あまぐりころころ

主に漫画やゲーム等の感想や考察を。
時に旅行記等も交えながらの、のんびりのほほんブログ。

『食戟のソーマ』 五周年記念考察 ~遠月革命編における主人公達の錯綜~

2018-02-23 20:00:00 | その他感想・考察

 気が付けば随分とご無沙汰になっていたソーマ感想。
 ジャンプ本誌の方でもやっと5周年記念を祝った事ですし、私も五周年突破記念考察の第二部を述べさせて頂きましょう。

 大変お待たせいたしました。
 今回は「現在」にあたる遠月革命編についての予想と考察です。



 現在ジャンプ本誌で進行中の遠月革命編。
 約二年半前にあたる2015年秋から始まり今を以ってしても続いているという、秋の選抜編さえも超える大長編になりました。
 それだけの長編だけあって、この章はメインヒロインの一人であるえりなと作品の舞台である遠月学園の“通常”が覆されるという、この作品自体の転換点ともいえる超重要な内容になっています。

 この[遠月革命編]という呼称は私が勝手に名付けたものですが、その理由は二つあります。
 一つは、この章の発起人となったえりなの父親:薙切薊の目的が遠月学園、ひいては日本の美食界の「改革」であること。
 そしてもう一つは、そんな薊の改革に対抗する創真達もまた「革命を起こす者達」であるからです。



【遠月学園の“失墜”】

 創真達が在学している食の学び舎であり、日本の美食界の最高峰に君臨する組織:遠月学園。
 仙左衛門を総帥とするそれは財力・権力・知名度といずれも日本全土に絶大な影響力を及ぼし、絶対不落ともいえる強大な勢力でした。

 それが。

 あろうことか十傑の謀反により落城してしまうとは、一体誰が想像していたでしょう。



 この展開に驚愕した読者はきっと多かったでしょうが、この事件はそんな読者が以前から抱いていた疑念点に正面から向き合ったものだったと言えます。

 卒業まで生き残れれば輝かしい将来が約束される遠月学園。
 ですがその反面、合格基準に満たされない者は容赦無く切り捨てられるという非常に過酷なシステムでした。
 そして読者からは、この実力主義のシステムに対して「“学校”として無責任すぎる、厳しすぎる」という意見が以前からずっと見られていました。
 薊が生徒達の従順化に成功できたのは、まさにその「過酷さ」を突いていたという。

 誰もが等しく高等技術を習得できるシステム。
 退学に怯えることなく、全員が安心して卒業まで至れる学業過程。
 そう掲げられた新体制に、実際作中の生徒だけでなく読者の中にも賛同する意見は多く見られました。


 つまり、ここに至って改めて問われることになったわけです。

 この『食戟のソーマ』という料理漫画において、「主人公が戦うものは何か」ということを。

 大切な場所を脅かす存在?
 それとも大切な人達を苦しめる存在?

 確かにそれも当て嵌まりますが・・・。

 この作品の連載が始まった時から、いいえ、読み切りの時から。
 ずっと、ずっと、創真が一貫して戦い続けてきたものがあります。
 それは

 偏見と固定概念。


 甘い言葉で誤魔化していますが、その実態は「薊の認めたもの以外は屑」という、差別と偏見と固定観念の塊である薊政権。
 これは生徒達に権力や技術といった「力」を与える代わりに、自由な発想や独自の工夫、自発性といった「自己(心)」を撤去させるものでもあるという。
 人の考えは千差万別です。それでも薊政権の方が良いと考える人もおられることでしょう。
 ですが。
 主人公のこれまでの歩みを振り返れば。
 少なくとも私は、薊政権を肯定することはできません。



 同年代の者達がぶつかり合うことで互いに磨き合う「学校」であった遠月学園。
 それが今や、「薊にただ従うだけの兵隊を生産する施設」に変わり果てることに。





【えりなの“失墜”】

 そして、突然の失墜に襲われた存在はもう一つありました。
 それが[氷の女王]と讃えられ、遠月学園と同様に才能・地位・名声といったあらゆる「最高」のステータスを手中にしていたえりな。
 常に自信に満ち、高慢で高貴で冷徹な「女王」。 
 ですがそんな「女王」たる姿は、父親である薊の出現により、恐怖という檻で跡形も無く失われることに。

 遠月学園の失墜と同時に起きたえりなの失墜。
 この事から見ても
 えりなは遠月学園を象徴する存在
 
と言えるわけです。




 そして。
 遠月学園のこれまでの問題点が浮き彫りにされたと同様に、『薙切 えりな』というキャラクターがこれまでずっと取り続けていた姿勢の問題点もまた、この事件を切っ掛けに浮き彫りにされました。

 私から言わせてもらえば、薊という人物は
 えりながこれまで担ってきた「敵」のポジションを代わりに担ってくれた存在です。

 庶民料理に対する見下し。
 悠然と相手を侮辱する態度。
 自分の価値観に合わない料理や人間に対する排他的思考。
 頑なさや非情さ。

 薊のそういった姿勢は、かつてのえりなと全く同じです。
 主人公と相対する「敵役」であると同時に「ヒロイン」でもあったため、作者側は敢えて主人公に対する態度だけに留め、直接的な排除行動はえりなに取らせてきませんでした。
 ですが、薊が「敵役」を代行したことによって、主人公に対する排除行動は本格化することになったわけです。



 これまで一切描かれることは無かった、怯え、委縮し、弱体化したえりな。
 薊から受けた壮絶な過去を。
 まるで別人のようなその姿を。
 一体誰が想像していたでしょう。

 もっとも、私はこのえりなの姿にあまり驚きはしませんでしたけど。
 むしろ。
 見栄や虚勢といった“仮面”が引き剥がされた、この表情こそがえりなの本当の顔とさえ思っています。


 えりなのアイデンティティーを形成していた「最高」、「高級」、「上流」、「完璧」といった要素。
 それらの要素を、これまでずっとえりなは遠月学園や料理に求めていました。
 えりなが頑にそれらの要素に固執していたのは、周囲の環境がそれを促していたため。
 そして父親の“教育”があったため。
 何より。
 自分が憧れた城一郎という料理人がそうであったため。

 ですが。
 これまで知らなかった世界に触れたことで彼女は思い知らされます。

 それは盲目的な思い込みであったということに。

 遠月を巡る今回の事件は、えりなの「土台(原点)」は如何に脆弱なものであったかというのを露呈させたわけです。





【遠月学園とえりなに必要な“変化”】

 こうして、作品の舞台である遠月学園とその象徴であるえりなはかつてないほどの“失墜”に陥ってしまったわけですが・・・。

 [ピンチはチャンス]という言葉があります。

 遠月学園もえりなもかつてない窮地に陥った今。
 だからこそ。
 変わるための最大の好機と言えるのではないのでしょうか。
 これまでのやり方の問題点に気付き、気付かされた今だからこそ。



 その変わるための鍵は言うまでもなく。

 これまで“異分子”として反目されてきた主人公『幸平創真』。

 これまでずっと確かな実力と共に明らかな功績を出していながらも、えりなを筆頭に遠月学園のほとんどの生徒達から認められてこなかった創真。
 それもひとえに、創真は定食屋出身かつ庶民料理を主体にしたスタイルの料理人という、エリート思考の強い遠月学園の風潮からしてみればあらゆる意味で異端な存在であったためでした。

 「創真は遠月に不要の存在」
 これはえりなが最初期に述べていた言葉です。
 そして遠月革命編が始まって最初の反逆の狼煙となった戦いでは、叡山も。

 ですが、本当は。
 そんな創真こそが真に遠月学園に必要な存在なのではないのでしょうか。

 何故ならば。
 例え自分よりも強者であろうが弱者であろうが分け隔てなく挑み、闘ったあらゆる相手から学び取ろうとする創真の姿勢は、まさに「原石たちがぶつかり合い磨き合う」という遠月学園の理念そのものなのですから。



 プライドの高いエリート揃いの世界だったからこそ、格下と見なされた人物は徹底的に蔑すまれ、格上と見なされた人物はどんな横暴も許されてしまっていた遠月学園の風潮。
 だからこそ。
 創真のような“隔たりの無い挑戦者”はその凝り固まった風潮を壊してくれるはずです。





【遠月革命編の「裏テーマ」】

 そんな遠月革命編ですが、この章でもこれまでの章と同様に隠された主題である「裏テーマ」が描かれています。
 私が見つけ出したこの作品の裏テーマ、それは

 「自我と情熱」。

 私がこれを裏テーマと考えたそもそもの切っ掛けは、月饗祭編のラストにあたり、この遠月革命編のプロローグにもあたる第132話【第一席の力】でした。
 この回では現第一席:司瑛士の料理人性が描かれていますが、その時に第二席:小林竜胆との会話を通して述べられていたのが“自分(自我)”と“熱”。

 十傑の一番手と二番手であり、ひいては遠月学園に在学する生徒の中で頂点と次点に君臨している司と竜胆先輩。
 この二人は遠月革命編の戦いの勝敗を左右する重要人物達です。
 その内の一人は不要と考え、もう一人は欲しているのが“自分”と“熱”なわけですが・・・。

 どんな逆境に立たされようが決して折れない“自我”と、人並み外れた“情熱”を持つ人物がいます。
 そう、それもまた創真。



 事実、これまでの遠月革命編の勝負の中でも創真の「自我と情熱」が相手に影響を及ぼす展開は随所で描かれています。
 決して揺らがない“我”の強さにセントラルへの引き入れを断念した司然り。
 迸るほどの“情熱”をぶつけられ目を覚まされた葉山然り。
 不屈の“自我と情熱”に連帯食戟への協力を承諾した女木島冬輔然り。

 そして上記で“失墜”した二つもまた、「自我と情熱」がキーポイントになっているという。
 薊による新政権、それは生徒達を安定した進学という名目によって支配することにより、生徒一人一人の「自我と情熱」を喪失させるものです。
 そしてえりなも城一郎に出会うまでは料理に対する「情熱」を一切持てず、“優等生”であろうとするが故に「自我」が未熟な子でした。



 創真を中心にこの章の全てにおいて描かれているファクター、それが「自我と情熱」。
 よって私はこのワードを遠月革命編の裏テーマとして掲げたわけです。





【遠月革命編における『スペシャリテ』】

 己が己であるために。
 己の人生は己で決めるために。
 こうして今現在、薊政権との決着を付けるべく連帯食戟に挑んでいる創真達。

 では果たして、一体どんな料理が最後の勝利を掴むのでしょうか?



 秋の選抜編で掲げられた『スペシャリテ(必殺料理)』。
 料理人にとって最高の一皿とされるそれが連帯食戟で最終勝利を掴む品になることは必然と言えましょう。
 そしてそれは「料理人の顔が見える料理」と定義されていました。
 しかし。
 薊政権の教育メソッドを受けた生徒が作り出した料理は、作った料理人の顔が思い浮かばず、浮かぶのは薊の顔のみだったという。
 この嫌悪感はやばかったです、個人的に。
 薊のやり方がいかに支配的か、料理人それぞれの個性を消し潰すものかということを痛感しましたね。


 そんな中創真は、ある闘いの中で「料理人の顔が見える料理」を創り出しました。
 それが葉山とのリベンジ戦。
 ネット界では評価がかなり悪かったようですが、私にとってこの闘いは遠月革命編中盤における最大の山場として評価の高い闘いでした。(まあ、確かにとんでもないツッコミどころはありましたけど)
 秋の選抜編では「大切な女性の有無」による“情熱”と“自分”との向き合いの差から勝敗が別れた創真と葉山。
 ですが創真はまだ「大切な女性」を見つけ出していないにも関わらず、このリベンジ戦にて「料理人の顔が見える料理」を創り出し見事勝利を掴んだという。
 それは何故かというと。
 創真は「大切な女性」ではなく、「敵対している相手」に真っ直ぐ向き合うことで“自分”と“情熱”の全てをぶつけてきたからです。
 この件は作品の最大指針を打破するという非常に見逃せないものでした。
 それと同時に、もう一つの最大指針を真の意味で体現しているものでもあったという。


 この重要性を考えるに、この時の創真の姿勢が連帯食戟における『スペシャリテ』への最大の鍵になっていると思うんですよね。
 そんな葉山とのリベンジ戦で創真が一貫して取っていた行動はというと・・・
 「相手を“見る”こと」
 そもそも創真は初期の頃から相手をよく見ている子でしたが、葉山とのリベンジ戦においては久我という比較対象がいたこともあって、“見る”という行動がより深く描かれていました。
 そして葉山と出会えたことによって今ここに在る自分にも向き合えていたという。
 対して葉山は創真を始め周囲の人物達を見ようとせず、最も大切な人である汐見さえも無視し、挙句の果てには自分自身の本心からも目を逸らしていたという。
 この差が二人の勝敗を分けた根本的な理由だったと考えています。



 創真達と対峙している薊政権側の十傑達。
 彼らはさすが遠月学園の最高峰に君臨しているだけのことはあり、とうに『スペシャリテ』を、ひいては『己の料理』を見つけ出しています。
 ・・・ですが。
 彼らは己の料理を・・・というより、自分一人だけの料理を究めることしか眼中にありません。
 それに対し、創真ら反乱軍が着目しているのは自分の周囲の人々。
 それは一緒に励まし合ってきた仲間であったり、食べてくれる相手であったり、これまで闘ってきた者達であったり。
 
 ひょっとしたらこの遠月革命編は、十傑陣と反乱軍を通して、薊の「良い料理人」に対する観念と城一郎の「良い料理人」に対する観念との対峙とも形容できるかもしれません。
 己の事しか見ていない薊の観念に対して、城一郎の観念は
 「良い料理人になるには自分の全てを捧げたいと思える人に出会う事」「出会いが無ければ料理人は前に進めない」
 という、己以外の人も見ているものですから。

 そう。
 葉山とのリベンジ戦で創真が実践していた「相手を“見る”」という行為は、まさに城一郎の「良い料理人の観念」を体現していたものだったわけです。

 そういう理由も含め、この遠月革命編における『スペシャリテ』は「相手を見ている料理」になるに違いないでしょう。





【創真の“失墜”】

 そういうわけで、恐らくえりなの[神の舌]という能力が薊政権の完成への“鍵”ならば、創真は自身の影響力がこの遠月革命編の“鍵”になっているわけです。

 そんな創真ですが・・・










 ・・・実は。

 この遠月革命編が始まって間もない頃から

 私は創真の態度に、そして創真にそんな言動を取らせている附田&佐伯先生に

 一種の不審感を抱いていました。

 それは。










 不自然なまでに創真の実家『ゆきひら』に対する創真の心情が描かれていないこと。










 これまでの感想記事の中でも幾度も述べてきたように、創真にとって実家の『ゆきひら』は本当に、本当に特別な場所だと私は思っています。
 そんな大切な場所である『ゆきひら』が、連帯食戟の対価になってしまうというこれまでにない窮地に立たされてしまいました。


 ところが。


 そんな深刻な事態になってしまったというのに、『ゆきひら』の危機に対する創真の反応が浅すぎるんですよ。



 司との料理勝負で負けた時もギャグ調の描写で終わってしまい。

 さらに、城一郎が『ゆきひら』の存亡を対価に掛けることを自ら提案してきた時も。
 お気付きでしょうか?
 あの時の創真の描写は面々の中で最も大きいコマではありましたが・・・
 顔の“縦半分”しか描かれていないのを。
 これまでも附田&佐伯先生は顔の半分だけを描くことで、キャラクターの心情描写を敢えて隠すという手法を得意としてきました。
 これまではその手法は顔の“横半分”で用いてきましたが、この場合は“縦半分”という応用形になっているんですよね。

 更にこの後のシーンで、創真が城一郎に『ゆきひら』の扱いに不満を零した時も後ろ姿だけで、表情は明かしていませんでしたし。

 廃駅で薊が「忌まわしい定食屋」というとんでもない侮辱発言をした時でさえ。

 最たるものが。
 女木島先輩と勝負した際に、創真が述べた「守りたいもの」の中に『ゆきひら』の名が挙げられていなかったこと。(第222話)


 始めはその軽薄な描写にひたすら激怒しまくっていたのですが・・・、あまりにも続くその描写に、次第に不満の感情が変わっていったんです。



 おかしい。あきらかに。



 そして今や。
 その不審感は、不安に。



 己の強さを遺憾無く発揮しながら勝ち進んでいる創真。
 ですが、創真の強い姿が描かれれば描かれるほど、これから待ち受けているであろう“失墜”へのカウントダウンに思えてしまうんです。

 非情なようですが、実力的に考えて創真が司達を打ち破って最後まで勝利し続けられるとは私は思っていません。
 いずこかで敗北を喫してしまうだろうと。

 これまでも創真は幾度も敗北を味わってきたものの、決して折れずに歩み続けてきました。
 ですが、この連帯食戟で懸かっているものの重さは、これまでとはワケが違います。
 自分の身だけに留まらず、仲間達の未来が、何より。
 最も大切な場所である『ゆきひら』の存亡がダイレクトに懸かってしまっているという。



 創真が敗北を喫してしまったら。

 例え残りの仲間が頑張ってくれて最終的に勝利を手に入れられたとしても。
 例えこれまでの働きによって最終勝利に充分貢献できていたとしても。
 
 自分が直接、最も大切なものを守れなかった。
 この事実に
 創真は絶対自分を許さないでしょう。




 これまでどんな窮地に立たされようが。酷く貶められようが。
 決して折れることなく前に進み続ける創真の強さは、もはや説明不要なほど本当に凄いものです。

 それ故に。

 創真を“失墜(挫折)”という形で傷つけるものがあるとするならば・・・




 

それは他ならぬ、創真自身。

 

 

 

 それを如実に物語っているのが四宮戦のラストです。
 今でも脳裏に灼き付いて離れません。
 料理人にとって命である利き手を容赦無く打ち付けたあの後ろ姿は。


 かつての考察記事でも述べたように、創真は“蓋が無い”子です。
 
それが尚更。
 不安を掻き立ててなりません。





 私から見るに、創真とえりなは合わせ鏡のような関係性だと思っています。
 ならば。
 この遠月革命編の開始時に過去最大の精神的危機に陥ったえりなのように。
 創真もまた、この章の何処かで過去最大の精神的危機に陥ってしまうのではないのでしょうか。

 どんな形でそれが訪れるのかは分かりません。
 ですが、一つだけ断言させてもらうならば。

 えりなと同様に
 創真もまた、これまで一度も描かれなかった“表情”が明かされるに違いないでしょう。






【積み重ねられてきた“希望”】

 そういうわけで、私はずっと創真に不安を抱き続けていました。

 ですが。

 一方で、“希望”となる存在も前々から見付けていました。
 不安を抱きつつも、それでも楽しんで作品を追うことが出来たのはそれら“希望”のお陰です。



 この遠月革命編が始まってから。
 いえ、正確にはその直前の月饗祭編から。
 その“希望”は常に創真の傍にいて、彼を助けてくれていました。

 そうです。

 その“希望”とは、恵とタクミ。

 恵はもともと創真と一緒にいる機会が多い子でしたが、タクミはこと遠月革命編が始まってからというもの創真と行動を共にする機会が多く設けられ、また創真と意気投合している様子も頻繁に描かれていました。
 雑と言えるまでに創真の『ゆきひら』に対する描写が省かれている一方で、タクミと恵が創真の微細な様子に気付いてくれている描写は丁寧に描かれているんですよね。

 そんな二人だからこそ。

 タクミは出身や誇りがよく似ていることもあり、創真の悔しさを誰よりも共感してくれるはず。
 恵は秋の選抜予選終了後の慰労会の時のように、創真の内心に気付いてくれるはず。
 なにより、二人とも自らの手で直接大切なものを守れなかった悔しさを知っていますから。
 タクミは秋の選抜での美作戦で。
 そして恵は、つい最近の茜ケ久保もも戦で。


 この遠月革命編での創真は、“見る”という行動と並行して“相手への理解”の描写も細やかに挟み込まれています。
 だからこそ、今度は創真が分かってもらう番。

 恵とタクミは創真の最大の理解者ですから。(^^)





【総括】

 こうした多くの錯綜を経て、長きに渡った遠月革命編もいよいよ終盤へと入ってきました。

 多分・・・いえ、きっと。
 附田&佐伯先生はこの遠月革命編において、「原点回帰」を意識していると思います。


 えりなの料理人としての“原点”は城一郎でした。
 そして。
 創真の“原点”は『ゆきひら』であり。



 『ゆきひら』を通じた“あの人”です。




 『ゆきひら』と遠月学園。
 この二つの場所が創真をどう揺るがし、どう支えるのか。

 ただ信じ、見守る次第です。


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