先ほど、どーーーーーん!と大きな音がしました。
事故?
外に行きましたが、そんな気配はなし。
しかし、パトカー、救急車のサイレンの音がします。
やっぱり事故です。
でも、まぁ、対応が早いんだなぁ、もう、サイレンの音か…、と思って、
トイレに行くと、家の裏手に見える高速道路で、
救急車やら、なんやら、総出です。
高速道路の事故だったんですね。
まっすぐ直線での事故。
私も気をつけよう。
発達や数について、本を読んだり考える日々が近頃の日常になっています。
ふと、先日、友人がFBのコメントで、
「お風呂の中で、100まで数えてたよね~」というのを見て、
私もそうだったなぁ~と思い出しました。
まじめに、1,2,3,4,5,6,…100!と数えることが楽しかったこともありましたが、
「風呂から早く上がりたい!」と思った頃には、
「1,!0,20,30,40…100!」なんて数えていた気がします。
そうして、今考えると、この数字数えは、
一緒に入っていた大人にとっては、数の勉強でもさせよう、ということだったのでしょうが、
子どもの私にとっては、時間的な意味合いが強いものだったんだなぁ~ということです。
同じように、数を数えることが時間的な意味を持つ場面は、
かくれんぼで、鬼になった子どもが周りを見ない状態になりながら、
50までとか100まで数えるときですね。
だから、早口で「12345678910……100!」と数えたりしますね。
数字から離れますが、言葉が数を表す遊びが、
じゃんけんをして、「グリコ!」とか「パイナップル」とか言いながら、
階段を上り下りする遊びは、言葉が数の役割をしていたんですね。
階段ではない場所で、この遊びをすると、
歩幅勝負になり、この場合、言葉が長さを表すのでしょうが、
背が高い私は「グリコ」で「チョコレート」の子を抜こうとしたりしていました。
掟破りが遊びの世界では当たり前ですね。
そういえば、私の父はユニークな人で、
「『かめ』たす『うさぎ』はなんでしょう」「『いちご』たす『バナナ』は?」
なんて足し算の問題を風呂の中で私に出していました。
答えは5と6ですが、短い言葉とはいっても、2つの言葉を数字に変えて足すのは難儀で
「普通に数えるほうがいい!」「そんなの足せない!」と文句を言ったりしていたこともありました。
他にも、ジュースなんて、いつでもは家にない時代に、
いとこたちと1本のジュースを「ひとくちずつね」と順番に飲んでいましたが、
一番年上のいとこがひとくちで大量に飲み、
私たちチビには1回しかまわらず大泣きなんてこともありました。
これは、「ひとくち」を1回と思っていたのに、量だった!くそー!という
思い出でしょうか?
こうやって改めて考えると、
数や量や長さ等々、算数的な要素というのは、
本当に、小さい子どもの頃から身近に存在するものなのだなぁと、
つくづく思わされます。
そのような遊びは、おそらく、
小学校の算数の入り口前の前庭(まえにわ)のようなものなのでしょうね。
その部分を豊かに耕しておくと、はじめは算数でつまづいても、
考える力がついてくるとその子どもなりに、ピンとくるものが出てきて、
自分の手で試行錯誤できるようになるのではないかなぁと、思います。
事故?
外に行きましたが、そんな気配はなし。
しかし、パトカー、救急車のサイレンの音がします。
やっぱり事故です。
でも、まぁ、対応が早いんだなぁ、もう、サイレンの音か…、と思って、
トイレに行くと、家の裏手に見える高速道路で、
救急車やら、なんやら、総出です。
高速道路の事故だったんですね。
まっすぐ直線での事故。
私も気をつけよう。
発達や数について、本を読んだり考える日々が近頃の日常になっています。
ふと、先日、友人がFBのコメントで、
「お風呂の中で、100まで数えてたよね~」というのを見て、
私もそうだったなぁ~と思い出しました。
まじめに、1,2,3,4,5,6,…100!と数えることが楽しかったこともありましたが、
「風呂から早く上がりたい!」と思った頃には、
「1,!0,20,30,40…100!」なんて数えていた気がします。
そうして、今考えると、この数字数えは、
一緒に入っていた大人にとっては、数の勉強でもさせよう、ということだったのでしょうが、
子どもの私にとっては、時間的な意味合いが強いものだったんだなぁ~ということです。
同じように、数を数えることが時間的な意味を持つ場面は、
かくれんぼで、鬼になった子どもが周りを見ない状態になりながら、
50までとか100まで数えるときですね。
だから、早口で「12345678910……100!」と数えたりしますね。
数字から離れますが、言葉が数を表す遊びが、
じゃんけんをして、「グリコ!」とか「パイナップル」とか言いながら、
階段を上り下りする遊びは、言葉が数の役割をしていたんですね。
階段ではない場所で、この遊びをすると、
歩幅勝負になり、この場合、言葉が長さを表すのでしょうが、
背が高い私は「グリコ」で「チョコレート」の子を抜こうとしたりしていました。
掟破りが遊びの世界では当たり前ですね。
そういえば、私の父はユニークな人で、
「『かめ』たす『うさぎ』はなんでしょう」「『いちご』たす『バナナ』は?」
なんて足し算の問題を風呂の中で私に出していました。
答えは5と6ですが、短い言葉とはいっても、2つの言葉を数字に変えて足すのは難儀で
「普通に数えるほうがいい!」「そんなの足せない!」と文句を言ったりしていたこともありました。
他にも、ジュースなんて、いつでもは家にない時代に、
いとこたちと1本のジュースを「ひとくちずつね」と順番に飲んでいましたが、
一番年上のいとこがひとくちで大量に飲み、
私たちチビには1回しかまわらず大泣きなんてこともありました。
これは、「ひとくち」を1回と思っていたのに、量だった!くそー!という
思い出でしょうか?
こうやって改めて考えると、
数や量や長さ等々、算数的な要素というのは、
本当に、小さい子どもの頃から身近に存在するものなのだなぁと、
つくづく思わされます。
そのような遊びは、おそらく、
小学校の算数の入り口前の前庭(まえにわ)のようなものなのでしょうね。
その部分を豊かに耕しておくと、はじめは算数でつまづいても、
考える力がついてくるとその子どもなりに、ピンとくるものが出てきて、
自分の手で試行錯誤できるようになるのではないかなぁと、思います。