紀元前1600-1000年に、中国に商という国があったという。
殷とも言う(史記)。
この国の人は、交易に優れていたらしい。
そこで人々は彼らのことを商人と呼んだ(晏子)。
Aというエネルギー体に、Bというエネルギーを加えて、Cというエネルギー体を作る。
このときの差額分を、生産といい、生産したものに付加価値が生じる。
交易でも同じことがいえる。
Aという物を、Bという輸送のエネルギーを加えて、Cという物として売る。
それが実体と言うものだ。
相場という世界も、実体が伴って初めて価値を生み出す。
生産をもたない経済は、必ず崩壊する。
過去の歴史がそれを物語っている。
人間の歴史は、そうした生産を生み出すために、自然から資源を搾取してきた。
だから資源が枯渇したときが、人間の歴史が終わるときでもある。
少なくとも、地球という有限の資源ではそうだ。
あとは地球外のエネルギーを使うか、とことん効率を上げて地球の資源を食いつぶすかだ。
きっと両方が必要なのだろう。
多くの国が北極の開発に血眼をあげているのを見ると、悲しい気分になるのは私だけなのだろうか。
足るを知る、ということを実践したのは、紀元前500年位前にいた老子であった。
当時、今と同じような簒奪の世界が中国にはあったのだろう。
願わくば、中国人民にそのことを思い出して欲しい。
そうしないと、あの国の為政者は、多くの人民を養うために世界の資源を食いつぶしてしまうだろう。
今必要なのは、人類生存のための哲学なのではないだろうか。