DALAI_KUMA

いかに楽しく人生を過ごすか、これが生きるうえで、もっとも大切なことです。ただし、人に迷惑をかけないこと。

生きる(11)

2015-04-09 22:57:03 | 物語


今日、数多くの人々に見送られて、自律型水中ロボット淡探が滋賀から東京へ旅立った。

2000年3月に進水した淡探は、この15年間に実に多くの仕事をしてくれた。

このことはほめてやってもよいのだろう。

何のために、このようなロボットをびわ湖に浮かべたのか。

そのことを正しく理解することは難しいかもしれない。

でもそれは仕方のないことだ。

この世の中はいつもそのようなことの繰り返しだからだ。

ゴッホでも、生前に売れた絵は1枚しかなかった。

本来、淡探こそは、琵琶湖博物館で大切に保管されるべき至宝だったのだ。

私は、このロボットに心からエールを送りたいと思っている。

これからは、新たな世界で頑張ってくれることだろう。
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生きる(10)

2015-04-08 14:44:58 | ButsuButsu


昨日、ながらの座・座を主宰している橋本敏子さんと会った。

正蔵坊という古い建屋と庭園を通して、地域の文化を守っている人だ。

この池は、神仙蓬莱の世界を模しているという。

石と樹木の配置が、独特の幽玄を醸し出している。

ここでコンサートを催したりもしているそうだ。

http://nagara-zaza.net/2015/000282.php

こういう生き方もあるのだな、と新しい出会いに感激する。

360年ほど昔に建築された坊舎らしい。

古びて広々した客間は、日なが座しているだけで楽しかろう。

この空間と琵琶湖を結びたい、というのが橋本さんの願いだ。

難しいことを言うな、と思わないではないが、ゆったりとした空間は同じなのかもしれない。

坊舎は時間の流れが止まり、湖は空間の移ろいが止まる。

急がない、そんな時空の流れが、時としてつながりを持つのかもしれない。

こんな雰囲気に心引かれる旅人に、ぜひ訪れてほしい場所が、古都大津にはある。


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生きる(9)

2015-04-06 20:03:15 | ButsuButsu


これは円珍像である。

三井寺(園城寺)の開祖である。

唐に留学した8人の学僧(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人でもある。

入唐八家とも言うようだ。

NPO法人「びわ湖トラスト」では、私の「滋賀一番」という記事をホームページに掲載し始めた。

http://www.biwako-trust.com/kaiin/index.html

この中で福家俊彦さんが三井寺の国宝2点を紹介している。

円珍が唐で発行してもらった過所(通行手形)である。

855年に発給されたものだ。

これらは世界に現存する唯一の文書ということだ。

すごいものが三井寺にはあるものだ。

この当時、命をかけて中国へ渡り、学び、我が国へ仏教を伝えた学僧たちの息吹を感じるようだ。

長い歴史の中で、多くの教えを乞うてきた隣国である中国と、今、なぜ敵対しなければならないのだろうか。

アジアにはもっとよい付き合い方があるような気がする。

「生きる」ということは、そう言うことではないのだろうか。

***

あなたの「滋賀一番」を募集しています。

mkumagai@mwc.biglobe.ne.jpまで送ってください。

オダホーさんの火傷治療カンパ、現在3万円です。

http://wwcf.blue/?page_id=41
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生きる(8)

2015-04-06 00:03:48 | ButsuButsu


私の住む町では、祝祭日にはバスの運行が1時間に1本となる。

田舎かと言えば、そうでもない。

みんな車を持っているので、バスを利用しないのである。

私は2年前に車を手放した。

したがって、どこへ行くにも歩くかバスを利用する。

結果的に体重も減り、きわめて健康である。

先日乗ったバスには、他の乗客がゼロだった。

私の専用バスである。

一人で乗るには少々大きすぎる。

もったいないなと思ったりする。

絶対赤字だな。

まあ、法律で決められているので、仕方ないこともあるのだろう。

人間というのは、「生きる」うえで無駄なことを多くする。

バス会社の「こだわり」もあるのだろうか。

そう言えば、三浦しおんの「船を編む」という本の中に

***

「こだわり」は、いい意味で使ってはならん言葉だぞ。

「匠のこだわりの逸品」などとと言うが、ありゃ誤用だ。

「こだわり」の本来の意味は、「拘泥すること。難癖をつけること」なんだから

***

という一節がある。

「沖縄県の翁長雄志知事は、サンゴと人の命のどちらが大切だと思っているのだ」

と息巻いている著名タレントがいた。

まさに「こだわり」だ。

この人は、沖縄の人々の心がわかっていない。

終戦直前に、4分の1の人々がなくなった沖縄人にとって、豊かな海の自然は、歴史であり、存在であり、命そのものなのだ。

だから、彼らにとって、サンゴと人の命は、比較の対象とはならない。

サンゴは人の命だから。

普天間の基地を返還することと、辺野古の海を埋め立てることは、決して同じ議論ではないのだ。

もっと心を理解するところから対応して欲しいものだ。

これ以上、沖縄を犠牲にすべきではないのだろう。


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生きる(7)

2015-04-04 12:50:05 | ButsuButsu


桜の花には いつも不思議な魅力がある

特に今年のように 駆け足で咲き 散っていくと余計にその思いが強い

わずか1週間ほどの中で 満開となり 移り変わる

古来より 多くの歌人や俳人に歌われた ゆえんでもある

さて 東野圭吾の推理小説に 湯川という物理学者が 登場する

彼をして 次のように 語らせている

***

現象を分析するには、すべての可能性を探る必要がある。

つまり、誰かがアイデアを出した場合には、とりあえずはそれを尊重しなければならない。

検証することもなく、ただ自分の考えや感覚と合わないからというだけの理由で人の意見を却下するのは、向上心のない怠け者のやることだ

***

その通りだと思う

最近 日本の大学や研究機関 また国の機関で 失われつつある言葉だ

日本人は 怠け者のになりつつある

桜の花のような 短い間の変化ならば もっと真剣になるのだろうに

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生きる(6)

2015-04-03 17:49:25 | ButsuButsu


伊吹山も春を迎えていた。

頂上の雪も随分と少なくなっている。

こうした季節の移ろいを見ると、確かに生きている実感がある。

嬉しいことだ。

もし、季節や夜昼の変化が全くなかったらどうだろうか。

温度も、日射も、景色も、まったく変化しなければ、生きている実感がないのではなかろうか。

南極や北極でも、夏と冬の違いがある。

深海はどうだ。

水の流れに地球の呼吸を知ることができるかもしれない。

時を刻むための何かのきっかけが必要だろう。

ところで、中国人に時計を贈るのは良くないという。

時計を贈ることを中国語で「ソンジョン」というらしい。

これは、「人の死を見届ける」という「ソンジョン」と同じ発音なのだそうだ。

生きるための時計が、死を贈ることになっては叶わない。

かくして、すべてが相対の中で生きている。
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生きる(5)

2015-04-02 17:27:29 | ButsuButsu


「生きる」ということは、どういうことなのだろうか。

それは単に「死ぬ」という言葉に相対するものではない気がする。

先日の航空機事故のように、副操縦士の暴走によって死を強いられる場合もある。

戦争では、死ぬことが義務付けられたりする。

理不尽であっても、理不尽であると言えない状況もある。

願わくば、自然の摂理に基づいて死にたいと思うのだが、現実は異なる場合が多い。

私の友人である画家ブライアン・ウィリアムズは、自然を瞬間に捉え、絵画の中に凝縮する。

絵の中の世界は、動かない世界である。

写真のようでもあるのだが、しかし、写真とは純然に異なる。

そこには、作者の精神がこめられている。

時にはその情念が放出され、観る人に感動を与える。

絵は、死んでいるのだが、生きているのである。

もし、魂というものがあるとするのならば、このような情念の世界ではないのだろうか。

不条理な死はやるせないが、納得の死は美しいのかもしれない。

事故や戦争による死は、不条理であって、決して許容できない。

「生きる」ということは、不条理を排除して、摂理に従う、ということなのか。

日々の生活に追われる身だが、なぜ生かされ、かく生き、どう死ぬるのかを、時には考えてみても良い。

絵師ブライアンは、魂を込めて、曲面絵画という作品を作り続ける。

こうした具体的な創作の所作が、「生きる」事の証となる気がする。

羨ましい限りだ。
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生きる(4)

2015-04-01 17:20:59 | ButsuButsu


月曜日に琵琶湖疏水を通りかかった。

桜のつぼみも膨らみ、ここにも春が訪れようとしている。

第一疏水が建設されたのは1890年と言うから、すでに125年も前の話だ。

その後、第二疏水が1912年に完成した。

第二疏水は、第一疏水のほぼ3倍の水が流れている。



2月になると第一疏水の水はほとんど流れない。

こうして、2月は毎秒10トン、それ以外の月は毎秒20トンの水が京都市に提供されている。

この水が京都市民145万人の水道水となる。

2日前の3月30日に、京都市から滋賀県に感謝金として2億3000万円が贈呈された、という報道があった。

今後10年間、この金額が贈呈されるらしい。

京都市民にとって、まさに命の水だ。

単純な計算をすると、京都市民一人あたりが一年に150円のお金を滋賀県に払っていることになる。

高いか安いかは別として、コーヒー1杯より小さな金額である。

明治時代に疏水を作った先人のおかげで、京都市民は断水や節水もなく生命が守られている。

この2億3000万円のお金がどう使われているのかはよくわからないが、琵琶湖への感謝として使われていることと信じたい。

滋賀県民も、京都市民も、心して琵琶湖と向き合ってほしいと思うのは、私だけだろうか。
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