家の中を吹き抜ける風も生温く、
猫たちもそれぞれ暑そうに伸びていたので、
私としては今季初!エアコンのスイッチを入れました。
ひとりで涼むのは、なんだかもったいない気もしますが、
毛族の3猫と共に涼むのなら、苦しゅうないだろう、と勝手に妄想です。
エアコンを入れて、乾いた冷たい風が部屋の中を駆け巡ると、
一番長毛の桃ちゃんは、なぜか居間と廊下の間の引き戸の前で、
目に見えぬ何かに阻まれているかのようにぴくりとも動かず、涼しい部屋には入ってきません。
涼しい部屋で涼んでいた毛深めのちぃは、引き戸を開けて出て行きました。
梅ちゃんは、私の膝の上で丸くなっています。
エアコンが欲しかったのは、私だけですね。
私のためだけにエアコン入れて涼みました。
猫って、まぁ、暑さには強いのだわ、と再認識。
ふと、考えると、
昨日のインスタントラーメンではないけれど、親に教えられたことは、
親から離れて、30年になっても染み付いているものだな、と驚きます。
私は、家の中でも察しながら生活するということを、
親元に居るときに割と身に付けさせられたなぁ、と思います。
小学4,5年生の頃、振替休日か何かの日に、私は漫画だか本だかを読んでいました。
午前中だったので、母は洗濯をし、掃除をして…と日常のことをしていたのですが、
そのとき、母が
「あんた、よく、人が掃除したりしているときに本かなんか知らんけど、読めるね。
仕事をしている人が居たら、手伝うのが当たり前でしょう。
それもできないくらいの今読まんとけ死ぬような本ね?!」と言われました。
私は全く悪気もなかったのですが、言われてみれば、
掃除してる人の横で、ごろりとなって本読んでるのはどうかと思い、
掃除が終わってから本はよめばいいし、と思い掃除を手伝いました。
「言われんとできん!」とぷいっと別のところの掃除に行く母を、
ばつの悪い、ざらりとした心持ちを抱えながら掃除をしたのを覚えています。
考えてみると、万事がそういう感じで、
相手の人にも必要そうなことはする、しないまでも一声かける、
断るのは相手の自由だから、それについてつべこべ言うのは押し売り、
そんなことを言われながら育ったように思います。
だからといって、察しの利く人になってかは疑問で、
人並みに、ああしたほうがいいかな、こうかな?いや引いたほうがいいな、くらいを考えてるに過ぎません。
それでも、例えば、早朝の仕事で、
「ああ、ここはこっちが先のほうがいいだろうな。これ後だと、ボスは機嫌悪いだろうな」などと、
考えながら仕事をしていると、
なーんにも考えずに「なんで、今、それ?」という仕事をする方にため息が出たり。
でも、これは、私が勝手に察したことを勝手にだれかに押し付けてついているため息ですね。
難儀なこっちゃ、です
察するなどというのは、小さな家庭の中では生きますが、
社会の中で自分がして欲しいことなど察して欲しいのは山々ですが、
察してもらうことなんて不可能に近いし、
勝手に察せられてへんてこな方向に導かれるのを断るのも面倒なので、
言葉にして伝える方法が一番だな、と今は思っています。
そんな風で、今は、少し、早朝の仕事も横着をして、
何も見ず、流れに任せてしてみたりしています。
でも、ぐだぐだなると、いらっとくるので、
やっぱり、時々、「優先順位、そっちじゃないじゃん!」と叫んでいます。
色々、日々進歩、後退の毎日です。
猫たちもそれぞれ暑そうに伸びていたので、
私としては今季初!エアコンのスイッチを入れました。
ひとりで涼むのは、なんだかもったいない気もしますが、
毛族の3猫と共に涼むのなら、苦しゅうないだろう、と勝手に妄想です。
エアコンを入れて、乾いた冷たい風が部屋の中を駆け巡ると、
一番長毛の桃ちゃんは、なぜか居間と廊下の間の引き戸の前で、
目に見えぬ何かに阻まれているかのようにぴくりとも動かず、涼しい部屋には入ってきません。
涼しい部屋で涼んでいた毛深めのちぃは、引き戸を開けて出て行きました。
梅ちゃんは、私の膝の上で丸くなっています。
エアコンが欲しかったのは、私だけですね。
私のためだけにエアコン入れて涼みました。
猫って、まぁ、暑さには強いのだわ、と再認識。
ふと、考えると、
昨日のインスタントラーメンではないけれど、親に教えられたことは、
親から離れて、30年になっても染み付いているものだな、と驚きます。
私は、家の中でも察しながら生活するということを、
親元に居るときに割と身に付けさせられたなぁ、と思います。
小学4,5年生の頃、振替休日か何かの日に、私は漫画だか本だかを読んでいました。
午前中だったので、母は洗濯をし、掃除をして…と日常のことをしていたのですが、
そのとき、母が
「あんた、よく、人が掃除したりしているときに本かなんか知らんけど、読めるね。
仕事をしている人が居たら、手伝うのが当たり前でしょう。
それもできないくらいの今読まんとけ死ぬような本ね?!」と言われました。
私は全く悪気もなかったのですが、言われてみれば、
掃除してる人の横で、ごろりとなって本読んでるのはどうかと思い、
掃除が終わってから本はよめばいいし、と思い掃除を手伝いました。
「言われんとできん!」とぷいっと別のところの掃除に行く母を、
ばつの悪い、ざらりとした心持ちを抱えながら掃除をしたのを覚えています。
考えてみると、万事がそういう感じで、
相手の人にも必要そうなことはする、しないまでも一声かける、
断るのは相手の自由だから、それについてつべこべ言うのは押し売り、
そんなことを言われながら育ったように思います。
だからといって、察しの利く人になってかは疑問で、
人並みに、ああしたほうがいいかな、こうかな?いや引いたほうがいいな、くらいを考えてるに過ぎません。
それでも、例えば、早朝の仕事で、
「ああ、ここはこっちが先のほうがいいだろうな。これ後だと、ボスは機嫌悪いだろうな」などと、
考えながら仕事をしていると、
なーんにも考えずに「なんで、今、それ?」という仕事をする方にため息が出たり。
でも、これは、私が勝手に察したことを勝手にだれかに押し付けてついているため息ですね。
難儀なこっちゃ、です
察するなどというのは、小さな家庭の中では生きますが、
社会の中で自分がして欲しいことなど察して欲しいのは山々ですが、
察してもらうことなんて不可能に近いし、
勝手に察せられてへんてこな方向に導かれるのを断るのも面倒なので、
言葉にして伝える方法が一番だな、と今は思っています。
そんな風で、今は、少し、早朝の仕事も横着をして、
何も見ず、流れに任せてしてみたりしています。
でも、ぐだぐだなると、いらっとくるので、
やっぱり、時々、「優先順位、そっちじゃないじゃん!」と叫んでいます。
色々、日々進歩、後退の毎日です。