現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

古田足日「文学教材と道徳教育」児童文学の旗所収

2017-11-06 11:14:40 | 参考文献
 1964年2月に「道徳教育」に掲載された評論です。
 のっけから「文学教材」という言葉自体を否定して、この評論では「文学作品」として考えるとして、「教材」ありきの教育関係者にくぎを刺しています。
 それは、「文学作品は直接、道徳指導にやくだつものではない」という認識によるものです。
 この著者の考え方は、児童文学者ならば基本中の基本なので、あらためて解説する必要もないぐらいなのですが、その基本すら忘れて(あるいは知らずに)著者が例にあげているような陳腐な教訓話を書く人(長年教職に携わった方が児童文学を書こうとするときが多いようです)が、後を絶たないのが現状です。
 著者も、教育関係者(特に道徳教育)が読者なので、噛んで含めるように説明していますが、注目すべきは、著者が「イメージをともなう自由な想像力の発展」のためにファンタジーが有効であることを強調している点でしょう。
 そして、そのファンタジー論の根拠は、ほとんどが「子どもと文学」(その記事を参照してください)における石井桃子のファンタジー論によるものです(ファンタジーだけでなく昔話についても「子どもと文学」によっていますが、そこを書いたのは渡辺茂男です)。
 こうして、著者は、もともとのスタートであった「少年文学宣言」(その記事を参照してください)による「日本変革の論理に上に立つナショナルな児童文学」に、「子どもと文学」のコスモポリタンの立場でインターナショナルな(彼らの言葉を借りると世界基準のですが、実際は英米児童文学の基準です)児童文学の要素を吸収して、自分の児童文学論を深化させていったようです。

児童文学の旗 (1970年) (児童文学評論シリーズ)
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理論社
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石井睦美「皿と紙ひこうき」

2017-11-06 08:49:55 | 作品論
 由香は13軒しか家がない皿山という集落の子です。
 皿山はすべてが陶芸をやっている家ばかりで、男系の一子相伝(子どもが女の子しかいない場合は婿を取る)で何百年も伝統を守っています。
 由香の家でも、陶芸はとうさんとじいちゃんがやっていて、ばあちゃんとかあさんはその手助け(陶芸用の土作り、畑仕事、家事など)をしています。
 でも、由香はそんな皿山や家族が大好きです。
 由香は中学を卒業して、一日三本しかないバスで五十分もかかる最寄りの町の高校に入ります。
 由香は、男女カップルの先輩(やがて男子が東京の大学へ行くので別れることになります)のいる弁論部(ただし、弁論はせずに詩の本を読むだけしかしません)に入り、水曜日だけ活動しています。
 由香のクラスに、東京の有名校からかっこいい男子の伊藤くんが転校してきます。
 伊藤くんは、成績は抜群なのですが、誰とも打ち解けません。
 男子たちは東京出身で成績抜群の彼を敬遠するし、女子はあこがれてはいるものの東京出身でかっこいい彼と自分は釣り合わないと遠巻きにしています。
 由香はそんな彼を見て、やはり成績抜群で同じ高校でいつも一人だけで過ごし、東大に入って皿山を捨てた伯父さんのことを思い出します。
 そんな時、動物が虐殺されて由香の高校に捨てられるという猟奇的な事件が、連続して起こります。
 そして、学校を休むようになった伊藤くんが、犯人だと疑われます。
 由香はおばあちゃんが入院していた病院で、偶然伊藤くんと出会います。
 実は、伊藤くんは大好きなおじいさんが入院したので、二か月だけこちらに転校してきたことがわかります。
 そのおじいちゃんが危篤になったために、伊藤くんは学校を休んでいたのです。
 伊藤くんは、おじいちゃんが亡くなったので東京へ帰って行きました。
 この作品は、2011年の日本児童文学者協会の協会賞の受賞作です。
 僻地に住む方言をバリバリ使う女の子と東京から転校してきたかっこいい男の子という組み合わせは、映画化もされたくらもちふさこの少女漫画「天然コケッコー」を思い出させますが、魅力は本作の方が格段に落ちます。
 まず、主人公たちに魅力が全然ないのが致命的です。
 由香は妙に自分の人生に達観していてあまりに古風な感じですし、伊藤くんにいたってはほとんど描写されていないので最後になって突然にいろいろなことを告白されても、なぜ祖父の看病のためにわざわざ東京の学校を辞めてまで転校してきたのか納得できません。
 また、それ以外の高校生たちも、とても現代を生きている子たちには思えませんでした。
 「天然コケッコー」は十年以上も前の作品で漫画と文学の違いもありますが、そこにはその時代を生きる中学生や高校生が生き生きと描かれていました。
 もしかすると、この作品の高校生たちは、文学少女だった作者の少女時代の高校生像なのかもしれません。
 故郷に残るか、東京に象徴される外の世界に出るかが、作品の大きなテーマになっていますが、その考え方自体がもう古すぎます。
 また、このジェンダーフリーな時代に、男系の一子相伝をはじめとした男女の役割分担化に対して、作者があまりに無批判なのにも驚きました。
 あとがきで作者自身が書いているように、たんに自分の気に入った場所を無条件に作品化しただけでは、本を読まされる読者はたまったものではありません。
 もう一つの日本児童文学者協会賞の「ヤマトシジミの食卓」を読んだ時にも感じましたが、日本児童文学者協会の書き手たちや協会賞の選者たちは、現代の子どもたちや若者たちが生きる過酷な現実から目をそらせて、サザエさんような「牧歌的な家族像」という共同幻想(2012年に亡くなった吉本隆明ではありませんが)にとらわれているのではないでしょうか。

皿と紙ひこうき
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講談社
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古田足日「児童文学と伝統」児童文学の旗所収

2017-11-06 08:45:53 | 参考文献
 1964年11月に「人間の科学」に掲載された評論です。
 以下の小節によって構成されています。

「ぎりぎりの状況のなかで」
 クルト・クリューゲン「オオカミに冬なし」を、同じような極限状態(人肉を食べざるを得ない状況)を描いた日本の小説、大岡昇平「野火」や武田泰淳「ひかりごけ」と比較して、極限状態でも「あかるい」方向へ向かうのが児童文学の特質だとしています(いわゆる児童文学の向日性のことで、これは1980年に出版された那須正幹「ぼくらは海へ」によって鮮やかに打ち砕かれます)。

「人間行動の原型」
 児童文学は行動を描くのが特性だとして、人間行動の原型をとらえた作品の出現を希望しています(この考えは、児童文学者の安藤美紀夫が繰り返し主張していた、「児童文学とは「アクション(行動)とダイアローグ」で描く文学だ」という考えに通じるものがあります。

「少年文学の旗の下に」
 題名とは異なり、人間発展の行動の原型と民族の行動の原型がどのようにからみあっているかが、児童文学の重要な問題の一つだとしています。

「伝統に対する挑戦」
 1953年に著者たち「早大童話会(早大少年文学会に改名)」のメンバーが発表した俗に「少年文学宣言」と言われる「少年文学の旗の下に」(起草は鳥越信。その記事を参照してください)をきっかけとした論争や、1960年に出版された石井桃子たちの「子どもと文学」(その記事を参照してください)による、いわゆる「童話伝統批判」について説明しています(内容は今までの記事と重複しますので、関連する記事を参照してください)。

「半分空想の世界」
 「子どもと文学」がコスモポリタンの立場でインターナショナルな(石井桃子たちの言葉を借りると世界基準ですが、実際は英米児童文学の基準です)児童文学を目指したのに対して、「少年文学宣言」は日本変革の論理に上に立つナショナルな児童文学を目指しているとしています。
 著者たちの主張の根拠としては、「早大少年文学会」での盟友だった神宮輝夫の言葉を借りて、「子どもと文学」が理想とする児童文学は豊かな先進国のものであるのに対して、高度経済成長以前である日本は発展途上国の児童文学と基礎を同じくしなければならないとしています(神宮輝夫は英米児童文学が専門で、「少年文学宣言」派では数少ないインターナショナルな視野を持つ児童文学者だったので、もう一つの大きな流れである「子どもと文学」派との隙間を埋めるような働きをしていたように思えます)。
 つまり、彼らの目指す児童文学は、ナショナルであると共にインターナショナルなのですが、手を結ぶ先は英米のような先進国でなく日本と同じような発展途上国であると主張しているのです。

「子ども対大人のありかた」
 リチャード・チャーチ「地下の洞穴の冒険」を例にして、子どもたちだけで問題を解決しようとするが大人との信頼関係は保たれているとしています(この人間関係は、イギリスだけではなくドイツのケストナー「エーミールと探偵たち」などの諸作品とも共通しています)。

「独力で行動する子ども」
 ルイス「オタバリの少年探偵たち」やアーサー・ランサム「ツバメ号とアマゾン号」を例にして、大人に頼らずに行動する子どもたちが同様に描かれているとして、これがイギリス社会の理想であり、子どもに対する伝統的態度なのだろうとしています。

「断絶している日本児童文学の歴史」
 題名と違って、引き続き、イギリス児童文学はこうした子ども像が伝統として連続発展しているとしています。

「貧しさと環境の激変」
 こうしたイギリス児童文学の伝統の継承に対して、日本の児童文学では、巌谷小波たち、の「お伽噺」と小川未明たちの「近代童話」の間にも、そして「近代童話」と「現代児童文学」の間にも、断層があるとしています(断層を起こそうとして活動した当事者の一人である著者が言うのもなんか変なのですが)。
 こうした断層の原因として、豊かなイギリス社会(実際は、当時も日本以上の格差社会なので、豊かなのは中流家庭以上だけなのですが、著者はそのことよりも大英帝国の発展途上国への侵略と搾取の上に成り立っていることを指摘しています)に比べて、日本が経済的に豊かでないことと、高度経済成長政策による急激な都市化による環境の激変をあげています。

「奇妙な精神風土」
 著者は、もうひとつの日本の特殊性として、論理でなく心情で判断することを指摘しています。

「児童文学のリアリズム」
 自然主義リアリズムでは、現実のみじめさ、まずしさを主張するだけで、心情のリアリズムしか生まれないとしています。
 そして、空想の中のできごとを現実化し、しかも日常的法則性の中でできあがったとき、児童文学のリアリズムは生まれると主張しています。

「伝統に法則と形を」
 自分自身のうちに生きている伝統に法則と形を与えることが必要で、その法則と形とは人間発展の行動の原型としてとらえられねばならないとしています。
 そして、「そのとき、民族の行動の原型も姿をあらわすだろう。伝統とは現在を乗りこえていく、その行動のなかではじめてとらえられるものなのである。」と、締めくくっています。

児童文学の旗 (1970年) (児童文学評論シリーズ)
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