梅雨で雨が降り続くと、露地の子どもたちは遊びに行けません。
誰も、雨傘を持っていないからです。
雨傘は、働きに行ったり、買い物に行ったりする大人の分しかありません。
それでも、子どもたちには、梅雨時ならではの楽しみもあります。
雨漏りで腐った畳には、キノコが生えます。
みんなでキノコを眺めに行って、そこの母親にどやされたりします。
露地の隅に生えているヤツデの木には、カタツムリがきます。
想像の中で巨大になったカタツムリにまたがって、子どもたちは表通りで買い食いする夢を見ます。
この短編の主人公の六年生の男の子は、露地ではめずらしく成績が良く、両親は彼が海軍士官学校か陸軍士官学校へ行って出世して(当時は、貧しい家の子たちには、それぐらいしか出世する方法がありませんでした)、自分たちを露地から抜け出させてくれることを夢見ています。
本人は、表通りの料理屋の息子が通う海軍士官学校にあこがれています。
進学のために倹約しているので、主人公はお小遣いをぜんぜんもらえません。
そのため、メンコやビー玉は、他の子のを借りたり、落ちているのを拾ったりして遊んでいるので、どけちだと嫌われています。
そこで、主人公は一計を案じます。
露地の子どもたちで彼だけが遊びに行くことを許されている、表通りの料理屋の庭で、露地のヤツデに来るのとは比べ物にならない大きなカタツムリを手に入れます。
それを五匹並べて「でんでんむしの競馬」をして、露地の子どもたちにメンコやビー玉を賭けさせたのです。
とうぜん、胴元の主人公の一人勝ちで、みんなのメンコやビー玉を巻き上げます。
しかし、そんなあこぎな商売は長続きしません。
先生にチクられて母親を呼び出された彼は、すべてのメンコやビー玉を失ったばかりでなく、もし内申書に書かれたら海軍士官学校の夢もパーになってしまうのです。
この作品でも、現実と空想が交錯しています。
その中で、露地の子どもたちの(いや大人たちも)夢は、一貫して露地(貧困)から抜け出すことです。
これは、いつまでも終わらないアジア太平洋戦争(十五年戦争とも呼ばれています)の戦時中の閉塞した世の中の比喩でもあり、この作品が書かれた70年代初頭(70年安保闘争の敗北により革新勢力が停滞し、世の中には無力感が漂っていました)ころの閉塞感をも表していたように思えます。
格差が拡大している現代においても、この作品における登場人物たち(そして作者)の願いは、共通していると思います。
でんでんむしの競馬 (1980年) (講談社文庫) | |
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