駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

転倒で気が付かされる己が年

2016年05月24日 | 小験

      

 誰しも認めたくないのは老いだろう。ネットやBSでは執拗に若さを保つ?健康食品や運動器具が宣伝されている。この異様な健康志向は、健康そうで病的だ。

 最近は廃れたようだが、半世紀前にはしばしば健全な精神は健康な肉体に宿ると体育教師が訓示をしていた。どういうものかこれを見聞きすれば健全な精神が保たれるという製品の宣伝はないようだ。健全な精神とはと問われて答えに詰まるせいか、あるいは健康ほどには需要がないのか、今のところ商機がないようだ。それに**子さんはいくつでしょうなどと若く見えるモデルならぬ、健全精神のモデルも見つけにくいだろう。何がこいつが健全の精神の持ち主なものかと、言われるのが落ちだ。

 今朝出勤途中で、転んでしまった。わずか二三センチの段差に蹴躓いたのだ。あっとと態勢を立て直せるはずが、二秒後には墜落ばったりと手をついて道路に倒れていた。幸い裏道で車の通りは少なく、車に轢かれないで済んだ。年を取ったと苦笑いしながら、起き上がったことだ。

 手を付けたので手の平を擦りむいたが顔や頭を打たずに済んだ。軽い捻挫をしたようで、足はまだ痛い。十年若ければ躓かずに済んだ。たとえ躓いても、転倒しなかったと思う。よく聞くことだが、躓いてから倒れるまでたかだか二秒の間だが、あれどうなったのだろうと思いつつ、随分たくさんのことが頭に浮かんだ気がする。どうも脳がパニックになって神経の連絡が混戦するらしい。

 人間には自分を見つめる自分が居る、その位相差から意識が生まれると言う学者もいるようだが、「転倒で気が付かされる己が年」と一句浮かぶのは古びても人間脳の持ち主である証拠と、悔しいけれども老体となったわが身を慰めたい。

コメント (2)
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