1964年2月に「道徳教育」に掲載された評論です。
のっけから「文学教材」という言葉自体を否定して、この評論では「文学作品」として考えるとして、「教材」ありきの教育関係者にくぎを刺しています。
それは、「文学作品は直接、道徳指導にやくだつものではない」という認識によるものです。
この著者の考え方は、児童文学者ならば基本中の基本なので、あらためて解説する必要もないぐらいなのですが、その基本すら忘れて(あるいは知らずに)著者が例にあげているような陳腐な教訓話を書く人(長年教職に携わった方が児童文学を書こうとするときが多いようです)が、後を絶たないのが現状です。
著者も、教育関係者(特に道徳教育)が読者なので、噛んで含めるように説明していますが、注目すべきは、著者が「イメージをともなう自由な想像力の発展」のためにファンタジーが有効であることを強調している点でしょう。
そして、そのファンタジー論の根拠は、ほとんどが「子どもと文学」(その記事を参照してください)における石井桃子のファンタジー論によるものです(ファンタジーだけでなく昔話についても「子どもと文学」によっていますが、そこを書いたのは渡辺茂男です)。
こうして、著者は、もともとのスタートであった「少年文学宣言」(その記事を参照してください)による「日本変革の論理に上に立つナショナルな児童文学」に、「子どもと文学」のコスモポリタンの立場でインターナショナルな(彼らの言葉を借りると世界基準のですが、実際は英米児童文学の基準です)児童文学の要素を吸収して、自分の児童文学論を深化させていったようです。
のっけから「文学教材」という言葉自体を否定して、この評論では「文学作品」として考えるとして、「教材」ありきの教育関係者にくぎを刺しています。
それは、「文学作品は直接、道徳指導にやくだつものではない」という認識によるものです。
この著者の考え方は、児童文学者ならば基本中の基本なので、あらためて解説する必要もないぐらいなのですが、その基本すら忘れて(あるいは知らずに)著者が例にあげているような陳腐な教訓話を書く人(長年教職に携わった方が児童文学を書こうとするときが多いようです)が、後を絶たないのが現状です。
著者も、教育関係者(特に道徳教育)が読者なので、噛んで含めるように説明していますが、注目すべきは、著者が「イメージをともなう自由な想像力の発展」のためにファンタジーが有効であることを強調している点でしょう。
そして、そのファンタジー論の根拠は、ほとんどが「子どもと文学」(その記事を参照してください)における石井桃子のファンタジー論によるものです(ファンタジーだけでなく昔話についても「子どもと文学」によっていますが、そこを書いたのは渡辺茂男です)。
こうして、著者は、もともとのスタートであった「少年文学宣言」(その記事を参照してください)による「日本変革の論理に上に立つナショナルな児童文学」に、「子どもと文学」のコスモポリタンの立場でインターナショナルな(彼らの言葉を借りると世界基準のですが、実際は英米児童文学の基準です)児童文学の要素を吸収して、自分の児童文学論を深化させていったようです。
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