紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

落語ライブ!

2008-02-18 16:18:50 | おでかけ
 きのうのNO-MAの「お茶の間ランド」については、もう少し語りたいのだが、それはまた。

 お昼に帰宅し、ほとんど家族のひんしゅくを買うような手抜きのお昼を作り(何のために急いでお昼に帰ったのか・・・とほほ)、家事と介護のサボタージュの一日に、こっそり良心を痛めつつも午後の部へ。

 2年越しのささやかな夢の実現である。2年前にも、このささやかなホールに彼は来ていたが、そのときには聞き逃してしまったのだ。落語のライブを聴く、というのは、なんと25年ぶりくらい。おお、四半世紀ぶりなのである!

 ハタチの頃、母親とできたばかりの市民ホールに新春落語会を聴いたのが初落語ライブ。桂枝雀と南光(当時は「べかこ」)が出ていた記憶がある。席が遠かったので、枝雀の表情が判然とせず、悔しい思いをしたのを覚えている。(他には覚えてないのか?)

 今回は桂文珍独演会。前回見逃しただけに、今度こそ!と気合いが入っていた。会場は満員。すごい期待感で、始まる前から熱気が感じられる。そんな中で異分子の私は、誰にも負けない期待感にも関わらず、開演前、中入りなどの幕間には必ず爆睡(おいおい)。

 で、桂文珍についてなのだが、たぶん私が彼の落語を聴いたのは、やはりハタチあたりでしかもテレビである。時事ネタでてきばきと噺を展開させる見事さに引き込まれ、放心状態だった。彼についてはそれくらいの事前情報しかない。

 それが「えーーーー・・・」というたっぷりと間をとった導入に「え?」と驚く。一気に老けはったんか? まあ、四半世紀だもんね。文珍、60の齢(よわい)である。「ろくじゅう、やて。は、は!自分でも驚きますわ」と本人も言っていたっけ。老ける、という齢でもないが、私の頭の中では大変なタイムワープだったのだ。これは老練、熟達、至撃フ域なのか?(あー、落語に詳しい方が読まれると爆笑ものの感想かも・・・汗)

  文珍だけで3席されて、ええっ?こんなに?と仰天だったが、「独演会」というのは、そういうものなのだろうか? もちろん弟子の楽珍が前座を勤め、文珍お気替えの間、三味線で都々逸を口ずさむゲストも入る。

 出し物は、はやくも1席目は失念(すいません)。2席目は、長年「一体どういう噺なんだろう?」と奇抜なタイトルの謎がやっと解けた『はてなの茶碗』。

 落語家が口を開くと、やっぱり出てくる『ちりとて』話題。「この間、師匠が亡くならはったとき、弟子4人で『地獄八景』やらはりましたなぁ。今回はそれをやらせていただきます。ただし、NHKではできひんような、おもろい所をダイジェストで」

 そらぁ、面白かって、客席沸くわ、沸くわ、なのでした。時事ネタもどんどん出てきて、ああ、やっぱり文珍なんやーと。いいように、彼の手のひらでもてあそばれているのが心地いい。客の心を捉える見事さは、自由自在、思うがまま。恐るべき力量。

 しかし、落語って凄い、と思うのは、たぶん完璧な落語ができるようになってから、その次が果てしなくあるということ。なんとなく、故・枝雀の苦悩が初めてちょびっとでも判る気がした。完璧にできた後、今度はどんどん捨てて行く部分があるらしいのだ。力を抜いて、あちこちを綻ばせ、まるでヴィンテージを作るような感じだ。

 ということが、文珍の高座でなんとなくわかった。落語がライブでこそ聴きがい(観がい)がある、っていうのもね。落語って、めったに聴きに行けないけど、そんなに残念とは思わない。年に1度これぞ!っていうのを聴けたら、それはそれでいい。
 ということで、文珍はサイコーでしたね。しかも想像通りの素敵な方でした。