香りと食でカラダを幸せにする芳香/料理愛好家

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加藤サキ子

あの日を忘れない(長崎原爆の投下の日)後半

2023-08-09 20:30:00 | 持続可能な社会のために
2023.08.09


アロマセラピストの加藤です
お立ち寄りいただきありがとうございます

後半です

あの日から行方不明の母の弟。
新築していた諏訪神社近くの家とは別に本来の家は坂本町にあった。
そこは爆心地から600mほど。
ほぼ周辺にいた人は灰となっていただろう。
投下の前日、母の父(祖父)に叱られ殴られたせいで母の弟は肩を痛めていた。
(当日は)母いわくおそらくもとの家の方に行っていたのだと思う。」と言っていた。

母の弟を可愛がっていた(母の)母もその日から一言も弟の話をしたことはなかった、という。
街の惨状を見れば、息子がどうなったかは想像がつく。

空襲警報がならなかったのはおそらく1機だけだったからだろう。

6日に広島に投下された原爆のことは、ひどい爆弾が落ちたらしい、と今と違い被害の状況はあまり知らされていなかったようだ。
その頃は戦争の状況は不利だったので、報道制限もあったのだろう。

長崎原爆投下数日前にビラが上空から落ちてきたそうだ。
そこには「死の。。危険」と言った原爆投下を暗示するようなものだったようだ。
母も人伝えで投下後知ったのだった。

当時の候補地は博多や佐世保など。

原爆投下後は、植物は数十年生えない、と言われたそうだが枯れたようになっていた稲も秋には米が取れたそうだ。

もちろん、過去に原爆投下されたことはなく、その影響は未知数。
わたしも、以前インターネットで検索したが「データなし」だった。

わたしのカラダのDNAにも母から受け継いだ損傷したDNAが存在しているだろう。

と言っても、いとこたちは結婚、出産を経て孫たちもいる。
彼らの中に被爆の影響を疑われる者は1人もいない。

確かに日本は紛れもなく被害者である。
母は亡くなる頃まで繰り返し
「トルーマンが(原爆)を落とした」と言っていました。
トルーマンとは当時のアメリカ大統領である。

当時日本も原子爆弾の研究をしていたと聞きます。
それは日本に限らず、あらゆる国が研究したのです。
当時原料のウランの採掘を福島でしていた、という話も聞きます。

科学者やそれを手にした者は原爆に限らずいかなるものも試してみたいという誘惑にかられると思います。
それが悪い結果をもたらすものである、としても。

水爆や中性子爆弾など、2つの原爆投下後世界で開発、研究されました。


第二次大戦後、アメリカでは原爆実験の見学ツアーをしていたと言います。
それらの影響を知らないアメリカ人はそれに参加した人もいた、といいます。
(今その人たちはどうしているのだろう)

ウエスタン映画はアメリカではネバダ周辺で撮影されたと言います。
それに参加していたスタッフや俳優たちに影響が少なからずあったとする情報もあります。
ネバダは核実験場がありました。

東日本大地震で福島の原子力発電所で
放射能漏れがあったとき、各地で放射能の測定がされた。
それは大戦後、太平洋上でアメリカが核実験をしていたので、それらの汚染を測定していたので、測定器が存在していた。
わたしが子供の頃(現在わたしは65歳)、雨が降ると
「雨に濡れたらハゲになっちゃうんだよ」と言っていました。
それは案に核実験による放射能汚染を意味していたのだと、今更ながら再認識してしまいます。



今も核使用をちらつかせる者がいます。
それを所有していても使わなければ、安全というわけではありません。
それが存在する限り、将来それを使う者がいるかもしれません。
自然災害の時、何らかの作用で起動するかもしれない、汚染されるかもしれません。
投下されたところだけでなく、大気を通して世界中に広がります。

他人事でなく、声を上げ続けることが抑止となります。




あらゆる戦争で命を絶たれた人々の冥福を祈ります。
そして愛する人を失った人々がに安らぎがいつの日か訪れることを強く祈ります。



***
母のアルバムの中に
おそらく写真館で撮ったであろう女学生たちの笑顔の写真が数枚あります。
饒舌な母から彼女たちのその後を聞いたことはありません。
あの日の笑顔のまま、母の記憶は止まったままでした。


最後まで読んでいただき
ありがとうございました

あの日を忘れない(長崎原爆の投下の日)前半

2023-08-09 15:15:00 | 持続可能な社会のために
2023.08.09

アロマセラピストの加藤です
お立ち寄りいただき
ありがとうございます


今日は1945年8月9日、長崎に原爆が投下された日です。

わたしの母、母の両親、母の弟が被爆しました。
そして、弟は今も行方不明のままです。
そういった彷徨える(さまよえる)魂が今もそこにいるのだと思います。

幼い日からわたしは母からその日のことを聞かされました。

おそらくわたしが記憶しない幼い頃から母はあの日のことをわたしに聞かせていたと思います。

---母の記憶---
そこは諏訪神社近く。
(戦争中だというのに、新築をしていました)
お昼前、食事の支度をしていました。

作業する大工さんたちもいました。

それが突然上空に現れました。

一機だけだったせいか、空襲警報もないまま、それは何かを投下したのです。

大工の1人が、
(わたしの記憶が曖昧)
「警報鳴らんとおかしか、落下傘が降りてくる、防空壕にいくか。」
他の人の声
「もう間に合わ。。。」言い終わる前に

強い閃光が光ったかと思うと、(母の体が)爆風と共に浮き上がり、投げ飛ばされました。
すると、次の瞬間、ふわと何か着地して。。。。

どれだけそこにいたのだろう。
目覚めると全身に痛みをかんじた。

そこは、建築中の家の奥の部屋に積み上げていた布団の上だった。
そのおかげか大きな怪我をしなかった。

外へ歩いていくと、みんな怪我をしていた。
母(祖母)は立てかけていた角材が頭にあたり、怪我をしていた。
のちに母は笑いながら話してくれた。
「大怪我だったのに、赤チンだけで治しちゃったのよね。」と。

(母の)父は、当時勤めていた三菱造船所を体調が悪いといって早退していた。
これが幸いしたのだった。三菱造船所にいた方はほぼ亡くなったそうだ。
のちに東京から人が来て後処理に当たったそうだ。

幸いと言っても、上半身裸でいた父は背中を酷くやけどしていた。
やけどによく効くと、後(のち)に嬉野温泉で療養に行った。

ケロイド(やけどの後)はしっかりおじいちゃんの背中にあった。

昼ごはん支度をして外にしゃがんでいた母には爆風が来た側の肘(ひじ)や足の甲にケロイドがあった。

母は、目覚めた後、何度も嘔吐し、水を飲んでは嘔吐したそうだ。

「それが幸いだったのね、街の方の人は見かけは怪我していない人も後から亡くなったのよね。おそらくガスを吸って内臓が傷んだのね。」

続く