「いくら二次元美少女でも流石にこれは引くわ」と思った行動
http://kanasoku.blog82.fc2.com/blog-entry-17923.html
↑これはちょっと考えさせられた。
もしこれがリアル女の所業だったとしたら、まず間違いなく
「いくら美人でも流石にこれは引くわ」
となる。
しかしだね。
これは二次元美少女の話なんだよ。
だから元ネタを知っている例については、
「いくら二次元美少女でも流石にこれは引くわ」
というどころか、
「いや、それがいいんだよ! それがわからん貴様は精進が足らんわ!」
と言いたいくらい全肯定しても良い。
この差は何だろうか?
もちろん二次元か三次元かという違いはある。
三次元の女がやったら許せんことはいくらでもあることからして、二次元は美化補正がなされるのは自明である。
しかし。
本来なら人として倫理的に受けつけないような行動ですら二次元では愛されるのは何故なのだろうか?
1つ思うところがある。
自分の視点がどこにあるかという事である。
アニメを堪能するとき、自分の視点はいったいどこにあるか気がついているだろうか?
パッと言うとすれば、
「視聴者は主人公と同化していて、主人公と同じ視点で見ているはずだ」
となるのが教科書的な正解だろう。
しかしわたしはそうではない。
実は自分の視点とは・・・
自分は作品の雰囲気の中に融けこんでいて、向こうから自分は見えないが、自分はそこでキャラたちとリアルタイムに人生を見守っている存在。
自分は主人公でもヒロインでもなく、常にその傍らにあって共に世界を見ている存在。
・・・そういうものだ。
あえていうならば、守護霊だとか絶対神だとかの視点にほぼ等しい。
(これはわたしに限ってのことかもしれないが。)
これがよくわからない人は、女の子しか出てこない百合なアニメを見てみれば多分わかる。
たとえば”けいおん!”とか”ストロベリーパニック”とか”Candy boy”とか見ればよろしい。
そうすれば、自分の視点はヒロインたちの誰か1人にのりうつっているのではなく、ヒロインたちの周りに漂っている空気のなかに自分があると気がつくはずだ。
これは何を意味するか?
ヒロインたちの行動と自分との間には直接の利害関係がないのだ。
だから本来ならば自分の身体が蝕まれたり精神を害されたりするヒロインであっても、我々はそんなモノに捕らわれない。
我々はその先にあるヒロインの魅力をダイレクトに感じ、ただヒロインを愛することができる。
・・・のかもしれない(ちょっと弱気w)。
たとえば桐乃はめっちゃかわいい。
しかし桐乃みたいなリアル妹と同居していたとしたらグーで殴って鼻血で血だらけにさせてる自信がある(笑)。
ふと気がついたのだが、神々の視点とはこういうものなのかもしれないと思った。
人間とはかなり不完全である。
全知全能の神がいたとしたら、かなり不快なモノどもに見えるかもしれない。
しかし、実はそうではないかもしれない。
神々の視点から見ると、人間がかなり不完全であったとしても、それはそれとして、ただ愛することができるのかもしれない。
そう、我々が
「いくら二次元美少女でも流石にこれは引くわ」
と言われるようなアニメを見ているときと同じように。
http://kanasoku.blog82.fc2.com/blog-entry-17923.html
↑これはちょっと考えさせられた。
もしこれがリアル女の所業だったとしたら、まず間違いなく
「いくら美人でも流石にこれは引くわ」
となる。
しかしだね。
これは二次元美少女の話なんだよ。
だから元ネタを知っている例については、
「いくら二次元美少女でも流石にこれは引くわ」
というどころか、
「いや、それがいいんだよ! それがわからん貴様は精進が足らんわ!」
と言いたいくらい全肯定しても良い。
この差は何だろうか?
もちろん二次元か三次元かという違いはある。
三次元の女がやったら許せんことはいくらでもあることからして、二次元は美化補正がなされるのは自明である。
しかし。
本来なら人として倫理的に受けつけないような行動ですら二次元では愛されるのは何故なのだろうか?
1つ思うところがある。
自分の視点がどこにあるかという事である。
アニメを堪能するとき、自分の視点はいったいどこにあるか気がついているだろうか?
パッと言うとすれば、
「視聴者は主人公と同化していて、主人公と同じ視点で見ているはずだ」
となるのが教科書的な正解だろう。
しかしわたしはそうではない。
実は自分の視点とは・・・
自分は作品の雰囲気の中に融けこんでいて、向こうから自分は見えないが、自分はそこでキャラたちとリアルタイムに人生を見守っている存在。
自分は主人公でもヒロインでもなく、常にその傍らにあって共に世界を見ている存在。
・・・そういうものだ。
あえていうならば、守護霊だとか絶対神だとかの視点にほぼ等しい。
(これはわたしに限ってのことかもしれないが。)
これがよくわからない人は、女の子しか出てこない百合なアニメを見てみれば多分わかる。
たとえば”けいおん!”とか”ストロベリーパニック”とか”Candy boy”とか見ればよろしい。
そうすれば、自分の視点はヒロインたちの誰か1人にのりうつっているのではなく、ヒロインたちの周りに漂っている空気のなかに自分があると気がつくはずだ。
これは何を意味するか?
ヒロインたちの行動と自分との間には直接の利害関係がないのだ。
だから本来ならば自分の身体が蝕まれたり精神を害されたりするヒロインであっても、我々はそんなモノに捕らわれない。
我々はその先にあるヒロインの魅力をダイレクトに感じ、ただヒロインを愛することができる。
・・・のかもしれない(ちょっと弱気w)。
たとえば桐乃はめっちゃかわいい。
しかし桐乃みたいなリアル妹と同居していたとしたらグーで殴って鼻血で血だらけにさせてる自信がある(笑)。
ふと気がついたのだが、神々の視点とはこういうものなのかもしれないと思った。
人間とはかなり不完全である。
全知全能の神がいたとしたら、かなり不快なモノどもに見えるかもしれない。
しかし、実はそうではないかもしれない。
神々の視点から見ると、人間がかなり不完全であったとしても、それはそれとして、ただ愛することができるのかもしれない。
そう、我々が
「いくら二次元美少女でも流石にこれは引くわ」
と言われるようなアニメを見ているときと同じように。