、杏里や角松敏生、佐野元春あたりまで掘り下げるケースは多くない。
でも、個人的には、夏の終わりをもっとも感じるアーティストは佐野元春だと思う。
というか、1980年代初頭でもっとも個人的に聴き込んでいた邦楽は、サザンでも達郎でもユーミンでもなく、たぶん佐野元春(&杏里)だった。
めずらしくフォローされたとしてもほとんど↓の曲で、「佐野元春=SOMEDAY」のイメージが強すぎるのはけっこう悲しい。
■ SOMEDAY(1982年)
そんなこともあって、思い入れのある初期3枚のアルバムからバラード(&ミディアム)を引っ張ってきました。
(本来はアルバム通して聴くアーティストだと思うけどね。)
↓ の3作を「佐野元春初期三部作」ともいい、共通した空気感が流れています。
4th.ALBUM『VISITORS』(1984年)以降、佐野元春はほとんど1作毎に作風を変えていきます。
その中には名曲も少なくないですが、やっぱり筆者的にはリアルタイムでヘビロテしていたこの3作に戻ってしまいます。
1st.ALBUM 『BACK TO THE STREET』(1980年)
2nd.ALBUM 『Heart Beat』(1981年)
3rd.ALBUM 『SOMEDAY』(1982年)
まぁ、だまされたと思って(笑) 聴いてみておくんなまし。
---------------------------------
■ Sugartime(1982年)
■ グッドタイムズ&バッドタイムズ(1980年)
■ バルセロナの夜(1981年)
■ 彼女(1981年)
■ ロックンロール・ナイト(1982年)
■ 君をさがしている(朝が来るまで)(1981年)
■ 情けない週末(1980年)
■ 二人のバースデイ(1982年)
■ バッド・ガール(1980年)
■ 麗しのドンナ・アンナ(1982年)
■ HEART BEAT(小さなカサノバと街のナイチンゲールのバラッド)(1981年)
ぶっちぎりの名曲&名演。
コメントにもあるけど、この曲を名曲と言わずして何を名曲と言うのか。
いま、あらためて聴いてみると、エモーショナルなサックスの音色やストリングスの旋律の美しさにおどろく。
初期の頃から、アレンジメントやサウンドメイクにも卓越した才能を発揮していたことがわかる。
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■ コンプリケイション・シェイクダウン(1985_LIVEフルバージョン)
大幅な路線変更を図った4th.ALBUM『VISITORS』(1984年)収録曲。
「当時アメリカで発達し始めたばかりで、まだ日本でも浸透していなかったラップやヒップホップ手法が楽曲に取り入れられ佐野の歌唱法が変化したことや前作までのナイアガラ系に通じるサウンド・歌詞から一変したことで、リスナーのほとんどに戸惑いを与え賛否両論となった」(Wikipediaより)
そう、当時たしかに賛否両論ありましたね。角松敏生の『AFTER 5 CLASH』(1984年)なんかもそうですね。
でも、この時点でこういう変化は、後のPOP-MUSICを考えると必然だったんだと思う。
【関連記事】
■ 洋楽1983年ピーク説
■ Marc Jordan - Best Part Of My Life
〔 From 『Make Believe Ballroom』(2004)〕
個人的には、Marc Jordanの域にもっとも迫った邦楽アーティストは佐野元春だと思う。
↓
AOR系シンガーの多くは1980年代にピークをつけたと思われるが、Marc Jordanは数少ない例外で、その後も円熟味を加えて名盤を送り出している。
これは『Make Believe Ballroom』(2004)のバラッドで、ピアノとストリングスの綺麗な旋律のうえでエモーショナルなMarc Jordanのヴォーカルが光る名テイク。
映像のできも出色。
【佐野元春】多くのミュージシャンに影響を与える「佐野元春」の音楽をダイノジが語る!!前編【ダイノジ中学校】
夏歌特集ではサザンやTUBE、達郎、大瀧詠一くらいまでは行くけど、杏里や角松敏生、佐野元春あたりまで掘り下げるケースは多くない。
でも、個人的には、夏の終わりをもっとも感じるアーティストは佐野元春だと思う。
というか、1980年代初頭でもっとも個人的に聴き込んでいた邦楽は、サザンでも達郎でもユーミンでもなく、たぶん佐野元春(&杏里)だった。
めずらしくフォローされたとしてもほとんど↓の曲で、「佐野元春=SOMEDAY」のイメージが強すぎるのはけっこう悲しい。
■ SOMEDAY(1982年)
そんなこともあって、思い入れのある初期3枚のアルバムからバラード(&ミディアム)を引っ張ってきました。
(本来はアルバム通して聴くアーティストだと思うけどね。)
↓ の3作を「佐野元春初期三部作」ともいい、共通した空気感が流れています。
4th.ALBUM『VISITORS』(1984年)以降、佐野元春はほとんど1作毎に作風を変えていきます。
その中には名曲も少なくないですが、やっぱり筆者的にはリアルタイムでヘビロテしていたこの3作に戻ってしまいます。
1st.ALBUM 『BACK TO THE STREET』(1980年)
2nd.ALBUM 『Heart Beat』(1981年)
3rd.ALBUM 『SOMEDAY』(1982年)
まぁ、だまされたと思って(笑) 聴いてみておくんなまし。
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■ Sugartime(1982年)
■ グッドタイムズ&バッドタイムズ(1980年)
■ バルセロナの夜(1981年)
■ 彼女(1981年)
■ ロックンロール・ナイト(1982年)
■ 君をさがしている(朝が来るまで)(1981年)
■ 情けない週末(1980年)
■ 二人のバースデイ(1982年)
■ バッド・ガール(1980年)
■ 麗しのドンナ・アンナ(1982年)
■ HEART BEAT(小さなカサノバと街のナイチンゲールのバラッド)(1981年)
ぶっちぎりの名曲&名演。
コメントにもあるけど、この曲を名曲と言わずして何を名曲と言うのか。
いま、あらためて聴いてみると、エモーショナルなサックスの音色やストリングスの旋律の美しさにおどろく。
初期の頃から、アレンジメントやサウンドメイクにも卓越した才能を発揮していたことがわかる。
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■ コンプリケイション・シェイクダウン(1985_LIVEフルバージョン)
大幅な路線変更を図った4th.ALBUM『VISITORS』(1984年)収録曲。
「当時アメリカで発達し始めたばかりで、まだ日本でも浸透していなかったラップやヒップホップ手法が楽曲に取り入れられ佐野の歌唱法が変化したことや前作までのナイアガラ系に通じるサウンド・歌詞から一変したことで、リスナーのほとんどに戸惑いを与え賛否両論となった」(Wikipediaより)
そう、当時たしかに賛否両論ありましたね。角松敏生の『AFTER 5 CLASH』(1984年)なんかもそうですね。
でも、この時点でこういう変化は、後のPOP-MUSICを考えると必然だったんだと思う。
【関連記事】
■ 洋楽1983年ピーク説
■ Marc Jordan - Best Part Of My Life
〔 From 『Make Believe Ballroom』(2004)〕
個人的には、Marc Jordanの域にもっとも迫った邦楽アーティストは佐野元春だと思う。
↓
AOR系シンガーの多くは1980年代にピークをつけたと思われるが、Marc Jordanは数少ない例外で、その後も円熟味を加えて名盤を送り出している。
これは『Make Believe Ballroom』(2004)のバラッドで、ピアノとストリングスの綺麗な旋律のうえでエモーショナルなMarc Jordanのヴォーカルが光る名テイク。
映像のできも出色。
【佐野元春】多くのミュージシャンに影響を与える「佐野元春」の音楽をダイノジが語る!!前編【ダイノジ中学校】
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■ 熊田このはちゃんの夏の終わり歌【限定公開】
切なさを帯びたこのはちゃんの歌は夏の終わりにぴったり。
夏の終わりっぽい曲をいくつか集めてみました。
期間限定公開です。
極めつきのやつ入れ忘れてました。
歌い出しのアクシデントにもめげずの名唱。
サビのハイトーンはひょっとして上位互換か?
まぁ、聴いてみてください ↓
■ 夏の終わり
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■ 少年時代
■ 月のしずく
■ 打上花火 (w/富金原佑菜)
■ いのちの歌 (w/鈴木杏奈)
■ ツキミソウ
■ ずっと、ふたりで
→ ■ 熊田このはちゃんのセトリ(&出演記録)-Vol.2
夏の終わりっぽい曲をいくつか集めてみました。
期間限定公開です。
極めつきのやつ入れ忘れてました。
歌い出しのアクシデントにもめげずの名唱。
サビのハイトーンはひょっとして上位互換か?
まぁ、聴いてみてください ↓
■ 夏の終わり
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■ 少年時代
■ 月のしずく
■ 打上花火 (w/富金原佑菜)
■ いのちの歌 (w/鈴木杏奈)
■ ツキミソウ
■ ずっと、ふたりで
→ ■ 熊田このはちゃんのセトリ(&出演記録)-Vol.2
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■ 杏里の名バラード20曲!
杏里は夏の終わりがもっとも似合うアーティストだと思う。
ということで、アゲてみました。
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2020/08/15UP
2020/06/05UP
ひょんなことで、Web上から消えていると思ってた、杏里の名作「砂浜(SUNAHAMA)」のmeditation Vers.がみつかりました。
発見記念に(笑)、杏里の名バラード10曲入れてみます。
それにしても、いま聴いても好メロの嵐じゃわ・・・。
それにやっぱり実力がある。近年再評価されているのもわかる気がする。
2020/06/06UP
収録ALBUMを追記しました。
あらためて聴き直したら『meditation』(1987)の選曲とほとんどかぶってた(笑)
ということは、すでに1987年までに多くの名バラードを残してたということ。
それと、杏里のバラードはUP~Midグルーヴ曲と切り離せないので、数曲散りばめてみました。(■印の曲)
01.SUNAHAMA(砂浜)
〔 From 『meditation』(1987)〕
原曲は1982年リリースのベスト・アルバム『思いきりアメリカン 〜I Love Poping World,Anri〜』収録。
シングルカットはされていないものの人気の高い曲。
個人的には、1987年リリースのバラード・セルフカバーアルバム『meditation』収録のこのテイクがベスト。
1987年11月On Sale。バブル崩壊まであと2年とすこし、緊縮財政始動まであと10年。
どことなく「祭りのおわり」感ただよっているのは、そんな時代の流れを反映してたのかも・・・。
→ 「砂浜」の歌詞
□ 遠い夏のイマージュ
〔 From 『My Music』(2001)〕
これ、「砂浜」へのトリビュートソングでは?
→ 「遠い夏のイマージュ」の歌詞
それだけ、名曲「砂浜」への思い入れがふかいのかも。
02.Oversea Call
〔 From 『WAVE』(1985)〕
『WAVE』は、グルーヴ感炸裂の前作『Coool』から打って変わって打ち込みメインでややハードなイメージがあったが、この曲と「Long Island Beach」の2曲のバラードの仕上がりは抜群だった。
03.Edge Of Heaven
〔 From 『Boogie Woogie Mainland』(1988)〕
捨て音なし。メロにしてもリズムにしても杏里のエッセンス的なバラードだと思う。
セルフカバー・ベストアルバム『OPUS 21』(1995)にも収録されている。
■ Sentimental Express
〔 From 『Mystique』(1986)〕
1986年。リズムはすでに硬質感を帯びているが、メロディラインは抜群。
こういう変化のあるメロディを創り出せるのも杏里の魅力。
■ Papaya Papaiya
〔 From 『Moana Lani』(1992)〕
杏里にしてはわりにめずらしいレゲエ系の曲。
杏里の初~中期のアルバムってこういうさりげないブリッヂ曲が入っていて、流れに変化を与えていた。
04.Lani ~Heavenly Garden~
〔 From 『Moana Lani』(1992)〕
1992年6月3日にシングルでも切られているバラード。
Alan Pasquaのキーボードのサポートメロが綺麗でスケール感のある杏里らしい曲調。
個人的に変拍子がかったサビ部のリズムパターンがツボ。パーカッションはLuis Conte。
05.オリビアを聴きながら(OLIVIA O KIKINAGARA) ※デビュー曲
〔 From 『杏里 -Apricot Jam-』(1978)〕
1978年リリースの1stアルバム『杏里 - apricot jam -』のA-1曲で、1978年11月5日リリースの1stシングル曲。
尾崎亜美の作詞・作曲。
これはオリジナルかも、杏里の名曲は好アレンジの『meditation』(1987)再録バージョンがベストのケースが多いが、この曲はおそらくオリジナルがベストテイク。
フェンダー・ローズの音色なくして、この曲は成り立たなかった。
いまでは杏里のみならずJーPOP屈指の名曲とされるが、発売当時はさほどブレークしていない。
こういう再評価パターンって意外に多かったりする。
~ 疲れ果てたあなた 私の幻を愛したの ~
□ オリビアを聴きながら/杏里&河合奈保子
河合奈保子、大健闘!
バックでキレッキレのサポートかましてるギタリストは誰?
■ Maui
〔From 『Coool』(1984)〕
『Coool』ってバラードはいまいちだったけど、こういうこ洒落たミディアム曲の出来は抜群だった。
ギターCarlos Riosのグルーヴィーなカウンターメロが効きまくっている。
06.Field Of Lights
〔From 『Sõl』(2005)〕
作編曲は Lee Ritenourとのコラボ。 杏里の綺麗なハイトーンが際立つ壮大なバラード。
2005年9月28日シングルカット。
■ Remember Summer Days
〔From 『Timely!!』(1983)(リマスター盤のみ)〕
初期杏里のサーフサイド感満載の典型的なUP曲。
これもシティ・ポップの名曲として再評価が進んでいる。
シングル「悲しみがとまらない」のc/w曲。『Timely!!』のリマスター盤(2008/2011)のみ収録。
07.Morning Dreamer
〔From 『Angel Whisper』(1996)〕
夏の海のイメージただよう爽快感あふれるSlow~Midチューン。
杏里はやっぱりこういう軽やかなリズムが合っていると思う。
Drums [Overdub]–Ricky Lawson、Bass–Freddie Washington。
ブライトかつクリアなAc. GuitarはDean Parks。
08.Just Be Yourself
〔From 『Bi・Ki・Ni』(1983)〕
個人的には前作『Heaven Beach』と並んで杏里のベスト作と思っている 『Bi・Ki・Ni』収録のSlow~Mid曲。
グルーヴ効いてるけど、しっとり落ち着く曲調。1980年代中盤以降、こういう曲調はめっきり少なくなった。
09.All Of You
〔 From 『MYSTIQUE』(1986)〕
1994年6月にシングルカットされた自身作曲の代表的なバラード。
杏里がつくるバラード曲は、メロディラインがとても綺麗だと思う。
イントロ、アレンジと一部歌詞が異なる別バージョンもあります。
■ Good Bye Boogie Dance
〔From 『Bi・Ki・Ni』(1983)〕
杏里のUP曲の真骨頂ってベタメロの「CAT'S EYE」でも「悲しみがとまらない」でも「気ままにREFLECTION」でもなく、こういうグルーヴ曲だと思う。
10.One ~愛はふたりの言葉だから~
〔From 『1/2&1/2』(1993)〕
このころの杏里の声って、透明感あってやさしい。
11.Affection
〔From 『Bi・Ki・Ni』(1983)〕
名盤『Bi・Ki・Ni』のラストを飾る名バラード。
作詞・作曲:杏里、編曲は才人佐藤準。
ストリングス絡みのエンドが、もろ1983年じゃわ。
■ Surpise Of Summer
〔From 『Coool』(1984)〕
パーカッションやカッティングギターの当て方、そして独特の”キメ”が、もろ角松サウンド。
saxがスムースに絡む、1980年代初頭の空気感。
12.Precious One ~かけがえのないストーリー
〔From 『Anri』(2019)〕
このALBUM唯一の作詞:吉元由美作品(作曲:杏里)、やっぱり吉元由美の作詞は相性がいいと思う。
しかし2019年にして、こういう曲調のバラードをよく創り出せたと思う。
このアルバムからはシングル切られていないけど、世が世ならブレイクしてもおかしくない仕上がりでは。
13.ドルフィン・リング
〔From 『1/2&1/2』(1993)〕
1993年4月7日にシングルカットされたスマッシュヒット曲。
杏里らしい透明感と広がりのある曲調が耳に心地よい。
■ Circuit Of Rainbow
〔From 『Circuit Of Rainbow』(1989)〕
カッティングギター&リフ、シンコペ、キメのリズム・・・。groovin'!
ギターは Dean Parksか Paul Jackson Jr.、ベースはFreddie WashingtonかNeil Stubenhaus、ドラムスはJohn Robinsonか?
1989年にしてこの曲調は貴重。近年「シティポップの女王」として再評価されているだけのことある。
14.さよならシングル・デイズ
〔 From 『Summer Farewells』(1987)〕
ちょっとユーミン的で杏里スタンダードじゃない感じもするけど、歌いまわしが面白いので入れてみました。
15.You Are Not Alone
〔 From 『Timely!!』(1983)〕
ほんとによく聴いた。名曲。
名手、林哲司のアレンジがよく効いている。
~ You Are Not Alone
そぐそばに Yes Me 私がいる いつも ~
杏里の歌詞ってシンプルだけど入ってくる。
16.Summer Candles
〔 From 『Boogie Woogie Mainland』(1988)〕
サビメロの塊のような杏里の人気曲で1988年7月13日にシングルで切られている。
吉元由美の歌詞がはまっている定番結婚ソング。結婚式で知った人も多いのでは?
■ Last Summer Whisper
〔From 『Heaven Beach』(1982)〕
シティ・ポップの流れのなかで、もっとも再評価されている曲のひとつ。
このグルーヴ感は、いまではもう創り出せないと思う。
17.I Will Be There With You ~日本語版~
〔 From 『Heart to Heart 〜with you〜』(2011)〕
JALのオリジナルソングで、機内で聴いた人も多いのでは。
David Fosterらしいピアノワークとリリカルなメロディラインが杏里のボーカルとよく合っている。
ベストアルバム『Heart to Heart 〜with you〜』(2011)に新曲として収録。
■ MERCURY LAMP 水銀燈
〔From 『Coool』(1984)〕
杏里の曲のなかでも抜群にグルーヴ効いたミディアム曲。
Arr. by 角松敏生。
おそらく・・・、Don Grusin(key)、 Paul Jackson Jr. (g)、Nathan East(g)、Leon Ndugu Chancler (ds)、Paulinho Da Costa(Per)。
だよね~、で、このグルーブ感。
あの頃、みなこのグルーヴ感がほしくてL.A.録音したんだもんね(笑)
18.Long Island Beach
〔 From 『WAVE』(1985)〕
杏里屈指の名バラード。
1980年代前半ならではの聴き飽きしない洒落たメロディーライン。ブライトだけど切なさも。
19.千年の恋
〔 From 『The Beach House』(2000)〕
シングルカットしてもいいくらいの素晴らしいメロディラインの名曲。
ピアノ&ストリングスで幕を開け、一拍置いてからのボーカルパートの入りが秀逸。
20.Heaven Beach
〔 From 『Heaven Beach』(1982)〕
タイトル曲の「Heaven Beach」、やっぱりこれは神曲だと思う。杏里の作曲能力の高さを物語る曲。
~ Love Make Me Strong
あの素晴らしい日々が遠く 空を舞いおりて来る ~
角松敏生、小林武史などが参画して、一気にシティポップ化した名盤『Heaven Beach』は、個人的には杏里の最高傑作だと思っている。
とくに角松敏生が触媒となって、一気に才能が開花した感じがする。
□ 角松敏生・杏里 I Can't Ever Change Your Love For Me
〔From 『Coool』(1984)〕
2003年11月15日 横浜アリーナのLIVE。
↑ やっぱり2人の音楽的な相性、抜群だと思う。
それにしても凄い(というか、大人の余裕の)テイクじゃな。インストも最高!
『Heaven Beach』に戻って、
30:16~ ラスト3曲(Memorial Story~夏に背を向けて~Heaven Beach)の流れが絶妙すぎる。
□ Heaven Beach 『Meditation』Vers.
ただし、この曲に限っていえば、オリジナルの『Heaven Beach』Vers.のほうが出来がよい。
【 番外 】
● 夏の月
〔 From 『Moonlit Summer Tales』(1998)〕
なんでこの人気バラード曲をリストしなかったか、不思議に思う方もいるはず。
でも、リスト曲たちと聴きくらべてみると、あきらかに質感が違うことがわかるはず・・・。
※今井美樹Vers.もつくってみました。
よろしければどーぞ。
ということで、アゲてみました。
-------------------------
2020/08/15UP
2020/06/05UP
ひょんなことで、Web上から消えていると思ってた、杏里の名作「砂浜(SUNAHAMA)」のmeditation Vers.がみつかりました。
発見記念に(笑)、杏里の名バラード10曲入れてみます。
それにしても、いま聴いても好メロの嵐じゃわ・・・。
それにやっぱり実力がある。近年再評価されているのもわかる気がする。
2020/06/06UP
収録ALBUMを追記しました。
あらためて聴き直したら『meditation』(1987)の選曲とほとんどかぶってた(笑)
ということは、すでに1987年までに多くの名バラードを残してたということ。
それと、杏里のバラードはUP~Midグルーヴ曲と切り離せないので、数曲散りばめてみました。(■印の曲)
01.SUNAHAMA(砂浜)
〔 From 『meditation』(1987)〕
原曲は1982年リリースのベスト・アルバム『思いきりアメリカン 〜I Love Poping World,Anri〜』収録。
シングルカットはされていないものの人気の高い曲。
個人的には、1987年リリースのバラード・セルフカバーアルバム『meditation』収録のこのテイクがベスト。
1987年11月On Sale。バブル崩壊まであと2年とすこし、緊縮財政始動まであと10年。
どことなく「祭りのおわり」感ただよっているのは、そんな時代の流れを反映してたのかも・・・。
→ 「砂浜」の歌詞
□ 遠い夏のイマージュ
〔 From 『My Music』(2001)〕
これ、「砂浜」へのトリビュートソングでは?
→ 「遠い夏のイマージュ」の歌詞
それだけ、名曲「砂浜」への思い入れがふかいのかも。
02.Oversea Call
〔 From 『WAVE』(1985)〕
『WAVE』は、グルーヴ感炸裂の前作『Coool』から打って変わって打ち込みメインでややハードなイメージがあったが、この曲と「Long Island Beach」の2曲のバラードの仕上がりは抜群だった。
03.Edge Of Heaven
〔 From 『Boogie Woogie Mainland』(1988)〕
捨て音なし。メロにしてもリズムにしても杏里のエッセンス的なバラードだと思う。
セルフカバー・ベストアルバム『OPUS 21』(1995)にも収録されている。
■ Sentimental Express
〔 From 『Mystique』(1986)〕
1986年。リズムはすでに硬質感を帯びているが、メロディラインは抜群。
こういう変化のあるメロディを創り出せるのも杏里の魅力。
■ Papaya Papaiya
〔 From 『Moana Lani』(1992)〕
杏里にしてはわりにめずらしいレゲエ系の曲。
杏里の初~中期のアルバムってこういうさりげないブリッヂ曲が入っていて、流れに変化を与えていた。
04.Lani ~Heavenly Garden~
〔 From 『Moana Lani』(1992)〕
1992年6月3日にシングルでも切られているバラード。
Alan Pasquaのキーボードのサポートメロが綺麗でスケール感のある杏里らしい曲調。
個人的に変拍子がかったサビ部のリズムパターンがツボ。パーカッションはLuis Conte。
05.オリビアを聴きながら(OLIVIA O KIKINAGARA) ※デビュー曲
〔 From 『杏里 -Apricot Jam-』(1978)〕
1978年リリースの1stアルバム『杏里 - apricot jam -』のA-1曲で、1978年11月5日リリースの1stシングル曲。
尾崎亜美の作詞・作曲。
これはオリジナルかも、杏里の名曲は好アレンジの『meditation』(1987)再録バージョンがベストのケースが多いが、この曲はおそらくオリジナルがベストテイク。
フェンダー・ローズの音色なくして、この曲は成り立たなかった。
いまでは杏里のみならずJーPOP屈指の名曲とされるが、発売当時はさほどブレークしていない。
こういう再評価パターンって意外に多かったりする。
~ 疲れ果てたあなた 私の幻を愛したの ~
□ オリビアを聴きながら/杏里&河合奈保子
河合奈保子、大健闘!
バックでキレッキレのサポートかましてるギタリストは誰?
■ Maui
〔From 『Coool』(1984)〕
『Coool』ってバラードはいまいちだったけど、こういうこ洒落たミディアム曲の出来は抜群だった。
ギターCarlos Riosのグルーヴィーなカウンターメロが効きまくっている。
06.Field Of Lights
〔From 『Sõl』(2005)〕
作編曲は Lee Ritenourとのコラボ。 杏里の綺麗なハイトーンが際立つ壮大なバラード。
2005年9月28日シングルカット。
■ Remember Summer Days
〔From 『Timely!!』(1983)(リマスター盤のみ)〕
初期杏里のサーフサイド感満載の典型的なUP曲。
これもシティ・ポップの名曲として再評価が進んでいる。
シングル「悲しみがとまらない」のc/w曲。『Timely!!』のリマスター盤(2008/2011)のみ収録。
07.Morning Dreamer
〔From 『Angel Whisper』(1996)〕
夏の海のイメージただよう爽快感あふれるSlow~Midチューン。
杏里はやっぱりこういう軽やかなリズムが合っていると思う。
Drums [Overdub]–Ricky Lawson、Bass–Freddie Washington。
ブライトかつクリアなAc. GuitarはDean Parks。
08.Just Be Yourself
〔From 『Bi・Ki・Ni』(1983)〕
個人的には前作『Heaven Beach』と並んで杏里のベスト作と思っている 『Bi・Ki・Ni』収録のSlow~Mid曲。
グルーヴ効いてるけど、しっとり落ち着く曲調。1980年代中盤以降、こういう曲調はめっきり少なくなった。
09.All Of You
〔 From 『MYSTIQUE』(1986)〕
1994年6月にシングルカットされた自身作曲の代表的なバラード。
杏里がつくるバラード曲は、メロディラインがとても綺麗だと思う。
イントロ、アレンジと一部歌詞が異なる別バージョンもあります。
■ Good Bye Boogie Dance
〔From 『Bi・Ki・Ni』(1983)〕
杏里のUP曲の真骨頂ってベタメロの「CAT'S EYE」でも「悲しみがとまらない」でも「気ままにREFLECTION」でもなく、こういうグルーヴ曲だと思う。
10.One ~愛はふたりの言葉だから~
〔From 『1/2&1/2』(1993)〕
このころの杏里の声って、透明感あってやさしい。
11.Affection
〔From 『Bi・Ki・Ni』(1983)〕
名盤『Bi・Ki・Ni』のラストを飾る名バラード。
作詞・作曲:杏里、編曲は才人佐藤準。
ストリングス絡みのエンドが、もろ1983年じゃわ。
■ Surpise Of Summer
〔From 『Coool』(1984)〕
パーカッションやカッティングギターの当て方、そして独特の”キメ”が、もろ角松サウンド。
saxがスムースに絡む、1980年代初頭の空気感。
12.Precious One ~かけがえのないストーリー
〔From 『Anri』(2019)〕
このALBUM唯一の作詞:吉元由美作品(作曲:杏里)、やっぱり吉元由美の作詞は相性がいいと思う。
しかし2019年にして、こういう曲調のバラードをよく創り出せたと思う。
このアルバムからはシングル切られていないけど、世が世ならブレイクしてもおかしくない仕上がりでは。
13.ドルフィン・リング
〔From 『1/2&1/2』(1993)〕
1993年4月7日にシングルカットされたスマッシュヒット曲。
杏里らしい透明感と広がりのある曲調が耳に心地よい。
■ Circuit Of Rainbow
〔From 『Circuit Of Rainbow』(1989)〕
カッティングギター&リフ、シンコペ、キメのリズム・・・。groovin'!
ギターは Dean Parksか Paul Jackson Jr.、ベースはFreddie WashingtonかNeil Stubenhaus、ドラムスはJohn Robinsonか?
1989年にしてこの曲調は貴重。近年「シティポップの女王」として再評価されているだけのことある。
14.さよならシングル・デイズ
〔 From 『Summer Farewells』(1987)〕
ちょっとユーミン的で杏里スタンダードじゃない感じもするけど、歌いまわしが面白いので入れてみました。
15.You Are Not Alone
〔 From 『Timely!!』(1983)〕
ほんとによく聴いた。名曲。
名手、林哲司のアレンジがよく効いている。
~ You Are Not Alone
そぐそばに Yes Me 私がいる いつも ~
杏里の歌詞ってシンプルだけど入ってくる。
16.Summer Candles
〔 From 『Boogie Woogie Mainland』(1988)〕
サビメロの塊のような杏里の人気曲で1988年7月13日にシングルで切られている。
吉元由美の歌詞がはまっている定番結婚ソング。結婚式で知った人も多いのでは?
■ Last Summer Whisper
〔From 『Heaven Beach』(1982)〕
シティ・ポップの流れのなかで、もっとも再評価されている曲のひとつ。
このグルーヴ感は、いまではもう創り出せないと思う。
17.I Will Be There With You ~日本語版~
〔 From 『Heart to Heart 〜with you〜』(2011)〕
JALのオリジナルソングで、機内で聴いた人も多いのでは。
David Fosterらしいピアノワークとリリカルなメロディラインが杏里のボーカルとよく合っている。
ベストアルバム『Heart to Heart 〜with you〜』(2011)に新曲として収録。
■ MERCURY LAMP 水銀燈
〔From 『Coool』(1984)〕
杏里の曲のなかでも抜群にグルーヴ効いたミディアム曲。
Arr. by 角松敏生。
おそらく・・・、Don Grusin(key)、 Paul Jackson Jr. (g)、Nathan East(g)、Leon Ndugu Chancler (ds)、Paulinho Da Costa(Per)。
だよね~、で、このグルーブ感。
あの頃、みなこのグルーヴ感がほしくてL.A.録音したんだもんね(笑)
18.Long Island Beach
〔 From 『WAVE』(1985)〕
杏里屈指の名バラード。
1980年代前半ならではの聴き飽きしない洒落たメロディーライン。ブライトだけど切なさも。
19.千年の恋
〔 From 『The Beach House』(2000)〕
シングルカットしてもいいくらいの素晴らしいメロディラインの名曲。
ピアノ&ストリングスで幕を開け、一拍置いてからのボーカルパートの入りが秀逸。
20.Heaven Beach
〔 From 『Heaven Beach』(1982)〕
タイトル曲の「Heaven Beach」、やっぱりこれは神曲だと思う。杏里の作曲能力の高さを物語る曲。
~ Love Make Me Strong
あの素晴らしい日々が遠く 空を舞いおりて来る ~
角松敏生、小林武史などが参画して、一気にシティポップ化した名盤『Heaven Beach』は、個人的には杏里の最高傑作だと思っている。
とくに角松敏生が触媒となって、一気に才能が開花した感じがする。
□ 角松敏生・杏里 I Can't Ever Change Your Love For Me
〔From 『Coool』(1984)〕
2003年11月15日 横浜アリーナのLIVE。
↑ やっぱり2人の音楽的な相性、抜群だと思う。
それにしても凄い(というか、大人の余裕の)テイクじゃな。インストも最高!
『Heaven Beach』に戻って、
30:16~ ラスト3曲(Memorial Story~夏に背を向けて~Heaven Beach)の流れが絶妙すぎる。
□ Heaven Beach 『Meditation』Vers.
ただし、この曲に限っていえば、オリジナルの『Heaven Beach』Vers.のほうが出来がよい。
【 番外 】
● 夏の月
〔 From 『Moonlit Summer Tales』(1998)〕
なんでこの人気バラード曲をリストしなかったか、不思議に思う方もいるはず。
でも、リスト曲たちと聴きくらべてみると、あきらかに質感が違うことがわかるはず・・・。
※今井美樹Vers.もつくってみました。
よろしければどーぞ。
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■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-8
■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-7からのつづきです。
※札所および記事リストは→ こちら。
『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。
■ 第21番 清瀧山 観音院 蓮花寺
(れんげじ)
墨田区観光協会公式Web
墨田区東向島3-23-17
真言宗智山派
御本尊:弘法大師
札所本尊:
司元別当:(寺島村)総鎮守・白鬚神社(墨田区東向島)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第72番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第84番、新葛西三十三観音霊場第19番、墨田区お寺めぐり第11番
第21番は墨田区東向島の蓮花寺。
東向島の旧町名「寺島」の地名のいわれとなったとされる中本寺格の真言密寺です。
墨田区観光協会公式Web、下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
蓮花寺はすこぶる複雑な縁起をもたれます。
一説には寛元四年(1246年)、鎌倉幕府第5代執権、最明寺入道北条時頼の開基で、時頼の兄の北条武蔵守経時追福のため鎌倉佐介谷(現・鎌倉市佐助)に創建された蓮華寺が創始といいます。
頼朝公の外伯父、深井法眼範智の孫・良弁法印審範を開祖として聖徳太子の御像を安置といい、後に京の禁裏から弘法大師空海御自筆の「女人済度厄除弘法大師」を招来し奉安したといいます。
経時の死後、子の頼助は諸般の事情から執権職を叔父の時頼に譲り、自らは剃髪入道して諸国を廻ったといいます。
廻国ののち寺島の地に一寺を建て、弘安三年(1280年)鎌倉の蓮華寺の名跡を遷し、「女人済度厄除弘法大師」を御本尊とし、堂宇を建てて聖徳太子の御像を納め、佐々目大僧正頼助と号して自ら開山となったといいます。
(『ガイド』によると蓮花寺の『日過去帳』には、「大僧正頼助永仁四年(1296年)二月八日蓮華寺開山」とある由。)
以上の縁起は、江戸期には人口に膾炙していたようですが、『新編武蔵風土記稿』『江戸名所図会』『葛西志』などは、こぞってこの縁起に疑義を呈しています。
その疑義とはおおよそ以下のとおりです。
*******
1.『鎌倉大日記』に、建長三年(1251年)経時のために佐介谷に蓮華寺を建立した住持は良忠(記主禅師)と記されていること。
2.『鎌倉志』に、佐介谷の蓮華寺は寛元元年(1243年)平(北条)経時の建立にて、時の導師は記主禅師(良忠)とあること。
3.上の二書ともに蓮華寺建立の導師は記主禅師(良忠)とあるからには、その宗門はもとより浄家(浄土宗)であることは明らかである。
4.『鎌倉志』には蓮華寺創立の後、経時の霊夢により光明寺と改めたとあり、光明寺でもこのように伝わる(ので蓮華寺が光明寺の前身であることは明らか)。
5.以上より、佐介谷の蓮華寺は光明寺となったことは明らかであり、あるいは寺島の地は頼助の領地だったため、(佐介谷の蓮華寺)遙拝のために同名の寺を起立したのではないか。
佐介谷の蓮華寺が(光明寺)に改号した(材木座に移転して佐介谷の蓮華寺がなくなった)ため、後の人々が(佐介谷の)蓮華寺が(寺島の)蓮華寺に移ったという説を打ちたてたのではないか。
*******
鎌倉材木座の光明寺といえば浄土宗の大本山であり、光明寺公式Webには「良忠上人は鎌倉幕府第四代の執権、北条経時公の帰依を受けてこの光明寺を開かれたといわれています。」と記されています。
その光明寺の前身が佐介谷の蓮華寺であることは諸史料に明らかで、記主禅師良忠上人ゆかりの佐介谷の蓮華寺が、江戸墨東・寺島の地に、しかも真言密寺として移転というのはどうみても不自然です。
また、諸史料からすると、京の禁裏から弘法大師空海御自筆の「女人済度厄除弘法大師」を招来し安置したのは佐介谷の蓮華寺とみられますが、禁裏に奉安の弘法大師御自筆の「女人済度厄除弘法大師」といえば真言宗の至宝であり、その至宝を浄土宗の蓮華寺に相伝するというのもいささか解せない流れです。
さらにWikipediaで頼助 (北条氏)を当たってみると、
---------------------------------
・頼助(1244-1296年)は真言僧で、父・北条経時の菩提所である鎌倉佐々目の遺身院を拠点とし、佐々目頼助とも呼ばれた。
・弘長二年(1262年)以前には出家している。
・三宝院・安祥寺・仁和寺各流を受法し、仁和寺流・法助の弟子となって文永六年(1269年)に頼守から頼助に改名した。
・修行を積んで鎌倉に戻り、弘安四年(1281年)の元寇の際には異国降伏祈祷を行い、弘安六年(1283年)には鶴岡八幡宮の10代別当となる。
・円教寺、遍照寺、左女牛若宮等の別当、東寺長者などを歴任し、正応五年(1292年)、大僧正・東大寺別当に就任。
---------------------------------
とあり、真言僧として錚錚たる地位を歴任しています。
なお、佐々目(谷)は佐助と長谷の間の谷で、『吾妻鏡』寛元四年(1246年)閏4月2日條には、北条経時が佐々目山麓に葬られたと記されています。
佐々目の遺身院および頼助については、以前こちらの記事(鎌倉市の御朱印-7の24.安養院)でもふれています。
『鎌倉下向僧の研究 - 願行房憲静の事跡 -』(高橋秀栄氏/PDF)には「勝賢開山の佐々目西方寺にはじまり、関東の三宝院流はここに発祥し、大門寺、遺身院その他の寺院群が佐々目の地にあった模様である。」とあります。
以上から考えると、頼助は真言密各派の教義を修めたばりばりの真言僧で、自身の領地(寺島)に鎌倉から寺院を遷すとすれば、拠点としていた佐々目の真言密寺・遺身院を遷すのではないかとも思えます。
鎌倉の拠点として遺身院を残しておきたいのであれば、寺島には分院を置いてもいいですし、佐々目にいくつかあった真言密寺を遷してもいい筈です。
少なくとも他宗派の重要寺院・蓮華寺を遷すという発想には至らないのでは。
このような疑義もあってか、当山の縁起については「はっきりしない」とか「諸説あり」と記される例が多くなっているのだと思います。
どうにもすっきりしないので、さらに『鎌倉市史 寺社編』を当たってみました。
同書P.429~に気になる記述があります。
「従来光明寺について多くのものは『鎌倉佐介浄刹光明寺開山御伝』により、然阿良忠か仁治元年(1241年)二月、鎌倉に入り、住吉谷悟真寺に住して浄土宗を弘めていた、時の執権経時は良忠を尊崇し、佐介谷に蓮華寺を建立して開山とし、ついで光明寺とその名を改め、前の名蓮華の二字を残して方丈を蓮華院となづけた。寛元元年(1243年)五月三日、吉日を卜して良忠を導師として供養した。といい、『風土記稿』所引の寺伝では、この時に、現在地材木座に移転したようにいっている。しかし、経時(1246年没)の法名は蓮花寺殿安楽大禅定門とあるから、光明寺と改名するのは、どうも後世のように思われる。『良暁述聞制文』には、「佐介谷悟真寺今号蓮華寺」とあり、正中二年(1325年)三月十五日にはまだ光明寺という名がでてこない。(中略)『開山御伝』に建長頃(1249-1256年)、北条時頼が寺領を加へ、外門の額字を、佐介浄刹としたという話も、佐介谷にあればこそのことではないかと思う。(中略)『資料編』三の四七六及び四七八はいづれも江戸時代に納められたもので、内容から考えてどうも密教系の寺のものでここのものではないらしい。光明寺の肩の文字を抹消していることも、疑問がのこるところである。(中略)現在のところ(材木座)に移転した期日及び名を光明寺と改めた時期はなお研究を要する問題である。」
『資料編』三の四七六及び四七八が手元にないのでなんともいえませんが、「密教系の寺」が寺島の蓮花寺だとすると、光明寺の縁起を辿るときに寺島蓮花寺関連の文書が入り、錯綜している様子がうかがえます。
こんなこともあって、寺島の蓮花寺の縁起は現代に至ってなお「諸説あり」とされるのかもしれません。
なお、上記の『鎌倉市史 寺社編』によると、正中二年(1325年)の時点ではまだ光明寺の名は出てこず(=蓮華寺が存在していた)、弘安三年(1280年)に頼助が鎌倉から蓮華寺を遷したという当山縁起(説)の内容と時系列的には符合しますが、そうなると弘安三年(1280年)以降は(寺島に移転したため)鎌倉に蓮華寺は存在しないことになり、光明寺まで系譜がつながらなくなってしまいます。
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以上のように縁起沿革こそ不明瞭さは残るものの、禁裏から相伝の弘法大師御自筆の「女人済度厄除弘法大師」を奉安は、江戸庶民にとって圧倒的なインパクトであり、当山は「厄除け寺島大師」と尊称され、川崎大師平間寺、西新井大師総持寺とともに「江戸三大師」に数えられて参詣者を集めました。
一説に鎌倉幕府第5代執権、北条時頼公の開基、大僧正・東大寺別当の(北条)頼助の開山ということもあり、自ずから寺格は高く京都智積院直末の中本寺格寺院でした。
墨東の弘法大師霊場・隅田川二十一ヶ所霊場の結願寺として、まことにふさわしい名刹といえましょう。
北条家滅亡の後も足利将軍、管領等の崇敬は篤かったものの、文明年間(1469-1487年)の下総千葉家内の騒乱によって当山は荒廃したといいます。
天文年間(1532-1555年)、この地が小田原北條家の領地となった頃、遠山丹波守が奉行として寺領等を寄附して寺勢を復しましたが、その後ふたたび戦乱で荒廃。
しかし家康公の治世に当山由緒の御尋ねあって、御朱印を賜い堂舎を造立、「江戸三大師」にも数えられて寺勢を保ちいまに至るといいます。
女人救済の霊場としては「江戸六阿弥陀」(→ 関連記事)が知られていますが、「女人済度厄除弘法大師」は江戸近辺ではあまり例がないとみられ、多くの女性の参詣を集めたことは想像に難くありません。
なお、当山は江戸期には東向島(寺島村)総鎮守・白鬚神社の別当でした。
【写真 上(左)】 白髭神社
【写真 下(右)】 白髭神社の御朱印
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【史料・資料】
■ 『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻二』(国立国会図書館)
(寺島村)蓮華寺
新義真言宗山城國醍醐三寶院末 清瀧山観音院ト号セリ
本尊弘法大師自書ノ像ヲ安ス(中略)縁起云 当寺ハ最明寺平時頼ノ舎兄武蔵守経時朝臣ノ菩提寺ナリ
初ハ相州鎌倉郡佐介谷ニ創立アリテ 其経時寛元四年(1246年)逝去ノ後時頼一寺ヲ建立シ 蓮華寺殿前武州安楽大禅定門ト謚ス 時ノ開山ハ辨法印審範ナリ 審範ハ則頼朝卿ノ外伯父 深井法眼範智ノ孫ナリ 其後経時ノ子佐々目大僧正頼助此寺嶋ヲ知行アリシ時 鎌倉ノ蓮華寺ヲ此所ニ移シ 弘安三年(1280年)八月建立シテ頼助自カラ中興ノ開山トナレリ云々
按ニ此寺伝甚疑フヘシ イカニト云ニ 鎌倉大日記ニ建長三年(1251年)経時ガ為ニ佐介ニ於テ蓮華寺建立住持ハ良忠ト記シ 又鎌倉志ニ佐介谷ノ蓮華寺は寛元元年(1243年)五月三日平経時ノ建立ニテ 時ノ導師ハ記主禅師トアリ 此二書ニ載ル処年代等ハ異同アレト 導師ハ共ニ記主ナレハ宗門元ヨリ浄家ニシテ審範ニアラサルコト明ケシ シカノミナラス鎌倉志ニハ蓮華寺創立ノ後経時霊夢アリテ光時(明?)寺ト改ム由ヲ記シ今モ光明寺ニテモシカ伝フレハ 当寺の伝記正シトハオモハレス モシクハ当所頼助カ領知ナレハ 遙拝ノ為別ニ同名ノ寺ヲ起立アリシヲ タマタマ佐介谷ノ蓮華寺改号セル故 後人妄ニ彼寺ヲ引キ来リシナト云コセシニアラスヤ
鐘楼 宝暦八年ノ鐘ナリ
愛染堂 興教大師ノ書ケル像ヲ安ス
権現堂 清瀧権現ト号ス
■ 『江戸名所図会 7巻 [19]』(国立国会図書館)
清瀧山蓮華寺
寺嶋村にあり 寺記に云く昔此地ハ海原なり 後世ようやく干潟となりし頃当寺を創建ありし故に寺嶋の称ありといへり 小田原北条家の所領役帳に行方与●島葛西寺寺嶋の地を領すとあり
当寺ハ真言宗にして醍醐の三宝院末に属す 本尊阿弥陀如来如来の像ハ恵心僧都の作といふ
太子堂 本堂の右にあり本尊聖徳太子の像ハ十六歳の真影にして太子自彫造ありしと云
北条経時の念持佛にて往古ハ相州鎌倉佐々目にありしを 弘安三年(1280年)の秋北条頼助寺院●●●に本尊共に此地へ引移し同年八月二日入佛供養を営し故(中略)
寛文二年(1662年)の夏國中大に疫病流行し人民死する者少からしを 経時頗●是を嘆き本尊に告て諸人の病苦を消除せんとて懇に祈願すと 或夜経時に霊示ありて秘符を賜ふ 即此秘符によりて其頃病を退け命を全うする者●●(少な?)からすとなり
相伝ふ 寛元四年(1246年)三月北条経時病に臨む其時 舎弟時頼を側へ招き示して云く我疾難治なり 死後に至らハ一宇の梵刹を創建し年頃念ね処の聖徳太子の像を安置すへしといひ●て同四月朔日享年三十八歳にして逝去あり
依時頼遺命を奉じて鎌倉佐介谷に一宇を闢き蓮華寺と号く 経時の法号を蓮華寺殿前武州安楽大禅定門と号す 即辨法印審範を以て開山とす
寺記に審範は頼朝の伯父深井法眼範智の孫なりと云されと 鎌倉大日記にハ開山良忠とありて一なら●●次に詳ん
又其後経時の子頼助此寺嶋を領せし● 出離の志頗にして忽に剃髪し弘安三年(1280年)の秋鎌倉の蓮華寺●寺嶋に移し自開山たり
佐々目大僧正頼助と号せり按に先に審範を開山とすとあるハ鎌倉にありての寺をいふなるへし 此寺移るに至りてハ頼助開山たりしなるへし 諸家係累に経時の子に顕助といふ号を載て●傍に依て木像と注せり
疑ふらくハ佐々目といふ●●●を誤●るなるへしにて頼助ハ顕助のことをいふならん(以下不明)
北條家滅亡の後もなを尊氏将軍及ひ管領基氏等崇敬厚く(中略)文明(1469-1487年)の頃下総の千葉両家と別●て時 たがひに争戦止時なく兵火の災●にして当寺も大に荒廃せり 然に天文年間(1532-1555年)小田原北條家の領地となりし頃 遠山丹波守奉行として寺領等を寄附せし(以下略)
按に鎌倉光明寺の開山記主禅師伝に云く 寛元元年(1243年)五月三日前武州太守平経時鎌倉の佐介谷にをひて浄刹を建立し蓮華寺と号け良忠を導師として供養を●らる後に経時霊夢を感するところありて 光明寺とあらたむると云々
又鎌倉大日記に云く建長三年(1251年)経時の為に佐介にをひて蓮華寺建立住持良忠とあり されと寛元(1243-1247年)に建立せし蓮華寺ハ経時の生前なり 又建長(1249-1256年)に建立ありし蓮華寺ハ経時の没後にして其間七年を隔てり 依て考ふるに其号によるときハ一寺の如なれども自ら別なるへし 然る時ハ鎌倉光明寺の開山伝に載て寛元元年(1243年)経時生前に建立すとある●のハ 後に光明寺 とあらしめ鎌倉の内の材木座へうつしたる是なり 又鎌倉鎌倉大日記に●●●る経時卒去の後菩提の為に建立とある●ノハ即当寺の権よなるへし
■ 『葛西志 : 東京地誌史料 第2巻』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
(寺島村)蓮華寺
新義真言宗、山城國醍醐三寶院末なり。清瀧山観音院と号す。
縁起云、最明寺平時頼の舎兄、武蔵守経時朝臣の菩提寺なり。
初めは相州鎌倉郡佐介谷に創立あり、かの経時は、寛元四年(1246年)逝去なり。
執権の職を、舎弟最明寺殿(時頼)にゆべり、その後一寺~建立し、法号を蓮華寺殿前武州安楽大禅定門と号す。
その時の開山は辨法印審範なり。審範は、則頼朝卿の外伯父、深井法眼範智の孫なり。
初は天台宗長瞬法眼の門弟なりしが、後に真言となり、道禅僧正に受法す。
又公縁僧正灌頂の弟子となり、弘長元年(1261年)入滅す。
其後経時の御ご子息、佐々目大僧正頼助、此寺嶋を知行ありしとき、鎌倉の蓮華寺を此所に移転し、弘安三年(1280年)八月当寺を建立して、則頼助開山となれり。
按に此縁起の説、未他の所見なし、鎌倉志に、佐介谷の蓮華寺は、寛元元年(1243年)五月三日平経時の建立にして、時の導師は記主禅師なりとあり、又鎌倉大日記に、建長三年(1251年)経時が為に、佐介谷に於て蓮華寺建立、住持は良忠(記主禅師の名なり、とあり(略)導師は共に記主禅師なるよしいへば、今ここに開山を審範なりといふ事最疑ふべし、又鎌倉蓮華寺創立の後、経時霊夢有て、光明寺と改むとあり、是によればかの佐介谷の蓮華寺は、全く今の光明寺の古号にして、当所のは自ら別寺なりしを、たまたま同名なるゆへ附会せしものか、ここに当所は頼助が、領知なりしといへば父の菩提の為に建立ありて蓮華寺と称せしも、又しるべからず とにかく鎌倉より移転せしと云はおぼつかなし。
その後此僧正鎌倉八幡宮の別当に補任なり、在鎌倉十四年京六條の若宮の別当も、兼帯なり、此僧正は、守海法印入室の弟子、三寶院良入前僧正灌頂安祥寺 奉遇仁和寺御室開田准后灌頂(中略)
文明(1469-1487年)の比に至りて、下総の千葉両家相分かれて、合戦やむ時なし、千葉自胤、同實胤は、葛西郡及び武州石濱まで出張して、総州勢とかけ合たれば、当所はたまたま合戦のただ中となり、兵火の為に焼るゝ事度々なり、よりて代々の寄附状、或は古佛に至るまで、みな何地へか分散して、僅にのこれるものは、本堂と本尊のなり、かゝりける程に、天文年中(1532-1555年当所の地頭、遠山丹波守某が推挙に依て、小田原北條家より虎印の願書と、寺領を附せられて、再建なり
北條家の運尽て、天正十八年(1590年)、終に落城に及びしかば、朱印はむなしく伝へたれども、領地はいづくへか奪はれしを悉くも、神君関東後打入の後、当寺の由緒を御尋有て、先規のごとく若干の寺地をゆるされ、御朱印をも賜ひしかば、再び堂舎を造立して、今に至ると云。
客殿 本尊阿彌陀如来を安置す 作しれず。
清瀧権現堂 祭神詳ならず。
鐘楼 鐘は宝暦八年の鋳造(以下略)
■ 『墨田区史 本編』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
蓮花寺(清滝山観音院)
山城三宝院末で真言宗に属し本尊の宗祖の像は弘法大師の自画像と伝えられ、「厄除女人済度弘法大師」の称がある。
伝えられる創建の由来によれば、同寺は初めは相模の国の鎌倉郡佐介谷にあり、最明寺入道北条時頼が寛元四年(1246年)に死去した兄の武蔵守経時の追福のために建立、辨法印審範を開山としたもので、経時の子佐々目大僧正頼助が葛西寺島の地を知行していた関係で鎌倉から寺島に移し、弘安三年(1280年)八月に則頼みずから中興助開山となったのである。
しかし蓮花寺移転のことについては「夢跡集」門柱「蓮花寺は佐介ヶ谷より武蔵国葛西の地へうつり、其寺院の跡に光明寺を建立せし事ならん。」と述べているものの、「新編武蔵風土記稿」の記すところによれば鎌倉の蓮花寺は浄土宗の寺院であり、経時追福のために良忠が建長三年(1251年)に創建したといい、あるいは経時自身によって寛元元年(1243年)五月三日に建立されたともいわれ、のちに霊夢によって寺号を光明寺と改称したのであると伝えられている。
これによれば蓮花寺は鎌倉の蓮華寺(のちに光明寺)とは別の同名の寺院であるが、寺号改称のことは光明寺の寺伝にも明らかに記されているとのことであるから、寺島の蓮花寺はおそらく「武蔵通志」が述べているように、経時の子で僧籍にはいった頼助によってその所領地の寺島に弘安三年(1280年)八月に建立されたものであろう。
蓮花寺創建によって土地の名称を寺島というようになったとの説がある。(以下略)
■ 『すみだの史跡文化財散歩 P.21』(墨田区資料/PDF)
蓮花寺(東向島3-23-17)
清滝山蓮花寺は、京都智積院末で真言宗智山派に属し、本尊は空海自筆の弘法大師画像と伝えられています。この寺の開山については諸説があります。
■ 『新編鎌倉志 鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
光明寺
光明寺は、本は佐介谷に在しを、後に此地に移す。当寺開山の伝に、寛元元年(1243年)五月三日、前武州太守平経時、佐介谷に於て浄刹を建立し、蓮華寺と号し、良忠を導師として、供養をのべらる。後に経時、霊夢有て光明寺と改む。方丈を蓮華院と名くとあり。
蓮華寺跡(佐介谷)(同上資料)
今俗に光明寺畠と云ふ。光明寺、本此地にあって、蓮華寺と号す。後に光明寺と改む。
『鎌倉大日記』に、建長三年(1251年)、経時が為に、佐介に於て蓮華寺建立、住持良忠とあり。良忠此谷に居住ありしゆへに、佐介の上人と云ふなり。光明寺の條下及ひ『記主上人傳』に詳也。
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』隅田川向島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りは東武スカイツリーライン「東向島」駅で徒歩約10分。
下町らしからぬ整備された街区にあり、門前、山内ともに広々として名刹の風格があります。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 女人済度弘法大師碑
参道入口向かって右手に「女人済度 御自筆 弘法大師」の道標石碑(文化十五年(1818年)建立)、左手には「厄除弘法大師」の道標石碑(文政五年(1822年)建立)があり、いずれも隅田区登録文化財です。
【写真 上(左)】 厄除弘法大師碑
【写真 下(右)】 寺号標
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額
その先に立派な寺号標と山門。
山門は築地塀を附設した切妻屋根本瓦葺の四脚門で、見上げに山号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 石碑群
山内も十分な奥行きがあり、山門くぐって右手には石碑群が整然と並び、山内には多くの石碑が点在します。
【写真 上(左)】 六地蔵
【写真 下(右)】 地蔵堂
参道右手墓域入口には六地蔵と地蔵堂、墓域内には弘法大師千百五十年御遠忌記念の大きな仏塔と舎利塔があります。
【写真 上(左)】 弘法大師千百五十年御遠忌記念塔と舎利塔
【写真 下(右)】 太子堂
樹木が少なく明るく開けた山内を進みます。
参道右手の宝形造の堂宇は太子堂で、開祖と伝わる良弁法印審範奉安の聖徳太子像ゆかりとみられます。
その先に切妻屋根桟瓦葺一間妻入りの大師堂。
堂内に御座すお大師さまの台座には「第八十四番」とあるので、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第84番の札所とみられますが、荒川辺霊場、隅田川霊場の拝所でもあると思われます。
【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 佐助稲荷大明神
さらにその先には佐助稲荷大明神が御鎮座です。
当山が鎌倉・佐助谷の蓮華寺ゆかりという縁起に因んでの勧請かもしれません。
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂
本堂は入母屋造本瓦葺流れ向拝。桟瓦葺のコンクリ身舎ながら名刹にふさわしい風格があります。
本堂の扉は開きました。
大規模な天蓋、幢幡を拝した絢爛たる堂内の御内陣正面に、牀座に結跏される真如親王様の弘法大師像が御座されます。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 堂内
【写真 上(左)】 天水鉢
【写真 下(右)】 庫裏
堂前天水鉢の三つ鱗紋は、開山の(北条)佐々目大僧正頼助にちなむものでしょうか。
御朱印は本堂左手奥の庫裏にて拝受しました。
〔 蓮花寺の御朱印 〕
中央に「女人済度 厄除弘法大師」の揮毫と、弘法大師のお種子「ユ」の印判と寺院印。
左には寺号の印判が捺されています。
■ 墨田区お寺めぐり第11番のスタンプ
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これにて隅田川二十一ヶ所霊場のご紹介は完結です。
いまはほとんど知られていない存在となっていますが、下町の歴史ある寺院を順にまわれる面白い霊場かと思います。
興味のある方はぜひぜひどうぞ。
※札所および記事リストは→ こちら。
【 BGM 】
■ Waiting For Love feat.Noa - 中村舞子
■ ガラスの林檎 - 松田聖子
踊りはおろか、振りさえつけていない。
それでいてこの存在感。天性のシンガーだと思う。
■ 瞳がほほえむから - 今井美樹
※札所および記事リストは→ こちら。
『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。
■ 第21番 清瀧山 観音院 蓮花寺
(れんげじ)
墨田区観光協会公式Web
墨田区東向島3-23-17
真言宗智山派
御本尊:弘法大師
札所本尊:
司元別当:(寺島村)総鎮守・白鬚神社(墨田区東向島)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第72番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第84番、新葛西三十三観音霊場第19番、墨田区お寺めぐり第11番
第21番は墨田区東向島の蓮花寺。
東向島の旧町名「寺島」の地名のいわれとなったとされる中本寺格の真言密寺です。
墨田区観光協会公式Web、下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
蓮花寺はすこぶる複雑な縁起をもたれます。
一説には寛元四年(1246年)、鎌倉幕府第5代執権、最明寺入道北条時頼の開基で、時頼の兄の北条武蔵守経時追福のため鎌倉佐介谷(現・鎌倉市佐助)に創建された蓮華寺が創始といいます。
頼朝公の外伯父、深井法眼範智の孫・良弁法印審範を開祖として聖徳太子の御像を安置といい、後に京の禁裏から弘法大師空海御自筆の「女人済度厄除弘法大師」を招来し奉安したといいます。
経時の死後、子の頼助は諸般の事情から執権職を叔父の時頼に譲り、自らは剃髪入道して諸国を廻ったといいます。
廻国ののち寺島の地に一寺を建て、弘安三年(1280年)鎌倉の蓮華寺の名跡を遷し、「女人済度厄除弘法大師」を御本尊とし、堂宇を建てて聖徳太子の御像を納め、佐々目大僧正頼助と号して自ら開山となったといいます。
(『ガイド』によると蓮花寺の『日過去帳』には、「大僧正頼助永仁四年(1296年)二月八日蓮華寺開山」とある由。)
以上の縁起は、江戸期には人口に膾炙していたようですが、『新編武蔵風土記稿』『江戸名所図会』『葛西志』などは、こぞってこの縁起に疑義を呈しています。
その疑義とはおおよそ以下のとおりです。
*******
1.『鎌倉大日記』に、建長三年(1251年)経時のために佐介谷に蓮華寺を建立した住持は良忠(記主禅師)と記されていること。
2.『鎌倉志』に、佐介谷の蓮華寺は寛元元年(1243年)平(北条)経時の建立にて、時の導師は記主禅師(良忠)とあること。
3.上の二書ともに蓮華寺建立の導師は記主禅師(良忠)とあるからには、その宗門はもとより浄家(浄土宗)であることは明らかである。
4.『鎌倉志』には蓮華寺創立の後、経時の霊夢により光明寺と改めたとあり、光明寺でもこのように伝わる(ので蓮華寺が光明寺の前身であることは明らか)。
5.以上より、佐介谷の蓮華寺は光明寺となったことは明らかであり、あるいは寺島の地は頼助の領地だったため、(佐介谷の蓮華寺)遙拝のために同名の寺を起立したのではないか。
佐介谷の蓮華寺が(光明寺)に改号した(材木座に移転して佐介谷の蓮華寺がなくなった)ため、後の人々が(佐介谷の)蓮華寺が(寺島の)蓮華寺に移ったという説を打ちたてたのではないか。
*******
鎌倉材木座の光明寺といえば浄土宗の大本山であり、光明寺公式Webには「良忠上人は鎌倉幕府第四代の執権、北条経時公の帰依を受けてこの光明寺を開かれたといわれています。」と記されています。
その光明寺の前身が佐介谷の蓮華寺であることは諸史料に明らかで、記主禅師良忠上人ゆかりの佐介谷の蓮華寺が、江戸墨東・寺島の地に、しかも真言密寺として移転というのはどうみても不自然です。
また、諸史料からすると、京の禁裏から弘法大師空海御自筆の「女人済度厄除弘法大師」を招来し安置したのは佐介谷の蓮華寺とみられますが、禁裏に奉安の弘法大師御自筆の「女人済度厄除弘法大師」といえば真言宗の至宝であり、その至宝を浄土宗の蓮華寺に相伝するというのもいささか解せない流れです。
さらにWikipediaで頼助 (北条氏)を当たってみると、
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・頼助(1244-1296年)は真言僧で、父・北条経時の菩提所である鎌倉佐々目の遺身院を拠点とし、佐々目頼助とも呼ばれた。
・弘長二年(1262年)以前には出家している。
・三宝院・安祥寺・仁和寺各流を受法し、仁和寺流・法助の弟子となって文永六年(1269年)に頼守から頼助に改名した。
・修行を積んで鎌倉に戻り、弘安四年(1281年)の元寇の際には異国降伏祈祷を行い、弘安六年(1283年)には鶴岡八幡宮の10代別当となる。
・円教寺、遍照寺、左女牛若宮等の別当、東寺長者などを歴任し、正応五年(1292年)、大僧正・東大寺別当に就任。
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とあり、真言僧として錚錚たる地位を歴任しています。
なお、佐々目(谷)は佐助と長谷の間の谷で、『吾妻鏡』寛元四年(1246年)閏4月2日條には、北条経時が佐々目山麓に葬られたと記されています。
佐々目の遺身院および頼助については、以前こちらの記事(鎌倉市の御朱印-7の24.安養院)でもふれています。
『鎌倉下向僧の研究 - 願行房憲静の事跡 -』(高橋秀栄氏/PDF)には「勝賢開山の佐々目西方寺にはじまり、関東の三宝院流はここに発祥し、大門寺、遺身院その他の寺院群が佐々目の地にあった模様である。」とあります。
以上から考えると、頼助は真言密各派の教義を修めたばりばりの真言僧で、自身の領地(寺島)に鎌倉から寺院を遷すとすれば、拠点としていた佐々目の真言密寺・遺身院を遷すのではないかとも思えます。
鎌倉の拠点として遺身院を残しておきたいのであれば、寺島には分院を置いてもいいですし、佐々目にいくつかあった真言密寺を遷してもいい筈です。
少なくとも他宗派の重要寺院・蓮華寺を遷すという発想には至らないのでは。
このような疑義もあってか、当山の縁起については「はっきりしない」とか「諸説あり」と記される例が多くなっているのだと思います。
どうにもすっきりしないので、さらに『鎌倉市史 寺社編』を当たってみました。
同書P.429~に気になる記述があります。
「従来光明寺について多くのものは『鎌倉佐介浄刹光明寺開山御伝』により、然阿良忠か仁治元年(1241年)二月、鎌倉に入り、住吉谷悟真寺に住して浄土宗を弘めていた、時の執権経時は良忠を尊崇し、佐介谷に蓮華寺を建立して開山とし、ついで光明寺とその名を改め、前の名蓮華の二字を残して方丈を蓮華院となづけた。寛元元年(1243年)五月三日、吉日を卜して良忠を導師として供養した。といい、『風土記稿』所引の寺伝では、この時に、現在地材木座に移転したようにいっている。しかし、経時(1246年没)の法名は蓮花寺殿安楽大禅定門とあるから、光明寺と改名するのは、どうも後世のように思われる。『良暁述聞制文』には、「佐介谷悟真寺今号蓮華寺」とあり、正中二年(1325年)三月十五日にはまだ光明寺という名がでてこない。(中略)『開山御伝』に建長頃(1249-1256年)、北条時頼が寺領を加へ、外門の額字を、佐介浄刹としたという話も、佐介谷にあればこそのことではないかと思う。(中略)『資料編』三の四七六及び四七八はいづれも江戸時代に納められたもので、内容から考えてどうも密教系の寺のものでここのものではないらしい。光明寺の肩の文字を抹消していることも、疑問がのこるところである。(中略)現在のところ(材木座)に移転した期日及び名を光明寺と改めた時期はなお研究を要する問題である。」
『資料編』三の四七六及び四七八が手元にないのでなんともいえませんが、「密教系の寺」が寺島の蓮花寺だとすると、光明寺の縁起を辿るときに寺島蓮花寺関連の文書が入り、錯綜している様子がうかがえます。
こんなこともあって、寺島の蓮花寺の縁起は現代に至ってなお「諸説あり」とされるのかもしれません。
なお、上記の『鎌倉市史 寺社編』によると、正中二年(1325年)の時点ではまだ光明寺の名は出てこず(=蓮華寺が存在していた)、弘安三年(1280年)に頼助が鎌倉から蓮華寺を遷したという当山縁起(説)の内容と時系列的には符合しますが、そうなると弘安三年(1280年)以降は(寺島に移転したため)鎌倉に蓮華寺は存在しないことになり、光明寺まで系譜がつながらなくなってしまいます。
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以上のように縁起沿革こそ不明瞭さは残るものの、禁裏から相伝の弘法大師御自筆の「女人済度厄除弘法大師」を奉安は、江戸庶民にとって圧倒的なインパクトであり、当山は「厄除け寺島大師」と尊称され、川崎大師平間寺、西新井大師総持寺とともに「江戸三大師」に数えられて参詣者を集めました。
一説に鎌倉幕府第5代執権、北条時頼公の開基、大僧正・東大寺別当の(北条)頼助の開山ということもあり、自ずから寺格は高く京都智積院直末の中本寺格寺院でした。
墨東の弘法大師霊場・隅田川二十一ヶ所霊場の結願寺として、まことにふさわしい名刹といえましょう。
北条家滅亡の後も足利将軍、管領等の崇敬は篤かったものの、文明年間(1469-1487年)の下総千葉家内の騒乱によって当山は荒廃したといいます。
天文年間(1532-1555年)、この地が小田原北條家の領地となった頃、遠山丹波守が奉行として寺領等を寄附して寺勢を復しましたが、その後ふたたび戦乱で荒廃。
しかし家康公の治世に当山由緒の御尋ねあって、御朱印を賜い堂舎を造立、「江戸三大師」にも数えられて寺勢を保ちいまに至るといいます。
女人救済の霊場としては「江戸六阿弥陀」(→ 関連記事)が知られていますが、「女人済度厄除弘法大師」は江戸近辺ではあまり例がないとみられ、多くの女性の参詣を集めたことは想像に難くありません。
なお、当山は江戸期には東向島(寺島村)総鎮守・白鬚神社の別当でした。
【写真 上(左)】 白髭神社
【写真 下(右)】 白髭神社の御朱印
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【史料・資料】
■ 『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻二』(国立国会図書館)
(寺島村)蓮華寺
新義真言宗山城國醍醐三寶院末 清瀧山観音院ト号セリ
本尊弘法大師自書ノ像ヲ安ス(中略)縁起云 当寺ハ最明寺平時頼ノ舎兄武蔵守経時朝臣ノ菩提寺ナリ
初ハ相州鎌倉郡佐介谷ニ創立アリテ 其経時寛元四年(1246年)逝去ノ後時頼一寺ヲ建立シ 蓮華寺殿前武州安楽大禅定門ト謚ス 時ノ開山ハ辨法印審範ナリ 審範ハ則頼朝卿ノ外伯父 深井法眼範智ノ孫ナリ 其後経時ノ子佐々目大僧正頼助此寺嶋ヲ知行アリシ時 鎌倉ノ蓮華寺ヲ此所ニ移シ 弘安三年(1280年)八月建立シテ頼助自カラ中興ノ開山トナレリ云々
按ニ此寺伝甚疑フヘシ イカニト云ニ 鎌倉大日記ニ建長三年(1251年)経時ガ為ニ佐介ニ於テ蓮華寺建立住持ハ良忠ト記シ 又鎌倉志ニ佐介谷ノ蓮華寺は寛元元年(1243年)五月三日平経時ノ建立ニテ 時ノ導師ハ記主禅師トアリ 此二書ニ載ル処年代等ハ異同アレト 導師ハ共ニ記主ナレハ宗門元ヨリ浄家ニシテ審範ニアラサルコト明ケシ シカノミナラス鎌倉志ニハ蓮華寺創立ノ後経時霊夢アリテ光時(明?)寺ト改ム由ヲ記シ今モ光明寺ニテモシカ伝フレハ 当寺の伝記正シトハオモハレス モシクハ当所頼助カ領知ナレハ 遙拝ノ為別ニ同名ノ寺ヲ起立アリシヲ タマタマ佐介谷ノ蓮華寺改号セル故 後人妄ニ彼寺ヲ引キ来リシナト云コセシニアラスヤ
鐘楼 宝暦八年ノ鐘ナリ
愛染堂 興教大師ノ書ケル像ヲ安ス
権現堂 清瀧権現ト号ス
■ 『江戸名所図会 7巻 [19]』(国立国会図書館)
清瀧山蓮華寺
寺嶋村にあり 寺記に云く昔此地ハ海原なり 後世ようやく干潟となりし頃当寺を創建ありし故に寺嶋の称ありといへり 小田原北条家の所領役帳に行方与●島葛西寺寺嶋の地を領すとあり
当寺ハ真言宗にして醍醐の三宝院末に属す 本尊阿弥陀如来如来の像ハ恵心僧都の作といふ
太子堂 本堂の右にあり本尊聖徳太子の像ハ十六歳の真影にして太子自彫造ありしと云
北条経時の念持佛にて往古ハ相州鎌倉佐々目にありしを 弘安三年(1280年)の秋北条頼助寺院●●●に本尊共に此地へ引移し同年八月二日入佛供養を営し故(中略)
寛文二年(1662年)の夏國中大に疫病流行し人民死する者少からしを 経時頗●是を嘆き本尊に告て諸人の病苦を消除せんとて懇に祈願すと 或夜経時に霊示ありて秘符を賜ふ 即此秘符によりて其頃病を退け命を全うする者●●(少な?)からすとなり
相伝ふ 寛元四年(1246年)三月北条経時病に臨む其時 舎弟時頼を側へ招き示して云く我疾難治なり 死後に至らハ一宇の梵刹を創建し年頃念ね処の聖徳太子の像を安置すへしといひ●て同四月朔日享年三十八歳にして逝去あり
依時頼遺命を奉じて鎌倉佐介谷に一宇を闢き蓮華寺と号く 経時の法号を蓮華寺殿前武州安楽大禅定門と号す 即辨法印審範を以て開山とす
寺記に審範は頼朝の伯父深井法眼範智の孫なりと云されと 鎌倉大日記にハ開山良忠とありて一なら●●次に詳ん
又其後経時の子頼助此寺嶋を領せし● 出離の志頗にして忽に剃髪し弘安三年(1280年)の秋鎌倉の蓮華寺●寺嶋に移し自開山たり
佐々目大僧正頼助と号せり按に先に審範を開山とすとあるハ鎌倉にありての寺をいふなるへし 此寺移るに至りてハ頼助開山たりしなるへし 諸家係累に経時の子に顕助といふ号を載て●傍に依て木像と注せり
疑ふらくハ佐々目といふ●●●を誤●るなるへしにて頼助ハ顕助のことをいふならん(以下不明)
北條家滅亡の後もなを尊氏将軍及ひ管領基氏等崇敬厚く(中略)文明(1469-1487年)の頃下総の千葉両家と別●て時 たがひに争戦止時なく兵火の災●にして当寺も大に荒廃せり 然に天文年間(1532-1555年)小田原北條家の領地となりし頃 遠山丹波守奉行として寺領等を寄附せし(以下略)
按に鎌倉光明寺の開山記主禅師伝に云く 寛元元年(1243年)五月三日前武州太守平経時鎌倉の佐介谷にをひて浄刹を建立し蓮華寺と号け良忠を導師として供養を●らる後に経時霊夢を感するところありて 光明寺とあらたむると云々
又鎌倉大日記に云く建長三年(1251年)経時の為に佐介にをひて蓮華寺建立住持良忠とあり されと寛元(1243-1247年)に建立せし蓮華寺ハ経時の生前なり 又建長(1249-1256年)に建立ありし蓮華寺ハ経時の没後にして其間七年を隔てり 依て考ふるに其号によるときハ一寺の如なれども自ら別なるへし 然る時ハ鎌倉光明寺の開山伝に載て寛元元年(1243年)経時生前に建立すとある●のハ 後に光明寺 とあらしめ鎌倉の内の材木座へうつしたる是なり 又鎌倉鎌倉大日記に●●●る経時卒去の後菩提の為に建立とある●ノハ即当寺の権よなるへし
■ 『葛西志 : 東京地誌史料 第2巻』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
(寺島村)蓮華寺
新義真言宗、山城國醍醐三寶院末なり。清瀧山観音院と号す。
縁起云、最明寺平時頼の舎兄、武蔵守経時朝臣の菩提寺なり。
初めは相州鎌倉郡佐介谷に創立あり、かの経時は、寛元四年(1246年)逝去なり。
執権の職を、舎弟最明寺殿(時頼)にゆべり、その後一寺~建立し、法号を蓮華寺殿前武州安楽大禅定門と号す。
その時の開山は辨法印審範なり。審範は、則頼朝卿の外伯父、深井法眼範智の孫なり。
初は天台宗長瞬法眼の門弟なりしが、後に真言となり、道禅僧正に受法す。
又公縁僧正灌頂の弟子となり、弘長元年(1261年)入滅す。
其後経時の御ご子息、佐々目大僧正頼助、此寺嶋を知行ありしとき、鎌倉の蓮華寺を此所に移転し、弘安三年(1280年)八月当寺を建立して、則頼助開山となれり。
按に此縁起の説、未他の所見なし、鎌倉志に、佐介谷の蓮華寺は、寛元元年(1243年)五月三日平経時の建立にして、時の導師は記主禅師なりとあり、又鎌倉大日記に、建長三年(1251年)経時が為に、佐介谷に於て蓮華寺建立、住持は良忠(記主禅師の名なり、とあり(略)導師は共に記主禅師なるよしいへば、今ここに開山を審範なりといふ事最疑ふべし、又鎌倉蓮華寺創立の後、経時霊夢有て、光明寺と改むとあり、是によればかの佐介谷の蓮華寺は、全く今の光明寺の古号にして、当所のは自ら別寺なりしを、たまたま同名なるゆへ附会せしものか、ここに当所は頼助が、領知なりしといへば父の菩提の為に建立ありて蓮華寺と称せしも、又しるべからず とにかく鎌倉より移転せしと云はおぼつかなし。
その後此僧正鎌倉八幡宮の別当に補任なり、在鎌倉十四年京六條の若宮の別当も、兼帯なり、此僧正は、守海法印入室の弟子、三寶院良入前僧正灌頂安祥寺 奉遇仁和寺御室開田准后灌頂(中略)
文明(1469-1487年)の比に至りて、下総の千葉両家相分かれて、合戦やむ時なし、千葉自胤、同實胤は、葛西郡及び武州石濱まで出張して、総州勢とかけ合たれば、当所はたまたま合戦のただ中となり、兵火の為に焼るゝ事度々なり、よりて代々の寄附状、或は古佛に至るまで、みな何地へか分散して、僅にのこれるものは、本堂と本尊のなり、かゝりける程に、天文年中(1532-1555年当所の地頭、遠山丹波守某が推挙に依て、小田原北條家より虎印の願書と、寺領を附せられて、再建なり
北條家の運尽て、天正十八年(1590年)、終に落城に及びしかば、朱印はむなしく伝へたれども、領地はいづくへか奪はれしを悉くも、神君関東後打入の後、当寺の由緒を御尋有て、先規のごとく若干の寺地をゆるされ、御朱印をも賜ひしかば、再び堂舎を造立して、今に至ると云。
客殿 本尊阿彌陀如来を安置す 作しれず。
清瀧権現堂 祭神詳ならず。
鐘楼 鐘は宝暦八年の鋳造(以下略)
■ 『墨田区史 本編』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
蓮花寺(清滝山観音院)
山城三宝院末で真言宗に属し本尊の宗祖の像は弘法大師の自画像と伝えられ、「厄除女人済度弘法大師」の称がある。
伝えられる創建の由来によれば、同寺は初めは相模の国の鎌倉郡佐介谷にあり、最明寺入道北条時頼が寛元四年(1246年)に死去した兄の武蔵守経時の追福のために建立、辨法印審範を開山としたもので、経時の子佐々目大僧正頼助が葛西寺島の地を知行していた関係で鎌倉から寺島に移し、弘安三年(1280年)八月に則頼みずから中興助開山となったのである。
しかし蓮花寺移転のことについては「夢跡集」門柱「蓮花寺は佐介ヶ谷より武蔵国葛西の地へうつり、其寺院の跡に光明寺を建立せし事ならん。」と述べているものの、「新編武蔵風土記稿」の記すところによれば鎌倉の蓮花寺は浄土宗の寺院であり、経時追福のために良忠が建長三年(1251年)に創建したといい、あるいは経時自身によって寛元元年(1243年)五月三日に建立されたともいわれ、のちに霊夢によって寺号を光明寺と改称したのであると伝えられている。
これによれば蓮花寺は鎌倉の蓮華寺(のちに光明寺)とは別の同名の寺院であるが、寺号改称のことは光明寺の寺伝にも明らかに記されているとのことであるから、寺島の蓮花寺はおそらく「武蔵通志」が述べているように、経時の子で僧籍にはいった頼助によってその所領地の寺島に弘安三年(1280年)八月に建立されたものであろう。
蓮花寺創建によって土地の名称を寺島というようになったとの説がある。(以下略)
■ 『すみだの史跡文化財散歩 P.21』(墨田区資料/PDF)
蓮花寺(東向島3-23-17)
清滝山蓮花寺は、京都智積院末で真言宗智山派に属し、本尊は空海自筆の弘法大師画像と伝えられています。この寺の開山については諸説があります。
■ 『新編鎌倉志 鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
光明寺
光明寺は、本は佐介谷に在しを、後に此地に移す。当寺開山の伝に、寛元元年(1243年)五月三日、前武州太守平経時、佐介谷に於て浄刹を建立し、蓮華寺と号し、良忠を導師として、供養をのべらる。後に経時、霊夢有て光明寺と改む。方丈を蓮華院と名くとあり。
蓮華寺跡(佐介谷)(同上資料)
今俗に光明寺畠と云ふ。光明寺、本此地にあって、蓮華寺と号す。後に光明寺と改む。
『鎌倉大日記』に、建長三年(1251年)、経時が為に、佐介に於て蓮華寺建立、住持良忠とあり。良忠此谷に居住ありしゆへに、佐介の上人と云ふなり。光明寺の條下及ひ『記主上人傳』に詳也。
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』隅田川向島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りは東武スカイツリーライン「東向島」駅で徒歩約10分。
下町らしからぬ整備された街区にあり、門前、山内ともに広々として名刹の風格があります。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 女人済度弘法大師碑
参道入口向かって右手に「女人済度 御自筆 弘法大師」の道標石碑(文化十五年(1818年)建立)、左手には「厄除弘法大師」の道標石碑(文政五年(1822年)建立)があり、いずれも隅田区登録文化財です。
【写真 上(左)】 厄除弘法大師碑
【写真 下(右)】 寺号標
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額
その先に立派な寺号標と山門。
山門は築地塀を附設した切妻屋根本瓦葺の四脚門で、見上げに山号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 石碑群
山内も十分な奥行きがあり、山門くぐって右手には石碑群が整然と並び、山内には多くの石碑が点在します。
【写真 上(左)】 六地蔵
【写真 下(右)】 地蔵堂
参道右手墓域入口には六地蔵と地蔵堂、墓域内には弘法大師千百五十年御遠忌記念の大きな仏塔と舎利塔があります。
【写真 上(左)】 弘法大師千百五十年御遠忌記念塔と舎利塔
【写真 下(右)】 太子堂
樹木が少なく明るく開けた山内を進みます。
参道右手の宝形造の堂宇は太子堂で、開祖と伝わる良弁法印審範奉安の聖徳太子像ゆかりとみられます。
その先に切妻屋根桟瓦葺一間妻入りの大師堂。
堂内に御座すお大師さまの台座には「第八十四番」とあるので、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第84番の札所とみられますが、荒川辺霊場、隅田川霊場の拝所でもあると思われます。
【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 佐助稲荷大明神
さらにその先には佐助稲荷大明神が御鎮座です。
当山が鎌倉・佐助谷の蓮華寺ゆかりという縁起に因んでの勧請かもしれません。
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂
本堂は入母屋造本瓦葺流れ向拝。桟瓦葺のコンクリ身舎ながら名刹にふさわしい風格があります。
本堂の扉は開きました。
大規模な天蓋、幢幡を拝した絢爛たる堂内の御内陣正面に、牀座に結跏される真如親王様の弘法大師像が御座されます。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 堂内
【写真 上(左)】 天水鉢
【写真 下(右)】 庫裏
堂前天水鉢の三つ鱗紋は、開山の(北条)佐々目大僧正頼助にちなむものでしょうか。
御朱印は本堂左手奥の庫裏にて拝受しました。
〔 蓮花寺の御朱印 〕
中央に「女人済度 厄除弘法大師」の揮毫と、弘法大師のお種子「ユ」の印判と寺院印。
左には寺号の印判が捺されています。
■ 墨田区お寺めぐり第11番のスタンプ
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これにて隅田川二十一ヶ所霊場のご紹介は完結です。
いまはほとんど知られていない存在となっていますが、下町の歴史ある寺院を順にまわれる面白い霊場かと思います。
興味のある方はぜひぜひどうぞ。
※札所および記事リストは→ こちら。
【 BGM 】
■ Waiting For Love feat.Noa - 中村舞子
■ ガラスの林檎 - 松田聖子
踊りはおろか、振りさえつけていない。
それでいてこの存在感。天性のシンガーだと思う。
■ 瞳がほほえむから - 今井美樹
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■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-7
■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-6からのつづきです。
※札所および記事リストは→ こちら。
『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。
■ 第18番 宝寿山 遍照院 長命寺
(ちょうめいじ)
公式Web
天台宗東京教区公式Web
墨田区向島5-4-4
天台宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:
司元別当:
他札所:隅田川七福神(弁財天)、東京三十三所観世音霊場第32番、弁財天百社参り番外22、墨田区お寺めぐり第15番
第18番は墨田区向島の長命寺、比叡山延暦寺直末とみられる名刹です。
公式Web、天台宗東京教区公式Web、下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
長命寺の創建年代等は詳らかでないですが、寺伝には「元和元年(1615年)頃の中田某の檀那寺」とあり、「長命水石文」によると古くは寶寿山常泉寺と号した天台宗寺院でした。
一説には慶長年間(1596-1615年)に孝徳または宗泉によって創立ともあります。
中興開山は誓院権僧正玄照和尚(寶暦十三年(1763年)寂)。
御本尊は『新編武蔵風土記稿』『墨田区史』には阿弥陀如来、『江戸名所図会』には釋迦如来と記され、公式Web、天台宗東京教区公式Webでは阿弥陀如来となっています。
寛永年間(1624-1643年)のある日、三代将軍家光公(大猶院殿)がこの地に鷹狩に訪れた際、にわかに腹痛をおこして当寺で休憩、住職・孝徳(専海とも)和尚が傳教大師御作と伝わる当山の辨財天に加持した庭の井水・般若水を捧げ、この水で薬を服用したところ痛みはたちまち収まったので、家光公はこの水に「長命水」の名を賜い、これより寺号を長命寺と改めたといいます。
山内には長命水がいまもその姿を残しています。
(なお、『紫の一本』『墨水消夏録』は、これを徳川家康公の事跡としています。)
山内の精大明神社は「蹴鞠ノ神」と言い伝えられましたが、祭神等は定かではないようです。
般若堂と不動堂は相殿で、安する不動尊像は智證大師の御作といいます。
『新編武蔵風土記稿』によると、傳教大師御作の辨財天と元三大師降魔像も相殿だったようです。
地蔵堂は『葛西志』に「西國二十二番観音の寫を相殿とす」とあるので西國写観音霊場第22番札所であった模様ですが、この観音霊場については不明です。
当山は関東大震災の慰霊のため開創という東京三十三ヶ所観音霊場第32番の札所ですが、前身としてこの観音霊場の存在があったのかもしれません。
(→ 霊場札所リスト(「ニッポンの霊場」様))
こちらの辨天様は有名で、隅田川七福神の一尊であっただけでなく、弁財天百社参り番外22の札所本尊にもなっています。
『江戸名所図会 7巻 [19]』(国立国会図書館より、筆者にて加筆加工)
古くは山内に弁天堂や芭蕉堂がありました。
芭蕉堂は宝暦年間(1751-1764年)に俳人衹徳が建てた自在庵を創始とし、後に能阿により再興、芭蕉の木像を安置して芭蕉堂と称されていました。
『本所区史』には、芭蕉像を安したのは芭蕉の門人・青流(稲津祇空/1663-1733年)の門人で浅草蔵前の札差であった自在庵祇徳で、享保年間(1716-1736年)のこととあります。
しかし、『江戸名所図会』には「自在庵𦾔址 堂の右竹藪の中にあり 誹諧師水國ここに庵室をむすひて住たりしといへり」とあり、現地掲示にも芭蕉庵を建てたのは俳人雲津水国(1682-1734年)とあります。
山内に建つ、松尾芭蕉の「いざさらばの句碑」(区登録文化財)。
「いさゝらは 雪見にころふ 所まて」
これは芭蕉が熱田神宮参詣の際に『笈の小文』に詠んだ句ですが、長命寺が墨堤の雪景色の名所として知られていたため、山内に句碑が置かれたとされています。
現地掲示には「いざさらばの句碑」を建てたのは三代仲祇徳で、安政五年(1858年)とあります。
よって、芭蕉堂は俳人雲津水国(1682-1734年)が建て、「いざさらばの句碑」を建てたのは三代仲祇徳ということになります。
ただし、仲祇徳は少なくとも三代(三人)はいるようなので、このあたりの時系列はよくわかりません。
筆者は俳諧の道にはまったくうとく、下手に書き込むとたちまち馬脚を露わすので(笑)、このくらいにしておきます。
なお、『江戸名所図会』で長命寺のすぐ横に「本社」と描かれているお社はおそらく牛御前社(現・牛嶋神社)と思われます。
いかにも本社と別当を示す位置関係ですが、牛御前社の別当は東駒形の第7番札所の牛宝山 最勝寺で、最勝寺は大正2年江戸川区平井に移転しています。
本堂は安政二年(1855年)の大地震で焼失、麻布の武家屋敷を移築して本堂とし明治に及んだといいます。
関東大震災で本堂、芭蕉堂など多くの伽藍を失いましたが、御本尊は難を遁れていまも本堂に御座します。
長命寺は雪景色の美しさでも知られ、『江戸名所花暦』にも「長命寺隅田川の堤曲行の角にあり。境内に芭蕉の碑あり。この辺に佇みて左右をかへり見れば、雪の景色いはんかたなし。」と記されています。
もとより向島は風流の地として知られ、雪景色や芭蕉堂の存在もあって、長命寺には多くの文人墨客が訪れたとみられます。
寺内には芭蕉句碑をはじめ、東京都指定の橘守部(江戸時代の国学者)の墓、義太夫節の名家鶴沢清六の塚、太田蜀山人の歌碑、成島柳北(明治時代のジャーナリスト)の碑などがあり、いまもエリア屈指の文化財のお寺として知られています。
※山内の文化財については→ 公式Webをご覧ください。
【長命寺桜もち】
「桜餅 食ふてぬけけり 長命寺」 (虚子)
長命寺桜もちはこの向島屈指の銘菓です。
享保二年(1717年)、創業者山本新六が墨堤土手の桜の葉を樽の中に塩漬けにした「桜もち」を考案して長命寺門前で売り始め、参詣客や桜の名所・隅堤の花見客のあいだで評判となりました。
桜葉の香り高い美味しさもさることながら代々の店主の看板娘の接待が評判で、なかでも三代目の長女「お豊さん」は美貌で名を馳せ、猿若町で芝居にも上演されたといいます。
明治の「お陸さん」という娘も美人の誉れ高く、正岡子規が当家の二階に下宿し、子規とお陸さんとの恋物語もあったとか。
「鐘の音に夢さめはてて浅草や 朝の別れのつらくもあるかな」 (子規)
『江戸切絵図』では長命寺の山内に「名物サクラモチ」とあり、よほど人気があったと思われます。
「長命寺桜もち」はなんと長命寺の公式Webでも紹介され、両社の密接な関係を物語っています。
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【史料・資料】
■ 『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻二』(国立国会図書館)
(須崎村)長命寺
天台宗東叡山末 寶寿山扁(ママ)照院ト号ス 本尊阿彌陀脇士ニ観音勢至ヲ置 過去帳ニ住僧宗泉慶安二年(1649年)十一月七日示寂トアリ 境内辨天ノ縁起ニ 寛永(1624-1644年)ノ末大猶院殿御放鷹ノ時 俄ニ御異例ニテ当寺ニ入御アリケルニ 住僧専海辨才天ニ祈願ヲコメ則御手洗ノ般若水ヲ汲ミテ御供ノ士中根壱岐守ヲ以テ捧ケ奉リシニ 御心地サハヤカニナラセタマヒケレハ 御快気ノ程ヲ祝セラレ 寶樹山常泉寺ノ𦾔号ヲ改テ今ノ寺山号ヲ賜ヒシト云 是ニヨレハ専海ハ寛永ノ頃ノ住僧ニシテ宗泉ヨリ先代ナルヘシ
精大明神社
神体金幣ニテ光成卿ノ霊ヲ祭ル 蹴鞠ノ神ナリトノミ云傳フ 光成卿トイヘルハイカナル人ニヤ 蹴鞠ノ宗匠難波飛鳥井両家ニハ聞エサル人ナリ 按ニ諸神記ニ中御門西洞院東頬滋野井小社三座是蹴鞠神也 此地大納言成通卿旧跡トアリ 成通卿ハ蹴鞠ノ名人ニテ凡人ノシワサニアラサル由『著聞集』等ニモ記シタリハ モシクハ是ヲ誤テ光成卿ナト云傳ヘシニヤ 又近江國志賀郡松本ト云地ニ精大明神社アリ 祭礼猿田彦命ニテ蹴鞠ノ神ナリト云 当社ハ恐クハ是ヲウツセシモノニテ光成卿ヲ配祀セルナラン
稲荷社
般若堂 文殊普賢ノ外十六善神ヲ置 又不動及二童子アリ 不動ハ智證大師ノ作又傳教大師ノツクレル辨天元三大師降魔ノ像アリ
地蔵堂
長命水趾 此井ノ水ヲ般若水ト呼フ則前ニ云ル御手洗ノ跡也
奈岐木 菓子所大久保主水カ植シモノナリ 高二丈程周四尺モアルヘシ 樹根ニ此木ヲ植ル顛末ヲ鋳セル碑ヲ立
■ 『江戸名所図会 7巻 [19]』(国立国会図書館)
寶寿山長命寺
遍照院と号す 天台宗東叡山に属せり 本尊ハ等身の釋迦如来 脇士ハ文殊普賢 般若十六善神等の像を安す
牛嶋辨財天 同じ堂内に安す 傳教大師の作なり
長命水 同じ堂の後の方にあり 一に般若水と云
自在庵𦾔址 堂の右竹藪の中にあり 誹諧師水國ここに庵室をむすひて住たりしといへり 今其地に芭蕉翁の句を彫たる碑を建てあり
殊更当寺ハ雪の名所にて前に隅田川の流れをうけて風色たらすといふをなし
■ 『葛西志 : 東京地誌史料 第2巻』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
長命寺
牛御前社の北に隣りて、門は西向きなり、天台宗東叡山末、寶寿山遍照院と号す、寺伝云、当寺古は寶樹山常泉寺と唱へしに、寛永年中(1624-1644年)、大猶院殿此邊御鷹狩に成らせ給ひて、御不例おはしませし時、中根壱岐守当寺の井水を汲て、後手水に奉りしかば、御なやみ頓に御本復あり、よりて寺山号を、今のごとくに改められしと、又紫一本には、これを、東照宮の御事績となし、寺もその比なでは寺号もなく、ただ草庵なりしなど、いとうきなる伝へなれど、何れゆへある寺号とはみヘたり、開山起立の年代詳ならず、中興を弘誓院権僧正玄照和尚と云、寶暦十三年(1763年)四月廿二日寂を示せり、本尊釋迦如来を安置す。
辨天不動相殿 門を入て正面にあり
精大明神社 門を入て右の方にあり、祭神詳ならず。
長命水 辨天堂の側にあり、則前にしるせる、大猶院殿御手水に用ひ給ひしと云井なり。
地蔵堂 門を入て右の方にあり、西國二十二番観音の寫を相殿とす。
■ 『東京名所図会 [第14] (本所区之部)(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
長命寺
長命寺は。向島須崎町八十八番地即ち牛島神社の北隣に在り。寶寿山と号し。遍照院と称す。天台宗にして。延暦寺の末なり。当寺初は常泉寺といひしが。寛永年間(1624-1644年)将軍家家光公放鷹の途次。微恙ありて寺に憩ひ。住持孝徳をして境内の盤石水を加め。服薬して頓に快癒せしを以て。長命水の名を賜ふ。因て是より長命寺と改む。
長命水今尚現存し。洗心養神と刻したる石標の傍に屋代弘賢のしるしたる碑を建たり。(中略)本堂は二十九年焼失後の新築にて。別に盤若堂と芭蕉堂あり。芭蕉堂殊に雅なり。
■ 『本所区史』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
長命寺
長命寺は向島須崎町八十八番地即ち牛島神社の北隣に在り寶壽山と号遍照院と称した。
天台宗にして延暦寺の末である。当寺初は常泉寺といったが寛永年間(1624-1644年)将軍家家光公放鷹の途次微恙の為めに寺に憩ひ、住持孝徳の差出した境内の般若水を以て服薬した処頓に快癒したので長命水の名を賜はった。因て是より長命寺と改めたのである。
長命水は今尚現存し洗心養神と刻した石標の傍に屋代弘賢のしるした碑を建てたとある。
り。(中略)本堂は二十九年焼失後の新築にて。別に盤若堂と芭蕉堂あり。芭蕉堂殊に雅なり。
元禄の昔、芭蕉松尾桃青は西行宗祇の遺風を慕ひ、未だ五七五の野風を楽しとして生涯を過ごしたが、即ち彼芭蕉は誹諧道中興開山といふべきであらう。
芭蕉の門人に青流といふ人が居り、或時宗祇法師の墓参をなしその墓前に於て、既に祇空しとて名を祇空と更め、向島の地に草庵をむすんで居たが、ふと雲水の心動き剃髪して諸国を遊歴し、享保十八年(1733年)四月廿三日享年六十八にして箱根湯本に没し、早雲寺に葬られた。
祇空の門人に自在庵祇徳といふ人があった。この人は浅草蔵前の札差であったが隠遁の志深く、享保年間(1716-1736年)に祇空の庵址近き長命寺中に草庵をしつらへ、庵室に芭蕉翁の像を安置し、三昧の外に他事なかった。これ即ち長命寺芭蕉堂の起原である。
■ 『墨田区史 本編』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
長命寺
天台宗延暦寺の末寺で古くは宝樹山常泉寺と号していたというが、開基者・開山者および創建の年などは明らかではなく、一説には慶長年間(1596-1615年)に孝徳または宗泉によって創立されたとする。
中興開山は誓院権僧正玄照和尚で、本尊は阿弥陀如来を安置する。
長命寺の寺号については、寛永(1624-1644年)のころ三代将軍家光が墨東の地に鷹狩を行った時、急病となってこの寺に立ち寄り寺内の井戸の水で薬を服用してたちまちに快癒したので、寺号常泉寺を改めて長命寺としたと伝えられており、また「紫の一本」や「墨水消夏録」はこれを徳川家康の事跡とし、当寺は名もない小庵であったので長命寺の寺号を与えたのであると述べている。
寺内には長命水が今もその姿を残していて、これが家光の用いた名水とされているが、このほか古くは弁天堂や芭蕉堂もあった。
芭蕉堂は宝暦年中(1751-1764年)に俳人祇徳が建てた自在庵という庵で、のちに能阿によって再興され長命寺芭蕉堂と通称されていたものである。
長命寺はまた雪景色の美しさで江戸名所のひとつに数えられていた。(中略)『江戸名所花暦』にも「長命寺隅田川の堤曲行の角にあり。境内に芭蕉の碑あり。この辺に佇みて左右をかへり見れば、雪の景色いはんかたなし。」と述べられている。
寺内には東京都指定の橘守部の墓、成島柳北の碑があり、また弁財天は隅田川七福神のひとつである。
■ 『すみだの史跡文化財散歩 P.35』(墨田区資料/PDF)
長命寺(向島5-4-4)
天台宗延暦寺末で、古くは宝寿山常泉寺と号していたそうですが、創建年等は不明です。寛永のころ3代将軍家光がこの辺りに臆狩りに来た時、急に腹痛をおこしましたが、住職
が加持した庭の井の水で薬を服用したところ痛みが治まったので、長命寺の寺号を与えたといいます。
■ 松尾芭蕉「いざさらば」の句碑 <区登録文化財>
「いさゝらは 雪見にころふ所まて」
碑陰には、3世自在庵祇徳の文で、芭蕉や祇空、祇徳の略伝等が述べられています。
■ 「長命水石文」の碑
この寺が長命の寺号を賜った経緯と井戸が長命水と名付けられたことを、時の住職最空が記しています。書は国学者の屋代弘賢で、天保3年(1832)の建碑です。
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』隅田川向島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りは都営地下鉄浅草線・メトロ半蔵門線「押上駅」駅で徒歩約15分。
隅田川にかかる「桜橋」経由で今戸方面からも歩けます。
【写真 上(左)】 桜橋
【写真 下(右)】 桜橋からの隅田川
第13番弘福寺のすぐお隣りにあります。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標
【写真 上(左)】 門扉の三諦星紋
【写真 下(右)】 山内幼稚園ゾーン
山内門寄りは言問幼稚園で、山内入口の門柱と寺号標、そして門扉に輝く天台宗の宗紋・三諦星(さんたいせい)がなければほとんど寺院とわかりません。
平日昼間は園児の声で賑やかで主門は閉められていますが、通用門からお参りはできるようです。
圓舎の並びには「よいこのおじぞうさま」も御座されます。
【写真 上(左)】 よいこのおじぞうさま
【写真 下(右)】 本堂ゾーン
園庭を抜けると本堂前、俄然名刹の趣がでてきます。
本堂向かって右手が庫裏で、その前に傳教大師童像と辨財天碑が置かれています。
【写真 上(左)】 傳教大師童像
【写真 下(右)】 辨財天碑
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝。
コンクリ身舎ながら整った寺院建築で、向拝にはしっかり水引虹梁、雲形の木鼻、繋ぎ虹梁、蟇股を備え、向拝見上げには寺号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 横からの向拝
【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 辨財天のお姿
本堂は通常は閉扉のようですが、お正月期間の七福神ご開扉期間は開扉されます。
辨財天は八臂坐像のお姿です。
【写真 上(左)】 長命水
【写真 下(右)】 長命水石文
本堂向かって左手の隅田川寄りの一角が文化財の宝庫。
本堂すぐよこには長命水と長命水石文。
芭蕉の「いざさらば」句碑、橘守部の墓、太田蜀山人の歌碑、鶴沢清六の塚と成島柳北の碑などがこのエリアに点在します。
【写真 上(左)】 芭蕉の「いざさらば」句碑
【写真 下(右)】 同 説明板
【写真 上(左)】 橘守部の墓
【写真 下(右)】 太田蜀山人の歌碑
【写真 上(左)】 鶴沢清六の塚と成島柳北の碑
【写真 下(右)】 庚申地蔵尊
万治二年(1659年)造立の庚申地蔵尊石像も御座し、「出羽三山の碑」は墨田区登録文化財に指定されています。
【写真 上(左)】 出羽三山の碑
【写真 下(右)】 隅田川側からの入口
御朱印は庫裏にて拝受しました。
複数の御朱印を快く授与いただけました。
〔 長命寺の御朱印 〕
【写真 上(左)】 御本尊・阿弥陀如来の御朱印
【写真 下(右)】 辨財天の御朱印
【写真 上(左)】 寺号の御朱印
【写真 下(右)】 同
■ 墨田区お寺めぐり第15番のスタンプ
■ 第19番 清滝山 金長院 正王寺
(しょうおうじ)
葛飾区堀切5-29-14
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:
司元別当:(下千葉村)八王子権現社(現・葛飾氷川神社の境内社)/(下千葉村)氷川社(現・葛飾氷川神社)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第59番、荒綾八十八ヶ所霊場第15番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第59番、(京成)東三十三観音霊場)第3番
第19番は葛飾区堀切の正王寺で、朱塗りの山門から「赤門寺」とも呼ばれています。
下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
正王寺は治承二年(1178年)、(下千葉村)八王子権現社(現・葛飾氷川神社の境内社)の別当として法印侔義(正治元年(1199年)寂)が創建という古刹です。
青戸村寶持院末の新義真言宗寺院で、御本尊は阿弥陀如来です。
『葛飾区寺院調査報告』記載の『清滝山正王寺八王子宮神縁起』によると、源頼朝公は山王廿一社のうち八王子権現を深く尊信し、関西よりこの地に勧請、御鎮座といいます。
天文七年(1538年)、国府台合戦(後北条氏と里見氏など房総諸将との戦い)の戦火を受け荒廃しましたが、慶長年間(1596-1615年)に山城国の法印源榮(承応元年(1652年)寂)が中興して開山と伝わります。
慶安年間(1648-1652年)、徳川3代将軍家光公が鷹狩の際に八王子権現社を拝せられ、当社の由緒を尋ねられたところ源頼朝公の勧請であることを知り、大いに尊崇されて荘園を寄附したといいます。
家光公の来山(1648-1652年)と法印源榮(承応元年(1652年)寂)の年代が重なるので、おそらく家光公から荘園を賜ったのが法印源榮で、その功績により中興開山になったとみられます。
また、当山の住僧は、徳川四天王のひとり本多忠勝ゆかりの家系ともいいます。
八王子権現社は徳川家綱公の代、慶安二年(1649年)にも御朱印をくだされています。
数度にわたる水禍で古記録を失い由緒は不詳ですが、『葛飾区寺院調査報告』には本堂、山門、客殿、庫裏を備え、御本尊に室町時代の作とみられる阿弥陀如来立像、不動明王立像、聖観世音菩薩立像、弘法興教両大師像、弘法大師坐像などの寺宝を安するとあります。
うち、聖観世音菩薩立像は(京成)東三十三観音霊場)第3番の札所本尊と思われます。
なお、正王寺は(下千葉村)氷川社(現・葛飾氷川神社)の別当も務めていました。
葛飾氷川神社境内縁起書によると、氷川社は正治元年(1199年)武蔵国一の宮氷川神社を勧請、下千葉村の鎮守として奉斎とのことです。
【写真 上(左)】 葛飾氷川神社
【写真 下(右)】 葛飾氷川神社の御朱印
八王子神社は現在、葛飾氷川神社の境内末社ですが(大正年間氷川神社へ勧請)、頼朝公ゆかりの由緒もあってか末社らしからぬ存在感を放たれ、御朱印も授与されています。
【写真 上(左)】 八王子神社
【写真 下(右)】 八王子神社の御朱印
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【史料・資料】
■ 『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻三』(国立国会図書館)
(下千葉村)八王子社 別当正王寺
新義真言宗 青戸村寶持院末 清龍山金長院ト号ス
開山俊義正治元年三月十四日寂ス 中興源榮承応元年九月十六日寂セリ 本尊彌陀
■ 『葛西志 : 東京地誌史料 第2巻』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
(千葉村)八王子権現社 別当正王寺
八王子権現社
下千葉の内、西南の方にあり、勧請の年歴詳ならず。
別当正王寺
清龍山金長院と号す。新義真言宗、青戸村寶持院の末なり。
開基は俊義法印にて、此人正治元年三月十四日寂すといへば、古き草創なる事知らる。
中興を源榮法印と云、承応元年九月十六日化す、客殿八間に六間、本尊阿彌陀如来を安置す。
氷川社
同じ邊にあり、正王寺持。
■ 『葛飾区寺院調査報告 上』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
正王寺
治承二年(1178年)五月、法印俊義の開山と伝えられる。
天文七年(1538年)国府台の合戦による兵火に焼失して荒廃したが、慶長年間(1596-1614年)山城国の人法印源栄が再興し、中興開基となった。
その後数回にわたる水禍のため古記録を失い、由緒は明らかでないが、当寺がもと別当職を勤めた八王子社(隣接する現氷川神社)の縁起には、次のように記されている。
清滝山正王寺八王子宮神縁起
武蔵国葛飾郡下千葉村清滝山正王寺は、治承二年(1178年)の創建(中略)人皇八十二代後鳥羽院の御宇、右大将頼朝卿、山王廿一社の内なる八王子権現を深く尊信なし給ひ、坂西より此地に移し、当寺に鎮座し奉り(中略)慶安年間(1648-1652年)、三代将軍家光公御鷹狩の刻、境内を通らせられ、八王子の宮を拝せられ、神録を御訊問ありしに、征夷大将軍の始祖たる源右幕下の勧請たりし事を聞召され、恭も五石の荘園を寄附し給ふ。
当寺の住僧は、山城国の産にして、将軍の親臣本多図書忠勝候の紙支層なり。
なお当寺の山門は朱色のため、一般に赤門寺と呼んでいる。
本堂 山門 客殿・庫裏
寺宝
阿彌陀如来立像(本尊) 寄木造 蓮華座 室町時代の作か
不動明王立像 寄木造 両童子 江戸時代の作
聖観世音菩薩立像 寄木造 江戸時代の作
弘法興教両大師像 寄木造 椅子に座し 江戸時代の作
天部坐像 江戸時代の作
弘法大師坐像 椅子に座す 江戸時代の作であろう
紙本着色弥勒菩薩造 江戸時代の作
正岡子規遺墨二点
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最寄りは京成本線「堀切菖蒲園」駅で徒歩約5分。
下町らしい住宅密集地に、切妻屋根桟瓦葺の朱塗りの四脚門で山号扁額を掲げ、門前には寺号標を置いています。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 寺号標
【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 寺号表札
門前からすでに古刹らしい落ち着きをみせていますが、山内もよく整備されきもちのよい参拝ができます。
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂
階段上の本堂は、入母屋造桟瓦葺流れ向拝の堂々たる構え。
堂前の十三重石塔がいいアクセントとなっています。
天水鉢には家光公とのゆかりを示すがごとく、葵紋が刻まれています。
【写真 上(左)】 天水鉢
【写真 下(右)】 向拝
コンクリ身舎の近代建築ですが、水引虹梁、雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に虹梁、中備に蟇股と寺社建築に則った意匠で、向拝見上には寺号扁額が掲げられています。
【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 庭園
山内に大師堂があります。
切妻造桟瓦葺妻入りで、柱には「弘法大師堂」の堂号と「南無大師遍照金剛」の御寶号が掲げられています。
【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 大師堂札所板
見上げに掲げられた札所板には「四国八十八箇所五十九番」の御詠歌が掲げられており、荒川辺八十八ヶ所霊場第59番あるいは南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第59番の札所ですが、荒綾八十八ヶ所霊場第15番の札所も兼ねているかと思われます。
薬師如来を称える御詠歌で、本四国八十八ヶ所霊場第59番札所の金光山 国分寺(札所本尊:薬師如来)を示す内容かと思います。
御朱印は庫裏にて拝受しました。
〔 天王寺の御朱印 〕
中央に「聖観世音」の揮毫と、聖観世音菩薩のお種子「サ」の御寶印(蓮華座+宝珠)。
右の札所印は不明瞭ですが「東観音第三番」とも読めるので、(京成)東三十三観音霊場第3番の札所印かもしれません。
左には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第20番 榎木山 善福院
(ぜんぷくいん)
葛飾区四つ木3-4-29
真言宗智山派
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:
司元別当:(若宮村)若宮八幡社(現・若宮八幡宮)(葛飾区四つ木)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第67番、荒綾八十八ヶ所霊場第25番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第43番、葛西三十三観音霊場第15番、新葛西三十三観音霊場第15番
第20番は墨田区四つ木の善福院です。
下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
善福院は、(若宮村)若宮八幡社の別当で新義真言宗、寺嶋村蓮花寺の末でした。
善福院じたいは永正十六年(1519年)祐誉法印が東照宮若王寺と号して創建とも伝わりますが、若宮八幡社の社歴はそれよりも古いので、こちらから追ってみます。
文治五年(1189年)7月源頼朝公は奥州征伐を決意、伊豆山走湯権現の僧侶で頼朝公の師僧ともいわれる専光坊良暹を伊豆山から呼び戻し、留守中の安寧維持と戦勝祈願を託しました。
自身も奥州発向の折、若宮八幡社に参詣し源家の武運長久を祈りました。
その際、手みずから榎の枝根を逆に地に挿して宣うに、この度の戦に利あればこの榎は根付いて繁るべしと。
奥州を収めて凱陣なったとき、この榎は見事に根付いて盛んに繁っていたため、頼朝公は改めて鶴岡八幡宮を勧請し、この地の領主・葛西三郎清重に命じて社容を整えたといいます。
『新編武蔵風土記稿』には「ヨリテ別当寺ヲ榎木山ト号スト云(中略)年歴テ再建修理等中絶シ空ク狐狸ノ住家トナリシヲ 御入國ノ後伊奈備前守中興スト云」とあるので、流れからすると、善福院は源頼朝公の治世にすでに若宮八幡社の別当として存在し、永正十六年(1519年)祐誉法印が東照宮若王寺と号して創建(中興)したとみられます。
天正十八年(1590年)、家康公関東入国後の関東郡代伊奈備前守による若宮八幡社中興の際に、別当の当山も整備されたとみられます。
元和二年(1616年)4月、家康公は薨去し、同年12月に久能山に東照社(現・久能山東照宮)が創建されました。
当時、「東照宮若王寺」を号していた当山は、東照宮の神号をはばかり善福院と改め寺号は唱えなくなったといいます。
御本尊は『新編武蔵風土記稿』で薬師如来、『葛西志』で大日如来、『葛飾区寺院調査報告』で聖観世音菩薩とありますが、拝受した御朱印の尊格は十一面観世音菩薩でした。
また、『新編武蔵風土記稿』には「観音堂 正観音ヲ安ス 葛西三十三番札所第十五番ナリ」とあり、こちらは葛西三十三観音霊場第15番であったことがわかります。
(→ 霊場札所リスト(「ニッポンの霊場」様))
なお、現在も再編された新葛西三十三観音霊場の第15番札所です。
末社として稲荷社が御鎮座と伝わります。
若宮八幡宮は若宮村の鎮守で、別当であった当山は明治初期の神仏分離を乗り越え存続しました。
しかし大正元年、荒川放水路の開削により現在地に移転しています。
関東大震災や幾度の水難を経て、現本堂は昭和44年の落慶です。
比較的情報の少ない寺院ですが、『ガイド』には寺嶋村蓮花寺末から京都智積院末に変更とあるので、相応の寺格を有するとみられ、当地のおもだった霊場の札所を兼務しています。
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【史料・資料】
■ 『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻二』(国立国会図書館)
(若宮村)若宮八幡社 別当善福院
新義真言宗寺嶋村蓮花寺末 榎木山ト号ス
昔ハ東照院若王寺ト称セシヲ 御神号ヲ避テ今ノ如ク善福院ト改メ寺号ハ唱ヘズ云
本尊薬師
観音堂 正観音ヲ安ス 葛西三十三番札所第十五番ナリ
(若宮村)若宮八幡社
村ノ鎮守ナリ
相伝フ当社ハ右大将頼朝文治五年泰衡征伐トシテ奥州ニ発向ノ時 軍功アランコトヲ祈願シ手ツカラ榎ノ策ヲサカシマニ挿 此行利アランニハ此木必生ヒ榮フヘシト誓ヒシニ 果シテ勝利ノ後枝葉盛ニ生ヒ茂リ今ノ世マテモ社頭ニ残レリ ヨリテ別当寺ヲ榎木山ト号スト云(中略)年歴テ再建修理等中絶シ空ク狐狸ノ住家トナリシヲ 御入國ノ後伊奈備前守中興スト云(中略)
末社稲荷社
■ 『江戸名所図会 7巻 [19]』(国立国会図書館)
若宮八幡宮
若宮村にあり 別当ハ真言宗にして善福寺と号す
社伝云往古文治五年七月右大将源頼朝卿 奥州泰衡征伐として発向あるにより同十八日伊豆國より専光坊の阿闍梨を召て潜に泰衡征伐の立願の旨を告らす(中略)当社に参詣ありて源家繁盛武運長久の祈念あり
又手自榎の策を逆に地に指誓て云く 此度の軍利あらハ枝根を生して栄ゆへしと●
竟に奥州ををさめて凱陣あら●●ハ 其後鶴岡八幡宮を勧請し此地ハ葛西三郎清重乃領地たるにより清重に命じて社頭を経営せしめ(以下略)
■ 『葛西志 : 東京地誌史料 第2巻』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
(若宮村)若宮八幡社 別当 善福院
(若宮八幡社)の側に住居す。新義真言宗、寺島村蓮華寺末 榎木山若王寺と号す。
古は東照院号せしが、後に東照宮の御神号を避て、今の寺山号に改められしと云。
本尊大日如来を安置す。
■ 『葛飾区寺院調査報告 上』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
善福院
真言宗智山派。榎木山と号し、古くは寺島村蓮華寺の末、後には京都智積院の末であった。
永正十六年(1519年)祐誉法印の創立。はじめ東照宮若王寺と号したが、徳川家康公の神号をはばかり、善福院と改めたという。明治維新前までは付近の若宮村若宮八幡宮の別当職を勤めた。大正元年、荒川放水路開削工事のため、現在地に移転した。大正十二年九月の関東大震災で本堂が大破し、昭和九年、火災に焼失し、同十二年再建、さらに同二十二年九月の水害で破損し、同四十四年四月、現在の本堂が新築された。
本堂 客殿・庫裏 大師堂
寺宝
聖観世音菩薩立像(本尊) 寄木造蓮華座 江戸時代の作
弘法大師立像 寄木造 江戸時代の作か
興教大師坐像 寄木造 近時の補修か
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』隅田川向島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りは京成押上線「四ツ木」駅で徒歩約11分。
隅田川河畔の四つ木三丁目の住宅密集地にあります。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 院号標
築地塀の中央に切妻屋根桟瓦葺の山門、様式はおそらく薬医門かと思いますが写真が少なく確定できません。
門柱に院号標。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 天水鉢
山内は広くはないものの、手前右に大師堂、正面おくに本堂を配して、立体感ある伽藍構成です。
本堂前の天水鉢には真言宗智山派の宗紋・桔梗紋。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
本堂は入母屋造でおそらく銅本棒葺と思われ流れ向拝。
大棟、降り棟、隅棟、掛瓦も整って端正な印象。
身舎に設えられた縦長の花頭窓がいいアクセントになっています。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に本蟇股を置き、向拝見上げには山号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 大師堂
大師堂は銅板葺の宝形造で基盤上に宝珠を置いています。
こちらも格子文様が効果的につかわれてきっちり端正なイメージ。
向拝見上げに「大師堂」濃醇扁額、向拝扉には真如親王様のお大師さまが描かれた立派な千社札が打たれています。
【写真 上(左)】 大師堂の千社札
【写真 下(右)】 大師堂の扁額
当山は荒川辺、荒綾、南葛(いろは大師)、隅田川の4つの弘法大師霊場の札所で、おそらくこちらの大師堂が霊場拝所とみられます。
御朱印は庫裏にて拝受しました。
〔 善福院の御朱印 〕
中央に「十一面観世音」の揮毫と、十一面観世音菩薩のお種子「キャ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
左には山号院号の揮毫と寺院印が捺されています。
→ ■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-8へつづきます。
※札所および記事リストは→ こちら。
【 BGM 】
■ 言い出しかねて -TRY TO SAY- 当山ひとみ
■ By the side of love - 今井優子
■ ebb and flow - LaLa(歌ってみた)
※札所および記事リストは→ こちら。
『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。
■ 第18番 宝寿山 遍照院 長命寺
(ちょうめいじ)
公式Web
天台宗東京教区公式Web
墨田区向島5-4-4
天台宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:
司元別当:
他札所:隅田川七福神(弁財天)、東京三十三所観世音霊場第32番、弁財天百社参り番外22、墨田区お寺めぐり第15番
第18番は墨田区向島の長命寺、比叡山延暦寺直末とみられる名刹です。
公式Web、天台宗東京教区公式Web、下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
長命寺の創建年代等は詳らかでないですが、寺伝には「元和元年(1615年)頃の中田某の檀那寺」とあり、「長命水石文」によると古くは寶寿山常泉寺と号した天台宗寺院でした。
一説には慶長年間(1596-1615年)に孝徳または宗泉によって創立ともあります。
中興開山は誓院権僧正玄照和尚(寶暦十三年(1763年)寂)。
御本尊は『新編武蔵風土記稿』『墨田区史』には阿弥陀如来、『江戸名所図会』には釋迦如来と記され、公式Web、天台宗東京教区公式Webでは阿弥陀如来となっています。
寛永年間(1624-1643年)のある日、三代将軍家光公(大猶院殿)がこの地に鷹狩に訪れた際、にわかに腹痛をおこして当寺で休憩、住職・孝徳(専海とも)和尚が傳教大師御作と伝わる当山の辨財天に加持した庭の井水・般若水を捧げ、この水で薬を服用したところ痛みはたちまち収まったので、家光公はこの水に「長命水」の名を賜い、これより寺号を長命寺と改めたといいます。
山内には長命水がいまもその姿を残しています。
(なお、『紫の一本』『墨水消夏録』は、これを徳川家康公の事跡としています。)
山内の精大明神社は「蹴鞠ノ神」と言い伝えられましたが、祭神等は定かではないようです。
般若堂と不動堂は相殿で、安する不動尊像は智證大師の御作といいます。
『新編武蔵風土記稿』によると、傳教大師御作の辨財天と元三大師降魔像も相殿だったようです。
地蔵堂は『葛西志』に「西國二十二番観音の寫を相殿とす」とあるので西國写観音霊場第22番札所であった模様ですが、この観音霊場については不明です。
当山は関東大震災の慰霊のため開創という東京三十三ヶ所観音霊場第32番の札所ですが、前身としてこの観音霊場の存在があったのかもしれません。
(→ 霊場札所リスト(「ニッポンの霊場」様))
こちらの辨天様は有名で、隅田川七福神の一尊であっただけでなく、弁財天百社参り番外22の札所本尊にもなっています。
『江戸名所図会 7巻 [19]』(国立国会図書館より、筆者にて加筆加工)
古くは山内に弁天堂や芭蕉堂がありました。
芭蕉堂は宝暦年間(1751-1764年)に俳人衹徳が建てた自在庵を創始とし、後に能阿により再興、芭蕉の木像を安置して芭蕉堂と称されていました。
『本所区史』には、芭蕉像を安したのは芭蕉の門人・青流(稲津祇空/1663-1733年)の門人で浅草蔵前の札差であった自在庵祇徳で、享保年間(1716-1736年)のこととあります。
しかし、『江戸名所図会』には「自在庵𦾔址 堂の右竹藪の中にあり 誹諧師水國ここに庵室をむすひて住たりしといへり」とあり、現地掲示にも芭蕉庵を建てたのは俳人雲津水国(1682-1734年)とあります。
山内に建つ、松尾芭蕉の「いざさらばの句碑」(区登録文化財)。
「いさゝらは 雪見にころふ 所まて」
これは芭蕉が熱田神宮参詣の際に『笈の小文』に詠んだ句ですが、長命寺が墨堤の雪景色の名所として知られていたため、山内に句碑が置かれたとされています。
現地掲示には「いざさらばの句碑」を建てたのは三代仲祇徳で、安政五年(1858年)とあります。
よって、芭蕉堂は俳人雲津水国(1682-1734年)が建て、「いざさらばの句碑」を建てたのは三代仲祇徳ということになります。
ただし、仲祇徳は少なくとも三代(三人)はいるようなので、このあたりの時系列はよくわかりません。
筆者は俳諧の道にはまったくうとく、下手に書き込むとたちまち馬脚を露わすので(笑)、このくらいにしておきます。
なお、『江戸名所図会』で長命寺のすぐ横に「本社」と描かれているお社はおそらく牛御前社(現・牛嶋神社)と思われます。
いかにも本社と別当を示す位置関係ですが、牛御前社の別当は東駒形の第7番札所の牛宝山 最勝寺で、最勝寺は大正2年江戸川区平井に移転しています。
本堂は安政二年(1855年)の大地震で焼失、麻布の武家屋敷を移築して本堂とし明治に及んだといいます。
関東大震災で本堂、芭蕉堂など多くの伽藍を失いましたが、御本尊は難を遁れていまも本堂に御座します。
長命寺は雪景色の美しさでも知られ、『江戸名所花暦』にも「長命寺隅田川の堤曲行の角にあり。境内に芭蕉の碑あり。この辺に佇みて左右をかへり見れば、雪の景色いはんかたなし。」と記されています。
もとより向島は風流の地として知られ、雪景色や芭蕉堂の存在もあって、長命寺には多くの文人墨客が訪れたとみられます。
寺内には芭蕉句碑をはじめ、東京都指定の橘守部(江戸時代の国学者)の墓、義太夫節の名家鶴沢清六の塚、太田蜀山人の歌碑、成島柳北(明治時代のジャーナリスト)の碑などがあり、いまもエリア屈指の文化財のお寺として知られています。
※山内の文化財については→ 公式Webをご覧ください。
【長命寺桜もち】
「桜餅 食ふてぬけけり 長命寺」 (虚子)
長命寺桜もちはこの向島屈指の銘菓です。
享保二年(1717年)、創業者山本新六が墨堤土手の桜の葉を樽の中に塩漬けにした「桜もち」を考案して長命寺門前で売り始め、参詣客や桜の名所・隅堤の花見客のあいだで評判となりました。
桜葉の香り高い美味しさもさることながら代々の店主の看板娘の接待が評判で、なかでも三代目の長女「お豊さん」は美貌で名を馳せ、猿若町で芝居にも上演されたといいます。
明治の「お陸さん」という娘も美人の誉れ高く、正岡子規が当家の二階に下宿し、子規とお陸さんとの恋物語もあったとか。
「鐘の音に夢さめはてて浅草や 朝の別れのつらくもあるかな」 (子規)
『江戸切絵図』では長命寺の山内に「名物サクラモチ」とあり、よほど人気があったと思われます。
「長命寺桜もち」はなんと長命寺の公式Webでも紹介され、両社の密接な関係を物語っています。
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【史料・資料】
■ 『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻二』(国立国会図書館)
(須崎村)長命寺
天台宗東叡山末 寶寿山扁(ママ)照院ト号ス 本尊阿彌陀脇士ニ観音勢至ヲ置 過去帳ニ住僧宗泉慶安二年(1649年)十一月七日示寂トアリ 境内辨天ノ縁起ニ 寛永(1624-1644年)ノ末大猶院殿御放鷹ノ時 俄ニ御異例ニテ当寺ニ入御アリケルニ 住僧専海辨才天ニ祈願ヲコメ則御手洗ノ般若水ヲ汲ミテ御供ノ士中根壱岐守ヲ以テ捧ケ奉リシニ 御心地サハヤカニナラセタマヒケレハ 御快気ノ程ヲ祝セラレ 寶樹山常泉寺ノ𦾔号ヲ改テ今ノ寺山号ヲ賜ヒシト云 是ニヨレハ専海ハ寛永ノ頃ノ住僧ニシテ宗泉ヨリ先代ナルヘシ
精大明神社
神体金幣ニテ光成卿ノ霊ヲ祭ル 蹴鞠ノ神ナリトノミ云傳フ 光成卿トイヘルハイカナル人ニヤ 蹴鞠ノ宗匠難波飛鳥井両家ニハ聞エサル人ナリ 按ニ諸神記ニ中御門西洞院東頬滋野井小社三座是蹴鞠神也 此地大納言成通卿旧跡トアリ 成通卿ハ蹴鞠ノ名人ニテ凡人ノシワサニアラサル由『著聞集』等ニモ記シタリハ モシクハ是ヲ誤テ光成卿ナト云傳ヘシニヤ 又近江國志賀郡松本ト云地ニ精大明神社アリ 祭礼猿田彦命ニテ蹴鞠ノ神ナリト云 当社ハ恐クハ是ヲウツセシモノニテ光成卿ヲ配祀セルナラン
稲荷社
般若堂 文殊普賢ノ外十六善神ヲ置 又不動及二童子アリ 不動ハ智證大師ノ作又傳教大師ノツクレル辨天元三大師降魔ノ像アリ
地蔵堂
長命水趾 此井ノ水ヲ般若水ト呼フ則前ニ云ル御手洗ノ跡也
奈岐木 菓子所大久保主水カ植シモノナリ 高二丈程周四尺モアルヘシ 樹根ニ此木ヲ植ル顛末ヲ鋳セル碑ヲ立
■ 『江戸名所図会 7巻 [19]』(国立国会図書館)
寶寿山長命寺
遍照院と号す 天台宗東叡山に属せり 本尊ハ等身の釋迦如来 脇士ハ文殊普賢 般若十六善神等の像を安す
牛嶋辨財天 同じ堂内に安す 傳教大師の作なり
長命水 同じ堂の後の方にあり 一に般若水と云
自在庵𦾔址 堂の右竹藪の中にあり 誹諧師水國ここに庵室をむすひて住たりしといへり 今其地に芭蕉翁の句を彫たる碑を建てあり
殊更当寺ハ雪の名所にて前に隅田川の流れをうけて風色たらすといふをなし
■ 『葛西志 : 東京地誌史料 第2巻』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
長命寺
牛御前社の北に隣りて、門は西向きなり、天台宗東叡山末、寶寿山遍照院と号す、寺伝云、当寺古は寶樹山常泉寺と唱へしに、寛永年中(1624-1644年)、大猶院殿此邊御鷹狩に成らせ給ひて、御不例おはしませし時、中根壱岐守当寺の井水を汲て、後手水に奉りしかば、御なやみ頓に御本復あり、よりて寺山号を、今のごとくに改められしと、又紫一本には、これを、東照宮の御事績となし、寺もその比なでは寺号もなく、ただ草庵なりしなど、いとうきなる伝へなれど、何れゆへある寺号とはみヘたり、開山起立の年代詳ならず、中興を弘誓院権僧正玄照和尚と云、寶暦十三年(1763年)四月廿二日寂を示せり、本尊釋迦如来を安置す。
辨天不動相殿 門を入て正面にあり
精大明神社 門を入て右の方にあり、祭神詳ならず。
長命水 辨天堂の側にあり、則前にしるせる、大猶院殿御手水に用ひ給ひしと云井なり。
地蔵堂 門を入て右の方にあり、西國二十二番観音の寫を相殿とす。
■ 『東京名所図会 [第14] (本所区之部)(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
長命寺
長命寺は。向島須崎町八十八番地即ち牛島神社の北隣に在り。寶寿山と号し。遍照院と称す。天台宗にして。延暦寺の末なり。当寺初は常泉寺といひしが。寛永年間(1624-1644年)将軍家家光公放鷹の途次。微恙ありて寺に憩ひ。住持孝徳をして境内の盤石水を加め。服薬して頓に快癒せしを以て。長命水の名を賜ふ。因て是より長命寺と改む。
長命水今尚現存し。洗心養神と刻したる石標の傍に屋代弘賢のしるしたる碑を建たり。(中略)本堂は二十九年焼失後の新築にて。別に盤若堂と芭蕉堂あり。芭蕉堂殊に雅なり。
■ 『本所区史』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
長命寺
長命寺は向島須崎町八十八番地即ち牛島神社の北隣に在り寶壽山と号遍照院と称した。
天台宗にして延暦寺の末である。当寺初は常泉寺といったが寛永年間(1624-1644年)将軍家家光公放鷹の途次微恙の為めに寺に憩ひ、住持孝徳の差出した境内の般若水を以て服薬した処頓に快癒したので長命水の名を賜はった。因て是より長命寺と改めたのである。
長命水は今尚現存し洗心養神と刻した石標の傍に屋代弘賢のしるした碑を建てたとある。
り。(中略)本堂は二十九年焼失後の新築にて。別に盤若堂と芭蕉堂あり。芭蕉堂殊に雅なり。
元禄の昔、芭蕉松尾桃青は西行宗祇の遺風を慕ひ、未だ五七五の野風を楽しとして生涯を過ごしたが、即ち彼芭蕉は誹諧道中興開山といふべきであらう。
芭蕉の門人に青流といふ人が居り、或時宗祇法師の墓参をなしその墓前に於て、既に祇空しとて名を祇空と更め、向島の地に草庵をむすんで居たが、ふと雲水の心動き剃髪して諸国を遊歴し、享保十八年(1733年)四月廿三日享年六十八にして箱根湯本に没し、早雲寺に葬られた。
祇空の門人に自在庵祇徳といふ人があった。この人は浅草蔵前の札差であったが隠遁の志深く、享保年間(1716-1736年)に祇空の庵址近き長命寺中に草庵をしつらへ、庵室に芭蕉翁の像を安置し、三昧の外に他事なかった。これ即ち長命寺芭蕉堂の起原である。
■ 『墨田区史 本編』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
長命寺
天台宗延暦寺の末寺で古くは宝樹山常泉寺と号していたというが、開基者・開山者および創建の年などは明らかではなく、一説には慶長年間(1596-1615年)に孝徳または宗泉によって創立されたとする。
中興開山は誓院権僧正玄照和尚で、本尊は阿弥陀如来を安置する。
長命寺の寺号については、寛永(1624-1644年)のころ三代将軍家光が墨東の地に鷹狩を行った時、急病となってこの寺に立ち寄り寺内の井戸の水で薬を服用してたちまちに快癒したので、寺号常泉寺を改めて長命寺としたと伝えられており、また「紫の一本」や「墨水消夏録」はこれを徳川家康の事跡とし、当寺は名もない小庵であったので長命寺の寺号を与えたのであると述べている。
寺内には長命水が今もその姿を残していて、これが家光の用いた名水とされているが、このほか古くは弁天堂や芭蕉堂もあった。
芭蕉堂は宝暦年中(1751-1764年)に俳人祇徳が建てた自在庵という庵で、のちに能阿によって再興され長命寺芭蕉堂と通称されていたものである。
長命寺はまた雪景色の美しさで江戸名所のひとつに数えられていた。(中略)『江戸名所花暦』にも「長命寺隅田川の堤曲行の角にあり。境内に芭蕉の碑あり。この辺に佇みて左右をかへり見れば、雪の景色いはんかたなし。」と述べられている。
寺内には東京都指定の橘守部の墓、成島柳北の碑があり、また弁財天は隅田川七福神のひとつである。
■ 『すみだの史跡文化財散歩 P.35』(墨田区資料/PDF)
長命寺(向島5-4-4)
天台宗延暦寺末で、古くは宝寿山常泉寺と号していたそうですが、創建年等は不明です。寛永のころ3代将軍家光がこの辺りに臆狩りに来た時、急に腹痛をおこしましたが、住職
が加持した庭の井の水で薬を服用したところ痛みが治まったので、長命寺の寺号を与えたといいます。
■ 松尾芭蕉「いざさらば」の句碑 <区登録文化財>
「いさゝらは 雪見にころふ所まて」
碑陰には、3世自在庵祇徳の文で、芭蕉や祇空、祇徳の略伝等が述べられています。
■ 「長命水石文」の碑
この寺が長命の寺号を賜った経緯と井戸が長命水と名付けられたことを、時の住職最空が記しています。書は国学者の屋代弘賢で、天保3年(1832)の建碑です。
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』隅田川向島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りは都営地下鉄浅草線・メトロ半蔵門線「押上駅」駅で徒歩約15分。
隅田川にかかる「桜橋」経由で今戸方面からも歩けます。
【写真 上(左)】 桜橋
【写真 下(右)】 桜橋からの隅田川
第13番弘福寺のすぐお隣りにあります。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標
【写真 上(左)】 門扉の三諦星紋
【写真 下(右)】 山内幼稚園ゾーン
山内門寄りは言問幼稚園で、山内入口の門柱と寺号標、そして門扉に輝く天台宗の宗紋・三諦星(さんたいせい)がなければほとんど寺院とわかりません。
平日昼間は園児の声で賑やかで主門は閉められていますが、通用門からお参りはできるようです。
圓舎の並びには「よいこのおじぞうさま」も御座されます。
【写真 上(左)】 よいこのおじぞうさま
【写真 下(右)】 本堂ゾーン
園庭を抜けると本堂前、俄然名刹の趣がでてきます。
本堂向かって右手が庫裏で、その前に傳教大師童像と辨財天碑が置かれています。
【写真 上(左)】 傳教大師童像
【写真 下(右)】 辨財天碑
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝。
コンクリ身舎ながら整った寺院建築で、向拝にはしっかり水引虹梁、雲形の木鼻、繋ぎ虹梁、蟇股を備え、向拝見上げには寺号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 横からの向拝
【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 辨財天のお姿
本堂は通常は閉扉のようですが、お正月期間の七福神ご開扉期間は開扉されます。
辨財天は八臂坐像のお姿です。
【写真 上(左)】 長命水
【写真 下(右)】 長命水石文
本堂向かって左手の隅田川寄りの一角が文化財の宝庫。
本堂すぐよこには長命水と長命水石文。
芭蕉の「いざさらば」句碑、橘守部の墓、太田蜀山人の歌碑、鶴沢清六の塚と成島柳北の碑などがこのエリアに点在します。
【写真 上(左)】 芭蕉の「いざさらば」句碑
【写真 下(右)】 同 説明板
【写真 上(左)】 橘守部の墓
【写真 下(右)】 太田蜀山人の歌碑
【写真 上(左)】 鶴沢清六の塚と成島柳北の碑
【写真 下(右)】 庚申地蔵尊
万治二年(1659年)造立の庚申地蔵尊石像も御座し、「出羽三山の碑」は墨田区登録文化財に指定されています。
【写真 上(左)】 出羽三山の碑
【写真 下(右)】 隅田川側からの入口
御朱印は庫裏にて拝受しました。
複数の御朱印を快く授与いただけました。
〔 長命寺の御朱印 〕
【写真 上(左)】 御本尊・阿弥陀如来の御朱印
【写真 下(右)】 辨財天の御朱印
【写真 上(左)】 寺号の御朱印
【写真 下(右)】 同
■ 墨田区お寺めぐり第15番のスタンプ
■ 第19番 清滝山 金長院 正王寺
(しょうおうじ)
葛飾区堀切5-29-14
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:
司元別当:(下千葉村)八王子権現社(現・葛飾氷川神社の境内社)/(下千葉村)氷川社(現・葛飾氷川神社)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第59番、荒綾八十八ヶ所霊場第15番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第59番、(京成)東三十三観音霊場)第3番
第19番は葛飾区堀切の正王寺で、朱塗りの山門から「赤門寺」とも呼ばれています。
下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
正王寺は治承二年(1178年)、(下千葉村)八王子権現社(現・葛飾氷川神社の境内社)の別当として法印侔義(正治元年(1199年)寂)が創建という古刹です。
青戸村寶持院末の新義真言宗寺院で、御本尊は阿弥陀如来です。
『葛飾区寺院調査報告』記載の『清滝山正王寺八王子宮神縁起』によると、源頼朝公は山王廿一社のうち八王子権現を深く尊信し、関西よりこの地に勧請、御鎮座といいます。
天文七年(1538年)、国府台合戦(後北条氏と里見氏など房総諸将との戦い)の戦火を受け荒廃しましたが、慶長年間(1596-1615年)に山城国の法印源榮(承応元年(1652年)寂)が中興して開山と伝わります。
慶安年間(1648-1652年)、徳川3代将軍家光公が鷹狩の際に八王子権現社を拝せられ、当社の由緒を尋ねられたところ源頼朝公の勧請であることを知り、大いに尊崇されて荘園を寄附したといいます。
家光公の来山(1648-1652年)と法印源榮(承応元年(1652年)寂)の年代が重なるので、おそらく家光公から荘園を賜ったのが法印源榮で、その功績により中興開山になったとみられます。
また、当山の住僧は、徳川四天王のひとり本多忠勝ゆかりの家系ともいいます。
八王子権現社は徳川家綱公の代、慶安二年(1649年)にも御朱印をくだされています。
数度にわたる水禍で古記録を失い由緒は不詳ですが、『葛飾区寺院調査報告』には本堂、山門、客殿、庫裏を備え、御本尊に室町時代の作とみられる阿弥陀如来立像、不動明王立像、聖観世音菩薩立像、弘法興教両大師像、弘法大師坐像などの寺宝を安するとあります。
うち、聖観世音菩薩立像は(京成)東三十三観音霊場)第3番の札所本尊と思われます。
なお、正王寺は(下千葉村)氷川社(現・葛飾氷川神社)の別当も務めていました。
葛飾氷川神社境内縁起書によると、氷川社は正治元年(1199年)武蔵国一の宮氷川神社を勧請、下千葉村の鎮守として奉斎とのことです。
【写真 上(左)】 葛飾氷川神社
【写真 下(右)】 葛飾氷川神社の御朱印
八王子神社は現在、葛飾氷川神社の境内末社ですが(大正年間氷川神社へ勧請)、頼朝公ゆかりの由緒もあってか末社らしからぬ存在感を放たれ、御朱印も授与されています。
【写真 上(左)】 八王子神社
【写真 下(右)】 八王子神社の御朱印
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【史料・資料】
■ 『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻三』(国立国会図書館)
(下千葉村)八王子社 別当正王寺
新義真言宗 青戸村寶持院末 清龍山金長院ト号ス
開山俊義正治元年三月十四日寂ス 中興源榮承応元年九月十六日寂セリ 本尊彌陀
■ 『葛西志 : 東京地誌史料 第2巻』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
(千葉村)八王子権現社 別当正王寺
八王子権現社
下千葉の内、西南の方にあり、勧請の年歴詳ならず。
別当正王寺
清龍山金長院と号す。新義真言宗、青戸村寶持院の末なり。
開基は俊義法印にて、此人正治元年三月十四日寂すといへば、古き草創なる事知らる。
中興を源榮法印と云、承応元年九月十六日化す、客殿八間に六間、本尊阿彌陀如来を安置す。
氷川社
同じ邊にあり、正王寺持。
■ 『葛飾区寺院調査報告 上』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
正王寺
治承二年(1178年)五月、法印俊義の開山と伝えられる。
天文七年(1538年)国府台の合戦による兵火に焼失して荒廃したが、慶長年間(1596-1614年)山城国の人法印源栄が再興し、中興開基となった。
その後数回にわたる水禍のため古記録を失い、由緒は明らかでないが、当寺がもと別当職を勤めた八王子社(隣接する現氷川神社)の縁起には、次のように記されている。
清滝山正王寺八王子宮神縁起
武蔵国葛飾郡下千葉村清滝山正王寺は、治承二年(1178年)の創建(中略)人皇八十二代後鳥羽院の御宇、右大将頼朝卿、山王廿一社の内なる八王子権現を深く尊信なし給ひ、坂西より此地に移し、当寺に鎮座し奉り(中略)慶安年間(1648-1652年)、三代将軍家光公御鷹狩の刻、境内を通らせられ、八王子の宮を拝せられ、神録を御訊問ありしに、征夷大将軍の始祖たる源右幕下の勧請たりし事を聞召され、恭も五石の荘園を寄附し給ふ。
当寺の住僧は、山城国の産にして、将軍の親臣本多図書忠勝候の紙支層なり。
なお当寺の山門は朱色のため、一般に赤門寺と呼んでいる。
本堂 山門 客殿・庫裏
寺宝
阿彌陀如来立像(本尊) 寄木造 蓮華座 室町時代の作か
不動明王立像 寄木造 両童子 江戸時代の作
聖観世音菩薩立像 寄木造 江戸時代の作
弘法興教両大師像 寄木造 椅子に座し 江戸時代の作
天部坐像 江戸時代の作
弘法大師坐像 椅子に座す 江戸時代の作であろう
紙本着色弥勒菩薩造 江戸時代の作
正岡子規遺墨二点
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最寄りは京成本線「堀切菖蒲園」駅で徒歩約5分。
下町らしい住宅密集地に、切妻屋根桟瓦葺の朱塗りの四脚門で山号扁額を掲げ、門前には寺号標を置いています。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 寺号標
【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 寺号表札
門前からすでに古刹らしい落ち着きをみせていますが、山内もよく整備されきもちのよい参拝ができます。
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂
階段上の本堂は、入母屋造桟瓦葺流れ向拝の堂々たる構え。
堂前の十三重石塔がいいアクセントとなっています。
天水鉢には家光公とのゆかりを示すがごとく、葵紋が刻まれています。
【写真 上(左)】 天水鉢
【写真 下(右)】 向拝
コンクリ身舎の近代建築ですが、水引虹梁、雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に虹梁、中備に蟇股と寺社建築に則った意匠で、向拝見上には寺号扁額が掲げられています。
【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 庭園
山内に大師堂があります。
切妻造桟瓦葺妻入りで、柱には「弘法大師堂」の堂号と「南無大師遍照金剛」の御寶号が掲げられています。
【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 大師堂札所板
見上げに掲げられた札所板には「四国八十八箇所五十九番」の御詠歌が掲げられており、荒川辺八十八ヶ所霊場第59番あるいは南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第59番の札所ですが、荒綾八十八ヶ所霊場第15番の札所も兼ねているかと思われます。
薬師如来を称える御詠歌で、本四国八十八ヶ所霊場第59番札所の金光山 国分寺(札所本尊:薬師如来)を示す内容かと思います。
御朱印は庫裏にて拝受しました。
〔 天王寺の御朱印 〕
中央に「聖観世音」の揮毫と、聖観世音菩薩のお種子「サ」の御寶印(蓮華座+宝珠)。
右の札所印は不明瞭ですが「東観音第三番」とも読めるので、(京成)東三十三観音霊場第3番の札所印かもしれません。
左には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第20番 榎木山 善福院
(ぜんぷくいん)
葛飾区四つ木3-4-29
真言宗智山派
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:
司元別当:(若宮村)若宮八幡社(現・若宮八幡宮)(葛飾区四つ木)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第67番、荒綾八十八ヶ所霊場第25番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第43番、葛西三十三観音霊場第15番、新葛西三十三観音霊場第15番
第20番は墨田区四つ木の善福院です。
下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
善福院は、(若宮村)若宮八幡社の別当で新義真言宗、寺嶋村蓮花寺の末でした。
善福院じたいは永正十六年(1519年)祐誉法印が東照宮若王寺と号して創建とも伝わりますが、若宮八幡社の社歴はそれよりも古いので、こちらから追ってみます。
文治五年(1189年)7月源頼朝公は奥州征伐を決意、伊豆山走湯権現の僧侶で頼朝公の師僧ともいわれる専光坊良暹を伊豆山から呼び戻し、留守中の安寧維持と戦勝祈願を託しました。
自身も奥州発向の折、若宮八幡社に参詣し源家の武運長久を祈りました。
その際、手みずから榎の枝根を逆に地に挿して宣うに、この度の戦に利あればこの榎は根付いて繁るべしと。
奥州を収めて凱陣なったとき、この榎は見事に根付いて盛んに繁っていたため、頼朝公は改めて鶴岡八幡宮を勧請し、この地の領主・葛西三郎清重に命じて社容を整えたといいます。
『新編武蔵風土記稿』には「ヨリテ別当寺ヲ榎木山ト号スト云(中略)年歴テ再建修理等中絶シ空ク狐狸ノ住家トナリシヲ 御入國ノ後伊奈備前守中興スト云」とあるので、流れからすると、善福院は源頼朝公の治世にすでに若宮八幡社の別当として存在し、永正十六年(1519年)祐誉法印が東照宮若王寺と号して創建(中興)したとみられます。
天正十八年(1590年)、家康公関東入国後の関東郡代伊奈備前守による若宮八幡社中興の際に、別当の当山も整備されたとみられます。
元和二年(1616年)4月、家康公は薨去し、同年12月に久能山に東照社(現・久能山東照宮)が創建されました。
当時、「東照宮若王寺」を号していた当山は、東照宮の神号をはばかり善福院と改め寺号は唱えなくなったといいます。
御本尊は『新編武蔵風土記稿』で薬師如来、『葛西志』で大日如来、『葛飾区寺院調査報告』で聖観世音菩薩とありますが、拝受した御朱印の尊格は十一面観世音菩薩でした。
また、『新編武蔵風土記稿』には「観音堂 正観音ヲ安ス 葛西三十三番札所第十五番ナリ」とあり、こちらは葛西三十三観音霊場第15番であったことがわかります。
(→ 霊場札所リスト(「ニッポンの霊場」様))
なお、現在も再編された新葛西三十三観音霊場の第15番札所です。
末社として稲荷社が御鎮座と伝わります。
若宮八幡宮は若宮村の鎮守で、別当であった当山は明治初期の神仏分離を乗り越え存続しました。
しかし大正元年、荒川放水路の開削により現在地に移転しています。
関東大震災や幾度の水難を経て、現本堂は昭和44年の落慶です。
比較的情報の少ない寺院ですが、『ガイド』には寺嶋村蓮花寺末から京都智積院末に変更とあるので、相応の寺格を有するとみられ、当地のおもだった霊場の札所を兼務しています。
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【史料・資料】
■ 『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻二』(国立国会図書館)
(若宮村)若宮八幡社 別当善福院
新義真言宗寺嶋村蓮花寺末 榎木山ト号ス
昔ハ東照院若王寺ト称セシヲ 御神号ヲ避テ今ノ如ク善福院ト改メ寺号ハ唱ヘズ云
本尊薬師
観音堂 正観音ヲ安ス 葛西三十三番札所第十五番ナリ
(若宮村)若宮八幡社
村ノ鎮守ナリ
相伝フ当社ハ右大将頼朝文治五年泰衡征伐トシテ奥州ニ発向ノ時 軍功アランコトヲ祈願シ手ツカラ榎ノ策ヲサカシマニ挿 此行利アランニハ此木必生ヒ榮フヘシト誓ヒシニ 果シテ勝利ノ後枝葉盛ニ生ヒ茂リ今ノ世マテモ社頭ニ残レリ ヨリテ別当寺ヲ榎木山ト号スト云(中略)年歴テ再建修理等中絶シ空ク狐狸ノ住家トナリシヲ 御入國ノ後伊奈備前守中興スト云(中略)
末社稲荷社
■ 『江戸名所図会 7巻 [19]』(国立国会図書館)
若宮八幡宮
若宮村にあり 別当ハ真言宗にして善福寺と号す
社伝云往古文治五年七月右大将源頼朝卿 奥州泰衡征伐として発向あるにより同十八日伊豆國より専光坊の阿闍梨を召て潜に泰衡征伐の立願の旨を告らす(中略)当社に参詣ありて源家繁盛武運長久の祈念あり
又手自榎の策を逆に地に指誓て云く 此度の軍利あらハ枝根を生して栄ゆへしと●
竟に奥州ををさめて凱陣あら●●ハ 其後鶴岡八幡宮を勧請し此地ハ葛西三郎清重乃領地たるにより清重に命じて社頭を経営せしめ(以下略)
■ 『葛西志 : 東京地誌史料 第2巻』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
(若宮村)若宮八幡社 別当 善福院
(若宮八幡社)の側に住居す。新義真言宗、寺島村蓮華寺末 榎木山若王寺と号す。
古は東照院号せしが、後に東照宮の御神号を避て、今の寺山号に改められしと云。
本尊大日如来を安置す。
■ 『葛飾区寺院調査報告 上』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
善福院
真言宗智山派。榎木山と号し、古くは寺島村蓮華寺の末、後には京都智積院の末であった。
永正十六年(1519年)祐誉法印の創立。はじめ東照宮若王寺と号したが、徳川家康公の神号をはばかり、善福院と改めたという。明治維新前までは付近の若宮村若宮八幡宮の別当職を勤めた。大正元年、荒川放水路開削工事のため、現在地に移転した。大正十二年九月の関東大震災で本堂が大破し、昭和九年、火災に焼失し、同十二年再建、さらに同二十二年九月の水害で破損し、同四十四年四月、現在の本堂が新築された。
本堂 客殿・庫裏 大師堂
寺宝
聖観世音菩薩立像(本尊) 寄木造蓮華座 江戸時代の作
弘法大師立像 寄木造 江戸時代の作か
興教大師坐像 寄木造 近時の補修か
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』隅田川向島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りは京成押上線「四ツ木」駅で徒歩約11分。
隅田川河畔の四つ木三丁目の住宅密集地にあります。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 院号標
築地塀の中央に切妻屋根桟瓦葺の山門、様式はおそらく薬医門かと思いますが写真が少なく確定できません。
門柱に院号標。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 天水鉢
山内は広くはないものの、手前右に大師堂、正面おくに本堂を配して、立体感ある伽藍構成です。
本堂前の天水鉢には真言宗智山派の宗紋・桔梗紋。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
本堂は入母屋造でおそらく銅本棒葺と思われ流れ向拝。
大棟、降り棟、隅棟、掛瓦も整って端正な印象。
身舎に設えられた縦長の花頭窓がいいアクセントになっています。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に本蟇股を置き、向拝見上げには山号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 大師堂
大師堂は銅板葺の宝形造で基盤上に宝珠を置いています。
こちらも格子文様が効果的につかわれてきっちり端正なイメージ。
向拝見上げに「大師堂」濃醇扁額、向拝扉には真如親王様のお大師さまが描かれた立派な千社札が打たれています。
【写真 上(左)】 大師堂の千社札
【写真 下(右)】 大師堂の扁額
当山は荒川辺、荒綾、南葛(いろは大師)、隅田川の4つの弘法大師霊場の札所で、おそらくこちらの大師堂が霊場拝所とみられます。
御朱印は庫裏にて拝受しました。
〔 善福院の御朱印 〕
中央に「十一面観世音」の揮毫と、十一面観世音菩薩のお種子「キャ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
左には山号院号の揮毫と寺院印が捺されています。
→ ■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-8へつづきます。
※札所および記事リストは→ こちら。
【 BGM 】
■ 言い出しかねて -TRY TO SAY- 当山ひとみ
■ By the side of love - 今井優子
■ ebb and flow - LaLa(歌ってみた)
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■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-6
■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-5からのつづきです。
※札所および記事リストは→ こちら。
『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。
■ 第15番 金剛山(常在山) 寶蔵寺
(ほうぞうじ)
墨田区八広6-9-17
真言宗智山派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:
司元別当:(木下村)山王社
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第68番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第75番、新葛西三十三観音霊場第12番(旧・法花寺)、墨田区お寺めぐり第10番
第15番は墨田区八広の寶蔵寺です。
下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
寶蔵寺は慶長十九年(1614年)に朝応和尚が創建した真言宗寺院で寺島蓮花寺の末寺でした。(『ガイド』では安永年間(1772-1780年)創立)
御本尊は阿弥陀如来。客殿に不動明王を安していたようです。
境内に祀る稲荷社は、おそらく鎮守とみられ、『葛西志』にも境内社として記載されています。
山号を「常在山」としている資料もありますが、『新編武蔵風土記稿』『葛西志』などでは「金剛山」としています。
もとは南葛西郡大木村字木下にありましたが明治43年の出水に遭い、さらに荒川放水路開設のために大正8年、西方に約550mほどの現在地に移転しています。
江戸時代は木下村の山王社(慶長十九年(1614年)御鎮座)の別当を務めていました。
情報があまりない寺院ですが、荒川辺霊場、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)などの札所となっているので、真言密寺として相応のポジションを担っていたことがわかります。
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【史料・資料】
■ 『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻三』(国立国会図書館)
(木下村)寶蔵寺
新義真言宗 寺嶋村蓮華寺末 金剛山ト号ス 本尊ハ不動ナリ
(木下村)山王社
慶長十九年(1614年)ノ鎮座ナリ 寶蔵寺持下同シ
稲荷社
■ 『葛西志 : 東京地誌史料 第2巻』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
(木之下村)寶蔵寺
山王社と同じ邊にあり。当寺も慶長十九年(1614年)の起立なりと云、新義真言宗、寺島村蓮華寺末、金剛山と号す。
本尊不動尊 客殿に安す。
稲荷社 境内にあり。
(木之下村)山王社
村の南へよりてあり、慶長十九年(1614年)の鎮座と云、寶蔵寺持。
■ 『墨田区史 本編』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
宝蔵寺(金剛山 吾嬬町西九丁目10番地)
慶長十九年(1614年)に朝応和尚が創建した寺院で新義真言宗に属し、寺島蓮花寺の末寺である。
もと南葛飾郡大木村字木下に所在し、その後明治四十三年の出水にあい、さらに荒川放水路開設のために西方約五五0mほどの現在地に大正八年に移転した。
本尊は阿弥陀如来である。
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最寄りは京成押上線「八広」駅で徒歩約3分。
荒川の流れに近いこのあたりは、住宅と町工場が密集する下町らしい街並みです。
曳舟川通り(新四ツ木橋)とゆりのき橋通りが交差する「更正橋」五叉路のすぐそばのゆりのき通り沿いにあります。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標
大通りの沿道なので門前はやや雑然としていますが、意外に広い山内に入ると札所寺院らしい落ち着きをみせています。
門柱に寺号標。
【写真 上(左)】 隅田川二十一ヶ所霊場の札所標
【写真 下(右)】 新葛西三十三観音霊場の札所標
参道右手には石佛群と札所標があります。
札所標は隅田川二十一ヶ所霊場第15番と新葛西三十三観音霊場第12番(旧・法花寺)のもので、いずれも稀少な遺構です。
【写真 上(左)】 覆屋
【写真 下(右)】 地蔵尊と弘法大師像
本堂向かって右手の覆屋には、石佛の地蔵尊立像と弘法大師坐像。
弘法大師坐像の台座には「第七十五番」とあるので、おそらく南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第75番の札所本尊とみられます。
【写真 上(左)】 ”いろは大師”の札所本尊
【写真 下(右)】 天水鉢
本堂前の桔梗紋(真言宗智山派の宗紋)入の天水鉢は、錆を帯びて風合いがあります。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
階段上の本堂は近代建築ながら、屋根頂部に露盤と宝珠を置いているのでおそらく宝形造かと思われます。
銅板葺きで流れ向拝。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に桔梗紋を配した蟇股を置いています。
向拝格子扉のうえに寺号扁額。
御朱印は本堂向かって左側の庫裏にて拝受しました。
〔 寶蔵寺の御朱印 〕
中央に「本尊阿彌陀如来」の印判。御寶印(蓮華座+火焔宝珠)のお種子は胎蔵大日如来の「アーンク」(荘厳体・五点具足の阿字)。
当山の御本尊は『新編武蔵風土記稿』『葛西志』では不動明王、『墨田区史』では阿弥陀如来とあり、胎蔵大日如来ではない模様なので、尊格を代表する通種子(本不生)の意で使われているのかもしれません。
霊場札所の札所印はとくに捺されていないとのことでした。
■ 墨田区お寺めぐり第10番のスタンプ
■ 第16番 恵日山(孤竹山) 正覚寺
(しょうがくじ)
墨田区八広3-5-2
真言宗智山派
御本尊:薬師如来
札所本尊:
司元別当:(大畑村)稲荷社(現・三輪里稻荷神社)(墨田区八広)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第69番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第49番、墨田区お寺めぐり第14番
第16番は墨田区八広の正覚寺です。
下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
正覚寺は、慶長十四年(1609年)に長養法印が開創、中興開山は快厳(宝暦五年(1755年)寂)と伝わり東葛西領上小松村正福寺末の真言宗寺院です。
御本尊は、『新編武蔵風土記稿』『墨田区史』には薬師如来、『葛西志』には阿弥陀如来とありますが、現在の御本尊は薬師如来のようです。
資料類には山号は「恵日山」とありますが、『新編武蔵風土記稿』には「狐竹山明王院」とあり、御朱印の揮毫も「狐竹山」でした。
江戸時代は大畑村の鎮守・稲荷社の別当でした。
『葛西志』によると稲荷社の御鎮座は慶長十九年(1614年)なので、正覚寺とほぼ同時期の創建とみられます。
(大畑村)稲荷社は、現在の三輪里稲荷神社とみられます。
【写真 上(左)】 三輪里稲荷神社
【写真 下(右)】 三輪里稲荷神社の御朱印
当社公式Webには「慶長十九年(1614年)出羽国(山形県)湯殿山の大日坊が、かつての大畑村の総鎮守として羽黒大神の御分霊を勧請し、三輪里稻荷大明神として御鎮座」とあります。
御祭神は倉稲魂命。
初午の日にのどの患いや風邪に神験あらたかな湯殿山秘法のこんにゃくの護符を授けることから、俗に「こんにゃく稲荷」と呼ばれ参詣客を集めていたようです。
正覚寺開山の長養法印と三輪里稻荷大明神を勧請の大日坊との関係はよくわかりませんが、稲荷社の本地は十一面観世音菩薩で、別当・正覚寺と神仏混淆状態にあったことがうかがわれます。
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【史料・資料】
■ 『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻三』(国立国会図書館)
(大畑村)正覚寺
新義真言宗 寺嶋村蓮花寺末 狐竹山明王院ト号ス 中興僧快巌宝暦五年(1755年)六月十七日寂
本尊薬師
(大畑村)稲荷社
村ノ鎮守ナリ 本地十一面観音 正覚寺持
■ 『葛西志 : 東京地誌史料 第2巻』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
(大畑村)正覚寺
(稲荷社)社地の並にあり。新義真言宗、東葛西領上小松村、正福寺の末なり。
恵日山と号す。当寺も鎮守稲荷と同時の草創なりしと云、本尊阿弥陀如来を安置す。
(大畑村)稲荷社
村の中ほどにあり、慶長十九年(1614年)の鎮座にして、此村の鎮守なりと云、正覚寺持。
■ 『墨田区史 本編』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
正覚寺(恵日山 吾嬬町西六丁目91番地)
新義真言宗で上小松正福寺の末、慶長十四年(1609年)に長養法印が開創し中興開山は快厳である。
本尊薬師如来を安置し八月六日を縁日と定めている。
■ 『すみだの史跡文化財散歩 P.58』(墨田区資料/PDF)
慶長19年(1614)に出羽国(山形県)湯殿山の修験者大日坊が、羽黒大神の分霊を大畑村(現在地)の鎮守として勧請し、三輪里稲荷大明神と称したのが始まりと伝えられていま
す。
初午の日に、湯殿山秘法のこんにゃくの護符を授けることから、俗に「こんにゃく稲荷」と乎ばれていました。
■ 三輪里稻荷神社公式Web
御祭神は倉稲魂命。当社は、慶長十九年(1614年)出羽国(山形県)湯殿山の大日坊が、かつての大畑村の総鎮守として羽黒大神の御分霊を勧請し、三輪里稻荷大明神として御鎮座いたしました。
現在は三輪里稻荷神社、通称“こんにゃくいなり”として八広の地をお守りしてます。
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』隅田川向島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りは京成押上線「京成曳舟」駅で徒歩約9分。
八広のメイン通り・八広中央通りに面してあります。
すぐ北側はかつて別当を務めた三輪里稻荷神社ですが、参道は別にあるので隣り合った感じはありません。
あるいは明治の神仏分離時に一線を画したのかもしれません。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標
すっきりとまとまった近代的な山内で、入口門柱に寺号標。
参道をいくと左手に立派な大師堂があります。
おそらく切妻造銅板葺妻入で、水引虹梁、木鼻、斗栱、身蟇股を備えています。
【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 大師堂
堂碑の碑文によると、昭和59年の弘法大師1150年御遠忌事業として建立されたとのこと。
堂内には弘法大師坐像が御座されています。
台座に札番はないですが、おそらく荒川辺、南葛八十八ヶ所(いろは大師)、墨田川霊場の3つの弘法大師霊場の札所本尊とみられます。
【写真 上(左)】 弘法大師像
【写真 下(右)】 札所標
堂宇横には「二十一ヶ所大師」と刻まれた石碑があり、こちらはおそらく稀少な隅田川霊場の札所標です。
本堂向かって右手には石塔や石佛群(如意輪観世音菩薩・地蔵尊など)があります。
コンクリで固められた山内ですが、緑が多く落ち着きがあります。
【写真 上(左)】 石佛群
【写真 下(右)】 本堂
本堂は陸屋根の近代建築ですが、屋根上の相輪と向拝の扁額が効いて風格があります。
向拝鉄扉にうえに寺号扁額を掲げています。
驚いたことにこの鉄扉が開きました。
堂内は絢爛たる装いで、前面に護摩壇、背面に両界曼荼羅、御内陣正面お厨子前にはおそらく御前立の右手施無畏印、左手に薬壺をもたれる薬師如来坐像が御座されていました。
【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 庫裏
御朱印は本堂向かって左側の庫裏にて拝受しました。
〔 正覚寺の御朱印 〕
中央に「本尊薬師如来」の揮毫と薬師如来のお種子「バイ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
左に山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
霊場札所印は捺されていない模様です。
■ 墨田区お寺めぐり第14番のスタンプ
■ 第17番 瑞松山 栄隆院 霊光寺
(れいこうじ)
墨田区吾妻橋1-9-11
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:
司元別当:
他札所:新葛西三十三観音霊場第24番、江戸東方四十八地蔵霊場第40番、墨田区お寺めぐり第22番
第17番は墨田区吾妻橋の霊光寺、隅田川霊場唯一の浄土宗寺院です。
下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
霊光寺は、木食重譽上人霊光和尚を開山として寛文七年(1667年)に創建、当初は霊光庵を号しましたが、寶永三年(1706年)増上寺の末寺となり現号を号したといいます。
御本尊の阿弥陀如来は、増上寺中興の観智国師の持念佛と伝わります。
増上寺の公式Webは、「増上寺第12世・観智国師(源誉存応上人)(元和六年(1620年)寂)は、徳川家康公と増上寺の寺檀関係を結ばれ、増上寺および近世浄土宗の発展に寄与された方」とあります。
『寺社書上』にも、観智国師と家康公の邂逅の逸話が記されています。
当山の御本尊・阿弥陀如来は、天照太神の御作という縁起が伝わります。
この縁起は『寺社書上』にも記されています。読解不能の箇所もありますが、縁起概略を辿ってみます。
慶長十五年(1610年)、源誉存応上人(観智国師)は後陽成天皇(1571- 1617年)に参内し講説をおこなったところ天皇は大いに敬まわれて普光観智國師の号を賜りました。
観智国師が関東帰国の前に伊勢太神宮に参詣された時、神宮の神主は阿弥陀如来の像を国師に奉じたといいます。
内宮の宝殿に御座し、代々安置してきた尊像との由。
国師は帰国の後、こちらの尊像を持念佛に奉じ、のちに家康公の使僧もつとめた弟子の林應にこの尊像を授けたといいます。
林應和尚より四代の住持・十譽和尚は、ある夜霊夢にて御本尊の阿弥陀如来が御声を発せられるのを聴き、観智国師が伊勢太神宮から相伝されたこの尊像が天照太神の御作と確信し、後世に御本尊縁起として伝えられたようです。
『寺社書上』には恵心僧都作の御前立本尊(阿弥陀如来座像)、弘法大師御作の十一面観世音菩薩・辨才天、興教大師御作の不動明王などの寺宝が記されています。
しかし、関東大震災、東京大空襲で伽藍はことごとく焼失したためか、上記の寺宝についてのその後の情報は不明のようです。
当山は葛西三十三観音霊場第24番の札所となっています。
この霊場は天保九年(1838年)刊とされる『東都歳事記』に載っているので、江戸時代からの観音霊場札所です。(→ 霊場札所リスト(「ニッポンの霊場」様))
文政十二年(1829年)頃の編纂とされる『寺社書上』には「観音堂本尊 十一面観世音 弘法大師之作」とあるので、こちらが札所本尊であった可能性があります。
また、当山は江戸東方四十八地蔵霊場第40番の札所でもあり、こちらの札所本尊は「元日地蔵菩薩」と伝わります。(→ 霊場札所リスト(「ニッポンの霊場」様))
こちらも『東都歳事記』に記載がある江戸時代からの地蔵尊霊場です。
『寺社書上』には「石匣塔上ニ金佛地蔵尊安置」とあり、こちらが札所本尊の「元日地蔵菩薩」と思われ、下記の「元日地蔵菩薩縁起」(山内掲示)にもその旨が記されています。
現在は立像石佛として再興され、山内に奉安されています。
『ガイド』によると、こちらの地蔵尊は昭和62年初春の奉安とのこと。
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【史料・資料】
■ 『寺社書上 [121] 中ノ郷寺社書上 一』(国立国会図書館)
江戸増上寺末
本所中之郷
浄土宗 瑞松山栄隆院霊光寺
右霊光寺ハ寛文七年(1667年)之起立
本尊 阿彌陀如来立像 下品之印木像
天照大神宮之御作也 縁起有之
右本尊ハ増上寺中興観智国師之持念佛也
観音勢至 二菩薩
前立本尊 阿彌陀如来座像 上品之印 恵心僧都作
法祖 善導大師 座像
宗祖 圓光大師 座像
当寺開山之像 号聲蓮社十譽願値本阿霊光上人
金佛善光寺如来 三尊厨子入
不動明王 興教大師之作 縁起有之
観音堂本尊 十一面観世音 弘法大師之作 縁起有之
釈迦涅槃木像
当寺鎮守 辨才天 弘法大師之作
焔魔王木像
妙説観世音石像
石匣塔上ニ金佛地蔵尊安置 一基
右ハ近年再興した門之内西ノ方ニ有
矢野稲荷大明神
小鍛冶稲荷大明神
本尊縁起
当寺の本尊阿弥陀如来者天照太神の御作也 先師某に語て曰く ●尊像ハ三縁山増上寺中興貞蓮社慈昌源譽普光観智國師存應大和尚より弟子代々伝持之像也 國師俗称ハ武州由木乃人平山左衛門尉李重之御也 十五歳の時増上寺十代感譽上人を師として顕密の教ヲ究メ 天正十二年(1584年)に増上寺に住シ賜フ(中略)大将軍家康公武州江府乃御城に入在ス時 増上寺ハ今の龍ノ口に有シ時 ●●は将軍御馬にて門前を通り在ス 源譽門●出て御城入を見給ふに 御馬ヲ不進 公左右ヲ御覧●さ●れハ 寺門に老僧立て有り 人を使うハして問給ふ 何●の事何と号スと尋在ス 源譽●寺ハ浄土宗三縁山増上寺 名ハ存應と応り 家康公聞召則テ 寺に御入在て 師ハ感譽の弟子●参河にて聞及ひぬ 明日ハ寺に来て●を食りせん● 御契物在て御城に入 翌日此所増上寺ニ御入在りて 御●食在ス 則十念を受師檀乃物在て大イに崇信在ス
後陽成天皇慶長十五年(1610年)七月十九日入宮封御説法盛に浄●乃奥義安心乃秘要を講説在ス 天皇大に敬悦在して賜普光観智國師之号ヲ洛陽に在ス事三旬 京都の道俗化を受候事 甚多シ 國師帰国節 伊勢太神宮江参詣の時 神主敬●して●阿弥陀如来乃像を國師に捧ぬ 神主の曰ク此尊像ハ 内宮乃宝殿に在し●兵乱の砌 出し●り 某代々安置し候へども今師に奉●
國師帰国の後弟子林應と云僧に授給ふ ●林應和尚 力ハ数十人力にて道の早き事ハ凡人の●● 駿河の國御用之節ハ 此僧を使僧となし給ふに(中略)林應和尚より代々相伝て汝●四代の末第●●故説授のため國師之名号相添(中略)
十譽或夜夢を感候事 ●意に伊勢太神宮江参り宝前●信敬し念佛して神前の御を● 自然●開き閉に此如来在ス 本尊御聲を出し告て曰ク 汝我●頼って能ク念佛を我能ク護て不捨と曰ふ● 夢覚候 其御相好と安置乃本尊と先師物語と符合せり 天照太神の御作成事無疑 惟は阿弥陀如来の利益事 尊像をして言●出し(以下読解できず)
■ 『東京名所図会 [第14] (本所区之部)(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
霊光寺
霊光寺は同町(中之郷竹町)十三番地に在り。瑞松山と号す。浄土宗にして芝増上寺の末なり。開山は木食重譽上人霊光和尚にて。初め草庵なりしが。寶永三年(1706年)寺院に列せり。
本尊阿彌陀如来は。増上寺の観智國師京都よりの帰途。伊勢にて得たるものなりといふ。
■ 『本所区史』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
霊光寺
霊光寺は同町(中之郷竹町)十三番地に有り瑞松山と号し、浄土宗にして芝増上寺の末である。開山は木食重譽上人霊光和尚で、初め草庵であったが寛永三年(1626年)寺院に列した。
本尊阿彌陀如来は増上寺の観智國師京都よりの帰途伊勢にて得たものなりと伝説されて居る。
■ 元日地蔵菩薩縁起(山内掲示)
当寺は今を去る寛文七未年(西暦1667年)の創建で霊光庵と称していたが、寶永参戌年(西暦1706年)増上寺末に列し、霊光寺と改め山号を瑞松山、院号を栄隆院と定めた。
境内に何時のころからか石の地蔵菩薩が安置されていた(年号不詳)が、「江戸府内中郷寺社書上」には文政拾壱子年(西暦1828年)ころ金佛の地蔵菩薩を再興と記されている。(中略)昭和四拾年本堂、書院、庫裏等を完成した(中略)説法印の元日地蔵菩薩を建立することとした。
元日地蔵菩薩は「東都歳事記」等によれば江戸東方四拾八所四拾番札所の地蔵菩薩であるが名称の由来は不明である。
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本所絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りは都営地下鉄浅草線「本所吾妻橋」駅で徒歩約6分。
メトロ鉄銀座線・東武スカイツリーライン「浅草」駅からも徒歩10分程度で歩けます。
「浅草」駅から隅田川を吾妻橋で渡ってのアプローチの方が風情があるかもしれません。
第6番遍照院から浅草通りを挟んだ対面にあります。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 門柱の寺号
浅草通りに面して寺号が刻まれた門柱。
すぐ前に駐車場と、その奥にこ洒落た住宅のような建物がありますが、その建物の一部に千鳥破風を配した向拝が設けられています。
都心のお寺然とした、たたずまいです。
門柱右手には石佛立像の「元日地蔵菩薩」が御座し、石碑の縁起書もおかれていました。
【写真 上(左)】 元日地蔵菩薩
【写真 下(右)】 元日地蔵菩薩縁起
【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 扁額
山内にも立派な寺号標があり、向拝上には山号扁額も掲げられていました。
御朱印は庫裏にて拝受しました。
〔 霊光寺の御朱印 〕
中央に六字御名号(南無阿彌陀佛)の揮毫と阿弥陀如来のお種子「キリーク」の印。
右には「元日地蔵菩薩」の印と「江戸東方四十八所四十番札所」の札所印。
左下には山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
「江戸東方四十八地蔵霊場」の札所印は他寺ではみたことがなく、たいへん稀少な御朱印です。
→ ■ 希少な札所印
■ 墨田区お寺めぐり第22番のスタンプ
→ ■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-7へつづきます。
※札所および記事リストは→ こちら。
【 BGM 】
■ 滴 - 今井美樹
■ Love is all/愛を聴かせて - 椎名恵
■ Musunde Hiraku - Kalafina
※札所および記事リストは→ こちら。
『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。
■ 第15番 金剛山(常在山) 寶蔵寺
(ほうぞうじ)
墨田区八広6-9-17
真言宗智山派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:
司元別当:(木下村)山王社
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第68番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第75番、新葛西三十三観音霊場第12番(旧・法花寺)、墨田区お寺めぐり第10番
第15番は墨田区八広の寶蔵寺です。
下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
寶蔵寺は慶長十九年(1614年)に朝応和尚が創建した真言宗寺院で寺島蓮花寺の末寺でした。(『ガイド』では安永年間(1772-1780年)創立)
御本尊は阿弥陀如来。客殿に不動明王を安していたようです。
境内に祀る稲荷社は、おそらく鎮守とみられ、『葛西志』にも境内社として記載されています。
山号を「常在山」としている資料もありますが、『新編武蔵風土記稿』『葛西志』などでは「金剛山」としています。
もとは南葛西郡大木村字木下にありましたが明治43年の出水に遭い、さらに荒川放水路開設のために大正8年、西方に約550mほどの現在地に移転しています。
江戸時代は木下村の山王社(慶長十九年(1614年)御鎮座)の別当を務めていました。
情報があまりない寺院ですが、荒川辺霊場、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)などの札所となっているので、真言密寺として相応のポジションを担っていたことがわかります。
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【史料・資料】
■ 『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻三』(国立国会図書館)
(木下村)寶蔵寺
新義真言宗 寺嶋村蓮華寺末 金剛山ト号ス 本尊ハ不動ナリ
(木下村)山王社
慶長十九年(1614年)ノ鎮座ナリ 寶蔵寺持下同シ
稲荷社
■ 『葛西志 : 東京地誌史料 第2巻』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
(木之下村)寶蔵寺
山王社と同じ邊にあり。当寺も慶長十九年(1614年)の起立なりと云、新義真言宗、寺島村蓮華寺末、金剛山と号す。
本尊不動尊 客殿に安す。
稲荷社 境内にあり。
(木之下村)山王社
村の南へよりてあり、慶長十九年(1614年)の鎮座と云、寶蔵寺持。
■ 『墨田区史 本編』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
宝蔵寺(金剛山 吾嬬町西九丁目10番地)
慶長十九年(1614年)に朝応和尚が創建した寺院で新義真言宗に属し、寺島蓮花寺の末寺である。
もと南葛飾郡大木村字木下に所在し、その後明治四十三年の出水にあい、さらに荒川放水路開設のために西方約五五0mほどの現在地に大正八年に移転した。
本尊は阿弥陀如来である。
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最寄りは京成押上線「八広」駅で徒歩約3分。
荒川の流れに近いこのあたりは、住宅と町工場が密集する下町らしい街並みです。
曳舟川通り(新四ツ木橋)とゆりのき橋通りが交差する「更正橋」五叉路のすぐそばのゆりのき通り沿いにあります。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標
大通りの沿道なので門前はやや雑然としていますが、意外に広い山内に入ると札所寺院らしい落ち着きをみせています。
門柱に寺号標。
【写真 上(左)】 隅田川二十一ヶ所霊場の札所標
【写真 下(右)】 新葛西三十三観音霊場の札所標
参道右手には石佛群と札所標があります。
札所標は隅田川二十一ヶ所霊場第15番と新葛西三十三観音霊場第12番(旧・法花寺)のもので、いずれも稀少な遺構です。
【写真 上(左)】 覆屋
【写真 下(右)】 地蔵尊と弘法大師像
本堂向かって右手の覆屋には、石佛の地蔵尊立像と弘法大師坐像。
弘法大師坐像の台座には「第七十五番」とあるので、おそらく南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第75番の札所本尊とみられます。
【写真 上(左)】 ”いろは大師”の札所本尊
【写真 下(右)】 天水鉢
本堂前の桔梗紋(真言宗智山派の宗紋)入の天水鉢は、錆を帯びて風合いがあります。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
階段上の本堂は近代建築ながら、屋根頂部に露盤と宝珠を置いているのでおそらく宝形造かと思われます。
銅板葺きで流れ向拝。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に桔梗紋を配した蟇股を置いています。
向拝格子扉のうえに寺号扁額。
御朱印は本堂向かって左側の庫裏にて拝受しました。
〔 寶蔵寺の御朱印 〕
中央に「本尊阿彌陀如来」の印判。御寶印(蓮華座+火焔宝珠)のお種子は胎蔵大日如来の「アーンク」(荘厳体・五点具足の阿字)。
当山の御本尊は『新編武蔵風土記稿』『葛西志』では不動明王、『墨田区史』では阿弥陀如来とあり、胎蔵大日如来ではない模様なので、尊格を代表する通種子(本不生)の意で使われているのかもしれません。
霊場札所の札所印はとくに捺されていないとのことでした。
■ 墨田区お寺めぐり第10番のスタンプ
■ 第16番 恵日山(孤竹山) 正覚寺
(しょうがくじ)
墨田区八広3-5-2
真言宗智山派
御本尊:薬師如来
札所本尊:
司元別当:(大畑村)稲荷社(現・三輪里稻荷神社)(墨田区八広)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第69番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第49番、墨田区お寺めぐり第14番
第16番は墨田区八広の正覚寺です。
下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
正覚寺は、慶長十四年(1609年)に長養法印が開創、中興開山は快厳(宝暦五年(1755年)寂)と伝わり東葛西領上小松村正福寺末の真言宗寺院です。
御本尊は、『新編武蔵風土記稿』『墨田区史』には薬師如来、『葛西志』には阿弥陀如来とありますが、現在の御本尊は薬師如来のようです。
資料類には山号は「恵日山」とありますが、『新編武蔵風土記稿』には「狐竹山明王院」とあり、御朱印の揮毫も「狐竹山」でした。
江戸時代は大畑村の鎮守・稲荷社の別当でした。
『葛西志』によると稲荷社の御鎮座は慶長十九年(1614年)なので、正覚寺とほぼ同時期の創建とみられます。
(大畑村)稲荷社は、現在の三輪里稲荷神社とみられます。
【写真 上(左)】 三輪里稲荷神社
【写真 下(右)】 三輪里稲荷神社の御朱印
当社公式Webには「慶長十九年(1614年)出羽国(山形県)湯殿山の大日坊が、かつての大畑村の総鎮守として羽黒大神の御分霊を勧請し、三輪里稻荷大明神として御鎮座」とあります。
御祭神は倉稲魂命。
初午の日にのどの患いや風邪に神験あらたかな湯殿山秘法のこんにゃくの護符を授けることから、俗に「こんにゃく稲荷」と呼ばれ参詣客を集めていたようです。
正覚寺開山の長養法印と三輪里稻荷大明神を勧請の大日坊との関係はよくわかりませんが、稲荷社の本地は十一面観世音菩薩で、別当・正覚寺と神仏混淆状態にあったことがうかがわれます。
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【史料・資料】
■ 『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻三』(国立国会図書館)
(大畑村)正覚寺
新義真言宗 寺嶋村蓮花寺末 狐竹山明王院ト号ス 中興僧快巌宝暦五年(1755年)六月十七日寂
本尊薬師
(大畑村)稲荷社
村ノ鎮守ナリ 本地十一面観音 正覚寺持
■ 『葛西志 : 東京地誌史料 第2巻』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
(大畑村)正覚寺
(稲荷社)社地の並にあり。新義真言宗、東葛西領上小松村、正福寺の末なり。
恵日山と号す。当寺も鎮守稲荷と同時の草創なりしと云、本尊阿弥陀如来を安置す。
(大畑村)稲荷社
村の中ほどにあり、慶長十九年(1614年)の鎮座にして、此村の鎮守なりと云、正覚寺持。
■ 『墨田区史 本編』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
正覚寺(恵日山 吾嬬町西六丁目91番地)
新義真言宗で上小松正福寺の末、慶長十四年(1609年)に長養法印が開創し中興開山は快厳である。
本尊薬師如来を安置し八月六日を縁日と定めている。
■ 『すみだの史跡文化財散歩 P.58』(墨田区資料/PDF)
慶長19年(1614)に出羽国(山形県)湯殿山の修験者大日坊が、羽黒大神の分霊を大畑村(現在地)の鎮守として勧請し、三輪里稲荷大明神と称したのが始まりと伝えられていま
す。
初午の日に、湯殿山秘法のこんにゃくの護符を授けることから、俗に「こんにゃく稲荷」と乎ばれていました。
■ 三輪里稻荷神社公式Web
御祭神は倉稲魂命。当社は、慶長十九年(1614年)出羽国(山形県)湯殿山の大日坊が、かつての大畑村の総鎮守として羽黒大神の御分霊を勧請し、三輪里稻荷大明神として御鎮座いたしました。
現在は三輪里稻荷神社、通称“こんにゃくいなり”として八広の地をお守りしてます。
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』隅田川向島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りは京成押上線「京成曳舟」駅で徒歩約9分。
八広のメイン通り・八広中央通りに面してあります。
すぐ北側はかつて別当を務めた三輪里稻荷神社ですが、参道は別にあるので隣り合った感じはありません。
あるいは明治の神仏分離時に一線を画したのかもしれません。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標
すっきりとまとまった近代的な山内で、入口門柱に寺号標。
参道をいくと左手に立派な大師堂があります。
おそらく切妻造銅板葺妻入で、水引虹梁、木鼻、斗栱、身蟇股を備えています。
【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 大師堂
堂碑の碑文によると、昭和59年の弘法大師1150年御遠忌事業として建立されたとのこと。
堂内には弘法大師坐像が御座されています。
台座に札番はないですが、おそらく荒川辺、南葛八十八ヶ所(いろは大師)、墨田川霊場の3つの弘法大師霊場の札所本尊とみられます。
【写真 上(左)】 弘法大師像
【写真 下(右)】 札所標
堂宇横には「二十一ヶ所大師」と刻まれた石碑があり、こちらはおそらく稀少な隅田川霊場の札所標です。
本堂向かって右手には石塔や石佛群(如意輪観世音菩薩・地蔵尊など)があります。
コンクリで固められた山内ですが、緑が多く落ち着きがあります。
【写真 上(左)】 石佛群
【写真 下(右)】 本堂
本堂は陸屋根の近代建築ですが、屋根上の相輪と向拝の扁額が効いて風格があります。
向拝鉄扉にうえに寺号扁額を掲げています。
驚いたことにこの鉄扉が開きました。
堂内は絢爛たる装いで、前面に護摩壇、背面に両界曼荼羅、御内陣正面お厨子前にはおそらく御前立の右手施無畏印、左手に薬壺をもたれる薬師如来坐像が御座されていました。
【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 庫裏
御朱印は本堂向かって左側の庫裏にて拝受しました。
〔 正覚寺の御朱印 〕
中央に「本尊薬師如来」の揮毫と薬師如来のお種子「バイ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
左に山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
霊場札所印は捺されていない模様です。
■ 墨田区お寺めぐり第14番のスタンプ
■ 第17番 瑞松山 栄隆院 霊光寺
(れいこうじ)
墨田区吾妻橋1-9-11
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:
司元別当:
他札所:新葛西三十三観音霊場第24番、江戸東方四十八地蔵霊場第40番、墨田区お寺めぐり第22番
第17番は墨田区吾妻橋の霊光寺、隅田川霊場唯一の浄土宗寺院です。
下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
霊光寺は、木食重譽上人霊光和尚を開山として寛文七年(1667年)に創建、当初は霊光庵を号しましたが、寶永三年(1706年)増上寺の末寺となり現号を号したといいます。
御本尊の阿弥陀如来は、増上寺中興の観智国師の持念佛と伝わります。
増上寺の公式Webは、「増上寺第12世・観智国師(源誉存応上人)(元和六年(1620年)寂)は、徳川家康公と増上寺の寺檀関係を結ばれ、増上寺および近世浄土宗の発展に寄与された方」とあります。
『寺社書上』にも、観智国師と家康公の邂逅の逸話が記されています。
当山の御本尊・阿弥陀如来は、天照太神の御作という縁起が伝わります。
この縁起は『寺社書上』にも記されています。読解不能の箇所もありますが、縁起概略を辿ってみます。
慶長十五年(1610年)、源誉存応上人(観智国師)は後陽成天皇(1571- 1617年)に参内し講説をおこなったところ天皇は大いに敬まわれて普光観智國師の号を賜りました。
観智国師が関東帰国の前に伊勢太神宮に参詣された時、神宮の神主は阿弥陀如来の像を国師に奉じたといいます。
内宮の宝殿に御座し、代々安置してきた尊像との由。
国師は帰国の後、こちらの尊像を持念佛に奉じ、のちに家康公の使僧もつとめた弟子の林應にこの尊像を授けたといいます。
林應和尚より四代の住持・十譽和尚は、ある夜霊夢にて御本尊の阿弥陀如来が御声を発せられるのを聴き、観智国師が伊勢太神宮から相伝されたこの尊像が天照太神の御作と確信し、後世に御本尊縁起として伝えられたようです。
『寺社書上』には恵心僧都作の御前立本尊(阿弥陀如来座像)、弘法大師御作の十一面観世音菩薩・辨才天、興教大師御作の不動明王などの寺宝が記されています。
しかし、関東大震災、東京大空襲で伽藍はことごとく焼失したためか、上記の寺宝についてのその後の情報は不明のようです。
当山は葛西三十三観音霊場第24番の札所となっています。
この霊場は天保九年(1838年)刊とされる『東都歳事記』に載っているので、江戸時代からの観音霊場札所です。(→ 霊場札所リスト(「ニッポンの霊場」様))
文政十二年(1829年)頃の編纂とされる『寺社書上』には「観音堂本尊 十一面観世音 弘法大師之作」とあるので、こちらが札所本尊であった可能性があります。
また、当山は江戸東方四十八地蔵霊場第40番の札所でもあり、こちらの札所本尊は「元日地蔵菩薩」と伝わります。(→ 霊場札所リスト(「ニッポンの霊場」様))
こちらも『東都歳事記』に記載がある江戸時代からの地蔵尊霊場です。
『寺社書上』には「石匣塔上ニ金佛地蔵尊安置」とあり、こちらが札所本尊の「元日地蔵菩薩」と思われ、下記の「元日地蔵菩薩縁起」(山内掲示)にもその旨が記されています。
現在は立像石佛として再興され、山内に奉安されています。
『ガイド』によると、こちらの地蔵尊は昭和62年初春の奉安とのこと。
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【史料・資料】
■ 『寺社書上 [121] 中ノ郷寺社書上 一』(国立国会図書館)
江戸増上寺末
本所中之郷
浄土宗 瑞松山栄隆院霊光寺
右霊光寺ハ寛文七年(1667年)之起立
本尊 阿彌陀如来立像 下品之印木像
天照大神宮之御作也 縁起有之
右本尊ハ増上寺中興観智国師之持念佛也
観音勢至 二菩薩
前立本尊 阿彌陀如来座像 上品之印 恵心僧都作
法祖 善導大師 座像
宗祖 圓光大師 座像
当寺開山之像 号聲蓮社十譽願値本阿霊光上人
金佛善光寺如来 三尊厨子入
不動明王 興教大師之作 縁起有之
観音堂本尊 十一面観世音 弘法大師之作 縁起有之
釈迦涅槃木像
当寺鎮守 辨才天 弘法大師之作
焔魔王木像
妙説観世音石像
石匣塔上ニ金佛地蔵尊安置 一基
右ハ近年再興した門之内西ノ方ニ有
矢野稲荷大明神
小鍛冶稲荷大明神
本尊縁起
当寺の本尊阿弥陀如来者天照太神の御作也 先師某に語て曰く ●尊像ハ三縁山増上寺中興貞蓮社慈昌源譽普光観智國師存應大和尚より弟子代々伝持之像也 國師俗称ハ武州由木乃人平山左衛門尉李重之御也 十五歳の時増上寺十代感譽上人を師として顕密の教ヲ究メ 天正十二年(1584年)に増上寺に住シ賜フ(中略)大将軍家康公武州江府乃御城に入在ス時 増上寺ハ今の龍ノ口に有シ時 ●●は将軍御馬にて門前を通り在ス 源譽門●出て御城入を見給ふに 御馬ヲ不進 公左右ヲ御覧●さ●れハ 寺門に老僧立て有り 人を使うハして問給ふ 何●の事何と号スと尋在ス 源譽●寺ハ浄土宗三縁山増上寺 名ハ存應と応り 家康公聞召則テ 寺に御入在て 師ハ感譽の弟子●参河にて聞及ひぬ 明日ハ寺に来て●を食りせん● 御契物在て御城に入 翌日此所増上寺ニ御入在りて 御●食在ス 則十念を受師檀乃物在て大イに崇信在ス
後陽成天皇慶長十五年(1610年)七月十九日入宮封御説法盛に浄●乃奥義安心乃秘要を講説在ス 天皇大に敬悦在して賜普光観智國師之号ヲ洛陽に在ス事三旬 京都の道俗化を受候事 甚多シ 國師帰国節 伊勢太神宮江参詣の時 神主敬●して●阿弥陀如来乃像を國師に捧ぬ 神主の曰ク此尊像ハ 内宮乃宝殿に在し●兵乱の砌 出し●り 某代々安置し候へども今師に奉●
國師帰国の後弟子林應と云僧に授給ふ ●林應和尚 力ハ数十人力にて道の早き事ハ凡人の●● 駿河の國御用之節ハ 此僧を使僧となし給ふに(中略)林應和尚より代々相伝て汝●四代の末第●●故説授のため國師之名号相添(中略)
十譽或夜夢を感候事 ●意に伊勢太神宮江参り宝前●信敬し念佛して神前の御を● 自然●開き閉に此如来在ス 本尊御聲を出し告て曰ク 汝我●頼って能ク念佛を我能ク護て不捨と曰ふ● 夢覚候 其御相好と安置乃本尊と先師物語と符合せり 天照太神の御作成事無疑 惟は阿弥陀如来の利益事 尊像をして言●出し(以下読解できず)
■ 『東京名所図会 [第14] (本所区之部)(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
霊光寺
霊光寺は同町(中之郷竹町)十三番地に在り。瑞松山と号す。浄土宗にして芝増上寺の末なり。開山は木食重譽上人霊光和尚にて。初め草庵なりしが。寶永三年(1706年)寺院に列せり。
本尊阿彌陀如来は。増上寺の観智國師京都よりの帰途。伊勢にて得たるものなりといふ。
■ 『本所区史』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
霊光寺
霊光寺は同町(中之郷竹町)十三番地に有り瑞松山と号し、浄土宗にして芝増上寺の末である。開山は木食重譽上人霊光和尚で、初め草庵であったが寛永三年(1626年)寺院に列した。
本尊阿彌陀如来は増上寺の観智國師京都よりの帰途伊勢にて得たものなりと伝説されて居る。
■ 元日地蔵菩薩縁起(山内掲示)
当寺は今を去る寛文七未年(西暦1667年)の創建で霊光庵と称していたが、寶永参戌年(西暦1706年)増上寺末に列し、霊光寺と改め山号を瑞松山、院号を栄隆院と定めた。
境内に何時のころからか石の地蔵菩薩が安置されていた(年号不詳)が、「江戸府内中郷寺社書上」には文政拾壱子年(西暦1828年)ころ金佛の地蔵菩薩を再興と記されている。(中略)昭和四拾年本堂、書院、庫裏等を完成した(中略)説法印の元日地蔵菩薩を建立することとした。
元日地蔵菩薩は「東都歳事記」等によれば江戸東方四拾八所四拾番札所の地蔵菩薩であるが名称の由来は不明である。
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本所絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りは都営地下鉄浅草線「本所吾妻橋」駅で徒歩約6分。
メトロ鉄銀座線・東武スカイツリーライン「浅草」駅からも徒歩10分程度で歩けます。
「浅草」駅から隅田川を吾妻橋で渡ってのアプローチの方が風情があるかもしれません。
第6番遍照院から浅草通りを挟んだ対面にあります。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 門柱の寺号
浅草通りに面して寺号が刻まれた門柱。
すぐ前に駐車場と、その奥にこ洒落た住宅のような建物がありますが、その建物の一部に千鳥破風を配した向拝が設けられています。
都心のお寺然とした、たたずまいです。
門柱右手には石佛立像の「元日地蔵菩薩」が御座し、石碑の縁起書もおかれていました。
【写真 上(左)】 元日地蔵菩薩
【写真 下(右)】 元日地蔵菩薩縁起
【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 扁額
山内にも立派な寺号標があり、向拝上には山号扁額も掲げられていました。
御朱印は庫裏にて拝受しました。
〔 霊光寺の御朱印 〕
中央に六字御名号(南無阿彌陀佛)の揮毫と阿弥陀如来のお種子「キリーク」の印。
右には「元日地蔵菩薩」の印と「江戸東方四十八所四十番札所」の札所印。
左下には山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
「江戸東方四十八地蔵霊場」の札所印は他寺ではみたことがなく、たいへん稀少な御朱印です。
→ ■ 希少な札所印
■ 墨田区お寺めぐり第22番のスタンプ
→ ■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-7へつづきます。
※札所および記事リストは→ こちら。
【 BGM 】
■ 滴 - 今井美樹
■ Love is all/愛を聴かせて - 椎名恵
■ Musunde Hiraku - Kalafina
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
■ 夏の終わりの名曲(邦楽編)
虫の音が日に日に増して、猛暑のなかにも秋の気配。
曲を追加し、リンクつなぎなおしてリニューアルUPです。
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2021/08/23・2022/08/30・2023/09/05 UP
もうすぐ9月。すこしく足してリニューアルUPです。
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夏の終わりの名曲をいくつか・・・
なんか、以前もつくった気がするけど、まぁいいか(笑)
重複あったらすみませぬ。
■ 夕陽に別れを告げて〜メリーゴーランド - サザンオールスターズ
個人的にはサザン屈指の名曲。
そして「TSUNAMI」の原曲ではないかと思っている・・・。
原さんのキーボードワークの凄さが伝わってくる名テイク。
■ 海 - サザンオールスターズ
イントロのフレーズ。リバーブの効いたドラムス。複雑なカウンター・メロディ。
むせぶSaxophone、そして桑田さんの色気ただようスキャット。
文句なしの名曲!
1984年の時点で、こんなものすごいメジャー・セブンス曲かましてくるとは、やっぱりハンパな才能じゃないわ。
→ ■ 初期サザンとメガサザン(サザンオールスターズ、名曲の変遷)
→ ■ サザンのセブンス曲
■ Secret Base ~君がくれたもの~ - 茅野愛衣&戸松遥&早見沙織 ACE2013 LIVE
声優系の歌唱レベルはこの頃からすでに高かった。
→ ■ 女神系歌姫-1 【 Angel Voice列伝 01-50 】
→ ■ 女神系歌姫-2 【 Angel Voice列伝 51-100 】
■ Canary - 松田聖子
これ、自作曲って・・・。聖子ちゃんおそるべし。
こんなメロディ、計算づくではなかなか浮かばない。
→ ■ 松田聖子スペシャル & 関ジャム
■ うまく言葉にできないけれど - SoulJa feat. 果山サキ
”セツナ系”には、こういう好メロ曲がたくさんあった。
→ ■ セツナ曲25曲(唐突ですが・・・)
■ 少年時代 - 熊田このは(Covered)
陽水の名曲を別の解釈で歌いあげてしまう。
これがカラバトU-18黄金の世代のオリジナリティ。
→ ■ 熊田このはちゃんのセトリ(&出演記録)-Vol.2
→ ■ 歌のオリジナリティ(カラバトU-18黄金の世代)
■ さよなら夏の日 - 山下達郎
夏歌の巧者だから、夏の終わりの描写もピカ一。
■ YOUR EYES - 山下達郎
これ、達郎屈指の名バラードだと思う。
→ ■ 山下達郎の名曲
→ ■ Ride On Time カバー特集(ザ・カセットテープ・ミュージック)
■ Love Is All / 愛を聴かせて - 椎名恵
洋楽カバーだけど、日本語の歌詞が好アレンジに見事に乗っている。
↓ 洋楽バージョン 「I've Never Been to Me(愛はかげろうのように)」 - Charlene(1977年)
■ 雨のウェンズデイ - 大滝詠一
名手、大滝詠一の夏の終わり歌。
情景が目に浮かぶ。
→ ■ 4つ打ちとグルーヴ (音のスキマ論-0)
■ 思い出は美しすぎて - 八神純子
やっぱり、八神純子のハイトーンは珠玉。
■ Melody For You - 角松敏生 (Summer 4 Rhythm)
角松敏生の曲って、夏歌でもどこかに秋の翳りを帯びているとおもう。
■ Crescent Aventure - 角松敏生
1982年ならではの、余裕かました曲調と風景が浮かぶ歌詞。
~ 過ぎた遊びのしめくくりと 潮風を受けて 閉じたまぶたに・・・ ~
こんな歌詞、なかなか歌えないよ(笑)
→ ■ 場をつくりだす音楽
■ ホノルル・シティ・ライツ - 二名敦子
J-POPのなかではもっとも洋楽(ウェストコーストサウンド)に接近した一人。
→ ■ 切なさを帯びた女性ボーカル10曲
■ 夏の終わりのハーモニー - 井上陽水 & 安全地帯
日本を代表する夏の終わり歌。
つくろうとしてつくれる曲じゃないと思う。
→ ■ 陽水の50年
■ 海のキャトル・セゾン - とみたゆう子
”ミルキーヴォイス”と呼ばれた抜群の美声。爽快感をもちAC系の楽曲にもよく乗っていた。
→ ■ 鈴を転がすような声 ~ 究極のハイトーンボイス ~
■ 【神回】実の妹と一緒に「点描の唄」歌ったら大感動の嵐だった件【Mrs. GREEN APPLE (feat. 井上苑子)】(竹中雄大)
もはや国民的スタンダード曲と化した?名曲だが、歌うとなるとかなりの難易度で名唱はすくない。
これはそんなレア・テイクかと思う。
■ Planetarium(プラネタリウム) - 花たん
バイオリンのように艶立つ花たんのハイトーンはやっぱり唯一無二。
→ ■ 花たんの名テイク
■ 願い - 童子-T feat.YU-A
2009年リリースのセツナ曲。
この頃はこういう曲がトレンドだった。
2000年以前ではおそらくこういう曲はつくれず、今後はこういう曲がメインになっていくかとも思った。
でも、実際は違った。
この路線がメインをとっていたら、2023年までにもっと多くの名曲が生まれていたと思う。
→ ■ ”来る曲” J-POP Female Vers. Part-2
■ One Reason - milet
ここ数年では屈指の好メロ&好リズムのJ-POP。
才能あると思うが・・・。
→ ■ 透明感のある女性ヴォーカル50曲
■ Imaginary Affair - KOTOKO
アニソンを代表する夏の終わりの名曲か。
■ For Our days - 川田まみ(I'VE)
札幌の音楽創作集団「I'VE」でヴォーカルをとっていた。
『そして明日の世界より』OPで、これもかなりのナイスメロ。
独特のビブラートとヒーカップの連打のパフォーマンスで聴き応えあり。
■ 君の知らない物語 (supercell)- くゆり(歌ってみた)
この曲がリリースされた2009年8月。
この頃は、これからますますこういった好メロ&華麗なハイトーンの曲が増えていく(というかメインストリームになる)と思っていた・・・。
クリエイターチーム・supercellのメジャーデビューシングルで、ボーカルにニコ動で人気のガゼルことnagi(やなぎなぎ)を迎えてつくりあげられた夏歌の名曲。
メロ、歌詞、アレンジ、そしてヴォーカルともに卓越した仕上がり。
supercellの曲は「歌い手」のカバーも多い。
くゆりさんは、歌い手のなかでもかなり上位の実力を持っていると思う。
supercellの人気曲「君の知らない物語」を見事に歌いこなし、その卓越した完成度はニコ動のコメント群がよく物語っている。
ときおり繰り出す繊細なビブラートと(ヒーカップじゃない)高音への跳ねが絶品。
■ 私たち - 西野カナ
西野カナの歌声は、夏全開にならないセツナサを秘めている。
それにしても、西野カナの曲って名曲揃いだわ。
→ ■ セツナ曲25曲(唐突ですが・・・)
→ ■ 西野カナ復帰 & 西野カナの名テイク
■ Dive Into Summer - miwa
miwaも素晴らしい才能の持ち主。
2010年頃のセツナ系本流とはちとニュアンスが違うけど、やっぱり切ない。
■ Hello,my friend - 松任谷由実
複合カノン進行の名曲。
大衆路線まっしぐらの頃だけど、やっぱり創ろうと思えば創れる。
そんなことを感じた1曲。
→ ■ 翳りゆく部屋(松任谷由実~私と荒井由実の50年~)
→ ■ 伝説的ミュージシャンの50年 〜ユーミンの名曲〜
■ 片恋日記 - 中村舞子
”切なさを帯びた声”というチョイスなら、中村舞子はトップレベル。
→ ■ 中村舞子の名バラード20曲
■ 滴 - 今井美樹
2009年リリースの『corridor』収録曲。
作詞・作曲:川江美奈子。川江美奈子の曲やバックヴォーカルと今井美樹の相性は抜群。
→ ■ 今井美樹の名バラード25曲!
■ LOVE BRACE - 華原朋美
小室哲哉氏が渾身の名曲の多くを華原朋美に注いだ理由がわかる気がする。
というか、この曲は華原朋美にしか歌えない。
世が世なら、第一線を走りつづけられた希有の実力。
→ ■ 時代を読んだ? 小室哲哉氏
■ Musunde Hiraku - Kalafina
このまま解散で終わらすには、あまりにも惜しい名ユニット。
→ ■ 幻のユニットkalafina
→ ■ FictionJunctionの秘密?
■ Never Ending Summer IV~Prolog - 杉山清貴&オメガトライブ
名手・林哲司作編曲の名曲。
作詞は秋元康。いい歌詞書くと思ってたけどね・・・。
→ ■ グルーヴ&ハイトーン (グルーヴってなに・・・?)
■ Cloudyな午後 - 中原めいこ
中原めいこのこの甘く危険な歌声(笑)は、完コピ不可だと思う。
→ ■ 歌は世につれ
→ ■ 日本にシティ・ポップはなかった??
■ Over and Over - Every Little Thing
持田香織さん、もともとアイドル系だけど歌唱力あり。
David Fosterを思わせるKeyのカウンターメロディが光る、きらびやかかつリリカルな名曲。
もっと売れてもよかったと思う。
■ Story Teller - Kicco
アニソン&ゲーム系では、さりげにこういう名曲がつくられたりする。
意表をつくメロディ展開が魅力。
■ answer - 遥海
歌に魂が乗っている。
いまのJ-POP界では屈指の歌唱力。
→ ■ 希有のシンガー、遥海(草ケ谷遥海)
→ ■ 本当に上手い女性シンガー12人!
■ Endless Story - 伊藤 由奈
インスト陣のパフォーマンスも観客のレスも抜群。
J-POP屈指の名演かと・・・。
→ ■ 圧倒的名演!
■ YES-YES-YES - オフコース
1982年リリース。
こういうフックのあるメロディラインを、この頃の小田氏はよくつくっていた。
↓ そのものずばりの「秋の気配」。
■ 秋の気配 - オフコース
コード
1977年のオフコース・サウンド。
すでにメジャー・セブンスやハーフディミニッシュが効果的に使われている。
■ 稲垣潤一 - 夏のクラクション
このグルーヴ感!
シティ・ホップスの名曲として再評価されている理由がわかる。
→ ■ 「シティ・ポップ」って?
■ 二人の夏 - ZARD
坂井泉水さんならではの切ない歌声が活きる、ZARDの隠れた名曲。
■ This Love - Angela Aki
日本が生んだ類いまれなシンガー・ソングライター。
J-POPシンガーとしての活動再開を切に願います。
→ ■ アンジェラ・アキ なう!
■ グッドタイムズ & バッドタイムズ - 佐野元春
聴くほどに何かを考えさせられる佐野元春の曲は、秋の入口にぴったり。
→ ■ 名曲のもとに名歌詞あり! ~ 心に刺さる名歌詞? ~
→ ■ 佐野元春の3枚のALBUM
■ LONG ISLAND BEACH - 杏里(ANRI)
個人的には、杏里を代表する名バラード。
~ 急いで寒くなるの 夕暮れは 結んだTシャツほどく ~
夏の終わり感ばりばり。
極めつけはこれかな? ↓
ALBUM 『Heaven Beach』(1982) - 杏里(ANRI)
1982年11月21日On Saleの4thアルバム。
小林武史、角松敏生、二弓などが参画して一気にリゾート感を強めた。
これといったヒット曲が出ていないので地味めな作品だが、個人的にはベスト。
1982年秋のリリースなので、ひたすら聴きまくっていたのはおそらく1983年の夏。
30:16~ ラスト3曲(Memorial Story~夏に背を向けて~Heaven Beach)の流れが絶妙すぎる。
とくに、ラストの「Heaven Beach」。
個人的に想い入れがありすぎて(笑)、涙なくして聴けぬ。
→ ■ 杏里の名バラード20曲!
洋楽バージョンはこちらをどーぞ ↓
■ 秋向きの洋楽30曲!
曲を追加し、リンクつなぎなおしてリニューアルUPです。
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2021/08/23・2022/08/30・2023/09/05 UP
もうすぐ9月。すこしく足してリニューアルUPです。
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夏の終わりの名曲をいくつか・・・
なんか、以前もつくった気がするけど、まぁいいか(笑)
重複あったらすみませぬ。
■ 夕陽に別れを告げて〜メリーゴーランド - サザンオールスターズ
個人的にはサザン屈指の名曲。
そして「TSUNAMI」の原曲ではないかと思っている・・・。
原さんのキーボードワークの凄さが伝わってくる名テイク。
■ 海 - サザンオールスターズ
イントロのフレーズ。リバーブの効いたドラムス。複雑なカウンター・メロディ。
むせぶSaxophone、そして桑田さんの色気ただようスキャット。
文句なしの名曲!
1984年の時点で、こんなものすごいメジャー・セブンス曲かましてくるとは、やっぱりハンパな才能じゃないわ。
→ ■ 初期サザンとメガサザン(サザンオールスターズ、名曲の変遷)
→ ■ サザンのセブンス曲
■ Secret Base ~君がくれたもの~ - 茅野愛衣&戸松遥&早見沙織 ACE2013 LIVE
声優系の歌唱レベルはこの頃からすでに高かった。
→ ■ 女神系歌姫-1 【 Angel Voice列伝 01-50 】
→ ■ 女神系歌姫-2 【 Angel Voice列伝 51-100 】
■ Canary - 松田聖子
これ、自作曲って・・・。聖子ちゃんおそるべし。
こんなメロディ、計算づくではなかなか浮かばない。
→ ■ 松田聖子スペシャル & 関ジャム
■ うまく言葉にできないけれど - SoulJa feat. 果山サキ
”セツナ系”には、こういう好メロ曲がたくさんあった。
→ ■ セツナ曲25曲(唐突ですが・・・)
■ 少年時代 - 熊田このは(Covered)
陽水の名曲を別の解釈で歌いあげてしまう。
これがカラバトU-18黄金の世代のオリジナリティ。
→ ■ 熊田このはちゃんのセトリ(&出演記録)-Vol.2
→ ■ 歌のオリジナリティ(カラバトU-18黄金の世代)
■ さよなら夏の日 - 山下達郎
夏歌の巧者だから、夏の終わりの描写もピカ一。
■ YOUR EYES - 山下達郎
これ、達郎屈指の名バラードだと思う。
→ ■ 山下達郎の名曲
→ ■ Ride On Time カバー特集(ザ・カセットテープ・ミュージック)
■ Love Is All / 愛を聴かせて - 椎名恵
洋楽カバーだけど、日本語の歌詞が好アレンジに見事に乗っている。
↓ 洋楽バージョン 「I've Never Been to Me(愛はかげろうのように)」 - Charlene(1977年)
■ 雨のウェンズデイ - 大滝詠一
名手、大滝詠一の夏の終わり歌。
情景が目に浮かぶ。
→ ■ 4つ打ちとグルーヴ (音のスキマ論-0)
■ 思い出は美しすぎて - 八神純子
やっぱり、八神純子のハイトーンは珠玉。
■ Melody For You - 角松敏生 (Summer 4 Rhythm)
角松敏生の曲って、夏歌でもどこかに秋の翳りを帯びているとおもう。
■ Crescent Aventure - 角松敏生
1982年ならではの、余裕かました曲調と風景が浮かぶ歌詞。
~ 過ぎた遊びのしめくくりと 潮風を受けて 閉じたまぶたに・・・ ~
こんな歌詞、なかなか歌えないよ(笑)
→ ■ 場をつくりだす音楽
■ ホノルル・シティ・ライツ - 二名敦子
J-POPのなかではもっとも洋楽(ウェストコーストサウンド)に接近した一人。
→ ■ 切なさを帯びた女性ボーカル10曲
■ 夏の終わりのハーモニー - 井上陽水 & 安全地帯
日本を代表する夏の終わり歌。
つくろうとしてつくれる曲じゃないと思う。
→ ■ 陽水の50年
■ 海のキャトル・セゾン - とみたゆう子
”ミルキーヴォイス”と呼ばれた抜群の美声。爽快感をもちAC系の楽曲にもよく乗っていた。
→ ■ 鈴を転がすような声 ~ 究極のハイトーンボイス ~
■ 【神回】実の妹と一緒に「点描の唄」歌ったら大感動の嵐だった件【Mrs. GREEN APPLE (feat. 井上苑子)】(竹中雄大)
もはや国民的スタンダード曲と化した?名曲だが、歌うとなるとかなりの難易度で名唱はすくない。
これはそんなレア・テイクかと思う。
■ Planetarium(プラネタリウム) - 花たん
バイオリンのように艶立つ花たんのハイトーンはやっぱり唯一無二。
→ ■ 花たんの名テイク
■ 願い - 童子-T feat.YU-A
2009年リリースのセツナ曲。
この頃はこういう曲がトレンドだった。
2000年以前ではおそらくこういう曲はつくれず、今後はこういう曲がメインになっていくかとも思った。
でも、実際は違った。
この路線がメインをとっていたら、2023年までにもっと多くの名曲が生まれていたと思う。
→ ■ ”来る曲” J-POP Female Vers. Part-2
■ One Reason - milet
ここ数年では屈指の好メロ&好リズムのJ-POP。
才能あると思うが・・・。
→ ■ 透明感のある女性ヴォーカル50曲
■ Imaginary Affair - KOTOKO
アニソンを代表する夏の終わりの名曲か。
■ For Our days - 川田まみ(I'VE)
札幌の音楽創作集団「I'VE」でヴォーカルをとっていた。
『そして明日の世界より』OPで、これもかなりのナイスメロ。
独特のビブラートとヒーカップの連打のパフォーマンスで聴き応えあり。
■ 君の知らない物語 (supercell)- くゆり(歌ってみた)
この曲がリリースされた2009年8月。
この頃は、これからますますこういった好メロ&華麗なハイトーンの曲が増えていく(というかメインストリームになる)と思っていた・・・。
クリエイターチーム・supercellのメジャーデビューシングルで、ボーカルにニコ動で人気のガゼルことnagi(やなぎなぎ)を迎えてつくりあげられた夏歌の名曲。
メロ、歌詞、アレンジ、そしてヴォーカルともに卓越した仕上がり。
supercellの曲は「歌い手」のカバーも多い。
くゆりさんは、歌い手のなかでもかなり上位の実力を持っていると思う。
supercellの人気曲「君の知らない物語」を見事に歌いこなし、その卓越した完成度はニコ動のコメント群がよく物語っている。
ときおり繰り出す繊細なビブラートと(ヒーカップじゃない)高音への跳ねが絶品。
■ 私たち - 西野カナ
西野カナの歌声は、夏全開にならないセツナサを秘めている。
それにしても、西野カナの曲って名曲揃いだわ。
→ ■ セツナ曲25曲(唐突ですが・・・)
→ ■ 西野カナ復帰 & 西野カナの名テイク
■ Dive Into Summer - miwa
miwaも素晴らしい才能の持ち主。
2010年頃のセツナ系本流とはちとニュアンスが違うけど、やっぱり切ない。
■ Hello,my friend - 松任谷由実
複合カノン進行の名曲。
大衆路線まっしぐらの頃だけど、やっぱり創ろうと思えば創れる。
そんなことを感じた1曲。
→ ■ 翳りゆく部屋(松任谷由実~私と荒井由実の50年~)
→ ■ 伝説的ミュージシャンの50年 〜ユーミンの名曲〜
■ 片恋日記 - 中村舞子
”切なさを帯びた声”というチョイスなら、中村舞子はトップレベル。
→ ■ 中村舞子の名バラード20曲
■ 滴 - 今井美樹
2009年リリースの『corridor』収録曲。
作詞・作曲:川江美奈子。川江美奈子の曲やバックヴォーカルと今井美樹の相性は抜群。
→ ■ 今井美樹の名バラード25曲!
■ LOVE BRACE - 華原朋美
小室哲哉氏が渾身の名曲の多くを華原朋美に注いだ理由がわかる気がする。
というか、この曲は華原朋美にしか歌えない。
世が世なら、第一線を走りつづけられた希有の実力。
→ ■ 時代を読んだ? 小室哲哉氏
■ Musunde Hiraku - Kalafina
このまま解散で終わらすには、あまりにも惜しい名ユニット。
→ ■ 幻のユニットkalafina
→ ■ FictionJunctionの秘密?
■ Never Ending Summer IV~Prolog - 杉山清貴&オメガトライブ
名手・林哲司作編曲の名曲。
作詞は秋元康。いい歌詞書くと思ってたけどね・・・。
→ ■ グルーヴ&ハイトーン (グルーヴってなに・・・?)
■ Cloudyな午後 - 中原めいこ
中原めいこのこの甘く危険な歌声(笑)は、完コピ不可だと思う。
→ ■ 歌は世につれ
→ ■ 日本にシティ・ポップはなかった??
■ Over and Over - Every Little Thing
持田香織さん、もともとアイドル系だけど歌唱力あり。
David Fosterを思わせるKeyのカウンターメロディが光る、きらびやかかつリリカルな名曲。
もっと売れてもよかったと思う。
■ Story Teller - Kicco
アニソン&ゲーム系では、さりげにこういう名曲がつくられたりする。
意表をつくメロディ展開が魅力。
■ answer - 遥海
歌に魂が乗っている。
いまのJ-POP界では屈指の歌唱力。
→ ■ 希有のシンガー、遥海(草ケ谷遥海)
→ ■ 本当に上手い女性シンガー12人!
■ Endless Story - 伊藤 由奈
インスト陣のパフォーマンスも観客のレスも抜群。
J-POP屈指の名演かと・・・。
→ ■ 圧倒的名演!
■ YES-YES-YES - オフコース
1982年リリース。
こういうフックのあるメロディラインを、この頃の小田氏はよくつくっていた。
↓ そのものずばりの「秋の気配」。
■ 秋の気配 - オフコース
コード
1977年のオフコース・サウンド。
すでにメジャー・セブンスやハーフディミニッシュが効果的に使われている。
■ 稲垣潤一 - 夏のクラクション
このグルーヴ感!
シティ・ホップスの名曲として再評価されている理由がわかる。
→ ■ 「シティ・ポップ」って?
■ 二人の夏 - ZARD
坂井泉水さんならではの切ない歌声が活きる、ZARDの隠れた名曲。
■ This Love - Angela Aki
日本が生んだ類いまれなシンガー・ソングライター。
J-POPシンガーとしての活動再開を切に願います。
→ ■ アンジェラ・アキ なう!
■ グッドタイムズ & バッドタイムズ - 佐野元春
聴くほどに何かを考えさせられる佐野元春の曲は、秋の入口にぴったり。
→ ■ 名曲のもとに名歌詞あり! ~ 心に刺さる名歌詞? ~
→ ■ 佐野元春の3枚のALBUM
■ LONG ISLAND BEACH - 杏里(ANRI)
個人的には、杏里を代表する名バラード。
~ 急いで寒くなるの 夕暮れは 結んだTシャツほどく ~
夏の終わり感ばりばり。
極めつけはこれかな? ↓
ALBUM 『Heaven Beach』(1982) - 杏里(ANRI)
1982年11月21日On Saleの4thアルバム。
小林武史、角松敏生、二弓などが参画して一気にリゾート感を強めた。
これといったヒット曲が出ていないので地味めな作品だが、個人的にはベスト。
1982年秋のリリースなので、ひたすら聴きまくっていたのはおそらく1983年の夏。
30:16~ ラスト3曲(Memorial Story~夏に背を向けて~Heaven Beach)の流れが絶妙すぎる。
とくに、ラストの「Heaven Beach」。
個人的に想い入れがありすぎて(笑)、涙なくして聴けぬ。
→ ■ 杏里の名バラード20曲!
洋楽バージョンはこちらをどーぞ ↓
■ 秋向きの洋楽30曲!
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■ 志木開運・招福七社参り-2
4.宿氷川神社の「武蔵三氷川」について、追記しました。
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2021/05/12 UP
こちらのサイトで以前からその存在は知っていたものの、詳細不明だった神社参り。
■ 志木開運・招福七社参り-1からのつづきです。
4.宿氷川神社
「猫の足あと」様
埼玉県志木市上宗岡2-2-34
御祭神:須佐之男大神、奇稲田姫大神、大己貴大神
御利益:心身安穏
旧社格:村社、神饌幣帛料供進神社
元別当:青龍山 千光寺(志木市上宗岡)
授与所:水宮神社授与所(富士見市水子1762-3)※常時授与かは不明
朱印揮毫:宿氷川神社 直書(筆書)
境内掲示資料によると、宿(しゅく)氷川神社は上ノ氷川神社とも通称され、千光寺を中興した権大僧都善海(権大僧都青海とも)が、高鼻の武蔵國一の宮氷川神社を分祀して承暦二年(1078年)創建したといわれます。
爾来、千光寺の管理下に置かれ、宗岡上組・見次組の産土神として敬仰されてきました。
伝承では、観応二年(1351年)、宿氷川神社にあった御神体の茶臼を二つに分けて年号を刻み、下石は当社の本殿下の土中に鎮めとして埋納、上石は下ノ氷川神社の神殿の床下に鎮めとして分祀埋納し、真上にあたる社殿内に幣帛のご神体を祀って下ノ氷川神社が創祀されたと伝わり、下ノ氷川神社は宿氷川神社と向かい合うように北面して建てられ氏子の村人を守るとされています。
明治維新後には村社に列格、明治22年に字袋の無格杜稲荷神社を合祀したといいます。
昭和8年に拝殿、幣殿、覆殿を新築し、昭和18年3月に神饌幣帛料供進神社に指定されています。
志木市内には上ノ氷川神社と呼ばれる当社、中ノ氷川神社と呼ばれる産財氷川神社、そして下ノ氷川神社が鎮座し、いずれも「志木開運・招福七社参り」の対象となっています。
三社の氷川神社となると、どうしても武蔵一ノ宮(大宮氷川神社)レイラインや武蔵三氷川を思い起こします。
武蔵一ノ宮(大宮氷川神社)レイラインとは、高鼻の大宮氷川神社、三室の氷川女體神社、中川の中山神社(中氷川神社)がこちらのWebの三社所在図のとおり、旧見沼をからめとるかのようにほぼ一直線に並び、中川の中山神社からみると大宮氷川神社は夏至の日没の場所、三室の氷川女體神社は冬至の日の出の場所に当たるという神社配置をいいます。
中川の中氷川神社が低地にあり、高鼻の大宮氷川神社、三室の氷川女體神社が高台にあることを考えあわせると、この三社の配置はたしかに暦歴(自然暦)に関係する可能性があると思います。
(こちらのWebやこちらのWebで鋭い考察を展開されています。)
この三社は古来から父母と子の関係とみなす説があります。
●高鼻の大宮氷川神社の主祭神は須佐之男命で父上(男体社)
●三室の氷川女體神社の主祭神は奇稲田姫命で母上(女体社)
●中川の中山神社(中氷川神社/氷川簸王子神社)の主祭神は大己貴命で御子(氷王子社)
【写真 上(左)】 武蔵一ノ宮(大宮氷川神社)の御朱印
【写真 下(右)】 氷川女體神社の御朱印
【写真 上(左)】 中山神社(中氷川神社/氷川簸王子神社)の御朱印
【写真 下(右)】 中山神社(中氷川神社/氷川簸王子神社)
武蔵三氷川は、ふつう下記3社をいうようです。
・武蔵一ノ宮(大宮氷川神社) (さいたま市大宮区)
・中氷川神社 (埼玉県所沢市山口)
・奥氷川神社(上氷川神社) (東京都奥多摩町氷川)
【写真 上(左)】 武蔵一ノ宮(大宮氷川神社)の御朱印
【写真 下(右)】 中氷川神社の御朱印
【写真 上(左)】 奥氷川神社(上氷川神社)の御朱印
【写真 下(右)】 奥氷川神社(上氷川神社)
なお、武蔵三氷川について「一直線に並んでいるともいわれる。」というWeb記事がやたらに目立ちますが、実際には一直線ではありません。
Google マップで直線距離を当たってみると、
一ノ宮-奥氷川が49.58㎞、一ノ宮-所沢中氷川が23.62㎞、所沢中氷川-奥氷川が30.24㎞
一ノ宮-奥氷川が49.58㎞、一ノ宮-三ヶ島中氷川が25.25㎞、三ヶ島中氷川-奥氷川が27.20㎞で、いずれも二等辺三角形にもなっていません。
こちらの記事にもあるとおり、地図で調べればすぐわかることですが、それをせずに安易に孫引きしてしまったからかもしれません。
はなしを志木の氷川三社に戻してみると、宿氷川(上氷川)-産財氷川(中氷川)が1.31㎞、産財氷川(中氷川)-下氷川が1.60㎞、下氷川-宿氷川(上氷川)が2.42㎞で、こちらも二等辺三角形になっていません。
三社の御祭神は、いずれも須佐之男大神、奇稲田姫大神、大己貴大神で、三社それぞれに親子が揃われているかたちとなっています。
また、入間郡誌には「(宗岡村)は幕末の頃上中下三邑各独立の一村となる(中略)明治十年三邑聯合して、一村に復し、遂に大字の別を失ひたれど、今日も普通には上中下三組の名を用いて、村内小邑制とせり。」とあるので、氷川神社の冠称の上・中・下は村名ないし組名に由来するものかもしれません。
なので、三社揃っているとはいえ、武蔵一ノ宮(大宮氷川神社)レイラインに安易に牽強付会はできないかと思います。
ただし、氷川神社は水辺とのかかわりが強く、宿氷川(上氷川)と下氷川が新河岸川のそば、産財氷川(中氷川)が荒川沿いに鎮座され、宗岡エリアを囲む三角形を形成していることはなにがしかの意味があるのかもしれません。
(宗岡の地は荒川と新河岸川にはさまれた低地で、入間郡誌には「土地低平、水田に富む。水害の恐あり」「水害頻繁なりし」とあるので、水害防除のご利益が切に求められていたのではないでしょうか。)
〔追記〕
『埼玉の神社/埼玉県神社庁刊』によると、「宿氷川神社(上ノ氷川神社=当社)の祭神は素戔嗚尊・奇稲田姫命・大己貴命の三柱である。書類の上では主祭神は素戔嗚尊で、あとの二柱は武蔵一宮氷川神社に倣って配祀された形になっているが、昔からこの三柱は当社の祭神であるとされ、中でも女神である奇稲田姫命が主神であるため、当社の祭礼には御輿などは出さず、静かに祭典を行うという。一方、下宗岡の氷川神社(下ノ宮氷川神社)の氷川神社も当社と同じ三柱を祀るが、そちらは主神が素戔嗚尊であるため、祭礼には御輿が勇壮に渡御するのが習い」とあります。
上ノ氷川神社の主祭神が奇稲田姫命、下ノ宮氷川神社の主祭神が素戔嗚尊ということになり、これで産財氷川神社(中ノ氷川神社)の主祭神が大己貴命(氷王子社)であると父母と子の三氷川が成立しますが、産財氷川神社(中ノ氷川神社)の主祭神は不明です。
【写真 上(左)】 千光寺本堂
【写真 下(右)】 千光寺堂宇
元別当の青龍山 千光寺と相並ぶかたちで鎮座します。
【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 夫婦和合の狛犬
社頭に木製の両部鳥居で「氷川神社」の扁額が掲げられています。
右手には「村社 氷川神社」の社号標。
そのさき右手には夫婦和合の狛犬が鎮座しています。
参道階段下右手に手水舎。石灯籠一対、狛犬一対、石灯籠一対の先に入母屋造銅板葺平入り流れ向拝の拝殿。
【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 拝殿
【写真 上(左)】 斜めからの拝殿
【写真 下(右)】 向拝
向拝は水引虹梁で両木鼻は獅子、中備に蟇股で正面桟唐戸(格子)。
本殿は覆屋に囲まれているので様式は不明です。
【写真 上(左)】 社殿
【写真 下(右)】 稲荷社
拝殿の向かって右には、石造明神鳥居を構えた一間社流造の稲荷社が鎮座しています。
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宿氷川神社のすぐそばに、道興准后歌碑があります。
道興准后(永享二年(1430年)-文亀元年(1501年)/『実隆公記』)は、関白近衛房嗣の子で、本山派修験の総本山聖護院門跡に任ぜられ準后(准三宮)の宣下を受けられています。
将軍足利義政や義尚の護持僧として信任あつく、詩歌をよくする風流人としても知られていました。
また、東国巡遊の紀行文『廻国雑記』の作者としても知られています。
廻国雑記の絵図(いろは橋たもとの掲出資料)
道興は文明十八年(1486年)から翌年にかけて聖護院末寺の掌握を目的としたとされる東国巡遊の際、一時当地の十玉坊(現・志木市幸町三丁目に比定説あり)を拠点とされ、付近の大石信濃守の館(柏の城)、野火止、野寺、膝折、浜崎などに足跡を残されています。
【写真 上(左)】 歌碑
【写真 下(右)】 歌碑の説明板
歌碑の歌は、
~ 夕けぶり あらそう暮をみせてけり 我家々のむね岡の宿 ~
室町時代のむかしに、「宗岡」の地名が詠み込まれた貴重な歌として評価されています。
御朱印は水宮神社でタイミングが合えば拝受できます。
5.産財氷川神社
埼玉県神社庁Web
志木市Web資料
「猫の足あと」様
埼玉県志木市中宗岡2-29-12
御祭神:須佐之男大神、奇稲田姫大神、大己貴大神
御利益:縁結び
旧社格:村社、旧宗岡村鎮守
元別当:蓮華山 実蔵院(志木市中宗岡)
授与所:水宮神社授与所(富士見市水子1762-3)※常時授与かは不明
朱印揮毫:産財氷川神社 直書(筆書)
荒川の堤防そばに鎮座する氷川神社。
境内説明板および新編武蔵風土記稿によると、永享年間(1429-1441年)に武蔵国一の宮氷川神社を分祀して創建、江戸期には旧宗岡村の鎮守社でした。
また、「猫の足あと」様の情報(出典:埼玉の神社)では「中宗岡に鎮まる当社は村の開発が進展する中で、既に村内の上下で祀られていた氷川神社に倣って勧請されたものと推測され、『明細帳』によれば、古老の口碑に永享年間(一四二九〜四一)に高鼻村(現大宮市高鼻)の氷川神社から分霊して産土神とした。」とあります。
【写真 上(左)】 鳥居
【写真 下(右)】 鳥居扁額
推測の域を出ないのですが、旧宗岡村は荒川と新河岸川に挟まれた低平地で、どちらの川が氾濫してもおそらく被害を免れません。
氷川神社に水害防除を祈ったとすると、宿氷川(上氷川)と下氷川が新河岸川沿いに鎮座しているのに対し、荒川側には氷川神社がなかったので、荒川の鎮めとして産財氷川(中氷川)をお祀りしたのかもしれません。
荒川の堤防を背に、宗岡地区に向けて設けられた社殿は、たしかに荒川の鎮めとしてふさわしい存在感を宿しています。
御嶽山は氷川神社の玉垣の外にあるので、正確には境外社かもしれませんが、リーフレットには「摂社」とあります。
この御嶽山はかなりかなり険しい擬岳で、荒川の堤防沿いにさほど距離を置かずに冨士塚(浅間神社)と御嶽山(当社)がみられるという、興味ぶかいかたちになっています。
市内には敷島神社の境外社に御嶽神社(本町2-15)があり、「天保二年(1831年)に実明講社(御嶽講の一派)の人々が木曽御嶽神社を勧請し創建」(境内説明板)とあります。
当初はこちらの御嶽山と実明講社との関係を考えましたが、どうやら異なる流れのようです。
『しきふるさと史話/志木市教育委員会刊』には、「宗岡村の一山講(いっさんこう)によって明治二十五年に築造され」とあります。
同資料によると、一山講開祖の井原一山行者は与野市の人で、木曽御嶽講開祖の一人とされ、各地の山岳で修行され木曽御嶽山で荒行を積まれた後、江戸と与野に御嶽大神を勧請した一山講を結ばれ、数万の信者を集めたとあります。
宗岡村に生まれ、一山行者の教えを受けた知足行者が宗岡一山講を結ばれたと伝わります。
また、同資料には、かつて中宗岡に松浦利平(普寛)行者が開かれた普寛堂を中心に御嶽教の信仰が盛んだったとの記述があり、この中宗岡の地は御嶽信仰との所縁がふかい土地柄であったことがうかがわれます。
リーフレットによると御嶽神社の御祭神は国常立大神、大己貴大神、少名彦名大神、頂上の石碑には御嶽山大神(中央)、八海山大神(右)、三笠山大神(左)と刻まれています。
荒川の堤防のすぐそばにありますが、このあたりの荒川の河川敷はとても広いので、荒川の流れまでは600mほどの距離があります。
【写真 上(左)】 境内
【写真 下(右)】 拝殿と御嶽塚
【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 拝殿向拝
石造の台輪鳥居で「氷川神社」の扁額。
境内は木々が少なく明るく開け、右手は御嶽神社(御嶽山/御嶽塚)です。
参道右に手水舎。拝殿までに石灯籠二対。
拝殿はこのあたりではめずらしい桟瓦葺で入母屋造平入り流れ向拝。
向拝柱はありますが木鼻はなく、海老虹梁も直線的で全体にシンプルな構成。正面桟唐戸。
【写真 上(左)】 社殿全容
【写真 下(右)】 本殿の向拝
覆屋に覆われた本殿はすばらしいものです。
境内説明板によると「造営年代は定かではありませんが、明治二年に着工し、同十四年に完成」とあります。
本殿は一間社流造りでケヤキ材使用とのこと。
廻縁腰組の斗栱がすばらしく、知識の浅い筆者には何手先なのか見当がつきません。
【写真 上(左)】 本殿の水引虹梁
【写真 下(右)】 廻縁腰組の斗栱
身舎まわりの斗栱や彫刻も手がこんでおり、この本殿は志木市指定文化財に指定されています。
本殿向かって左の神明鳥居の先に、切妻造妻入のお社と石の祠が鎮座しています。
切妻造妻入のお社御嶽社、石の祠は八坂社とみられます。
(リーフレット記載の「境内社 八坂神社」はこちらの八坂社ではないでしょうか。)
【写真 上(左)】 御嶽塚
【写真 下(右)】 御嶽大神の石碑
【写真 上(左)】 不動明王
【写真 下(右)】 山頂の石碑
御嶽神社はこんもりと盛り上がった擬岳で、山容にくらべて石碑類が多く賑やかな印象。
正面に石像の不動明王の坐像。両脇に矜羯羅、制吒迦の両童子を従えて整った像容です。
その横に「御嶽大神」の石碑があり、御嶽神社であることを示しています。
御朱印は水宮神社でタイミングが合えば拝受できます。
6.下ノ宮氷川神社
埼玉県神社庁Web
「猫の足あと」様
埼玉県志木市下宗岡4-7-43
御祭神:須佐之男大神、奇稲田姫大神、大己貴大神
御利益:強運厄除
旧社格:
元別当:観音寺
授与所:水宮神社授与所(富士見市水子1762-3)※常時授与かは不明
朱印揮毫:下ノ宮氷川神社 直書(筆書)
下ノ氷川神社は、宿(上ノ氷川)神社を分祀して観応二年(1351年)に創建された神社です。
伝承には、宿(上ノ氷川)氷川神社にあった御神体の茶臼を二つに分けて年号を刻み、下石は宿(上ノ氷川)氷川神社の本殿下の土中に鎮めとして埋納、上石は当社の神殿の床下に鎮めとして分祀埋納し、真上にあたる社殿内に幣帛のご神体を祀って創祀されたとあり、下ノ氷川神社は宿氷川神社と向かい合うように北面して建てられ氏子の村人を守るとされています。
【写真 上(左)】 あたりの景色
【写真 下(右)】 まむしに注意!
下宗岡の集落の外れ、朝霞市との市境に近いところ、新河岸川の支流がそばを流れる人家も少ない低地で、イメージ的には朝霞・内間木地区に近いものがあります。
市域が狭く人口密度の高い志木市内に、このような場所が残っているとは、ある意味おどろきです。
このような村はずれの低地に分祀して創祀ということは、やはり水害防除の願いが強かったのかもしれません。
『埼玉の神社/埼玉県神社庁刊』には、「当社の拝殿には、数多くの絵馬が奉納されている。(中略)「水難除け祈願」は、土地の官有化によって水神を祀れなくなった下組の人々が、代わりに水神の幣束を絵馬に描いて鎮守に奉納することによって水難を避けようとしたもの」とあり、やはり水難防除の祈願がかけられていたことがわかります。
【写真 上(左)】 鳥居と参道
【写真 下(右)】 鳥居扁額
【写真 上(左)】 境内
【写真 下(右)】 水神社
【写真 上(左)】 稲荷社
【写真 下(右)】 参道と拝殿
上社、中社とちがい木々が茂って荘厳な雰囲気、北面のお社ということもあり、引き締まった気を感じます。
石造の明神鳥居に「氷川神社」の扁額。
参道左手に手水舎。
社頭付近に水神社の境内社が鎮座されます。
その先の朱い銅板葺の一間社流造のお社には「正一位新田稲荷大神」の扁額が掲げられていました。
【写真 上(左)】 狛犬1
【写真 下(右)】 狛犬2
階段を数段登って狛犬一対。この狛犬は四つ脚立ちでかなり個性的なお姿です。
【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 社殿
正面の拝殿は入母屋造銅板葺平入り流れ向拝で、端正な水引虹梁を構えています。
木鼻は雲形、中備えに蟇股、正面は格子戸、軒天は二軒繁垂木です。
【写真 上(左)】 本殿
【写真 下(右)】 八坂神社
本殿は切妻平入りで、拝殿と連接しています。
本殿よこに護国神社と疱瘡神、拝殿手前よこには八坂神社が鎮座しています。
疱瘡神は疱瘡(天然痘)除け、八坂神社は疫病除けとして祀られているとされ、毎年七月には八坂神社の祭礼である「天王様」が催され「下組下の宮囃子」が奉奏されます。
御朱印は水宮神社でタイミングが合えば拝受できます。
7.(中宗岡)天神社
埼玉県神社庁Web
「猫の足あと」様
埼玉県志木市中宗岡1-4-36
御祭神:菅原道真公
御利益:受験合格
旧社格:村社
元別当:蓮華山 実蔵院(志木市中宗岡)
授与所:水宮神社授与所(富士見市水子1762-3)※常時授与かは不明
朱印揮毫:宗岡天神社 直書(筆書)
志木市中宗岡に御鎮座の天神社で、境内説明板などによると、寛永三年(1626年)、江戸の湯島天神を分祀したと伝えられ、近世初頭にこの地を支配し後に名主役を務めていた木下氏の先祖にあたる山口大膳が山口(現・所沢市山口)から来住した際に氏神として分祀という説もあり定説はないようです。
【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 鳥居
社頭はいろは通りに面し、そこから露地の中を細長く参道が延びています。
路地を抜けると一気に境内が広がります。
【写真 上(左)】 八坂神社の鳥居
【写真 下(右)】 左が天神社、右が八坂神社
向かって左手に天神社の石造明神鳥居、右手に八坂神社の石造神明鳥居で、おのおの参道の先に拝殿を配して二社構成の神社のように見えます。
左手の石造明神鳥居には「天神社」の扁額がかかります。
参道中ほどに手水舎。
右手に子取り、左手に玉取りの整った狛犬。
【写真 上(左)】 狛犬
【写真 下(右)】 天神社の社殿
数段登って石灯籠一対を配し、正面に入母屋造桟瓦葺平入りの拝殿。
水引虹梁はなく、身舎は格子で覆われ寺院(堂宇)建築のようです。
見上げに「天神社」の扁額。
【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 拝殿扁額
切妻造銅板葺平入りの本殿が拝殿に連接しています。
【写真 上(左)】 八坂神社
【写真 下(右)】 八坂神社の扁額
右手の社殿は八坂神社。
切妻造桟瓦葺平入りで向拝上部のみ格子で、見上げに「八坂神社」の扁額を掲げています。
桟瓦葺二棟のコントラストが絶妙で、見応えがあります。
八坂神社の本殿は、拝殿から距離を置いて御鎮座。
天神社と八坂神社の間に鳥居とお社と石祠の二社が鎮座します。
切妻造妻入のお社は稲荷社とみられ、そちらの向かって右の石の祠にはおそらく立像の弁財天が祀られています。
また、本殿の向かって左には一間社流造のお社二社(御祭神不明)、水神宮の石碑と「高光美玉姫命」の石碑が建立されています。
リーフレットには下記のお社が記載されています。
ご本殿(天照大御神、八幡大神、春日大神、菅原道真公(天神様))、八坂神社、阿夫利神社、御嶽神社、伊都岐島神社、大杉神社、水神社、稲荷神社、弁材天。
『埼玉の神社/埼玉県神社庁刊』には「当社の本殿には社が三社安置されている。そのうち中央が天神社、向かって左側が春日社、右側が八幡社」とあります。
同資料の境内図によると、本殿向かって左側に、大杉神社(荒川砂採取組合による再新築)、伊都岐島神社(「ふかん様」と呼ぶ)、大山阿夫利神社、水神宮とあります。
『しきふるさと史話/志木市教育委員会刊』によると、中宗岡には「大講義高光美玉姫命」と刻まれた碑があり、こちらは御嶽教の清水スミ行者の神霊碑とあります。
同書に、名声高い百村の普寛行者を中宗岡の地に招いたのが清水スミ行者とあるので、上記の「伊都岐島神社(「ふかん様」と呼ぶ)」という記載と符合します。
また、同書には「大山(の)御師佐藤織部の先祖が舘村佐藤家の出身だったこともあって、志木市域での布教活動はかなり活発だったようで、引又からは毎年代参者が登拝している。」ともあり、その流れから当社の境内に大山阿夫利神社が祀られているのかもしれません。
『埼玉の神社/埼玉県神社庁刊』に「当社の境内にある『あんば様』こと大杉神社は、荒川の秋ヶ瀬から採取された砂を運ぶ砂船の船頭をしていた人たちが昭和十年に字原に建立」「同三十年に荒川砂採取株式会社が解散してからは管理上の問題から当社の境内に移された。」とあります。
これで、各種の資料と現地のお社・碑の配置がほぼ合致することになります。
【写真 上(左)】 八坂神社元宮社頭
【写真 下(右)】 八坂神社元宮
境外社として八坂神社元宮があり、そちらの境内由緒書には「享和三年(1803年)、当地に祀られ悪疫、病魔退散を願い氏子宗岡邑中組(現三区・四区)一帯で天王祭(祇園際)が行われはじめた、近年は御輿御渡など盛大に行われている. その元宮」とありました。
宗岡エリアは新河岸川対岸の本町や柏町に比べて高台が少ないですが、当社地は一段高くなっており、引又河岸(いろは橋/新河岸川と柳瀬川の合流点)を挟んで敷島神社と相対しているようにもみえます。
ともに水神宮が祀られ、天神社には伊都岐島神社(御祭神:宗像三女神)や弁財天社も祀られているので、水や川に対する鎮護の意味合いもあるのかもしれません。
これで志木開運・招福七社参りのご紹介はおわりです。
多彩な神社や御祭神をお参りできる神社巡りで、寺社に興味のある方であれば御朱印を抜きにしても充分楽しめるかと思います。
【 BGM 】
■ ただ泣きたくなるの - 国分友里恵
■ 風と花と光と - 世理奈
■ Hello,my friend - 松任谷由実
■ 滴 - 今井美樹
■ 夏空の下 - やなわらばー
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2021/05/12 UP
こちらのサイトで以前からその存在は知っていたものの、詳細不明だった神社参り。
■ 志木開運・招福七社参り-1からのつづきです。
4.宿氷川神社
「猫の足あと」様
埼玉県志木市上宗岡2-2-34
御祭神:須佐之男大神、奇稲田姫大神、大己貴大神
御利益:心身安穏
旧社格:村社、神饌幣帛料供進神社
元別当:青龍山 千光寺(志木市上宗岡)
授与所:水宮神社授与所(富士見市水子1762-3)※常時授与かは不明
朱印揮毫:宿氷川神社 直書(筆書)
境内掲示資料によると、宿(しゅく)氷川神社は上ノ氷川神社とも通称され、千光寺を中興した権大僧都善海(権大僧都青海とも)が、高鼻の武蔵國一の宮氷川神社を分祀して承暦二年(1078年)創建したといわれます。
爾来、千光寺の管理下に置かれ、宗岡上組・見次組の産土神として敬仰されてきました。
伝承では、観応二年(1351年)、宿氷川神社にあった御神体の茶臼を二つに分けて年号を刻み、下石は当社の本殿下の土中に鎮めとして埋納、上石は下ノ氷川神社の神殿の床下に鎮めとして分祀埋納し、真上にあたる社殿内に幣帛のご神体を祀って下ノ氷川神社が創祀されたと伝わり、下ノ氷川神社は宿氷川神社と向かい合うように北面して建てられ氏子の村人を守るとされています。
明治維新後には村社に列格、明治22年に字袋の無格杜稲荷神社を合祀したといいます。
昭和8年に拝殿、幣殿、覆殿を新築し、昭和18年3月に神饌幣帛料供進神社に指定されています。
志木市内には上ノ氷川神社と呼ばれる当社、中ノ氷川神社と呼ばれる産財氷川神社、そして下ノ氷川神社が鎮座し、いずれも「志木開運・招福七社参り」の対象となっています。
三社の氷川神社となると、どうしても武蔵一ノ宮(大宮氷川神社)レイラインや武蔵三氷川を思い起こします。
武蔵一ノ宮(大宮氷川神社)レイラインとは、高鼻の大宮氷川神社、三室の氷川女體神社、中川の中山神社(中氷川神社)がこちらのWebの三社所在図のとおり、旧見沼をからめとるかのようにほぼ一直線に並び、中川の中山神社からみると大宮氷川神社は夏至の日没の場所、三室の氷川女體神社は冬至の日の出の場所に当たるという神社配置をいいます。
中川の中氷川神社が低地にあり、高鼻の大宮氷川神社、三室の氷川女體神社が高台にあることを考えあわせると、この三社の配置はたしかに暦歴(自然暦)に関係する可能性があると思います。
(こちらのWebやこちらのWebで鋭い考察を展開されています。)
この三社は古来から父母と子の関係とみなす説があります。
●高鼻の大宮氷川神社の主祭神は須佐之男命で父上(男体社)
●三室の氷川女體神社の主祭神は奇稲田姫命で母上(女体社)
●中川の中山神社(中氷川神社/氷川簸王子神社)の主祭神は大己貴命で御子(氷王子社)
【写真 上(左)】 武蔵一ノ宮(大宮氷川神社)の御朱印
【写真 下(右)】 氷川女體神社の御朱印
【写真 上(左)】 中山神社(中氷川神社/氷川簸王子神社)の御朱印
【写真 下(右)】 中山神社(中氷川神社/氷川簸王子神社)
武蔵三氷川は、ふつう下記3社をいうようです。
・武蔵一ノ宮(大宮氷川神社) (さいたま市大宮区)
・中氷川神社 (埼玉県所沢市山口)
・奥氷川神社(上氷川神社) (東京都奥多摩町氷川)
【写真 上(左)】 武蔵一ノ宮(大宮氷川神社)の御朱印
【写真 下(右)】 中氷川神社の御朱印
【写真 上(左)】 奥氷川神社(上氷川神社)の御朱印
【写真 下(右)】 奥氷川神社(上氷川神社)
なお、武蔵三氷川について「一直線に並んでいるともいわれる。」というWeb記事がやたらに目立ちますが、実際には一直線ではありません。
Google マップで直線距離を当たってみると、
一ノ宮-奥氷川が49.58㎞、一ノ宮-所沢中氷川が23.62㎞、所沢中氷川-奥氷川が30.24㎞
一ノ宮-奥氷川が49.58㎞、一ノ宮-三ヶ島中氷川が25.25㎞、三ヶ島中氷川-奥氷川が27.20㎞で、いずれも二等辺三角形にもなっていません。
こちらの記事にもあるとおり、地図で調べればすぐわかることですが、それをせずに安易に孫引きしてしまったからかもしれません。
はなしを志木の氷川三社に戻してみると、宿氷川(上氷川)-産財氷川(中氷川)が1.31㎞、産財氷川(中氷川)-下氷川が1.60㎞、下氷川-宿氷川(上氷川)が2.42㎞で、こちらも二等辺三角形になっていません。
三社の御祭神は、いずれも須佐之男大神、奇稲田姫大神、大己貴大神で、三社それぞれに親子が揃われているかたちとなっています。
また、入間郡誌には「(宗岡村)は幕末の頃上中下三邑各独立の一村となる(中略)明治十年三邑聯合して、一村に復し、遂に大字の別を失ひたれど、今日も普通には上中下三組の名を用いて、村内小邑制とせり。」とあるので、氷川神社の冠称の上・中・下は村名ないし組名に由来するものかもしれません。
なので、三社揃っているとはいえ、武蔵一ノ宮(大宮氷川神社)レイラインに安易に牽強付会はできないかと思います。
ただし、氷川神社は水辺とのかかわりが強く、宿氷川(上氷川)と下氷川が新河岸川のそば、産財氷川(中氷川)が荒川沿いに鎮座され、宗岡エリアを囲む三角形を形成していることはなにがしかの意味があるのかもしれません。
(宗岡の地は荒川と新河岸川にはさまれた低地で、入間郡誌には「土地低平、水田に富む。水害の恐あり」「水害頻繁なりし」とあるので、水害防除のご利益が切に求められていたのではないでしょうか。)
〔追記〕
『埼玉の神社/埼玉県神社庁刊』によると、「宿氷川神社(上ノ氷川神社=当社)の祭神は素戔嗚尊・奇稲田姫命・大己貴命の三柱である。書類の上では主祭神は素戔嗚尊で、あとの二柱は武蔵一宮氷川神社に倣って配祀された形になっているが、昔からこの三柱は当社の祭神であるとされ、中でも女神である奇稲田姫命が主神であるため、当社の祭礼には御輿などは出さず、静かに祭典を行うという。一方、下宗岡の氷川神社(下ノ宮氷川神社)の氷川神社も当社と同じ三柱を祀るが、そちらは主神が素戔嗚尊であるため、祭礼には御輿が勇壮に渡御するのが習い」とあります。
上ノ氷川神社の主祭神が奇稲田姫命、下ノ宮氷川神社の主祭神が素戔嗚尊ということになり、これで産財氷川神社(中ノ氷川神社)の主祭神が大己貴命(氷王子社)であると父母と子の三氷川が成立しますが、産財氷川神社(中ノ氷川神社)の主祭神は不明です。
【写真 上(左)】 千光寺本堂
【写真 下(右)】 千光寺堂宇
元別当の青龍山 千光寺と相並ぶかたちで鎮座します。
【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 夫婦和合の狛犬
社頭に木製の両部鳥居で「氷川神社」の扁額が掲げられています。
右手には「村社 氷川神社」の社号標。
そのさき右手には夫婦和合の狛犬が鎮座しています。
参道階段下右手に手水舎。石灯籠一対、狛犬一対、石灯籠一対の先に入母屋造銅板葺平入り流れ向拝の拝殿。
【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 拝殿
【写真 上(左)】 斜めからの拝殿
【写真 下(右)】 向拝
向拝は水引虹梁で両木鼻は獅子、中備に蟇股で正面桟唐戸(格子)。
本殿は覆屋に囲まれているので様式は不明です。
【写真 上(左)】 社殿
【写真 下(右)】 稲荷社
拝殿の向かって右には、石造明神鳥居を構えた一間社流造の稲荷社が鎮座しています。
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宿氷川神社のすぐそばに、道興准后歌碑があります。
道興准后(永享二年(1430年)-文亀元年(1501年)/『実隆公記』)は、関白近衛房嗣の子で、本山派修験の総本山聖護院門跡に任ぜられ準后(准三宮)の宣下を受けられています。
将軍足利義政や義尚の護持僧として信任あつく、詩歌をよくする風流人としても知られていました。
また、東国巡遊の紀行文『廻国雑記』の作者としても知られています。
廻国雑記の絵図(いろは橋たもとの掲出資料)
道興は文明十八年(1486年)から翌年にかけて聖護院末寺の掌握を目的としたとされる東国巡遊の際、一時当地の十玉坊(現・志木市幸町三丁目に比定説あり)を拠点とされ、付近の大石信濃守の館(柏の城)、野火止、野寺、膝折、浜崎などに足跡を残されています。
【写真 上(左)】 歌碑
【写真 下(右)】 歌碑の説明板
歌碑の歌は、
~ 夕けぶり あらそう暮をみせてけり 我家々のむね岡の宿 ~
室町時代のむかしに、「宗岡」の地名が詠み込まれた貴重な歌として評価されています。
御朱印は水宮神社でタイミングが合えば拝受できます。
5.産財氷川神社
埼玉県神社庁Web
志木市Web資料
「猫の足あと」様
埼玉県志木市中宗岡2-29-12
御祭神:須佐之男大神、奇稲田姫大神、大己貴大神
御利益:縁結び
旧社格:村社、旧宗岡村鎮守
元別当:蓮華山 実蔵院(志木市中宗岡)
授与所:水宮神社授与所(富士見市水子1762-3)※常時授与かは不明
朱印揮毫:産財氷川神社 直書(筆書)
荒川の堤防そばに鎮座する氷川神社。
境内説明板および新編武蔵風土記稿によると、永享年間(1429-1441年)に武蔵国一の宮氷川神社を分祀して創建、江戸期には旧宗岡村の鎮守社でした。
また、「猫の足あと」様の情報(出典:埼玉の神社)では「中宗岡に鎮まる当社は村の開発が進展する中で、既に村内の上下で祀られていた氷川神社に倣って勧請されたものと推測され、『明細帳』によれば、古老の口碑に永享年間(一四二九〜四一)に高鼻村(現大宮市高鼻)の氷川神社から分霊して産土神とした。」とあります。
【写真 上(左)】 鳥居
【写真 下(右)】 鳥居扁額
推測の域を出ないのですが、旧宗岡村は荒川と新河岸川に挟まれた低平地で、どちらの川が氾濫してもおそらく被害を免れません。
氷川神社に水害防除を祈ったとすると、宿氷川(上氷川)と下氷川が新河岸川沿いに鎮座しているのに対し、荒川側には氷川神社がなかったので、荒川の鎮めとして産財氷川(中氷川)をお祀りしたのかもしれません。
荒川の堤防を背に、宗岡地区に向けて設けられた社殿は、たしかに荒川の鎮めとしてふさわしい存在感を宿しています。
御嶽山は氷川神社の玉垣の外にあるので、正確には境外社かもしれませんが、リーフレットには「摂社」とあります。
この御嶽山はかなりかなり険しい擬岳で、荒川の堤防沿いにさほど距離を置かずに冨士塚(浅間神社)と御嶽山(当社)がみられるという、興味ぶかいかたちになっています。
市内には敷島神社の境外社に御嶽神社(本町2-15)があり、「天保二年(1831年)に実明講社(御嶽講の一派)の人々が木曽御嶽神社を勧請し創建」(境内説明板)とあります。
当初はこちらの御嶽山と実明講社との関係を考えましたが、どうやら異なる流れのようです。
『しきふるさと史話/志木市教育委員会刊』には、「宗岡村の一山講(いっさんこう)によって明治二十五年に築造され」とあります。
同資料によると、一山講開祖の井原一山行者は与野市の人で、木曽御嶽講開祖の一人とされ、各地の山岳で修行され木曽御嶽山で荒行を積まれた後、江戸と与野に御嶽大神を勧請した一山講を結ばれ、数万の信者を集めたとあります。
宗岡村に生まれ、一山行者の教えを受けた知足行者が宗岡一山講を結ばれたと伝わります。
また、同資料には、かつて中宗岡に松浦利平(普寛)行者が開かれた普寛堂を中心に御嶽教の信仰が盛んだったとの記述があり、この中宗岡の地は御嶽信仰との所縁がふかい土地柄であったことがうかがわれます。
リーフレットによると御嶽神社の御祭神は国常立大神、大己貴大神、少名彦名大神、頂上の石碑には御嶽山大神(中央)、八海山大神(右)、三笠山大神(左)と刻まれています。
荒川の堤防のすぐそばにありますが、このあたりの荒川の河川敷はとても広いので、荒川の流れまでは600mほどの距離があります。
【写真 上(左)】 境内
【写真 下(右)】 拝殿と御嶽塚
【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 拝殿向拝
石造の台輪鳥居で「氷川神社」の扁額。
境内は木々が少なく明るく開け、右手は御嶽神社(御嶽山/御嶽塚)です。
参道右に手水舎。拝殿までに石灯籠二対。
拝殿はこのあたりではめずらしい桟瓦葺で入母屋造平入り流れ向拝。
向拝柱はありますが木鼻はなく、海老虹梁も直線的で全体にシンプルな構成。正面桟唐戸。
【写真 上(左)】 社殿全容
【写真 下(右)】 本殿の向拝
覆屋に覆われた本殿はすばらしいものです。
境内説明板によると「造営年代は定かではありませんが、明治二年に着工し、同十四年に完成」とあります。
本殿は一間社流造りでケヤキ材使用とのこと。
廻縁腰組の斗栱がすばらしく、知識の浅い筆者には何手先なのか見当がつきません。
【写真 上(左)】 本殿の水引虹梁
【写真 下(右)】 廻縁腰組の斗栱
身舎まわりの斗栱や彫刻も手がこんでおり、この本殿は志木市指定文化財に指定されています。
本殿向かって左の神明鳥居の先に、切妻造妻入のお社と石の祠が鎮座しています。
切妻造妻入のお社御嶽社、石の祠は八坂社とみられます。
(リーフレット記載の「境内社 八坂神社」はこちらの八坂社ではないでしょうか。)
【写真 上(左)】 御嶽塚
【写真 下(右)】 御嶽大神の石碑
【写真 上(左)】 不動明王
【写真 下(右)】 山頂の石碑
御嶽神社はこんもりと盛り上がった擬岳で、山容にくらべて石碑類が多く賑やかな印象。
正面に石像の不動明王の坐像。両脇に矜羯羅、制吒迦の両童子を従えて整った像容です。
その横に「御嶽大神」の石碑があり、御嶽神社であることを示しています。
御朱印は水宮神社でタイミングが合えば拝受できます。
6.下ノ宮氷川神社
埼玉県神社庁Web
「猫の足あと」様
埼玉県志木市下宗岡4-7-43
御祭神:須佐之男大神、奇稲田姫大神、大己貴大神
御利益:強運厄除
旧社格:
元別当:観音寺
授与所:水宮神社授与所(富士見市水子1762-3)※常時授与かは不明
朱印揮毫:下ノ宮氷川神社 直書(筆書)
下ノ氷川神社は、宿(上ノ氷川)神社を分祀して観応二年(1351年)に創建された神社です。
伝承には、宿(上ノ氷川)氷川神社にあった御神体の茶臼を二つに分けて年号を刻み、下石は宿(上ノ氷川)氷川神社の本殿下の土中に鎮めとして埋納、上石は当社の神殿の床下に鎮めとして分祀埋納し、真上にあたる社殿内に幣帛のご神体を祀って創祀されたとあり、下ノ氷川神社は宿氷川神社と向かい合うように北面して建てられ氏子の村人を守るとされています。
【写真 上(左)】 あたりの景色
【写真 下(右)】 まむしに注意!
下宗岡の集落の外れ、朝霞市との市境に近いところ、新河岸川の支流がそばを流れる人家も少ない低地で、イメージ的には朝霞・内間木地区に近いものがあります。
市域が狭く人口密度の高い志木市内に、このような場所が残っているとは、ある意味おどろきです。
このような村はずれの低地に分祀して創祀ということは、やはり水害防除の願いが強かったのかもしれません。
『埼玉の神社/埼玉県神社庁刊』には、「当社の拝殿には、数多くの絵馬が奉納されている。(中略)「水難除け祈願」は、土地の官有化によって水神を祀れなくなった下組の人々が、代わりに水神の幣束を絵馬に描いて鎮守に奉納することによって水難を避けようとしたもの」とあり、やはり水難防除の祈願がかけられていたことがわかります。
【写真 上(左)】 鳥居と参道
【写真 下(右)】 鳥居扁額
【写真 上(左)】 境内
【写真 下(右)】 水神社
【写真 上(左)】 稲荷社
【写真 下(右)】 参道と拝殿
上社、中社とちがい木々が茂って荘厳な雰囲気、北面のお社ということもあり、引き締まった気を感じます。
石造の明神鳥居に「氷川神社」の扁額。
参道左手に手水舎。
社頭付近に水神社の境内社が鎮座されます。
その先の朱い銅板葺の一間社流造のお社には「正一位新田稲荷大神」の扁額が掲げられていました。
【写真 上(左)】 狛犬1
【写真 下(右)】 狛犬2
階段を数段登って狛犬一対。この狛犬は四つ脚立ちでかなり個性的なお姿です。
【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 社殿
正面の拝殿は入母屋造銅板葺平入り流れ向拝で、端正な水引虹梁を構えています。
木鼻は雲形、中備えに蟇股、正面は格子戸、軒天は二軒繁垂木です。
【写真 上(左)】 本殿
【写真 下(右)】 八坂神社
本殿は切妻平入りで、拝殿と連接しています。
本殿よこに護国神社と疱瘡神、拝殿手前よこには八坂神社が鎮座しています。
疱瘡神は疱瘡(天然痘)除け、八坂神社は疫病除けとして祀られているとされ、毎年七月には八坂神社の祭礼である「天王様」が催され「下組下の宮囃子」が奉奏されます。
御朱印は水宮神社でタイミングが合えば拝受できます。
7.(中宗岡)天神社
埼玉県神社庁Web
「猫の足あと」様
埼玉県志木市中宗岡1-4-36
御祭神:菅原道真公
御利益:受験合格
旧社格:村社
元別当:蓮華山 実蔵院(志木市中宗岡)
授与所:水宮神社授与所(富士見市水子1762-3)※常時授与かは不明
朱印揮毫:宗岡天神社 直書(筆書)
志木市中宗岡に御鎮座の天神社で、境内説明板などによると、寛永三年(1626年)、江戸の湯島天神を分祀したと伝えられ、近世初頭にこの地を支配し後に名主役を務めていた木下氏の先祖にあたる山口大膳が山口(現・所沢市山口)から来住した際に氏神として分祀という説もあり定説はないようです。
【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 鳥居
社頭はいろは通りに面し、そこから露地の中を細長く参道が延びています。
路地を抜けると一気に境内が広がります。
【写真 上(左)】 八坂神社の鳥居
【写真 下(右)】 左が天神社、右が八坂神社
向かって左手に天神社の石造明神鳥居、右手に八坂神社の石造神明鳥居で、おのおの参道の先に拝殿を配して二社構成の神社のように見えます。
左手の石造明神鳥居には「天神社」の扁額がかかります。
参道中ほどに手水舎。
右手に子取り、左手に玉取りの整った狛犬。
【写真 上(左)】 狛犬
【写真 下(右)】 天神社の社殿
数段登って石灯籠一対を配し、正面に入母屋造桟瓦葺平入りの拝殿。
水引虹梁はなく、身舎は格子で覆われ寺院(堂宇)建築のようです。
見上げに「天神社」の扁額。
【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 拝殿扁額
切妻造銅板葺平入りの本殿が拝殿に連接しています。
【写真 上(左)】 八坂神社
【写真 下(右)】 八坂神社の扁額
右手の社殿は八坂神社。
切妻造桟瓦葺平入りで向拝上部のみ格子で、見上げに「八坂神社」の扁額を掲げています。
桟瓦葺二棟のコントラストが絶妙で、見応えがあります。
八坂神社の本殿は、拝殿から距離を置いて御鎮座。
天神社と八坂神社の間に鳥居とお社と石祠の二社が鎮座します。
切妻造妻入のお社は稲荷社とみられ、そちらの向かって右の石の祠にはおそらく立像の弁財天が祀られています。
また、本殿の向かって左には一間社流造のお社二社(御祭神不明)、水神宮の石碑と「高光美玉姫命」の石碑が建立されています。
リーフレットには下記のお社が記載されています。
ご本殿(天照大御神、八幡大神、春日大神、菅原道真公(天神様))、八坂神社、阿夫利神社、御嶽神社、伊都岐島神社、大杉神社、水神社、稲荷神社、弁材天。
『埼玉の神社/埼玉県神社庁刊』には「当社の本殿には社が三社安置されている。そのうち中央が天神社、向かって左側が春日社、右側が八幡社」とあります。
同資料の境内図によると、本殿向かって左側に、大杉神社(荒川砂採取組合による再新築)、伊都岐島神社(「ふかん様」と呼ぶ)、大山阿夫利神社、水神宮とあります。
『しきふるさと史話/志木市教育委員会刊』によると、中宗岡には「大講義高光美玉姫命」と刻まれた碑があり、こちらは御嶽教の清水スミ行者の神霊碑とあります。
同書に、名声高い百村の普寛行者を中宗岡の地に招いたのが清水スミ行者とあるので、上記の「伊都岐島神社(「ふかん様」と呼ぶ)」という記載と符合します。
また、同書には「大山(の)御師佐藤織部の先祖が舘村佐藤家の出身だったこともあって、志木市域での布教活動はかなり活発だったようで、引又からは毎年代参者が登拝している。」ともあり、その流れから当社の境内に大山阿夫利神社が祀られているのかもしれません。
『埼玉の神社/埼玉県神社庁刊』に「当社の境内にある『あんば様』こと大杉神社は、荒川の秋ヶ瀬から採取された砂を運ぶ砂船の船頭をしていた人たちが昭和十年に字原に建立」「同三十年に荒川砂採取株式会社が解散してからは管理上の問題から当社の境内に移された。」とあります。
これで、各種の資料と現地のお社・碑の配置がほぼ合致することになります。
【写真 上(左)】 八坂神社元宮社頭
【写真 下(右)】 八坂神社元宮
境外社として八坂神社元宮があり、そちらの境内由緒書には「享和三年(1803年)、当地に祀られ悪疫、病魔退散を願い氏子宗岡邑中組(現三区・四区)一帯で天王祭(祇園際)が行われはじめた、近年は御輿御渡など盛大に行われている. その元宮」とありました。
宗岡エリアは新河岸川対岸の本町や柏町に比べて高台が少ないですが、当社地は一段高くなっており、引又河岸(いろは橋/新河岸川と柳瀬川の合流点)を挟んで敷島神社と相対しているようにもみえます。
ともに水神宮が祀られ、天神社には伊都岐島神社(御祭神:宗像三女神)や弁財天社も祀られているので、水や川に対する鎮護の意味合いもあるのかもしれません。
これで志木開運・招福七社参りのご紹介はおわりです。
多彩な神社や御祭神をお参りできる神社巡りで、寺社に興味のある方であれば御朱印を抜きにしても充分楽しめるかと思います。
【 BGM 】
■ ただ泣きたくなるの - 国分友里恵
■ 風と花と光と - 世理奈
■ Hello,my friend - 松任谷由実
■ 滴 - 今井美樹
■ 夏空の下 - やなわらばー
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■ 夏のFemale J-POP(1980~1990年代)
あまりに暑いので、夏らしいはじける曲とクールダウンできるAOR系を思いつくままに引っ張ってきました。
やっぱりシティ・ポップがメインになってしまう(笑)
■ P・R・E・S・E・N・T - 松田聖子(『Pineapple』1982年収録)
名盤『Pineapple』のA-1を飾る名曲。作曲:来生たかお、編曲:大村雅朗。
1980年代前半の夏のきらきら感全開。
■ 夏をかさねて- 今井美樹(『Bewith』1988年収録)
名盤『Bewith』の1曲目。
柿原朱美のお洒落で透明感あふれる曲調が今井美樹の声質とよく合っている。
イントロのメジャー・セブンスからヴォーカルパートはマイナー・セブンスメインか。(→コード)
・夏が手招きしてる
・はずむパーコレーター
のサスフォーの効きがテクニカル。
■ マンハッタン・キス - 竹内まりや(シングル1992年リリース)
作詞・作曲:竹内まりや/編曲:山下達郎。
1992年にしてなお、こういうAC的エッセンスの佳作を生み出せる、達郎&竹内まりやはやはり凄いと思う。
■ MORNING HARBOUR - とみたゆう子(『DEUX』1982年収録)
名古屋市出身のシンガーソングライターで曲のできも抜群。
「ミルキー・ヴォイス」といわれた甘いながらも透明感にあふれた美声。
これは1982年リリースの名盤『DEUX』収録曲。
■ 天使の絵の具 - 飯島真理(シングルc/w1984年リリース)
活動範囲が多彩でいまいちポジションがよくわからない人だが、国立音楽大学入学の実力派。
1983年、坂本龍一氏プロデュースの1stアルバム『Rosé』でメジャー・デビュー。
1984年、『超時空要塞マクロス』の主題歌「愛・おぼえていますか」がブレーク。
一時、達郎氏のMOON RECORDSに所属し、ロサンゼルスに移住。
現在は帰国して音楽活動を継続している。
達郎氏が注目しただけあって、そのハスキーでキレのある歌声は独特のオリジナリティを備えている。
これは「愛・おぼえていますか」のc/w曲。
■ 瞳はダイアモンド - 鮎川麻弥(『1984』2014年収録)
1984年7月にソロデビューでアニメ系の活動が多かった。
シンガーソングライターで、中山美穂、酒井法子などにも楽曲を提供している。
これは1984年の楽曲をカバーした2014年リリースのアルバム『1984』収録曲。
艶と奥行きのあるハイトーンで、聖子ちゃんVers.よりコンテンポラリーでアダルトな仕上がり。
■ エリア・コード808 - 二名敦子(『Loco Island』1984年収録)
1980年代前半、洋楽にもっとも接近した邦楽アーティストの一人。
とくにサーフ・ロックとの相性がよく、kalapanaやPabloCruiseの曲もよくカバーしていた。
■ Teenage Walk - 渡辺美里(シングル1986年リリース)
初期小室サウンドの名曲で、1986年渡辺美里5枚目のシングル。
イントロの意表をつく転調は、最初聴いたときはなにかの間違いかと思った。
この難曲を破綻することなく歌いこなせる渡辺美里は、やっぱり実力派だと思う。
■ With You - 須藤薫(シングルc/w1993年リリース)
1979年「やさしい都会」(作詞:荒井由実、作曲:筒美京平)でメジャーデビュー。
ユーミンの1980年「SURF&SNOW」にコーラスで参加している。
大瀧詠一や杉真理などとも活動を共にし、当時のシティ・ポップシーンの一角を担う。
これは1993年リリースのシングル「小さな奇跡」のc/w曲。
■ 海になりたくて - 惣領智子(シングル1981年リリース)
東京都出身で国立音楽大学卒の実力派シンガーソングライター。
1991年に歌手の阿部敏郎と再婚し2002年に沖縄に移住。
これは1981年リリースのシングル曲で、当時のアダルトな空気感がよく表現されている。
■ I Wonder What You're Like - MARLENE(『Looking for love』1984年収録)
マリーンも1980年代の夏によく聴かれていた。
フィリピン・マニラ市出身のシンガーで19歳で来日し、1981年にメジャー・デビュー。
これは1984年『Looking for love』収録のミディアム曲で、バックのサウンドはほとんど洋楽。
■ Dream In The Street - 池田典代(『Dream In The Street』1979年収録)
シンガー池田典代の唯一のアルバム『Dream In The Street』(1979年)は、山下達郎、鈴木茂、佐藤博、岡沢茂らが参画したシティ・ポップの伝説的名盤となっている。
まぁ、この曲を聴けば、彼らのセンスがいかに優れていたかがいやでもわかる。
■ 天気雨 - 松任谷由実(荒井由実)
1976年リリースの名盤『14番目の月』収録の人気曲。
松任谷正隆プロデュースで、小気味のよいサウンドに初期ユーミン特有の透明感あるメロが乗るナイス・チューン。
■ 霧雨で見えない - 麗美(1984年)
1984年に松任谷正隆・由実夫妻の全面バックアップでデビューしたハーフのシンガー。
これは1984年リリースのユーミン作曲曲で、この当時のユーミンの才能の冴えが感じられる。
■ Morning Flight - 間宮貴子(『LOVE TRIP』1982年収録)
1982年に井上鑑、山下達郎バンドらが参加したアルバム『LOVE TRIP』をリリース。
当時はさほどメジャーではなかったが、最近のシティ・ポップブームで再評価が進み、とくに「真夜中のジョーク」は有名。
これは『LOVE TRIP』収録のミディアム曲。リズムの跳ね具合やブラスの入り方はまさに1982年。
■ 音楽のような風 - EPO(シングル1985年リリース)
EPOも最近のシティ・ポップブームで再評価が進んでいる。
これは1985年リリースの8枚目のシングルで彼女の代表曲。
■ Slow Nights - 亜蘭知子(『MORE RELAX』1982年収録)
長戸大幸、織田哲郎とともにBeingの創設に参加した初期所属アーティスト。
作詞家、エッセイスト、パーソナリティの活動で知られるが、シンガーとしての実力も一級品。
これは1984年リリースの『MORE RELAX』収録曲で、カシオペア(向谷実)サウンドに繊細で伸びのあるハイトーンがよく乗っている。
■ 世界でいちばん熱い夏 - プリンセス プリンセス(シングル1987年リリース)
コメント不要(笑)
プリプリを超えるガールス・バンドは未だに出ていないと思う。
■ Crystal City - 大橋純子
大橋純子も音楽通から評価の高いアーティスト。
1974年メジャー・デビューし、1970年代後半に多くのヒットを放つ。
この曲でも歌謡曲の範疇では語りきれない才能が聴いてとれる。
■ Fantasy - 中原めいこ (『2時までのシンデレラ-FRIDAY MAGIC』1982年収録)
1980年代前半、夏といえば中原めいこのイメージがあった。
巧みな作曲能力と甘さを帯びた独特の声質で人気が高かったが、1992年歌手活動を休止している。
近年のシティ・ポップブームで再評価が進んでいるひとり。
これは1982年リリースの『2時までのシンデレラ-FRIDAY MAGIC』収録曲で、ディスコとACが絶妙にバランスしている。
■ Candy - 具島直子 (『miss.G』1996年収録)
1996年にアルバム『miss.G』でメジャーデビュー。
曲調は1996年デビューにしてはグルーヴィーでアダルト。
声質も伸びやかで、オリジナルな雰囲気があり貴重な存在だと思う。
これは1996年の1stALBUM『miss.G』からのシングルカット曲。
■ 穏やかな夏の午後 - 今井優子 (『DISCLOSE』1994年収録)
1987年メジャー・デビューで、1990年角松敏生プロデュースのアルバム『DO AWAY』で注目を集める。
清楚なルックスと華麗なハイトーンが魅力で、アダルトなミディアムチューンが多い。
■ マイピュアレディ - 尾崎亜美(シングル1977年リリース)
作曲力に定評がある尾崎亜美の3rdシングルで、アレンジは松任谷正隆。
ゆらぐフェンダー・ローズの音色が、当時の「シティ・ポップ」の空気感を再現している。
■ 月のかほり - 夏川りみ(『てぃだ~太陽・風ぬ想い~』2002年収録)
※2000年代のシンガーですが、好きなので入れてみました。
沖縄県石垣市出身の日本を代表するハイトーン・シンガー。
メジャーデビューからの「南風」(2002/3)、「てぃだ~太陽・風ぬ想い~」(2002/9)、「空の風景」(2003/3)、初期3枚のALBUMのできは抜群だった。
沖縄独特の音階や歌いまわしはそれほど強く出ておらず、さらりと明るい曲調に彼女の伸びやかなハイトーンが乗る内容は、まさに「ヒーリング・ミュージック」そのものだった。
これは「てぃだ~太陽・風ぬ想い~」収録の清涼感あふれる佳曲。
■ Wind&Kiss - 桑江知子(『Mr.COOL』1980年収録)
沖縄出身、渡辺プロダクションからデビューしたシンガー。
「私のハートはストップモーション」(1979年)のイメージが強いが、アルバム曲を聴くと優れた声質とテクニックをもっていることがわかる。
最近では「シティ・ポップ」の流れで再評価も。
■ Fall In Love - 山根麻衣(『SORRY』1981年収録)
1979年ポプコンで入賞しメジャー・デビュー。
はやくから柳ジョージ、鈴木茂、向谷実、斎藤誠(サザン)、村田和人などと活動をともにし、アダルトでクロスオーバーな楽曲が多い。
多彩な人で、福山雅治のプロデュースも。
これは1981年リリースの2ndALBUM『SORRY』収録のミディアム曲。
クルーヴでアダルトなサウンドは、鈴木茂(g)、松下誠(g)、佐藤準(key)、山木秀夫(ds)などの参画が大きい。
■ 二人ぼっちのHeaven - 笠井紀美子(『PERIGO A NOITE』1987年収録)
1971年9月、日清カップヌードルのCMで人気を集めたが、米国をベースにジャズ/ACシーンで活動していたため、日本ではジャズ・シンガーのイメージが強い。
1998年音楽活動から引退。これは後期のレゲエまじりのスロー・チューン。
■ Squall - 松本英子(シングル1999年リリース)
1999年リリースのじつはさりげに人気曲。
福山雅治主演のドラマ『パーフェクトラブ!』の挿入歌として使用された、福山雅治作曲の名曲。
透明感ある美声が、メロディアスなこの曲によく合っている。
■ Behind You - 当山ひとみ(『Sexy Robot』1983年収録)
当山ひとみも1980年代前半、洋楽にもっとも接近した邦楽アーティストの一人だと思う。
中学2年まで沖縄で過ごしたという、バックグラウンドもあるかもしれない。
ゆったりしたAC系のMid~バラードに名曲多数。
■ 都会 - 大貫妙子(『SUNSHOWER』1977年収録)
コアな音楽好きから高い評価を得ている大貫妙子。
これは1977年の2ndALBUM『SUNSHOWER』収録曲。
当時すでにクロスオーバー(のちにフュージョン)という言葉はあったが、それを邦楽で具現化したもっとも早い作品のひとつだと思う。
■ Long Island Beach - 杏里/ANRI(『WAVE』1985年収録)
杏里屈指の名バラードで、当時ほんとうによく聴いた。
1980年代前半ならではの聴き飽きしない洒落たメロディーライン。ブライトだけど切なさも。
いくらでも湧いてきてキリがないので(笑)もうやめます。
■ なぜZ世代は40年前の日本の歌に夢中なのか?
↑ 別に「Z世代は40年前の日本の歌に夢中」でもないと思うけど、1980年代前半の曲がここまで再評価されるとは思ってもいなかった。
【関連記事】
→ ■ ハイトーン女性ヴォーカルの夏歌25曲
やっぱりシティ・ポップがメインになってしまう(笑)
■ P・R・E・S・E・N・T - 松田聖子(『Pineapple』1982年収録)
名盤『Pineapple』のA-1を飾る名曲。作曲:来生たかお、編曲:大村雅朗。
1980年代前半の夏のきらきら感全開。
■ 夏をかさねて- 今井美樹(『Bewith』1988年収録)
名盤『Bewith』の1曲目。
柿原朱美のお洒落で透明感あふれる曲調が今井美樹の声質とよく合っている。
イントロのメジャー・セブンスからヴォーカルパートはマイナー・セブンスメインか。(→コード)
・夏が手招きしてる
・はずむパーコレーター
のサスフォーの効きがテクニカル。
■ マンハッタン・キス - 竹内まりや(シングル1992年リリース)
作詞・作曲:竹内まりや/編曲:山下達郎。
1992年にしてなお、こういうAC的エッセンスの佳作を生み出せる、達郎&竹内まりやはやはり凄いと思う。
■ MORNING HARBOUR - とみたゆう子(『DEUX』1982年収録)
名古屋市出身のシンガーソングライターで曲のできも抜群。
「ミルキー・ヴォイス」といわれた甘いながらも透明感にあふれた美声。
これは1982年リリースの名盤『DEUX』収録曲。
■ 天使の絵の具 - 飯島真理(シングルc/w1984年リリース)
活動範囲が多彩でいまいちポジションがよくわからない人だが、国立音楽大学入学の実力派。
1983年、坂本龍一氏プロデュースの1stアルバム『Rosé』でメジャー・デビュー。
1984年、『超時空要塞マクロス』の主題歌「愛・おぼえていますか」がブレーク。
一時、達郎氏のMOON RECORDSに所属し、ロサンゼルスに移住。
現在は帰国して音楽活動を継続している。
達郎氏が注目しただけあって、そのハスキーでキレのある歌声は独特のオリジナリティを備えている。
これは「愛・おぼえていますか」のc/w曲。
■ 瞳はダイアモンド - 鮎川麻弥(『1984』2014年収録)
1984年7月にソロデビューでアニメ系の活動が多かった。
シンガーソングライターで、中山美穂、酒井法子などにも楽曲を提供している。
これは1984年の楽曲をカバーした2014年リリースのアルバム『1984』収録曲。
艶と奥行きのあるハイトーンで、聖子ちゃんVers.よりコンテンポラリーでアダルトな仕上がり。
■ エリア・コード808 - 二名敦子(『Loco Island』1984年収録)
1980年代前半、洋楽にもっとも接近した邦楽アーティストの一人。
とくにサーフ・ロックとの相性がよく、kalapanaやPabloCruiseの曲もよくカバーしていた。
■ Teenage Walk - 渡辺美里(シングル1986年リリース)
初期小室サウンドの名曲で、1986年渡辺美里5枚目のシングル。
イントロの意表をつく転調は、最初聴いたときはなにかの間違いかと思った。
この難曲を破綻することなく歌いこなせる渡辺美里は、やっぱり実力派だと思う。
■ With You - 須藤薫(シングルc/w1993年リリース)
1979年「やさしい都会」(作詞:荒井由実、作曲:筒美京平)でメジャーデビュー。
ユーミンの1980年「SURF&SNOW」にコーラスで参加している。
大瀧詠一や杉真理などとも活動を共にし、当時のシティ・ポップシーンの一角を担う。
これは1993年リリースのシングル「小さな奇跡」のc/w曲。
■ 海になりたくて - 惣領智子(シングル1981年リリース)
東京都出身で国立音楽大学卒の実力派シンガーソングライター。
1991年に歌手の阿部敏郎と再婚し2002年に沖縄に移住。
これは1981年リリースのシングル曲で、当時のアダルトな空気感がよく表現されている。
■ I Wonder What You're Like - MARLENE(『Looking for love』1984年収録)
マリーンも1980年代の夏によく聴かれていた。
フィリピン・マニラ市出身のシンガーで19歳で来日し、1981年にメジャー・デビュー。
これは1984年『Looking for love』収録のミディアム曲で、バックのサウンドはほとんど洋楽。
■ Dream In The Street - 池田典代(『Dream In The Street』1979年収録)
シンガー池田典代の唯一のアルバム『Dream In The Street』(1979年)は、山下達郎、鈴木茂、佐藤博、岡沢茂らが参画したシティ・ポップの伝説的名盤となっている。
まぁ、この曲を聴けば、彼らのセンスがいかに優れていたかがいやでもわかる。
■ 天気雨 - 松任谷由実(荒井由実)
1976年リリースの名盤『14番目の月』収録の人気曲。
松任谷正隆プロデュースで、小気味のよいサウンドに初期ユーミン特有の透明感あるメロが乗るナイス・チューン。
■ 霧雨で見えない - 麗美(1984年)
1984年に松任谷正隆・由実夫妻の全面バックアップでデビューしたハーフのシンガー。
これは1984年リリースのユーミン作曲曲で、この当時のユーミンの才能の冴えが感じられる。
■ Morning Flight - 間宮貴子(『LOVE TRIP』1982年収録)
1982年に井上鑑、山下達郎バンドらが参加したアルバム『LOVE TRIP』をリリース。
当時はさほどメジャーではなかったが、最近のシティ・ポップブームで再評価が進み、とくに「真夜中のジョーク」は有名。
これは『LOVE TRIP』収録のミディアム曲。リズムの跳ね具合やブラスの入り方はまさに1982年。
■ 音楽のような風 - EPO(シングル1985年リリース)
EPOも最近のシティ・ポップブームで再評価が進んでいる。
これは1985年リリースの8枚目のシングルで彼女の代表曲。
■ Slow Nights - 亜蘭知子(『MORE RELAX』1982年収録)
長戸大幸、織田哲郎とともにBeingの創設に参加した初期所属アーティスト。
作詞家、エッセイスト、パーソナリティの活動で知られるが、シンガーとしての実力も一級品。
これは1984年リリースの『MORE RELAX』収録曲で、カシオペア(向谷実)サウンドに繊細で伸びのあるハイトーンがよく乗っている。
■ 世界でいちばん熱い夏 - プリンセス プリンセス(シングル1987年リリース)
コメント不要(笑)
プリプリを超えるガールス・バンドは未だに出ていないと思う。
■ Crystal City - 大橋純子
大橋純子も音楽通から評価の高いアーティスト。
1974年メジャー・デビューし、1970年代後半に多くのヒットを放つ。
この曲でも歌謡曲の範疇では語りきれない才能が聴いてとれる。
■ Fantasy - 中原めいこ (『2時までのシンデレラ-FRIDAY MAGIC』1982年収録)
1980年代前半、夏といえば中原めいこのイメージがあった。
巧みな作曲能力と甘さを帯びた独特の声質で人気が高かったが、1992年歌手活動を休止している。
近年のシティ・ポップブームで再評価が進んでいるひとり。
これは1982年リリースの『2時までのシンデレラ-FRIDAY MAGIC』収録曲で、ディスコとACが絶妙にバランスしている。
■ Candy - 具島直子 (『miss.G』1996年収録)
1996年にアルバム『miss.G』でメジャーデビュー。
曲調は1996年デビューにしてはグルーヴィーでアダルト。
声質も伸びやかで、オリジナルな雰囲気があり貴重な存在だと思う。
これは1996年の1stALBUM『miss.G』からのシングルカット曲。
■ 穏やかな夏の午後 - 今井優子 (『DISCLOSE』1994年収録)
1987年メジャー・デビューで、1990年角松敏生プロデュースのアルバム『DO AWAY』で注目を集める。
清楚なルックスと華麗なハイトーンが魅力で、アダルトなミディアムチューンが多い。
■ マイピュアレディ - 尾崎亜美(シングル1977年リリース)
作曲力に定評がある尾崎亜美の3rdシングルで、アレンジは松任谷正隆。
ゆらぐフェンダー・ローズの音色が、当時の「シティ・ポップ」の空気感を再現している。
■ 月のかほり - 夏川りみ(『てぃだ~太陽・風ぬ想い~』2002年収録)
※2000年代のシンガーですが、好きなので入れてみました。
沖縄県石垣市出身の日本を代表するハイトーン・シンガー。
メジャーデビューからの「南風」(2002/3)、「てぃだ~太陽・風ぬ想い~」(2002/9)、「空の風景」(2003/3)、初期3枚のALBUMのできは抜群だった。
沖縄独特の音階や歌いまわしはそれほど強く出ておらず、さらりと明るい曲調に彼女の伸びやかなハイトーンが乗る内容は、まさに「ヒーリング・ミュージック」そのものだった。
これは「てぃだ~太陽・風ぬ想い~」収録の清涼感あふれる佳曲。
■ Wind&Kiss - 桑江知子(『Mr.COOL』1980年収録)
沖縄出身、渡辺プロダクションからデビューしたシンガー。
「私のハートはストップモーション」(1979年)のイメージが強いが、アルバム曲を聴くと優れた声質とテクニックをもっていることがわかる。
最近では「シティ・ポップ」の流れで再評価も。
■ Fall In Love - 山根麻衣(『SORRY』1981年収録)
1979年ポプコンで入賞しメジャー・デビュー。
はやくから柳ジョージ、鈴木茂、向谷実、斎藤誠(サザン)、村田和人などと活動をともにし、アダルトでクロスオーバーな楽曲が多い。
多彩な人で、福山雅治のプロデュースも。
これは1981年リリースの2ndALBUM『SORRY』収録のミディアム曲。
クルーヴでアダルトなサウンドは、鈴木茂(g)、松下誠(g)、佐藤準(key)、山木秀夫(ds)などの参画が大きい。
■ 二人ぼっちのHeaven - 笠井紀美子(『PERIGO A NOITE』1987年収録)
1971年9月、日清カップヌードルのCMで人気を集めたが、米国をベースにジャズ/ACシーンで活動していたため、日本ではジャズ・シンガーのイメージが強い。
1998年音楽活動から引退。これは後期のレゲエまじりのスロー・チューン。
■ Squall - 松本英子(シングル1999年リリース)
1999年リリースのじつはさりげに人気曲。
福山雅治主演のドラマ『パーフェクトラブ!』の挿入歌として使用された、福山雅治作曲の名曲。
透明感ある美声が、メロディアスなこの曲によく合っている。
■ Behind You - 当山ひとみ(『Sexy Robot』1983年収録)
当山ひとみも1980年代前半、洋楽にもっとも接近した邦楽アーティストの一人だと思う。
中学2年まで沖縄で過ごしたという、バックグラウンドもあるかもしれない。
ゆったりしたAC系のMid~バラードに名曲多数。
■ 都会 - 大貫妙子(『SUNSHOWER』1977年収録)
コアな音楽好きから高い評価を得ている大貫妙子。
これは1977年の2ndALBUM『SUNSHOWER』収録曲。
当時すでにクロスオーバー(のちにフュージョン)という言葉はあったが、それを邦楽で具現化したもっとも早い作品のひとつだと思う。
■ Long Island Beach - 杏里/ANRI(『WAVE』1985年収録)
杏里屈指の名バラードで、当時ほんとうによく聴いた。
1980年代前半ならではの聴き飽きしない洒落たメロディーライン。ブライトだけど切なさも。
いくらでも湧いてきてキリがないので(笑)もうやめます。
■ なぜZ世代は40年前の日本の歌に夢中なのか?
↑ 別に「Z世代は40年前の日本の歌に夢中」でもないと思うけど、1980年代前半の曲がここまで再評価されるとは思ってもいなかった。
【関連記事】
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■ 左手マイクの美声ヴォーカル
柴山サリーの記事でも書いたけど、なんか好きなんだよねー、左手マイク持ちの美声ヴォーカル。
そこで、今回はこの視点から書いてみます。
左手マイクが気になったのは熊田このはちゃんから。
それまではマイクの持ち手なんてあまり気にしてなかった。
このところ個人的にヘビロテしてる柴山サリーが左手マイクで、その視点から改めて見てみるとけっこう面白い。
■ 熊田このは 花束を君に
持ち手はほぼ左手。右手を添えることはあるけど、右手持ちはほとんどない。
このリズムブレーク的難曲を、右手でリズムを押さえるように歌いこなしている。
■ 柴山サリー ZARD 揺れる想い マイ フレンド 異邦人 遠い日のNostalgia 負けないで 歌ってみた ライブダイジェスト
確認した限りではほぼ左手持ち。
■ 坂井泉水(ZARD) 負けないで (What a beautiful memory 〜forever you〜)
マイクスタンド使用曲でもマイクに左手当ててるので左手持ちだと思う。
■ KOKIA / 孤独な生きもの【OTO NO TABI BITO #20】
確認した限りではほぼ左手持ち。
右手の表現力がすごい。
■ 持田香織(Every Little Thing) 「Over and Over」
確認した限りではほぼ左手持ち。
■ 加藤礼愛 :平原綾香「Jupiter(Little Glee Monster ver.)」(森アナイチオシ動画)
加藤礼愛ちゃんもほぼ左手持ち。
■ 【絶対女王・新妻聖子🎤「白日」歌唱動画】関ジャニ∞のTheモーツァルト音楽王No.1決定戦
新妻聖子はほぼ左手持ちとみられる。
----------------------------
昔のアイドルはたいてい左手持ちだったらしい。
■ キャンディーズ 微笑がえし
キャンディーズは全員左手持ち。
■ 岩崎宏美 聖母たちのララバイ
岩崎宏美は左手持ちといわれているが・・・。
右手持ちテイクもある ↓
■ 岩崎宏美 - 聖母たちのララバイ - 1982
■ 森 昌子 越冬つばめ 1984 Masako Mori Ettoh-Tsubame
左手持ち。演歌は左手持ちメイン説あるが、意外に少ない模様。
それにしても歌うまいわ・・・。
■ 安室奈美恵 Hero / (ライブ編集)
安室奈美恵はどちらもいける感じがする。
----------------------------
昔のアイドルは左手持ちのレッスンを受けたらしい。
これはおそらく、利き手の右手で振りをつけられるため。
じっさい、いまもハロプロはほとんど左手持ち。
→ マイクの持ち方~ハロプロ研修生編~
でも、山口百恵をはじめ歌が上手いといわれるアイドルが右手持ちか、右手持ちに変えていったことから、「右手持ち=本格派歌手説」が生まれる。
■ 中森明菜 DESIRE -情熱-
代表的な右手持ち本格派。
■ 華原朋美 LOVE BRACE(2013/11/25 NHKホール)
一貫して右手持ちだと思う。
■ 西野カナ『君って』 Live Performance-Kana Nishino “Kimitte”
西野カナは一貫して右手持ちだと思う。
確かに歌の上手いシンガーに右手持ちは多く、「右手持ち=本格派歌手」説を信じたくなる。
でも、ほんとうにそうかな・・・。
→ 左マイクの意義
↑ の記事によると、「右マイクだと体が強ばるというか力んで歌う感じになるように感じます。」とのこと。
だから、ここ一番の熱唱の場合は両手持ちの人も右手持ちになるのかもしれぬ。
それと、気のせいかもしれないが、左手持ちのシンガーはブレスどりが巧いような気がする。
力まずに、8分目の力加減で歌えるからかもしれぬ。
左脳と右脳の違いから語る人もいる。
左脳は右手の動き、右脳は左手の動きを司るという。
→ 「右脳」と「左脳」の働きの違いと、それぞれの鍛え方
↑ の記事によると、「数学・音楽・美術など、イマジネーション(想像)が重要な教科では、『「空間認知』や『イメージ』を司る『右脳』の働きが大切になります。」とのこと。
だから、左手(右脳)持ちのシンガーの方が、イマジネーション豊かな歌を生み出すという説もある。
筆者としてはなんとなく、この説を信じたくなる。(むろん右手持ちにも好きなシンガーはたくさんいるが)
また、ペアの場合、右手持ち&左手持ちの方がビジュアル的に変化がでると思う。
■ 熊田このは&富金原佑菜 打上花火 DAOKO X 米津玄師
熊田このはちゃんが左手持ち、富金原佑菜ちゃんが右手持ち。
■ 堀優衣&小豆澤英輝 :コブクロ「蕾」/2021.2.21 OA(テレビ未公開部分含むフルバージョン動画)
堀優衣ちゃんが左手持ち、小豆澤英輝君が右手持ち。
カラバトU-18世代では堀優衣ちゃんと熊田このはちゃんがほぼ左手持ち。
鈴木杏奈ちゃん、原藤由衣ちゃん、佐久間彩加ちゃん、三阪咲ちゃん、富金原佑菜ちゃんがほぼ右手持ち。
だからユニットを組んだらバランスがとれていたと思う。
----------------------------
次に梶浦由記さんのユニットをみてみました。
ユニットも両方いた方がバランスがいい感じがする。
■ Kalafina - Mirai 未来
KEIKOとWAKANAが右手持ち、HIKARUが左手持ち。
■ FictionJunction Everlasting song
KEIKOとWAKANAが右手持ち、貝田さんとKAORUが左手持ち。
■ Yuki Kajiura(FictionJunction) - Open your heart (live)
KEIKOが右手持ち、貝田さんとKAORUとWAKANAが左手持ち。
KEIKOはほぼ右手持ち、貝田さんとKAORUはほぼ左手持ちだけど、WAKANAは曲調やパートによって使い分けている模様。
ゆったりとしたヨコのり曲やコーラスメインの曲は左手持ちになる感じがする。
■ FictionJunction(現) 梶浦由記「Yuki Kajiura LIVE vol.#16 ~Sing a Song Tour~『overtune〜Beginning』」
KEIKOが右手持ち、貝田さんとKAORUとJoelleが左手持ち。
■ FictionJunction+Kalafina+YUUKA - Angel Gate
KEIKOとWAKANAが右手持ち、貝田さんとKAORUとHIKARUとYUUKAが左手持ち。
途中からオーラスまでKEIKOとWAKANAも左手持ちに。
■ 梶浦由記(FictionJunction)+Revo (Sound Horizon) 砂塵の彼方へ....
KEIKOがめずらしく右手持ち、2:35~のWAKANAのソロパートは右手持ち。
後半はほぼ全員左手持ち。オーラスの”右手振り”に備えている感じがある。
FictionJunctionにしてはめずらしい展開。
こうしてみると、やはり”振り”は右手(左手持ち)の方が決まりやすいのか。
さすがにマニアック過ぎるとも思いますが(笑)、新ネタがみつかったら追加していきます。
そこで、今回はこの視点から書いてみます。
左手マイクが気になったのは熊田このはちゃんから。
それまではマイクの持ち手なんてあまり気にしてなかった。
このところ個人的にヘビロテしてる柴山サリーが左手マイクで、その視点から改めて見てみるとけっこう面白い。
■ 熊田このは 花束を君に
持ち手はほぼ左手。右手を添えることはあるけど、右手持ちはほとんどない。
このリズムブレーク的難曲を、右手でリズムを押さえるように歌いこなしている。
■ 柴山サリー ZARD 揺れる想い マイ フレンド 異邦人 遠い日のNostalgia 負けないで 歌ってみた ライブダイジェスト
確認した限りではほぼ左手持ち。
■ 坂井泉水(ZARD) 負けないで (What a beautiful memory 〜forever you〜)
マイクスタンド使用曲でもマイクに左手当ててるので左手持ちだと思う。
■ KOKIA / 孤独な生きもの【OTO NO TABI BITO #20】
確認した限りではほぼ左手持ち。
右手の表現力がすごい。
■ 持田香織(Every Little Thing) 「Over and Over」
確認した限りではほぼ左手持ち。
■ 加藤礼愛 :平原綾香「Jupiter(Little Glee Monster ver.)」(森アナイチオシ動画)
加藤礼愛ちゃんもほぼ左手持ち。
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新妻聖子はほぼ左手持ちとみられる。
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昔のアイドルはたいてい左手持ちだったらしい。
■ キャンディーズ 微笑がえし
キャンディーズは全員左手持ち。
■ 岩崎宏美 聖母たちのララバイ
岩崎宏美は左手持ちといわれているが・・・。
右手持ちテイクもある ↓
■ 岩崎宏美 - 聖母たちのララバイ - 1982
■ 森 昌子 越冬つばめ 1984 Masako Mori Ettoh-Tsubame
左手持ち。演歌は左手持ちメイン説あるが、意外に少ない模様。
それにしても歌うまいわ・・・。
■ 安室奈美恵 Hero / (ライブ編集)
安室奈美恵はどちらもいける感じがする。
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昔のアイドルは左手持ちのレッスンを受けたらしい。
これはおそらく、利き手の右手で振りをつけられるため。
じっさい、いまもハロプロはほとんど左手持ち。
→ マイクの持ち方~ハロプロ研修生編~
でも、山口百恵をはじめ歌が上手いといわれるアイドルが右手持ちか、右手持ちに変えていったことから、「右手持ち=本格派歌手説」が生まれる。
■ 中森明菜 DESIRE -情熱-
代表的な右手持ち本格派。
■ 華原朋美 LOVE BRACE(2013/11/25 NHKホール)
一貫して右手持ちだと思う。
■ 西野カナ『君って』 Live Performance-Kana Nishino “Kimitte”
西野カナは一貫して右手持ちだと思う。
確かに歌の上手いシンガーに右手持ちは多く、「右手持ち=本格派歌手」説を信じたくなる。
でも、ほんとうにそうかな・・・。
→ 左マイクの意義
↑ の記事によると、「右マイクだと体が強ばるというか力んで歌う感じになるように感じます。」とのこと。
だから、ここ一番の熱唱の場合は両手持ちの人も右手持ちになるのかもしれぬ。
それと、気のせいかもしれないが、左手持ちのシンガーはブレスどりが巧いような気がする。
力まずに、8分目の力加減で歌えるからかもしれぬ。
左脳と右脳の違いから語る人もいる。
左脳は右手の動き、右脳は左手の動きを司るという。
→ 「右脳」と「左脳」の働きの違いと、それぞれの鍛え方
↑ の記事によると、「数学・音楽・美術など、イマジネーション(想像)が重要な教科では、『「空間認知』や『イメージ』を司る『右脳』の働きが大切になります。」とのこと。
だから、左手(右脳)持ちのシンガーの方が、イマジネーション豊かな歌を生み出すという説もある。
筆者としてはなんとなく、この説を信じたくなる。(むろん右手持ちにも好きなシンガーはたくさんいるが)
また、ペアの場合、右手持ち&左手持ちの方がビジュアル的に変化がでると思う。
■ 熊田このは&富金原佑菜 打上花火 DAOKO X 米津玄師
熊田このはちゃんが左手持ち、富金原佑菜ちゃんが右手持ち。
■ 堀優衣&小豆澤英輝 :コブクロ「蕾」/2021.2.21 OA(テレビ未公開部分含むフルバージョン動画)
堀優衣ちゃんが左手持ち、小豆澤英輝君が右手持ち。
カラバトU-18世代では堀優衣ちゃんと熊田このはちゃんがほぼ左手持ち。
鈴木杏奈ちゃん、原藤由衣ちゃん、佐久間彩加ちゃん、三阪咲ちゃん、富金原佑菜ちゃんがほぼ右手持ち。
だからユニットを組んだらバランスがとれていたと思う。
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次に梶浦由記さんのユニットをみてみました。
ユニットも両方いた方がバランスがいい感じがする。
■ Kalafina - Mirai 未来
KEIKOとWAKANAが右手持ち、HIKARUが左手持ち。
■ FictionJunction Everlasting song
KEIKOとWAKANAが右手持ち、貝田さんとKAORUが左手持ち。
■ Yuki Kajiura(FictionJunction) - Open your heart (live)
KEIKOが右手持ち、貝田さんとKAORUとWAKANAが左手持ち。
KEIKOはほぼ右手持ち、貝田さんとKAORUはほぼ左手持ちだけど、WAKANAは曲調やパートによって使い分けている模様。
ゆったりとしたヨコのり曲やコーラスメインの曲は左手持ちになる感じがする。
■ FictionJunction(現) 梶浦由記「Yuki Kajiura LIVE vol.#16 ~Sing a Song Tour~『overtune〜Beginning』」
KEIKOが右手持ち、貝田さんとKAORUとJoelleが左手持ち。
■ FictionJunction+Kalafina+YUUKA - Angel Gate
KEIKOとWAKANAが右手持ち、貝田さんとKAORUとHIKARUとYUUKAが左手持ち。
途中からオーラスまでKEIKOとWAKANAも左手持ちに。
■ 梶浦由記(FictionJunction)+Revo (Sound Horizon) 砂塵の彼方へ....
KEIKOがめずらしく右手持ち、2:35~のWAKANAのソロパートは右手持ち。
後半はほぼ全員左手持ち。オーラスの”右手振り”に備えている感じがある。
FictionJunctionにしてはめずらしい展開。
こうしてみると、やはり”振り”は右手(左手持ち)の方が決まりやすいのか。
さすがにマニアック過ぎるとも思いますが(笑)、新ネタがみつかったら追加していきます。
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