ねこ絵描き岡田千夏のねこまんが、ねこイラスト、時々エッセイ
猫と千夏とエトセトラ
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長新太「ごろごろ にゃーん」
長新太さんの本といえば、実家に「おなら」という絵本があった。おそらくそれが、はじめて出会った長さんの作品だったろうと思う。その絵本を手に取ったとき、まずタイトルの下に書かれた「長」という長さんの名字が、子供心にめずらしくて印象的だった。表紙には、大きな象のお尻の絵が描いてあって、ページをめくると、肉食動物のおならはくさいとか、盲腸の手術の後に出るおならは病気が良くなった証拠だとか、いろんなおならの話が、ユニークな絵と一緒に描いてあった。一番最後のページで、絵本に登場するオジサンが、「さよおなら」と言いながら小さくなっていくのも心に残っている。
その長さんの、「ごろごろ にゃーん」という絵本を最近買った。先の文藝春秋の記事に紹介されていたのだけれど、ナンセンスだという評判どおり、読んでみたらやっぱりナンセンスだった。
海に浮かんだお魚型の飛行機に、ゴムボートでやって来た猫たちが乗り込んで行く場面から絵本は始まる。次のページでは、飛行機の小さな丸窓に、乗り込んだ猫たちの顔がひとつずつ覗いている。飛行機の腹部から何本もの釣り糸が垂れて、いろんな種類の魚を海から釣り上げている。その次のページの飛行機の丸窓に見える猫たちは、皆それぞれ魚を一匹ずつ口元に持っていっている。その猫たちの、嬉しそうな顔と言ったら。目が三日月形に、ニタリと笑っている。猫に眉毛があるのもまたナンセンスだ。
そんなふうに、猫たちのナンセンスな空の旅は続いていくが、ナンセンスさゆえに、ここで私の拙い文章で説明するのはなかなか困難である。実物を見てもらわなければ、このナンセンスさはうまく伝わらない。
この「ごろごろ にゃーん」は、半分は自分のため、半分は子供のために買ったのだけれど、乳幼児向けの絵本の多くが鮮やかでわかりやすい色使いであるのに対し、「ごろごろ にゃーん」は黒と青と黄色の三色のペンのみで描かれているので、果たして2歳前の子供の関心を引くだろうかと思った。が、子供に絵本を開いて見せると、すぐに嬉しそうに寄って来て、最後まで飽きずに眺めていた。
絵本の最初と終わり以外は、どのページも、文章はすべて
「ごろごろ にゃーん ごろごろ にゃーん と、ひこうきは とんでいきます」
である。これも子供に受けて、「ごろごろ、にゃーん」と口ずさんでいる。子供だけではない。大人の私もときどき無意識に「ごろごろ にゃーん」と言ってしまっている。語呂がいいし、猫が喉を鳴らす音に引っ掛けて、口に出すと愉快になる言葉である。
長さんは、子供に「与えてやる」のではなくて、子供と対等に絵本を作ってきた。この「ごろごろ にゃーん」を読んだら、それがわかるような気がする。こんな世界を頭の中に持っているのだから、やっぱり長新太さんは、すごい人だと思う。
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猫の視線、子供の視線
まず、身長が全然違うから、見る高さが違う。もうすぐ二歳になる息子は、まだ九十センチくらいの高さであるから、大人が見つけないようなものを見つけたり、大人のくるぶしに止まった蚊を指摘したりする。
だけど、大人と子供の視線の違いは、身長の差から生じる、視線の高さの必然的な違いだけではない。
一緒に教育番組を見ていたら、石畳の広い公園のようなところを背景に、なにやら黄色いオブジェのようなものが画面に大きく現れた。それは再放送で、私は横から赤いボールが飛んでくるのを知っていたから、そのあたりばかりを見ていたら、息子が「でんでん(電車)」と言った。私は「ここには電車でてこないよ」と言おうとして、背景の、はるか遠くに電車が走っていることに気がついた。一回目に見たときも、たぶん、目の前のオブジェばかりに気を取られて、背景を走る電車に気づかなかったのだろう。大人は、経験から画面のどこを見るべきかを推測できるのに対し、子供には、そんな常識は通用しないから、きっと画面のうしろの方まで見ていて、大好きな電車にすぐ気づいたのに違いない。
保坂和志の本に、「季節の記憶」という小説がある。保坂和志も猫好き作家の一人で、文庫本カバーの著者近影では、三毛猫を膝に抱いて写っているが、それは今は関係ないので置いておくとして、この「季節の記憶」は、主人公の「僕」と三歳の息子のクイちゃんと、近所に住む兄妹の物語である。ちなみに、解説によると、このクイちゃんは、著者の飼い猫がモデルになっているという。
あいにく手元に本がないので、記憶をたどっての記述になるけれど、「僕」のクイちゃんに対する教育が、ちょっとユニークなのである。その一つとして、「僕」はクイちゃんになかなか字を教えない。なぜと尋ねる兄妹に、「僕」は、隣の部屋の襖の絵は何の絵だったか覚えているかい、と反対に質問する。毎日見ているはずの襖なのに、大人は誰一人答えることができない。ただクイちゃんだけが、的確にどんな模様だったかを説明することができる。このことを「僕」はこう分析する。つまり、大人は文字という情報伝達の手段を持っているから、文字ばかりに目が行って、襖の絵などは目に入っていても見えていない。ところがまだ文字を知らないクイちゃんは、文字も絵も、同じように見ているのである。小学校にあがれば、否が応でも文字を習う。だからせめてそれまでは、文字を知らないがゆえの視点を失わせたくなくて、クイちゃんに文字を教えないのだと、「僕」は説明する。
成長の過程で、物事を情報化し、膨大な情報の中から必要なものを取捨選択することで、人間は脳の効率化を図っていく必要があるのだけれど、文字も風景の単なる構成要素としか見えない子供の心が受け止める世界は、大人とはずいぶん違って見えることだろう。
近ごろ、いつのまにかアルファベットのAを覚えて、そこらじゅうの物についているAをいちいち指摘している息子に、文字をいつ頃教えるべきだろうかと考えている。
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長雨の季節
しかし、週間天気予報にずらりと傘のマークが並べばうんざりする。洗濯物は乾かないし、子供を外へ遊びに連れても行けない。
猫のみゆちゃんも、庭に出られず退屈そうだ。仕方なく、雨の窓を眺めては、寝て過ごしている。天気が悪いと、動物は眠くなるように出来ているのかもしれない。
とはいえ、いくら悲観したところで、厚い雨雲が晴れるわけでもない。待っていれば、いつかは雨の季節も終わって、元気な夏がやってくる。もちろん、災害につながるような大雨は困るけれど、ここは一つ発想の転換をして、春の桜や、秋の紅葉のように、この静かな長雨も、めぐる季節の一つの顔だと思って、その中に趣を探してみてはどうだろうか。
(トラックバック練習板:テーマ「梅雨明けの予想」)
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跳ねる魚
2007年07月12日 / 魚
初夏の日の暮れる頃、河原の石畳の縁に座って川風に涼んでいたら、水面から小さな魚が跳ね上がって、沈みかかった太陽を腹に受け銀色に光った。見ていると、川面のあちこちで、同じような小魚が薄紫色の光の中に跳び上がってきらきら光り、不思議な光景だった。
小学生のときに、海でさんざん泳ぎ回って遊んだあと、砂浜に座って、疲れた身体を夕日に晒していたら、傾く太陽の方向に、遠く大きな魚が飛び跳ねるのが見えた。それは子供心にとてもファンタスティックな情景だった。こんな美しい瞬間を見られるなんて自分は運がいいと思って、夏休みの宿題の絵日記には、その一コマを描いた。
思い出を振り返ると、魚が飛び跳ねるのは、夕方が多いような気がする。もしかしたら、日が傾くと、光の加減で、魚が水面の向こうまで水が続いているような錯覚に陥るのかしらとか、水の外の世界が見てみたいのかしら、などと勝手に想像したりするが、理由は別にあるらしい。
調べてみると、魚が飛び跳ねるのは、捕食者に追われているときとか、反対にえさとなる生物を追いかけているときとか、あるいは、からだの表面についた寄生虫を取るためであるという。とすれば、魚は夕方だけではなく、時間帯に関係なく跳ねるのだろう。
きんちゃんが金魚鉢から跳ね出してしまったのは、朝食の時間だった。もしかしたら、いろいろ災難の多いきんちゃんのことだから、寄生虫がついていたのかもしれない。
また、ぱしゃん、ぱしゃんとやりだしたら、ちょっと注意して見てあげた方がいいかもしれない。
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猫のお手柄
2007年07月11日 / 魚
同じ水槽で同じ餌をやっているのに、スレンダーなぎよちゃんに対し、きんちゃんは貫禄のある胴回り、人間でいえばメタボリック症候群の予備軍かもしれない。そのためか、きんちゃんは病弱である。水替えを怠っている私が悪いといえばそれまでであるが、だいぶ水の緑色が濃くなってきたなと思ったら、きんちゃんがお腹に白いできものをこしらえてしんどそうな泳ぎ方をしていて、あわてて食塩浴をさせたりする。
そんなきんちゃんなのだが、ある時、何を思ったのか、金魚鉢の外へ跳ね出してしまったことがあった。
金魚鉢の向こうで、ときどきなにやら、ぱた、というかすかな音が聞こえてくるように思ったけど、取り立てて気にも留めずにいた。あとからわかったことだけれど、それは、床の上に横たわった瀕死のきんちゃんが、失われていく力を振り絞って跳ねようとする、弱々しい音だったのだった。
しばらくすると、みゆちゃんがどこからかやってきて、しきりに金魚鉢のうしろを気にし出した。くんくん首を突っ込んで、明らかに何かを探しているような様子なので、何がいるのだろうとみゆちゃんの背中越しに覗いてみたところ、目に入ってきたのは、鮮やかな赤いからだも色褪せて、口をぱくぱくさせて喘いでいる、哀れなきんちゃんの姿だった。
吃驚して、みゆちゃんを押さえつけながらきんちゃんを拾い上げると、すぐに水に戻してやった。
きんちゃんがしっかりとした泳ぎで水の中にもぐって行くのを見てほっとしたけど、みゆちゃんが見つけてくれなければ、誰も気がつかないまま、死んでいたかもしれない。みゆちゃん、教えてくれてありがとうと、迷惑顔のみゆちゃんを捕まえて、頭をごしごしとなでまわした。
もっとも、みゆちゃんは、なぜほめられるのか、きっとわかっていないに違いない。きんちゃんは二重の意味で絶体絶命だったのである。
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そして誰もいなくなった―アゲハのその後
2007年07月10日 / 虫
それと前後して、先代の、終齢幼虫にまで育った幼虫は、小さな鉢植えの山椒の木の葉をすべて食べつくしてしまったので、実家から急遽もらってきた山椒の木の枝に乗せて、蜂から守るために部屋の中に置いておいたのだが、ある日、蛹になるために外へ出て行ったまま、行方が知れない。
その幼虫が去ったあとの山椒の枝を、不精な性格と、植木の知識がないくせに、挿し木にはならないかしらという期待からしばらくそのまま放っておいたら、やはり挿し木にもならず、だんだんと枯れはじめ出した頃、枝のいろんなところに、十匹ほどの小さな幼虫がまたもやついていることを発見した。しばらくのあいだ、山椒の枝ごと幼虫を外に置いていたので、そのあいだに卵を産みつけたらしい。
正直なところ、虫に思い入れを深くして、蜂に取られやしないか、蛹になる場所はどこがいいか、などと悩むことに少々疲れてきていたので、この十匹の幼虫は、再びあたらしい芽を伸ばしはじめた小さな鉢植えの山椒の木や、グレープフルーツの葉っぱの上に、それぞれ分散させて乗せておいた。
自然界には、敵がいっぱいなのかもしれない。十匹の幼虫はどんどん数が減って、三匹の幼虫だけが、一センチくらいの大きさにまで育った。基本的には放任の姿勢で、食べるものがなくなった場合には、あたらしい山椒の鉢でも用意してやろうと思っていたら、この三匹もいつの間にか姿を消して、とうとう誰もいなくなった。
蜂か鳥か、まさかみゆちゃんではないだろうけれど、世話までするのは面倒くさいと思っていた幼虫だが、いなくなると少し寂しい。
今日、家の前の道を、おとなのアゲハが横切って飛ぶのを見た。あの、蛹になるために外へ出て行った幼虫の、見違えるような姿であればいいなと思う。
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猫の利き手
2007年07月09日 / 猫
濡れ雑巾で足の裏を拭こうとして、汚れているのは左の前足だけであることに気がついた。右の前足はまったくきれいである。みゆちゃんは、左利きなのかしらと、ふと思った。
もうずいぶん前の、中学生か高校生だった頃、家に遊びに来た従兄が、その頃家にいた犬が右の前足で何度も父の足を引っかいて食べ物をおねだりするのを見て、この犬は右利きだなあ、と言った。それまで、動物の利き手など考えたこともなかったので、この従兄の意見は新鮮であった。
そのことを今も覚えているので、ときどきみゆちゃんはどっち利きなのだろうと思って、遊んでいるときの手の出し方を見るのだけれど、いつも使う手はばらばらで、どちらをよく使うという傾向は見出せないでいた。それが、今朝、左手だけが汚れているので、左利きなのかなと思ったのである。
そもそも、猫に利き手はあるのだろうか。ネットで調べてみると、あると言う人と、ないと言う人がいる。
あると言う人の話では、おもちゃで遊ぶときに、先に出す手が利き手であって、人間を含め、ほとんどの動物は、右利きの方が多いのに、猫だけは左利きが多いのだと言う。また、イギリスのなんとかという博士が、利き手があったほうが脳が活性化されるのだと言ったらしい。うちの子はどっち利きです、などと紹介している人もいる。。
ないという人の言い分は、もしも利き手があれば、獲物を獲るときや、敵から逃げるときに不利である、どちらの手もさっと出せるように、利き手はないのだということだった。
そのあとも、みゆちゃんがトイレのあとどっちの手で砂をかけるだろうと見ていたけれど、やはり特に決まっているようではなかったので、朝、左手だけが汚れていたのも、たまたまそちらを使ったということに過ぎないのかもしれない。
利き手があると不利だという理由ももっともだと思うし、何よりも日ごろのみゆちゃんの手の使い方を見ていて、左右に偏りはないように思われるので、私には猫に利き手はないというのが正しいように思えるのだけれど、みなさんは、どうだろうか。
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ねこの朝食、ひとの朝食
2007年07月06日 / 猫
そして、下の如くが、猫のみゆちゃんの朝食である。
もっとも、みゆちゃんは、自分の好きな時間に好きなだけ食べるから、朝食といえるかどうかはわからない。勿論、図のような食器ではなく、プラスチックの容器からじかに食べている。以前は、朝と夕方、魚の缶詰を、それなりに可愛げのある青い線の入った白いシリアルボウルに、ドライフードと混ぜてあげていたのだけれど、いつからか、缶詰は食べなくなった。しかも、ドライフードは器から食べるよりも、ストック用のプラスチックの容器のふたを勝手に開けて、そこからじかに食べるほうがおいしいらしい。ほかの食べ物には、鰹節を例外として、さらさら興味はなく、好きなときにドライフードのおいてある箪笥の上にあがって、容器に顔を突っ込んではぽりぽりと食べている。
こういう食事のスタイルは、実家のちゃめも同じであって、ストック用のポリ容器をひっくり返し、ふたを開けて中身をかき出して食べている。この二匹、恐ろしく仲が悪いくせに、似ているところが結構ある。
(トラックバック練習板:テーマ「朝食について」)
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水に落ちる虫
2007年07月05日 / 虫
次の日の朝、庭に出たら、網戸の下のめだかの鉢に、大きな甲虫がぷっかり浮かんでいた。昨夜、羽音がしなくなったのは、水に落ちたためだったのかもしれなかった。肢をだらりと伸ばして、じっと浮いているので、もうだめかと思って拾い上げたら、動き出して、指を強い力で掴んだ。光沢のない薄い茶色の立派なやつで、鹿の角を小さくしたような、偉そうな触覚を生やしていた。嫌がる甲虫を指から引き離して、庭の羊歯の葉の上に止まらせておいた。
去年の秋口だったか、母が右手の人差し指に絆創膏を巻いていたので、どうしたのかと尋ねたら、蜜蜂に刺されたのだといった。なぜそんな指先をと不思議に思って話を聞けば、実家の玄関の脇に置いてあるめだかの鉢の中に蜜蜂が落ちていたのを、木切れか何かですくい上げればよかったのに、不用意に素手で拾い上げてやったところ、蜂は母の指を刺して、死んでしまったのだそうである。
蜜蜂は、一度刺すと、針が抜けなくなって、死んでしまう。昆虫に、なんら複雑な思考はないだろうから、おそらくは、その蜜蜂も、ただ驚いて、とっさに本能的に母の指を刺したのだろうけれど、母の話を聞いて、溺れ死ぬことを免れたばかりの蜜蜂が、なぜ自ら死ななければならなかったのか、私は納得ができなかった。
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