長野にいっている間に、養生の仲間との味噌作り講座がありました。
私は参加できなかったのですが、6種類の豆で味噌を作るので、
どうしても欲しくて、材料代と手間賃のお菓子で私の分も作ってもらいました。
まだ、浅く、若い味噌たちですが、
キュウリにつけて食べると、もろみの味がしてうまい!
キュウリを夏よりも食べてしまう秋です。
ハートネットテレビと言う番組をみました。
内容は、ここに詳しく書いてあります。
http://www.nhk.or.jp/heart-net/tv/calendar/2015-09/09.htmlエンジンの鍵みつけた
私は医療機関の先生が、
「発達障害、ということにとらわれるあまり、本人の成長を促すことをしてこなかったのではないか。」と、
という問いかけに、深くうなずきました。
小中学校で支援員をしているときに、
支援クラスの子どもや支援が必要で関わっていた子どもがトラブルを起こしたときに、
先生方が良かれと思って、支援クラスの子や支援が必要な子どもに対して、
やさしく、言葉で諭す場面が何度かありました。
また、けんか両成敗で普通ならどちらもこっぴどく怒られるような場面でも、
支援が必要な子どもよりも、そうでない子どものほうが余計に怒られるような場面もありました。
やさしく、言葉で諭されるようなトラブルの中には、
人として絶対にやってはいけないようなこともあり、
保護者の方を呼んで、お話しすることもあったようですが、
残念なことに、やらかした子ども本人に事の重大さが伝わっていないこともありました。
また、どっちもどっちなはずなのに、
一方的に怒られた、支援が必要でない子どもは、
「こいつと関わると、損するし、めんどくさい。」と学習して、
適当にはぐらかして、同級生としての付合い方はしないと、腹の中で決心しちゃったんだなぁ~と
思うような付合い方を支援が必要な子どもとするようになったりするのを見かけることがありました。
発達障害があろうとなかろうと、
支援が必要であろうが、なかろうが、
怒られるときには怒られて、褒められるときには褒められる。
それは当たり前のことです。
そういうところを特別扱いしていると、
「自分だけは、怒られないはずだ」と思ったり、
「やさしく言ってくれなかったから」とパニックになったりして、
いつでもその子の意に添う形のものでなくては受け入れられなくなってしまう気がします。
しかしそれでは、その子が人として生きる場の幅がとても狭くなって、
特定のエリアでしか生きることができなくなるのではなかろうか、という息苦しさを私は感じます。
小さな子どものときは笑って許されていたのに、
中学生になったり、大人になった途端、厄介者扱いされて卑屈になっているのを見ると、
こちらも悲しい気持ちになります。
子どもは成長し、社会の中で生きていくということを
いつも頭の隅に置いて、どうするべきかを一緒に考える存在でいたいな、と思います。
私は参加できなかったのですが、6種類の豆で味噌を作るので、
どうしても欲しくて、材料代と手間賃のお菓子で私の分も作ってもらいました。
まだ、浅く、若い味噌たちですが、
キュウリにつけて食べると、もろみの味がしてうまい!
キュウリを夏よりも食べてしまう秋です。
ハートネットテレビと言う番組をみました。
内容は、ここに詳しく書いてあります。
http://www.nhk.or.jp/heart-net/tv/calendar/2015-09/09.htmlエンジンの鍵みつけた
私は医療機関の先生が、
「発達障害、ということにとらわれるあまり、本人の成長を促すことをしてこなかったのではないか。」と、
という問いかけに、深くうなずきました。
小中学校で支援員をしているときに、
支援クラスの子どもや支援が必要で関わっていた子どもがトラブルを起こしたときに、
先生方が良かれと思って、支援クラスの子や支援が必要な子どもに対して、
やさしく、言葉で諭す場面が何度かありました。
また、けんか両成敗で普通ならどちらもこっぴどく怒られるような場面でも、
支援が必要な子どもよりも、そうでない子どものほうが余計に怒られるような場面もありました。
やさしく、言葉で諭されるようなトラブルの中には、
人として絶対にやってはいけないようなこともあり、
保護者の方を呼んで、お話しすることもあったようですが、
残念なことに、やらかした子ども本人に事の重大さが伝わっていないこともありました。
また、どっちもどっちなはずなのに、
一方的に怒られた、支援が必要でない子どもは、
「こいつと関わると、損するし、めんどくさい。」と学習して、
適当にはぐらかして、同級生としての付合い方はしないと、腹の中で決心しちゃったんだなぁ~と
思うような付合い方を支援が必要な子どもとするようになったりするのを見かけることがありました。
発達障害があろうとなかろうと、
支援が必要であろうが、なかろうが、
怒られるときには怒られて、褒められるときには褒められる。
それは当たり前のことです。
そういうところを特別扱いしていると、
「自分だけは、怒られないはずだ」と思ったり、
「やさしく言ってくれなかったから」とパニックになったりして、
いつでもその子の意に添う形のものでなくては受け入れられなくなってしまう気がします。
しかしそれでは、その子が人として生きる場の幅がとても狭くなって、
特定のエリアでしか生きることができなくなるのではなかろうか、という息苦しさを私は感じます。
小さな子どものときは笑って許されていたのに、
中学生になったり、大人になった途端、厄介者扱いされて卑屈になっているのを見ると、
こちらも悲しい気持ちになります。
子どもは成長し、社会の中で生きていくということを
いつも頭の隅に置いて、どうするべきかを一緒に考える存在でいたいな、と思います。