伊吹山も春を迎えていた。
頂上の雪も随分と少なくなっている。
こうした季節の移ろいを見ると、確かに生きている実感がある。
嬉しいことだ。
もし、季節や夜昼の変化が全くなかったらどうだろうか。
温度も、日射も、景色も、まったく変化しなければ、生きている実感がないのではなかろうか。
南極や北極でも、夏と冬の違いがある。
深海はどうだ。
水の流れに地球の呼吸を知ることができるかもしれない。
時を刻むための何かのきっかけが必要だろう。
ところで、中国人に時計を贈るのは良くないという。
時計を贈ることを中国語で「ソンジョン」というらしい。
これは、「人の死を見届ける」という「ソンジョン」と同じ発音なのだそうだ。
生きるための時計が、死を贈ることになっては叶わない。
かくして、すべてが相対の中で生きている。