「解剖図は、お友達と交換して採点してもらいましょう」
「・・・・・・・・」
「えと、交換しましょう~」
「お友達がいない人は、どうしたらいいんですか?」
「俺も、お友達が いねえ」
「では、お友達が居ないお二人で交換してください」
と指示すると ナニ? みんながスムーズに作業 できてる!
他人に見られて恥ずかしいとか、そういうことじゃ なかったのね。
(誰でもよい)三人称の「お友達」も 去年まで通じてたんだけどなあ。
クラスメイトを「お友達」と呼ぶところに問題があるのでしょうか。
「小学生になったら、小学生になったら、トモダチ百人できるかな」というCMソングが
子供のいじめ自殺が浮上した頃に批判されて かれこれになる。
「トモダチノ トモダチモ、皆 トモダチダ」とか「人類は、皆、兄弟」で育った私と
「トモダチ地獄」で育った青年の「友達」に対する条件が違うのは自然なことで
関係性を「クラスメイト」「隣に座っている人」で表現すれば、よかった。
私にとって「知り合い」と「友達」の差はわずかだ。
知り合いです、というのは、排他的な言い方ではない。
「友達」と「友人」の隔たりはどうだろう?
「友人」と「親しい友人」の差はどうだろう?
さらに「恩人」は多い。
特におしゃべりしなくても「働く仲間」「ボランティア仲間」「学ぶ仲間」の存在もある。
その親密度や距離感は年々、月々、刻々と変わるし、
交流の深さや頻度、共有した出来事の大小で異なるのは確かだ。
私の感じる親密さと 相手の評価が一致することは少ないと想う。
本日における真の関係性を評価できないため
誰でも、とりあえず「友達」と称するのが 私にとっては 便利なのだ。