hchs21さんがご記憶されているボーリング場並びのお店は、レストラン「ガイエン」という名前だったと思います。
道に沿った一階建てのお店で、電車のようなガラス窓が並んでいました。
高校時代のアルバムをめくってみたのですが、残念ながら「ガイエン」の写真は見つかりませんでした。
その代わりといってはなんですが、猪瀬酒店の1974年ごろの写真をご紹介します。
外苑前駅から神宮球場に向かう途中、左手のY字路の角にある酒屋さんで、今は立派なビルディングに建て替えられて営業されていますが、当時は普通のお酒屋さんでした。
どこの学校にもあると思うのですが、放課後の生徒たちが、ジュースやアイスクリームを買って、それを飲み喰いしながら店先で友人たちと雑談する、私たちの憩いの場。
写真に写っている自動車の顔つきを見ても、昭和49年ごろだと判ります。
次に外苑前においでになる時に、今から35年前の猪瀬商店と現在の立派な店構えを比べてみてください。
道に沿った一階建てのお店で、電車のようなガラス窓が並んでいました。
高校時代のアルバムをめくってみたのですが、残念ながら「ガイエン」の写真は見つかりませんでした。
その代わりといってはなんですが、猪瀬酒店の1974年ごろの写真をご紹介します。
外苑前駅から神宮球場に向かう途中、左手のY字路の角にある酒屋さんで、今は立派なビルディングに建て替えられて営業されていますが、当時は普通のお酒屋さんでした。
どこの学校にもあると思うのですが、放課後の生徒たちが、ジュースやアイスクリームを買って、それを飲み喰いしながら店先で友人たちと雑談する、私たちの憩いの場。
写真に写っている自動車の顔つきを見ても、昭和49年ごろだと判ります。
次に外苑前においでになる時に、今から35年前の猪瀬商店と現在の立派な店構えを比べてみてください。
3つの区が隣接する場所だと言う認識はあったのですが、それ程までに微妙だとは知りませんでした。
猪瀬酒店の裏情報を知った様で、今度行く時には”この酒、新宿区への越境可能ですか?”と思わず聞いてしまいそうです。
間ビルにもその様な過去があったのですね。それも知らず、私は「いいな、あそこの社員は、休みに出勤してラグビーが見れて。」
五階か六階あたりの窓ガラスが吹っ飛んで、数ヵ月間、無残な姿のままになっていました。
青山高校のクラブの先輩で、東大野球部でプレーした塙さんという方が間組に就職されていたので、事件の当日、高校のマネージャーが安否確認をする騒ぎになりました。
浪人中であった私は受験の真っ只中でしたが、マネージャーから自宅に電話をもらってホッとした思い出があります。
ところで神宮周辺は、新宿、港、渋谷の三つの区が入り組んでいる地域です。
ちなみに、秩父宮ラグビー場、TEPIA(ボーリング場跡)、猪瀬酒店は港区北青山、
都立青山高校と国学院高校は渋谷区神宮前
神宮球場と日本青年館は、新宿区霞ヶ丘が所在地となっています。
猪瀬酒店には、私と同い年の息子さんがいます。
当時の都立高校は学区制となっていて、港区が第一学区、渋谷・新宿は第二学区に所属。
したがって、港区にある猪瀬酒店の息子さんは、第二学区に所属する青山高校を受験することができませんでした。
当時、猪瀬のオバサンが「青山高校まで走れば1分もかからないのに、受験できなかったの。越境入学も考えたんだけど、中学の先生がダメだって」と嘆いていらっしゃいました。
結局、猪瀬酒店の息子さんは、第一学区の都立三田高校から東大を卒業し、大手広告代理店に就職されました。
もし猪瀬酒店の息子さんが青山高校に越境入学していたら、私と同期生になるところでした。
ひょっとしたら、私たちと一緒に遊びに走り、彼の高校卒業後のキャリアは違うものになっていたかも知れません。
(^O^)
猪瀬酒店、今でも、神宮外苑でのスポーツ観戦の時には仲間との待ち合わせ場所です。酒とつまみを買い、長丁場の観戦に備えるのです。
実は、学生時代に、神宮で徹夜した時に、”ガス欠(?)”になって猪瀬酒店のシャッターをたたいて、強引に酒を売ってもらった経験があります。24時間営業のコンビ二など無い時代、猪瀬だけが便りでした。
今は、伊藤忠ビルが隠れた観客席ですが、当時は間組のビルが外苑前のランドマークでしたよね。