現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

庄野潤三「蟹」プールサイド小景・静物所収

2020-05-03 11:57:46 | 参考文献
 1959年11月号の「群像」に掲載されて、翌年に中短編集「静物」に収録された短編です。
 この後に続く「静物」や彼のライフワークになる家庭小説(「絵合わせ」、「夕べの雲」など)のスタイルが確立したエポックメイキングな作品です。
 海辺の宿(その後民宿と呼ばれるような小さな宿ですが、画家が海辺を写生するために使われることが多いので、個々の部屋にセザンヌ、ルノワール、ブラックなどの洒落た画家の名前がついています)に4日間滞在する家族(父親(主人公)、母親(文中では細君と表記されています)、女の子(小学六年生)、男の子(小学二年生)、小さい男の子の五人で、これは作者の実際の家族構成と同じです)の何気ない日々の様子(部屋の中でも会話、両隣のやはり子供連れの家族とのふすま越しの交流(?)、海辺の様子など)を描きながら、生きることの意味(味わいといったほうが正確かもしれません)までもを描き出していきます。
 さらに、この作品で、作者は一家の中心としての「父親」という自分自身のポジションを確立して、この後の作品でそれをより強固なものにしていきます。
 他の家族は、あくまでも中心である父親との、相対的なものとして描かれることになります。
 配偶者は、母親でもなく、妻でもなく、ましてや個人名でもなく、あくまでも「細君」なのです。
 女の子はあくまでも長子との役割ですし、男の子は姉に対しては弟で、弟に対しては兄の役割ですし、下の男の子はあくまでも末っ子の役割が与えれています。
 このスタイルは、その後の作品で、若干のバリエーションはあるものの、作者の晩年の老境小説に至るまで、終始一貫しています。
 そのため、長年の読者(私もその一人ですが)、子どもたちの成長をまるで親戚か何かのようにして味わうことになります。
 こうした作者の作風は、巻末の山室静の解説にあるように、ともすれば「小市民的」と批判を受けました。
 しかし、作者は頑なにこのスタイルを終生守り続け、より強固なものにしていったのです。
 また、その家族観は、私が学生だった1970年代でも、もう古風なものでした。
 でも、それは滅び去る古き佳き時代を懐かしむような感覚を味合わせてくれました。
 そう言えば、ちょうど私が二十歳の時に、作者の作品を薦めてくれた同年の友人は家族関係がうまくいっていませんでした。
 彼にとっては、作者の作品を読むことは、家族とあるべき関係を得ることの代償行為だったかも知れません。






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ある天文学者の恋文

2020-05-03 11:08:30 | 映画
 2016年公開のイタリア映画(英語とイタリア語が使われています)です。
 世界的な天文学者が、自分の死ぬ直前の三ヶ月間に、年の離れた恋人(大学院博士課程の学生ですが、スタントマンのアルバイトもやっていて、無謀なことからカミカゼと呼ばれています)のために、膨大な手紙、メール、ビデオレターなどを残して、彼の死後、弁護士などを通して、彼女が助言を必要であろう時に送り届けるという風変わりなラブストーリーです。
 すごくいいいタイミングで恋文が送られてくるので、最初は彼女は彼が生きていると思っていました。
 しかし、大学での天文学の授業中に、黙祷を捧げるために彼が死んでいることを教員から知らされてからは、なぜまだ恋文が送られてくるかの謎解きが始まります。
 また、途中で、彼が彼女の母親との和解(彼女の運転する車で事故があって、実の父親を亡くしたのが原因のようです)を勧めた時に、一旦二人の関係が解消されるというアクシデントもあって、ストーリーを盛り上げます。
 結論から言うと、彼の助言のもとで、母親とも和解し、博士号も獲得し、憎まれていた博士の遺族(特に娘。彼女と三ヶ月しか年が違わない)とも何故か和解でき、新しい恋人(今度は年相応な)も出現しそうな、彼女にとってはハッピーエンドなのですが、どうも見終わった後でしっくり来ません。
 それは、天文学者とその若い恋人の馴れ初め(六年前だとされています)が描かれていないので、なぜここまで互いに惹かれるのかがもう一つはっきりしないからでしょう。
 彼女が、実の父親を自分の運転でなくしたことによる一種のエディプス・コンプレックスだということは類推できますし、天文学者が提供したゴージャスな関係(イタリアの別荘での暮らしも含まれます)も想像できるのですが、それだけでこの狂気とも言えるほどマニアックなことをする(それはこの映画の最大の見せ場ですし、けっこう面白いのですが)老人をここまで愛する理由がわかりません。
 天文学者の方でも、この若い女性(大変個性的な魅力を持っていますが)にここまで夢中になる理由がはっきりしません。
 家族との不和、一種のロリータ・コンプレックス、自分の死を意味づけるためなどの理由が考えられますが、いずれにしてもエピソードとしてきちんと描かれていないので、想像の域を出ません。
 一つ一つの場面は非常におしゃれに魅力的に作られているのですが、どこか作り物めいてもうひとつ観客の心に響いてこないのです。



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座頭市二段斬り

2020-05-03 09:30:36 | 映画
 1965年公開の娯楽時代劇です。
 1960年代から1970年代にかけて、26本も制作された勝新太郎主演の人気時代劇シリーズの第10作です。
 現在見ると、マイノリティへの配慮などに欠ける点はありますが、娯楽映画のつぼをよく捉えて作られています。
 盲目でありながら居合い切りの達人という設定を最大限に活かした作品構成になっていて、観客のフラストレーションを徐々にためておいて、ラストで一気に解放します。
 ストーリーは水戸黄門のような勧善懲悪のパターンをきちんと踏襲していますし、登場する悪役も典型的なキャラクター(金と色にまみれた悪代官、あこぎな町の顔役、腕の立つ用心棒など)に設定されています。
 最大の見せ場である殺陣のシーンはたっぷりと時間を取っていて、興ざめな出血シーンなどは一切なく、一種の観客とのお約束の中で、バッタバッタと悪人を百人ぐらい斬り倒す爽快感だけが残ります。
 その一方で、坪内ミキ子、三木のり平、加藤武、小林幸子(子役)などの役達者が脇を固めているので、演技や挿入歌の水準も意外に高いものがあります。
 この映画シリーズは勝新太郎の代表作で、一定以上の年齢の観客にはお馴染みになっているので、1974年には勝新太郎主演のテレビ・ドラマ・シリーズ、1989年には勝新太郎自身が監督したリバイバル作品、2003年には北野武監督主演の作品なども作られました。


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