早朝の仕事に出かけるときに、
ミラーシールドでは少し暗いな、と感じるようになりました。
日が昇る時間が、少しずつですが遅くなっているのですね。
そして、バイクに乗るのも長袖のTシャツだけでは風が冷たく、
体がひんやりとして、スピードをゆるめます。
秋がどんどん深まっていくのですね。
子どもの頃から絵を描くことは好きでしたが、
立体のものを作ったり、削ったりすることは苦手なほうでした。
例えば、キャラメルの箱のようなものを作るのも
展開図もどきを書いてから作りはじめるものの、
寸足らずになったり、一部のパーツが短かったりで何度も何度も作り直して、
やっと出来上がったものも、なんだか不格好なものでした。
レンガを削って自画像を作るのも立体っぽくなったときには、
レンガの大きさがみんなよりだいぶ小さくなってしまっていたし、
画用紙でパーツを作り塔にするのも、なぜか傾いて立たずじまいだったのを覚えています。
自分勝手に積み木やブロックで遊ぶことは大好きでしたが、
今でいう、知育的な見本のものを作るのも苦手で、
見本に自分なりに印を付けて、自分の手元と見本とを何度も何度も見比べて、
やっとできたものが見本と違っていて、もう一回はじめから作り直したり、という感じでした。
どうしてもう一回はじめから作り直すのかといえば、
どこが間違っているのか調べて、そこだけ崩してやり直そうとすると、
見本のどこまでが出来上がっているかを頭の中で上手に巻き戻しができずに、
こんがらがってしまっていたからです。
そんな風ですから、時々遊んでいた自分より3つか4つ年下の近所に住んでいたふたいとこが、
いとも簡単にブロックや積み木を見本通りに積むのをみていると、
「げー、年下なのに、私、負けてるじゃーん!」と思い、
自分は積み木以外で遊ぶ、姑息な手段をとっていました。
支援員になったとき、支援クラスにあった知育のブロックが箱に入らずに溢れていました。
きちんと組上げて入れなくては、箱に入りきれずに、
子どもはお手上げ、担任の先生も「時間がない」とバラバラとお菓子の箱に入れられていました。
では、私が、と思いやってみることにしました。
子どもの頃と違って、ブロックをつめては上下左右から眺めて、
空いたスペースと残りのブロックを見ては、出したり入れたり。
子どもたちも興味津々。
「先生、できるの?」
「たぶん、そのうちね。」
「あとどのくらいでできるの?」
「わかんない」
などと言いながら、試行錯誤すること1時間ちょっとだったでしょうか。
10×10ほどのボックスの中に、すべてのブロックが収まりました。
大人になるとブロックそのものの形もですが、
空間にできる形を想像したり、
ある空間ではこのブロックは使わない!と消去できたり、
ブロックだけではない手がかりを使うことができるようになり、
こういう、立体の知育教材も楽しめるようになった気がします。
小学校で支援員をしているときには、
小学4年生の子どもたちが直方体と立方体の展開図を書いたり、
展開図を見て、ちゃんと形になるか、という授業を後ろで見ながら、
ああ~、これ苦手だったなぁ~と懐かしく思い出しました。
今では、頭の中で組み立てられるようになり、
「子どもの時は、頭の中に図形をちゃんと作れなかったんだなぁ~」と
しみじみする余裕すらありました
子どものときにできないことも、
できなかったことが嫌な思い出と手をつないでいなければ、
何度かチャレンジをする機会を自分で作ったり、与えられたりしながら、
いつかは、自分なりの方法を見つけてできるようになったりするものです。
小さな子どもと何かを学ぶときには、
できても、できなくても学ぶことは楽しいなぁ~と思ってもらうことが大切な気がします。
しかも、子どもは遊んでるつもりだったりするとなおいいなぁ~と思います。
子どもは遊んでいるつもりが、実は勉強だった!という風に私もできるといいなぁ、と思うことです。
ミラーシールドでは少し暗いな、と感じるようになりました。
日が昇る時間が、少しずつですが遅くなっているのですね。
そして、バイクに乗るのも長袖のTシャツだけでは風が冷たく、
体がひんやりとして、スピードをゆるめます。
秋がどんどん深まっていくのですね。
子どもの頃から絵を描くことは好きでしたが、
立体のものを作ったり、削ったりすることは苦手なほうでした。
例えば、キャラメルの箱のようなものを作るのも
展開図もどきを書いてから作りはじめるものの、
寸足らずになったり、一部のパーツが短かったりで何度も何度も作り直して、
やっと出来上がったものも、なんだか不格好なものでした。
レンガを削って自画像を作るのも立体っぽくなったときには、
レンガの大きさがみんなよりだいぶ小さくなってしまっていたし、
画用紙でパーツを作り塔にするのも、なぜか傾いて立たずじまいだったのを覚えています。
自分勝手に積み木やブロックで遊ぶことは大好きでしたが、
今でいう、知育的な見本のものを作るのも苦手で、
見本に自分なりに印を付けて、自分の手元と見本とを何度も何度も見比べて、
やっとできたものが見本と違っていて、もう一回はじめから作り直したり、という感じでした。
どうしてもう一回はじめから作り直すのかといえば、
どこが間違っているのか調べて、そこだけ崩してやり直そうとすると、
見本のどこまでが出来上がっているかを頭の中で上手に巻き戻しができずに、
こんがらがってしまっていたからです。
そんな風ですから、時々遊んでいた自分より3つか4つ年下の近所に住んでいたふたいとこが、
いとも簡単にブロックや積み木を見本通りに積むのをみていると、
「げー、年下なのに、私、負けてるじゃーん!」と思い、
自分は積み木以外で遊ぶ、姑息な手段をとっていました。
支援員になったとき、支援クラスにあった知育のブロックが箱に入らずに溢れていました。
きちんと組上げて入れなくては、箱に入りきれずに、
子どもはお手上げ、担任の先生も「時間がない」とバラバラとお菓子の箱に入れられていました。
では、私が、と思いやってみることにしました。
子どもの頃と違って、ブロックをつめては上下左右から眺めて、
空いたスペースと残りのブロックを見ては、出したり入れたり。
子どもたちも興味津々。
「先生、できるの?」
「たぶん、そのうちね。」
「あとどのくらいでできるの?」
「わかんない」
などと言いながら、試行錯誤すること1時間ちょっとだったでしょうか。
10×10ほどのボックスの中に、すべてのブロックが収まりました。
大人になるとブロックそのものの形もですが、
空間にできる形を想像したり、
ある空間ではこのブロックは使わない!と消去できたり、
ブロックだけではない手がかりを使うことができるようになり、
こういう、立体の知育教材も楽しめるようになった気がします。
小学校で支援員をしているときには、
小学4年生の子どもたちが直方体と立方体の展開図を書いたり、
展開図を見て、ちゃんと形になるか、という授業を後ろで見ながら、
ああ~、これ苦手だったなぁ~と懐かしく思い出しました。
今では、頭の中で組み立てられるようになり、
「子どもの時は、頭の中に図形をちゃんと作れなかったんだなぁ~」と
しみじみする余裕すらありました
子どものときにできないことも、
できなかったことが嫌な思い出と手をつないでいなければ、
何度かチャレンジをする機会を自分で作ったり、与えられたりしながら、
いつかは、自分なりの方法を見つけてできるようになったりするものです。
小さな子どもと何かを学ぶときには、
できても、できなくても学ぶことは楽しいなぁ~と思ってもらうことが大切な気がします。
しかも、子どもは遊んでるつもりだったりするとなおいいなぁ~と思います。
子どもは遊んでいるつもりが、実は勉強だった!という風に私もできるといいなぁ、と思うことです。