駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

限りある時間を

2016年05月26日 | 人生

             

 何だか曇っているのに蒸し暑い。肝入りで選んだ伊勢志摩、天気ばかりは思うようにいかないようだ。亜熱帯ジャパンを知ってもらうには良い機会かもしれない。

 いつかなどというものは待っていてはいつまでも来ない。今度でいいや、又いつかと思って、数多い機会を失ってきた。

  バーバラストレイザンドやシルヴィーバルタンのコンサート、無理して時間を作り見にゆけば良かった。近くまで寄る機会があったのに又今度にしようと、会いに行かなかった東京の伯母さん、あっという間に心疾患で亡くなくなってしまった。もう母の子供の頃を知る人は誰も居ない。父と違い自分を語ることの少なかった母、しまったと思っても後の祭りだ。

 そうこうして学んできたから、この数年は、多少の不義理や長めの休暇は気にせず自分のやりたいことを優先するようになった。それでもはた迷惑は控えている。孔子様が指摘したように七十にして矩をこえずという訳か?、実のところは、無茶はできない脳力体力になってしまったのだ。論語を貴ぶ人は七十にして矩をこえずを辿り着いた境地とされるかもしれないが、なあに年を取って欲が減っただけと揶揄する向きもある。古来稀ではなく近頃溢れる年になった私はどちらも本当と感じる。

 しかしまあ、最近増えてきた、遠くのこと将来のことを思い悩まない何だか無気力な若者と違い、我々の世代は年を取っても、ああでもないこうでもないと考える習性を引きづっている。青春の志は忘れられないもののようだ。

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都民の声はどっち?

2016年05月25日 | 政治経済

                      

 朝、起きたら左肩が痛い。知らないうちの打ったか捻ったかしたようだ。あとから症状が出て来るのは打撲外傷の特徴だが、軽いので仕事は出来そうだ。転ばないようにといつもご注意申し上げている本人が転んでしまい面目ない。有り体に言えば、転ばないようにと注意されてもなあと言う気もする。

 ベッキーから桝添へ、話題はバトンタッチされたようだ。どちらも、見出しを目に留めてきただけなので、詳細はよく知らないが、異常な頻度だと思う。尤も桝添問題はベッキー問題よりも公的で追求する意味は大きい。それでも話題性で取り上げられているようで、辞めろという声は小さい。不思議だ。

 第三者の目でと視点をすり替えて誤魔化そうとしているが、第三者を当事者が任命してはとても信用できない。それを第三者とは言わない。もう結論は出ている、品性劣る人物だと(選挙前から察しは着いていた?)。

 なぜどうするかを、もっと議論しないだろう。辞めて貰うのか。政治家に品性は不可欠ではないと返金だけで続投させるのか。

 話題にする優先順位は妥当か、事実の確認はできているか、これからどうするかどうしてもらうかという判断が汲み上げられているか。これを吟味するのは読者の役割で、これを果たさないと間違いの片棒を担ぐことになる。もう担いでいるのかも知れない。

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転倒で気が付かされる己が年

2016年05月24日 | 小験

      

 誰しも認めたくないのは老いだろう。ネットやBSでは執拗に若さを保つ?健康食品や運動器具が宣伝されている。この異様な健康志向は、健康そうで病的だ。

 最近は廃れたようだが、半世紀前にはしばしば健全な精神は健康な肉体に宿ると体育教師が訓示をしていた。どういうものかこれを見聞きすれば健全な精神が保たれるという製品の宣伝はないようだ。健全な精神とはと問われて答えに詰まるせいか、あるいは健康ほどには需要がないのか、今のところ商機がないようだ。それに**子さんはいくつでしょうなどと若く見えるモデルならぬ、健全精神のモデルも見つけにくいだろう。何がこいつが健全の精神の持ち主なものかと、言われるのが落ちだ。

 今朝出勤途中で、転んでしまった。わずか二三センチの段差に蹴躓いたのだ。あっとと態勢を立て直せるはずが、二秒後には墜落ばったりと手をついて道路に倒れていた。幸い裏道で車の通りは少なく、車に轢かれないで済んだ。年を取ったと苦笑いしながら、起き上がったことだ。

 手を付けたので手の平を擦りむいたが顔や頭を打たずに済んだ。軽い捻挫をしたようで、足はまだ痛い。十年若ければ躓かずに済んだ。たとえ躓いても、転倒しなかったと思う。よく聞くことだが、躓いてから倒れるまでたかだか二秒の間だが、あれどうなったのだろうと思いつつ、随分たくさんのことが頭に浮かんだ気がする。どうも脳がパニックになって神経の連絡が混戦するらしい。

 人間には自分を見つめる自分が居る、その位相差から意識が生まれると言う学者もいるようだが、「転倒で気が付かされる己が年」と一句浮かぶのは古びても人間脳の持ち主である証拠と、悔しいけれども老体となったわが身を慰めたい。

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ウイキペディアの伝えるもの

2016年05月23日 | 小考

                

 昨日は日曜日といっても、かかりつけ医の研修会で7時間缶詰で講義を聞かされた。日本医師会内科学会臨床内科医会・・、など各々勝手に?これからの医療を仕切ろうとお互いに被る制度を始めている。重なっているじゃないかと抗議をしたら、中央の指令通りにしているだけで、ほかの会のことは知りませんでした。伝えておきますと恐縮していた。何とか整理できないものか。

 知らないあるいはよく知らない人物をしばしばウイキぺディアを使って調べる。今までは読んで、なあるほどとわかった気になっていたが、どうもそうでもないのに今頃気付いた。

 というのはよく知っている、と言っても作品をよく読んでいるに過ぎないが、本の世界の隣人先輩友人を何の気なしにウイキペディアで調べてみたら、何だか違う人のことのような知らない人のようなことが書いてあった。履歴が世間的重要事項に沿って並べられており、えっこんな人だったのと違和感を覚えた。私の培ったイメージと違うのだ。どちらが正しいなどと議論しても始まらない。私には私の抱いている人物像が本当なのだ。現実の親しい友人、もっと踏み込んで配偶者にさえ、知られざる一面はあるかもしれないが、それは多くの場合、驚くことはあっても受け入れられるものだろう。

 しかし、どの人物の項目もそうという訳ではないかもしれないが、ウイキペディアの違和感は軋む受け入れ難いものだった。

 ウィキペディアの伝えるものはどうも話半分がよいところのようだ。だからと言ってウィキペディアの価値が下がるわけではない。己の判断が世に絶対という訳でもない。勿論、真にプライベイトの世界は不可侵には肯う。

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暖かい夜の街には大勢の若者がたむろしていた

2016年05月22日 | 世の中

  

 昨夜、カードゲームの帰り、久し振りに夜の盛り場を通り過ぎた。土曜日の夜九時半、暖かくなってきたせいか,若者が大勢通りにたむろしていた。ミニを通り越したスカートの若い女性が何人もふらついているのも見かけた。酒気帯びのおじさんも混じっていたが、さすがに同年配は居ないようだった。
 朧気な記憶を辿れば、半世紀前、確かに私も意味もなく?盛り場をほっつき歩いた記憶がある。若さというか,リビドーのなせる業だったのだろうか、若い女性に声を掛ける勇気も才能もなく、飲み屋に入るような金もなく、ただ歩いていたような記憶がある。

 しかし、昨夜は彼等を見て一体何をしているんだろうという気がしてしまった。そういう年頃なのだろうとしか言いようがないかも知れない。生物というか動物としての若者には夕闇に群れ、だべり動き回る時期があるようだ。仲間と触れあい、連れあいを捜す意味もあるのだろう。

 今週はサミットがあり夏には参院選(同日選挙?)が控えている。熊本の地震は収束せず沖縄では又事件が起きた。どうもその割には報道は警戒態勢や選挙戦略の話題が多く、中身の議論が盛り上がらない感じがしている。宵闇にたむろする若者達の頭の片隅に、そうした状況もいくらかは認識されているだろうか。地方都市の夜の街には、あてどない平和が満ちていた。

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