「日本文学」1967年5月号に掲載された評論です。
副題の通りに、石井桃子たちの「子どもと文学」(その記事を参照してください)やその影響を受けたと思われる「少年文学宣言」(その記事を参照してください)派の盟友の鳥越信の意見を、評価しつつもその課題を批判しています。
「少年文学宣言」(1953年)のころと違って、現在の評論が「作品の後追いになっている」ことを批判して、創作をリードするような児童文学理論の構築の必要性を主張しています。
現在では想像できないことですが、「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)は、作品よりも評論の方が先行していたのです。
このことが、私が、「現代児童文学」のはじまりを、一般的に言われている1959年(佐藤さとる「だれも知らない小さな国」といぬいとみこ「木かげの家に小人たち」が出版された年です)ではなく、1953年(「少年文学宣言」が発表されで童話伝統をめぐる論争が始まった年でもあり、「子どもと文学」に影響を与えたリリアン・スミス「児童文学論」が出版された年です)だと主張するゆえんです(その記事を参照してください)。
著者は、「子どもと文学」の掲げた創作理論を、細部への技術論に終始して、「作家の主体」が欠落していると批判しています。
そのために、幼年文学には適用できても、高学年向けの作品には適さないと指摘しています。
また、「子どもと文学」の理論のよるところが英米の先進国の児童文学であることをここでも述べて、高度経済成長の過程にある日本独自の創作理論が必要であるとしています。
総じて、著者の指摘は妥当のなのですが、この時点で著者自身がそれらに代わる対案を持たないので、読んでいて著者がどのような創作理論を望んでいるのかがわかりません。
実際には、その後も、「子どもと文学」あるいはそれが下敷きにしたリリアン・スミス「児童文学論」を超えるような創作理論は生み出されませんでした。
そして、評論もまた、著者が恐れていたような「作品の後追い」に安住するようになります。
70年代に入ると、多様な作品が生み出されて「現代児童文学」の絶頂期を迎えますが、それは「児童文学界」内部の要因によるものではなく、日本が高度経済成長時代を経て豊かになり、日本の子どもの現実が「子どもと文学」で理想としていた英米の中流家庭の子どもたちに近づいたからだと思われます。
また、80年代以降の「タブーの崩壊」(それまで描かれなかった子どもたちにとっての負の部分(死、離婚、性、非行など)が描かれるようになりました)、「エンターテインメントの台頭」、「児童文学の一般文学への越境」などの現象も、特定の創作理論や文学運動が導いたのではなく、読者の児童文学に求めるものや児童文学作家の関心の変化によるものだと思われます。
そして、「現代児童文学」が終焉(私は1990年代には終焉したとする立場です)した以降の、ポスト現代児童文学の創作理論も全く打ち出されていない(誰も打ち出そうともしていないのかもしれませんが)のが現状です。
児童文学の旗 (1970年) (児童文学評論シリーズ) | |
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