あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

虹を見ました

2012-11-16 19:09:37 | インポート

先日、久しぶりに虹を見ました。完全な半円形の虹でした。架けてある距離が短いせいなのか、間近でながめたせいなのかは分かりませんが、これまで見たことのある虹より縦に高く横に短い印象がありました。立ちあがりの部分は下の方が透き通り、上にあがるにつれ七色の帯が鮮明に見えます。多分 川の上に立ちあがりがあり、川と川をまたぐように虹が架けられているのかなと思いました。刈り終わった田の畔道に立ち、しばらくの間無心に見とれていました。

虹の真ん中の一番高いところから、周りを見降ろしたらどんな景色が目に飛びこんでくるのでしょうか。そこからすべって降りるとしたら、かなりの急角度ですから 猛スピードで落下しそうです。それよりも、どうやって真ん中まで登っていくかが問題です。立ち上がりの部分に階段と手すりがついているなら、それを使って上の方まで行けそうです。どちらからも登っていけるように、両側の立ち上がりにガラスのように透き通った階段と手すりが用意されているのかもしれません。でも、その階段を使って上り下りするだけでは、おもしろみがありません。やはり、虹ならすべっておりたいものです。階段のわきに、すべっておりたい人用に、すべり台も用意されているはずです。特に子どもたちなら、喜んでそのすべり台に乗ることでしょう。ただスピードが出過ぎると危険なので、下に行くにつれスピードがゆるみ、立ち上がり部分では完全にストップし、そこから先は階段を使っておりるようになっていると安心です。

ただながめるだけではなく、その上に登ったり、すべったりしながら、虹とふれあうことができたらどんなにいいでしょう。

ながめているだけでも、そんな夢を虹は与えてくれるような気がします。


新聞のルポルタージュを読んで

2012-11-14 14:25:29 | インポート

先日の新聞に、ルポルタージュ現在の特集記事として、コールセンターで働く人々の現状を紹介する記事がありました。コールセンターは、企業の取り扱う商品に対する 顧客のさまざまな意見や要望、苦情等の窓口となる部署です。相手の見えない 電話での応対となるので、担当者には、精神的な負担の大きい仕事なのだと思います。しかも、相手が納得するまで電話を切らないということがルールとなっているとのこと。苦情に対する対応では、感情的になっている顧客が、気持ちを落ち着かせて納得できるようにしなければなりません。かなりの忍耐力が必要とされ、ストレスも積み重ねってくるのではないかと思います。給与面では他の職種に比べ優遇されているようですが、途中でやめてしまう人も多く、全体の9割は非正規の社員が占めているとのことです。

ルポではヤマダ電気のコールセンターで働く人々が紹介されていましたが、「ぶっ殺す」といった過激な第一声に対する対応など、現場の大変な様子がひしひしと伝わってきました。コールセンターで働く人々がやめてしまう理由が、納得できました。

それにしても、企業にとってコールセンターとはどんな役割を持っているのでしょうか。考えようによっては、そこは企業としての良心が発揮できる場であり、顧客のさまざまな要望や苦情を受け止め、さらにより良い商品の提供やサービスの充実に努めることで、確かな信頼を得る 貴重な窓口にもなるのではないかなと思います。そうであるならば、なおさらそこで働く人々を正社員として積極的に登用し、給与面での優遇はもちろんのこと、精神的な面においてもしっかりとサポートできる体制づくりが求められているのではないかと思いました。商品を売って終わりではなく、その先も顧客との信頼関係を築く上で、コールセンターは最前線基地としての役割を果たしているのではないかと思います。

現場で働く市川さんは、ありがとう言われる仕事ではないけれど人と話すのが好きなので、やめないで続けているとのことでした。また、電話応対の中で、電話口で泣き続ける80代の女性の話を40分間も聞き続けたり、かけた一言が相手の心を和らげ、「無理いってごめんなさいね。」とねぎらわれたりすることも あったとのことです。「どんな相手でも受け止めるのが私たちの仕事です」という信念をもって働いているとのことでした。

私が現在関わっている 電話でのボランティア活動に重なるものが、その信念の内に込められているように感じました。

かけてくる人々の 切実な気持ちを汲み取り、相手の話を肯定的に受け止めるということ。見えない相手だからこそ、その第一声に真摯に耳を傾けるということ。相手が納得して自分から電話を切るまで誠実な対応を心がけること。

話を聞いてもらった80代の女性は、誰かに自分の悩みを聞いてもらいたかったのだと思います。話すことで、そして受け止めてもらえたことで、どんなに心が楽になったことでしょう。顔が見えないからこそ、自分では背負いきれないものを 素直に言葉にすることができたのかもしれません。電話相談の意義は、そんなところにもあるのかもしれません。

電話の向こうにいる人と 心を開いて向き合っていけるよう 改めて 努力が必要だと痛感しました。


かけ算と割算

2012-11-13 19:07:41 | インポート

先日のブログでかけ算についてふれましたが、後で気づいたことがありましたので、補足したいと思います。合わせて、割算の指導についての 私見をまとめてみたいと思います。

○3×9 と 9×3 の違いと共通点

 九九を指導する場面では、1あたり量を表すタイルを使って、かけ算の形態をイメージ化していきたいと思います。3×9であれば、3のタイルが9本横に並ぶイメージとなります。したがって、3×9と9×3では違ったタイルの配列となります。9×3では、1あたり量の9のタイルが、横に3列並んだイメージとなります。計算上は、答えは同じとなりますが、かけ算のイメージが異なることに子どもは気づいてくれるはずです。その際には、具体量の問題を提示し、一緒に考える場面を設定しておきたいものです。例えば、「3円の鉛筆を9本買ったら、全部でいくらになりますか。」という問題と「9円の鉛筆を3本買ったら、全部でいくらになりますか」という問題を提示し、その上で立式させながら、二つのかけ算の違いと共通点(合計の金額は、どちらも27円)について考えさせることで、理解を深めることができるのではないかと思います。

○割算の指導について

割算は、(1あたり量)×(いくつ分)となる かけ算の考えをベースにすると、求める答えによって ①(1あたり量)を求めるもの(等分除) ②(いくつ分)を求めるもの(包含除) と、大きく2つに区分することができます。例えば 30÷5 という式が成り立つ問題であれば、①30個のミカンを5人で同じように分けたいと思います。1人あたり何個のミカンになるでしょうか。 ②30個のミカンを1人に5個ずつ分けてあげると、何人の人に分けてあげられるでしょうか。 という二つの問題が考えられます。

私が現役だった頃の教科書では、割算の導入では、いくつ分を求める②の問題が取り上げられていたように記憶しています。現在は、どういう取扱いになっているかは確認していませんが、1あたり量が分かっていることで、5×1 5×2 … という 5の段の九九を使って答えが求めることができるという利点があるからなのではないかと考えました。割算の意味を理解するということより、答えの求め方にウェートを置いた取り扱いになっていたように記憶しています。

しかし、割算という計算に初めて出会う子どもにとって、割算の意味を理解するには どちらの方が適切かと考えならば、私でしたら①の(1あたり量)を求める問題の方を取り上げます。同じように等しく分けるということ(等分すること)が 割算の基本となるイメージと考えるからです。

①の問題を具体的に指導する場合には、初めにどうやって分けたらいいのか考えさせます。等分するというイメージを強調するために、適当に分けて見せながら、これでいいのかと問いかけてみるのも一つの方法です。次に、実際にミカンを使って、答えを求めてもらいます。30個のミカンと5枚の皿を、グループ分用意しておきます。グループ毎に分け方を発表してもらった後に、教師が分け方を実演します。

初めに1個ずつミカンを配ります。そして黒板に(1×5=5)と板書します。次に、jまだまだミカンがあるから、もっと分けてあげることができるね と話しながら、1個ずつ 配るミカン数を増やしていき、 2×5=10 3×5=15 4×5=20 5×5=25 6×5=30 と板書していきます。

さあ、これで5人に 同じ数だけ分けることができましたが、求める答えは何個でしょう。こう問いかけて、一人あたり6個で あることを確認します。その上で、この問題の式は、30個のミカンを5人に同じ数ずつ分けてあげたので、30÷5 と書き表すことができるということ、答えが6個なので 30÷5=6 答え(6個) と書くことを指導します。

次に、答えの求め方について考えさせます。板書した九九を手がかりに、5という分ける人の数が共通していることに着目して、5の段の九九を使って求めることができることに気付かせます。ただ、かけ算のイメージがしっかりできている子にとっては、(いくつ分)×(1あたり量)という考えになるので、混乱が生じるかもしれません。そのため、1個ずつ5人に分けていけば、5個ずつ増えていくということに気付かせながら、ていねいに取り扱う必要があるのかなと思います。

◆問題を液量にすることで、理解がしやすく、タイルへの発展も容易になるかもしれません。問題例:30デシリットルのミルクを5人で同じように分けたいと思います。1人分は何デシリットルになるでしょうか。 ただ、液量は 子どもにとって 正確に分けるという 操作段階での活動に難しい面があります。教師が最終的に確かめの分け方をやってみせることで、等分するという割算のイメージを印象付けたいと思います。

○等分除の有効性

余りのある割算や筆算を取り扱う時に、等分除の有効性を実感できます。

問題例:32個のミカンを5人で同じように分けたいと思います。一人あたり何個のミカンになるでしょうか。 これを先の方法と同じように、5つの皿を用意して分けていきます。答えは、1人分は6個になり、余りが2個となります。答えも余りも同じミカンの個数になります。

しかし、包含除の問題<32個のミカンを1人に5個ずつ分けてあげると、何人の人に分けてあげられるでしょうか。>となると、答えは6人となり余りが2個となるので、答えと余りが異なる単位となってしまいます。

等分除では、全体の数<32個>も、商も、余りも すべて同質のミカンの個数として取り扱うことができるので、タイルに置き換えて考えることができ、筆算の指導も混乱なく指導できるのではないかと思います。筆算の形態では、全体の数<割られる数>の上に商が立つことになります。同質の数<量>であることで、子どもたちも違和感なく筆算のイメージをつかむできるのではないかと思います。したがって包含除については、基本となる割算の指導(等分除による割算の意味の理解、立式と答えの求め方、分離量だけではなく連続量<長さ、液量、重さなど>も含めた等分除問題、筆算指導等)が終わってから、取り扱うようにしたらいいのではないかと考えます。


衝動買い

2012-11-12 08:37:48 | インポート

ある店に行った時のことです。園芸用具を売っているレジの前に、かわいい雪だるま人形がズラリと並んでいました。ソーラーで動くスノーボーイです。頭と体がバランスよく左右にゆれて、その動きがとってもかわいいのです。その様子にしばらく子どものように見とれていました。

一つが100円ちょっとで買えるものだったので、妻と相談して2つ買うことにしました。赤いマフラーを巻いたものと緑のマフラーを巻いたものにしました。赤い方は自宅用、緑は妻の担任する教室用です。

今、赤いスノーボーイは、私の机の上でせわしく体をゆすっています。電気の灯りでも十分に動きます。黄色いバケツを頭にのせ、両腕を下向きに広げて、何ともかわいい様子です。雪坊「ゆきぼう」と名付けることにしました。

妻が連れて行ったもう一体の緑のスノーボーイは、どうなっていることでしょう。たぶん、教室では「転校性を1名紹介します。一足早く雪の国からやってきました……」という感じで、紹介されているのではないでしょうか。

今日は、朝から雨模様で、どんよりとした暗い日です。太陽の光は期待できそうもないので、教室のスノーボーイは、動けないままでいるのでしょうか。それとも、電気の光を受けて少しは動いているのでしょうか。動き出した様子を見たら、子どもたちはどんな反応を示すのでしょうか。「かわいい!」と言った声が、教室中にあふれるような気がします。授業中も子どもたちの目は、スノーボーイに集中しそうですから、どうなることやら………。そのにぎやかな様子が、目に見えるような気がするのですが……。

机の上の雪坊は、見ているだけで心が和みます。ファンタジックで 夢のあるものを目にすると、ついつい衝動買いをしてしまう 自分に 思わず笑ってしまうのですが……。


映画「北のカナリアたち」を見て

2012-11-11 17:38:18 | インポート

楽しみにしていた映画でしたが、期待通りの感動を味わうことができました。原作とは設定が異なり、オリジナルな映画に仕上がっている印象がありました。

登場する子役たちの演技と歌が、とても心に残りました。特に「あの青い空のように」の歌は、私自身大好きで、子どもたちともよく歌っていたので、とてもなつかしく心に響いてきました。エンディングの場面でも、島のお花畑の中を 6人の子どもと先生が 「あの青い空のように」を歌いながら歩いている様子が映し出されていました。20年前の先生と子どもたちの心の絆が、20年経っても変わらずにあることを 伝えようとしているかのように…… 。

20年前のある出来事によって、吉永小百合さんの演じる先生は 6人の子どもたちと別れ、島の分校を去ることになります。そこでいったい何があり、子どもたちの心にどんな影を与えたのか、20年後に先生は自らの宿題を果たすかのように、一人一人の教え子を訪ねます。子どもたちは、20年前の自分と向き合い、先生と語り合う中で、背負っている心の傷を言葉にします。同時に先生自身も、教師として 妻として 一人の女性として 背負ってきたもの(宿題)に 向かい合うことになります。そうして振り返ることを通して、子どもたちも先生も少しずつ心が癒されていきます。

殺人犯として追われることになった教え子の一人に 先生は宿題を与えていました。その宿題を果たすために、その子も含めた6人の子どもたちが分校の校舎に集まり、先生の指揮で 「歌をわすれたカナリア」を歌う 山場の場面があります。涙なしではいられない場面でした。

森山未来さんの演じるその殺人犯の教え子に与えられた宿題は、その歌をカナリアの気持ちになってどう歌うかといった課題でした。先生は、彼が歌うことで、決して歌をわすれないという気持ちを表現させたかったのかもしれません。

罪を犯した彼が、自分は生きていていいのかと 先生に語る場面がありました。生きていいのよと抱きながら語る先生の言葉が、心に残ります。先生自身にも、罪を背負って生き続けてきた側面があったのですから、彼の心の痛みは誰よりも深く理解できるものだったのでしょう。

人間の心の中にある正と負の部分。原作の中に込められていた人間であるが故に生きていて背負うものの重さを感じさせる 映画でもありました。

しかし、そのドロドロとした重さが まるで 透き通って 消えていくような 映画でもありました。

6人の子どもと先生との 時を超えた 新たな絆が、心を打つせいでしょうか。

エンディングの「あの青い空のように」の歌詞にある 「…… すみきった 心になるように 」、生きて背負う苦しみや悲しみは、やがては 青く澄んだ空の内に 溶け込んでいくものなのかもしれません。

人と人との心の結びつきや絆について、生きるということの意味や大切さについて、感動と共に深く考えさせられた映画でした。 機会がありましたら、是非 ご覧ください。