現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

児童文学におけるスポーツ物の書き方

2019-04-09 10:26:40 | 考察
 児童文学のジャンルとして、いろいろなスポーツを題材にした作品群があります。
 そういったものを書こうとするときの、基本的な注意事項をまとめてみます。
 まず、もっとも基本的なことですが、そこに出てくるプロ選手などは架空の名前を使う方が無難でしょう。
 スポーツにおけるスター選手の寿命は長くないことが多く、すぐに陳腐化してしまうからです。
 また、書き手(特に女性の場合)がそのスポーツについてそれほど詳しくない場合は、試合や練習のシーンをあまり具体的に書かない方がいいでしょう。
 作者より詳しい読者に、突っ込まれる恐れがあります。
 書き手がそのスポーツのプレーの経験がない場合は、特に注意が必要です。
 見るとやるとでは、その世界は大きな違いがあるからです。
 あまり、試合などのシーンに突っ込まないで、その他の人間ドラマで勝負すべきです。
 逆に、書き手があるスポーツに精通している場合は、試合や練習シーンなどで、内部の人間にしかわからない世界を書くと、他の書き手との差別化になるかもしれません。
 一般に、児童文学の書き手は、スポーツの世界に疎い人が多いからです。

児童文学のなかにスポーツ文化を読む (スポーツ学選書)
クリエーター情報なし
叢文社
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大塚英志「村上龍になりきって小説を書く」物語の体操所収

2019-04-09 10:20:53 | 参考文献
 ここでは、小説を書く作業を「世界観」と「物語」に分離して創作する方法を説明しています。
 そして、それらは、歌舞伎では「世界」と「趣向」という形で大昔から行われてきたことで、ゲームやアニメやコミックスといったサブ・カルチャーの世界では当たり前のこととしています。
 そして、「世界観」は創造できなくても、「物語」は作れる人たちのことを「ブルーカラーの物語作者」と呼び、肥大化したゲームやコミックス、そしてライトノベルなどの業界では需要がたくさんあるとして、養成しようとしています。
 実例として、村上龍の「五分後の世界」の「世界観」を用いた二次創作を専門学校の生徒に書かせた梗概を掲載しています。
 児童文学でもっとも有名な「世界観」は、大塚も例にあげていますが、トールキンの「指輪物語」でしょう。
 世界中で、おびただしい数の小説、ゲーム、映画、演劇、アニメ、コミックスなどが、「指輪物語」が確立した「剣と魔法」の「世界観」(もっとも、トールキンも古代言語や神話から世界観を拝借しているのですが)を使って、「二次創作」されています(もちろん、盗作にならない程度に改変はされていますが)。
 はっきりと続編として、作者の死後に同じ「世界観」を用いて書かれた児童文学の例としては、ケネス・グレアムの「楽しい川辺」がありますが、あまり成功しませんでした。
 末端のユーザーが「二次創作(正確には何次かわかりませんが)」する例として、RPGをプレイすることやカラオケで歌うことを大塚はあげていますが、これらは非常に自由度が低く面白さは限定されているでしょう。
 私の友人は、高校時代(七十年代初めですのでもちろんゲーム機はありません)に、小さなルーレットを使ってかなり精緻にプロ野球のセントラルリーグを模した野球ゲームを創造していました。
 これなども、「プロ野球」という「世界観」を使った「二次創作」なのですが、授業中に彼が私の後ろの席でひそかにしていた実際のプレイを「二次創作」とみると、この「野球ゲーム」自体が疑似「世界観」(ルーレットの目によって決定される仮想の野球)だったのかもしれません。
 私自身も、小学校の時は、メンコを使っていろいろな疑似「世界観」(三国志、水滸伝、プロ野球、高校野球、プロレス、映画、マンガなどの世界観を借用していました)を設定して、メンコに仮想したキャラクターに演じさせていました。
 また、中学、高校の時は、鉛筆の六面をサイコロ代わりにして、いろいろなスポーツ(サッカー、競馬、野球、アイスホッケー、スキージャンプなど)の疑似「世界」を作って、授業中にプレイ(「二次創作」)していました。
 その時の経験からすると、実際にプレイ(「二次創作」)するよりも、時間的空間的物理的制約の中で新しい疑似「世界観」を生み出す方がはるかに(これは数倍というレベルではなく桁が二つ以上違うぐらい)おもしろいことなのです。
 それゆえに、著者が「世界観」と「物語」を分離して、自身が認めているようにやや差別的な表現である「ブルーカラーの物語作者」になることを生徒たちに勧めていることは、理屈では分かるのですがかなり抵抗を感じます。
 けっきょく著者は、彼らを二重の意味(お金を取って養成して、後で使い捨てる)で食い物にしているだけなのではないでしょうか。

物語の体操―みるみる小説が書ける6つのレッスン (朝日文庫)
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朝日新聞社
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橋本治「父」初夏の色所収

2019-04-09 09:54:15 | 参考文献
 92歳直前に亡くなった父親を、妻が骨折で入院している間だけ、一人で介護(といってもそこまで認知症が進んでいるわけでなく要支援の段階です)することになった五十九歳の男の話です。
 介護される老人になった父親をみつめながら、自分の中に同様の老いや「父親」的な要素を発見するところが、この作品の優れた点だと思います。
 実際問題として、妻に先立たれて家事のできないおじいさんだけが残された場合の悲惨さは、想像に難くありません。
 結婚年齢や寿命の違いによって、多くの場合はおばあさんが後に残るのですが(私の両親も妻の両親もこの状態でした)、その場合は一人暮らしでもしばらくの間は大丈夫なことが多いようです。
 児童文学の世界でも、かつては老人が多く登場しましたが、核家族化の影響か、だんだん登場する機会が減ってきているようです。
 老人たちと子どもたちが分断されている社会はどちらにとっても不幸なことですが、せめて児童文学の中だけでも両者が出会う世界を描いてもらいたいものです。
 そういう意味では、岡田淳の「願いのかなう曲り角」(その記事を参照してください)や吉田道子の「ヤマトシジミの食卓」(その記事を参照してください)のように老人と子どもの触れ合いを描いた作品は、極めて今日的なテーマを含んでいると思います。
 なお、この作品でも東日本大震災の事に触れて、それ以来まわりの人びとの死にたいして敏感になっている様子が描かれていますが、まったく同感です。

初夏の色
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新潮社
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