現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

荒野の決闘

2021-05-01 21:02:47 | 映画

 1946年の、西部劇の巨匠ジョン・フォード監督の作品です。
 有名なOK牧場の決闘を描いています。
 カウボーイ、保安官、西部の町、ガンファイト、復讐、酒場、ばくち、教会、男の友情、女の愛情、駅馬車など、西部劇のすべての要素をちりばめたベタな映画です。
 そんな70年前の古い映画が、今でも魅力を持ち続けているのは、ジョン・フォード監督の手堅い演出と二人の男性俳優の魅力のおかげでしょう。
 ヘンリー・フォンダが演じる武骨で誠実な保安官ワイアット・アープと、ビクター・マチュアが演じる男の色気にあふれたやくざな医者ドク・ホリデイ。
 映画の中でも女性にもてるのは当然ドク・ホリデイですが、映画の主役はワイアット・アープなのです。
 ヘンリー・フォンダは、有名な「十二人の怒れる男」でもそうですが、こうした古い言い方でいえば男のなかの男を演じたらナンバーワンです。
 死んだドク・ホリデイのいいなづけ(懐かしい言葉ですね)のクレメンタインと別れるとき、ひそかにに恋しているのに、くちびるではなくほほにキスして、「あなたが好き」と言うのではなく「あなたの名前が好き」と言って去る後姿に、有名な主題歌「いとしのクレメンタイン」が流れるラストシーンはしびれます。
 そう、これは、映画の主な観客が男性だった古き佳き(語弊がありますが)時代の映画なのです。

 

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マイ・フェア・レディ

2021-05-01 13:08:33 | 映画

 1964年公開のアメリカのミュージカル映画です。

 ひどい下町訛のある花売り娘イライザが、言語学の教授の特訓によってレディになっていく様子を描いています。

 初めはたんなる賭けの対象(舞踏会へ彼女を送り込んでも、レディとして通用するかどうか)でしかなかったのですが、あまりに見事なレディぶり(かなりの部分は彼女の美しさでしょう)に、最後は独身主義者の教授も心引かれるようになります。

 この映画の成功の原因はなんといっても、オードリー・ヘプバーンの魅力でしょう。

 アカデミー賞の作品賞や主演男優賞(教授役のレックス・ハドソン)など八部門も受賞し、オードリーは主演女優賞にノミネートさえされていませんが、花売り娘からレディに変身していく随所に、オードリーの魅力があふれています。

 イライザの歌の大半は吹き替えになっていますが、彼女も実際に歌いながら演技しているそうです。

 それにしても、名曲の数々とゴージャスな衣装やセット(特に競馬場や舞踏会のシーン)は、このころが映画の全盛期だったんだなあを感じさせてくれます。

 

 

 

 

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本田和子「物語体験としてのイニシェーション ー「家出」の象徴をめぐって」児童文学研究No.8所収

2021-05-01 11:30:47 | 参考文献

 1978年の日本児童文学学会の紀要に掲載された論文です。
 物語体験が現代の子どもに与えるイニシェーション(通過儀礼)としての機能について、カニグズバーグの「クローディアの秘密」を分析することによって論じています。
 御存じのように、「クローディアの秘密」におけるイニシェーションは「家出」です。
 著者は、児童文学において「家出」が取り扱われることは新しいことでないこと(この論文が書かれたころの日本の児童文学では、家出や離婚を取り扱った作品が注目を集めて、従来の児童文学にとっての「タブーの崩壊」と言われていました)を、グリム童話やピーターパンやハックルベリを例にして述べています。
 これらの例は、厳密な意味では「家出」ではないのですが、著者は「家出」を以下のような象徴的な意味で使っています。
 「家出」とは、「自発的・主体的に選択され、決行されることがらで」、「出発が、非合法・秘密裡に行われる」、「徹底して独立の営み」。
 また、「日常性の決別、とりわけ、自分の意志と自分だけの力で、それを実行に移すのは、それほど簡単なことではなく、強い情動と莫大なエネルギーを必要とする行為で、そのために仮想敵(本当の敵ではなくても当人がそう思い込むだけでいいのです)を設定する」ことが必要だとしています。
 そして、子どもとは、「過去や未来にもまして、現在相に生きる存在」なので、「現在から自身を切り離すためにのみ、エネルギーを燃焼させる」家出は、「まさしく、古い自分を葬り、新しく生まれるための苦闘である。」としています。
 「それゆえに、物語世界にくり返し現われる「家出」は、成長の転機を物語る象徴として読み解き得るのである。」と定義しています。
 「クローディアの秘密」では、非常に現代的で都会的で現実的な「家出」が描かれています。
 家出先がニューヨークを代表する文化施設の「メトロポリタン美術館」であり、「家出」の相棒として弟を連れていき(彼自身には「家出」をする必然性はなく、たんなるパトロン(クローディア自身はお金がなく、弟はスクールバスの中でのいかさま賭けトランプで小銭をため込んでいます)や後述する「家出ごっこ」の相手にすぎません)、家出先でもきちんと日常生活をこなしています。
 そして、著者が指摘しているもっとも個性的な点は、「家出」に必要とされる敵が見当たらないことです。
 クローディアは、一応もっともらしい「家出」の仮想敵(長女のゆえ家事が多い、小遣いが少ない)をあげていますが、「家出」という莫大なエネルギーを要する行為の敵としては薄弱です
 著書は、昔話では「継母(ままはは、現代では差別用語ですね)の迫害や飢え」を、現代児童文学作品(山中恒の「ぼくがぼくであること」(その記事を参照してください))では「苛烈な受験戦争とヒステリックな教育ママ」を、仮想敵の例としてあげています。
 著者の指摘を待つまでもなく、クローディアの敵は彼女の内側にあります。
 クローディアが脱却したかったのは、両親や先生の言うことをよく聞く、お行儀のよい優等生な自分自身だったのです。
 そうした、過剰に適応している日常において、クローディアは自分自身のアイデンティティを見失っていました。
 前述したように、クローディアは家出先でも、きちんと日常生活(食事、ベッド(美術館内にはベッドも展示されているのです!)に入るときはパジャマに着替える、入浴、勉強)をこなします。
 こうしたきちんとした生活習慣が嫌なのではないのです(潔癖症の彼女はむしろ好きなのでしょう)。
 両親や先生に言われてそれに素直に従っている自分自身が嫌なので、自らやることは美術館でやるその他のこと(守衛から身を隠す。弟との芝居がかった会話など)と同様に「家出ごっこ」の一環で「遊び」なのです。
 クローディアは、美術館で「天使の像」に出合い、その謎に挑み、最後にフランクワイラー夫人からその「秘密」の意味と価値を知らされ、自分だけのものにします。
 こうして、クローディアのイニシェーションとしての「家出」は終了し、日常生活へ戻っていきます。
 でも、そのクローディアは、家出前のクローディアとは違います。
 「自分を自分たらしめる内的世界を獲得し」、アイデンティティを回復したのですから。
 著者は、「クローディアの秘密」のような作品が児童文学の世界で目立つ動向(1970年代のことです)を、社会において「制度としての通過儀礼が消失し」、子どもたちの「成長を促進する外的装置が効力を失って以来、児童文学のそれに代わる機能が顕在化し始めた現象」と、読み解いています。
 そして、新聞やテレビから得られる同じような情報(家庭崩壊や家出など。現在で言えば「いじめ」「DV」「不登校」などもあげられるでしょう)に比べて、「物語」は起承転結や構造をもった完結した形(情報は断片的)で自ら体験でき、「受け手として情報に触れることと、主体的に作品を「読み始め、読み通し、読み終える」ことのちがい、自我関与の度合いと、それに要するエネルギーの差は、改めて指摘するまでもあるまい」としています。
 また、情報は、「多くの他の要因を切り捨てた形で送り出される」ので、「多義的な解釈の可能な現象が、特定のテーマの事件に変形されて、意識に与えられる」のに比して、物語は、「作品という一ケの「もの」であり」、「一義的な解釈を拒む実態としてそこに存在する」と述べています。
「物語」の力、特にリアリズム系の作品の「物語」の力が衰退した現在の日本の児童文学から見ると、著者の「物語」への信頼感は隔世の感があります。
 最後に、「送られてくるものが、常に意識の表層にのみ働きかけて意識下を肥やさないなら、私どもの人としての全体像は、極めていびつで、安定を欠いたものとならざるを得ない。「もの」によって送られる無意識の信号が、認識の「地」となり、人の心に休息の場を提供するとは、夙に指摘されているところである。物語を「読む」とは、意識を活性化させて文脈をたどり、メッセージを受けとめつつ、同時に、意識下に様々な自分なりのイメージを保存し、意識下を肥らせていく行為なのだ」とし、「これらが、人生の陰のありようを、情報として「知る」ということと、「物語」として「読む」ということののちがいではないか。「読む」ことにおいて、子どもたちは、一時的にかげりの中に入り、その世界に生きつつ、存在全体としてそこを通過する。彼らにとって、物語体験がイニシェーションとして位置づく所以を、ここに見ることが出来るのではないだろうか。」と結論付けています。
 この論文が書かれてから四十年以上がたち、子どもたちのまわりには、スマホなどを通して、当時とは比べ物にならないほど膨大なネット上の情報があふれています。
 しかし、それらの情報は、新聞やテレビと比較しても、さらに細切れで断片的になっています。
 また、情報自体も玉石混交(「石」の方が圧倒的に多いし、わざと作られた「嘘」や「罠」や「害」や「毒」もたくさん混ざっています)で、正しい情報を得るのは当時よりもかえって難しくなっています。
 こうした時に、「物語」は、子どもたちのイニシェーションとして、ますます必要になっていると思われます。
 しかし、他の記事にも繰り返し書いていますが、現在の子どもたちの「物語体験」の媒体は、本よりも、ゲーム、アニメ、マンガ、映画、ドラマなどになっています。
 これらによる「物語体験」が本のよるものと同じように、「意識を活性化させて」、「メッセージを受けとめつつ、同時に、意識下に様々な自分なりのイメージを保存し、意識下を肥らせていく行為」になっているかは、疑問に感じています。
 残念ながら、読書による文字という抽象度の高い媒体を通した「物語体験」と、ゲーム、アニメ、マンガ、映画、ドラマなどのより抽象度の低い媒体を通した「物語体験」による子どもたちの認識の違いについて研究した論文には、まだ出会っていませんが。
 そういった意味では、読書による「物語体験」は今でも重要だと思われますが、問題は「物語」の内容でしょう。
 著者は、「伝え」に関する論文(その記事を参照してください)において、現代児童文学(1970年ごろの作品が対象です)は、作者が「伝える」べき内容は十分にあるが、読者に「伝わる」方法(表現)が不十分だと分析していました。
 その後、児童文学の世界では、読者に「伝わる」方法(例えば、「子どもと文学」の「おもしろく、はっきりわかりやすく」など)への関心がすすみ、エンターテインメント作品を中心に進化してきました。
 その一方で、作者が「伝える」べき内容は、次第に貧弱なものになりつつあります。
 シリアスな内容を含んだ作品は、かつて(1960年代から1980年代まで)のようには売れないために、出版は敬遠されがちです。
 このままでは、読書のよる「物語体験」もまた、娯楽やストレス発散や気晴らしの手段(こういった分野では、ゲームやアニメには魅力の点で太刀打ちできません)になり、子どもたちのイニシェーションとしての機能はますます衰退していくことでしょう。

クローディアの秘密 (岩波少年文庫 (050))
クリエーター情報なし
岩波書店
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