現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

高山英香「花束」横丁のさんたじいさん所収

2017-11-19 10:52:31 | 作品論
 花屋の娘である五年生の女の子が、裏に住むお花の先生との交流を通して成長していく姿を描いています。
 先生の戦争体験の内容からすると、作品の設定時代はおそらく昭和五十年代ぐらいだと思われますが、この作品のテーマやモチーフは普遍性があるので少しも古びていません。

横丁のさんたじいさん (鈴の音童話)
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銀の鈴社

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ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション

2017-11-18 09:16:36 | 映画
 シリーズ物なのでそれほど期待しないで観ましたが、期待以上でした。
 ストーリー自体はご都合主義で深みはないのですが、とにかくアクションに次ぐアクションの連続で観客を飽きさせません。
 一番いい点は、リアルなアクションとCGがうまく融合していることです。
 どんなにすごいアクションでも、CG丸出しでは興ざめしてしまいます。
 特に、主役のトム・クルーズはもう50代なのに、体を張ったリアル・アクションで頑張っています。
 敵の撃った弾は絶対に主役にはあたらないとか、怪我したはずなのにすぐに治ってしまうなど、突っ込みどころは満載なのですが、そこは肩の凝らないエンターテインメントなのですから、観客もそれを承知で楽しんでいます。

ミッション:インポッシブル (字幕版)
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古田足日「子どものためか自己表現か」児童文学の旗所収

2017-11-18 09:14:59 | 参考文献
 1969年4月に、「週刊読書人」に掲載された評論です。
 これは、児童文学の創作を志す人たちの間では、「古くて新しい」、つねに議論される命題です。
 著者の意見はシンプルで、こうした「二者択一的な問題の立て方そのものがまちがっている。児童文学作品はその両者が統一されたとき、生まれてくるのだ。」としています。
 この意見は非常に理想的な模範解答なのですが、著者自身も書いているように、実際には「子ども」よりの作品もありますし、「自己表現」よりの作品もあります。
 現在の児童文学研究者ないし評論家たちは、かつてそれらを担っていた人々(著者、安藤美紀夫、いぬいとみこ、石井桃子、上野瞭など)に比べて実作の経験が乏しい(ただし、村中季衣は例外的にどちらにおいても優れた仕事をしています)ので、あまり児童文学の書き手たちの創作の動機には疎いのですが、この命題に対しては、児童文学研究者の石井直人が提示している以下の楕円原理(児童文学は、児童と文学の二つの中心を持つ楕円構造をしている)がよりあてはまるように思えます(その記事を参照してください)。
「(前略)わたしは、こういいたい。児童と文学の二つの原理が、たとえば、子どものためと自己表現というかたちで矛盾してあることの緊張こそが、児童文学というジャンルを動かすエネルギーの源泉なのである、と。なぜならば、「児童文学は、かならず子どもという読者を予定し、つまり他人を通じて自己探求する」ものだからである。」
 実際に、私自身は、同人誌の仲間たちが「児童」と「文学」の両方の原理による葛藤と闘っている姿を、毎月の合評会で目撃し続けています。

児童文学の旗 (1970年) (児童文学評論シリーズ)
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高山英香「消えた金魚」横丁のさんたじいさん所収

2017-11-17 09:13:35 | 作品論
 ぜんそくに苦しんでいる小学三年生の女の子が、祖父からもらった金魚を飼うことによって、生命の不思議さや大切さを知る話です。
 途中でハラハラさせられる点はありますが、ラストは読み味のいいハッピーエンドになっています。

横丁のさんたじいさん (鈴の音童話)
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銀の鈴社

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高山英香「小さなかたつむり」横丁のさんたじいさん所収

2017-11-15 15:25:32 | 作品論
 弟と一緒にかたつむりを飼うことになった小学三年生の女の子の話です。
 かたつむりの世話や生命力を通して生きることの大切さに気づく少女の成長を、なかなかできない逆上がりの練習や周囲の人たちと関係も絡めて描いています。

横丁のさんたじいさん (鈴の音童話)
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高山英香「横丁のさんたじいさん」横丁のさんたじいさん所収

2017-11-12 11:15:08 | 作品論
 五編からなる短編集の表題作です。
 周囲の人々から疎まれているじいさんの隠れた善行を、小学生の女の子の視点で描いています。
 時代設定が戦後(おそらく昭和三十年代)なので、一見するといわゆる生活童話のようにも思えますが、作品の中で主人公の女の子の成長がしっかり描かれているので「現代児童文学」として読むことができます。

横丁のさんたじいさん (鈴の音童話)
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最上一平「ブルちゃんは二十五ばんめの友だち」

2017-11-12 11:13:55 | 作品論
 小学校一年生のりりちゃんを主人公にした連作の二作目ですが、今回は同じクラスのたけしが主役です。
 雨の日にたけしが拾ってきたがまがえるを、クラスのみんなで話し合って教室で飼うことになり、クラスが二十四人だったので「二十五ばんめの友だち」になります。
 ぶよぶよした大きな体をしたひきがえるに、初めはおっかなびっくりだったクラスのみんなは、だんだんに慣れてさわると自分の背中がブルブルするので、ブルちゃんと名付けられます。
 がまがえるは生きたエサしか食べないので飼うのは大変だったのですが、みんなで協力して世話をしたので、ブルちゃんはだんだんクラスになじんできます。
 りりちゃんは、ブルちゃんがカメムシを食べるところをじっと観察しながら、「いのち」のことや「生きるために他者を食べること」などを考えます。
 しかし、夏休みを迎えて、その間のブルちゃんの世話をするのを話し合った時に、「ブルちゃんのしあわせ」はなんだろうということを考えて、自然に返すことになります。
 ただ、ブルちゃんを拾ってきたたけしだけが反対し続けます。
 たけしは、最近両親が離婚して離れ離れになったおとうさんの思い出がひきがえるにあるので、ブルちゃんと別れたくなかったのです。
 クラスのみんなは、なんとかたけしを説得しようとします。
 けっきょく、校庭のひょうたん池に逃がす(そうすればまた会えるかもしれない)ことになって、たけしも賛成し、みんなでブルちゃんとお別れします。
 幼年向けの短い紙数の中で、「新しい体験」、「生きていくこと」、「いのち」、「おとうさんとの別れ」、「意見の対立」など、現代の幼い子どもたちが直面するであろうさまざまな問題について考える(あるいは疑似体験する)機会を含んだ作品です。
 少数意見も尊重する子どもたち、それを余計な口出しをせずに必要なサポートをする担任の先生。
 ここに描かれているのは、あるいは学級のユートピアなのかもしれません。
 現実には、いろいろな事情があって、こうした理想的な学級はあまり存在しないかもしれません。
 しかし、子どもたちにとってのあるべき姿を描き出すのも、児童文学の重要な役割だと思います。

りりちゃんのふしぎな虫めがね
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新日本出版社
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古田足日「西郷提案と「子どもと文学」」児童文学の旗所収

2017-11-10 14:01:36 | 参考文献
 1967年5月の「日本文学」に掲載された評論です。
 他の記事でも触れた「西郷提案」(それ自体は記載されていないので、著者を通してしか内容はわかりません)をもとに、石井桃子たちの「子どもと文学」(その記事を参照してください)を批判しています。
 まず、「子どもと文学」が「子どもの本の筋は、モノレールのように一方向へ進まなければならない」と主張しているのに対して、ここにおいて「事件の筋」と「形象相関の展開の筋」がごっちゃになっているとして、「形象相関の展開の筋」は一方向へ進まなければならないが、「事件の筋」は錯綜してかまわないとしています。
 それはその通りなのですが、「子どもと文学」は幼年文学や絵本を念頭に置いて論じているので、ここでは「事件の筋」も一方向の方が望ましいと思われます。
 また、「子どもと文学」が「子どもの本は目に見えるように書かれなければいけない」と主張しているのに対して、文学では目に見えるもの以外も描かなければならないしています。
 これもまた、「子どもと文学」は幼年文学や絵本を念頭に置いて論じているので、目に見えるように書かないと幼い読者はついていけないでしょう。
 これらの錯誤は、「子どもと文学」と著者では、同じ「児童文学」でも対象読者の年齢がずれている(著者の方が年齢が高い)ために生じているように思われます。
 最後に、「子どもと文学」グループが新しい外国児童文学を精力的に翻訳して日本の子どもたちに紹介していることを評価しつつも、その目指す児童文学(「子どもと文学」に影響を受けて創作をしている人たちが描く「おもしろさ」を前面に出して、(筆者の言葉を借りると)「形態的にはきわめてすぐれていながら文学の本質的なものをなくした作品」も含めて)を「保守・小市民的」だと批判しています。
 この批判の背景としては、著者も少し触れていますが、高度経済成長時代が始まって日本にも中間層が増え、その結果としてノンポリの「小市民」層の増大による革新勢力の運動の低迷が始まったことがあります。
 このことは、一時期蜜月状態(同じ童話伝統批判をする立場の人間として)にあった「子どもと文学」グループと著者たち「少年文学宣言」(その記事を参照してください)派の間に明確な亀裂(著者の立場から見ると、「保守、小市民」対「革新」の間の)が入ったことを示しています。
 ここで興味深いのは、この時点で著者が「保守」だけでなく、「小市民」も攻撃対象にしていることです。
 この構図は、さらに高度経済成長が進んで中間層が拡大した70年代になると、「小市民」も革新側へ取り込もうとする動きや作品が現れます(70年安保の革新側の敗北とその後の低迷を受けて、路線変更されたと思われます)。


児童文学の旗 (1970年) (児童文学評論シリーズ)
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古田足日「形象と文体は相互限定 ― 西郷提案への意見」児童文学の旗所収

2017-11-08 09:44:29 | 参考文献
 1965年7月の「教育科学国語教育」に掲載された評論です。
 同誌上に掲載された「西郷竹彦報告」について書いたもので、誌上シンポジウムのようなものだったようです。
 著者がこの本のまえがきで書いているように、主報告が掲載されていないのでわかりにくいのですが、「(文学)形象の相関関係で読め」と言う提案に対してはそれは当然のことだが、今まで理論化されなかった「文学形象の読みとりの理論」だとしています。
 著者は、書き手の立場から、「形象は文体に限定され、文体はまた形象によって限定される」と述べていますが、私自身も創作において同様なことを経験しています。
 また、西郷提案では、ドーデ―「最後の授業」の分析について、いままでの「祖国愛」や「国語愛」というテーマではない(明確には書いていないのですが、西郷提案の分析によれば「(侵略によって祖国や国語を失った)民衆への愛」だと思われます)ことをあきらかにしたとしています。
 ただし、「最後の授業」の主人公は行動をしないので「子どもにも読める大人の文学」であるとして、同様のテーマ・シチュエーションの(子どもが行動する)児童文学が、「文学教育」に必要だとしています。
 おおむね著者の意見は肯定できるのですが、ひとつ気になったのは、「文学教育」を一種のプロパガンダだとして、教師自身の解釈は強調されるべきだとしていることです。
 この意見の背景を推定すると、当時の教育現場では革新系の教師が圧倒的に多く、この雑誌の読者もそういった人々が多いことがあるように思われます。
 著者は、一方では、児童文学が「道徳教育」の一環として教訓的になることを厳しく批判しています。
 ところが、自分と同方向の思想を持つ児童文学については、それがプロパガンダとして利用されることを容認することは、非常にアンフェアで危険なことと思いました。



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古田足日「国語教育と文学教育のちがいについての感想」児童文学の旗所収

2017-11-07 09:24:03 | 参考文献
 1965年12月に「教育科学国語教育」に掲載された評論です。
 著者自身も途中で認めているように、「国語教育」という用語を「言語教育」に近い意味で使っています。
 「文学教育」を授業として行うためには、その作品を子どもたちが理解するだけの知識を与えるための事前教育が必要だとしています。
 それはその通りで非常に理想的なのですが、実際にはその準備も含めてかなりの時間が必要なので、実現は難しいと思われます。
 次に、「文学授業」を大人の作品研究会のように、参加者が感想を述べ合って互いにぶつけ合うような形にしたらどうかという提案がありました。
 著者がいう「大人の作品研究会」がどのようなものかははっきり書いてありませんが、おそらくは読書会(一般的には出版されている作品を対象)か、合評会(一般的には会員の未発表の作品を対象)のようなものと思われます。
 著者は、「のちのちまで心にのこるような研究会は、それ自身芸術的である」と述べていますが、私も学生時代の「宮沢賢治研究会」の読書会や今の同人誌の合評会で同様の経験がたびたびあります。
 多人数で文学経験もまちまちな学校の教室で、同様の体験を持つのは難しいと思いますが、教師の適切なリード(決して特定の方向へ導くのではなく、発言が特定の子どもに偏ったり、発言が停滞したりした時に、その状況を打破するきっかけを与えるようなものをイメージしています)があれば、子どもたちに一定の満足を与えることができるのではないでしょうか。
 それは、「ここにおける作者の意図は何か」といった陳腐なクイズのような「国語教育」では決して得られない、「文学作品に親しむ」ことにつながる「文学教育」になるのではないでしょうか。 

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吉田道子「ヤマトシジミの食卓」

2017-11-07 08:36:56 | 作品論
 小学校三年生のかんこは、近頃不満でなりません。
 にいちゃんは、マフィアと名付けた拾ってきた犬を、かんこにさわらせてくれません。
 仲良しのともちゃんは、ハワイへ引っ越してしまいます。
 そんなかんこは、空き地の石の上に座っていた風助というおじいちゃんを拾ってきてしまいます。
 そんな風助さんを、かんこの家族はあっさりと受け入れます。
 かんこのおとうさんが、実の父親を十分に面倒を見切れなかったという後悔をもっていて、その埋め合わせのつもりのようです。
 風助さんは「あしたはかんこの味方だ」と、最近ついていないかんこをはげましてくれます。
 風助さんは時々姿を消しますが、またふらりと現れます。
 風助さんが現れてから、かんこの状況はだんだんよくなります。
 にいちゃんとも仲良くなったし、かおという名前の新しい友達もできます。
 風助さんが亡くなって、かんこに初めて会ったあの空き地をかんこに遺産として残してくれます。
 風助さんは身寄りがなく、和歌山の老人ホームで暮らしていたのです。
 そして、家族のところへ行くと言って、かんこの家へ時々来ていたのです。
 風助さんがかんこに残してくれた土地は、ヤマトシジミの生息地です。
 かんこは、あの時風助さんが座っていた石を、ヤマトシジミの食卓と呼んでいます。
 2011年度の読書感想文コンクールの課題図書で、日本児童文学者協会賞にも選ばれています。
 課題図書に選ばれたことには異存はありません。
 老人問題や家族愛や友情など、感想文の書きやすい作品でしょう。
 しかし、これが協会賞を取るほどの作品でしょうか。
 確かに、老人の孤独や家族の愛情などをうまく書いた佳品ではあると思います。
 でも、その年度を代表する協会賞の作品としては、あまりにも軽量級ではないでしょうか。
 出てくる登場人物は、どれも善人ばかりで読み味はとてもいいです。
 しかし、これが2011年の現実を生きている子どもたちを捉えた作品とは、とても思えないのです。
 私の手元に、日本児童文学者協会の評論研究会がまとめた過去の協会賞の一覧表があります。
 第1回は1961年で、鈴木実たちの共著の「山が泣いている」が選ばれています。
 ちなみに、最終候補には、山中恒の「とべたら本こ」「サムライの子」、松谷みよ子の「龍の子太郎」、今江祥智の「山の向こうは青い海だった」などの、現代児童文学史に名前を残す名作がズラリと並んでいます。
 第2回の1962年は、早船ちよの「キューポラのある町」が、最終候補の古田足日の「ぬすまれた町」、いぬいとみこの「北極のミーシカ・ムーシカ」、寺村輝夫の「ぼくは王様」、安藤美紀夫の「白いリス」、砂田弘の「東京のサンタクロース」などをおさえて選ばれています。
 どちらの受賞作や候補作たちも、当時の社会の中で生きていた子どもたちを捉えたまさにヘビー級の作品です。
 では、2011年の選者たちが、後世にも残るようないい作品を取り落としたのでしょうか?
 どうもそうではなさそうです。
 他にも、これといった作品がなかったようなのです。
 それならば、何人かの選者が述べているように、該当作なしにしても良かったのではないでしょうか?
 いつごろから、協会賞がこんなにお手軽な作品に与えられるようになったのでしょうか?
 受賞作一覧を眺めてみると、1980年代ごろからこれが協会賞?と首をひねりたくなるような作品が散見されるようになります。
 かといって、最終候補に残った他の作品にもこれといったものがありません。
 やはり、このころから「現代日本児童文学」は衰退していったのでしょう。

ヤマトシジミの食卓
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古田足日「文学教材と道徳教育」児童文学の旗所収

2017-11-06 11:14:40 | 参考文献
 1964年2月に「道徳教育」に掲載された評論です。
 のっけから「文学教材」という言葉自体を否定して、この評論では「文学作品」として考えるとして、「教材」ありきの教育関係者にくぎを刺しています。
 それは、「文学作品は直接、道徳指導にやくだつものではない」という認識によるものです。
 この著者の考え方は、児童文学者ならば基本中の基本なので、あらためて解説する必要もないぐらいなのですが、その基本すら忘れて(あるいは知らずに)著者が例にあげているような陳腐な教訓話を書く人(長年教職に携わった方が児童文学を書こうとするときが多いようです)が、後を絶たないのが現状です。
 著者も、教育関係者(特に道徳教育)が読者なので、噛んで含めるように説明していますが、注目すべきは、著者が「イメージをともなう自由な想像力の発展」のためにファンタジーが有効であることを強調している点でしょう。
 そして、そのファンタジー論の根拠は、ほとんどが「子どもと文学」(その記事を参照してください)における石井桃子のファンタジー論によるものです(ファンタジーだけでなく昔話についても「子どもと文学」によっていますが、そこを書いたのは渡辺茂男です)。
 こうして、著者は、もともとのスタートであった「少年文学宣言」(その記事を参照してください)による「日本変革の論理に上に立つナショナルな児童文学」に、「子どもと文学」のコスモポリタンの立場でインターナショナルな(彼らの言葉を借りると世界基準のですが、実際は英米児童文学の基準です)児童文学の要素を吸収して、自分の児童文学論を深化させていったようです。

児童文学の旗 (1970年) (児童文学評論シリーズ)
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石井睦美「皿と紙ひこうき」

2017-11-06 08:49:55 | 作品論
 由香は13軒しか家がない皿山という集落の子です。
 皿山はすべてが陶芸をやっている家ばかりで、男系の一子相伝(子どもが女の子しかいない場合は婿を取る)で何百年も伝統を守っています。
 由香の家でも、陶芸はとうさんとじいちゃんがやっていて、ばあちゃんとかあさんはその手助け(陶芸用の土作り、畑仕事、家事など)をしています。
 でも、由香はそんな皿山や家族が大好きです。
 由香は中学を卒業して、一日三本しかないバスで五十分もかかる最寄りの町の高校に入ります。
 由香は、男女カップルの先輩(やがて男子が東京の大学へ行くので別れることになります)のいる弁論部(ただし、弁論はせずに詩の本を読むだけしかしません)に入り、水曜日だけ活動しています。
 由香のクラスに、東京の有名校からかっこいい男子の伊藤くんが転校してきます。
 伊藤くんは、成績は抜群なのですが、誰とも打ち解けません。
 男子たちは東京出身で成績抜群の彼を敬遠するし、女子はあこがれてはいるものの東京出身でかっこいい彼と自分は釣り合わないと遠巻きにしています。
 由香はそんな彼を見て、やはり成績抜群で同じ高校でいつも一人だけで過ごし、東大に入って皿山を捨てた伯父さんのことを思い出します。
 そんな時、動物が虐殺されて由香の高校に捨てられるという猟奇的な事件が、連続して起こります。
 そして、学校を休むようになった伊藤くんが、犯人だと疑われます。
 由香はおばあちゃんが入院していた病院で、偶然伊藤くんと出会います。
 実は、伊藤くんは大好きなおじいさんが入院したので、二か月だけこちらに転校してきたことがわかります。
 そのおじいちゃんが危篤になったために、伊藤くんは学校を休んでいたのです。
 伊藤くんは、おじいちゃんが亡くなったので東京へ帰って行きました。
 この作品は、2011年の日本児童文学者協会の協会賞の受賞作です。
 僻地に住む方言をバリバリ使う女の子と東京から転校してきたかっこいい男の子という組み合わせは、映画化もされたくらもちふさこの少女漫画「天然コケッコー」を思い出させますが、魅力は本作の方が格段に落ちます。
 まず、主人公たちに魅力が全然ないのが致命的です。
 由香は妙に自分の人生に達観していてあまりに古風な感じですし、伊藤くんにいたってはほとんど描写されていないので最後になって突然にいろいろなことを告白されても、なぜ祖父の看病のためにわざわざ東京の学校を辞めてまで転校してきたのか納得できません。
 また、それ以外の高校生たちも、とても現代を生きている子たちには思えませんでした。
 「天然コケッコー」は十年以上も前の作品で漫画と文学の違いもありますが、そこにはその時代を生きる中学生や高校生が生き生きと描かれていました。
 もしかすると、この作品の高校生たちは、文学少女だった作者の少女時代の高校生像なのかもしれません。
 故郷に残るか、東京に象徴される外の世界に出るかが、作品の大きなテーマになっていますが、その考え方自体がもう古すぎます。
 また、このジェンダーフリーな時代に、男系の一子相伝をはじめとした男女の役割分担化に対して、作者があまりに無批判なのにも驚きました。
 あとがきで作者自身が書いているように、たんに自分の気に入った場所を無条件に作品化しただけでは、本を読まされる読者はたまったものではありません。
 もう一つの日本児童文学者協会賞の「ヤマトシジミの食卓」を読んだ時にも感じましたが、日本児童文学者協会の書き手たちや協会賞の選者たちは、現代の子どもたちや若者たちが生きる過酷な現実から目をそらせて、サザエさんような「牧歌的な家族像」という共同幻想(2012年に亡くなった吉本隆明ではありませんが)にとらわれているのではないでしょうか。

皿と紙ひこうき
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古田足日「児童文学と伝統」児童文学の旗所収

2017-11-06 08:45:53 | 参考文献
 1964年11月に「人間の科学」に掲載された評論です。
 以下の小節によって構成されています。

「ぎりぎりの状況のなかで」
 クルト・クリューゲン「オオカミに冬なし」を、同じような極限状態(人肉を食べざるを得ない状況)を描いた日本の小説、大岡昇平「野火」や武田泰淳「ひかりごけ」と比較して、極限状態でも「あかるい」方向へ向かうのが児童文学の特質だとしています(いわゆる児童文学の向日性のことで、これは1980年に出版された那須正幹「ぼくらは海へ」によって鮮やかに打ち砕かれます)。

「人間行動の原型」
 児童文学は行動を描くのが特性だとして、人間行動の原型をとらえた作品の出現を希望しています(この考えは、児童文学者の安藤美紀夫が繰り返し主張していた、「児童文学とは「アクション(行動)とダイアローグ」で描く文学だ」という考えに通じるものがあります。

「少年文学の旗の下に」
 題名とは異なり、人間発展の行動の原型と民族の行動の原型がどのようにからみあっているかが、児童文学の重要な問題の一つだとしています。

「伝統に対する挑戦」
 1953年に著者たち「早大童話会(早大少年文学会に改名)」のメンバーが発表した俗に「少年文学宣言」と言われる「少年文学の旗の下に」(起草は鳥越信。その記事を参照してください)をきっかけとした論争や、1960年に出版された石井桃子たちの「子どもと文学」(その記事を参照してください)による、いわゆる「童話伝統批判」について説明しています(内容は今までの記事と重複しますので、関連する記事を参照してください)。

「半分空想の世界」
 「子どもと文学」がコスモポリタンの立場でインターナショナルな(石井桃子たちの言葉を借りると世界基準ですが、実際は英米児童文学の基準です)児童文学を目指したのに対して、「少年文学宣言」は日本変革の論理に上に立つナショナルな児童文学を目指しているとしています。
 著者たちの主張の根拠としては、「早大少年文学会」での盟友だった神宮輝夫の言葉を借りて、「子どもと文学」が理想とする児童文学は豊かな先進国のものであるのに対して、高度経済成長以前である日本は発展途上国の児童文学と基礎を同じくしなければならないとしています(神宮輝夫は英米児童文学が専門で、「少年文学宣言」派では数少ないインターナショナルな視野を持つ児童文学者だったので、もう一つの大きな流れである「子どもと文学」派との隙間を埋めるような働きをしていたように思えます)。
 つまり、彼らの目指す児童文学は、ナショナルであると共にインターナショナルなのですが、手を結ぶ先は英米のような先進国でなく日本と同じような発展途上国であると主張しているのです。

「子ども対大人のありかた」
 リチャード・チャーチ「地下の洞穴の冒険」を例にして、子どもたちだけで問題を解決しようとするが大人との信頼関係は保たれているとしています(この人間関係は、イギリスだけではなくドイツのケストナー「エーミールと探偵たち」などの諸作品とも共通しています)。

「独力で行動する子ども」
 ルイス「オタバリの少年探偵たち」やアーサー・ランサム「ツバメ号とアマゾン号」を例にして、大人に頼らずに行動する子どもたちが同様に描かれているとして、これがイギリス社会の理想であり、子どもに対する伝統的態度なのだろうとしています。

「断絶している日本児童文学の歴史」
 題名と違って、引き続き、イギリス児童文学はこうした子ども像が伝統として連続発展しているとしています。

「貧しさと環境の激変」
 こうしたイギリス児童文学の伝統の継承に対して、日本の児童文学では、巌谷小波たち、の「お伽噺」と小川未明たちの「近代童話」の間にも、そして「近代童話」と「現代児童文学」の間にも、断層があるとしています(断層を起こそうとして活動した当事者の一人である著者が言うのもなんか変なのですが)。
 こうした断層の原因として、豊かなイギリス社会(実際は、当時も日本以上の格差社会なので、豊かなのは中流家庭以上だけなのですが、著者はそのことよりも大英帝国の発展途上国への侵略と搾取の上に成り立っていることを指摘しています)に比べて、日本が経済的に豊かでないことと、高度経済成長政策による急激な都市化による環境の激変をあげています。

「奇妙な精神風土」
 著者は、もうひとつの日本の特殊性として、論理でなく心情で判断することを指摘しています。

「児童文学のリアリズム」
 自然主義リアリズムでは、現実のみじめさ、まずしさを主張するだけで、心情のリアリズムしか生まれないとしています。
 そして、空想の中のできごとを現実化し、しかも日常的法則性の中でできあがったとき、児童文学のリアリズムは生まれると主張しています。

「伝統に法則と形を」
 自分自身のうちに生きている伝統に法則と形を与えることが必要で、その法則と形とは人間発展の行動の原型としてとらえられねばならないとしています。
 そして、「そのとき、民族の行動の原型も姿をあらわすだろう。伝統とは現在を乗りこえていく、その行動のなかではじめてとらえられるものなのである。」と、締めくくっています。

児童文学の旗 (1970年) (児童文学評論シリーズ)
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伊東潤「旅刃刺の仁吉」巨鯨の海所収

2017-11-03 15:02:41 | 参考文献
 山田風太郎賞を受賞した短編集の冒頭の短編ですです。
 江戸時代の太地の鯨漁を、丹念に調べて描いています。
 鯨漁の部分は実に詳しく書かれていて迫力も十分です。
 しかし、肝心の人間ドラマが弱すぎます。
 出てくる登場人物がパターン化されすぎています。
 エンターテインメント作品なのですから典型的な人物の配置は当然なのですが、人物像が古すぎますし(まるで股旅物か、西部劇の「シェーン」を思わせます)、魅力がない(キャラがたっていない)のです。
 これでは、従来からの時代物の読者である年配の読者は満足させられても、若い新しい読者は開拓できないのではないでしょうか。
 児童文学でも史実を調べて書いた歴史物はかつてはよく書かれましたが(例えば、今西祐行の「肥後の石工」や岩崎京子の「花咲か」など)、最近はその伝統はノンフィクション物を除くと廃れてしまったようです。
 ノンフィクション作家を除く現在の児童文学作家は、丹念に資料を調べるような手間を惜しんで、安直なエンターテインメント作品を書くようになってしまっています。
 また、それは現代の子どもたちの読解力の低下とも関係していると思われます。
 つまり、こういった歴史物を読みこなせる子ども読者は、すでに希少化してしまっているのでしょう。

巨鯨の海
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