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■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-6

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で出てくる寺院もけっこうあるので、こちらも「鎌倉殿の13人」と御朱印「鎌倉市の御朱印」と併行してUPしていきます。

新型コロナウイルス感染拡大警戒中です。また、令和3年7月伊豆山土砂災害等の影響も懸念され、寺社様によっては御朱印授与を中止されている可能性があります。ご留意をお願いします。

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伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-2
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-3
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5から。
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-6
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-7へ。

〔 参考文献 〕
『こころの旅』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 こころの旅』(㈱ピーシードクター 刊)
『霊場めぐり』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 霊場めぐり』(伊豆観光霊跡振興会 刊)
を示します。


■ 第42番 大浦山 長楽寺(ちょうらくじ)
下田市Web資料
下田市観光ガイド
伊豆88遍路の紹介ページ
下田市三丁目13-19
高野山真言宗
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
他札所:伊豆横道三十三観音霊場第23番、伊豆国(下田南伊豆)七福神(弁財天)
授与所:庫裡

安政元年(1854年)12月、大目付格・筒井政憲/勘定奉行・川路聖謨とロシア全権提督・プチャーチンとの間で日露和親条約(日露通好条約)が締結、翌年1月に日本側応接掛・井戸対馬守等と米国使節・アダムス中佐との間で日米和親条約批准書の交換が行われた寺院で、下田市の文化財に指定されています。

現地由緒書には「真言宗 弘治元年(1555)中興開山尊有により再興創建」と明記されていますが、草創年代は諸説あるようです。

現在の長楽寺は、明治初頭の神仏分離令で廃寺の危機に追い込まれた際、法光院長命寺と合併することで存続したといいます。

法光院長命寺は、ペリー艦隊に便乗して海外渡航するという企てに失敗した吉田松陰と金子重輔が一時拘禁された寺で、長命寺跡地は「吉田松陰拘禁之跡(長命寺跡)」として下田市の文化財に指定されています。

長楽寺について、『豆州志稿』には「下田町七間 真言宗 紀州高野山金剛峯寺末 本尊薬師 本尊薬師文明七年(1475年)之ヲ鍋田ノ海ニ得タリト 今尊有ヲ以テ開山トス(承應元年(1652年)入滅) 北條氏勝ノ文書ヲ蔵ム」とあります。

『豆州志稿』で法光院長命寺についての記載はみあたりませんでした。

文明七年(1475年)に鍋田の海(岸)に示現された薬師如来を僧尊宥(承應元年(1652年寂)が御本尊として開山という説があります。
当初は薬師院長楽寺と号して別の地にあったものを、弘治元年(1555年)に僧尊宥が現在地に移して再興開山という説もあります。

『霊場めぐり』では長楽寺の旧地は大浦の大浦堂(西向院)という説を紹介しています。

文明七年(1475年)に鍋田の海(岸)で示現された薬師如来が大浦の薬師院長楽寺で祀られ、弘治元年(1555年)に僧尊宥が現在地に移して再興開山という流れではないでしょうか。

伊豆横道三十三観音霊場第23番の札所ですが、札所本尊の聖観世音菩薩はもともと法光院長命寺の御本尊と伝わります。

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【写真 上(左)】 案内看板
【写真 下(右)】 山内

市内中心部ペリーロードのそばにあり、下田の観光ルートに組み込まれています。
なぜか山門の写真がみつからないので、山門はなかったかもしれません。
塀はナマコ壁で、南伊豆らしさを盛り上げています。


【写真 上(左)】 十二支守り本尊とナマコ壁
【写真 下(右)】 弁財天?

山内左手の朱の鳥居のお堂が七福神の弁財天とも思いましたが、本堂内かもしれません。
市の観光資料には「おすみ弁天」とありますが、こちらが七福神の札所本尊かどうかは不明です。
また、山内には宝物館があり、「お吉観音」が祀られています。吉田松陰ゆかりの遺品も収められているようです。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂はおそらく宝形造で、頂部にはしっかり露盤、伏鉢、宝珠の3点セットが置かれています。
桟瓦葺。流れ向拝が設けられ飾り瓦つきの降り棟もあるので、典型的な宝形造ではありません。
水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻。

こぶりながら、端正にまとまったいい堂宇です。


【写真 上(左)】 木鼻の獅子
【写真 下(右)】 3種の御朱印

御朱印は庫裡にて拝受しました。
こちらは伊豆八十八ヶ所(薬師如来)、伊豆横道三十三観音(聖観世音菩薩)、伊豆国(下田南伊豆)七福神(弁財天)の3種の御朱印を授与されています。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 薬師如来

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 伊豆横道三十三観音霊場の御朱印 〕
● 聖観世音菩薩


〔 伊豆国(下田南伊豆)七福神の御朱印 〕
● 弁財天



■ 第43番 乳峰山 大安寺(だいあんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
下田市四丁目2-1
曹洞宗
御本尊:釈迦如来
札所本尊:釈迦如来
他札所:伊豆国(下田南伊豆)七福神(大黒天)
授与所:庫裡

当初は小田原にあったともいわれ、暘谷山因善寺と号した真言宗寺院でしたが、天正十年(1590年)寂用英順が相州香雲寺の実堂宗梅を請じて開山とし、曹洞宗に改め改号と伝わります。(異説あり)

『豆州志稿』には「下田町山岸 曹洞宗 相州田原香雲寺末 本尊釋迦 本真言宗ニシテ因善寺ト号ス 天文中(1532-1555年)僧寂用再興改宗シテ寺号ヲ改ム 後天正十九年(1591年)戸田三郎右衛門忠次中興スト云 或ハ云永禄中(1558-1570年)寶堂和尚今ノ宗トシ寺名ヲ改ムト 天文十六年(1547年)明ノ商客李金橋養眞軒ノ記ヲ作ル 養眞軒ハ当寺ノ住層寂用和尚ノ号ナリ 此時改宗シテ香雲寺ニ隷ス 天正八年(1580年)北條氏政ノ寄進状を蔵ス 薬師堂太子堂天神祠倶寺域」とあります。  

将軍綱吉公代の貞享五年(1688年)3月、日向国佐土原藩主が将軍家御用材を御手船に積み江戸へ送る途中、遠州灘で嵐に遭い、やむなく積荷の一部を海に捨て難を逃れました。
しかし乗組員16名は御用材を海に捨てた責任をとって全員が切腹し、大安寺に埋葬されました。
船に残されていた材木は、大安寺の本堂の柱としていまも残っているそうです。
乗組員16名の墓は「薩摩十六烈士の墓」として下田市の文化財に指定されています。

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【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額

伊豆急下田駅から南にのびる「マイマイ通り」は下田のメインストリート。
この通りから、西側山手に向かって稲田寺、海善寺、宝福寺、八幡神社、大安寺、本覚寺、泰平寺、正面に了仙寺と並びさながら寺社町の様相を呈しています。
(そのほとんどが御朱印を授与され、下田は伊豆でも有数の御朱印エリアです。)

大安寺はそのまんなかにあり、「マイマイ通り」に向かって長く参道を延ばしています。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山内

山門は切妻屋根銅板葺の薬医門で、山号扁額を掲げています。
山門まわりはこぢんまりとした感じですが、山内は思いのほか広がりがあります。


【写真 上(左)】 列士墓所の案内
【写真 下(右)】 本堂

山門正面が本堂、その左手に聖観世音菩薩像、地蔵尊、鐘楼、その奥に切妻造のお堂。
お堂内の尊格は不明ですが、『豆州志稿』に「薬師堂太子堂天神祠倶寺域」とあるので薬師堂か太子堂かもしれません。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂まわり

本堂は入母屋造本瓦葺の風格ある建物で向拝柱はありません。
向拝見上げに寺号扁額。
本堂前は多重塔、狛犬、石灯籠、摩尼車、天水鉢と賑やかです。
この摩尼車は、摩訶般若波羅蜜多心経、大悲心陀羅尼、消災妙吉祥陀羅尼、舎利礼文、四弘誓願文と刻まれたすぐれものです。


【写真 上(左)】 摩尼車
【写真 下(右)】 向拝

七福神の大黒天は本堂向かって左手にお前立が御座しましたが、御本尊は本堂内のようです。

本堂内は華やかで、見上げには「大覚尊」の扁額が掲げられていました。


【写真 上(左)】 向拝扁額
【写真 下(右)】 本堂内扁額

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 釈迦如来

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 伊豆国(下田南伊豆)七福神の御朱印 〕
● 大黒天



■ 第44番 湯谷山 廣台寺(こうだいじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
下田市蓮台寺140
曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:伊豆横道三十三観音霊場第19番
授与所:庫裡

蓮台寺温泉は奈良時代、行基菩薩による開湯とも伝わる南伊豆有数の名湯です。
廣台寺はこの蓮台寺温泉にある曹洞宗寺院です。

当初は藤原峯上(那岐里山)の桂昌庵という真言宗の小庵でしたが、慶長十七年(1612年)現在地に移り格雄宗逸和尚により曹洞宗に改宗して開山、湯谷山廣台寺と号を改めました。

『豆州志稿』には「蓮臺寺村 曹洞宗 吉佐美曹洞院末 本尊観世音 昔那岐里山ニ在リ 以テ山号トセリ 元和(1615-1624年)寛永(1624-1644年)ノ間今ノ地ニ移シ 以格雄和尚初祖トス 初桂昌庵ト号ス 格雄ノ時改称ス」とあります。

安政元年(1854年)の大津波の際、下田に滞在していたロシアのプチャーチン提督と勘定奉行川路聖謨が当寺に避難しています。

明治の初年には、地名のもととなった旧蓮臺寺の御本尊・大日如来が当寺で護持されていたとも伝わります。
蓮臺寺についても『豆州志稿』に記載がありました。
「蓮臺寺村号温泉山 天平勝寶三年(751年)行基開場 承久(1219-1222年)の頃廃ス 尚小堂ヲ立テヽ本尊大日ノ像ヲ安ス 村名蓋シ寺号ヨリ起ル」

現在、この旧蓮臺寺の御本尊・木造大日如来坐像(鎌倉期・木彫漆箔寄木造)は国の重要文化財に指定され、蓮台寺温泉街の西のはずれの丘上にある天神神社の収蔵庫に安置されています。

御本尊は聖観世音菩薩で伊豆八十八ヶ所の札所本尊。
別尊の十一面観世音菩薩は、伊豆横道三十三観音霊場の札所本尊です。

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【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 参道

蓮台寺温泉は高級宿が点在しているイメージで、温泉街のイメージは強くありません。
その一角に廣台寺があります。

参道入口に寺号標。少しくおいて山肌を背に山門と本堂の屋根が見えます。

山門手前に禅刹お決まりの「不許葷酒入山門」碑と欄干を備えた「天門橋」。
山門は切妻屋根本瓦葺で整った掛け瓦と大棟に山号、戸上に山号扁額を掲げて堂々たる構え。
おそらく薬医門かと思われますが、確信ありません。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額

手入れの行き届いた山内で、背後の山肌のかかり具合が絶妙です。
正面の本堂は入母屋造桟瓦葺で、降り棟と隅棟がおり成す直線が印象的。
向拝柱はなく、すっきり端正にまとまった堂まわり。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 六地蔵


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 横道観音霊場の御詠歌

庫裡でお声掛けすると、本堂に通していただけました。

金色の立派な天蓋に紫色の向拝幕も映えて、華々しい印象の堂内。
正面お厨子内のお像は御本尊の聖観世音菩薩でしょうか。
別に閉扉のお厨子があって、横に「伊豆横道札所 広台寺 十九番 観世音菩薩」の札所板がおかれ、御詠歌も掲げられていました。

このとき、伊豆八十八ヶ所と伊豆横道観音札所をともに巡拝したので、御本尊・聖観音の御前では勤行一式。
横道札所・十一面観世音菩薩の御前では十句観音経、十一面観世音菩薩の御真言などをお唱えしました。

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 聖観世音菩薩

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 伊豆横道三十三観音霊場の御朱印 〕
● 十一面観世音菩薩



■ 第45番 三壺山 向陽院(こうよういん)
伊豆88遍路の紹介ページ
下田市河内289
臨済宗建長寺派
御本尊:虚空蔵菩薩
札所本尊:虚空蔵菩薩
他札所:伊豆国(下田南伊豆)七福神(恵比寿)
授与所:庫裡

「千人風呂」で有名な河内温泉「金谷旅館」のそばにある臨済宗建長寺派の古刹です。

『こころの旅』『霊場めぐり』から由緒を追ってみます。
應永九年(1402年)叡山天台宗の学僧・公範阿闍梨が諸国行脚の折に河内を訪れました。
阿闍梨は、この辺りはいかにも諸佛遊化の霊地勝境と感得され、草庵を結ばれ虚空蔵菩薩と地蔵菩薩を奉安し、地蔵密庵と号したのが草創開基と伝わります。
明應元年(1492年)、鎌倉から宣梅和尚(普翁國師とも)が入られ臨済宗に改宗して三壺山向陽院と号を改めて開山。

『豆州志稿』には「河内村 臨済宗建長寺派 相州鎌倉建長寺末 本尊虚空蔵 應永中(1394-1428年)僧公範創立地蔵寺院ト称シ天台宗ナリ 明應元年(1492年)僧宣梅改宗シテ向陽院ト号ス 宣梅和尚創建(天文元年(1532年)示寂)」とあります。

『霊場めぐり』で紹介されている『高根地蔵略縁起』によると、御本尊・地蔵菩薩は向陽院の縁の下から掘り出された石佛で、自ら疱瘡をなして里人の身代わりとなり、伊豆沖を航行する廻船が闇夜灘風に進路を失うときは、自ら燈火をともして航路を示されたといいます。
とくに、海上安全、家内安全祈願の地蔵尊として信仰を集めているとのこと。

現在、向陽院本堂には虚空蔵菩薩、高根山山上の境外仏堂には高根地蔵尊が奉安されている模様です。
高根地蔵尊は享保九年(1724年)に向陽院から高根山にご遷座で、嵐の廻船を救われたというのは、この山上からではないでしょうか。

なお、高根山は伊豆山の古々比の森、堂ヶ島の揺橋とともに”伊豆三勝”に数えられるそうです。
山上の様子と地蔵堂は→こちら(YAMAP)で紹介されています。

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【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 山門


国道414号天城街道から一本入った道から参道がはじまります。
河内温泉は湯量が豊富で、『霊場めぐり』によると以前はこの近くに「水道の湯」という自然湧出の共同浴場があり、向陽院裏手では53℃の温泉が湧出しているそうです。

 
【写真 上(左)】 高根地蔵尊別当碑
【写真 下(右)】 山内の地蔵尊

山門手前の「高根山地蔵尊別当」の碑と門柱の「壱月廿四日 高根地蔵海上交通安全祈祷会」の札板は、当山が高根山の地蔵尊の別当(いまでいうと護持寺院)であることを示しています。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 右手の堂宇

山門は切妻屋根桟瓦葺の四脚門、柱が細めですっきりとした印象。
正面は本堂、参道左手に地蔵堂、右手にも堂宇があり、各堂の屋根が重なり合って美しいラインを描き出しています。


【写真 上(左)】 ふたつの地蔵堂
【写真 下(右)】 手前の地蔵堂

地蔵堂は直角に2宇設置され、手前には多くの地蔵尊、奥のお堂には一躯の地蔵尊が奉安され、手前のお堂には高根不動尊の由緒書が掲げられていました。

叙情ゆたかな文章なので、そのまま引用させていただきます。
「ある年の暮、紀州の国の蜜柑船が大島沖で時化にあい、舵がこわされてしまって船は木の葉のように波にゆりうごかされ今にも沈みそうになりました。その時一人の水夫が高根のお地蔵さんが海難をお守り下さることを思い出して一心不乱に『南無、高根地蔵尊』と唱えてお祈りしました。すると高根山の頂から白い光が現れ、船はその光にみちびかれて無事下田の港につくことが出来たと云われて居ります。それから急に高根の地蔵さんの名は船乗りの間に有名になり、伊豆沖を通過する漁船、運搬船など多くの船がこの地蔵さんに救われたと云われております。(伊豆の民話より)」

右手の堂宇には「金比羅宮」「天満宮」の銘板が掲げられ地主神かもしれません。
堂内にはお像が御座しますが、尊格はわかりませんでした。

『霊場めぐり』に「本堂前にある200㎏余りの石は、当山のダッカイ和尚(三世伝外和尚か)という怪力の和尚が手玉にとった」とありますが、うかつにも見落としました。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂は寄棟造桟瓦葺で手前に千鳥破風、大棟に山号を掲げています。
千鳥破風が大がかりなので付設向拝のように見えますが、大棟から降る流れ向拝かと思います。
水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、中備には本蟇股。
向拝柱が太くがっしり安定感ある向拝です。

虚空蔵菩薩を御本尊とする寺院はめずらしくないですが、伊豆八十八ヶ所ではこちらと第63番保春寺の2箇所のみとなっています。
札所リスト

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 虚空蔵菩薩

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 河内温泉 「千人風呂 金谷旅館」の入湯レポ


■ 第46番 砥石山 米山寺(べいざんじ/よねやまじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
下田市箕作
無属
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
他札所:-
授与所:寺役管理

伊豆八十八カ所もようやくなかばを過ぎたところ。
ここからいよいよ霊場の核心部ともいえる南伊豆の山中に入っていきます。

ここからの巡路は、伊豆急「稲梓」駅そばの46番米山寺から松崎に向かう県道15号沿いの龍門院(47)、太梅寺(49)、報本寺(48)と回り、婆娑羅峠を越えずに県道を引き返し、小浦・妻良へ向かう県道119号沿いの大賀茂の曹洞院(52)というやっかいなルートです。

しかもここからは無住寺院がいきなり増えます。
他札所での拝受はまだしも、「寺役管理」(寺役さんを電話でお呼びしてお出しいただく、あるいはご自宅にお伺いする)という札所も少なくありません。
運に恵まれないと後日事務局でいただく枚数が多くなるし、御朱印帳の場合は授与いただけない札所も出てきます。

それに加えて、カーナビが頼りにならないことも。
近くまで行ってもいきなり畦道に誘導されたり、そもそもカーナビに登録されていない札所もあったかと思います。
(カーナビよりグーグルMAPの方がカバーしている可能性が高いので、カーナビ不可の場合はグーグルMAPが有効。)
交通量は総じて少ないですが、札所へのアプローチは狭い道が多く、運転には細心の注意が必要です。

それでは第46番米山寺です。
住所はいきなり「下田市箕作」。地番がありません(笑)
でも、国道414号に面しているし、「米山薬師」というバス停もあるので到達難易度はさほどではありません。

現地掲示によると、米山薬師は天平五年(733年)、行基菩薩が当地に留錫されたとき「此の地を観ずるに、東方医王の浄刹に似て仏を作り寺を建つるに佳なるべし」とお告げになり、茶粉と苦芋(トコロ)を練り合わせ、斎戒沐浴、四十八日の長き行の末に薬師如来像を造立されました。
村人たちは堂宇を建ててこの尊像を安置し、以降篤く信仰しました。(『米山薬師縁起』)

その御利益は「僅かに御名を唱ふる輩は万事諸願に満足し、故に定業必死の人も此に来れば、則ち快癒を得る」といわれ、ことに眼病疾病に霊験あらたかで越後の薬師寺(米山薬師)、伊予の薬師寺(山田薬師)とともに「日本三薬師」に数えられ広く信仰を集めます。

下田市Web資料でも米山薬師の縁起が紹介されています。

伊豆八十八ヶ所唯一の無属寺院で現在無住。信徒会によって護持されているようです。

現地掲示によると、御本尊の薬師如来は拝堂から約500m30分ほど登った山頂の本堂(奥の院)に安置とのこと。
御本尊は秘仏で、60年毎(30年目に中開帳)の11月に3日間の御開帳。直近では2015年が中開帳でした。

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【写真 上(左)】 国道沿いの看板
【写真 下(右)】 参道入口

国道414号天城街道沿いに拝堂があり、伊豆急「稲梓」駅近くのヤマト運輸配送センターの対面。若干の駐車スペースがあります。


【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 参道階段

国道に面して札所標、石灯籠に石段。少しくのぼると拝堂です。
拝堂はおそらく寄棟造瓦葺で、向拝を付設しています。


【写真 上(左)】 拝堂
【写真 下(右)】 向拝

拝堂の壁に御朱印案内があり、御朱印代をお堂の浄財口に納めてから、案内にある寺役さん宅に伺うか龍巣院(箕作620-1)で拝受するかたちです。
筆者は寺役さんから授与いただきました。


【写真 上(左)】 奥の院への参道
【写真 下(右)】 石仏

拝堂の向かって右裏手から本堂(奥の院)への石段参道がはじまりますが、筆者は拝堂からの遙拝とさせていただきました。
参道登り口には石仏が安置され、霊場らしい厳かな空気が感じられました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 薬師如来

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第47番 保月山 龍門院(りゅうもんいん)
下田市Web資料
伊豆88遍路の紹介ページ
下田市相玉386
曹洞宗
御本尊:青面金剛明王
札所本尊:青面金剛明王
他札所:-
授与所:第52番曹洞院

『こころの旅』『霊場めぐり』によると由緒は以下のとおりです。
康和元年(1099年)6月、保月嶽頂上の老松に光を放つものがあり、頂に登ってみるとそれは一躰の仏像でした。
人々は「龍が降臨する」と云われていた龍門ヶ嶽に庵を建て、この尊像を安置しました。
あるとき、この地を訪れた行脚の僧が「この像は青面金剛明王である」と云い、以降、青面金剛明王として奉安するようになりました。

『豆州志稿』によると、寛治中(1087-1094年)僧海光が真言宗寺院として創立。
文禄二年(1593年)横川太梅寺四世法山秀禅が再興して曹洞宗に改宗しています。

下田市資料(相玉の庚申さま)によると、こちらの青面金剛明王(庚申さま)はまことに霊験あらたかで、土地の人達は俗に「相玉の庚申様」と呼んで尊信篤く、ことに大漁の神として漁業関係の人々をはじめ、花柳界の人たちの信仰も篤いとのこと。
62年に1回、7日間の御開帳があるそうです。

『豆州志稿』には「銀泉山龍門院 相玉村 曹洞宗 横川太梅寺末 本尊青面金剛 寛治中(1087-1094年)僧海光創立 真言宗ナリ 文禄二年(1593年)太梅寺四世秀禅再興シテ改宗ス 庚申堂寺内」とあります。

御本尊の青面金剛明王は複雑な尊格で、庚申様と同体とみる説もありますが、別の尊格とする説もあります。
『神仏混淆の歴史探訪』(川口謙二氏著、東京美術刊)には「庚申の神像と密教で奉ずる青面金剛とは(もともと)なんの関係もなく、日本に庚申信仰が渡来して密教と結びつき付会されたものである。」とあります。

一方、同書には「『真俗仏事編』第一に古徳の口説をあげ、『青面金剛の法は伝尸病を除く秘法なり。而るに伝尸は則ち三尸の虫なりとす。因レ茲青面金剛を庚申の本地となす。』」という記載があります。

三尸とは、道教由来とされる人間の体内にいる虫で、庚申信仰(庚申待)と深いかかわりをもちます。
詳細は→こちら(Wikipedia)

わが国に伝来する前は別々の尊格で、日本の神仏習合のもとで「庚申の本地は青面金剛」とされ習合したものとみられているようです。
よって、青面金剛明王が御本尊の当寺を「相玉の庚申さま」として崇めるのは、神仏習合のもとでは自然な流れかと。

青面金剛の御朱印は、関西では大阪市天王寺区の四天王寺庚申堂のものが知られていますが、東日本では例がすくなく稀少です。
もちろん、伊豆八十八ヶ所でも唯一の尊格です。

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【写真 上(左)】 龍門院バス停
【写真 下(右)】 参道


【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 冠木門

第46番米山寺からもほど近い、県道15号下田松崎線沿いにあります。
道路沿いから参道階段が伸び、「龍門院」のバス停もあるのでわかりやすいです。
中世の武家館のようないかつい石段に囲まれた石段。
上り口に立派な札所標。すこしく昇ると石造の冠木門。そのよこに「庚申尊」の石碑が見えます。


【写真 上(左)】 「庚申尊」の石碑
【写真 下(右)】 境内入口


【写真 上(左)】 参道正面の堂宇
【写真 下(右)】 同 斜め右手から

のぼり切ると正面に入母屋造桟瓦葺流れ向拝の堂宇で、おくに一段高く青緑色の妻入りの建物が千鳥破風を見せています。
位置関係からすると、手前が拝殿、おくが本殿の神社様式のようにも見えますがよくわかりません。
向かって左手に向拝柱と簡素な水引虹梁。

【写真 上(左)】 同 向拝
【写真 下(右)】 2つの堂宇


【写真 上(左)】 右手の堂宇
【写真 下(右)】 同 向拝

右手には、宝形造桟瓦葺流れ向拝のお堂があります。
こちらは仏堂のつくりですが、どちらが本堂かはよくわかりません。
参道正面の方はつくりからして参籠所のような感じもしましたが、そうなるとおくに本殿様の別堂を設けている意味がわかりません。

御朱印は大賀茂の第52番曹洞院でいただけますが、距離があるので夕刻など要注意です。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 青面金剛明王

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第48番 婆娑羅山 報本寺(ほうほんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
下田市加増野433-1
臨済宗建長寺派
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:-
授与所:庫裡

『こころの旅』『霊場めぐり』には以下のとおりあります。
元享三年(1323年)、富貴野山宝蔵院(第81番札所)に向かっていた堀ノ内村の真言宗成就院の円願阿闍梨は、加増野村の風岩峠で濃霧のため道に迷いました。
すると、白衣の老人があらわれ「吾はこの山を守護する明神である。この山は弘法大師の霊境で仏法有縁の地であり、一宇を建てれば功徳多かるべし。」と告げられて忽然と姿を消しました。

円願阿闍梨は歓喜して堂宇を建立し、嘉暦元年(1326年)成就院の観世音菩薩像を遷し御本尊として奉安、婆娑羅山神護寺と号して開山と伝わります。
しばらく無住の時期もありましたが、河津町の沢田林際寺の開山・松嶺に随行されていた哲叟友愚禅師が中興開山して臨済宗に改めました。

『豆州志稿』には「加増野村 臨済宗建長寺派 相州鎌倉建長寺末 本尊正観世音 本婆娑羅山ニ観音ノ小堂アリ 嘉暦中(1326-1329年)僧圓岩ノ創立ニシテ真言宗ナリキ 慶永中(1394-1428年)湛忠和尚今ノ地ニ移シ寺号ト為ス 此時ヨリ建長寺ニ隷ス 寺後石窟ニ四國八十八ヶ所ノ諸佛ヲ置ク」とあります。

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【写真 上(左)】 石段下
【写真 下(右)】 門柱

県道15号下田松崎線の婆娑羅峠の手前にあります。
順打ちでは婆娑羅峠は越えずに下田方面に引き返すことになるので、下田側最奥の札所になります。
ちなみに、下田市Web資料によると「婆娑羅山はその昔弘法大師が婆娑羅三摩耶を修した霊場で仏法有縁の地として知られ、『婆娑羅山』の名もそれから出ている」とのことで、お大師さまゆかりの山域のようです。
また、上記によると、ここには「親捨て」にまつわる伝承が残っています。

県道沿いに参道入口がありますが、周辺は駐車スペースがないので、たしか脇道からいったん本堂そばまで車でのぼり、そこから徒歩で下って参拝しました。


【写真 上(左)】 参道-1
【写真 下(右)】 参道-2

県道からかなりの段数の参道階段がのびています。
その先に山号、寺号が刻まれた門柱。
ここから先は杉木立の下、太鼓橋様の石橋や石仏を見ながらの道行きとなります。


【写真 上(左)】 山門下
【写真 下(右)】 境内

山門の下は踊り場になっていて、二段の石垣が組まれて城内の曲輪のようです。
山門は切妻屋根桟瓦葺で大がかりな降り棟を置き、おそらく四脚門と思われます。

山門をくぐると一気に視界が広がります。
境内前庭の枝垂桜は樹齢200年を越え、下田市の文化財に指定されています。

境内のオガタマノキは県の天然記念物に指定されているようです。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

文化年代(1804-1817年)の築と伝わる本堂は、寄棟造桟瓦葺で照りのきいた端正なつくり。
向拝柱はなく、格子戸がメインのシンプルな構成。右手は庫裡です。


【写真 上(左)】 堂内
【写真 下(右)】 扁額

庫裡でお声掛けすると本堂を開けていただけました。
禅刹らしいすっきり整頓された堂内、向拝見上げには山号扁額が掲げられていました。

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 聖観世音菩薩

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-7へつづく。



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伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
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伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-7
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■ 鎌倉市の御朱印-7 (B.名越口-2)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 鎌倉市の御朱印-2 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-3 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-4 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-5 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-6 (B.名越口-1)から
■ 鎌倉市の御朱印-7 (B.名越口-2)
■ 鎌倉市の御朱印-8 (B.名越口-3)


24.祇園山 田代寺(長楽寺) 安養院(あんよういん)
鎌倉市Web資料
鎌倉市観光協会Web
坂東三十三観音公式サイト
鎌倉市大町3-1-22
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:坂東三十三箇所(観音霊場)第3番、鎌倉三十三観音霊場第3番、鎌倉二十四地蔵霊場第24番、相州二十一ヶ所霊場第8番、小田急沿線花の寺四季めぐり第17番

大町にある浄土宗の名刹で、坂東三十三箇所(観音霊場)第3番札所として広く知られています。
このお寺は複雑な由緒をもたれます。

まずは山内由緒書から(抜粋)。
「建立 嘉禄元年(1225)、開山 願行上人、開基 北条政子」
「北条政子が夫・頼朝公の冥福を祈るために佐々目ガ谷に建立した祇園山長楽寺が前身。鎌倉末期に善導寺の跡(現在地)に移って安養院になったといいます。延宝八年(1680)に全焼したため、頼朝に仕えていた田代信綱がかつて建立した田代寺の観音堂を移します。こうして『祇園山安養院田代寺』になりました。」

つぎに鎌倉市観光協会Webから(抜粋)。
「当初この地には尊観が開いた浄土宗の善導寺があり。のちに北条政子が夫・頼朝公の菩提のために笹目に建てた長楽寺が焼失したため、鎌倉末期にこの地に長楽寺を移し、政子の法名・安養院を号し、さらに江戸時代の始めに田代寺の千手観音を移した。」

以上より、長楽寺・善導寺・田代寺という3つの前身寺院が関係していることになります。

『鎌倉市史 社寺編』から以下抜粋引用します。
「もと律宗。昌譽の時浄土宗となったという。もと名越派の本山、延享四年(1747年)六月の諸宗寺院本末改により京都知恩院末となる。開山、願行房憲静。開基、北条氏政子。寺伝では嘉禄元年(1225年)、頼朝夫人政子が頼朝の菩提のため佐々目の長楽寺谷に律寺を建立。願行を開山としたという。『壇林鎌倉光明寺志』には記主良忠門資として、良弁尊観を相州名越安養祖としている。これは善導寺の祖とすべきであろう。延慶三年(1310年)十一月、失火あり鎌倉中の大火となった。(『武家年代記裏書』)寺伝には、高時滅亡の後、稲瀬川の辺から現在の地、善導寺の跡に移りそれ以降安養院と号したという。延寶八年(1680年)十月、門外町屋から失火、全焼した。再建の時比企ヶ谷にあった末寺、田代観音堂を境内に移した。」

ところが『新編鎌倉志』には「名越の入口、海道の北にあり。祇園山と号す。浄土宗、知恩院の末寺なり。此寺初め律宗にて、開山願行上人なり。其十五世昌譽和尚と云より浄土宗となる。昌譽より前住の牌は皆律宗なり。初長谷の前稲瀬川の邊に在しを、相模入道滅亡の後、此に移すと云伝ふ。本堂に阿彌陀坐像、客殿にも阿彌陀の坐像を安ず。共に安阿彌が作なり。」とあり、前身3寺の所縁は明示されていません。

そこで『新編相模國風土記稿』の安養院の項を当たってみました。
こちらには山内絵図とともに詳しい記述がありました。要点のみ抜粋引用します。
「古ハ笹目ヶ谷ニ在。祇園山長楽寺と号ス。浄土宗。昔ハ無木(本)寺ニテ。名越一派ノ本山ナリ。延寶四年(1676年)諸宗寺院本末御改ヨリ。京知恩院末に属ス。嘉禄元年(1225年)二位ノ禅尼。故頼朝菩提ノ為。笹目ヶ谷邊(西方長谷村界笹目ヶ谷ニ長楽寺谷ト云フアリ。是当寺ノ舊蹟ナリ)ニテ。七堂伽藍ヲ営ミ。律寺ヲ建立シテ。僧願行ヲ開山トシ。又●年七月二位禅尼逝去アリシカバ。願行導師トナリ当寺ニ葬送シ。法名ヲ安養院ト号スト云フ。後兵火ノ為ニ。堂宇残ラズ烏有トナリシカバ。当所善導廃寺蹟ニ移テ堂宇ヲ営ミ両寺を合シテ再建ス。鎌倉志ニ当寺初長谷ノ前。稲瀬川ノ邊ニ在シヲ。相模入道滅亡ノ後此ニ移スト云伝フ云々。是ニ拠バ正應二年(1289年)ノ兵火ナルベシ。又善導寺モ其頃退転セシナルベシ。寺伝ニ彼善導寺開山ハ記主禅師ノ法嗣尊観ナリ。某年名越一派ヲ立。爰ニ一宇ヲ建立シ正和五年(1316年)寂スト云フ。後年現住昌譽カ時。律宗ヲ改メ今ノ宗派トナルと云フ。天文十三年(1544年)北條氏直敷地ヲ寄附ス。延寶八年(1680年)失火シテ諸堂残ナク焼亡ス。其頃比企谷ノ内田代ニ観音堂アリ。当院の末ナリシヲ。当寺再建ノ時境内ニ移シ。夫ヨリ三ヶ寺合成ノ梵宇ト称ス。」

『新編相模國風土記稿』には本堂、観音堂についての記事もありました。
「本堂 本尊阿彌陀 安阿彌作安ス。堂中頼朝又二位禅尼ノ牌。地蔵堂。本尊ハ石像(弘法大師作ト云フ)ニテ。鎌倉二十四所ノ一ナリ。子安地蔵ト云フ。」

「観音堂。本尊千手観音ナリ。立像長五尺四寸恵心作。坂東三十三所ノ札所第三番ト云フ。昔田代冠者信綱此像ノ●中ニ守本尊三面ノ千手観音ノ画像(立像ニテ長九寸許。天竺竜樹菩薩筆)ヲ籠メ。更ニ比企谷田代ノ地ニ堂舎ヲ造建シテ安置シ。白花山普門寺ト号セリ。土俗ハ多く田代寺又田代堂ナド称セリ。厨子ニ納テ内殿ニ安スト云フ。延寶八年(1680年)当寺焼亡ノ後此境内ニ移セシナリ。前立ニ同像ヲ置キ脇壇ニ阿彌陀ノ座像ヲ置ク。恵心作。是ハ二位禅尼ノ持念佛ト云フ。」

さらに、田代寺についてWikipediaから引いてきました。
「田代寺は1192年(建久3年)田代信綱が尊乗を開山として比企ヶ谷(ひきがやつ)に建立」(原典不明)

引用だらけですみません。
でも、これらの情報がなければ安養寺の由緒(というか3箇寺合一の経緯)がたどれません。

上記資料の青字の箇所が、(おそらく現在地にあった)旧・善導寺についての記述です。
長楽寺、善導寺と合寺後の由緒が混在しているので、すこぶるわかりにくくなっています。

まずは、開山関係から当たってみます。

■ 願行上人憲静(長楽寺)

鎌倉の古寺をたどるときしばしばその名が出てきますが、史料が少なくナゾの多い高僧。
今後のこともあるので、『願行上人憲静の研究(上)』(伊藤宏見氏)」、『願行上人憲静の研究(下)』(同)から経歴・事績の要点を引いてみます。

願行上人憲静は、健保三年(1215年)出生、永仁三年(1295年)寂の鎌倉時代の高僧です。

〔法統・真言宗系統〕
・建長四年(1252年)鎌倉の佐々目谷の遺身院において守海より潅頂を受ける。三宝院流。(『血脈類集記』)
・弘長元年(1261年)定清?から潅頂を受ける。定清は金剛王院流を奉じた小野流の事相家(『血脈類集記』)
・文永九年(1272年)三宝院流を意教上人より受ける。(『真言宗年表』『鶏足寺譜』)

三宝院流は真言宗醍醐派の一派で、醍醐寺三宝院門跡初代勝覚を派祖とし、いわゆる「小野六流」のひとつ。
真言宗醍醐派は古義真言宗で修験道の一派、当山派の中心でもある。派祖は理源大師聖宝。
これより、願行上人は真言宗醍醐派三宝院流の法流を受けられていることがわかります。

〔法統・律宗系統〕
・月翁智鏡に律部を受学。月翁智鏡は泉涌寺来迎院の開山で泉涌寺四世。当時の泉涌寺は律・密・禅・浄土の四宗兼学(密を天台、東密に分けると五宗兼学)の道場。
『鎌倉初期の禅宗と律宗』(中尾良信氏)には、「北京律の祖とされる泉涌寺の俊芿」「北京律の中心たる泉涌寺」「月翁は俊芿から教律を学んだ」とある。

月輪大師俊芿(1166-1227年)は渡宗され、天台と律を学び建暦元年(1211年)帰朝。泉涌寺の実質的な開山といわれ四宗兼学の道場として再興されました。
その律は北京律(ほっきょうりつ)といわれ、日本における開祖とされます。
この北京律が、月輪大師俊芿-月翁智鏡-願行上人と伝わったとみられます。

以上から、願行上人は真言宗三宝院流と北京律兼学の高僧で、祇園山はこの流れから当初律宗(北京律)とされたとみられます。

〔鎌倉での活動〕
願行上人の鎌倉下向期間については錯綜気味ですが、「鎌倉下向僧の研究 - 願行房憲静の事跡 -」(高橋秀栄氏)には下記のとおりあります。
・弘長三年(1263年)から正応三年(1290年)までの28年間。

ただし、「建長四年(1252年)鎌倉の佐々目谷の遺身院において守海より潅頂を受ける。三宝院流(『血脈類集記』)」という記録があり、それ以前に下向されているかも。
また、文永二年(1265年)意教上人に従って関東に赴くという諸伝もあります。

「勝賢開山の佐々目西方寺にはじまり、関東の三宝院流はここに発祥し、大門寺、遺身院その他の寺院群が佐々目の地にあった模様である。守海は成賢の資の一人憲深から受法している。」(『願行上人憲静の研究(上)』P.5/血脈類集記より)

これによると長谷の佐々目(笹目)は当時真言宗三宝院流の本拠地で、願行上人はこの地(遺身院)で守海より三宝院流を受法の記録があります。

佐々目西方寺は現在の補陀洛山 西方寺(横浜市港北区新羽町)とされ、西方寺の公式Webには「西方寺は源頼朝卿の頃、建久年間(1190)に鎌倉の笹目と言う所に『補陀洛山、安養院、西方寺』として創建され、開山は大納言通憲公の息、醍醐覚洞院座主、東大寺の別当であった勝賢僧正」とあります。

なお、西方寺は現在真言宗系単立のようですが、公式Webによると極楽寺(真言律宗)との関係が深かったようです。
願行上人と関係のある金沢の称名寺も真言律宗なので、佐々目の三宝院流はのちに真言律宗とかかわりを強めたのかもしれません。

「(願行上人は)金沢越後守平実時堂廊に能禅方(西院)の灌頂を授けている。北条実時が金沢文庫を開設するのはそれよりのちの建治元年(1275年)である。その翌年願行の自筆文書が残っている。願行はのちにこの住持審海をも弟子として指導しているのであるから、その教界での位置を想像することができる。かくて建治の頃はすでに極楽寺とならぶ新興の律院の称名寺において、伝法灌頂を授けるほどの名徳(以下略)」(『願行上人憲静の研究(上)』P.18)

佐々目の守海は願行上人と頼助(佐々目僧正)に受戒しており、頼助は鎌倉幕府4代執権北条経時の子です。
Wikipediaには頼助は「父経時の菩提所である鎌倉佐々目の遺身院を拠点とし、佐々目頼助とも呼ばれる。」とあり、経時の没年は寛元四年(1246年)なので、「(願行上人が)建長四年(1252年)鎌倉の佐々目谷の遺身院(北条経時の菩提寺)において守海より潅頂を受ける。三宝院流。(『血脈類集記』)。」という記録はタイミング的に符合します。

同僚の頼助が執権の子という有力者なので、願行上人の鎌倉での立場も強かったとみられます。
また、師・意教上人が一時、高野山金剛三昧院(実朝公菩提のため北条政子が発願)に入られたことも、願行上人と鎌倉幕府の結びつきを強めたという説があります。

『本朝高僧伝』には「乃至稲瀬川滸。設念仏会。名祇園山安養院」とあり、これは「文永十一年(1274年)~建治元年(1275年)、願行上人が鎌倉稲瀬川のほとりで頼朝公の霊のお告げに従い、説法念仏会を37日間行う」という諸伝と符合します。

『新編鎌倉志』の(覚園寺)地蔵堂の項には「地蔵を、俗に火燒地蔵と云ふ(中略)【沙石集】には丈六の地蔵とあり。鎌倉の濱に有しを、東大寺の願行上人、二階堂へ移すと云へり。」とあり、願行上人の稲瀬川念仏会との関連を指摘する説もあります。

さらに安養院所蔵の願行上人像胎内銘に「鎌倉由井浜安養院開山願行上人、建治二年(1275年)八月廿八日、未剋往生。春秋八十二」とあり、説法念仏会の前後に鎌倉稲瀬川に安養院ないしその前身となる寺院を開山された可能性があります。

なお、上記の参考資料によると、願行上人が係わられた関東の代表的な寺社はつぎのとおりです。
二階堂永福寺真言院、鎌倉観音寺、(金澤)称名寺、相州大山寺、二階堂理智光寺、二階堂大楽寺、二階堂覚圓寺、大町安養院、最明寺(足柄上郡大井金子)、鶴岡八幡宮。

■ 尊観上人良弁(善導寺)

鎌倉市Webの「当初この地には尊観が開いた浄土宗の善導寺があり」および、『鎌倉市史 社寺編』の「もと名越派の本山、『壇林鎌倉光明寺志』には記主良忠門資として、良弁尊観を相州名越安養祖としている。これは善導寺の祖とすべきであろう」から探ってみました。

「記主禅師」(良忠上人)は、光明寺ゆかりの高僧です。
「記主禅師」(良忠上人)とは、嘉禎三年(1237年)浄土宗第三祖となられた高僧で、多くの門下を育てられました。 文応元年(1260年)鎌倉へ入られ北条朝直の帰依のもと悟真寺に住され、これがのちに浄土宗大本山光明寺となりました。


■ 光明寺の開山 記主禅師の御朱印

光明寺は名越エリアにあるので「名越一派」は大本山光明寺の流れかと思いましたが、「浄土宗 名越派」で検索してみるとなんと一発でヒットしました。
浄土宗「WEB版新纂浄土宗大辞典」の「名越派」(なごえは)です。
(「鎮西流(鎮西派)」は知っていましたが、不勉強で「名越派」は知りませんでした。)

ここには「三祖然阿良忠門下六派の一つ。派祖は良弁尊観。名越流とも称される。また、尊観が相模国鎌倉名越谷善導寺で布教したため善導寺義ともいう。」とありました。
いわき市山崎の専称寺と栃木県益子町の円通寺が本山格であったようですが、江戸時代は増上寺の支配下にあり、大正以前に浄土宗として統一されているようです。

さらに尊観についても記載がありました。
「延応元年(1239年)—正和五年(1316年)三月一四日。鎌倉時代中期の僧。字(あざな)は良弁。名越派派祖。また鎌倉名越谷の善導寺で布教したため、後世尊観の流派を名越流もしくは善導寺義という。」
どんぴしゃです。これで決め打ちです。

「名越一派」は「浄土宗名越派」をさし、「善導寺」は尊観上人が「浄土宗名越派」の布教の拠点とした寺院です。
これで『新編相模國風土記稿』にあった「名越一派ノ本山ナリ」のナゾが解けたことになります。

■ 田代冠者信綱(普門寺・田代寺)

『新編相模國風土記稿』の安養院観音堂に「昔田代冠者信綱此像ノ●中ニ守本尊三面ノ千手観音ノ画像」として登場し、普門寺(田代寺)の開基とみられます。

『鎌倉攬勝考』には以下のとおりあります。
「田代観音堂 普門寺と号す。妙本寺の南東なり。安養院末、堂の額に白華山と有。本尊千手観音、坂東第三番の札所。此西の方を田代屋敷と唱ふ。田代冠者信綱が舊跡。今は畑なり。」

「田代冠者信綱」は、おそらくWikipediaに「伊豆国司と狩野茂光の娘の子。石橋山の戦いで頼朝公挙兵時の武士の一人。平家物語の三草山の合戦や一ノ谷の戦い及び屋島の戦いにも登場し。義経公挙兵時の武士ともなり源義仲を追討した。しかし義経公の門下となったと同時に頼朝公から破門の書状を受け(た)。」とある鎌倉幕府草創期の武士とみられます。

これで、ようやく安養院の前身3寺のプロフィールが揃いました。
ごちゃごちゃになったので(笑)、ここで整理してみます。

1.現在地(大町)には、もともと尊観上人(正和五年(1316年)寂)が開かれた浄土宗名越派の善導寺があった。
(正應二年(1289年)の頃(現在地に?)退転したという記録もあり。)

2.一方、長谷笹目ヶ谷には嘉禄元年(1225年)北条政子が夫・頼朝公菩提のために創建した祇園山長楽寺(律宗)があった。開山は二階堂の理智光寺を開いた願行上人憲静。
嘉禄元年(1225年)、二位禅尼(北条政子)逝去の際、願行上人が導師となって当寺に葬送し、法名を安養院と号したという。
また、建治二年(1275年)前後の説法念仏会の折、願行上人が稲瀬川あたり(長谷~由比ヶ浜)に安養院ないしその前身となる寺院(祇園山)を開山された可能性もある。

※ただし、願行上人の鎌倉下向は弘長三年(1263年)から正応三年(1290年)までの28年間とみられ、二位禅尼(北条政子)逝去の嘉禄元年(1225年)と時代が合いません。
長楽寺は当初長谷稲瀬川にあり、正應二年(1289年)の兵火を受け笹目に移転した可能性もあるので、願行上人がこれにかかわり、その際に安養院と号したのかもしれません。

3.比企ヶ谷田代には建久三年(1192年)、伊豆の武士田代冠者信綱が尊乗上人を開山に建立した白花山普門寺(田代寺)があり、千手観世音菩薩を御本尊としていた。
普門寺(田代寺)は善導寺ないし長楽寺の末寺であった。

4.笹目の長楽寺は元弘元年(1333年)の兵火で焼失、大町の善導寺に統合されて『安養院長楽寺』と号した。安養院は政子の法号にちなむもの。(*Wikipedia)

5.統合時の安養院は律宗だったが後に浄土宗となり、天文十三年(1544年)には後北条氏第5代北條氏直の寄進を受ける。江戸時代の延寶八年(1680年)失火により諸堂焼亡する。

6.比企ヶ谷の普門寺(田代寺・田代観音)も同年延寶八年(1680年)に焼亡、焼亡した安養院再建の折に比企ヶ谷から本寺であった安養寺の境内に移る。この時点で3つの寺院の合一が為る。

7.坂東三十三箇所の札所本尊の千手観世音菩薩は、比企ヶ谷の普門寺(田代寺)から遷られての御座。

8.延享四年(1747年)六月の諸宗寺院本末改により、京都知恩院末となる。

以上から安養院は、
1.浄土宗名越派の派祖・尊観上人が名越派の当初の本山とされた善導寺
2.北条政子が頼朝公菩提のために創建。開山願行上人の祇園山長楽寺(律宗)
3.伊豆国守の子、田代冠者信綱が自身の守り本尊・千手観音を奉安した普門寺(田代寺)
という3つの由緒ある寺院の合寺であることがわかりました。

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※ 令和3年12月時点で当山山内は撮影禁止となっています。
以下の写真は撮影禁止となる前に撮影したものです。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 坂東札所標

県道311号大町大路に面して参道入口。
「坂東第三番田代観音」の札所標と「浄土宗名越派根本霊場」の石標。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 名越派根本霊場碑

石段の先に切妻屋根本瓦葺の四脚門で、門下の木箱に拝観料を納めます。
山門をくぐって右手の地蔵堂は鎌倉二十四地蔵霊場第24番の結願所で、札所本尊の日切地蔵尊が御座します。
坐像の石像で弘法大師の御作とも伝わり、子安地蔵ともよばれたそうです。


【写真 上(左)】 地蔵堂
【写真 下(右)】 山内


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝


【写真 上(左)】 木鼻の獅子
【写真 下(右)】 鬼板と兎毛通

正面の本堂は権現造のような複雑な意匠で詳細不明。
向拝側の屋根に千鳥破風、向拝軒に唐破風の二重破風となっています。
軒下の水引虹梁両端に雲形の獅子木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻を置いていますが全体にシンプルなイメージ
見上げには山号扁額。


【写真 上(左)】 山号扁額
【写真 下(右)】 堂内向拝

堂内の外陣には札所の御詠歌板などが掲げられています。
格子扉越しに御内陣が拝め、扉うえには院号扁額。
「坂東第三番」の札所だけに、さすがに風格があります。


【写真 上(左)】 院号扁額
【写真 下(右)】 坂東霊場札所板

御本尊の阿弥陀如来は伝・安阿彌作。観音霊場札所本尊の千手観世音菩薩は立像長五尺四寸で恵心作と伝わります。
本堂内には北条政子像も安置されています。

こちらは相州二十一ヶ所霊場第8番の札所で、御朱印も授与されています。
こちらの札所については小町の宝戒寺で書きますが、浄土宗でありながら弘法大師霊場の札所となっているのは、旧・長楽寺の開山・願行上人が真言宗醍醐派三宝院流であったことも関係しているかも。

このほか、本堂裏手にある(らしい)、尊観上人の墓で鎌倉最古と伝わる宝篋印塔(国重要文化財)、伝・北条政子の墓、尊観上人お手植えの槙の大木などのみどころがあります。


【写真 上(左)】 撮影禁止看板
【写真 下(右)】 山門から山内

5月のオオムラサキツツジが有名ですが、令和3年12月時点で山門内は撮影禁止となっています。
御朱印拝受時に理由をお伺いしたところ、カメラマンの振る舞いのあまりの酷さにたまりかねての処置とのこと。(当山は以前から三脚類使用禁止でした)

こちらは全国から巡拝者が訪れる坂東霊場札所。巡拝記念に撮影されたい向きも大勢いるのでは? と問い掛けたところ、申し訳なさそうに、たしかにその通りだが、山門外からの撮影は禁止していないのでそちらからの撮影を案内しているとのことでした。

とくに鎌倉の古寺では、にわか(?)カメラマンの傍若無人な撮影っぷりをよく目にしますが、そういうことを続けていくと撮影禁止のお寺さんがどんどん増えていきそうでとても残念です。

〔 御本尊・阿弥陀如来(六字御名号)の御朱印 〕



〔 坂東三十三箇所(観音霊場)の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 鎌倉三十三観音霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 鎌倉二十四地蔵霊場の御朱印 〕

  
【写真 上(左)】 専用納経帳(結願御朱印)
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 相州二十一ヶ所霊場の御朱印 〕

  
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


25.稲荷山 超世院 別願寺(べつがんじ)
鎌倉市大町1-11-4
時宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:鎌倉三十三観音霊場第13番

大町にある時宗寺院で鎌倉三十三観音霊場第13番札所です。
鎌倉公方家ゆかりの寺院で、基氏、氏満、満兼三代の菩提寺であったといわれ、山内には第4代足利持氏公の供養塔と伝わる宝塔があります。

創建開山は不詳ですが、もとは真言宗の能成寺で、弘安五年(1282年)公忍上人(後に覺阿)が時宗に帰依して改宗し、別願寺に改めたのが開基のようです。

『新編相模國風土記稿』には以下のとおりあります。
「名越町ニアリ 稲荷山超世院ト号ス 時宗(藤澤清浄光寺末) 本尊彌陀ヲ置ク 銅佛立像長二尺二寸 佐竹稲荷ノ神作ト云フ 往昔ハ真言宗ニテ能成寺ト云ヒシトゾ 起立年代開山等詳ナラズ 弘安五年(1282年)五月遊行始祖一遍廻國ノ時 住僧公忍故有テ改宗し 則一遍弟子トナリ 今の寺院号ニ改メ 名ヲモ覺阿ト改ム 故ニ此僧ヲ開基ト称ス
(中略)寺寶 阿弥陀像一幅行基筆(中略) 足利持氏墓 本堂ノ西ニアリ 五輪塔ニテ 長春院殿其阿彌陀佛 永享十一年二月十日ト彫ル 持氏追福ノ為後ニ建タルモノカ 来由詳ナラズ」
『新編相模國風土記稿』には寺領寄進の記録が延々とつづき、管領足利氏満、持氏、満兼、北條の臣大道寺駿河守政繁などの名がみえ、寄進地は下総相馬御厨、下野國薬師寺庄など広域に及んでいます。

『新編相模国風土記稿』には、御本尊の阿弥陀如来は「佐竹稲荷ノ神作ト云フ」という不思議な記述があり、それに因んでか本山の山号は稲荷山です。
ふつう稲荷神の本地は上社(御前):十一面観世音菩薩、中社(御前):千手観世音菩薩、下社(御前):如意輪とされるので、阿弥陀如来との関連はよくわかりません。
また「佐竹」が気になりますが、鎌倉の佐竹氏の屋敷は大町の大寶寺付近とされていますが、こちらとの関連を示す史料はみつかりませんでした。

---------------------

【写真 上(左)】 県道からの山内
【写真 下(右)】 寺号標

県道311号大町大路に面し、安養院のすぐそばにあります。
山門はなく開かれたイメージの山内。
境内に藤棚があり、藤の寺としても知られています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

本堂の様式はよくわかりません。
本堂は妻入りで千鳥破風をみせており、その前に付設した向拝の軒も千鳥破風様になっています。
向拝に寺号扁額。


【写真 上(左)】 寺号扁額
【写真 下(右)】 札所板

向拝扉は開く場合があり、なかは外陣で鎌倉観音霊場の札所板が掲げられています。

こちらの札所本尊はめずらしい魚籃観音(ぎょらんかんのん)で、中国の馬郎婦観音と同体とされます。
三十三観世音のひとつで、法華経を広めるために現れた観音とされ、羅刹・毒龍・悪鬼の害を除くことあらたかと信仰されています。

ふつう一面二臂で魚籃(魚入れの籠)を持たれますが、いろいろな像容例がみられるようです。
東京三田・魚籃寺の魚籃観音(江戸三十三箇所観音霊場第25番)は有名で、寺名に由来する魚籃坂の名はいまものこります。

なお、こちらの本堂は令和3年10月に建て替えられていますが、掲載写真は建て替え前のものです。

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 御本尊・阿弥陀如来の御朱印 〕



〔 鎌倉三十三観音霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


以下、つづきます。


26.多福山 大寳寺(だいほうじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市大町3-6-22
日蓮宗
御本尊:三宝諸尊(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:-


27.八雲神社(やくもじんじゃ)
神奈川県神社庁Web
鎌倉市大町1-11-22
御祭神:須佐之男命、稲田姫命、八王子命、佐竹氏霊
旧社格:村社、神饌幣帛料供進神社


28.慧雲山 常栄寺(じょうえいじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市大町1-12-11
日蓮宗
御本尊:三宝祖師(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:-


29.中座山 大聖院 教恩寺(きょうおんじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市大町1-4-29
時宗
御本尊:阿弥陀如来三尊
札所:鎌倉三十三観音霊場第12番


30.長興山 妙本寺(みょうほんじ)
公式Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市大町1-15-1
日蓮宗
御本尊:三宝祖師(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:-


31.金龍山 釈満院 宝戒寺(ほうかいじ)
公式Web
鎌倉市小町3-5-22
天台宗
御本尊:地蔵菩薩
札所:鎌倉三十三観音霊場第2番、鎌倉二十四地蔵霊場第1番、相州二十一ヶ所霊場第1番、鎌倉・江ノ島七福神(毘沙門天)、鎌倉六阿弥陀霊場第5番、小田急沿線花の寺四季めぐり第28番


32.叡昌山 妙隆寺(みょうりゅうじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市小町2-17-20
日蓮宗
御本尊:日蓮聖人(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:鎌倉・江ノ島七福神(寿老人)


33.蛭子神社(ひるこじんじゃ)
神奈川県神社庁Web
鎌倉市小町2-23-3
御祭神:大己貴命
旧社格:村社、神饌幣帛料供進神社、小町一帯の産土神
元別当:妙厳山 本覚寺(鎌倉市小町)


34.長慶山 正覺院 大巧寺(たいこうじ)
公式Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市小町2-17-20
単立
御本尊:産女霊神(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:-


35.妙厳山 本覚寺(ほんがくじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市小町1-12-12
日蓮宗
御本尊:三宝祖師(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:鎌倉十三仏霊場第3番、鎌倉・江ノ島七福神(恵比寿)
司元別当:蛭子神社(鎌倉市小町)


36.天照山 蓮華院 光明寺(こうみょうじ)
公式Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座6-17-19
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:鎌倉三十三観音霊場第18番、鎌倉二十四地蔵霊場第22番、東国花の寺百ヶ寺霊場第94番、七観音霊場第3番、鎌倉六阿弥陀霊場第3番、小田急沿線花の寺四季めぐり第25番、三浦半島四十八阿弥陀霊場第48番、関東十八檀林


37.天照山 蓮乗院(れんじょういん)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座6-16-15
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:鎌倉三十三観音霊場第19番、相州二十一ヶ所霊場第11番


38.天照山 千手院(せんじゅいん)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座6-12-8
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:鎌倉三十三観音霊場第20番


39.石井山 長勝寺(ちょうしょうじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座2-12-17
日蓮宗
御本尊:日蓮聖人(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:-


40.隨我山 来迎寺(らいこうじ)
公式Web
鎌倉市材木座2-9-5
時宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:鎌倉三十三観音霊場第14番


41.五所神社(ごしょじんじゃ)
神奈川県神社庁Web
鎌倉市材木座2-9-1
御祭神:大山祇命、天照大御神、素盞嗚命、建御名方命、崇徳院霊
旧社格:村社、神饌幣帛料供進神社、材木座の氏神


42.弘延山 實相寺(じっそうじ)
鎌倉市Web
鎌倉市材木座4-3-13
日蓮宗
御本尊:一尊四士(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:-


43.南向山 帰命院 補陀落寺(ふだらくじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座6-7-31
真言宗大覚寺派
御本尊:十一面観世音菩薩
札所:鎌倉三十三観音霊場第17番、相州二十一ヶ所霊場第10番、新四国東国八十八ヶ所霊場第81番


44.内裏山 霊獄院 九品寺(くほんじ)
公式Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座5-13-14
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:鎌倉三十三観音霊場第16番、相州二十一ヶ所霊場第9番、小田急沿線花の寺四季めぐり第18番


45.円龍山 向福寺(こうふくじ)
公式Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座3-15-13
時宗
御本尊:阿弥陀三尊
札所:鎌倉三十三観音霊場第15番


46.海潮山 妙長寺(みょうちょうじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座2-7-41
日蓮宗
御本尊:三宝祖師(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:


47.由比若宮(ゆいのわかみや)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座1-7
御祭神:応神天皇、神功皇后、比売神
旧社格:鶴岡八幡宮の元宮(元八幡)


48.帰命山 延命寺(えんめいじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座1-1-3
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:鎌倉三十三観音霊場第11番、鎌倉二十四地蔵霊場第23番


25.稲荷山 超世院 別願寺(べつがんじ)
鎌倉市大町1-11-4
時宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:鎌倉三十三観音霊場第13番


26.多福山 大寳寺(だいほうじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市大町3-6-22
日蓮宗
御本尊:三宝諸尊(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:-


27.八雲神社(やくもじんじゃ)
神奈川県神社庁Web
鎌倉市大町1-11-22
御祭神:須佐之男命、稲田姫命、八王子命、佐竹氏霊
旧社格:村社、神饌幣帛料供進神社


28.慧雲山 常栄寺(じょうえいじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市大町1-12-11
日蓮宗
御本尊:三宝祖師(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:-


29.中座山 大聖院 教恩寺(きょうおんじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市大町1-4-29
時宗
御本尊:阿弥陀如来三尊
札所:鎌倉三十三観音霊場第12番


30.長興山 妙本寺(みょうほんじ)
公式Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市大町1-15-1
日蓮宗
御本尊:三宝祖師(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:-


31.金龍山 釈満院 宝戒寺(ほうかいじ)
公式Web
鎌倉市小町3-5-22
天台宗
御本尊:地蔵菩薩
札所:鎌倉三十三観音霊場第2番、鎌倉二十四地蔵霊場第1番、相州二十一ヶ所霊場第1番、鎌倉・江ノ島七福神(毘沙門天)、鎌倉六阿弥陀霊場第5番、小田急沿線花の寺四季めぐり第28番


32.叡昌山 妙隆寺(みょうりゅうじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市小町2-17-20
日蓮宗
御本尊:日蓮聖人(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:鎌倉・江ノ島七福神(寿老人)


33.蛭子神社(ひるこじんじゃ)
神奈川県神社庁Web
鎌倉市小町2-23-3
御祭神:大己貴命
旧社格:村社、神饌幣帛料供進神社、小町一帯の産土神
元別当:妙厳山 本覚寺(鎌倉市小町)


34.長慶山 正覺院 大巧寺(たいこうじ)
公式Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市小町2-17-20
単立
御本尊:産女霊神(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:-


35.妙厳山 本覚寺(ほんがくじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市小町1-12-12
日蓮宗
御本尊:三宝祖師(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:鎌倉十三仏霊場第3番、鎌倉・江ノ島七福神(恵比寿)
司元別当:蛭子神社(鎌倉市小町)


36.天照山 蓮華院 光明寺(こうみょうじ)
公式Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座6-17-19
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:鎌倉三十三観音霊場第18番、鎌倉二十四地蔵霊場第22番、東国花の寺百ヶ寺霊場第94番、七観音霊場第3番、鎌倉六阿弥陀霊場第3番、小田急沿線花の寺四季めぐり第25番、三浦半島四十八阿弥陀霊場第48番、関東十八檀林


37.天照山 蓮乗院(れんじょういん)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座6-16-15
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:鎌倉三十三観音霊場第19番、相州二十一ヶ所霊場第11番


38.天照山 千手院(せんじゅいん)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座6-12-8
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:鎌倉三十三観音霊場第20番


39.石井山 長勝寺(ちょうしょうじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座2-12-17
日蓮宗
御本尊:日蓮聖人(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:-


40.隨我山 来迎寺(らいこうじ)
公式Web
鎌倉市材木座2-9-5
時宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:鎌倉三十三観音霊場第14番


41.五所神社(ごしょじんじゃ)
神奈川県神社庁Web
鎌倉市材木座2-9-1
御祭神:大山祇命、天照大御神、素盞嗚命、建御名方命、崇徳院霊
旧社格:村社、神饌幣帛料供進神社、材木座の氏神


42.弘延山 實相寺(じっそうじ)
鎌倉市Web
鎌倉市材木座4-3-13
日蓮宗
御本尊:一尊四士(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:-


43.南向山 帰命院 補陀落寺(ふだらくじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座6-7-31
真言宗大覚寺派
御本尊:十一面観世音菩薩
札所:鎌倉三十三観音霊場第17番、相州二十一ヶ所霊場第10番、新四国東国八十八ヶ所霊場第81番


44.内裏山 霊獄院 九品寺(くほんじ)
公式Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座5-13-14
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:鎌倉三十三観音霊場第16番、相州二十一ヶ所霊場第9番、小田急沿線花の寺四季めぐり第18番


45.円龍山 向福寺(こうふくじ)
公式Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座3-15-13
時宗
御本尊:阿弥陀三尊
札所:鎌倉三十三観音霊場第15番


46.海潮山 妙長寺(みょうちょうじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座2-7-41
日蓮宗
御本尊:三宝祖師(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:


47.由比若宮(ゆいのわかみや)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座1-7
御祭神:応神天皇、神功皇后、比売神
旧社格:鶴岡八幡宮の元宮(元八幡)


48.帰命山 延命寺(えんめいじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座1-1-3
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:鎌倉三十三観音霊場第11番、鎌倉二十四地蔵霊場第23番


【 BGM 】
■ Look Who's Lonely Now - Bill Labounty


■ Emily - Dave Koz


■ I'll Be There - Jack Wagner
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■ 鎌倉市の御朱印-6 (B.名越口-1)

■ 鎌倉市の御朱印-5 (A.朝夷奈口)から


鎌倉市の南東側(県道311号葉山鎌倉線、国道134号線)から入るルートで、若宮大路東側の大町、小町一丁目・二丁目、材木座の寺社をご紹介します。
まずはリストです。
日蓮宗と浄土宗の寺院が多いエリアです。


20.妙法華経山 安国論寺(あんこくろんじ)
公式Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市大町4-4-18
日蓮宗
御本尊:十界未曾有大曼荼羅と日蓮聖人像
札所:東国花の寺百ヶ寺霊場第95番

大町、材木座は、日蓮宗寺院の名刹が集中しています。
こちらも日蓮宗の名刹です。

寺伝によると、日蓮聖人が建長五年(1253年)に房総の清澄寺で立教開宗された後、鎌倉での布教を志され、松葉ヶ谷の岩窟に草庵を結ばれたのが当山の始まりです。

日蓮聖人はこの地で約20年を過ごされ、『立正安国論』もここで執筆されました。
重要な内容なので、公式Webからそのまま引用します。

「(日蓮聖人は)『立正安国論』を奏進したことにより権力者や他宗派の人々の怒りを買い、同年(文応元年(1260年))8月27日に焼き討ちに遭いました。此処の地名を取って『松葉ヶ谷の法難』と呼びます。このような縁起により 当山は『松葉ヶ谷霊跡 妙法華経山 安国論寺』といいます。昔は『安国論窟寺』とも言いました。『松葉ヶ谷の法難』だけでなく『伊豆流罪』の時も『龍口法難』の時もこの地で捕縛されました。その意味で、日蓮聖人のご生涯中でもとりわけ重要な場所と言えます。また、この地で多くの人が弟子となり信者となりました。教団としての日蓮宗の始まりの地とも言え、安国論寺はとても大切なお寺です。」

「日蓮聖人の代表的著作である『立正安国論』は、文応元年(1260年)7月16日に前執権北条時頼に奏進されました。(中略)『立正安国論』という題名から非常に難しい内容のように思われますが(中略)簡潔に言うと、法華経(妙法蓮華経)は苦難に満ちたこの世に生きる私達を救う最高の教えです。その教えを信仰し、落ち着いた平和な国を作りましょうというのがその主題です。この日蓮聖人の主張は仏教の本義に基づき、現実の世界にも照らし、また理性的論理的判断としても合理的なものですが その舌鋒の鋭さから 特に他の宗教の僧侶や信者から大変な怒りをかうことになりました。『立正安国論』は幕府に無視されたばかりか、これにより日蓮聖人は数多くの攻撃や迫害を受けることになります。しかしその後、本書の警告通りに他国侵逼難(外国からの侵略)・自界叛逆難(内乱)が実際に起きたことからその正しさが明らかとなり、一方で日蓮聖人を信仰する人々も増えてゆくことになります。日蓮聖人は 最期の門弟への講義でも取り上げるなど 生涯に亘って本書を重んじました。」

引用が長くなりましたが、このように日蓮宗においてたいへん重要な寺院です。

---------------------
県道311号鎌倉葉山線が逆川を渡る二俣を左手の道に入ります。
この分岐にはすでに安国論寺の寺号標がありました。
ここから安国論寺の前まではほぼまっすぐで、参道的な趣き。


【写真 上(左)】 県道沿いの寺号標
【写真 下(右)】 県道からの道行き

ここ大町四丁目あたりは鎌倉市街から山側の名越切り通しへののぼり口で、あたりは閑静な住宅街です。
ここには当寺と、日蓮宗の名刹、妙法寺があり、日蓮宗にとっては聖域的な場所ですが、観光客のすがたはあまり多くはありません。
駐車場はないので、車の場合、材木座寄りのコインパーキングに停めることになります。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 寺号標

参道は道からすぐに階段で、脇に「日蓮上人草庵跡」の石碑があります。
「建長五年(1913年)日蓮上人房州小湊ヨリ来リ此地ニ小庵ヲ営ミ初メテ法華経ノ首題ヲ唱ヘ正嘉元年(1917年)ヨリ文應元年(1920年)ニ及ビ巌窟内ニ籠リ立正安國一巻ヲ編述セシハ則チ此所ナリト云フ」
その先には「松葉谷根本霊場 安國論寺」の寺号標。


【写真 上(左)】 山門前
【写真 下(右)】 山門

さらに進むと山門。
切妻屋根桟瓦葺の唐様四脚門で、延享三年(1746年)尾張徳川家によって再建されたもの。
「安國法窟」の扁額は、元禄四年(1691年)佐々木文山の揮毫によるものです


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 境内案内

その先に拝観料納所と、その奥に庫裡。御首題・御朱印は参拝後にこちらでいただけます。


【写真 上(左)】 早春の参道
【写真 下(右)】 晩秋の参道

その先の参道は石畳で両側に竹垣が結われ、左手には重厚な石灯籠と、引き出された縁台には緋毛氈がひかれて趣きがあります。
背後を山に囲まれた風情のある山内で、秋の紅葉も見事です。


【写真 上(左)】 本堂前
【写真 下(右)】 本堂

参道正面の本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻を置いています。
正面格子扉の上には「立正安國」の扁額。
向拝軒から身舎まで四軒の垂木を並べ、名刹にふさわしい堂々たる構えです。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝-1


【写真 上(左)】 本堂向拝-2
【写真 下(右)】 本堂扁額

本堂向かって右手に進むと日朗聖人荼毘所。
当所で日蓮聖人に弟子入りした日朗聖人は本弟子六人の一人で、この地で荼毘に付して欲しいと御遺言されました。現在のお堂は昭和57年に建てられたものです。


【写真 上(左)】 日朗聖人荼毘所
【写真 下(右)】 日朗聖人荼毘所の扁額

本堂対面の熊王殿は、日蓮聖人に従った熊王丸が勧請した熊王大善神をお祀りするお堂で、厄除、眼病や歯痛などに霊験あらたかとされます。
切妻造ないし入母屋造の妻入りで、前面に大ふりな向拝が設えられています。
背後の岩盤に嵌め込むように建てられているので、間口の狭い妻入り様式なのかもしれません。


【写真 上(左)】 熊王殿
【写真 下(右)】 熊王殿扁額

水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に本蟇股。
正面硝子格子扉の上には「熊王殿」の扁額。


【写真 上(左)】 富士見台への階段
【写真 下(右)】 富士見台からの眺望

熊王殿脇の急な階段をのぼると富士見台。
鎌倉駅付近から由比ガ浜まで一望でき、晴れた日には富士山や伊豆大島も望めるそうです。
そのまま尾根伝いに行くと「立正安国の鐘」、さらに進むと南面窟で15分ほどの巡拝コースとなっています。
南面窟は、松葉ヶ谷法難の際に日蓮聖人が白猿に導かれて難を逃れ一夜を明かされたところといわれます。



【写真 上(左)】 本堂側からの御小庵
【写真 下(右)】 御小庵

熊王殿の奥には御小庵と御法窟がありますが、現在非公開となっています。
御小庵はその奥にある御法窟の拝殿で、御法窟は御小庵の奥にある岩屋です。
この御法窟がかつて日蓮聖人がお住まいになられた御草庵跡で、こちらで『立正安国論』も執筆されたと伝わります。


【写真 上(左)】 御小庵の見事な彫刻
【写真 下(右)】 御小庵の扁額

御小庵は宝形造で本瓦葺、本堂は桟瓦葺なので、御小庵の堂格の高さがうかがわれます。
江戸時代末期、尾張徳川家の寄進によるもので総欅造り、屋根の照りが効いた均整のとれたお堂です。

軒下向拝の水引虹梁両端に獅子と貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻。
彫刻類はいずれも見事な仕上がりで、正面格子扉の上には「御小庵」の扁額が掲げられています。

当山は花の寺で、御小庵そばの樹齢760年ともいわれる山桜は「妙法桜」と呼ばれ、「日蓮上人が地面についた杖から根付いた」という伝説をもち鎌倉市天然記念物。
本堂手前左の山茶花も銘木として知られ、こちらも鎌倉市天然記念物に指定されています。
東国花の寺百ヶ寺霊場第95番の花種は「妙法桜」です。

こちらの御朱印は豪快な筆致で知られています。
御朱印は書置が用意されている模様ですが、御首題は御住職ご不在時はいただけないので、御首題拝受の際には事前TEL確認がベターかもしれません。

 
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 花の寺霊場の御朱印(御朱印帳書入)

 
【写真 上(左)】 御朱印(平成30年11月)
【写真 下(右)】 御朱印(令和3年12月)


21.楞厳山 妙法寺(みょうほうじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市Web
鎌倉市大町4-7-4
日蓮宗
御本尊:釈迦三尊(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:-

鎌倉市資料(市史、Webなど)によると、妙法寺は房総から布教のため鎌倉に入った日蓮聖人が最初に結ばれた草庵(松葉ヶ谷御小庵)の地とされています。
鎌倉の僧や武士により焼き打ちされた松葉ヶ谷法難も、この地であるという伝承があります。

この草庵跡に日蓮聖人が建てられた法華堂が本圀(國)寺で、本圀寺が室町時代に京都へ移されたあと、延文二年(1357年)日叡上人が父・大塔宮護良親王の菩提のために寺を再興したのが妙法寺の起こりといわれます。

「開山は日蓮と称し、中興開山を五世日叡とする。」(『鎌倉市史 社寺編』)
日蓮聖人は文永八年九月までこの地(御小庵)を布教伝道の拠点とされたと伝わります。

日叡上人は幼名を楞厳(りょうごん)丸といい、妙法房と称したのでこれを山号・寺号としたともいいます。

鎌倉市史には「塔頭として重善院、円蔵院、顕応坊、蓮乗坊、常縁坊など五院があって、南北朝から室町時代にかけては、なかなか盛んな寺であったことが想像できる。」とありますが、その後荒廃したと記されています。
しかし「十一代家斉が参拝し、明治三十年頃までお成の間があった。また現在の本堂は肥後の細川氏の建立」とあるので、江戸後期には相応の寺格を有していたものとみられます。

松葉ヶ谷(本國寺旧跡)は日蓮宗にとって大切な霊地ですが、その変遷については諸説あるようです。
『鎌倉攬勝考』には以下のとおりあります。
「松葉ヶ谷 名越の内なり。長勝寺の境内を松葉ヶ谷と唱ふ。日蓮安房國小湊より当所へ渡りし時、三浦へ着岸し、夫より切通を経て此邊に庵室を結ひ給ひし地なり。後に京都へ移されし本國寺の舊跡の條を合せ見るへし。」

本國寺舊跡について、『鎌倉攬勝考』には以下のとおりあります。
「本國寺舊跡 松葉が谷といふ。名越切通坂下、今の長勝寺の地なりといふ。安國寺も松葉の谷なり。最初日蓮居住の舊跡、貞和(1345-1350年)の初に本國寺を京都へ移さる。長勝寺、今は地名を石井と唱ふ。日蓮上人舊跡由緒を失ふにひとし。日蓮、松葉が谷本國寺を日朗へ与へ、日朗より日印・日靜と註し、日靜は貞和元年(1345年)の頃本國寺を京都へ移し、此所を日叡に授与せしむ。其後日叡本國寺を改め、妙法寺と号し、其後断絶せしを、再興の長勝寺と称する由。●京都へ移されし日靜といふは、尊氏将軍の御叔父なり。夫ゆへに、本國寺大伽藍建立せられ、大寺となれり。」

境内には美しい苔の石段があることから、「苔寺」とも呼ばれます。
鎌倉ゆかりの俳人・高浜虚子が俳句会を開いたとされ、虚子の次女・星野立子や門下の汾陽(かわみなみ)昌子などの句碑が残ります。

本堂向かって右手の仁王門の奥(奥の院エリア)には苔の階段、法華堂、松葉谷御小菴霊跡、伝・護良親王の御墓などの見どころがあります。

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【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 石標
安国論寺の参道前を右手に行く道が、妙法寺への参道です。
この分岐に台座に「松葉谷」と刻まれたお題目塔、寺号標、「高祖御小菴之本土」と刻まれた石標が建っています。

少し進むと右手に山側に向かう道、その正面が山門です。
このあたり、来訪者はさして多くはないようですが、鎌倉らしい寂びた雰囲気があります。


【写真 上(左)】 山門前
【写真 下(右)】 石標と山門

山門手前に「松葉谷御小菴霊跡」と刻まれた石碑。
山門は切妻屋根銅板葺の四脚門で通常閉門のようです。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 受付から本堂方向

山門右手をすすむと、拝観料受付です。
現在の状況は不明ですが、2019年春時点(新型コロナ禍前)では夏期(7-8月)、冬期(12-3月)は奥の院の参拝は土・日・祭日のみ可能で、本堂までは通年お参りできました。

筆者は奥の院参拝可能日に参拝していないため、こちらについての写真やご案内はありません。
後日参拝したうえで加筆したいと思います。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂は入母屋造銅板葺で前面に均整のとれた唐破風を起こしています。
水引虹梁両端に獅子・貘雲の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備には龍の彫刻、兎毛通の朱雀?の彫刻もなかなか見事なものです。
向拝正面桟唐戸のうえには山号扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 木鼻の獅子
【写真 下(右)】 扁額

本堂は欅造りで、均整のとれた構えや彫刻類の精緻さからみても大名・細川氏の寄進を物語るものがあります。

御首題・御朱印は庫裡にて拝受しました。

 
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 御朱印


22.法華山 本興寺(ほんこうじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市大町2-5-32
日蓮宗
御本尊:三宝祖師(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:-

日蓮聖人の直弟子で「九老僧」の一人・天目上人が延元元年(1336年)に開創した寺で、日蓮聖人が辻説法の途中に休息されたことから、当所は休息山 本興寺と称していました。
その後二世日什上人(明徳三年(1392年)寂)により山号を法華山と改め、開基を天目上人、開山は日什上人とされています。

日蓮聖人の辻説法ゆかりの寺院であることから、通称「辻の本興寺」とも呼ばれています。

『新編相模國風土記稿』の本興寺の項に「辻町ニアリ。法華山と号ス。本寺前ニ同じ(妙本寺?)。古ハ京妙満寺の末ナリシガ。中興ノ後今ノ末トナルト云フ。本尊三寶祖師ヲ安セリ。開山ヲ日什(明徳三年(1392年)二月廿八寂ス)。中興ヲ日逞ト云フ。延寶三年(1675年)五月十七日寂ス。」とあります。

鎌倉市観光協会Webには「1660年に幕府により取り潰しに遭いましたが、1670年(寛文十年)本山妙本寺日逞上人により再建され現在に至ります。」とあります。

日蓮系の諸宗派は一致派と勝劣派、さらに不受不施派など教義により複雑に分派しますが、このような教義により寺歴を変遷した寺院と伝わります。

その経緯については、横浜市泉区にある日蓮宗の本山(由緒寺院)法華山 本興寺の公式Webに記載されているので、そちらをご覧ください。

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【写真 上(左)】 お題目塔
【写真 下(右)】 辻説法之舊地の碑

材木座海岸から雪ノ下に向かう小町大路がJR横須賀線の踏切を渡ったすぐ北側が参道入口。
参道入口に建つ「日蓮大聖人辻説法之舊地」の碑の文面はつぎのとおりです。
「本興寺縁起 日蓮大聖人鎌倉御弘通の当時 此の地点は若宮小路に至る辻なるにより今猶辻の本興寺と称す 御弟子天目上人聖躅を継いで又 此地に折伏説法あり 實に当山の開基なり 後年日什上人(顕本法華宗開祖)留錫せられ寺観大いに面目を改めむ 常楽日経上人も亦当寺の第廿七世なり」


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山内


【写真 上(左)】 聖徳太子堂
【写真 下(右)】 本堂

小町大路から石敷の参道。その先の山門は切妻屋根桟瓦葺、朱塗りの丸柱の四脚門です。
山内はさほど広くはないものの、よく整備されています。
「百日紅」と「しだれ桜」の寺としても知られています。
朱塗りの一間社流造の堂宇は、聖徳太子堂とみられます。


【写真 上(左)】 飾り瓦
【写真 下(右)】 向拝

正面の本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝。
向拝屋根の先端にいは存在感ある獅子の飾り瓦。

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股を置いています。

御首題は庫裡にて拝受しました。



23.法久山 大前院 上行寺(じょうぎょうじ)
鎌倉市Web資料
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市大町2-8-17
日蓮宗
御本尊:三宝諸尊(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:-

鎌倉市資料によると、正和二年(1313年)日範上人の創建と伝わる日蓮宗の寺院です。
境内には御本尊の三宝祖師のほか、瘡守稲荷、鬼子母神が奉られています。
本堂左手には万延元年(1860年)に桜田門外で大老井伊直弼を襲撃した水戸浪士のひとり、広木松之助の墓があります。

『新編相模國風土記稿』の上行寺の項に「名越町ニアリ。法久山大前院ト号ス。本寺前ニ同じ(京都本國寺?)。正和二年(1313年)僧日範起立スト云フ。本尊宗法ノ諸尊及ヒ宗祖ノ像ヲ安ス。」
「稲荷社。瘡守稲荷ト号ス。正暦年中(990-995年)ノ勧請ト云伝フ。按スルニ。正暦ハ当寺起立ヨリ三百二十余年以前ナレバ。往昔ヨリ此所ニ在シ社ナルヤ。」とあります。

こちらは北条政子が源頼朝の「おでき」を治すために参拝したとも伝わり、そのゆかりからか癌封じのお寺として有名です。

山内には御利益が記された手書きの貼紙がたくさん貼られ、祈願寺の空気感。

現在の本堂は明治19年(1886年)に松葉ヶ谷の妙法寺の法華堂を移築したものといわれています。

こちらは、山内をあれこれご紹介する寺院ではないように思われますので、ご紹介はここまでです。

御首題、御朱印とも授与されていますが、御首題のみ拝受しています。
御首題授与にあたっては、ご親切な対応をいただきました。

 
【写真 上(左)】 上行寺全景
【写真 下(右)】 御首題


■ 鎌倉市の御朱印-7 (B.名越口-2)へつづく。


【 BGM 】
■ Hero - David Crosby & Phil Collins


■ The Way It Is - Bruce Hornsby and the Range


■ All Of My Heart - ABC


■ If I Belive - Patti Austin



■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 鎌倉市の御朱印-2 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-3 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-4 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-5 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-6 (B.名越口-1)
■ 鎌倉市の御朱印-7 (B.名越口-2)
■ 鎌倉市の御朱印-8 (B.名越口-3)
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■ 4つ打ちとグルーヴ (音のスキマ論-0)

2022/08/16 UP

8/14放送の『関ジャム』で、先日の山下達郎特集で流せなかったテイクをやっていた。
達郎氏の名言炸裂してたので、UPしてみます。

〔ヴォーカルについて〕
「ボイストレーニングっていうのは基本的に声のメンテナンスの手法。下手な歌が上手くなる訳ではない。」
「『歌っていうものはね・・・』(とか)そういうものでは無い。その人の歌う歌が”歌”」
↑ 歌の巧さは当然の前提として、やっぱり歌い手のオリジナリティということなんだと思う。

〔サウンドのつくり方〕
「1970年代はとにかく選択の余地が少ない。」
「ドラム、ベース、キーボード、ギターを呼んでスタジオ行って、それで演奏して3時間で2曲録って、それにコーラス入れてストリングス入れて、ブラスを入れたら贅沢、みたいな・・・」

「今はまず曲つくるときに、生(楽器)でやるのか? 機械でやるのか? ドラム、シンセベース、シンセサイザーでやって音の選択なんて無限にある。」
「どの音でやるかっていうのを決めるだけでも時間がかかる。」
↑ 選択肢が少なかったから、それだけサウンドづくりに集中できたのかも・・・。

〔アレンジについて〕
「編曲(アレンジ)法=楽器なので、何の音源を使うか、楽器、何を使うか、むしろオーケストレーション。」
↑ たしかに、キーボードパートで生ピアノとフェンダー・ローズじゃ、曲のニュアンスぜんぜん違うもんね。

〔「RIDE ON TIME」のサウンドについて〕
・青山純氏の16ビート(ハイハット)と伊藤広規氏のチョッパーベースと達郎氏のギターのパッセージのアンサンブル。
「ハットの細かいところのニュアンスとか、そういうものに物凄くこだわってつくってた時代」
「演奏が練れてる(ところで)何度もリハーサル。」「それが人間の要素のアンサンブルのいいところで・・・」

「そういうことやらないのかな? みんな」
↑ 誰かに向けてのメッセージでは?

これきいて、やっぱりグルーヴのキモは、
 ・16ビート(ハイハット)
 ・チョッパーベース(スラップベース)
 ・ギターのパッセージ(とくにカッティングとかリフとか)
がつくりだすアンサンブルにあると思った。

↓ だからこの3要素が揃っていた、BCMやfunka latinaを好んで聴いていたのだと思う。
今じゃ、1曲通しの生の16ビートハイハットなんて、ほとんど聴かない(聴けない)もんな・・・。
(NHKの音楽番組のドラマーさんがときどき演ってる。)

■ -43- - Level 42(1983年のLIVE)


■ Night Birds - Shakatak ( Live from Crossover 2005, Japan )


■ Never Too Much - Luther Vandross


■ 99 - TOTO 1980 LIVE in Tokyo

↑ TOTOがいわゆるふつうのRock Bandと一線を画したのは、Jeff PorcaroのシャッフルドラムスとDavid Hungateのはずむベースラインがあったから。
ギターのSteve LukatherがFred Tackettあたりだったら、3拍子揃って完璧なAORユニットになっていたと思う。

■ Vinnie Colaiuta Plays His Restored 90's Gretsch Kit For The First Time

↑ Vinnie Colaiuta。1980年代は、こんなのがごろごろいたから・・・(笑)
やっぱりリズムセクションの層の厚さが今とは違っていたと思う。


それにしても一度でいいから、達郎氏とマキタスポーツ氏の対談がききたい。

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2022/07/14 UP

New Jack Swingの影響も大きかった。

■ 80'Sマニアのための80'S R&B サーファーディスコ からニュージャックスイングまで

↑ 1980代のグルーヴ系BCMからNew Jack Swingへの移行がよくわかる選曲&編集。

■ New Jack Swing The Best Collection

↑ New Jack Swingが主流になるにつれ、洋楽を離れた人間です(笑)

New Jack Swing のビートは、いまも洋楽の底流になっていると思う。
それに風穴を開けた(と思った)のがSilk Sonic(Bruno Mars, Anderson .Paak)だったんだけど・・・。

【和訳】Bruno Mars, Anderson .Paak, Silk Sonic「Leave the Door Open」【公式】



2022/05/05 UP
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■ 2022年のJ-POP-2で、いまの米国の金太郎飴チャートぶりについて書いたけど、その理由についてつらつら考えてみました。

なにが「金太郎飴」かというと、hip hop系4つ打ちとペンタ音階です。
なので、それについて探っていきたいと思いますが、筆者はいまは楽器もDTMもやっていないので、これから書くことは音楽制作の場からみると的外れなことも多々あろうかと思います。
そのときは笑ってやってください。

1.hip hopとサンプリング

まずは ↓こちらをご覧ください。

■ hip hop ヒップホップの作り方3 定番コード進行、音源と 装飾音の作り方(DTMスクール EDMS)

↑ ても、これって楽器でやったほうが手っ取り早いし楽なんじゃね?

でもって、こちらもどうぞ。↓

■【ヒップホップ】初心者のためのビートメイキング講座

↑ hiphop制作サイドからの視点です。

「楽器を弾けなくてもできる音楽が、いわゆる hip hopの音楽のルーツになっている。」
↑ それはそれで、音楽(POPS)の裾野が広がっていいことだとは思う。

ビートループ、サンプルでもってきちゃばそれでよし。べつにもってこなくてもDTMならいくらもつくれる。
これにサンプリング音源乗っければ、それで一丁上がりってことか・・・。

でもさ、それじゃグルーヴでないわけよ、↑でもいってるけど・・・。

「僕が思うグルーヴです・・・。」
↑ さすがに解説者だけのことある。パワーワードの「グルーヴ」に対する姿勢は慎重。
「僕が思うグルーヴ」ね・・・(笑)

「(天才J Dilla) MPCとかで、こんなに楽器みたいにグルーヴを出せなかったんですよ。いままでは、けど、それをいとも簡単にやってのけたJ Dの・・・」
↑ ????? ふつうに楽器弾いてグルーヴ追求すればいいんじゃね?
楽器弾けても簡単にはグルーヴ出せないけど。

「ドラムトラックがめちゃくちゃしっかり創れてれば、どんなビートもまじでワンランク上のビートになる。」 
↑ これはたしかにそうだと思う。バンド・サウンドもそうだもんね。

■【公式ライブ映像】Poppin'Party「キズナミュージック♪」

声優の架空ユニットなのに、これだけのドラムス&サウンド叩き出せるのは立派。

■ Endless Story - Yuna Ito

リズムセクション(というか全員)名演。スロー曲なのにグルーヴばりばり。

■ Everlasting Song - FictionJunction

FictionJunctionが凄いのは、歌姫コーラスだけでなく、インスト陣のサウンドも一流だから。
これはなかでも絶品。歴史に残る名演だと思う。

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でも、メロディのサンプリングってなんでやるの?
メロ(コード進行)が枯渇したから?
それとも往年のグルーヴがほしいから?

・ヴェイパーウェイヴ / フューチャーファンク(シティポップ・サンプリング)の代表曲
■ 【Rainych】 Mayonaka no Door / STAY WITH ME - Miki Matsubara | Official Music Video


・オリジナル
■ 真夜中のドア/Stay With Me - 松原みき

↑ この2曲聴き比べれば、本家どり(サンプリング)して本家以上のグルーヴ創り出すなんて、とうてい無理筋だってことくらいすぐにわかろうかと思うが・・・。


16ビートのリズム音源とか、じつはあるんだけど ↓
■ 16ビートDr&Bass リズム音源


あまりにドハマリの曲、1970年代中盤~1980年代前半にたくさんつくられてるので、どうしても二番煎じになる。
それにヴォーカルとインストに力量ないと、このリズムこなせないし・・・。

■ Lowdown - Boz Scaggs(1976)

David Hungate(b)、Jeff Porcaro(ds)、Fred Tackett(g)、David Paich(key)

■ Destination - The Warriors(1982)

↑ 英国funka latina(ファンカラティーナ)。
16ビートグルーヴ曲に欠かせなかった、チョッパー・ベース(スラップ・ベース)とカッティングギター。
このビートはどう演っても(聴いても)バックビート(裏拍)になる。
4つ打ちにはならない。

日本でも・・・。↓
■ DOWN TOWN - EPO Studio Live


■ また会おね - 矢野顕子 with YMO (1979)


■ Meiko Nakahara(中原めいこ) - Fantasy(1982)



2.最新人気楽曲のリズムパターン

ありがたいことに絶好のWeb記事がみつかりました。↓
「【2021年最新】人気楽曲のリズムパターンを解析(ヒットの秘密は〇〇リズム)」

■ BTS - 'Dynamite' Official MV

↑ おそらく、2021年にビルボードでもっともヒットした楽曲のひとつ。
・BPM114の4つ打ち。2.4拍アクセントでアップビートにも聴こえるが4つ打ち。
コード進行は6251の循環進行でいたってシンプル。(あまりにシンプルなので、←の筆者さんにアレンジされちゃってる(笑))

■ YOASOBI「怪物」Official Music Video (YOASOBI - Monster)

・BPM168の4つ打ち。これも2.4拍アクセントあるけど典型的な4つ打ちタテノリ曲。
お子ちゃまでも簡単に踊れる(というかハネてるだけでOKという)、すこぶる間口の広い曲。
コード進行は4536王道進行だけど、一応ブルーノートと転調かましてる。

「(2021年の邦楽シーンは)『売れたいなら4つ打ちにしなさい』と言わんばかりの、トップチャートのほとんどが4つ打ちです。」
↑ これは邦楽だけじゃなく、洋楽でもいえると思う。

「昔から4つ打ちのリズムパターンは人気ですが、ロック系が少し勢いを失い、ここまでエレクトロ系がトップチャートを占めることは無かったので、2021年は圧倒的4つ打ちブームと言えます。」
↑ この筆者さんほんといいとこ突いてるわ。異論ござりませぬ。


3.4つ打ちとペンタ

4つ打ち(キック(バスドラ)を4連でかますリズム)じたいは1970年代以前からあったし、ABBAやミュンヘン・サウンドは4つ打ちだった。

■ Gimme! Gimme! Gimme! (A Man After Midnight) - ABBA


でも、のちに4つ打ちの牙城となるディスコでも、1980年代前半まではシンコペ絡みの16ビートバックビートがメインだったと思う。

■ Got To Be Real - Cheryl Lynn (1978)


■ Feelin' Lucky Lately - High Fashion (1982)



1981年に4つ打ちの ↓ の大ヒットが出たが、まだまだ洒落気とグルーヴは十分に残していた。
■ Daryl Hall & John Oates - Private Eyes


■ 愛のコリーダ/クインシー・ジョーンズ(Ai No Corrida - Quincy Jones)(1981)

これはアップビートだけど、メジャーコードと日本人好みのベタメロが入りまじった不思議なメロディーで、個人的にはBCMとは思えなかった。
予想どおり(笑)日本で大ヒットして紅白でも歌われた。
今から考えると、これがユーロビートの走りだったかもしれぬ。(歌謡曲との親和性という意味で)


1982年くらいから英国エレクトロ・ポップで4つ打ちが増えだして、

■ Relax - Frankie Goes To Hollywood(1983)


個人的に、決定的にやばい(笑)と思ったのは、1985年の ↓。

■ 荻野目洋子 - ダンシング・ヒーロー

4つ打ちベタメロ曲。
(4つ打ちタテノリ曲なのに16ビートヨコノリのクセから抜けられないダンサーさんたち、苦しそう(笑))

もはや「邦楽だからしょーがねぇわな」、と悠長に構えてはいられなかった。
このベタメロの元歌が洋楽(Angie Gold/Eat You Up)だったから。

それにこのころ一気に増え出したサンプリング系の楽曲でもシンコペはとり入れることができたけど、なんとなくラグタイムから綿々とつづいてきたシンコペとは異質のものになってしまった感じがしていた。

■ The Entertainer - Scott Joplin


■ ラグタイムってなに?シンコペーション??【JAZZの歴史Vol.3】-学校では教えてくれない音楽のコト-


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でもって、懸念は現実のものになった。

■Turn It Into Love - Kylie Minogue

はい、きました。
ストック・エイトキン・ウォーターマン (Stock Aitken Waterman/SAW)ですね!
4つ打ちベタメロ王道曲。ジュリアナ東京へ一直線。

↓ 日本でも大ヒットしたのは、わかりやすい4つ打ちやマイナーなベタメロ(=歌謡曲メロ)が、日本人の琴線に広くふれたためだと思う。
■ 愛が止まらない - WINK


というか、発端は1984年のこの曲か・・・。
■ You Spin Me Round (Like a Record) - Dead Or Alive

すでにSAWが絡んでる。
【 洋楽1983年ピーク説 】を書くひとつのきっかけになった曲。
「Hi-NRG(ハイエナジー)の先駆けとなった曲」ともされるが違うと思う。
ユーロビートの先駆けではあるが。

2009年、Flo Ridaの「Right Round」のサンプリングでヒット。
■ Flo Rida - Right Round (feat. Ke$ha)

いまの米国のメインストリームにかなり近い。
この手の曲は、サンプリングで上位互換あり得るかも・・・。

・Hi-NRGの代表曲
■ Can't Take My Eyes Off You (Original Extended Version) - Boys Town Gang(1982)

↑ 「You Spin Me Round 」と質感ぜんぜん違うでしょ。
この曲もそうだけどHi-NRGのメインストリームって、 San Franciscoの「Moby Dick Records」だと思う。英国じゃない(Passionレーベルはあるけど)。
(あと、オランダの「Rams Horn Records」かな。こちらのほうはユーロ・ディスコなのでMoby Dickより4つ打ち色が強い。)

**************
追加です。

↑ で シンコペ絡みの16ビートバックビート → (Hi-NRG)(英国NewWavw / エレクトロ・ポップ) → 4つ打ちユーロビートみたいな安易な書き方したけど、そう単純なもんじゃないです。
振り返ってみると・・・。

■ On The Beat - BB & Q Band(1981)

これはバックビートヨコノリの典型曲。

■ You're The One For Me - D Train (1982)

ちょっとコアなニュアンスが入ってくる。
あきらかにベースやリズムセクションの音色が変わってきている。

■ Jungle Love - Morris Day & The Time(1984)

さらにエッヂが効いてくる。
ひきずるようなベース、乾ききったギターリフ。


エスノやラテンも絡めつつ・・・
■ Genius Of Love - Tom Tom Club(1981)

Talking Heads絡みだけに、リズムセクションの安定感はピカ一。

■ Conga - Miami Sound Machine / Gloria Estefan(1985)


そしてHi-NRG。

■ Maybe This Time (Hi-NRG Mix) - Norma Lewis(1983)

4つ打ちではありません。16ビート系のカッティング・リフ入ってるでしょ。

■ Rocket To Your Heart (Hot Tracks Remix) - Lisa(1982-1983)/Moby Dick

抜群のエナジー感、名曲! Hi-NRGはこのあたりがピークだったと思う。

■ Let's Get Started (Extended Version) - Voyage(1981)

これはフランスのユーロディスコ。Hi-NRGとはちとニュアンスが違う。

■ Do You Wanna Funk? - Patrick Cowley feat. Sylvester(1982)

1984年くらいのイメージあったけど、確認してみたら1982年と以外にはやかった。
これはすでにユーロビート入ってますね。

■ Break Me Into Little Pieces (Extended Mix) - HOT GOSSIP(1985)

ちょうどHi-NRGとユーロビートがシンクロしたのが、このあたりの曲だと思う。

■ Together In Electric Dreams - Giorgio Moroder & Philip Oakey(1984)

この曲も微妙でしたわ。
ミュンヘン・サウンドの立役者なのに、ユーロディスコ(ミュンヘン・サウンド)じゃないし、エレクトロ・ポップのニュアンスも入ってるし、メロディラインはHi-NRGだし・・・。

■ Give Me Up - Michael Fortunati(1986)

ブライトなメロディラインはHi-NRGだけど、リズムは4つ打ち。
小室サウンドに通じるものを感じる。

1984~1986年くらいがちょうど過渡期だったのだと思う。


で、SAW様の時代に突入していくわけですよ・・・。

■ Toy Boy - Sinitta(1987)

4つ打ちに超わかりやすいメロ(笑)

個人的にはアラベスク(Arabesque)やボニーMと、さして変わらんと思うけどね(笑)

■ Hello Mr. Monkey - Arabesque(1977)


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誤解をおそれずにいうと、いまも世界のPOPシーンはこの(SAWの)流れのなかにあると思う。
4つ打ちはそのままに、ベタメロがペンタ(ヨナ抜き音階)に置き換わっただけ。
日本に限らず、世界の多くの音楽のルーツはペンタ(ヨナ抜き音階)や3和音だから、意識せずに放っておくとペンタ3和音の世界に戻ってしまうのかも・・・。


・ユーミンという希有の才能が、ペンタ3和音から離れて洋楽メジャー・セブンスと奇跡的にシンクロした神曲 ↓
いつの時代でも生み出せる曲じゃないと思う。
■ ベルベット・イースター / 荒井由実 【COVER】

コード

■ ずっとそばに - 松任谷由実

↑ ユーミンのかくれた名曲。
往年のユーミンの曲はミディアム系でもしっかりグルーヴ効いてた。


4.シティポップの復権

でもっていきなりシティ・ポップです。
なぜかというと、これまで書いてきた曲たちと対極のポジションにいるから。

■ Sparkle - 山下達郎

・16ビートアップビートのメジャー・セブンス曲。
・青山純(ds)、伊藤広規(b)、難波弘之(key)。

↓ こいつを視ておくんなまし。
Kan Sanoが語る、山下達郎の影響を感じる楽曲と再評価の理由
山下達郎といえば、青山純(ds)であり、伊藤広規(b)であり、そしてグルーヴ感あふれる16ビートなんですね。
とくに、故・青山純氏(ds)の存在感。

■ Plastic Love - 竹内 まりや

↑ これも青山純氏のds。

右手1本16ビート!竹内まりやをサポートする青山純の神がかりグルーヴという超貴重な記事があります。
「通常16ビートと言えば、右手と左手で交互にチキチキとハイハットを鳴らしてリズムを刻むのだけれど、青山純はこれを片手(右手)のみで刻んでいる。(略)「チキチキチキチキ とハイハットを鳴らす」感覚と「チチチチチチチチ と、右手1本で鳴らす」感覚の違いと言えば、わかってもらえるだろうか。」
でもって、達郎さんはLIVEのさなかでこの違いを聴き分けていたそうな。

そして、大御所ドラマー、故・村上 “ポンタ” 秀一さんのお言葉。(孫引きです。)
「いまの若者に生音を聴かせたい。どうしても聴いて欲しい… 目の前で観る音楽は全然違うんだよ。スティックを振る音、身体の動き、ミュージシャン同士のアイコンタクト、そういう空気を感じて欲しいんだよ」

■【ドラム】追悼…村上 ”ポンタ” 秀一 氏 -世界のミュージシャン-【thebassman】


それと、Web検索してる途中で ↓ こんなのが引っ掛かったので・・・ ひと言。

山下達郎の曲、どこを切り取ってもサビ(川谷絵音)

「達郎サウンドって何だろうと考えると、“ファンク”という言葉が出てくる。ファンクとは、16ビートに乗せて体が勝手に揺れるような音楽で、ループフレーズが多い。その反面、いなたく(泥臭く)なってしまいがちでそのいなたさに慣れていない若者はそんなにハマらない傾向にある。」
↑ ふ~ん、そういう風に16ビートを捉えてるんだ・・・。

「ただ達郎さんの場合、歌メロがキャッチーであり、誰にも似ていない唯一無二の声で歌うため、どんなサウンドでも心地よくなるのだ。というか達郎さんのサウンドにはいなたさがない。」
↑ ふ~ん、達郎氏の本質って、「メロのキャッチー」さと「声質」なんだ・・・。
なるほど、そういう捉え方もあるのか・・・。ある意味みょーに納得(笑)

達郎さんだけじゃないと思うけどね。

■ 水銀燈/Mercury Lamp (1984オリジナル) - 杏里
(LAレコーディング作品)

 
■ 水銀燈/Mercury Lamp (『16th Summer Breeze』リマスター) - 杏里


↑ 同じ曲、同じオリジナルヴォーカルなのに、これだけグルーヴ感が違う。(むろん、グルーヴ効いているのは1980年代のオリジナル。)
グルーヴ感ってこれだけ微妙。サンプリングで上位互換、できるわけないと思うが・・・。

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↑にあげた”グルーヴ”は、1970年代後半~1980年代前半のシティポップ、AOR、ブラコンなどのノリのイメージをあらわす”狭義のグルーヴ”です。
(広義だと、リズム感=グルーヴ感や、アップテンポの曲=グルーヴィ-などのニュアンスで使われたりもしますが、それとはぜんぜん違います。)
とくに”狭義のグルーヴ”は、曲のテンポとはほとんど関連がないと思う。

スローバラードでもグルーヴィーな曲はいくらもあるし、アップテンポでもグルーヴを感じない曲はたくさんあります。
曲のテンポよりも、譜面とのからみ具合の方がはるかに関係してると思う。
ジャスト(譜面どおり)なリズムよりきもち遅らせ気味(後ノリ、タメ)で、「モタり」まで行く前の絶妙のポジョンどり、これがグルーヴ感の要ではないかと・・・。
それと、生ドラムスのスネアとハイハットは絶対必要。

でも、グルーヴってたぶんリズムセクションだけで出せるもんじゃない。
だからグルーヴの名曲といわれているテイクは、パーマネントなバンドか、一定の腕利きのスタジオミュージシャンによるものが多いのだと思う。(相手のクセや間合いのとりかたがわかっている。)
詳しくは→こちらをみてね。

グルーヴ(groove)は「レコードの溝」に語源をもつといわれ、1980年代中盤からのレコードの衰退に歩調を合わせるように、”グルーヴ”曲も少なくなっていった。
1970年代後半~1980年代前半の楽曲の雰囲気をあらわすのに、ピッタリなことばだと思う。
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(筆者のいう)”グルーヴ”曲の例 (Slow~Midテンポでも出てるパターン)↓

■ Gringo - Little Feat(1981)

・日本のミュージシャンにも人気が高かったといわれるウエストコーストのGroup。
グルーヴはリズムセクションだけで創り出すものでないことが、よくわかる1曲。

■ Anymore - Brick(1982) 

1980年代初頭、Dance(Soul)とJazzをミックスしたようなフォーマットを”Dazz”と呼んだ。(Dazz Bandは有名。)
このジャンルの曲は、たいていグルーヴ感を備えていたと思う。

■ True To Life - Roxy Music(1982)

歴史的名盤『Avalon』収録のグルーヴ曲。
これは「意図的に」グルーヴを創り出していると思う。

↑ やっぱり1980年代前半になってしまう(笑)


■ サントリービール『純生』CM 1981  Loveland Island - 山下達郎 

こんなダンス(ステップ)なら・・・なんも文句はありません(笑)

ちょいと聴いてみておくんなまし ↓
■ 2015年12月20日 山下達郎 40th Anniversary Special Part 2 ~音楽制作40年の軌跡~ ナビゲーター・クリス松村

ひょっとして、邦楽1983年ピーク説も成り立つのか・・・?

30:47~
「非常にスローモーになってますよね。だけどそれを、要するに本音言いたくないんで、やれハイレゾだなんだって、これだけプログレスしてるんだってことを、あたかもほんとに進化しているように見せかけていかないと商品性がないから、マーケティングがないから・・・。もう、はっきりしてるんですよそんなことは・・・。」
↑ すこぶる辛辣なコメントだけど、本質を突いているかも。

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思いつくままに勢いで書いたので、とりとめのない記事になりすみませぬ。
後日、手を入れて読みやすくします。


〔 関連記事 〕
■ グルーヴ&ハイトーン (グルーヴってなに・・・?)
■ ザ・カセットテープ・ミュージック
■ コードづかいとコード進行(丸サ進行とメジャー・セブンス)
■ 名曲の裏に名コード進行あり
■ 「シティ・ポップ」って?
■ 日本にシティ・ポップはなかった??
■ 2022年のJ-POP-2

■ サザンのセブンス曲
■ 山下達郎の名曲
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■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で出てくる寺院もけっこうあるので、こちらも「鎌倉殿の13人」と御朱印「鎌倉市の御朱印」と併行してUPしていきます。

新型コロナウイルス感染拡大警戒中です。また、令和3年7月伊豆山土砂災害等の影響も懸念され、寺社様によっては御朱印授与を中止されている可能性があります。ご留意をお願いします。

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伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-2
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-3
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4から。
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-6


〔 参考文献 〕
『こころの旅』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 こころの旅』(㈱ピーシードクター 刊)
『霊場めぐり』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 霊場めぐり』(伊豆観光霊跡振興会 刊)
を示します。


■ (新?)第35番 天城山 慈眼院(じげんいん)
公式Web
伊豆88遍路の紹介ページ
賀茂郡河津町梨本28-1
曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:-
授与所:温泉施設「禅の湯」内

※今回、この記事を書くために調べたところ、どうやら第35番は栖足寺から慈眼院に変更されたようです。
慈眼院は参拝し御朱印を拝受していますのでUPします。


伊豆88遍路の紹介ページには「安政4年(1857年)初代駐日総領事タウンゼント・ハリスが、日米修好通商条約締結のため江戸へ赴く途中で一泊したお寺。ハリスが使用した曲録(椅子)が残っています。」とありますが、情報の少ないお寺さまです。

『豆州志稿』に「梨本村 曹洞宗 逆川普門院末 本尊観世音 舊真言宗慈眼庵ト称シテ天城山中ニ在リキ 慶安(1648-1652年)中此地ニ移シ 普門院雲國和尚ヲ開山祖トス 是時ヨリ院号ト為ス」とありますので、少なくとも江戸時代には創立しているようです。

伊豆山中に真言宗の庵として草創、慶安(1648-1652年)年間に現在地に遷り普門院雲國和尚を開山祖として庵を院に改めています。

「寺社Nowオンライン」の記事によると、もともと檀家がすくなく寺院経営がきびしかったため、境内にユースホステルを起業、温泉を掘削して温泉施設「禅の湯」としてリニューアルオープンしたとのこと。

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国道414号天城街道が天城峠から七滝ループ橋を経て下ってきたところ、温泉地としても知られる梨本エリアにあります。
国道に面し、お寺というより温泉施設「禅の湯」が前面に出ています。


【写真 上(左)】 サイン
【写真 下(右)】 山門


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 石仏群

国道に面した山門は切妻屋根銅板葺の四脚門。
正面の本堂は寄棟造桟瓦葺で大棟に「慈眼院」の院号を掲げています。
向拝柱はなく、向拝扉と両側に花頭窓。
本堂内は禅刹らしいすっきりとしたつくりで、正面見上げに山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂


【写真 上(左)】 本堂内
【写真 下(右)】 龍の天井絵

御朱印は「禅の湯」のフロントで授与されています。
御朱印は御本尊・聖観世音菩薩、弘法大師、ほうそうばあさん、龍(両面)の4種類。
いずれも御朱印帳への印判でした。
非札所の曹洞宗寺院で弘法大師の御朱印はめずらしいですが、こちらはもともと真言宗でお大師さまとゆかりがあるとの由。
このたびの伊豆八十八ヶ所霊場への参画で、ゆかりがより深まったとみるべきでしょうか。

龍の御朱印は、本堂の豪快な天井絵にちなむもの。
「ほうそうばあさん」は、疱瘡神(疱瘡を患うことがないよう祈念する神様)です。


【写真 上(左)】 御本尊・聖観世音菩薩の御朱印
【写真 下(右)】 弘法大師の御朱印


■ ほうそうばあさんの御朱印


■ 龍の御朱印

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こちらは、以前に日帰り入浴していますが、横着なのでまだレポをあげていません (~~;
近いうちにUPしたいと思います。

こちらは自家源泉で、平成17年春に温泉分析しています。
源泉名は梨本17号、泉温47.0℃、pH=9.0(アルカリ性泉)、湧出量169L/min、成分総計=1.383g/kgのカルシウム・ナトリウム-硫酸塩温泉。
なかなかの良泉を非加水・非加温・非消毒でかけ流し利用しています。

「禅の湯」はロハス系のあかるいイメージの宿泊施設で、日帰り入浴も受け付けています。
座禅やリトリート体験もできるようです。


■ 第36番 長運山 乗安寺(じょうあんじ)
河津町観光協会
伊豆88遍路の紹介ページ
河津町谷津413
日蓮宗
御本尊:十界曼荼羅
札所本尊:
他札所:-
授与所:庫裡

伊豆半島には、中伊豆、伊東などを中心に日蓮宗寺院がかなりありますが、伊豆八十八ヶ所霊場は禅刹がメインで日蓮宗の札所は1ヶ所しかありません。
こちらはその貴重な日蓮宗の札所寺院です。

『こころの旅』『霊場めぐり』によると、慶長年間(1596-1615年)縄地金山採掘の際、縄地に身延山久遠寺廿二世日遠上人を開山に創立、のちに現在地に移されたといいます。

開山日遠上人が法輪のため駿府城に赴いた際、家康公の怒りにふれ安倍川の河原で斬罪に処せられるところ、側室お万の方が上人を自らの女駕籠に乗せてこの地へ逃したという伝承があります。
当山には、そのときの女乗物駕籠が保存されています。

この事件のいきさつについては、Wikipediaの「養珠院」のページにまとめられているので、以下に引用させていただきます。

-----------------------(引用はじめ)
(養珠院(お万の方)の)義父の蔭山家は代々日蓮宗を信仰しており、万もその影響を受けて日遠に帰依した。家康は浄土宗であり、日頃から宗論を挑む日遠を不快に思っていたため、慶長13年(1608年)11月15日、江戸城での問答の直前に日蓮宗側の論者を家臣に襲わせた結果、日蓮宗側は半死半生の状態となり、浄土宗側を勝利させた。この不法な家康のやり方に怒った日遠は身延山法主を辞し、家康が禁止した宗論を上申した。これに激怒した家康は、日遠を捕まえて駿府の安倍川原で磔にしようとしたため、万は家康に日遠の助命嘆願をするが、家康は聞き入れなかった。すると万は「師の日遠が死ぬ時は自分も死ぬ」と、日遠と自分の2枚の死に衣を縫う。これには家康も驚いて日遠を放免した
-----------------------(引用おわり)

家康公は日蓮宗に対して総じて厳しい態度をとり、幾度も関係者に対論させたといわれています。
この事件も上記のとおり宗論が絡んでいるといわれますが、かなりデリケートな内容も含むのでここではこれ以上とりあげません。

いずれにしても、身延山久遠寺廿二世日遠上人の開山という由緒ある日蓮宗寺院であることはまちがいなさそうです。
上記のとおりお万の方は熱心な日蓮宗の信者で、三島の日蓮宗の名刹、経王山 妙法華寺ともふかいゆかりをもちます。

『豆州志稿』には「谷津村 日蓮宗 甲州身延山久遠寺末 本尊十界曼荼羅 慶長中(1596-1615年)創立 久遠寺廿二世日遠ヲ開山トス(中略)縄地ニ黄金出シ時(慶長中金鉱開掘)新ニ建タテルカ事罷テ此ニ移ス」とあります。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 御題目碑

河津川が河津浜に注ぐ河口そばの右岸にあります。
「河津の足湯処・ほっとステーション」のちょうど山側です。

山内入口に御題目碑と「元祖日蓮大士」の石碑。
そのすぐ先に山を背負って本堂。
右手の山腹に朱塗りのお堂がありますが、何のお堂かきき忘れました。


【写真 上(左)】 朱塗りのお堂
【写真 下(右)】 本堂

-------------------
2015年落慶の真新しい本堂は、寄棟造銅板葺で向拝柱のないシンプルなつくり。
向拝サッシュ扉のうえに寺号扁額を掲げています。
庫裡にお声掛けすると本堂を開けていただけ、本堂内にも寺号扁額が懸けられていました。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝扁額

「こころの旅」を読んだうえで参拝しているので、当然「女乗物駕籠」の認識はあったはずですが、このときはなぜか「女乗物駕籠」の一部しか撮影しておりません。


【写真 上(左)】 堂内扁額
【写真 下(右)】 女駕籠(一部)

別のものを撮った写真に「女乗物駕籠」の説明書きも写っていました。
写角が悪く不明瞭ですが、読み取れる範囲で書き起こしてみます。
「徳川家康の側室、お万の方(養珠院)は生涯の師と仰ぐ日遠上人を『駿府の法難』からお救い致しました。そして処刑は免れたものの他宗の迫害を恐れたお万の方は上人ゆかりの地、河津へ愛用の『女駕籠』を使い乗安寺へかくまわれました。」

本堂設備工事の施工企業「㈱宮崎商会」様のWebに「お万の方の駕籠がある乗安寺本堂改築完成!!」という記事があり、改装前の本堂、「女駕籠」や新本堂の落慶法要などの写真がばっちり載っていますのでそちらをご覧ください。

この記事にはお万の方と河津とのゆかりを示す貴重な情報も載っていますので、以下に引用させていただきます。
-----------------------(引用はじめ)
「お万の方は天正3年(1575年)、上総勝浦城(千葉県勝浦市)の城主正木時忠の五男頼忠を実父に、北条氏隆の娘である智光院を母に、小田原に生まれている。その後すぐ、時忠が亡くなり、頼忠が後を継ぐため妻子を残し勝浦城に戻った。智光院は伊豆河津郷に移り、北条家臣の河津城主の蔭山長門守氏広と再婚、お万の方はこの養父蔭山氏広に育てられている。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅び、その後慶長3年(1598年)父である氏広が死去、この頃から深く仏門に帰依し、日蓮宗、身延山の上人を信ずるようになる。その後徳川家康の側室となった。」
-----------------------(引用おわり)

この記事によると、お万の方の母・智光院は北条家臣の河津城主・蔭山長門守氏広と再婚し、お万の方は養父蔭山氏広に育てられたとの由。
とすると、お万の方は河津の地で育ったことになり、仏法の師、日遠上人の危機に際して第二の故郷の河津にかくまわれた、というのはわかりやすい流れです。

御首題は、たしか本堂向かって左手の庫裡にていただきました。
御首題帳にいただきましたが、御朱印帳でも拝受できるかは不明です。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 御首題

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御首題帳


■ 第37番 玉田山 地福院(じふくいん)
伊豆88遍路の紹介ページ
河津町縄地430
曹洞宗
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
他札所:-
授与所:第38番禅福寺庫裡

平安時代の創立ともいわれ、かつては玉田山金生院という真言宗寺院でしたが、慶長五年(1600年)に曹洞宗に改め再興。
縄地金山が栄えた際に、近隣に創立された9つの寺院のうちの一ヶ寺で、金山衰退後に他の8つの寺院は移転ないし廃寺となりましたが、地福院だけはこの地に残ったとの由。

『豆州志稿』には「縄地村 曹洞宗 武州金澤禅林寺末 本尊大日 初真言ニシテ金生院と称ス 後中絶ス 慶長五年(1600年)禅林寺二世天随再興改宗シテ地福院ト号ス」とあります。

せっかくなので縄地金山について調べてみようと思いましたが、廃墟系・探索系サイトはたくさんヒットするものの、公的な資料がほとんどみつかりません。
関心を惹きやすい閉鉱金山で、現在、民間所有なので自治体としてもとり上げにくいようです。

静岡県立中央図書館のWeb開示資料がヒットしたので抜粋引用します。
「縄地金山(河津町)は1598年(慶長三年)から採掘が始まったとされる。『佐渡年代記』1601年(同六年)大久保長安が伊豆・石見・佐渡銀山の支配を命じられたことが記され、1606年(同十一年)、伊豆金山奉行となったことから最盛を極めた。(中略)大久保長安は1607年(同十二年)に河津町の縄地神社に鰐口を奉納して(中略)鉱山の隆盛と安全を祈願した。」

また、『霊場めぐり』にも関連記事がありました。出典は『伊豆伝説集』からとみられ、貴重な内容なので抜粋引用します。
「縄地は南伊豆第一の金山であった。慶長十年(1605年)大久保岩見守長安が金山奉行として此地に来て採掘を続けた。最盛期には戸数8,000を算した。劇場もあり、相撲場もあり、遊女御免。長安は金山奉行として巨万を積んだ。その不正贓罪は死後にあばかれ、一族は処刑され、不正に連座した坑夫は磔刑に処せられた。岩見守の邸跡は寺坂にある。縄地の子安神社、山神社に長安奉納の金の鍔が残っていた。最大なのは重さ約7貫匁(26kg)黄金を含んでいて、音響が極めてよかったといわれたが、賊に奪われて今はない。」

伊豆の金山について、『伊豆志稿』には「黄金 白銀 天正●●頃ヨリ土肥村 黄金初メテ出テ 湯ガ島 縄地 瓜生野 修善寺等相継デホリ出シ 夥シキ●● 就中縄地ヨリ出シハ又特ニ多シ 大抵五十余年ニテ止ム 慶長十年(1610年)ノ頃ヨリ盛ニ出テ其ノ数大形佐渡ヨリ出ルガ如● 程ナク出ル●多カラズ トルノヲ止メラルト」とあり、伊豆の金山、ことに縄地は慶長の頃には佐渡にも劣らないほどの産金があったものの、ほどなく産金量が激減したことが記されています。

一時期とはいえこれだけ栄え、過酷な鉱山労働もあいまって村内に9つもの寺院が成立したのかも。
『豆州志稿』には縄地村からの移転寺院として(廃)金生山富来寺、(廃)栄寶院(当山派)、西光寺などがみられ、第36番乗安寺、第41番海善寺も縄地からの移転とあるので旧・縄地九箇寺かもしれません。

なお、大久保長安は数奇な運命をたどった武将で、逸話が山ほどあるので興味のある方は→こちら(Wikipedia)をご覧くださいませ。

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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 札所標

国道135号線、縄地トンネルのすぐ西から北へ向かう細い道を上がったところ。
石垣が積まれた参道。本堂手前に伊豆八十八ヶ所の札所標。


【写真 上(左)】 本堂-1
【写真 下(右)】 本堂-2

正面の本堂は、寄棟造桟瓦葺流れ向拝。向かって右手に庫裡らしき建物がせり出し、ちょっと面白い構成です。

水引虹梁は木鼻の抜けがなく、身舎側の繋ぎ虹梁と併せて向拝上にスクエアを構成。
向拝正面サッシュ扉のうえに院号扁額が掲げられています。

 
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

山内掲示によると、御本尊の金剛界大日如来像は銅製で室町時代後期以降。
吉祥天女像は桧一本造りで平安中期。こちらはかつて縄地尾ヶ崎の小堂に薬師如来として祀られていたお像とのこと。

こちらは無住で、御朱印は第38番禅福寺でいただきました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 大日如来

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第38番 興國山 禅福寺(ぜんぷくじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
下田市白浜351
曹洞宗
御本尊:釈迦如来
札所本尊:釈迦如来
司元別当:伊古奈比咩命神社・白濱神社(下田市白浜)
他札所:-
授与所:庫裡

ここから巡路は下田市内に入ります。
下田は東・西廻海運の風待ち湊として栄え、江戸時代初期には天領となり下田奉行ないし浦賀奉行所支配下にあって独自の文化圏を築いたところです。

下田に陸路で入るルートは中伊豆からの天城越えがメインで、東海岸ルートは相当の難路であったと思われます。
これだけの観光資源をもちながら、伊豆急が下田まで開通したのはなんと昭和36年(1961年)。

東伊豆海岸沿いを走る国道135号も当初は険しい海沿いを走ることができずに山側をたどり、のちに海側につけられた国道は災害等で廃道になっている箇所があります。
この海岸の異様な険しさについては、ヨッキれん氏の壮絶なレポで実感してみてください。

江戸時代の東伊豆の陸路はかように難路で、域外、ことに江戸方面へのメインルートは海路でした。
じっさい下田市のWeb資料「下田の歴史年表」の多くは、水軍、船改め番所、御台場など海運施設の記述に費やされています。

なお、伊豆の海運については「海の東海道」((社)静岡県建築士会)というよくまとまったWeb記事があります。

陸路が厳しく海上交通が盛んであれば、その土地は海運関係者で繁昌し、南伊豆の物産の集散地となった筈です。
その繁栄ぶりは、「下田節」(下田市Web資料)の「伊豆の下田に長居はおよし、縞の財布が軽くなる」からも容易に想像できます。

■ 下田節(静岡県民謡)~峰村利子


伊豆八十八ヶ所の札所が、いまでは交通便利な東伊豆に少なく、南伊豆に集中しているのは不思議な感じもしますが、背景にはこのような事情があったかもしれません。

禅福寺について、『豆州志稿』には「白濱村 曹洞宗 相州田原香雲寺末 本尊釋迦 昔禅教庵ト云 寛永中(1624-1644年)大室和尚寺号ト為ス」とあります。
(山号が「奥谷山」となっています。)

当初は観世音菩薩を奉安する真言宗の小庵で、貞和年間(1345-1350年)以来衰えましたが、 永正(1504-1521年)のころ相州香雲寺開山の霊叟禅師が入られて曹洞宗となり「禅居庵(または禅教院)」と号し、元和八年(1622年)に香雲寺9世宗樹ないし、寛永中(1624-1644年)に大室和尚が伽藍を整え「禅福寺」と号を改めたと伝わります。

禅福寺は、かつて伊豆最古の神社とされる伊古奈比咩命神社(白濱神社)の別当をつとめたともいわれます。

名社、伊古奈比咩命神社について書き始めると膨大な量になりそうなので、以前温泉レポ「下賀茂温泉 「伊古奈」【閉館】」でまとめた文章をそのまま持ってきます。

白濱(浜)神社は正式名を伊古奈比咩命神社といい、公式Webによると、御祭神は伊古奈比咩命、三嶋大明神、見目、若宮、剣の御子の5柱です。

当社の御由緒には「三嶋大明神は、その昔遥か南方より黒潮に乗り、この伊豆に到着されました。(中略)伊豆の南に定住していた賀茂族の姫神(伊古奈比咩命)様を后として迎え、白浜という所に宮を造り住まわれました。」とあります。

また、御祭神の説明には以下のとおりあります。
「主神 伊古奈比咩命(いこなひめのみこと) 女性神 三嶋大明神の最愛の后神で縁結びと子育ての神様です。」
「相殿 三嶋大明神 男性神 事代主命(ことしろぬしのみこと)であると言われています。大国主命の御子神様にあたり、大国主命を大国(だいこく)さんを呼ぶのに対して、事代主命は恵比寿さんと呼ばれています。商業と漁業の神様です。」 

御鎮座は六代孝安天皇元年(約2400年前)と伝わり、『日本後紀 巻下(六国史.巻6)』(国立国会図書館DC)の淳和天皇天長九年(832年)5月22日の條に「伊豆國言上、三島神、伊古奈比咩神、二前預名神」とあります。

公式Webには「御土御門天皇文亀元年(1501年)には、三島神、伊古奈比咩神共、正一位という高い位を受けています。そして延喜式には三島神社、伊古奈比咩命神社が、二社共この白浜に鎮座していた事が書かれていて、その社格は三島神社が官幣大社、伊古奈比咩命神社が国幣大社となっています。」とあります。

以上より、伊古奈比咩命神社(白濱神社)が伊豆有数の古い歴史をもち、高い社格をもたれることがわかります。


【写真 上(左)】 白濱神社(伊古奈比咩命神社)
【写真 下(右)】 白濱神社(伊古奈比咩命神社)の御朱印

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【写真 上(左)】 参道の石段
【写真 下(右)】 門柱

白浜漁港の山側、路地奥に階段参道。
門柱のむこう正面が本堂で、入母屋造銅板葺流れ向拝。向拝部に端正な軒唐破風を起こしています。


【写真 上(左)】 六地蔵
【写真 下(右)】 本堂


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に蟇股の構成ですが、全体にすっきりとしたイメージ。
向拝正面サッシュ扉のうえに山号扁額を掲げています。

御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて、第37番地福院とともに拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 釈迦如来

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

■ 下賀茂温泉 「伊古奈」【閉館】の入湯レポ


■ 第39番 西向山 観音寺(かんのんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
下田市須崎615
曹洞宗
御本尊:十一面観世音菩薩
札所本尊:十一面観世音菩薩
他札所:伊豆横道三十三観音霊場第21番、第22番
授与所:庫裡

下田市の南東、須崎半島にあり、運慶作と伝わる十一面観世音菩薩像を御本尊として奉安する禅刹です。

『豆州志稿』には「須崎村 曹洞宗 相州田原香雲寺末 本尊観世音 舊暘谷院トテ真言宗ナリ 寛永(1624-1644年)ノ頃大室和尚宗及寺号ヲ改ム 初同村字川上ニ在リ 大室ノ時現地ニ移ス」とあります。

開創年代は不明。当初は真言宗で須崎川上にあり、暘谷院と号しました。
元和元年(1615年)(寛永年間とも)、相州秦野香雲寺九世・大室宗樹が曹洞宗に改宗し、現寺号に改めました。
延享四年(1747年)、火災に遭い現在地に移転と伝わります。

こちらは伊豆横道三十三観音霊場第21番、第22番の札所を兼ねています。
伊豆横道三十三観音霊場は、伊豆に流されていた源頼朝公と高雄山神護寺の僧・文覚により源氏再興を祈念して開創とされる、すこぶる古い観音霊場です。

発願の西伊豆町の延命寺(滝見観音堂)から松崎、下田、河津と廻り、結願は南伊豆町伊浜の普照寺です。
無住のお堂も多いですが、すべて巡拝でき御朱印も揃います。
筆者は結願していますので、後日あらためてご紹介したいと思います。
(本編でもとりあえず御朱印は掲載します。)

一部で伊豆八十八ヶ所と札所が重複しますが、河津町の札所は重複がないので、順打ちでくるとこちらが初めての重複札所となります
観音寺は第21番。末寺の第22番補陀庵も現在観音寺に遷られているので2札所となります。

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須崎半島は南伊豆でも早くから拓けた地で、須崎港は下田の玄関口のひとつでした。
爪木崎や恵比寿島などの観光地はあるものの、水仙の時季以外は訪れる観光客は少なそうです。
筆者も子供のころから伊豆にはよく行きましたが、須崎半島に足を踏み入れたのは今回が初めてです。


【写真 上(左)】 (たぶん)須崎漁港
【写真 下(右)】 参道入口

観音寺はこの須崎半島の南端、須崎漁港の山側、海抜約15mの高台にあります。
あたりは港町の趣きゆたか。それだけに狭い路地が入り組み車の運転は難儀します。
観音寺の門前まで車道は通じていますが、すこぶる狭く駐車場もないようなので車参拝は要注意。
お寺さまに駐車場所を事前TEL確認がベターかと思います。


【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 山門


【写真 上(左)】 山内からの海
【写真 下(右)】 山内

参道は石段で、石段右手に札所標。その先に切妻屋根桟瓦葺の端正な四脚門を構えています。
山門正面が本堂。寄棟造銅板で、向拝柱のないシンプルな堂容です。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂向かって右手奥の庫裡で御朱印をお願いすると、本堂にあげていただけました。
五色幕が張り巡らされた本堂内は観音霊場らしい華やぎがあります。


【写真 上(左)】 本堂内
【写真 下(右)】 本堂内扁額

向拝見上げに「圓通閣」の扁額。
御本尊は運慶作と伝わる十一面観世音菩薩像で、伊豆八十八ヶ所と伊豆横道三十三観音霊場第21番の札所本尊ですが秘仏かもしれません。

山内掲示によると、伊豆横道三十三観音霊場第22番の札所本尊は、本堂ご内陣正面向かって右の厨子内に安置される秘仏の聖観世音菩薩像で、市の指定文化財です。
こちらはかつて小白浜の観音山上にあった補陀庵という末寺の御本尊で、そこから遷られたもの。

檜材一本造りの立像で行基作ともいわれますが、市のWeb資料には「平安後期の作と考えられる」とあります。
山内掲示には「平安後期の作とも伝わるが、和様化の進んだ像容から十一世紀頃の作と推定される。」とありました。

本堂御内陣向かって左の厨子内の薬師如来坐像は檜材一本造りで、制作年代は10世紀末から11世紀初頭に遡ると考えられ、こちらも市の指定文化財です。


【写真 上(左)】 石佛群
【写真 下(右)】 庫裡

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 十一面観世音菩薩

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 伊豆横道三十三観音霊場第21番の御朱印 〕
● 十一面観世音菩薩


〔 伊豆横道三十三観音霊場第22番(補陀庵)の御朱印 〕
● 聖観世音菩薩



■ 第40番 瑞龍山 玉泉寺(ぎょくせんじ)
公式Web
下田市観光ガイド
伊豆88遍路の紹介ページ
下田市柿崎31-6
曹洞宗
御本尊:釈迦如来
札所本尊:釈迦如来
他札所:-
授与所:庫裡

伊豆八十八ヶ所の札所は伊東を過ぎると札所色が強まり、観光客のすがたはまばらですが、こちらは下田の観光名所として人気があります。

寺伝(公式Web、『こころの旅』『霊場めぐり』)によると、もとは真言宗の草庵でしたが、天正のはじめ(1580年代)開山一嶺俊栄大和尚の来錫により曹洞宗に改宗されました。
元禄十二年(1699年)四世心翁三悦和尚のとき、上の山に改築落慶して海上山玉泉禅寺と号し、嘉永元年(1848年)、遺弟二十世翠岩眉毛和尚が現在地に伽藍を整備、山号を瑞龍山に改めたといいます。

嘉永七年(1854年)3月、日米和親条約締結、同年5月の付録13ヶ条締結の際、当寺は米国黒船乗員の休息所・埋葬所に指定されました。

安政三年(1856年)タウンゼンド・ハリス総領事、通訳官ヒュースケンが米艦サン・ハシント号で下田に着任し、同年8月に玉泉寺を日本最初の米国総領事館としました。
境内には星条旗が掲揚され、以来安政六年(1859年)5月江戸麻布の善福寺に移転するまでの2年10ヶ月、幕末開国史のメイン舞台となりました。

また、日露和親条約の交渉の場となり、プチャーチン提督やディアナ号高官の滞在など、開国の歴史を彩る寺歴を有して国の史跡文化財に指定されています。

天皇、皇后両陛下が行幸され、ジミー・カーター米国大統領も訪れてペリー艦隊の将兵墓地をお参りしています。

黒船来航は嘉永六年(1853年)6月、玉泉寺の山内整備は嘉永元年(1848年)なので、黒船来航の数年前に下田の地で伽藍を整えたこのお寺は、期せずして開国の歴史の表舞台に躍り出たことになります。

『豆州志稿』には「柿崎村 曹洞宗 相州田原香雲寺末 本尊釋迦 天正中(1573-1592年)香雲寺七世俊榮創立」と記述は少なく、やはり開国の歴史で語られるお寺なのだと思います。

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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山門

下田市柿崎。国道135号線から須崎方面へ入ってすぐ左手の下田湾を見下ろす高台にあり、港一望の立地も総領事館として好都合だったのでしょう。

石段のうえに構える山門は切妻屋根桟瓦葺。大棟と掛瓦の意匠が複雑で存在感があります。


【写真 上(左)】 牛乳の碑
【写真 下(右)】 牛王如来

3年足らずでしたが正式な米国の総領事館であったため、ふつう寺院にはみられない変わった遺跡がのこります。

日本の門戸を世界に開いたハリスの功績を称える「ハリスの石碑」。
日本で初めて牛乳売買が行われた記念として森永乳業が建てた「牛乳の碑」。領事館の料理用に牛が屠殺されたことにちなむ「日本最初の屠殺場跡」など。

山内には屠殺された牛の菩提のため、東京の牛肉商によって「牛王如来」が建立されています。
本堂右手の「ハリス記念館」では領事館時代にハリスが愛用した品々や文書、そして、玉泉寺の復興に尽力した渋沢栄一にかかわる品などが展示されています。

山内には日本で最初の「外人墓地」とされる「ペリー艦隊」乗員、ロシアの「ディアナ」号の乗員などの墓があります。


【写真 上(左)】 ハリス記念館入口
【写真 下(右)】 本堂

本堂は間口(桁行)七間半、奥行き(梁間)七間、総欅造りの寄棟造で銅板葺、軒先にかけてやわらかな照りをもつ上品な造りです。
向拝柱はなく、扁額もかかげていません。
本堂は開放されて御内陣まで拝め、見上げには寺号扁額。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 向拝


【写真 上(左)】 本堂内
【写真 下(右)】 扁額

『下田市観光ガイド』によると、米国総領事館は本堂に設置されたため、御本尊等の仏像は運び出され、現在ハリスの石碑が建っているあたりに移されていたそうです。

御朱印は授与所にて拝受しました。
授与所前に御朱印が見本が出ているので、慣れない方も拝受しやすいです。
また、こちらは南伊豆では貴重な御朱印帳も頒布されています。

御朱印は伊豆八十八ヶ所(釋迦如来)と「開国史跡 玄波朝天」の二種。
「玄波朝天」とは(異国から)波が押し寄せ朝日が昇る(日本の夜明け)というほどの意味のようです。


【写真 上(左)】 授与案内
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 釋迦如来

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 「玄波朝天」の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 札所印なし
【写真 下(右)】 札所印あり


■ 第41番 富巖山 天気院 海善寺(かいぜんじ)
公式facebook
下田市観光ガイド
伊豆88遍路の紹介ページ
下田市一丁目14-18
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
他札所:-
授与所:庫裡

公式facebookによると観応元年(1350年)、河津の縄地村に明蓮社量誉昭善和尚により開創。(当初は真言宗寺院という説もあり)
天正十七年(1589年)賀茂郡本郷村字天気に移り、慶長年中(1596-1615年)に現在地に移ったとあります。

他の資料には観応元年(1350年)僧昭善が真言宗寺院として開創し、その後下田市本郷に移り布根山天気院と号し、天正十七年(1589年)僧量譽によって浄土宗へ改宗、天正十八年(1590年)現在地に移転して富巖山海善寺と号したという記載もみられます。

当山は、戸田忠次が徳川家康公より五千石をもって下田領主として封ぜられた居館の跡とされます。
その後戸田家は関ヶ原の功により加増を受け、三河田原一万石の大名となりました。

文久三年(1863年)12月、攘夷を迫られた十四代将軍家茂公が蒸気船「翔鶴丸」で上洛の途中、西風に阻まれ下田に待避し当寺で越年したという記録が残ります。

『豆州志稿』には「下田町殿小路 浄土宗 東京増上寺末 本尊阿彌陀 初僧照善縄地村ニ創立ス年代不詳 往古縄地ヨリ本郷村ニ移シ 布根山天気院ト云 布根ハ山名天気ハ地名 蓋量譽上人ノ時真言ヲ改宗シテ浄土ト為ル 量譽ハ天正中ニ寂ス 其後又戸田氏ノ館跡ニ 徳川家康此地ニ戸田忠次ヲ封ス 引ク子院四 徳水軒 浄入庵 浄體軒 周印軒 元治元年(1864年)正月 徳川家茂海上上洛ノ時 当寺ヲ旅館トス 庭前ノ松樹ハ其手栽ナリ」とあります。

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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山門
   
伊豆急下田駅にもほど近い下田市一丁目。
参道門柱から山門までかなりの距離があり、山門も堂々たる楼門で寺格を感じます。
この山門は江戸時代の建立とのこと。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 御名号標


【写真 上(左)】 聖観世音菩薩像
【写真 下(右)】 観音堂?

山内には六地蔵、御名号標、聖観世音菩薩像に「施無畏」の扁額が掛かったお堂。
「施無畏」は観世音菩薩をさすこともあるので観音堂かもしれません。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 扁額

本堂は昭和34年の火災で焼失し、近代建築となっています。
向拝に扁額はありませんでしたが、なぜか寺号扁額の写真があるので、本堂を開けていただいたかもしれません。

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 阿彌陀如来

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-6へつづく。


【 BGM 】
■ 栞 - 天野月 feat.YURiCa/花たん


■ 私きっとこの恋を永遠にね忘れない - CHIHIRO


■ Cloudyな午後 - 中原めいこ
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■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-4

文字数オーバーしたので、Vol.4をつくりました。

■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-3から

■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-1
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-3
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-4
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-5

■ 鎌倉殿の御家人
■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1


28.慈眼山 無量院 萬福寺 (つづき)
〔梶原平三景時〕
東京都大田区南馬込1-49-1
曹洞宗
御本尊:阿弥陀三尊
札所:江戸・東京四十四閻魔参り第19番、閻魔三拾遺第29番

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南馬込の禅刹、萬福寺。山内掲示の縁起書には以下のとおりあります。
「当寺は鎌倉時代の初期、建久年間(1190年頃)に梶原景時が将軍源頼朝の命により大檀那となり梶原家相伝の阿弥陀如来三尊仏を本尊として大井丸山と云う処に建立された。
元応二年(1320年)に火災にあい、景時の墓所のある馬込へ移され再建された。」

『新編武蔵風土記稿』(国会図書館DC)には、当山と梶原景時のかかわりについて詳細に記されています。
(同書では、景時の所領は多磨郡柚井領(現・八王子市)としており、じっさい、元(梶原)八王子八幡神社の由緒には、この地が梶原景時の所領(梶原屋敷)であったことが記されています。)

そのうえで「景時モシ一寺ヲモ建立セントセハ 其住所及ヒ所領ノ地ヲ置テ遠ク当所ヘ起立スヘケンヤ 寺ニ傳フル所イフカシキ事ナリ ヨリテ按ニ小田原北條家人梶原三河守 当寺ノ大檀那ニシテ此人ヲ萬福寺ト号セリ 此人当寺ヲ中興セシユヘニヨリ 梶原ノ家号ヨリ 誤テ平三景時カ開基トセシナラン」と辛辣な書き様ですが、「境内ニ建テタル梶原氏ノ碑陰ニ梶原三河守影時同子息助五郎影末云々」と山内の碑に”梶原三河守影時”の文字があることを認め、「其誤シモ又ユヘアルニ似タリ」としています。

景時の墓所(開基寺院)が、八王子の所領から通く離れた馬込の地にあることに疑問を呈しつつ、梶原家が当山の大旦那であることを含め、一定の所縁は認めているわけです。

一方、萬福寺の公式Webには、「建久年間(1190~99)大井村丸山の地に密教寺院として創建されました。開基は梶原平三景時公であったと伝えられています。元応2年(1320)火災にあい、第六代の梶原掃部助景嗣が居城とともに馬込へ移転したと伝えられます。」とあります。

これによれば、当地へ移転したのは梶原景時(六代)の子孫であり、それが正しいとすると当山は梶原景時の子孫の菩提寺であり、子孫が菩提のために先祖(景時)の墓所となすことは、あながち無理筋ではないような気もします。

また、『江戸名所図会巻二』の萬福寺の項には「相傳ふ、当寺は梶原平蔵景時、創立の梵宇なりと云ふ。霊碑ならびに墳墓あり。」とあります。
ただし注記に「(梶原平蔵)景時三河守に任ぜし事、古書に所見なし」として、北条家家臣の梶原三河守ないし、梶原助五郎の開創ではないかと記しています。

いずれにしても、仮に後世の付会があつたとしても梶原景時ゆかりの寺院として伝承されてきたことは間違いなく、景時ゆかりの見どころも多いのでこちらでご紹介します。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 するすみの像

高台の閑静な住宅地に風流な山内入口、どっしりと構える山門はおそらく茅葺き。
山門左手前には名馬「するすみ」の像。
磨墨(するすみ)は景時の嫡男・景季が頼朝公から賜った名馬で、『平家物語』の宇治川の先陣争いの段で登場します。

頼朝公お気に入りの郎党、佐々木四郎高綱も頼朝公から生食(いけづき)という名馬を下賜されていました。
宇治川をはさんで、対岸の木曽義仲軍と対峙した景季と高綱は、いずれも先駆けを狙っていました。

まずは磨墨に乗った景季が川に乗り入れ、六間ほどおくれて生食に乗った高綱が川入りして先陣争いを展開。
初動でおくれをとった高綱は、「梶原殿、この川は西国一の大河。貴殿の馬の腹帯が緩んでおる。締め直したまえ」と景季に声を掛けました。
これを聞いた景季は「それはそうだ」と馬を止め、腹帯を調べるとべつに異常はない。
その隙に高綱に先を越され、一番乗りを逃したという有名なくだりです。
  
名うての武将が腹帯を確かめずに先駆けとは疑問ですが、宇治川の川底には進撃よけの縄が張り巡らせられ、これを刀で絶ちつつ進撃したためにこの忠告が効いたとされています。

馬込は「磨墨」の生誕地との伝承があり、「磨墨」を供養する「するすみ塚」もあって当山が管理しています。
そのような所縁もあって、この「するすみ像」が建てられたのでしょう。

また、当山は梶原景時が戦場で用いたと伝わる馬具(区指定文化財)を所蔵しています。
だとすると「磨墨」につけられた可能性がありますが、山内の説明板には「『新編武蔵風土記稿』では北条氏直の家臣梶原三河守のものであろうと記す。」とありました。


【写真 上(左)】 閻魔堂
【写真 下(右)】 のぼり

山門をくぐって右手には閻魔堂。江戸時代から広く知られた閻魔様のようで、閻魔三拾遺第29番、江戸・東京四十四閻魔参り第19番の札所になっています。

「鎌倉の武将 梶原景時公菩提寺」ののぼりはためく階段をさらにのぼると無量門(中門)。
切妻屋根本瓦葺のすこぶる整った意匠の四脚門で、大棟には梶原氏の紋「丸に並び矢」が金色に輝いています。


【写真 上(左)】 無量門
【写真 下(右)】 鐘楼門

参道とは別に庫裡に向かう通用道があり、そちらには楼閣造りの鐘楼門があります。

無量門をくぐると門脇にお幸(身代り)地蔵尊。
右手には楼閣造りの摩尼輪堂で、一層の摩尼車には四天王と地蔵菩薩が御座。
二層には「磨墨観音」の扁額があるので名馬・磨墨ゆかりの観音様(馬頭観世音?)が奉安されているのかもしれません。


【写真 上(左)】 摩尼輪堂
【写真 下(右)】 磨墨観音の扁額

さらに進むと右手に子安観音と「当山開基 源頼朝随将 梶原平三景時公菩提寺」の石標。


【写真 上(左)】 山内案内図
【写真 下(右)】 「菩提寺」の石標

その先には鬼子母神。
当寺には重病の日蓮聖人が一夜参籠されたという伝承があり、参籠明けに聖人が奉納された持佛の鬼子母神というもので、当山相伝の守護神とのこと。
お像(御前立?)よこには「日蓮聖人参籠祈願之霊跡」の石碑が建っています。

鬼子母神縁起と日蓮聖人参籠のいきさつについては、公式Webに掲載されています。
馬込における曹洞宗と日蓮宗の関係が記された貴重な内容です。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝-1


【写真 上(左)】 向拝-2
【写真 下(右)】 扁額

正面の本堂は入母屋造本瓦葺。正面手前に大がかりな千鳥破風の向拝を起こして風格があります。
水引虹梁両端に獅子二連の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に龍の彫刻。
格天井。正面硝子格子扉のうえに扁額が掲げられていますが、すみません、達筆すぎて筆者には読めません ^^;)
「慈眼 萬福」か?

御本尊の阿弥陀三尊は一光三尊の善光寺式で天文三年(1534年)以前の作とみられ、区の文化財に指定されています。(いまは光背は逸失とのこと)


【写真 上(左)】 「丸に並び矢」の天水鉢
【写真 下(右)】 レリーフ

本堂前の天水鉢には梶原氏の「丸に並び矢」の紋。本堂脇には景時ゆかりのレリーフと、梶原カラー満載です。

景時の墓所は本堂向かって左手の歴代住職の墓のよこにあります。
墓所は撮影しておりませんので、→こちら(公式Web)をご覧くださいませ。

当寺の隣地は室井犀星の旧宅で、「春の寺」で描かれた”うつくしきみ寺”は当寺のこと。
山内には犀星旧宅の銘石を譲り受け犀星の句を刻んだ句碑が安置されています。

御朱印は、雰囲気ある庫裡にて拝受しました。
こちらは3回参拝していますが、すべて異なる揮毫でしたので3体ともご紹介します。
うちひとつは、閻魔霊場へのご縁日(16日)の参拝です。
閻魔様の御朱印は授与されていないとのことで、御本尊の御朱印を拝受しています。


【写真 上(左)】 御本尊・阿弥陀如来の御朱印
【写真 下(右)】 宗派本尊・釈迦牟尼佛の御朱印


■ 江戸・東京四十四閻魔参り第19番の申告でいただいた御朱印


29.永劫山 華林院 慶元寺
〔江戸太郎重長〕
東京都世田谷区喜多見4-17-1
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:多摩川三十四観音霊場第4番、小田急武相三十三観音霊場第6番、玉川六阿弥陀霊場第2番、玉川北百番霊場第10番

江戸氏は桓武平氏良文流、秩父氏族の一流で豊島郡江戸郷(現在の千代田区~文京区)に拠って勢力を伸ばしました。
常陸國那珂郡(現・茨城県)には別流の江戸氏があるので、通常「武蔵江戸氏」として区別されます。

鎌倉幕府草創時の当主は第2代の江戸太郎重長で、当初は平家方に属していました。
治承四年(1180年)8月の衣笠城合戦では、同族の畠山重忠、河越重頼とともに三浦・衣笠城の三浦氏を攻め、三浦氏当主の三浦義明を討ち取っています。
この合戦の原因については所説ありますが、平家への義理や外聞からの挙兵を採る説はすくないようです。

こちらの系図(さくらいようへいブログ様掲載)をみると、城を攻めた畠山、河越、江戸氏はすべて秩父姓で、攻められた三浦氏は千葉姓です。
おなじ桓武平氏良文流とはいえ、支流同士で確執があったのかもしれません。

ちなみに桓武平氏良文流は秩父姓に畠山氏、小山田・稲毛氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏、豊島氏、葛西氏。千葉姓に上総氏、千葉氏、村山氏、三浦氏、和田氏、岡崎氏と、多くの有力御家人を生み出した血統です。

『吾妻鏡』9月28日条には、頼朝公はこの強大な秩父一族の切り崩しを狙って重長に使いを送り、「大庭景親の催促を受け、石橋山で合戦に及んだのはやむを得ないが、以仁王の令旨の通り(頼朝公に)従うべきである。畠山重能・小山田有重が在京の今、武蔵国では汝(重長)が棟梁である。もっとも頼りにしているので近辺の武士達を率いて参上すべし」と伝えたとあります。
頼朝公が江戸重長の家柄と実力を「武蔵国の統領」ということばを使って認めていることがわかります。

その一方で、重長が景親に味方してなかなか自陣に参じないので、はやくから麾下となった秩父姓の葛西清重に、大井の要害に重長を誘い出し討ち取るよう命じています。(『吾妻鏡』9月29日条)

10月2日、頼朝軍が武蔵に入ると、4日、重長は畠山重忠、河越重頼とともに頼朝に帰順し、重長は頼朝公から武蔵の在庁官人や諸郡司を統率して国の諸雑事を沙汰する権限を与えられたといわれます。
(この権限は「武蔵国留守所総検校職」によるものとも思われますが、この職は河越氏の世襲という見方もあり、江戸氏がこれに任ぜられたかどうかは諸説ある模様。)

しかし、頼朝公の遅参への怒りは収まらず、重長の所領を没収して葛西清重に与えようとしました。
この話を受けた清重は「(秩父)一族の重長の所領を賜うのは私の意志にあらず。」と拒絶。
清重にも激怒した頼朝公は従わないなら清重の所領も没収すると脅しましたが、清重は「受けるべきものでないものを受けるのは義にあらず。」と峻拒。
清重の気骨に感じ入った頼朝公は、ついに重長を許したといいます。(『沙石集』)

以降、頼朝公の御家人となり文治五年(1189年)の奥州合戦には兄弟の親重とともに従軍、建久元年(1190年)秋の頼朝公上洛参院では後陣随兵をつとめています。
同族の河越重頼、畠山重忠は政権内部の勢力争いで滅ぼされましたが、江戸氏は巧みに命脈を保ち幕政に参画しています。

鎌倉幕府では無難に処世を図ったとみられる江戸氏ですが、それ以降は幾多の波乱に見舞われます。
「鎌倉殿の13人」を離れますが、江戸氏の菩提寺・慶元寺が世田谷にあることも含めて関係しますので、しばらく辿ってみます。
なお、江戸氏はすでに鎌倉期から宗家の武蔵江戸氏と庶流の浅草江戸氏の系譜が錯綜したともいわれますが、これにかかわると煩雑になるので割愛します。

ともかくも、江戸氏は江戸郷の所領を保って室町時代に入りました。
南北朝では家内で南北に分かれてこれをしのぎましたが、応安元年(1368年)、運命の武蔵平一揆を迎えます。

これは、秩父氏一族、相模の中村氏一族などの平氏を中心とした国人がおこした一揆で、関東管領・上杉憲顕が上洛した隙を狙い、河越直重以下、高坂氏、豊島氏、江戸氏、高山氏、古屋谷氏、仙波氏、山口氏、金子氏など武蔵の武士が河越館に拠り、下野の宇都宮氏、越後の新田氏などと連携したもの。

上杉憲顕は京で室町幕府を味方にし、足利基氏の後を継いだ鎌倉公方・足利氏満を擁して関東入りし河越に出兵。一揆は鎮圧されました。

戦に敗れた河越直重一党は南朝の北畠顕能を頼り伊勢国へ敗走し、領地はすべて没収され、関係した武将も領地を削られ没落しました。
その例にもれず、武蔵(江戸)宗家の江戸氏も没落しています。

以降、江戸の地には太田道灌が進出し、宗家江戸氏はこれに対抗できずに江戸郷を退去して世田谷木田見(喜多見)へと移住。
長禄元年(1457年)春には、太田道灌が江戸城を築いたと伝わります。

江戸氏は、鎌倉時代からすでに新恩として喜多見を領していたという説があります。
家勢が衰えた江戸氏が喜多見の地にやすやすと新領地を得たというのは無理があり、やはりなんらかの拠点があって、そこに退去したとみるのが自然です。
「城郭図鑑」様Webに典拠は不明ですが「鎌倉時代には江戸武重が木田見次郎と名乗って木田見郷を領有しており、このとき既に江戸氏と喜多見の地には関係ができていたことが窺える。」という記事がありました。)

喜多見に移った宗家江戸氏は御北条氏の将、世田谷城主・吉良氏の家臣として仕え、徳川家康公の江戸入府後はその家臣(旗本)となり、喜多見領を安堵され姓を江戸から喜多見に改めました。
綱吉公治世の当主・喜多見重政は綱吉の寵臣として出世、約千石の旗本から加増を重ね、天和三年(1683年)ついに1万石の譜代大名となり喜多見藩を立藩しました。

のちに1万石の加増を受けて2万石。貞享二年(1685年)には側用人となるなど異例の出世を遂げたものの、元禄二年(1689年)2月に突如改易され大名の座を失いました。
改易の理由については諸説あり、定説はないようです。

江戸氏累代の菩提寺である慶元寺は、文治二年(1186年)江戸太郎重長が、江戸氏始祖江戸重継(重長の父)の菩提のため、のちの江戸城紅葉山のあたりに創建とされます。
創建当時は天台宗で、岩戸山 大沢院 東福寺と号しました。

以降、現地案内板、新編武蔵風土記稿、『多摩川三十四ヶ所観音霊場札所案内』などから寺歴を追ってみます。
上記のとおり、江戸氏の江戸退去を受けて康正二年(1451年)元喜多見(現・成城)に移転、次いで応仁二年(1468年)には喜多見の現在地に移転。
天文九年(1540年)、真蓮社空誉上人により中興開山、浄土宗に改宗して京・知恩院の末寺となり永劫山 華林院 慶元寺と号を改めました。

文禄二年(1593年)喜多見氏初代の若狭守勝忠が再建、寛永十三年(1635年)には三代将軍家光公より寺領十石の御朱印地を賜りました。

名刹だけに寺宝も多く、江戸・喜多見両氏の系図も蔵しています。

十夜法要(11月24日)と仏名会(12月31日)で奏される「(喜多見)双盤念仏」は相互に鉦を打ち鳴らし、節のついた念仏を唱えるもので、江戸時代に奥沢の九品仏浄真寺から伝えられたといいます。世田谷区指定無形民俗文化財(民俗芸能)です。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標

所在は喜多見一丁目。交通の便はいまひとつですが、喜多見氷川神社や区立喜多見農業公園などがあり緑の多いところです。
参道脇には慶元寺幼稚園があり、園児の声でにぎやかです。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 銅像

山内入口は築地塀で本瓦葺の屋根を乗せています。その手前に寺号標。
ここから本堂にかけて木立の下の長い参道がつづき、その途中に狩衣姿の江戸太郎重長の銅像があります。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額

その先の山門は切妻屋根桟瓦葺の重厚な四脚門で、山号扁額を置いています。
江戸中期の宝暦五年(1755年)築で、かつては喜多見陣屋の門であったとも伝わります。
鐘楼堂も江戸中期の築とされています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額

本堂は享保元年(1716年)築で、現存する世田谷区内の寺院本堂では最古の建物といわれています。
入母屋造桟瓦葺流れ向拝。桟瓦葺ながら屋根の勾配や照りに勢いがあり、名刹ならではの風格を感じます。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に大ぶりな本蟇股。
向拝正面桟唐戸の上欄は菱狭間で、そのうえに寺号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 本堂妻部
【写真 下(右)】 庫裡と本堂

妻側にまわると破風部は三連の斗栱のうえに虹梁、その上には笈形なしの大瓶束で、それを覆うように猪の目懸魚。
鬼板部は整った経の巻獅子口です。


【写真 上(左)】 観音堂
【写真 下(右)】 三重塔

墓地エリアには、江戸氏・喜多見氏累代の墓所があり、江戸重長追善供養のためといわれる五輪塔があります。
この喜多見家(江戸家)墓所は、世田谷区指定史跡となっています。
また、山内には喜多見古墳群のうち、慶元寺三号墳から六号墳までの4基の古墳が現存しています。

名族・江戸氏、そして短期間ではありますが大名・喜多見氏の菩提寺だけあって、随所に風格を感じる山内です。

御朱印は庫裡にて多摩川三十四観音霊場のものを拝受しました。
御本尊・阿弥陀如来の御朱印は不授与とのことです。


■ 多摩川三十四観音霊場の御朱印

 
【写真 上(左)】 観音霊場の札所案内
【写真 下(右)】 観音霊場の専用納経帳

多摩川三十四観音霊場は、調布常演寺観音講が中心となり昭和8年に制定された多摩川中流域を巡る観音霊場です。
風情のある名刹が多く廻り応えがあり、原則として札所御朱印は常時授与されているようですが、当寺のように御朱印は観音霊場のもの(専用納経帳用用紙)のみで、御本尊御朱印は不授与のケースが目立ちます。

なお、近くに御鎮座の(喜多見)氷川神社も喜多見氏にゆかりをもちますが、別の機会にご紹介します。(御朱印授与されています。)


30.龍智山 毘廬遮那寺 常光院
〔中条藤次家長〕
公式Web
埼玉県熊谷市上中条1160
天台宗
御本尊:釈迦如来(三尊佛)
札所:関東九十一薬師霊場第38番、関東百八地蔵尊霊場第16番、関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第28番、武蔵国十三佛霊場第13番

中条藤次家長は、八田知家の猶子となり、幾度か失脚の危機に見舞われながらもその地位を巧みに保ち、晩年まで幕府中枢の座を保ったという有力御家人です。

中条(ちゅうじょう)氏の出自は諸説ありますが、武蔵七党の横山党の流れとみる説が有力です。
横山党は、小野篁の子孫の小野孝泰が武蔵守として武蔵国に下向し、その子義孝が南多摩郡横山に拠り横山を称したのが始まりとされます。

義孝の末裔、成田太郎成綱は保元の乱では源義朝公に従い、頼朝の旗揚げには一族とともに馳せ参じました。
成綱の弟成尋は北埼玉郡中条保に拠って中条義勝房法橋(中条兼綱)を称し、石橋山の合戦にも加わったといいます。
成尋の子・家長も源平合戦、奥州合戦などに参戦して戦功をあげ、御家人としての地位を固めていきます。(源平合戦に「藤次家長」の名がみられます。)

家長の叔母(近衛局)は宇都宮宗綱に嫁いで八田知家を生んだといわれ、頼朝公の乳母もつとめたとされます。
八田知家はその縁から家長を養子とし、中条藤次家長を名乗らせました。
その際に本姓藤原氏(藤原北家道兼流)を称したといいます。

家長は有力者八田知家の後ろ盾もあって、一時は不遜な挙動も目立ったといいます。
建久元年(1190年)、頼朝公の許諾を得ずに右馬允に補任され、頼朝公の怒りを買って辞官しています。
建久六年(1195年)には毛呂季光と私闘を起こして公的行事を延期させ、頼朝公は養父知家を通じて家長に出仕停止を命じています。

ここまではかなりの暴れん坊だった可能性がありますが、これ以降はみずからの行いを悔い改めたとされ、建久六年(1195年)頼朝公上洛の随兵に召されています。
『吾妻鏡』では、中條藤次のほか中條平六という名もみられ、こちらは文治元年(1185年)十月廿四日の勝長壽院供養で「六御馬」の重責を担っていますが、家長との関係は不明です。

建仁三年(1203年)頼朝公を祀る法華堂の奉行。法華堂は頼朝公の公的な墓所とされていますから、こちらの奉行職はかなりの重職とみられます。
その後も政権内の権力闘争を巧みにかわし、嘉禄元年(1225年)評定衆設置の際にはその一員に任ぜられ、以降も幕政の中枢を占めて御成敗式目の策定にもかかわっています。

坂東武者にはめずらしく御成敗式目の策定に係わったということは、文官の才も当代一流のものがあったとみられます。

尾張国守護職にも任ぜられ、以降中条氏が数代世襲し、とくに高橋庄(猿投・挙母など)を中心に強く勢力を張りました。

室町時代には幕府内で地位を確保して評定衆をつとめ、家伝の剣法中条流を足利将軍に師範したと伝わります。
戦国期に入るとその勢力は漸減し、永禄年間(1558年-)、徳川家康、織田信長に相次いで攻められいかんともしがたく、ついに本拠の挙母城は落ちたとされます。

龍智山 常光院は中条家長が鎌倉に住んだため、かつての中条氏居館・中條館を寺とし、中条(條)氏の祖で祖父である中条常光などの菩提のため開基した寺院と伝わります。

公式Webおよび現地掲示に中条家長の出自・業績と併せ、由緒の記載があるので要点を抜粋引用します。
・長承元年(1132年)藤原鎌足十六代目の子孫・判官藤原常光が武蔵国司として下向、当地に公文所を建て、土地の豪族白根氏の娘を娶り中條の地名を姓として土着。同年に中条館を築館。
・常光の孫の中條出羽守藤次家長は、若干16歳で石橋山の合戦時にはすでに頼朝公に扈従していて信任が厚かった。
・家長は評定衆として鎌倉に住したため中條館を寺とし、祖父常光などの菩提を弔うため、比叡山から名僧金海法印を迎えて建久三年(1192年)に開基。
・開基以来延暦寺の直末で天台宗に属し、とくに梶井宮門跡(現三千院門跡)の令旨と、その御紋章「梶竪一葉紋」を下腸されて寺紋とし、徳川幕府に至って寺格は十万石、帝鑑定の間乗輿独札の待遇を与えられ、東比叡山の伴頭寺。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 山内まわり

熊谷市街の北東の利根川寄り、山内まわりに堀、石垣、土塀を構えて中世豪族の居館の趣きがあります。
参道庫裡入口に「県指定 中條氏舘跡 常光院」の石標。山内は「中條氏舘跡」として県指定史跡に指定されています。

 
【写真 上(左)】 史跡標
【写真 下(右)】 山門

 
【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 参道

山門は切妻屋根桟瓦葺の四脚門で、門柱には「天台宗別格本山」の木板が掲げられ、関東屈指の天台宗の名刹であることがわかります。見上げには山号扁額。

深い木立のなかつづく参道を辿ると本堂が見えてきます。

 

【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

元禄五年(1692年)頃の再建とされる平屋書院造茅葺のどっしりとしたつくりで、市指定文化財です。

正面が御本尊向拝、向かって左が「熊谷厄除大師」の二連向拝で、さらにそのよこが授与所です。

 
【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 「熊谷厄除大師」向拝

御本尊向拝は、軒下に向拝柱を構え、手前に寺紋「梶竪一葉紋」の向拝幕。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備の板蟇股にはめずらしく山号が刻まれていますが、現・山号とは異なるようです。

「熊谷厄除大師」の向拝にも「梶竪一葉紋」の向拝幕が懸けられていました。

山内は広く、いろいろと見どころがありますが長くなったので省略です。

こちらは「熊谷厄除大師」として知られ、4つの現役霊場の札所を兼ね、御本尊の御朱印も授与されているので計5種もの御朱印が拝受できますが、おのおの性格が異なる霊場のため都度参拝がベターかもしれません。
なお、おのおのの札所本尊の御座所が異なるので要注意です。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 釈迦如来(三尊佛)(釈迦三尊)
本堂に御座します。


2.関東九十一薬師霊場第38番 薬師如来(瑠璃光殿)
本堂御内佛で室町作とされる一尺三寸の木彫坐像です。


3.関東百八地蔵尊霊場第16番 地蔵菩薩(地蔵尊)
本堂内御厨子に安置。室町初期作とされる一尺二寸の木彫坐像の延命地蔵尊です。


4.関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第28番 観世音菩薩(大悲殿)
境内に露仏として奉安されています。


5.武蔵国十三佛霊場第13番 虚空蔵菩薩(虚空蔵尊)
境内に露仏として安置されている十三佛のうち、虚空蔵菩薩が札所本尊とみられます。


■ 熊谷温泉 「熊谷温泉 湯楽の里」のレポ


31.礒明山 松岸寺
〔佐々木三郎盛綱〕
安中市Web資料
群馬県安中市磯部4-4-27
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼仏
札所:

佐々木氏は宇多源氏の名流で、近江国佐々木庄を地盤として勢力を蓄えました。
平安末期の当主、秀義は八幡太郎義家公の孫で、頼朝公の祖父為義公の息女を娶ったとされ、清和(河内)源氏とふかいつながりがありました。

保元の乱では秀義は義朝公に属して勝利、平治元年(1159年)の平治の乱でも義朝公に属したものの敗れ、縁を頼って奥州へと落ちのびる途中、相模国の渋谷重国に引き止められ、重国の息女を娶って此所に落ち着きました。

秀義には長男:定綱、次男:経高、三男:盛綱、四男:高綱、五男:義清などの優れた息子がおりました。
治承四年(1180年)頼朝公の旗揚げにあたり、平家方の大庭景親から頼朝公討伐の計画を聞き、急遽定綱を頼朝公に使わして危急を知らせ、定綱、経高、盛綱、高綱を頼朝公挙兵の援軍として向かわせて頼朝公の信任を得ました。

秀義の三男、盛綱は源為義の息女を母にもつという源家としては抜群の血筋で、一説には頼朝公の伊豆配流時代から仕えていたともされます。

Wikipediaには典拠不明ながら「治承4年(1180年)8月6日、平氏打倒を決意した頼朝の私室に一人呼ばれ、挙兵の計画を告げられる。この時に頼朝は『未だ口外せざるといえも、偏に汝を恃むに依って話す』と述べた。」とあり、旗揚げ前から頼朝公の信任厚かったことがうかがえます。
治承四年(1180年)8月の伊豆目代・山木兼隆館襲撃にも加わったとされています。

石橋山敗戦後はいったん渋谷館に逃れたもののふたたび鎌倉で頼朝公の許に参じ、富士川の戦いや佐竹氏討伐にも参加しています。

源平合戦では藤戸合戦(児島合戦)で範頼公麾下として奮戦、対岸の平行盛勢を前にわずか6騎で乗馬のまま海路を押し渡り、行盛軍を追い落としたと伝わります。
この戦いの戦後のいきさつは「藤戸」として能の演目のひとつとなりました。

弟の高綱も宇治川の戦いで梶原景季と先陣を争い、名馬「いけづき」とともに名を残しており、佐々木兄弟は華やかな戦歴に彩られています。

頼朝公館での双六の最中、盛綱の息子・信実が工藤祐経の額を石で打ち割るといういさかいが勃発。盛綱は頼朝公より信実追補の命を受けるも「信実はすでに出家し親子の縁を切った」としてこの上意を拒むという、なかなか骨のある対応をとっています。
それでも盛綱に特段のお咎めはなかったようですから、それだけ頼朝公の信任が厚かったのでしょう。

『吾妻鏡』によると、文治元年(1185年)十月廿四日の勝長壽院供養では「十御馬」という重責、建久元年(1190年)十一月七日の頼朝公上洛参院御供では「先陣随兵」、同月十一日の石淸水八幡宮御參にも供奉し、以降もしばしば『吾妻鏡』に記名されていることから一貫して主力御家人の地位にあったことがわかります。

建久六年(1195年)4月10日、東大寺供養参内供奉の折に兵衛尉に任官。
頼朝公逝去後の建久十年(1199年)3月、出家して西念と称しました。

備前国児島荘、越後国加地荘、上野国磯部などを領し、出家後は主に磯部郷に在ったようです。
出家後も武将としての働きを期待され、越後国鳥坂城の城資盛を激戦の末に破っています。
越後国加地荘では子孫が加地氏を称し、戦国時代までかなりの勢力を張りました。

また、備前国児島荘五流尊瀧院は修験道でも高い格式を誇る「児島修験」の本拠でしたが、五流尊瀧院とゆかりのある南北朝時代の南朝の忠臣・児島高徳は、盛綱の子・盛則の次男・重範の流れとする説もあるようです。

盛綱の領地であった上野国磯部の松岸寺には、佐々木盛綱夫妻の墓と伝わる五輪塔があり、県指定の重要文化財となっています。

非札所で情報があまりとれないのですが、「群馬県:歴史・観光・見所様」によると「平安時代の天暦六年(952年)に開かれたと伝わる古刹」のようです。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 山門


【写真 上(左)】 山門鬼板
【写真 下(右)】 本堂-1

磯部温泉にもほど近い、中磯部の碓井川沿いにあります。
参道入口に寺号標。その先には塀つきの切妻屋根桟瓦葺の四脚門。
妻側に経の巻獅子口とその下に「松岸寺」の瓦板を掲げ、さらに下には渦巻き様の変わった形状の懸魚。

境内向かって右手が本堂。その右手の奥にかの五輪塔があります。本堂右手には庫裡。


【写真 上(左)】 本堂-2
【写真 下(右)】 向拝

本堂は寄棟造桟瓦葺。向拝柱のない禅刹らしいすっきりとした意匠。
向拝正面サッシュ扉のうえに山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 五輪塔

二基ある五輪塔は立派な覆屋のなかに安置され、横に建つ石碑には「佐々木盛綱古墳」とあります。
覆屋前の説明板には正応六年(1293年)造建とあります。
盛綱の没年は不明ですが、生年は仁平元年(1151年)と年代差があるので、墓所というより供養塔のようなものかもしれません。

こちらは、以前に一度参拝してご不在。
今回「ウクライナ難民支援御朱印」(令和4年4月8日~6月30日)で参拝して御朱印を拝受しました。。
札所ではないので、ご住職ご不在時には拝受できない可能性があります。

 
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 ウクライナ難民支援御朱印(限定)

〔 温泉地巡り 〕 磯部温泉


32.勅使山 大光寺
〔勅使河原三郎有直〕
埼玉県上里町勅使河原1864
臨済宗円覚寺派
御本尊:聖観世音菩薩
札所:円覚寺百観音霊場第49番

勅使河原氏は武蔵国七党のひとつ丹党の流れで、宣化天皇の子孫である多治比氏の後裔を称します。
丹党は神流川流域の児玉地方を本拠地とし、勅使河原氏も神流川右岸の現・上里町付近に拠りました。
秩父(丹)基房の長男直時を始祖とし、直時の孫三郎有直は御家人として『吾妻鏡』にその名がみえます。

上里町のWeb資料「上里町の中世」では、有直が範頼公・義経公麾下として六条河原合戦で木曽方の那波広純らと戦ったこと(平家物語九)、元暦元年(1184年)範頼公・義経公に追われて京都を脱出する木曽義仲を勅使河原有直・有則兄弟が追撃したこと(源平盛衰記)が紹介されています。

『吾妻鏡』によると、有直は文治元年(1185年)十月廿四日の南御堂(勝長壽院)供養供奉では「次随兵西方」、建久元年(1190年)十一月七日の頼朝公上洛参院では「先陣随兵」をつとめ、文治五年(1189年)七月十九日の奥州出兵にもその名がみえます。

埼玉県上里町の大光寺は勅使河原(権)三郎有直の創建と伝わる古刹です。
現地由緒書および「円覚寺百観音霊場納経帳」によると、建保三年(1215年)に勅使河原(権)三郎有直が創建、勧請開山は日本における臨済宗の開祖・栄西禅師です。

栄西禅師の入滅は京の建仁寺で建保三年(1215年)の夏。
栄西禅師は建久九年(1198年)以降に鎌倉に下向、正治二年(1200年)頼朝公一周忌の導師を務め、寿福寺住職に招聘という記録があります。
鎌倉にゆかりのふかい栄西禅師を、その没年に勧請ということでしょうか。

南北朝に入ると勅使河原直重(- 建武三年(1336年))は南朝方として新田義貞に従い上京、九州から進軍した足利尊氏軍を迎撃しましたが大渡で敗れ、次いで三条河原で奮戦するも後醍醐帝の比叡山への脱出を知ると悲嘆して羅城門近くで自刃したと伝わります。

一時廃れた大光寺は応永十八年(1411年)に現・伊勢崎市の泉龍寺・白崖宝生禅師により再興されたものの、天正十年(1582年)の神流川合戦により総門のみを残して焼失しました。

神流川合戦は上野厩橋城主滝川一益と武蔵鉢形城主北条氏邦・小田原城主北条氏直との戦いです。
上里町資料によると、滝川一益は甲斐の武田家滅亡後、信濃・上野の領国支配を任され関東管領として箕輪城、後に厩橋城(前橋市)に入城しました。
天正十年(1582年)6月、本能寺の変が勃発。一報を聞いた一益はまずは本国伊勢に向かおうとしました。
北条氏直は信長殺害の報を得ると鉢形城の北条氏邦を先方として神流川に陣を張り、滝川一益軍と数日にわたる激しい戦いとなりました。
大光寺の総門には、神流川合戦の矢の跡が当時のまま残されています。

大光寺の境内は勅使河原氏の館跡とも伝わります。
みどころも多く、総門(勅使門)、神流川の渡しの安全を祈念した見透燈籠、親子地蔵、石幢は上里町の有形文化財に指定されています。

毎年4月23日には勅使河原氏の慰霊祭でもある”蚕影山”が催され、植木市なども立って賑わいを見せるそうです。


【写真 上(左)】 総門
【写真 下(右)】 総門扁額

国道17号線の群馬県との境「神流川橋南」の交差点から脇道へ入り、高崎線の高架下をくぐった、神流川河畔にもほど近いところです。
総門は切妻屋根本瓦葺の風格ある四脚門で、山号扁額を掲げています。
総門手前に寺号標と「勅使河原氏館跡」の石標。


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 山内

広々とした山内、手前に立派な鐘楼とそのおくに本堂。
参道右手の百体観音は霊験あらたかにして篤い信仰があるとのこと。


【写真 上(左)】 円覚寺百観音霊場ののぼり
【写真 下(右)】 本堂


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 扁額

本堂は入母屋造桟葺流れ向拝、水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備には龍の彫刻を置いています。
向拝正面サッシュ扉のうえに寺号扁額を掲げます。

当山は栄西禅師直筆の扁額を蔵すとのことですが、こちらがその扁額かどうかは不明です。

御朱印は庫裡にて拝受しました。
こちらは円覚寺百観音霊場の札所なので手慣れたご対応です。

 
【写真 上(左)】 円覚寺百観音霊場 専用納経帳の御朱印
【写真 下(右)】 円覚寺百観音霊場 御朱印帳揮毫御朱印

■ 神川温泉 「かんなの湯」のレポ

■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-5へつづく。


【 BGM 】
■ Whatcha' Gonna Do For Me - Average White Band (1980)


■ What Love Can Do - Island Band (1983)


■ Closer To You - Roby Duke (1984)
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■ おそるべし! マキタソ(荒牧陽子)

【カラオケバトル公式】荒牧陽子:KinKi Kids「青の時代」/2022.08.07 OA(テレビ未公開部分含むフルバージョン動画)


マキタソ(荒牧陽子)さん、カラバト優勝おめでとうございます。
って、実力からすると遅すぎるくらいかな・・・。

地声(っていうか地唱い)って、やっぱり倖田來未に似てる感じがする。
でも、感情の入り方は倖田來未と同等か、それ以上では? ↓

■ 倖田來未 「小さな恋のうた」を荒牧陽子のガイドボーカルで


意外にもビブラート、2曲ともボックスA系だった。
本来ならボックスB系では???

■ アイノカタチ

↑ MISIA、このところ抜群の安定感。ひょっとしてこっち系で行ったら99点台後半出てたかも・・・。

ま~いずれにしても、並はずれた才能。
最近出番が増えているのはとっても嬉しい。

【ものまね16人!】おもかげ (produced by Vaundy) を色んな人で【歌ってみたらこんな感じ!】

↑ 職人芸! ボーカロイド(笑) 

公式Web
荒牧陽子Youtubeチャンネル

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2022/01/06

このところ、けっこうアクセスをいただいているので、ものすごいテイクを2発。
これ、ものまねの域を超えていると思う。

荒牧陽子 世界一のSHOWTIME ものまね11連発


衝撃!荒牧陽子 ものまね10連発 CDと聴き比べ 高画質 復刻版

↑ MISIAの「逢いたくていま」
3:06 「逢いたい」
めずらしく外した、そして悔しそうな表情。

3:11 「探して 悲しくて」
戻してきたけど、表情はいまひとつ。

3:20 「抱きしめてよ~」
全開、ツボに入った。

ミスしても、絶対にとりかえす。この気迫が職人。


本人の全盛期の上をいくと思えるパフォーマンスも・・・。
楽曲本来の魅力を引き出す能力はピカ一かも。

不遇の時代、そして数年間のブランクが本当に惜しい。

でも、先日のパフォーマンス ↓
唖然。
モノマネしつつバーをすべてクリアーって・・・。しかも抜群の出来映え。
テクも声質もますます磨きがかかってる感じがする。

【千鳥の鬼レンチャン 】#23 🅷🅾🆃 荒牧陽子「千鳥」「かまいたち」2021年12月29日

「生まれてはじめて」
クセ声キラーが身上だけど、こういう透明感あふれるハイトーンも。
「怖っ! 最後!」って、ロングトーンのお尻に意図せずしてヒーカップが入ったからでは?
(高音サイドに外しでNGの可能性)


↑ マキタソの中嶋みゆき、個人的に好きなんだよね~(笑)

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2021/05/31 UP
やっぱり凄いわ、この人。
ものまねだろうがなんだろうが、音楽の楽しさを思いっきり伝えてくれる人。

声質がすこぶるいいので、どんな人をまねしても嫌みがなく、曲の本来の魅力を伝えてくれる。
どんな場でもぜったいに手を抜かない、妥協しない。
「POPボーカル界の職人」というものがあるとすれば、この人が第一人者だと思う。

【荒牧陽子】炎/LiSA を色んな人で【歌ってみたらこんな感じ!⑧】Demon Slayer・Kimetsu no Yaiba 「Homura」

ちょっと信じられない曲の掴み方。
並みの才能だったら、こんなことやったらぜったい破綻するよね。

荒牧陽子 中島みゆきで歌うOfficial髭男「Pretender」(ものまねグランプリ2020.09.29(予告編付))

ちょっと美空ひばり入ってるけど・・・(笑)

荒牧陽子 「千鳥の鬼レンチャン サビだけカラオケ」 ②

一番安定しているのが、この音程、この声質なんだと思う。
やっばりハイトーンの美声系か・・・。

【 ガイドボーカル 】
■ 荒牧陽子ガイドボーカル集 水樹奈々(BLUE)

ガイドボーカルの範疇に収まるテイクじゃない。

【 オリジナル曲 】
■ Only love - 荒牧陽子

バイオリンのようなツヤとハリを感じるボーカル。

【 往年のマキタソ 】
■ MESSAGE SONG 「MY」

2005年のマキタソ。ベースは美声。

■ ラッキー☆ハッピー☆WITCH GIRL

元気をもらえるキレッキレの歌声。

■ Stay on me
たしか
たしかオリジナル。R&Bに舵を切りたかった気がわかるような気がする。
あまりに才がありすぎて、自身でももてあましていたのかも???
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