現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

サキ「肥った牡牛」サキ短編集

2019-04-15 08:36:57 | 参考文献
 主人公は牛専門の画家です。
 どういうわけか、牛以外の題材の絵は少しも評価されず、自然の中の牛を描いた作品だけは高評価なのです。
 彼の作品はマンネリ化していて、本人も内心うんざりしているのですが、生活のために牛の絵を描き続けています。
 ある日、隣人の女性から、庭に迷い込んだ大きな牡牛を追い出してくれるように頼まれます。
 牛専門の画家なので、牛を扱えると思い込んでいるのです。
 もちろん、画家は牛など扱えません。
 追い出そうとして、かえって家の今へ追い込んで、女性の怒りを買います。
 しかし、画家はそこで久々に画題のインスピレーションを得ます。
 その時描いた「晩秋の居間における牡牛」はパリのサロンでセンセーションを巻き起こし、二年後に描いた「貴婦人の居間を荒す無尾猿」の成功で、牛専門作家から「居間に紛れ込んだ動物」専門作家へと脱皮したのです。
 特定の題材を扱う芸術家(画家に限らず作家もそうです)がその分野の専門家であるという誤解と、目新しい題材ならばどんなに下らない題材でも評価するサロン(この作品の場合は画壇ですが、文壇も同様です)に対する皮肉がたっぷりと込められています。
 児童文学の世界でも、題材の分野のきちんとした知識を持たない(体験はもとより取材さえしない)作家の作品や、目新しかったり流行りだったりする題材を描いただけの作品など、陳腐な商品(本)があふれています。

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日比茂樹「意外な二人」プールのジョン所収

2019-04-15 07:09:42 | 作品論
 児童文学の同人誌の老舗「牛の会」のメンバーが競作している短編集の巻頭作です。
 この本は、特に作品として統一テーマを持っているわけでないので、体裁としては同人誌をそのまま商業出版している形ですが、もしかすると自費出版や同人誌出版のように各自の自己負担分があるかもしれません。
 「ふろむ」という同人誌でも、出版分担金を出す形で、「キッチンくまかか」、「スノードームでさ・し・す・せ・そ」という本を商業出版しています(その記事を参照してください)。
 しかし、どちらにせよ、通常の同人誌と違って一般読者の目に留まるチャンスは格段に多いと思われるので、実力のある同人誌ならば、この形の出版を検討してもいいかもしれません。
 さて、この短編の作者は、数々の受賞歴のある児童文学界の大ベテランなので、さすがに子どもたちの世界を確実のとらえた優れた作品になっています。
 児童文学評論家の藤田のぼるは、「起承転結のはっきりした短編のお手本のような作品」と、解説でこの作品を評しています。
 お互いに意識し合う男の子たちと女の子たちの心の動きが、的確に表現されています。
 自分の名前に使われている文字を組み合わせて言葉を作る遊びを生かして、鮮やかなラストを作り出しています。
 登場人物たちが現代の子どもたちとしてはやや古風な感じはしますが、本を通してこういう感情を理解するのも大事なことだと思います。

プールのジョン (牛ライブラリー)
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牛の会
 
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サキ「平和的玩具」サキ短編集所収

2019-04-14 15:11:16 | 参考文献
 軍隊や武器の玩具で戦争ごっこばかりしている男の子たちを憂えた大人たちが、文化人の人形や日常用品のミニチュアなどの平和的玩具を彼らに与えるお話です。
 当然、男の子たちは興味を示しませんが、半ば強制的に遊ばされます。
 でも、ちょっと大人たちが目を離したすきに、男の子たちは文化人の人形と日常用品のミニチュアを使って、戦争ごっこをしていました。
 この短編が書かれたのは100年以上も前のことですが、大人たちと男の子たちの同様のせめぎ合いは、その後もずっと続いています。
 日本では、漫画、テレビ、アニメ、ゲームなどで、繰り返し男の子たちが夢中になるものは、「俗悪」「有害」「低俗」などのレッテルをPTAなどに貼られてきました。
 現在では、エンターテインメントの消費の中心は完全に女性になっているので、これらの子ども向けエンターテインメント類のほとんどは、大人の女性の眼鏡にかなうように漂白されて、毒にも薬にもならないものばかりになっています。
 それぞれの記事で紹介しましたが、アニメでは「エヴァンゲリオン」、「進撃の巨人」、「ジョジョの不思議な冒険」などは、それらの目をかいくぐって、かなり残酷なシーンをキープしています。
 ただし、「進撃の巨人」はNHKで放送するようになってからは、見事に女子ども向き(児童文学者にあるまじき差別用語ですね)な人畜無害なものに漂白されてしまいました。
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マニー・パッキャオ

2019-04-14 08:56:41 | 映画
 言わずと知れたボクシングの6階級世界チャンピオン、マニー・パッキャオを描いた、2014年のアメリカのドキュメンタリー映画です。
 型通りにフィリピンでの貧しい生い立ちから、アメリカに渡ってボクシングで文字通りのアメリカン・ドリームを実現した半生をおっていきます。
 ただ、単純なヒーローものでなく、彼の周りに金儲けのために群がった人間たちや彼自身の失敗も描いていて、パッキャオの多面的な活躍(ボクサー、バスケットボール選手、タレント、歌手、政治家、宗教活動家など)を駆け足ですが追いかけています。
 その後、パッキャオは、2015年にフロイド・メイウェザーとの「世紀の一戦」を戦い、2016年に引退しましたが、その後カムバックして世界王者に返り咲いています。
 他の世界でもそうですが、ビッグマネーが動くようになると、その関係者がどんどん毒されていく様子(そのために本人はなかなかやめられない)がよくわかり、興味深かったです。

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江戸川乱歩「二銭銅貨」

2019-04-13 09:04:33 | 参考文献
 1923年4月に発表された短編推理小説です。
 五万円(今の貨幣価値ならば、5億円?)強盗と暗号を組み合わせた本格推理物です。
 知的な二人の青年の主人公や暗号などにポーやドイルなどの海外の推理小説の影響が感じられますが、暗号と点字の組み合わせや青年たちが生活に困窮しているあたりに、作者の新しいアイデアや当時の東京の世相が読み取れて興味深いです。
 暗号の推理や五万円の横取りの過程はかなりご都合主義なのですが、最後のどんでん返しでアッと言わせます。
 個人的に興味深いのは、この話が二人の青年の知恵比べだという点です。
 かつて教養主義が健在だったころ(1970年ごろまで)は、「頭がいい」「教養がある」「知識が豊富」などは、日本でも人々の共通の憧れでした(学校の先生たちも敬われていました)。
 高度経済成長時代になって、みんながそこそこ豊かに暮らせるようになると文化の大衆化が進み、読書を中心とした知的な事よりも、テレビを中心に手っ取り早く大衆に受ける方が重要視されるようになりました。
 現在では、知的だったり教養があったりする人は敬遠されて(わかりやすい例で言うと、ポスドクたち(特に理系の基礎研究分野や文系)の悲惨な状況)、みんなに受ける人(わかりやすい例で言うと、お笑い芸人)の方が人気があり、経済的にも恵まれています。
 
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辻原登「夏の帽子」父、断章所収

2019-04-13 08:08:31 | 参考文献
 谷崎賞をとった作家(作者自身よりも10歳ぐらい若く設定されている)が、デビュー前に神戸で付き合っていた女性を裏切って、上京後に知り合った女性と結婚します。
 二十年以上たってから妻と一緒に神戸を訪れた男が、過去を感傷的に振り返ります。
 谷崎潤一郎や佐藤春夫の挿話をそれと重ねて作者流にひねってありますが、全体は気取った凡庸な短編です。
 2012年に「文藝」に発表された作品ですが、作者もとうとう老いてしまったのではないかと、少し心配になりました。
 児童文学の世界でもかつては優れた作品を書いていた作家が、あるときからガクッと作品の質が落ちる時があります。
 それでもネームバリューで商品になってしまうのが、この世界の良くない所です。

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ジャン・ジュネ「女中たち」

2019-04-12 09:56:49 | 演劇
 2018年12月にシアター風姿花伝で上演された作品です。
 「泥棒日記」で有名なフランスの奇人ジャン・ジュネの1947年の戯曲を、翻訳劇で数々の賞を得ている鵜山仁が演出しました。
 裕福だがうさんくさそうな屋敷(旦那様は獄中にいます)で仕える姉妹の女中を中心に、女主人もからめた三人の錯綜した会話で構成されています。
 姉と妹、女主人に扮した妹と妹に扮した姉、女主人と姉妹、女主人と姉、女主人と妹、女主人に扮した妹と姉、次々に役どころだけでなく、優劣の立場を替えた会話が、速射砲のように観衆に炸裂して、演者も観衆もやがて混乱に陥った末に悲劇的な結末を迎えます。
 中島朋子(妹)、コトウロレナ(女主人)、那須佐代子(姉、この作品のプロデューサーでシアター風姿花伝の支配人)の、年齢も個性も異なる三人の個性がぶつかり合って、強烈なイメージを形作る三人芝居になっています。
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蜂飼耳「葉っぱ」のろのろひつじとせかせかひつじ所収

2019-04-12 09:03:40 | 作品論
 雨で畑仕事ができないので、のろのろひつじは、いつかせかせかひつじと行った森の絵を描いています。
 のろのろひつじは、葉っぱの一枚一枚を丁寧に書いているので、なかなかすすみません。
 葉っぱを三枚描いたところで、せかせかひつじが遊びに来ました。
 のろのろひつじが、二匹で食べたアイスクリームの片づけをキッチンでしている間に、せかせかひつじが葉っぱを描きだしてしまいます。
 急いで描いたのであまりうまくありません。
 どんどん描いているうちに、とうとう画用紙を葉っぱで埋め尽くしてしまいます。
 のろのろひつじは勝手に描かれてしまったのでがっかりしますが、いつの間にか「森」が完成していることに気づきます。
 そして、また二匹で森へ行こうと思います。
 前の二編よりは二匹のひつじの性格の違いがいかされていますし、かすかに友情も読み取れます。
 ただ、擬人化度がより高くなったので、動物ファンタジーで描く意味合いはあまり感じられません。
 それに、文章がだらだらとしていて、幼年を読者対象としているなら文章が長すぎると思います。
 おそらくこの作品は、若い女性を読者対象に想定しているのでしょう。
 そのため、キャラメル味のアイスクリームなど、女性好みの小道具で読者にサービスしていますが、いかにもありがちな感じがします。

のろのろひつじとせかせかひつじ (おはなしルネッサンス)
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ジャンゴ 繋がれざる者

2019-04-10 08:51:48 | 映画
 マカロニウェスタン最大のヒーローであるジャンゴを、黒人にして南北戦争前のアメリカ南部に登場させた変わり種の西部劇です。
 人種差別まで、エンターテインメントの起爆剤にしてしまう腕前はさすがです。
 ただ、タランティーノ監督らしい、めちゃくちゃなスプラッタームービーなので、R15指定になってしまっています。

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児童文学におけるスポーツ物の書き方

2019-04-09 10:26:40 | 考察
 児童文学のジャンルとして、いろいろなスポーツを題材にした作品群があります。
 そういったものを書こうとするときの、基本的な注意事項をまとめてみます。
 まず、もっとも基本的なことですが、そこに出てくるプロ選手などは架空の名前を使う方が無難でしょう。
 スポーツにおけるスター選手の寿命は長くないことが多く、すぐに陳腐化してしまうからです。
 また、書き手(特に女性の場合)がそのスポーツについてそれほど詳しくない場合は、試合や練習のシーンをあまり具体的に書かない方がいいでしょう。
 作者より詳しい読者に、突っ込まれる恐れがあります。
 書き手がそのスポーツのプレーの経験がない場合は、特に注意が必要です。
 見るとやるとでは、その世界は大きな違いがあるからです。
 あまり、試合などのシーンに突っ込まないで、その他の人間ドラマで勝負すべきです。
 逆に、書き手があるスポーツに精通している場合は、試合や練習シーンなどで、内部の人間にしかわからない世界を書くと、他の書き手との差別化になるかもしれません。
 一般に、児童文学の書き手は、スポーツの世界に疎い人が多いからです。

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大塚英志「村上龍になりきって小説を書く」物語の体操所収

2019-04-09 10:20:53 | 参考文献
 ここでは、小説を書く作業を「世界観」と「物語」に分離して創作する方法を説明しています。
 そして、それらは、歌舞伎では「世界」と「趣向」という形で大昔から行われてきたことで、ゲームやアニメやコミックスといったサブ・カルチャーの世界では当たり前のこととしています。
 そして、「世界観」は創造できなくても、「物語」は作れる人たちのことを「ブルーカラーの物語作者」と呼び、肥大化したゲームやコミックス、そしてライトノベルなどの業界では需要がたくさんあるとして、養成しようとしています。
 実例として、村上龍の「五分後の世界」の「世界観」を用いた二次創作を専門学校の生徒に書かせた梗概を掲載しています。
 児童文学でもっとも有名な「世界観」は、大塚も例にあげていますが、トールキンの「指輪物語」でしょう。
 世界中で、おびただしい数の小説、ゲーム、映画、演劇、アニメ、コミックスなどが、「指輪物語」が確立した「剣と魔法」の「世界観」(もっとも、トールキンも古代言語や神話から世界観を拝借しているのですが)を使って、「二次創作」されています(もちろん、盗作にならない程度に改変はされていますが)。
 はっきりと続編として、作者の死後に同じ「世界観」を用いて書かれた児童文学の例としては、ケネス・グレアムの「楽しい川辺」がありますが、あまり成功しませんでした。
 末端のユーザーが「二次創作(正確には何次かわかりませんが)」する例として、RPGをプレイすることやカラオケで歌うことを大塚はあげていますが、これらは非常に自由度が低く面白さは限定されているでしょう。
 私の友人は、高校時代(七十年代初めですのでもちろんゲーム機はありません)に、小さなルーレットを使ってかなり精緻にプロ野球のセントラルリーグを模した野球ゲームを創造していました。
 これなども、「プロ野球」という「世界観」を使った「二次創作」なのですが、授業中に彼が私の後ろの席でひそかにしていた実際のプレイを「二次創作」とみると、この「野球ゲーム」自体が疑似「世界観」(ルーレットの目によって決定される仮想の野球)だったのかもしれません。
 私自身も、小学校の時は、メンコを使っていろいろな疑似「世界観」(三国志、水滸伝、プロ野球、高校野球、プロレス、映画、マンガなどの世界観を借用していました)を設定して、メンコに仮想したキャラクターに演じさせていました。
 また、中学、高校の時は、鉛筆の六面をサイコロ代わりにして、いろいろなスポーツ(サッカー、競馬、野球、アイスホッケー、スキージャンプなど)の疑似「世界」を作って、授業中にプレイ(「二次創作」)していました。
 その時の経験からすると、実際にプレイ(「二次創作」)するよりも、時間的空間的物理的制約の中で新しい疑似「世界観」を生み出す方がはるかに(これは数倍というレベルではなく桁が二つ以上違うぐらい)おもしろいことなのです。
 それゆえに、著者が「世界観」と「物語」を分離して、自身が認めているようにやや差別的な表現である「ブルーカラーの物語作者」になることを生徒たちに勧めていることは、理屈では分かるのですがかなり抵抗を感じます。
 けっきょく著者は、彼らを二重の意味(お金を取って養成して、後で使い捨てる)で食い物にしているだけなのではないでしょうか。

物語の体操―みるみる小説が書ける6つのレッスン (朝日文庫)
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朝日新聞社
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橋本治「父」初夏の色所収

2019-04-09 09:54:15 | 参考文献
 92歳直前に亡くなった父親を、妻が骨折で入院している間だけ、一人で介護(といってもそこまで認知症が進んでいるわけでなく要支援の段階です)することになった五十九歳の男の話です。
 介護される老人になった父親をみつめながら、自分の中に同様の老いや「父親」的な要素を発見するところが、この作品の優れた点だと思います。
 実際問題として、妻に先立たれて家事のできないおじいさんだけが残された場合の悲惨さは、想像に難くありません。
 結婚年齢や寿命の違いによって、多くの場合はおばあさんが後に残るのですが(私の両親も妻の両親もこの状態でした)、その場合は一人暮らしでもしばらくの間は大丈夫なことが多いようです。
 児童文学の世界でも、かつては老人が多く登場しましたが、核家族化の影響か、だんだん登場する機会が減ってきているようです。
 老人たちと子どもたちが分断されている社会はどちらにとっても不幸なことですが、せめて児童文学の中だけでも両者が出会う世界を描いてもらいたいものです。
 そういう意味では、岡田淳の「願いのかなう曲り角」(その記事を参照してください)や吉田道子の「ヤマトシジミの食卓」(その記事を参照してください)のように老人と子どもの触れ合いを描いた作品は、極めて今日的なテーマを含んでいると思います。
 なお、この作品でも東日本大震災の事に触れて、それ以来まわりの人びとの死にたいして敏感になっている様子が描かれていますが、まったく同感です。

初夏の色
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新潮社
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ダンボ

2019-04-08 16:41:44 | 映画
 1941年公開の、有名な同名のディズニーアニメ(ディズニーの作品は、最初の長編アニメの「白雪姫」を初めとして、アニメも実写も原作物が多かったのですが、「ダンボ」はオリジナルストーリーです)を原作とした、2018年制作の実写作品(CGで何でもできるようになってから、かつてのアニメ作品の実写化が可能になりました)です。
 リメイクといっても、「耳が大きくて空が飛べる子ゾウ」と「サーカスが舞台」などを除くと、ほとんどオリジナルなストーリーで、ティム・バートン監督得意のデフォルメされた世界が展開します。
 しかし、今作は、子ども向けを意識しすぎたのか、いつものおどろおどろらしさが不足していて、ティム・バートンのファンには物足らないかもしれません。
 ただし、ダンボが空中を駆け巡る疾走感はなかなかのもので、一種のアトラクション・ムーヴィーとしては十分楽しめます。
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大塚英志「つげ義春をノベライズして、日本の近代文学史を追体験する」物語の体操所収

2019-04-08 16:24:27 | 参考文献
 冒頭で、著者は自分の生徒たちの大半が「つげ義春」を知らないことに愕然として、「おたく的教養」の崩壊だと嘆いています。
 もともと「教養主義」を否定して小説技術(正確には物語技術)を養成しているにもかかわらず、こういった文章が出てくると、彼の本心が透けて見えるような気がします。
 つまり、実は著者は本質的には「教養主義者(おたく的教養も含めて)」で、「教養」のない彼の生徒たちを内心では「ブルーカラー物語作家」(予備軍)と名づけて軽蔑し、かつての社会主義リアリスム的表現を使えば、「資本家」的に「労働者」を搾取(専門学校でお金を取って養成し、将来的には下働きさせる)しているのでしょう。
 これは、アニメ業界で、美大や専門学校でセル画を描く人たちを養成して、安い賃金と長時間労働で搾取しているのと、よく似た構造です。
 どちらも、働いている若者たちは、セル画を描いたり、物語を作ったりするのが好きなので、あまり不満が表面化していませんが、基本的にはいわゆる「ブラック企業」となんらかわりはありません。
 さて、本題に入ると、「つげ義春」のマンガを生徒たちにノベライズさせて、日本の近代小説の主流であった私小説および、内面と外界をどのように写生するかを学ばせて、日本の近代文学史を追体験させています。
 さらに、「つげ義春」の「私」は実は仮構されたもので、一種のキャラクター作品なのではないかと推定しています。
 そして、日本文学におけるキャラクター小説の起源を、庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」にあるとしています(ということは、そのルーツはサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のホールデン・コールフィールド(その記事を参照してください)であることになります)。
 そこから、橋本治の「無花果少年」、栗本薫の「ぼくらの時代」と辿って、新井素子の「あたしの中……」に行きつきます。
 新井の「ルパン三世のような小説」をめざしたというこの作品では、それまでの自然主義リアリズムの代わりにアニメ・まんが的リアリズムが採用され、現在のキャラクター小説(コバルト文庫の少女小説やライトノベルのファンタジー小説やミステリー小説など)を確立したとしています。
 この著者の推定はおおむねうなづけますし、現在の児童文学のエンターテインメントの大半はキャラクター小説になっているので、著者の論は多くの示唆を含んでいます。
 著者のこの本は、ここで小説家志望の生徒ならびに読者たちを、「私小説」作家になるか「キャラクター小説」作家になるか、二つの途があると突き放して終わっています。
 しかし、ここまでの流れをふり返ると、他人の「世界観」に基づいて創作する方法や漫画のノベライズの方法は教わりましたが、これで「小説」が書けるようになったとは思えません。
 せいぜい著者のいうところの「ブルーカラー物語作家」になる方法を教わっただけで、「ホワイトカラー(こんな言い方は差別的ですが著者に倣っています)物語作家」になる方法は教わっていません。
 しいて小説家になる方法を推測すると、平野啓一郎のように「教養」を身につけて、村上龍のようにマルチメディアと親和性の高い「世界観」を生みだせるようになり、重松清のようにノベライズをしながら小説技法を磨いて「ブルーカラー物語作家」から「ホワイトカラー作家」へのしあがるということでしょうか。
 「あとがき」も含めて読んで、「物語の体操」というタイトルには異論はありませんが、副題の「みるみる小説が書ける6つのレッスン」は、「羊頭を掲げて狗肉を売る」のように感じられてなりません。

物語の体操―みるみる小説が書ける6つのレッスン (朝日文庫)
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朝日新聞社
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ビアトリクス・ポター「りすのナトキンのおはなし」ピーター・ラビット全おはなし集所収

2019-04-07 09:02:48 | 作品論
 この作品でも、主人公のナトキンは、ピーター・ラビットと同様にいたずらっ子に設定されています。
 いい子ばかりの他のリスたちと違って、ナトキンは一人でいろいろな当時の子どもたちの遊びやなぞなぞをしてふざけています。
 この作品で興味深いのは、登場する動物たちが擬人化されているだけでなく、それぞれの本来の生態も残していることです。
 特に、ラストでナトキンがフクロウのブラウンじいさまを怒らせて、あやうく食べられてしまいそうになるところは非常にスリルがあって面白いです。
 また、作品世界に、人間、擬人化された動物、それ以外の動物(リスたちがブラウンじいさまに差し出すネズミやモグラ)が混在している点も、同時代の作品であるケネス・グレアムの「楽しい川辺」と共通していて、これがイギリスの動物ファンタジーの伝統なのでしょうか?
 そこには、冷徹に自然を観察している作者の視点が感じられて、既存の動物のイメージに依存した現代の安直な動物ファンタジーとは、明らかに一線を画しています。

りすのナトキンのおはなし (ピーターラビットの絵本 10)
クリエーター情報なし
福音館書店
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