現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

J.D.サリンジャー「コネチカットのグラグラカカ父さん」九つの物語所収

2021-05-22 13:57:15 | 作品論

 主人公の若い女性(裕福な男性(女中もいます)と結婚して、小さな娘もいます)と、家に尋ねてきた女子大学の寄宿舎で同室(アメリカの名門大学は寄宿制なので、そこで同室だった友人とは固いきずなで結ばれていることが多いようです)だった女性(独身で働いているようです)の、酒を飲みながらの会話によって構成されています。
 酔いが深まるにつれて、主人公は第二次世界大戦後に日本で事故死したかつての恋人(例のグラス家(詳しくは他の記事を参照してください)の四男)の想い出に浸っていきます。
 彼はユーモアのセンスに富んだ(題名のグググラカカ父さんというのは、かつて彼女がかかとを痛めた時に、彼が彼女のことを「グラグラ(かかと)うさん」と呼んだことに起因しています。英語では、ankle(かかと)とuncle(おじさん)の掛け言葉になっています)知的で魅力な人物で、今の結婚相手ではそういった点が全然満たされていないことを、彼女は告白します。
 さらに、自分の娘が空想上の恋人を持ち、さらにその空想上の恋人が主人公の恋人と同様に事故死(もちろんこれも空想上ですが)しても、すぐに次の空想上の恋人が出現したことを知って、激しく嫉妬します。
 最後に、女子大に入るころの自分に戻りたいと思っていることを、主人公は強く自覚します。
 三人の女性の外見的な描写はほとんどない(娘は強度の近視でメガネをかけているようです)のですが、心理描写は恐ろしいほど的確で、経済的には恵まれているものの精神的に満たされていない若い女性を、冷徹なまでに描き切っています。
 サリンジャー作品で唯一、ハリウッドで映画化されています。
 角川文庫の武田勝彦作成の年譜(その記事を参照してください)によると、サリンジャーは「下見したが不満足でプリントを許可しなかった」となっていますが、フレンチの「サリンジャー研究」では封切りされたことになっています。
 どちらにしろ、内容は当時の人気女優を使ったメロドラマで、脚本ではサリンジャーの原作は見るも無残に改変されているようで、その後にすべての作品の映画化(その中には、「理由なき反抗」のエリア・カザンによる「キャッチャー・イン・ザ・ライ」も含まれています)をすべて断ったのは無理もない話です。
 

 

 

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J.D.サリンジャー「ド・ドミエ=スミスの青の時代」九つの物語所収

2021-05-22 13:53:46 | 作品論

 裕福な義父(母は亡くなっていて、主人公と義父は彼女を今でも深く愛しています)と、ニューヨークの高級ホテル(リッツ)に無期限で暮らす十九歳の美術学校生が主人公です。
 美術学校の夏休みに、名前(ド・ドミエ=スミス、フランス育ちでフランス語が達者なのでフランス人を装っています)や年齢や経歴を偽って、カナダのモントリオール(ケベック州なのでフランス語圏です)にある通信制の美術学校の夏学期の講師として採用されます。
 その学校は、他には東洋人(名前は日本人っぽくないですが、少なくとも夫は日本人。当時の裕福な白人のご多分に漏れず、東洋人に対する偏見が書かれています)の夫妻だけが指導している、学校というよりは私塾という感じのスケールです。
 そこで、添削指導(たいがいは全く絵の才能がない生徒です)をしているうちに、絵の才能にあふれる尼僧の生徒に出くわし、年齢欄が空欄だったこともあって、若者らしいとんでもない妄想(彼女は十七歳の美少女で、まだ尼僧になる正式の誓いを立てておらず、直接会えば自分と恋愛関係に陥るだろう)を抱きますが、当然そんな空想は儚く破綻(彼が添削と共に送ったラブレターが修道院長の目に触れて彼女は退学し、さらには美術学校自体が正式に認可を受けていなかったので閉鎖されてしまいます)して、主人公はニューヨークに戻って元のように周囲にいる女の子たちを漁って、夏休みの残りを過ごします。
 若者特有の自意識過剰とたぐいまれな妄想力がいかんなく発揮されていて、軽薄で鼻持ちならないながらもどこか憎めない、若者の一つの典型を描き出しています。
 題名にある「青の時代」は、もちろん作品にも出てくる(主人公が友人だと吹聴しています)パブロ・ピカソにちなんでいます。

 

 

 

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J.D.サリンジャー「美しき口に、緑なりわが目は」九つの物語所収

2021-05-22 13:51:10 | 作品論

 独身で年配の弁護士の男が、後輩の若い弁護士の妻と自宅で浮気をしているところに、「妻が家へ帰ってこない」と取り乱している夫(夫は、妻がいつも他の男と浮気をしているのではと心配しています)から、相談の電話がかかってくる(夫は、先輩弁護士のことをいつも頼りにしています)という非常に皮肉なシチュエーションのお話です。
 この電話で、夫から妻の悪口(浮気、自意識過剰、わがままなど)と恋愛時代の想い出(夫は妻に詩(タイトルの「美しき口に、緑なりわが目は」はその一節です。ただし妻の目はすみれ色に近い青です)を捧げたり、妻は夫にスーツを買ってくれたりしました)を聞かされてうんざり(夫とおそらく妻の両方にです)したものの、相談しに彼の家へ来ようとする夫に、妻はもうすぐ帰ってくるから自宅で待っていろと言いくるめます。
 いったん電話が終わって何とか切り抜けたと思った(横で聞いていた妻の方はかえって盛り上がっていますが、男の方はかなりさめています)のもつかの間、夫からまた電話がかかってきます。
 妻が帰ってきたとの虚言と、それをきっかけにもう一度妻とやり直す(誘惑の多いニューヨークに住んでいるのがいけないので、郊外に一軒家を買って引っ越せばうまくいくかもしれないと思っています)ことを話し合うと言っています。
 これにとどめを刺されて、男は妻と浮気を続ける気が完全に削がれてしまいます。
 
 

 

 

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J.D.サリンジャー「下のヨットのところで」九つの物語所収

2021-05-22 13:49:01 | 作品論

 1949年に書かれたグラス家サーガ(他の記事を参照してください)の一篇です。
 ここでは、第三子で長女のブー=ブー(7人いるグラス家の兄弟姉妹の中で、一番変わった呼び名です)が主人公です。
 彼女は、海軍に勤めた後で裕福なユダヤ人と結婚しています。
 グラス家兄妹も、サリンジャー自身も、ユダヤ人の血を引き継いでいます。
 ユダヤ人の作家は多いのですが、児童文学の世界で一番有名なのは、「クローディアの秘密」などのカニグズバーグでしょう。
 「ベーグル・チームの作戦」のように、ユダヤ人の子どもたちの通過儀礼を題材にした作品もあります。 
 この作品でも、ユダヤ人に対する差別(使用人たちが、父親のことを陰で「ユダ公」と蔑称で呼んでいるのを子どもが聞いてしまいます)や、差別されている民族ゆえの家族愛の強さが描かれています。
 といっても、サリンジャーは話を深刻に描かずに、風変わりな母親(ブー=ブーのことで、自分を海軍中将だと子どもに主張しています)とこれまた風変わりな息子(四歳ぐらいですが、家を抜け出して放浪する癖(この時は湖に浮かべた父親のヨットにいました)があります)との、一風変わった、しかし、次第に心を通わせて行く過程を丹念に描いています。
 結局、子どもらしい聞き違い(カイク(ユダ公)とカイト(凧))によって、ユダヤ人の差別問題(母親が言い聞かせなくても、将来本人が嫌っというほど直面します)については上手に先送りされます。
 子どもの繊細な心の動きとそれを優しく見つめる大人、これは本来児童文学者が描かなければならない世界(ケストナーやカニグズバーグの世界にも通じるものがあります)ですが、残念ながら今の日本の児童文学の世界では優れた書き手が見当たりません(「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)の時代には梨木香歩の「西の魔女が死んだ」や森忠明の「花をくわえてどこへ行く」などの優れた作品もありました(それらの記事を参照してください))。
 また、多数派(マジョリティ)の人々による少数派(マイノリティ)の人々に対する差別の問題も、本来は児童文学の大きなテーマだと思います。

 

 

 

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J.D.サリンジャー「エスキモーとの戦争の直前に」九つの物語所収

2021-05-22 13:45:27 | 作品論

 主人公の15歳の女の子は、同級生でテニス仲間の女の子の家に、最初の一回を除いて半分出そうとしないタクシー代を取り立てに行きます。
 家には女中もいて、テニスをしに行くのにコートまでタクシーで行くほど裕福な家の子なのですが、あまりお小遣いをもらっていないらしくて結構せこいのです(ただし、その代りに、毎回罐に入った新品のテニスボールを家から持ってきています)。
 友達がおかあさんにお金をもらいに行っている間に、主人公は二人の典型的な若い男性に出合います。
 一人はルックスも身なりも悪いし言葉遣いも悪いが率直で飾り気のない友だちの兄で、もう一人は彼の友だちでルックスも身なりもいいが恰好ばかり付けている男です。
 主人公は友だちに対して腹を立てていましたが、ラストでは気分を直してボールを持ってきてくれていることを理由に、お金を受け取ることを断ります。
 明らかに、主人公には、二人の男たちとの会話を通して、物事の本質を見極める力があることを示しています。
 そして、そうした能力が、戦争を引き起こすようなずるい大人たちの本質を見極めることにつながることを示唆しています。
 なお、タイトルは、全く意味のないこと(アメリカがエスキモーと戦争する)を示していて、第二次世界大戦へのアメリカの参戦に対する批判(年寄りの権力者たちが自分の利益のために戦争を起こして、罪のない若い人たち(当時は男性)が血を流している)が込められています。
 しかし、サリンジャーの願いもむなしく、その後のアメリカは、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争などの多くの戦争の当事者になり、多くの若者たちが犠牲になりました。
 第二次世界大戦では、それでも裕福な家の若者も、貧乏な家庭の若者も、表向きは等しく戦争に参加させられていました(当然、当時からズルしている権力者の子弟はいましたが)。
 しかし、次第に戦争で犠牲になるのは、貧しい家庭の若者たち(教育を受けられる機会が限られていて、軍隊に入る以外にあまり仕事もない)に限定されるようになってきています(今のアメリカの軍隊は、徴兵制ではなく志願制なので)。
 これと同じことが、日本でも近い将来起きないとは言えないのが、悔しくてなりません。

 

 

 

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J.D.サリンジャー「ある少女の思い出」角川文庫版「倒錯の森」所収

2021-05-22 13:37:19 | 作品論

 1948年、サリンジャーが29歳の時に発表された短編です。
 放蕩を重ねて大学を退学になった裕福な家庭の男性(長身痩せ型のハンサムな青年なので、ほぼサリンジャー自身の分身と思われます)が、父親の命令で彼の会社で働くのに必要な語学(ドイツ語とフランス語のようです)を習得するために、ヨーロッパへ送られます(そこでも遊んでいるのですが)。
 前半は、ウィーンに滞在中に下宿していた彼の部屋の真下に住んでいたユダヤ人(御存じのようにサリンジャー自身もユダヤ系です)の16歳の美少女と知り合った時の思い出が書かれています。
 この部分は、ア・ボーイ・ミーツ・ア・ガール的な作品のパターン(二人の関係は極めてプラトニックで淡く、彼女にいいなづけ(死語ですね)がいて失恋に終わります)を超えていないのですが、しいて言えば、お互いにセカンド・ランゲージ(主人公はドイツ語、彼女は英語)を使って意思疎通を図ろうとするおかしみにサリンジャーの才筆が感じられます。
 後半はガラリと雰囲気が変わって、第二次世界大戦を経て駐留アメリカ軍の一員として再びウィーンを訪れた主人公が、近所の人たちから彼女が収容所で虐殺されたことを聞かされ、かつて住んでいた部屋に苦労して(高級将校用の宿泊施設になっていたので、下級将校の彼は本当ならば入れません)入って、窓から下のかつて少女が立っていたバルコニーを、一瞬見下ろします(もちろん下のバルコニーには少女の姿はありません)。
 他の記事にも書いたように、1943年から1946年にかけて従軍していた(特にヨーロッパでの、有名なノルマンジー上陸作戦への参加やその後の駐留)体験は、様々な形でサリンジャーの作品に影響を与えています。

 

 

 

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J.D.サリンジャー「エズメのために ― 愛と背徳をこめて」九つの物語所収

2021-05-22 13:33:57 | 作品論

 1950年に書かれた短編で、ファンの多い作品の一つです。
 主要な部分は、ノルマンジー上陸作戦を挟んで、前半と後半に分かれています。
 前半では、イギリスで実戦前の訓練を受けているアメリカ兵の一人である主人公の青年(駆け出しの小説家=サリンジャー本人)が、ふとしたことから聖歌隊に属する貴族の血をひく13歳ぐらいの美少女エズメ(歌声も、他のメンバーより群を抜いて優れています)と知り合う場面が、まるで初恋の人と出会ったかのように描かれています。
 後半では、戦後のドイツで、戦闘を通して重度の精神疾患にかかってしまったと思われる主人公(初めは登場する兵士の中の誰が主人公かわからないような書き方がされていますが、最後には判明します)が、エズメからの手紙と腕時計(戦死した彼女の父親の遺品)を受け取って、立ち直りのきっかけが得られたことを感じさせる終わり方をしています。
 イノセンスな魂が傷ついた魂を救済するのは、サリンジャーの作品で繰り返されている重要なテーマの一つです。
 ただし、この作品でのエズメは、かなりアイドル(偶像)かミューズ(芸術の女神)のように官能的に描かれているので、それを補完するために風変わりなエズメの5歳ぐらいの弟チャールズをイノセンスな魂の象徴として登場させています。
 作品の構成はおしゃれにひねった二重構造になっていて、前述した主要な部分は、あの時にエズメと約束した「彼女だけのためのお話」を、六年後に彼女が結婚する際(主人公も結婚式に呼ばれていますが、出席できません)に、彼女へ送った手紙の形で実現させたものです。
 ですから、タイトルの「エズメのために」には、そういった意味が込められています。
 また、副題の「愛と背徳をこめて」は、あの時エズメに「背徳」の話を求められたことであるとともに、この期に及んで間接的にエズメへの愛を告白して彼女の結婚と自分の結婚(妻への不満(平凡であることがその理由なのですが、当然それはエズメとの対比も意識されています)も冒頭に書かれています)に波風を立てる背徳的行為であることも意味します。
 さらに、この話には、サリンジャー自身が、過酷な戦闘体験とそれによる精神の不安定さを乗りこえて、文学的才能を維持することへの自己確認の意味も込められています。

 

 

 

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J.D.サリンジャー「ウェストのぜんぜんない千九四一年の若い女」若者たち所収

2021-05-22 13:28:41 | 参考文献

 ここでの「ウェストのぜんぜんない若い女」というのはずん胴な女性という意味ではなく、やせっぽちの未成熟な女性のことです。
 婚約者の母親と一緒にキューバ(革命前のキューバは、アメリカにとって最寄りの海外リゾート地でした(映画「ゴッドファーザー PARTⅡ」でもその様子が描かれています))へのクルージングに来た主人公の若い女性(おそらく十代で、肉体的にだけでなく精神的にも未成熟)は、そこで出会った青年(エール大学を中退して陸軍に入る予定です)に求婚され、それをきっかけに自我に目覚めて一人の女性として成長を始め、婚約者の母にも結婚をはっきりと断ります(だからといって、求婚してきた男性と結婚したいというのではなく、子ども時代に別れを告げて大人の女性としての自分を見つめようとしているのです)。
 巧みな会話体でストーリーを展開するサリンジャーの腕前はいつものことですが、青春時代特有の不安定な女性の気持ちを、1941年という太平洋戦争直前のアメリカ全体の不安定な雰囲気(彼女のもともとのフィアンセも海軍に入隊しますし、彼女が船上で知り合った裕福な夫婦の一人息子も航空隊に入ることになっています(父親だけが知っていて母親はまだ知りません))とうまく重ね合わせて描いている点が、この作品の特に優れた点でしょう。

サリンジャー選集(2) 若者たち〈短編集1〉
クリエーター情報なし
荒地出版社
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J.D.サリンジャー「エディに会いに行けよ」若者たち所収

2021-05-22 13:26:42 | 作品論

 いろいろな男たちと浮名(不倫も含めて)を流し続けている妹(歌手か女優志望でかなりの美人のようです)を心配して忠告しに来た兄(やはり芸能界に関係しているらしい)との会話と兄妹げんかだけで構成されています。
 直接は関係ないのですが、サリンジャーがグラス家年代記の作品群に登場する有名な七人兄妹(シーモア、バディー、ブーブー、ウォルト、ウェイカー、ズーイ、フラニー)で描いた兄妹の絆の原型がここにあります。
 また、アメリカの戦後の繁栄期(黄金の五十年代と言われています)の典型的な中流家庭(といっても女中がいます)の子弟の暮らしぶりも描かれています。
 そういえば、サリンジャーの代表作の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)を模倣したと言われる庄司薫の「赤ずきんちゃん気をつけて」の主人公の家にも女中がいますので、高度成長期前の日本の中流家庭でも同様だったようです(高度成長期に賃金が急上昇し、中流家庭からは女中は姿を消しました)。

サリンジャー選集(2) 若者たち〈短編集1〉
クリエーター情報なし
荒地出版社
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J.D.サリンジャー「ぼくはいかれている」若者たち所収

2021-05-22 13:24:48 | 参考文献

 ホールデン・コールフィールド(「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)の主人公)が、初めてサリンジャーの短編に登場した記念碑的な作品です。
 実際、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の第1章(成績不振で退学になった高校に一人で別れを告げるシーン)、第2章(彼に落第点を付けた歴史担当の老先生を訪ねるシーン)、第21章(家への帰着と妹との再会のシーン)、第22章(妹との会話のシーン)の下書きと言える内容です。
 「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は全部で26章から構成されているのですが、「アイデンティティの喪失で学校から去り」、「妹との会話からそれを回復するきっかけをつかむ」というのがごく大ざっぱな流れなので、この短編はその始まりと終わりに関するアイデアが浮かんだ段階なのでしょう。
 この短編が発表されてから、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が出版されるまでの6年の間に、ストーリーは肉付けされ、再構成され、洗練されていきました。
 作者は、この「キャッチャー・イン・ザ・ライ」第22章で、ホールデンに、自分がなりたいものについて、妹のフィービーに向かってこう語らせています。
 以下は野崎孝の訳によります。
「とにかくね。僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているところが目に見えてくるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない - 誰もって大人はだよ - 僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖の縁に立っているんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ。 - つまり子供たちは走ってるときにどこを通ってるなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっからか、さっととび出して来て、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ」
 この短編には、まだここの部分はありません。
 このセリフをつかまえるために、6年をかけてストーリーを肉付けし再構成し洗練させたと言ってもいいかもしれません。
 そして、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の記事にも書きましたが、私自身がなりたいものも「ライ麦畑のつかまえ役」のようなものだったのです。
 今回、この短編を読み直してみて、ホールデンが別れを告げにいく老先生が60代(「キャッチャー・イン・ザ・ライ」では70代)と書かれているのを読んで、ある感慨を持たざるを得ませんでした。
 初めてこのシーンを読んだときは、私はホールデンに近い年齢でしたので、完全にホールデンに同化して読んでいました。
 今回は、私自身はもう老先生に近い年齢になっているのにもかかわらず、どうしてもホールデンと同化しようとしている(かなり無理がありますが)自分に気づいてしまったのです。
 それは、今でも自分がなりたいものが(もう残された時間はあまりありませんが)、「ライ麦畑のつかまえ役」のようなものだからなのかもしれません。

サリンジャー選集(2) 若者たち〈短編集1〉
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J.D.サリンジャー「イレイヌ」若者たち所収

2021-05-22 13:20:57 | 参考文献

 この短編集中では、最も評価がしにくい作品でしょう。
 主人公のイレイヌは、知的障害がある(八年制の小学校を九年半かかって卒業していますが、実際は小学校低学年程度の知性しかないようです)絶世の美少女(文中ではラプンツェル(グリム童話に出てくる長い金髪で有名な美女(ディスニーのアニメでお馴染みな人の方が多いことでしょう)と形容されています)です。
 イレイヌは知的障害があるだけでなく、無教養な(亡くなった夫の保険金で暮らせるので、働かずに毎日映画だけを見て暮らしている)母と祖母に育てられ、こういった子どもたちに無理解な小学校の校長たちによって適切な教育を受けることもできませんでした。
 彼女は小学校卒業後に、映画館の案内係の男にナンパされて婚約しますが、その結婚式の最中に両家の母親が映画スターのことで殴り合いのけんかをして、あっさり破局してしまいます。
 そうした不条理ともいえる世界を、終始外部に対して無感動な(例外的に彼女が感動するのはミッキーマウスの映画です)イレイヌを中心に描いています。
 こうした極端な設定とストーリーによって、サリンジャーは人間の内部にある本質的な愚かさを描き出しています。
 さらに、イレイヌをラプンツェル(グリム童話の初期形では、助け出しに来た王子と毎夜性交渉をして妊娠します)と例えたところに、作者が性的な意味を込めたと感じざるを得ません。
 この作品では、直接的な性的表現はありませんが、彼との初めてのデートで行ったビーチで、イレイヌが急に不安に襲われるシーンがあって、その後の彼との性的な関係を暗示しています。

 

サリンジャー選集(2) 若者たち〈短編集1〉
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J.D.サリンジャー「当事者双方」若者たち所収

2021-05-22 13:18:16 | 作品論

 若い夫婦の破たんと絶望を描いています。
 妻は、ハイスクールを飛び級で15歳で卒業するほどの才女で、医者志望でした。
 夫は、ハイスクールのバスケットボールチームのスター選手でした。
 こうしたスポーツのヒーローは、当時のアメリカのハイスクールでは、日本では信じられないほど人気があり、女子生徒のあこがれの存在です。
 妻が17歳の時に20歳の夫と結婚し、二人には赤ちゃんがいます(おそらく妊娠したために、妻が大学への進学をあきらめて結婚したのでしょう)。
 このカップルは、地元ではあこがれのカップルとして知られていて、二人がダンスフロアに出ると、妻が大好きだった曲が自動的に演奏されるほどです(そのころのアメリカのこういう店には、生バンドが入っていました)。
 夫は、ハイスクール卒業後、地元の航空機メーカーに職工として勤め、今でも若い頃の暮らし(夜にきれいな女の子を連れまわして、友だちと酒を飲む)のままで、父親としての自覚はほとんどありません。
 そんな夫との暮らしに絶望し、妻は赤ちゃんと家出して実家へ戻ります。
 しかし、そこにも自分の居場所はもうないのだと悟った妻は、赤ちゃんのために絶望したまま夫の元へ戻ります。
 そんな妻を夫は全く理解できないのですが、妻は完全に心を閉ざしてしまっています。
 この作品を書いた時サリンジャーはまだ25歳でしたが、すでに周囲の同世代の男女を恐ろしく冷めた目で見ていたことがよくわかります。
 それは、彼の代表作である「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)につながるものがあります。
 また、若者言葉の一人称の文体や、夫が妻のいない家でやる一人芝居(映画カサブランカ(その記事を参照してください)での、ハンフリー・ボガードの酒場でのセリフのまね)なども、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」創作の下地になっていると思われます。

 

 

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J.D.サリンジャー「このサンドイッチ、マヨネーズがついていない」若者たち所収

2021-05-22 13:14:03 | 参考文献

 この作品も、作者が第二次世界大戦でフランスに駐留していた時代に書かれた作品です。
 題名とは全く無関係に、ダンスパーティーに参加するために、トラックの荷台で待っている自分も含めて34名の兵士のうち、定員が30名のために参加できない4名を選ばなければならないリーダーの軍曹の心の動きを、行方不明になったと連絡のあった弟を心配する気持ちに心を乱されている様子も含めて、克明に追っています。
 ストーリーらしいストーリーは、受け入れ役の中尉がどうしても帰りたがらない1名のために例外を設けてくれるぐらいで、読者にとっては題名との関係も含めて非常に読みづらいものになっています。
 ただ、主人公の軍曹の名字がコールフィールドで、弟がホールデン、妹がフィービときては、どうしても「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)との関連を考えざるを得ません(「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の主人公のホールデン・コールフィールドにもD・Bという歳の離れた兄がいます)。
 ストーリー的なつながりは特に見出されませんが、この三人の人間関係は全く同じように思えるので、この作品もまた「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の原型の一つと考えてもいいと思われます。

サリンジャー選集(2) 若者たち〈短編集1〉
クリエーター情報なし
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