1950年に商業誌に発表された、作者の文壇(死語か?)デビュー作です。
結婚して5年、三才の子どももいる夫婦の危機を描いています。
夫は、十九才の美しい少女に恋をしています。
といっても、二人の務め先の役所をひけてから、映画を見たり散歩をするだけです。
しかし、二人が一線を越えなかったのは、今のようにそうした場所がなかったのと、お金がなかったからだけなのです(そのころは、日本中が貧乏でした)。
妻は、二人の関係に気づいて自殺未遂を起こします。
作者の冷徹な観察眼は、それぞれの視線を通して、夫婦関係の危機をえぐりだします。
そこには、男女の恐ろしいまでのエゴイズムがあります。
もちろん、夫の方が一方的に悪いのですが、妻の方にも母という立場を忘れて自分だけが夫から愛されたいというエゴがあります。
ラストでは、パリ祭(これが日本だけの呼び方であることは、他の記事に書きました)にかこつけて、自宅で子どもも入れてご馳走を食べて、ビールを飲み、レコードに合わせてダンスをします(彼らにとっては、すごい贅沢です)。
これは、二人にとっては和解ではなく、諦念(男や女として生きるのではなく、夫あるいは父と妻あるいは母として生きていく)だったと思われます。
このテーマは、芥川賞をとった「プールサイド小景」を経て、作者の文学の頂点と言われる「静物」
に至ります。
その後の作者は、夫あるいは父という立場をより強固にして、「夕べの雲」や「絵合わせ」のような家庭小説の傑作を世におくることになります。
結婚して5年、三才の子どももいる夫婦の危機を描いています。
夫は、十九才の美しい少女に恋をしています。
といっても、二人の務め先の役所をひけてから、映画を見たり散歩をするだけです。
しかし、二人が一線を越えなかったのは、今のようにそうした場所がなかったのと、お金がなかったからだけなのです(そのころは、日本中が貧乏でした)。
妻は、二人の関係に気づいて自殺未遂を起こします。
作者の冷徹な観察眼は、それぞれの視線を通して、夫婦関係の危機をえぐりだします。
そこには、男女の恐ろしいまでのエゴイズムがあります。
もちろん、夫の方が一方的に悪いのですが、妻の方にも母という立場を忘れて自分だけが夫から愛されたいというエゴがあります。
ラストでは、パリ祭(これが日本だけの呼び方であることは、他の記事に書きました)にかこつけて、自宅で子どもも入れてご馳走を食べて、ビールを飲み、レコードに合わせてダンスをします(彼らにとっては、すごい贅沢です)。
これは、二人にとっては和解ではなく、諦念(男や女として生きるのではなく、夫あるいは父と妻あるいは母として生きていく)だったと思われます。
このテーマは、芥川賞をとった「プールサイド小景」を経て、作者の文学の頂点と言われる「静物」
に至ります。
その後の作者は、夫あるいは父という立場をより強固にして、「夕べの雲」や「絵合わせ」のような家庭小説の傑作を世におくることになります。