現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

ファールボール

2020-05-27 09:07:17 | 作品
 ヒロシは、大小ふたつのかぎをはずして、アパートのドアをあけた。
 入り口が北向きなので、中は真っ暗だ。手探りでスイッチを捜して、玄関の電灯をつけた。三十ワットの蛍光灯が、ぼんやりと灯る。
 いつもの習慣で、ドアの内側の郵便受けに手をつっこんでみる。
 ガスの料金表、建売り住宅の広告、そして、スーパーの特売のちらし、……。
 いろいろなものが入っている。
(あっ!)
それらにまじって、赤や青に塗り分けられた、ひときわ派手な封筒が入っていた。表には、『コーラを飲んで、東京ドームへいこう!』と、大きな文字で書かれている。
(もしかして?)
 ヒロシは急にドキドキしてきた。
 ダイニングキッチンの椅子にランドセルを放り出して、ビリビリと封筒を破いた。
(やったあ!)
 当選したのだ。封筒の中には、「おめでとうございます」の手紙と一緒に、東京ドームでのジャイアンツ対ドラゴンズ戦の招待券が二枚入っていた。
 ヒロシがこの清涼飲料水メーカーのプレゼントに応募したのは、もう三週間も前のことだった。
『毎週、毎週、東京ドームの巨人戦に、百組二百名をペアでご招待』という広告につられて、ハガキを出してみたのだ。
 応募してからの数日は、
(チケットが送られてきていないか?)
と、学校から帰るとすぐに郵便受けを念入りにチェックしていた。
 でも、その期待は、毎日、裏切られた。郵便受けの中には、たくさん入ってくる広告のチラシやダイレクトメールだけしかなかったのだ。一週間たち、二週間たちするうちに、期待はしだいに薄れていった。今では、応募したことすら、ほとんど忘れかけていたほどだ。
 ヒロシはこのチケットで、久しぶりにとうさんと野球を見にいこうと思っていた。去年までは、とうさんと一緒に、野球場へよく行っていた。ホームグラウンドは、東京ドームだった。とうさんがファンなので、ヒロシもジャイアンツを応援するようになっていた。
 ジャイアンツのビジターの試合を追って、神宮球場や横浜スタヂアムへも行った。ときには、交流試合を見るために、パリーグの西武の本拠地である西武ドームやロッテの千葉マリンスタジアムにまで、足をのばすこともあった。
 でも、今シーズンは、まだ一度もとうさんと野球を見にいっていなかった。

 ご飯はおいしそうに炊けたし、味噌汁の用意もできている。今日の味噌汁の実は、とうさんの好きな豆腐と油揚げだ。
 あとはとうさんが途中で買ってくるおかずを並べれば、夕ご飯の支度は完了する。
 今日は火曜日。火曜と木曜だけは、とうさんも早く帰ってきて、一緒に夕ご飯を食べることになっていた。
 いつもとうさんは、乗り換え駅にある駅ビルの食料品売り場で、夕ご飯のおかずを買ってくる。
 飽きないように、(和、洋、中、洋、和、洋、中、洋)というローテーションを守っている。
 テレビの時報とともに、七時から始まるNHKのニュースのテーマ曲が流れてきた。とうさんはまだ帰ってこない。
(遅いなあ)
 ニュースを見たがるとうさんがいないので、BSの野球中継に切り替えた。ちょうどジャイアンツが攻撃中だった。
その回の表裏が終了して、テレビがCMに変わっても、とうさんは帰ってこなかった。
 ルルルー、ルルルー、……。
 七時半をまわったころ、ようやく電話がかかってきた。
「はい」
 急いでヒロシが出てみると、やっぱりとうさんからだった。
「えっ? うん。……。そう」
 ヒロシはそっと受話器を置いた。とうさんからの電話は、帰りが遅くなるから、一人で、外で食べるようにということだった。
 最近は、火曜や木曜でも、今日のように帰れないことが増えてきている。平日に一緒にご飯を食べられるのは、週に一回あるかないかだ。
 おとうさんが帰れない時は、ヒロシは外食することになっている。家の近くの定食屋やラーメン店に行くことが多い。
(ご飯を炊くんじゃなかったなあ)
と、ヒロシは思った。
 せっかく炊いたご飯が、また必要なくなってしまった。冷凍庫の中には、一人前ずつラップにくるんで冷凍したご飯がだいぶたまっている。
 ヒロシは家中の電気を消すと、戸締りして玄関を出た。

 家の近くの立花食堂のガラス戸を、ヒロシはいつものように元気よく開けた。
「らっしゃい」
 カウンタの中から、おじさんが声をかけてきた。
「こんばんは」
 ヒロシはおじさんたちにあいさつすると、テレビがよく見えるいつもの席に座った。
「ヒロちゃん。今日もおとうさん、遅いの?」
 コップの水を持ってきたおばさんが、少し心配そうな顔でたずねてくれた。すっかりおなじみになっているので、火、木は家で食べるはずなことを知っているのだ。
「うん。どうしても、お得意さんの接待に、顔を出さなきゃならないんだって。でも、九時半ごろには帰れるって」
 がっかりしているのを気づかせまいとして、ヒロシは明るい声で答えた。
「今日はなんにする?」
「うーんと」
 壁にはられたメニューを、あらためてながめた。四百五十円のモツ煮込み定食からいちばん高いステーキ定食まで、いろいろな定食が二十種類近くもならんでいる。
 でも、もう一年以上も毎週のように来ているので、ほとんど食べたことがあった。
(急に帰れなくなったとうさんがいけないんだから、今日はステーキ定食でも食べてやろうか?)
 だけど、ステーキ定食は千円もしてしまう。いつもはよほどのことがないかぎり、七百円以内の物をたのんでいる。
 さんざん迷ったあげくに、けっきょく五十円だけぜいたくすることにして、七百五十円の焼肉定食にすることにした。
 ヒロシは料理ができるのを待ちながら、ちょっとピントのくるった食堂のテレビでクイズ番組を見ていた。そして、とうさんが帰ってきたら、野球のチケットのことを話そうと思った。
「はーい、お待ち」
 おばさんが、焼肉定食を持ってきてくれた。
 皿からは、うまそうな湯気がたちのぼっている。
「あれっ、おばさん。サラダはたのまなかったよ」
 お盆の上に、定食には入っていない野菜サラダがのっていたのだ。
「いいのよ。ヒロちゃん、よく来てくれるから。サービス、サービス」
 おばさんはちょっと照れくさそうに笑いながら、テレビの画面をちょうど八時になって始まったバラエティ番組から、ヒロシの好きなBSのナイター中継に替えてくれた。
「いただきまーす」
 ヒロシは大きな声でいうと、勢いよく食べ始めた。

 その晩十時を過ぎても、とうさんは帰ってこなかった。
 いつもなら遅くなるときには、
「先に寝ているように」
と、とうさんから電話がはいる。
 でも、今日はその電話もなかった。
 九時から始まった映画が終わった。ラブシーンがたくさん出てくるアクション物だった。とうさんが一緒だったら、お互いに照れくさくてとても見られやしなかっただろう。
 ヒロシはリモコンで次々とチャンネルを切り換えながら、スポーツニュースのはしごを始めた。今日は大好きなジャイアンツの羽賀がホームランを打っているので、なかなか楽しかった。
 けっきょく羽賀のホームランを六回も見ることになったけれど、それでもとうさんは帰ってこなかった。

 とうとうあきらめて先に寝ようとしたとき、ようやく玄関のドアのところで音がした。時計の針は十二時をまわっている。
「おかえり」
 ヒロシは玄関までいって、とうさんを出迎えた。
「あれっ、ヒロシ。なんだ、こんな遅くまで。早く寝なきゃだめだろ」
 酔っ払っているようで、ろれつがすっかりまわらなくなっている。
「だって、電話がなかったから」
 ヒロシは少し不服そうに答えた。
「あれっ、そうだったかな」
 とうさんは赤い顔をして考えている。
「うん、なかった」
 もう一度はっきりといってやった。
「そうか。わりい、わりい。そりゃ、おとうさんが悪かったな」
 とうさんはふらふらしながらダイニングキッチンへ入っていくと、いすにドシンと腰をおろした。
「だいじょうぶ?」
 ヒロシが心配すると、
「ああ。ヒロちゃん、悪いけど、水をいっぱい」
 とうさんは酒臭い息をはきながら、片手でヒロシをおがんだ。
「うん」
 ヒロシがコップを渡すと、とうさんはグビグビとうまそうな音をたてて、水をいっきに飲みほした。
「ふーっ」
「おとうさん、もう寝ようよ」
「ああ」
 とうさんはヒロシが差し出した手にはつかまらずに、ふらふらと自分で寝室へ歩いていった。そして、ネクタイと背広を、もどかしそうにあたりに脱ぎ散らかすと、ワイシャツ姿のまま、ヒロシが敷いておいたふとんの上に横になった。
「おとうさん」
 ヒロシが声をかけた。野球のチケットのことを、話そうと思ったのだ。
 でも、とうさんは、すぐに大きないびきをかいて眠ってしまった。

 かあさんが病気で亡くなってから、もう二年近くがたっていた。ヒロシが四年生の時だった。
 ヒロシは、去年までのように時々かあさんを思い出して、涙が出てしまうようなことはなかった。とうさんと二人だけの生活にもすっかり慣れて、洗濯だって、掃除だって、一人でできるようになっている。
 ヒロシが心配なのは、とうさんなのだ。ここのところとうさんは、かえって前よりもさびしそうだった。白髪もすごく増えて、なんだか急に年をとったように見える。
 ヒロシと二人だけの生活が始まったころ、とうさんは本当に一所懸命だった。
 毎日、なんとかして、ヒロシと一緒に夕ご飯を食べようと、必ず七時までには帰ってきた。遅れてしまったときなど、おかずの入ったビニール袋をさげて、駅から走ってきたことさえあった。とうさんは何もいわなかったけれど、玄関のドアを開けたときにまだハアハアと息をはずませていたから、ヒロシにはわかってしまった。
 土曜日や日曜日には、いつもヒロシと遊んでくれた。もちろん、毎週、毎週、遊園地へ行ったり、野球見物をしたりというわけにはいかない。忙しいときには、近所の公園で一時間キャッチボールをするだけのこともあった。それでも、なんとか一緒にがんばっていこうとしていた。
 しかし、時間とともに二人の生活は、だんだん変わってしまっていた。
 とうさんの仕事はますます忙しくなり、夕食までに帰れない日が週一日になり、やがて二日になった。そして、遅くなったときには、必ずお酒を飲んでよっぱらっていた。
 今では、土曜日にもほとんど出勤するようになり、日曜日は昼近くまで寝ていることが多くなっている。
 もう半年近くも、ヒロシはとうさんとキャッチボールをやっていなかった。

 日曜日の夜、ヒロシは久しぶりに、とうさんと一緒に夕ご飯を食べていた。
「おとうさん。六月十二日の火曜日の夜、忙しくないかなあ」
 食後のお茶を飲んでいるときに、ヒロシは野球のチケットのことをようやく話すことができた。
「えっ、なんだい?」
「チケットが当たったんだ」
 ヒロシは、二枚のジャイアンツ戦のチケットを、とうさんに見せた。
「へーっ、すごいな」
 おとうさんも、興味をそそられたみたいだ。
「一緒に行けるかなあ」
 ヒロシは、遠慮がちに聞いてみた。
「うーん、ちょっとなあ」
 とうさんは、カバンから分厚い手帳を取り出してきた。
「あー、残念だなあ。その日は、名古屋まで日帰りの出張があるんだ。試合までに戻ってくるのは、ちょっと無理だなあ」
 とうさんはすまなさそうにいった。
「……」
「ヒロちゃん。悪いけど、クラスの友だちか誰かと、行ってくれないかな」
 とうさんにそういわれて、ヒロシは仕方なくうなずいた。

 その晩、ヒロシは自分の部屋で算数の宿題をやっていた。教科書の分数の計算が、今日はなかなかはかどらない。ついつい、ジャイアンツ戦のチケットのことを考えてしまう。とうさんと見に行かれないことが、まだ残念でならなかった。
(もっと早く、チケットが来ればなあ)
 そうすれば、とうさんも都合がついたかもしれない。
(誰を誘おうかなあ?)
 クラスの友だちを思い浮かべてみた。マコトにしようか、それともケイくんがいいかな。東京ドームのジャイアンツ戦ならば、誰を誘っても大喜びで来るだろう。
 でも、ヒロシは、やっぱりとうさんと行きたかった。
 ポンポン。
 部屋のふすまを軽くノックする音がした。
「なあに?」
 振り返ると、ふすまを開けてとうさんが入ってきた。
「ヒロちゃん。おとうさん、考えてみたんだけど、なんとか仕事を三時までにきりあげれば、ぎりぎり試合に間に合うかもしれない」
 とうさんは、少し照れくさそうな顔をしてそういった。

 ジャイアンツ戦の当日になった。
 ヒロシは四時少しすぎに、新宿のホームで総武線の電車を待っていた。
 東京ドームのある水道橋駅は、ここから七つ目。十五分ぐらいでつける。六時ちょうどのプレーボールだから、時間はたっぷりすぎるぐらいだ。
 まだラッシュ前なので、ホームに入ってきた電車はすいていた。車内のところどころには、ヒロシと同じように東京ドームへ行くらしい人たちも乗っている。
 ななめ前の家族連れもそうだった。
 三年生ぐらいの男の子は、首から大きな双眼鏡をぶらさげているし、妹のほうはジャイアンツのマーク入りのメガホンを持っている。
 父親もビデオカメラにメモリーカードを入れたり、ファインダーをのぞいたりしていた。母親の横の紙袋には、大きな赤い水筒が入っている。
 男の子が妹の頭を軽くこづいて、母親に叱られていた。そして、なぜかみんなで楽しそうに笑い出した。
(やっぱり双眼鏡を持ってくれば良かったかな)
 男の子が双眼鏡で車外のけしきをながめ始めたときに、ヒロシはそう思った。
 ヒロシがかあさんと最後に野球を見にいったのは、三年前、三年生のときだった。
 場所は所沢の西武の球場。もちろん、とうさんも一緒だった。
 西武線の電車の中で、ヒロシはちょうど今日、目の前にいる男の子と同じようにはしゃいでいたかもしれない。

「じゃあ、トルコは?」
 横にすわったとうさんがたずねた。
「えーっと」
 ヒロシはあわててヨーロッパとアジアの境目あたりの世界地図を、頭の中に思いうかべた。たしかトルコはヨーロッパの一番はじで、すぐ隣からはアジアになっていた。
「あっ、わかった。アンカラだ」
 ヒロシは得意そうに答えた。
「正解。それじゃ、ブルガリアは?」
「ソフィア」
 これはすぐに答えられた。東ヨーロッパの地名は得意なのだ。
「つぎは?」
 ヒロシは勢い込んで、とうさんに催促した。家を出てからずっと、世界の首都当てクイズを出してもらっていた。
「うーん、もう忘れたよ。降参」
 とうさんが笑いながらいった。
「えーっ、もっとやろうよ」
「じゃあ、今度は県庁所在地にしたら」
 かあさんが笑いながら、とうさんに助け舟を出した。
「うん、やって、やって」
 ヒロシはとうさんにせがんだ。
「もう疲れたよ。おかあさん、代わってくれよ」
 かあさんはクスクス笑っていた。

ジャイアンツの主砲、羽賀選手がフリーバッティングをしている。
 カーーン。
 かわいた気持ちのよい音をたてて、ボールは次々に外野席へ打ち込まれていく。
 ワーッ。
 そのたびにドーム全体に歓声がおこり、試合前の興奮がいっそう高まってくる。
 フェンスぎわでは、エースピッチャーの栗田投手が軽いランニングで体をほぐしていた。
「本日の先発投手をお知らせいたします。ジャイアンツのピッチャーは栗田、……」
 ウワーッ!
 一段と大きな歓声が、場内に巻き起こった。
 試合開始三十分前。東京ドームはすでに八分の入りだった。ヒロシのまわりも、とうさんの席を除いてはほとんどうまっている。
 羽賀選手のバッティング練習が終わった。ゆっくりとベンチへ引き上げて行く羽賀選手に、ヒロシは双眼鏡を合わせた。
 さんざん迷ったあげくに、入り口横の売店で双眼鏡を借りてきていた。
 招待券の席は一応内野席とはいえ、広すぎるほどの東京ドームの一番高いところにある。そこからはグラウンドの選手の顔は、肉眼ではぜんぜん見えなかった。

 六時ちょうどに、試合が始まった。
 ワーッ。
 東京ドームは、好ゲームを期待するファンの興奮に包まれている。
 でも、とうさんはまだやってこなかった。
 一回、二回、……。
 ゲームはどんどん進んでいく。
 初回に先取点をあげたドラゴンズが、試合を有利に進めている。ヒロシの応援しているジャイアンツは、なかなかチャンスがつかめなかった。
 三回になっても、まだとうさんは現れなかった。 
 心配になったヒロシは、イニングの合間ごとに、入り口までとうさんを捜しにいった。もしかすると、渡しておいたチケットをなくして、困っているのかもしれないと思ったからだ。ヒロシは携帯を持っていないから、とうさんからは連絡できない。
でも、入り口付近には、それらしい人の姿は見えなかった。よっぽどそこにあった公衆電話からとうさんのスマホへ電話しようとも思ったが、まだ仕事中かもしれないと思うとそれもできなかった。
 回をおうごとに、ヒロシはだんだんおなかがすいてきた。
 でも、双眼鏡の借賃のほかに保証料も取られていたし、試合開始前にはコーラも買っていたので、サイフにはもう百九十円しかなかった。これでは、いちばん安いアメリカンドッグも買えやしない。
(最後までとうさんが来なかったらどうしよう?)
 そんなことまで頭の中にちらついて、ヒロシはゲームどころではなくなってしまった。

 ようやくとうさんが現れたのは、五回裏のジャイアンツの攻撃中だった。
 得点は三対一と、相変わらずドラゴンズがリードしていた。
「ごめん、ごめん」
 とうさんは、顔の前で手を合わせてヒロシにあやまった。
 出張先の仕事が長びいて、座席予約していた新幹線に間に合わなかったのだ。これでも、東京駅からタクシーを飛ばしてきたらしい。
「めし食ったか?」
 ヒロシは黙って首を振った。
「なんだ。先に食べてても良かったのに」
「これ借りたら、お金が足りなくなっちゃったんだ」
 ヒロシは、とうさんに双眼鏡を差し出してみせた。
「そうかあ。悪かったなあ」
 とうさんはすぐに売店へ走っていって、「ドーム弁当」という大きな弁当をふたつと、生ビールとコーラのLを買ってきてくれた。
 おなかをすかせていた二人は、口もきかずに弁当をガツガツと食べ始めた。とうさんも、気ばかりせいて新幹線の中で何も食べていなかったらしい。

 試合の方は、そんな二人にはかまわずに、どんどん進んでいく。依然としてドラゴンズの先発投手が好調で、ジャイアンツはなかなか点が取れない。
「あーあ」
 観衆が大きなため息をついた。ツーアウトながら満塁のチャンスを迎えていたのに、四番の羽賀が内野フライに倒れてしまったのだ。
「残念だったねえ」
 ヒロシも、隣のおとうさんに話しかけた。
「そうだねえ」
 でも、おとうさんは、どこか上の空みたいだ。弁当を食べ終わってからも、なかなかゲームに気分を集中できないようだった。
「ちょっと電話をしてくる」
 おとうさんは、そういってスマホを取り出しながら立ち上がった。
(どうしたんだろう?)
 十分以上たって、おとうさんはようやく帰ってきた。もしかすると、仕事の途中だったのを、無理して来てくれたのかもしれない。そう思うと、ヒロシの方も、心の底からはゲームを楽しめなくなってしまった。

 ゲームは、終始ドラゴンズペースで進んでいた。八回の表を終わって六対一と、ジャイアンツは五点もリードされている。
 この回の先頭バッターは、四番の羽賀。
 でも、東京ドームの観衆には、早くもあきらめムードがただよっていた。中には、帰りかけて通路で振り返りながら見ている人もいる。きっと羽賀が凡退したら、そのまま帰ってしまうつもりなのだろう。
 ヒロシも大好きな羽賀選手の打席なのに、ついぼんやりとしてしまっていた。
 カーーン。
 歓声になりかかった声が、すぐにため息にかわった。
(ファールかな)
と、ヒロシは思っていた。
 アアーッ。
 まわりの人たちが大声を出した。
 顔をあげると、ファールボールがグングンきれながら、すぐそこまでせまっていた。
「あっ!」
 ヒロシは、思わず目をつぶってしまった。
「あぶない!」
 とうさんが大声を出して、ヒロシにおおいかぶさってきた。ワイシャツにしみこんだ汗の匂いに混じって、小さいころ同じふとんで寝たときのとうさんの匂いがした。
 ゴン。
 ボールの当たる鈍い音と同時に、
「ウッ!」
と、とうさんが短くうめく声が聞こえた。
 でも、とうさんは、すぐにヒロシに声をかけた。
「だいじょうぶかっ?」
 目を開けると、すぐそばに心配そうなとうさんの顔があった。
「うん」
「どこにも当たらなかったか?」
 とうさんは、まだ真剣な声を出していた。

「すみません。ボールが当たりませんでしたか?」
 係のおにいさんが、白い帽子をぬぎながらあやまっている。
「えっ? あっ、いてて」
 とうさんは、急に左腕を押さえて顔をしかめた。
「もし、あまりお痛みのようでしたら、医務室で応急手当てはできますけれど」
「うーん、まあ、いいや」
「そうですか。それで、ボールは?」
「えっ?」
 とうさんは、あわててあたりをキョロキョロし始めた。ヒロシやまわりの人たちも椅子の下などを捜したが、ボールはどこにも見当たらなかった。
 ワーッ。
 急に歓声が巻き起こった。
 あわててグラウンドを見ると、羽賀の打球が左中間の真ん中を抜けていくところだった。
 ゆうゆうとツーベースヒット。
 双眼鏡でのぞくと、羽賀は得意そうな顔をして、二塁ベース上でガッツポーズをきめている。
 羽賀のツーベースをきっかけに、試合は急に盛り上がっていった。
 その回は同点にこそならなかったものの、ジャイアンツが三点を返して、六対四と二点差にまで詰め寄っている。
「いい試合になってきたな」
 タンクをかついだおねえさんから新しく買った生ビールを、とうさんはグビグビと気持ちのいい音をたてて飲み始めた。
「うん、代打の山内がヒットだったら、もっと良かったのにねえ」
 ヒロシも、とうさんが買ってきてくれた鶏の唐揚げをかじりながら答えた。
「ああ。もうちょっとだったな。あれが抜けてたら、二塁ランナーの石塚は俊足だから、同点になっていたかもしれん。でも、つぎの回も羽賀までまわるから、うまくいけば逆転できるかもしれないぞ」
 とうさんはそういって、残っていた生ビールを一気に飲み干した。
 逆転の期待をしているのは、ヒロシたちばかりではない。げんきんなもので、二点差になったとたんに、帰りかけた人たちまでが席へ戻ってきている。

「あーあっ」
 とうさんが大きなため息をついた。
 ジャイアンツの最後のバッター山森が、ドラゴンズのクローザー(試合の最後を締めくくるピッチャー)の上村の速球で、セカンドフライに打ち取られたのだ。
 六対五。ドラゴンズが、なんとか一点差で逃げきってしまった。
「残念だったなあ」
 とうさんは席を立つのを、まだ名残惜しそうにしていた。
「悔しいねえ」
 ヒロシも腰をおろしたまま答えた。
 でも、最後にきて盛り上がったゲーム展開には、充分満足していた。ジャイアンツは、最終回も羽賀のタイムリーヒットで一点差にまで詰め寄ったのだ。
 それに、その一球一球のプレーを、とうさんと一緒に大声を出して思いきり応援できたのもうれしかった。
「よーし、行くか」
 とうさんはようやく立ち上がると、大きくひとつ伸びをした。
「うん」
 ヒロシも立ち上がると、家から持ってきたとうさんと自分の野球観戦用の小さなビニール座布団を、手提げ袋に入れようとした。
「あっ!」
 思わず声を出してしまった。
「どうした?」
 先に歩きだしかけたとうさんが振り返った。
「おとうさん、これ」
 ヒロシはそっと紙ぶくろを開いてみせた。
 中には硬式ボールがひとつ入っていた。
「えっ? ああ、さっきのファールボールだな」
「うん。気づかないうちに、紙ぶくろの中に入ってたんだ」
「ふーん。でも、うまいこと入ったもんだな」
 とうさんは、感心したようにボールを見ていた。
「どうしようか? 係の人に返したほうがいいかなあ?」
「いやあ、最近はファールボールももらえることになったんじゃないかな」
「そう?」
「いいから、もらっておけよ」
 とうさんは、急にニヤッと笑って付け加えた。
「もしほんとはもらえなくても、治療代の代わりだよ。」
 とうさんは、ワイシャツの袖をまくってみせた。さっきボールがあたったところが、青くあざになっている。
「そうだね、治療代だね」
 ヒロシもうなずいた。
「うん、そうだ。治療代だ」
「ふふふ」
 わざとまじめくさった顔をしてみせたとうさんが、ヒロシにはおかしかった。
「ははははは」
 とうさんも、おかしそうに大声で笑い出した。
 そして、ヒロシはいっしょに大きな声で笑いながら、このボールで今度の日曜日に、とうさんとキャッチボールをしたいなと思っていた。

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