「学校図書館」1968年7月号から9月号にかけて掲載された児童文学時評です。
7月号
中級対象の空想物語について批評しています。
対象にあげられた数作のうちで、歴史に淘汰されずに生き残ったのは、あまんきみこ「車のいろは空のいろ」だけです。
著者もこの中では一番と認めつつも、古い童話形式であることを理由に、この作品も批判しています。
この批判の仕方は、メルヘンをファンタジーでないと言っているだけで、少しも本質的な批評にはなっていません。
その後、著者は、童話的資質に恵まれた作家(当然あまんきみこも含まれます)の童話作品は評価するようになりますが、この時点ではまだ現代児童文学の散文性にこだわっていました。
この時に著者が認めていた空想的な物語は、その作品世界がその世界におけるリアリズムに貫かれている作品、つまりファンタジーだけでした。
それは、その手法が社会的な問題を、当時のリアリズム作品(例えば「山が泣いている」)のような現状の模写にとどまらすに、完結した形で表現することができると考えていたからでした。
8月号
鳥越信の主張する「未来を先取りする」リアリズム作品(ここでは日常的世界で展開する物語を意味しています)に対して、著者は現実にはそれを書くことは不可能で(それが書けるくらいなら、作家よりむしろ政治家になるべきだと言っています)、ファンタジーならばより自由に表現できるとしています。
9月号
空想世界を扱った作品(ボストン「まぼろしの子どもたち」、佐藤さとる「海へ行った赤んぼ大将」、北川幸比古「宇平くんの大発明」)を評して、それぞれ、古典的、古典と現代の融合、現代的としています。
古典的と評した作品の方がよりファンタジーとしての完成度が高い(空想世界のリアリティが高い)ことは認めつつも、素材としては現代の子どもたちを取り巻く問題を扱った社会的なファンタジー(つまり真の意味での古典と現代の融合でしょう)の登場を期待しています。
7月号
中級対象の空想物語について批評しています。
対象にあげられた数作のうちで、歴史に淘汰されずに生き残ったのは、あまんきみこ「車のいろは空のいろ」だけです。
著者もこの中では一番と認めつつも、古い童話形式であることを理由に、この作品も批判しています。
この批判の仕方は、メルヘンをファンタジーでないと言っているだけで、少しも本質的な批評にはなっていません。
その後、著者は、童話的資質に恵まれた作家(当然あまんきみこも含まれます)の童話作品は評価するようになりますが、この時点ではまだ現代児童文学の散文性にこだわっていました。
この時に著者が認めていた空想的な物語は、その作品世界がその世界におけるリアリズムに貫かれている作品、つまりファンタジーだけでした。
それは、その手法が社会的な問題を、当時のリアリズム作品(例えば「山が泣いている」)のような現状の模写にとどまらすに、完結した形で表現することができると考えていたからでした。
8月号
鳥越信の主張する「未来を先取りする」リアリズム作品(ここでは日常的世界で展開する物語を意味しています)に対して、著者は現実にはそれを書くことは不可能で(それが書けるくらいなら、作家よりむしろ政治家になるべきだと言っています)、ファンタジーならばより自由に表現できるとしています。
9月号
空想世界を扱った作品(ボストン「まぼろしの子どもたち」、佐藤さとる「海へ行った赤んぼ大将」、北川幸比古「宇平くんの大発明」)を評して、それぞれ、古典的、古典と現代の融合、現代的としています。
古典的と評した作品の方がよりファンタジーとしての完成度が高い(空想世界のリアリティが高い)ことは認めつつも、素材としては現代の子どもたちを取り巻く問題を扱った社会的なファンタジー(つまり真の意味での古典と現代の融合でしょう)の登場を期待しています。
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