あぽいち

温泉とヨガ、たまに心臓外科医

マインドフルネスイーティング

2017-01-23 07:28:43 | Weblog
先日、マインドフルネスイーティングの時間がありました。
月に1回やっているのであるが、4か月通っていて、なんだかんだ都合がつかず、今回初めて参加となる。
仏教高校に通っていたので、当時は毎日唱えさせられていた五観の偈の現代版を唱えながら、おにぎり1つを30分かけて頂くというもの。

1 お米が出来るまで、おにぎりになるまで、手元に運ばれてくるまで、どれだけのエネルギーが使われているのか。

2 自分はこのおにぎりを食べるだけの価値がある人間なのか、生き物の命を頂くこと。

3 好き嫌いなく、欲に任せてむさぼることなく。

4 食べ物は体を作るため、整えるための薬である。

5 仏の道を目指す。

こんな感じかと。

こんなことを考えて食べ始める。
食べる時も、まず、生まれて初めて出会った物としてみて、食べれるのかどうか、五感を使って、見て、触って、嗅いで、聞いて、それから恐る恐る口に少し含んでみて、味を見て、噛んで、飲み込んで、大丈夫かどうか余韻を感じて、次を食すというもの。
私は45分かけておにぎりに半分も食べれませんでした。

お寺で修行中のお坊様方は毎食やっているようだが、一般人には無理。
家でひとりで時間があれば出来るけど。
自分の場合、朝は時間ないし、昼は外食、夜は家族と食べるので、なかなかね。
ただ、この一口だけは大事に頂こうとか、子供と食べてるときも、食べ物の原材料クイズをして、何から出来てるか、どうやって生えているのか、どうやって運ばれてくるのか、調味料は何か?などなど、取り込んでおります。

ゆるむ感覚

2017-01-23 07:19:14 | Weblog
昨日の午前中に瞑想してた時のこと、これまでも時々感じてはいたが、昨日は著名に肩周りの筋肉がゆるむ感覚があった。
瞑想中、右肩周りの痛みが気になっていたのもあるが、ふと息を吐いたら、肩周りがスッとゆるむのを感じて、楽になったのを実感。
ただ、またすぐに力が入るのか、その後も何度も緩んで、肩に加えて二の腕の筋肉が緩むこともあり、どんだけ力入って瞑想してるんだと。
ただ、そればかりに集中してしまい、かなり楽になったなーと、肩の痛みが気にならなくなった頃には姿勢が崩れてた。
瞑想中でこんだけ力入ってるってことは、日常生活ではずーと肩に力入れているのかも。

手品

2017-01-21 12:32:58 | Weblog
昨日は子供の授業参観でしたので、通勤もマインドフルネスもサボり、午前中のんびりと瞑想などしながら、午後から授業参観へ
クイズ、手品、けん玉、こま、あやとり、お手玉、縄跳び、ピアノなどなど子供達が披露してました。
うちの子は手品でビー玉を消すというのをやり、やや練習不足でしたが、頑張りました。

死生観

2017-01-16 09:15:26 | Weblog
死生観について、これまでたくさんの他人の死を見てきた外科医として、とにかく生きてさえいれば、なんとかなる。
そんなの死ぬわけじゃないし大丈夫、という思いから、かなり無理してきたかも。自分をいじめてきたかも。

今後の人生でやっていきたいこと

2017-01-14 23:28:55 | 人生のリトリート
うーん、いつか将来的には、今の経験を生かして、病院でスタッフや患者さん相手にマインドフルネスをやっていくと良いだろうなぁと思っていたら、朝日新聞にこんなんありました。


医師・看護師が「修業」する寺とは

生死見つめ「瞑想」
2017年1月14日提供 朝日新聞

岐阜県高山市にある寺院を、全国各地の医師や看護師が訪れている。目的は瞑想(めいそうだ。なぜ飛騨の寺まで来るのか。そこには医療の現場に立っ人ならではの理由があった。この寺は標高約900メートルの山中にある飛騨千光(せんこう)寺。住職で真言宗僧侶の下大目(だいえん)さん(62) は2014年から東京と名古屋、神戸で「臨床瞑想法」基講座を開く。 1年間に約1 00人か受講し、うち3分の1がもっと深く瞑堰を学びたいと希する。ほとんとか医療関係者だという。そうした熱心な人向けの「指導者講座」が飛騨千光寺で開かれ、 これまでの3年間に60人い医師、看護師たちが「修行」にやってきた。医療関係者か目指すのは、瞑想を通じて生とにっいて自分なりの考えを持っことだ。約20人か集まった昨年11月中旬の指導者講座。熊本市医師会が開設する「熊本地域医療ンター」から消化器内科医長の中原和之さん(46)が参加していた。専門は膵臓(すいぞう)l。難治l性の膵臓かんの発症か分かると「助からない」と絶望する人多いという。医師として治療に力を尽くしながらも’’、悩む患者を前に心が乱れることもあっ。患者はもちろん、自身の心のケァが大切だと考えて心理療法なとも学んだ後、瞑想にたと言いたという。15年9月から寺を4回来訪。大下さんが考えた4段階瞑想で最終段階の、 「ゆだねる瞑想まで学んだ。命をゆだねる対象となる「何か大きなもの」は、神や仏、宇宙、大自然、祖先なと、人それれでよいという。中原さんは「死は人生の集大成で、自然なことと受け止めるようになりまた」と話す。「医者の自分の気持ちの安定は患者さんに伝わる。穏やかに最期を迎える方か増えたようにいます」東京都内の大学病院看護師長、越山智子さん(51)も飛騨千光寺で瞑想を学んだ。その体を生かし、亡くなった患者への対応を看護師たちが振り返る「デスカンファレンス」と呼ばる会議の前に、出席者による瞑芯を採り入れる。患者の死後は、往々にして反省や後''侮なと様々な感情が看護師を襲うといい、そうした感情ケァも兼ねての瞑態だ。患者の表情や言葉、自分たちの看護にっいて6~7分間、全員が静に思い返す。越山さんは「一人ひとりの死を丁寧に見送ることで、多くのスタッフは死を尊思うようになります。それは次の丁寧な看護にっながっていくはずです」と話す。求められる死生観米グーグルなとが社員研修で採用した「マインドフルネス」でも実践される瞑想。指導する下さんが最も意識するのは、仏教と社会とのっながりだ。高野山やスリランカで密教や仏教瞑想を学び、約30年前から故郷の飛騨で末期患者や様々病の人の心のケァを続けてきた。不治、難治の患者と向き合う医療関係者に「診断と治療たでなくもっと人間の心をみるべきだ」と力説。昨年は1年間で約BO=、全国で講演や講義した。その約7割は医療や介護関係者向けだったという。高齢化が加速して「多死社会」が迫るニ本。聖路加国際病院(東京都中央区)で精神腫瘍(ゅよう)科部長を務める精神科医、保坂隆さん(64)は「日々、多くの死と向き合う医師看護師が自分の死生観を持っように求められている」とみる。保坂さんも密教や空海を研究同病院では昨年暮れ、 「臨床瞑態法」基礎講座が開かれ、大下さんが講師を務めた。「瞑想は宗教者た゛けのものではない」と大下さんは語り、心を落ち言かせて生と死を見っめ動きの担い手として医療関係者に期待をかける。大下さんと日本看護協会が連携した瞑想の修会が今年、青森県なと゛全国数カ所で実施される。
(永持裕紀)大下大圓さんが考えた瞑芯の4段階(大下さんの著作から)
(1) 「ゆるめる」 (主に呼吸法を通じて心身共にリラックスする)
(2) 「みっめる」 (過去の嫌なできごと、コンプレックス、対人関係の課題なとをありのまに観察、洞察)
(3) 「たかめる」 (自分が生き生きする薯らし方生き方をイメージ)
(4) 「ゆだねる」 (自分の命が「何か大きなもの」とつながっている感覚を持つ)

1日の終わりに

2017-01-14 20:03:52 | Weblog
今日も無事に過ごすことが出来ました。ありがとうございます。
明日も良い1日でありますように。

なんて言う言葉は昔の食うに困る時代や、戦時中の日々生きるか死ぬかの時代、もしくは戦争中の国や途上国のはなしであり、食べ物も溢れかえって、戦争もない今の日本では多くの方が思いも浮かばないし、幸せに暮らしているうちは考えないと思います。私自身もつい先日までは心からそのようには思えませんでした。
でも、この辛かった日々から、少し幸せを感じれるようになり、日々の生活に一日一日感謝を感じるようになってきました。
不思議!
何で幸せを感じるのか、たぶん心の平安、心が乱れないことが幸せ感なのかなーと。

慈悲の瞑想

2017-01-14 19:40:38 | Weblog
一法庵の山下良道先生の慈悲の瞑想をやってから、随分と変わった。
他人との関係は基本的に好きな人、嫌いな人、無関係な人の3つしかないが、嫌いな人との関係は勿論のこと苦しい、好きな人の関係も実は嫉妬などで苦しむ、そして無関係、これも無関心にされるのは苦しいのである。
自分と3つの他人との関係はどれも苦しいものの。
だから苦しくない新しい関係を築く方法、それが慈悲の瞑想だと言うことがわかりました。
考えている頭の立場からは慈悲は生まれないので、一歩離れて客観的なところからでないと慈悲の瞑想は出来ないとのこと。
そしてまず自分を許して認めないと、他人に慈悲は与えられない。
私も自分を認めることが出来ずにいたけど、これまで行き場の無い怒りを自分にぶつけて、自分を傷つけていたことに気が付いたら、自分を認めることが出来るようになってきました。
そしたら、好きな人の幸せは勿論のこと辛い面もあることを認めるようになる。
次に無関係な人の幸せも、苦しみからの解放も
さらに苦手な人も、自分に辛く当たってくるのも、きっと苦しんでるんだろうと、私に当たることで自分を傷つけ更に苦しんでると、可哀想だと思えるようになってきた。
3つの他人に慈悲を送れると言うことは、つまりはすべての人、生きとし生けるものに慈悲を送れると言うことになる。
慈悲の瞑想恐るべし。

かあさん煮定食

2017-01-14 19:32:19 | Weblog
今日は土曜日ですのでマインドフルネスのあと、理事長先生と大戸屋にてランチでした。前から気になっていた、かあさん煮定食を注文、想像以上に美味しかった。
シェアリングからの続きで慈悲の瞑想について理事長先生といろいろと話したけど、先生も先日、苦手な方に会う前に慈悲の瞑想をやって、その効果のほどを実感されているとのこと。
私も最近ようやく慈悲の瞑想の効果を感じてきている。
これまでは慈悲の瞑想の意味があまり理解できずに、ただただ刷り込む、染み込ませるといった具合で瞑想の終わりに数分間やっていただけですが、その意味を理解して数十分じっくりとやると、すごく満たされた感じになることがわかった。

酒は

2017-01-14 08:36:26 | Weblog
今朝、瞑想をしているときに、いつもの体のじゅわじゅわという感覚が少ないなーと感じました。
やはり昨日、けっこう飲んだからかなーと。
お酒はほんとに飲んでいるときは気分が上がりますけども、やはり体の感覚が鈍りますね。
これまでも漠然とは感じてましたけど気にすることなく、翌日も仕事をしたり、飲んだから仕方ないかぐらいに思っていました。
ただ、瞑想となると体の感覚がすっと感じられず、あー、麻痺しているなとあからさまに感じますね。
瞑想を続けている先輩方がお酒をやめていく気持ちが今朝は実感しました。

ともまる

2017-01-13 10:48:17 | Weblog
昨日も朝、職場にいってコーヒーを飲みながら、上司に連絡したら、修理していた船がなおったので、今日これから休みを取って、木更津まで引き取りに行くので、帰りの運転をしてくれとのこと。
何のこっちゃと思えば、木更津まで車でいって、上司は船乗って自分の川口のマリーナまで操船してくので、車をマリーナまで乗って帰ってくれと言うこと。
私も学生時代はヨット部でならしたもの。懐かしくなりお付き合い。
かなり大きな船で32フィートぐらいだったか、定員は10だったかな、昨日のことなのに、あんま憶えてない。
船の名前は、ともまる、何かと思えば彼女の名前らしい。
前の船も前妻の名前だった。
単純、そのまんまやないの。
風が強くて、少し荒れていたようですが、波はさほどでもなく無事に帰還されて、めでたしめでたしです。
今度は乗せて運転させてもらおう。
しかし、財布のなか見たけど船舶免許無かった、どこ行ったかな、期限は切れてないと思われるけど。

瞑想のガイド

2017-01-13 07:39:32 | Weblog
満員電車のなかや、カフェなどでもそうですが、どうしても瞑想に集中しにくい事があり、音声ガイドを使ってみてます。
ただアプリでは、慈悲の瞑想やビッパッサナーなどの本格的なガイドが無くて
最近のお気に入りは一法庵の山下良道さんのガイド、ホームページから聞くことが出来ます。
難点は声が小さく、雑音が五月蠅いところでは聞き取りにくいこと。
アプリってどうやったら作ってくれるのだろう、自分では無理だから、今度SEの友達に聞くか。

めがね

2017-01-11 15:25:17 | Weblog
最近、視力の低下を感じて、老眼?
普段は裸眼ですけど、映画の字幕とか、学会のスライドとか見にくいので眼鏡は持っています。もう10年くらい前に作った。3つあったけど、2つ無くして、一つしか無い。
遠くがどんどん見えなくなっていたので、新たに眼鏡もう一つ作ろうかと想い、マインドフルネスのあとに、zoffへ行って視力検査したら、視力0.4-0.5とのことで、去年0.8ぐらいあった気がしたけど、やっぱり都会に出て来たから?
でも心配してた老眼は進んでませんよとのことで一安心。
結局、10年前と同じレンズで1.0以上みえるので、同じレンズで作ることに。
BB先生が真似た大北先生みたいな、いわゆる昔の大きなべっ甲フレーム7000円なり。
一つは車に置いておこうかと、先日、夜の雨の時とか、何も見えなかったから。

注意の分散

2017-01-11 09:17:38 | Weblog
瞑想中、思考に気が付いて、それを流していくのは、だいぶなれてきたけど、それを日常生活で活動しているときに、いかに行うかがなかなか出来なかった。
生活の中でかなり意識するようにして、最近では何かに夢中になっていなければ、ふと思考しているかどうかのチェックを一日何十回もやれるようにはなってきた。
これはつまりは自分を客観的に見るということなのであるが、会話中はなかなか出来ない。
会話している自分を眺めると言うのは、難しい。
それをベテランのオリョボニートスさんに相談したところ、ヒントを頂いた。
客観的に見るためには、いつも瞑想でやっていること、アンカーを作ることとのことである。
ズバリ呼吸か身体感覚

会話しながらはもちろんであるが、最終的には24時間、呼吸か身体感覚に意識を置きながら生活するということ。
そうすると、のめり込まずに一歩引いたところから、自分を見ていられるとのこと。
注意の分散ということである。
確かに瞑想の中では訓練してきてけど、会話中なんかは上の空にならないのかと質問すると、それも訓練ですとのこと。
やはり、日々の瞑想で訓練して、日常生活で意識して行くしかないと。
オリョボニートスさん、瞑想始めてもうすぐ3年になるというから、それなりに時間はかかるのだろうが、前には進んでいるみたい。

泥水で濁ったコップの底にある物

2017-01-11 08:50:59 | Weblog
この話は何度か似たような話を聞いたことがあった。
苦悩の原因、つまり潜在意識に溜まっている汚濁の例え話だと思っている。

コップの底に何があるかは、心が静まって、泥が沈んで水が澄んでこないと見えてこない。
それでも溜まった泥で全貌は見えない。

最近、底に溜まっている泥が見えてきた。

無理に泥を取りに行こうと、手を突っ込むとまた水が濁ってしまう。
だから唯々、眺めて、待つのみ。

物理法則には反するのであるが、一つ一つ泥が浮いてきては消えて、浮いてきては消えて、底がきれいになっていくのを、じっと待つのみ。

私自身はまだ底を見ていないけど、底には何も存在しないと言うのが答えらしい。
でた、まさに禅問答と同じ
自分で体感しないと、その意味はわからないのだろう。