2003年9月15日、琵琶湖でヨットが沈んだ。
もう10年も前の話だ。
これまでさまざまな経緯で極秘になっていたが、もう話してもいいだろう。
当時、私は琵琶湖研究所に所属していた。
ニュースでこの話を知った時、はっけん号の出番だな、と直感した。
というのは、遭難船探索に必要なディファレンシャルGPS、計量科学魚探、水中ロボットの3つを保有している船は、琵琶湖でははっけん号しかなかったからである。
翌日、捜索に参加しましょうか、という打診を県庁にしたが答えはノーだった。
まさに行政の縦割りの問題だった。
しかし、当時衛生環境センターのみずすまし二世号は捜索に参加していた。
7名の人が行方不明になっている大事故なのに、もっとも装備を有した調査船が捜索に参加しないのはおかしいではないか、と当時の副所長にかみついた。
9月17日の夕方、琵琶湖環境部長が私の研究室を訪ねてきた。
ぜひ捜索に参加してほしい、という話だった。
次の日、我々は、はっけん号で捜索に参加した。
捜索水域をメッシュ状に分割し、遺漏がないように船を走らせながら水域を確認していった。
大津市消防艇が捜索している場所に近づいた時だった。
どうもこの辺が怪しいのだという職員の話を聞いて、特に詳細な確認を行った。
やがて計量科学魚探にファルコン号のマストがはっきりと映し出されてきた。
その場にアンカーを打ち、警察へ連絡を行った。
当時、深い場所にアンカーが打てる船さえ琵琶湖には満足になかった。
我々は、遭難船の確認のために水中ロボットを降ろした。
マストに絡まないように慎重にロボットを潜航させる。
緊張の一瞬だ。
やがて船体がライトに照らしだされ、FALOCONの文字が浮かび上がってきた。
遭難船発見の報は、ただちにニュースとなって流れた。
私はロボットを操作して、ゆっくりと湖底を調べた。
水深40m余りの湖底は軟泥に覆われ、少し進むだけで泥が巻き上がり視界を遮ってくる。
数メートル進んだとき、前方に少女の遺体が見えてきた。
上を向き手を前方に差しのべた姿は、美しくさえあった。
ロボットを遺体のすぐそばに寄せ、着底させた。
あとは潜水士の仕事である。
連絡によって潜水士が到着し引き揚げ作業にかかるまでの約2時間、水中ロボットのカメラは水中で眠る少女の横顔を映し出していた。
私は涙が出てきたたまらなかった。
ちょうど私の娘と同じくらいの年齢だろう。
なんでこんなバカなことが起こったのだ。
琵琶湖の自然はとても厳しい。
多くの人はそのことを知らない。
琵琶湖に関する業務を行っている職員でさえも、その厳しさを知らない。
自然は美しいと同時に、酷烈であることを知るべきだ。
一度40メートルまで潜水すると、潜水士は数時間は休まなければならない。
遺体の回収作業は遅々として進まなかった。
次の日、少女の弟さんの遺体を発見した。
私がかかわったのは、7人の遭難者の内、4名だった。
上空にはヘリコプターが舞い、モーターボートで取材に来るテレビ局もあった。
どこで聞きつけたか知らないが、私の家に張り込みに来た記者もいた。
そんな煩わしいことよりも何も、私の心の中にはやりようのない悲しみがあった。
数日間、巻き上がる泥でよく見えないモニター画面を見続けておかげで、私の視力はかなり落ちた。
結局、一人の遺体は見つからなかった。
このことは、今でも気になっている。
10年の年月を経た今、NPO法人びわ湖トラストで琵琶湖のゴミ拾いをしている。
特に、湖底や人が行きにくい湖岸の清掃だ。
それは単に琵琶湖をきれいにすることだけでなく、琵琶湖に遺体を残したくない思いでもある。
誰かがそういう思いで、この湖と付き合っていく必要があると思っている。