関東周辺の温泉入湯レポや御朱印情報をご紹介しています。対象エリアは、関東、甲信越、東海、南東北。
関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-3
Vol.-2からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。
■ 第9番 古碧山 龍厳寺
(りゅうげんじ)
渋谷区神宮前2-3-8
臨済宗南禅寺派
御本尊:釈迦牟尼佛
札所本尊:釈迦牟尼佛
他札所:
司元別当:(青山熊野権現/旧 浄性院)
授与所:庫裡
御府内霊場中、唯一の非真言宗寺院の禅刹(臨済宗南禅寺派)です。
『ルートガイド』には「弘法大師が関東を巡った際に開創され、かつては真言宗の寺院であったと伝わります。開創時の札所は青山熊野神社の別当・状(ママ)性院でしたが、明治七年の神仏分離で廃寺となり、弘法大師開創の伝承を有することから、龍厳寺が札所を引き継いだといわれています。」とあります。
たしかに江戸八十八ヶ所霊場第9番は「三光山 宝厳寺 浄性院(港区青山)」とあり、江戸期は浄性院が御府内霊場第9番札所であったとみられます。
旧9番浄性院は真言宗寺院で、新9番龍厳寺は臨済宗南禅寺派。
第9番が旧番のまま真言宗であれば御府内霊場の札所はすべて真言宗寺院で完結するのに、あえて新第9番を臨済宗南禅寺派とした理由があったのでしょうか。
まずは青山熊野権現元別当の浄性院から当たってみました。
『江戸名所図会』7巻 [8]の熊野権現社の項には「熊野権現社(略)南紀の熊野権現と同じく三社あり 青山の鎮守(略)別当ハ真言宗浄性院と号す」とあります。
【写真 上(左)】 (青山)熊野神社
【写真 下(右)】 (青山)熊野神社の御朱印
『寺社書上』(国立国会図書館)にも浄性院が収録されています。
熊野社と錯綜気味ですが、浄性院(寺院)に関連するとみられる記述を書き出します。
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本寺京知積院末 武州豊嶋郡原宿村 熊野権現別当 三光山 真(ママ)義真言宗 浄性院
開山法印清範明暦二年(1656年)寂 中興法印快圓宝暦十二年(1762年)寂
五百羅漢 十六善神 不動尊 愛染尊
本地堂 熊野三社本地 (中)十一面千手観音 (右)薬師如来 (左)彌陀如来
金胎大日如来 石洞稲荷社 聖天堂本尊歓喜天 同本地十一面観世音
(相殿)江州浅井郡竹生島 本尊弁才天(旅宿社?) 訶梨帝母立像
護摩堂 本尊不動尊立像 厨子入不動尊坐像 愛染明王坐像 如意輪観音坐像 弘法大師坐像 右勧請●立年月不知
延享二年(1745年)二月十二日社殿●不残焼失仕 安永八年(1779年)正月十●日自火●亦ハ焼失 不知●記縁●●焼失仕寺記並開基亦●由来相不知
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『寺社書上』によると浄性院は京知積院末の新義真言宗で開山は法印清範(明暦二年(1656年)寂)。
浄性院(相殿)の弁才天は、江州浅井郡竹生島ゆかりのようです。
琵琶湖の竹生島は弁才天の聖地で、竹生島弁才天は江島(与願寺)・ 厳島(大願寺)とならんで「日本三大弁天」のひとつに数えられます。
竹生島にある巌金山 宝厳寺は真言宗豊山派で御本尊は大弁才天。
観音堂は西国三十三所第30番札所となっています。
宝厳寺の公式Webには「弘法大師なども来島、修業されたと伝えられています。」とあり、弘法大師の「御請来目録」を所蔵されています。
「御請来目録」は「(弘法大師)空海が唐から請来した新旧訳経、梵字真言、論疏章、曼荼羅、道具などの目録」(国立情報学研究所)で、日本密教上きわめて重要な文献です。
「御請来目録」には3つの写本があるとされます。
施福寺(大阪府和泉市槙尾山町)の「施本」、東寺所蔵の「東寺本」、そして竹生島宝厳寺所蔵の「竹生島本」です。
(参考:「『御請来目録』の書誌学的研究(甲田宥吽氏/PDF)」
「施本」は「請来目録上表草稿」ともいわれる請来目録残巻で、ほぼ弘法大師の御眞蹟と断定されていますが、「東寺本」、「竹生島本」が御眞蹟であるかについては、従前から数々の議論がなされ未だ結論を得ていない模様です。
ただし、「弘法大師御請来目録の原本について」(眞保龍敞氏/PDF)によると、宝厳寺所蔵の「弘法大師御請来目録」(竹生島本)は「(弘法大師)空海によって上表された原本に相違ない、と考えられる」とされています。
また、筆者は「竹生島本」と他の弘法大師御眞蹟とで精緻な比較をされた結果、「竹生島本は、筆蹟の上からも空海自筆たる特徴を充分に具え、弘法大師の御眞蹟と認定し得るもの」とされています。
つまり竹生島宝厳寺は弘法大師御眞蹟の「御請来目録」を所蔵されている可能性があり、浄性院の弁才天はこの竹生島(宝厳寺)弁才天系なので、この流れから浄性院と弘法大師霊場(御府内霊場)のつながりが出てきたのかもしれません。
一方、護摩堂の不動尊は「目黄不動尊」として信仰を集めたといい、「江戸五色不動」の一尊に数えられることもあったようです。(ご参考→「江戸五色不動の御朱印」 )
護摩堂には弘法大師坐像が御座され、山内に祀られる聖天様、愛染明王、稲荷神はいずれも真言宗寺院で多く祀られる尊格で、浄性院が保守本流の真言宗寺院であったことを裏付け、弘法大師霊場(御府内霊場)としての資格を充分に備えていたことがうかがえます。
(『江戸名所図会』の絵図には、はっきりと「弘法大師 不動 あいせん」と載っています。)
龍厳寺の参拝時、本堂の御本尊と大師堂を礼拝した記憶があり、たしかこの「目黄不動尊」は大師堂内の御座だったかと思います。
となると、浄性院ゆかりの尊格は龍厳寺の大師堂に奉安されている可能性もあります。
御府内霊場の御朱印には「黄金目不動明王」の揮毫があるので、浄性院の「目黄不動尊」つながりで御府内霊場の札所となったのかもしれません。
また、たしか龍厳寺の大師堂前には宇賀神系の弁財天石仏が御座していました。
もともとの龍岩寺の地主ノ神である辨天様か、浄性院からの竹生島(宝厳寺)系弁才天かはわかりませんが、大師堂前御座から考えると後者かもしれません。
いずれにしても、青山熊野権現は『江戸名所図会』に載るほどの名所。
そしてその祭礼の華やかさは有名で、「青山に過ぎたるものが二つあり 鳶の薬缶に原宿の山車」という俗謡が伝わります。
浄性院はその著名な熊野権現の別当。その点からも弘法大師霊場の資格をもっていたかと思われます。
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つづいて龍岩寺(龍厳寺)です。
臨済宗で本寺は多磨郡由井領山田村(現八王子)の兜率山廣園寺。
当初は名主半右衛門の屋敷の鎮守に辨天社があり、そばに小庵を建て喚室という僧を招聘し、慶長七年(1602年)に喚室を開山として創建といいます。
「やさしいお坊さん」Web(LDT株式会社)によると、喚室(峻翁令山禅師)は、武蔵國秩父郡出身で寂後に勅号(天皇よりの法名命名)を賜り法光円明国師と呼ばれた名僧で、本山兜率山廣園寺、児玉郡威音山光厳寺、深谷常興山國済寺などを開山されたといいます。
原宿村の一名主がこれほどの高僧を自邸の一庵に招聘できたのは不可思議で、『寺社書上』には「鐘銘ニ拠ハ(家康公)御入國(天正十八年(1590年))以前ヨリノ寺ナリト載ス」ともありますが、2度にわたる火災で寺伝を焼失し詳細は不明のようです。
御本尊は釈迦如来。
境内に祀る弁天社は「地主ノ神」といい、もともとの半右衛門屋敷の鎮守神とみられます。
以上をみても龍岩寺に密寺色はうすく、むしろ純然たる禅刹のイメージがあります。
【史料】
■ 『寺社書上』(国立国会図書館)
武州八王山田廣園寺末 禅宗臨済派 古碧山龍岩寺
開闢 慶長(1596-1615年)トモ●傳 開山 喚室和尚元和八年(1622年)遷化 中興開山 青山和尚宝永八年(1711年)遷化 開基 相知不申候 中興開基 元禄五年(1692年)死去 俗名山崎半右エ門 当村名主作太郎先祖也
本尊 釈迦如来 脇立 文殊 菩薩
■ 『新編武蔵風土記稿』(同上)
龍岩寺 禅宗臨済派古碧山ト号ス 多磨郡由井領山田村廣園寺末 本尊釋迦 脇士文殊 普賢ヲ安ス 相傳フ 境内昔ハ名主半右衛門カ屋敷ニテ鎮守辨天社アリ 側ニ小庵ヲ建テ喚室ト云僧ヲシテ住セシメシカ 慶長七年(1602年)遂ニ宅ヲ捨テ寺トス 依テ喚室ヲ開山トスト寺傳ニイヘリ 鐘銘ニ拠ハ 御入國以前ヨリノ寺ナリト載ス 何レカ是ナルヤ喚室ハ元和八年(1622年)寂ス
辨天社 地主ノ神ナリ
天満宮 往古ハ木立像ナリシト(略)源義家此所ニテ出陣ノ連句ヲ催シ社前ニ納ム 依テ句寄ノ天神ト号スト 稲荷ヲ合祀セリ
日吉山王社 (略)往古ハ当村千駄谷村境榎樹ノ下ニ勧請アリシヲ 寛永中(1624-1644年)当寺第三世明叟ノ時ココニ移スト云
圓座松 砌下ニアリ囲モ四尺許 根上一尺許ヲ隔テ四方ヘ蟠延ス 大サ東西七間餘南北六間半 其状圓坐ヲ敷タル如クナレハ此名アリ
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とまぁ、いろいろ調べてみましたが、どうして廃寺後の浄性院の寺跡が、札所も含めて臨済宗の龍厳寺に引き継がれたかのはっきりとした答えは見いだせませんでした。
明治七年、神仏分離を受けた浄性院の廃寺の際にはかなりの混乱があった模様なので、なにか記録に残されていない複雑な経緯があったのかもしれません。
【 龍岩寺と熊野権現社(浄性院)の位置関係 】
※ 『江戸切絵図/青山渋谷絵図』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了))から一部切り取り掲載
ただ、ひとつ気になる事柄があります。
多摩エリアの弘法大師霊場に「多摩新四国八十八ヶ所霊場」があります。
こちらはすべての札所が真言宗寺院です。
また、「多摩新四国八十八ヶ所霊場」をベースに開創といわれる「多摩百八ヶ所霊場」の札所もすべて真言宗寺院です。
ところが「多摩新四国八十八ヶ所霊場」には番外札所があって、それが八王子の廣園寺(こうおんじ)だというのです。
公式ガイドやWeb上の札所一覧情報には載っていませんが、一部のWebに記載があり、Wikipediaにも「多摩八十八箇所番外札所」と明記されています。
【写真 上(左)】 廣圓寺
【写真 下(右)】 廣圓寺の御朱印
兜卒山廣園寺は八王子市にある臨済宗南禅寺派の寺院で、龍厳寺の本寺です。
つまり、本寺・廣園寺は番外ながら唯一禅宗で「多摩新四国八十八ヶ所霊場」の札所、末寺・龍厳寺は「御府内霊場」唯一の禅宗の札所で、本末揃って禅宗で弘法大師霊場の一画を占めていることになり、なんとなく偶然の符合とは思えないものがあります。
ただし、Webから追えたのはここまでで真相は霧のなかです。
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最寄りは都営大江戸線「国立競技場前」駅ですが、メトロ銀座線「外苑前」駅からも歩けます。
「外苑前」駅からだと青山熊野神社の前を通り、神社から龍厳寺に向かう坂道を「勢揃坂」といいます。
現地掲示板によると、永保三年(1083年)に八幡太郎義家公が奥州征伐(後三年の役)に出陣の際、ここで軍勢を揃えたといわれ、当地の豪族渋谷氏の祖・秩父十郎武綱も参陣と伝わります。
また、龍厳寺山内の天満宮は義家公が出陣の際に連句を催し、社前に句を納めたとされ「句寄の天神」ともいうそうです。
【写真 上(左)】 勢揃坂
【写真 下(右)】 参道
國學院高のちょうど西側で、敷地じたいは外苑西通りに面していますが、山門は1本奥まった枝道からさらに入ったところにあり、神宮前とは思えない静寂に包まれています。
路地から伸びるゆったりとした石敷きの参道。
あたりは都心としては奇跡的に?高い建物がなく、陽光が降りそそいで明るいです。
【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 山門-1
山門前に寺号標。上部には「御府内第九番御札所 弘法大師霊場」と刻まれています。
正面の山門は切屋根桟瓦葺妻の薬医門で、両脇に桟瓦葺の板塀を延べています。
主門には木柵が置かれ、右手通用門横には「檀信徒以外の出入りをお断り申す 合掌」の掲示があって一瞬ひるみますが、「御府内霊場巡拝者はたぶん信徒だよな~」と気をとりなおして通用門をくぐり山内に進みます。
(たしか通用門を開けるといきなり鈴が鳴って、これまたびびった記憶が・・・(笑))
【写真 上(左)】 山門-2
【写真 下(右)】 門外からの山内
こちらは山内の撮影禁止なので撮影はしておりませんし、山内のご案内も控えます。
草木が茂ったほの暗い山内で、堂宇も趣きがあり、とても神宮前の一画とは思えません。
山内には石佛が点在していましたが、画像がないのでよくわかりません。
従前、山内にあった「圓座の松」は江戸の名木のひとつとして知られ文化十年著の『十万庵遊歴雑記』などで取り上げられています。
御朱印は庫裡にて拝受。敷居が高く謹厳なイメージがありますが、御朱印対応はご親切でした。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は釋迦如来のお種子「バク」ではなく、なぜか阿弥陀如来・如意輪観世音菩薩のお種子「キリーク」(蓮華座+火焔宝珠)。揮毫は「本尊 釋迦牟尼佛」「弘法大師」「黄金目不動明王」で右上に「第九番」の札番揮毫。左下には寺号揮毫と寺院印が捺されています。
「釋迦牟尼佛」の御朱印は禅刹では一般的ですが、御府内霊場では唯一と思われます。
■ 第10番 観谷山 福聚院 聖輪寺
(しょうりんじ)
渋谷区千駄ヶ谷1-13-11
真言宗豊山派
御本尊:如意輪観世音菩薩
札所本尊:如意輪観世音菩薩
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第10番、東京三十三所観世音霊場第13番、近世江戸三十三観音霊場第20番、大東京百観音霊場58番
司元別当:
授与所:庫裡
御府内霊場中、もっとも歴史が古いとされる古刹です。
『観谷山聖輪寺観音略縁起/寺社書上』によると、神亀二年(725年)5月の頃、行基菩薩が北越遊行された折に当地で休息されたとき、谷の中から光りが射して如意輪観世音菩薩が出現しました。
観音様は「我はこの地に因縁あり、汝(行基菩薩)が我の相を彫刻すれば末世の衆生に結縁せしめて広く利益をなさん」と告げられて、大きな朽木のもとでお姿を消されました。
行基菩薩は感じ入り、この枯木を加持して御長三尺五寸の尊像を刻み奉り石上に安置して持念されました。
観音様は御双眼より金色の光りを放たれたため観谷山、寺号を聖輪寺として本山を開創されたと伝わります。
神亀二年(725年)開創とすると、実に千三百年もの寺歴を有することになります。
明和九年(1772年)刊の『江戸砂子温故名蹟誌』には、江戸にて千年以上の霊場は浅草寺と当寺と記されています。
御本尊は行基菩薩の御作と伝わる如意輪観世音菩薩。
山内掲示によると、この地の豪族・渋谷氏一門はこの尊像を深く信仰し、そのご利益あってか一門は栄え、人々は「黄金長者」と呼んだといいます。
天正の頃(1573年)には、御本尊が疱瘡から里人を救われ、観音様の大悲護念を謝してこのときから御本尊を閉扉し秘仏として崇め奉ったとのことです。
慶長の頃には観音像の双眼が黄金であると聞いた賊が忍び込み、玉眼を鑿で取ろうとしたところ、冥罰に当り、自らの鑿で貫かれて死んでしまいました。
人々はこれも観音様の霊験と畏れ、信仰をいっそう篤くしたと伝わります。
このときより「千駄谷観音」「目玉の観音」とも呼ばれ、近世江戸三十三観音霊場第20番の札所ともなって人々の信仰を集めました。
慶安四年(1651年)には奈良・長谷寺の末寺となり、真言宗豊山派の名刹としていまに至っています。
【史料】
■ 『寺社書上』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考』
新義真言宗 紀州初瀬小池坊末 千駄ヶ谷町
起立之儀古来●当地有之候得共、年数不分明
開山 法印宥光(明暦三年(1657年)遷化)
中興 法印宥仙(元禄七年(1694年)示寂)
本尊 如意輪観音 木座像丈三尺五寸 神亀二年(725年)行基菩薩作
前立 如意輪観音 両脇立 不動毘沙門 四天王 護摩壇本尊不動 両童子 聖天
鎮守社 諏訪明神 秋葉権現 稲荷明神
大師堂 弘法大師 厨子入座像 長二尺三寸
※鎮守の稲荷明神は「庄九郎稲荷」ともいわれ、往古は村の鎮守とも伝わります。
(観谷山聖輪寺観音略縁起)
抑当寺本尊聖如意輪観世音者 行基菩薩乃御作也 神亀二年(725年)五月の頃 行基北越遊行乃時 此所に暫く休息し(略)谷乃中より光りさし如意輪観音出現しぬ 告て宣く●此地ハ我に因縁あり汝よろしく●我相を彫刻し 末世の衆生に結縁せしめて廣く利益をなさんとて 大なる朽木の本ニ失給ふ 行基感涙肝に銘し(略)其枯木を採て御衣木とし加持して御長三尺五寸の尊像を刻み奉り 石上に安置し持念したまふ 御双眼より金色乃光りを放ち●故に 本山を観谷山といひ 寺を聖輪寺と号す
(以下、山内掲示の縁起書に概要記載あり)
■ 『江戸砂子温故名蹟誌 6巻 [5]』(国立国会図書館)
観音 千駄ヶ谷 観谷山 聖輪寺 真言 和州長谷末
開山行基菩薩 本尊如意輪 眼玉の観音と云●り 賊来りて本尊の玉眼黄金なりとて ぬき出し(略)おのれを害して死
江府にて千余歳の霊場ハ浅草寺と当寺
【 江戸期の聖輪寺周辺 】
※ 『江戸切絵図/内藤新宿千駄ヶ谷絵図』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了))から一部切り取り掲載
『江戸名所図会 7巻 [9] 千駄谷観音堂』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了)より転載)
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【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 札所標
国立競技場の西側にあり、「国立競技場」駅、「千駄ヶ谷」駅、「北参道」駅の3駅から徒歩でアクセスできます。
「観音坂」と呼ばれる坂の途中に位置しています。
入口は門柱。門前には御府内霊場の札所標、門扉には真言宗の宗紋門「五三の桐」。
【写真 上(左)】 五三の桐
【写真 下(右)】 入口
【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 庚申塔
山内はさほど広くはありませんが、よく手入れされて落ち着いた参拝ができます。
鐘楼堂まわりには八十八カ所踏み石参拝所が設けられています。
塀ぎわには二童子を従えた身守不動尊と六地蔵。
渋谷区教育委員会の説明書がある庚申塔、桃?を持たれたかわいいお地蔵さまも御座。
【写真 上(左)】 身守不動尊
【写真 下(右)】 六地蔵
【写真 上(左)】 地蔵尊
【写真 下(右)】 本堂
本堂は近代建築で向拝上部に山号扁額、その上に真言宗豊山派の宗紋「輪違い紋」を掲げています。
【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 扁額
墓域には真田氏の流れで『明良洪範』を著した、甲州流の兵学者増譽法印の墓があります。
御朱印は庫裡にて拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は三寶印。揮毫は「本尊 如意輪観音」「不動明王」「弘法大師」で右上に「第十番」の札所印。左下には寺号揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第11番 光明山 真言院 荘厳寺
(しょうごんじ)
渋谷区本町2-44-3
真言宗室生寺派
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来・不動明王
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第11番
司元別当:(幡ヶ谷)氷川神社(渋谷区本町)
授与所:不動堂札所(授与所)
「幡ヶ谷不動尊」としても知られる真言宗室生寺派の寺院。
『新編武蔵風土記稿』によると、開山は宥悦法印(天文二年(1533年)寂)。
寺院御本尊は薬師如来ですが、御府内霊場の御朱印には不動明王も揮毫されているので、札所本尊は薬師如来・不動明王両尊と思われます。
不動明王は智証大師(円珍)が三井寺開基の際に自ら彫刻し本尊とされた尊像と伝わり、天慶二年(939年)、承平天慶の乱で藤原秀郷が戦勝を祈願して御持佛とし、戦勝ののち下野国小山郷に安置と伝わります。
三井寺から遷られた経緯については『江戸名所図会』に「(天慶年間)平貞盛、及び藤原秀郷等、東国に発向す。其時三井寺より此本尊を奉持して、陣中に移し奉り、戦の勝利を祈誓」とあり、承平天慶の乱の際に東国に遷られた旨が記されています。
永禄年中(1558-1570年)、武田信玄が甲州七覺山(右左口の七覚山円楽寺?/真言宗)に遷して崇敬し、後に北条氏政がこれを奪って相州筑井縣地勝院(相州津久井城西麓?)に奉安、天正十八年(1590年)北条氏没落の後には徳川家康以下代々の武将が崇敬して多磨郡宅部村三光院(東大和市/真言宗)に遷られ、延享四年(1747年)9月、霊夢のお告げにより当山に安置と伝わります。
このお不動様を尊崇した武将は藤原秀郷、武田信玄、北条氏政、徳川家康という錚々たる面々で、相模原市の城山地域史研究会資料には「有名武将が競って崇敬した不動明王」と記されています。
以降「幡ヶ谷不動尊」として広く信仰を集め、「江戸近郷の三不動(成田山、光明山、高幡山)の一つとして広く尊崇を集めた。」というWeb記事もみつかりました。
立地は府外ですが、開創時から御府内霊場札所であったとみられ、これは『江戸名所図会』にも載せられた著名な「幡ヶ谷不動尊」の存在が大きかったのかもしれません。
江戸期には(幡ヶ谷)氷川神社(渋谷区本町)の別当も司っていました。
【写真 上(左)】 幡ヶ谷氷川神社
【写真 下(右)】 幡ヶ谷氷川神社の御朱印
【史料】
■ 『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
新義真言宗 江戸大塚護國寺末 光明山真言院ト号ス 開山宥悦 天文二年(1533年)5月15日寂 本尊薬師
不動堂 木佛立像長三尺三寸 智證大師作 縁起ニ云 智證大師三井寺開基ノ時 自此不動ヲ彫刻シテ彼寺ノ本尊トセシカ 天慶二年(939年)平貞盛 藤原秀郷等平将門追討ノ時 秀郷此不動ニ祈誓ヲコメ 陣中マテ守リ行テ渇仰怠リ無ク 果シテ勝利ヲ得タリシカハ 凱陣ノ頃下野國小山ノ郷ニ安置セリ 其後遥星霜ヲ歴テ 永禄年中(1558-1570年)武田信玄甲州七覺山ニ移シ崇敬セシヲ 北條氏政奪テ相州筑井縣地勝院ニ納ム 然ルニ天正十八年(1590年)北條氏没落ノ後 東照宮代々ノ武将崇敬アリシ像ナル事ヲ聞シ召レテ 多磨郡宅部村三光院ニ移シ給ヒ 延享四年(1747年)9月霊夢ノ告アリテ当寺ニ安置スト云 稲荷社
(幡ヶ谷村)氷川社 村ノ鎮守ナリ荘厳寺持
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【写真 上(左)】 入口
【写真 下(右)】 不動堂
【写真 上(左)】 不動堂向拝
【写真 下(右)】 「幡ヶ谷不動尊」の尊号板
場所は初台の新国立劇場の北側で最寄りも「初台」駅、山手通りから1本なかに入った住宅地にあります。
南側の「ふどう通り」は、かつて幡ヶ谷不動尊の参道であったとも。
入口に「幡ヶ谷不動 荘厳寺」の寺号標。その先の門柱の右手奥が幡ヶ谷不動堂。
堂前は催しができる広めのアスファルト敷のスペースで、著名な仏堂によくあるかたち。
入母屋造本瓦葺流れ向拝の端正な不動堂で、向拝まわりの意匠は比較的シンプルです。
向拝柱に「幡ヶ谷不動尊」「厄除不動」の掛板。向拝見上げに「不動明王」の扁額。
向かって右手に札所(授与所)があり、御朱印はたしかこちらでいただいたかと思います。
【写真 上(左)】 不動堂扁額
【写真 下(右)】 山門
不動堂の向かって左奥、狛犬一対の先に構える山門は、切妻屋根本瓦葺で手前左右の控柱に切妻屋根が掛かっているので高麗門かと思います。
山門柱に重厚な筆致の寺号板。
【写真 上(左)】 山門の寺号板
【写真 下(右)】 馬頭観音像
山門をくぐって左手に大師堂。堂前を直角に折れると正面が本堂。
緑が多く風情ある山内で、引き締まった像容の馬頭観世音菩薩像など見どころが多いです。
【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 大師堂扁額
大師堂は寄棟造桟瓦葺流れ向拝で「遍照殿」の扁額を置いています。
同前に御府内霊場の札所碑もありました。
【写真 上(左)】 札所碑
【写真 下(右)】 本堂
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 修行大師像
本堂は入母屋造本瓦葺流れ向拝、その下に銅板葺の屋根を張りだしてやや変わった意匠です。
水引虹梁両端に獅子貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻。
向拝正面硝子格子扉のうえに山号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額
向拝身舎柱に「本尊 薬師如来」とあり、札所本尊のお薬師さまはこちらに御座。
本堂向かって右には修行大師像が御座。
なので、御府内霊場巡拝の拝所は、不動堂、大師堂、本堂、修行大師像の4ヶ所となります。
御朱印揮毫は薬師如来、不動明王、弘法大師の三尊。雄渾な筆致で見ごたえがあります。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は宝珠印。揮毫は「本尊 薬師如来」「不動明王」「弘法大師」で右上に「御府内 第拾壱番」の札所印。左下には山号寺号揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第12番 明王山 無動院 宝仙寺
(ほうせんじ)
公式Web
中野区中央2-33-3
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所本尊:弘法大師
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第12番、関東三十六不動尊霊場第15番、真言宗(関東)七箇寺
司元別当:和田村八幡(大宮八幡神社)、(中野村)氷川社
授与所:本堂向かって右手の大書院
公式Web、山内掲示、『新編武蔵風土記稿』によると、寛治年間(1087-1094年)、八幡太郎源義家公が奥州・後三年の役を平定して凱旋帰京の途中、陣中で護持されていた不動明王像を安置するため建立・創建。
旧地は、父・頼義公が祀った八幡社のある阿佐ヶ谷で、造寺竣成にあたり地主稲荷神が出現されて義家公に一顆の珠を与え「この珠は希世之珍 宝中之仙である 是を以って鎮となさば 則ち武運長久 法燈永く明かならん」と告げられたため、その地を寺地とされたと伝わります。
往時は和田村八幡(大宮八幡神社)の別当と伝わり、『新編武蔵風土記稿』には「((中野村)氷川社)村内寶仙寺ノ持」とあります。
【写真 上(左)】 大宮八幡宮
【写真 下(右)】 大宮八幡宮の御朱印
【写真 上(左)】 (中野)氷川神社
【写真 下(右)】 (中野)氷川神社の御朱印
鎌倉時代には相模國大山寺の願行上人が当寺を訪れ、御本尊の不動明王像をご覧になられて霊貌の凡常でないことに驚かれ、尊像を厨子の奥に秘蔵され、別に御前立の不動尊を刻して安置されました。
室町時代には、当寺中興第一世聖永(永享三年(1431年)寂)が現地に寺基を遷しました。
寛永十三年(1636年)には三重塔が建立されて庶民にも親しまれ、歴代将軍の尊崇篤く御鷹狩りの休憩所としても使われました。
徳川将軍家は清和源氏新田氏流を名乗り、その始祖は八幡太郎義家公です。
その義家公ゆかりの不動尊奉安の寺院となれば、歴代将軍の尊崇もなるほどうなづけるものがあります。
江戸期には「末寺三十二ヶ寺 門徒二十六ヶ寺ヲ統ヘ司トレリ」(『新編武蔵風土記稿』)という名刹です。
【史料】
■ 『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
往還ノ内小名中宿下宿ノ境ニアリ 明王山聖不動院ト号ス 新義真言宗 無本寺ニテ(略)
傳へ云 昔堀河院ノ御宇寛治年中(1087-1094年)鎮守府将軍源義家 奥州ノ夷賊ヲ征伐シ御利運アリシカハ 凱陣ノ後当寺ヲ建立シ給フト云 サレト往古ノ事ナレハ其詳ナル●ヲシラス 当寺昔シハ和田村八幡(大宮八幡神社)ノ別当ナリシカ 社地ヘノ路程ヘタゝリテ不便ナレハ 末寺ニソノ職ヲユツレリト云 サレハ八幡鎮座ノ時 当寺ヲ起立シテ別当ニ附ラレシニヤ 中興開山ヲ聖永トイフ 永享三年(1431年)2月24日示寂ス 末寺三十二ヶ寺 門徒二十六ヶ寺ヲ統ヘ司トレリ(略)
本堂 御成ノ時御膳所ナリ 本尊ハ不動ノ坐像ニテ長一尺七寸五5分 良弁ノ作 外ニ四大明王ノ四体ヲ安ス 木ノ立像ニテ長二尺三寸五分 願行ノ作ト云 古位牌一基アリ 碑面ニ云将軍頼義公信信海将軍義家公信了ト彫リテアリ(以下略)
(塔頭 玉泉寺)
境内東南ニアリ 本尊弘法大師木ノ坐像ニテ長二尺五寸 願行ト云ヘル作 什物 弘法大師畵像二軸 愛染明王ノ畵像一軸 右三軸トモ弘法大師ノ筆スル所ナリト云
(三重塔)
当寺ヨリ二町ホト東ノ方ニアリ三間半四面高サ五丈三尺五智如来ノ木像ヲ安ス
((中野村)氷川社)
村内寶仙寺ノ持
『江戸名所図会 第2 (有朋堂文庫) 中野寶仙寺』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了)より転載)
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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山門-1
【写真 上(左)】 山門-2
【写真 下(右)】 寺号標
東京メトロ丸の内線「中野坂上」駅からほど近い職住学混在エリアに広大な山内を構えています。
青梅街道の「宝仙寺前」交差点から北に向けてまっすぐ伸びる道は、かつての参道だったのでは。
周囲を占める宝仙学園の創立者は宝仙寺第50世住職富田敦純大僧正で、昭和10年東京では初めての仏教系の保育者養成校・仏教保育協会保姆養成所(現・こども教育宝仙大学)が創始です。
公式Webには「弘法大師の『綜藝種智院』を模範に大師の思想を教育の根底におきました。」とあります。
山門は切妻屋根本瓦葺三間一戸の八脚門で、両脇間に迫力の仁王尊像を安置。
山門からしてすでに名刹の風格をただよわせています。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 見返り地蔵&六地蔵
境内案内は公式Webにも掲載。
山門の先左手に寺号標、鐘楼、中野町役場跡碑、見返り地蔵&六地蔵、石臼塚、八十八大師塔、三重塔、御影堂とならびます。
【写真 上(左)】 石臼塚
【写真 下(右)】 三重塔
石臼塚は蕎麦挽きの石臼の供養塚。
そばを流れる神田川には江戸期水車が置かれて蕎麦粉が挽かれ、一大消費地・江戸に向け盛んに玄蕎麦が送られて、この地の蕎麦粉は「中野蕎麦」と呼ばれ名を馳せたとの由。
機械化で使われなくなった大量の石臼を見られた当山第50世住職富田敦純大僧正が「人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべき」として建立されたものです。
当山の三重塔は、寛永十三年(1636年)に塔ノ山の飛び地境内(現・区立第十中学校(中野東中学校))に建立され、戦災で焼失した三重塔を平成4年に飛鳥様式で再建したもので、高さは約20メートル。
堂内には大日如来を中心とした胎蔵界五佛が奉安されています。
『新編武蔵風土記稿』には「(三重塔)当寺ヨリ二町ホト東ノ方ニアリ三間半四面高サ五丈三尺(約16m強)五智如来ノ木像ヲ安ス」とあり、区立第十中学校(中野東中学校)は当山からほぼ二町(約220m)ほどにあるので、この三重塔を再建とみられます。
ただし、風土記稿三重塔奉安の五智如来(=金剛界五佛/大日如来・阿閦如来・薬師如来・宝生如来・観自在王如来(ないし阿弥陀如来)、不空成就如来(ないし釈迦如来)に対し、こちらの三重塔は胎蔵界五佛(大日如来、宝幢如来、開敷華王如来、無量寿如来、天鼓雷音如来の奉安となっています。
なお、『江戸名所図会』によると、中野周辺は「中野七塔」と呼ばれ、塔が多いことで知られていたようです。
『江戸名所図会 第2 (有朋堂文庫) 中野塔』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了)より転載)
【写真 上(左)】 御影堂
【写真 下(右)】 日輪弘法大師
御影堂は三間四方の宝形造本瓦葺身舎柱朱塗りの整った堂宇で、堂宇御本尊の日輪弘法大師座像の高さは後背まで入れると約3メートル。
堂前説明書には「脱活乾漆という漆と麻布で作られておりこの技法でこのような大きな佛像は壱千年以上も絶えて作られておりませんでした。」とある稀少な尊像です。
御影堂は開扉されている時とされていないときがあり、21日は開扉されていたのでご縁日(月御影供)のみの御開扉かもしれません。
『新編武蔵風土記稿』には「(塔頭 玉泉寺)境内東南ニアリ 本尊弘法大師木ノ坐像ニテ長二尺五寸 願行ト云ヘル作 什物 弘法大師畵像二軸 愛染明王ノ畵像一軸 右三軸トモ弘法大師ノ筆スル所ナリト云」とあります。
宝仙寺塔頭玉泉寺の御本尊は伝・願行作の弘法大師坐像ですが、御影堂の日輪弘法大師坐像とは像高が異なるので、別個の尊像かと思います。
ただ「弘法大師畵像二軸 弘法大師ノ筆スル所ナリト云」というただならぬ記載があり、もともとお大師さまとゆかりのふかい寺院であったことがうかがえます。
立地は府外ながら弘法大師や八幡太郎源義家公ゆかりの名刹で、その流れから御府内霊場札所に迎えられたのでは。
【写真 上(左)】 弘法大師碑
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
本堂は入母屋造本瓦葺で大棟に金色の鴟尾を置き、身舎の柱梁は朱塗りで華々しいイメージ。
向拝柱はなく、向拝見上げに山号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 修行大師像と本堂
【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額
こちらには御本尊の不動明王を中心に五大明王が奉安され、関東三十六不動尊霊場第15番札所となっています。
本堂向かって右手は大書院で、御朱印はこちらで拝受できます。
大書院裏手の白玉稲荷は、寺号の由来となった宝珠を祀った祠とのことです。
【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 鐘楼
山門右手の近代建築は大師堂で、教化活動のお堂とのこと。
御朱印は御府内霊場、関東三十六不動尊霊場、そして日輪弘法大師の3種類が授与されています。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は弘法大師のお種子「ユ」(蓮華座)。揮毫は「日輪弘法大師」で右上に「府内八十八ヶ所 第十二番」の札所印。左下には寺号揮毫と寺院印が捺されています。
御府内霊場中5つしかない貴重なお大師さまの単独揮毫御朱印のひとつです。
〔 関東三十六不動尊霊場第15番の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
〔 日輪弘法大師の御朱印 〕
以下、つづきます。
(→ Vol.4)
【 BGM 】
■ 夢の大地 - Kalafina
■ 桜 - 中村舞子
■ 栞 - 天野月 feat.YURiCa/花たん
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。
■ 第9番 古碧山 龍厳寺
(りゅうげんじ)
渋谷区神宮前2-3-8
臨済宗南禅寺派
御本尊:釈迦牟尼佛
札所本尊:釈迦牟尼佛
他札所:
司元別当:(青山熊野権現/旧 浄性院)
授与所:庫裡
御府内霊場中、唯一の非真言宗寺院の禅刹(臨済宗南禅寺派)です。
『ルートガイド』には「弘法大師が関東を巡った際に開創され、かつては真言宗の寺院であったと伝わります。開創時の札所は青山熊野神社の別当・状(ママ)性院でしたが、明治七年の神仏分離で廃寺となり、弘法大師開創の伝承を有することから、龍厳寺が札所を引き継いだといわれています。」とあります。
たしかに江戸八十八ヶ所霊場第9番は「三光山 宝厳寺 浄性院(港区青山)」とあり、江戸期は浄性院が御府内霊場第9番札所であったとみられます。
旧9番浄性院は真言宗寺院で、新9番龍厳寺は臨済宗南禅寺派。
第9番が旧番のまま真言宗であれば御府内霊場の札所はすべて真言宗寺院で完結するのに、あえて新第9番を臨済宗南禅寺派とした理由があったのでしょうか。
まずは青山熊野権現元別当の浄性院から当たってみました。
『江戸名所図会』7巻 [8]の熊野権現社の項には「熊野権現社(略)南紀の熊野権現と同じく三社あり 青山の鎮守(略)別当ハ真言宗浄性院と号す」とあります。
【写真 上(左)】 (青山)熊野神社
【写真 下(右)】 (青山)熊野神社の御朱印
『寺社書上』(国立国会図書館)にも浄性院が収録されています。
熊野社と錯綜気味ですが、浄性院(寺院)に関連するとみられる記述を書き出します。
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本寺京知積院末 武州豊嶋郡原宿村 熊野権現別当 三光山 真(ママ)義真言宗 浄性院
開山法印清範明暦二年(1656年)寂 中興法印快圓宝暦十二年(1762年)寂
五百羅漢 十六善神 不動尊 愛染尊
本地堂 熊野三社本地 (中)十一面千手観音 (右)薬師如来 (左)彌陀如来
金胎大日如来 石洞稲荷社 聖天堂本尊歓喜天 同本地十一面観世音
(相殿)江州浅井郡竹生島 本尊弁才天(旅宿社?) 訶梨帝母立像
護摩堂 本尊不動尊立像 厨子入不動尊坐像 愛染明王坐像 如意輪観音坐像 弘法大師坐像 右勧請●立年月不知
延享二年(1745年)二月十二日社殿●不残焼失仕 安永八年(1779年)正月十●日自火●亦ハ焼失 不知●記縁●●焼失仕寺記並開基亦●由来相不知
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『寺社書上』によると浄性院は京知積院末の新義真言宗で開山は法印清範(明暦二年(1656年)寂)。
浄性院(相殿)の弁才天は、江州浅井郡竹生島ゆかりのようです。
琵琶湖の竹生島は弁才天の聖地で、竹生島弁才天は江島(与願寺)・ 厳島(大願寺)とならんで「日本三大弁天」のひとつに数えられます。
竹生島にある巌金山 宝厳寺は真言宗豊山派で御本尊は大弁才天。
観音堂は西国三十三所第30番札所となっています。
宝厳寺の公式Webには「弘法大師なども来島、修業されたと伝えられています。」とあり、弘法大師の「御請来目録」を所蔵されています。
「御請来目録」は「(弘法大師)空海が唐から請来した新旧訳経、梵字真言、論疏章、曼荼羅、道具などの目録」(国立情報学研究所)で、日本密教上きわめて重要な文献です。
「御請来目録」には3つの写本があるとされます。
施福寺(大阪府和泉市槙尾山町)の「施本」、東寺所蔵の「東寺本」、そして竹生島宝厳寺所蔵の「竹生島本」です。
(参考:「『御請来目録』の書誌学的研究(甲田宥吽氏/PDF)」
「施本」は「請来目録上表草稿」ともいわれる請来目録残巻で、ほぼ弘法大師の御眞蹟と断定されていますが、「東寺本」、「竹生島本」が御眞蹟であるかについては、従前から数々の議論がなされ未だ結論を得ていない模様です。
ただし、「弘法大師御請来目録の原本について」(眞保龍敞氏/PDF)によると、宝厳寺所蔵の「弘法大師御請来目録」(竹生島本)は「(弘法大師)空海によって上表された原本に相違ない、と考えられる」とされています。
また、筆者は「竹生島本」と他の弘法大師御眞蹟とで精緻な比較をされた結果、「竹生島本は、筆蹟の上からも空海自筆たる特徴を充分に具え、弘法大師の御眞蹟と認定し得るもの」とされています。
つまり竹生島宝厳寺は弘法大師御眞蹟の「御請来目録」を所蔵されている可能性があり、浄性院の弁才天はこの竹生島(宝厳寺)弁才天系なので、この流れから浄性院と弘法大師霊場(御府内霊場)のつながりが出てきたのかもしれません。
一方、護摩堂の不動尊は「目黄不動尊」として信仰を集めたといい、「江戸五色不動」の一尊に数えられることもあったようです。(ご参考→「江戸五色不動の御朱印」 )
護摩堂には弘法大師坐像が御座され、山内に祀られる聖天様、愛染明王、稲荷神はいずれも真言宗寺院で多く祀られる尊格で、浄性院が保守本流の真言宗寺院であったことを裏付け、弘法大師霊場(御府内霊場)としての資格を充分に備えていたことがうかがえます。
(『江戸名所図会』の絵図には、はっきりと「弘法大師 不動 あいせん」と載っています。)
龍厳寺の参拝時、本堂の御本尊と大師堂を礼拝した記憶があり、たしかこの「目黄不動尊」は大師堂内の御座だったかと思います。
となると、浄性院ゆかりの尊格は龍厳寺の大師堂に奉安されている可能性もあります。
御府内霊場の御朱印には「黄金目不動明王」の揮毫があるので、浄性院の「目黄不動尊」つながりで御府内霊場の札所となったのかもしれません。
また、たしか龍厳寺の大師堂前には宇賀神系の弁財天石仏が御座していました。
もともとの龍岩寺の地主ノ神である辨天様か、浄性院からの竹生島(宝厳寺)系弁才天かはわかりませんが、大師堂前御座から考えると後者かもしれません。
いずれにしても、青山熊野権現は『江戸名所図会』に載るほどの名所。
そしてその祭礼の華やかさは有名で、「青山に過ぎたるものが二つあり 鳶の薬缶に原宿の山車」という俗謡が伝わります。
浄性院はその著名な熊野権現の別当。その点からも弘法大師霊場の資格をもっていたかと思われます。
*********
つづいて龍岩寺(龍厳寺)です。
臨済宗で本寺は多磨郡由井領山田村(現八王子)の兜率山廣園寺。
当初は名主半右衛門の屋敷の鎮守に辨天社があり、そばに小庵を建て喚室という僧を招聘し、慶長七年(1602年)に喚室を開山として創建といいます。
「やさしいお坊さん」Web(LDT株式会社)によると、喚室(峻翁令山禅師)は、武蔵國秩父郡出身で寂後に勅号(天皇よりの法名命名)を賜り法光円明国師と呼ばれた名僧で、本山兜率山廣園寺、児玉郡威音山光厳寺、深谷常興山國済寺などを開山されたといいます。
原宿村の一名主がこれほどの高僧を自邸の一庵に招聘できたのは不可思議で、『寺社書上』には「鐘銘ニ拠ハ(家康公)御入國(天正十八年(1590年))以前ヨリノ寺ナリト載ス」ともありますが、2度にわたる火災で寺伝を焼失し詳細は不明のようです。
御本尊は釈迦如来。
境内に祀る弁天社は「地主ノ神」といい、もともとの半右衛門屋敷の鎮守神とみられます。
以上をみても龍岩寺に密寺色はうすく、むしろ純然たる禅刹のイメージがあります。
【史料】
■ 『寺社書上』(国立国会図書館)
武州八王山田廣園寺末 禅宗臨済派 古碧山龍岩寺
開闢 慶長(1596-1615年)トモ●傳 開山 喚室和尚元和八年(1622年)遷化 中興開山 青山和尚宝永八年(1711年)遷化 開基 相知不申候 中興開基 元禄五年(1692年)死去 俗名山崎半右エ門 当村名主作太郎先祖也
本尊 釈迦如来 脇立 文殊 菩薩
■ 『新編武蔵風土記稿』(同上)
龍岩寺 禅宗臨済派古碧山ト号ス 多磨郡由井領山田村廣園寺末 本尊釋迦 脇士文殊 普賢ヲ安ス 相傳フ 境内昔ハ名主半右衛門カ屋敷ニテ鎮守辨天社アリ 側ニ小庵ヲ建テ喚室ト云僧ヲシテ住セシメシカ 慶長七年(1602年)遂ニ宅ヲ捨テ寺トス 依テ喚室ヲ開山トスト寺傳ニイヘリ 鐘銘ニ拠ハ 御入國以前ヨリノ寺ナリト載ス 何レカ是ナルヤ喚室ハ元和八年(1622年)寂ス
辨天社 地主ノ神ナリ
天満宮 往古ハ木立像ナリシト(略)源義家此所ニテ出陣ノ連句ヲ催シ社前ニ納ム 依テ句寄ノ天神ト号スト 稲荷ヲ合祀セリ
日吉山王社 (略)往古ハ当村千駄谷村境榎樹ノ下ニ勧請アリシヲ 寛永中(1624-1644年)当寺第三世明叟ノ時ココニ移スト云
圓座松 砌下ニアリ囲モ四尺許 根上一尺許ヲ隔テ四方ヘ蟠延ス 大サ東西七間餘南北六間半 其状圓坐ヲ敷タル如クナレハ此名アリ
*********
とまぁ、いろいろ調べてみましたが、どうして廃寺後の浄性院の寺跡が、札所も含めて臨済宗の龍厳寺に引き継がれたかのはっきりとした答えは見いだせませんでした。
明治七年、神仏分離を受けた浄性院の廃寺の際にはかなりの混乱があった模様なので、なにか記録に残されていない複雑な経緯があったのかもしれません。
【 龍岩寺と熊野権現社(浄性院)の位置関係 】
※ 『江戸切絵図/青山渋谷絵図』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了))から一部切り取り掲載
ただ、ひとつ気になる事柄があります。
多摩エリアの弘法大師霊場に「多摩新四国八十八ヶ所霊場」があります。
こちらはすべての札所が真言宗寺院です。
また、「多摩新四国八十八ヶ所霊場」をベースに開創といわれる「多摩百八ヶ所霊場」の札所もすべて真言宗寺院です。
ところが「多摩新四国八十八ヶ所霊場」には番外札所があって、それが八王子の廣園寺(こうおんじ)だというのです。
公式ガイドやWeb上の札所一覧情報には載っていませんが、一部のWebに記載があり、Wikipediaにも「多摩八十八箇所番外札所」と明記されています。
【写真 上(左)】 廣圓寺
【写真 下(右)】 廣圓寺の御朱印
兜卒山廣園寺は八王子市にある臨済宗南禅寺派の寺院で、龍厳寺の本寺です。
つまり、本寺・廣園寺は番外ながら唯一禅宗で「多摩新四国八十八ヶ所霊場」の札所、末寺・龍厳寺は「御府内霊場」唯一の禅宗の札所で、本末揃って禅宗で弘法大師霊場の一画を占めていることになり、なんとなく偶然の符合とは思えないものがあります。
ただし、Webから追えたのはここまでで真相は霧のなかです。
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最寄りは都営大江戸線「国立競技場前」駅ですが、メトロ銀座線「外苑前」駅からも歩けます。
「外苑前」駅からだと青山熊野神社の前を通り、神社から龍厳寺に向かう坂道を「勢揃坂」といいます。
現地掲示板によると、永保三年(1083年)に八幡太郎義家公が奥州征伐(後三年の役)に出陣の際、ここで軍勢を揃えたといわれ、当地の豪族渋谷氏の祖・秩父十郎武綱も参陣と伝わります。
また、龍厳寺山内の天満宮は義家公が出陣の際に連句を催し、社前に句を納めたとされ「句寄の天神」ともいうそうです。
【写真 上(左)】 勢揃坂
【写真 下(右)】 参道
國學院高のちょうど西側で、敷地じたいは外苑西通りに面していますが、山門は1本奥まった枝道からさらに入ったところにあり、神宮前とは思えない静寂に包まれています。
路地から伸びるゆったりとした石敷きの参道。
あたりは都心としては奇跡的に?高い建物がなく、陽光が降りそそいで明るいです。
【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 山門-1
山門前に寺号標。上部には「御府内第九番御札所 弘法大師霊場」と刻まれています。
正面の山門は切屋根桟瓦葺妻の薬医門で、両脇に桟瓦葺の板塀を延べています。
主門には木柵が置かれ、右手通用門横には「檀信徒以外の出入りをお断り申す 合掌」の掲示があって一瞬ひるみますが、「御府内霊場巡拝者はたぶん信徒だよな~」と気をとりなおして通用門をくぐり山内に進みます。
(たしか通用門を開けるといきなり鈴が鳴って、これまたびびった記憶が・・・(笑))
【写真 上(左)】 山門-2
【写真 下(右)】 門外からの山内
こちらは山内の撮影禁止なので撮影はしておりませんし、山内のご案内も控えます。
草木が茂ったほの暗い山内で、堂宇も趣きがあり、とても神宮前の一画とは思えません。
山内には石佛が点在していましたが、画像がないのでよくわかりません。
従前、山内にあった「圓座の松」は江戸の名木のひとつとして知られ文化十年著の『十万庵遊歴雑記』などで取り上げられています。
御朱印は庫裡にて拝受。敷居が高く謹厳なイメージがありますが、御朱印対応はご親切でした。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は釋迦如来のお種子「バク」ではなく、なぜか阿弥陀如来・如意輪観世音菩薩のお種子「キリーク」(蓮華座+火焔宝珠)。揮毫は「本尊 釋迦牟尼佛」「弘法大師」「黄金目不動明王」で右上に「第九番」の札番揮毫。左下には寺号揮毫と寺院印が捺されています。
「釋迦牟尼佛」の御朱印は禅刹では一般的ですが、御府内霊場では唯一と思われます。
■ 第10番 観谷山 福聚院 聖輪寺
(しょうりんじ)
渋谷区千駄ヶ谷1-13-11
真言宗豊山派
御本尊:如意輪観世音菩薩
札所本尊:如意輪観世音菩薩
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第10番、東京三十三所観世音霊場第13番、近世江戸三十三観音霊場第20番、大東京百観音霊場58番
司元別当:
授与所:庫裡
御府内霊場中、もっとも歴史が古いとされる古刹です。
『観谷山聖輪寺観音略縁起/寺社書上』によると、神亀二年(725年)5月の頃、行基菩薩が北越遊行された折に当地で休息されたとき、谷の中から光りが射して如意輪観世音菩薩が出現しました。
観音様は「我はこの地に因縁あり、汝(行基菩薩)が我の相を彫刻すれば末世の衆生に結縁せしめて広く利益をなさん」と告げられて、大きな朽木のもとでお姿を消されました。
行基菩薩は感じ入り、この枯木を加持して御長三尺五寸の尊像を刻み奉り石上に安置して持念されました。
観音様は御双眼より金色の光りを放たれたため観谷山、寺号を聖輪寺として本山を開創されたと伝わります。
神亀二年(725年)開創とすると、実に千三百年もの寺歴を有することになります。
明和九年(1772年)刊の『江戸砂子温故名蹟誌』には、江戸にて千年以上の霊場は浅草寺と当寺と記されています。
御本尊は行基菩薩の御作と伝わる如意輪観世音菩薩。
山内掲示によると、この地の豪族・渋谷氏一門はこの尊像を深く信仰し、そのご利益あってか一門は栄え、人々は「黄金長者」と呼んだといいます。
天正の頃(1573年)には、御本尊が疱瘡から里人を救われ、観音様の大悲護念を謝してこのときから御本尊を閉扉し秘仏として崇め奉ったとのことです。
慶長の頃には観音像の双眼が黄金であると聞いた賊が忍び込み、玉眼を鑿で取ろうとしたところ、冥罰に当り、自らの鑿で貫かれて死んでしまいました。
人々はこれも観音様の霊験と畏れ、信仰をいっそう篤くしたと伝わります。
このときより「千駄谷観音」「目玉の観音」とも呼ばれ、近世江戸三十三観音霊場第20番の札所ともなって人々の信仰を集めました。
慶安四年(1651年)には奈良・長谷寺の末寺となり、真言宗豊山派の名刹としていまに至っています。
【史料】
■ 『寺社書上』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考』
新義真言宗 紀州初瀬小池坊末 千駄ヶ谷町
起立之儀古来●当地有之候得共、年数不分明
開山 法印宥光(明暦三年(1657年)遷化)
中興 法印宥仙(元禄七年(1694年)示寂)
本尊 如意輪観音 木座像丈三尺五寸 神亀二年(725年)行基菩薩作
前立 如意輪観音 両脇立 不動毘沙門 四天王 護摩壇本尊不動 両童子 聖天
鎮守社 諏訪明神 秋葉権現 稲荷明神
大師堂 弘法大師 厨子入座像 長二尺三寸
※鎮守の稲荷明神は「庄九郎稲荷」ともいわれ、往古は村の鎮守とも伝わります。
(観谷山聖輪寺観音略縁起)
抑当寺本尊聖如意輪観世音者 行基菩薩乃御作也 神亀二年(725年)五月の頃 行基北越遊行乃時 此所に暫く休息し(略)谷乃中より光りさし如意輪観音出現しぬ 告て宣く●此地ハ我に因縁あり汝よろしく●我相を彫刻し 末世の衆生に結縁せしめて廣く利益をなさんとて 大なる朽木の本ニ失給ふ 行基感涙肝に銘し(略)其枯木を採て御衣木とし加持して御長三尺五寸の尊像を刻み奉り 石上に安置し持念したまふ 御双眼より金色乃光りを放ち●故に 本山を観谷山といひ 寺を聖輪寺と号す
(以下、山内掲示の縁起書に概要記載あり)
■ 『江戸砂子温故名蹟誌 6巻 [5]』(国立国会図書館)
観音 千駄ヶ谷 観谷山 聖輪寺 真言 和州長谷末
開山行基菩薩 本尊如意輪 眼玉の観音と云●り 賊来りて本尊の玉眼黄金なりとて ぬき出し(略)おのれを害して死
江府にて千余歳の霊場ハ浅草寺と当寺
【 江戸期の聖輪寺周辺 】
※ 『江戸切絵図/内藤新宿千駄ヶ谷絵図』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了))から一部切り取り掲載
『江戸名所図会 7巻 [9] 千駄谷観音堂』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了)より転載)
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【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 札所標
国立競技場の西側にあり、「国立競技場」駅、「千駄ヶ谷」駅、「北参道」駅の3駅から徒歩でアクセスできます。
「観音坂」と呼ばれる坂の途中に位置しています。
入口は門柱。門前には御府内霊場の札所標、門扉には真言宗の宗紋門「五三の桐」。
【写真 上(左)】 五三の桐
【写真 下(右)】 入口
【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 庚申塔
山内はさほど広くはありませんが、よく手入れされて落ち着いた参拝ができます。
鐘楼堂まわりには八十八カ所踏み石参拝所が設けられています。
塀ぎわには二童子を従えた身守不動尊と六地蔵。
渋谷区教育委員会の説明書がある庚申塔、桃?を持たれたかわいいお地蔵さまも御座。
【写真 上(左)】 身守不動尊
【写真 下(右)】 六地蔵
【写真 上(左)】 地蔵尊
【写真 下(右)】 本堂
本堂は近代建築で向拝上部に山号扁額、その上に真言宗豊山派の宗紋「輪違い紋」を掲げています。
【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 扁額
墓域には真田氏の流れで『明良洪範』を著した、甲州流の兵学者増譽法印の墓があります。
御朱印は庫裡にて拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は三寶印。揮毫は「本尊 如意輪観音」「不動明王」「弘法大師」で右上に「第十番」の札所印。左下には寺号揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第11番 光明山 真言院 荘厳寺
(しょうごんじ)
渋谷区本町2-44-3
真言宗室生寺派
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来・不動明王
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第11番
司元別当:(幡ヶ谷)氷川神社(渋谷区本町)
授与所:不動堂札所(授与所)
「幡ヶ谷不動尊」としても知られる真言宗室生寺派の寺院。
『新編武蔵風土記稿』によると、開山は宥悦法印(天文二年(1533年)寂)。
寺院御本尊は薬師如来ですが、御府内霊場の御朱印には不動明王も揮毫されているので、札所本尊は薬師如来・不動明王両尊と思われます。
不動明王は智証大師(円珍)が三井寺開基の際に自ら彫刻し本尊とされた尊像と伝わり、天慶二年(939年)、承平天慶の乱で藤原秀郷が戦勝を祈願して御持佛とし、戦勝ののち下野国小山郷に安置と伝わります。
三井寺から遷られた経緯については『江戸名所図会』に「(天慶年間)平貞盛、及び藤原秀郷等、東国に発向す。其時三井寺より此本尊を奉持して、陣中に移し奉り、戦の勝利を祈誓」とあり、承平天慶の乱の際に東国に遷られた旨が記されています。
永禄年中(1558-1570年)、武田信玄が甲州七覺山(右左口の七覚山円楽寺?/真言宗)に遷して崇敬し、後に北条氏政がこれを奪って相州筑井縣地勝院(相州津久井城西麓?)に奉安、天正十八年(1590年)北条氏没落の後には徳川家康以下代々の武将が崇敬して多磨郡宅部村三光院(東大和市/真言宗)に遷られ、延享四年(1747年)9月、霊夢のお告げにより当山に安置と伝わります。
このお不動様を尊崇した武将は藤原秀郷、武田信玄、北条氏政、徳川家康という錚々たる面々で、相模原市の城山地域史研究会資料には「有名武将が競って崇敬した不動明王」と記されています。
以降「幡ヶ谷不動尊」として広く信仰を集め、「江戸近郷の三不動(成田山、光明山、高幡山)の一つとして広く尊崇を集めた。」というWeb記事もみつかりました。
立地は府外ですが、開創時から御府内霊場札所であったとみられ、これは『江戸名所図会』にも載せられた著名な「幡ヶ谷不動尊」の存在が大きかったのかもしれません。
江戸期には(幡ヶ谷)氷川神社(渋谷区本町)の別当も司っていました。
【写真 上(左)】 幡ヶ谷氷川神社
【写真 下(右)】 幡ヶ谷氷川神社の御朱印
【史料】
■ 『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
新義真言宗 江戸大塚護國寺末 光明山真言院ト号ス 開山宥悦 天文二年(1533年)5月15日寂 本尊薬師
不動堂 木佛立像長三尺三寸 智證大師作 縁起ニ云 智證大師三井寺開基ノ時 自此不動ヲ彫刻シテ彼寺ノ本尊トセシカ 天慶二年(939年)平貞盛 藤原秀郷等平将門追討ノ時 秀郷此不動ニ祈誓ヲコメ 陣中マテ守リ行テ渇仰怠リ無ク 果シテ勝利ヲ得タリシカハ 凱陣ノ頃下野國小山ノ郷ニ安置セリ 其後遥星霜ヲ歴テ 永禄年中(1558-1570年)武田信玄甲州七覺山ニ移シ崇敬セシヲ 北條氏政奪テ相州筑井縣地勝院ニ納ム 然ルニ天正十八年(1590年)北條氏没落ノ後 東照宮代々ノ武将崇敬アリシ像ナル事ヲ聞シ召レテ 多磨郡宅部村三光院ニ移シ給ヒ 延享四年(1747年)9月霊夢ノ告アリテ当寺ニ安置スト云 稲荷社
(幡ヶ谷村)氷川社 村ノ鎮守ナリ荘厳寺持
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【写真 上(左)】 入口
【写真 下(右)】 不動堂
【写真 上(左)】 不動堂向拝
【写真 下(右)】 「幡ヶ谷不動尊」の尊号板
場所は初台の新国立劇場の北側で最寄りも「初台」駅、山手通りから1本なかに入った住宅地にあります。
南側の「ふどう通り」は、かつて幡ヶ谷不動尊の参道であったとも。
入口に「幡ヶ谷不動 荘厳寺」の寺号標。その先の門柱の右手奥が幡ヶ谷不動堂。
堂前は催しができる広めのアスファルト敷のスペースで、著名な仏堂によくあるかたち。
入母屋造本瓦葺流れ向拝の端正な不動堂で、向拝まわりの意匠は比較的シンプルです。
向拝柱に「幡ヶ谷不動尊」「厄除不動」の掛板。向拝見上げに「不動明王」の扁額。
向かって右手に札所(授与所)があり、御朱印はたしかこちらでいただいたかと思います。
【写真 上(左)】 不動堂扁額
【写真 下(右)】 山門
不動堂の向かって左奥、狛犬一対の先に構える山門は、切妻屋根本瓦葺で手前左右の控柱に切妻屋根が掛かっているので高麗門かと思います。
山門柱に重厚な筆致の寺号板。
【写真 上(左)】 山門の寺号板
【写真 下(右)】 馬頭観音像
山門をくぐって左手に大師堂。堂前を直角に折れると正面が本堂。
緑が多く風情ある山内で、引き締まった像容の馬頭観世音菩薩像など見どころが多いです。
【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 大師堂扁額
大師堂は寄棟造桟瓦葺流れ向拝で「遍照殿」の扁額を置いています。
同前に御府内霊場の札所碑もありました。
【写真 上(左)】 札所碑
【写真 下(右)】 本堂
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 修行大師像
本堂は入母屋造本瓦葺流れ向拝、その下に銅板葺の屋根を張りだしてやや変わった意匠です。
水引虹梁両端に獅子貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻。
向拝正面硝子格子扉のうえに山号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額
向拝身舎柱に「本尊 薬師如来」とあり、札所本尊のお薬師さまはこちらに御座。
本堂向かって右には修行大師像が御座。
なので、御府内霊場巡拝の拝所は、不動堂、大師堂、本堂、修行大師像の4ヶ所となります。
御朱印揮毫は薬師如来、不動明王、弘法大師の三尊。雄渾な筆致で見ごたえがあります。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は宝珠印。揮毫は「本尊 薬師如来」「不動明王」「弘法大師」で右上に「御府内 第拾壱番」の札所印。左下には山号寺号揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第12番 明王山 無動院 宝仙寺
(ほうせんじ)
公式Web
中野区中央2-33-3
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所本尊:弘法大師
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第12番、関東三十六不動尊霊場第15番、真言宗(関東)七箇寺
司元別当:和田村八幡(大宮八幡神社)、(中野村)氷川社
授与所:本堂向かって右手の大書院
公式Web、山内掲示、『新編武蔵風土記稿』によると、寛治年間(1087-1094年)、八幡太郎源義家公が奥州・後三年の役を平定して凱旋帰京の途中、陣中で護持されていた不動明王像を安置するため建立・創建。
旧地は、父・頼義公が祀った八幡社のある阿佐ヶ谷で、造寺竣成にあたり地主稲荷神が出現されて義家公に一顆の珠を与え「この珠は希世之珍 宝中之仙である 是を以って鎮となさば 則ち武運長久 法燈永く明かならん」と告げられたため、その地を寺地とされたと伝わります。
往時は和田村八幡(大宮八幡神社)の別当と伝わり、『新編武蔵風土記稿』には「((中野村)氷川社)村内寶仙寺ノ持」とあります。
【写真 上(左)】 大宮八幡宮
【写真 下(右)】 大宮八幡宮の御朱印
【写真 上(左)】 (中野)氷川神社
【写真 下(右)】 (中野)氷川神社の御朱印
鎌倉時代には相模國大山寺の願行上人が当寺を訪れ、御本尊の不動明王像をご覧になられて霊貌の凡常でないことに驚かれ、尊像を厨子の奥に秘蔵され、別に御前立の不動尊を刻して安置されました。
室町時代には、当寺中興第一世聖永(永享三年(1431年)寂)が現地に寺基を遷しました。
寛永十三年(1636年)には三重塔が建立されて庶民にも親しまれ、歴代将軍の尊崇篤く御鷹狩りの休憩所としても使われました。
徳川将軍家は清和源氏新田氏流を名乗り、その始祖は八幡太郎義家公です。
その義家公ゆかりの不動尊奉安の寺院となれば、歴代将軍の尊崇もなるほどうなづけるものがあります。
江戸期には「末寺三十二ヶ寺 門徒二十六ヶ寺ヲ統ヘ司トレリ」(『新編武蔵風土記稿』)という名刹です。
【史料】
■ 『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
往還ノ内小名中宿下宿ノ境ニアリ 明王山聖不動院ト号ス 新義真言宗 無本寺ニテ(略)
傳へ云 昔堀河院ノ御宇寛治年中(1087-1094年)鎮守府将軍源義家 奥州ノ夷賊ヲ征伐シ御利運アリシカハ 凱陣ノ後当寺ヲ建立シ給フト云 サレト往古ノ事ナレハ其詳ナル●ヲシラス 当寺昔シハ和田村八幡(大宮八幡神社)ノ別当ナリシカ 社地ヘノ路程ヘタゝリテ不便ナレハ 末寺ニソノ職ヲユツレリト云 サレハ八幡鎮座ノ時 当寺ヲ起立シテ別当ニ附ラレシニヤ 中興開山ヲ聖永トイフ 永享三年(1431年)2月24日示寂ス 末寺三十二ヶ寺 門徒二十六ヶ寺ヲ統ヘ司トレリ(略)
本堂 御成ノ時御膳所ナリ 本尊ハ不動ノ坐像ニテ長一尺七寸五5分 良弁ノ作 外ニ四大明王ノ四体ヲ安ス 木ノ立像ニテ長二尺三寸五分 願行ノ作ト云 古位牌一基アリ 碑面ニ云将軍頼義公信信海将軍義家公信了ト彫リテアリ(以下略)
(塔頭 玉泉寺)
境内東南ニアリ 本尊弘法大師木ノ坐像ニテ長二尺五寸 願行ト云ヘル作 什物 弘法大師畵像二軸 愛染明王ノ畵像一軸 右三軸トモ弘法大師ノ筆スル所ナリト云
(三重塔)
当寺ヨリ二町ホト東ノ方ニアリ三間半四面高サ五丈三尺五智如来ノ木像ヲ安ス
((中野村)氷川社)
村内寶仙寺ノ持
『江戸名所図会 第2 (有朋堂文庫) 中野寶仙寺』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了)より転載)
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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山門-1
【写真 上(左)】 山門-2
【写真 下(右)】 寺号標
東京メトロ丸の内線「中野坂上」駅からほど近い職住学混在エリアに広大な山内を構えています。
青梅街道の「宝仙寺前」交差点から北に向けてまっすぐ伸びる道は、かつての参道だったのでは。
周囲を占める宝仙学園の創立者は宝仙寺第50世住職富田敦純大僧正で、昭和10年東京では初めての仏教系の保育者養成校・仏教保育協会保姆養成所(現・こども教育宝仙大学)が創始です。
公式Webには「弘法大師の『綜藝種智院』を模範に大師の思想を教育の根底におきました。」とあります。
山門は切妻屋根本瓦葺三間一戸の八脚門で、両脇間に迫力の仁王尊像を安置。
山門からしてすでに名刹の風格をただよわせています。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 見返り地蔵&六地蔵
境内案内は公式Webにも掲載。
山門の先左手に寺号標、鐘楼、中野町役場跡碑、見返り地蔵&六地蔵、石臼塚、八十八大師塔、三重塔、御影堂とならびます。
【写真 上(左)】 石臼塚
【写真 下(右)】 三重塔
石臼塚は蕎麦挽きの石臼の供養塚。
そばを流れる神田川には江戸期水車が置かれて蕎麦粉が挽かれ、一大消費地・江戸に向け盛んに玄蕎麦が送られて、この地の蕎麦粉は「中野蕎麦」と呼ばれ名を馳せたとの由。
機械化で使われなくなった大量の石臼を見られた当山第50世住職富田敦純大僧正が「人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべき」として建立されたものです。
当山の三重塔は、寛永十三年(1636年)に塔ノ山の飛び地境内(現・区立第十中学校(中野東中学校))に建立され、戦災で焼失した三重塔を平成4年に飛鳥様式で再建したもので、高さは約20メートル。
堂内には大日如来を中心とした胎蔵界五佛が奉安されています。
『新編武蔵風土記稿』には「(三重塔)当寺ヨリ二町ホト東ノ方ニアリ三間半四面高サ五丈三尺(約16m強)五智如来ノ木像ヲ安ス」とあり、区立第十中学校(中野東中学校)は当山からほぼ二町(約220m)ほどにあるので、この三重塔を再建とみられます。
ただし、風土記稿三重塔奉安の五智如来(=金剛界五佛/大日如来・阿閦如来・薬師如来・宝生如来・観自在王如来(ないし阿弥陀如来)、不空成就如来(ないし釈迦如来)に対し、こちらの三重塔は胎蔵界五佛(大日如来、宝幢如来、開敷華王如来、無量寿如来、天鼓雷音如来の奉安となっています。
なお、『江戸名所図会』によると、中野周辺は「中野七塔」と呼ばれ、塔が多いことで知られていたようです。
『江戸名所図会 第2 (有朋堂文庫) 中野塔』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了)より転載)
【写真 上(左)】 御影堂
【写真 下(右)】 日輪弘法大師
御影堂は三間四方の宝形造本瓦葺身舎柱朱塗りの整った堂宇で、堂宇御本尊の日輪弘法大師座像の高さは後背まで入れると約3メートル。
堂前説明書には「脱活乾漆という漆と麻布で作られておりこの技法でこのような大きな佛像は壱千年以上も絶えて作られておりませんでした。」とある稀少な尊像です。
御影堂は開扉されている時とされていないときがあり、21日は開扉されていたのでご縁日(月御影供)のみの御開扉かもしれません。
『新編武蔵風土記稿』には「(塔頭 玉泉寺)境内東南ニアリ 本尊弘法大師木ノ坐像ニテ長二尺五寸 願行ト云ヘル作 什物 弘法大師畵像二軸 愛染明王ノ畵像一軸 右三軸トモ弘法大師ノ筆スル所ナリト云」とあります。
宝仙寺塔頭玉泉寺の御本尊は伝・願行作の弘法大師坐像ですが、御影堂の日輪弘法大師坐像とは像高が異なるので、別個の尊像かと思います。
ただ「弘法大師畵像二軸 弘法大師ノ筆スル所ナリト云」というただならぬ記載があり、もともとお大師さまとゆかりのふかい寺院であったことがうかがえます。
立地は府外ながら弘法大師や八幡太郎源義家公ゆかりの名刹で、その流れから御府内霊場札所に迎えられたのでは。
【写真 上(左)】 弘法大師碑
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
本堂は入母屋造本瓦葺で大棟に金色の鴟尾を置き、身舎の柱梁は朱塗りで華々しいイメージ。
向拝柱はなく、向拝見上げに山号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 修行大師像と本堂
【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額
こちらには御本尊の不動明王を中心に五大明王が奉安され、関東三十六不動尊霊場第15番札所となっています。
本堂向かって右手は大書院で、御朱印はこちらで拝受できます。
大書院裏手の白玉稲荷は、寺号の由来となった宝珠を祀った祠とのことです。
【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 鐘楼
山門右手の近代建築は大師堂で、教化活動のお堂とのこと。
御朱印は御府内霊場、関東三十六不動尊霊場、そして日輪弘法大師の3種類が授与されています。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は弘法大師のお種子「ユ」(蓮華座)。揮毫は「日輪弘法大師」で右上に「府内八十八ヶ所 第十二番」の札所印。左下には寺号揮毫と寺院印が捺されています。
御府内霊場中5つしかない貴重なお大師さまの単独揮毫御朱印のひとつです。
〔 関東三十六不動尊霊場第15番の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
〔 日輪弘法大師の御朱印 〕
以下、つづきます。
(→ Vol.4)
【 BGM 】
■ 夢の大地 - Kalafina
■ 桜 - 中村舞子
■ 栞 - 天野月 feat.YURiCa/花たん
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■「君の知らない物語」名カバー
このところ世界中からJ-POPに注目が集まっているという。
いちばんの理由はどうやら「メロが綺麗で癒される」ということらしい。
たしかにいまの世界のPOPSのメインストリームは、4つ打ちにのせたペンタ系メロを大人数で踊りながら歌う、的な感じがあって、日本でもメディア露出度の多いのはそれ系だけど「メロが綺麗で癒される」系もじつはかなりある。
いまは「海外で人気の邦楽」というと1980年代のシティ・ポップに直結するけど、じつは2007年~2012年くらいにかけて、ボカロを起点とした名曲(名メロ)ラッシュがあった。
その代表例がsupercellの「君の知らない物語」。
supercellの1stシングルでリリースは2009年8月12日。
リードボーカルは、透明感あふれる歌い手として知られていたガゼル(nagi/やなきなぎ)。
supercellのメイン・コンポーザーのryoは、すでに2007年12月投稿の「メルト」(ボーカル:初音ミク)で注目を集め、ガゼル(nagi/やなきなぎ)もカバーしていた。
■「メルト」を歌ってみた(ガゼル) 高品質
この人間では厳しいと思われるサビのハイトーンをそつなくこなし、supercellのリードボーカルとして抜擢。
「君の知らない物語」のヒットを放つ。
この頃はまだボカロ曲の黎明期だったかと思うが、supercellのもたらしたハイトーンシフトの流れはすさまじく、多くのnagiフォロワーを生み出した。
これが、いまの女性ボーカルの質の高さ(とくにハイトーンの歌いまわしの巧さ)につながっていると思う。
女性ハイトーンに限っていえば、その育ての親は1990年代は小室哲哉、2000年代はsupercell(ryo)ではないかと思っている。
■ ryo (supercell) × やなぎなぎ メルト 10th ANNIVERSARY MIX
ボカロを凌ぐ? 超絶ハイトーン、花たん ↓
■ Palette - 花たん(歌ってみた)
アウトロ大サビ部のコメ →「どっから声出してんだ」(笑)
■ 花たんの名テイク
■ 女神系歌姫-1 【 Angel Voice列伝 01-50 】
■ 女神系歌姫-2 【 Angel Voice列伝 51-100 】
■ 透明感のある女性ヴォーカル50曲
ボカロP起点の楽曲ブレイクは一時期下火になったかにも見えたが、ここ数年でふたたび注目を集めている。
たとえばYOASOBI。
Ayaseのフック感あふれるキーボードのカウンターメロディはsupercellを彷彿とさせるし、ikuraの突き抜けるハイトーンとキレっキレの滑舌はボカロ曲の洗礼なしには成り立たなかったかも。
■ YOASOBI「群青」 from 初有観客ライブ『NICE TO MEET YOU』2021.12.04@日本武道館
ikuraは多くの歌うまを輩出している「黄金の世代」。
でも、ここまで一気にブレークしたのは、聴き手にアピールするなにかをもっていたから?
■ 2017年2月4日(土) @ 下北沢 Com.Cafe 音倉
↑ こういう才能を地道に支える人々がいる。
こうしてみると、いまのJ-POPの良質な部分はボカロP、歌い手や同人などの「サブカル」の層の厚さに支えられているのかもしれぬ。
「サブカル」の灯が消えてしまうことのないよう、ただ祈るのみです。
■ 徒夢 (Ada Yume) - 花たん
■ 遥海 -『Pride』 Live Ver. (HARUMI LIVE 2021”FOCUS”)
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2022/06/11 UP
「君の知らない物語」。
2009年8月12日リリースのsupercellの1枚目のメジャーデビューシングル。
ヴォーカルに、リズム感と透明感あるハイトーンと声の圧とブレスのキレを求める難曲。
歌い手の声質で、まったくイメージが変わってしまう曲。
とくに後半の落ちサビ~ラスサビは、繊細な表現力とハイトーンの力量を問われる正念場。
(ふつう、民間人はここで破綻する(笑))
■ オリジナルのnagi(やなぎなぎ、ガゼル)のテイク?
透明感とブレスどりが、ポイントであることがわかる。
→ コード
add9、sus4、maj7、オンコード乱れ打ち。
インストの高い技倆も要求される難曲。
「君の知らない物語」は、平成アニソン大賞(2000年~2009年)で「作品賞」(年代ごとに社会・業界的に最も世の中をにぎわせ注目された楽曲)に選ばれている。
”日本の夏”を代表する名曲だと思う。
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このところ、この曲のカバー、はやってるのか???
■ 花澤香菜 - 君の知らない物語
声質が効いた、なかなかに個性的なテイク。
■ 鈴木愛理 - 君の知らない物語
supercellの難曲に生歌唱で突っ込むとは・・・。
しかも破綻せず歌い切ってるのにはびっくり。
■ 凪原涼菜 - 君の知らない物語
スケール感のある「君の知らない物語」。
■ 声優三姉妹チームY - 君の知らない物語
どちらかというと声優やアニソン歌手向けの曲だと思う。
■ 葵井歌菜 - 君の知らない物語
声もいいけど、手数の多いドラムスが圧巻。
■ 君の知らない物語/supercell covered by かぴ
かわいい系歌い手も大健闘。
■「君の知らない物語」covered by 星乃めあ【supercell】
メリハリが効いてていいと思います。
■ 【歌ってみた】君の知らない物語/supercell【富士葵】『化物語ED』
透明感と力感をあわせもつ逸材。
何枚かCD出してます。
■ 君の知らない物語 supercell 歌ってみた [Akuya x 恒温]
アレンジが秀逸すぎるんですけど・・・。
ヴォーカルも気になったので、リンク先に飛んでみたら ↓ こんな名テイクが・・・。
■ 小説 夏と罰(上) - 傘村トータ (Cover) / HengWen
恒温=HengWenなのか???
凄いわ、このヴォーカル。
これで再生数1,447 回って??
■【セッション】 歌ってみた 演奏してみた
楽器が巧い。ヴォーカルもハイレベルの名演。
■ くゆり - 君の知らない物語
これまで聴いたなかでは、個人的にベストと思われるテイク。
(最近チェックしてないので、言い切れないが・・・)
抜群の透明感とブレスどり。
小刻みにかましてくるヒーカップと、立ち上がりの速いビブラートがキレッキレ。
いちばんの理由はどうやら「メロが綺麗で癒される」ということらしい。
たしかにいまの世界のPOPSのメインストリームは、4つ打ちにのせたペンタ系メロを大人数で踊りながら歌う、的な感じがあって、日本でもメディア露出度の多いのはそれ系だけど「メロが綺麗で癒される」系もじつはかなりある。
いまは「海外で人気の邦楽」というと1980年代のシティ・ポップに直結するけど、じつは2007年~2012年くらいにかけて、ボカロを起点とした名曲(名メロ)ラッシュがあった。
その代表例がsupercellの「君の知らない物語」。
supercellの1stシングルでリリースは2009年8月12日。
リードボーカルは、透明感あふれる歌い手として知られていたガゼル(nagi/やなきなぎ)。
supercellのメイン・コンポーザーのryoは、すでに2007年12月投稿の「メルト」(ボーカル:初音ミク)で注目を集め、ガゼル(nagi/やなきなぎ)もカバーしていた。
■「メルト」を歌ってみた(ガゼル) 高品質
この人間では厳しいと思われるサビのハイトーンをそつなくこなし、supercellのリードボーカルとして抜擢。
「君の知らない物語」のヒットを放つ。
この頃はまだボカロ曲の黎明期だったかと思うが、supercellのもたらしたハイトーンシフトの流れはすさまじく、多くのnagiフォロワーを生み出した。
これが、いまの女性ボーカルの質の高さ(とくにハイトーンの歌いまわしの巧さ)につながっていると思う。
女性ハイトーンに限っていえば、その育ての親は1990年代は小室哲哉、2000年代はsupercell(ryo)ではないかと思っている。
■ ryo (supercell) × やなぎなぎ メルト 10th ANNIVERSARY MIX
ボカロを凌ぐ? 超絶ハイトーン、花たん ↓
■ Palette - 花たん(歌ってみた)
アウトロ大サビ部のコメ →「どっから声出してんだ」(笑)
■ 花たんの名テイク
■ 女神系歌姫-1 【 Angel Voice列伝 01-50 】
■ 女神系歌姫-2 【 Angel Voice列伝 51-100 】
■ 透明感のある女性ヴォーカル50曲
ボカロP起点の楽曲ブレイクは一時期下火になったかにも見えたが、ここ数年でふたたび注目を集めている。
たとえばYOASOBI。
Ayaseのフック感あふれるキーボードのカウンターメロディはsupercellを彷彿とさせるし、ikuraの突き抜けるハイトーンとキレっキレの滑舌はボカロ曲の洗礼なしには成り立たなかったかも。
■ YOASOBI「群青」 from 初有観客ライブ『NICE TO MEET YOU』2021.12.04@日本武道館
ikuraは多くの歌うまを輩出している「黄金の世代」。
でも、ここまで一気にブレークしたのは、聴き手にアピールするなにかをもっていたから?
■ 2017年2月4日(土) @ 下北沢 Com.Cafe 音倉
↑ こういう才能を地道に支える人々がいる。
こうしてみると、いまのJ-POPの良質な部分はボカロP、歌い手や同人などの「サブカル」の層の厚さに支えられているのかもしれぬ。
「サブカル」の灯が消えてしまうことのないよう、ただ祈るのみです。
■ 徒夢 (Ada Yume) - 花たん
■ 遥海 -『Pride』 Live Ver. (HARUMI LIVE 2021”FOCUS”)
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2022/06/11 UP
「君の知らない物語」。
2009年8月12日リリースのsupercellの1枚目のメジャーデビューシングル。
ヴォーカルに、リズム感と透明感あるハイトーンと声の圧とブレスのキレを求める難曲。
歌い手の声質で、まったくイメージが変わってしまう曲。
とくに後半の落ちサビ~ラスサビは、繊細な表現力とハイトーンの力量を問われる正念場。
(ふつう、民間人はここで破綻する(笑))
■ オリジナルのnagi(やなぎなぎ、ガゼル)のテイク?
透明感とブレスどりが、ポイントであることがわかる。
→ コード
add9、sus4、maj7、オンコード乱れ打ち。
インストの高い技倆も要求される難曲。
「君の知らない物語」は、平成アニソン大賞(2000年~2009年)で「作品賞」(年代ごとに社会・業界的に最も世の中をにぎわせ注目された楽曲)に選ばれている。
”日本の夏”を代表する名曲だと思う。
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このところ、この曲のカバー、はやってるのか???
■ 花澤香菜 - 君の知らない物語
声質が効いた、なかなかに個性的なテイク。
■ 鈴木愛理 - 君の知らない物語
supercellの難曲に生歌唱で突っ込むとは・・・。
しかも破綻せず歌い切ってるのにはびっくり。
■ 凪原涼菜 - 君の知らない物語
スケール感のある「君の知らない物語」。
■ 声優三姉妹チームY - 君の知らない物語
どちらかというと声優やアニソン歌手向けの曲だと思う。
■ 葵井歌菜 - 君の知らない物語
声もいいけど、手数の多いドラムスが圧巻。
■ 君の知らない物語/supercell covered by かぴ
かわいい系歌い手も大健闘。
■「君の知らない物語」covered by 星乃めあ【supercell】
メリハリが効いてていいと思います。
■ 【歌ってみた】君の知らない物語/supercell【富士葵】『化物語ED』
透明感と力感をあわせもつ逸材。
何枚かCD出してます。
■ 君の知らない物語 supercell 歌ってみた [Akuya x 恒温]
アレンジが秀逸すぎるんですけど・・・。
ヴォーカルも気になったので、リンク先に飛んでみたら ↓ こんな名テイクが・・・。
■ 小説 夏と罰(上) - 傘村トータ (Cover) / HengWen
恒温=HengWenなのか???
凄いわ、このヴォーカル。
これで再生数1,447 回って??
■【セッション】 歌ってみた 演奏してみた
楽器が巧い。ヴォーカルもハイレベルの名演。
■ くゆり - 君の知らない物語
これまで聴いたなかでは、個人的にベストと思われるテイク。
(最近チェックしてないので、言い切れないが・・・)
抜群の透明感とブレスどり。
小刻みにかましてくるヒーカップと、立ち上がりの速いビブラートがキレッキレ。
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■ 吉澤嘉代子のニューシングル
昨日J-WAVEに出ていた。
ほんわかとした語り口だけど、曲を聴いて唖然。
名前は聞いたことあったかもしれないが、まともに聴いたのは正直はじめて。
なんというか、曲のつくりや歌いまわしがふつうじゃない。
歌が巧いとか、そういうのを超越している感じがする。
7/12(水)、ニューシングルリリース。
ブレイクするか・・・。
■ 【吉澤嘉代子さん★東京ドームライブ「氷菓子」】●2023年6/4 巨人vs日本ハム
■ 吉澤嘉代子 - 泣き虫ジュゴン
遊佐未森をはじめて聴いたときと近いものを感じた。
■ 遊佐未森 - 潮見表
ほんわかとした語り口だけど、曲を聴いて唖然。
名前は聞いたことあったかもしれないが、まともに聴いたのは正直はじめて。
なんというか、曲のつくりや歌いまわしがふつうじゃない。
歌が巧いとか、そういうのを超越している感じがする。
7/12(水)、ニューシングルリリース。
ブレイクするか・・・。
【お🍨し🍨ら🍨せ】7月12日(水)発売#吉澤嘉代子ニューシングル「#氷菓子」📀特典付きパッケージ(CD+DVD)📡デジタル配信映画 #アイスクリームフィーバー 主題歌https://t.co/mAunJ1tBJI pic.twitter.com/5S3oB8ZOVi
— 吉澤嘉代子のお知らせ (@kayokogadaisuki) May 9, 2023
■ 【吉澤嘉代子さん★東京ドームライブ「氷菓子」】●2023年6/4 巨人vs日本ハム
■ 吉澤嘉代子 - 泣き虫ジュゴン
遊佐未森をはじめて聴いたときと近いものを感じた。
■ 遊佐未森 - 潮見表
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■ 堀 優衣ちゃんのCM
【堀優衣】祈り・願いの叶う街 足利 第2弾CM【Yui Hori】
知性を感じる落ち着いた語りぶり。
イントネーションや滑舌に優れて、聞き取りやすい。
歌だけじゃなくナレーションも適任では?
足利は本当にいいところです。
美人弁天もあるし・・・。
そして渡良瀬橋。
💯⑭堀優衣 Yui Hori 『渡良瀬橋/(cover)森高千里』◆歌詞付き
■ 渡良瀬橋 - 森高千里
優衣ちゃんも巧く歌ってたけど、やっぱりこの曲は森高千里のワン&オンリーソングかな。
これだけの素晴らしいご当地ソングもっている街はそうそうない。
■ アイノカタチ/MISIA feat.HIDE(GReeeeN) (Covered by 堀優衣)《 TBS系 火曜ドラマ「義母と娘のブルース」主題歌 》 【歌ってみた】Full Cover フルカバー
↑ ハイトーンがますます繊細に、そしてうつくしくなっていると思う。
■ Jupiter / 平原綾香 (Covered by 堀優衣) 【歌ってみた】Full Cover フルカバー
確かな技倆のうえに感情が乗ってきている。
楽曲のよさを最大限に引き出せる素晴らしい才能。
やっばり全国区、いやワールドワイドで活躍してほしい。
知性を感じる落ち着いた語りぶり。
イントネーションや滑舌に優れて、聞き取りやすい。
歌だけじゃなくナレーションも適任では?
足利は本当にいいところです。
美人弁天もあるし・・・。
そして渡良瀬橋。
💯⑭堀優衣 Yui Hori 『渡良瀬橋/(cover)森高千里』◆歌詞付き
■ 渡良瀬橋 - 森高千里
優衣ちゃんも巧く歌ってたけど、やっぱりこの曲は森高千里のワン&オンリーソングかな。
これだけの素晴らしいご当地ソングもっている街はそうそうない。
■ アイノカタチ/MISIA feat.HIDE(GReeeeN) (Covered by 堀優衣)《 TBS系 火曜ドラマ「義母と娘のブルース」主題歌 》 【歌ってみた】Full Cover フルカバー
↑ ハイトーンがますます繊細に、そしてうつくしくなっていると思う。
■ Jupiter / 平原綾香 (Covered by 堀優衣) 【歌ってみた】Full Cover フルカバー
確かな技倆のうえに感情が乗ってきている。
楽曲のよさを最大限に引き出せる素晴らしい才能。
やっばり全国区、いやワールドワイドで活躍してほしい。
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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-2
Vol.-1Bからのつづきです。
■ 第4番 永峯山 瑠璃光寺 高福院(こうふくいん)
品川区上大崎2-13-36
高野山真言宗
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第4番
司元別当:誕生八幡神社(上大崎)
授与所:庫裡
当山の由緒沿革については、詳細な山内掲示(略縁起)があります。
高福院はもと高野山金剛峰寺の塔頭の一院とされます。
高野山開創の際、弘法大師は鎮守として山内各処に弁財天を祀られました。
高野山が疲弊して資糧が乏しくなったとき、弁天様が宝舟を引かれて来臨され山徒を救い給うたことから、その高福に因み高福院が建立されたといいます。
(高野山古図には、現在の金剛峰寺の右隣に高福院の名が見えるとのこと)
寛永年間(1624-1644年)、松平讃岐守侯は当地に下屋敷造営の際、讃岐の偉人である弘法大師の御寺建立の旨を高野山に要請しました。
これを受けて高野山高祖院の良尊和尚が、高福院の寺号と船引の弁天様さまを奉持され開創されたのが当院の縁起とされます。
開創当初は江戸に二箇所あった高野山在番所の控寺として、ゆかりの僧侶方の菩提所としても栄えたといいます。
しかし明和九年(1772年)、行人坂の大火ですべてが灰燼に帰してしまいました。
また、『寺社書上』には、大崎村長峰町、高野山門主無量寿院末、開山は阿遮●良尊(延宝三年(1675年)入滅)、中興開山は阿遮●實辨(宝暦十二年(1762年)入滅)、御本尊は大随求明王とあります。
大随求(だいずいく)明王は大随求菩薩とも呼ばれ、観世音菩薩の変化身とされます。
多くは関西の寺院で奉安され、江戸での奉安例は少ないかもしれません。
龍光山 正寶院(飛不動尊)公式Webには「苦厄を除き、悪を消す菩薩です。戦乱や嵐を治めることから子授けまで、幅広い功徳を持つ菩薩です。」とあります。
現在の本堂は、天保改革で知られる水野越前守忠邦侯が千駄ヶ谷穂田の屋敷内に建立、天保十五年(1844年)第十三世惠玉和尚が拝領して移築と伝わります。
明治の廃仏毀釈で一時疲弊したものの、歴代和尚の尽力により再興しています。
ことに目白僧園の雲照律師に提撕を受けられた第十五世浄識和尚は、お大師さまを背中に負うて托鉢しつつ布教され、多くの人々が檀家に加わったといいます。
雲照律師は、近衛文麿卿の父で第3代貴族院議長の近衞篤麿卿が東寺から招聘しているので、浄識和尚と近衛家もわかりがあったのかもしれません。
高田老松町に建立された目白僧園(雲照寺・吉祥院)は、のちに練馬・南田中に移転し、現在は雲照山 吉祥院 十善戒寺を号す真言宗東寺派寺院です。
目白僧園は、弘法大師の綜藝種智院の思想にならい、仏教精神に基づく庶民学校(十善徳教学校)とする予定でしたが諸般の事情により開設には至りませんでした。
しかし、弘法大師の綜藝種智院のお考え(身分貧富に関らず学べる総合的な教育施設の設立)は雲照律師から第十五世浄識和尚へと受け継がれ、この点からもお大師さまとのゆかりふかい寺院とみられます。
また、猫のあしあと様の『東京都寺社案内』記載の『東京都神社名鑑』によると、明治維新前、高福院はそばの誕生八幡神社の別当でした。
誕生八幡神社は太田道濯公による筑後・宇美八幡勧請が創祀とされているので、高福院は太田道濯公ともゆかりがあったことになります。
(なお、誕生八幡神社は下大崎の雉子神社の摂社ですが、現在御朱印は授与されていません。)
『寺社書上』には、「八幡宮別当 高福院」と明記され、『誕生八幡宮略縁起』が記されていることからも、誕生八幡神社の別当であったことが裏付けられます。
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【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 誕生八幡神社
住所は上大崎ですが、目黒駅にもほど近い白金側にあります。
このあたりは江戸時代、永峯六軒茶屋町と呼ばれましたが、白金方面からつづく馬の背状の尾根上にあるため「永峯」、目黒不動尊への参詣道にあたり茶屋が六軒あったので、このように呼ばれたといいます。
『東京23区凹凸地図』(昭文社)をみると、高福院はみごとに目黒駅東の台地上にのっており、そこから目黒駅を越え行人坂を下ると目黒不動尊に至ります。
(ちなみに、この『東京23区凹凸地図』は都内の高低差がばっちりわかるので、御府内霊場巡拝時に持参すると面白いです。)
【写真 上(左)】 寺号標と門柱
【写真 下(右)】 山内
目黒通りに面し、誕生八幡神社と並ぶかたちで参道入口。
参道は広くはないものの、門柱の先はそれなりの広さがあります。
【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 本堂
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
正面の本堂は入母屋造本瓦葺流れ向拝。
水引虹梁両端に木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に鶏の彫刻。
向拝は障子扉で見上げに院号扁額を掲げています。
御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、揮毫は「本尊 大日如来」「弘法大師」で札所印と寺院印が捺されています。
■ 第5番 金剛山 (寶幢寺) 延命院
(えんめいいん)
港区南麻布3-10-15
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第5番、御府内二十八不動霊場第28番
司元別当:赤羽稲荷社?
授与所:庫裡
寛永年間(1624-1643年)に應圓阿闍梨によって開基(法印秀圓(慶安三年(1605年 )寂)の開山とも)。
当初は麻布本村町内新町にありましたが、寶永年間(1704-1711年)、五世住職のときに当初に移転したようです。
寶永年間(1751-1764年)、御府内霊場の札所になったといい、文化八年(1811年)、当時の御住職が四国第5番札所地蔵寺から弘法大師御作の子安地蔵尊を遷したとも伝わります。
以前は三田の?赤羽稲荷社の別当であったという史料があります。
【史料】
■ 『麻布區史』
智山派、智積院末。本尊金剛界大日如来。草創の年代不詳『續府内備考』には本村の内新町と云ふ處に有ったのを寶永年間(1704-1711年)に現在の地へ移建したと記してゐる。開山は法印秀圓(慶安三年(1650年)九月二十三日寂)である。舊幕地代は赤羽稲荷の別當であった。大師堂は府内八十八ヶ所札所の第五番霊場になってゐる。寺内に寶禄稲荷と呼ぶ小祠がある。柔術家戸塚彦右衛門英證の墓がある。
■ 『寺社書上』
「本寺 醍醐三寶院直末 麻布本村町 新義真言宗 開闢起立の儀の年代不知 麻布本村町内新町から●所(略) 当寺五世寶永年中(1704-1711年)当所●時移し(略) 本尊金剛界大日如来 両祖大師(弘法大師 興教大師) 阿弥陀如来 地蔵尊 境内弁天堂 弁財天 不動尊」等の記述が見えます。
【 江戸期の延命院周辺 】 ※「延明寺」とあります。
※ 『江戸切絵図/麻布絵図』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了))から一部切り取り掲載
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【写真 上(左)】 入口
【写真 下(右)】 札所標-1
東京メトロ「白金高輪」駅から徒歩7分ほど。
「白金高輪」駅から寺下の明治通りにかけては低平地で、明治通りは東西に流れる渋谷川に沿って走っています。
「四の橋」あたりから北に絶江坂を登るとすぐ右手に見えてきます。
位置的には渋谷川から元麻布の高台への登り口にあたり、西側には「薬園坂の窪地」もあって複雑な地形です。
このあたりは寺町といってもいいほど寺院がたくさんありますが、札所は少なく御朱印授与寺も少なくなっています。
【写真 上(左)】 札所標-2
【写真 下(右)】 不動尊霊場の札所標
主門はフェンスで閉じられていますが、脇門から入れます。
門脇に建つ札所標には「第五番 子安●● 阿波國地蔵寺移 弘法大師之御作」とあります。
別に「御府内廿八ヶ所内 第廿八番 不動明王」の札所標がありますが、こちらは御府内二十八不動霊場第28番のものかと思われます。
寺号標にも「不動尊霊場第廿八番」とあるので間違いないかと思いますが、こちらの御朱印は授与されていない模様です。
「ニッポンの霊場」様Webによると、御府内二十八不動霊場の開創は明治42年。
初番は深川不動堂、第28番結願は当山になります。
『寺社書上』によると当山に立像の不動尊が奉安されていたのは確かですが、由緒等は記載されていません。
御府内二十八不動霊場には橋場不動尊、浅草寿不動尊、赤坂不動尊などのお不動様が名を連ねているので、結願の不動尊と定められたからには、開創時には著名な不動尊であったのかもしれません。
【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 山内
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 扁額
正面の本堂はおそらく入母屋造桟瓦葺妻入で妻側に切妻屋根の向拝を設けています。
なので、千鳥破風をふたつ重ねたようなめずらしい意匠となっています。
シンプルな水引虹梁。妻の拝みに猪の目懸魚。向拝上部に院号扁額を掲げています。
向かって右手の花頭窓が意匠的に効いています。
御朱印は庫裡にて拝受しますが、ご不在時には書置を拝受できる模様です。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、揮毫はお種子、「大日如来」「弘法大師」で札所印と寺院印が捺されています。
■ 第6番 五大山 不動院
(ふどういん)
港区六本木3-15-4
高野山真言宗
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第6番
司元別当:
授与所:堂内、もしくは大安楽寺(日本橋小伝馬町)
六本木にある古義真言宗寺院です。
開山縁起は詳らかでないですが、山内掲示の縁起書、下記の史料などから由緒来歴を追ってみます。
伝承では家康公入府以前の開山とされ、当初は麹町平川町(現在の赤坂御門跡「虎屋」付近)にありましたが、万治元年(1658年)官命により寺地を収公され、当時の住職で中野寶仙寺の住職を兼ねていた玄海法印が現在地(麻布六軒町)を代地として賜り移したといいます。
本寺は大和國長谷小池坊。
小池坊は天正十三年(1585年)、焼き討ちにあった紀州の根来寺の能化坊を豊臣秀長の招きを受け長谷寺に入られた専譽僧正が再興されたと伝わります。
『寺社書上』に当山が「新義真言宗」と記されているのは、このような本寺の由来によると思われます。(現在は古義真言宗系の高野山真言宗)
また、『御府内寺社備考』によると孔子とのゆかりもあったようです。
当地に移転した当初の境内地は狭隘だったため、玄海法印は幕府に願い出て、近隣の沼地を埋め立て境内拡張の旨の許可を得ました。
しかし、その沼地の池には悪蛇が棲みついて近隣の住民を悩ませていました。
玄海法印は先祖と仰ぐ武田信玄公が自らの甲冑に奉持していた十一面観世音菩薩を本地佛として稲荷大明神を勧請され、祈りを捧げてこの悪蛇を調伏しました。
人々は玄海法印の験力に驚嘆し、こぞって帰依して沼地の埋め立てに協力したそうです。
また、近隣の女性が「麹町にあった不動院の鎮守神を当地の不動院にも祀り鎮守とせよ」との稲荷大明神のお告げを受け、兒稲荷大明神が祀られたという伝承もあります。
この伝承については、『兒稲荷大明神縁起』に詳細が記されています。
武田信玄公の信仰佛としては不動明王、毘沙門天、薬師如来などが知られていますが、十一面観世音菩薩は筆者の知る限りでは初出で、これは貴重な情報かもしれません。
(関連記事:【 信玄公の戦勝祈願依頼文 】)
江戸時代には「麻布不動坂の一願不動さん」「六軒町の目黄不動」とも呼ばれ、広く庶民の信仰を集めたといいます。
「江戸五色不動」の目黄不動尊は、平井の最勝寺と三ノ輪の永久寺とされていますが、当山を目黄不動尊とする説もあるようです。
もともとの目青不動尊と伝わる麻布谷町にあった勧行寺(ないし正善寺)に近いため、こちらとの関連を示唆する説もみられます。
明治の初年、不動院の住職は日本橋小伝馬町の牢獄跡地の浄化を祈念し、寺院建立を発願。
大倉財閥、安田財閥などの支援を受け、大安楽寺を創建しました。
大安楽寺は高野山真言宗準別格本山の格式ですから、当山も相応の寺格を有していることがうかがえます。
【史料】
■ 『麻布區史』
五大山不動院 市兵衛町二ノ五七
古義眞言宗高野派 金剛峯寺末。本尊不動明王。創立も開山も明らかでないが、萬治元年(1658年)に麹町平川の邊から移って来たと云ふ。中興開山は玄海。境内にもと兒(チゴ)稲荷(本地佛十一面観音 銅像)と呼ぶ小祠があり、非常に栄えていゐたが明治二年神佛分離で廢棄された。
■ 『寺社書上』
大和國長谷小池坊末 麻布六軒町 新義真言宗 旧地●麹町平川町 開山開闢●●●旧記も無し 中興 玄海法印武州中野村宝仙寺の住職●麹町の不動院致兼(略) 旧地麹町平川に有し(略)万治元年(1658年)当地に引移す 本尊不動明王 脇立 矜羯羅童子 脇立 制吒迦童子 右不動尊は弘法大師の作と●伝(略) 四大明王 普賢菩薩 弘法大師 鎮守堂(兒稲荷大明神 本地佛十一面観世音菩薩 武田信玄公甲冑に納●を当院中興玄海法印は武田家由緒し者故 持念佛を鎮守し本地佛を勧請)(略) 弁財天」
(兒稲荷大明神縁起 不動院)
不動院之兒稲荷神社ハ者本地十一面観世音 其古当院ノ中祖玄海法印住職●武江中野ノ寶仙寺以兼セリ 麹町不動院然ルニ 玄海俗姓武田家ノ末葉ナルカ故ニ 信玄公公所ノ帯スル甲冑ニ十一面観世音ノ尊像 玄海傳得之如●為●神社本地佛ト而常ニ信仰シヌ
■ 『御府内寺社備考』
不動堂ハ往古麹町栖岸院にありし 寛永の頃当院へ移●俗人云往昔孔子堂といふ 孟子乃不動●●を本尊とし孔子堂といふ 近年孔子山五臺山といふ
【 江戸期の不動院周辺 】
※ 『江戸切絵図/赤坂絵図』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了))から一部切り取り掲載
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都内有数のエンタメエリア・六本木は実はさりげに寺院が多く、裏通りに入ると一種の寺町の様相を呈しています。
なかでもロアビル角の「六本木五丁目」交差点を北に下った窪地「共同墓地の窪地」には六本木墓苑があり、華やかな六本木の一画とは思えない異次元感を発しています。
六本木は土地の起伏の激しいところで、東の溜池方面から青山(六本木)通り沿いに走る低地は「共同墓地の窪地」に至り、南の麻布十番方面から入る旧吉野川の谷筋は「北日ヶ窪」と呼ばれ、芋洗坂を経て六本木駅に至ります。
(この「北日ヶ窪」には北日ヶ窪団地がありましたが、再開発で六本木ヒルズに生まれかわっています。)
六本木通りは市三坂をのぼって「六本木」駅の高台に至り、外苑東通りは一貫して尾根筋、六本木ヒルズ前の麻布十番通りは一貫して谷筋を走ります。
この起伏の激しさは麻布十番通りが六本木通りを麻布トンネルでアンダーパスしていることからもわかります。
なんだかタモリ氏のようになってきたので(笑)、本題に戻ります。
【写真 上(左)】 不動坂と不動院
【写真 下(右)】 外観
不動院は六本木墓苑の窪地から不動坂をのぼった途中右手にあります。
上の伝承にある沼地とは、この「共同墓地の窪地」を指しているのでは。
「六本木」駅から近いですが、アクセスは「六本木一丁目」駅からの方が楽かもしれません。
不動坂まわりは住宅街で、不動院はこの細い不動坂に面した平成11年(1999年)建立の3階建のビル内にあります。
外観は瀟洒なビルですが、3階に掲げられた金色の「真言宗輪宝」、1階エントランス(向拝)の山号扁額、そして「五大山 不動院」と刻まれた門柱が、歴とした寺院であることを示しています。
【写真 上(左)】 不動明王
【写真 下(右)】 稲荷神
館外向かって右には蓮の葉に囲まれた石造の不動明王立像(御前立?)
その横には赤い鳥居の稲荷神が祀られています。
鳥居扁額の文字が薄くて確信はもてないのですが、境内縁起書には「二月初午 児稲荷大明神初午祭(商売繁盛・火坊の祈願を致します)」とあるので、こちらは由緒ある兒稲荷大明神かもしれません。
【写真 上(左)】 エントランス(向拝)
【写真 下(右)】 扁額
エントランス(向拝)は格子ガラスの扉で、見上げに山号扁額。左右に不動明王の御真言と御府内霊場の札番&御詠歌が掲げられています。
【写真 上(左)】 御真言
【写真 下(右)】 札番&御詠歌
エントランスは通常は閉まっていますが28日の御縁日など、特定の日は開かれていることがあります。
通常は、御朱印は日本橋小伝馬町の大安楽寺でいただくことになりますが、開扉日はこちらで拝受できます。
開扉日は荘厳な堂内まで上げていただけ、お不動様に間近で参拝できるので、日を選んでの参拝がベターかと思います。
(ただしお不動様は、中央のお厨子のなかに御座のようです。)
現在は不明ですが、新型コロナ禍前には28日に月並祈願会が勤修され、年に何日かは「不動院寄席」が催されていたようです。
第5番までは比較的寺院らしいたたずまいでしたが、こちら第6番は近代的なビルで都会の寺院ならではのイメージ。
さすがに東京の霊場、御府内霊場の札所です。
〔 御府内霊場の御朱印 〕 ※いずれも不動院で開扉時に拝受。
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は金剛界大日如来のお種子「カーン/カン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、揮毫はお種子、「不動明王」で札所印、「南無大師遍照金剛」の印と寺院印が捺されています。
■ 第7番 源秀山 永松院 室泉寺
(しつせんじ)
渋谷区東3-8-16
高野山真言宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第7番、弁財天百社参り第27番
司元別当:
授与所:庫裡
『札所めぐり』および『新編武蔵風土記稿』より、縁起由緒をまとめてみます。
当初は真宗西本願寺末の真宗寺院として芝金杉にありました。
元禄十三年(1700年)旗本松平外記忠益が当所にあった抱屋敷を和泉国神鳳寺中興の快圓(恵空)比丘(和上)に寄附してここに引移し、真言律宗に改宗して神鳳寺の宿寺としたといいます。中興開基は松平外記忠益、開山は快圓(恵空)比丘。
元禄十三年(1694年)快圓和上により開山、元禄十三年(1700年)五代将軍綱吉公の発願により開山という伝承もあるようです。
松平外記忠益は、五井松平家(現在の愛知県蒲郡市五井町を発祥とする松平氏庶流)9代の松平忠益と思われます。『Wikipedia』によると、父の松平伊耀は五千五百石の大身の旗本(寄合)で下総国海上郡飯沼に二千石の知行地をもち飯沼陣屋の主。
忠益はその家督を継いだとあるので、やはり大身の旗本であったと思われます。
縁起由緒からすると、松平忠益と和泉国神鳳寺の間には密接な関係があったと思われますが、Webからは追い切れませんでした。
また、五井松平家の菩提寺は銚子にある等覚寺で曹洞宗。
なので五井松平家と真言律宗に格別のゆかりがあったということも考えにくいです。
和泉国神鳳寺は、和泉国一宮の大鳥大社(大阪府堺市西区鳳北町)の別当であった大鳥山勧学院神鳳寺とみられます。
開山は和銅元年(708年)とも伝わる古刹で、快圓恵空が入り寺勢を拡大したといいます。
『江戸仏教の戒律思想(一)』(上田霊城氏、PDF)には、「真政円忍、快円恵空(1622-1712年)によって大鳥神鳳寺派が成立し、同派の玄忍慧海を証明として受具した覚彦浄厳が真言律宗を唱え、生駒宝山寺宝山湛海、円珠庵契沖も夫々真政・快円について受具している。」とあり、快圓恵空が真言律宗の成立において重要な役割を果たされていたことがわかります。
江戸における真言律宗は、浄厳律師覚彦が創建した湯島霊雲寺を総本山とする真言宗霊雲寺派への流れと、その他の真言宗派への流れがみられます。
室泉寺は真言律宗の寺院として再興されましたが、現在は古義の高野山真言宗に属しています。
しかし、『新編武蔵風土記稿』には「江戸湯嶋霊雲寺末」とあり、法統について複雑な経緯があったのかもしれません。
【史料】
■ 『新編武蔵風土記稿』
真言律宗 和泉國一ノ宮大島山神鳳寺宿寺ニテ 江戸湯嶋霊雲寺末ナリ 源秀山永松院ト号ス 当寺昔は芝金杉ニアリ 浄土真宗西本願寺末ニテ 同所壽林寺ヨリ兼帯セシヲ 元禄十三年(1700年)九月旗下ノ士松平外記忠益当所ノ抱屋敷ヲ 神鳳寺中興快圓比丘ニ寄附シ 彼寺名ヲ爰ニ引移シ 改宗シテ宿寺トナセリ 故ニ忠益ヲ開基トス(略)開山快圓ハ正徳二年(1712年)二月八日寂 本尊は彌陀 脇士ニ観音地蔵ヲ安ス
護摩堂 不動立像長二尺七寸 愛染坐像長二尺五寸ナルヲ安ス 共ニ南都招提寺開山鑑真和尚ノ弟子支卓律師ノ作ト云
鎮守社 金毘羅 大鳥明神、住吉
辨天堂
【 江戸期の室泉寺周辺 】
※ 『江戸切絵図/青山渋谷絵図』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了))から一部切り取り掲載
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【写真 上(左)】 山門下
【写真 下(右)】 山門
「恵比寿」駅から5分ほどの住宅街のなかにあります。
渋谷川沿いの低地から広尾・青山の台地にさしかかるこのあたりにはいくつかの寺院が点在しています。
やや奥まった立地で、山内は落ち着いた雰囲気です。
街路から数段のぼった山門は切妻屋根桟瓦葺のおそらく薬医門で左右に門塀をめぐらし、見上げに山号扁額。
【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 鐘楼
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 源秀地蔵堂
山内には大聖歓喜天堂、源秀地蔵堂、そして地主神とみられる稲荷神のお社。
源秀地蔵尊は、身体健全に霊験あらたかと伝わります。
【写真 上(左)】 稲荷神
【写真 下(右)】 御府内霊場札所碑
【写真 上(左)】 修行大師像と山内
【写真 下(右)】 修行大師像
端正な修行弘法大師像が御座され、塔状の立派な札所碑もありました。
お砂踏み場よこの築山は高野山を模しているそうです。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
本堂は宝形造ないし寄棟造銅板葺で身舎は朱色に彩られて華やかな印象。
向拝柱はなく比較的シンプルなつくりです。
真言律宗系の寺院の御本尊は大日如来が多いですが、こちらの御本尊は阿弥陀如来です。
御朱印は、庫裡にて拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は阿弥陀如来のお種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、揮毫はお種子、「阿弥陀如来」で札所印と寺院印が捺されています。
■ 第8番 海岳山 大乗院 長遠寺
(ちょうおんじ)
大田区南馬込5-2-10
真言宗智山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:玉川八十八ヶ所霊場第72番、大東京百観音霊場第43番、多摩川四郡八十八ヶ所霊場第78番、武相四十八ヶ所不動尊霊場第11番
司元別当:馬込村八幡社ほか
授与所:寺務所
大田区馬込にある名刹で、複数の札所を兼務されています。
寺伝によると、馬込村字堂寺の地に天仁元年(1108年)宥尊上人が開山草創。
(『新編武蔵風土記稿』には、村の旧記として定海という僧(元弘二年(1332年)寂)が草創とあり。)
文亀二年(1502年)火災に遭い当地に移転、元禄年間(1688-1704年)に快慶法印が中興と伝わります。
御本尊の不動明王は、馬込不動尊として広く知られています。
行基菩薩の御作と伝わる木造十一面観音菩薩立像(通称「鎌作観世音」)は、大田区の文化財に指定されています。
山内掲出の観音様の説明書に「もと上大崎六軒茶屋の光雲寺にあった」とあること、府外の馬込にあることが気になり、江戸八十八ヶ所霊場第8番を当たってみると、第8番はまさに六軒茶屋の盤谷山光雲寺でした。
光雲寺は『寺社書上』に収録されており、場所は(白金)六軒茶屋町、宗派は新義真言宗、馬込村長遠寺末とあります。
光雲寺は明治8年(1875年)廃寺となっています。
江戸期の江戸八十八ヶ所第8番ないし御府内霊場第8番光雲寺の札所本尊はおそらく御本尊の千手観世音菩薩であったと考えられ、明治8年(1875年)光雲寺が廃寺となった際に、御本尊の千手観世音菩薩は本寺の馬込長遠寺に遷られ、同時に御府内霊場第8番札所も長遠寺に替わったのではないでしょうか。
御府内霊場の札所本尊は御本尊の例がほとんどですから、そのときに第8番の札所本尊は長遠寺の御本尊である不動明王に替わったのでは。
ただし、行基菩薩作とも伝わる光雲寺の御本尊・千手観世音菩薩は長遠寺でも「鎌作観世音」として手篤く奉安され、現在も人々の信仰を集めているのではないでしょうか。
『江戸名所図会』には、こちらの千手観世音菩薩は行基菩薩が巡錫先の信州更級郡で天人が鎌をもって彫刻し、行基菩薩に授けたものとあります。
また、行基菩薩が巡錫先の信州更級郡で一刀三礼してみずから鎌斧で彫り上げられた尊像という伝えもあり、「鎌作(かまつくり)観世音」と尊称されています。
『御府内寺社備考』には、光雲寺には行基菩薩が使われた鎌斧が寺宝として所蔵されているとあります。
「鎌作観世音」は大田区の文化財に指定。
山内説明板には平安時代十世紀頃の作と考えられ、もとは千手観世音菩薩と考えられるが千手を失い、文化財登録としては十一面観世音菩薩立像とされていること、もと上大崎六軒茶屋の光雲寺にあったが、明治初年に廃寺の際、長遠寺に移されたことなどが記されています。
品川区のWeb資料には「(目黒不動尊へ行く「目黒道」「白金通り」)の道筋の六軒茶屋町(現在の上大崎2・3丁目の目黒通り沿い)には、鎌作り観音・光雲寺(明治8年〔1875年〕に廃寺となる)がありました。鎌作り観音から同じ道沿いの永峯町には誕生八幡宮(現在の誕生八幡神社)と別当寺の高福院がありました。この3つの社寺は一緒に挿絵に描かれています。」とあり、江戸八十八ヶ所第8番の光雲寺は、同第4番高福院のそばにあったようです。
(「『江戸名所図会』を読む」様のWebにて詳しく解説されており、光雲寺は高福院のほぼ隣にあったことがわかります。)
【 光雲寺と高福院、行人坂(目黒不動尊方向)の位置関係 】
※ 『江戸切絵図/目黒白金辺図』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了))から一部切り取り掲載
六軒茶屋町は御府内で『寺社書上』に記載され、馬込は府外で『新編武蔵風土記稿』に収録されています。
こうしてみると、御府内霊場の札所はやはり原則御府内で、現在、旧府外にある札所は移転統合など、なんらかの変遷を辿った例が多いのではないでしょうか。
【史料】
■ 『新編武蔵風土記稿』
除地六畝 (馬込村八幡社)社地ノ北ニ隣レリ 新義真言宗 山城國醍醐三寶院ノ末 海岳山大乗院トと号ス 村ノ舊記ニ定海ト云僧 当寺ヲ草創シテ後元弘二年(1332年)ニ寂セリト見ユ サレハ此人開山ナルヘシ 今寺ニテ開山トスルハ定尊法印ナリ 此法印其事歴寂年ヲ傳へサレハ 何ノ頃トモ云カタケレト 思フニ中興ノ僧ナルニヤ 後元禄(1688-1704年)ノ頃快慶法印ト云僧ノ住シ時 当寺ヲ興記(ママ)シテ檀林寺格トセシニヨリ 今ハ此法印ヲ中興開基トス(略) 本尊不動尊ノ座像ヲ安ス 門ハ客殿ノ正面ニアリ海岳山ノ三字ヲ扁ス
■ 『寺社書上』
(光雲寺)
馬込村長遠寺末 六軒茶屋町 盤谷山 光雲寺 新義真言宗
本尊 千手観世音菩薩 立像丈三尺 但行基菩薩作 延宝八年六月三日信州更級郡梵天平山盤谷山出現千手観音 元禄五年定光雲寺右●奉納石室内●縁起 開山光雲次第書(略)
■ 『御府内寺社備考』
起立ノ儀●元禄五年十一月中意運(略)草創 開山権大僧都智●意運 寺寶 鎌一挺 斧一挺 右ハ行基菩薩●●し●右を以本尊千手観音彫刻し●
■ 『江戸名所図会』
(鎌作観世音)
(妙見大菩薩)西の方一町半斗 向ふ側 六軒茶屋町の角 真言宗光雲寺にあり 相傳ふ 神亀年間(724-729年)行基菩薩諸国遊化の頃 信州更級に始て掛錫し●●ふに 平山と云ふところの池中より 此本尊出現あ● 又空中より化人あらはれ 鎌と御衣●を持ちて降臨し●ひ 彼観音の尊像を彫刻し行基に授け●ふ 此本尊是なり
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最寄りは都営浅草線「西馬込」駅。
第二京浜に面した区画ですが、山門は第二京浜の反対側からまわりこむかたちで、周囲は落ち着いたたたずまいです。
向かって左手に馬込八幡神社が御鎮座。
旧馬込村総鎮守で旧村社。岩清水八幡宮の分霊を勧請して創祀され、江戸期は長遠寺が別当でした。
馬込村総鎮守だけあって神さびた境内。御朱印は授与されていないとの掲示がありました。
【写真 上(左)】 馬込八幡神社
【写真 下(右)】 馬込八幡神社の掲示
【写真 上(左)】 門柱から
【写真 下(右)】 山門
長遠寺は広い寺地をもち、名刹にふさわしいたたずまいをみせています。
街路からまずは門柱、左右駐車場の参道の先に、両脇に板塀を配した切妻屋根銅板葺の重厚な山門。
控柱が4本あるので四脚門にも見えますが、おそらく医薬門ないし高麗門かと思われます。
見上げに山号扁額、右門柱に文字が消えかかった札所板が掲げられていますが、かすかに「七十二番札所」と読めるので、これは玉川八十八ヶ所霊場の札所板と思われます。
【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 玉川霊場札所板
こちらは御府内霊場、玉川霊場いずれの御朱印も授与されていますが、それぞれ系統の異なる弘法大師霊場なので、玉川霊場の巡拝は改めた方がベターかと思います。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 御府内霊場札所碑
山内は広々と明るく清掃が行き届き、気持ちのよい参拝ができます。
「新大田区百景」にも選ばれています。
参道脇には御府内霊場の立派な札所石碑がありました。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
正面が本堂。
寄棟造銅板葺で瓦葺の向拝を附設した、やや変わった意匠です。
水引虹梁両端に見返り獅子の見事な木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に霊鳥の彫刻を配して整った意匠です。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 見事な木鼻
【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 玉川霊場の奉納額
本堂軒下には、多摩川(玉川)八十八ヶ所霊場の奉納額が掲げられています。
メジャー霊場2つの札所を兼ねられているため、ご対応は手慣れておられ、またとてもご親切です。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳-1
主印は三寶印、揮毫は「本尊 不動明王」「弘法大師」で札所印と寺院印が捺されています。
〔 玉川八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
内容は御府内霊場とほぼ同様です。
以下、つづきます。
(→ Vol.-3)
【 BGM 】
■ 夢の大地 - Kalafina
■ 桜 - 中村舞子
■ 栞 - 天野月 feat.YURiCa/花たん
■ 第4番 永峯山 瑠璃光寺 高福院(こうふくいん)
品川区上大崎2-13-36
高野山真言宗
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第4番
司元別当:誕生八幡神社(上大崎)
授与所:庫裡
当山の由緒沿革については、詳細な山内掲示(略縁起)があります。
高福院はもと高野山金剛峰寺の塔頭の一院とされます。
高野山開創の際、弘法大師は鎮守として山内各処に弁財天を祀られました。
高野山が疲弊して資糧が乏しくなったとき、弁天様が宝舟を引かれて来臨され山徒を救い給うたことから、その高福に因み高福院が建立されたといいます。
(高野山古図には、現在の金剛峰寺の右隣に高福院の名が見えるとのこと)
寛永年間(1624-1644年)、松平讃岐守侯は当地に下屋敷造営の際、讃岐の偉人である弘法大師の御寺建立の旨を高野山に要請しました。
これを受けて高野山高祖院の良尊和尚が、高福院の寺号と船引の弁天様さまを奉持され開創されたのが当院の縁起とされます。
開創当初は江戸に二箇所あった高野山在番所の控寺として、ゆかりの僧侶方の菩提所としても栄えたといいます。
しかし明和九年(1772年)、行人坂の大火ですべてが灰燼に帰してしまいました。
また、『寺社書上』には、大崎村長峰町、高野山門主無量寿院末、開山は阿遮●良尊(延宝三年(1675年)入滅)、中興開山は阿遮●實辨(宝暦十二年(1762年)入滅)、御本尊は大随求明王とあります。
大随求(だいずいく)明王は大随求菩薩とも呼ばれ、観世音菩薩の変化身とされます。
多くは関西の寺院で奉安され、江戸での奉安例は少ないかもしれません。
龍光山 正寶院(飛不動尊)公式Webには「苦厄を除き、悪を消す菩薩です。戦乱や嵐を治めることから子授けまで、幅広い功徳を持つ菩薩です。」とあります。
現在の本堂は、天保改革で知られる水野越前守忠邦侯が千駄ヶ谷穂田の屋敷内に建立、天保十五年(1844年)第十三世惠玉和尚が拝領して移築と伝わります。
明治の廃仏毀釈で一時疲弊したものの、歴代和尚の尽力により再興しています。
ことに目白僧園の雲照律師に提撕を受けられた第十五世浄識和尚は、お大師さまを背中に負うて托鉢しつつ布教され、多くの人々が檀家に加わったといいます。
雲照律師は、近衛文麿卿の父で第3代貴族院議長の近衞篤麿卿が東寺から招聘しているので、浄識和尚と近衛家もわかりがあったのかもしれません。
高田老松町に建立された目白僧園(雲照寺・吉祥院)は、のちに練馬・南田中に移転し、現在は雲照山 吉祥院 十善戒寺を号す真言宗東寺派寺院です。
目白僧園は、弘法大師の綜藝種智院の思想にならい、仏教精神に基づく庶民学校(十善徳教学校)とする予定でしたが諸般の事情により開設には至りませんでした。
しかし、弘法大師の綜藝種智院のお考え(身分貧富に関らず学べる総合的な教育施設の設立)は雲照律師から第十五世浄識和尚へと受け継がれ、この点からもお大師さまとのゆかりふかい寺院とみられます。
また、猫のあしあと様の『東京都寺社案内』記載の『東京都神社名鑑』によると、明治維新前、高福院はそばの誕生八幡神社の別当でした。
誕生八幡神社は太田道濯公による筑後・宇美八幡勧請が創祀とされているので、高福院は太田道濯公ともゆかりがあったことになります。
(なお、誕生八幡神社は下大崎の雉子神社の摂社ですが、現在御朱印は授与されていません。)
『寺社書上』には、「八幡宮別当 高福院」と明記され、『誕生八幡宮略縁起』が記されていることからも、誕生八幡神社の別当であったことが裏付けられます。
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【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 誕生八幡神社
住所は上大崎ですが、目黒駅にもほど近い白金側にあります。
このあたりは江戸時代、永峯六軒茶屋町と呼ばれましたが、白金方面からつづく馬の背状の尾根上にあるため「永峯」、目黒不動尊への参詣道にあたり茶屋が六軒あったので、このように呼ばれたといいます。
『東京23区凹凸地図』(昭文社)をみると、高福院はみごとに目黒駅東の台地上にのっており、そこから目黒駅を越え行人坂を下ると目黒不動尊に至ります。
(ちなみに、この『東京23区凹凸地図』は都内の高低差がばっちりわかるので、御府内霊場巡拝時に持参すると面白いです。)
【写真 上(左)】 寺号標と門柱
【写真 下(右)】 山内
目黒通りに面し、誕生八幡神社と並ぶかたちで参道入口。
参道は広くはないものの、門柱の先はそれなりの広さがあります。
【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 本堂
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
正面の本堂は入母屋造本瓦葺流れ向拝。
水引虹梁両端に木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に鶏の彫刻。
向拝は障子扉で見上げに院号扁額を掲げています。
御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、揮毫は「本尊 大日如来」「弘法大師」で札所印と寺院印が捺されています。
■ 第5番 金剛山 (寶幢寺) 延命院
(えんめいいん)
港区南麻布3-10-15
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第5番、御府内二十八不動霊場第28番
司元別当:赤羽稲荷社?
授与所:庫裡
寛永年間(1624-1643年)に應圓阿闍梨によって開基(法印秀圓(慶安三年(1605年 )寂)の開山とも)。
当初は麻布本村町内新町にありましたが、寶永年間(1704-1711年)、五世住職のときに当初に移転したようです。
寶永年間(1751-1764年)、御府内霊場の札所になったといい、文化八年(1811年)、当時の御住職が四国第5番札所地蔵寺から弘法大師御作の子安地蔵尊を遷したとも伝わります。
以前は三田の?赤羽稲荷社の別当であったという史料があります。
【史料】
■ 『麻布區史』
智山派、智積院末。本尊金剛界大日如来。草創の年代不詳『續府内備考』には本村の内新町と云ふ處に有ったのを寶永年間(1704-1711年)に現在の地へ移建したと記してゐる。開山は法印秀圓(慶安三年(1650年)九月二十三日寂)である。舊幕地代は赤羽稲荷の別當であった。大師堂は府内八十八ヶ所札所の第五番霊場になってゐる。寺内に寶禄稲荷と呼ぶ小祠がある。柔術家戸塚彦右衛門英證の墓がある。
■ 『寺社書上』
「本寺 醍醐三寶院直末 麻布本村町 新義真言宗 開闢起立の儀の年代不知 麻布本村町内新町から●所(略) 当寺五世寶永年中(1704-1711年)当所●時移し(略) 本尊金剛界大日如来 両祖大師(弘法大師 興教大師) 阿弥陀如来 地蔵尊 境内弁天堂 弁財天 不動尊」等の記述が見えます。
【 江戸期の延命院周辺 】 ※「延明寺」とあります。
※ 『江戸切絵図/麻布絵図』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了))から一部切り取り掲載
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【写真 上(左)】 入口
【写真 下(右)】 札所標-1
東京メトロ「白金高輪」駅から徒歩7分ほど。
「白金高輪」駅から寺下の明治通りにかけては低平地で、明治通りは東西に流れる渋谷川に沿って走っています。
「四の橋」あたりから北に絶江坂を登るとすぐ右手に見えてきます。
位置的には渋谷川から元麻布の高台への登り口にあたり、西側には「薬園坂の窪地」もあって複雑な地形です。
このあたりは寺町といってもいいほど寺院がたくさんありますが、札所は少なく御朱印授与寺も少なくなっています。
【写真 上(左)】 札所標-2
【写真 下(右)】 不動尊霊場の札所標
主門はフェンスで閉じられていますが、脇門から入れます。
門脇に建つ札所標には「第五番 子安●● 阿波國地蔵寺移 弘法大師之御作」とあります。
別に「御府内廿八ヶ所内 第廿八番 不動明王」の札所標がありますが、こちらは御府内二十八不動霊場第28番のものかと思われます。
寺号標にも「不動尊霊場第廿八番」とあるので間違いないかと思いますが、こちらの御朱印は授与されていない模様です。
「ニッポンの霊場」様Webによると、御府内二十八不動霊場の開創は明治42年。
初番は深川不動堂、第28番結願は当山になります。
『寺社書上』によると当山に立像の不動尊が奉安されていたのは確かですが、由緒等は記載されていません。
御府内二十八不動霊場には橋場不動尊、浅草寿不動尊、赤坂不動尊などのお不動様が名を連ねているので、結願の不動尊と定められたからには、開創時には著名な不動尊であったのかもしれません。
【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 山内
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 扁額
正面の本堂はおそらく入母屋造桟瓦葺妻入で妻側に切妻屋根の向拝を設けています。
なので、千鳥破風をふたつ重ねたようなめずらしい意匠となっています。
シンプルな水引虹梁。妻の拝みに猪の目懸魚。向拝上部に院号扁額を掲げています。
向かって右手の花頭窓が意匠的に効いています。
御朱印は庫裡にて拝受しますが、ご不在時には書置を拝受できる模様です。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、揮毫はお種子、「大日如来」「弘法大師」で札所印と寺院印が捺されています。
■ 第6番 五大山 不動院
(ふどういん)
港区六本木3-15-4
高野山真言宗
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第6番
司元別当:
授与所:堂内、もしくは大安楽寺(日本橋小伝馬町)
六本木にある古義真言宗寺院です。
開山縁起は詳らかでないですが、山内掲示の縁起書、下記の史料などから由緒来歴を追ってみます。
伝承では家康公入府以前の開山とされ、当初は麹町平川町(現在の赤坂御門跡「虎屋」付近)にありましたが、万治元年(1658年)官命により寺地を収公され、当時の住職で中野寶仙寺の住職を兼ねていた玄海法印が現在地(麻布六軒町)を代地として賜り移したといいます。
本寺は大和國長谷小池坊。
小池坊は天正十三年(1585年)、焼き討ちにあった紀州の根来寺の能化坊を豊臣秀長の招きを受け長谷寺に入られた専譽僧正が再興されたと伝わります。
『寺社書上』に当山が「新義真言宗」と記されているのは、このような本寺の由来によると思われます。(現在は古義真言宗系の高野山真言宗)
また、『御府内寺社備考』によると孔子とのゆかりもあったようです。
当地に移転した当初の境内地は狭隘だったため、玄海法印は幕府に願い出て、近隣の沼地を埋め立て境内拡張の旨の許可を得ました。
しかし、その沼地の池には悪蛇が棲みついて近隣の住民を悩ませていました。
玄海法印は先祖と仰ぐ武田信玄公が自らの甲冑に奉持していた十一面観世音菩薩を本地佛として稲荷大明神を勧請され、祈りを捧げてこの悪蛇を調伏しました。
人々は玄海法印の験力に驚嘆し、こぞって帰依して沼地の埋め立てに協力したそうです。
また、近隣の女性が「麹町にあった不動院の鎮守神を当地の不動院にも祀り鎮守とせよ」との稲荷大明神のお告げを受け、兒稲荷大明神が祀られたという伝承もあります。
この伝承については、『兒稲荷大明神縁起』に詳細が記されています。
武田信玄公の信仰佛としては不動明王、毘沙門天、薬師如来などが知られていますが、十一面観世音菩薩は筆者の知る限りでは初出で、これは貴重な情報かもしれません。
(関連記事:【 信玄公の戦勝祈願依頼文 】)
江戸時代には「麻布不動坂の一願不動さん」「六軒町の目黄不動」とも呼ばれ、広く庶民の信仰を集めたといいます。
「江戸五色不動」の目黄不動尊は、平井の最勝寺と三ノ輪の永久寺とされていますが、当山を目黄不動尊とする説もあるようです。
もともとの目青不動尊と伝わる麻布谷町にあった勧行寺(ないし正善寺)に近いため、こちらとの関連を示唆する説もみられます。
明治の初年、不動院の住職は日本橋小伝馬町の牢獄跡地の浄化を祈念し、寺院建立を発願。
大倉財閥、安田財閥などの支援を受け、大安楽寺を創建しました。
大安楽寺は高野山真言宗準別格本山の格式ですから、当山も相応の寺格を有していることがうかがえます。
【史料】
■ 『麻布區史』
五大山不動院 市兵衛町二ノ五七
古義眞言宗高野派 金剛峯寺末。本尊不動明王。創立も開山も明らかでないが、萬治元年(1658年)に麹町平川の邊から移って来たと云ふ。中興開山は玄海。境内にもと兒(チゴ)稲荷(本地佛十一面観音 銅像)と呼ぶ小祠があり、非常に栄えていゐたが明治二年神佛分離で廢棄された。
■ 『寺社書上』
大和國長谷小池坊末 麻布六軒町 新義真言宗 旧地●麹町平川町 開山開闢●●●旧記も無し 中興 玄海法印武州中野村宝仙寺の住職●麹町の不動院致兼(略) 旧地麹町平川に有し(略)万治元年(1658年)当地に引移す 本尊不動明王 脇立 矜羯羅童子 脇立 制吒迦童子 右不動尊は弘法大師の作と●伝(略) 四大明王 普賢菩薩 弘法大師 鎮守堂(兒稲荷大明神 本地佛十一面観世音菩薩 武田信玄公甲冑に納●を当院中興玄海法印は武田家由緒し者故 持念佛を鎮守し本地佛を勧請)(略) 弁財天」
(兒稲荷大明神縁起 不動院)
不動院之兒稲荷神社ハ者本地十一面観世音 其古当院ノ中祖玄海法印住職●武江中野ノ寶仙寺以兼セリ 麹町不動院然ルニ 玄海俗姓武田家ノ末葉ナルカ故ニ 信玄公公所ノ帯スル甲冑ニ十一面観世音ノ尊像 玄海傳得之如●為●神社本地佛ト而常ニ信仰シヌ
■ 『御府内寺社備考』
不動堂ハ往古麹町栖岸院にありし 寛永の頃当院へ移●俗人云往昔孔子堂といふ 孟子乃不動●●を本尊とし孔子堂といふ 近年孔子山五臺山といふ
【 江戸期の不動院周辺 】
※ 『江戸切絵図/赤坂絵図』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了))から一部切り取り掲載
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都内有数のエンタメエリア・六本木は実はさりげに寺院が多く、裏通りに入ると一種の寺町の様相を呈しています。
なかでもロアビル角の「六本木五丁目」交差点を北に下った窪地「共同墓地の窪地」には六本木墓苑があり、華やかな六本木の一画とは思えない異次元感を発しています。
六本木は土地の起伏の激しいところで、東の溜池方面から青山(六本木)通り沿いに走る低地は「共同墓地の窪地」に至り、南の麻布十番方面から入る旧吉野川の谷筋は「北日ヶ窪」と呼ばれ、芋洗坂を経て六本木駅に至ります。
(この「北日ヶ窪」には北日ヶ窪団地がありましたが、再開発で六本木ヒルズに生まれかわっています。)
六本木通りは市三坂をのぼって「六本木」駅の高台に至り、外苑東通りは一貫して尾根筋、六本木ヒルズ前の麻布十番通りは一貫して谷筋を走ります。
この起伏の激しさは麻布十番通りが六本木通りを麻布トンネルでアンダーパスしていることからもわかります。
なんだかタモリ氏のようになってきたので(笑)、本題に戻ります。
【写真 上(左)】 不動坂と不動院
【写真 下(右)】 外観
不動院は六本木墓苑の窪地から不動坂をのぼった途中右手にあります。
上の伝承にある沼地とは、この「共同墓地の窪地」を指しているのでは。
「六本木」駅から近いですが、アクセスは「六本木一丁目」駅からの方が楽かもしれません。
不動坂まわりは住宅街で、不動院はこの細い不動坂に面した平成11年(1999年)建立の3階建のビル内にあります。
外観は瀟洒なビルですが、3階に掲げられた金色の「真言宗輪宝」、1階エントランス(向拝)の山号扁額、そして「五大山 不動院」と刻まれた門柱が、歴とした寺院であることを示しています。
【写真 上(左)】 不動明王
【写真 下(右)】 稲荷神
館外向かって右には蓮の葉に囲まれた石造の不動明王立像(御前立?)
その横には赤い鳥居の稲荷神が祀られています。
鳥居扁額の文字が薄くて確信はもてないのですが、境内縁起書には「二月初午 児稲荷大明神初午祭(商売繁盛・火坊の祈願を致します)」とあるので、こちらは由緒ある兒稲荷大明神かもしれません。
【写真 上(左)】 エントランス(向拝)
【写真 下(右)】 扁額
エントランス(向拝)は格子ガラスの扉で、見上げに山号扁額。左右に不動明王の御真言と御府内霊場の札番&御詠歌が掲げられています。
【写真 上(左)】 御真言
【写真 下(右)】 札番&御詠歌
エントランスは通常は閉まっていますが28日の御縁日など、特定の日は開かれていることがあります。
通常は、御朱印は日本橋小伝馬町の大安楽寺でいただくことになりますが、開扉日はこちらで拝受できます。
開扉日は荘厳な堂内まで上げていただけ、お不動様に間近で参拝できるので、日を選んでの参拝がベターかと思います。
(ただしお不動様は、中央のお厨子のなかに御座のようです。)
現在は不明ですが、新型コロナ禍前には28日に月並祈願会が勤修され、年に何日かは「不動院寄席」が催されていたようです。
第5番までは比較的寺院らしいたたずまいでしたが、こちら第6番は近代的なビルで都会の寺院ならではのイメージ。
さすがに東京の霊場、御府内霊場の札所です。
〔 御府内霊場の御朱印 〕 ※いずれも不動院で開扉時に拝受。
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は金剛界大日如来のお種子「カーン/カン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、揮毫はお種子、「不動明王」で札所印、「南無大師遍照金剛」の印と寺院印が捺されています。
■ 第7番 源秀山 永松院 室泉寺
(しつせんじ)
渋谷区東3-8-16
高野山真言宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第7番、弁財天百社参り第27番
司元別当:
授与所:庫裡
『札所めぐり』および『新編武蔵風土記稿』より、縁起由緒をまとめてみます。
当初は真宗西本願寺末の真宗寺院として芝金杉にありました。
元禄十三年(1700年)旗本松平外記忠益が当所にあった抱屋敷を和泉国神鳳寺中興の快圓(恵空)比丘(和上)に寄附してここに引移し、真言律宗に改宗して神鳳寺の宿寺としたといいます。中興開基は松平外記忠益、開山は快圓(恵空)比丘。
元禄十三年(1694年)快圓和上により開山、元禄十三年(1700年)五代将軍綱吉公の発願により開山という伝承もあるようです。
松平外記忠益は、五井松平家(現在の愛知県蒲郡市五井町を発祥とする松平氏庶流)9代の松平忠益と思われます。『Wikipedia』によると、父の松平伊耀は五千五百石の大身の旗本(寄合)で下総国海上郡飯沼に二千石の知行地をもち飯沼陣屋の主。
忠益はその家督を継いだとあるので、やはり大身の旗本であったと思われます。
縁起由緒からすると、松平忠益と和泉国神鳳寺の間には密接な関係があったと思われますが、Webからは追い切れませんでした。
また、五井松平家の菩提寺は銚子にある等覚寺で曹洞宗。
なので五井松平家と真言律宗に格別のゆかりがあったということも考えにくいです。
和泉国神鳳寺は、和泉国一宮の大鳥大社(大阪府堺市西区鳳北町)の別当であった大鳥山勧学院神鳳寺とみられます。
開山は和銅元年(708年)とも伝わる古刹で、快圓恵空が入り寺勢を拡大したといいます。
『江戸仏教の戒律思想(一)』(上田霊城氏、PDF)には、「真政円忍、快円恵空(1622-1712年)によって大鳥神鳳寺派が成立し、同派の玄忍慧海を証明として受具した覚彦浄厳が真言律宗を唱え、生駒宝山寺宝山湛海、円珠庵契沖も夫々真政・快円について受具している。」とあり、快圓恵空が真言律宗の成立において重要な役割を果たされていたことがわかります。
江戸における真言律宗は、浄厳律師覚彦が創建した湯島霊雲寺を総本山とする真言宗霊雲寺派への流れと、その他の真言宗派への流れがみられます。
室泉寺は真言律宗の寺院として再興されましたが、現在は古義の高野山真言宗に属しています。
しかし、『新編武蔵風土記稿』には「江戸湯嶋霊雲寺末」とあり、法統について複雑な経緯があったのかもしれません。
【史料】
■ 『新編武蔵風土記稿』
真言律宗 和泉國一ノ宮大島山神鳳寺宿寺ニテ 江戸湯嶋霊雲寺末ナリ 源秀山永松院ト号ス 当寺昔は芝金杉ニアリ 浄土真宗西本願寺末ニテ 同所壽林寺ヨリ兼帯セシヲ 元禄十三年(1700年)九月旗下ノ士松平外記忠益当所ノ抱屋敷ヲ 神鳳寺中興快圓比丘ニ寄附シ 彼寺名ヲ爰ニ引移シ 改宗シテ宿寺トナセリ 故ニ忠益ヲ開基トス(略)開山快圓ハ正徳二年(1712年)二月八日寂 本尊は彌陀 脇士ニ観音地蔵ヲ安ス
護摩堂 不動立像長二尺七寸 愛染坐像長二尺五寸ナルヲ安ス 共ニ南都招提寺開山鑑真和尚ノ弟子支卓律師ノ作ト云
鎮守社 金毘羅 大鳥明神、住吉
辨天堂
【 江戸期の室泉寺周辺 】
※ 『江戸切絵図/青山渋谷絵図』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了))から一部切り取り掲載
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【写真 上(左)】 山門下
【写真 下(右)】 山門
「恵比寿」駅から5分ほどの住宅街のなかにあります。
渋谷川沿いの低地から広尾・青山の台地にさしかかるこのあたりにはいくつかの寺院が点在しています。
やや奥まった立地で、山内は落ち着いた雰囲気です。
街路から数段のぼった山門は切妻屋根桟瓦葺のおそらく薬医門で左右に門塀をめぐらし、見上げに山号扁額。
【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 鐘楼
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 源秀地蔵堂
山内には大聖歓喜天堂、源秀地蔵堂、そして地主神とみられる稲荷神のお社。
源秀地蔵尊は、身体健全に霊験あらたかと伝わります。
【写真 上(左)】 稲荷神
【写真 下(右)】 御府内霊場札所碑
【写真 上(左)】 修行大師像と山内
【写真 下(右)】 修行大師像
端正な修行弘法大師像が御座され、塔状の立派な札所碑もありました。
お砂踏み場よこの築山は高野山を模しているそうです。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
本堂は宝形造ないし寄棟造銅板葺で身舎は朱色に彩られて華やかな印象。
向拝柱はなく比較的シンプルなつくりです。
真言律宗系の寺院の御本尊は大日如来が多いですが、こちらの御本尊は阿弥陀如来です。
御朱印は、庫裡にて拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は阿弥陀如来のお種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、揮毫はお種子、「阿弥陀如来」で札所印と寺院印が捺されています。
■ 第8番 海岳山 大乗院 長遠寺
(ちょうおんじ)
大田区南馬込5-2-10
真言宗智山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:玉川八十八ヶ所霊場第72番、大東京百観音霊場第43番、多摩川四郡八十八ヶ所霊場第78番、武相四十八ヶ所不動尊霊場第11番
司元別当:馬込村八幡社ほか
授与所:寺務所
大田区馬込にある名刹で、複数の札所を兼務されています。
寺伝によると、馬込村字堂寺の地に天仁元年(1108年)宥尊上人が開山草創。
(『新編武蔵風土記稿』には、村の旧記として定海という僧(元弘二年(1332年)寂)が草創とあり。)
文亀二年(1502年)火災に遭い当地に移転、元禄年間(1688-1704年)に快慶法印が中興と伝わります。
御本尊の不動明王は、馬込不動尊として広く知られています。
行基菩薩の御作と伝わる木造十一面観音菩薩立像(通称「鎌作観世音」)は、大田区の文化財に指定されています。
山内掲出の観音様の説明書に「もと上大崎六軒茶屋の光雲寺にあった」とあること、府外の馬込にあることが気になり、江戸八十八ヶ所霊場第8番を当たってみると、第8番はまさに六軒茶屋の盤谷山光雲寺でした。
光雲寺は『寺社書上』に収録されており、場所は(白金)六軒茶屋町、宗派は新義真言宗、馬込村長遠寺末とあります。
光雲寺は明治8年(1875年)廃寺となっています。
江戸期の江戸八十八ヶ所第8番ないし御府内霊場第8番光雲寺の札所本尊はおそらく御本尊の千手観世音菩薩であったと考えられ、明治8年(1875年)光雲寺が廃寺となった際に、御本尊の千手観世音菩薩は本寺の馬込長遠寺に遷られ、同時に御府内霊場第8番札所も長遠寺に替わったのではないでしょうか。
御府内霊場の札所本尊は御本尊の例がほとんどですから、そのときに第8番の札所本尊は長遠寺の御本尊である不動明王に替わったのでは。
ただし、行基菩薩作とも伝わる光雲寺の御本尊・千手観世音菩薩は長遠寺でも「鎌作観世音」として手篤く奉安され、現在も人々の信仰を集めているのではないでしょうか。
『江戸名所図会』には、こちらの千手観世音菩薩は行基菩薩が巡錫先の信州更級郡で天人が鎌をもって彫刻し、行基菩薩に授けたものとあります。
また、行基菩薩が巡錫先の信州更級郡で一刀三礼してみずから鎌斧で彫り上げられた尊像という伝えもあり、「鎌作(かまつくり)観世音」と尊称されています。
『御府内寺社備考』には、光雲寺には行基菩薩が使われた鎌斧が寺宝として所蔵されているとあります。
「鎌作観世音」は大田区の文化財に指定。
山内説明板には平安時代十世紀頃の作と考えられ、もとは千手観世音菩薩と考えられるが千手を失い、文化財登録としては十一面観世音菩薩立像とされていること、もと上大崎六軒茶屋の光雲寺にあったが、明治初年に廃寺の際、長遠寺に移されたことなどが記されています。
品川区のWeb資料には「(目黒不動尊へ行く「目黒道」「白金通り」)の道筋の六軒茶屋町(現在の上大崎2・3丁目の目黒通り沿い)には、鎌作り観音・光雲寺(明治8年〔1875年〕に廃寺となる)がありました。鎌作り観音から同じ道沿いの永峯町には誕生八幡宮(現在の誕生八幡神社)と別当寺の高福院がありました。この3つの社寺は一緒に挿絵に描かれています。」とあり、江戸八十八ヶ所第8番の光雲寺は、同第4番高福院のそばにあったようです。
(「『江戸名所図会』を読む」様のWebにて詳しく解説されており、光雲寺は高福院のほぼ隣にあったことがわかります。)
【 光雲寺と高福院、行人坂(目黒不動尊方向)の位置関係 】
※ 『江戸切絵図/目黒白金辺図』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了))から一部切り取り掲載
六軒茶屋町は御府内で『寺社書上』に記載され、馬込は府外で『新編武蔵風土記稿』に収録されています。
こうしてみると、御府内霊場の札所はやはり原則御府内で、現在、旧府外にある札所は移転統合など、なんらかの変遷を辿った例が多いのではないでしょうか。
【史料】
■ 『新編武蔵風土記稿』
除地六畝 (馬込村八幡社)社地ノ北ニ隣レリ 新義真言宗 山城國醍醐三寶院ノ末 海岳山大乗院トと号ス 村ノ舊記ニ定海ト云僧 当寺ヲ草創シテ後元弘二年(1332年)ニ寂セリト見ユ サレハ此人開山ナルヘシ 今寺ニテ開山トスルハ定尊法印ナリ 此法印其事歴寂年ヲ傳へサレハ 何ノ頃トモ云カタケレト 思フニ中興ノ僧ナルニヤ 後元禄(1688-1704年)ノ頃快慶法印ト云僧ノ住シ時 当寺ヲ興記(ママ)シテ檀林寺格トセシニヨリ 今ハ此法印ヲ中興開基トス(略) 本尊不動尊ノ座像ヲ安ス 門ハ客殿ノ正面ニアリ海岳山ノ三字ヲ扁ス
■ 『寺社書上』
(光雲寺)
馬込村長遠寺末 六軒茶屋町 盤谷山 光雲寺 新義真言宗
本尊 千手観世音菩薩 立像丈三尺 但行基菩薩作 延宝八年六月三日信州更級郡梵天平山盤谷山出現千手観音 元禄五年定光雲寺右●奉納石室内●縁起 開山光雲次第書(略)
■ 『御府内寺社備考』
起立ノ儀●元禄五年十一月中意運(略)草創 開山権大僧都智●意運 寺寶 鎌一挺 斧一挺 右ハ行基菩薩●●し●右を以本尊千手観音彫刻し●
■ 『江戸名所図会』
(鎌作観世音)
(妙見大菩薩)西の方一町半斗 向ふ側 六軒茶屋町の角 真言宗光雲寺にあり 相傳ふ 神亀年間(724-729年)行基菩薩諸国遊化の頃 信州更級に始て掛錫し●●ふに 平山と云ふところの池中より 此本尊出現あ● 又空中より化人あらはれ 鎌と御衣●を持ちて降臨し●ひ 彼観音の尊像を彫刻し行基に授け●ふ 此本尊是なり
-------------------------
最寄りは都営浅草線「西馬込」駅。
第二京浜に面した区画ですが、山門は第二京浜の反対側からまわりこむかたちで、周囲は落ち着いたたたずまいです。
向かって左手に馬込八幡神社が御鎮座。
旧馬込村総鎮守で旧村社。岩清水八幡宮の分霊を勧請して創祀され、江戸期は長遠寺が別当でした。
馬込村総鎮守だけあって神さびた境内。御朱印は授与されていないとの掲示がありました。
【写真 上(左)】 馬込八幡神社
【写真 下(右)】 馬込八幡神社の掲示
【写真 上(左)】 門柱から
【写真 下(右)】 山門
長遠寺は広い寺地をもち、名刹にふさわしいたたずまいをみせています。
街路からまずは門柱、左右駐車場の参道の先に、両脇に板塀を配した切妻屋根銅板葺の重厚な山門。
控柱が4本あるので四脚門にも見えますが、おそらく医薬門ないし高麗門かと思われます。
見上げに山号扁額、右門柱に文字が消えかかった札所板が掲げられていますが、かすかに「七十二番札所」と読めるので、これは玉川八十八ヶ所霊場の札所板と思われます。
【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 玉川霊場札所板
こちらは御府内霊場、玉川霊場いずれの御朱印も授与されていますが、それぞれ系統の異なる弘法大師霊場なので、玉川霊場の巡拝は改めた方がベターかと思います。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 御府内霊場札所碑
山内は広々と明るく清掃が行き届き、気持ちのよい参拝ができます。
「新大田区百景」にも選ばれています。
参道脇には御府内霊場の立派な札所石碑がありました。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
正面が本堂。
寄棟造銅板葺で瓦葺の向拝を附設した、やや変わった意匠です。
水引虹梁両端に見返り獅子の見事な木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に霊鳥の彫刻を配して整った意匠です。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 見事な木鼻
【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 玉川霊場の奉納額
本堂軒下には、多摩川(玉川)八十八ヶ所霊場の奉納額が掲げられています。
メジャー霊場2つの札所を兼ねられているため、ご対応は手慣れておられ、またとてもご親切です。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳-1
主印は三寶印、揮毫は「本尊 不動明王」「弘法大師」で札所印と寺院印が捺されています。
〔 玉川八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
内容は御府内霊場とほぼ同様です。
以下、つづきます。
(→ Vol.-3)
【 BGM 】
■ 夢の大地 - Kalafina
■ 桜 - 中村舞子
■ 栞 - 天野月 feat.YURiCa/花たん
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■ 歌のオリジナリティ(カラバトU-18黄金の世代)
さきほどの記事を書きながら「歌のオリジナリティ」について考えていました。
カバー曲がカバー崩れする大きな原因は、歌い手のオリジナリティが確立していないから。
だからモノマネにさえならず、曲を追うだけで精一杯となり、結果は下位互換ないし崩壊。
このケースがほとんどだけど、一群の歌い手たちだけは別の展開をみせていた。
先日UPした「カラバトU-18黄金の世代の7人+1人」の8人です。
論より証拠、オリジナルと彼女たちのカバーを聴きくらべてみました。
オリジナルはいずれも名手といわれるシンガー。
さすがに「上位互換」しているとまではいわないが、それぞれが自身の確立したオリジナリティのうえで解釈して歌い上げているのがわかる。
だから、オリジナルでは気づかなかった楽曲の微妙なニュアンスが感じとれたりして、聴いていて面白い。
名曲やヒット曲は原曲(オリジナル曲)の歌手の声と強く結びついているので、そこから引き離し、さらに歌い手のオリジナリティを加えて別の魅力をつくりだすなど、並みの才能では到底できない。
やっぱり類い希な才能をもつ世代なんだと思う。
まぁ、とにかく聴きくらべてみてくださいまし。
※ 番号は便宜上、順不同です。
1.川嵜心蘭 / 点描の唄(井上苑子ソロVers.)
■ オリジナル(井上苑子)
■ カバー(川嵜心蘭)
2.佐久間彩加 / 駅
■ オリジナル(竹内まりや) ※似てるけど、たぶんオリジナルじゃありません。
■ カバー(佐久間彩加)
3.三阪 咲 / Finally
■ オリジナル(安室奈美恵)
■ カバー(三阪 咲)
4.原藤由衣 / 出逢った頃のように
■ オリジナル(Every Little Thing/持田香織)
■ カバー(原藤由衣)
5.富金原佑菜 / Flavor Of Life
■ オリジナル(宇多田ヒカル)
■ カバー(富金原佑菜)
6.熊田このは / Can You Celebrate?
■ オリジナル(安室奈美恵)
■ カバー(熊田このは)
7.鈴木杏奈 / 炎
■ オリジナル(LiSA)
■ カバー(鈴木杏奈)
8.堀 優衣 / This Love
■ オリジナル(アンジェラ・アキ)
■ カバー(堀 優衣)
〔関連記事〕
■ 【抜粋編】黄金の世代?(カラバトU-18が強い件)
カバー曲がカバー崩れする大きな原因は、歌い手のオリジナリティが確立していないから。
だからモノマネにさえならず、曲を追うだけで精一杯となり、結果は下位互換ないし崩壊。
このケースがほとんどだけど、一群の歌い手たちだけは別の展開をみせていた。
先日UPした「カラバトU-18黄金の世代の7人+1人」の8人です。
論より証拠、オリジナルと彼女たちのカバーを聴きくらべてみました。
オリジナルはいずれも名手といわれるシンガー。
さすがに「上位互換」しているとまではいわないが、それぞれが自身の確立したオリジナリティのうえで解釈して歌い上げているのがわかる。
だから、オリジナルでは気づかなかった楽曲の微妙なニュアンスが感じとれたりして、聴いていて面白い。
名曲やヒット曲は原曲(オリジナル曲)の歌手の声と強く結びついているので、そこから引き離し、さらに歌い手のオリジナリティを加えて別の魅力をつくりだすなど、並みの才能では到底できない。
やっぱり類い希な才能をもつ世代なんだと思う。
まぁ、とにかく聴きくらべてみてくださいまし。
※ 番号は便宜上、順不同です。
1.川嵜心蘭 / 点描の唄(井上苑子ソロVers.)
■ オリジナル(井上苑子)
■ カバー(川嵜心蘭)
@mabo3939 ♬ オリジナル楽曲 - mabo
2.佐久間彩加 / 駅
■ オリジナル(竹内まりや) ※似てるけど、たぶんオリジナルじゃありません。
■ カバー(佐久間彩加)
3.三阪 咲 / Finally
■ オリジナル(安室奈美恵)
■ カバー(三阪 咲)
4.原藤由衣 / 出逢った頃のように
■ オリジナル(Every Little Thing/持田香織)
■ カバー(原藤由衣)
5.富金原佑菜 / Flavor Of Life
■ オリジナル(宇多田ヒカル)
■ カバー(富金原佑菜)
6.熊田このは / Can You Celebrate?
■ オリジナル(安室奈美恵)
■ カバー(熊田このは)
7.鈴木杏奈 / 炎
■ オリジナル(LiSA)
■ カバー(鈴木杏奈)
8.堀 優衣 / This Love
■ オリジナル(アンジェラ・アキ)
■ カバー(堀 優衣)
〔関連記事〕
■ 【抜粋編】黄金の世代?(カラバトU-18が強い件)
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1980年代アイドルの逆襲?(笑)
いまもかかってたけど、 ↓ の曲、最近TVで毎日かかっている気がする(笑)
どの局も「昭和の名曲」特集ばっかり。
いったいどうなっているのか・・・・。
■ 松本伊代 - センチメンタル・ジャーニー 1981/12/10
司会も芸術品だわ。
歌唱力についてはいろいろと揶揄もされたけど、いまもしっかり残っているのはやっぱり実力か。
作詞:湯川れい子/作曲:筒美京平。プロの作品ならではのフック感ばりばり。
■ 松田聖子 - 青い珊瑚礁 1980
歌を聴かせる ”場” が、スタジオに整っていた気がする。
■ 早見優 - 夏色のナンシー 1983/5/2
当時はさしてうまいとも思わなかったけど、なんというかソロで聴かせる力量はしっかり感じられる。
演奏とコーラスがちゃんとしてる。さすがに1983年!
番組内で今の歌い手のカバーも演られているけど、オリジナルの方が全然いい。
あの時代、歌手のオリジナリティが際立っていたので、上位互換はほぼ不可能では?
筆者は勝手に【 洋楽1983年ピーク説 】を唱えていますが、ひょっとすると邦楽のピークも1980年代前半だったのかもしれぬ。
どの局も「昭和の名曲」特集ばっかり。
いったいどうなっているのか・・・・。
■ 松本伊代 - センチメンタル・ジャーニー 1981/12/10
司会も芸術品だわ。
歌唱力についてはいろいろと揶揄もされたけど、いまもしっかり残っているのはやっぱり実力か。
作詞:湯川れい子/作曲:筒美京平。プロの作品ならではのフック感ばりばり。
■ 松田聖子 - 青い珊瑚礁 1980
歌を聴かせる ”場” が、スタジオに整っていた気がする。
■ 早見優 - 夏色のナンシー 1983/5/2
当時はさしてうまいとも思わなかったけど、なんというかソロで聴かせる力量はしっかり感じられる。
演奏とコーラスがちゃんとしてる。さすがに1983年!
番組内で今の歌い手のカバーも演られているけど、オリジナルの方が全然いい。
あの時代、歌手のオリジナリティが際立っていたので、上位互換はほぼ不可能では?
筆者は勝手に【 洋楽1983年ピーク説 】を唱えていますが、ひょっとすると邦楽のピークも1980年代前半だったのかもしれぬ。
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■ 女神系DIVAたち ”番外編”〔再編集版〕
2012/01/04 UP / 2020/10/05 更新UP / 2023/06/02 更新UP
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なぜか、ここ数日アクセスが伸びているこの記事。(忘れてた(笑))
2012年1月の記事UP、ということはもうかれこれ11年か・・・。
11年前にどういう曲をおすすめUPしていたか、という振り返りも込めて、これ以前にUPしてた5曲(11~15)を追加し、リンクつなぎなおして再編集UPしてみます。
(青字が今回(前回)追記。あとは当時の原文のままです。)
こうしてみると2012年の時点ではまだ、相当にレベルが高かったことがわかる。
世が世なら、誰もがヒットチャートに上がってくるレベルでは・・・。
これも時代(業界)の趨勢か・・・。
アダルト・コンテンポラリーのジャンルが確立していない、いまの日本の音楽業界。
これらの優れた才能が埋もれてしまうのはあまりに惜しい。
---------------------------------------------
前回にひきつづき、『女神系DIVAたち』の続編いきます。
今回は年代を幅広くとってチョイスしたので”番外編”としました。
気にいったら買ってあげてね。
※ You-Tubeの試聴(クリック)は自己責任にてお願いします。
01.遠く離れた場所で feat. C - Lily.μ(リリー・ミュー)
■ HPによると2011年5月、Venus-B / KING RECORDSが開催した「Venus Voice オーディション」に応募、グランプリを獲得したらしい。
デビュー曲とはとても思えない安定感、ハイトーンの伸びが綺麗。
02.心の糸 - 池田綾子
■ 武蔵野音大声楽科卒という本格派で、澄み切った歌声は抜群の安定感。2002年デビュー。
これは2010年10月リリースの5thALBUM『gradation』収録曲。
03.恋をしてた ~Say Goodbye~ - MAY'S x May J.
■ 2005年秋デビューの2人組ユニット。Vocal片桐舞子が女神系声質。
これは2010年1月リリースの2thフルALBUM『Amazing』収録曲でR&B系のMay J.が参画。
04.種 - 竹仲絵里
■ 北陸電力「オール電化生活」CMソングで日本テレビ・読売テレビ系「ザ・ワイド」のエンディングテーマとしてもつかわれていたらしい。(出典:wikipedia)
2006年頃の作品と思われ、伸びやかなハイトーンが秀逸。( → 竹仲絵里)
※ 元の動画消えているので、別動画(LIVE)を探してきてUPしました。↓
種 / 竹仲絵里 / Singing and playing guitar[LIVE at 原宿 LaDonna]
↑ のリンクで、森恵とのコラボLIVEにふれてるので、記事から引っ張ってきました。↓
森恵 - 三日月 (2009.6.27 三井アウトレットパーク入間)
屋外でギター1本の弾き語りでこの仕上がりって!
この頃の森恵の歌って、神がかっていたと思う。
05.Shunkan (瞬間) - 藤田麻衣子
■ 2006年秋デビューの名古屋出身のArtist。ゲーム主題歌でも有名ですでに佳曲を多くもつ。
透明感あふれる声質は天性のものか。
これは2011年5月On SaleのALBUM『瞬間』のタイトル曲で、PS3用ゲーム『緋色の欠片 愛蔵版 〜あかねいろの追憶〜』EDの主題歌。
06.海のキャトルセゾン - とみたゆう子
■ 80年代前半に一部で熱烈な支持を得たシンガーソングライターで、これだけ甘い声質をもつVocalistもめずらしい。
貴重なLIVE映像を発見したのでUP。
あまりに安定感がありすぎてホントにLIVE録音?とも思うのだが、LPとはあきらかにアレンジがちがう。
ライトかつブライトな'80年代前半の空気感。
07.最高の片想い - タイナカ彩智(Live 2007 Concert)
■ 兵庫県出身のArtistで本名は田井中 彩智(タイナカサチ)。
2006年2月メジャーデビュー。以降安定して作品をリリース。
これは2006年8月On Saleのシングル曲でNHK衛星第2テレビアニメ『彩雲国物語』エンディングテーマにもつかわれた。
繊細かつ浮遊感あるハイトーンヴォイスに個性。
08.雪の華 - 中島美嘉
■ 2003年10月リリースの中島美嘉のヒット曲だが、韓流ドラマ『ごめん、愛している』の主題歌にPark Hyo ShinのカバーVers.がつかわれ大ヒット。これで知った人もいるのでは?
中島美嘉ならではのビブラートかかった声質がよく合っている名曲。
※ 元の動画消えているので、別動画を探してきてUPしました。↓
文句なく名曲!
09.hands - 愛内里菜
■ 2000年3月GIZA studioよりデビュー、以降ほぼ年1枚ペースで順調にALBUMをリリースしてきたが、2010年9月26日、兵庫・尼崎アルカイックホールでの公演を最後に音楽活動を終了。12月31日、すべてのアーティスト活動より引退(出典:wikipedia)は惜しい。
これは2009年10月リリースのシングル『MAGIC』収録曲で、エモーショナルな佳曲。
2015年、「垣内りか」名義で歌手活動復帰。以降「R(アール)」名義でも楽曲配信。
※ 元の動画消えていて「hands」の動画がみつからないので(現在復活)、「Magic」のLIVE Vers.をUPします。↓
愛内さん、相当な実力あると思うけどね・・・。
Magic - Rina Aiuchi (LIVE)
10.ただ泣きたくなるの - 国分友里恵
■ 中山美穂の1994年の大ヒット曲で、これは作詞を担当したArtist、国分友里恵のオリジナルVers。
久しぶりに聴いたが、やっぱりムダ音なしの名曲だと思う。
※ 国分さんのオリジナルVersすごくよかったのに動画消えています(現在復活)。
ミポリンのオリジナルがみつかったのでUPします。これもいいです。↓
「ただ泣きたくなるの」 中山美穂
おそらくずっと歌い継がれていく曲。
どうして最近こういう曲、出てこなくなっちゃったんだろう?
踊れなくてもいいから、しっかり歌を届けられるソロ歌手のヒット曲がほしい。
11.愛されたい - 宏実
■ Boston留学中にヴォイストレーニングを受け米国ラジオ局主催のコンテスト「North End Idol Contest」で優勝したという逸材。
帰国後2005年にデビュー、他アーティストのfeat.を多数受けるのはすぐれた声質&グルーヴ感ゆえか?
これは2009年秋On SaleのSingle Cut曲で、雨音のごとく流れるリリカルなピアノ通奏が秀逸。
12.last letter - Noa
■ 2007年デビューの宮城県出身のアーティスト。RAP系ユニットとのコラボ多数。
ビブラートのかかる伸びやかな声質で安定感抜群。
これは2008年On Saleの1stALBUM『LUCY LOVE』収録曲。
13.会えなくても feat. 西野カナ / WISE
■ HIPHOP系ユニットWISEが西野カナをfeat.。ときおりファルセット気味になる艶のある声質が個性的。
14.Sunshine - 山口リサ
■ 静岡県出身のR&B系Artist。東海地区ベースの活動、インディーズ系デビューという地味めのキャリアながら、実力は充分。
自称”R&B系”Artistが跋扈するなか、本格的R&B系マナーを備えた逸材だと思う。
これは2009年夏On SaleのSingle Cut曲。
15.明日へ架ける橋 - 倉木麻衣
■ 押しも押されぬメジャー系。圧倒的な存在感はやはりタダモノじゃない。
これは屈指の名曲だと思う。
---------------------------------------------
ちょっと早いけど、冬曲1曲追加してみます。
● BoA & 夏川りみ メリクリ
BoAより夏川りみの方がトーンが高い(というかユニゾンなのでトーン同じはずだけど、夏川りみのほうが高くきこえる)けど、昨年12月のLIVEで熊田このはちゃんが歌ったテイク、これよりさらにトーンが高かった。
これまで聴いたことないような超絶の「メリクリ」だったけど、動画UPがないのは残念。
個人的に伝説の(笑)ハイトーン曲、夏川りみの「月のかほり」。(知らないうちに動画UPされてた。びっくり。)
夏川りみ 楽園~マカルサリ~ & 月のかほり
「月のかほり」は4:45~。 (直リンクは→こちら)
---------------------------------------------
なぜか、ここ数日アクセスが伸びているこの記事。(忘れてた(笑))
2012年1月の記事UP、ということはもうかれこれ11年か・・・。
11年前にどういう曲をおすすめUPしていたか、という振り返りも込めて、これ以前にUPしてた5曲(11~15)を追加し、リンクつなぎなおして再編集UPしてみます。
(青字が今回(前回)追記。あとは当時の原文のままです。)
こうしてみると2012年の時点ではまだ、相当にレベルが高かったことがわかる。
世が世なら、誰もがヒットチャートに上がってくるレベルでは・・・。
これも時代(業界)の趨勢か・・・。
アダルト・コンテンポラリーのジャンルが確立していない、いまの日本の音楽業界。
これらの優れた才能が埋もれてしまうのはあまりに惜しい。
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前回にひきつづき、『女神系DIVAたち』の続編いきます。
今回は年代を幅広くとってチョイスしたので”番外編”としました。
気にいったら買ってあげてね。
※ You-Tubeの試聴(クリック)は自己責任にてお願いします。
01.遠く離れた場所で feat. C - Lily.μ(リリー・ミュー)
■ HPによると2011年5月、Venus-B / KING RECORDSが開催した「Venus Voice オーディション」に応募、グランプリを獲得したらしい。
デビュー曲とはとても思えない安定感、ハイトーンの伸びが綺麗。
02.心の糸 - 池田綾子
■ 武蔵野音大声楽科卒という本格派で、澄み切った歌声は抜群の安定感。2002年デビュー。
これは2010年10月リリースの5thALBUM『gradation』収録曲。
03.恋をしてた ~Say Goodbye~ - MAY'S x May J.
■ 2005年秋デビューの2人組ユニット。Vocal片桐舞子が女神系声質。
これは2010年1月リリースの2thフルALBUM『Amazing』収録曲でR&B系のMay J.が参画。
04.種 - 竹仲絵里
■ 北陸電力「オール電化生活」CMソングで日本テレビ・読売テレビ系「ザ・ワイド」のエンディングテーマとしてもつかわれていたらしい。(出典:wikipedia)
2006年頃の作品と思われ、伸びやかなハイトーンが秀逸。( → 竹仲絵里)
※ 元の動画消えているので、別動画(LIVE)を探してきてUPしました。↓
種 / 竹仲絵里 / Singing and playing guitar[LIVE at 原宿 LaDonna]
↑ のリンクで、森恵とのコラボLIVEにふれてるので、記事から引っ張ってきました。↓
森恵 - 三日月 (2009.6.27 三井アウトレットパーク入間)
屋外でギター1本の弾き語りでこの仕上がりって!
この頃の森恵の歌って、神がかっていたと思う。
05.Shunkan (瞬間) - 藤田麻衣子
■ 2006年秋デビューの名古屋出身のArtist。ゲーム主題歌でも有名ですでに佳曲を多くもつ。
透明感あふれる声質は天性のものか。
これは2011年5月On SaleのALBUM『瞬間』のタイトル曲で、PS3用ゲーム『緋色の欠片 愛蔵版 〜あかねいろの追憶〜』EDの主題歌。
06.海のキャトルセゾン - とみたゆう子
■ 80年代前半に一部で熱烈な支持を得たシンガーソングライターで、これだけ甘い声質をもつVocalistもめずらしい。
貴重なLIVE映像を発見したのでUP。
あまりに安定感がありすぎてホントにLIVE録音?とも思うのだが、LPとはあきらかにアレンジがちがう。
ライトかつブライトな'80年代前半の空気感。
07.最高の片想い - タイナカ彩智(Live 2007 Concert)
■ 兵庫県出身のArtistで本名は田井中 彩智(タイナカサチ)。
2006年2月メジャーデビュー。以降安定して作品をリリース。
これは2006年8月On Saleのシングル曲でNHK衛星第2テレビアニメ『彩雲国物語』エンディングテーマにもつかわれた。
繊細かつ浮遊感あるハイトーンヴォイスに個性。
08.雪の華 - 中島美嘉
■ 2003年10月リリースの中島美嘉のヒット曲だが、韓流ドラマ『ごめん、愛している』の主題歌にPark Hyo ShinのカバーVers.がつかわれ大ヒット。これで知った人もいるのでは?
中島美嘉ならではのビブラートかかった声質がよく合っている名曲。
※ 元の動画消えているので、別動画を探してきてUPしました。↓
文句なく名曲!
09.hands - 愛内里菜
■ 2000年3月GIZA studioよりデビュー、以降ほぼ年1枚ペースで順調にALBUMをリリースしてきたが、2010年9月26日、兵庫・尼崎アルカイックホールでの公演を最後に音楽活動を終了。12月31日、すべてのアーティスト活動より引退(出典:wikipedia)は惜しい。
これは2009年10月リリースのシングル『MAGIC』収録曲で、エモーショナルな佳曲。
2015年、「垣内りか」名義で歌手活動復帰。以降「R(アール)」名義でも楽曲配信。
※ 元の動画消えていて「hands」の動画がみつからないので(現在復活)、「Magic」のLIVE Vers.をUPします。↓
愛内さん、相当な実力あると思うけどね・・・。
Magic - Rina Aiuchi (LIVE)
10.ただ泣きたくなるの - 国分友里恵
■ 中山美穂の1994年の大ヒット曲で、これは作詞を担当したArtist、国分友里恵のオリジナルVers。
久しぶりに聴いたが、やっぱりムダ音なしの名曲だと思う。
※ 国分さんのオリジナルVersすごくよかったのに動画消えています(現在復活)。
ミポリンのオリジナルがみつかったのでUPします。これもいいです。↓
「ただ泣きたくなるの」 中山美穂
おそらくずっと歌い継がれていく曲。
どうして最近こういう曲、出てこなくなっちゃったんだろう?
踊れなくてもいいから、しっかり歌を届けられるソロ歌手のヒット曲がほしい。
11.愛されたい - 宏実
■ Boston留学中にヴォイストレーニングを受け米国ラジオ局主催のコンテスト「North End Idol Contest」で優勝したという逸材。
帰国後2005年にデビュー、他アーティストのfeat.を多数受けるのはすぐれた声質&グルーヴ感ゆえか?
これは2009年秋On SaleのSingle Cut曲で、雨音のごとく流れるリリカルなピアノ通奏が秀逸。
12.last letter - Noa
■ 2007年デビューの宮城県出身のアーティスト。RAP系ユニットとのコラボ多数。
ビブラートのかかる伸びやかな声質で安定感抜群。
これは2008年On Saleの1stALBUM『LUCY LOVE』収録曲。
13.会えなくても feat. 西野カナ / WISE
■ HIPHOP系ユニットWISEが西野カナをfeat.。ときおりファルセット気味になる艶のある声質が個性的。
14.Sunshine - 山口リサ
■ 静岡県出身のR&B系Artist。東海地区ベースの活動、インディーズ系デビューという地味めのキャリアながら、実力は充分。
自称”R&B系”Artistが跋扈するなか、本格的R&B系マナーを備えた逸材だと思う。
これは2009年夏On SaleのSingle Cut曲。
15.明日へ架ける橋 - 倉木麻衣
■ 押しも押されぬメジャー系。圧倒的な存在感はやはりタダモノじゃない。
これは屈指の名曲だと思う。
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ちょっと早いけど、冬曲1曲追加してみます。
● BoA & 夏川りみ メリクリ
BoAより夏川りみの方がトーンが高い(というかユニゾンなのでトーン同じはずだけど、夏川りみのほうが高くきこえる)けど、昨年12月のLIVEで熊田このはちゃんが歌ったテイク、これよりさらにトーンが高かった。
これまで聴いたことないような超絶の「メリクリ」だったけど、動画UPがないのは残念。
個人的に伝説の(笑)ハイトーン曲、夏川りみの「月のかほり」。(知らないうちに動画UPされてた。びっくり。)
夏川りみ 楽園~マカルサリ~ & 月のかほり
「月のかほり」は4:45~。 (直リンクは→こちら)
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■ 史上最悪のリニューアル? (gooメール) ~ これは酷い ~
---------------------------------
平素よりgooメールをご利用いただき誠にありがとうございます。
gooメールでは、2023年5月29日(月)に以下の機能の改修および終了を予定しています。
---------------------------------
4月にこのメールを受け取ったとき、嫌な予感はしていたが、どうやらまたやらかしたらしい。
メールが使い物にならないんですけど・・・。
ホントに学習しないは、この会社・・・。
リニューアルする度に酷くなってく。
(現在、先方窓口とやりとり中)
↓ 先回りして、また入れときます(笑)
■【脳漿炸裂ガール】96猫Ver
エキサイトする、前回2019年のユーザーコメント欄 → こちら
「どんだけ技術力無いの? ただのwebメールだよ? 半年もあればそこらの個人でも組んでますよ?」
↑ 上記コメント欄より引用
今回もまた、これ言えそう。
多くのユーザーはとっくに愛想つかして他社に乗り換えてると思うし、あまり問題にならんかも・・・。
でも、未だにこんな使い勝手の悪いメーラー使いつづけている人は、それなりに理由がある筈だから、それだけにタチが悪い。
※ エヌ・ティ・ティ レゾナント株式会社
の企業ミッションは、公式Webによると「私たちは、お客様の想いと行動を徹底的に『科学』し、知識と経験に基づく高い『技』をもって、驚きと感動のある『すごい!』サービスを創造し、お客様の現在と未来をつなぐ『発見』を提供します。」だそうです。
「知識と経験に基づく高い『技』」があるかはわかりませんが、確かに毎回リニューアルの度に「驚きのある『すごい!』サービス?」をもたらしてくれる企業であることは間違いないと思います。
-------------------------
2019/04/04UP
つ~か、↓こんなのが
よくある質問で寄せられてる時点で終わってるじゃん。メーラーとして。
どれも致命傷。
いわれたとおりにやっても、2ページ以降印刷できないんですけど・・・。
それに何これ?→送信済みフォルダの一覧表示に送信先は表示されません
ふつうにあり得ないでしょ。
「お手数をお掛けしますが、送信済みメールを開いて送信先を確認してください。」
↑ユーザーを意図的に怒らそうとしているとしか思えない。
やっぱり本音はgooメール止めたいって事か?
そうだとしたらやり口がエゲツなさすぎる。
未だにこの不具合(というかメーラーとして崩壊)についてオフィシャルなコメントないし、企業として最低最悪の対応。
■ CSR (wikiへリンク)
■ 説明責任 (同)
まぁ、ここまでど最悪なリニューアル(?)やらかしたら、さすがに温厚なユーザーさんたちも黙ってないですね。↓
エキサイトするコメント欄
↑この記事タイトル、2015年1月リニューアルのときにつけたやつだけど、それよりはるかに酷いわ、今回の。
戻した方がいいって、まじで。(続ける気あるなら、だけど・・・)
2019/03/28UP
goo事務局から昨日AMに連絡がきた。
けっこうレスポンス速い、と思ったら、以前のやりとりで、対応が速くて的確だと思ったスタッフからだった。
このスタッフはこちらのいわんとしていることは十分に理解している雰囲気だが、
現時点では今後の対応について確たることは言えない様子だった。(苦しそう(笑))
ただ、下記の不具合への対応については、担当部署で検討しているとの由。(するしないも含めて、だと思う。)
なにか動きがあれば、電話が入ることになっています。
それとは別に先ほど新たな不具合発生。
クライアントに送った添付ファイル付メールで、エラー(550 High probability of spam)発生でファイルが削除されて受信。
Webメールなので、相手方の設定によっては迷惑メールボックス直行したり、こういうこともなきにしもあらずだが、
送付先はリニューアル前に何百回とファイルのやりとりをし、これまで一度もこういう不具合は発生していない。
クライアントから、「ひょっとしてウィルス感染(笑)?」と突っ込まれてしまいました。
信用問題だよ、まぢで・・・(怒)
添付したファイル、セキュリティスキャンしても「脅威なし」だし、
Gmailで送付したら何の問題もなく送れたし・・・。
これについては、関連通信データをgooに送って解析中。
これは使い勝手の問題じゃないので、ことはさらに重大。
最悪、Gmailで送り直せばなんとかなると思うが、仕事の効率著しく阻害。
いっそのことGmailに移行したいが、メアド変更の手続きが諸々たいへんすぎて気が重い。
しばらくはgooの対応の様子見かな?
2014.07.03羅小白高雄夢時代(畢畢畢+一級棒+姊姊)
イライラしてる方、↑でもみて気分を晴らしてください(笑)
---------------------------------
3/25のgooブログリニューアル、現時点では予想したほど悪くなく、ひとまずはほっと一息。
今回、いろいろ追加機能付いてるけど、ほとんどカスタマイズ機能で、使わなければ基本操作に影響なし。
インターフェイスデザインが若干変わってるけど、メニューの位置はほとんど変わらず、違和感もすぐに消えると思う。
なにより、「基本操作メニューの位置を動かさない。」というスタンスがいい。(ほとんど見ないで感覚で操作してるのでこれ重要。)
操作スピードも若干はやくなった感じもするし、こういうのが「リニューアル」だと思う。
それにしても、gooブログは無料(わたしはプレミア版で有料だけど)でgooメールは有料。
対応内容が逆では?
2019/03/26UP
この状況じゃ仕事にならんので、サポートに電話した。
1.送信済みメール一覧で宛先(送信先)が表示されない件
(答え)”仕様”だそうです。(わたしだけではない感じ)
2.日付がガタガタの件
(答え)”仕様”だそうです。(これもわたしだけではない感じ)
3.一画面で5つくらいしか表示されない件
(答え)「一覧の分割表示」で「左右に分割」か「分割なし」を選択ください。
3.については、まあ我慢できるレベルにもっていけた。
※「分割なし」選択しないと、メール本文きちんと印刷できません。たぶん。
1.について
論外。送信済みメール一覧で宛先(送信先)が表示されなくてどうする????
いったい何考えてんだが意味わからず。
とくにスマホの場合、本文もろくに表示されないのだから、誰に送ったメールかほとんど識別不能。
メーラーとしてあり得ない仕様。
2.について
これは憶測だが、古いメールの添付ファイル削除すると、その削除日時がログされて、そのデータでソートされて表示される。
こんなのテストすれば、まずいってこと数分でわかるじゃん。
対応者のおびえた口ぶりからして、相当な問合せ(クレーム?)が入っている模様。
「お客さまのおっしゃられた内容は、すべて担当部署にお伝えさせていただきますので・・・」としか言えないサポートスタッフがむしろ気の毒になった。
だめだよこのメーラー、おわってる。
「一刻もはやく元に戻して!」「一刻もはやく元に戻して!」「一刻もはやく元に戻して!」
goo事務局へのお問い合わせ
0570-064-984(有料サービス専用ダイヤル)
*受付時間は、平日10:00~18:00となります。
*通話料はお客様負担となります。
goo Simseller(シムセラー)に関するお問い合わせ
0570-666-072(有料サービス専用ダイヤル)
*受付時間は、平日10:00~17:00となります。
*通話料はお客様負担となります。
※他にもつながりやすい直通番号あるけど、とりあえず秘密
広報部署にも連絡した。
当方「今回のgooメールリニューアルにおいて、大きな問題が発生していることは企業として認識されていますか?」
先方「はい認識いたしております。お客さまにはたいへんご迷惑をおかけしております。」
今後の対応策が出次第、電話で連絡させることにした。(まぁ、当分かかってこないと思うが・・・)
2019/03/26UP
さきほど(3/25)唐突にリニューアルされた。
送信済みメール一覧で宛先が表示さずに自分のメアドが表示される。
ふざけるな、送信メール一覧で宛先(送信先)が表示されなくてどうする????
まさか、POP使ってデータ転送したんじゃないだろうな??
日付はいちいちソートしなおさないとガタガタだし、
一画面で5つくらいしか表示しないし
スクロールは遅いし、
ほとんど実用にならないレベル
さっき試しにGmail(無料)みてきたけど、こっちの方が100倍使いやすい。
さすがにもうダメかも・・・
こうやって嫌がらせしてユーザー減らして、しかるべきタイミングでメール事業から撤退っちゅううがった見方あるけど、ほんとにそう思えるような信じがたい改悪。
「元に戻して!」「元に戻して!」「元に戻して!」
不安定感がハンパなく、なにが起こってもおかしくない感じ。
これ、仕事で使ってる人相当きついと思う。
宅ふぁいる便みたいに運営企業が懺悔してニュースになれば、「すみません、ご存じかと思いますけど『宅ふぁいる便』が使えないもので・・・」と相手先に言い訳がきく。
どうせ、元に戻すとしても(しないか・・・)時間かかるんだし、素直に非を認めてニュースにしてほしい。これで少しは哀れなユーザーが救われる。
2019/03/24UP
なんか、このページへのアクセス日に日に増えているので、
やっぱり事態は相当深刻なのだと思う。
(ちなみに現時点で、当方は幸いにして まだリニューアルされていないので、その酷さ加減は実感していないけど・・・。
いつリニューアルするかわからないって、ふざけるな・・・、リニューアルするなら一番最後にしてくれっ! つったのがさりげに効いたのかもしれぬ(笑))
↑
「お客さまのおっしゃられるような事象※につきましては、他にお問い合わせはいただいておりません。」ってテクニカルサポートから初っ端は冷たくあしらわれたので、相当早い段階だったと思う。
(※勝手に新URLに飛ばされて、スマホからログインできない事象)
「gooメール」のトラブルの経緯 ~サービス投入優先、品質が後回しに~(日経コンピュータReport)
「反省するべき点はきわめて多い。ご迷惑をおかけした利用者の皆様には、深くお詫びする」。(gooメール事業部署事業部長)
っていいながら、ぜんぜん活かされてないじゃん。今回も・・・。
親方日の丸。当事者意識なし。そして技術力、ホントにあるのか????
このときは、あまりの苦情の殺到にインターフェース元に戻した前歴あるので、今回もお願いしたい。
NTTレゾナント、gooメールの不具合対策にシンプル版提供へ「5月末提供へ全力」
んなことに「全力」出すなら、ちゃんとテストしてからやれよ。 といいたい。
シンプル版、チェック中。(gooメールからのお知らせ)
相当こたえたみたいだけど、また同じ事やるか??
まだリニューアルしてないところは、とりあえず一旦中止して欲し (でもボックス容量は増やしてね近いうちに・・・(笑))
2019/03/07UP
このページ、このところアクセスが増えている、ということはやっぱり今回のリニューアルも問題ありということか・・・。
当然、速攻で電話して意見しましたよ、今回も・・・。
ただ、その後の対応(弥縫策だけど・・)がこの会社にしてはまともだったので、黙ってましたが・・・。
いきなり古いバージョン非対応の新アドレスに飛ばすのはまずいでしょう。なんぼなんでも・・・。
新バージョン、まだ使ってないけど、きっと使いにくくなってるよ(笑)
シンプル イズ ベスト、これ鉄則。(メールボックス容量UPは嬉しいけど・・・)
やっぱり予想どおり、今回も酷いことになっているようです。
→阿鼻叫喚のtwitter
「これは…どんな無能なヤツらが作ったんだ…?w 学生でももう少し良いもん作れるぞw」(twitterから引用)・・・ワロタ
→こちらも阿鼻叫喚(「元に戻して!」の悲痛な叫び多数。)
事前アナウンス&事後フォローなさすぎ。
今回のインターフェース、相当酷いらしい。
かなり前だが、あまりの苦情の殺到にインターフェース元に戻した前歴あるので、今回もお願いしたい。
(余計なことやらんでいいって! 前のままでボックス容量だけ増やすだけで・・)
当方は幸いにして? まだリニューアルされていないけど、あー、気が重い
いま知ったんだけど、gooブログ3/25にリニューアルですって!
嫌な予感しかしない。(バックアップデータとりあえず作成した。信用度0だから・・・。)
先回りして、また入れときます(爆)
---- 2015/01/09時点 ----
gooメールが昨日(1/8)午後リニューアルしました。
これがまたとんでもない内容。gooメールは2010年にリニューアルしたときに大混乱を巻き起こしたが(記事)、おそらくそれ以上のパニックが起こっているのでは。
最悪なのは、事前にロクな案内もなく旧バージョンからの返信&転送がいきなりできなくなったこと。
以前の送受信データを使ってのメール作成&送信(添付ファイル付のときは転送)は、ごくごくふつうの作業でしょう。
これができない・・・。(閲覧のみ)
なので、可及的すみやかに新バージョンにデータ移行しなければならないじゃが、これが異様にむずかしい。
これ、あっさり出来る人、どれだけいるのか知りたい。
じゃによって、この時点でどういうことになるかは、ITのスペシャリストじゃなくても容易に予想がつくと思うけどね・・・。
(技術的なリスクマネジメントできなくても、しっかり利用規約改定はしている、さすがに大企業!)
しかも、受信フォルダーと送信済フォルダーとアドレス帳データの移行方法がそれぞれちがう。
「送信済」フォルダーの移行はすごいですよ~。基本的に受信箱経由でしかデータ移行できないらしく、フィルター機能使って送信済データ抽出して「送信済」フォルダーに格納しないと復元?できない。
さっきまで悪戦苦闘してたけど、いまのところ、移行した「送信済み」フォルダーで旧「送信箱」の宛先が表示されず(発信者が表示される)、だれに出したメールかわからない状況。(これ直るかどうか問合せ中だが現在のところなしのつぶて。)
【後日確認】
「送付済み」BOXで宛先データ(CC、BCC含む、添付データもOK)は移行されています。
ただし、今回のデータ移行はPOP方式で、「転送」と同じ手法でやっているとみられ、そうなると送付先メールの頭に自動的に送信者のメアドが添付されるので、それで、"宛先"欄に自分のメアドが表示されてしまうのでは?
だとすると、自己メアドデータを削除すれば元に戻る(本来の宛先が表示される)と思うのだが、やり方わからないし、もしできたとしても個別削除では気の遠くなるような作業になりそう。
「送信済み」BOXの”宛先”の自己メアドを一括削除する方法が知りたい。
--------------------------------
でもって、非デフォルト(カスタム)とはいえ、この超リスキーな局面で「ダウンロード後にサーバー上のメッセージを削除」という機能をおくセンスが凄すぎ。
だって今、ユーザーに消させなくても、3ヶ月もしないうちにそちらで勝手に削除するんでしょ?
間違ってチェック入れて移行失敗したらどうするのよ?
技術者なら「フールプルーフ」って言葉くらい知ってるでしょ?
リニューアル前の案内メール中で、
「 **** リニューアルの2015年1月8日(木)前にお客様に実施いただくことはありません **** 」
って、リニューアルと同時に旧メールからいきなり返信・転送できなくなるんだったら、事前にやること大ありじゃがな。
企業側の都合でリニューアルするのに、なんで金払ってるユーザー側がこんな慣れない手作業せにゃならぬの? それも正月明けのこのクソ忙しい時期に。
NTTほどの技術力があれば、データ移行をサポートするスクリプトくらい簡単に設置できそな気もするが・・・。
でもって、旧メールシステムは「2015年3月24日(火)の翌日以降にメールデータを順次削除します。」だそうです。
そのうえ「2.データの移行(旧版→リニューアル版へ移行) ※希望される方のみ」ですって。
いまどき、過去メールデータの移行希望しない人ってどれだけいるのかしら?(無料メールならともかく、これって一応、課金メールですが・・・)
ふつうに考えれば、混乱を避けるために新旧バージョン併用(どちらもフル機能使える)期間を必ずおくでしょう。
それがいきなり×。返信できない=使えない。具体的な事前告知は皆無。
わざと混乱を招いているとしか思えない対応。
でもって、おそらくあせったユーザーがデータ移行に殺到し、
「ただいま、旧版gooメールへのPOPアクセスが集中しております。ご不便をおかけしますが、データ移行はしばらく時間をおいてから再度実施いただきますよう、ご理解とご協力のほどお願いいたします。」
だって・・・(笑)。
それにこれだけ大規模なデータ移行強いるのに、POP(ふつうのメール送受信の手法)つかわせるか?
旧バージョンはもはやつかいものにならないし、削除期限切られてるんだから、アクセス殺到してサーバーパンクするのあたりまえでは。
goo側の勝手気ままなリニューアルなんだし、サーバー側でBOXごと移行するのが筋というものかと。
新導入機能はどうでもいいものばかり、唯一欲しかったメールボックス容量UPは対応なし。
(目的は機能強化ではなく、おそらくセキュリティ面からか企業側のサーバー負担の軽減だと思う。)
このメールはシンプルさが売りだったので、べつにいまさらメーラー風のインターフェースなんて欲しくないし。
前のままで全然問題ないし。(gooメールに新しい機能や変化を求めているユーザーなんているのかしら?、容量増加は別として。)
どうしてもセキュリティ対応が必要なら、フォームをいじらずそれだけやれば?
なんだかなぁ、「さらに使いやすく、より安定したサービスを目指して」というのがどうやら今回のリニューアルのキャッチらしいが、個人的には(あくまで現状だが)「さらに使いにくく、より不安定なサービス」となったばかりか、ごく基本的なメールサービスの機能さえ果たしていないように感じる。
天下のNTT様の子(孫か?)会社がこのていたらく。前回の反省がまったく活かされていない。
(NTT系だから結局こういう対応になってしまうという捉え方もあるけどね。)
もともとユーザー対応の不得手な会社で、だからこんなサイト作られたりする。
有料化したとき浮遊ユーザーはみな切り捨てたし、今残っているのはブログなどとセット契約してたり、メアドを簡単に変えられないなど他社に移れないユーザーばっかり(わたしもその一人ですが・・・)という強気の姿勢見え見え。
まぁ、「本社(部)が決めたことだから、協力企業はそれに従うこと」って上意下達は、NTT様ならあたりまえの感覚かもしれないけど、今回の相手は発注先じゃなくて、一応お金を払っているお客じゃが・・・。
(「認識が甘い」といわれても反論できないかもですが、大切なデータ扱っているから、わざわざこの有料サイトにしている人もいると思います。)
近々にこのブログ、他社に移しちゃうかもしれません。
----1/10時点の状況----
やはりというか、当然というか、大変なことになっている模様です。ほとんど阿鼻叫喚状態。
まだまだ言いたいことはいっぱいあるのですが、そのほとんどについてこのサイトに的確かつ論理的なコメントが網羅されているので、これでこの件についてのカキコはやめます。 (コメントが表示されないときは、上から6行目の「コメント」をクリックすると出てきます。)
しかし、なんぼなんでもユーザーが可哀想すぎでは???。(ちなみにtwitterも阿鼻叫喚。)
わたしも被害者の一人で、とても冷静にはなれないのですが、メールというもはや日常不可欠なツールが企業の「ありえない暴挙」に晒されたとき、人々がどういう反応をするかという、社会実験にはなっていると思います。(→ このサイト、その意味からも一読の価値ありだと思います。企業側、このコメント群はCI的にひじょ~に厳しい感じするけど、前回同様消せないだろうな。)
ふつうに考えるととりあえず旧バージョンを一刻もはやく復旧 ~ リニューアル後の新版送受信メールは、当然goo側が旧版に入れ込む ~ するしか手はないと思うけどね。
まぁ、それやったとしても、これで決定的となったユーザーのNTTグループへの不信感は決して消えることはないと思うが・・・。
いずれにしてもgoo側の対応が見ものです。
(この状況で、リニューアル関係者はまさか優雅な3連休とっているとは思えないし、早急にしかるべきアナウンスがあるかと。)
※ エヌ・ティ・ティ レゾナント株式会社
の企業ミッションは、公式Webによると「私たちは、お客様の想いと行動を徹底的に『科学』し、知識と経験に基づく高い『技』をもって、驚きと感動のある『すごい!』サービスを創造し、お客様の現在と未来をつなぐ『発見』を提供します。」だそうです。
「知識と経験に基づく高い『技』」があるかはわかりませんが、確かに「驚きのある『すごい!』サービス」をもたらしてくれる企業であることは間違いないと思います。
----1/11時点の状況----
あまりに悲惨なので、もう1発だけおカキコします。
いや~、凄いですね。凄すぎる!
まさに阿鼻叫喚地獄。(→ こちら (コメントが表示されないときは、上から6行目の「コメント」をクリックすると出てきます。)
「親御さんからの想い出のメールがすべて飛んでしまった(かも)」って、お気の毒すぎてもはや言葉もない。
依然としてgooからの回答メールはなし。
この3連休で仕事のレポ2本仕上げなくちゃならんのだが、過去の送信済データをかなりつかう。
いまは、旧Vers.が閲覧だけはできるのでどうにかなるけど(検索はなんとなくこわくてできない)、これがgooによって強制削除されてしまった暁にはいったいどういうことになるのか、考えただけでも身の毛がよだつ。
あまりのショックに手が止まってしまい、仕事が進みません(泣)
メールって、受信箱だけじゃなくて、送信箱もそれと同じようにとっても大切なの。データベースなの。1分前に出したメールも5年前に出したメールも同一条件で瞬時に検索できないと意味がないの。
だからリニューアル事前案内で「1.メール検索の充実(パソコン版/スマートフォン版) メールの検索について、宛先、CC、差出人、件名、添付ファイル有無、日付のほか本文検索ができます。」って誇らしげに謳っているんでしょう? その矛盾に気づかないの?
それ以前にgooメール運営スタッフって、本当にgooメールつかったことあるの?
超ありえないけど、百歩譲ってデータ移行をユーザーがやるとしても、スペック的に送信箱やユーザー作成のオリジナルBOXを復元できないんじゃ、改悪といわざるを得ない。
これはどう考えてもメディア事業部だけで収まるとは思えない。
株主筋のNTTコムグループのみならず、その持株会社のご本尊様まで火の粉が飛んでいっちゃうかもよ。
だって、gooってNTTの一事業だと思っている人、意外に多いと思うので・・・。
「脳漿炸裂ガール」
新版、つかってみると違和感の嵐。「そのうち慣れる」的な意見もあるけど、すくなくとも個人的には合わないと思う。(「慣れる」と「使いやすい」は違う。)
もともと、Outiook系の煩雑さが嫌いで、シンプルな操作性のgooメールに移ってきたからなぁ。
シンプルモードに統一されて、スマホとの親和性もそこそこあって、なんの不満もなかったのに・・・。残念無念。
(シンプルモード統一時(2011年5月31日)、「今後は『簡単で軽い操作感』が特徴のシンプルモードをgooメールのインターフェースとして、より一層の改善を図り、皆さまに提供してまいります。」(公式ブログより)って、ついに方向感を定めたように見えたのに、いったい何が起こったんだろう。)
それと慣れ親しんだメール環境が吹っ飛んだのが痛い。(文字化けも痛いけど)
旧版ではほとんど無意識でつかいこなしていて、メールソフトを操作しているなんて感じ、一切なかったもんな。
なるほどデフォってカスタマイズ外されるっていうのは、こういうことなのか・・・。
よ~くわかりました。
----1/12----
さて、gooメールスタッフさん。
ユーザーにとって悪夢の3連休が終わりました。
そちらは優雅に3連休楽しまれたようですから、13日はしっかりとした対応、頼みますよ。
(こちらは結局、3連休のミッション終わらんかった。でも、「gooメールのせいですよ!」とは言えんからなぁ・・・ (大泣))
----1/14----
ユーザーを混乱に陥れて6日も放置したあと、ようやくgooからの案内がでました。
これだそうです。
で、「POP受信設定時のエラーメッセージ別の解消方法はこちら」だそうです。
でも、わからない人は依然としてわからないままでは?
問題の本質は「移行できない」ということではないです。
まさか気づかないわけないよね。韜晦だよね。
となると、あらま、THE END! といった感じですかな・・・。
う~ん、こういうやり方もあるのか・・・。びっくり。
■ CSR (wikiへリンク)
■ 説明責任 (同)
もう、ど~でもいいやって感じかな?(笑)
でも、これがまかり通るんだったら、日本はぜんぜんサービス大国じゃないですね・・・
<しょうもないやりとり_20150206>
> メール本文欄に記載されている関連リンクは
> 解除ができない仕様となっております。
操作性や認識性に影響を与える付加機能を追加する場合は、カスタムとするか、デフォルトにしたとしても解除する機能を必ず付けてください。
勝手に付けられた必要もない機能を外したいユーザーはたくさんいます。
個人的にはgooメールユーザーの大多数は、旧Vers.に戻すことを望んでいると確信していますが、どうしても戻せないならば、せめて、旧Vers.のインターフェースに近づけるべく早急に改良を進めてください。
ソフトウェアはすべからくそうですが、とくにメールソフトは「シンプル イズ ベスト」です。
ユーザーの声に少しは耳を傾けてください。
とまぁ、とりあえず言うだけは言ってみる・・・(笑)
平素よりgooメールをご利用いただき誠にありがとうございます。
gooメールでは、2023年5月29日(月)に以下の機能の改修および終了を予定しています。
---------------------------------
4月にこのメールを受け取ったとき、嫌な予感はしていたが、どうやらまたやらかしたらしい。
メールが使い物にならないんですけど・・・。
ホントに学習しないは、この会社・・・。
リニューアルする度に酷くなってく。
(現在、先方窓口とやりとり中)
↓ 先回りして、また入れときます(笑)
■【脳漿炸裂ガール】96猫Ver
エキサイトする、前回2019年のユーザーコメント欄 → こちら
「どんだけ技術力無いの? ただのwebメールだよ? 半年もあればそこらの個人でも組んでますよ?」
↑ 上記コメント欄より引用
今回もまた、これ言えそう。
多くのユーザーはとっくに愛想つかして他社に乗り換えてると思うし、あまり問題にならんかも・・・。
でも、未だにこんな使い勝手の悪いメーラー使いつづけている人は、それなりに理由がある筈だから、それだけにタチが悪い。
※ エヌ・ティ・ティ レゾナント株式会社
の企業ミッションは、公式Webによると「私たちは、お客様の想いと行動を徹底的に『科学』し、知識と経験に基づく高い『技』をもって、驚きと感動のある『すごい!』サービスを創造し、お客様の現在と未来をつなぐ『発見』を提供します。」だそうです。
「知識と経験に基づく高い『技』」があるかはわかりませんが、確かに毎回リニューアルの度に「驚きのある『すごい!』サービス?」をもたらしてくれる企業であることは間違いないと思います。
-------------------------
2019/04/04UP
つ~か、↓こんなのが
よくある質問で寄せられてる時点で終わってるじゃん。メーラーとして。
どれも致命傷。
いわれたとおりにやっても、2ページ以降印刷できないんですけど・・・。
それに何これ?→送信済みフォルダの一覧表示に送信先は表示されません
ふつうにあり得ないでしょ。
「お手数をお掛けしますが、送信済みメールを開いて送信先を確認してください。」
↑ユーザーを意図的に怒らそうとしているとしか思えない。
やっぱり本音はgooメール止めたいって事か?
そうだとしたらやり口がエゲツなさすぎる。
未だにこの不具合(というかメーラーとして崩壊)についてオフィシャルなコメントないし、企業として最低最悪の対応。
■ CSR (wikiへリンク)
■ 説明責任 (同)
まぁ、ここまでど最悪なリニューアル(?)やらかしたら、さすがに温厚なユーザーさんたちも黙ってないですね。↓
エキサイトするコメント欄
↑この記事タイトル、2015年1月リニューアルのときにつけたやつだけど、それよりはるかに酷いわ、今回の。
戻した方がいいって、まじで。(続ける気あるなら、だけど・・・)
2019/03/28UP
goo事務局から昨日AMに連絡がきた。
けっこうレスポンス速い、と思ったら、以前のやりとりで、対応が速くて的確だと思ったスタッフからだった。
このスタッフはこちらのいわんとしていることは十分に理解している雰囲気だが、
現時点では今後の対応について確たることは言えない様子だった。(苦しそう(笑))
ただ、下記の不具合への対応については、担当部署で検討しているとの由。(するしないも含めて、だと思う。)
なにか動きがあれば、電話が入ることになっています。
それとは別に先ほど新たな不具合発生。
クライアントに送った添付ファイル付メールで、エラー(550 High probability of spam)発生でファイルが削除されて受信。
Webメールなので、相手方の設定によっては迷惑メールボックス直行したり、こういうこともなきにしもあらずだが、
送付先はリニューアル前に何百回とファイルのやりとりをし、これまで一度もこういう不具合は発生していない。
クライアントから、「ひょっとしてウィルス感染(笑)?」と突っ込まれてしまいました。
信用問題だよ、まぢで・・・(怒)
添付したファイル、セキュリティスキャンしても「脅威なし」だし、
Gmailで送付したら何の問題もなく送れたし・・・。
これについては、関連通信データをgooに送って解析中。
これは使い勝手の問題じゃないので、ことはさらに重大。
最悪、Gmailで送り直せばなんとかなると思うが、仕事の効率著しく阻害。
いっそのことGmailに移行したいが、メアド変更の手続きが諸々たいへんすぎて気が重い。
しばらくはgooの対応の様子見かな?
2014.07.03羅小白高雄夢時代(畢畢畢+一級棒+姊姊)
イライラしてる方、↑でもみて気分を晴らしてください(笑)
---------------------------------
3/25のgooブログリニューアル、現時点では予想したほど悪くなく、ひとまずはほっと一息。
今回、いろいろ追加機能付いてるけど、ほとんどカスタマイズ機能で、使わなければ基本操作に影響なし。
インターフェイスデザインが若干変わってるけど、メニューの位置はほとんど変わらず、違和感もすぐに消えると思う。
なにより、「基本操作メニューの位置を動かさない。」というスタンスがいい。(ほとんど見ないで感覚で操作してるのでこれ重要。)
操作スピードも若干はやくなった感じもするし、こういうのが「リニューアル」だと思う。
それにしても、gooブログは無料(わたしはプレミア版で有料だけど)でgooメールは有料。
対応内容が逆では?
2019/03/26UP
この状況じゃ仕事にならんので、サポートに電話した。
1.送信済みメール一覧で宛先(送信先)が表示されない件
(答え)”仕様”だそうです。(わたしだけではない感じ)
2.日付がガタガタの件
(答え)”仕様”だそうです。(これもわたしだけではない感じ)
3.一画面で5つくらいしか表示されない件
(答え)「一覧の分割表示」で「左右に分割」か「分割なし」を選択ください。
3.については、まあ我慢できるレベルにもっていけた。
※「分割なし」選択しないと、メール本文きちんと印刷できません。たぶん。
1.について
論外。送信済みメール一覧で宛先(送信先)が表示されなくてどうする????
いったい何考えてんだが意味わからず。
とくにスマホの場合、本文もろくに表示されないのだから、誰に送ったメールかほとんど識別不能。
メーラーとしてあり得ない仕様。
2.について
これは憶測だが、古いメールの添付ファイル削除すると、その削除日時がログされて、そのデータでソートされて表示される。
こんなのテストすれば、まずいってこと数分でわかるじゃん。
対応者のおびえた口ぶりからして、相当な問合せ(クレーム?)が入っている模様。
「お客さまのおっしゃられた内容は、すべて担当部署にお伝えさせていただきますので・・・」としか言えないサポートスタッフがむしろ気の毒になった。
だめだよこのメーラー、おわってる。
「一刻もはやく元に戻して!」「一刻もはやく元に戻して!」「一刻もはやく元に戻して!」
goo事務局へのお問い合わせ
0570-064-984(有料サービス専用ダイヤル)
*受付時間は、平日10:00~18:00となります。
*通話料はお客様負担となります。
goo Simseller(シムセラー)に関するお問い合わせ
0570-666-072(有料サービス専用ダイヤル)
*受付時間は、平日10:00~17:00となります。
*通話料はお客様負担となります。
※他にもつながりやすい直通番号あるけど、とりあえず秘密
広報部署にも連絡した。
当方「今回のgooメールリニューアルにおいて、大きな問題が発生していることは企業として認識されていますか?」
先方「はい認識いたしております。お客さまにはたいへんご迷惑をおかけしております。」
今後の対応策が出次第、電話で連絡させることにした。(まぁ、当分かかってこないと思うが・・・)
2019/03/26UP
さきほど(3/25)唐突にリニューアルされた。
送信済みメール一覧で宛先が表示さずに自分のメアドが表示される。
ふざけるな、送信メール一覧で宛先(送信先)が表示されなくてどうする????
まさか、POP使ってデータ転送したんじゃないだろうな??
日付はいちいちソートしなおさないとガタガタだし、
一画面で5つくらいしか表示しないし
スクロールは遅いし、
ほとんど実用にならないレベル
さっき試しにGmail(無料)みてきたけど、こっちの方が100倍使いやすい。
さすがにもうダメかも・・・
こうやって嫌がらせしてユーザー減らして、しかるべきタイミングでメール事業から撤退っちゅううがった見方あるけど、ほんとにそう思えるような信じがたい改悪。
「元に戻して!」「元に戻して!」「元に戻して!」
不安定感がハンパなく、なにが起こってもおかしくない感じ。
これ、仕事で使ってる人相当きついと思う。
宅ふぁいる便みたいに運営企業が懺悔してニュースになれば、「すみません、ご存じかと思いますけど『宅ふぁいる便』が使えないもので・・・」と相手先に言い訳がきく。
どうせ、元に戻すとしても(しないか・・・)時間かかるんだし、素直に非を認めてニュースにしてほしい。これで少しは哀れなユーザーが救われる。
2019/03/24UP
なんか、このページへのアクセス日に日に増えているので、
やっぱり事態は相当深刻なのだと思う。
(ちなみに現時点で、当方は幸いにして まだリニューアルされていないので、その酷さ加減は実感していないけど・・・。
いつリニューアルするかわからないって、ふざけるな・・・、リニューアルするなら一番最後にしてくれっ! つったのがさりげに効いたのかもしれぬ(笑))
↑
「お客さまのおっしゃられるような事象※につきましては、他にお問い合わせはいただいておりません。」ってテクニカルサポートから初っ端は冷たくあしらわれたので、相当早い段階だったと思う。
(※勝手に新URLに飛ばされて、スマホからログインできない事象)
「gooメール」のトラブルの経緯 ~サービス投入優先、品質が後回しに~(日経コンピュータReport)
「反省するべき点はきわめて多い。ご迷惑をおかけした利用者の皆様には、深くお詫びする」。(gooメール事業部署事業部長)
っていいながら、ぜんぜん活かされてないじゃん。今回も・・・。
親方日の丸。当事者意識なし。そして技術力、ホントにあるのか????
このときは、あまりの苦情の殺到にインターフェース元に戻した前歴あるので、今回もお願いしたい。
NTTレゾナント、gooメールの不具合対策にシンプル版提供へ「5月末提供へ全力」
んなことに「全力」出すなら、ちゃんとテストしてからやれよ。 といいたい。
シンプル版、チェック中。(gooメールからのお知らせ)
相当こたえたみたいだけど、また同じ事やるか??
まだリニューアルしてないところは、とりあえず一旦中止して欲し (でもボックス容量は増やしてね近いうちに・・・(笑))
2019/03/07UP
このページ、このところアクセスが増えている、ということはやっぱり今回のリニューアルも問題ありということか・・・。
当然、速攻で電話して意見しましたよ、今回も・・・。
ただ、その後の対応(弥縫策だけど・・)がこの会社にしてはまともだったので、黙ってましたが・・・。
いきなり古いバージョン非対応の新アドレスに飛ばすのはまずいでしょう。なんぼなんでも・・・。
新バージョン、まだ使ってないけど、きっと使いにくくなってるよ(笑)
シンプル イズ ベスト、これ鉄則。(メールボックス容量UPは嬉しいけど・・・)
やっぱり予想どおり、今回も酷いことになっているようです。
→阿鼻叫喚のtwitter
「これは…どんな無能なヤツらが作ったんだ…?w 学生でももう少し良いもん作れるぞw」(twitterから引用)・・・ワロタ
→こちらも阿鼻叫喚(「元に戻して!」の悲痛な叫び多数。)
事前アナウンス&事後フォローなさすぎ。
今回のインターフェース、相当酷いらしい。
かなり前だが、あまりの苦情の殺到にインターフェース元に戻した前歴あるので、今回もお願いしたい。
(余計なことやらんでいいって! 前のままでボックス容量だけ増やすだけで・・)
当方は幸いにして? まだリニューアルされていないけど、あー、気が重い
いま知ったんだけど、gooブログ3/25にリニューアルですって!
嫌な予感しかしない。(バックアップデータとりあえず作成した。信用度0だから・・・。)
先回りして、また入れときます(爆)
---- 2015/01/09時点 ----
gooメールが昨日(1/8)午後リニューアルしました。
これがまたとんでもない内容。gooメールは2010年にリニューアルしたときに大混乱を巻き起こしたが(記事)、おそらくそれ以上のパニックが起こっているのでは。
最悪なのは、事前にロクな案内もなく旧バージョンからの返信&転送がいきなりできなくなったこと。
以前の送受信データを使ってのメール作成&送信(添付ファイル付のときは転送)は、ごくごくふつうの作業でしょう。
これができない・・・。(閲覧のみ)
なので、可及的すみやかに新バージョンにデータ移行しなければならないじゃが、これが異様にむずかしい。
これ、あっさり出来る人、どれだけいるのか知りたい。
じゃによって、この時点でどういうことになるかは、ITのスペシャリストじゃなくても容易に予想がつくと思うけどね・・・。
(技術的なリスクマネジメントできなくても、しっかり利用規約改定はしている、さすがに大企業!)
しかも、受信フォルダーと送信済フォルダーとアドレス帳データの移行方法がそれぞれちがう。
「送信済」フォルダーの移行はすごいですよ~。基本的に受信箱経由でしかデータ移行できないらしく、フィルター機能使って送信済データ抽出して「送信済」フォルダーに格納しないと復元?できない。
さっきまで悪戦苦闘してたけど、いまのところ、移行した「送信済み」フォルダーで旧「送信箱」の宛先が表示されず(発信者が表示される)、だれに出したメールかわからない状況。(これ直るかどうか問合せ中だが現在のところなしのつぶて。)
【後日確認】
「送付済み」BOXで宛先データ(CC、BCC含む、添付データもOK)は移行されています。
ただし、今回のデータ移行はPOP方式で、「転送」と同じ手法でやっているとみられ、そうなると送付先メールの頭に自動的に送信者のメアドが添付されるので、それで、"宛先"欄に自分のメアドが表示されてしまうのでは?
だとすると、自己メアドデータを削除すれば元に戻る(本来の宛先が表示される)と思うのだが、やり方わからないし、もしできたとしても個別削除では気の遠くなるような作業になりそう。
「送信済み」BOXの”宛先”の自己メアドを一括削除する方法が知りたい。
--------------------------------
でもって、非デフォルト(カスタム)とはいえ、この超リスキーな局面で「ダウンロード後にサーバー上のメッセージを削除」という機能をおくセンスが凄すぎ。
だって今、ユーザーに消させなくても、3ヶ月もしないうちにそちらで勝手に削除するんでしょ?
間違ってチェック入れて移行失敗したらどうするのよ?
技術者なら「フールプルーフ」って言葉くらい知ってるでしょ?
リニューアル前の案内メール中で、
「 **** リニューアルの2015年1月8日(木)前にお客様に実施いただくことはありません **** 」
って、リニューアルと同時に旧メールからいきなり返信・転送できなくなるんだったら、事前にやること大ありじゃがな。
企業側の都合でリニューアルするのに、なんで金払ってるユーザー側がこんな慣れない手作業せにゃならぬの? それも正月明けのこのクソ忙しい時期に。
NTTほどの技術力があれば、データ移行をサポートするスクリプトくらい簡単に設置できそな気もするが・・・。
でもって、旧メールシステムは「2015年3月24日(火)の翌日以降にメールデータを順次削除します。」だそうです。
そのうえ「2.データの移行(旧版→リニューアル版へ移行) ※希望される方のみ」ですって。
いまどき、過去メールデータの移行希望しない人ってどれだけいるのかしら?(無料メールならともかく、これって一応、課金メールですが・・・)
ふつうに考えれば、混乱を避けるために新旧バージョン併用(どちらもフル機能使える)期間を必ずおくでしょう。
それがいきなり×。返信できない=使えない。具体的な事前告知は皆無。
わざと混乱を招いているとしか思えない対応。
でもって、おそらくあせったユーザーがデータ移行に殺到し、
「ただいま、旧版gooメールへのPOPアクセスが集中しております。ご不便をおかけしますが、データ移行はしばらく時間をおいてから再度実施いただきますよう、ご理解とご協力のほどお願いいたします。」
だって・・・(笑)。
それにこれだけ大規模なデータ移行強いるのに、POP(ふつうのメール送受信の手法)つかわせるか?
旧バージョンはもはやつかいものにならないし、削除期限切られてるんだから、アクセス殺到してサーバーパンクするのあたりまえでは。
goo側の勝手気ままなリニューアルなんだし、サーバー側でBOXごと移行するのが筋というものかと。
新導入機能はどうでもいいものばかり、唯一欲しかったメールボックス容量UPは対応なし。
(目的は機能強化ではなく、おそらくセキュリティ面からか企業側のサーバー負担の軽減だと思う。)
このメールはシンプルさが売りだったので、べつにいまさらメーラー風のインターフェースなんて欲しくないし。
前のままで全然問題ないし。(gooメールに新しい機能や変化を求めているユーザーなんているのかしら?、容量増加は別として。)
どうしてもセキュリティ対応が必要なら、フォームをいじらずそれだけやれば?
なんだかなぁ、「さらに使いやすく、より安定したサービスを目指して」というのがどうやら今回のリニューアルのキャッチらしいが、個人的には(あくまで現状だが)「さらに使いにくく、より不安定なサービス」となったばかりか、ごく基本的なメールサービスの機能さえ果たしていないように感じる。
天下のNTT様の子(孫か?)会社がこのていたらく。前回の反省がまったく活かされていない。
(NTT系だから結局こういう対応になってしまうという捉え方もあるけどね。)
もともとユーザー対応の不得手な会社で、だからこんなサイト作られたりする。
有料化したとき浮遊ユーザーはみな切り捨てたし、今残っているのはブログなどとセット契約してたり、メアドを簡単に変えられないなど他社に移れないユーザーばっかり(わたしもその一人ですが・・・)という強気の姿勢見え見え。
まぁ、「本社(部)が決めたことだから、協力企業はそれに従うこと」って上意下達は、NTT様ならあたりまえの感覚かもしれないけど、今回の相手は発注先じゃなくて、一応お金を払っているお客じゃが・・・。
(「認識が甘い」といわれても反論できないかもですが、大切なデータ扱っているから、わざわざこの有料サイトにしている人もいると思います。)
近々にこのブログ、他社に移しちゃうかもしれません。
----1/10時点の状況----
やはりというか、当然というか、大変なことになっている模様です。ほとんど阿鼻叫喚状態。
まだまだ言いたいことはいっぱいあるのですが、そのほとんどについてこのサイトに的確かつ論理的なコメントが網羅されているので、これでこの件についてのカキコはやめます。 (コメントが表示されないときは、上から6行目の「コメント」をクリックすると出てきます。)
しかし、なんぼなんでもユーザーが可哀想すぎでは???。(ちなみにtwitterも阿鼻叫喚。)
わたしも被害者の一人で、とても冷静にはなれないのですが、メールというもはや日常不可欠なツールが企業の「ありえない暴挙」に晒されたとき、人々がどういう反応をするかという、社会実験にはなっていると思います。(→ このサイト、その意味からも一読の価値ありだと思います。企業側、このコメント群はCI的にひじょ~に厳しい感じするけど、前回同様消せないだろうな。)
ふつうに考えるととりあえず旧バージョンを一刻もはやく復旧 ~ リニューアル後の新版送受信メールは、当然goo側が旧版に入れ込む ~ するしか手はないと思うけどね。
まぁ、それやったとしても、これで決定的となったユーザーのNTTグループへの不信感は決して消えることはないと思うが・・・。
いずれにしてもgoo側の対応が見ものです。
(この状況で、リニューアル関係者はまさか優雅な3連休とっているとは思えないし、早急にしかるべきアナウンスがあるかと。)
※ エヌ・ティ・ティ レゾナント株式会社
の企業ミッションは、公式Webによると「私たちは、お客様の想いと行動を徹底的に『科学』し、知識と経験に基づく高い『技』をもって、驚きと感動のある『すごい!』サービスを創造し、お客様の現在と未来をつなぐ『発見』を提供します。」だそうです。
「知識と経験に基づく高い『技』」があるかはわかりませんが、確かに「驚きのある『すごい!』サービス」をもたらしてくれる企業であることは間違いないと思います。
----1/11時点の状況----
あまりに悲惨なので、もう1発だけおカキコします。
いや~、凄いですね。凄すぎる!
まさに阿鼻叫喚地獄。(→ こちら (コメントが表示されないときは、上から6行目の「コメント」をクリックすると出てきます。)
「親御さんからの想い出のメールがすべて飛んでしまった(かも)」って、お気の毒すぎてもはや言葉もない。
依然としてgooからの回答メールはなし。
この3連休で仕事のレポ2本仕上げなくちゃならんのだが、過去の送信済データをかなりつかう。
いまは、旧Vers.が閲覧だけはできるのでどうにかなるけど(検索はなんとなくこわくてできない)、これがgooによって強制削除されてしまった暁にはいったいどういうことになるのか、考えただけでも身の毛がよだつ。
あまりのショックに手が止まってしまい、仕事が進みません(泣)
メールって、受信箱だけじゃなくて、送信箱もそれと同じようにとっても大切なの。データベースなの。1分前に出したメールも5年前に出したメールも同一条件で瞬時に検索できないと意味がないの。
だからリニューアル事前案内で「1.メール検索の充実(パソコン版/スマートフォン版) メールの検索について、宛先、CC、差出人、件名、添付ファイル有無、日付のほか本文検索ができます。」って誇らしげに謳っているんでしょう? その矛盾に気づかないの?
それ以前にgooメール運営スタッフって、本当にgooメールつかったことあるの?
超ありえないけど、百歩譲ってデータ移行をユーザーがやるとしても、スペック的に送信箱やユーザー作成のオリジナルBOXを復元できないんじゃ、改悪といわざるを得ない。
これはどう考えてもメディア事業部だけで収まるとは思えない。
株主筋のNTTコムグループのみならず、その持株会社のご本尊様まで火の粉が飛んでいっちゃうかもよ。
だって、gooってNTTの一事業だと思っている人、意外に多いと思うので・・・。
「脳漿炸裂ガール」
新版、つかってみると違和感の嵐。「そのうち慣れる」的な意見もあるけど、すくなくとも個人的には合わないと思う。(「慣れる」と「使いやすい」は違う。)
もともと、Outiook系の煩雑さが嫌いで、シンプルな操作性のgooメールに移ってきたからなぁ。
シンプルモードに統一されて、スマホとの親和性もそこそこあって、なんの不満もなかったのに・・・。残念無念。
(シンプルモード統一時(2011年5月31日)、「今後は『簡単で軽い操作感』が特徴のシンプルモードをgooメールのインターフェースとして、より一層の改善を図り、皆さまに提供してまいります。」(公式ブログより)って、ついに方向感を定めたように見えたのに、いったい何が起こったんだろう。)
それと慣れ親しんだメール環境が吹っ飛んだのが痛い。(文字化けも痛いけど)
旧版ではほとんど無意識でつかいこなしていて、メールソフトを操作しているなんて感じ、一切なかったもんな。
なるほどデフォってカスタマイズ外されるっていうのは、こういうことなのか・・・。
よ~くわかりました。
----1/12----
さて、gooメールスタッフさん。
ユーザーにとって悪夢の3連休が終わりました。
そちらは優雅に3連休楽しまれたようですから、13日はしっかりとした対応、頼みますよ。
(こちらは結局、3連休のミッション終わらんかった。でも、「gooメールのせいですよ!」とは言えんからなぁ・・・ (大泣))
----1/14----
ユーザーを混乱に陥れて6日も放置したあと、ようやくgooからの案内がでました。
これだそうです。
で、「POP受信設定時のエラーメッセージ別の解消方法はこちら」だそうです。
でも、わからない人は依然としてわからないままでは?
問題の本質は「移行できない」ということではないです。
まさか気づかないわけないよね。韜晦だよね。
となると、あらま、THE END! といった感じですかな・・・。
う~ん、こういうやり方もあるのか・・・。びっくり。
■ CSR (wikiへリンク)
■ 説明責任 (同)
もう、ど~でもいいやって感じかな?(笑)
でも、これがまかり通るんだったら、日本はぜんぜんサービス大国じゃないですね・・・
<しょうもないやりとり_20150206>
> メール本文欄に記載されている関連リンクは
> 解除ができない仕様となっております。
操作性や認識性に影響を与える付加機能を追加する場合は、カスタムとするか、デフォルトにしたとしても解除する機能を必ず付けてください。
勝手に付けられた必要もない機能を外したいユーザーはたくさんいます。
個人的にはgooメールユーザーの大多数は、旧Vers.に戻すことを望んでいると確信していますが、どうしても戻せないならば、せめて、旧Vers.のインターフェースに近づけるべく早急に改良を進めてください。
ソフトウェアはすべからくそうですが、とくにメールソフトは「シンプル イズ ベスト」です。
ユーザーの声に少しは耳を傾けてください。
とまぁ、とりあえず言うだけは言ってみる・・・(笑)
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