メモ代わりにツイッターを使っているという人がいます。
メモなら自分にいちばん近いところにあるのが便利だろうと思うのですが、メモも「利便」のためでなく、「趣味」の領域のほうに強い渇望力がはたらいていると、中身ではなく、作り方がだいじということになってくるようです。
作り方に凝り始めれば、まず道具がだいじという、これも順序なのでしょう。
道具には新しいものが好まれます。
そういう方にはツイッターがメモ用具というのも、わからないでもありません。
「新しいコミュニケーション手段は、時代の変化ではなく単なる新製品の登場である」と、角田光代が「何も持たずに存在するということ」(幻戯書房刊 http://p.tl/GR-j )に書いていますが、そのとおりで、時代が変わればメモの形も、というのもおかしな話です。
コピー・プリント・スキャナー・FAX・電話の複合機も、次々に機能を重ね合わせ、つなぎ合わせていっただけで珍重されているようですが、外から情報がまる見えという状態に簡単になってしまうというのも、ずいぶんお粗末な話ではありませんか。