この作品を読んだ時に、二つのことが気になりました。
ひとつは、大長編の出版方法です。
この作品では一応のエンディングはあるのですが、続きの話があるような雰囲気もかなり濃厚に漂っています。
今の出版状況では、分厚く高価な本(例えば、理論社の大長編シリーズのような)を出版することは難しくなっています。
読書力のおちている現代の子どもたちは分厚く字数の多い本を敬遠しがちですし、高価な本は公共施設でも購入しずらいでしょう。
しかし、分冊にして、一気にあるいは一定の期間をおいて、出版することは、出版社側のリスクが高いので、作者に全部の刊行をコミットできないかもしれません。
そうした時には、まず一冊出して売れ行きを見るということが、よくなされます。
売れた時は問題ない(幸いにこの本も続編が出版されました)のですが、売れ行きが芳しくない時は尻切れトンボに終わる危険があります。
次に、古代を舞台にしたファンタジーの書き方の問題があります。
この作品に限らず、作者たちから見れば、いろいろと制約の多い現代を舞台にしたリアリズム作品よりも、フリーハンドが得られるこういった作品の方が、のびのび書けるかもしれません。
しかし、野放図にこのような世界を認めてしまうと、かつての無国籍童話のように根無し草の作品になってしまう恐れがあります。
そういったことを防ぐためには、借りてきた舞台においてコモンセンスになっているような事象についてはきちんと押さえることは常識としても、創作している部分についてもあたかもそれが実在しているかのような(本の外側にもその世界が広がっているように感じられる)リアリティの保証が求められます。
「子どもと文学」(その記事を参照してください)にも紹介されていますが、リリアン・スミス「児童文学論」で提示されているファンタジーの語源は、「「目に見えるようにすること」という意味のギリシア語」だそうです。
ファンタジー作品の世界観を構築することは非常に魅力的ですが、大変な作業であることを作者たちは肝に銘じるべきでしょう。
ひとつは、大長編の出版方法です。
この作品では一応のエンディングはあるのですが、続きの話があるような雰囲気もかなり濃厚に漂っています。
今の出版状況では、分厚く高価な本(例えば、理論社の大長編シリーズのような)を出版することは難しくなっています。
読書力のおちている現代の子どもたちは分厚く字数の多い本を敬遠しがちですし、高価な本は公共施設でも購入しずらいでしょう。
しかし、分冊にして、一気にあるいは一定の期間をおいて、出版することは、出版社側のリスクが高いので、作者に全部の刊行をコミットできないかもしれません。
そうした時には、まず一冊出して売れ行きを見るということが、よくなされます。
売れた時は問題ない(幸いにこの本も続編が出版されました)のですが、売れ行きが芳しくない時は尻切れトンボに終わる危険があります。
次に、古代を舞台にしたファンタジーの書き方の問題があります。
この作品に限らず、作者たちから見れば、いろいろと制約の多い現代を舞台にしたリアリズム作品よりも、フリーハンドが得られるこういった作品の方が、のびのび書けるかもしれません。
しかし、野放図にこのような世界を認めてしまうと、かつての無国籍童話のように根無し草の作品になってしまう恐れがあります。
そういったことを防ぐためには、借りてきた舞台においてコモンセンスになっているような事象についてはきちんと押さえることは常識としても、創作している部分についてもあたかもそれが実在しているかのような(本の外側にもその世界が広がっているように感じられる)リアリティの保証が求められます。
「子どもと文学」(その記事を参照してください)にも紹介されていますが、リリアン・スミス「児童文学論」で提示されているファンタジーの語源は、「「目に見えるようにすること」という意味のギリシア語」だそうです。
ファンタジー作品の世界観を構築することは非常に魅力的ですが、大変な作業であることを作者たちは肝に銘じるべきでしょう。
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