一昨日の朝、ウォーキングに出かける前に、スダチの木にいるはずのスリム君が<前日の夕
方までは、元気な存在を確認していたのですが>行方不明になってしまいました。
別の場所でサナギ→羽化→アゲハチョウになってくれるといいのですが・・・とても残念です。
自然な状態でアゲハチョウになるプロセスを観察できたらと思っていたのですが・・・。
このごろの朝の日課は、ウォーキングに出かける前にスダチの木のスリム君の成長振りと無
事を確認することでした。日中はもちろん、夕方もスリム君の無事を確認しては、その日が無
事終わったと安心して過ごす日が続いていたのですが・・・。
人間の思い通りにならないのが、自然の摂理なのかもしれませんね。アゲハの幼虫も、大自
然の命の連鎖である生態の中で生きているのですから。自然に対する敬虔さを忘れつつあっ
たのかもしれません。自然の流れの中で、動植物をゆったりと見守っていきたいと思います。
◎谷川俊太郎の若い十代の頃の詩集(二十億光年の孤独、集英社文庫)から
日々
ある日僕は思った
僕に持ち上げられないものなんてあるだろうか
次の日僕は思った
僕に持ち上げられるものなんてあるだろうか
暮れやすい日々を僕は
傾斜して歩んでいる
これらの親しい日々が
次々後へ駆け去るのを
いぶかしいようなおそれの気持でみつめながら
無限の可能性に満ちた若い頃の感覚を思い出させる詩です。
持ち上げられるものと持ち上げられないものの見分けができるようになったことが、年をとった
という証拠なのでしょうか。ただ、持ち上げられないものを持ち上げたいと願う思いは、健在で
す。可能性を否定するより肯定する、前向きに傾斜した歩みも維持したいものだと思います。
でも、今は後へ駆け去るものはゆっくりと去っていくものの、その一つ一つへの思いには若い
頃以上に多様な思いが込められているような感じがします。これから先を生きるという構えとこ
れから後を生きるという構えの違いと言えるのでしょうか。たくさんの過去から学んだことやあ
ふれる思い出が、駆け去るものを呼び止めているのかもしれません。
いぶかしいような恐れの気持も、これからの時間に対して柔らかく純粋な感性で向き合うから
こそ感じる若い気持なのかもしれません。
駆け去るものをただ眺めるだけではなく、自分の年齢にふさわしい少しはよい形のものに整え
ながら見送っていきたいものです。
それは残念でしたね[E:weep]
でも不思議ですよね!
サナギになりそうになると移動するなんて。
身動き出来なくなるから防衛本能で移動するのでしょうか!?
それとも?
あんまり観られて恥ずかしくなったのですかねぇ?
※今朝、私の母が島倉千代子さんの『カラタチ、カラタチ、からたぁーちのはなぁ』と歌いながら廊下掃除をしていたものですから…[E:sweat02]
スダチと入れるツモりが[E:weep]カラタチになってしまいました[E:weep][E:weep]
失礼しましたm(__)m