新・日記どす(DOS)

写真は「ビートルズ」のヘルプごっこ(笑)~音楽からB級スポット訪問記まで、幅広くいろんなことを…笑いをこめて…綴ります~

源平合戦ゆかりの生田神社を参拝する…後篇

2024-09-15 05:28:12 | 歴史史跡

三ノ宮駅から
賑やかな繁華街の生田ロードを歩いたところに鎮座する
兵庫県を代表する神社

「生田神社」の参拝記の続き

 

境内に「生田の池」がありまして
そこには生田弁財天
市杵島神社
御祭神は市杵島姫命さま


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絵馬がいっぱい

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「ひひな顔 したる巫女たち 初神楽」
「噴水の しぶき天衣の 舞ふごとく」


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活田の桃の由来の説明板

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拾遺和歌集を始め、順徳院百首、夫木和歌抄などに多く「生田の池」の詠歌が記されているとか

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本殿裏にある境内社である
蛭子社

『古事記』において、伊弉諾命さまと伊弉冉命さまとの間に生まれた最初の神である蛭子命さまがご祭神

蛭子命さまとは「えべっさん」のことですな

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この左右の狛犬は実に個性的


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角があって鬼のようにもみえるけど、すらっとしたモデルのような足
足の筋肉がまったくなくて
けっして強そうにはみえない…

…と私に思われて、相当困った表情をしてますな…

困った犬…だけに…コマ(困)犬??

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戸隠神社
御祭神は、天手力男命さま
天の岩戸の故事にでてくる神であり、本社は、信州長野戸隠にあり、その御分霊を祀るとのこと

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折鳥居と礎石
江戸時代初期に建立された明神鳥居、安政元年(1853年)の大地震で支柱を残して崩壊してしまったそう…
「生田の折鳥居」と呼ばれ信仰を集めたらしい

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さて、ここからは「生田の森」へと


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「生田の森」は源平合戦の戦場になったことでも有名で

寿永3年(1184年)平知盛を大将とする平家軍が生田の森に陣を構え、一の谷から生田の森へかけての一帯が戦場になっていたとのこと

ここで、源氏の主力部隊・源範頼軍を迎え撃った場所

かつての「生田の森」は、現在の生田神社から一ノ谷にまたがり、北は崖の厳しい山、南は海という天然の要害だったそうで


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その源平の戦いを見守っていたと思われる
御神木

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御神木のパワーを戴こうとナデナデ

生田森坐社
ご祭神は神功皇后

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金龍泉

ここで縁結び・恋愛成就を祈願する「水占い」ができるよう

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ここは「かまぼこの発祥地」でもあるんですね

神功皇后が神功皇后元年(201年)に遠征の折、「生田の森」で魚をすりつぶし鉾につけて、火で焼いて食べたことから、生田神社は「かまぼこ」の発祥地とされているとか


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廣津雲仙さんの生誕100年の記念碑
知らない方なのでググってみました
昭和期に活躍し、日展内閣総理大臣賞や日本芸術院賞を受賞したしょか(書家)のようで
訪ねたのは晩夏…しょか(初夏)ではありません!!

ちなみに、仮面ライダーの敵はショッカー

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さて「生田の森」からでたところにあるのが
「包丁塚」
料理に携わる人達の魂の籠った庖丁に感謝すると共に、食文化の向上を願い、皇太子殿下御成婚・第61回神宮式年遷宮の記念事業として神戸市内の料理食品関係者によって建立された、全国でも珍しい塚だそうで


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楠の神木

約500年の年輪を有する楠の御神木で、神戸大空襲で焼けただれたものの、力強く蘇ったことから「再生・再起・合格・復活・復興の象徴」として信仰されているとのこと

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御神木をナデナデ

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そのそばには
花で飾られた手水舎があって


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その奥には生田稲荷大明神こと稲倉魂命さまを祀る

生田稲荷社

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生田稲荷社の左右に鎮座する
キツネ様

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「幾多(いくた)」の歴史が感じられる「いくた(生田)神社」
神戸三ノ宮観光の際は、みなさんもぜひ!

でも私のように
蒸し暑い中の参拝となると…たいてい、くたくたに疲れるよ…笑


源平合戦ゆかりの生田神社を参拝する…前篇

2024-09-14 06:49:15 | 歴史史跡

三ノ宮駅から
賑やかな繁華街の生田ロードを歩いて
兵庫県を代表する神社

「生田神社」を参拝する


この木製の鳥居は伊勢神宮の柱として使われていたものを譲り受け新たに築かれたもの
元々あった石製の鳥居は阪神淡路大震災のときに倒壊してしまったそうな

 

 


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鳥居の左右には
狛犬
なんか、楽しそうですな…
阪神大震災をはじめ「いくた」の困難を乗り越えてきた喜びでしょうか
いや、2023年阪神タイガース優勝の喜びでしょうか

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吽形の狛犬は特に…嬉しそうな感じもなく

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機織りの神様・稚日女尊さまが御祭神

この神様は天照大御神さまの幼い時の名前らしい…

神戸の総鎮守で「神戸」という地名の由来になったことでも知られ

「縁結びのいくたさん」として全国的に有名な神社

「糸と糸を織りなすように、人と人とのよきご縁を結んでくれる神様」とのことで、強力な縁結びのご利益がある…稚日女尊さまが御祭神であるこの生田神社

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由緒書きには

神功皇后元年(201年)、神功皇后の三韓外征の帰途、今の神戸港で船が進まなくなったために神占を行ったところ、稚日女尊さまが現れ
「吾は活田長峡国に居らむと海上五十狭茅に命じて生田の地に祭らしめ」との神託があったと日本書記に記されているとか

当初は、現在の新神戸駅の奥にある布引山に祀られていたが
799年、大洪水により砂山の麓が崩れ、山全体が崩壊するおそれがあったため、村人の刀祢七太夫が祠から御神体を持ち帰り、その8日後に現在地にある生田の森に移転したと伝えられてるとのこと

806年には「生田の神封四十四戸」と古書には記され、現在の神戸市中央区一帯が社領であった所から、神地神戸(かんべ)の神戸(かんべ)がこの地の呼称となり、

中世には紺戸(こんべ)、近年には神戸(こうべ)と呼ばれるようになったとのこと

延喜式神名帳では「摂津国八部郡 生田神社」と記載され、近代社格制度のもとで明治4年(1871年)に県社に列格し、その後の明治18年(1885年)に明治天皇の西国巡幸の際、初めて官幣社に列し官幣小社に、明治29年(1896年)には官幣中社に昇格したとのこと

これが境内図


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この神社の奥は
「生田の森」と呼ばれていて
「源平合戦の古戦場」だったようで
それ以前に「枕草子」にも詠まれていて
清少納言もこの地を訪ねていたのでしょうね

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さらに
ここは灘五郎酒造の発祥地であるようで
毎年来日する「新羅使」が瀬戸内海を通過する際には、ここ生田神社で醸造した神酒で新羅からの使節をもてなし、 これが灘五郷における酒造りの始めとなったとか

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そのそばに、境内社として、「酒の神」 松尾神社
御祭神は大山咋命さま

二礼二拍手一礼
「元気ぽっくり逝けますように…亡くなる直前まで美味しい酒が呑めますように…」


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もう一つ、鳥居のそばに境内社がありまして

大海神社

日本神話や古事記に登場する猿田彦命さまが御祭神

海上安全や交通安全、方位除けなどのご利益がある神様
生田神社がここに遷る前から、祀られているよう

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さて赤の大鳥居…(二ノ鳥居)
その奥には、立派な楼門

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神社の境内に入るのは
東門から入ることも可能…

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ではでは手を浄めまして

手水舎も

新型コロナウイルス感染対策で柄杓がなくなったりと

作法もイロイロモロモロ変わってしまってるけど

 


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ここでは竹から御覧のように…

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「手水の作法」は
新型コロナウイルス感染症対策を踏まえて

新型コロナウイルス感染症対策を踏まえた案内看板は
私、はじめてみたような

やっぱ口はすすぐんだ…
今まで、口をすすいでいなかったけど、この生田神社では、口もすすいでみました…

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燈籠(とうろう)の横をとうろう(通ろう)

その手前には
「生田の森」を示す石標と
百度石
百度も参拝できないけど…4,5回は参拝したつもりで
4,5回、石を撫でておく…

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さらに楼門の横には
梶原景時が平家軍と戦った「生田の森」がある生田神社に立つ
景時の息子景季ゆかりの「箙(えびら)の梅」

梶原景時、景季父子は生田森で平家方の多勢に囲まれて奮戦したエピソードが
謡曲になり、能の演目にもなっているとのこと

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戦いの最中、梶原景季は箙(矢入れ)に梅を差していた…
それで、梶原景季の周りには梅の香りが漂っていたそうな

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子日庵一草の句碑
「神垣や又とをらせぬ梅の花」

子日庵一草は江戸時代の俳人


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立派な楼門

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そして楼門をくぐると正面に拝殿


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拝殿にて
二礼二拍手一礼
「縁」よりも「円」なんて言いませんよ
これからの人生、いい縁に恵まれますように…
ケアマネとかヘルパーさんとか???

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女神さまにあった朱の拝殿が眩しいほど…

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拝殿の左右の狛犬
胸郭が凄くて、ムキムキ…

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こちらは本殿の裏側

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実に煌びやかで、かつ荘厳で…

拝殿にて参拝後は
拝殿・本殿の裏手にある
「生田の森」へと…


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「復興を称へて長き御慶かな」
と刻まれた石碑


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「うるはしき 唐破風もちし 拝殿は 地上に這ひて 獣のごとし」
社殿左奥にある羽を広げたような碑
阪神・淡路大震災復興記念碑
句は神社宮司の発句とのこと


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…と、ここまでで長くなっているので


参拝記の続きは…次回に


城内は、豊臣秀吉関連の展示品盛りだくさんの…大阪城天守閣に行く…後篇

2024-09-12 07:00:07 | 歴史史跡

大阪城天守閣に行った話の続き

 

7階は
「豊臣秀吉の生涯」

大阪城を築き天下統一を成し遂げた
豊臣秀吉の生涯をジオラマ&映像で綴っていく
「からくり太閤記」のコーナーがあって、これ、見入っちゃう…


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ホログラムで人物の映像が浮かび上がる
ジオラマとホログラムを組み合わせ、秀吉の生涯を描いたもの

日吉丸誕生


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蜂須賀小六との出会い

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このシーン
五色園に、等身大人形で再現されていましたな

この子供が
後の豊臣秀吉こと日吉丸







蜂須賀小六の槍があたったと
大勢の大男に囲まれても
臆することなく声を掛けたシーン

織田信長に仕える
秀吉の「ぞうり取り」のシーン

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NHKの大河ドラマでみた記憶が…

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「おね」との結婚…
秀吉は「おねがいだから結婚して…」とおねがいしたに違いない??

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清州城割り普請(ぶしん)
僅か3日で城を修復
普請(ぶしん)ならぬ無心(むしん)で働きに働いたことでしょう

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高松城水攻め
作戦は成功して、気分はたかまつ…もといたかまる(高まる)じょー!!

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信長葬儀
その後、秀吉はわずか3歳の三法師を後継ぎに推すんですな


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賤ケ岳合戦
柴田勝家を破る

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大坂城築城

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ホログラムの人物が
巨石を御覧のように運んでる

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小牧・長久手合戦
家康にやられちゃった戦いですな
もう戦いが、ながくて

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北野(きたの)大茶会
多くの人がやってきたの

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聚楽第行幸
天皇を屋敷に招いて大宴会(えんかい)

こんなことをしてて、ええんかい??


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小田原攻め
天下統一の総仕上げですな

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太閤検地
この言葉、歴史の教科書で覚えましたな

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大仏建立
鐘に刻まれた
「国家安康」に徳川家康がいちゃもんをつけて
「大坂夏の陣」に繋がっていったのは有名な話ですな
だいぶつだけに、だいぶ、ぶつぶつ文句を言ってたことでしょう

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朝鮮出兵

今、この大坂城は、多くの韓国人に占拠されていますよ

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関白秀次追放事件
秀次の妻妾子女の殺害の場面は、ホログラムと言えどもカットしてありました…
あ、このカット、斬ると掛けているんよ!気づいてくれたかな…

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醍醐の花見
お花見は、「だいご」で「だんご」を食べたのでしょうか

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臨終…62歳…

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さてさて
バカは高いところに昇りたがる!バカは高いところに昇りたがる!バカは高いところに昇りたがる!

私、そのとおりの性格でして

8階、展望台へと

な、なんと地上50メートルの大パノラマ
秀吉気分で
妄想の中で、姫をはべらかせながら
眺望を楽しむ


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雨も上がってきたので
大坂城御座船も動き出すのかな
これに乗ると、石垣が近くでみえたりするのかな
石垣マニアの私なので、ちょいと気になる!気になる!!

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金シャチと「ミライザ大坂城(旧第四師団司令部庁舎)」

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ここでエリッククラプトンをみた
大阪城ホール

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OBP(大阪ビジネスパーク)のビル群

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曇ってはいるものの雨はすっかりあがって

ところで「台風どこやねん?」

探してみるも、みつからず…

そうそう、展望室は8階の表示だけど、大阪城は、6階の展示がないのよ!

6階は、回廊(かいろう)になっていて

そう、この後は、お察しのとおりホテルにかいろう!(帰ろう)!!

 


城内は、豊臣秀吉関連の展示品盛りだくさんの…大阪城天守閣に行く…前篇

2024-09-11 05:48:32 | 歴史史跡

大阪城天守閣に行く…


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この地は戦国時代は大坂本願寺(石山本願寺)だった場所
織田信長と戦った石山合戦によって、石山本願寺は廃寺に…

その後、その地に豊臣秀吉によって築城、天下統一するも
徳川家康が攻めた大坂の陣によって落城
その後、徳川幕府によって再築される…
しかし、明治維新の動乱によって焼失、明治維新後はこの地は陸軍管轄地
そして戦後になって公園として整備されるも

今、見ることができる石垣や堀、大手門・多聞櫓・千貫櫓などといった古い建造物はすべて徳川時代以後のもの

なんだけど


大阪城天守閣の中の展示の数々は
ほとんどが豊臣秀吉関連のものばかり…
関西人が、とことん、
豊臣秀吉推しであるのが、よーくわかる

大阪城天守閣


令和6年の「大坂夏の陣」???
そんな豊臣一族が籠ってた城に
徳川家康ではなくて、「外国人」がどどっと攻め寄せていました!!
中国人、韓国人多め…
秀吉の朝鮮出兵の仕返しかと思えるほど…笑
大阪城天守閣は、アジア系外国人に占拠されていました

とにかく…日本人少なめ
この日は、台風10号で大荒れの天気予想だったのに…
(実際は、しとしと雨が降ってる…そんな天気でした…)

さてさて雨の濡れない
大阪城天守閣の中へと

その前に…大阪城天守閣の入り口の前に…

号砲(ごうほう)が…
このドラッグは…ごうほう(合法)だから大丈夫やー!!ということではありません!
明治時代にはお昼をつげる号砲として使われ、大阪市民の時報として親しまれてきたものであるよう

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さて、まずは2階の
「お城の情報コーナー」へと

大阪城巨石の所在地のマップ
先程、桜門の「蛸石」は眺めてきて
デカっと思ったけど
他にもあるんですね…
藩主が、我が藩の石が一番でかいぞ…
と自慢したいがために、必死になって競い合って運んでいる姿が目に浮かぶよう
あ、さすがに藩主は自ら巨石を運ばないか
大坂城公園は、ホント広くて、そしてこの蒸し暑い雨の中
巨石を完全制覇しようとみて廻りたいとは思わないけど

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大阪城内刻印石所在地図のパネル
暇だったら…雨も降ってなくて、蒸し暑くなかったら
散歩がてら
刻印石探しウォーキングも楽しいかもね
私は、今、空調のよく効いた大阪城天守閣の館内から、一歩も外に出たくありません…

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大阪城の刻印石の解説パネル

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南側から見た豊臣・徳川大坂城本丸の比較

同じ所には建立してないんですね

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…ということで「謎の石垣」がみつかったとのことで
「地上から消されている豊臣大坂城の謎」

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豊臣大坂城のいこう(遺構)をみつけにいこう…なんてね

 


「早わかり大阪城史「幕末・明治以降の大阪城」」の映像をここで眺め…

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兜・陣羽織の試着体験コーナー

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豊臣秀吉にも
真田幸村にも

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黒田官兵衛にも
後藤又兵衛にも
加藤清正にもなれちゃう
私は、武将(ぶしょう)にならなくても、不精(ぶしょう)に、すでになっているので、なりませんけど


多くのアジア系外国人が
豊臣秀吉や真田幸村などの武将になってました!

ここには
天守閣で使われている

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「伏虎・鯱」の原寸レプリカが

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頑張れ!阪神タイガース!!
本能的に、そう思っちゃいますなあ…苦笑

続いては
エレベーターに乗って
一気に5階

「大坂夏の陣図屏風の世界」のコーナーへと

ここでは、驚くほど精巧な
真田幸村隊と松平忠直隊との激戦がジオラマとなって再現されてる
「ミニチュア夏の陣」

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戦いの先陣をきる
真田大助

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そして、騎馬で向かう
真田幸村

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こちらも
騎馬に乗って攻める
松平忠直

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この背後に展示してある
図屏風に基づいてミニチュアで再現されているとのこと

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一体一体動きが違ってて、つい、この大坂の陣の世界観に没頭してしまうほど…

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そして
「大坂夏の陣パノラマビジョン」

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この屏風図に描かれている各場面のストーリーを絵解きしていく優れもの…

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豊臣大坂城も5層だったことが、この図からもよーくわかる!!

そして、大阪城の天守の窓から顔を出して泣いているのは
淀殿か???



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「大坂夏の陣図屏風」より
真田幸村と真田大助


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一方、こちらは
松平忠直隊

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各武将の解説パネル
徳川方


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豊臣方


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大坂夏の陣参戦武将の旗印

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「早わかり大阪城史「豊臣秀吉の大阪城」」の映像をここで眺め…

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続いては
4階に降りて
4階では企画展示「豊臣水軍-海で躍動した武将たち」

この階は写真撮影禁止でした…
九鬼嘉隆関連の展示品がいっぱい!!

九州攻めや小田原攻めでも水軍が活躍してたんですね

「早わかり大阪城史「徳川幕府再築の大阪城」」の映像をここで眺め…

階段で下って
3階へと

3階は「燃える!大坂城史」


大坂夏の陣で大坂城焼失
戊辰戦争で大坂城焼失
それにまつわる資料がどどんといっぱい…

さらには「黄金の茶室」が復元されていたり
豊臣時代の大坂城のジオラマも…

この階も撮影禁止でして

「早わかり大阪城史「江戸時代の大阪城」」の映像をここで眺め…



その後は、階段で…健康のためにいいと信じて、階段でよじ登る…6階には展示品がなく…というよりも、そもそもフロアがなくて
そのまま7階へと上る

そう6階がないのよ…

6階は回廊(かいろう)になってまして

だからといって、帰りませんよ!…「かいろう」と言われても…笑

この続きは、また明日…


大阪城、桜門のそばにある大阪豊國(ほうこく)神社を参拝する…

2024-09-10 05:21:55 | 歴史史跡

大阪城、桜門のそばにある
大阪豊國(とよくに)神社
じゃなくて…


大阪豊國(ほうこく)神社


そう、今回は、大阪豊國(ほうこく)神社の参拝記を
ほうこく(報告)しよう!


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豊臣秀吉のみを主祭神とする京都の豊国神社は、「とよくに」と訓読みをするのに対して、ここ大阪の豊国神社は、「ほうこく」と音読みで、豊臣秀吉、秀吉の子、秀頼、秀吉の弟、秀長を御祭神とする神社

神社の由緒は1868年、明治天皇・大阪行幸の際に豊臣秀吉の功績を称え、大阪の地に奉祀するようにと仰せられる…明治6年徳川家によって京都の豊国神社の社殿が造営され

ここ、大阪には
明治13年、別格官幣社豊國神社の別社として中之島に創建され、昭和36年に大阪市の要望により移転し、現在の神域になったそうな

表鳥居はコンクリート製


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手水舎
柄杓はなく、センサーで人感を感じ、水がでる最新型?



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さて
この神社で、一番インパクトのある像がこれ

豊臣秀吉公銅像

それにしても顔が険しくて険しくて
死後、お空から、大坂夏の陣の行方を眺めていたからでしょうか!?


実は、この像は、秀吉の小田原征伐時の、いでだちをモデルにしたらしい
ってことは、天下統一の時の像
攻めているときだから、顔が険しかったんですね!

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拝殿横にあった
出世開運絵馬
大阪の地なのに
「「虎」じゃなくて、「龍」なのね!?」と


一瞬思ったけど
今年は、辰年だったんだ!

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拝殿では、最後に手を合わせることにして

拝殿が本殿と繋がっていることを確認???した後には、境内の散策をば
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石灯籠の奥には
鳥居(とりい)があったことを
とりいそぎ紹介して




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この鳥居から境内に入るときは、石灯籠(とうろう)の横を、とーろう!!


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石碑もありまして
「岡田平蔵招魂碑」
全然知らない方なのでググってみました…

岡田平蔵さんは、大阪の商人…
大阪豊國神社…豊臣秀吉とは、なんの関係もない方でした…
この石碑は江戸時代、中之島に建てられたもので、蔵屋敷の名残であり、大阪豊國神社への遷座より早く、この位置に立っていたのだそう…要するに、遷座する前に大阪豊國神社より先に、この地に岡田平蔵招魂碑があったよう…


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もう一つ
卓叟追思碑
1881年(明治14年)に木村重成の子孫が建立

「大坂夏の陣」で討ち死にした、豊臣方の戦国武将、木村重成

こちらは、秀吉の忠臣・木村重成と、秀吉に尽くした
大阪豊國神社…豊臣秀吉とは、深い関係のあった方でして…

「大坂夏の陣」での木村重成の最後の戦いは、激戦となった「八尾・若江の戦い」

木村重成隊は、未明より大坂城を出発…大坂城から東南8㎞ほどの地点の「八尾」を目指したが、沼地に阻まれたため、その北の「若江」で徳川方の河内方面隊を迎え撃つことに…八尾には、豊臣方の長宗我部盛親が陣を構える…
一方、徳川方の河内方面隊はというと、藤堂高虎、井伊直孝が先鋒であり当初は、八尾で長宗我部隊が藤堂高虎隊を圧倒、若江でも木村重成隊が激しい銃撃で藤堂右翼隊を迎え撃ち、藤堂隊は兵の半数を失って敗走…その後、井伊直孝隊が、藤堂高虎の右翼隊の敗走を知ると、今度は井伊隊が木村重成の隊と激突!
最終的に、木村重成は、井伊隊の安藤重勝に討ち取られた…

こうして、石碑もググってみると、なかなかおもしろいものだな…
神社に深い縁のある方は分かるんですけど、全く関連性のない方の石碑も境内に建立してたりして

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さて、境内社は
手水舎のそばには、

若永神社

宇迦之魂神を祀る神社
火難除の守護として淀屋の屋敷内に鎮座していたが、街の発展に伴って、豊国神社境内に遷座したとのこと

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もう一つ境内社がありまして
白玉神社や七夕神社、玉春神社、玉繁神社などが合祀された境内社


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この、二つの境内社をニ礼二拍手一礼した後には
豊臣秀吉、秀頼、秀長が御祭神の
拝殿へと


第二鳥居をくぐった正面が
拝殿



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左右の狛犬&獅子は青銅(せいどう)製で
かなり個性的
どうせいっちゅうねん!」
そんな声が、聞こえてきそう

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ではでは、
拝殿にて
ニ礼ニ拍手一礼


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でも、神様は
この日、
台風10号を徳川勢力のように思ったのか
大坂夏の陣の豊臣勢のように
籠城?しておりました…

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そんな「夏の陣」ならぬ
「夏のシーン」で、ございました!

大阪城公園を散策する…後篇

2024-09-09 05:00:07 | 歴史史跡

大阪城公園散策

レポの続きをば、早速…

 

天守閣を支える石垣
石垣をみるたび、いくらテコの原理と言えども
重機のない中、よくぞ、ここまで運んだな…よくぞ削ったなって
古の偉大な功績を妄想してしまう城マニアの私

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ところで
天守閣の近くに転がっている石は

「残念石」といって、この天守閣の近くまで運ばれたものの
石垣には利用されなかったようで
この石のようなこと、私の人生にもあるあるですな…

徹夜で準備したプレゼン、お披露(ひろう)めもなく終わってしまって…お疲労(ひろう)だけ残ってしまったこととか

とったと思った万馬券、鼻差で1着、3着とか…

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「残念石」の気持ちがよーくわかる???

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さて
ここが本丸御殿跡であることを示す案内看板

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そして、桜門の方に足を進めば
桜門の近くにある驚くほどデカい
巨石の石垣


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桜門枡形の巨石


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石と呼ばれ、城内表面積第一位!!
下の写真の左下の黒ずんでいるところがタコにみえるから
石なんだって
「あなた、こい(恋)しい…」といったセンチメンタルな「た、こ」からきているネーミングではないようで
そもそも…
こい(恋)し小石ではありませんからね!!


もう…デカい!デカい!!!
私が立つと、そのデカさがより分かりやすくなるかな


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そして
桜門
本丸の正面玄関
桜門の名称は豊臣秀吉が築いた時からのもの
当時は二ノ丸の桜の馬場にあったため、近くの桜並木に因んで命名されたんだとか

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門の両脇にある石は「龍虎石」と呼ばれ、雨が降ると、江戸時代には右に龍が、左に虎が現れると言われていたんだとか…


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桜門から入ろうとすると、丁度目の前に大阪城天守閣が顔を出すよ!!
絶好のフォトスポット!!

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銀明水井戸の井筒


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手水舎みたいになってました!!

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桜門の横の内堀は空堀…


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「石山本願寺と大阪」の案内解説板

ここ、大阪城のあった場所には
もともと
石山本願寺がありまして



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石山本願寺は、1496年に、蓮如によって建立
やがて本願寺派は「一向一揆」と呼ばれる武装集団となり、政治的影響力を増していく
1570年、本願寺は織田信長軍に向けて蜂起

およそ10年にわたって信長と戦い続ける…
信長軍優勢の中、やがて、信長は加賀にある本願寺の領地を返すことを条件に、和睦に応じる…

このとき、信長は、石山本願寺を解体せず、教団の存続も許可したものの…明け渡しの直後、原因不明の出火で建物はすべて焼失してしまったとか


その石山本願寺を建立した
蓮如上人真蹟の碑「南無阿弥陀仏」


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その後は、雁木坂の方へと

 大阪城の本丸を取り囲む二の丸、その内堀の東にあたるこの通路は
南から北にかけて急な下り坂になっていたよう…
今は、盛り土で勾配はゆるやかになっていまして

雁木(がんき)坂を往復すればげんき(元気)が保てる!!??

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その雁木坂から内堀を眺める…


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市正曲輪
豊臣秀頼の後見人として重要な地位を占めた片桐東市正且元の屋敷がここにあったと伝えることから「市正曲輪」と呼ばれていたよう

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いやあ、大坂城…
なんどみても見飽きない、ホント石垣が壮観だよね…

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いやあ、夏に半周するだけでも、くそ暑くて、タイヘンなのに、徳川家康は、よくぞ、こんなクソ暑い夏に、大坂夏の陣、豊臣側に戦いを仕掛けたものだ!
そのとき、家康、74歳…

絶対、私だったら、扇子片手に、城の中で、セミの鳴き声を鬱陶しく感じながらも、戦いなんぞせず、ゴロゴロしてるぞ…


さてさて、大坂城をぐるっと半周した後に
立ち寄ったのが
大坂城本丸にある

旧第四師団司令部庁舎
昭和6年建設の洋館

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これが、
新たな、にぎわい拠点である

ミライザ大坂城

というハコモノに生まれ変わっていまして
中は、空調が効いてて、めちゃ涼しいの!
もう、外の蒸し暑さと比べたら、月とすっぽん!

どうりで、忍者も、ここに涼んでいるはずだ(笑)
これ、リアルに人だと思っちゃった!
さすが、忍者、騙されちゃったよ!
煙玉も使ってないのに!

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ここでは、徳川、豊臣の大坂夏の陣ではなくて

「名探偵コナン大阪城本陣2024」

との平ぺったい武将の格好をしたコナンが
立っている

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そこには、
新作

「名探偵コナン 100万ドルの五稜星」


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をPRしつつ


「名探偵コナン 大阪城本陣 SPECIAL SHOP」が期間限定でOPENされていまして

いくつかのフォトスポットも


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ぶしょう(武将)の名探偵コナン
ぶしょう(不精)な迷探偵コンナン(困難)と…

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いやあ、ここは涼しくて快適…
つい、コナンだけに、コンナ、ドリンクが目に留まると
飲みたくなっちゃいますなあ

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「服部平次の抹茶ミルク」
ちょっとお高めの値段設定なのに
大阪にきたなら、やっぱ「服部平次」でしょう???

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空調の効いた中、おいしゅうございました!
「幸せ一時、ブタ一生」かも知れんけど

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えっ、アクリルコースターを買うと、またコースターがついてくるの??


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と、コンナ感じで、コナンに踊らされて
財布から小銭が消えていく…

ところで、台風10号は、コナン?…もとい、コナイのかな?

えっ、ぐぐってみると、紀伊半島の南の方だって

「そーナン」

台風10号こそ
「名探偵コナン」
ならぬ
「迷台風コナイ」
って、いいたくなっちゃうじゃないか!…苦笑



大阪城公園を散策する…前篇

2024-09-08 07:36:44 | 歴史史跡

2024年8月31日

この日は、台風10号の影響で、特に午前中は関西地方は大雨予報
名古屋~東京間の新幹線は、終日運休と
台風10号と重なった大阪旅行
さすがに、この日は、大雨、下手したら暴風雨でホテルに缶詰めかなと思っていたら、風も全くなく、優しい雨が降っているだけの大阪の繁華街

それどころか、雨もあがってきた…
ので、出掛けをば
JR大阪城北詰駅で、降りて
向かったのが

久しぶりの大阪城

30年前に、エリック・クラプトンの公演で、大阪城ホールへ出掛けた際、寄ったことのある大阪城
それ以来の大阪城

なんか、さすがに、30年前とは、イロイロモロモロ変わっていたような
そもそも、今回アクセスで利用したJR大阪城北詰駅もなかったんじゃないかな

おお、外堀に架かった橋、新鴫野橋から

大阪城がみえる!

模擬城だと分かっていても、テンションのあがる瞬間

この天守閣の廻り
大阪城公園の散策のレポをば

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大阪城公園案内図
城跡マニアの私にとっては、眺めていて実に楽しい図

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新鴫野橋の説明板
この橋は、豊臣秀吉時代の絵図や大坂の陣を描いた古絵には描かれていないことから、徳川政権時、大坂城の修築以降にこの新鴫野橋の元となる鴫野橋が架橋されたらしい…


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新鴫野橋の奥に天守閣

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外堀、その奥にみえる高層ビルとが、時空を超えて、一枚の写真におさまってる感じがして、なんかいいよね!
秀吉が、この光景をみたら…
「大坂夏の陣」同様に驚いてることでしょう

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外堀と石垣

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青屋門

大阪城には四つの出入口があり、その一つが青屋口…そこの桝形にある門が青屋門

立派な青屋門があるけど、残念ながら復元されたもの

「青屋」の名前は、戦国時代この地にあった大坂(石山)本願寺の寺内町「青屋町」に由来するようで

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青屋門をくぐって、みえる堀は内堀

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この石垣、高さが日本一なんだそうな
高さ32メートル

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桝形の石垣かな

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二の丸と山里丸を繋ぐ
極楽橋


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豊臣秀吉が1583年に築造を開始した大坂城のときに、すでに、この付近にかけられた橋を極楽橋と呼んでいたそうな

大阪夏の陣で、落城後、豊臣大坂城は埋められてしまったけど

徳川幕府が再建した時に、この極楽橋も、架けなおされたよう

江戸時代には幅8mの木造だったが、明治維新の大火で焼け落ちてしまう

その後1965年に再架橋

長さが54m、幅5.4mで橋脚と主桁は鉄筋コンクリートで造られているけど

擬宝珠高欄が歴史的な江戸時代の雰囲気を醸し出していまして

 

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大坂城をバックにインスタ映えする写真がとれちゃう!絶好のフォトスポット

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極楽橋より、内堀を望む…

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極楽橋を渡ると
山里丸

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そこは、今は刻印石広場になっていて、刻印入りの巨石がゴロゴロ放置されてる

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こうやって、刻印探しをすると楽しいかも…この日は、小雨も降って足元悪く、蒸し暑いので、すぐやめたけど

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大阪城天守閣を、みあげるくらいに近づいてきました!

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内堀の遠くには高層ビル群


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山里口出枡形

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徳川家による再建で設けられたよう

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天守閣を見上げる!

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エレベータのくっついたこの光景

昔の鉄筋コンクリートでできてた名古屋城が思い出される

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天守閣のある場所は本丸

そこにある
豊臣秀吉手植えの樟

大坂夏の陣、あるいは、明治の大火で、残っていないのでは…といった
名探偵コナン?…もとい…迷探偵コンナン(困難)こと、私の推理は的中でした!

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どうやら、陸軍第四師団の師団長の小川又次さんが、1898年に改めて樟を植えたらしい…

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金明水井戸屋形
大阪城天守閣に入場する直前に、目に留まる…

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小天守台の中にある「金明水 井戸」
井戸を覆う屋形は徳川期から残った建造物
秀吉が水を清めるためにこの井戸に黄金を多数沈めたという伝承もあって

ずっと豊臣秀吉が関係している井戸だと信じられていたんですが、調べてみるとそうではなくて、徳川大坂城時代のもので
江戸時代のときのネーミングは「黄金水井戸」

天守閣に一番近い井戸なので「黄金水」、少し離れたところにある井戸が「金明水」、続いて「銀明水」との順で名前が付けられていたようで


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…と随分、ブログが長くなっているので

今回は、この辺で終わった方が…い井戸…もとい…いいど


復原された平城宮のシンボル「朱雀門」に行く!!

2024-09-02 06:23:53 | 歴史史跡

1998年(平成10年)に復原された

現時点での平城宮跡のシンボル

平城宮の正門「朱雀門(すざくもん)」へと…

 

 

平城宮の正門「朱雀門」

奈良時代前期の建築なので、様式を同年代の薬師寺東塔や、規模が大きいため、それに近い条件を持つ東大寺転害門を参考にしたそうな

また鴟尾については唐招提寺金銅といった奈良時代のその他の現存する建築も参考にしたとのこと

「朱雀門」は平城京の入口である羅城門から、メインストリートである道幅約75mもの朱雀大路を北へ4km進んだところに、建立されていたそうな

 

朱雀門の左右には、高さ6mの築地塀がめぐり、約1km四方の広さを持つ平城宮を取り囲んでいたとのことで

この朱雀門は間口約25m、高さ約20mの入母屋二重構造

 

奈良時代には、奈良の街全体である「平城京」において、この門は天皇や貴族の空間である「平城宮」の玄関口であったため、衛士により厳重に守られ、常に開門がなされていた訳ではなかったとのこと

なので、この開放されてる門は、奈良時代ではほとんど閉じていたんですね…

 

 

解説パネルと

 

当時の想像図

近鉄奈良線の電車からもよくみえそう…

そう、第一次大極殿との間、朱雀門の目の前を近鉄電車が通る…史跡の敷地内を近鉄電車が走る…みようによっては、めちゃシュールな光景

ここに駅ができれば「朱雀門」に行くのに、めちゃ便利だと思うけど、平城宮の歴史史跡のど真ん中の敷地内に「駅」

電車が停まって、この写真の景色の目の前から、人がどどっと降りてくる光景を思い描いたら…奈良時代の風情を感じるにはほど遠くなってしまうような…

やっぱ、今のように近鉄電車は通り過ぎるだけがいいかな

近鉄電車が通りすざくもん(朱雀門)」??

もとい、通りすぎるもん!!!

 


平城宮跡にある、「すいている宮内省」じゃなくて「推定宮内省」に行く!!

2024-08-29 05:49:39 | 歴史史跡

「なんと(710)立派な平城京」のゴロ合わせで覚えた平城京が、

「国営平城宮跡歴史公園」「県営平城宮跡歴史公園」となって、どんどん、いろいろなものが復原されている2022年

「なんと(710)立派な平城京」に行ってきた話の続き

 

ここまで紹介してきたとおり

「「なんと(710)広い平城宮」

広すぎて…広すぎて…北東の外れにある平城宮跡遺構展示館には、ほとんど人がいなかったんですが…

 

もっといない…誰もいなかったのが

平城宮跡遺構展示館のすぐ近くにある

 

平城宮跡推定宮内省

 

今回は、ここの紹介をば

 

かつてこの地に設けられていたと推定される「宮内省」の建物が、ここに復元されているんだな…

平城では、二官八省と呼ばれる役所がありまして

今と同じ仕組み、律令制における中央行政組織でありまして

二官というのは神祇官と太政官

その太政官の下に左弁官の中務、式部、治部・民部の4省と、右弁官の兵部 、刑部、大蔵、宮内の八省があって

その中の「宮内省」がここにあったと推測され、このように建物が復原されている訳

推定宮内省」とあるので、絶対ここにあった…と言い切れるものではないけど、たぶん、ここにあったんじゃないかな…といった感じなんでしょう

発掘調査の結果、奈良時代の間にも何度も建て替えられている事がわかっていて、これらの建物は奈良時代後半の「宮内省」を再現したものらしい…

宮内省は現在の宮内庁と同様、天皇家の身の回りに関わる業務を行う役所であったよう…

築地塀…どうやらこの塀で「宮内省」を囲っていたよう…ここでは、全部囲われず、一部の塀が復原されてる

 

この築地塀の門をくぐって、敷地内へ

 

「すいてい(推定)宮内省」「すいている宮内省」じゃないかと思えるくらい誰もいない…

敷地内には檜皮葺の脇殿や倉庫などの建物が復原されていまして
 
 
一部、中が覗けるようになってまして
内部にかつての役人の執務で用いられたと推定されている椅子・机・書類を置いた棚厨子などが再現されておいてありました
 
 
役所の仕事についての解説パネル
 
 
机は正倉院宝物(多足机)を参考に復原されたとのこと
 
 
役所の道具の解説パネル
 
 
ここは、ぜひとも当時の雰囲気をより醸し出す「役所にお勤めの人々」の等身大人形が欲しかった…
 
 
まあ、イラストはあったけど…
 
 
奥の方の建物は倉庫なのか…扉はしまっておりました
 
 
 
 
この建物、(南殿だと思われる…2つ連なっていました)は、日陰になってて、風が吹き抜けて、実に気持ちいい
 
 
 
 
 
風通しがめちゃよいのよ!!
 
 
さて、この宮内省の中心的建物であると思われる
 
「正殿」については復原されておらず、礎石のみが置かれていました…
 
 
 
 
いやあ、礎石だけ残っていて建物がないだけに、風が通って気持ちがいい…
 
ホント、風通しがよいのよ!風通しがよいのよ!風通しがよいのよ!
 
 
それに比べたら、今の政治家のみなさんの「風通し」の悪いこと…
 
新興宗教との関連性、オリンピック関連の後だしじゃんけん的に露わになった、お金にまつわるキタナイ話…国民の反対を押し切ってやっちゃう国葬に莫大な税金を投入…
 
もう、政治をこの青空のこの礎石の上に腰かけて、国会とかやったら…さすがに、居眠りする国会議員はいなくなると思うよ…
真夏は熱中症の危険性があるから、水分補給だけは忘れずにして…真冬は、防寒をしっかりしてもらって…
ここでやれば、国民の苦しみがよくわかるはず???
 
ホント、日本の政治はよくない…よくない…よ宮内(くない)
 
はい、お後がよろしいようで…

奈良時代をリアル体感…平城宮東院庭園に行く!

2024-08-27 05:52:25 | 歴史史跡

「なんと(710)立派な平城京」のゴロ合わせで覚えた平城京が、

「国営平城宮跡歴史公園」「県営平城宮跡歴史公園」となって、どんどん、いろいろなものが復原されている2022年

「なんと(710)立派な平城京」に行ってきた話の続き

平城宮跡資料館に立ち寄って、その後「第一次大極殿南門」「第一次大極殿院正殿」「平城宮跡復原事業情報館」などを歩いて廻ってみた後には

同じ平城宮跡にあるのに…歩いてではなく、一旦、平城宮跡資料館そばの駐車場に戻って…軽四で…車を走らせて

平城宮東院(とういん)庭園を訪ねました…

平城宮跡資料館から平城宮東院(とういん)庭園までは、同じ平城宮内にあるといっても西の端から、東の端ですから…とおいん(遠いん)です!

 

さてさて、東院庭園そばの駐車場に停めて

歩いて、東院庭園を散策

…とその前に…駐車場のそばに、基壇が復元されている光景が目に留まる

ここは小子部と呼ばれるがあったらしい…「ちいさくべもん」と読むらしい…おそらく門は大きくなかったと思われるって、読んだそのまんまやないか!でも、ドラえもんよりは大きかったんじゃないかな…って、ドラえもんの大きさを知らんけど…なにか「もん」題でも??

この門の跡がみつかったことで平城宮が正方形ではなく東に張り出した形であることが判明したらしい…

さてさて

特別史跡「平城宮」の案内看板

この奥の連なる大垣の右に見える門が

東院南門(建部門)

平城宮東院の南中央に開く門で、平城宮の十二門のうちの一つ

今回のブログで綴りたい…東院庭園

写真、右奥が東院南門(建部門)


東院庭園は、昭和42年に平城宮東張出し部の南東隅に発見された庭園跡のこと…

奈良時代を通じて「東宮」と呼ばれたようですが、孝謙・称徳天皇の時代には特に「東院」と呼ばれていて

称徳天皇はこの地に「東院玉殿」を建て、よく宴会や儀式を催していたそうな…

称徳天皇は女帝…聖武天皇を父とし、母は光明皇后…738年に皇太子となり、749年に即位した天皇

「続日本紀」に記される平城宮の「東院」にあたることから「東院庭園」と名付けられまたそう…発掘調査の結果、東西80m×南北100mの敷地のなかに洲浜敷の池が設けられ、その周囲に建物が配されていたことが判明したそうな…

復原整備が進み、2010年特別名勝に指定されたとのこと

 

この東院庭園の手前の建物は、受付とちょっとした資料館となってまして…

受付があるといっても、検温及び手指消毒…

あ、そうそう、平城宮のこういったハコモノに入るごとに、何度も検温及び手指消毒はお願いされちゃいますよ!!

 

でも、この庭園も入園無料!!私の大好きなタダ!タダ!!なんですよ!!コスパ最高!!の平城宮であります…

さて、この資料館の展示物を紹介

東院庭園には、我が国最古の築山石組がみられたそうで

その遺構模型

遺構の模型なので、さっぱり凡人には伝わらない展示品

「東院」の説明解説パネル

称徳天皇はこの地に「東院玉殿」を建て、よく宴会や儀式を催していたとの記述はもちろん、光仁天皇の「楊梅宮」はもとより、聖武天皇の「南苑(南樹苑)」もこの場所を中心に営まれていたと考えられるとか…

「東院庭園の発掘調査」の解説パネル

「庭園内の建物跡」の解説パネル

いやあ、このセピア色の写真が古めかしさを感じていいですなあ…って、観る視点が違うって

「東院庭園の

「庭のはこうだったんじゃないか」…いろんないけん(意見)がでたのでしょう!!…発掘時「勝手にいじってはいけません」と叱られる発掘調査員もいたかも??

鳳凰文鬼瓦…でかっ!こんな鬼瓦、初めて観たかも…

そもそもこの瓦の図が鳳凰で「鬼」じゃないやん!

 

獣面文鬼瓦…

こちらは鬼瓦っぽいですなあ…

 

平城宮東院庭園の遺構(いこう)のジオラマ…

このような遺構(いこう)の平城宮東院庭園が昭和42年に庭園の遺跡が発見された以降(いこう)…どのように復元されているのかをみに行こう(いこう)!!

正直…無料では申し訳ないくらいの…まるで奈良時代にタイムスリップしたかのような美しさでした…

おお、妄想の中で、私を待っている???女帝称徳天皇がみえるかのよう…

まるで、貴族になったような気分…

池の奥が、この東院庭園のメインとなる中央建物

まるで舞台のような構造の建物

中央の建物には、池泉東岸から架かる平橋が繋がっています

私は貴族じゃないから…渡ることはできません!いや、私に限らず…一般観光客は渡ることができません!!…あの建物の中にいるかも知れない女帝称徳天皇に会うことはきません???

背景に一枚、記念写真をば…まあ、妄想の中では、称徳天皇とのツーショット???

 

隅楼…2階建てであったと推測され、復原されたとか

 

この隅楼(この日はクソ暑い夏)…日陰がありがたい…笑

 

そこから、中央建物を池越しに眺める…

 

反橋から…眺める…

あの建物の中に称徳天皇がいらっしゃるのでは、と妄想しちゃうので、ついつい、何度も眺めてしまう…

中央建物前、反橋の右が、先ほどジオラマで眺めた我が国最古の

築山石組

 

 

東院(とういん)庭園は、平城宮東張出し部の南東隅にあるため、「第一次大極殿南門」「第一次大極殿院正殿」からも「朱雀門」からも「とおいん(遠いん)」ですが、絶対足を運び価値あり…

貴族になった気分で「奈良時代」を心底体感できちゃうから…

え??貴族…というよりも「き(気)」が、すっかり「ぞく(俗)世間」に揉まれちゃってる…「貴族」とは程遠い存在だということに

「きぞく(貴族)」…もとい…「きづく(気づく)」

私なのです…