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■ AORの名バラード25曲

リンク切れつなぎ直して再UPです。

やはり、聴き返してみても、
1980年代前半の邦楽がメロディアスなメジャー・セブンス曲に大きく振れたのは、こういう洋楽の影響が大きいと思う。

セッションから生み出されるメロディ&アレンジ。
いまの洋楽ならAIでつくれるかもしれないけど、この時代の洋楽はムリだと思う。

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2023/09/01 UP

猛暑のなかにも秋の気配。
秋の夜長にAORの名バラードをど~ぞ。

1980年代前半。
こういう曲たちと、シティ・ポップが同時に売れていた。
というか、前を走る洋楽がなかったら、おそらくシティ・ポップは生まれていなかったと思う。

■ ずっとそばに - 松任谷由実 (『REINCARNATION』(1983年))


■ MERCURY LAMP 水銀燈 - Anri 杏里 (『COOOL』(1984年)) 


■ 旅姿六人衆 (『綺麗』(1983年))



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2023/07/29
いきなりアクセスが増えたので、リンクつなぎおなし、5曲追加してリニューアルUPです。

こんなにもメロディにあふれていた1970年代後半~1980年代中盤の洋楽。
振り返ってみると、やっぱりシティ・ポップよりも洋楽をメインに聴いていた。

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2023/03/28 UP




3/14にBobby Caldwellが亡くなられていました。
おそらく1980年代初頭、もっとも聴き込んでいたと思う洋楽アーティスト。
彼の存在がなかったら、日本でAORがあれだけブレークしたかは疑問。

日本にもよく来てくれたので、LIVEにも何回か行った。

晩年は闘病生活だったようだけど、好きな音楽の道で人生を全うされたのかな。
謹んでご冥福をお祈りいたします。

■ Take Me Back To Then
〔 From 『Bobby Caldwell』(1978)


■ Saying It's Over
〔 From 『Heart Of Mine』(1989)


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2021/09/20 UP

5曲追加して20曲にしました。BCM系も含んでいます。

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2022/11/22 UP

洋楽がオリジナルなメロディにあふれていた1980年代前半。
そのメインを形成していたAORの名曲たち。
昨年つくったやつに3曲追加してみました。

秋の夜長にど~ぞ。

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2021/09/07 UP
初秋の夕暮れに、思いっきりメロディアスなAORを気の向くまま1ダース集めてみました。
後日残りのコメント入れます。

コメント、入れてみました。

01.I Just Can't Let Go - David Pack
〔 From 『Anywhere You Go....』(1985)

AmbrosiaのリードヴォーカルだったCalifornia出身のAOR系アーティスト。
AOR下降局面の1985年に名盤『Anywhere You Go....』をリリース。
このアルバムは、AOR後期の稀少な傑作としてAORフリークのあいだではマスターピースとなっている。
これは自作曲で、Michael McDonald、James IngramというAORの名手がヴォーカル参画している。ブリッジのサックスソロはErnie Watts。

02.You Can Have Me Anytime - Boz Scaggs
〔 From 『Middle Man』(1980)

AORのバラードの名手といったらやっぱりこの人。
代表曲といえばおそらく「We're All Alone」だけど、David Fosterとコラボしたこの曲をリストしてみました。
David Hungate(b)、Jeff Porcaro(da)のTOTOラインのリズムセクションは抜群の安定感。
Carlos Santanaの泣きのギターが、ここ一番で存在感を発揮している。

03.Love Games - Champaign
〔 From 『Modern Heart』(1983)

イリノイ州Champaign出身のBCM/AORユニットで1981年のスマッシュ・ヒット「How 'Bout Us」で知られる。
これは2ndアルバム収録のバラードで、Dana Waldenの作曲の才とRena Jonesのフェミニンなヴォーカルが冴えまくった名作。

04.When Two Divide - Roger Voudouris
〔 From 『On The Heels Of Love』(1981)

カリフォルニア州サクラメント出身のAOR系シンガー。
1978年から1981年まで毎年リリースされた4枚のアルバムはいずれも名作だったが、1981年の『On The Heels Of Love』を最後にアルバムは出されていない。
ハスキーでエモーショナルな声質と歌いまわしは、もっと評価されてもよかったと思う。

05.More More More - Atlantic Starr
〔 From 『Yours Forever』(1983)

1980年代はBCM系のSelf-Contained Group(自給自足グループ)もいいバラードを連発していた。
これはディスコのチークタイムで、ニーズが高かったことが大きいと思う。
Atlantic Starrはニューヨーク出身ながら西海岸的なブライトなサウンドを繰り出し、とくにバラードのレベルの高さには定評があった。
これは、名盤の誉れ高い1983年『Yours Forever』収録のバラード。
1987年に大ヒットとなった「Always」の前身ともいえる曲調だが、よりソウル寄りで芯が通っている。

06.You're The Inspiration - Chicago
〔 From 『Chicago 17』(1984)

1982年に「Hard To Say I'm Sorry/素直になれなくて」のヒットを放ったバラード系の次作。
プロデューサーは全盛期のDavid Foster。Peter CeteraとDavid Fosterの共作でPeter Ceteraのハイトーンも絶好調の好テイク。

07.Sailing - Christopher Cross
〔 From 『Christopher Cross』(1979)

これまで何回も上げてるけど、やっぱり外せない神曲。
オリジナル感あふれるハイトーンがオンコード含みのメジャー・セブンスに乗って、ハンパじゃない透明感。
Victor FeldmanのPercussionも絶妙に効き、Michael Omartianのアレンジも冴え渡っている。
しかし、こういう曲が日本国内でも大ヒットしていたとは、いまから考えると信じられぬ。

08.Ruled By My Heart - Jim Photoglo
〔 From 『Fool In Love With You』(1981)

Los Angeles出身のAORシンガーJim Photogloの2nd ALBUM『Fool In Love With You』収録曲。
Carlos Vega(ds)、Dennis Belfield(b)のリズムセクションに、George Marinelli, Jr.(g)、Bill Cuomo(key)ときて、これにブルーアイドなPhotogloのヴォーカルが乗ってはAORになるしかないか・・・(笑)

09.The Things we do in Love - The B. B. & Q. Band
〔 From 『All Night Long』(1982)

ディスコ・ユニット系も好バラードをものしていた。
この頃のディスコ・ユニットはヴォーカルのレベルがすこぶる高く、これを活かしたバラードがLPに収録されて聴きどころとなっていた。
これは「On The Beat」のヒットを飛ばしたThe B. B. & Q. Bandの2ndアルバム収録のこ洒落たミディアム・チューン。
BCMの楽曲の洗練度はこの頃がピークだったと思う。

10.Best Of Me - David Foster & Olivia Newton-John
〔 From 『The Best Of Me』(1983)

AORの大御所David FosterとベテランOlivia Newton-Johnの気合い入ったデュエット。
これはAORを代表する名デュエットだと思う。
Olivia Newton-Johnは本来MORの人だけど、こういうAOR的なこなしができるのは、やっぱり実力あってのこと。
アレンジャーとして入ったJeremy Lubbockのフェンダーローズが効きまくってる。

11.Where You Are - Whitney Houston
〔 From 『Whitney』(1987)

個人的には1980年代中盤~後半で、もっとも往年のAORテイストを残したアーティストだと思っている。
これは才人、Kashifのプロデュースによる透明感あふれるスローバラード。
Gene Pageのアレンジメントが秀逸で、この頃の洋楽のアレンジのレベルの高さを感じ取れる1曲。

12.Crazy - Bill LaBounty
〔 From 『This Night Won't Last Forever』(1978)

AORを語るに外せないアーティストの一人。
名曲「This Night Won't Last Forever」(1978)は、田中康夫氏によっても紹介されて、日本でのAORの広まりに大きな役割を果たした。
これは、1st ALBUM『Promised Love』に収録、2nd ALBUM『This Night Won't Last Forever』に再録されたエモーショナルなバラード。
アーシーな声質ながら、AOR的な洒落っ気ももつ希有なシンガー。

13.It's Only Love - Marc Jordan
〔 From 『A Hole In The Wall』(1983)

Marc Jordanは、1st ALBUM『Mannequin』や2nd『Blue Desert 』をベストに推す人が多いが、じつはこの3rd『A Hole In The Wall』も甲乙つけがたい名盤。(このALBUM、米国未発売かも?)
とくに、この「It's Only Love」と「She Used To Be My World」は屈指の仕上がりの名バラード。

14.Come To Me - Bobby Caldwell
〔 From 『Bobby Caldwell』(1978)

Bobby CaldwellはUp~Mid曲が多く、バラードは意外に少ない。
これは1st ALBUM『Bobby Caldwell』収録の名バラードで、たしかパーラメントのCMでも流されていた。
このバラードをB面あたまにもってくるセンスが、ただものじゃない。
1989年リリースの「Heart Of Mine」もバラードの名曲。
↑ このLIVEいきましたわ。たしかMarilyn Scottも出演していた。熱演のsaxはBoney Jamesだと思う。

15.Avalon - Roxy Music
〔 From 『Avalon』(1982)

1970年代後半から1980年代にかけて高い音楽性で時代を画した名ユニット。
これは彼らのラストオリジナルフルアルバムとなった歴史的名盤『Avalon』収録のタイトル曲で、洗練度を極めたBryan Ferryのヴォーカルが圧巻。
このアルバムに収められた「More Than This」という名曲を残して、彼らはパーマネントユニットとしての歴史を閉じた。

16.My Everlasting Love - Ray Kennedy
〔 From 『Ray Kennedy』(1980)

「KGB」というR&B/アーシー系ロック・バンドの元リードヴォーカルだったRay KennedyがDavid Fosterのプロデュースで1980年発表したSOLO ALBUM収録のバラード。
曲の仕上がり、ヴォーカルともに非の打ちどころのないAOR屈指の名曲。
終盤のリリカルなKeyboardsは、おそらくDavid Fosterと思われる。

17.Words and Music - Tavares
〔 From 『Words And Music』(1983)

Self-Contained Groupのなかでもバラードを得意としていたグループのひとつ。
ファルセット系のやわらかなコーラスが、メロディアスなバラードとよく調和していた。
これはAOR系の名コンポーザーKenny Nolanのエモーショナルなメロが存分に活かされたナイステイク。
1983年、この素晴らしいアルバム(『Words And Music』)を残しながら、これ以降、現在に至るまで彼らのオリジナルアルバムはリリースされていない。

18.Our Goodbye - Dick St. Nicklaus
〔 From 『Magic』(1979)
DICK St. NICKLAUS - “Our Goodbye”

本国・米国よりも日本、東京よりも大阪で売れたというAORシンガー。
こういうファクトを知ると、当時の大阪は世界一のAOR天国だったのかもしれず・・・。
2ndの『Sweet And Dandy』も好アルバムだが、やっぱりベストは1stの『Magic』かと。
甘~いメロ全開のバラードながら、Leland Sklar(b)、Steve Schaeffer(ds)のリズムセクションがビシっと決まってAORの好テイクに仕上がっている。

19.How Do You Keep The Music Playing - James Ingram & Patti Austin
〔 From 『It's Your Night』(1983)

■ Quincy Jones主宰のQwest Recordsからリリースされた名盤『It's Your Night』収録曲。
Quincy Jonesの 秘蔵っ子といわれたJames Ingram&Patti Austinが繰り広げる甘~いデュエット。
'80年代前半には、こんなメロディーのかたまりのよ~な曲がごろごろあった。

20.You Can Count On Me - Shalamar
〔 From 『The Look』(1983)

1980年代初頭のディスコシーンで一世を風靡したSolarレーベル所属のディスコ・ユニットで多くのヒットチューンをもつ。
これは1983年リリースのクールなバラードで、彼らがディスコ曲だけのユニットでないことを見事に証明している。
Co-producerとして奇才Bill Wolferの参画も注目ポイント。

21.The Fool Is All Alone - Bill Champlin
〔 From 『Runaway』(1981)

AOR屈指の名盤『Runaway』のラストを飾る名曲。
David Fosterと共作で、ならではの華麗なメロディが展開されている。
この時代ならではのフェンダーローズの響きと流麗なストリングス。
これにハイトーンコーラス(Richard Page、Tom Kelly)が加わって文句のつけようのない出来映え。

22.Late At Night - George Benson & Vicki Randle
〔 From 『In Your Eyes』(1983)

ふつうguitaristの範疇で語られる人だが'80年代初頭から中期にかけてAOR的な名盤を多く残した。
これは1983年発表のALBUM『In Youe Eyes』収録で、「真夜中のふたり」という邦題がつけられていた雰囲気あふれるバラード。
このALBUMは、Paul Jackson, Jr., David Spinozza(g)、Richard Tee, David Paich, Robbie Buchanan, Steve Porcaro, Greg Phillinganes(key)、Marcus Miller, Will Lee, Anthony Jackson, Nathan East(b)、Steve Gadd, Jeff Porcaro, Carlos Vega, Steve Ferrone(ds)、David Sanborn, Randy Brecker, Jerry Hey(horns)etc.とBack Musicianの豪華さがただごとじゃなく、安定したパフォーマンスと、楽曲のよさが堪能できる名盤。

23.Back Where I Belong - Four Tops
〔 From 『Back Where I Belong』(1983)

1953年Detroitで結成されたベテランコーラスグループ。
1973年のリリースアルバムからMotownを離れ、久々に古巣に戻ったアルバム『Back Where I Belong』収録のタイトル曲。
彼らの濃醇なコーラスと1983年ならではの引き締まったインストがほどよくバランスした名バラード。
この時代ならではの音だと思う。

24.If I Believed - Patti Austin
〔 From 『Gettin' Away With Murder』(1985)

BCMのなかではもっともAOR寄りの路線を保ったPatti Austin。
こちらは1985年、Qwest Recordsからリリースの名盤『Gettin' Away With Murder』収録曲で、彼女の数あるスロー曲になかでも屈指のでき。
Russ Titelmanプロデュース、Randy Goodrum作曲という職人のワザを感じる展開。
個人的には、つぎの「Our Love」とともにAORの終焉を感じた曲。

25.Our Love - Michael McDonald
〔 From 『No Lookin' Back』(1985)

AORの立役者Michael McDonald。
でも、彼とて時代の波には逆らえなかった。
1985年、AORの時代の終焉を感じた個人的に感慨ふかい曲。


 
 
↑1980年代前半の名盤たち

□ AOR系名曲を100曲!
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■ 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印-6

Vol.-5からのつづきです。


■ 第20番 御行の松不動堂(時雨岡不動堂)
(おぎょうのまつふどうどう/しぐれおかふどうどう)
台東区根岸4-9-5
真言宗智山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
司元別当:(金杉村)福生院
他札所:

第20番札所は荒川区東尾久の御行の松不動堂(時雨岡不動堂)です。
当初の第20番札所は上野の東叡山 寛永寺 一乗院で、明治期の上野駅建設に伴い廃寺となったため、第20番札所は東尾久の御行の松不動堂(時雨岡不動堂)に異動と伝わります。

この情報によると一乗院は東叡山 寛永寺の塔頭寺院とみられ、宗派は天台宗です。
どうして御府内二十一ヶ所霊場に1箇寺だけ天台宗寺院が入っているのかは疑問です。
また、天台宗寺院から真言宗寺院への札所承継も異例では?

『御府内八十八ヶ所 弘法大師二十一ヶ寺版木』(台東区教育委員会刊)のP.85には『東都八十八ヶ所』内『御府内二十一所項』を原典として、「第20番 一乗院(廃寺、台東区上野)」との記載があります。

一方、『寺社書上』『御府内寺社備考』には、下記のとおり「下谷上野町」に真言宗寺院の「薬王山 一乗院」が記載されています。
(なお、「薬王山 一乗院」でWeb検索しても、それらしき寺院はヒットしません。)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』下谷絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
↑『江戸切絵図/下谷絵図』にはふたつの「一乗院」がみえます。

『寺社書上 [115] 下谷寺社書上 壱』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.86』
芝愛宕眞福寺末 下谷上野町
新義真言
薬王山一乗院 境内拝領地百拾四坪
寛永五年(1628年)起立
本堂
 如意輪観音坐像
薬師堂
 薬師如来座像 丈九尺弘法大師作
聖天堂
 聖天金天浴像
 同本地佛 十一面観音 行基菩薩作丈四寸
開山祐照法印(江戸期)

『寺社書上』には、(薬王山)一乗院の項に「御府内十二ヶ所第八番 身代薬師如来畧縁起」があり、弘法大師との所縁が詳細に記されています。

文政年間(1818-1830年)かそれ以前に開創の御府内十二薬師霊場という薬師霊場があったらしいですが、ほとんどの札所が不明となっている模様。
ただし、第6番が本所の弥勒寺(川上薬師)、第8番が一乗院という記録があり、一乗院を天台宗(東叡山 寛永寺 一乗院)とする記録があるようです。
しかし、『寺社書上』には、御府内十二薬師霊場第8番は新義真言宗の薬王山 一乗院と明記されています。

以上からすると、御府内二十一ヶ所霊場第20番は下谷上野町の新義真言宗薬王山一乗院で、こちらがなんらかの理由で廃寺となり、第20番札所は東尾久の真言宗智山派、御行の松不動堂(時雨岡不動堂)に承継された可能性があります。

一乗院の本寺・愛宕眞福寺は真言宗智山派総本山・智積院の別院ですから、真言宗智山派内での札所承継は自然な流れです。

以上、憶測めいた記事を書きましたが、ともかくも現在の第20番札所は東尾久の御行の松不動堂(時雨岡不動堂)となっており、こちらは現在無住なので第11番札所の根岸・西蔵院の管理下に入っています。

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御行の松不動堂(時雨岡不動堂)については、『新編武蔵風土記稿』『江戸名所図会』に記載がありますが、由来については諸説あり的な書きぶりです。


根岸の寺院と御行の松の位置図(現地掲示より)


時雨岡不動堂
『江戸名所図会 7巻 [17]』(国立国会図書館)


初代御行の松(現地掲示より)


戦前の不動堂(現地掲示より)


現地で入手した資料『根岸 御行の松』(御行の松不動講編)では史料類を詳細に拾い紹介、山内にも詳細な掲示類がありますので、併せて要点を書き出してみます。

・初代「御行の松」は時雨の松または大松とも呼ばれ、下谷区中根岸町五十七番地(現台東区根岸四丁目七番)不動堂にあった。
・現在の松は三代目・四代目。初代(昭和三年夏頃に枯れ死、五年に伐採、天然記念物に指定されていた)は樹齢三五0年位と推定される。
・『新編武蔵風土記稿』『江戸名所図会』にも記され、詩歌、俳句、絵図にも著され古くから極めて名高い黒松の銘木。
・「御行の松」の由来は、弘法大師、源頼義、源頼朝諸説あるが、(初代の樹齢四百年位からすると年代的に符号しない。
・「御行の松」と称えたのは宝暦(1751-1764年)以降の事らしい。これは輪王寺の宮が寺社巡拝の折りこの松のそばで休憩されたのを、里人が宮様の御行のお休みの松という意味で「御行の松」と称したことに由縁ともいう。(一説に輪王寺宮が行法を修されたとも。)
・「時雨の松」については、『廻國日記』(文明十八年(1486年)出立の東国紀行)の著者・聖護院門跡道興准后が浅草の石浜から上野へ向かわれる途中、松原にさしかかったところにわかに時雨が降り出したので大松の下で雨宿りをなされ、その時
 霜ののちあらはれにけり時雨をば 忍びの岡の松もかいなし
と詠まれたことに因むという。
・史料類には「不動堂は福生院持」とあり、福生院は御行の松のそばにあったが上野桜木町に遷り、明治維新数年前に廃寺となった。
・御行の松不動堂の御本尊は子供の「虫封じ」に霊験あらたかで、参詣者が多かった。
ことに毎月28日のご縁日は露天商も出て賑わった。
・東京大空襲で伽藍を焼失、西蔵院主と有志により仮堂が建立され、昭和34年に現在の堂宇を建立。
・戦後、初代の松の根を地中から掘り出し、この根の一部で彫った不動明王像をまつり、西蔵院の境外仏堂となり現在に至る。現在は西蔵院と地元の不動講の人々により護持されている。

『江戸名所図会』には「忍の岡といへるハ東叡山の旧名なり 此地も東叡山より連綿たれハ」とあります。
また、資料『根岸 御行の松』では「御行の松」の命名の由来が輪王寺宮にあるという故事を紹介しています。

このような史料・故事から、御行の松不動堂(時雨岡不動堂)は東叡山、輪王寺(天台宗)とゆかりありとみられ、上野にあった東叡山 寛永寺 一乗院から第20番札所を承継したという見方が生まれたのかもしれません。

しかし、『新編武蔵風土記稿』は(金杉村)不動堂の項で「時雨岡不動ト号ス 福生院持」と明記しています。
福生院については「出羽國湯殿山大日坊末」と記しており、湯殿山大日坊は真言宗です。

この点からみても、御行の松不動堂(時雨岡不動堂)は真言宗で、同じ真言宗の薬王山 一乗院から第20番札所を承継したとみるほうが自然な感じがします。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 豊島郡巻七』(国立国会図書館)
(金杉村)不動堂
時雨岡不動ト号ス 縁起ハ御行松ノ下ニ出ス 福生院持

(金杉村)御行松
堂傍ニアリ高サ二丈余周囲三●ニ呼フ 或ハ大松トモ呼 舊井アリ洗垢離ノ水ト云 此松ニツキサマ々々ノ説アリ 弘法大師此地ニテ大日不動ノ修法ヲ行セリト 或ハ康平ノ頃(1058-1065年)源頼義 治承ノ頃(1177-1181年)源頼朝等ノ故事及文覚行ヲナセシ所託云伝フ 元来此所ハ福生院の舊地ニテ 世代ノ墳墓今モ此所ニアリ 先ノ年岡田安兵衛ト云モノ先祖左衛門カ襟掛及文覚カ作レル不動ヲ石櫃ニ納メ 此松ノモトニ埋メ 上ニ石像ノ不動ヲ置シカ 其子孫安兵衛宝暦中(1751-1764年)先祖ノ遺書等ノ入シ一櫃ヲ再ビ彼襟掛不動ノ入シ石櫃ノ内ニ蔵メ 新ニ大像ノ石不動ヲ建立シ 境内頗ル景致ヲナセシニ 故アリテ廃却セラレ 石像ノミ松根ニアリシテ 文化三年(1806年)貞照トイヘル比丘尼本願トナリ 公ニ乞奉リ 不動堂ヲ建立シテ松根ノ不動ヲ遷シテ安スト云

(金杉村)福生院
同宗(真言宗)出羽國湯殿山大日坊末 今其山ノ役寺ナリ
本尊大日 当寺元和九年(1623年)マテハ村内御行松ノ辺ニアリ 開山満海寛永五年(1628年)寂ス アル時東照宮寺領ヲ賜ハルヘシト仰セアリシカ 満海出家ハ三衣一鉢ニテ足レリトテ辞シ奉リケレハ 御威マシマシケリト云

『江戸名所図会 7巻 [17]』(国立国会図書館)
同所(根岸の里)庚申塚といへるより三四丁艮の方 小川の傍にあり
一株の古松のあとに不動尊の草堂あり 土人此松を御行の松と号
一小 時雨の松ともよへり
按に忍の岡といへるハ東叡山の旧名なり 此地も東叡山より連綿たれハ回國雑記に出るところの和歌の意をとりて後世好事の人の号けし●らんか



原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


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最寄りはJR「鶯谷」駅で東に徒歩約10分。
「鶯谷」駅は坂の途中にあり、西側は上野の高台の寺社地で御朱印エリア、東側は台地下の根岸・東日暮里エリアでメジャーな御朱印エリアではありません。

根岸柳通りの「根岸四丁目」交差点の1本北側の交差点に面しています。
駐車場はありませんが、すぐそばにコインパーキングがあります。


【写真 上(左)】 外観
【写真 下(右)】 門柱

門柱には「御行之松」「不動尊」と刻まれ、参道正面に不動堂がみえます。
参道左手手前にある「狸塚」は、美女・お若さんと、美男・伊之助の恋の悲話(古今亭志ん朝の噺、円朝作「お若伊之助」)を伝えるものです。


【写真 上(左)】 狸塚
【写真 下(右)】 正岡子規の句碑

正岡子規をはじめいくつかの句碑は、「御行の松」が当地の名所であることを伝えています。

紅梅に琴の音きほふ根岸かな(子規)
薄緑お行の松は霞みけり(子規)


山内掲示には「此地ハ上野山の北陰ニテ自ラ幽邃閑雅ナレバ 都下ノ士民多くコヽニ別荘ナド設ケテ 文政天保ノ頃ハ最も盛ニテ 天保六年(1835年)ノ諸家人名録ヲ見レバ 此地ニ住セル文人ノミニテ三十名モアリ」とあり、文政天保ノ頃(1818-1844年)の根岸あたりは、御府内有数の文壇サロンの地となっていたことがわかります。

彼らが地元の銘木「御行の松」を句に詠み詩にうたい、「御行の松」の名声を高めていったのではないでしょうか。



【写真 上(左)】 御行松不動尊之碑
【写真 下(右)】 御行の松

「御行の松」碑の手前の枝振りのよい松が4代目、本堂側の松が3代目のようです。
その間には初代の松の根が覆堂のなかに安置されています。
霊木として崇められた初代の松は伐採後西蔵院で供養されていましたが、この霊木の根をもって三木貞雄氏が不動尊像を彫り上げられました。



【写真 上(左)】 初代・御行の松と石碑
【写真 下(右)】 初代・御行の松

山内掲示類によると、1956年(昭和31年)、御行の松に縁が深い寛永寺から新たな松(2代目)が送られたが間もなく枯れてしまいました。

1976年(昭和51年)に植えられた3代目は盆栽仕様で”大松”のイメージがうすいため、2018年(平成30年)御行の松不動講を中心とする地元有志により4代目の松が植樹されたといいます。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

本堂は入母屋造産瓦葺流れ向拝とみられますが、変形の宝形造かもしれません。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に蟇股と小規模ながら整った意匠です。向拝中央と左右に「御行の松不動尊」の提灯を掲げ、硝子格子の扉のうえに「不動尊」の扁額を置いています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額


【写真 上(左)】 大提灯
【写真 下(右)】 御真言

不動堂内には現在、宝暦年中(1751-1764年)に文覚上人手彫りの石櫃の一寸八分の不動尊、石像の不動尊、初代御行の松の根から彫刻された不動尊が奉安されているとみられます。

堂内を拝すると、護摩壇の向こうの御内陣には石像と木像の二體の不動尊が御座されていました。

不動講の資料『根岸 御行の松』の気合いが入った編集、山内のさまざまな掲示類からも、御行の松と不動尊が地元有志により大切に護持されていることがわかります。


御行の松不動堂の御朱印授与につき護持寺院の西蔵院にてお伺いしましたが、不授与とのことでした。

不動講発行の資料『根岸 御行の松』の表紙を載せておきます。




■ 第21番-1 宝林山 大悲心院 霊雲寺
(れいうんじ)
文京区湯島2-21-6
真言宗霊雲寺派
御本尊:両部(界)大日如来
札所本尊:両部(界)大日如来
他札所:御府内八十八ヶ所霊場第28番、江戸八十八ヶ所霊場第28番、大東京百観音霊場第22番、御府内二十八不動霊場第27番、秩父写山の手三十四観音霊場第1番、弁財天百社参り番外28、御府内十三仏霊場第12番
司元別当:
授与所:寺務所

※この記事は御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-9 をベースに再編しています。

第21番はふたつあるようです。
ひとつめは、真言宗霊雲寺派総本山の霊雲寺です。
『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに第28番札所は霊雲寺となっており、御府内霊場開創時からの札所であったとみられます。

現地掲示、下記史料、文京区Web資料東京国立博物館Web資料などから、縁起・沿革を追ってみます。

霊雲寺は、元禄四年(1691年)浄厳覚彦和尚による開山と伝わります。
浄厳和尚は河内国出身の真言律僧で新安祥寺流の祖。
霊雲寺を語るうえで法系は欠かせないので、『呪術宗教の世界』(速水侑氏著)およびWikipediaを参照してまとめてみます。

真言密教は多くの流派に分かれ、「東密三十六流」とも称されました。
その主流は広沢流(派祖:益信)・小野流(派祖:聖宝)とされ、「野沢十二流・根本十二流」と称されました。

小野流は安祥寺流、勧修寺流、随心院流、三宝院流、理性院流、金剛王院流の六流で、とくに安祥寺流、勧修寺流、随心院流を「小野三流」といいます。
浄厳和尚はこのうち「安祥寺流」を承継、「新安祥寺流(新安流)」を興されたといいます。

浄厳和尚は慶安元年(1648年)高野山で出家され、万治元年(1658年)南院良意から安祥寺流の許可を受けて以降、畿内で戒律護持等の講筵を盛んに開かれました。
元禄四年(1691年)、徳川五代将軍綱吉公に謁見して公の帰依を受け、側近・柳沢吉保の援助もあって徳川将軍家(幕府)の祈願所として湯島に霊雲寺を建立。

『悉曇三密鈔』(悉曇学書)、『別行次第秘記』(修行に関する解説書)、『通用字輪口訣』(意密(字輪観)の解説書)などの重要な著作を遺され、近世の真言(律)宗屈指の学徳兼備の傑僧と評されます。

浄厳和尚は霊雲寺で入寂されましたが、霊雲寺は将軍家祈願所であるため、みずから開山された塔頭の池之端・妙極院が墓所となっています。

浄厳和尚、そして霊雲寺を語るとき、「真言律宗」は外せないのでこれについてもまとめてみます。(主にWikipediaを参照)

真言律宗とは、真言密教の出家戒・「具足戒」と、金剛乗の戒律・「三昧耶戒」を修学する一派とされ、南都六宗の律宗の精神を受け継ぐ法系ともいわれます。

弘法大師空海を高祖とし、西大寺の叡尊(興正菩薩)を中興の祖とします。
叡尊は出家戒の授戒を自らの手で行い(自誓授戒)、独自の戒壇を設置したとされます。
「自誓授戒」は当時としては期を画すイベントで、新宗派の要件を備えるとして「鎌倉新仏教」のひとつとみる説さえあります。

■ 日本仏教13宗派と御朱印(首都圏版)

真言律(宗)は当時律宗の新派とする説もあったとされますが、叡尊自身は既存の律宗が依る『四分律』よりも、弘法大師空海が重視された『十誦律』を重んじたため、真言宗の一派である「西大寺流」と規定して行動していた(Wikipedia)という説もあるようです。

以降、律宗は衰微した古義律、唐招提寺派の「南都律」、泉涌寺・俊芿系の「北京律」、そして西大寺系の「真言律(宗)」に分化することとなります。

叡尊の法流は弟子の忍性が承継し、忍性はとくに民衆への布教や社会的弱者の救済に才覚を顕したといいます。
鎌倉に極楽寺を建立したのは忍性です。

叡尊・忍性は朝廷の信任篤く、諸国の国分寺再建(勧進)を命じられたとされ、元寇における元軍の撃退も叡尊・忍性の呪法によるものという説があります。

江戸初期、西大寺系の律宗は真言僧・明忍により中興され、この流れを浄厳が引き継いで公に「真言律(宗)」を名乗ったといいます。

霊雲寺は「将軍家祈願所」であるとともに、関八州真言律宗総本寺を命じられ、御府内屈指の名刹の地位を保ちました。

明治5年、明治政府による仏教宗派の整理により、律宗系寺院の多くは真言宗に組み入れられましたが、その後独立の動きがおこり、西大寺は明治28年に真言律宗として独立しています。

真言律(宗)であった霊雲寺が真言宗霊雲寺総本山となった経緯はオフィシャルな資料が入手できず詳細不明ですが、Wikipediaには「昭和22年(1947年)に真言宗霊雲寺派を公称して真言律宗から独立した。」とあるので、戦後、江戸期に47を数えた末寺とともに独立したとみられます。

霊雲寺を「将軍家祈願寺」としてみるとき、興味ぶかい事柄があります。

真言律(宗)は、もともと民衆への布教・救済と国家鎮護という二面性をもった宗派でした。
とくに、元寇の戦捷祈願に叡尊・忍性が関与したとされることは国家鎮護の面での注目ポイントです。

元寇の戦捷祈願には、大元帥明王を御本尊とする大元帥法が修されたとも伝わります。
もともと大元帥法は国家鎮護・敵国降伏を祈って修される法で、毎年正月8日から17日間宮中の治部省内で修されたといいます。
のちに修法の場は醍醐寺理性院に遷された(江戸期に宮中の小御所に復活)ともいいますが、国家、朝廷のみが修することのできる大法とされています。

一方、霊雲寺の大元帥明王画像について、『御府内寺社備考』には「御祈祷本尊大元帥明王之画像 常憲院様(綱吉公)御自画と(中略)鎮護国家之御祈祷」とあります。

大元帥明王の画像を綱吉公みずからが描かれ、こちらを御本尊として鎮護国家を祈祷したというのです。
しかも大元帥明王が御座される御祈祷殿には、東照大権現も祀られています。
つまり、霊雲寺の御祈祷殿では大元帥明王と東照大権現に鎮護国家が祈祷されていたことになります。

しかも『御府内八十八ケ所道しるべ』には御府内霊場の拝所として「太元堂 灌順堂 本尊太元明王」と明記されています。


出典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

旧来、国家鎮護の大法・大元帥法の御本尊である大元帥明王は厳重に秘すべき存在でしたが、江戸時代になると、そこまでの厳格さは失われていたのでしょうか。
あるいは日の本の為政者としての徳川将軍家の存在を際立たせる、政治的な狙いもあったのやもしれません。

また、当山は「絹本着色大威徳明王像」(文京区指定文化財)を所蔵されます。
大威徳明王は単独で奉安されることは希で、通常、五大明王(不動明王(中心)、降三世明王(東)、軍荼利明王(南)、大威徳明王(西)、金剛夜叉明王(北))として奉安・供養されますから、当山で五大明王を御本尊とする五壇法が修せられていた可能性があります。
五壇法も国家安穏を祈願する修法として知られているので、やはり当山は祈願寺としての性格が強かったとみられます。

御本尊は両部(両界)大日如来。
「幕府祈願所 霊雲寺の名宝」(東京国立博物館)には「独自の解釈による両界曼荼羅」とあり、大進美術㈱のWebに「新安祥寺流曼荼羅」として見事な両界曼荼羅が紹介されていることからみても、新安祥寺流(真言宗霊雲寺派)にとって両界曼荼羅、あるいは両界大日如来がとりわけ重要な存在であることがうかがわれます。


出典:斎藤幸雄 [等著] ほか『江戸名所図会』第3,有朋堂書店,昭2.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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【史料・資料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
二十八番
ゆしま
宝林山 大悲心院 霊雲寺
真言律
本尊:両界大日如来 太元堂 灌順堂 本尊太元明王 弘法大師

『寺社書上 [68] 湯嶋寺院書上 全』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.142.』
江戸湯嶋(不唱小名)
(関東)真言律宗惣本寺
寶林山 佛日院 霊雲寺
開基 元禄四年(1691年) 浄厳和尚(浄厳律師覚彦)

本堂
 本尊 両部大日如来木像
 右  不動明王木像
 左  愛染明王木像
    四天王立像

御祈祷殿
 本尊 大元帥明王画像
    同 木像秘佛
    東照大権現

寶幢閣
 本尊 地蔵菩薩木像
 右(左) 弘法大師木像
 左(右) 開祖浄厳和尚木像

鎮守社
 神体八幡大菩薩 賀茂大明神 稲荷大明神 三神合殿
 右 冨士権現社
 左 恵寶稲荷社

寺中六ヶ院
 智厳院 本尊 地蔵菩薩
 五大院 本尊 愛染明王
 蓮光院 本尊 辨財天
 寶光院 本尊 十一面観音
 五智院 本尊 愛染明王
 福厳院 本尊 釈迦如来
※ 妙極院(下谷七軒町、本尊 大日如来)を含めて塔頭七院
※ 末寺四拾七ヶ寺を記載

『江戸名所図会 第3 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)
寶林山 靈雲寺
大悲心院と号す。圓満寺の北の方にあり。関東眞言律の惣本寺にして、覺彦(かくげん)比丘の開基なり。
灌頂堂 両界の大日如来を安置す。
大元堂 灌頂堂のうしろ方丈の中にあり。本尊大元明王の像は元禄大樹の御筆なり。(以下略(大元法について記す))
鐘楼 本堂の右にあり。開山覺彦和尚自ら銘を作る。
地蔵堂 本堂の左の方艮の隅にあり。本尊地蔵菩薩 弘法大師の作なり。左右の脇壇に弘法大師、ならびに覺彦比丘の両像を安置す。
開山 諱は浄厳、字は覺彦、河州錦部郡小西見村の産なり。父は上田氏、母は秦氏なり。
寛永十六年(1639年)に生る。凡そ耳目の歴る所終に遺忘する事なし。衆人是を神童と称す。(中略)
慶安元年(1648年)高野山検校法雲を禮して薙染す。時に年十歳。朝参暮詣倦む事なし。(中略)元禄四年(1691年)、大将軍(常憲公=綱吉公)召見し給ひ、普門品を講ぜしむ。(中略)遂に城北にして地を賜ひ、梵刹を経始す。ここにおいて佛殿、僧房、香厨、門郭甍を連ね、巍然として一精藍となる。号(なづ)けて霊雲寺という。遂に密壇を建て秘法を行し(中略)元禄五年(1692年)六月、大元帥の大法を修し、國家昇平を祈る。これより以後、毎歳三神通月七日、修法することを永規とす。翌年関東眞言律の僧統となしたまふ。又乙亥の夏、大将軍(常憲公=綱吉公)みづから斎戒し給ひ、大元帥金剛の像を画き、本尊に下し賜ふ。今大元堂に安置し奉る。元禄十年(1697年)、僧俗の請に依って曼荼羅を開く。壇場に入る者九萬人に幾し。隔年灌頂を行ふこと今に至てたえず。(中略)徳化洋々として天下に彌布し。王公より下愚夫に至る迄敬仰せずといふことなし。

『本郷区史 P.1232』(文京区立図書館デジタル文庫)
靈雲寺
湯島新花町に在り、眞言宗高野派の別格本山で寶林山佛日院と称する。元禄四年(1691年)将軍綱吉の建立する所で浄厳和尚を開基とし寺領百石を有した。本堂の外境内に地蔵堂、大元堂、観音堂、鐘楼、経蔵、内佛殿、庫裡、土蔵、学寮等を有したが、何れも大正十二年の震火災に焼失し其後は假建築を以て今日に及んで居る。寺寶の中には十六羅漢十六幅(顔輝筆) 吉野曼荼羅一幅、諸尊集會圖一幅等国寶に指定せられたるものゝ外尊重すべきもの多数を蔵したが何れも大正震火災に焼失した。(國寶は現存)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本郷湯島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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湯島といってもメイン通りから外れており、東京で生まれ育った人間でもあまり訪れることのない立地です。
このような場所に突如としてあらわれる大伽藍は、ある意味おどろきです。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 戒壇石

山門脇の石標に「不許葷辛酒肉入山内」とあります。
よく禅宗の寺院の山門脇に「不許葷酒入山門」(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)と刻まれた標石が立っていますが、これは「戒壇石」といいます。
修行の妨げになるので、「葷」と「酒」は山内に持ち込んではいけない。あるいは「葷」と「酒」を口にしたものは山内に入ってはいけないという戒めです。

「葷」とはニンニク、韮、ラッキョウなどのにおいが強くて辛い野菜、あるいは生臭い肉料理などをさします。
なので、「葷」には「辛」も「肉」も含むはずですが、あえて「葷」「辛」「酒」「肉」すべて列挙して戒めているあたり、戒律を重んじる律宗系の流れの寺院であることが伝わってきます。


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 山内


山門は薬医門か高麗門。
うかつにも内側からの写真を撮り忘れたので断言できませんが、正面からのたたずまいからすると高麗門のような感じもします。
屋根は本瓦葺でさすがに名刹の風格。見上げに山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 寺号標と大本堂
【写真 下(右)】 大本堂

山門をくぐると空間が広がり、正面階段のうえに昭和51年落成の鉄筋コンクリート造2階建ての大本堂(灌頂堂)。
築浅ながら名刹にふさわしい堂々たる大伽藍です。

上層は入母屋造本瓦葺葺、下層も本瓦葺で流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股。


【写真 上(左)】 大本堂向拝
【写真 下(右)】 大本堂扁額

向拝見上げに院号扁額をおき、「西大寺 長老」の揮毫がみえます。
霊雲寺は真言律宗から分離独立して真言宗霊雲寺派総本山となりましたが、西大寺(真言律宗総本山)との関係は依然として深いのかもしれません。

大本堂(灌頂堂)には御本尊として両部(金剛界・胎蔵(界))の大日如来像を奉安。
大本堂の下は寺務所・書院となっています。


【写真 上(左)】 地蔵尊と寶幢閣
【写真 下(右)】 寶幢閣

大本堂向かって左手奥に堂宇があり、「寶幢閣」の扁額があります。
『寺社書上 [68] 湯嶋寺院書上 全』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.142.』には、「寶幢閣」として、「本尊 地蔵菩薩木像、弘法大師木像、開祖浄厳和尚木像」とあり、『江戸名所図会』にはこの位置に「開山堂」とあるので、「大師堂」と「開山堂」の性格を併せ持つ堂宇であったとみられ、いまもこの系譜を受け継ぐ堂宇かもしれません。
なお、「寶幢閣」は「寶幢如来」ゆかりの堂号とも思われます。

 
【写真 上(左)】 寶幢閣の扁額
【写真 下(右)】 弘法大師記念供養塔

寶幢如来は胎蔵曼荼羅の中央の区画「中台八葉院」に御座される如来で、胎蔵大日如来(中央)、寶幢如来(東)、開敷華王如来(南)、無量寿如来(西)、天鼓雷音如来(北)とともに「胎蔵(界)五仏」と呼ばれます。

寶幢如来は「発心」(悟りを開こうとする心を起こすこと)を表す尊格とされます。
開山の浄厳覚彦和尚は啓蒙のためにかな書きの教学書を著わされ、多くの庶民に灌頂・受戒を行うなど衆生を仏道に導かれたとされるので、そのゆかりで「発心」(あるいは発菩提心)を表す寶幢如来の号をいただいているのかもしれません。

『江戸名所図会』には
「大悲心院 花を見はべりて 灌頂の闇よりいでてさくら哉 其角」
の句が載せられ、「幕府祈願所 霊雲寺の名宝」(東京国立博物館)には「霊雲寺では目隠しをして敷曼荼羅に華を投げ、落ちた仏と結縁する結縁灌頂が盛んに行なわれた(中略)霊雲寺で結縁灌頂を受けた後、目隠しの闇と心の闇が同時に晴れる喜びを詠った宝井其角(1661~1707)の句が紹介されています。」とあって、霊雲寺の結縁灌頂が広く知られていたことがわかります。

「幕府祈願所 霊雲寺の名宝」(東京国立博物館)には「多くの庶民に灌頂、授戒を行ない、啓蒙のためにかな書きの教学書を著すなど、浄厳と霊雲寺は民衆にも寄り添い親しまれる存在となりました。」とあり、江戸名所図会にも記されていることから、「将軍家祈願所」という厳めしい存在ながら案外庶民に親しまれ、御府内霊場の札所としても違和感なくとけこんでいたのでは。


↑ でも触れましたが、将軍家護持の御本尊・大元帥明王が御府内霊場の拝尊であったこと、「将軍家祈願所」という立ち位置ながら、庶民の結縁灌頂の場としての機能していたことなど、やはり霊雲寺は二面性をもつ寺院であったことがうかがわれます。

江戸期にあった大本堂裏手の太元堂もいまはなく、山内の伽藍構成はシンプルですが、寶幢閣前の百度石のうえに地蔵尊、立像の厄除大師像(記念供養塔)、梵字碑の前にも地蔵尊が御座します。

ふつう「祈願所」というと、密寺特有の濃密な空気をまとった寺院を想像しますが、こちらは徹底して明るい空間。
これは律宗の流れ、奈良仏教の平明さを受け継いでいるためかもしれません。


【写真 上(左)】 地蔵尊と梵字碑
【写真 下(右)】 御朱印授与案内

御朱印は寺務所にて拝受しました。
Web情報によると、お昼前後は授与を休止との情報あり要注意です。
なお、霊雲寺は歴史ある名刹だけあって多くの霊場札所となっていますが、現在、御朱印を授与されているのは御府内八十八ヶ所霊場のみの模様です。


〔 霊雲寺の御朱印 〕
〔 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊大日如来」「弘法大師」の揮毫と「霊雲精舎」の御印。
右上に「第二十八番」の札所印。左下には「湯島 霊雲寺」の揮毫と寺院印が捺されています。

 
【写真 上(左)】 「御本尊」申告にて拝受の御朱印
【写真 下(右)】 ご縁日の御朱印

「御本尊」申告にて拝受の御朱印には胎蔵大日如来のお種子「ア」の揮毫、ご縁日の御朱印には金剛界大日如来のお種子「バン」と胎蔵大日如来のお種子「ア」の揮毫があります。
「ア」は大元帥明王、寶幢如来のお種子でもあり、当山とは格別のゆかりのあるお種子ではないでしょうか。

なお、申告や日によってお種子の種類が定まっているかは不明です。


■ 第21番-2 大黒山 宝生院
(ほうじょういん)
葛飾区柴又5-9-8
真言宗智山派
御本尊:大黒天
札所本尊:大黒天
司元別当:
他札所:南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第50番、柴又七福神(大黒天)、江戸川ライン七福神(大黒天)

第21番ふたつめは柴又の宝生院です。

下記史料などから縁起・沿革を追ってみます。

宝生院は、寛永元年(1624年)常陸国大聖寺末として京橋付近に創建といいます。
宝永七年(1710年)大塚護持院末に転じ、下谷谷中を経て承応・明暦の頃(1652-1658年)に池之端(下谷)茅町へ移転したといいます。
関東大震災で罹災ののち、昭和2年現在地の柴又に移転しました。

『寺社書上』『御府内寺社備考』とも所在は池之端(下谷)茅町となっています。
下谷茅町(したやかやちょう)は不忍池の西側の低地で、現在の台東区池之端一丁目付近です。

『寺社書上』には境稲荷神社が下谷茅町に御鎮座とあり、こちらの現住所は台東区池之端一丁目なので、こちらのそばにあったのではないでしょうか。
(『江戸切絵図』には宝生院の記載がありません。)

『寺社書上』『御府内寺社備考』には、御本尊は智證大師作と伝わる不動明王とありますが、現在の御本尊は大黒天のようです。
柴又七福神の一つとなっている大黒天は、江戸時代から信仰を集めていたといいます。

火災により古記類を失っていますが、御府内二十一ヶ所霊場の第21番結願所ですから、お大師さまと相応のゆかりをもたれているのでは。

現在、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第50番札所となっていますが、南葛霊場は大正時代に整備とみられ、大正2年移転後、時を経ずして札所に定められたとみられます。

現在は柴又七福神の大黒天霊場として多くの参詣客を集めています。


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【史料・資料】

『『寺社書上』[119] 下谷寺社書上 五止』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.60』
大塚護持院末 真言宗 下谷芽町二丁目
神瑞山寶生院 境内古跡地百二十九坪六合二勺 内門前町屋
当院起立ハ寛永元年(1624年)ニ常州永園村大聖寺末宝性院与申候処 宝永三年(1706年)右寺末●相離 護持院門徒ニ相成 宝永六年(1709年)末寺ニ相願 同七年願之通 僧録大僧正慶善法印被仰付候 其跡宝生之ニ字相改申候
開山不分明 類焼仕古記等ハ焼失
本尊 不動明王立像 智證大師作

「猫の足あと」様掲載の『葛飾区寺院調査報告』には下記内容が記載されています。
・当初は江戸京橋方面にあり、のち下谷の谷中に転じ、さらに承応・明暦の頃(1652-1658年)池之端芽町(台東区)に移ったと伝えられる。
・当寺に安置する出世大黒天は、将軍家をはじめ上下の信仰が厚かったという。
・大正12年の関東大震火災に焼失し、昭和2年12月、現在地に移り、柴又の七福神の一として、甲子の縁日には参詣者でにぎわう。

■ 現地掲示(葛飾区)
柴又七福神 大黒天 宝生院
米俵に乗っている大黒天は、インドの神様と大国主命の習合。当寺に安置する大黒天は、将軍家にも信仰が深く、大きな袋と打ち出の小槌で、多くの人々を救済する「出世財福」の御利益で有名である。
※頭光のある火焔、光背を負った不動明王像が透彫してある「寺宝金銅幡残欠」は、葛飾区文化財に指定されている。



原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本郷湯島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
※図中「イナリ」とあるのが境稲荷神社とみられ、おそらくこのあたりに所在していたと推測されます。


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最寄りは北総線「新柴又」駅で徒歩約2分。
駅近ですが、かなり広い敷地をもちます。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 柴又七福神の看板

緑は少なく、開けた感じの山内で、下町の名刹によくあるパターンです。
山内入口には「開運柴又七福神 出世大黒天 宝生院」の看板が掲げられています。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 参道

ここから本堂に向けて参道がまっすぐに延びています。


【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 本堂

本堂は入母屋造産瓦葺流れ向拝。屋根の勾配が急で勢いのある意匠。
向かって右の唐破風の庫裏といいコントラストを見せています。


【写真 上(左)】 堂内
【写真 下(右)】 堂内扁額


【写真 上(左)】 柴又七福神の札所標
【写真 下(右)】 お前立ち?

向拝には向拝幕が巡らされいくつもの鈴が吊るされて、著名な大黒天霊場であることがわかります。
堂内には護摩壇が設けられ、燈明がともされて厳かな空気感。
堂内上部には「出世大黒天」の扁額が掲げられています。

山内にある切妻造桟瓦葺一間のお堂は、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第50番の大師堂かと思われますが、なぜか確認していません。


【写真 上(左)】 大師堂?
【写真 下(右)】 札所標

山内には御府内二十一ヶ所二十一番の札所標。「剣難除」と刻まれています。

御朱印は庫裏にて拝受しました。


〔 宝生院の御朱印 〕
〔 御本尊・大黒天の御朱印 〕



中央に「出世大黒天の揮毫と、大黒天の御影印と宝珠印。
左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。

なお、柴又七福神は令和3年元旦から、御朱印受付期間が1月1日~1月31日へと変更となっており、この期間しか御朱印を拝受できない札所があります。
ただし、Webで検索した範囲では、宝生院は令和3年以降も1月以外の日付の御朱印がみつかるので、通年授与かもしれません。


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これにて御府内二十一ヶ所霊場のご紹介記事は完結です。
御府内八十八ヶ所霊場よりも御朱印難易度は高いですが、興味深い歴史をもつ札所寺院もあり、御府内八十八ヶ所霊場を結願された向きはトライされてみてはいかがでしょうか。


記事リスト



【 BGM 】
■ e x - MARINA feat. Hisho (from Bling Journal)


■ ナツノカゼ御来光 - 花たん


■ The Days I Spent With You - 今井美樹
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■ 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印-5

Vol.-4からのつづきです。


■ 第15番 瑞光山 如意寺 密嚴院
(みつごんいん)
荒川区荒川4-16-3
真言宗豊山派
御本尊:如意輪観世音菩薩
札所本尊:如意輪観世音菩薩
司元別当:
他札所:豊島八十八ヶ所霊場第83番

第15番札所は荒川区荒川の密嚴院・三河島大師です。

下記史料、『荒川区史』、『豊島八十八ヶ所巡礼』(石坂朋久氏著)などから縁起・沿革を追ってみます。

密嚴院は天文二年(1533年)、覚錟ないし覺生和尚の開基と伝え、山内には同九年(1540年)銘の板碑(荒川区登録文化財)も残ります。
南側にある清瀧山観音寺の末寺で、新義真言宗豊山派に属します。

観音寺は、天文年中(1532-1553年)に長偏僧都が開基創建した名刹で、江戸時代には将軍鷹狩りの際の御膳所にあてられていました。
このエリアの獲物は鶴で、鶴の捕獲を目的とする将軍放鷹は「鶴お成り」と格別に称され、捕らえた鶴は天皇に献上する習わしとなっていました。

密嚴院の御本尊は、一尺八寸の如意輪観世音菩薩立像といいます。
『豊島八十八ヶ所巡礼』には「本尊の如意輪観音は弘法大師作と伝えられ、文化十四年(1817年)に高野山から勧請されたもの」とあります。

境内に弘法大師堂があり「三河島大師」と称され、毎月廿一日の護摩修行は信仰者で賑わったといいます。

御府内二十一霊場札所として、本寺の観音寺ではなく密嚴院が選ばれたのは「三河島大師」の名声が高かったためではないでしょうか。

なお、『荒川区史』には「当院は豊島『八十八ヶ所』の内第八十三番札所、新四國八十八ヶ所の内第四十二番の札所として有名である。」とありますが、「新四國八十八ヶ所の内第四十二番」についてはよくわかりません。

境内には竜女塚があり、塚上にあった文政十三年(1830年)の石碑、本堂・庫裡等は昭和20年の東京大空襲の際に失われたといいます。
伽藍は終戦後に再建されていますが、現在は無住で、観音寺が護持されているようです。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 豊島郡巻六』(国立国会図書館)
(三河島村)密嚴院
(三河島村)観音寺末 瑞光山如意寺ト号ス 本尊如意輪観音

『荒川区史』(国立国会図書館)
密嚴院(三河島町五丁目九六七番地)
観音寺の北隣にある密嚴院は、瑞光山如意寺と号して、新義真言宗豊山派に属し観音寺の末寺である。本尊如意輪観音は其の丈け一尺八寸の立像である。
開山は覺生和尚と云はれるが詳細は不明である。
境内に弘法大師堂がある。敷地四百六十五坪余。毎月廿一日に護摩修行がある。
当院は豊島「八十八ヶ所」の内第八十三番札所、新四國八十八ヶ所の内第四十二番の札所として有名である。


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京成線「町屋」駅とJR常磐線「三河島」駅の中間くらい、近くに荒川区役所はありますが、区民以外はなかなか訪れないところ。
戸建て、マンション、ビルや町工場が混在する下町らしい街区です。


【写真 上(左)】 門前
【写真 下(右)】 院号標

観音寺の北東側の路地に面していますが、山内はなかなか広そうです。
参拝時は門扉が堅く閉ざされていたので、山内の詳細はわかりません。



【写真 上(左)】 三河島大師の標
【写真 下(右)】 弘法大師の石標

門柱には「院号」と「三河島大師」の刻字。
鉄扉には真言宗豊山派の宗紋「輪違い紋」。
門柱手前には「開運厄除弘法大師」の石標が建ち、弘法大師霊場であることを示しています。

鉄扉ごしに近代建築陸屋根の本堂が見えますが、詳細は不明です。

御朱印は観音寺にて拝受しました。
「門扉が閉まっていたので、門前からの参拝となった旨」申告しましたが、現在、閉門中につきその参拝方法でよろしいということで、快く御朱印を授与いただけました。


〔 密嚴院の御朱印 〕
〔 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印 〕



中央に如意輪観音の揮毫と如意輪観音のお種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「豊島第八十三番」の札所印。
左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第16番 五剣山 普門寺 大乗院
(だいじょういん)
台東区元浅草4-5-16
真言宗智山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
司元別当:
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第81番、弘法大師二十一ヶ寺第3番

第16番札所は元浅草の大乗院です。

下記史料などから縁起・沿革を追ってみます。

大乗院の創建年代は不詳ですが、『江戸志』には増誉法印の開山とあります。

『寺社書上』『御府内寺社備考』には、江戸大塚護国寺末、境内古跡拝領地五百坪とあります。
本堂は四間四方で、御本尊は丈壱尺三寸の不動明王立像と記されています。

本堂内奉安の弘法大師御像は「江戸八十八ヵ所之内八十一番」とあり、これは荒川辺八十八ヶ所霊場第81番をさしているとみられます。
『江戸砂子』には「波断不動」ともあるようです。
山内に護摩堂、天王社も擁していたとみられます。

当山は度々類焼に見舞われたためか史料類が少なく、これ以上は辿れませんでした。

しかし、荒川辺八十八ヶ所霊場、御府内二十一ヶ所霊場、弘法大師二十一ヶ寺の3つの弘法大師霊場札所を兼務されているわけですから、弘法大師とのゆかりのふかい寺院であると考えられます。


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【史料・資料】

『寺社書上 [80] 浅草寺社書上 甲五』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.45』
江戸大塚護國寺末 浅草新寺町
五釼山普門寺大乗院 境内古跡拝領地五百坪
当寺書留●度々類焼之為焼失仕 年数其外共●相知不申候
本堂 四間四方
 本尊 不動明王、丈ヶ壱尺三寸立像
 弘法大師 江戸八十八ヵ所之内八十一番
護摩堂
天王社 九尺四方 神体幣束
二王門 二天門 山門 楼門
波断不動(江戸砂子)
開山増誉法印 (江戸志)



原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはメトロ銀座線「稲荷町」駅で徒歩約5分。
メトロ銀座線「田原町」駅からも歩けます。

住宅とオフィスビルが混在する立地。
元浅草から寿にかけては都内有数の寺院の密集地で、需要があるためか仏具・仏壇店が目立ちます。

都道463号浅草通り「松が谷一丁目」交差点から南下する左右衛門橋通りの1本東側の路地を南に入って正福院を過ぎたすぐ先です。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 院号標

路地から少し引きこんだ民家風の建物なので、参道入口の院号札を見落とすとそれとわかりません。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

参道をたどり、本堂に近づくにつれて寺院らしい雰囲気が高まります。

建物手前が向拝。
正面はシックな格子扉、壁面には真言宗智山派の宗紋「桔梗紋」、見上げには院号扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 札所標

向拝手前の「弘法大師 第十六番」と刻まれた立派な石標は、御府内二十一ヶ所霊場の札所標です。

こちらは何度かの参拝でご不在気味だったので、特別にお願いして御朱印を授与いただきました。
通常は不授与の可能性があります。


〔 大乗院の御朱印 〕



中央に不動明王の揮毫と、不動明王のお種子「カン/カ-ン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
左に山号・院号の揮毫があります。


■ 第17番 和光山 興源院 大龍寺
(だいりゅうじ)
北区田端4-18-4
真言宗霊雲寺派
御本尊:両部大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:(上田端)八幡神社
他札所:御府内八十八ヶ所霊場第13番-2、豊島八十八ヶ所霊場第21番、滝野川寺院めぐり第6番

※この記事は御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-4 をベースに再編しています。

第17番札所は田端の大龍寺です。

真言律宗の流れを汲むとされる真言宗霊雲寺派の大龍寺は、東京・豊島エリアの「豊島八十八ヶ所霊場」第21番の札所でもあります。
こちらはWeb上で「弘法大師 十三番」の札所印の御朱印がみつかります。
一瞬「御府内二十一ヶ所霊場」のことかと思いましたが、こちらは第17番。
Web上で調べてみると、どうやら御府内八十八箇所第13番の札所らしいのです。

御府内八十八箇所は、番外・掛所などの札所はありませんが、第19番が2つあること(板橋の青蓮寺と南馬込の圓乗院)は知っており、いずれも御朱印は拝受していました。

しかし、第13番についてはノーマーク。Web検索でも確たる情報は出てきません。
通常、第13番は三田の龍生院(弘法寺)がリストされています。

御府内霊場第13番は、もともと霊岸島にあった圓覚寺とされ、明治初期に龍生院に引き継がれたとされていて大龍寺との関連は不詳です。

そこで「弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場」に注目してみました。
「弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場」は江戸期に開創とみられる弘法大師霊場で、『東都歳時記』に「弘法大師 二十一ヶ所」として記載があります。(ただし、こちらは別霊場とみられる「弘法大師二十一ヶ寺」を示すものかもしれません。)

札所一覧は→こちら(「ニッポンの霊場」様)

こちらをみると、ほとんどが新義真言宗系・真言宗霊雲寺派(天台宗1)で、古義真言宗寺院はありません。
ふたつの真言宗霊雲寺派は湯嶋霊雲寺(結願)と大龍寺で、湯嶋霊雲寺のみの御府内霊場より札所数が多くなっています。

ふつう、弘法大師二十一ヶ所は弘法大師八十八ヶ所の簡易版で、札所が重複するケースが多いですが、御府内二十一ヶ所霊場では21札所のうち7のみ(谷中観音寺、谷中加納院、谷中明王院、谷中長久院、谷中多宝院、谷中自性院、湯嶋霊雲寺、当山を入れると8)で重複はすくなく、御府内霊場とは別の観点から開創されたものかもしれません。

いずれにしても、すくなくとも大龍寺は豊島八十八ヶ所、御府内二十一ヶ所霊場のふたつの弘法大師霊場札所なので、大師霊場とゆかりのふかい寺院であることは間違いないと思います。

下記史料等によると創建は慶長年間(1596-1615年)。
当初は新義真言宗で不動院 浄仙寺と号していましたが、安永年間(1772-1780年)に湯嶋靈雲寺の観鏡光顕律師が中興され、現寺号に改称しているようです。
俳人の正岡子規をはじめ、横山作次郎(柔道)、板谷波山(陶芸家)などの墓所としても知られています。

『新編武蔵風土記稿』によると、江戸期は(上田端)八幡神社の別当を司っていたようです。

【写真 上(左)】 (上田端)八幡神社
【写真 下(右)】 (上田端)八幡神社の御朱印


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国立国会図書館DC)
(西ヶ原村)大龍寺
眞言律宗湯嶋靈雲寺末 和光山興源院ト号ス 古ハ不動院浄仙寺ト号セシニ 天明ノ頃僧観鏡光顕中興シテ今ノ如ク改ム 本尊大日ヲ置
八幡社 村ノ鎮守トス
稲荷社

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JR「駒込」駅と「田端」駅のほぼ中間、上野から日暮里、田端、西ヶ原、飛鳥山とつづく台地のうえにあります。

落ち着いた住宅地のなかに名刹らしい広大な寺地を構えています。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 墓所を示す境外の石碑

山門は三間三戸の八脚門ですが、脇戸にも屋根を置き、様式はよくわかりません。
主門上部に「和光山」の扁額。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 右手からの本堂

本堂は二層で、入母屋造本瓦葺様銅板葺で流れ向拝、階段を昇った上層に向拝を置いています。
すっきりとした境内に堂々たる伽藍。このあたりは、霊雲寺派総本山の霊雲寺にどことなく似通っています。


【写真 上(左)】 向拝見上げ
【写真 下(右)】 本堂扁額

水引虹梁両端に草文様の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に彩色の海老虹梁と手挟、中備に葵紋付き彩色の板蟇股。
正面に「大龍寺」の扁額と、これを挟むように小壁に彩色の蟇股がふたつ。
身舎出隅の斗栱にも彩色が施され、二軒の平行垂木もよく整って華やかな印象の本堂です。

このところ巡拝者が増えているとみられる豊島八十八ヶ所霊場の札所なので、御朱印は手慣れたご対応です。
拝受者が少ない滝野川寺院めぐりの御朱印申告についても、特段驚かれた風はありませんでした。

御府内八十八箇所は結願したつもりでしたが、知ってしまった以上は、参拝し御朱印を拝受したいところ。

仔細がおありになるかもしれないので、御府内霊場についての詮索めいた質問は控えました。
淡々と「御府内霊場第13番」の御朱印をお願いし、淡々とお受けいただき、淡々と拝受しました。
なお、こちらは原則月曜はお休み(閉門)なので要注意です。


〔 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印 〕

【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊 大日如来」の揮毫と胎蔵大日如来の種子「ア」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右下に「弘法大師 十三番」の札所印。左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

〔 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印 〕


〔 滝野川寺院めぐりの御朱印 〕



■ 第18番 象頭山 観音寺 本智院
(ほんちいん)
北区滝野川1-58-2
真言宗智山派
御本尊:
札所本尊:
司元別当:鳥越大明神(鳥越神社)?
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第80番、弘法大師二十一ヶ寺第18番、北豊島三十三観音霊場第28番

第18番札所は北区滝野川の本智院(滝野川不動尊)です。

下記史料などから縁起・沿革を追ってみます。

『御府内寺社備考』によると本智院は当初八丁堀辺に起立されたといいます。
明暦年間(1655-1658年)に記録焼失とあるので、すくなくともそれ以前の起立とみられます。(元和年中(1615-1624年)開基という資料あり。)
同書には「京都智積院末」とあり、智積院直末というすこぶる格の高い寺院であった可能性があります。

中興開山は権大僧都法印明実(元禄二年(1689年)寂)。

『寺社書上』(文政年間(1818-1830年)編纂)には「仮本堂」とあるので、この時期なんらかの理由で仮の本堂となっていたとみられます。
とはいえ間口六間奥行三間の堂々たる堂宇です。

御本尊は金剛界大日如来木像。
本堂には弘法大師木座像、興教大師木座像、阿弥陀木立像、正観音木立像を安すと記されています。

聖天堂は宗対馬守建立とあり、対馬藩主宗家の建立かもしれません。
安する長七寸五分の聖天銅立像は弘法大師の御作で赤松円心(赤松則村、1277-1350年、村上源氏赤松氏4代当主で播磨国守護)の所持と記されています。
甲宵聖天像も弘法大師の御作で赤松円心の所持とあります。
本地は十一面観世音菩薩木立像、長一尺七寸五分で恵心僧都作とあります。

弁財天並びに十五童子も弘法大師の御作で、「江の嶋にて十万座護摩修行、其灰を以て作り裏に手判有之」とあります。
正観音立像も弘法大師の御作とあります。

山内に鎮守十二所権現、長珠院・不動院の二ケ院を擁したとあります。

弘法大師御作と伝わる尊像を幾軆も安し、対馬の宗氏、赤松円心という名族とのゆかりをもつことからみても、相応の寺格を有していたとみられます。

荒川辺八十八ヶ所霊場、御府内二十一ヶ所霊場、弘法大師二十一ヶ寺という3つの弘法大師霊場の札所を務められることについては、寺格の高さもさることながら、複数の弘法大師御作の尊像を安するという所以によるのではないでしょうか。

明暦年間(1655-1658年)に焼失後、浅草(不唱小名)に移転といいます。
『江戸切絵図』には、浅草新寺町の仙蔵寺と玉宗寺の間に「本智院」とみえるので、現在の台東区寿二丁目あたりとみられます。

大正になされたという滝野川への移転の経緯は、当然下記史料には記載がありません。
「猫のあしあと」様記載の『北区史』には「もと浅草区(現台東区)栄久町一三二にあつた。幕末鳥越神社の別当職を司つた時代もあつた程の由緒ある寺で、元和年中(1615-1624年)開基、大正六年五月区内の滝野川町四八都電飛鳥山終点の所に移転の許可を得て新築し、大正十年五月に移転をおえた。滝野川の不動として知られ本尊は不動明王である。」とあります。

『北区史』の「幕末鳥越神社の別当職を司つた時代もあつた」という記載が気になるので、いささか長くなりますが鳥越神社(鳥越大明神)について辿ってみます。。

鳥越神社の別当は御府内八十八ヶ所霊場第51番であった鳥越の長樂寺だった筈です。
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-17

鳥越大明神(鳥越神社)は白雉二年(651年)村人が日本武尊の遺徳を偲び、白鳥明神として鳥越山(白鳥山)に祀ったのが創祀と伝わる古社です。
往年のこの地は「鳥越(白鳥)の山」と呼ばれた小高い丘で、日本武尊が東夷御征伐の折に暫く御駐在された地といいます。
相殿の天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、中臣(藤原)氏の祖神として祀られ、奈良時代に藤原氏が国司として武蔵に赴任した際、この地にお祀りされたといいます。

永承(1046-1053年)の頃、八幡太郎義家公の奥州征伐の折、この地で渡河に難儀しましたが、白い鳥に浅瀬を教えられて無事軍勢を進めることができました。
義家公はこれを白鳥大明神の御加護と称え、鳥越山(白鳥山)のお社を参拝され「鳥越大明神」の号を奉じられて、これより「鳥越」の地名が起こったとされます。

社地はすこぶる広く、三味線堀(姫が池)に熱田明神、森田町に第六天神(榊神社)が末社として御鎮座され「鳥越三所明神」と称していました。

徳川幕府による旗元・大名屋敷・御蔵地整備のため、鳥越山はとり崩されて埋め立てに使われました。
この際、熱田神社は三谷(現・今戸)へ、榊神社は堀田原(現・蔵前)へと御遷座され、鳥越大明神も御遷座を迫られましたが、第二代神主鏑木胤正の請願が容れられて元地に残られました。

別当・長樂寺は『寺社書上』によると、開山の法印の遷化が寛永二十年(1643年)なので、3代将軍家光公の治世(1623-1651年)までには創建とみられます。

鳥越山轉輪院長樂寺と号し、山号は本社から、院号は兼帯していた京都嵯峨轉輪院永院室から号したものとみられます。

本社・鳥越大明神の御本地馬頭観音、御本尊として不動明王を奉安していました。
弘法大師御像も奉安していたため、御府内霊場札所の要件はきっちり満たしていたとみられます。

鳥越大明神の神職鏑木氏は桓武平氏常将流と伝わり、鳥越神社の社紋として月星紋・九曜紋(千葉氏の紋)が使われているようです。
また、長樂寺に星供養曼荼羅が奉安されていたことからも、妙見信仰の千葉氏との関係がうかがわれます。

鳥越大明神と別当・長樂寺は源氏の棟梁・八幡太郎義家公、桓武平氏の代表姓・千葉氏いずれともゆかりをもつ、複雑な来歴をもたれているのかもしれません。

明治初期の神仏分離で別当の長樂寺は廃寺となり、以降は鳥越神社と号して郷社に列せられました。

例大祭・鳥越祭は都内随一の重さを誇る「千貫神輿」の渡御と、夜に行われる荘厳な宮入で「鳥越の夜祭り」として広く知られています。

以上、鳥越神社の沿革を辿ると、別当として長樂寺の名は出てきますが、本智院との関係は明示されていません。
結局のところ、『北区史』の「幕末鳥越神社の別当職を司つた時代もあった」という記載の根拠についてはよくわかりませんでした。


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【史料・資料】

『寺社書上 [77] 浅草寺社書上 甲三』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.33』
京都智積院末 浅草不唱小名
象頭山観音密寺本地院 境内古跡拝領地六百七拾二坪
当寺往古八丁堀辺に起立之由申伝候得● 明暦年中(1655-1658年)類焼之節記録焼失仕相知不申候
中興開山 権大僧都法印明實(元禄二年(1689年)寂)
仮本堂 間口六間奥行三間
 本尊 大日金剛界木像
 弘法大師木座像 興教大師木座像 阿弥陀木立像 正観音木立像
聖天堂 土蔵造方三間 拝殿 二間四方宗対馬守建立
 聖天銅立像 長七寸五分弘法大師作 赤松円心所持
 甲宵聖天像 同作同人所持
 本地十一面観音木立像 長一尺七寸五分恵心僧都作
 辨財天并十五童子 各長七寸八分弘法大師作
  右ハ江の嶋にて十万座護摩修行 其灰を以て作り裏に手判●●
  天長七年(830年)七月七日と●●
 正観音立像 長九分弘法大師作
 大黒天立像 俵千十三俵其上ニ安置長一寸三分
鎮守十二所権現
末社稲荷木立像
 右十二所権現稲荷合社ニ有之候所 先年類焼之節焼失仕 当時聖天堂二安置
寺中長珠院不動院と号し候 二ケ院有之候処退廃仕候 年代は相知不申候得共 延享年中(1744-1748年)御改之節 二ケ院共書上候由申伝候得ハ 其比ハ相続仕有之候義ニ御座



原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りは都電荒川線(東京さくらトラム)「飛鳥山」駅至近。「王子」駅からも歩けます。

滝野川は寺社が集まる御朱印エリアですが、その多くは明治通り北側の滝野川沿いに立地しています。
明治通りの南側に位置する本智院周辺は、一種のエアポケット的なエリアとなっており、筆者もこの界隈は初訪でした。

都電荒川線(東京さくらトラム)「飛鳥山」駅のお隣りですが、フェンスがあったりして、やや複雑なアプローチです。


【写真 上(左)】 すぐ横が飛鳥山駅
【写真 下(右)】 外観

山内入口には門柱。院号と「滝野川不動尊」が刻字されています。
入口向かって右脇には身代地蔵堂。堂前の石碑には「江戸三大身代地蔵尊」とあるので、有名な地蔵尊なのかもしれません。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 身代地蔵尊


【写真 上(左)】 狛犬と大日堂
【写真 下(右)】 大日堂

山内右手に狛犬と大日堂。
堂内には法界定印を結ばれる胎蔵大日如来が御座します。
Wikipediaに「境内には、1667年(寛文7年)製の石像の大日如来坐像があるが、これは移転時に一緒に移したものである。(出所:『北区史跡散歩』 (東京史跡ガイド17))」とあるので、こちらの大日如来はおそらく浅草時代に造立され、こちらに遷られたとみられます。

参道右手が庫裏で、その先が本堂です。
3階建の建物の右手1階が向拝となっているかたちです。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

タイル壁に木造の千鳥破風の向拝が填め込まれたような、個性的な意匠です。
左右の向拝柱に木札が掛けられていますが、読みとれませんでした。
向拝上部に「阿遮羅尊」の扁額。
「阿遮羅」とは不動明王の梵名「acalanātha(アチャラナータ)」の漢字表記で、不動堂を
阿遮羅殿と記す場合があります。

【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 本堂側からの大師堂

本堂から駅寄りに進むと大師堂です。
こちらは通常閉門されていますが、毎月二十一日(お大師さまのご縁日)には解放され、中のお砂踏み場にて巡拝することができます。


【写真 上(左)】 大師堂門前
【写真 下(右)】 札所標


【写真 上(左)】 大師堂よこのお砂踏み場
【写真 下(右)】 御砂踏心得

堂前の門柱は「荒川辺八十番、御府内十八番、北豊島二十八番」の3つの霊場の札所標となっています。


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 御府内十八番の御詠歌

大師堂は切妻屋根銅板葺でシックな黒色系の格子扉。
見上には御府内二十一ヶ所第18番の御詠歌が掲げられています。

弘法大師霊場を巡拝していて、このようなしっかりとした大師堂に出会うのはやはり嬉しいものです。

御朱印は庫裏にて拝受しました。
お不動様のご縁日(28日)に、事前にTELの上お伺いしました。
常時授与かはわからず、ご不在のこともありそうなので事前確認をおすすめします。


〔 本智院の御朱印 〕
〔 荒川辺霊場・御府内二十一ヶ所霊場の御朱印 〕



中央に「本尊 不動明王」の印判と三寶印。
右上に「御府内十八番 荒川辺八十番」の札所印。
左に「瀧野川不動尊」の印判と寺院印が捺されています。


■ 第19番 阿遮羅山 蓮華寺 阿遮院
(あしゃいん)
荒川区東尾久3-6-25
真言宗豊山派
御本尊:阿遮羅明王(不動明王)
札所本尊:阿遮羅明王(不動明王)
司元別当:
他札所:豊島八十八ヶ所霊場第63番、荒川辺八十八ヶ所霊場第10番

第19番札所は荒川区東尾久の阿遮院です。

下記資料、『荒川区史』、『豊島八十八ヶ所巡礼』(石坂朋久氏著)などから縁起・沿革を追ってみます。

阿遮院の開基創立等は不明ですが、延元三年(1338年)銘の板碑が所蔵されています。
尾久に於ける最古の寺院と伝えられ、「尾久町字大門」の地名は当院の大門があった事によるとの説があります。
『新編武蔵風土記稿』には、新義真言宗で田端村與楽寺の末とあります。

『江戸切絵図』には、東尾久とおぼしきところに「阿比院」とあります。
荒川観音寺、満光寺、慶(華)蔵院、地蔵寺、宝蔵寺と隅田川との位置関係からみて、この「阿比院」が阿遮院と思われます。(ただし満光寺との位置関係が逆。)

旧本堂は中興の巌永上人により天保二年(1831年)建立といいますが、震災により失いました。

御本尊の阿遮羅明王(不動明王)は、良辨僧都(689-774年)の作と伝えます。
『荒川区史』には「境内にはなほ閻魔堂や稲荷社がある。」と記されています。

本尊は阿遮羅明王(不動尊、梵名アシャラナータ)で、こちらが山号・院号の由来といいます。

山内には延元三年(1338)の板碑が所蔵され、元禄十四年(1701年)の光明真言供養塔があります。

『新編武蔵風土記稿』には、東尾久の華蔵院、町屋の慈眼寺は阿遮院の末寺・門徒とあります。

当山についての史料類は多くはありませんが、末寺をもっていたこと、豊島八十八ヶ所霊場、御府内二十一ヶ所霊場、荒川辺八十八ヶ所霊場の3つの弘法大師霊場の札所を兼務されていること、また、現在の寺容からみても相当の名刹と思われます。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 豊島郡巻六』(国立国会図書館)
(下尾久村)阿遮院
新義真言宗、田端村與楽寺ノ末 阿遮山蓮葉寺ト号ス 本尊不動
稲荷社

『荒川区史』(国立国会図書館)
阿遮院(尾久町一丁目八九七番地)
新義真言宗豊山派に属し、田端與楽寺末である。
開基創立等は不明であるが、尾久に於ける最古の寺院と伝へられている。
尾久町字大門は、昔そこに当院の大門があった事により出たものとの説がある。
境内地は八百五十六坪である。
震災前の本堂は、中興巌永上人によって天保二年(1831年)に建立されたものであった。
本尊阿遮羅明王即ち不動尊は良辨僧都の作と伝える。
境内にはなほ閻魔堂や稲荷社がある。



原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
※図中「阿比院」とあります。
荒川観音寺、満光寺、慶(華)蔵院、地蔵寺、宝蔵寺と隅田川との位置関係からみて、この「阿比院」が阿遮院と思われます。(ただし満光寺との位置関係が逆。)


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最寄りは都営荒川線(東京さくらトラム)京成線「東尾久三丁目」駅。
まわりに寺社は少なく御朱印エリアではないですが、阿遮院は豊島八十八ヶ所霊場の札所なので一定の参拝客はいるのかもしれません。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 門柱の院号標

山内入口の門柱に院号標とその手前に御府内二十一ヶ所の札所標。
反対側には院号サイン。「出世石尊 子育(授)地蔵様 弘法大師霊場」とあります。
「弘法大師霊場」として「武蔵國 豊島八十八箇所第六十三番 荒川邊八十八箇所第十番 御府内二十一箇所第十九番」の掲示も出ています。


【写真 上(左)】 御府内二十一ヶ所の札所標
【写真 下(右)】 弘法大師霊場案内

荒川区教育委員会の説明板には「山号・寺号は本尊不動明王の梵名阿遮羅囊他(アシャラナータ)にちなむもの」とあります。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山門

ブロック塀に沿って参道を進むと、正面に山門。
切妻屋根桟瓦葺でおそらく薬医門と思われます。
見上げには山号扁額。


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 石仏群


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

山内は予想以上に広く、緑もゆたかです。
本堂は入母屋造本瓦葺流れ向拝。均整のとれた堂々たる堂宇です。
向拝柱はなく、開けた印象の向拝で、硝子扉の上に院号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額

現地案内板には、文化財として江戸時代、百万遍念仏講で使用した鐘と数珠、建武三年(1338年)銘の板碑、元禄十四年(1701年)建立の光明真言三百六十万遍供養塔などが記されています、

御朱印は庫裏にて拝受しました。


〔 阿遮院の御朱印 〕
〔 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印 〕



中央に「不動明王」のお種子「カンマン」と尊格の揮毫と「カンマン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)
右上に「武蔵國豊島六十三番」の札所印。
左に山号・院号の揮毫と寺院印が捺されています。


以下、つづきます。
(→ ■ 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印-6

記事リスト



【 BGM 】
■ Ring Your Bell - LiSA x Kalafina LisAni! LIVE 2017 Complete Ver CROSS STAGE 2017/01/27


■ 名もない花 - 遥海


■ 千年の恋 - ANRI/杏里
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12曲の「CAN YOU CELEBRATE?」

こういう曲は、もうでてこないかもしれない。
楽曲のよさ、歌い手の力量とヒットチャートがリンクしていた幸せな時代。

こういう曲が、いまの若い世代の卓越した歌唱力を育てあげたのかも。

さまざまな歌い手が、いろいろなニュアンスで歌い上げることができる間口の広い曲。

超難曲で、最後まで歌いつづけるのは至難だが・・・。
それだけにラストの大サビで真価が問われる。
↓ 「→ ラスト」を聴き比べてみるとよくわかります。

2曲追加して12曲にしてみました。

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2023/11/20 UP
リンク切れつなぎなおし、少し追加してリニューアルUPしてみました。

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2021/02/19 UP

先ほど放送してた『Mスタ』の「時代を超える恋うた国民生投票!」。
個人的にはぜったい「CAN YOU CELEBRATE?」だけど、選ばれないだろな~ と思ってたらNo.1だった。
やっぱりそれだけインパクトのある神曲ということか・・・。

でも、ハンパな技量じゃ歌いこなせないよ。

お蔵入りさせている記事だけど、限定UP中です。
せひぜひ聴き比べてみてください。

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2020/07/14 UP

今回の豪雨の被災者のみなさまにお見舞い申し上げるとともに、一日も早い復旧をお祈り申し上げます。

時事ネタがたくさんあるのですが、どうにも考えがまとまらないのでやめときます。
名曲に思いっきりひたりたくなったので、2018年9月の記事に追加してUPします。

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2018/09/16 UP

安室奈美恵さん、おつかれさま。そして数々の名曲をありがとう。
年始の小室哲哉氏の引退もあって、ひとつの時代が終わった感じがする。

ベスト1曲となると、やっぱりこの曲かな。
小室哲哉氏の才能が冴え渡る名曲かつ超難曲。
これからも多くの人々に歌い継がれていくであろう曲。
そして多くの才能を育てていく曲だと思う。
(ハイトーン・ヴォイス、声の艶、ビブラートの「女神系歌姫三種の神器」(詳しくはこちらをみてね)を持ち合わせていなければ、とても持たない難曲であります。)

□ 安室奈美恵CAN YOU CELEBRATE? / (25th Anniversary Live Edit)

元歌。圧倒的な力量がないと歌いこなせないことがよくわかる。


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10曲のCAN YOU CELEBRATE?

Web上で健闘しているテイクをいくつか探してみました。
この難曲に挑む無謀な人(笑)はあまりいないらしく、意外にカバー(歌ってみた)が少ない。

お急ぎの方は、「→ ラスト」だけでもクリックして聴いてみてね。


■ CAN YOU CELEBRATE?/安室奈美恵 covered by 武田レイナ

ラスト
人気の歌い手さん。

■ Can you celebrate? 歌ってみた

ラスト
やさしい感じのCAN YOU CELEBRATE?。甘いハイトーンが心地よい。

■ CAN YOU CELEBRATE ? / 安室奈美恵 【Cover】

ラスト
声が澄んでるし音程も安定してる。ライブハウスで活動してるみたいだしプロ?

■ CAN YOU CELEBRATE?/安室奈美恵.cover by makigon

ラスト
すごく丁寧に歌っているCAN YOU CELEBRATE?。

■ 安室奈美恵サンの『CAN YOU CELEBRATE?』歌ってみた🎵

ラスト
ところどころ荒れ気味だけど声に色気があってエモーショナルな仕上がり。

■ 「CAN YOU CELEBRATE?」 井上和 乃木坂46

ラスト
きれいな声質だし、かなり健闘してると思う。

■ 安室奈美恵 - CAN YOU CELEBRATE?|キャン・ユー・セレブレイト? (Satomi Cover)

ラスト
声質がきれいで歌いまわしに雰囲気あり。フェイクかませるこういう歌い方もあるのか・・・。

■ CAN YOU CELEBRATE? - 安室奈美恵(フル) high_note Music Lounge

ラスト
high_noteさんらしい安定感あふれる仕上がり。

■ 安室ちゃんのCAN YOU CELEBRATE?を歌ってみた #安室奈美恵 #千秋 #90年代

ラスト
この難曲の魅力を引き出すには、このくらい声をぶつけていかないとダメなのか?

■ 安室奈美恵 CAN YOU CELEBRATE? (カバー) Namie Amuro

ラスト
声質がいいしかなり巧い。画面のモニターみてるとビブラートがきれいに効いているのがわかる。

■ 安室奈美恵『CAN YOU CELEBRATE?』歌ってみた♪リクエスト

ラスト
甘さを帯びたハイトーン。声に深みと力感もあってかなりのレベルだと思う。

■ 「CAN YOU CELEBRATE?」/安室奈美恵 hima.cover#78

ラスト
リズムのつかみ方が巧い。そして安定感。

■ CAN YOU CELEBRATE? / 安室奈美恵 covered by May J.【スナック橋本】

ラスト
カバーの達人といわれる May J.。さすがに安定感抜群。

■ 熊田このは 『CAN YOU CELEBRATE?』 MSP 11Feb2018

ラスト
ハイトーンの安定感やビブラートだけじゃない。抜群のリズム感が支えていることがわかる名唱。
カラオケ機械採点100点。
後半に行くに従って声の艶が増していく。こういう展開はほとんど聴いたことがない。

熊田このはちゃんのセトリ(&出演記録)-Vol.2
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■ 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印-4

Vol.-3からのつづきです。


■ 第11番 圓明山 宝福寺 西蔵院
(さいぞういん)
公式Web

台東区根岸3-12-38
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:三島社(金杉村)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第2番

第11番札所は金杉・根岸の西蔵院です。

公式Web『新編武蔵風土記稿』『下谷区史』などから縁起・沿革を追ってみます。

西蔵院の創建年代は不詳ですが、天正十九年(1591年)の『上野郷水帳』にその名が見えること、「康安二年(1362年)」の銘のある板碑が発見されていることから、江戸幕府開府以前の創建とみられています。

開山は法印平眞(寂年未詳)。中興は第二十世法印祐水(文政二年(1819年)寂)。
江戸時代には金杉村の三島社(現・本社(寿)三島神社)の別当を勤めていたといいます。

本社(寿)三島神社は、元寇(弘安の役(1281年))の際、河野通有が伊予國大三島神社に必勝祈願した後、上野に分霊を勧請して創建と伝わります。
慶安二年(1649年)朱印地四石を金杉村に給せられ御遷座。
宝永七年(1710年)には社地が東叡山領(ないし幕府用地)となったため、替地の浅草小揚町(現・台東区寿)へ御遷座といいます。

しかし、三島神社は里民の協議の結果、当地の熊野社と合祀されて元三島社となり、旧金杉村鎮守となって下谷七福神の寿老神もお祀りしています。

このあたりの経緯はなかなか複雑で、西蔵院がどの時点で三島神社の別当を務めたのかは追い切れませんでした。

金杉の三嶋明神社の本地は十一面観世音菩薩と伝わります。
こちらのWeb記事に『東都歳事記』に「江戸三十三所観音参」として記載されている観音霊場があり、その第33番は寿の三島明神内の十一面観世音菩薩といいます。

だとすると、金杉の三嶋明神社の本地の十一面観世音菩薩が寿に遷られて、この観音霊場の札所本尊となった可能性があります。


【写真 上(左)】 本社(寿)三島神社
【写真 下(右)】 本社(寿)三島神社の御朱印


【写真 上(左)】 元三島神社
【写真 下(右)】 元三島神社の御朱印


明治維新後は「御行の松」で有名な時雨岡不動堂を境外仏堂として護持されており、この時雨岡不動堂は、明治維新後廃寺となった上野の一乗院(第20番)を承継しているといいます。
荒川辺八十八ヶ所霊場第2番も兼務しています。

西蔵院は池波正太郎の『鬼平犯科帳」、『九鬼周造随筆集』にもその名がみえます。

文化財として「西蔵院棟札」があり、台東区有形文化財に指定されています。

『新編武蔵風土記稿』には、新義真言宗、足立郡元木村吉祥院末 圓明山寶福寺ト号ス 本尊大日とあり、稲荷社、護摩堂を擁したとあります。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 豊島郡巻七』(国立国会図書館)
(金杉村)西蔵院
新義真言宗、足立郡元木村吉祥院末 圓明山寶福寺ト号ス 本尊大日 開山平眞ト云 寂年ヲ失ヒタレト天正十九年、上野郷ノ水帳ニモ寺号ヲ蔵タレハ古キ寺ナリ 浅草田原町続ニ祀ル三島明神(現・本社(寿)三島神社)ノ別当寺ナリ 稲荷社 護摩堂

『下谷区史』(国立国会図書館)
西蔵院(中根岸町二六番地)
京都智積院末、圓明山法福寺と号す。本尊大日如来。起立の年月は詳でないが、天正十九年の上野郷水帳にその名が見えているといひ、又近年土中より康安二年の文字ある板碑を発見したといふから、その古寺なることが察せられる。開山は法印平眞。(寂年未詳)中興は第二十世法印祐水。(文政二年八月二十一日寂)
神佛分離以前は三島神社の別当であったが、今は時雨岡不動堂及び釋迦堂を管理している。そして当寺の弘法大師は府内二十一箇所の第十一番であった。

『下谷区史』(国立国会図書館)
元三島神社
上根岸町四十二番地に鎮り座す。
祭神は伊佐那岐命、大山積命、上津姫命、下津姫命、和足彦命、嚴島姫命。
この社の創祀に就いては江戸名所図絵浅草三島神社條に、往古河野何某、本國豫州の地より此武蔵國へ赴くの海上にして、風波の難に逢、仍本國一宮の御神に祈り奉りしに、恙なく着岸せしかば神恩を報奉らむが為め、第宅の地に勧請ありし由と伝えている。
慶安二年(1649年)徳川家光より朱印地四石を金杉村のうちに於て給せられた。
しかし寶永七年(1710年)当社地は幕府用地となったために、浅草小揚町(現・台東区寿)に替地を給せられ、その地に遷座すると共に朱印地も浅草の三島社に属して行った。
こゝに於て後に遺された里民は協議の上、御分霊を同所の熊野社に合祀し、元三島と称へて篤く崇敬することゝなったのである。
新編武蔵風土記稿金杉村熊野社の條に「里俗に元三島と呼ぶ、前にいへる三島社地寶永年中御用地となり、替地を賜はらざる間は神體を假に此社内に移置けり、故に其此より当社を元三島とは称せりとぞ」とある。
(中略)境内社は二社。稲荷神社(祭神保食神)、菅原神社(祭神菅原道眞公)則ちそれである。
氏子は上根岸町、中根岸町、下根岸町及び荒川區日暮里町元金杉。
舊別当は新義真言宗智山派西蔵院(現中根岸町二六番地)であった。



出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』今戸箕輪浅草絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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都内で御朱印集めを重ねていくと、古刹が集まっているのに不思議と御朱印授与情報が少ないエリアがあることが判ってきます。
その多くは真宗がメインのエリアで、これは教義上からみてもいたしかたないところでしょう。
これとは別に歴史ある札所が集まっていながら、御朱印授与情報が思うようにとれない地域があります。
台東区根岸エリアはその代表例といえましょう。

根岸は江戸期から知られた寺町で、かつては豊島郡金杉村根岸と呼ばれていました。
荒川辺八十八ヶ所、弘法大師御府内二十一ヶ所、江戸東方三十三観音、江戸東方四十八地蔵など古い霊場の札所は集まるものの、現役の御府内八十八箇所、豊島八十八ヶ所、江戸三十三観音などの霊場札所がないこと、加えて七福神札所をもたないことなどが、御朱印を拝受しにくい背景にあるかと思います。

根岸は西を荒川区東日暮里、東を台東区下谷にはさまれた南北に細長い街区です。
寺院の少ない東日暮里から根岸に流れてくる参拝客は稀でしょう。
下谷は鬼子母神(真源寺)をはじめとする下谷七福神の札所や三島神社、小野照崎神社などもある御朱印エリア。寺社巡りの参詣者は概ね下谷で止まってしまうため、その奥の根岸にはなかなか足を向けにくいという状況があるかと思われます。

しかし、ここ根岸には「根岸古寺めぐり」という9箇寺からなる寺院巡りのコースがあって、専用スタンプ(集印)帳方式で集印できるというのです。

第1番 東光山 長命院 薬王寺の薬師如来 台東区根岸5-18-5
第2番 大空庵の虚空蔵菩薩 台東区根岸5-8-12
第3番 佛迎山 往生院 安楽寺の阿弥陀如来 台東区根岸4-1-3
第4番 東国山 中養院 西念寺の一刀三礼三尊佛 台東区根岸3-13-17
第5番 鐡砂山 観音院 世尊寺の大日如来 台東区根岸3-13-22
第6番 補陀洛山 千手院の千手観世音 台東区根岸3-12-48
第7番 法住山 要伝寺の六曼茶羅 台東区根岸3-4-14
第8番 寶鏡山 円光寺の釈迦牟尼佛 台東区根岸3-11-4
第9番 関妙山 善性寺の釈迦牟尼佛 荒川区東日暮里5-41-14

この専用スタンプ帳は画像検索でまったくヒットせず、どういうものか皆目不明でした。一念発起 (^^; してこの集印を結願したので、■ 根岸古寺めぐりでご紹介しています。

しかし西蔵院は根岸の古刹でありながら、この「根岸古寺めぐり」には参画していません。
荒川辺八十八ヶ所霊場第2番、御府内二十一ヶ所霊場第11番の札所ですが、どちらもメジャー霊場ではなく、その点からすると比較的認知度の低い寺院かもしれません。

根岸へのアプローチ駅は三ノ輪(メトロ日比谷線・都営荒川線)、入谷(メトロ日比谷線)、JRの鶯谷ないしは日暮里となります。
大寺と整備された広幅員道、狭い路地と戸建住戸が複雑に入り混じる変わった感じの街区で、路地に迷い込むといきなり方向感を失うので要注意です。

位置的には根岸柳通り「根岸四丁目」交差点の南西です。
路地に面して、名刹らしい風格のある寺容をみせています。


【写真 上(左)】 外観
【写真 下(右)】 山門


【写真 上(左)】 斜めからの山門
【写真 下(右)】 見事な山門の彫刻

山門は切妻屋根銅板葺の薬医門で、格高の門柱上部に見事な見返り唐獅子の木鼻彫刻を置いています。
脇塀に連接して入母屋造桟瓦葺の門屋を置き、ちょっと変わった意匠となっています。


【写真 上(左)】 根岸小学校発祥之地碑
【写真 下(右)】 御府内二十一ヶ所霊場札所標

門前には「根岸小學校発祥の地」の石碑と「御府内二十一ヶ所霊場第11番」(弘化年間(1845-1848年)銘)の貴重な札所標を置いています。


【写真 上(左)】 院号札
【写真 下(右)】 本堂

山門をくぐった山内は緑が少なく広々とした印象。

正面の本堂は堂前両側に端正な石灯籠を置き、コンクリ造ながら起り気味の銅板葺屋根を置いた寄棟造で、きりりと引き締まった意匠。
流れ向拝で向拝部の軒だけが照り(反り)を帯びるなど芸が細かいです。


【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 向拝

向拝柱はないですが、格子扉の上に山号扁額、向拝前に香炉を置いています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 石佛群

本堂向かって左手には堂宇(御本尊尊格不明)、弘法大師一千五十年遠忌供養塔と庚申塔、
石佛群が並びます。
うち、五基の庚申塔は明暦二年(1656年)から正徳元年(1711年)の造立で、台東区の有形文化財に指定されています。

御朱印は以前(2016年)に庫裏にて拝受しましたが、2024年4月の参拝時には「現在コロナ禍におきまして、御朱印記帳を休止しております。」との張り紙がありました。


書置ならばいただけるかとお伺いしましたが、書置もお出しされていないとのこと。
こちらはWeb上で希少な「御府内二十一ヶ所霊場第11番」の札所印つきの御朱印がみつかるのですが、現況は上記のとおりで宿題となっています。

〔 西蔵院の御朱印 〕

中央に金剛界大日如来のお種子「バン」と大日如来の揮毫と三寶印。
左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第12番 鐡砂山 観音院 世尊寺
(せそんじ)
台東区根岸3-13-22
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第1番、根岸古寺めぐり第5番

第12番札所は金杉・根岸の世尊寺です。

『新編武蔵風土記稿』『下谷区史』、現地掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

世尊寺は、豊嶋左近将監輝時の開基、賢栄(永和四年(1378年)寂)の開山で應安五年(1372年)創建という真言宗豊山派の古刹です。

『新編武蔵風土記稿』によると足立郡元木村吉祥院末で鐵砂山観音院と号し、御本尊は大日如来。

聖天社に奉安の御本尊と相殿の薬師如来は豊嶋輝時の守本尊とあります。
大師堂には弘法大師自作ノ長一尺七寸の尊像を安し、堂中には不動明王、愛染明王も安したと記されています。
他に地蔵堂もあったようです。

慶安二年(1649年)には寺領七石五斗の御朱印状を拝領といいます。
文化年間(1804~)開創とされる荒川辺八十八ヶ所霊場の第1番を勤められることからも、江戸期にはこのエリアで主導的な役割を担っていたことが伺われます。

荒川辺八十八ヶ所霊場は根岸の世尊寺で発願し、尾久、滝野川、江北、西新井、千住、綾瀬、掘切、八広、向島、亀戸、浅草などの札所を巡ったのち、同じく根岸の千手院で結願する弘法大師霊場で、江戸期に根岸の寺院が特別な地位を占めていたことが窺い知れます。

世尊寺は荒川辺八十八ヶ所霊場第1番をはじめ、御府内二十一ヶ所霊場第12番、根岸古寺めぐり第5番の3つの霊場札所を兼務されますが、いずれも知る人ぞ知る渋い霊場のためか、Web情報などは少なくなっています。

山内はさすがに広めで、古色を帯びた大師堂、御本尊大日如来、お大師様の御遺告所蔵など、真言密教の保守本流的なお寺のようにも思われます。

名刹だけに「紙本墨書御遺告(弘法大師の遺言書の写本)、紙本墨書御遺告(台東区登載文化財)、絹本着色仏涅槃図(台東区登載文化財)、本墨画普賢・文殊菩薩画像(台東区登載文化財)など多くの文化財を所蔵されます。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 豊島郡巻七』(国立国会図書館)
(金杉村)世尊寺
同末(足立郡元木村吉祥院末)、鐵砂山観音院ト号ス 寺領七石五斗慶安二年八月御朱印ヲ附セラル 当寺ハ應安五年豊嶋左近将監輝時建立ス 開山賢榮永和四年十一月晦日寂セリ 本尊大日
聖天社 豊嶋輝時ガ守本尊ト云 相殿薬師モ同 石尊十羅刹稲荷合社
大師堂 弘法大師自作ノ像ヲ安ス 長一尺七寸 又堂中二不動愛染ヲ安セリ
地蔵堂

『下谷区史』(国立国会図書館)
世尊寺(中根岸町八八番地)
京都仁和寺末、鐡砂山観音院と号す。應安五年九月の創建にかゝり、開基は豊島左近将監輝時、開山は僧賢榮である。幕府より二石五斗の朱印地を給せられていた。



出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』今戸箕輪浅草絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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入谷は御朱印エリアで、国道4号を越えた下谷エリアにも小野照崎神社、法昌寺や三島神社があって、御朱印マニアは入り込みますが、その先の金杉通りを越えて根岸エリアまで踏み込む人はまれです。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標

世尊寺は、その根岸エリアに入ってしばらく行ったところにあります。
かなりの大寺ながら、山門は奥まった路地に面しているという根岸のお寺らしいたたずまい。


【写真 上(左)】 山内-1
【写真 下(右)】 山内-2

門柱を構え、その先にシャープな意匠の本堂を構えて、どことなくクールな雰囲気です。
しかし、山内に足を踏み入れると、左手に子育地蔵尊のお堂、右手に大師堂と、古色を帯びた堂宇があらわれ、俄然雰囲気が高まります。


【写真 上(左)】 子育地蔵尊と笠付地蔵六面幢
【写真 下(右)】 子育地蔵尊


【写真 上(左)】 根岸古寺めぐり第5番札所板
【写真 下(右)】 (かつてあった)古寺めぐりの御集印所

子育地蔵堂には三体の地蔵尊立像を奉安で、おそらく中央が子育地蔵尊と思われます。
柱には根岸古寺めぐり第5番の札所板が掲げられ、堂宇向かって右のアイロン台のような台のうえに、以前は根岸古寺めぐりのスタンプが置いてありました。


【写真 上(左)】 笠付地蔵六面幢
【写真 下(右)】 大師堂

その先の漆喰壁の堂宇の前には大ぶりな笠付地蔵六面幢が安しています。

参道の反対側には寄棟造桟瓦葺の大師堂。
すこぶる雰囲気のあるお堂で、こちらがあることで真言密寺の保守本流感を醸し出しています。


【写真 上(左)】 斜めからの大師堂
【写真 下(右)】 御府内二十一ヶ所の札所板


【写真 上(左)】 御府内二十一ヶ所の札所標
【写真 下(右)】 福智六地蔵菩薩の石碑

堂前には御府内二十一ヶ所霊場第12番の札所標(文久三年(1863年)銘)と、「福智六地蔵菩薩」の石標。
向拝見上げには向かって右に弘法大師、左に六地蔵尊の扁額、その中央には「御府内廿一ヶ所第十二番」の真新しい札所扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 大師堂の扁額
【写真 下(右)】 御府内二十一ヶ所の札所扁額

こちらは荒川辺八十八ヶ所霊場第1番の打ち初めですが、掲示類を見る限り御府内二十一ヶ所の方が前面に出ている感じです。


【写真 上(左)】 大師堂堂内
【写真 下(右)】 お大師さま

堂内は開放されていて、正面に線刻の六地蔵尊。
その背後上部の厨子内には弘法大師坐像が御座され、その下には御府内二十一ヶ所の奉納額(明治31年)が置かれて、少なくともこの頃まではこの霊場が盛んに回られていたことをうかがわせます。


【写真 上(左)】 奉納額
【写真 下(右)】 本堂

本堂は近代建築ながら屋根の相輪と向拝見上げの山号扁額が、名刹の本堂の風格を保っています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

予想に反して本堂の扉は開きました。
高い天井から吊られた豪壮な天蓋の向こう、中央に智拳印を結ばれた金剛界大日如来坐像、向かって右手に観世音菩薩立像、左手には地蔵菩薩立像が御座されています。


【写真 上(左)】 庚申塔
【写真 下(右)】 庫裏

山内の庚申塔は延宝二年(1674年)の造立で、正面に邪鬼を踏む青面金剛像が刻まれ、その左右と下方には二童子、四夜叉、二鶏、一猿が刻まれるという、いささか変わった像容で台東区の有形民俗文化財に指定されています。


根岸古寺めぐり巡拝時には庫裡に伺い御朱印授与につきお尋ねしましたが、揮毫の御朱印は授与されておらず、古寺めぐりのスタンプにて、とのことでした。
たしかに、スタンプは御寶印で寺院名も捺せ、別に古寺めぐりの札番印(つぶれ気味だが)もありますから御朱印とみることができます。


根岸古寺めぐりの専用スタンプ(集印)帳とスタンプ(集印)

スタンプは子育地蔵堂のよこに設置されていましたが、2024年4月参拝時にはスタンプはありませんでした。


〔 世尊寺の御朱印 〕※根岸古寺めぐりの集印


主印(蓮華座+火炎宝珠)の種子はやや不明瞭ですが、金剛界大日如来の荘厳体種子(五点具足婆字)「バーンク」と思われます。右上に不明瞭ながら「第五番」の札所印。
右上に寺院名と尊格の印刷があります。

寺号と御寶印を備えたこのスタンプ(印判)はどうみても「御朱印」なので御朱印帳にもいただきました。




■ 第13番 東光山 等印院 龍泉寺
(りゅうせんじ)
台東区竜泉2-17-15
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:
司元別当:千束稲荷神社(台東区竜泉)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第3番、東都北部三十三観音霊場第25番

第13番札所は台東区竜泉の龍泉寺です。

下記史料、現地掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

創建年代、開基とも不詳ですが、法印深盛(天正十九年(1591年)寂)の中興で、地名(龍泉寺町)の由来となったという名刹です。

周辺は古くは当山の寺領でしたが、家康公関東入國以後は幕府領となり、正保(1644-1648年)以後は東叡山領となったといいます。
明治維新前は千束稲荷社の別当と伝わります。

関東大震災に罹災し、現伽藍は震災後に建立されています。

『寺社書上』『御府内寺社備考』によれば大塚護國寺末の新義真言宗で御本尊は大日如来木像。

境内に千束稲荷神社が御鎮座で、本地は十一面観世音菩薩とあります。
当社は源頼朝公とのゆかりがあったようですが詳細は不明です。

千束稲荷神社公式Web『東京都神社庁Web』によると、御祭神は倉稲魂命、素盞鳴尊。
江戸時代初期(おそらく寛文年間(1661-1672年))の創建と伝えられ、竜泉寺村(北千束郷)の氏神様とのこと。(明治5年村社に列す)
千束稲荷はかつて浅草寺境内の上千束稲荷(西宮稲荷)と、当社の前身である下千束稲荷の二社に分かれていましたが、上千束稲荷は現存していません。

樋口一葉の名作『たけくらべ』は当社の祭礼が舞台になっており、『たけくらべ』ゆかりの神社として境内には樋口一葉の文学碑も建立されています。

龍泉寺は千束稲荷神社の別当だけでなく、荒川辺八十八ヶ所霊場第3番、東都北部三十三観音霊場第25番の札所を務められ、相応の参拝者を集めていたものとみられます。
いまは下町らしい碁盤の目状の街区に、静かなただずまいをみせています。

なお、荒川辺八十八ヶ所霊場の札所本尊は大日如来、東都北部三十三観音霊場の札所本尊は十一面観世音菩薩とも考えられますが、それを伝える史料はみつかりませんでした。

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【史料・資料】

『寺社書上 [118] 下谷寺社書上 四』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.46』
大塚護國寺末 下谷龍泉寺町 
真言宗新義
東光山等印院龍泉寺
起立相知不申候 開基相分不申候
中興 法印深盛 天正十九年(1591年)二月八日寂
本堂
 本尊 大日木像遍照殿之額字。
境内 千束稲荷神社
 拝殿三間二間
 神體 翁之形ニテ稲ヲ荷ヒテ立リ 丈一尺
 本地 十一面観音
 右社●頼朝公御心願あり 霊夢によって夢想の神薬を出す 人参五香湯といふ 諸病によし
 末社疱瘡神
 椎木あり囲ニ抱奉七本ニ分ル 第六天ノ神体トナセリ

当寺ハ此地第一の古跡なり 往古ハ新吉原等も此寺の領●なり 今以龍泉寺町といふあり 此所の千束稲荷神社も当寺の兼帯なり(続江戸砂子)
当寺の開山詳ならす もとより其時代を伝へす。されと龍泉寺を以って地名とすれハ古き寺なること知るへし 古き武蔵國図にハ龍泉寺村と載たり(江戸記聞)

『下谷区史』(国立国会図書館)
龍泉寺(龍泉寺町四〇一番地)
京都智積院末、東光山等印院と号す。本尊大日如来(大正十二年九月焼失)。その起立は詳かでないが、中興の法印深盛は天正十九年(1591年)二月八日に寂したといへば相応の古寺である。町名(もと村名)もこの寺名によって起り、古くは当寺の寺領であったが、家康の關東入國以後幕府の領地となり、正保以後東叡山領となった。維新前は千束稲荷社は当寺の持であった。



出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』今戸箕輪浅草絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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竜泉は入谷・千束の北側、三ノ輪寄りの街区で下谷のお隣です。
場所柄、寺社が多く、御朱印を授与される寺社も少なくありませんが、御朱印エリアのイメージはさほど強くありません。
その理由として、竜泉の複数の寺院が「下谷七福神」の札所となっていることもあるかと思います。(下谷の寺院のイメージがある。)

龍泉寺は国道4号日光街道から1本入った路地に面しているので、意外に目立ちません。
この路地は「一葉桜・光月通り」といい、南下するとかっぱ橋道具街ですがここまでくると車通りも人通りもまばらな静かな一画です。


【写真 上(左)】 外観
【写真 下(右)】 山内入口


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 門柱の寺号標

まわりをビル群に囲繞されていますが、築地塀に門柱、その正面に本堂を構え、古刹の風格をただよわせています。
門柱手前に寺号標。正面階段参道の上に本堂がそびえています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂は入母屋造桟瓦葺で流れ向拝。バランスのとれた端正な意匠です。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に蟇股を置いています。
向拝正面サッシュ扉の上に山号扁額。
賽銭箱はなく、向拝まわりに札所を示すものもありません。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 石塔・石佛群

しかし、本堂向かって左手には弘法大師一千百年遠忌報恩塔、弘法大師百度石、石塔・石佛群などが並び、本堂に相対する大師堂には弘法大師坐像が御座されて、弘法大師霊場札所であることを物語っています。


【写真 上(左)】 弁天堂と大師堂
【写真 下(右)】 弁天堂


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 大師堂よこの弘法大師碑

本堂向かって右手には福徳弁財天が御座されます。
台座銘によると令和4年秋奉安の比較的新しい尊像のようです。

筆者の経験によると、本堂に賽銭箱のない寺院は御朱印不授与のケースが比較的多いですが、こちらも御朱印は不授与とのことでした。

江戸期に別当を務められた千束稲荷神社の御朱印をあげておきます。

〔 千束稲荷神社の御朱印 〕


【写真 上(左)】 千束稲荷神社
【写真 下(右)】 千束稲荷神社の御朱印


■ 第14番 恵日山 延命寺 地蔵院
(じぞういん)
台東区元浅草1-15-8
真言宗智山派
御本尊:地蔵菩薩
札所本尊:地蔵菩薩
司元別当:
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第84番、弘法大師二十一ヶ寺第5番

第14番は元浅草の地蔵院です。

下記史料、山内掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

地蔵院の開山は蓮祐で年代不明ですが、第二世法印慶良は寛永十一年(1634年)寂と伝わることから安土桃山時代〜江戸時代初期にかけての創建とみられています。

『寺社書上』『御府内寺社備考』には江戸大塚護持院末の新義真言宗とあります。
同書によると、御本尊は地蔵菩薩、相殿に弘法大師、興教大師の尊像を奉安。
「弘法大師 八十四番」とあるので、荒川辺八十八ヶ所霊場第84番札所として知られていたことがわかります。

護摩堂には愛染明王、不動明王、毘沙門天王を安し、地蔵堂には石地蔵尊立像が御座と記されています。

奉安の尊像、3つの弘法大師霊場の札所であったことからも、保守本流の真言密寺であることがうかがえます。

当山は史料類が少なく、これ以上は辿れませんでした。

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【史料・資料】

『寺社書上 [81] 浅草寺社書上 甲六』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.56』
江戸大塚護持院末 浅草新寺町
新義真言宗
恵日山延命寺地蔵院
開山 蓮祐 年代不知。
第二世法印慶良 寛永十一年九月四日寂
本堂
 本尊 地蔵菩薩 厨子入立像
相殿
 弘法大師 八十四番 厨子入座像
 興教大師 厨子入座像
護摩堂
 本尊 愛染明王座像 不動明王立像 毘沙門天王立像
地蔵堂 石地蔵尊立像



原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはメトロ銀座線「稲荷町」駅で徒歩数分。
元浅草~寿とつづく、御府内八十八ヶ所の札所密集エリアにあります。

「稲荷町」駅から南に伸びる清洲橋通りの1本東側路地に面しています。


【写真 上(左)】 外観
【写真 下(右)】 院号標

前面道路から拝すと、門柱とその前に院号標、右手に十三重石塔、左手に羯磨金剛(かつまこんごう)が描かれた堂宇、そして正面に寺院建築の本堂と、お寺感ばりばりの寺容です。


【写真 上(左)】 門柱の院号標
【写真 下(右)】 山内


【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 本堂

参道左手にはしっかり御府内二十一カ所の札所標が置かれています。
その先左手の側面に羯磨金剛が描かれた堂宇は向拝が設けられていますが、堂宇本尊はうかつにも訊き忘れたので不明です。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

正面の本堂は入母屋造桟瓦葺で流れ向拝。
向拝身舎に設けられた横長の格子つき花頭窓が個性的ないい本堂です。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に蟇股を置き、向拝正面硝子扉の上には山号扁額を掲げています。

御朱印は庫裡にて拝受しました。


〔 地蔵院の御朱印 〕

 

中央に地蔵大菩薩と地蔵菩薩のお種子「カ」、右に梵字、左に「南無遍照金剛」の揮毫と「カ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内廿一ヶ所第十四番」の札所印。
左に山号・院号の揮毫と寺院印が捺されています。

完璧な「御府内廿一ヶ所」の御朱印、山内の「御府内廿一ヶ所」札所標と、「御府内廿一ヶ所」の現役札所であることを実感できる貴重な寺院です。


以下、つづきます。
(→ ■ 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印-5

記事リスト



【 BGM 】
■ ebb and flow 【凪のあすからOP】 - LaLa(歌ってみた)


■ 滴 - 今井美樹


■ LANI~HEAVENLY GARDEN~ - ANRI/杏里
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■ 日本で売れたAOR ~Big in Japan~

先ほど放送の「ザ・カセットテープ・ミュージック」、内容がキレッキレだった。

とくにBOROの「ネグレスコ・ホテル」を介して、安全地帯の「ワインレッドの心」とMarty Balinの「Hearts/ハート悲しく」を結びつけてしまうあたり、実際のところそうだったのでは?

■ ネグレスコ・ホテル - BORO (1983)

コード進行

■ ワインレッドの心 - 安全地帯(1984)

コード進行

■ Hearts(ハート悲しく) - Marty Balin(1981)

コード進行

こういう切り回しは、マキタスポーツ&スージー鈴木でなければ絶対にできないと思う。
次回(後編)も楽しみ。 


たしかに1970年代後半~1980年前半あたり、AORと歌謡曲はかなり近いフェーズにあった ↓

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2022/05/26 UP
突然ですがAORです。

1970年代後半~1980年代前半、日本ではいわゆるAOR(Adult-Oriented Rock)が売れまくっていた。下手すると本国の米国よりも・・・。
それが証拠に日本限定リリースのAORアルバムがけっこうあったりする。

どうしてこんなに売れたかというと、じつはAORのヒット曲ってさりげに日本人好みのメロディだったりするわけで・・・。
今回は、そんな曲たちを思いつくままに7曲拾ってきました。

01.Special To Me - Bobby Caldwell


02.Just When I Needed You Most(アメリカンモーニング) - Randy Vanwarmer


03.Magic - Dick St. Nicklaus


04.I Go Crazy - Paul Davis


05.Hearts - Marty Balin


06.You're Only Lonely - J.D. Souther


07.We're All Alone - Boz Scaggs

↑ この曲、米国より日本で人気あったといわれているけど、いま聴き直すとやっぱりそんな感じがする。

Marty BalinゃBertie Higginsもそうだけど、けっこうベタなメロ曲もAORに括られていた気がする。
だから、やっぱり「AOR」は日本のジャンルで、米国の「AC」(Adult Contemporary)とはニュアンスがちがうと思う。
(どーでもいいことだけど、この手のベタな日本受けするArtistやヒット曲を「Big in Japan」といいます。)

これまた、どーでもいいことだけど、「なんクリ」のサントラ、この手の曲が多いと思う。
「ぼくだけの東京ドライブ」(たまらなく、アーべイン)を読むと、田中康夫氏は「AC」系に造詣が深く、あえて日本での受け狙いで選曲を図った感じがする。
この狙いは的中し、1982~1983年にかけて日本ではAORが一大ブームとなったが、これはあとから考えると”諸刃の剣”だったかも知れず、定型化したAORは時を経ずして凋落を迎えることとなる。





↓ よろしければベタ(日本人好み)じゃないAORも聴いておくんなましな。
個人的にはこっちの方がぜんぜん好み(笑)
■ AORの名バラード1ダース
■ ミディアムなAOR25曲


いま振り返ってみると、ひょっとして洋楽よりも1970年代後半~1980年代中盤の日本の音楽の方が、グルーヴ感やメジャー・セブンスを徹底して追求していたような感じがする。
だから世界的にみても稀少価値があって、いまになって「シティ・ポップ」とカテゴライズされて人気を集めているのでは?

■ セイシェルの夕陽 - 松田聖子 (1983年) 

↑ 歌謡曲ジャンルにして、このサウンドだもんね。

■ 海 - サザンオールスターズ (1984年)

↑ メジャー・セブンス系の初期サザン。

■ Last Summer Whisper - ANRI/杏里(1982年)

↑ 邦楽がもっとも洋楽に接近した時代のグルーヴ感あふれるミディアム・バラード。


〔関連記事〕
■ グルーヴ&ハイトーン (グルーヴってなに・・・?)
■ サザンのセブンス曲
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■ ハイトーン オブ ザ ハイトーン

ハイトーンつながりで、もうひとつ。

■ 梶浦由記「Yuki Kajiura LIVE vol.#16 ~Sing a Song Tour~『overtune〜Beginning』」


5:22~
誰もがハイトーンのソロとれる実力派揃いのなかで、ひときわ粒立ったハイトーンを繰り出した貝田さん。
超絶ハイトーンの力を実感させる名テイク。


実力者揃いのカラバトU-18黄金の世代、ソロ活動もいいけどやっぱりユニット組んでほしい。
プロデュースはもちろん梶浦由記さん!

でもって、貝田さんのポジションをとれるのはやっぱり熊田このはちゃんではないかと・・・。

■ 熊田このは「少年時代」スライドショー
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■ 小田和正特集

先ほどNHKで小田和正特集の再放送やってましたね。
しかし、70歳代でこの張りのあるハイトーンとは・・・。

番組の〆で、自分の歌いはじめ(原点?)は鈴木康博とのハモりにあったと語っていた。

世間一般ではメガヒットを重ねた小田和正のソロシンガーのイメージが強いかもしらんが、たしかにオフコースはコーラスグループでもあったと思う。

■ 思いのままに - オフコース 『Three and Two』(1979年)


■ 愛を止めないで - オフコース 1981.2.10 HD


ハーモニーとアンサンブルがポップミュージックの中心にあった時代。
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■ 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印-3

Vol.-2からのつづきです。


■ 第7番 仏到山 無量寿院 西光寺
(さいこうじ)
公式Web

台東区谷中6-2-20
新義真言宗
御本尊:五大明王
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第70番、弘法大師二十一ヶ寺第15番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第7番

※この記事は御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-23 をベースに再編しています。

第7番札所は谷中の西光寺です。

西光寺はかつて御府内八十八ヶ所霊場第70番札所でしたが、現在第70番札所は練馬石神井の禅定院に替わっています。

御府内霊場第70番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに谷中の西光寺となっており、第70番札所は御府内霊場開創当初から江戸末期まで谷中の西光寺で、明治初頭以降に石神井の禅定院に変更となった可能性があります。

下記史料、山内掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

西光寺は慶長八年(1603年)、傳燈大阿闍梨妙音院法印宥義大和尚(佐竹氏代16代当主・義篤次子、元和四年(1618年)寂)が幕府より神田北寺町に寺地を賜り開山といいます。
開基檀越は佐竹右京大夫義宣。
当山は佐竹氏との所縁がふかいので、佐竹氏について少しく追ってみます。

佐竹氏は新羅三郎源義光公の孫昌義(1081-1147?年)が常陸国久慈郡佐竹郷(現・茨城県常陸太田市)に土着し、佐竹氏を称したという清和源氏の名族です。

源平合戦では平家にくみしたため頼朝公により所領を没収された(Wikipedia)ものの、後に再興し奥州討伐では鎌倉方に加わりました。
南北朝時代の8代当主・貞義、9代・義篤は足利氏に応じて北朝方として活躍し、その功から守護職に任ぜられて家勢は興隆しました。

足利満兼公制定と伝わる「関東八屋形」に列せられ、戦国時代の15代当主・義舜は反目する佐竹山入家を討って佐竹氏統一を果たし、18代の義重は常陸の大半を支配下に置き、奥州南部にも進出して有力戦国大名としてその名を馳せました。

義重の子・19代義宣は秀吉公の小田原征伐に参陣し、常陸國54万5800石の大名となり、
徳川・上杉・毛利・前田・島津とともに「豊臣六大将」と呼ばれるほど勢力を拡大。

佐竹義宣は佐竹義重の嫡男で母は伊達晴宗の娘。
官位は従四位上・左近衛中将、右京大夫を賜るという、家柄・格式を有する、名実兼ね備えた太守でした。

義宣は幾度か石田三成のとりなしを受け、天正十八年(1590年)三成の忍城攻めに加勢したこともあり、石田三成との関係は良好でした。
慶長四年(1599年)3月、前田利家逝去ののち、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、黒田長政、細川忠興、池田輝政らが三成の屋敷を襲撃した際、義宣が三成を女輿に乗せ、宇喜多秀家邸に逃れさせたという逸話は有名です。
また、秀吉から羽柴姓を与えられるなど豊臣色の強い大名でした。

関ヶ原の戦いでは水戸城へ引き上げ、積極的に徳川方に与力しなかったため戦後咎を受けましたが家康公に謝罪し、家名断絶は遁れたものの出羽国秋田、54万石から20万石への減転封となりました。

義宣が家康公から転封の沙汰を受けたのは慶長七年(1602年)5月(Wikipedia)、出羽(秋田)入国は同年9月なので、水戸から秋田への転封直後にみずから開基となって西光寺を創建(慶長八年(1603年))したことになりますが、その背景は史料からは辿れませんでした。

慶安元年(1648年)神田北寺町の寺地が幕府用地として収公、谷中の現所に替地となりました。
慶安二年(1649年)佐竹修理大夫義隆(秋田久保田藩第2代当主)が堂舎を再建したため、義隆は中興開基とされます。
以降何度か火災に遭っていますが、都度佐竹家により再建されています。

公式Webによると、当山は「秋田藩(秋田市)佐竹家・伊勢津藩(三重県津市)藤堂家の祈願寺として信仰されてきた歴史」があるそうです。

公式Webによると、仏寺創建の際には藤堂高虎が財政的支持をおこなったと伝えられ、山内の韋駄天像は藤堂高虎安置と伝わり、別名「韋駄天寺」とも称されたようです。

江戸時代の西光寺は御府内二十一ヶ所霊場のほか、御府内八十八ヶ所霊場、弘法大師二十一ヶ寺、上野王子駒込辺(西國)三十三観音霊場の札所を兼ねられてお大師さまとの所縁もふかい寺院です。

明治初頭の神仏分離の波も乗り越えているのに、おそらく明治初頭以降のどこかのタイミングで御府内八十八ヶ所霊場第70番の札所は石神井の禅定院に変更となっています。

西光寺は和歌山の根來寺を総本山とする新義真言宗。
禅定院は真言宗智山派で宗派も異なり、変更の理由についてはよくわかりません。


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【史料・資料】

『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
七十番
谷中 門前町あり
佛到山 無量壽院 西光寺
本所彌勒寺末 新義
本尊:不動明王 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [110] 谷中寺社書上 』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考 P.98』
谷中 不唱小名
本所彌勒寺末
佛到山無量壽院西光寺
当寺之濫觴慶長八年(1603年) 開山宥義 於神田北寺町寺地拝領仕
堂舎 佐竹右京太夫義宣公建立
慶安元年(1648年)右寺地御用地ニ付 於当所旧地之●第四世宥鏡代拝領仕
慶安二年(1649年)佐竹修理太夫義隆公堂舎再建仕候

開山 伝灯大阿闍梨法印宥義、俗姓佐竹大膳太夫義篤公二男 元和四年(1618年)寂
開基 佐竹右京太夫義宣公 寛永十年(1633年)卒
中興開基 佐竹修理太夫義隆公(秋田久保田藩第2代当主) 寛文十一年(1671年)卒

本堂
 本尊 不動尊鋳型座像 附二童子木像
 四大明王木像 十一面観音木像 聖天府秘符
 阿弥陀如来木像
 弘法大師木像 興教大師木像
 愛染明王木像座像 地蔵菩薩木像座像 不動明王古像座像
境内鎮守社 天神稲荷疱瘡合殿
十一面観音石像
地蔵尊石像
韋駄天石像

『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
西光寺(谷中上三崎南町二〇番地)
本所彌勒寺末、佛到山無量壽院と号す。本尊不動明王、五大尊。慶長八年(1603年)、開山妙音院宥義。(佐竹義篤次子、元和四年(1618年)寂)
幕府より神田北寺町に於て寺地を給せられ、佐竹右京大夫義宣開基檀越として当寺を創建した。慶安元年(1648年)同所幕府用地となるや、現所に替地を給せられ、翌二年(1649年)佐竹修理大夫義隆堂舎を再建した。義隆はために中興開基と呼ばれる。時の住持は第四世宥鏡であった。(略)
佐竹家の他に藤堂家の祈願所であつた。境内の韋駄天石像は同家の寄進する所で、韋駄天寺の俗称は之に基くのである。



「西光寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはJR「日暮里」駅で徒歩約10分。
東京メトロ千代田線「根津」駅からも歩けます。

三崎坂から南下して瑞輪寺よこを通り一乗寺に向かう路地沿いには、いくつかの寺院があってそのひとつ。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 韋駄天石碑

山内入口は門柱で、その横には「足病平癒 韋駄天安置 藤堂候 佐竹候旧御府内祈祷所」の石碑。


【写真 上(左)】 六地蔵
【写真 下(右)】 左が韋駄天



【写真 上(左)】 石佛群-1
【写真 下(右)】 石佛群-2

正面が本堂、向かって左奥が庫裏(寺務所)というシンプルな伽藍配置です。
参道右手手前から、六地蔵、地蔵尊、十一面観世音菩薩、韋駄天、庚申様、如意輪観世音菩薩などの古色を帯びた石佛が並びます。

韋駄天は四天王の増長天に従う八将の一神で、走力に優れ邪神を追い払うことから伽藍の守護神とされ、とくに禅刹の庫裏(玄関)によく祀られています。


【写真 上(左)】 庫裏側の石像と句碑
【写真 下(右)】 本堂

本堂はおそらく切妻造桟瓦葺流れ向拝で手前に修行大師像とかわいい地蔵尊像が御座します。


【写真 上(左)】 修行大師像
【写真 下(右)】 斜めからの向拝

向拝は水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に蟇股を置いています。
正面硝子戸には佐竹家の家紋「佐竹扇/五本骨扇に月丸」が描かれ、見上には山号扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 門柱の寺号標

御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受しました。
西光寺は以前は御朱印不授与でしたが、近年カラフルな月替わり御朱印で一気に人気のお寺となり、おそらく参拝者(というか絵御朱印ファン)の数は御府内八十八ヶ所霊場の札所より多いかと思います。
絵御朱印の威力おそるべし。

なお、こちらは授与日・授与時間限定でで案内が出ています。
授与日がすくなく授与時間も短いのでこのサイトで事前確認必須です。


〔 西光寺の御朱印 〕

 

中央に「五大明王」の揮毫と不動明王のお種子「カン/カーン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。カラー御朱印の場合は主印が不動明王の御影となるようです。
右に「佐竹候藤堂候祈祷所」の印判。
左に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第8番 瑠璃光山 薬王寺 長久院
(ちょうきゅういん)
台東区谷中6-2-16
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:御府内八十八ヶ所霊場第55番、江戸八十八ヶ所霊場第55番、弘法大師二十一ヶ寺第19番、閻魔三拾遺第4番、江戸・東京四十四閻魔参り第12番

※この記事は御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-19 をベースに再編しています。

第8番は谷中の長久院です。

第55番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに長久院で、第55番札所は開創当初から谷中の長久院であったとみられます。

下記史料、山内掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

長久院は、慶長十六年(1611年)幕府より賜地を得て宥意上人が神田北寺町に開山、慶安十一年(1658年)幕府による寺地召上げを受け、代地として賜った谷中の現在地へ移転したといいます。

『下谷区史 〔本編〕』によると、神田北寺町での賜地および創建、谷中への移転の事由や時期は多寶院(第49番)、自性院(第53番)と同様とみられます。

江戸期の長久院は、本堂に御本尊の金剛界大日如来、弘法大師、興教大師、不動尊、愛染明王、薬師如来、歓喜天三躰、地蔵尊を奉安し、御府内霊場としての要件を満たしていたとみられます。

本堂とは別に閻魔法王石像(台石とも六尺)を奉安。
こちらは閻魔三拾遺第4番、江戸・東京四十四閻魔参り第12番の札所となっており、御府内でも著名な閻魔様であったことがわかります。

こちらの閻魔法王石像は右左にそれぞれ司命、司録像を配し「六十六部造立石造閻魔王坐像及び両脇侍像」として台東区登載文化財に指定されています。
なお、閻魔法王(大王)王冥界の王で、司命は閻魔王の判決を言い渡し、司録は判決内容を記録する従者であるとされます。

台座銘文に六十六部聖の光誉円心が享保十一年(1726年)に造立とあります。
六十六部聖とは、生前の罪障を滅し、死後の往生に近づくために法華経を六十六部写経し、全国の六十六箇所の霊場に一部ずつ奉納して回る聖のことをいいます。

六十六部聖は巡拝先に奉納経石塔を建立することが多いですが、石仏を奉納する例もみられます。
石仏は地蔵菩薩が多く、閻魔王像は極めて稀であるとされ、この稀少さもあって区登載文化財に指定されている模様です。

『寺社書上』には「飯縄不動安置」とあり、飯縄修験の流れが入っていた可能性があります。
同じく『寺社書上』にある「稲荷社」は、鎮守神かもしれません。

長久院は「弘法大師二十一ヶ寺」第19番の札所でもあります。
この霊場は、「弘法大師二十一ヶ寺御詠歌所附版木」が伝える弘法大師霊場で、この附版木は寛政二年(1790年)の開版ですからかなり古い来歴をもちます。

これとは別に「弘法大師 御府内二十一ヶ所」という霊場もあります。
「ニッポンの霊場」様によると、この霊場は元禄(1688年)から宝暦(1751年)の間に開創とされる古い霊場で、宝暦五年(1755年)頃の開創とされる御府内霊場より古い可能性があります。

二十一ヶ所霊場は、八十八ヶ所霊場のミニ版として開創され八十八ヶ所と札所が重複するケースもみられますが、「弘法大師二十一ヶ寺」「弘法大師 御府内二十一ヶ所」ともに御府内霊場(八十八ヶ所)との札所重複は多くありません。

ご参考までにリストします。
なお、「弘法大師二十一ヶ寺」の札所の出所は↓『御府内八十八ヶ所 弘法大師二十一ヶ寺 版木』(台東区教育委員会刊)です。



【弘法大師二十一ヶ寺】
1番 萬昌山 金剛幢院 圓満寺
 真言宗御室派 文京区湯島1-6-2
2番 宝塔山 多寶院
 真言宗豊山派 台東区谷中6-2-35
3番 五剣山 普門寺 大乗院
 真言宗智山派 台東区元浅草4-5-16
4番 清光院 台東区下谷(廃寺)
5番 恵日山 延命寺 地蔵院
 真言宗智山派 台東区元浅草1-15-8
6番 阿遮山 円満寺 不動院
 真言宗智山派 台東区寿2-5-2
7番 峯松山 遮那院 仙蔵寺
 真言宗智山派 台東区寿2-8-15
8番 高野山 金剛閣 大徳院
 高野山真言宗 墨田区両国2-7-13
9番 青林山 最勝寺 龍福院
 真言宗智山派 台東区元浅草3-17-2
10番 本覚山 宝光寺 自性院
 新義真言宗 台東区谷中6-2-8
11番 摩尼山 隆全寺 吉祥院
 真言宗智山派 台東区元浅草2-1-14
12番 神勝山 成就院
 真言宗智山派 台東区元浅草4-8-12
13番 広幡山 観蔵院
 真言宗智山派 台東区元浅草3-18-5
14番 望月山 般若寺 正福院
 真言宗智山派 台東区元浅草4-7-21
15番 仏到山 無量寿院 西光寺
 新義真言宗 台東区谷中6-2-20
16番 鶴亭山 隆全寺 威光院
 真言宗智山派 台東区寿2-6-8
17番 十善山 蓮花寺 密蔵院
 真言宗御室派 中野区沼袋2-33-4(移転)
18番 象頭山 観音寺 本智院
 真言宗智山派 北区滝野川1-58-2
19番 瑠璃光山 薬王寺 長久院
 真言宗豊山派 台東区谷中6-2-16
20番 玉龍山 弘憲寺 延命院
 真言宗智山派 台東区元浅草4-5-2
21番 宝林山 大悲心院 霊雲寺
 真言宗霊雲寺派 文京区湯島2-21-6

このうち、「御府内八十八ヶ所」「弘法大師二十一ヶ寺」「弘法大師 御府内二十一ヶ所」の3つの霊場すべての札所となっているのは、霊雲寺(第28番/湯島)、多寶院(第49番/谷中)、自性院(第53番/谷中)、長久院(第55番/谷中)の4箇寺しかなく、札所重複が少ないことを示しています。
※( )は御府内八十八ヶ所霊場の札番。


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【史料・資料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
五十五番
谷中寺町
瑠璃光山 薬王寺 長久院
本所弥勒寺末 新義
本尊:阿弥陀如来 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [110] 谷中寺社書上 弐』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.97』
谷中不唱小名
新義真言宗 本所弥勒寺末
瑠璃光山薬師寺長久院
慶長十六年(1611年)二月、神田北寺町ニ●寺地拝領仕 其後慶安元年(1648年)右地所御用地ニ相成 同年十一月廿一日当所ニ●代地拝領仕候
開山宥意 寛永四年(1627年)正月三日寂
本堂
 本尊金剛 大日如来木像
 弘法大師 興教大師 不動尊
 愛染明王木坐像 薬師如来木坐像 歓喜天三躰金佛厨子入 地蔵尊木立像
宝篋印塔
閻魔法王石像、臺石共六尺
稲荷社
飯縄不動安置

『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
長久院(谷中上三崎町一七番地)
本所彌勒寺末、瑠璃光山薬師寺と号す。本尊大日如来。当寺も亦多寶院、自性院等と同じく慶長十六年(1611年)二月、幕府より神田北寺町に地を給うて開創せられ、慶安元年(1648年)現地に移ったのである。開山は僧宥意。(寛永四年(1627年)一月三日寂)
境内に飯綱不動、石像閻魔等を安置する。



「長久院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
※『江戸切絵図』では「長久寺」となっています。

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最寄りはJR「日暮里」駅で徒歩約10分。
東京メトロ千代田線「根津」駅からも歩けます。

三崎坂から南下して瑞輪寺よこを通り一乗寺に向かう路地沿いには、いくつかの寺院があってそのひとつ。
谷中寺町のほぼ中心部です。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 閉門時の山門

路地から少し引き込み、左右に築地塀と植栽をめぐらした山門の構えはなかなか風格があります。

山門は切妻屋根桟瓦葺の薬医門ないし高麗門で、見上げに院号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 山門の扁額
【写真 下(右)】 山内

山門をくぐると左手に智拳印を結ばれる金剛界大日如来像。


【写真 上(左)】 大日如来像
【写真 下(右)】 本堂と大師堂

参道正面が庫裡で、その右手に本堂、さらにその右手前に直角に向きを変えて大師堂。
本堂は寄棟造桟瓦葺流れ向拝、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に本蟇股。
端正に整ったいい本堂です。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 閻魔様

本堂向かって右の堂前には、閻魔様、司命、司録が御座しています。
そばには「『笑いえんま』とよばれています。」という木板も掲げられていました。


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 大師堂の扁額

大師堂は屋根に宝珠をおいた宝形造で流れ向拝。
向拝まわりの柱や虹梁はいずれも直線で、きっちりまとまった印象です。

御朱印は本堂向かって左の庫裡にて拝受しました。
なお、こちらは16:00閉門なので、時間に余裕をもった参拝をおすすめします。


〔 長久院の御朱印 〕
〔 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊大日如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「第五十五番」の札所印。左に院号の揮毫と寺院印が捺されています


■ 第9番 寶塔山 龍門寺 多寶院
(たほういん)
台東区谷中6-2-35
真言宗豊山派
御本尊:多宝如来
札所本尊:多宝如来
司元別当:
他札所:御府内八十八ヶ所霊場第49番、江戸八十八ヶ所霊場第49番、弘法大師二十一ヶ寺第2番

※この記事は御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-16 をベースに再編しています。

第9番は谷中の多寶院です。

下記史料、寺伝・縁起書、山内掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

多寶院は、慶長十六年(1611年)幕府から神田北寺町に寺地を賜り建立されました。
開山は大僧都法印宥純(寛永五年(1628年)寂)、開基は不明です。

慶安元年(1648年)同所が幕府用地として召し上げとなり、現寺地に替地を得て移転しています。
湯島根生院の末寺の新義真言宗寺院で、御本尊は行基菩薩作と伝わる多宝如来です。
多宝如来は法華経に記され、東方・宝浄国の教主の如来です。

多宝如来は単独で奉安されることは少なく、御本尊の例もほとんどありません。
ただし、日蓮宗では法華経信仰に基づき釈迦如来とともに二体一組で信仰され重要なポジションです。
とくに、題目宝塔の両脇に釈迦如来と多宝如来を配した「一塔両尊」という安置形式は日蓮宗特有の御本尊として多くみられます。

密教では作例は少なく、札所本尊の例もほとんどないので当山の多宝如来は稀少です。
ちなみに、本四国八十八ヶ所に札所本尊が多宝如来の例はなく、他の弘法大師霊場でもみたことがありません。

当山は吉祥天の奉安でも知られています。
吉祥天はヒンドゥー教の女神・ラクシュミーが仏教にとり入れられたもので、仏教では母は鬼子母神、夫を毘沙門天とされます。

鬼子母神はとくに日蓮宗で信仰される尊格で、この点からも日蓮宗の影響が想起されますが当山は当初から純然たる密寺のようです。
この点は弘法大師霊場である御府内霊場の「御府内八十八ヶ所大意版木」が、多寶院が中心となって開版されたことからもわかります。

また、谷中エリアでの代表的な弘法大師霊場は、
 1.御府内霊場(御府内八十八ヶ所霊場)
 2.弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場
 3.弘法大師二十一ヶ寺
の3つありますが、多寶院は3つの霊場すべての札所となっており、弘法大師巡拝に外せない寺院であったことがわかります。
(「御府内八十八ヶ所大意版木」、「弘法大師二十一ヶ寺御詠歌所附版木」ともに当山に収蔵。)

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【史料・資料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
四十九番
谷中門外
寶塔山 龍門寺 多宝院
湯嶋根生院末 新義
本尊:多宝如来 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [110] 谷中寺社書上 弐』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.57』
湯島根生院末 谷中不唱小名
寶塔山龍門寺多宝院
慶長慶長十六年(1611年)二月十五日神田小寺町ニ寺地所拝領仕 其後慶安元年(1648年)御用地ニ●召上当時之地所拝領仕候
開山大僧都法印宥純(寛永五年(1628年)寂)
開基不分明
中興開山権大僧都法印澄正
本堂
 本尊 多宝如来 行基菩薩作
聖天堂
 聖天尊像
稲荷社
四国写八十八ヶ所碑三本 第四十九番目
石地蔵尊

『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
多寶院(谷中町三二番地)
湯島根生院末、寶塔山龍門寺と号す。本尊多寶如来、開山宥純(寛永五年(1628年)八月五日寂)。慶長十六年(1611年)二月、幕府より神田北寺町に地を給せられて建立した。慶安元年(1648年)同所が幕府の用地となるに及び現地に替地を給うて移転した。



「多宝院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本郷湯島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはJR「日暮里」駅で徒歩約8分。メトロ千代田線「千駄木」駅からも歩けます。
(→ 谷中マップ
千駄木(団子坂下)から谷中に登る三崎坂(さんざきざか)が谷中霊園に月当たるところにあり、谷中界隈では比較的開けたところです。

門柱に札所札。門柱手前に吉祥天安置標。
門柱脇にも札所標がありますが、写真がうまく撮れていません。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 つつじの時期の門柱


【写真 上(左)】 門柱の院号札
【写真 下(右)】 吉祥天安置標

参道左手に六地蔵を含む地蔵尊、その先に慈母観音。
本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股。
見上げに山号扁額を掲げています。
雰囲気のあるいい本堂で、落ち着いて参拝ができます。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝


【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額

本堂向かって右手に谷中吉祥天のお堂。
堂前には幟がはためき、向拝見上げには「吉祥天」の扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 谷中吉祥天
【写真 下(右)】 谷中吉祥天の扁額

背後に円光(輪光)、胸部に瓔珞(ようらく)を帯び、右手は与願印、左手には宝珠を持たれる煌びやかな立像です。
吉祥天は仏教のなかでも屈指の美形の尊格として知られますが、こちらのお像も整った面立ちです。

御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受しました。
なお、「谷中吉祥天」の御朱印は不授与とのことです。


〔 多寶院の御朱印 〕
〔 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

【専用集印帳】
中央に「本尊多宝如来」「弘法大師」の揮毫とお種子の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「第四十九番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
多宝如来のお種子は「ア」とされますが、このお種子は「ア」ではないと思われます。


■ 第10番 本覚山 寶光寺 自性院
(じしょういん)
公式Web

台東区谷中6-2-8
新義真言宗
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:御府内八十八ヶ所霊場第53番、江戸八十八ヶ所霊場第53番、弘法大師二十一ヶ寺第10番

※この記事は御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-18 をベースに再編しています。

第10番は「谷中愛染堂」とも呼ばれる谷中の自性院です。

第53番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに自性院で、第53番札所は開創当初から谷中の自性院であったとみられます。

公式Web、下記史料、山内掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

自性院は、慶長十六年(1611年)、道意上人により江戸神田北寺町(現・千代田区神田錦町)に開創、慶安元年(1648年)幕府用地となったため、谷中の現在地を賜り移転と伝わります。

中興開山は第9世貫海上人。
元文年間(1736-1741年)上人が境内の楠を切り彫刻された像高1メートルの像内には、上人が高野山参詣のとき奥之院路上で拾われた小さな愛染明王が納められているといいます。(公式Webによると、「近年修理をしたところ像内より胎内仏を確認」とのこと。)

当山は愛染堂安置の愛染明王像で知られ、文化文政の頃(1804-1830年)になると、その名は近在まで広がり「愛染寺」と呼ばれて親しまれたそうです。

愛染明王はとくに縁結び、家庭円満のご利益で信仰されます。
昭和12年(1937年)1月から翌年5月にかけ「婦人倶楽部」に連載された、文豪・川口松太郎の『愛染かつら』は、当山奉安の愛染明王の縁結びのご利益と本堂前のかつらの古木をモチーフとして書かれた作品といいます。(作品中では「永法寺」として描かれる。)

主人公ふたりは当山の愛染堂前のかつらの木に手をふれ、愛染明王に愛を誓約しました。恋人同士がこうして誓うと、将来かならず結ばれるという筋書きで、「愛染かつら」は昭和13年(1938年)松竹映画として、上原謙と田中絹代が共演して大ヒットとなりました。

また、映画の主題歌『旅の夜風』(昭和13年)を歌った霧島 昇と松原 操(ミス・コロムビア)が共演をきっかけに結ばれるというエピソードもあいまって、当山の愛染明王への参詣者は急増したといいます。

いまは谷中の奥まった一画で、御府内霊場巡拝者を迎える静かな寺院となっています。


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【史料・資料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
五十三番
谷中寺町
本覺山 寶光寺 自性院
本所弥勒寺末 新義
本尊:大日如来 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [110] 谷中寺社書上 弐』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.99』
本所彌勒寺末
谷中不唱小名
本覺山寶光寺自性院
新義真言宗
本所弥勒寺末 谷中不唱小名
慶長十六年(1611年)二月 神田北寺町ニ而拝領仕候処 其後慶安元年(1648年) 御用地ニ奉差上、於当所代地拝領仕候
開山 道意上人
本堂
 本尊 金胎両部大日如来木像坐像 弘法大師木像 興教大師木像 不動尊木像 薬師如来木立像
宝篋印塔
地蔵堂 地蔵尊石像
中興開山 貫海上人
愛染堂 境内にあり 貫海上人の建立
愛染堂ハ今本堂と●●り 昔ハ別に本堂ありしと云

『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
自性院(谷中上三崎南町六番地)
本所彌勒寺末、本覺山寶光寺と号す。本尊金剛界大日如来、胎蔵界大日如来。慶長十六年(1611年)二月、幕府より神田北寺町に地を給うて開創せられ、慶安元年(1648年)現地に移ったのである。開山は僧道意。慶安元年(1648年)同所幕府の用地となり、現地に替地を給せられて移転した。



「自性院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋国立国会図書館DC(保護期間満了)


「自證寺(自性院)」/原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
※『江戸切絵図』では「自證寺」と記されています。

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最寄りはJR「日暮里」駅で徒歩約7分。
東京メトロ千代田線「根津」駅からも歩けます。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 愛染明王安置碑

谷中六丁目のこのあたりは、ゆったりした区画の寺町で、落ち着いて参拝ができます。
路地に面した山内入口には愛染明王安置碑と『愛染かつらゆかりの地』の説明板。
左右の門柱は、それぞれ山号・寺号標と院号標となっています。


【写真 上(左)】 山号・寺号標
【写真 下(右)】 院号標

よく整備された山内。本堂前の大木が桂の木かどうかはうかつにも確認し忘れました。
参道が本堂前で右に折れる曲がり参道で、曲がった正面が本堂。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

入母屋造本瓦葺流れ向拝、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に本蟇股を備えた端正な本堂です。

向拝硝子格子扉のうえに「愛染寺」の扁額。
通称が扁額となるのはめずらしいと思います。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 慈母観世音菩薩

御朱印は本堂向かって左手の庫裡で拝受しましたが、現況は専用納経帳のみへの授与かもしれません。(直近の状況は未確認)
また、こちらは16:00に閉門となるので、時間に余裕をもった参拝をおすすめします。


〔 自性院の御朱印 〕
〔 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊大日如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「第五十三番」の札所印。左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


以下、つづきます。
(→ ■ 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印-4

記事リスト



【 BGM 】
■ 黄昏に風る feat.Osakana / Music&Arrangement:Koa


■ 春空-ハルソラ- - 石野田奈津代


■ Far On The Water - kalafina Live FOTW Special Final
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■ 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印-2

Vol.-1からのつづきです。


■ 第3番 蓮葉山 妙智院 観音寺
(かんのんじ)
公式Web

台東区谷中5-8-28
真言宗豊山派
御本尊:大日如来・阿弥陀如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:御府内八十八ヶ所霊場第42番、江戸八十八ヶ所霊場第42番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第32番、東方三十三観音霊場第13番

※この記事は御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-14 をベースに再編しています。

第3番札所は、御府内八十八ヶ所霊場札所の集中エリア・谷中の観音寺です。

公式Web、下記史料、寺伝・縁起書、山内掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

観音寺は、慶長十六年(1611年)神田北寺町(現・千代田区神田錦町周辺)に、長福寺を号し尊雄和尚を開基に創建されました。
神田など、江戸城まわりにあった寺院は江戸城の拡張やこれにともなう武家屋敷地化もあって次々と移転を命ぜられましたが、当山もその例にもれず、慶安元年(1648年)御用地として召し上げられ、谷中清水坂(現・台東区池之端周辺)に移転したもののこちらもまた御用地となり、延宝八年(1680年)現在地に移転しています。

元禄十四年(1701年)三月十四日、浅野内匠頭長矩が江戸城内にて刃傷。即日切腹となり浅野家はお家断絶、領地を没収されました。
元禄十五年(1702年)二月、当山でしばしば密議を重ねた近松勘六行重、奥田貞右衛門行高(ともに当山6世朝山和尚(文良)の兄弟)は江戸を下り、十二月十四日赤穂義士討入り。
主君の仇の吉良上野介義央の首級をあげ本懐を遂げました。
元禄十六年(1703年)赤穂義士切腹。当山は義士の供養塔を建て、義士の菩提を弔うこととなりました。
これより、当山は「赤穂義士ゆかりの寺」としても知られています。

享保元年(1716年)8代将軍・徳川吉宗公の長子の長福丸(家重公)と寺号が重なるため、ときの住職朝海和尚はこれをはばかり寺号を長福寺から観音寺へと改めました。

『寺社書上』ではこの朝海和尚を中興開基とし、真言宗江戸四箇寺の本所弥勒寺末とされたと記され、公式Webでも朝海和尚の功績がとり上げられています。

谷中は江戸城周辺から寺院の移転が相次ぎ、元禄年中(1688-1703年)頃には御府内有数の寺町となりました。
御府内霊場の開創は宝暦年間(1751-1763年)とみられるので、御府内霊場に谷中の札所が多数定められる下地はすでに整っていました。
公式Webにも「宝暦年中(1751-1763年)江戸府内八十八所霊場巡拝が設けられ、観音寺は四十二番札所となる。」と明記されています。

明和九年(1772年)、行人坂の大火で諸堂宇を失い、寺伝類の多くも焼失しました。
しかし、谷中の中心にある御府内霊場札所で、観音堂安置の如意輪観音信者の助力もあってか、観音寺の復興ははやかったと伝わります。

安永年中(1772-1780年)には「三十三所観音参/上野より王子駒込辺西国の写し霊場」が開創。
観音寺は第32番札所に定められ、弘法大師(御府内霊場)、観音(上野王子駒込霊場)両霊場の札所となりました。
『江戸歳事記 4巻 付録1巻 [2]』(国立国会図書館)に「上野より王子駒込辺西国の写三十三所観音参」の一覧があり、たしかに第32番として「谷中観音寺」がみられ、札所本尊は如意輪観世音菩薩となっています。
(→ 札所リスト(「ニッポンの霊場」)様)

この霊場は「上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場」とも呼ばれますが、筆者がまわった範囲では「西国霊場」の方が通りがよく、札所印つき御朱印授与の札所もあれば、廃寺や御朱印じたい不授与の札所も多く、御朱印拝受しにくい霊場となっています。

■ 希少な札所印

 
↑ 第4番札所思惟山 正受院(北区滝野川)の札所御朱印。
「西國四番寫」の札所印が捺されています。

明治初頭の神仏分離・廃仏毀釈により寺地を官有地とされましたが、住職および檀信徒の寺運繁栄の努力により昭和18年現本堂が落慶しています。
このとき境内佛(濡佛)であった胡銅製大日如来像と阿弥陀如来像が本堂内に遷座され、御本尊となっています。

公式Webによると、当山創建当初の御本尊は五智如来木座像(金剛界五佛仏/大日如来(中心)、阿閦如来(東)、宝生如来(南)、阿弥陀如来(西)、不空成就如来(北))で開基・尊雄和尚が師子相承されていた尊佛でしたが、火災により失われました。

ついで観音堂本尊であった如意輪観世音菩薩と不空羂索観世音菩薩が御本尊となられ、昭和18年現本堂落慶とともに大日如来・阿弥陀如来両尊が御本尊となりました。
旧御本尊の観音菩薩像は、現在本堂内位牌堂に安置されています。

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【史料・資料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
四十二番
谷中●●門前町
蓮葉山 妙智院 観音寺
本所彌勒寺末 新義
本尊:大日如来 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [112] 谷中寺社書上 四』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.104』
本所弥勒寺末 谷中不唱小名
蓮葉山妙智院観音寺
起立慶長年中
権現様御代 神田北寺町ニて拝領仕候
大猷院様御代 御用地ニ相成代地谷中清水坂ニ●右之●坪数程拝領仕候
厳有院様御代 御用地ニ相成 延寶八年只今之場所代地拝領仕候
開基 尊雄 寂年月不知
中興開基 当寺第六世朝快住職中 本所弥勒寺之末寺ニ●
右等之始末古記録等焼失仕候ニ付●●分不申候
本堂
 本尊五智如来
 四佛 阿閦 宝生 弥陀 釈迦 各木坐像
 弘法大師 興教大師 各木坐像
護摩堂
 本尊不動明王木坐像
観音堂
 本尊如意輪観音木坐像
稲荷社
濡佛二体 大日如来 阿弥陀

『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
観音寺(谷中上三崎北町七番地)
本所彌勒寺末、蓬莱山と号す。本尊大日如来。慶長十六年、幕府より神田北寺町に地を賜うて起立し、慶安元年谷中清水坂に移り、延寶八年現地に転じた。開山は僧尊雄。境内に観音堂(如意輪観音安置)、大師堂(弘法大師像安置)、駄枳尼天堂(駄枳尼天安置)がある。


「観音寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはJR「日暮里」駅で徒歩約5分。メトロ千代田線「千駄木」駅からも歩けます。

谷中は都内有数の寺院の集積地で、複数の御府内霊場札所が立地します。
観音寺は日暮里駅から谷中銀座(夕やけだんだん)に至る御殿坂と千駄木から谷中にのぼる三崎坂を南北に結ぶ通り沿いにあります。
谷中マップ

南側路地沿いの築地塀は国の国の登録有形文化財(建造物)に指定され、その趣きある風景は寺町・谷中のシンボルとしてしばしばメディアなどでとり上げられます
「観音寺の築地塀」は、幕末頃の築造で、南面のみ現存しています。


【写真 上(左)】 築地塀
【写真 下(右)】 山内入口

前面道路から少し引き込んで石畳。
右手石標は特徴ある字体の御寶号「南無大師遍照金剛」。


【写真 上(左)】 御寶号の石標
【写真 下(右)】 観音霊場札所碑


【写真 上(左)】 遠忌碑
【写真 下(右)】 山門

左手の「西国三十二番 近江観音寺うつし」とある石標は、「上野王子駒込辺三十三観音霊場」第32番の札所標。
そのとなりには弘法大師九百五十年と興教大師六百五十年の併記遠忌碑。

山門は切妻屋根本瓦葺で、おそらく薬医門と思われます。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂

参道正面の本堂は入母屋造本瓦葺流れ向拝、照り気味に秀麗に葺きおろす屋根が風格を感じさせます。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に蟇股。
向拝正面の4連の桟唐戸が意匠的に効いています。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂右手

本堂向かって右手には宝形造銅板葺の大師堂があり、こちらは御府内霊場の拝所となっています。


【写真 上(左)】 大師堂-1
【写真 下(右)】 大師堂-2

堂宇前には年季の入った御府内霊場の札所標。
堂宇前面には複数の御府内霊場の札所板、向拝見上げに御府内霊場の札所板と上野王子駒込辺三十三観音霊場の札所板。
貴重な御府内二十一ヶ所第参番の札所札もみえます。

『江戸歳事記』では、「上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場」の第32番札所(観音寺)の札所本尊は如意輪観世音菩薩となっていますが、この札所板には千手観世音菩薩と刻されています。
また、札所板の霊場名は「西國三十三ヶ所寫」とみえ、やはり従前からこの霊場名で通っていたようです。


【写真 上(左)】 御府内霊場札所板-1
【写真 下(右)】 御府内霊場札所板-2


【写真 上(左)】 御府内廿一ヶ所札所板
【写真 下(右)】 観音霊場札所板と千社札

軒裏を埋める古びた千社札が、札所としての古い歴史を感じさせます。
(現在はほとんどの寺社で千社札の貼付は禁止されています。)

堂内中央に弘法大師坐像、向かって右手に不動明王立像、左に興教大師坐像を奉安。


【写真 上(左)】 大師堂向拝
【写真 下(右)】 赤穂義士供養塔

本堂と大師堂の間には赤穂義士の供養塔と宝篋印塔。
その周辺には、聖観世音菩薩立像、如意輪観世音菩薩の石仏、救世菩薩地蔵尊などが安置されています。

『全国霊場大事典』(六月書房)によると、御府内霊場の開創は宝暦年間(1751-1764年)頃とされています。
同書によると、信州・浅間山真楽寺の憲浄僧正と千葉県松戸の諦信によって四国八十八ヶ所霊場が写されたもの。

『全国霊場巡拝事典』(大法輪閣)では、宝暦五年(1755年)刊の『大進夜話』に「江戸にも此頃は信州浅間山の上人本願にて、四国の八十八箇所を移して立札など見えたり」とあり、文化十三年(1816年)の札所案内には「宝暦五乙亥三月下総葛飾松戸宿諦信の子、出家して信州浅間山真楽寺の住になりぬ。両人本願して江戸に霊場をうつす」とあることを紹介しています。
また、このことは「公訴発願 信州浅間真楽寺上人 巡行願主 下総國 諦信」と刻まれた札所碑が第42番観音寺にあり、他の札所にも同様の石碑が残ることからも裏付けられるとされています。


【写真 上(左)】 御府内霊場札所碑
【写真 下(右)】 「公訴発願 信州浅間真楽寺上人 巡行願主 下総國 諦信」とあります

本堂並びにある客殿も登録有形文化財(建造物)に指定されています。


【写真 上(左)】 客殿
【写真 下(右)】 客殿からの本堂

御朱印は本堂向かって左手の庫裡にて拝受しました。

こちらの御朱印拝受については、以前はいささか敷居が高い印象がありましたが、久しぶりにWebで観音寺の御朱印情報を検索してみたら、なんとスワロフスキー(クリスタルガラス)付御朱印や切り絵御朱印で有名になっている模様。(ぜんぜん知らなかった。)

 
【写真 上(左)】 スワロフスキー付御朱印の案内
【写真 下(右)】 スワロフスキー付御朱印

大師堂前には↓のような掲示が依然としてあります。


スワロフスキー付御朱印や切り絵御朱印目当ての人も、いちおうは参拝しているのでしょうか・・・。

谷中の西光寺も以前は御朱印不授与でしたが、いまでは絵御朱印が人気となり、遙拝を条件とした御朱印郵送対応までされています。

■ 谷中の御朱印・御首題

やはり絵御朱印の人気はかなりのものがありそうです。
個人的には絵御朱印や切り絵御朱印にさほど興味はありませんが、これをきっかけに仏教に興味をもつ人が増えるのは、意義あることなのかもしれません。


〔 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に金剛界大日如来のお種子「バン」、「本尊大日如来」「弘法大師」の揮毫とお種子「ア」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「第四十番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
公式Web掲載の御本尊は智拳印を結ばれる金剛界大日如来、当山の当初の御本尊は五智如来で金剛界系です。
御寶印の「ア」は、胎蔵大日如来のお種子というより、通種子(すべての尊格をあらわす)として用いられているのかもしれません。

 
【写真 上(左)】 御本尊・大日如来の御朱印
【写真 下(右)】 お種子(ア)の御朱印

上記のとおり、現在観音寺の御朱印はスワロフスキー付御朱印や切り絵御朱印がメインの模様で、無申告での墨朱御朱印は大日如来の揮毫御朱印か、お種子(ア)の揮毫御朱印が授与されている模様です。
御府内霊場御朱印の汎用御朱印帳への授与については不明です。


■ 第4番 長谷山 元興寺 加納院
(かのういん)
台東区谷中5-8-5
新義真言宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
司元別当:
他札所:御府内八十八ヶ所霊場第64番、江戸八十八ヶ所霊場第63番

※この記事は御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-21 をベースに再編しています。

第64番は谷中の加納院。御府内霊場では数すくない、紀州根來寺を総本山とする新義真言宗の寺院です。

下記史料、山内掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

加納院は、慶長十六年(1611年)、幕府より神田小(北)寺町に寺地を給せられて尊慶上人が開基、慶安元年(1648年)谷中へ移転したといいます。

慶安元年(1648年)の移転は旧寺地が幕府用地となったためで、『下谷区史 〔本編〕』によると、神田北寺町での幕府からの賜地、谷中への移転の事由や時期は多寶院(第49番)、自性院(第53番)、長久院(第55番)、明王院(第57番)、観智院(第63番)などと同様とみられますが、慶安元年(1648年)に一旦谷中清水坂に遷ったあと、延宝八年(1680年)再び幕府用地となったため現在地へ移転といいます。
※( )は御府内八十八ヶ所霊場の札番。

加納院は情報が少ないですが、『寺社書上』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考』には、本堂御本尊は阿弥陀如来で両脇侍は正観世音菩薩と勢至菩薩。
御本尊の阿弥陀如来は「(御府内)八十八ヶ所ノ第六十三番」と記されています。

本堂内(『下谷区史』では大師堂内)に弘法大師像、興教大師像を奉安し、御府内霊場札所としての要件は整っていたようです。

聖天堂には大聖歓喜天二躰(秘佛)と本地佛として十一面観世音菩薩を奉安。
相殿に稲荷。阿弥陀如来、弁財天二躰、千手観世音菩薩も安置と伝わります。

『ルートガイド』によると、当山所蔵の「両界曼荼羅版木」は台東区有形文化財に指定されているとのこと。

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【史料・資料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
六十四番
谷中
長谷山 元興寺 加納院
本所弥勒寺末 新義
本尊:阿弥陀如来 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [111] 谷中寺社書上 四』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.102』
谷中不唱小名
新義真言宗 本所彌勒寺末
長谷山元興寺加納院
起立 慶長十六年(1611年)
開基 尊慶 寛永十三年(1636年)寂
権現様御代 神田北寺町ニ寺地拝領仕候 慶安元年(1648年)大猷院様御代 神田北寺町御用ニ付 谷中清水坂ニテ替地拝領仕候 延宝八年(1680年)厳有院様御代御用地ニ付 清水坂地処差上● 只今ハ当所ニ住居仕候

本堂
 本尊 阿弥陀如来木座像
八十八ヶ所ノ第六十三番
 両脇士 観世音 勢至
 弘法大師 興教大師
 位牌壇 大日如来 
聖天堂
 歓喜天二躰 秘佛
 本地 十一面観音
 相殿稲荷 阿弥陀如来 弁財天二躰 千手観世音

『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
加納院(谷中上三崎北町六番地)
本所彌勒寺末、長谷山元興寺と号す。本尊阿彌陀如来。慶長十六年(1611年)幕府より神田北寺町に寺地を給せられて起立した。開山を尊慶(寛永十三年(1636年)四月六日寂)といふ。慶安元年(1648年)同所が幕府用地となったため谷中清水坂(現谷中清水町)に移り、延寶八年(1680年)同所亦用地となり、現地に転じた。
境内に聖天堂(大聖歡喜天を安置す)及び大師堂(弘法大師像及び興教大師像を安置す)がある。



「加納院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはJR「日暮里」駅で徒歩約7分。
東京メトロ千代田線「千駄木」駅からの方が距離的には近いくらいですが、急な登りとなります。

台地上にある「日暮里」駅から歩くとわかりにくいですが、千駄木方面から望むとかなりの高台にあることがわかります。

寺院に囲まれた路地奥の立地ですが、観光スポットの観音寺の築地塀の先にあり、目立つ朱塗り門を構えているので、訪れる人は意外に多いのかもしれません。

位置的には三崎坂から明王院と観智院のあいだの路地を北に入った路地の突き当たりにあります。
この路地まわりはほとんどが寺院で、谷中が都内屈指の寺町であることを実感できます。


【写真 上(左)】 加納院前から望む観音寺の築地塀(左)
【写真 下(右)】 山門

山門は切妻屋根桟瓦葺の朱塗りの薬医門で、脇塀とともにコの字型の空間をつくり出し、どこか城門のようです。

山門前に御府内霊場札所標。
これは御府内八十八ヶ所霊場(第64番)と御府内二十一ヶ所霊場(第4番)を併記したもので、比較的めずらしいかたちでは。


【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 山内

緑濃い山内はよく手入れされて心なごみます。
四季折々の花々が咲き誇る花の寺でもあるようです。

本堂は寄棟造桟瓦葺流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に蟇股。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの向拝

向拝に扁額はないですが、向拝扉右手に御府内霊場(第64番)と御府内二十一ヶ所霊場(第4番)の札所板が掲げられています。


【写真 上(左)】 札所板
【写真 下(右)】 御朱印案内

御朱印は本堂向かって左の庫裡にて拝受しました。
御府内霊場は参拝後の御朱印申告が原則ですが、こちらでは参拝前に御朱印帳を預ける旨の掲示があります。


〔 加納院の御朱印 〕
〔 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊阿弥陀如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫とお種子(おそらく阿弥陀如来のお種子・キリーク)の御寶印。
御寶印は八葉をかたちどったもので、胎蔵曼荼羅の中心部・中台八葉院をモチーフとしたものかも。
右に「第六十四番」の札所印。左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
西暦で書かれた奉拝日が個性的です。


■ 第5番 天瑞山 観福寺 明王院
(みょうおういん)
台東区谷中5-4-2
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
司元別当:
他札所:御府内八十八ヶ所霊場第57番、江戸八十八ヶ所霊場第57番

※この記事は御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-19 をベースに再編しています。

第5番は谷中の明王院です。

下記史料、山内掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

明王院は、慶長十六年(1611年)二月、御水尾天皇の勅願により、幕府より神田北寺(小寺)町に寺地を給せられ、僧辨圓が創建。慶安元年(1648年)同所が幕府用地となつたため谷中に移ったといいます。
『下谷区史 〔本編〕』によると、神田北寺町での幕府からの賜地、谷中への移転の事由や時期は多寶院(第49番)、自性院(第53番)、長久院(第55番)と同様とみられますが、『ルートガイド』には慶安元年(1648年)に一旦谷中清水坂に遷ったあと、万治三年(1660年)に現地に移転とあります。

本堂には御本尊阿弥陀如来を奉安。
境内聖天堂には大聖歓喜天尊と本地十一面観世音菩薩、不動堂には不動尊、大師堂には弘法大師像を安置と伝わり、御府内霊場としての要件を満たしていたとみられます。

『寺社書上』にある「稲荷社」は、鎮守神かもしれません。


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【史料・資料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
五十七番
谷中三●●町
天瑞山 観福寺 明王院
本所弥勒寺末 新義
本尊:阿弥陀如来 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [111] 谷中寺社書上 三』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.101』
谷中不唱小名
新義真言宗 本所彌勒寺末
天瑞山歓福寺明王院
権現様御代慶長十六年(1611年) 開山辨圓法印代 於神田小寺町ニ拝領仕候
大猷院様御代慶安元年(1648年)中、右之寺地御用地ニ付被召上、谷中●代地拝領仕候
開山 辨圓法印 寛永五十月四日遷化
中興開基 朝誉法印、宝永三年(1706年)遷化
本堂
 本尊 阿弥陀佛 丈一尺七寸立像
聖天宮 尊像金佛秘尊 本地十一面観音立像
不動堂 不動尊丈五寸座像
稲荷社 神躯幣束

『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
明王院(谷中初音町一丁目二三番地)
本所彌勒寺末、天瑞山觀福寺と号す。本尊三尊彌陀如来。
当寺も慶長十六年(1611年)二月、幕府より神田北寺町に於て寺地を給せられ、僧辨圓の建立する所で、慶安元年(1648年)同所は幕府用地となつたため現地に移つた。
境内聖天堂には大聖歓喜天像を安置し、大師堂には弘法大師像を安置する。



「明王院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りは東京メトロ千代田線「千駄木」で徒歩約5分。
JR「日暮里」駅からも歩けます。

千駄木から谷中霊園へ向かう三崎坂をほぼ登り切ったところに道に面してあります。
このあたりも谷中寺町のほぼ中心部に当たります。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 院号標

山内入口の門柱は院号標を兼ねています。
参道左手に六地蔵、正面に大師堂がみえます。
大師堂前を斜め左に折れると、その正面が本堂です。

山内は手入れが行き届いてきもちがいいです。

大師堂右手前には、椅子式の牀座に坐される真如親王様の弘法大師像が刻まれた見事な宝篋印塔(納経塔?)があります。


【写真 上(左)】 六地蔵
【写真 下(右)】 宝篋印塔

当山は明治17年(1884年)の火災で堂宇を焼失し、本堂は昭和46年(1971年)、大師堂は平成7年(1995年)に再建されています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 天水鉢


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額

本堂は宝形造桟瓦葺流れ向拝で、屋根には火焔宝珠を置いています。
近代建築で向拝まわりはコンクリ造ですが、小壁に菱格子、向拝左右に花頭窓を置き引き締まった意匠です。
向拝見上げには山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 大師堂(手前)と本堂(奥)
【写真 下(右)】 大師堂


大師堂は宝形造本瓦葺で向拝柱はなく、屋根には宝珠を置いています。
大師堂前から拝むと、本堂の桟瓦と大師堂の本瓦、本堂の火焔宝珠と大師堂の宝珠が呼応して、見応えのある意匠となっています。


【写真 上(左)】 大師堂扁額
【写真 下(右)】 注意書き

山内には納経ないし読経を促す掲示があり、勤行式を貸し出しいただけます。
「大師堂のお大師さま、本堂の阿弥陀如来両方にお参り下さい。」とあるので、やはり御府内霊場(というか弘法大師霊場)の正式参拝はお大師さまと御本尊(ないし札所本尊)への参拝ということになるのでしょう。

御朱印は本堂向かって左手前の庫裡にて拝受しました。


〔 明王院の御朱印 〕
〔 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に阿弥陀如来のお種子「キリーク」「本尊阿弥陀如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫と「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「第五十七番」の札所印。左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第6番 初音山 東漸寺 観智院
(かんちいん)
公式Web

台東区谷中5-2-4
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:御府内八十八ヶ所霊場第64番、江戸八十八ヶ所霊場第64番

※この記事は御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-21 をベースに再編しています。

第6番は谷中の観智院です。

公式Web、下記史料、山内掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

観智院は、慶長十六年(1611年)、照譽法印が小(北)寺町に開山、慶安元年(1648年)谷中へ移転したといいます。

慶安元年(1648年)の移転は旧寺地が幕府用地となつたためで、『下谷区史 〔本編〕』によると、神田北寺町での幕府からの賜地、谷中への移転の事由や時期は多寶院(第49番)、自性院(第53番)、長久院(第55番)、明王院(第57番)などと同様とみられますが、寺伝には慶安元年(1648年)に一旦谷中清水坂に遷ったあと、万治年中(1658-1660年)に現在地へ移転とあります。
※( )は御府内八十八ヶ所霊場の札番。

延宝八年(1680年)、当山12世・宥朝法印が入山され元禄十一年(1698年)に院号を現在の観(觀)智院に改めました。
当初の院号は圓照院。
宥朝法印は「”圓照”は”炎焦”に通ずる」との霊告を受けられて号を改めたといいます。

宥朝法印の入山により寺勢はますます興隆しましたが、公式Webでは当山と檀越関係にあった奥医師・丸山玄棟の外護も大きかったと推察されています。

安永八年(1779年)には不動堂を建立、興教大師作と伝わる不動尊像が安置され、五大明王像を奉安という史料もみられます。
五大明王とは不動明王を中心に降三世明王(東)、軍荼利明王(南)、大威徳明王(西)、金剛夜叉明王(北)と配置される明王像で、霊験ことにあらたかとして広く信仰されます。

元禄十六年(1703年)十一月、大震災につづいて本郷追分、小石川辺から出火した火災は、折からの強風にあおられて江戸の町の大半を焼きつくしました。
谷中の寺院も多くが焼失しますが、観智院は奇跡的に炎禍を遁れたといいます。

観智院の不動尊は興教大師御作と伝わる霊像であること、中興開山・宥朝法印の「火除けの改号」のいわれ、そして大火の炎禍を免れたことなどもあってか、「谷中の火除不動尊」と呼ばれて多くの参詣者を集めたといいます。

文化・文政(1804-1829年)の頃になると、江戸御府内はもちろん近隣からも参詣人が訪れ、門前は市がたつほどの賑わいになったと伝わります。
谷中のメインロードであった「三崎坂」(さんざきざか)に面していたことも大きいのでは。

明治初頭の神仏分離の際には大店の商人をはじめとする町人の檀信徒が23世・真興法印のもとに結集して寺門を支えたといい、御府内霊場札所のポジションも堅持しています。
明治39年、24世・海隆法印が入山、先々代・石本海隆師も堂宇整備に尽力されて大正年間にはふたたび寺容を整えたといいます。

関東大震災では延焼を免れた当山に人々が避難したといい、昭和20年3月の東京大空襲では本堂・庫裡に砲弾を受けたものの大師堂・不動堂は焼失の難を遁れ、いまなお戦前の姿を残すとともに、御本尊・大日如来をはじめすべての仏像、什器もまた焼失を遁れています。
火除不動尊の霊験まことにあらたかというべきでしょうか。

昭和24年初音幼稚園を設置し、いまでも山内は園児の声でにぎやかです。

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【史料・資料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
六十三番
谷中三崎通り
醫王山 東漸寺 観智院
本所弥勒寺末 新義
本尊:弘法大師

『寺社書上 [111] 谷中寺社書上 三』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.100』
谷中不唱小名
新義真言宗 本所彌勒寺末
醫王山東漸寺観智院
権現様御世慶長十六年(1611年)2月15日、当寺開山照誉法印代 於神田小寺町ニ寺地拝領仕候 大猷院様御世慶安元年(1648年)中、神田小寺町御用地ニ付被召上 谷中ニ代地拝領仕候
開山 照誉法印 卒年月不知
中興開基 宥朝法印 享保六年(1721年)遷化

本堂
 本尊 弘法大師座像
不動尊土蔵
 不動尊座像 興教大師作
稲荷社

『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
觀智院(谷中初音町一丁目二三番地)
本所彌勒寺末、醫王山東漸寺と号す。本尊弘法大師。当寺亦慶長十六年(1611年)二月、幕府より神田北寺町に地を賜うて起立し、慶安元年(1648年)同所幕府用地となるや現地に転じた。開山は僧照譽、中興は僧宥朝。(享保六年(1721年)五月二十二日寂)
境内に不動堂がある。



「観智院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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※ 休園日に撮った写真がなぜか見つかりません。見つかったら追加します。

最寄りは東京メトロ千代田線「千駄木」で徒歩約7分ほど。
JR「日暮里」駅からも同じくらいで歩けます。

千駄木から谷中霊園へ向かう三崎坂をほぼ登り切ったところに道に面してあります。
第57番明王院の並びにあり、谷中寺町のほぼ中心部に当たります。


【写真 上(左)】 全景
【写真 下(右)】 本堂

山内のほとんどは幼稚園として使われ、平日の日中はセキュリティ上から閉門されているので、休日の参拝がベターとみられます。

山内入口に初音六地蔵。
昭和58年秋の像立と新しいお像ですが、手篤く供養されて存在感があります。

門柱に院号標があり、おくに本堂は見えますが、平日昼間は園児たちが走り回り幼稚園バスが停まっていたりしてほぼ幼稚園です。

正面の階段上に唐破風の向拝を備えた本堂。
複雑な意匠で見応えがあります。


【写真 上(左)】 不動堂(右)と大師堂(左)
【写真 下(右)】 不動堂の扁額

本堂向かって左手前に不動堂と大師堂があります。
不動堂は宝形造銅板葺で向拝に「火除不動尊」の扁額を掲げています。

大師堂は不動堂の向かって右手に連接してあります。
柱には御府内霊場ではなく、「弘法大師廿一ヶ所六番」の札所板が打ち付けられていました。
お大師さまは、堂内の大ぶりな厨子のなかに御座されています。

御朱印は本堂向かって左手前の庫裡にて拝受しました。
なお、「火除不動尊」の御朱印は授与されていないそうです。


〔 観智院の御朱印 〕
〔 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊大日如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫と胎蔵大日如来のお種子「ア」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「第六十三番」の札所印。左に地蔵尊の御影印、院号の揮毫と寺院印が捺されています。


以下、つづきます。
(→ ■ 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印-3

記事リスト



【 BGM 】
■ 君がいない世界は切なくて - CHIHIRO feat. KEN THE 390


■ First Desire feat.HIRO from LGYankees, 山猿 中村舞子


■ 願い - 童子-T feat.YU-A (Foxxi misQ)
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■ 三社祭

本日から19日まで、浅草、浅草神社の三社祭(さんじゃまつり)です。

三社祭特別御朱印については本日17日から19日までの3日間、こちらの要領で授与されています。


【写真 上(左)】 浅草神社の三社祭特別御朱印
【写真 下(右)】 浅草神社のオリジナル御朱印帳(小)

転売防止のため、御朱印は書置のものを持参の御朱印、ないし頒布のオリジナル御朱印帳に貼付けての授与となります。
オリジナル御朱印帳(小タイプ)は御朱印1体込みで1,500円。
特別御朱印もご対応いただけるので、御朱印帳+特別御朱印で1,500円と廉価にて授与いただけます。


【写真 上(左)】 浅草神社の拝殿
【写真 下(右)】 浅草神社のオリジナル御朱印帳見本


【写真 上(左)】 三社祭の風景-1
【写真 下(右)】 三社祭の風景-2

雷門から浅草寺、浅草神社にかけて、場所によっては日本人よりインバウンドの方が多い感じがありました。
浅草にはこれまで幾度となく出向いていますが、こんなにもインバウンドが多いのは初めてです。
人種は多種多様で、ほとんどオリンピックのようです(笑)

以前はメイン動線から外れてインバウンドの姿などあまり見られなかった、銭塚地蔵堂弁天山などにもしっかりインバウンドの参拝者がいました。
堂に入ったお参りの仕方からみても、とても初来日とはみえず、来日を重ねる日本ファンなのかもしれません。


浅草神社には特設の御朱印所が設けられていましたが、待ち時間は受付まで5分程度、拝受まででも5分強で、これをみると、やはり御朱印ブームはすでに収束しているとみられます。

その一方、浅草寺の授与所(影向堂/ようごうどう)は、インバウンドメインの拝受者の行列が影向堂の外まで伸びて大盛況でした。


【写真 上(左)】 影向堂の外まで伸びる御朱印行列
【写真 下(右)】屋台と五重塔


話しが逸れますが、下町の雑踏・浅草駅から2時間ほど電車に揺られれば、緑濃い神域・日光、名湯・鬼怒川温泉に到着ですから、インバウンドにとって日本は奇跡のような国なのかも・・・。
高原のお寺で写経と極上の白濁イオウ泉を楽しめる日光湯本の「温泉寺」(→ 入湯レポ)など、今頃はインバウンドに占拠されているのかもしれません。

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なんと、筆者がすべての御朱印帳のなかでもっとも愛用している浅草寺の龍の御朱印帳が2,000円から3,000円と大幅値上げとなっていました。


【写真 上(左)】 浅草寺の龍の御朱印帳(朱と紺の二色)
【写真 下(右)】 浅草寺の以前の御朱印帳

じつは以前にもっとも愛用していたのは浅草寺の緑地の御朱印帳(1,000円)だったのですが、これが販売中止となり、1,500円だった龍の御朱印帳が2,000円となりました。
それでも、この龍の御朱印帳はすこぶる紙質がよいので、愛用していました。

でも、御朱印帳に3,000円拠出はさすがにきついので、今後は他寺の御朱印帳に変えると思います。
10年ほど前に1,500円だった龍の御朱印帳が2倍の3,000円になった訳で、ここでもインバウンドの影響を実感しました。
(たしかにインバウンドにとっては、御朱印帳が2,000円だろうが3,000円だろうが、まったく関係ないと思う。)


【写真 上(左)】 仲見世からの浅草寺
【写真 下(右)】 雑踏の観音堂前
※浅草寺参拝時はちょうどなにかの催しがあったらしく、参道はスタジアム状態と化していました。


止まらない物価高騰、下げ続ける実質賃金・・・。
しかも多くの寺社の御朱印が書置で500円となると、一般の方は二の足を踏んでしまう感じもわからぬではありません。
それに、御朱印に興味をもった方の多くはすでにだいたい拝受してしまった感じもあります。

そんなこともあって、一時の御朱印ブームが落ち着きをみせているのかと思います。
(筆者の個人的な感じからすると、御朱印ブームのピークは、令和元年初日だったように思う。→ 関連記事


帰りは例によって各線ダイヤ乱れの大混雑。
なにか、日本の国力の低下を一段と感じるお参りとなってしまいました。

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浅草・雷門周辺の雑踏に嫌気がさして、吾妻橋を渡り本所、駒形方面に足を伸ばしてみました。
こちらは対岸の雑踏がうそのように静かで、落ち着いたお参りと御朱印・御首題をすこぶるご親切な対応にて拝受できました。

 
【写真 上(左)】 宝珠山 如意輪寺の御朱印
【写真 下(右)】 能勢妙見山別院の御首題

如意輪寺の御朱印は札所申告なしでお願いしましたが、なんと(新)葛西三十三ヶ所観音霊場の札所印が捺されていました。
この霊場の札所印ははじめてだと思います。
(以前はなかったと思う。→ ■ 東京都区内の如意輪観音の御朱印


【 BGM 】
■ FictionJunction i reach for the sun


■ Yuki Kajiura - Credens justitiam


■ FictionJunction Everlasting song
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■ 弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場-1

お大師さまゆかりの寺院を巡る弘法大師霊場には、主に八十八ヶ所と二十一ヶ所があります。
ご参考(「ニッポンの霊場」様)

八十八ヶ所はかなりの時間と根気を要し、結願までの道のりはなかなか困難です。
そこで生まれたのが簡易(ミニ)版である二十一ヶ所という説がみられます。

簡易(ミニ)版であれば八十八ヶ所の札所からダイジェスト的に選定すればいい筈ですが、そうはなっていないケースもみられます。

「弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場」(以下、御府内二十一ヶ所霊場)もそのひとつです。

「御府内二十一ヶ所霊場」は、『東都歳事記』(国書データベース)に霊場名「弘法大師二十一ヶ所参」と、第21番が湯島霊雲寺であることが記載されていますが、札所一覧は記載されていません。
(これは後述する「弘法大師二十一ヶ寺」を示すものかもしれません。)

しかし、「ニッポンの霊場」様に札所リストが掲載されているので、こちらにもとづき巡拝しました。

『東都歳事記』の編纂は天保九年(1838年)ですから、それ以前の開創とみられます。
「ニッポンの霊場」様によると、この霊場は元禄(1688年)から宝暦(1751年)の間に開創とされる古い霊場で、宝暦五年(1755年)頃の開創とされる御府内霊場より古い可能性があります。

第21番がふたつあるようで、札所数は22となります。
台東区内の札所が多く、御府内八十八ヶ所霊場よりも東(下町)寄りの霊場となっています。

当初は第20番の寛永寺 一乗院のみ天台宗で残りはすべて(広義の)新義真言宗でしたが、明治に一乗院が廃寺となったのちは根岸の時雨岡不動堂(西蔵院の境外仏堂)に承継されたといい、現在はすべて(広義の)新義真言宗寺院となっています。

【弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場】

弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場-1
1番 法輪山 法幢院 浄光寺
 真言宗豊山派 荒川区西日暮里3-4-3 /豊・荒
2番 補陀落山 観音院 養福寺
 真言宗豊山派 荒川区西日暮里3-3-8 /豊・荒

弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場-2
3番 蓮葉山 妙智院 観音寺
 真言宗豊山派 台東区谷中5-8-28 /御・江
4番 長谷山 元興寺 加納院
 新義真言宗 台東区谷中5-8-5 /御・江
5番 天瑞山 観福寺 明王院
 真言宗豊山派 台東区谷中5-4-2 /御・江
6番 初音山 東漸寺 観智院
 真言宗豊山派 台東区谷中5-2-4 /御・江

弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場-3
7番 仏到山 無量寿院 西光寺
 新義真言宗 台東区谷中6-2-20 /江
8番 瑠璃光山 薬王寺 長久院
 真言宗豊山派 台東区谷中6-2-16 /御・江
9番 宝塔山 龍門寺 多寶院
 真言宗豊山派 台東区谷中6-2-35 /御・江
10番 本覚山 宝光寺 自性院
 新義真言宗 台東区谷中6-2-8 /御・江

弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場-4
11番 圓明山 宝福寺 西蔵院
 真言宗智山派 台東区根岸3-12-38 /荒
12番 鐡砂山 観音院 世尊寺
 真言宗豊山派 台東区根岸3-13-22 /荒
13番 東光山 等印院 龍泉寺
 真言宗智山派 台東区竜泉2-17-15 /荒
14番 恵日山 延命寺 地蔵院
 真言宗智山派 台東区元浅草1-15-8 /荒

弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場-5
15番 瑞光山 如意寺 密厳院
 真言宗豊山派 荒川区荒川4-16-3 /豊
16番 五剣山 普門寺 大乗院
 真言宗智山派 台東区元浅草4-5-16 /荒
17番 和光山 興源院 大龍寺
 真言宗霊雲寺派 北区田端4-18-4 /御・豊
18番 象頭山 観音寺 本智院
 真言宗智山派 北区滝野川1-58-2 /荒
19番 阿遮羅山 蓮華寺 阿遮院
 真言宗豊山派 荒川区東尾久3-6-25 /豊

弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場-6
20番 東叡山 寛永寺 一乗院(廃寺)
 天台宗 台東区上野公園
→(20番) 時雨岡(御行の松)不動堂
 真言宗智山派 台東区根岸4-9-5
21番-1 宝林山 大悲心院 霊雲寺
 真言宗霊雲寺派 文京区湯島2-21-6 /御・江
21番-2* 大黒山 宝生院
 真言宗智山派 葛飾区柴又5-9-8 /南
※ 21番-2* 宝生院は池之端茅町から移転

〔八十八ヶ所霊場の略記凡例〕
 御:御府内八十八ヶ所霊場
 江:江戸八十八ヶ所霊場
 豊:豊島八十八ヶ所霊場
 荒:荒川辺八十八ヶ所霊場
 南:南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)

↑をみると、22ヶ所のうち御府内八十八ヶ所霊場との重複札所はわずか9ですが、ほぼすべての札所が複数の八十八ヶ所弘法大師霊場と重複しています。
しかも第12番世尊寺は、荒川辺八十八ヶ所霊場の第1番を担われています。
ここからしても、御府内二十一ヶ所霊場は、単なる御府内八十八ヶ所霊場の簡易(ミニ)版とはいえないと思います。

上記のとおり、「ニッポンの霊場」様によると、この霊場は元禄(1688年)から宝暦(1751年)の間に開創とされ、宝暦五年(1755年)頃の開創とされる「御府内八十八ヶ所霊場」より古い可能性があります。
同じく「ニッポンの霊場」様によると、「荒川辺八十八ヶ所霊場」は天保九年(1838年)年頃かそれ以前、「豊島八十八ヶ所霊場」は明治41年(1908年)の開創ですから、やはりこの霊場の方が古いとみられます。

「江戸八十八ヶ所霊場」「御府内八十八ヶ所霊場」の前身と仮定すると、むしろ「江戸八十八ヶ所霊場」をベースのひとつとして成立したのかもしれません。


  
【写真 上(左)】 第3番観音寺の札所板
【写真 下(右)】 第14番地蔵院の御朱印


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「御府内二十一ヶ所霊場」とは別に「弘法大師二十一ヶ寺」という霊場もあります。

【弘法大師二十一ヶ寺】 (八十八ヶ所霊場の略記凡例は同上)

1番 萬昌山 金剛幢院 圓満寺
 真言宗御室派 文京区湯島1-6-2 /御・江
○2番 宝塔山 多寶院
 真言宗豊山派 台東区谷中6-2-35 /御・江
○3番 五剣山 普門寺 大乗院
 真言宗智山派 台東区元浅草4-5-16 /荒
4番 清光院 台東区下谷(廃寺)
○5番 恵日山 延命寺 地蔵院
 真言宗智山派 台東区元浅草1-15-8 /荒
6番 阿遮山 円満寺 不動院
 真言宗智山派 台東区寿2-5-2 /御・江
7番 峯松山 遮那院 仙蔵寺
 真言宗智山派 台東区寿2-8-15 /荒
8番 高野山 金剛閣 大徳院
 高野山真言宗 墨田区両国2-7-13 /御・江
9番 青林山 最勝寺 龍福院
 真言宗智山派 台東区元浅草3-17-2 /御・江
○10番 本覚山 宝光寺 自性院
 新義真言宗 台東区谷中6-2-8 /御・江
11番 摩尼山 隆全寺 吉祥院
 真言宗智山派 台東区元浅草2-1-14 /御・江
12番 神勝山 成就院
 真言宗智山派 台東区元浅草4-8-12 /御・江
13番 広幡山 観蔵院
 真言宗智山派 台東区元浅草3-18-5 /御・荒
14番 望月山 般若寺 正福院
 真言宗智山派 台東区元浅草4-7-21 /御・江
○15番 仏到山 無量寿院 西光寺
 新義真言宗 台東区谷中6-2-20 /江
16番 鶴亭山 隆全寺 威光院
 真言宗智山派 台東区寿2-6-8 /御・江
17番 十善山 蓮花寺 密蔵院
 真言宗御室派 中野区沼袋2-33-4(移転) /御・江
○18番 象頭山 観音寺 本智院
 真言宗智山派 北区滝野川1-58-2 /荒
○19番 瑠璃光山 薬王寺 長久院
 真言宗豊山派 台東区谷中6-2-16 /御・江
20番 玉龍山 弘憲寺 延命院
 真言宗智山派 台東区元浅草4-5-2 /御・荒
○21番 宝林山 大悲心院 霊雲寺
 真言宗霊雲寺派 文京区湯島2-21-6 /御・江

札所の出所は↓『御府内八十八ヶ所 弘法大師二十一ヶ寺 版木』(台東区教育委員会刊)です。


「弘法大師二十一ヶ寺御詠歌所附版木」が伝える弘法大師霊場で、この附版木は寛政二年(1790年)の開版ですからこちらもかなり古い来歴をもちます。

「御府内二十一ヶ所霊場」と「弘法大師二十一ヶ寺」の重複札所は○を付した8ヶ所ですが、両者の関係についてはよくわかりません。
「弘法大師二十一ヶ寺」は「御府内二十一ヶ所霊場」よりも御府内八十八ヶ所霊場との重複が多く、こちらの方が「御府内八十八ヶ所霊場の簡易(ミニ)版」の性格が強いのでは。

筆者は「弘法大師二十一ヶ寺」も結願していますが、こちらは21札所のうち廃寺となった第4番清光院を除いてすべて御朱印を拝受しています。

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■ 「御府内二十一ヶ所霊場」と「弘法大師二十一ヶ寺」の関係について

『御府内八十八ヶ所 弘法大師二十一ヶ寺 版木』(台東区教育委員会刊、以下「同書」)には下記の記載があります。

**********(引用)
当巡礼(弘法大師二十一ヶ寺)の開設は、御府内札所(御府内八十八ヶ所霊場)設定の宝暦年間(1751-1764年)より本版木開版の寛政二年(1790年)までの三〇数年の間のことと考えたい。
さらに『東都八十八ヶ所』は明治時代の二十一ヶ所を紹介している(巻末一覧表/註:同書『弘法大師御府内二十一所』項には「明治期の案内によったものである」というが、出典は明記されていない)。
これによれば、寛政二年と比べ十五ヶ寺の異動があり、他の六ヶ寺中の五ヶ寺は札所番号が変わっている。明治時代の札所中、第一一番西蔵院には(中略)江戸末期までに大きな改変があったと推定できる。
ところが、(御府内八十八ヶ所霊場)のように札所の改変は寺院の統・廃合に応じた場合が多いが、寛政二年当時の札所は明治一〇年までは確実に顕在していた。
このことから改変の理由は他にあったと思われ、あるいは、当巡礼(弘法大師二十一ヶ寺)は一時衰え、江戸末期に改めて編成されたとも考えられる。
**********(引用おわり)


上記の「明治時代の二十一ヶ所」は、「御府内二十一ヶ所霊場」と同一です。
「ニッポンの霊場」様によると「御府内二十一ヶ所霊場」の開創は元禄(1688年)から宝暦(1751年)。
これに対して同書による「弘法大師二十一ヶ寺」の開設は宝暦年間(1751-1764年)より寛政二年(1790年)の間で、「御府内二十一ヶ所霊場」の方が古い可能性があります。

さらに、同書でも「札所の改変は寺院の統・廃合に応じた場合が多い」と述べているとおり、神仏分離前の江戸期に全面改編に等しい札所改編があったとはどうしても考えられません。
「弘法大師二十一ヶ寺」の札所の多くが江戸時代に廃されたならばともかく、ほとんどの札所は現存しています。

となると、「弘法大師二十一ヶ寺」が改編されて「御府内二十一ヶ所霊場」(同書では「明治時代の二十一ヶ所」)になったのではなく、もともと江戸期から別個の霊場だったのでは?

なにぶん、弘法大師二十一ヶ寺の版木は発見されたばかり(おそらく平成に入ってからの発見と思われる)で、今後研究が進めば新たな関係がみえてくるのかもしれません。

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その他、近隣の墨田・葛飾両区をメインとする「弘法大師 隅田川二十一ヶ所霊場」という霊場もあり、下町エリアの二十一ヶ所の札所は錯綜気味です。

なお、「弘法大師 隅田川二十一ヶ所霊場」は「荒川辺八十八ヶ所霊場」あるいは「荒綾八十八ヶ所霊場」の簡易(ミニ)版とみる説もありますが詳細は不明です。


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「御府内二十一ヶ所霊場」の御朱印については、「御府内八十八ヶ所霊場」との重複札所では後者の御朱印の授与となるようです。
「豊島八十八ヶ所霊場」との重複札所でも同様の模様です。

この条件のもとですが、筆者は22ヶ所のうち20ヶ所で御朱印を拝受しています。

「御府内二十一ヶ所霊場」のみの札所の場合は御府内二十一ヶ所霊場での申告としましたが、この霊場を回る人は極めて希らしく、霊場名が通じない場合もありました。
むしろ、「お大師さまのお参り」あるいは「二十一大師のお参り」と申告した方が通りがいいかもしれません。

「御府内八十八ヶ所霊場」との重複札所以外では御朱印授与を想定されていない感じがあり、ご不在のケースもかなりあります。
御朱印目当てというより、荒綾霊場や荒川辺霊場と同様、往年の弘法大師霊場を辿るというスタンスが必要かもしれません。

御府内八十八ヶ所霊場は結願し、ご案内の記事もUP(→ こちら)していますが、御府内二十一ヶ所霊場は先日ようやく結願しましたので、御府内八十八ヶ所霊場の記事と同様のフォーマットでご紹介していきたいと思います。


それでは第1番から順にご紹介していきます。
なお、御朱印の授与については現在休廃止している可能性があります。


■ 第1番 法輪山 法幢院 浄光寺
(じょうこうじ)
荒川区西日暮里3-4-3
真言宗豊山派
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来?
司元別当:諏方神社(荒川区西日暮里)
他札所:豊島八十八ヶ所霊場第5番、荒川辺八十八ヶ所霊場第8番、東都六地蔵霊場第3番、豊島六地蔵霊場第3番

第1番札所は日暮里の浄光寺です。
谷中から日暮里につづく「諏訪台」にある真言宗豊山派の寺院です。

『新編武蔵風土記稿』『江戸名所図会』、現地掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

創建年代は当山が諏方神社の別当であったため、諏方神社の創建(現地掲示によると元久二年(1205年))と同時期とみられています。
なお、諏方神社は豊嶋左衛門尉経泰の創建と伝わりますが、太田道灌(1432-1486年)とする説もあり、別当の浄光寺についても豊島左衛門尉経泰説と太田道灌説があるようです。

創建時から法輪山法幢院を号したとみられ、御本尊は薬師如来と伝わります。

諏方神社は三代将軍徳川家光公(1604-1651年)に社領五石を安堵され、日暮里・谷中の総鎮守として広く信仰を集めたといい、その別当である当山も重要な役割を果たしていたとみられます。

元禄四年(1691年)には空無上人の勧化により「江戸六地蔵」(近郷六地蔵)のひとつが安置されています。
この「江戸六地蔵」は、現在まで伝わる「後の六地蔵」ではなく、下谷池之端影向山心行寺三世の(慈済庵)本誉空無(浄土木食)が元禄四年(1691年)に建立開眼した「はじめの六地蔵」です。

『江戸砂子温故名蹟誌 6巻3』(国立国会図書館DC)の醫王山 真性寺の項には以下の記載があります。

***************
地蔵坊正元法師建立唐銅六地蔵の三番也所謂六軀ハ
一番 品川 真言 品川寺
二番 四谷 浄土 大宗寺
三番 巣鴨 同(真言) 真性寺
四番 山谷 禅 東禅寺
五番 深川 浄土 霊巌寺
六番 深川 真言 永代寺

右六地蔵の●●元坊ハ俗名吉之郎とて八百屋の女お七●●もの●出家と云もの●●出家 ●六軀を造立●といひつ
されは宝永年中沙門正元坊か建立せし金銅丈六の六軀ハ世に後の六地藏といふと也

慈済庵空無上人勧化の助力を以 金銅立像八尺の地藏六軀を造立し江戶六ヶ所に安置す 元禄四年開眼供養を執行す これをはしめの六地藏といふ所謂六所ハ
一番 駒込 浄土 瑞泰寺
二番 千駄木 浄土 專念寺
三番 日暮里 諏訪 浄光寺
四番 池端 心行寺
五番 東叡山 大仏側 慈濟庵
六番 淺艸寺内 正智院
***************

下欄の「はし(じ)めの六地藏」の三番に浄光寺の記載があります。
「はじめの六地蔵」は毎月二十四日ないし十八日の縁日に多くの信者を集めたと伝わりますがいつしか衰退し、いくつかは廃寺となったこともあり、現在江戸六地蔵として知られているのは正元坊建立の「後の六地蔵」です。
「はじめの六地蔵」で現存するのは浄光寺と専念寺だけとみられています。

なお、「江戸六地蔵」については→ (こちらの記事)をご覧ください。

元文二年(1737年)有徳院殿(八代将軍徳川吉宗公)が御遊猟の折りに当山に立ち寄られて以降、将軍鷹狩りの際の御膳所に定められたという格式をもちます。
山内には、三代将軍徳川家光公が腰掛けたという「三代将軍御腰掛石」があります。

高台にあって眺望に優れた「諏訪台」は江戸時代、人気の景勝地で、諏訪台八景(筑波茂陰、黒髪晴雪、前畦落雁、後岳夜鹿、隅田秋月、利根遠帆、暮荘烟雨、神祠老松)が定められて詩歌にうたわれました。

とくに浄光寺の雪景色は有名で「雪見寺」と称されました。
近くの本行寺は「月見寺」、青雲寺は「花見寺」と呼ばれ、江戸の文人墨客を集めたことが記録に残っています。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 豊島郡巻十』(国立国会図書館)
(新堀村)諏訪社
村内及谷中ノ惣鎮守トス 一寸許ナル薄黒キ圓石ヲ神躰トス 社領五石ノ御朱印ハ慶安二年(1649年)附ラル 元享年中(1321-1324年)豊嶋左衛門尉経泰信州ノ諏訪ヲ勧請セル由縁起ニ載タリ 例祭七月廿六日社邊東ノ方ヲ諏訪臺ト号シ眺望勝景ノ地ナリ 林信充カ浄光寺八景詩歌ハ則此処ニテノ作ナリ 所謂八景ハ筑波茂陰 黒髪晴雪 前畦落雁 後岳夜鹿 隅田秋月 利根遠帆 暮荘烟雨 神祠老松ナリ 皆望中ノ景色ナリ 末社 山王 稲荷
別当浄光寺
新義真言宗田端村与楽寺末 法輪山法幢院ト号ス 本尊薬師 元文二年四月十四日 有徳院殿御遊猟ノ時始テ当寺ヘ成セ給ヒ 同五年正月廿五日御膳所ニ命セラレシヨリ 今モ此邊放鷹ノ節ハ御膳所トナレリ
御腰掛石 庭前ニアリ 有徳院殿始テ渡御アリシ時憩セ給フ石ナリト云傳フ
人麿社 頓阿作ノ像ヲ安ス 享保年中起立ス
地蔵 銅像ニテ近郷六地蔵ノ一ナリ

『江戸名所図会 巻之五』(国立国会図書館)
同所(日暮里)北の方、諏訪の台にあり。信州諏訪の祭神におなじ。当社は元享の頃、豊島左衛門佐建立す。其後太田道灌、此地を江戸城の出張の砦とせしみぎり、修営して、郭内の鎮守となせしとぞ。社頭今も杉の木立生茂りて上久(かみさび)たり。当社別当は真言宗にして、法輪山浄光寺と号す。当寺の書院は、高崖に架して、眼下に千歩の田園を見下せり。風色尤も幽雅にして、四時の眺望たらずと云ふ事なし。中に雪のながめ勝れたれば、世に称して雪見寺とも名くとかや。
人麻呂の祠
当院庭中に安ず。頓阿法師の作にして、杉の白木をもって作り。是則ち播州住吉社へ奉納ありし三百体の其一なりといへり。
地蔵堂
同じく門のかたはらにあり。本尊は紫銅(カラカネ)にて、立像八尺の地蔵尊なり。慈済庵空無上人建立ありて、元禄四年に開眼供養す。六地蔵の一なり。

『荒川区史』(国立国会図書館)
法輪山浄光寺は法幢院とも号し新義真言宗豊山派に属し田端町與楽寺末、本尊は薬師如来である。
当寺の創立は不明であるが、古老の説に太田道灌の建立と云ふ。一説には元享年間(1321-1324年)豊島左衛門尉経泰の創建せし所とも云ふ。
寺は諏訪台の高処を占め、舊幕時代は諏方神社の別当職で、此の境内は展望開豁であって雪見に適していたので俗に之を雪見寺と称した。
元文二年(1737年)将軍吉宗(一説には三大将軍家光とも云ふ)が遊猟に際し当寺に休憩し、又同五年正月膳所に命ぜられしよりその事幕府の末に及んだ。(中略)
江戸六地蔵の内二體が当寺入口左側にある。
古記に、「地蔵堂 本尊は紫銅にて立像八尺の地蔵尊なり。慈済庵空無上人建立ありて元禄四年(1691年)に開眼供養す、六地蔵の一なり。」とある。
尚、地蔵の外不動、観音、厄除大師等も安置されている。古くは人麻呂祠があった。

【現地案内掲示/荒川区教育委員会】
■ 江戸六地蔵と雪見寺(浄光寺)
山門をくぐって左手に、高さ一丈(約三メートル)の銅造地蔵菩薩がある。元禄四年(1691年)、空無上人の勧化により江戸東部六か所に六地蔵として開眼された。もと門のかたわらの地蔵堂に安置されていたもので門前は「地蔵前」ともよばれる。
浄光寺は、真言宗豊山派の寺院。法輪山法幢院と称し、江戸時代までは諏方神社の別当寺であった。元文二年(1737年)、八代将軍吉宗が鷹狩の際にお成りになり、同五年以降御膳所となった。境内に「将軍腰かけの石」がある。
眺望にすぐれた諏訪台上にあり、特に雪景色がすばらしいというので「雪見寺」ともよばれた。

【現地案内掲示/荒川区教育委員会】
■ 諏訪神社
信濃国上諏訪社と同じ建御名方命を祀る。
当社の縁起によると、元久二年(1205年)豊嶋左衛門尉経泰の造営と伝える。
江戸時代、三代将軍徳川家光に社領五石を安堵され、日暮里・谷中の総鎮守として広く信仰を集めた。



出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』 根岸谷中辺絵図,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはJR・メトロ千代田線「西日暮里」駅で徒歩数分。
「西日暮里」駅は武蔵野台地の崖の下にあり、駅出口からすぐの歩道橋を兼ねた急な階段を上ると西日暮里公園です。


西日暮里公園

この公園の案内板には下記のとおりあります。

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道灌山は、上野から飛鳥山へと続く台地上に位置します。(中略)この公園を含む台地上にひろがる寺町あたりは、ひぐらしの里と呼ばれていました。
道灌山の地名の由来として、中世、新堀(日暮里)の土豪、関道閑が屋敷を構えたとか、江戸城を築いた太田道灌が出城を造ったなどの伝承があります。
江戸時代、人々が日の暮れるのも忘れて四季おりおりの景色を楽しんだことから、「新堀」に「日暮里」の文字をあてたといわれています。(中略)
道灌山・ひぐらしの里は、江戸時代の中頃になると、人々の憩いの場として親しまれるようになりました。寺社が競って庭園を造り、さながら台地全体が一大庭園のようでした。

桃さくら 鯛より酒のさかなには みところ多き 日くらしの里
十返舎一九

雪見寺(浄光寺)、月見寺(本行寺)、花見寺(妙隆寺、修性院、青雲寺)、諏訪台の花見、道灌山の虫聴きなど、長谷川雪旦や安藤広重ら著名な絵師の画題となり、今日にその作品が知られています。
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【写真 上(左)】 ■ 『江戸名所図会 第3 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)
【写真 下(右)】 道灌山の虫聴き(現地掲示より)

西日暮里公園あたりは「虫聴き」の名所として知られていたようです。

公園を抜けて左手の社叢は諏方神社。
日暮里・谷中の総鎮守として人々の崇敬を集め、浄光寺はその別当でした。
諏方神社では、日暮里・谷中エリアでは貴重な神社の御朱印を授与されています。


【写真 上(左)】 諏方神社
【写真 下(右)】 諏方神社の御朱印

浄光寺は、諏方神社の鳥居のよこに山門を構えています。
いかにも別当然とした位置関係です。


【写真 上(左)】 諏方神社鳥居と浄光寺山門
【写真 下(右)】 浄光寺山門


【写真 上(左)】 山門の扁額
【写真 下(右)】 六地蔵三番目の石標

山門脇には「六地蔵三番目」の石標が置かれています。
山門は切妻屋根桟瓦葺の高麗門で、見上げに山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 二体の地蔵尊
【写真 下(右)】 西村和泉守作の地蔵尊

山門をくぐって左手には座像と立像の二体の銅造地蔵尊が御座し、いずれも区の指定文化財。
手前の銅造地蔵菩薩座像は江戸の鋳物師として有名な西村和泉守の作で、文化六年(1809年)の造立。
奥の銅造地蔵菩薩立像は元禄四年(1691年)造立の江戸六地蔵三番目の尊像で、下谷心行寺二世空無上人の権化により元禄四年(1691年)に開眼されています。
もとは山門脇に奉じられていましたが、昭和初期に山内に遷されたとのことです。

江戸六地蔵はもとより、西村和泉守作の地蔵尊の台座にも多数の願主の名が刻まれていることから、浄光寺は江戸時代地蔵信仰の寺として知られていたとみられます。


【写真 上(左)】 江戸六地蔵の地蔵尊
【写真 下(右)】 土蔵造りの堂宇

地蔵尊のさらに奥に土蔵造りの堂宇がありますが、扁額がなく堂宇本尊は不明です。


【写真 上(左)】 本堂-1
【写真 下(右)】 本堂-2


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝の扁額

山内左手奥の階段上に本堂。
入母屋造桟瓦葺で手前に向拝を附設しています。
身舎はコンクリ造で、水引虹梁は装飾少なく直線的ですが中備に蟇股を置いています。
向拝見上げには寺号扁額を掲げています。



【写真 上(左)】 山門と六地蔵
【写真 下(右)】 石佛群

山門右手の壁際には石佛群と六地蔵。
山内のどこかにおそらく「将軍の腰掛石」があると思いますが、超うかつにも撮りわすれました。

御朱印は庫裏にて拝受しました。
先日(2024年4月)の参拝時には庫裏の扉に「御朱印対応自粛中です。」の張り紙があり、御朱印授与を休止している模様ですが、Web情報には「セルフ捺しの御朱印あり」の情報もあって、よくわかりません。



もし、御朱印授与休止中だとしたら、現時点では豊島八十八ヶ所霊場の御朱印はコンプリートできないことになります。


〔 浄光寺の御朱印 〕

中央に「薬師如来」の印判と薬師如来のお種子「バイ」の御寶印。
左に山号・寺号の印判と寺院印が捺されています。


■ 第2番 補陀落山 観音院 養福寺
(ようふくじ)
荒川区西日暮里3-3-8
真言宗豊山派
御本尊:如意輪観世音菩薩
札所本尊:如意輪観世音菩薩?
司元別当:
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第7番、東京三十三観音霊場第28番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第27番、東都七観音霊場第5番、近世江戸三十三観音霊場第10番、東方三十三観音霊場第12番、江戸坂東三十三ヶ所観音霊場第9番、豊島六地蔵霊場第6番

第2番札所は日暮里の養福寺です。
こちらも「諏訪台」にある真言宗豊山派の寺院です。

『新編武蔵風土記稿』『江戸名所図会』、荒川区資料、現地掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

Wikipediaには元和六年(1620年)、法印乗蓮によって開山とあります。
『江戸名所図会』には開山は木食義高上人とありますが、荒川区資料その他には湯島圓満寺の木食義高上人(享保三年(1718年)没)は中興とあります。

『江戸名所図会』によると、義高上人は初め高野山高臺院の住職でしたが当地に赴き、百番の観音札所を遷す事を企られたといいます。
当地にあった小庵を開いて寺とし、野山より遷し奉る霊像を礼拝しつつ修補して、ついに百體の尊像を安されたといいます。

『新編武蔵風土記稿』によれば新義真言宗田端村東覺寺門徒(末)、補院山観王院と号し、御本尊は阿弥陀如来。
仁王門、鐘楼を擁し、天神社、諏訪社が御鎮座とあります。
観音堂には春日作の如意輪観世音菩薩、弘法大師御作の十一面観世音菩薩、慈覚大師御作の正観世音菩薩を安置ともあります。
 
寺宝として台徳院殿(二代将軍徳川秀忠公)御筆の色紙ありと記されています。
仁王門は宝永年間(1704-1711年)に建立とされ、門中の仁王像は運慶作とも伝わります。

養福寺には、「日暮里(ひぐらしのさと)」を訪れた江戸時代の文人たちの遺蹟が残ります。
「梅翁花樽碑」「雪の碑」「月の碑」などからなる「談林派歴代の句碑(区指定文化財)」や、江戸時代の四大詩人の一人、柏木如亭を偲んで建てられた「柏木如亭の碑」、自堕落先生こと山崎北華が自ら建立の「自堕落先生の墓」など、文学の香り高い寺院として知られています。

当山は、筆者にて確認できた範囲でじつに9もの霊場札所となっています。
『新編武蔵風土記稿』には「観音堂には春日作の如意輪観世音菩薩、弘法大師御作の十一面観世音菩薩、慈覚大師御作の正観世音菩薩を安置」とあり、おのおのの観音様が札所本尊となられていた可能性があります。

『江戸名所図会』の記事からすると、上野王子駒込辺三十三観音霊場は西國写しなので春日作の如意輪観音、江戸坂東三十三ヶ所観音霊場は板東写しなので弘法大師御作の十一面観音、近世江戸三十三観音霊場ないし東方三十三観音霊場を秩父写しと見立てると慈覚大師御作の正観音がそれぞれ札所本尊であった可能性があります。

『江戸切絵図』では当山とおぼしき場所に「梅ノ天神」の記載があります。
『新編武蔵風土記稿』には山内に「天神社」とあるので、こちらの天神社は梅の名所だったのかもしれません。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 豊島郡巻十』(国立国会図書館)
(新堀村)養福寺
新義真言宗田端村東覺寺門徒 補院山観王院ト号ス 中興ハ湯嶋圓満寺住職木食義高ナリ 本尊彌陀 寺寶ニ台徳院殿御筆ノ色紙アリ 伝来詳ナラス左ノ如シ

~ いか●にむかし むすへる契にて こ乃世にかゝる 中乃隔り ~

天神社 諏訪社
観音堂 春日作ノ如意輪観音 弘法大師作ノ十一面観音 慈覚大師作ノ正観音ヲ安置ス
鐘楼 仁王門

『江戸名所図会 巻之五』(国立国会図書館)
観王院と号す。同所(日暮里)北の方にあり。本尊は三尊の彌陀佛、開山は木食義高上人なり。
観音堂
西國板東秩父百番の札所をうつせり。
本尊如意輪観音 佛工春日の作にして、西國札所第一番紀州那智山のうつしなり。
十一面観音 弘法大師の作にして、板東札所第一番鎌倉杉本のうつしなり。
正観音 慈覚大師の作にして、秩父札所第一番四萬部寺のうつしなり。

抑此百観音は、義高上人の建立なり。上人初め高野山の高臺院に住職たりしが、後彼寺を退去し、当地に赴き、百番の札所をうつさん事を企つ。是本土に至りがたき兒女等の結縁の為となり。拠て此地に小庵のありけるを、闢きて寺とし(往古太田道灌勧請ありし下諏訪明神の社地なり)、数千歩の地を寄付せられしとぞ。
本尊おほくは野山より遷し奉る霊像なりといへども、百體に充たざるを嘆き、これを修補し、一軆毎に佛舎利一顆を御首に籠め、竟に百體の尊像全からしむとなん。
二王門の額に補陀山とあるは、油小路隆貞卿の眞蹟なり。

『荒川区史』(国立国会図書館)
補陀落山養福寺は又観音院と称し新義真言宗豊山派に属し田端の與楽寺末である。
本尊は阿弥陀如来、開基並びに其の年代は不明であるが、中興開山は木食義高上人(湯島圓満寺)と云はれ享保三年(1718年)示寂。
今本堂の外に観音堂地蔵堂等がある。
観音堂は如意輪観音(帝都七観音の一)を本尊とし、其の他百軆観音像が安置されて居る。
西國第二十七番播磨國書寫山及び秩父第一番四萬部より移したものである。
又御府内二十一ヶ所第二番 豊島弘法大師 荒川辺八十八ヶ所第七十三の霊場である。
当寺の仁王門は寶永年間の建立で仁王尊二天王像が安置されて居る。二天王像は運慶の作と伝へる。
本堂の如意輪観音は春日作と伝へ、其の他弘法大師作の十一面観音、慈覚大師作の正観音と伝へられるものも安置されて居る。
境内の枝絲桜は古来有名。

【現地案内掲示/荒川区教育委員会】
■ 養福寺と文人たち
養福寺は真言宗豊山派の寺院で、補陀落山観音院と号し、湯島円満寺の木食義高(享保三年(1718年)没)によって中興されたという。江戸時代、多くの文人たちが江戸の名所である「日暮里(ひぐらしのさと)」を訪れ、その足跡を残した。なかでも養福寺は「梅翁花樽碑」「雪の碑」「月の碑」などからなる「談林派歴代の句碑(区指定文化財)」や、江戸時代の四大詩人の一人、柏木如亭を偲んで建てられた「柏木如亭の碑」、畸人で知られた自堕落先生こと山崎北華が自ら建てた「自堕落先生の墓」などさまざまな文人の碑が残る寺として知られている。



出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』 根岸谷中辺絵図,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはJR・メトロ千代田線「西日暮里」駅で徒歩約5分。
「西日暮里」駅方向から来ると「諏訪台通り」の浄光寺の並びにあります。



【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 山内入口


【写真 上(左)】 門柱の寺号札
【写真 下(右)】 六地蔵

「諏訪台通り」からやや引きこんで、まずは門柱を構え、その先の朱塗りの仁王門が目を引きます。
切妻屋根桟瓦葺、三間一戸の八脚門で見上げに寺号扁額を掲げ、脇間に二王尊が御座します。


【写真 上(左)】 仁王門
【写真 下(右)】 鐘楼

山内は緑が多く、しっとりと落ち着いた空気感。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 修行大師像

本堂は入母屋造桟瓦葺で、前面すべてに向拝屋根が置かれているので、二重屋根風の意匠となっています。
身舎はコンクリ造ながら向拝正面に桟唐戸を置き、その両側に二つ引き紋を配して風格をたたえる堂前です。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 御本尊の御真言

御本尊は如意輪観世音菩薩で、向拝柱には御真言が掲出されていました。
堂前には修行大師像が御座され、御府内弘法大師霊場の趣ゆたかです。

御朱印は庫裏にて拝受しました。


〔 養福寺の御朱印 〕※豊島霊場の御朱印



中央に「如意輪観世音菩薩」のお種子「キリーク」&尊格と「弘法大師」の揮毫と三寶印。
右上に「豊島第七十三番」の札所印。
左に山号・院号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


以下、つづきます。
(→ ■ 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印-2


【 BGM 】
■ 夢の大地 - Kalafina


■ This Love - アンジェラ・アキ


■ 本当の音 [Hontou no Oto] (True Sound) - KOKIA
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■ 八神純子のLIVE

 

日曜日に行ってみました。
なんといっても、ハイトーンJ-POPを代表するアーティストだし、この記事(■ 透明感のある女性ヴォーカル50曲)にもリストしてるもんね(笑)

「(1970~80年代の)オリジナルVers.とキーもアレンジも変えずに歌う」って、正直「どうなるかな?」と思ったけど、安定感がハンパじゃなかった。
ハイトーンもしっかり出ていたし、なにより中~低音の深みが圧巻だった。

ブレスのとり方とか、ビブラートのかませ方とか、やっぱり実力派のプロは違うとあらためて実感したLIVEでした。

それと、やっぱり生バンドはいいわな。
とくにドラムス。
スネアの粘りとか抜け方とか、ハイハットの音色とか、生音はぜんぜん違うもんね。

■ ポーラー・スター - 八神純子 / 2022LIVE
※今回と同じ面子のバンド


個人的には、「明治チェルシーの唄」の歌い回しがよかった。

■ 明治チェルシーの唄 ( '81 ) 八神純子 / Junko Yagami " Theme-song of CHLSEA-candy "


これからも名テイクをたくさん残してほしい。
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■ 谷中の御朱印・御首題

久しぶりに追加しました。
なお、これまで非掲載としていた寺院の御朱印もWeb上でみつかるようになったので、こちらも併せてUPします。


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2021/02/23 UP
※ さらに御朱印や写真を追加しました。


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2020/03/07 UP
※ エリアや寺社の写真を追加してみました。

谷中で拝受できる御朱印については、「東京都台東区の札所と御朱印」でご紹介していますが、今回は谷中の最新情報を交えて整理してみます。

 
  

谷中は日蓮宗・法華宗の御首題を抜きにして語ることはできません。
このところ、本妙院様や長運寺様がカラフルな絵御首題(絵御朱印)を出され拝受層が広がっていること、また、Web上でも授与情報が増えてきているので、今回日蓮宗・法華宗寺院(御首題)情報も加えて再UPします。
なお、拝受したところと、不授与の確認がとれたところは記載していますが、現時点で不明な日蓮宗・法華宗寺院については記載しておりません。

谷中はメディアのとりあげも多く、ガイド類もたくさん出ているので御朱印のメッカと思われがちですが(実際、授与される寺院はかなり多い)、じつは敷居の高い寺院もかなりあります。
もちろん、丁寧なご対応をいただけるお寺さんもたくさんあり、お寺ごとの対応の差が大きい印象があります。
神社がすくないことも拝受難易度を高めている一因です。

このあたりは、御朱印拝受が容易な上野公園エリアとは様相が異なり、御朱印初心者は上野公園エリアから入った方がベターかと思われます。
(なお、いわゆる「塩対応」はお寺さんのお考えやそういうお考えをもたれた背景をお伺いするまたとない機会(実際、委細にお話を伺えた場合、勉強になることが多い)なのですが、不慣れな局面でいきなりこれをくらうと正直キツイです(笑))

以前、御府内霊場を結願したときも「谷中のお寺は予想以上に手ごわい」という印象がありましたが、その傾向はますます強まっているような感じがします。
納経所前に「御朱印は、御府内霊場専用の御朱印帳にしか授与しない。」旨の明示をされている寺院もあります。

(たしかに、谷中界隈でとんでもない態度で御朱印を乞う観光客を見たことは一度や二度ではないですし、お寺さんのこのような対応はわからなくもないです。
ただし、(専用納経帳でなく)汎用御朱印帳で札番を振り、弘法大師霊場(八十八ヶ所)をコンプリートするのはまず不可能です。
となると、新規巡拝者の間口も狭まってしまう感じも(個人的には)します。発願寺の高野山東京別院をはじめ、すばらしい対応をしていただける札所も多いだけに、こういう流れはいささか残念な気もします。)

一方、マイナー系札所や非札所では、御朱印授与に積極的なお寺さんが増えている感じもします。
上記の本妙院様や長運寺様、数年前は非授与だった西光寺様が御朱印授与をはじめられたなどがその具体例です。
また、御朱印をお断りされたお寺さんでも「いまのところはお出ししていない。」という、含みのある表現をされたところが数箇寺ありました。

今回は、不授与の寺院(私自身が直接ご住職ないし大黒さんに確認したもの(2017~2019年)、日蓮宗寺院も含む)もご紹介します。
動線的に連続している荒川区西日暮里三丁目の御朱印も併せてご紹介します。

 
  

【エリア概要】

言問通りから北は、いよいよ都内屈指の寺町、谷中エリアに入る。
このエリアは上野駅から入るよりも、千代田線「根津」駅から入った方が便利がよい。
ちなみにこのあたりは、「谷根千」(谷中・根津・千駄木)と呼ばれ、下町情緒やグルメが楽しめるエリアとして近年人気急上昇中。

言問通り・善光寺坂北側の谷中一丁目は日蓮宗・御首題メインのエリア。坂を上りきった谷中六丁目は日蓮宗と他宗派の混在エリアとなり、御府内八十八箇所の札所も。
ここから北側の谷中五丁目から西日暮里三丁目(荒川区)にかけてが谷中のメインエリア。
東は谷中霊園で、JR「日暮里」駅からスタートする散策客も目立つ。

谷中五丁目の真言宗寺院は御府内八十八箇所の札所も多く、御朱印収集的に外せないエリア。これを抜きにしても寺町の趣ゆたかで散策する価値は十分にあると思う。



【拝受データ】 (おおむね谷中一丁目から。現時点で授与休廃止の可能性あり、形態(直書・書置など)は状況により変化する可能性大です。)
なお、末尾○欄は御朱印をいただいていない霊場で、古いものが多いです。


■楞伽山 天眼寺
台東区谷中1-2-14
臨済宗妙心寺派
〔御朱印不授与〕

■栄源山 本寿寺
台東区谷中1-4-9
日蓮宗
〔御首題不授与・・・Web上に拝受御首題ありますが不授与とのこと〕

■祝融山 瑞松院
台東区谷中1-4-10
臨済宗妙心寺派 御本尊:釈迦牟尼佛
〔御朱印不授与〕

■妙経山 成就院 信行寺
台東区谷中1-5-7
日蓮宗
〔御首題不授与・・・Web上に拝受御首題ありますが不授与とのこと〕

■長久山 妙泉寺
台東区谷中1-5-34
法華宗本門流
 
・御首題 書置(筆書) 

■顕寿山 佛心寺
台東区谷中1-5-35
日蓮宗
 
【写真 上(左)】 佛心寺山門
【写真 下(右)】 佛心寺本堂
 

・御首題 直書(筆書)

 
・御朱印 書置(筆書) 
・毘沙門天の御朱印 直書(筆書)
※ご対応はたいへん親切です。御首題は書置ご用意の可能性があります。

■大法山 一乗寺
台東区谷中1-6-1
日蓮宗
 
【写真 上(左)】 一乗寺山門
【写真 下(右)】 一乗寺本堂

 
【写真 上(左)】 ・御首題 直書(筆書)
【写真 下(右)】 ・御朱印 直書(筆書)
※御朱印・御首題についてのご対応は→こちら。時間限定ですが、快く授与いただけます。
カラー御朱印・御首題は郵送対応可。墨朱御朱印・御首題は参拝者のみに授与のようです。

■倍増山 宝城院 金嶺寺
台東区谷中1-6-27
天台宗 御本尊:阿弥陀如来
 
・朱印尊格:阿弥陀如来 札番:なし 直書(筆書)
○上野王子駒込辺三十三観音霊場第31番

■大乗山 長運寺
台東区谷中1-7-4
日蓮宗
 
【写真 上(左)】 長運寺山門
【写真 下(右)】 長運寺本堂

 
【写真 上(左)】 ・御首題 直書(筆書)
【写真 下(右)】 ・絵御首題 直書(筆書)
※絵御首題・絵御朱印で有名。授与時間は→こちら(インスタ)でUPされます。。

■望湖山 玉林寺
台東区谷中1-7-15
曹洞宗 御本尊:釈迦牟尼佛
 
・朱印尊格:釋迦牟尼佛 札番:なし 直書(筆書)
○江戸浅草辺三十三観音霊場第25番

■六浦山 延壽寺 (日荷堂) 
台東区谷中1-7-36
日蓮宗
 
【写真 上(左)】 延壽寺本堂
【写真 下(右)】 延壽寺日荷堂
 
 
【写真 上(左)】 ・御首題 書置(筆書)
【写真 下(右)】 ・御首題 直書(筆書)

■正栄山 妙行寺
台東区谷中1-7-37
日蓮宗
 
・御首題 直書(筆書)

■石岡山 妙福寺
台東区谷中1-7-41
日蓮宗
〔御首題不授与・・・Web上に拝受御首題ありますが不授与とのこと〕

■龍興山 臨江寺
台東区谷中1-4-13
臨済宗大徳寺派 御本尊:釈迦牟尼佛
 
・朱印尊格:南無本師釋迦牟尼佛 札番:なし 直書(筆書)
○秩父写山の手三十四観音霊場第3番

■谷中冨士
台東区谷中1-6-14
参拝記念スタンプあり
 

■光雲山 元導寺 法蔵院
台東区谷中1-6-26
天台宗 御本尊:阿弥陀如来
 
・朱印尊格:阿弥陀如来 札番:なし 直書(筆書)

■高光山 大圓寺
台東区谷中3-1-2
日蓮宗
 
【写真 上(左)】 大圓寺山門
【写真 下(右)】 大圓寺境内

 
【写真 上(左)】 ・御首題 直書(筆書)
【写真 下(右)】 ・御朱印 直書(筆書)

■妙祐山 宗林寺 (江戸十大祖師/舟守祖師)
台東区谷中3-10-22
日蓮宗
 
・御首題 書置(筆書)

■円妙山 本授寺
台東区谷中3-11-6
顕本法華宗
〔御首題不授与〕

■慈雲山 久成院
台東区谷中4-1-5
日蓮宗
 
・御首題 直書(筆書)

■正行院
台東区谷中4-1-6
日蓮宗
 
・御首題 直書(筆書)

■慈雲山 浄延院
台東区谷中4-1-8
日蓮宗
 
・御首題 直書(筆書)

■慈雲山 瑞輪寺 (江戸十大祖師/安産飯匙の祖師)
台東区谷中4-2-5
日蓮宗
 
【写真 上(左)】 瑞輪寺参道
【写真 下(右)】 瑞輪寺山門

 
【写真 上(左)】 瑞輪寺本堂
【写真 下(右)】 東京七面山

 
・御首題 直書(筆書)

 
・御朱印(妙法) 直書(筆書)

■本妙院
台東区谷中4-2-11
日蓮宗
 
【写真 上(左)】 本妙院山門
【写真 下(右)】 本妙院本堂

 
【写真 上(左)】 ・御首題 直書(筆書)
【写真 下(右)】 ・御朱印(妙法) 書置(筆書) 
※絵御首題・絵御朱印で有名。

■法栄山 本通寺
台東区谷中4-2-33
法華宗陣門流
 
・御首題 直書(筆書)

■栄照山 龍谷寺
台東区谷中4-2-35
日蓮宗
 
・御首題 直書(筆書)

■寂静山 蓮華寺
台東区谷中4-3-1
日蓮宗
 
・御首題 書置(筆書)

■日長山 領玄寺
台東区谷中4-3-5
日蓮宗
〔御首題不授与〕

■円住山 妙円寺
台東区谷中4-4-29
日蓮宗
〔御首題不授与・・・「御朱印不授与」の貼紙あり、御首題も不授与とのこと〕

■海雲山 天龍院
台東区谷中4-4-33
臨済宗妙心寺派 御本尊:釈迦牟尼佛
〔御朱印不授与・・・Web上に拝受御朱印ありますが不授与とのこと〕

■興福山 永久寺
台東区谷中4-2-37
曹洞宗 御本尊:釈迦牟尼佛
 
・朱印尊格:南無釈迦牟尼佛 札番:なし 直書(筆書)
○江戸浅草辺三十三観音霊場第31番、秩父写山の手三十四観音霊場第6番

■象頭山 頣神院
台東区谷中4-3-27
臨済宗妙心寺派 御本尊:不詳
 
・朱印尊格:大日如来 札番:なし 直書(筆書)

■初音山 東漸寺 観智院
台東区谷中5-2-4
真言宗豊山派 御本尊:大日如来
 
・朱印尊格:本尊 阿弥陀如来・弘法大師・興教大師 御府内八十八箇所第63番印判 直書(筆書)
○弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第6番、江戸八十八ヶ所霊場第64番
※「谷中の火除不動尊」の御朱印は不授与。幼稚園があるので開園時参拝のタイミング留意要。

■大道山 興禅寺
台東区谷中5-2-11
臨済宗興聖寺派
〔御朱印不授与〕
○弁財天百社参り第58番

■運立山 養傅寺
台東区谷中5-2-16
日蓮宗
 
・御首題 直書(筆書)

■大道山 長安寺
台東区谷中5-2-22
臨済宗妙心寺派 御本尊:千手観世音菩薩
 
・朱印尊格:大悲殿 上野王子駒込辺三十三観音霊場第22番印判 直書(筆書)
○谷中七福神(寿老人)、東方三十三観音霊場第14番

■感応山 常在寺
台東区谷中5-2-25
日蓮宗
 
・御首題 直書(筆書)

■長清山 養泉寺
台東区谷中5-2-28
日蓮宗
 
・御首題 直書(筆書)

■常観山 安立寺
台東区谷中5-3-17
日蓮宗
 
・御首題 直書(筆書)

■天瑞山 観福寺 明王院
台東区谷中5-4-2
真言宗豊山派 御本尊:阿弥陀如来
 
・朱印尊格:本尊 阿弥陀如来・弘法大師・興教大師 御府内八十八箇所57番印判 直書(筆書)
○弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第5番、江戸八十八ヶ所霊場第57番

■普門山 全生庵
台東区谷中5-4-7
臨済宗国泰寺派 御本尊:葵正観世音菩薩
 
・朱印尊格:葵正観音 札番:なし 直書(筆書)
○大東京百観音霊場第25番

■松栄山 福相寺
台東区谷中5-4-9
日蓮宗
 
・御首題 書置(筆書)

■延寿山 長久寺
台東区谷中5-4-11
日蓮宗
 
・御首題 直書(筆書)
※多忙時不可。

■長興山 立善寺
台東区谷中5-4-19
日蓮宗
 
・御首題 (筆書)

■長谷山 元興寺 加納院
台東区谷中5-8-5
新義真言宗 御本尊:阿弥陀如来
 
・朱印尊格:本尊 阿弥陀如来・弘法大師・興教大師 御府内八十八箇所第64番印判 直書(筆書)
○弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第4番、江戸八十八ヶ所霊場第63番

■妙見山 本立寺
台東区谷中5-8-7
日蓮宗
 
・御首題 直書(筆書)
※ご丁寧なご対応、頭が下がります。

■百丈山 霊梅院
台東区谷中5-8-19
臨済宗妙心寺派 御本尊:釈迦牟尼佛
〔御朱印不授与〕

■福聚山 海蔵院
台東区谷中5-8-25
臨済宗妙心寺派
〔御朱印不授与〕

■蓮葉山 妙智院 観音寺
台東区谷中5-8-28
真言宗豊山派 御本尊:大日如来
 
【写真 上(左)】 観音寺本堂
【写真 下(右)】 観音寺の築地塀


・朱印尊格:大日如来(御本尊) 札番:なし 書置(筆書)

・朱印尊格:大日如来・弘法大師 御府内八十八箇所42番印判 直書(筆書)

・お種子(ア)の御朱印

・スワロフスキー付御朱印
○弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第3番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第32番、東方三十三観音霊場第13番、江戸八十八ヶ所霊場第42番
※参拝客以外は山内立入禁止の掲示あり。

■長光山 龍泉寺
台東区谷中5-9-26
日蓮宗
〔山内立入制限看板あり/御朱印不授与?〕

■日照山 長明寺
台東区谷中5-10-15
日蓮宗
 
・御首題 直書(筆書)

■円妙山 大行寺
台東区谷中6-1-13
日蓮宗
 
・御首題 直書(筆書)

■長昌山 大雄寺
台東区谷中6-1-26
日蓮宗
 
・御首題 直書(筆書)

■光照山 感應寺
台東区谷中6-2-4
日蓮宗
 
・御首題 直書(筆書)

■本覚山 宝光寺 自性院
台東区谷中6-2-8
新義真言宗 御本尊:大日如来
 
・朱印尊格:本尊 大日如来・弘法大師・興教大師 御府内八十八箇所第53番印判 直書(筆書)
○弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第10番、江戸八十八ヶ所霊場第53番

■薬王寺 長久院
台東区谷中6-2-16
真言宗豊山派 御本尊:大日如来
 
・朱印尊格:本尊 大日如来・弘法大師・興教大師 御府内八十八箇所第55番印判 直書(筆書)
○弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第8番、江戸八十八ヶ所霊場第55番
※閻魔大王(江戸・東京四十四閻魔第12番)の御朱印は不授与

■仏到山 無量寿院 西光寺
台東区谷中6-2-20
新義真言宗
 
【写真 上(左)】 西光寺山門
【写真 下(右)】 西光寺本堂


・朱印尊格:五大明王 主印判:種子 札番:なし 直書(筆書)

・朱印尊格:五大明王 主印判:不動明王御影印 札番:なし 直書(筆書)
こちらをメインに授与されているようです。

※以前は不授与でしたが御朱印授与を開始され対応も親切です。カラー御朱印マニアを中心に人気を集めている模様。
○上野王子駒込辺三十三観音霊場第7番、弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第7番、江戸八十八ヶ所霊場第70番

■金輪山 最勝寺 總持院
台東区谷中6-2-33
天台宗 御本尊:阿弥陀如来
 
・朱印尊格:谷中不動尊 札番:なし 直書(筆書)
※こちらのお寺様につきましては、Web上での拝受情報がほとんどみつからず、現在でも授与されているかは不明です。
なお、御本尊の御朱印は授与されておりません。

■宝塔山 龍門寺 多宝院
台東区谷中6-2-35
真言宗豊山派 御本尊:多宝如来
 
・朱印尊格:本尊 多宝如来・弘法大師 御府内八十八箇所第49番印判 直書(筆書)
○弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第9番、江戸八十八ヶ所霊場第49番
※「谷中吉祥天」の御朱印は不授与

■清林山 和光院 大泉寺
台東区谷中6-2-13
天台宗 御本尊:阿弥陀如来
 
・朱印尊格:阿彌陀如来 札番:なし 直書(筆書)

■無量山 功徳林寺
台東区谷中7-6-9
浄土宗 御本尊:阿弥陀如来
  
【写真 上(左)】 功徳林寺本堂
【写真 下(右)】 笠森稲荷堂


・朱印尊格:無量壽 札番:なし 書置(筆書)

・朱印尊格:笠森稲荷 札番:なし 書置(筆書)

■安立院
台東区谷中7-10-4
曹洞宗系単立
〔御朱印不授与〕

■護国山 尊重院 天王寺
台東区谷中7-14-8
天台宗 御本尊:阿弥陀如来
  
【写真 上(左)】 天王寺山門
【写真 下(右)】 天王寺本堂


・朱印尊格:本尊 阿弥陀如来 札番:なし 直書(筆書)

・朱印尊格:毘沙門天 札番:なし 直書(筆書)(谷中七福神)

・朱印尊格:閻魔大王 札番:なし 直書(筆書)(ご縁日のみ?/江戸・東京四十四閻魔参り第11番)
○谷中七福神(毘沙門天)、上野王子駒込辺三十三観音霊場第9番
※上野王子駒込辺三十三観音霊場第9番の御朱印は不授与

■隨龍山 境智院 了俒寺
台東区谷中7-17-2
天台宗 御本尊:阿弥陀如来
〔御朱印不授与〕

【荒川区西日暮里三丁目】
■長久山 本行寺
荒川区西日暮里3-1-3
日蓮宗
 
・御首題 直書(筆書)

■大黒山 経王寺
荒川区西日暮里3-2-6
日蓮宗
 
・御首題 直書(筆書)
〔大黒天(荒川下町七福神)の御朱印は不授与・・・Web上に拝受御朱印ありますが不授与とのこと〕

■法要山 啓運寺
荒川区西日暮里3-2-14
法華宗本門流
 
・御首題 直書(筆書)
〔毘沙門天(荒川下町七福神)の御朱印は不授与〕

■補陀落山 観音院 養福寺
荒川区西日暮里3-3-8
真言宗豊山派
 
・朱印尊格:如意輪観世音菩薩・弘法大師 豊島八十八ヶ所霊場第73番印判 直書(筆書)
○東京三十三観音霊場第28番、弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第2番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第27番、荒川辺八十八ヶ所霊場第7番、東都七観音霊場第5番、近世江戸三十三観音霊場第10番、東方三十三観音霊場第12番

■法輪山 法幢院 浄光寺
荒川区西日暮里3-4-3
真言宗豊山派 御本尊:薬師如来
 
・朱印尊格:薬師如来 札番:なし 印判(豊島八十八ヶ所霊場第5番)
○弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第1番、荒川辺八十八ヶ所霊場第8番、東都六地蔵霊場第3番

(神社御朱印)
■諏方神社
荒川区西日暮里3-4-8
 
・諏方神社 直書(筆書)

■浄居山 青雲寺
荒川区西日暮里3-6-4
臨済宗妙心寺派
 
・朱印尊格:恵比寿神(谷中七福神) 書置(筆書)
※御本尊の御朱印は不授与
○荒川下町七福神(恵比寿神)

■運啓山 修性院
荒川区西日暮里3-7-12
日蓮宗
  
【写真 上(左)】 修性院山門
【写真 下(右)】 修性院本堂


・御首題 直書(筆書)

・朱印尊格:布袋尊(谷中七福神) 札番:なし 直書(筆書) 
○荒川下町七福神(布袋尊)

■瑞応山 南泉寺
荒川区西日暮里3-8-3
臨済宗妙心寺派
〔御朱印不授与〕
○東方三十三観音霊場第11番

■日照山 法光寺
荒川区西日暮里3-8-6
法華宗陣門流
 
・御首題 直書(筆書)

■宝珠山 延命院
荒川区西日暮里3-10-1
日蓮宗
 
【写真 上(左)】 延命院境内
【写真 下(右)】 延命院の授与案内



 
【写真 上(左)】 ・御朱印(妙法)
【写真 下(右)】 ・御朱印(妙法)


【 BGM 】
■ 空気力学少女と少年の詩 -piano vocal ver.-


■ 消えてしまえたならいいのに、なんて - めありー(歌ってみた)


■ 夢の大地 - Kalafina


■ This Love - アンジェラ・アキ


■ 本当の音 [Hontou no Oto] (True Sound) - KOKIA

歌詞
「日本よりも海外で評価が高い説」あり。どーゆーこと??
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■ よつ葉乳業株式会社ブランドムービー/池田綾子

ただただ商品名をくり返すCMが主流のこの時代に、まだこういうCMがあったとは・・・。

音楽の魅力で引きこみ、想いやコンセプトを伝え、商品PRにつなげていく。
かつては、こういうCMがたくさんあった。
それだけCMでの音楽のポジションが高かったのだと思う。


■「酪農家たちのまっすぐな夢」篇 Webムービー(よつ葉乳業株式会社ブランドムービー)


透明感あふれる歌声。
どこかで聴いたかな? と思ったら池田綾子さんでした。

↓ こちらの45曲目です。
■ 透明感のある女性ヴォーカル50曲

フルバージョン ↓
【よつ葉乳業株式会社ブランドムービーCM曲】ヒカリノイト/池田綾子 in Moerenuma Park


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武蔵野音大声楽科卒の本格派でその歌唱力には定評がある。
自然保護活動や伝統文化系ライブなど多彩なステージで活躍。
透明感のある凜とした声質。

公式Web

■ 絆 - 池田綾子


■ 心の糸 - 池田綾子


もっともっと、認められてもいい才能だと思う。


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女神系ハイトーンのCMでは、CHOYA チョーヤ 夏梅 CM 「夏空の下」(やなわらばー)以来の名曲では?

■ CHOYA チョーヤ 夏梅 CM 「夏空の下」篇 15秒


■ 夏空の下 - やなわらばー

やなわらばー、2020年12月31日で解散しちゃったけどね。

たしか、2003年頃?の協和発酵 焼酎「かのか」CM。
これも名曲でした。↓

■ 協和発酵 焼酎「かのか」CM - 上野洋子

抜群の癒しヴォイスで大きな反響を呼んだ上野洋子(ZABADAKの結成メンバー)。
でも、たぶんオリジナルではリリースしていない。

これもよかった。↓
■ 竹中絵里 種篇Ⅰ <♪種> (approx.0704)


■ サントリー ビール CM 松田聖子 - Sweet Memories カサブランカ&ボクシング編

いまや伝説と化した松田聖子の名CMソング。

■ 資生堂 クリスタルデュウ CM(1977年) マイピュアレディ 小林麻美

なんと47年前!
なにもかにもが自然で無理のない感じがする。

■ JAL 企業PV 「I Will Be There with You ~日本語版~」 All for sky (Vocal by 杏里)

日本の企業の底力を感じさせる名クリップ。

■ TULIP 青春の影(CMの挿入歌)

シナリオ+楽曲のよさ+演技力。
キメのコピー「恋とか、愛とかのすこし先。」
もはやリタイアなんてゆるされない時代だから、いまいちリアリティに欠けるけどね。

■ 岸辺のアルバム (Will you dance -Janis Ian)

CMじゃないけど。
1974年の多摩川水害をモチーフとした名ドラマ。
山田太一の台本もキレッキレだったけど、テーマソングに洋楽をもってきたセンスと、これが見事にはまっていたのが凄い。


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■ 森高千里、自宅でCMソングを口ずさむ(ヤクルト「ラクトデュウ」テレビCM発表会)


■ 新垣結衣、ビールCM初出演「おつかれ生です!」 竹内まりや「元気を出して」がCMソング アサヒ生ビール新TVCM&メイキングインタビュー

やっぱり名曲つかうとストーリー感が違いますわな。

これもCMでつかってたらしい。↓

■ 何度も - RAM WIRE (2015年)

動画のストーリー感が凄い。
2016年4月2日、全国ツアーの最終公演で、活動休止を発表。
いいユニットだったのに、残念。
そうだよね、2015年くらいまではこういう実力派のアーティストってけっこういた感じがあって、彼らがJ-POPの質を担保していた(と思う)。

■ ハジ→ - 恋ノ夢。feat. erica (2018年)

名曲とストーリー感が合わさると、シナジーが半端ない。
「LINEマンガ」と楽曲のコラボだそうな・・・。

■ SoulJa - SoulJa / Way to Love~最後の恋~feat.唐沢美帆

CMには使っていないと思うけど、2001年放送のTVドラマ『ラブ・レボリューション』の挿入歌「Way to love」を2010年に`SoulJa`がサンプリング。
原曲を歌った唐沢美帆をフィーチャリングしている。
メロも画像もストーリー感あって綺麗。名作。

こういう曲、もう出てこないのかな?


■ 【2022/2/27中村舞子ラストソング「人生予約」配信開始!】美フィットマスクCMソング/言えない気持ち by 中村舞子【official MV】

どうしてこの才能が「ラストソング」になってしまうのか・・・。
意味不明。


女神系歌姫って聴きごこちいいし、好感度も高いし、CM向きだと思うけどね・・・。


〔 関連記事 〕
■ 女神系歌姫 (ハイトーンJ-POPの担い手たち)【リニューアル】
■ 女神系歌姫-1 【 Angel Voice列伝 01-50 】
■ 女神系歌姫-2 【 Angel Voice列伝 51-100 】


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せっかくなので、聴きくらべてみました。
女性ヴォーカルじゃないけど・・・。

■ CM JR東海 X'mas Express 深津絵里 (1988年)


■ 深津絵里、「クリスマス・エクスプレス」以来33年ぶり出演 『JR東海』新TVCM『会うって、特別だったんだ。』 (2022年)


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■ コカ・コーラCM ~ I feel Coke 87 佐藤竹善.flv (1987年)


■ 綾瀬はるか、煌めく海をバックに爽やかすぎる笑顔!楽曲は水曜日のカンパネラがお馴染み「I feel Coke」をカバー コカ・コーラ新TVCM『どっちの美味しさが好き?』篇 (2023年)


↑ どちらも、音の質感が明らかに異なっているのがわかる。
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